タゴールの詩集「ギーターンジャリ」に魅せられ、ガンディーの告白「獄中からの手紙」を突きつけれると、今度は、翻訳者の視点から描いたものに触れてみたい。この惚れっぽい衝動ときたら...
暗い受難の時代というのは、偉大な人物を輩出するものらしい。英国帝国主義の植民地支配に抵抗したセポイの反乱が鎮圧されてから、インドとパキスタンの分離独立に至る激動の時代に、二つの巨星が舞い降りた。片や仏陀の再来と言われ、片や古代サンスクリット語の大詩人カーリダーサに比肩するとされ、それぞれに国民大衆から「マハートマ(偉大な魂)」と敬われ、「グルデブ(尊師、先生)」と慕われた。
ただ、この二人の人物像は、国民的英雄といった印象とは大分違う。二つの卓越した人格が、肉体から離脱したような存在とでも言おうか。偉大なのは人物ではなく、人格と言うべきか。まさに人間離れした。普遍的な人間とは、こういう人物を言うのかもしれん...
しかしながら、どうしても腑に落ちないことがある。これほどの人格者が二人揃って、なにゆえ政治運動なんぞに執心したのか?彼らの使命感や義務感は、いったいどこからくるのか?時代がそうさせたといえば、そうだろうが、それだけだろうか。
同胞が過酷な迫害を受けた時代、二人は真理の探求に生きた。受難の時代に哲学をやると、政治へと向かわせるのか。思考は疑問を持つことに始まる。時代の在り方に疑問を持てば、社会の在り方を問い、政治の在り方を問うことに。プラトンは、哲学者による統治という国家の理想像を描いて魅せたが、これに通ずるものがある。
とはいえ、真理を探求する世界と政治の脂ぎった世界とでは、あまりにも真逆。政治は妥協の世界で、理想主義がしばしば混乱を招いてきた。真理ってやつは、よほど手ごわいと見える。俗世間から距離を置き、精神空間を遠近法で眺めないと、なかなか姿が見えてこない。はっきりと見えなければ、凡人は都合よく解釈するし、この凡人未満の天の邪鬼ときたら、そんなものが本当に存在するのかと疑いもする。
真理の探求者が、普遍原理に反する事に関わることは苦痛でしかあるまい。それでも、優れた才能の持ち主ゆえに、逃れられないことがある。両者とも、意に反してまで政治運動にかかわったようには見えないけど。有能な人材ほど苦難を背負うものなのかもしれん...
馬の耳に念仏というが、聞く耳を持たぬ者を説いても、人の心は動かない。それは、ガンディーも言っていること。考え方や生き方を強制することも暴力であると。良心に訴えるというが、個々は善人でも、集団化すると悪魔に変貌するのが人間社会。そんな性質とどう向き合うか。
残念ながら、ガンディーの唱える非暴力不服従運動は、凡人には高尚すぎる。現実的な解は、毒をもって毒を制すの原理に縋るしかなさそうだ。まともな政治哲学を持つには、人類はまだまだ若すぎると見える。なにも直接、国民大衆に接することはあるまい。諷刺の効いた芸術作品を通して、訴えるのも一つの手。多少なりと聞く耳を持つから作品を手に取るのだろうし、ましてや、まったく興味のないものに触れようとはしないだろう。
そこで、タゴールの方はまだ馴染める。やがて政治の世界から身を引き、文学の世界で生きるのだから。文学部門でアジア人初のノーベル賞に輝いたことも、国民に勇気と誇りを与えたことだろう。アインシュタインのような自然科学者とも親交を深め、まさに自然哲学に没頭したと見える。
生き方は違っていても、思想哲学ではガンディーとタゴールはよく似ている。タゴールが言葉の奏でる美を通して真理を探求した人なら、ガンディーは行動を通して真理を探求した人。ともに、狭い了見での国家主義に警鐘を鳴らし、帝国主義を批判した。
二人は親交もあり、「マハートマ」の称号を与えたのがタゴールだったとされる。自己を高めるライバル意識のようなものが、互いに引きつけ合ったのであろうか。ルネサンス時代に多くの万能者を輩出したように。類は友を呼ぶというが、天才が集まると偉大さを纏い、凡人が集まると魔性を帯びるのかは知らんが...
1. 行動の人... ガンディー
「あなたのメッセージは?」と報道陣に聞かれると、「マイ・ライフ、わたしの全生涯がメッセージです。」と答えたそうな。ガンディーにとって、行動そのものが言葉というわけか。彼が起こした非暴力不服従運動は、思想的には真新しいものではないが、集団行動となると、人類史上、未曾有の試みかもしれない。
ただ、尊敬はできても、生き方が合わないという人はいる。理想が高すぎて、受け入れる側の度量を超えると、抑圧的にも感じる。ガンディーには、そうしたところがあまりない。彼は、完全な菜食主義者だったというが、それを強要したりもしない。
「他人に魚を食うなと強要する人は、魚を食する者よりいっそう大きな暴力を犯しているのです。漁師も、魚の行商人も、それを買って食する者も、おそらく彼らの行為に含まれている暴力に気づいていないのです。たとえ気づいていても、彼らはそれを不可避とみなしているかもしれません。けれども、他を強要する者は、故意に暴力をふるうという罪を犯しているのです。強制こそ非人間的です。」
行動の人という意味では、まさに政治家らしい政治家。押し付けがましいところがないという意味では、実に政治家らしくない政治家。
しかし、だ。凡人が崇高な思想を慕って集団化すると、しばしば抑圧的な思想に変貌してしまう。一人の偉人の目よりも、集団の目の方がずっと力強い。ましてや寛容さには、凡人はその上にあぐらをかく。
したがって、こうした思想を慕う人には、自立が求められる。ガンディーも、必然的に自立を要請している。ガンディーが唱えた「サティヤーグラハ」という思想は、南アフリカ共和国で試験的に実践し、インド独立運動で展開された。だがそれは、単なる非暴力を要請しているわけではなく、自立が前提されている。
「スワデーシー」という国産品愛用の呼びかけも、民族の職業的自立を唱えてのこと。しかし、凡人がこれを実践すると、海外製品ボイコットという形でナショナリズムを煽ることに。敵愾心を持つのは、自立心のなさゆえか...
「無所有」という積極的な欲望の浄化を唱えているのも、自然との共存の中での自立を説いている。衣食住のすべては、なんらかの形で自然の恩恵を受けている。もし、必要以上の広大な土地を所有しているとしたら、住む家のない人の土地を奪っていることに。もし、必要以上のご馳走にありつき、食べ残して捨てているとしたら、飢えている人の食べ物を奪っていることに。そう考えると、必要以上の所有は悪となる。人の幸せは、何かの犠牲の上に成り立っていると考えれば、これ以上の幸せを求めなくなる。
しかし、必要以上とは、どの程度をいうのであろう。ここが凡人の解釈と違うところ。そして、自己満足に終わる。幸せすぎても、不幸すぎても、人間は残酷になるらしい。
ん~... やはり、ガンディーの生き方は高尚すぎる。少なくとも、21世紀の人類には...
だからといって、理想主義で片付ける気にはなれない。遠く紀元前五世紀にブッダガヤの菩提樹の下で大悟成道した行動も、二千年前にゴルゴダの丘で沈黙のままに十字架刑を受け入れた行動も、今尚、時空を超えて語りかけてくれるのだから...
2. 美を奏でた人... タゴール
ガンディーが政治家としての使命感に目覚めた人とするなら、タゴールは教育家としての使命感に目覚めた人と言えよう。国家教育から距離を置き、自ら学校を設立。後に、タゴール国際大学と呼ばれることに。ガンディーもアーシュラム(修道場)を建設し、出身階級のいかんを問わず、学問する人を広く受け入れた。二人とも不可触民制の排除を誓う。カーストのような過酷な階級制度の下では、まず学問の下での平等が唱えられる。
それは世界各地でも見られる光景で、自己啓発を促すことが主眼となっている。機会平等とはそういうことであろう。つまり、学問するということは、自立を要請しているわけである。
インドの場合、農村を疲弊させた要因に、東インド会社が導入した「ザミーンダーリー制度」という地租徴収制度が挙げられる。地主が徴税者となり、徴税権は富裕な商人の間で売買され、伝統的な農村の社会秩序が破壊された。地主の没落とともに、農民は小作人に。そこに高利貸しや悪徳商人たちが禿鷹のように群がる。農民はまったく労働意欲を失い、卑屈な自己蔑視を募らせる。
タゴールは、自立心を取り戻すために、文字の読めない農民にも口ずさむことのできる言葉を編み出した。彼の詩は、無名の時代から、政治集会や祭りで愛唱され、田畑を耕す仕事歌として歌われたという。無知では依存症を増殖させる。学問の道は、民族自立の道というわけか...
それにしても、詩集「ギーターンジャリ」には救われる。邦訳版に触れたけど、それでも救われる。詩は原語で味わうものと言われるけど、やはり救われる。原文が自然な美しさをまとうと、翻訳文にも乗り移るのだろうか。タゴール自身が、わざわざベンガル語の詩集を英語訳版で刊行したのも、西洋人にはタゴール・ソングが理解できないと見たのか。しかも、定形詩を散文詩に変えて。それで、ノーベル文学賞をとっちまうんだから。誰だかは知らんが、ある詩人はこんなことを言ったという...
「子供はみんな詩人になる素質をもっている。ただ、大人になってもそれを失わない人が詩人と呼ばれる。」
真の芸術家とは、子供心を失わないものらしい。大人になると、言葉の意味や理解が先行して、言葉の奏でる美しさ、言葉の抑揚や響きといったものを、耳を通して味わおうとしない。
おいらの場合、詩を読む機会がほとんどなかった。中原中也のような人を知ったのも、半世紀も生きてからのこと。この歳になって、ようやく耳から言葉の調べが聞こえるようになろうとは... まったく、汚れちまった悲しみ... といった心境である。
「言葉を教えることの主な目的は、意味を説明することではなく、心の扉をたたくことだ。そのように戸をたたく音で、心のなかに何が呼び覚まされたかを説明するよう求められても、子供はたぶん、なにかとてもばかげた返事をするだろう。なぜなら、心のなかで起こっていることは、言葉で表現できるものなどより、はるかに大きいからである...」
3. ともに見た死生観
俗世間では、手段が目的化することがよくある。苦行の世界にも苦行主義が蔓延り、苦行そのものが目的となって極端な難行へとエスカレートさせていく。こうなると、苦行も滑稽芸!精神を解放するための苦行が束縛へと向かえば、それは自立心の喪失にほかなるまい。
ガンディーとタゴールの哲学には、自立、自己啓発、自己省察といった言葉が目に留まる。その先に二人が見たものは、そこに共通の死生観が伺える。
インド伝統の哲学に、人間の魂にはアートマン、すなわち、宇宙的な真理であるブラフマン(梵)が宿るとする宇宙観がある。真理の下では、民族の肌色、言語、習慣の違いも単なる表現の違いに過ぎない、と考えるのも道理。
さらに、道理を求めれば、死を思わずにはいられない。宇宙論の下では、死は終焉ではなくなり、死すらも生の延長として受け入れられる。死が訪れなかったら、人生はいつまでたっても未完のまま...
