いつも脇役を演じ、存在感も薄く、それでいて、すこぶる頼りになるヤツらがいる。百科事典に広辞苑、英和辞典に漢和辞典、科学用語事典に IT 用語辞典... 義務教育時代から書棚にのさばる国語辞典ときたら、いまだ現役だ。
そして媒体は、リアルな紙からバーチャルな電子機器へ。パピルスが発明された時代も、一大革命であったことだろう。紙面の活字にしても光と呼ばれる電磁波を介して見ているわけで、電子を媒介することに変わりはないのだけど、ネット媒体におけるサービスの可能性には目を見張るものがある。いまやグルグル翻訳の多言語ぶりは百を超え、ウィキウィキ百科のボランティア記事は勢いを増すばかり。
ボキャブラリー貧困層の酔いどれときたら、類語や対義語を集めたシソーラスは必要不可欠だし、OED に病みつきだし、古典を読む時には、手書き入力の漢字認識や新旧漢字の対照表にもお世話になりっぱなし... たまには、彼らに感謝の意を込め、辞書で愉楽に浸ってみるのも悪くない。
ところで、「愉楽」という文字をちょいと観察してみると、「愉」は、りっしんべんの「心」と旧字体の「兪」に分解できる。旧字体の方が心が踊っているようで、まさに愉快!そこが象形文字のいいところだけど、合理化の波には勝てないと見える。
「愉」を「楽しむ」ついでに、「湯楽」には純米酒がつきもの。毎年改版される名酒辞典にも粗相があってはなるまい...
辞書といっても、堅苦しいものばかりではない。本書は、マニアックなものも持ち出して言葉遊びを仕掛けてくる。日本方言大辞典に日本民俗大辞典、将棋戦法大事典に... 競馬ファンなら当たり前の種牡馬辞典ってのもあるらしい。そこには、辞書にまつわる 81 篇ものエッセイが掲載、いや、駄洒落挿話が満載...
辞書を編むとは、言葉を編みだすことであろうか。言葉を新たに知ると、すぐに使ってみたくなる。そして、文章のバランスを欠き、ついには壊してしまう。それは、プログラムを書くのでも同じ。新たな技を覚えると、無理やりにでも使ってみたくなるもので、まさに子供心に看取られた証。
こうしたささやかな失敗の積み重ねが、言語センスを磨いていくのであろう。どうせやっても同じ!と考えるようになったら、脂ぎった大人心に見切られた証。
試行しなくなったら、思考もしなくなる。せめて言葉と戯れていたい。そして、言葉遊びは、語呂合わせとなり、駄洒落に走る。それも老害心に蝕まれた証。
だとしても、言葉には救われるよ...
様々な方面で編み出される専門用語は、夜の社交場でも教えられる。ちなみに、恋愛の達人と称すお嬢には、「愛」と「恋」では心の在り方が違うと教えられた。「愛」は心が真ん中にあるから真心がこもり、「恋」は心が下にあるから下心が見え見えなんだそうな。言葉遊びで、心変わりも見て取れるというわけである。そういえば、ある男性が向こう隣のボックスでチェンジ!チェンジ!と叫んでいたが、この専門用語の意味は未だに分からん...
1. ナナカンオウ vs. シチカンオウ
著者には棋士羽生善治氏との共著もあって、史上初の七冠王が誕生した時のエピソードを紹介してくれる。そこで、「七冠王」の読み方は?という話題になる。なにしろ、この世に初お目見えの用語だ。「三冠王」なら、野球のみならず見かけるけど。
おいらは「ナナカンオウ」と読むのが普通だと思っていたが、国語の専門家の間では「シチカンオウ」とする意見が圧倒的に多いようだ。近年、永世七冠に、囲碁界にも七冠が誕生したが、相変わらず「ナナカン」と読まれる。新語というものは、最初に編み出した時のインパクトで、そのまま定着してしまうところがある。某国営放送が発表すれば尚更。
学術用語や専門用語にも、最初に翻訳した偉い学者の用語が定着しているケースは多い。中には違和感のあるものもあり、無理やり日本語にする必要があるのか、と思うことも。言葉には民主主義的な性質があり、意味にせよ、読み方にせよ、圧倒的多数が支持すれば、そのように変化してしまう。要するに、言葉は文法や規則に縛られるものではなく、言い方であり、使い方なのであろう...
2. ポチ vs. pooch
犬の愛称でお馴染みの「ポチ」。英語にも "pooch" という語があるらしい。グルグル翻訳機にかけると、「犬」とでる。そこで、ポチと pooch の語源は同じか?という話題になって、辞書めぐりを始める。
pooch は、特に雑種をいい、血統書付きではなく、駄犬を指すらしい。"butch" なら、そんなイメージも湧くけど、トムとジェリーの見すぎか。どちらも、小さいという意味が含まれ、チビのニュアンスを与えるらしい。pooch からポチを連想する話題は、なかなか!
しかし、語源となると、pooch から ポチが生まれたとは考えにくい。そして、二葉亭四迷の小説「平凡」を紹介してくれる。どうやら、愛犬ポチのことを綴ったものらしい。とりあえず、ToDo リストにエントリしておこう。酔いどれは暗示にかかりやすいのだ...