「おお、死よ、わたしの死よ、生を最後に完成させるものよ、来ておくれ、わたしに囁きかけておくれ!
来る日も、来る日も、わたしは おまえを待ちうけてきた...
おまえのため 人生の喜びにも痛みにも わたしは じっと耐えてきた。
わたしの存在 所有 望み 愛... すべてが、秘かな深みで たえずおまえに向かって流れていた。
最後にひとたびおまえが目くばせすれば、わたしの生命は 永遠におまえのもになるだろう...」
... 「ギタンジャリ」より
Contents
- 2020-11-08 "ガンディーとタゴール" 森本達雄 著
- 2020-11-01 初体験!国勢調査員... デジタル後進国のお祭りか!
- 2020-10-25 "獄中からの手紙" Mohandas Karamchand Gandhi 著
- 2020-10-18 "タゴール詩集 ギーターンジャリ" Rabindranath Tagore 著
- 2020-10-11 "現象学的心理学の系譜 人間科学としての心理学" Amedeo Giorgi 著
- 2020-10-04 "小説神髄" 坪内逍遙 著
- 2020-09-27 "奇跡の脳 - 脳科学者の脳が壊れたとき" Jill Bolte Taylor 著
- 2020-09-20 "素数の音楽" Marcus du Sautoy 著
- 2020-09-13 "代替医療解剖" Simon Singh & Edzard Ernst 著
- 2020-09-06 "リア王" William Shakespeare 著
2020-11-08
"ガンディーとタゴール" 森本達雄 著
2020-11-01
初体験!国勢調査員... デジタル後進国のお祭りか!
なんであれ、初体験ってやつはワクワクさせるものがある。が、こいつは例外中のド例外!不合理、非効率、理不尽、ピント外れ... このバカバカしさは、まったく形容しきれない。
そして先週、ようやく集計作業が片付き、今、前高市総務大臣の任命辞令書を燃やしたところ...
春の終わり頃、やる人がいないから、どうしてもやってくれ!と頼まれた。おいらは個人事業主で職場も自宅ということもあり、あのおじさんはいつも家にいるから暇!と思われているようだ。町内会の役員もやらされているし。巷には、仕事といえば通勤するものだと杓子定規でしか考えられない連中が、あまりに多い。
最初の説明会では、 質疑応答の段になると苦情や経験談で荒れ狂う。なんだ!この殺気立った会合は?お国の権威主義で地方に揉め事をつくるのは、ご勘弁願いたい!
とにかく、国際調査員ってやつは、仕事を持っている人にはできない。おかげで、一ヶ月間、仕事を中断する羽目に。まったく、コロナ禍ならぬ、国勢調査禍よ!
1. 縦割り行政の産物か...
国税庁が、還付申請では面倒くささを強要しながら漏れなく徴収とくれば、地方自治体も負けじと住民税を漏れなく徴収ときた。彼らは、所得や資産の個人情報、住民票などでしっかりとしたデータベースをお持ちのようだ。なのに、総務省ときたら...
「個人情報は保護されます!」って何を根拠に?調査員が全国で 60 万人もいれば、中には... 実際、国勢調査バッグがネットオークションに出品され、高値がついた。何に使うかは知らんが...
少子化問題などの政策決定に使う情報と銘打つなら、他の省庁や地方自治体から、世帯構成などの数字を拾うだけで済むはず。なにゆえ個人名まで知りたがるのか?仕事状況なら、所属する企業や勤務先から拾い上げればいいし、アパートなら、どんな人が住んでいるか大家さんが知っている。大家さんも知らないような状況なら、一般人が訪問したぐらいで実態が分かるはずもない。
封筒の表紙には、「国勢調査には回答の義務があります!」とある。義務ってなんだ?統計法を盾にした強迫観念か?見事な国家への不信感を増殖させるイベント!おまけに、こんなものを野放しにする大手メディアの大本営ぶり...
行政改革で何をやるかより、やめるべきことをきちんとやめるだけでも、かなりの改革ができるであろうに。調査員たちは口を揃えて言う。税金の無駄遣い!と...
そういえば、つい最近、NHK の受信料制度で総務省の有識者会議が、「テレビ設置の届け出を義務化する」やら、「未契約者の居住情報の照会を可能にする」やらと提言したことが報じられた。個人情報に対する意識は、かなりズレてそう...
2. この国にデータベース化という戦略はないのか...
まず、データ収集のやり方からして問題!
インターネット回答がオススメ!って大々的に宣伝しているが、調査員は、コンピュータが振った地域番号と世帯番号を各世帯毎に手作業で割り振っている。グルグルマップ風の担当区地図に世帯番号を書き込み、その番号を世帯一覧表に書き写し、世帯代表者と男女構成を聞き取って書き加え、回答結果と擦り合わせて修正する。なんだこの手間は?こういう作業こそ、電子化するべきでは...
そして、本部から回答状況が報告され、未回答世帯の催促に奔走する。
総務省には、根本的なデータベース化という戦略がないのか。住基ネットはすでに形骸化し、マイナンバーカードも同じ道を辿るのかは知らんが、脱ハンコ!などと言っている場合か。上っ面のデジタル化で「やってます感」を演出するのは、いい加減にしてもらいたい。
我が国は、モノ作りに対する姿勢では、繊細なこだわりや美学を見せるのに、情報に対する体質となると、太平洋戦争時代からあまり変わっていないと見える。
情報活用の仕方を知らない連中が、無闇に情報を集めることほど滑稽で危険なことはない。スパイ天国と揶揄されても仕方あるまい...
3. 調査員が怒られ役なのは仕方がないにしても...
みなさんボランティア精神でやっているのに、この仕打ちはなんだ!
少しばかり手当が出るとはいえ、逆に、お金を払ってでも代わってもらいたい。一般人に「国家公務員として自覚して行動して下さい!」などと臨時で身分を与えて責任を押し付ける。国家公務員の身分証を見せるのは、むしろ逆効果。つまり、国が信用されていないってことだ。
防犯グッズまでも支給される。痴漢防止用の爆音ブザーがなるヤツ。こんなものが必要な作業なのか?
市営住宅などを担当している方とも親しく情報交換させてもらっているが、こちらからは声もかけられない状況。オートロックのマンションも対応が大変そう。管理会社に相談しても、所詮、所有者の雇われ人。勝手に入れないから、一軒一軒チャイムを鳴らして手渡している。
おいらの担当区でも、十回ぐらい訪問してやっと会えた人が何人かいる。結構、いい人だったりするのだけど...
夕方に訪問しても留守だから夜に訪問すると、「こんな遅い時間に来やがって!」と怒鳴られる程度のことは当たり前。
特に、女性調査員はなめられるようだ。夜な夜な涙を浮かべて国勢調査バッグをもって歩いているおばさんに声をかけると、こちらは頷くだけで何も言えなかった。お互いに愚痴を言い合うだけでも救われるのだけど。仮に、ガッチリした体格で、ヤクザ風の国勢調査員が訪問したら、同じ態度でいられるのか?防犯グッズには、そうした用心棒グッズを配布した方がよかろう...
世間体では良い人でも、誰も見ていなければ豹変する人は少なくない。日本社会は、まったく村社会だということを改めて認識させられた。知ってたけど。いや、村八分社会か。知ってたけど...
配布も大変だが、回収はもっと、ずっと、はるかに大変!
あからさまに居留守を使っている人も珍しくない。高年の調査員ともなると、インターネット回答の仕組みなんて分かるわけがないと思われ、却っていい口実にされる。実は、インターネットで回答すれば、リアルタイムで丸見えなんだけど...
おいらの担当地区は一戸建てが多く、行儀のいい人ばかりで、比較的苦労は少なかったが、それでも回答意志のまったくない人は、どの地区にもいる。調査項目には、「回答意志の有無」というのも加えてもらいたい。意志のない人を動かそうとは思わないし、堂々と意志がないことを表明させればいい。そういう人ほど、回答意思はあるようなことを匂わせて言い訳めいたことを言うのだろうけど...
何回訪問してダメなら通知のビラを配り、さらに、至急通知と調査票の再配布などと、手順作りをやってる場合ではない。ボランティアだって、そんなことに付き合っている暇はない!中には、やったことにしている調査員もいるのでは?実際、そんな誘惑にも駆られる。真面目にやる人ほど馬鹿を見るのが人間社会というものか。知ってたけど...
4. インターネット回答でもトラブルあり...
インターネットで回答したという方でも結果に反映されていないケースがあった。最後の送信まで到達していなくても、完了したと思っているかもしれない。実際、送信ボタンで画面が固まったというユーザ報告もある。
せめて、ログインした時間ぐらいの履歴情報は欲しい。でないと、説得できない。いい人だったので再ログインをお願いし、それで完了してくれた。
そもそも、行政機関のサイトを信用していない人が多い現状がある。どんなに使いやすくても完璧なシステムなんてありえないし、回答完結の情報だけではあまりにショボい。せっかくの電子化、システムに有用な履歴情報を組み込むことぐらいは、そう難しくはあるまい...
5. 回答期限延長で、さらに荒れ狂う...
当初、回答期限は 10/7 であったが、回答率が低いということで、10/20 まで延長された。それで、期限延長の知らせが調査員にまったくないとは、どういうわけか?テレビや新聞で宣伝されているとはいえ。おいらはネットで知ったが、他の調査員に教えてもオオカミ少年扱い。いくらなんでも本部から連絡があるだろう、って。そりゃそうだろう。おいらも、総務省のサイトを疑ったぐらいだ。回答期限も正確に知らないのは、国勢調査員を名乗る詐欺か!と罵倒もされる。前から鉄砲で撃たれ、後ろからも撃たれている気分。回答意志のある人は、たいてい期限を守るか、少し遅れるぐらいなもの。むしろ、回答意志のない人に口実を与えている。
さらに、10/7 時点の回答状況確認表が 10/9 の金曜日に郵送されてきたが、郵送回答があまりに少ない。しかも、まさか!この人が回答してない?という名が、ずらりと挙がってきていない。インターネット回答は即反映されていて、ほとんどの人がインターネットで回答したことになっている。
回答率の最初の速報が、50%台。8日の時点で約 68%。よそは大変だなぁ... と眺めていたが、他人事ではなかった。
調査員は土日が勝負!
さっそく翌日から訪問して当たりをつけてみたところ、感触ではポスト投函から 5日ぐらいのディレイがありそうだった。最初の締切 10/7 から 5日ほど遡ると、10/2 になるが、それが本当だとすれば、まったく使い物にならないレベル。いや、むしろ混乱させる情報だ。おかげで、調査員たちは怒られまくり。
さっそく月曜日に本部へ赴き最新情報を要求したら、各担当区の指導員がネットからアクセスできる QR コードを持っていることを知り、これに救われた。本部の方々は地方公務員で、総務省からの命令でやっているだけであろうから、文句を言うのも気の毒。せめて現場の状況報告を上げるよう文書でお願いして、おしまい...
6. そして、帰結...
人生は短い!興味のないことに付き合っている暇はない。
そもそも、おいらは人間嫌い!調査資料の整理も終わったことだし、人間関係の整理でもやるかぁ...
2020-10-25
"獄中からの手紙" Mohandas Karamchand Gandhi 著
実際主義の流れを汲む中に、ガンディーを嫌う人は思いのほか多い。歴史を振り返れば、理想主義が現実社会を破壊した事例はわんさとあるし、平和主義者の理念が国家主義者の横暴を許し、戦争を招き入れた事例も少なくない。
「マハートマ(偉大なる魂)」の称号を持つこの人物はというと、確かに理想高すぎ感はある。が、夢想家と呼ぶ気にはなれない。「塩の行進」や「糸車で紡ぐ」などの日常生活に根ざした民衆運動は、近年の市民運動にも通ずるものがある。宗派や人種を超えた象徴として...
ただ、非暴力運動の実践となると、人類はまだまだ若すぎると見える。おいらは、この人物が好きでも嫌いでもない。ただ、尊敬はできても、生き方が合わないという人はいる。それも、まったく敵わないと、心の中で白旗を上げている。そして、ガンディーのものとされる、この言葉が好きなだけだ。
"Live as if you were to die tomorrow.
Learn as if you were to live forever."
「明日死ぬと思って生きよ。不老不死だと思って学べ。」
実は、この言葉を拾うために本書を手に取ったのだが、合致するものに巡り合うことはできなかった。邦訳版だからなんとも言えないけど。それでも、この言葉の哲学は充分に味わえる。
ちなみに、おいらは言葉を追い求める夢想家だ。その証拠に、未だハーレムという言葉に救いを求めている。未練は男の甲斐性よ...
1930年、ガンディーはヤラヴァーダー中央刑務所に収監された。彼は、アーシュラム(修道場)の弟子たちに宛てて一週間ごとに手紙を送ったという。厳粛なる道徳的観点からの戒律を。牢獄の時間は、哲学原理を沈黙思考するには貴重な時間だったと見える。
おいらは、戒律ってやつが大の苦手ときた。抑圧的で説教じみていて、なにより息苦しい。だがここに、そんな感覚はない。それは、真理を第一のものと位置づけているからであろう。真理は実在に由来するという。神は真理なり、というよりは、真理こそが神。真理を探求し続けることこそ、修行の道というわけである。
しかしながら、真理ってやつが本当に存在するのかも、よう分からん。この酔いどれ天の邪鬼には、単なる認識の産物ではないかとさえ思える。それでも、宗教が唱える神の存在を信じるよりは、真理の存在を信じる方がはるかにましか...
尚、森本達雄訳版(岩波文庫)を手に取る。
「最高の真理は、それ自体で存在するのです。真理は目的であり、愛はそこに至る手段(みち)です。わたしたちは、愛の法(のり)に従うのは容易ではないことを承知していますが、愛すなわち非暴力とは何か、については知っています。しかし真理については、その断片を知るのみです。完全に真理について知ることは、完全に非暴力を実践するのと同様、人間には成しがたい業です。」
1. 宗教家か、政治家か...
ガンディーは、宗教家であったのか、政治家であったのか。真理の探求者が、なにゆえ政治なんぞに深く関わったのか。彼の生きた時代は、イギリス帝国主義からの独立を経て、インドとパキスタンが分離独立に至った激動期。時代が使命感を駆り立て、政治へと向かわせたのか。プラトンは、哲学者による統治という理想国家像を描いて魅せたが、これに通ずるものを感じる。
力なき者が巨大な国家を相手取るには、ゲリラ戦の様相を呈する。民衆運動という集団戦術によって。ガンディーは、弱者の非暴力ではなく勇者の非暴力を唱え、不服従運動を人間の誇りの運動に位置づける。そのために、真理の哲学を用いたというわけか。
しかしながら、真理ってやつは意外と脆い。なにしろ、真理めいたものはすぐに見えても、本当の真理はなかなか姿を見せてくれないのだから。
なるほど、真理は神に似ている。ただ人間ってやつは、神の存在を強烈に意識し、それを恐れても、真理の存在はあまり意識せず、恐れることもあまりない。
古来、宗教と政治は両立しうるかという問題がある。今日、政教分離の原則が声高に唱えられるが、ガンディーは、宗教なくして政治はありえないという立場で、道徳性や精神性の欠いた政治は避けるべきだとしている。
彼の言う宗教とは、互いにいがみ合うような盲目的な信仰ではなく、寛容の精神に基づくような普遍宗教のこと。その意味で、真理の探求者もまた宗教家ということになろうか。いや、信念を持ち続けることができれば、誰もが宗教家なのやもしれん。ガンディーは、世界宗教なるものを夢見ていたのだろうか...
「すべての宗教は、聖なる霊に触発されて生まれたものですが、それらは人間の精神の所産であり、人間によって説かれたものですから、不完全です。一なる完全な宗教は、いっさいの言語を超えたものです。ところが不完全な人間が、それを自分に駆使できる言語で語り、その言葉がまた、同じ不完全な他の人びとによって解釈されるのです。いずれの人の解釈が正当だと主張できましょうか...」
2. インド的な戒律
身分制度の歴史は、どこの地域にも見られるが、現在でも色濃く残るものとしては、カースト制度が挙げられる。法律でいくら規定しても、慣習の力は強すぎるほどに強い。ガンディーは、不可触民制の撤廃を強く唱える。特定の身分や家柄の生まれというだけで、その人々に触れると穢れるなどと考えることは理不尽きわまる、このような制度は、社会の癌!宗教を装いながら宗教を堕落させている!と...
また、スワデシーという国産品愛用の呼びかけも、インド的。暑いインドでは、塩は特に重要。海岸線や山中からも採取できる自然の贈り物に対して、外国政府が管理し、課税するとはどういうわけか。
さらに、伝統的な紡績産業に目を向け、国産品に愛着を持つという運動で「塩」や「糸」がシンボルとなる。
但し、こうした運動は、外国人に悪意を抱くことでも、憎悪崇拝でもないとしている。
しかしながら、凡人は、こうしたことで愛国主義を旺盛にしていくもので、海外製品のボイコット運動を引き金に、外国人排斥運動を激化させていく。製造品が、そのまま人種や民族と結びついて...
それは、21世紀の現在とて同じ。ただ現在は、まだ救われているかもしれない。自国製品や自国企業が、もはや自国のものではないことを多くの人が知っている。外国製品をボイコットすれば、自分の首を絞めてしまうことを。
とはいえ、グローバリズムを旺盛にすれば、同時にナショナリズムを旺盛にさせ、社会はますます二極化していく。人間社会で中庸を生きることは、よほどの修行がいると見える...
3. 人間は生まれつき盗っ人か...
不服従運動に執心するガンディーの姿は、みすぼらしい。彼は、不盗の戒律を唱えているが、それは、人の持ち物を盗んではならないという社会常識を説いているような、ちっぽけな話ではない。まず、地上で生存するためには、衣食住のすべてが何らかの形で自然の恩恵を受けている、と考える。
そして、生活に必要以上の広大な土地を所有しているとしたら、その日の糧を得なければならない人から自然の恵みを略奪していることに... 食べきれないほどのご馳走をテーブルに並べ、食べ残して捨てているとしたら、飢えている人から食べ物を横領していることに... といった論理を働かせて、不盗の戒律を無所有の精神と結びつける。必要以上を求めない、パンのための労働を、と。必要以上に所有しない、自己放擲と犠牲の精神を、と。
しかしながら、必要以上とは、どの程度をいうのであろう。ここが凡人の解釈と分かれるところ。自己放擲や犠牲にしても、凡人は自己満足で終わる。事業で大成功し大金持ちになった人が、私的な慈善団体を設立するのも、必要以上に儲けてきたことへの償いであろうか。いや、貧乏人にだって、憐れみの情念はある。
人間はみな幸福を願って生きている。しかし、幸福が誰かの犠牲の上に成り立っているとしたら、豊かさが誰かの犠牲の上に成り立っているとしたら、そんなことを素直に願うことができようか... これが、ガンディーの問い掛けである。
さて、自分の欲望とどう向き合うか。主犯格は嗜欲か。死を運命づけられた人間にとって、人間目的がはっきりしないのは実にありがたい。謙虚な人ほど自らの謙虚さを意識せず、大層な目的を知らないことも素直に認め、自然に振る舞えるものなのかもしれん...
2020-10-18
"タゴール詩集 ギーターンジャリ" Rabindranath Tagore 著
こいつには、救われる...
BGM のように流れ去っていく文学作品とは、こういうものを言うのであろうか。フレーズそのものは頭に残らなくても、心地よさだけは確実に残る。読書に BGM は絶対に欠かせないが、だとしても、これほど BGM を引き立て、自らバックグラウンドを演じきる書があろうか。この控えめな汎神論的自然観には、悲愴感が漂う。ここは、チャイコの六番に乗せて。いや、ショパンの調べも捨てがたい...
尚、渡辺照宏訳版(岩波文庫)を手に取る。
ラビンドラナート・タゴール...
このインドの詩人は、1913年、詩集「ギーターンジャリ(歌の捧げもの)」でノーベル文学賞を受賞し、アジア人初のノーベル賞受賞者となった。ガンディーとも親交があり、マハートマの称号を贈ったのもタゴールだったという。ガンディーといえば、彼のものとされるこの言葉を思い浮かべる。
"Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever."
「明日死ぬと思って生きよ。不老不死だと思って学べ。」
本書には、ガンディー哲学が乗り移ったような感がある...
ギーターンジャリ...
この大作には、本家本元のベンガル語版と、タゴール自ら翻訳した英語版の二つがあるそうな。本書は、あえて「ベンガル語本による韻文訳」と「英語本による散文訳」の両方を掲載しくれる。というのも、各々まったく違う形式をとっているのである。
ベンガル語版は、定形詩 157 篇を収め、すべて吟誦に適しているという。
一方、英語版は、散文詩 103 篇を収め、うちベンガル語版からの採用は 53 篇のみで、他は別の詩集から持ってきたものだとか。定型詩と散文詩というだけでも違った印象を与えるが、内容もまったく別物。ノーベル文学賞の対象となったのは、英語版の方らしい。
タゴールは、ロンドン大学で英文学を学び、西洋思想や西洋哲学を熟知していたと見える。採用に漏れた詩群は、西洋人の感覚に合わないと見たかは知らんが、なんと惜しいことを...
ここには、邦訳ではあるが、ベンガル語版の方が壮大な景観が見て取れる。とはいえ、英語版の散文形式もええ、まるでシェイクスピア劇場を見ているような...
詩を味わうには原語で読むべきだ!と、よく言われるが、タゴールの詩は特にそうらしい。思想や哲学、あるいは内容だけでは味わえない領域が確かにある。やはり、詩で最も重要なのはリズムであろう。それは形式ばった調子ではなく、自然に奏でる調べ...
日々の習慣もまたリズム。
道を歩けば何気なく歩幅にテンポが生じ、思考に耽れば自然に頭が揺れ、日常の繰り返しが精神に秩序をもたらす。
仕事にもリズムは欠かせない。検討から成果が出るまでの周期、あるいは達成感を得るタイミング、こうしたものが気持ちに減り張りをつけ、意欲を持続させる。
これら日常のリズムが詩の奏でるリズムと同期した時、耳障りで調子外れのものは量子エネルギーの対消滅のように消え去り、心地よい韻律だけが残る。やはり、人生で最も重要なのはリズムであろう...