3. キツネ vs. タヌキ
うどんや蕎麦にキツネとタヌキがあるが、女の顔もキツネ顔とタヌキ顔で分類されるという。著者は、真夜中に奥方を起こして、キツネ蕎麦が喰いたいと言うと、油揚げがないからできません!と、タヌキ顔の奥方に素っ気ない応対を喰らったとさ。
うどんでは、キツネの方はネタがはっきりしているが、タヌキの方は地方によって様々なようである。
そういえば、男の顔もソース顔としょうゆ顔で分類される。いや、ケチャップ顔やマヨネーズ顔、塩顔なんてのも。女はキツネとタヌキの化かし合い、その脇で男は調味料を演じているわけか。人間社会の主役は、やはり女の方らしい。せめて男は、辞書の役を演じたいものである。影が薄くても...
4. 名言 vs. 豪語
辞書にまつわる名言を見かける。いや、豪語か!
ナポレオンの名言に「余の辞書に不可能という文字はない。」というのがあるが、そんな辞書は役に立ちそうな気がしない。ナポレオンの豪語も強烈だが、ヘミングウェイの豪語もなかなか...
「もし作家が辞書を必要とするなら、書くべきではないのです。その辞書を少なくとも三度は読破して、とっくに誰かに貸してあって当然でしょう。」
そういうヘミングウェイ自身は、よく綴りを間違えたらしい。実行するかどうかは別にしても、作家なら辞書を丸ごと記憶するぐらいの意気込みがいるというわけか。小説を書くということは、そのぐらいの凄みが必要なのであろう。酔いどれには、ささやかにつぶやくのが関の山よ...
Contents
- 2020-12-06 "辞書を読む愉楽" 柳瀬尚紀 著
- 2020-11-29 "翻訳困りっ話" 柳瀬尚紀 著
- 2020-11-22 WUuu... の呪い、WMP 蜂に刺され、ご愁傷様です!
- 2020-11-15 "迷い鳥たち" Rabindranath Tagore 著
- 2020-11-08 "ガンディーとタゴール" 森本達雄 著
- 2020-11-01 初体験!国勢調査員... デジタル後進国のお祭りか!
- 2020-10-25 "獄中からの手紙" Mohandas Karamchand Gandhi 著
- 2020-10-18 "タゴール詩集 ギーターンジャリ" Rabindranath Tagore 著
- 2020-10-11 "現象学的心理学の系譜 人間科学としての心理学" Amedeo Giorgi 著
- 2020-10-04 "小説神髄" 坪内逍遙 著
2020-12-06
"辞書を読む愉楽" 柳瀬尚紀 著
2020-11-29
"翻訳困りっ話" 柳瀬尚紀 著
小雨ちらつく中、虚ろな気分で古本屋を散歩していると、ちょいと気の利いた題目に出逢った。ん~... 翻訳家の方々には、いつもお世話になっております!
海外の小説や詩を味わおうとすれば、語学力の乏しいおいらには翻訳家の存在が欠かせない。期待するのは、語の翻訳もそうだけど、むしろ、文化の翻訳、心の翻訳である。芸術作品ともなると意訳はつきものだが、その案配が難しい。作者がさりげなく演出した行間までも読ませるように翻訳するのは至難の業。言葉で補足するのでは芸がない。原文から離れてダラダラ文章になるのでは、作品を壊してしまう。美しい文調に、語学的な説明は無用だ。
センスのいい翻訳家に出逢えるのは、読者のみならず、原作者にとっても幸せであろう。シェイクスピアの作品ともなると翻訳家が群がり、腕を競い合う。異なる翻訳家で味わうのも一献!原作者と翻訳家が同時代を生きていれば、うまい翻訳文を原本の改訂版に盛り込むといったケースもある。そうなると、共同制作者。原酒に酔い痴れれば、モルトもブレンデッドも自在に味わえるという寸法よ。
時には、日本語にない日本語を編み出し、日本語の在り方までも問い掛けてくる。翻訳語に酔い痴れれば、日本語が翻訳語に毒されていくは必定。おいらは、純粋な日本語なんぞ知らんよ。
やはり、言語は手ごわい。なにしろ精神の投影なのだから。言語システムを、方程式のように置き換えることは不可能。なにしろ精神ほど得体の知れない存在はないのだから。母国語ですら語彙の解釈を巡っては、人それぞれ。客観性を帯びた専門用語ですら、微妙にニュアンスが違ったり、時代とともに変化したりする。それで会話やコミュニケーションが成り立つのだから、人間社会は摩訶不思議。いや、成り立っていると信じ込んでいるだけのことかもしれん。翻訳家は、人間の多様性を相手取る厄介な仕事の一つ。文学というより、心理学や精神医学の領域に近い。まさに、困りっぱなし!の世界というわけか。
しかし、困ったものである。人の困っているのを見ると愉快になるのだから...
著者は「翻訳恥書きっ話」というタイトルも提案している。ん~... こいつも捨てがたい。
翻訳文は、厳しい評論や批判に晒される。それも当然だろう。下手な翻訳は作品を壊す。くだらん作品なら見捨てればいいが、名作を壊されてはかなわん。
翻訳家は、対象の外国語はもちろん、母国語のセンスが大いに問われる。言語システムを超越した普遍的な、メタ言語的な感覚も必要であろう。ゲーテやタゴールのような美しい旋律を奏でる文体には、翻訳語にも乗り移る何かかがあると見える。
ところで、言葉センスを曝け出して生きてゆく仕事とは、いかなるものであろう。口は災いの元というが、一旦言葉にすれば恥がつきまとう。太宰小説ではないが... 恥の多い生涯を送って来ました... となりそうな。まさに、恥かきっぱなし!の世界というわけか。よほどの言葉好きでもないと、やってられんだろう。実際、本書は言葉遊びのオンパレード。言葉遊びの基本は、語呂合わせであり、なんといっても駄洒落だ。笑いネタに困れば、駄洒落をかます。西洋語の語呂合わせを日本語に翻訳するとなると、よほどの駄洒落センスが問われる。アリス物語ともなると、語呂合わせも芸術の域!翻訳者の仕掛けに、おいらはイチコロよ...
おびただしい活字の氾濫する昨今、言葉との戯れ方にも凝ってみたい。こういう試みを「文字遊びの四重奏」というそうな。「も」じあそびに「じ」たばたと「あ」がいたり、「そ」そられたり、「び」っくりしたり...
しかし、だ。これが困りっぱなしの文章か!翻訳家が駄洒落にご執心とくれば、やはり困ったちゃん。読み物だから面白いけど、会話で使えばドン引き!トートロジックな駄洒落じゃ、言い訳もできん。
「正気の沙汰か」に「将棋の沙汰か」を当てれば、「啓蒙的な」に「軽妄的な」翻訳談義を当てつける。
「翻訳は駒落ちで指してもらわなければ歯が立たないような相手なら、対局を断るのが礼儀というものだ。大駒は近づけて受けよ、大作は近づいて受けよ、大作でないにしろ厄介な作品ならば、自分がその作品にどの程度近づくことができるかを見極めてから、注文を受けるべきだ。そうしないから、桂馬の高飛び歩のえじきというようなみじめなことになる。本人はいいつもりでも、作品がみじめだ。」
ドナルド・バーセルミの小説 "The Dead Father" に、「死父」という日本語にない用語を当てたことには自画自賛。翻訳とは、辞書では足りない言葉を探す仕事といわけか。暗示にかかりやすいおいらは、即、ToDo リストに追加しちまう。
「翻訳困立破無氏」の草稿もなかなか。
「翻訳」という性と、「困立破無(こまりっぱなし)」という名を持つ人物は、劇団「翻訳の世界」所属の道化厄者で、十二ヶ月で逝っちまったとさ...
「氏は生活がプロである人間を尊敬し、生活がプロであるべき人間がプロらしからなぬ仕業をすることに腹を立て、プロでない人間がプロであるがごとき顔をすることに唾さえひっかけなかった。」
猫とじゃれながら洒落た筆を走らせ、私生活までも見えてきそうな書きっぷり。困りっぱなしも、一皮むけると自己陶酔というわけか。しかし、読者の方は、自己に酔うだけでは足りない。君に酔ってんだよ、とピロートークでもかますか。そして、自己陶酔に浸る。
ん... 実にくだらん!でも、おもしろい!だから言葉遊びなのだ。くだらないことに目くじらを立てていては、遊びは成立しない。脇をくすぐる領域で、くだらん人生、くだらん笑いで、愉快にゆきたいもんだ...
ちなみに、あるバーテンダーが能書きを垂れていた... 「酒に落ちる」と書いて「お洒落」... と。棒が一本足らんよ。
「卒業証書は社会には保証の幻を、証書所有者には権利の幻を与えます。証書所有者は公式に知識があると見なされます。そして、いっときの、全く便宜にすぎない学識を証明するこの書類を一生大事に持ちつづけます。他方、法に基づいて卒業証書所有者なるこの人間は、世間は自分に負い目があると信じるようにしむけられます。例えば、原著者のものを読む代わりに、要約、便覧、奇妙奇天烈な学識の錠剤の使用、すっかり出来上がった問題と解答の集成、抜萃その他かずかずの嫌悪すべきものが持って来られるのが見られるようになったのは、卒業証書を考えればこそです。その結果、こういう贋造された教養に属するものは、もう一つも、発達してゆく精神の生命に援助を与えることも、適合することもできないのです。」
... ヴァレリー「知力の決算書」(寺田透訳)より
2020-11-22
WUuu... の呪い、WMP 蜂に刺され、ご愁傷様です!
やっと縁が切れた... とホットできるヤツがいる...
ソフトウェアってやつは、愛着があって使い続ける分にはいいが、仕方なく惰性的に使っているものもある。ある種の依存症だ。しかも、標準という地位にあぐらをかき、デスクトップ内で奇妙な権威を持ち続ける。
例えば、Edge は最初から眼中にないにしても、IE は未だ縁が切れないでいる。金融系サイトでは、IE + Java でないと、まともに閲覧できないページもあるし... おいらのデスクトップは、亡霊どもの安住の地か!
そんな腐れ縁も、WUuu... の呪いが、断ち切るきっかけになってくれるとは... 恨まれっ子も捨てたもんじゃない。
ちなみに、WUuu... とは、Windows Update の略で、重低音でうなるように発声する。うぅぅ~...
1. 今回、縁が切れたのは、WMP(Windows Media Player)...
SM 教の大型アップデートってやつは、なにかしら不具合に遭遇するものだが、それが当たり前の感覚になりつつあるのも怖い。
言い出したら切りがないが、音楽関連の設定がチャラにされる程度のことは毎度のこと。なにかとトラブルの元になる "高速スタートアップ" を無効にしていると、最近、シャットダウン後の起動で、特定のアプリケーションが一度目のネットワーク接続で失敗するといった現象も見かける。だからといって、このオプションを有効にすれば、それはそれで... はぁ~、この業界で推奨やオススメの類いは当てにならん。
そして先日、Version 20H2 を適用。いわゆる、Windows10 October 2020 Update ってヤツを...