さて、ここでは、詩篇を拾うことは難しい。が、言葉の欠けらを拾うことは容易い。それでお茶を濁すとするか。引用しやすいのが散文の方というのも奇妙。芸術ってやつは、壮大なほど鑑賞者を沈黙させるらしい。自我を支配する無力感!無力感て、こんなに心地よいものなのかぁ。もう、どうにでもして!おいら、M だし...
1. ベンガル語本による韻文訳より...
天界の光が、眩しすぎて見えないのは幸せかもしれない。光の正体は、一種の電磁波。そのうち人間の眼に見える波長を、物理学で可視光線と呼ばれ、巷では光と呼ばれる。この宇宙空間に電磁波の存在しない領域はない。おそらく精神空間にも。すべての電磁波が眼に見えるとしたら、この世は眩しすぎる。むしろ盲目の方が楽であろうに...
さて、言葉の欠けらを拾ってみよう...
わが頭(こうべ)、垂れさせたまえ... わが高慢は、残りなく、沈めよ、涙に...
遍く満つる天界地界(あめつち)に... 生命逞し、神酒なみなみと...
後方(しりへ)に騒ぐ波の音、高鳴る大空、面(おも)にさし来る朝日影、雲の絶え間より... 物思ひ、心絶えなむ...
門毎(かどごと)に森の女神の、法螺、響(とよ)みて聞こゆ、天の琴の調べに合わせ...
闇の夜の時の間を、何の調べに、今、過ごすべき、何過ちてか今みな忘れ、思ひ煩ふ、絶間なく雨濯ぎ、降りしき止まず...
蒼天の声なき語り、露けき悩ましさ...
この虚空に遍く... 語るを許せ、許しませ...
黄昏の勤行(つとめ)、徒ならざれ、... ひれ伏さしめよ... 足許に...
夢に奏でぬ、相聞の深き調べを...
天地(あめつち)の沈黙(しじま)を、汝が家に来させよ...
黄昏ときに君とわれ、そこに打解けばやと、暗闇にただ一人...
高慢の及ばぬところ... 誇りの満つところにて...
佯りて戯れに戯る、この戯れをわれ好む...
われは旅人、生命(いのち)の限り、道行き歌ふ... われは旅人、荷はみなすべて、捨てて行かむ... われは旅人、瞬きせず、ただ目凝らして、暗闇に覚醒めてありき...
恐怖(おそれ)おこさせ、懶惰(ものぐさ)ほろぼし、睡眠(ねむり)やぶりて、恐怖をやぶる...
汝、嬰児(おさなご)の如く、力なきとき、内重(うちのへ)の奥、深く留まれ、時至るまで
いささかの痛みによろめき
いささかの火に焦がれ
いささかの塵身につかば
汚れなむ
内重(うちのへ)の奥、深く留まれ、時至るまで...
君、わが生命を満たしたまへば、悔残るまじ、今死して
夜昼、苦楽あまたに
胸に響きし調べあまた...
2. 英語本による散文訳より...
この世の存在は、みな囚人か。自らの財で縛り、自らの権力で縛り... 自己を縛るは欲望。精神空間に自由の王国を築くには、よほどの修行がいる。荒れ狂うこの世で心を静めるには、我が死を思うこと。自我を救う道は、それしか残されていないのか...
さて、言葉を拾ってみよう...
「愚か者よ、自分を自分で担いで歩こうというのか。乞食よ、自分のうちの門口(かどぐち)に立って物乞いをするのか。その荷物をみな、何でも背負うことのできるあの方の手に、委ねるがよい。そして、未練がましく振り向くな。おまえの欲望の息が触れると、燈火の光はたちまち消えてしまう。汚らわしい...」
「光は、おお、光はどこだ。欲望の燃える火で光を点そう。燈火はあっても、焔ひとつ燃え上がらない。これがおまえの運命なのか、私の心よ。おお、おまえには死の方がずっとましだ...」
「私をしばる束縛はきつい。しかし断ち切ろうとすると、私の心は痛む。自由さえあればよい。だが、それを望むのは恥ずかしい... その暗い蔭の中に、自分の真の存在を見失う...
囚人よ、いったい誰がおまえを縛ったのか...
富と権力で誰にも負けないつもりだった... 世界を奴隷にし、自分だけが勝手気儘でいられるつもりだった...
囚人よ、この頑丈な鎖をいったい誰がこしらえたのか。
私がこしらえた...」
「わが神よ、この私の生命の溢れる盃から、どのような神酒をお飲みになるのか。わが詩人よ、私の眼を通してご自分の創造物を見、私の耳の戸口に立ってご自分の永遠の調和にじっと耳を傾ける、それがあなたの歓喜であるのか。あなたの世界は私の心の中で言葉を織りなし、あなたの喜びはその言葉に旋律を添える...」
「世界中に広がって、無限の空に無数の形相を生み出すのは孤独の苦悩である。夜もすがら星から星を見つめて沈黙し、雨降る七月の闇の中でざわめく木の葉のうちに詩を喚びおこすのは孤独のこの悲しみである...」
2020-10-11
"現象学的心理学の系譜 人間科学としての心理学" Amedeo Giorgi 著
心理学は、科学であろうか。アメディオ・ジオルジは明言する。科学であると...
原題 "Psychology as a Human Science" は、1970年刊行とある。ジオルジの生きた時代は、科学といえば自然科学を意味し、人間性と科学は矛盾するという立場が優勢だったようである。彼は、「人間科学」という用語を持ち出す。これは自然科学という意味では、科学ではない。が、科学の定義の仕方によっては科学になりうる。それは、現象学に基づくアプローチによって... これが、ジオルジの主張である。
尚、早坂泰次郎訳版(勁草書房)を手に取る。
「心理学は科学である。なぜならば、科学の目的に関与するから、すなわち、関心のある現象に対して批判的態度をとったり、方法論的、系統的なしかたでそうした現象を研究しようとするからである。しかしながら、その主題には人格としての人間が含まれているので、自然科学がその目的を求めていくのとはちがったやり方で、目的を達成しなければならない。」
ところで、科学とはなんであろう。科学たるには、どうあるべきであろう。
まず、「客観性」という観点がある。この用語ほど、基準が曖昧でありながら権威ある言葉もあるまい。あらゆる学問が理論武装のために、この言葉にあやかって科学する。
但し、この用語には水準や度合いといったものがある。客観性のレベルでは、数学の定理は他を寄せ付けない。この方面では、古来、もてはやされてきた方法論に演繹法ってやつがある。
だが、現実世界を記述するのに演繹的な視点だけでは心許なく、帰納的な視点も必要である。人間を相手取れば、尚更。研究対象が人間自身に向けられると、自然科学から乖離していき、人文科学や社会科学などの学問分野が編み出されてきた。それで人間が自然的な存在かどうかは知らんが、少なくとも学問は自然的な存在であってほしい。
デカルト風に言えば、人間は思惟する存在である。つまり、人間が意識する過程では、主観が介在するってことだ。意識なくして学問は成立するだろうか。客観とは、主観に支配された人間の憧れか。
ちなみに、政治屋や有識者たちが客観的に主張すると宣言して、そうだったためしがない。それで、自らの語り口に権威を持たせられるかは知らんが...
一方で、芸術家たちが体現する精神に、無我の境地なるものがある。無我とは、意識を放棄したわけではなく、むしろ自意識を存分に解き放った末に達しうる何か。彼らは、なにかに取り憑かれたように自我に籠もって熱狂できる資質を持っている。無我とは、自己否定の過程で生じるのであろうか。あるいは、高みにのぼるために、主観と客観を対立させるのではなく、調和させるということであろうか。いや、客観性というより普遍性といった方がいい...
ジオルジは、現象学を心理学に応用する立場である。現象といえば、まず観ること。科学には、その精神を根本から支える信条に、古代から受け継がれる観察哲学がある。それは、先入観や形而上学的な判断を排除する態度であり、21世紀の科学者とて、その境地に達したとは言えまい。正しく観察できなければ、適格な判断ができない。正しいとは、何を基準に正しいとするか。この態度には、誤りを適格に観ることも含まれるが、健全な懐疑心が持ち続けるのは至難の業。現象を正しく観ることの難しさは、客観性の水準の高い学問ほどよく理解していると見える。ましてや、人間現象を相手取るのに主観は避けられない。主観を客観的に観察しようにも、観察者の側にも主観がある。
となれば、観察サンプルを増やし、統計学的に、確率論的に分析するのが現実的であろう。心理学が、臨床医学と結びついて発達してきたのも分かる気がする。但し、医学は病を相手取る。いわば、精神状態の例外処理であるが、心理学では例外処理とはなるまい。
こうして眺めていると、心理学が量子論に見えてくる。量子力学が唱える不確定性原理は、位置と運動量を同時に正確に観測することは不可能だと告げている。それは、観測対象である物理系に観測系が加わっては、もはや純粋な物理現象ではなくなるということである。量子ほどの純粋な存在を観測するには、ほんの少しでも不純物が交じると正確性を欠く。となると、主観を観察するには、若干なりとも主観を含んだ客観性の眼では、やはり正確性を欠くのだろうか。いや、精神ってやつが、それほど純粋な存在とも思えん。自由精神は、物理的には純粋な自由電子の集合体なんだろうけど。
いずれにせよ、純粋客観なる精神状態を人間が会得するには、よほどの修行がいる。それには、人類がまだ若すぎるのやもしれん...
そこで、手っ取り早く分析する方法に、条件を限定するやり方がある。条件を絞りながら因果関係を紐解き、徐々に条件を広げていく、といった考え方は、解析学でもよく用いるし、経済学や社会学でもよく見かける。
例えば、金銭欲や物欲、あるいは、名声欲や権力欲といったものに限定すれば、行動パターンがある程度読める。市場原理は、様々な価値観を持った人間が集まれば、欲望が相殺しあって適格な価値判断ができるのだろうが、あまりにも欲望が偏っているために、しばしば市場価値を歪ませる。政治屋や報道屋が仕掛ける扇動は、大衆心理を巧みに利用した者の勝ち。文学作品ともなれば、心理学以上に心理学的だ。リア王やマクベスの狂乱に触れれば、それだけで精神分析学が成り立つ。
心理学の学術的な地位がいまいちなのは、こうした背景もあろうか...
問題解決のためのプロセスでは、現象を整理、分析し、本質的な内容や意味を探り当て、その方法や手段を編み出す。本書は、心理学が内容や手段に目を奪われ、方法論に特権的地位を置こうとする、と苦言を呈す。
ただ、あらゆる学問がそうした傾向にある。方法論が編み出せるということは、それが条件付きとはいえ、ある種の結論に達していることを意味している。
しかし、心理現象を結論づけることは至難の業。多義的な上に、これといった答えが見つからない分野である心理学では特に、整理や分析といった前工程、すなわちアプローチが重要だというわけである。メタ心理学は、精神をメタ的な地位に押し上げたために、現実世界でメタメタになるのかは知らんが...
ジオルジは、アプローチを一つのカテゴリとして確立することを提案している。方法論と一線を画する視点として。人間のタイプは、知力、武力、政治力、カリスマ性、徳性など、能力の数値化によってある程度の種別はできる。シミュレーションゲームのように。実際、企業の人事部などでも数値データが人材評価に用いられる。そうした数値化は、ゲームに勝つため、企業戦略を機能させるため、といった目的が明確な場合では有効となろう。
では、もっと普遍的なレベルでの人間性となるとどうであろう。人間目的なんてものをまともに答えられる人が、この世にどれほどいるのだろう。精神の正体も、人間の正体も分からずにいるというのに。人間精神の多様性は、果てしない宇宙に見えてくる。無理やり結論を出すぐらいなら、分析過程を大切にする方がよさそうである...