すると、WMP の視覚エフェクトが、2曲目以降動作しなくなった。
環境は、WMP12 + XTHREE(スキン) + FRUITY(プラグイン)。
スキンも、プラグインも、外部から持ってきているので、これらが悪さをしているかと思いきや、標準装備されるヤツもことごとくアウト!WMP 本体を再インストールしても、やはりアウト!
XTHREE + FRUITY の組み合わせがお気に入りで使い続けてきたが、そろそろ潮時か。ダークモードにもなりきれず、おいてけぼり感は拭えないし...
だからといって、新手の "Groove ミュージック" に乗り換える気にはなれん。
2. 前々から目をつけていた MusicBee を試すと、これがなかなか!
音質も良くなり、我が家の非力なスピーカでも、それなりに聴ける。
初対面では、設定項目が多くて圧倒されてしまうが、すぐに、このぐらいのカスタマイズ性は欲しいと思えるようになる。噛めば噛むほど味がでてきそうな... おいらは惚れっぽい自己陶酔者なのだ。
ざっと、外観すると...
- タブの状態がしばしば変わるのが、どうもなぁ... と思いきや、タブ毎にナビゲーションロックができて安心。
- パネル構成は、なかなかの充実ぶり。但し、グラフィカルな要素が、ちと寂しい。FRUITY 並みの VU メータを求めるのは酷か。
- 再生装置に対して、"ハードウェアの同期のために起動時に無音を再生する" という設定があり、なかなかの気の配りよう。
- デバイス I/F は、DirectSound, WASAPI(Shared/Exclusive), ASIO, Winamp がエントリ。
- コーデックは、MP3, AAC, Ogg(Vorbis), Opus, Musepack, FLAC, ALAC, WavPack, TAK, WMA がエントリ。
- スキンは、xml, xmlc(Javaベースコンパイラ)形式。
そして、ちょいとヴィンテージ風にアレンジしてみた。
ちなみに、最前面でスピーカをパコパコさせて音波を踊らせているが、それはデスクトップツール "Rainmeter" とのコラボ...
3. ついでに、楽曲ファイルの階層構造を見直す...
まず、おいらは、実空間が仮想空間と掛け離れていると不安でしょうがないネアンデルタール人なのだ。
タグが物理構造とあまりに一致していないと、音楽ソフトを乗り換える時に苦労する。リッピング時に念頭には置いていたが、WMP に頼ってずぼらになり、グチャグチャ気味。MusicBee ではあまり問題にならないが、自動車の音楽システムが古いこともあり、階層構造は整理しておいた方がいいだろう。SD カードで持ち歩いたり、愛ある電話にも移植性を高めておきたいし...
だからといって、物理イメージとタグの柔軟性をガチガチに一致させるのは手間もかかるし、現実的ではない。
そこで、物理的な階層構造はジャンル別にアルバムを割り当て、この二つにタグを一致させる、という方針で。他のタグはプレイリストか再生中トラックで閲覧できればいい。
例えば、モーツァルトの楽曲はアルバム毎に "..\Music\Classic\Mozart Works" というディレクトリ下に格納し、気分に応じて曲ごとにプレイリストへエントリする、といった具合。
おいらの場合、ジャンルとアルバムが整理されていれば十分だし、この程度の編集なら大して手間もかからない。MusicBee は、タグ編集もやりやすいし...
ところで、ディレクトリという名は死語になりつつあるのだろうか。dir コマンドはまだ生きているけど。フォルダという名で抽象化するのもいいが、ネアンデルタール人はファイルとディレクトリで種別する方が落ち着く。Unix ライクな土壌では、カレントディレクトリの名は未だ健在だし...
2020-11-15
"迷い鳥たち" Rabindranath Tagore 著
ひと月ほど前、「ギーターンジャリ」(渡辺照宏訳版, 岩波文庫)には、見事にしてやられた。今宵、翻訳者を変えての挑戦に、これまたイチコロよ。
尚、内山眞理子訳版(未知谷)を手に取る。
恥ずかしながら、おいらが詩を読めるようになったのは、半世紀も生きてからのこと。詩ってやつは、理解するというより、感じるものなのだろう。何事も素直に感じとるには、子供心に看取られた純真さがいる。脂ぎった大人には酷だ。中原中也ではないが、まったく、汚れちまった悲しみに... といった心境である。
素直に味わうには、感覚を研ぎ澄まさなければ。感覚のままに受け取るには、感情を解き放たなければ。それは、受動的でありながら能動的という矛盾の覚醒か。自由精神とは、矛盾を謳歌することか。いや、M の覚醒よ...
詩を本当に味わいたければ原語で読むべし!とは、よく耳にする。しかし、タゴールをベンガル語で触れるのは、生涯叶わぬであろう。語学力の乏しい酔いどれごときには。
それにしても原文には、オーラのようなものが放たれているのだろうか。翻訳語にも乗り移る何かがありそうな。これが、普遍性というものか。詩にうんざり、愛にはもっとうんざり、そんな天の邪鬼な心をねじ伏せてきやがる。
原題 "Stray Birds"... ん~、迷える子羊より響きがいい...
まったく人間ってやつは、迷える存在でしかない。善を知るために、悪をも知らねばならぬとは。相対的な認識能力しか持ち合わせなければ、対極を知覚して中庸を模索するしかあるまい。生と死、永劫と刹那、光と闇、暁と黄昏、大いなる存在とちっぽけな存在... こうしたコントラストを甘美な調べに乗せて。言葉遊びの相対性理論とでも言おうか。
澄んだ目で見つめる森羅万象は、愛にも悲しみにも溢れ、あるときは、大自然の神秘な讃歌を奏で、またあるときは、宇宙と静かに会話し、またまたあるときは、人間社会を痛烈に皮肉って魅せる。ささやかな箴言の凝縮、自己表現を極限まで簡素化する芸。これが、詩というものか。迷える存在だからこそ、対称性に看取られた小宇宙に魅せられるのやもしれん...
「歌は無限を大空に感じとり、絵画は無限を大地に感じとり、詩は無限を大空と大地に感じとる。なぜなら詩の言葉は歩みゆく意味をもち、空翔る音楽をもつのだから...」
騒々しく活字が飛びかう昨今、沈黙の奏でる調べに癒やされようとは。そして、言葉拾いに翻弄される。脂ぎった魂はどうしても皮肉の利いた言葉を拾ってしまう。詩とは、読者の心を映し出すものなのか。
その日の気分によっても、拾えるものが違う。マールをやりながら読めば、心の中にわずかに残った粕を搾って、箴言らしきものが拾えるやもしれん...
--
海よ、あなたの言葉はどのような言葉ですか... 永遠の問い、という言葉です
空よ、あなたの答えはどのような言葉ですか... 永遠の沈黙、という言葉です
水のなかの魚は沈黙し、地上の動物は騒がしい、空を飛ぶ鳥はうたっている、そして人間は、海の沈黙と、地上の騒がしさと、空の音楽をそのうちにもっている。
生はあたえられたものであるがゆえに、あたえることによって、それを得るにあたいする。
謙虚さにおいて偉大であるとき、偉大者にもっとも近づく。
完全者は、不完全者への愛のために、美でもって自身を装う。
悪は敗北する余裕をもつことができないが、正しきことはそれができる。
子どもは、どの子も、神はまだ人間に失望していないというメッセージをたずさえて生まれてくる。
草はその仲間を地中にさがしもとめる。木はその孤独を大空にさがしもとめる。
死において多は一になる。生において一は多になる。神が死ぬときに宗教は一つになるだろう。
芸術家は大自然の愛人である、それゆえにその奴隷であり、その主人である。
闇のなかで唯一者は一様にあらわれるが、光のなかでは多様にあらわれる。
花をつんでおこうと集めてまわらずに、ただ歩いてゆきなさい、そうすれば花は、行くさきざきで咲いていることでしょう。
真理はその装いのなかで、さまざまな事実をとても窮屈だと知る。いっぽう物語において、真理はゆったりとふるまう...
器のなかの水は光るが、海の水は暗い。ちいさな真理は明瞭な言葉をもつが、大いなる真理は大いなる沈黙をもつ。
ペット犬は、世界がまるごと、じぶんのその地位をねらう陰謀ではないかと疑っている。
賞賛はわたしを恥ずかしく思わせる、なぜならひそかにそれをほしがるわたしがいるから...
人びとは残酷だ。しかし、人は優しい。
真理の流れは幾多の誤謬の水路を通りぬけてすすむ。
人間は動物であるとき動物よりも悪い。
神は限りあるものに、人間は限りなきものに、愛の口づけをする。
神の沈黙は人間の想念を成熟させて言葉にみのらせる。
--
2020-11-08
"ガンディーとタゴール" 森本達雄 著
タゴールの詩集「ギーターンジャリ」に魅せられ、ガンディーの告白「獄中からの手紙」を突きつけれると、今度は、翻訳者の視点から描いたものに触れてみたい。この惚れっぽい衝動ときたら...
暗い受難の時代というのは、偉大な人物を輩出するものらしい。英国帝国主義の植民地支配に抵抗したセポイの反乱が鎮圧されてから、インドとパキスタンの分離独立に至る激動の時代に、二つの巨星が舞い降りた。片や仏陀の再来と言われ、片や古代サンスクリット語の大詩人カーリダーサに比肩するとされ、それぞれに国民大衆から「マハートマ(偉大な魂)」と敬われ、「グルデブ(尊師、先生)」と慕われた。
ただ、この二人の人物像は、国民的英雄といった印象とは大分違う。二つの卓越した人格が、肉体から離脱したような存在とでも言おうか。偉大なのは人物ではなく、人格と言うべきか。まさに人間離れした。普遍的な人間とは、こういう人物を言うのかもしれん...
しかしながら、どうしても腑に落ちないことがある。これほどの人格者が二人揃って、なにゆえ政治運動なんぞに執心したのか?彼らの使命感や義務感は、いったいどこからくるのか?時代がそうさせたといえば、そうだろうが、それだけだろうか。
同胞が過酷な迫害を受けた時代、二人は真理の探求に生きた。受難の時代に哲学をやると、政治へと向かわせるのか。思考は疑問を持つことに始まる。時代の在り方に疑問を持てば、社会の在り方を問い、政治の在り方を問うことに。プラトンは、哲学者による統治という国家の理想像を描いて魅せたが、これに通ずるものがある。
とはいえ、真理を探求する世界と政治の脂ぎった世界とでは、あまりにも真逆。政治は妥協の世界で、理想主義がしばしば混乱を招いてきた。真理ってやつは、よほど手ごわいと見える。俗世間から距離を置き、精神空間を遠近法で眺めないと、なかなか姿が見えてこない。はっきりと見えなければ、凡人は都合よく解釈するし、この凡人未満の天の邪鬼ときたら、そんなものが本当に存在するのかと疑いもする。
真理の探求者が、普遍原理に反する事に関わることは苦痛でしかあるまい。それでも、優れた才能の持ち主ゆえに、逃れられないことがある。両者とも、意に反してまで政治運動にかかわったようには見えないけど。有能な人材ほど苦難を背負うものなのかもしれん...