2020-10-04
"小説神髄" 坪内逍遙 著
そういえば、おいらは「小説」という言葉に疑問を持ったことがない。今日、novel の訳語として定着している、この言葉に...
小説家たちは、ノベルで何を述べようというのか。小さな説と書くからには、大きな説というものがあるのだろう。元は中国に発し、取るに足らないつまらない議論、あるいは民間の俗話の記録などを意味したという。国家の思惑を物語るのに対して、大衆の本音を物語る。どちらが取るに足らないのやら。上っ面の教説や良識めいた美談を綴るのに対して、悪徳や愚行に看取られた人間の本性を暴く。どちらが大きな説なのやら。
小説家に、人類を救え!などとふっかけても詮無きこと。人間の本性に迫るからには、精神を自由に解き放たなければ...
かつて小説を書くためには、まず小説とは何かを知らねばならぬ時代があったとさ。小説ごときを、けしからん!などと、有識者たちが憤慨した時代である。江戸戯作に親しみ、西洋文学を渉猟した若き文学士が、明治の世に物申す...
「我が小説の改良進歩を今より次第に企図(くわだ)てつつ、竟には欧土のノベルを凌駕し、絵画、音楽、詩歌と共に美術の壇頭に煥然たる我が物語を見まくほりす。」
何事も、文化として居座る仮定では低俗扱いされるもの。ざっと時間軸を追うと、近くに漫画やアニメ、遠くに能や歌舞伎を見つける。芸能文化は、人間社会への批判を間接的に皮肉る形で根付いてきた。つまりは、諷刺や滑稽の類いである。世阿弥らが編んだ「花伝書」は、滑稽演芸を理論化し、芸術の域にまで高めた。何事も本質を観るには、遊び心がいる。憤慨していては、見えるものも見えてこない。哲学するには、自ら滑稽を演じてみることだ...
「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ。人情とはいかなるものをいふや。曰く、人情とは人間の情慾にて、所謂百八煩悩是れなり。」
人間は情欲の動物であり、いかなる賢人も、いかなる善人も、これを避けるのは至難の業。百八を数える煩悩を避けるには、よほどの修行がいる。自分の煩悩を克服できなければ、他人の煩悩を目の敵にし、他人の欠点を攻撃する。人情の解放と煩悩の克服は、まさに表裏一体。自己を克服するには、もはや自分の煩悩を味方につけるしかあるまい。なるほど、まず情ありて、人の心を動かさぬものは小説にあらず... というわけか。
しかしながら、心を動かす者もいれば、動かさぬ者もいる。芸術とはそうしたもの。分かりやすいものは重みを欠く。寓意ってやつは、チラリズムとすこぶる相性がいいときた。心が動かされなければ、作者はいったい何がいいたいのか?などと最低な感想をもらす。芸術ってやつは、芸術家のみならず、鑑賞者をも高みに登ってこい、と要請してくる。暗示にかかった鑑賞者は、刺激がますます貪欲になり、もっと深い、もっと凄い表現を求めるようになる。情欲を相手取ると、まったく底なしよ。ここに、小説の無限の可能性を見る。
ところで、小説の意義とはなんであろう...
それは、単なる勧懲の道具ではないという。人情に共感したり、反面教師にしたりして、人間性を磨く。となれば、人情の描写こそが小説の意義というのは、尤もらしい。
そして、ノベルを凌駕し、絵画、音楽、詩歌と共に... 小説は美術なり!というわけである。逍遙は、小説の四大裨益を挙げている。
第一に、人の気格(きぐらい)を高尚になす事。
第二に、人を勧奨懲戒なす事。
第三に、正史の補遺となる事。
第四に、文学の師表となる事。
拙筆なおいらにとっては、第四の裨益が一番大きい。優雅な文章を魅せつけられると、惚れ惚れする。言葉に惚れ、フレーズに惚れ、しかも、皮肉たっぷりに。それが、生きる指針になり、座右の銘となる。道徳家や教育家の安っぽい教説よりも心に響くのは、そこにチラリズムがあるから...
寓意や教訓の類いは、ここに発する。それは自省へと導く。他人の行いをも自省と解するよう。相対的な認識能力しか持ち合わせない精神の持ち主が、悪を知らずして善を知ることはできまい。他人の欠点が目につくのは、自分自身にもあるってこと。自分自身に欠点がなければ、そんなものが目についても、さほど興味を持つこともあるまい。
それゆえ、偉大な哲学者たちは、自省論なるものを様々な形で遺してきた。小説の主脳は人情なり... とするなら、小説はまさに自省の語り草となろう...
2020-09-27
"奇跡の脳 - 脳科学者の脳が壊れたとき" Jill Bolte Taylor 著
ショパンの調べに乗せて、お決まりの TED.com を散歩していると、パワフルな脳科学者の Talk に出逢った。
表題 "My stroke of insight..."
stroke は脳卒中、stroke of ~ で、一撃で生じる、といった意味になる。なるほど、「脳卒中」という言葉に「衝撃による洞察やひらめき」といった言葉を掛けているわけか...
これに触発されて、竹内薫訳版(新潮文庫)を手に取る。
話し手の名は、ジル・ボルト・テイラー。脳神経科学の第一線で活躍していた彼女は、37歳のある日、脳卒中に襲われたそうな。幸い一命は取り留めたものの左脳が著しく損傷し、言語中枢や運動機能をはじめ、人格の制御回路までも機能しなくなったという。脳科学者が脳卒中になるとは、なんとも皮肉な運命。だがそれが、科学者として一段と覚醒させることに...
左脳マインドから解き放たれた右脳マインドは、自由奔放に振る舞う。言語中枢が機能しないために口うるさい人格から解放され、まるで大脳宇宙の右半球を謳歌するような。8年に及ぶリハビリを経て回復を遂げた彼女は、現在の心境を「ニルヴァーナ」と呼び、穏やかに語ってくれる。ニルヴァーナとは、インド哲学に由来する言葉で、輪廻からの解放といった意味が含まれる。
アーサー・C・クラークは、こんな言葉を残した... 十分に発達した科学技術は魔術と見分けがつかない... と。まったくである。
「波打ち際を散歩するように、あるいは、ただ美しい自然のなかをぶらついているように、左の脳の『やる』意識から右の脳の『いる』意識へと変わっていったのです。小さく孤立した感じから、大きく拡がる感じのものへとわたしの意識は変身しました。言葉で考えるのをやめ、この瞬間に起きていることを映像として写し撮るのです。過去や未来に想像を巡らすことはできません。なぜならば、それに必要な細胞は能力を失っていたから。わたしが知覚できる全てのものは、今、ここにあるもの。それは、とっても美しい...」
ジルの言う脳の回復とは、どういう状態であろうか。「古い脳内プログラムへのアクセス権の再取得」といった定義をすれば、一部しか回復できていないという。脳の補完機能ってやつは、まさに驚異的!
左脳で損傷を受けた細胞を再生することはほぼ不可能でも、これを右脳でリカバリする可能性がある。意思の力がそうさせるのか。彼女は、脳内のニューロンの伝達経路を再構築したおかげで、左脳マインドに蔓延る嫌な人格とおさらばし、新たな人格を獲得したというのか。右脳マインドによって、悟りの境地を開いたとでもいうのか...
左脳マインドと右脳マインドは、まるでジギルとハイド。柔らかく言えば、建前と本音。本物語に、本音の解放という潜在願望を見る。
二重人格といった性質は、多かれ少なかれ、どんな人間にもあるのだろう。少なくとも、右脳と左脳で機能を分け合っているからには。その間にある脳梁ってやつのおかげで、絶え間なく情報交換することができ、互いに協調し合うことができる。それが、一つの人格の上で制御されているうちは可愛いもの。
しかし、自分の脳が発する言葉に耳を傾けることは難しい。自分自身の力で自我を覗くことは難しい。だからこそ、言葉を必要とする。とはいえ、言葉の力は、しばしば強すぎる。集団社会では尚更。自我を鎮めるには、少しばかり弱めておきたい。そして今、彼女は左脳が損傷したおかげで、言語機能が完全に沈黙してしまった。これを絶好のチャンスと受け入れるには、よほどの修行がいる...
「自己中心的な性格、度を過ぎた理屈っぽさ、なんでも正しくないと我慢できない性格、別れや死に対する恐れなどに関係する細胞は回復させずに、固体のようで、宇宙全体とは切り離された『自己』を取り戻すことは可能なの?あるいは、欠乏感、貪欲さ、身勝手さなどの神経回路につなぐことなしに、お金が大切だと思うことができるでしょうか?この世界のなかで、自分の力を取り戻し、地位をめぐる競争に参加し、それでも全人類への同情や平等な思いやりを失わずにいられる?」
ジルは、脳科学者らしく状況を観察し、事細かく自己分析を試みる。分析をするからには、それを記述する道具が必要だ。人間は、固体として存在している。少なくとも、そう意識しながら生きている。それを確かめるために言葉を欲する。
しかしながら、ジルは、自分の存在を流体のようだと語る。自然の中を流れ、春の風にでも揺られているような。彼女は、春風駘蕩の奥義を会得したのだろうか...
実は、人間精神を束縛しているものは、言葉かもしれない。言葉で組み立てられる論理的思考かもしれない。神が沈黙しているのは、自由を謳歌している証かもしれない。
そもそも、精神とはなんであろう。単なる原子の集合体ぐらいなものか。少なくとも脳の構造はそうなっている。ならば、原子の流れに身を委ねて生きるほかはあるまい。そして童心にかえり、脳の構築をやり直せるほどの流動性を会得したいものである...
「そもそも意識とは、機能している細胞による集合的な意識にほかならないとわたしは考えています。そして大脳半球の両方が補い合い、継ぎ目のないひとつの世界という知覚を生じさせるのだと、確信しています。」
DNA という分子は、地上で最も成功した遺伝プログラムかもしれない。人体を形成する細胞は、細胞核にある DNA の指令によって形成される。すべての型の細胞は遺伝子の組がほぼ同じ。遺伝子、RNA、タンパク質による複雑なメカニズムが、活性化部分のスイッチをオン/オフしながら多様な細胞をこしらえる。まるでプログラマブル・デバイス!
汎用的な論理セルが多数集積され、一つのセル内で必要に応じて配線をつないだり切ったりしてカスタマイズし、それぞれの機能の集合体として全体回路を構成するデバイスモデルに似ている。
となれば、左脳の死んだ機能を、右脳に復元させることも可能かもしれない。そもそも、人体の成長過程において、どの機能が右にあり、どの機能が左にあるといった基本的な配置が決まっているとしても、ニューロンの伝達経路まで同じとは言えまい。右利きの人もいれば、左利きの人もいる。そのネットワークの微妙な違いが、個性ってやつか。
右脳と左脳が持っているそれぞれの機能は、けしてバランスのよいものではない。大まかに、直観的にイメージする右脳と、言語的に考える左脳といった役割があるにせよ、概念や全体像を理解することに長けている人もいれば、記憶力や計算力に優れている人もいるし、たまには、左右で逆の役割を担っているかもしれない。人間らしさは、やはり気まぐれに求めたい...