馬の耳に念仏というが、聞く耳を持たぬ者を説いても、人の心は動かない。それは、ガンディーも言っていること。考え方や生き方を強制することも暴力であると。良心に訴えるというが、個々は善人でも、集団化すると悪魔に変貌するのが人間社会。そんな性質とどう向き合うか。
残念ながら、ガンディーの唱える非暴力不服従運動は、凡人には高尚すぎる。現実的な解は、毒をもって毒を制すの原理に縋るしかなさそうだ。まともな政治哲学を持つには、人類はまだまだ若すぎると見える。なにも直接、国民大衆に接することはあるまい。諷刺の効いた芸術作品を通して、訴えるのも一つの手。多少なりと聞く耳を持つから作品を手に取るのだろうし、ましてや、まったく興味のないものに触れようとはしないだろう。
そこで、タゴールの方はまだ馴染める。やがて政治の世界から身を引き、文学の世界で生きるのだから。文学部門でアジア人初のノーベル賞に輝いたことも、国民に勇気と誇りを与えたことだろう。アインシュタインのような自然科学者とも親交を深め、まさに自然哲学に没頭したと見える。
生き方は違っていても、思想哲学ではガンディーとタゴールはよく似ている。タゴールが言葉の奏でる美を通して真理を探求した人なら、ガンディーは行動を通して真理を探求した人。ともに、狭い了見での国家主義に警鐘を鳴らし、帝国主義を批判した。
二人は親交もあり、「マハートマ」の称号を与えたのがタゴールだったとされる。自己を高めるライバル意識のようなものが、互いに引きつけ合ったのであろうか。ルネサンス時代に多くの万能者を輩出したように。類は友を呼ぶというが、天才が集まると偉大さを纏い、凡人が集まると魔性を帯びるのかは知らんが...
1. 行動の人... ガンディー
「あなたのメッセージは?」と報道陣に聞かれると、「マイ・ライフ、わたしの全生涯がメッセージです。」と答えたそうな。ガンディーにとって、行動そのものが言葉というわけか。彼が起こした非暴力不服従運動は、思想的には真新しいものではないが、集団行動となると、人類史上、未曾有の試みかもしれない。
ただ、尊敬はできても、生き方が合わないという人はいる。理想が高すぎて、受け入れる側の度量を超えると、抑圧的にも感じる。ガンディーには、そうしたところがあまりない。彼は、完全な菜食主義者だったというが、それを強要したりもしない。
「他人に魚を食うなと強要する人は、魚を食する者よりいっそう大きな暴力を犯しているのです。漁師も、魚の行商人も、それを買って食する者も、おそらく彼らの行為に含まれている暴力に気づいていないのです。たとえ気づいていても、彼らはそれを不可避とみなしているかもしれません。けれども、他を強要する者は、故意に暴力をふるうという罪を犯しているのです。強制こそ非人間的です。」
行動の人という意味では、まさに政治家らしい政治家。押し付けがましいところがないという意味では、実に政治家らしくない政治家。
しかし、だ。凡人が崇高な思想を慕って集団化すると、しばしば抑圧的な思想に変貌してしまう。一人の偉人の目よりも、集団の目の方がずっと力強い。ましてや寛容さには、凡人はその上にあぐらをかく。
したがって、こうした思想を慕う人には、自立が求められる。ガンディーも、必然的に自立を要請している。ガンディーが唱えた「サティヤーグラハ」という思想は、南アフリカ共和国で試験的に実践し、インド独立運動で展開された。だがそれは、単なる非暴力を要請しているわけではなく、自立が前提されている。
「スワデーシー」という国産品愛用の呼びかけも、民族の職業的自立を唱えてのこと。しかし、凡人がこれを実践すると、海外製品ボイコットという形でナショナリズムを煽ることに。敵愾心を持つのは、自立心のなさゆえか...
「無所有」という積極的な欲望の浄化を唱えているのも、自然との共存の中での自立を説いている。衣食住のすべては、なんらかの形で自然の恩恵を受けている。もし、必要以上の広大な土地を所有しているとしたら、住む家のない人の土地を奪っていることに。もし、必要以上のご馳走にありつき、食べ残して捨てているとしたら、飢えている人の食べ物を奪っていることに。そう考えると、必要以上の所有は悪となる。人の幸せは、何かの犠牲の上に成り立っていると考えれば、これ以上の幸せを求めなくなる。
しかし、必要以上とは、どの程度をいうのであろう。ここが凡人の解釈と違うところ。そして、自己満足に終わる。幸せすぎても、不幸すぎても、人間は残酷になるらしい。
ん~... やはり、ガンディーの生き方は高尚すぎる。少なくとも、21世紀の人類には...
だからといって、理想主義で片付ける気にはなれない。遠く紀元前五世紀にブッダガヤの菩提樹の下で大悟成道した行動も、二千年前にゴルゴダの丘で沈黙のままに十字架刑を受け入れた行動も、今尚、時空を超えて語りかけてくれるのだから...
2. 美を奏でた人... タゴール
ガンディーが政治家としての使命感に目覚めた人とするなら、タゴールは教育家としての使命感に目覚めた人と言えよう。国家教育から距離を置き、自ら学校を設立。後に、タゴール国際大学と呼ばれることに。ガンディーもアーシュラム(修道場)を建設し、出身階級のいかんを問わず、学問する人を広く受け入れた。二人とも不可触民制の排除を誓う。カーストのような過酷な階級制度の下では、まず学問の下での平等が唱えられる。
それは世界各地でも見られる光景で、自己啓発を促すことが主眼となっている。機会平等とはそういうことであろう。つまり、学問するということは、自立を要請しているわけである。
インドの場合、農村を疲弊させた要因に、東インド会社が導入した「ザミーンダーリー制度」という地租徴収制度が挙げられる。地主が徴税者となり、徴税権は富裕な商人の間で売買され、伝統的な農村の社会秩序が破壊された。地主の没落とともに、農民は小作人に。そこに高利貸しや悪徳商人たちが禿鷹のように群がる。農民はまったく労働意欲を失い、卑屈な自己蔑視を募らせる。
タゴールは、自立心を取り戻すために、文字の読めない農民にも口ずさむことのできる言葉を編み出した。彼の詩は、無名の時代から、政治集会や祭りで愛唱され、田畑を耕す仕事歌として歌われたという。無知では依存症を増殖させる。学問の道は、民族自立の道というわけか...
それにしても、詩集「ギーターンジャリ」には救われる。邦訳版に触れたけど、それでも救われる。詩は原語で味わうものと言われるけど、やはり救われる。原文が自然な美しさをまとうと、翻訳文にも乗り移るのだろうか。タゴール自身が、わざわざベンガル語の詩集を英語訳版で刊行したのも、西洋人にはタゴール・ソングが理解できないと見たのか。しかも、定形詩を散文詩に変えて。それで、ノーベル文学賞をとっちまうんだから。誰だかは知らんが、ある詩人はこんなことを言ったという...
「子供はみんな詩人になる素質をもっている。ただ、大人になってもそれを失わない人が詩人と呼ばれる。」
真の芸術家とは、子供心を失わないものらしい。大人になると、言葉の意味や理解が先行して、言葉の奏でる美しさ、言葉の抑揚や響きといったものを、耳を通して味わおうとしない。
おいらの場合、詩を読む機会がほとんどなかった。中原中也のような人を知ったのも、半世紀も生きてからのこと。この歳になって、ようやく耳から言葉の調べが聞こえるようになろうとは... まったく、汚れちまった悲しみ... といった心境である。
「言葉を教えることの主な目的は、意味を説明することではなく、心の扉をたたくことだ。そのように戸をたたく音で、心のなかに何が呼び覚まされたかを説明するよう求められても、子供はたぶん、なにかとてもばかげた返事をするだろう。なぜなら、心のなかで起こっていることは、言葉で表現できるものなどより、はるかに大きいからである...」
3. ともに見た死生観
俗世間では、手段が目的化することがよくある。苦行の世界にも苦行主義が蔓延り、苦行そのものが目的となって極端な難行へとエスカレートさせていく。こうなると、苦行も滑稽芸!精神を解放するための苦行が束縛へと向かえば、それは自立心の喪失にほかなるまい。
ガンディーとタゴールの哲学には、自立、自己啓発、自己省察といった言葉が目に留まる。その先に二人が見たものは、そこに共通の死生観が伺える。
インド伝統の哲学に、人間の魂にはアートマン、すなわち、宇宙的な真理であるブラフマン(梵)が宿るとする宇宙観がある。真理の下では、民族の肌色、言語、習慣の違いも単なる表現の違いに過ぎない、と考えるのも道理。
さらに、道理を求めれば、死を思わずにはいられない。宇宙論の下では、死は終焉ではなくなり、死すらも生の延長として受け入れられる。死が訪れなかったら、人生はいつまでたっても未完のまま...
「おお、死よ、わたしの死よ、生を最後に完成させるものよ、来ておくれ、わたしに囁きかけておくれ!
来る日も、来る日も、わたしは おまえを待ちうけてきた...
おまえのため 人生の喜びにも痛みにも わたしは じっと耐えてきた。
わたしの存在 所有 望み 愛... すべてが、秘かな深みで たえずおまえに向かって流れていた。
最後にひとたびおまえが目くばせすれば、わたしの生命は 永遠におまえのもになるだろう...」
... 「ギタンジャリ」より
2020-11-01
初体験!国勢調査員... デジタル後進国のお祭りか!
なんであれ、初体験ってやつはワクワクさせるものがある。が、こいつは例外中のド例外!不合理、非効率、理不尽、ピント外れ... このバカバカしさは、まったく形容しきれない。
そして先週、ようやく集計作業が片付き、今、前高市総務大臣の任命辞令書を燃やしたところ...
春の終わり頃、やる人がいないから、どうしてもやってくれ!と頼まれた。おいらは個人事業主で職場も自宅ということもあり、あのおじさんはいつも家にいるから暇!と思われているようだ。町内会の役員もやらされているし。巷には、仕事といえば通勤するものだと杓子定規でしか考えられない連中が、あまりに多い。
最初の説明会では、 質疑応答の段になると苦情や経験談で荒れ狂う。なんだ!この殺気立った会合は?お国の権威主義で地方に揉め事をつくるのは、ご勘弁願いたい!