「回復するまでに、頑固で傲慢で皮肉屋で、嫉妬深い性格が、傷ついた左脳の自我の中枢に存在することを知りました。エゴの心の部分には、わたしが痛手を負った負け犬になり、恨みがましくなり、嘘をつき、復讐さえしようとする力が残っていました。こんな人格がまた目覚めたら、新しく発見した右脳マインドの純粋さを台無しにしてしまいます。だから、努力して、意識的にそういう古い回路の一部を蘇らせずに、左脳マインドの自我の中枢を回復させる道を選んだのです。」
2020-09-20
"素数の音楽" Marcus du Sautoy 著
数学は、音楽とすこぶる相性がいい...
耳で感じる音律の概念は、オクターブの整数比で構成される。一つのオクターブを均等に十二分割したものは「十二平均律」と呼ばれ、「ドレミ」も、これに看取られている。
十二音の組み合わせは、ざっと数えて 12! = 479,001,600 通り。
音楽家たちは、この組み合わせの中から、魂をくすぐるパターンを見い出そうとする。いわば音楽は、音響組織の数学的合理化なのである。その合理化運動の歴史は、紀元前540年頃のピュタゴラスに遡る。そう、「万物は数である」という信仰だ。弦の長さを半分にすると、1オクターブ高い音が生じて元の音と調和する。この性質に気づくと、一弦琴で和音を奏でることができ、整数比からちょいと外れると、たちまち不協和音となる。
どうやら音楽は、数学に看取られているようだ。空を見上げれば、太陽も、月も、惑星も、多くの天体運動が数学に看取られ、天空の音楽を奏でている。音響工学で馴染みのあるデジタル信号処理にしても、フーリエ変換ってやつが正弦波成分と余弦波成分の和で幅を利かせ、周波数スペクトルという概念を与えている。音響組織は、このスペクトルに看取られている。
では、数学の素とされる存在は、どんな音楽を奏でているだろうか。それは、人間の耳で聴きとることのできる音楽であろうか。数学者マーカス・デュ・ソートイは、そんな問い掛けをしてくる...
尚、冨永星訳版(新潮文庫)を手に取る。
ところで、素数の意義とはなんであろう。それより小さな数の積では表せない存在。つまり、あらゆる数は素数の積で表せるってことだ。それは、物理学でいうところの原子のような存在か。あらゆる分子構造は原子の組み合わせでできている。素数の配列は、いわば、原子の周期表のようなものか。素因数分解は多くの物理現象の解析で重要な役割を担い、インターネットの暗号システムも素数なしでは存在し得ない。
ここで、ざっと素なる数を三つ拾ってみよう。
{3, 5, 7} = 357 マグナム = コルト・パイソン
本書は、素数のプログラムを Python で書きたいという気分にさせやがる。おかげで、無矛盾コードの証明で翻弄される羽目に。それは、1オクターブ低い声に酔いしれ、自らのピロートークに翻弄されるに等しい... Q.E.D.
1900年、ダフィット・ヒルベルトは、新たな世紀の始まりを記念してドラマチックな公演を行った。聴衆に向かって、23 にも及ぶ未解決問題を突きつけたのである。まるで、20世紀という時代は、数学ですべての問題が解決できる世紀だ!と宣言したような...
確かに、問題の多くは解決された。しかし、21世紀の今でも取り残された問題がある。例えば、第8問題。それは素数に関するもの。素数が無限に存在することは、ユークリッドの「原論」にエレガントな証明が記される。
しかしながら、どんな風に出現するのか?どんな風に分布しているのか?そこに法則性は?と問うと、まるで見当がつかない。もし、素数の在り方がデタラメな配列だとすれば、単なる雑音ということか。あるいは、最も美しいホワイトノイズということか。素数が美しくも、単純でもないとしたら。いや、最も素である存在がノイズであってはならない。いや、そう信じたい。ただそれだけのことかもしれん。プラトンが、精神の原型であるイデアに完全美を見ようとしたように...
「数学が無矛盾なのだから、神は存在する。それを証明できないのだから、悪魔も存在する。」
... アンドレ・ヴェイユ
1. 篩にかけられた素数
最初に素数を篩にかけたのは、エラトステネスと伝えられる。彼は、指定した数より小さい素数を見つけるための単純なアルゴリズムを編み出した。そう、プログラミング学習の教材でも見かける「エラトステネスの篩」ってやつだ。
では、大きな数の方向に対しての素数の見つけ方はどうであろう。そもそも無限に存在することが分かっているのに、見つける意味があるのか。自然数の最大値は何か?と問うているようなもの。
とはいえ、そこに法則性が発見できなければ、せめて、より大きな素数は何か?と追いかけてみたい。それが、人情というもの。現時点で、人類が編み出した合理的な方法は、GIMPS というプロジェクトに垣間見る。それは、分散型コンピューティングによって、より大きなメルセンヌ素数を探すという試みである。
ちなみに、メルセンヌ数は、こんな形をしている。
2n - 1
この形が素数になる場合があって、その計算のためにインターネットを介して世界中のリソースを総動員するわけである。素数を直接追いかければ、このような人海戦術的な発想にもなろう。
今のところ、51番目のメルセンヌ素数が発見されている模様(2018年時点)。
282,589,933 − 1
一方、素数に新たな風景を見た数学者がいた。ベルンハルト・リーマンは、ゼータ関数を通してその風景を見たとさ。なにかとエイプリルフールの話題とされる数学の難問たち、「リーマン予想」とて例外ではない。
しかし、こいつの証明も叶わないとなれば、人海戦術的な発想に引き戻される。現代数学では、証明においてもコンピュータが大きな役割を果たしている。四色問題しかり、ケプラー予想しかり。人間が苦手とする、しらみつぶし的な方法論によって...
しかしながら、リーマン予想が、そういった類いの問題とは到底思えない。なにしろ、無限に存在するものを相手取るのだから。チューリングマシンにだって苦手な分野がある。それでも、今巷を賑わしている AI(人工知能)ならどうであろう。機械学習より賢そうなディープラーニングならどうであろう。リーマン予想の証明には、人間の能力を超えた証明アルゴリズムが必要なのやもしれん...
2. 素数の風景とゼータ関数の風景
リーマンは、ゼータ関数をこう定義した。
| ζ(s) = | ∞ ∑ n=1 |
1 ns |
こんなやつが、素数とどう関係するというのか。無限級数といえば、巨匠オイラーによる収束や発散の考察を思い浮かべる。オイラーは、調和級数の発散と素数が無限に存在する現象との間に、なんらかの因果関係がありそうな予感を匂わせた。指数関数に虚数を混ぜると三角関数になるというあの有名な公式も見逃せない。
さらに、リーマンは、ゼータ関数に虚数を何の気なしに混ぜてみたところ、素数の新たな展望が開けたという。そして、こんな予想を立てる...
「ζ(s) の自明でないゼロ点 s は、直線 1/2 上に存在する。」
ちなみに、s が負の偶数であれば、ζ(s) = 0 となり、自明なゼロ点は、s = -2, -4, -6, ... となる。
リーマンが注目したのは非自明な方で、その点在ぶりが素数の点在ぶりに重なるというのである。オイラーが調和級数の中におぼろげに見た素数の風景を、リーマンは解を複素数で抽象化することによって、より明確な素数の風景をあぶり出したというわけか。
ここで重要なのは、ゼロ点の存在位置を直線 1/2 上に決定づけていることである。つまり、これを証明するためには、位置を決定づける法則や公式が必要だってことだ。
ハイゼンベルクの不確定性原理によると、量子の位置と運動は同時に決定づけることができないことになっている。
では、ゼロ点の場合はどうであろう。振る舞いは決定づけることができなくても、位置だけでも決定づけることができれば展望が開けそうである。リーマン予想を証明するということは、ゼロ点の存在位置を決定づけることであり、素数の存在位置も決定づけられるかもしれない。ゼータ関数のゼロ点の風景は、素数の風景の投影というわけか。
しかしながら、この風景がどんな音楽を奏でているのか、人類にそれを聴く資格があるのか、まだ予想がつかない。
ところで、実数部の直線上にゼロ点が点在するとは、何を意味しているのだろう。ゼロ点を境界面にしながら、誤差のような余計な存在が奇跡的に相殺しあうとでもいうのか。量子力学ってやつは、真空に仮想粒子なるものを登場させたり、物質の誕生には反物質なるものを登場させたりと、何もない所でも負のエネルギーを登場させては都合よく宇宙を膨張させてしまう。プラスの現象には、マイナスの現象を無理やり登場させて相殺してしまえば、エネルギー保存則に矛盾せず、うまいこと説明がつくという寸法よ。ゼロ点境界面でも、それと似たような現象が起こっているというのか。
ある振幅の音と、それとは真逆の振幅の音がぶつかれば、互いに消し合い、そこに沈黙が生まれる。素数が奏でる音楽とは、崇高な沈黙なのであろうか...
3. ラマヌジャンの見た風景
分割数は、素数ほどデタラメに分布しているようには見えない。
とはいえ、ラマヌジャンが導いた分割数の公式は、なんじゃこりゃ!平方根やら、πやら、虚数やらが三角関数と複雑に絡み合い、微分まで顔を出してやがる。
Dn ときたら、まるで湯上がり気分の王子様気取り...
| P(n) = | 1 π√2 |
∑ 1≤k≤N |
√k | ( | ∑ h mod k |
ωh,k e-2πi(hn/k) | ) | Dn | + O(n-1/4) |
| Dn = | d dn |
{ | ( | cosh | ( | π√(n - 1/24) k |
√(2/3) | ) | - 1 | )/ | √(n - 1/24) | } |
しかも、分割数の増え方は、量子力学や統計力学で分配関数と呼ばれるものに相当し、量子系のエネルギー準位を代弁するような関数だという。
ちなみに、フィボナッチ数にも自然界と不思議な関係が見て取れる。ヒマワリや松ぼっくりの種子の成長、巻貝の螺旋形状、兎の繁殖モデル、等々。フィボナッチ数列は黄金比に収束し、黄金比をもつ相似形には自然美に通ずるものがある。
だからといって、分割数の公式の複雑さは、自然美とは掛け離れ、とても人間業とは思えない。すると、デタラメ度からいって素数の公式は、もっと複雑になるというのか。やはり人間を超えた能力でなければ...
ところで、ラマヌジャンが示した無限和は、素人目にも驚異的である。
| 1 + 2 + 3 + … + n + … = - | 1 12 |
自然数の総和が、マイナスの分数に収束するというのだから、当初、奇人変人として相手にされなかったのも頷ける。これを変形すると...
| 1 + | 1 2-1 |
+ | 1 3-1 |
+ … | 1 n-1 |
+ … = - | 1 12 |
なんと、ゼータ関数に -1 を入れた時の答えだ。これを発見したラマヌジャンの経歴も驚異的である。なにしろ、ヒンドゥー教の事務員からの転身だ。これも突然変異がもたらした自然美の一つであろうか...
2020-09-13
"代替医療解剖" Simon Singh & Edzard Ernst 著
著者サイモン・シンと翻訳者青木薫のコンビに触れるのは久しぶりで、「フェルマーの最終定理」、「暗号解読」、「宇宙創成」に続いて四冊目。共著者に名を連ねるエツァート・エルンストは、彼自身が代替医療に従事し、様々な治療法の有効性と安全性を検証してきた第一人者だそうな。
尚、「代替医療解剖」は、文庫版に際して「代替医療のトリック」から改題されている。「トリック」ってやると皮肉めいたものを予感させるが、「解剖」ってやると真実に寄り添う姿勢が感じられる。中身は、露骨なほどに皮肉が効いているけど。原題 "Trick or Treatment ?" らしく...
この物語は、二千年以上前、エーゲ海に浮かぶ島コスに生を受けたある人物の警句を指針にしているという。それは、医聖ヒポクラテスの言葉...
「科学と意見という二つのものがある。前者は知識を生み、後者は無知を生む。」
科学は、真実について客観的なコンセンサスを得るために、実験や観察を繰り返し、議論を交える。一度結論に達してもなお、見逃している点はないか、間違いがありはしないか、とほじくり返し、自分自身の主張にも疑いの目を向ける。その意味では、自虐的な一面を曝け出すことに...
意見ってやつは、多数派に流されやすい。名声や権威ある者の意見なら尚更。主流派に逆らえば、理不尽な攻撃を喰らう。それは、医学界に限ったことではない。大衆社会では、最も宣伝のうまい者の意見が猛威を振るう。それだけに健全な懐疑心を保つには、よほどの修行がいる。本書には、「科学的根拠にもとづく医療」という言葉がちりばめられる...
ところで、医学は科学であろうか。いや、科学だ。間違いなく。いや、おそらく。では、医学に寄り添う医療はどうであろう。科学にも限界がある。けして万能ではない。少なくとも人類の知識では...
医療の現場では、しばしば身体の病よりも精神の病の方が手ごわい。しばしば医師の言葉よりも看護師の言動の方が頼りになる。
代替医療は、より正確に書くと「補完代替医療」となる。通常医療を補完する治療法ならば、それほど目くじらを立てることもあるまい。
しかし現実には、完全に独立した形で施術されるケースがあまりに多い。医師の意見を無視して併用したり、完全に通常医療に取って代わったりと。しかも、代替医療業界は、いまやグローバル産業に成長した。本書は、代替医療を「主流派の医師の大半が受け入れていない治療法」と定義し、何百万もの患者が、あてにならない治療法に金を使っている状況に苦言を呈す...
とはいえ、主流派の医師にも問題はあろう。そもそも、なぜ代替医療に駆け込むのか。通常医療に不満を抱く患者も少なくない。言いつけを守らないと、まるで罪人扱い。権威的で... 強制的で... 他の病気になりそう... そんな医師も少なくない。セカンドオピニオンといっても、なかなか言いづらい空気がある。そして、もういい!他の病院に行く!ってなる。言いやすい医師ほど、セカンドオピニオンなんて用語はあまり必要あるまい。すすんで別の病院や優秀な専門医を紹介してくれる医師もいるし、セカンドオピニオンによって横の繋がりを歓迎する医師もいる。
病は気から... とも言うが、人間精神において、気休めの占める領域は意外と大きい。プラセボ効果だって侮れるものではない。
ちなみに、うちの婆ぁやときたらジェネリック薬に拒否反応を示す。その薬のせいか分からないが、一度気分が悪くなって、ジェネリックと聞いただけでアレルギーときた。入院すると、国が奨励しているらしく、ジェネリック薬を強制されるので、病院にいるとかえって精神を病むから頭が痛い。おいらの場合は逆に、なるべくジェネリックを選択するようにしている。安ければ...
医者にかかれば、なにかと薬漬けにされる昨今、やはり気分の問題は大きい。合理性には、精神的合理性と物理的合理性があり、あとは使い分けるだけのこと。結局は、自己満足ってことか。自己陶酔ほど心地よい精神状態もなかろうて。
また、病気ってやつは、医師が一方的に患者を治してあげるというものでもあるまい。医師と患者が協力して立ち向かっていくものであろう。そこで、本音で語り合える主治医に出会えることを願うが、それにはちょいと運がいる...
1. 主要な四つの代替医療
本書は、主要な代替医療として、鍼治療、ホメオパシー、カイロプラクティック、ハーブ療法の四つに焦点を合わせ、付録では、三十以上もの治療法について外観させてくれる。
鍼治療...
古代思想を受け継ぎ、生命力の源泉とされた気の流れに応じた治療法。気の流れは体内の決まった経路を通り、これに沿って点在する経穴、すなわち、ツボを刺激することによって、気の流れを妨げているものを取り除く。古代の入れ墨でも、この経路に沿って掘られたという説を聞いたことがある。古代医学の気の流れは、近代医学の血液の流れと重なる。実際、瀉血があらゆる病気の治療法として用いられた時代がある。古代ギリシアから中世ヨーロッパに至るまで。ただ、おいらは鍼が恐い!
ホメオパシー...
同質療法とも呼ばれ、「類が類を治療する」という原理を利用する治療法。病気の原因となる物質が治療にも役立つという考えは、体内で抗体を形成するプロセスとも重なる。
カイロプラクティック...
脊椎を手で調整(アジャスト)して、腰痛の治療を行う。脊椎に与えた刺激は、神経系統を介して身体全体に渡り、今では、喘息をはじめ、どんな病気にも有効だとする医者が多数いるという。イギリスでは、主に腰痛や頚部痛の治療法として医療システムに組み込まれているとか。
ハーブ療法...
植物や植物エキスを用いる治療法。各地域に生息する植物と結びつき、最も古い歴史を持つとされる。おいらには、治療法というより健康法というイメージが強いが、どんな病気や予防にも効くと過大宣伝されるケースも見かける。
これら四つの代替医療は、それぞれに原理はもっともらしく、まだ良心的な方であろう。本書は、いずれの治療法にも、「プラセボ」が大きな役割を果たしているとしている。
とはいえ、人間にとってこれが一番効果がありそうな気がする。深刻な病でない限り。人間は感情の動物だ。主治医の言葉にしても、治療法を理解した上で任せているというよりは、医師を信じて任せている。科学的根拠と言われても、無知者は信じるほかはない。
例えば、地球が丸い!地球は太陽の周りを回っている!なんて常識とされる知識も学校で教わっただけのことで、自分自身で確かめたわけではない。ほとんどの知識が、信じるか、信じないか、で成り立っている。少なくとも、この酔いどれ天の邪鬼の場合は...
付録に目を向けると、胡散臭いものが勢揃い。おいらがよく利用するものでは、リラクゼーション、リンパドレナージュ、リフレクソロジー(足つぼ)、マッサージ療法といったところ。もっとも医療という意識はない。単なる気分転換。仕事で膠着状態にある思考回路を揉みほぐしてやるために。その意味では、バーに行ったり、バーバー(理髪店)に行ったりするのと同じ感覚。いくらなんでも、マッサージ師に癌を治してくれ!などとは言えまい。
しかしながら、藁にもすがる思い... という患者も少なくない。科学的に証明されてからでは遅すぎるという深刻な患者が。だから、現時点で科学的に立証できていなくても、近い将来、立証されそうな予感のする代替医療に縋る。だからこそ、本音で語り合える主治医が必要なのだ。
ちなみに、本書でも挙げられるサプリメントや漢方薬だが、これらを嫌う医者は多い。いや、勧める医師を見かけたことがない。西洋医学の立場では、そうなるのだろう。自然治癒を信条とする医師なら見かけたことがある。本人が病気になっても、絶対に痛み止めを飲まないそうな。痛みを感じるのは治癒に向かっている証拠で、自然治癒こそが最高の治療法というわけである。さすがに患者には処方するらしいけど...
他人から見れば、詐欺にあっているようでも、本人にしてみれば、安心を買っているということがある。宗教もその類い。お布施を捧げたから、今の災厄で済んでいると信じている人も少なくない。お布施を捧げなかったら、もっと酷い災厄にあっているはずだと。それで慰められるなら、これも見返りの原理というものか...
2. 臨床試験における客観性の壁
臨床試験の現場に目を向けると、客観性の壁にぶち当たる。そもそも、一人の患者で、一つの薬を投与するかしないか、一つの治療法を施すかしないか、ということができない。となれば、ある程度似たような症状の患者を集めて、同じ条件で試験をし、多くのサンプルを集めるしかあるまい。
しかしながら、同じ条件というのが、なかなかの曲者!条件設定をするのは観察者であり、それによって得られた統計情報は解釈の余地を与える。ベンジャミン・ディズレーリは言った... 嘘には三種類ある。嘘と大嘘、そして統計である... と。
著名人あたりが、この薬が効きました!などと、ちょいと吹聴すれば、製薬会社はたちまち大儲け、ヘタをすれば政治利用される。もっとも本人は利用されているなどとは思いも寄らない。人間の性癖の一つに、自分が良い目に遭うと、他人に喋りたくて勧めたくなる、という衝動がある。布教の心理学とでも言おうか...
本書は、「ランダム化プラセボ対照二重盲検法」という用語を持ち出す。盲検法では、患者に薬や治療法を伝えすに試験をやることによって、患者側の意識バイアスを抑制する。さらに二重盲検法では、医師にも伝えず、観察者側の意識バイアスも抑制する。しかもランダムで。こうした多重条件下で、プラセボに対処している臨床試験の現場を紹介してくれる。
3. 瀉血と四体液説
瀉血は、四体液説によく馴染んだ治療法である。四体液説では、人体に「血液、黄胆汁、黒胆汁、粘液」の四種類の体液が存在するとし、それぞれの性質と病理を関連づける。今日でも、四体液説のなごりを耳にする。あの人は、多血質でほがらかだとか、胆汁質でかんしゃくもちだとか、黒胆質で憂鬱症だとか、粘液質で無気力だとか。血気盛んという言い方も、その類いであろうか...
古代ギリシアの医師たちは、血液が体内を循環していることを知らず、病気になるのは血液がよどむためだと信じていたという。そこで、よどんだ血を取り除くことを主張し、病気に応じて方法論まで提示したとか。肝臓の病気には右手の血管を切り、脾臓の病気には左手の血管を切るといった具合に。
中世には、瀉血を受けられるほど裕福な患者は、修道士にその処理してもらったとか。1163年、ローマ教皇アレクサンデル三世は、修道士がこの血なまぐさい処置に携わることを禁止し、代わりに床屋が瀉血をやるようになったという。瀉血用の医療器具も進歩し、医療用ヒルまでも用いられる。ヒルは高額で売買され、市場を賑わしたとさ...
そういえば、理髪店の看板が赤白の縞模様で螺旋状に回転するのは、外科医の役割を果たしていた名残りとも言われるが、瀉血をやっていたことと関係があるらしい。赤は血液、白は止血のための包帯、円柱のてっぺんにある球は、真鍮製のヒル盥、そして、円筒自体は血液の循環を促すために患者に握らせた棒の象徴だとか...
ちなみに、アメリカ合衆国の建国の父とも言われるジョージ・ワシントンが瀉血で亡くなったとは知らなんだ。もともと持病があったようだけど。最初は風邪らしき症状で瀉血をし、さらに苦しみがるので瀉血を繰り返し、1リットルもの血を抜いたとか。偉大な人物の死は、伝統的に崇められてきた治療法に対して、医師たちが疑問を呈すきっかけになったとさ...
歴史は皮肉なもので、医者にかかれる裕福な人よりも、医者にかかれない人の方が死亡率が低い時代があったようである。瀉血が人口制限に一役買っていたのかは知らんが、ヴォルテールはこう書いたという...
「医師というのは、ろくに知りもしない薬を処方し、薬よりもいっそうよく知らない病気の治療にあたり、患者である人間については何も知らない連中である。」
4. 英皇太子に捧ぐ...
ところで、表紙の扉を開くと、いきなり意味ありげなフレーズが飛び込んでくる。「チャールズ皇太子に捧ぐ」と...
いち早く代替医療に関心を寄せた英皇太子は、通常医療との協力を奨励して「統合医療財団」を設立したという。科学ジャーナリストとして知られるサイモン・シンは、科学的根拠の示されない治療法に対して懐疑的な立場。実際、代替医療と呼ばれるあらゆる治療法に、多くの医師が疑いの目を向けている。
2008年、サイモン・シンは英国カイロプラクティック協会に名誉毀損で訴えられた。そう、本書が扱う四つの代替医療の一つだ。批判の矛先は、WHO や MHRA(英国の医薬品・医療製品規制庁)にも向けられる。翻訳者が改題したのも、こうした背景があったからであろうか...
ちなみに、イギリスでは、こうしたケースで名誉毀損で訴えられると、まず勝ち目がないという事情があったそうな。今は知らんが。国際的な団体や企業が事実上の口封じのために、イギリスを裁判地に選ぶことがよくあったとか。今は知らんが。国際司法界で噂される「名誉毀損ツーリズム(Libel Tourism)」ってやつか。自分に有利な判決が下される見通しのある外国の裁判所を探し回っては、そこに提訴するって寸法よ。
案の定、サイモン・シンは裁判に負け、裁判費用の負担ばかりか、多大な時間とエネルギーまでも奪われたという。しかし、科学者やジャーナリストたちが立ち上がり、これにコメディアンや芸能人なども加わって、カイロプラクティックを誇大宣伝するウェブサイトの摘発キャンペーンを展開。カイロプラクティック協会は、会員にサイトを閉鎖するよう通達したメールまでもリークされ、2010年に訴訟を取り下げたとさ...
2020-09-06
"リア王" William Shakespeare 著
かの四大悲劇を、ハムレットの復讐劇、マクベスの野望劇、オセローの嫉妬劇と渡り歩けば、トリは老王の狂乱劇ときた。やはり歳は、トリたくないもんだ。
シェイクスピアに魅せられると、人生ってやつがいかに悲劇の連続であるか、そして、道化を伴わず生きてゆくことの難しさ、そんなことを再認識させられる。老いてゆくには、苦難を笑う奥義を会得せねば...
尚、福田恆存訳版(新潮文庫)を手に取る。
「年寄りになるのは、智慧を貯めてから後の事にして貰いたいものだね。」
四大悲劇の魅力といえば、なんといっても道化が登場するところ。真理を語らせるには、この世から距離を置くものの言葉が説得力を持つ。人間が語ったところで、言葉を安っぽくさせるのがオチよ。
ハムレットとマクベスは、この世のものとは思えぬ存在に操られ、オセローは現世を生きる安っぽい存在にしてやられた。道化は至るところで姿を変え、もはや、この世のものやら、あの世のものやら。
そして、道化の最高峰の作品が、この「リア王」。ここでは、現世を生きる道化役が堂々と道化を名乗る... この身はリアではない。こんな惨めな人間が俺であるはずがない。お前は誰だ。俺をよく知る者か。おいらはアホウ。爺様の影法師さ!... と。
人生なんてもんは、道化を演じながら生きているぐらいなものかもしれん。猿の仮面をかぶれば猿に、武士の仮面をかぶれば武士に、エリートの仮面をかぶればエリートに、サラリーマンの仮面をかぶればサラリーマンになりきる。あとは、幸運であれば素直に波に乗り、不運であれば生きる糧とし、いかに達者を演じてゆくか。
そして気づく。自我を救う唯一の道が、狂気であることを。悲劇とは、まさに劇薬。それは滑稽劇のことを言う...
「然り、その通り、お前さん、結構いい道化になれるぜ。」
さて、この滑稽劇の筋書きを綴ろうとすると、道化のヤツが熱くさせやがる。こいつは、シェイクスピアの分身か...
まず、ブリテン王リアは、二人の客、フランス王とバーガンディ公爵を招いて宣言する。三人の娘に領土を譲って引退し、最も孝心の厚い娘に最大の恩恵を与えると。老リアは、長女ゴネリルと次女リーガンのえげつない甘言を大いに喜ぶが、末娘コーディーリアの実直な言葉に激怒する。「愛情は舌よりも重い」とコーディーリアが沈黙すると、「無から生じるものは無だけだぞ!」とリアは言い放ち、勘当したのだった。フランス王とバーガンディ公爵は、コーディーリアを嫁に迎えようと競っていたが、勘当の身となれば持参金もなく、バーガンディ公爵は辞退し、フランス王はそれでも連れ帰る。
そして、王の権力と財産のすべてが二人の姉に渡った時、老王はますます老いていったとさ...
道化が歌う...
「親爺ぼろ着りゃ、子は見て見ぬ振り
親爺財布持ちゃ、子は猫かぶり
運の女神は、名うての女郎
銭の無いのにゃ、何で戸を開けよう」
長女ゴネリルがやってくると、道化が愚痴をこぼす...
「こいつは驚いた、お前さんと娘共とは一体どういう血の繋がりがあるのかね、あの連中は俺が本当を言うと鞭をくれる、お前さんの方は嘘をつくと鞭だという、そうかと思えば、時には、黙っているからといって打たれる事もあるがね。つくづく思うよ、何になるにしても、道化だけはなるものではないね、といって、お前さんになるのも御免だよ、おっさん、お前さんという人は自分の智慧を両端から削って行って、中身が何も残らなくしてしまった人だね。それ、そこに、削り落しの一かけらがやってくる。」
老王は娘たちに放り出され、道化とともに荒野をさまよう。
「墓の中にいたほうが、まだしも楽であろう... 人間、外から附けた物を剥がしてしまえば、皆、貴様と同じ哀れな二足獣に過ぎぬ。」
ここで重要な役割を演じるのが、忠臣ケント伯爵。彼はコーディーリアをかばって共に追放されるが、風貌を変えて別人を装い、老リアに再び仕える。だが、老いぼれには、ケントの忠節さえも救いにならないと見える。そして、リアの家来というだけで足枷を嵌められると、道化の解説付きという親切ぶり...
「は、は、は!ひどい脚絆があったものだ。生き物を繋ぐには急所があって、馬は頭、犬や熊は首、猿は腰、人間ならば脚と相場が決っている。殊にあちこちほっつき歩いて脚を使い過ぎると、必ず木製の靴下を穿かされるものさ。」
おまけに、リア王親子を投影するかのように、グロスター伯爵親子の滑稽劇を物語るという二重仕立て...
グロスター伯爵の庶子エドマンドは、父を奸計に陥れてグロスター伯爵の嫡子エドガーを勘当させ、領地を相続する。エドマンドは、次女リーガンの夫コンウォール公爵の目に留まり、召し抱えられる。グロスターは、リアの身を他人事とは思えず補助したために、リーガンの命で両目を抉られる。
そして、放り出されたグロスターは、自ら勘当したエドガーと、なんの因果か再会することに。愚かな盲目の父と、父の生贄になった乞食とは、妙に気が合うらしい。
「誰が言えよう、俺も今がどん底だ、などと... どん底などであるものか、自分から、これがどん底だ、と言っていられる間は。」
エドガーは、ドーヴァーの崖に父を連れ、その自然の景色を描写して聞かせる。盲目の絶望を弄ぶかのように。
父グロスターの思いは、この場で飛び降りて、死なせてくれ!といったところ。そこに、狂った老リアが合流する。
「今は末世だ、気違いが目くらの手を引く。」
老リアは愚かだ。そして、狂った。狂ったがために、王位という虚飾の中に人間存在の虚飾を見た。狂気とは、愚かの進化形か。
グロスター伯も愚かだ。そして、盲目にされた。盲目になったがために、真の人間存在を見た。盲目もまた、愚かの進化形か。
神は、狂人にしかまともな世界を与えんのか。盲人にしか真理を見せんのか...
「人間が虫けらの様に思われて来た... いわば気まぐれな悪戯児の目に留まった夏の虫、それこそ、神々の目に映じた吾らの姿であろう、神々はただ天上の退屈凌ぎに、人を殺してみるだけの事だ。」
ところで、この物語で踊らされているのは、男か、女か。実行犯は、ことごとく男ども。父を放り出すのが娘たちの夫ならば、グロスター伯爵の目をえぐるのも次女の夫。老リアが孤立した知らせを受けてフランス軍をドーヴァーへ派遣するのも、フランス王妃となった末娘の進言。男性社会などと息巻いている男どもをからかうかのように...
結局、フランス軍はエドマンド率いるブリテン軍に敗れ、リアとコーディーリアは捕らえられる。ゴネリルとリーガンは、夫そっちのけでエドマンドの男っぷりに惹かれる。ゴネリルは、あの人の事で妹に負ける位なら... と、リーガンを毒殺。わたくしが法よ...
そして、ゴネリルも自ら胸を刺して命を絶つ。こんなえげつない女がなんで自ら。女心は男には永遠に分からんだろう。エドマンドは二人の姉と誓い合った男。死者二人と婚礼を挙げりゃいい... とでも。
ゴネリルとリーガンの遺体が揃って運び入れられると、そこに、コーディーリアの遺体を抱いた老リアが入ってくる。コーディーリアは、獄中で絞め殺されたのだった。ついに老いぼれは、絶望のうちに死ぬ。
こうして、老リアと三人の娘は、死者となって再会したとさ...
最後に、ちと脱線するが... いや、筋書きだって結構脱線してるけど...
「リア王」をモチーフにした黒澤映画「乱」について、ちょっぴり触れてみたい。設定を日本の戦国時代に移し替え、王女三姉妹の代わりに武将三兄弟を登場させた物語である。そして、シェイクスピアが乗り移ったような台詞を道化に吐かせる。
「こいつはめでたい!狂った今の世で気が狂うなら気は確かだ!」
"In a mad world, only the mad are sane!"
本書の中にも、これに近い台詞を見つけることができなくはないが、これといって特定することは難しい。原文を読んだわけではないので何とも言えないが、むしろ、あちこちに散りばめられた道化の台詞を一言で表現すると、こうなりそうな。あの世で、シェイクスピアが黒澤明に座布団一枚!なんて言ってそうな。もしかしたら、シェイクスピアが他の場所で似たような言葉を漏らしたのかもしれないが、いや、乗り移ったような...
それにしても、道化の台詞を追っかけるだけで哲学できちまうんだから、おいらはイチコロよ...
「何と王様、狂うたか、アホウを相手に、いない - いない - ばあ」
「智慧の無い奴は、狂わぬうちに...」
「頭を突込む家を持つためには、まずその前に頭を持つ事だ。」
「逃げたヤクザは、アホウになるが、アホウは決して、ヤクザにゃならぬ...」