とにかく、国際調査員ってやつは、仕事を持っている人にはできない。おかげで、一ヶ月間、仕事を中断する羽目に。まったく、コロナ禍ならぬ、国勢調査禍よ!
1. 縦割り行政の産物か...
国税庁が、還付申請では面倒くささを強要しながら漏れなく徴収とくれば、地方自治体も負けじと住民税を漏れなく徴収ときた。彼らは、所得や資産の個人情報、住民票などでしっかりとしたデータベースをお持ちのようだ。なのに、総務省ときたら...
「個人情報は保護されます!」って何を根拠に?調査員が全国で 60 万人もいれば、中には... 実際、国勢調査バッグがネットオークションに出品され、高値がついた。何に使うかは知らんが...
少子化問題などの政策決定に使う情報と銘打つなら、他の省庁や地方自治体から、世帯構成などの数字を拾うだけで済むはず。なにゆえ個人名まで知りたがるのか?仕事状況なら、所属する企業や勤務先から拾い上げればいいし、アパートなら、どんな人が住んでいるか大家さんが知っている。大家さんも知らないような状況なら、一般人が訪問したぐらいで実態が分かるはずもない。
封筒の表紙には、「国勢調査には回答の義務があります!」とある。義務ってなんだ?統計法を盾にした強迫観念か?見事な国家への不信感を増殖させるイベント!おまけに、こんなものを野放しにする大手メディアの大本営ぶり...
行政改革で何をやるかより、やめるべきことをきちんとやめるだけでも、かなりの改革ができるであろうに。調査員たちは口を揃えて言う。税金の無駄遣い!と...
そういえば、つい最近、NHK の受信料制度で総務省の有識者会議が、「テレビ設置の届け出を義務化する」やら、「未契約者の居住情報の照会を可能にする」やらと提言したことが報じられた。個人情報に対する意識は、かなりズレてそう...
2. この国にデータベース化という戦略はないのか...
まず、データ収集のやり方からして問題!
インターネット回答がオススメ!って大々的に宣伝しているが、調査員は、コンピュータが振った地域番号と世帯番号を各世帯毎に手作業で割り振っている。グルグルマップ風の担当区地図に世帯番号を書き込み、その番号を世帯一覧表に書き写し、世帯代表者と男女構成を聞き取って書き加え、回答結果と擦り合わせて修正する。なんだこの手間は?こういう作業こそ、電子化するべきでは...
そして、本部から回答状況が報告され、未回答世帯の催促に奔走する。
総務省には、根本的なデータベース化という戦略がないのか。住基ネットはすでに形骸化し、マイナンバーカードも同じ道を辿るのかは知らんが、脱ハンコ!などと言っている場合か。上っ面のデジタル化で「やってます感」を演出するのは、いい加減にしてもらいたい。
我が国は、モノ作りに対する姿勢では、繊細なこだわりや美学を見せるのに、情報に対する体質となると、太平洋戦争時代からあまり変わっていないと見える。
情報活用の仕方を知らない連中が、無闇に情報を集めることほど滑稽で危険なことはない。スパイ天国と揶揄されても仕方あるまい...
3. 調査員が怒られ役なのは仕方がないにしても...
みなさんボランティア精神でやっているのに、この仕打ちはなんだ!
少しばかり手当が出るとはいえ、逆に、お金を払ってでも代わってもらいたい。一般人に「国家公務員として自覚して行動して下さい!」などと臨時で身分を与えて責任を押し付ける。国家公務員の身分証を見せるのは、むしろ逆効果。つまり、国が信用されていないってことだ。
防犯グッズまでも支給される。痴漢防止用の爆音ブザーがなるヤツ。こんなものが必要な作業なのか?
市営住宅などを担当している方とも親しく情報交換させてもらっているが、こちらからは声もかけられない状況。オートロックのマンションも対応が大変そう。管理会社に相談しても、所詮、所有者の雇われ人。勝手に入れないから、一軒一軒チャイムを鳴らして手渡している。
おいらの担当区でも、十回ぐらい訪問してやっと会えた人が何人かいる。結構、いい人だったりするのだけど...
夕方に訪問しても留守だから夜に訪問すると、「こんな遅い時間に来やがって!」と怒鳴られる程度のことは当たり前。
特に、女性調査員はなめられるようだ。夜な夜な涙を浮かべて国勢調査バッグをもって歩いているおばさんに声をかけると、こちらは頷くだけで何も言えなかった。お互いに愚痴を言い合うだけでも救われるのだけど。仮に、ガッチリした体格で、ヤクザ風の国勢調査員が訪問したら、同じ態度でいられるのか?防犯グッズには、そうした用心棒グッズを配布した方がよかろう...
世間体では良い人でも、誰も見ていなければ豹変する人は少なくない。日本社会は、まったく村社会だということを改めて認識させられた。知ってたけど。いや、村八分社会か。知ってたけど...
配布も大変だが、回収はもっと、ずっと、はるかに大変!
あからさまに居留守を使っている人も珍しくない。高年の調査員ともなると、インターネット回答の仕組みなんて分かるわけがないと思われ、却っていい口実にされる。実は、インターネットで回答すれば、リアルタイムで丸見えなんだけど...
おいらの担当地区は一戸建てが多く、行儀のいい人ばかりで、比較的苦労は少なかったが、それでも回答意志のまったくない人は、どの地区にもいる。調査項目には、「回答意志の有無」というのも加えてもらいたい。意志のない人を動かそうとは思わないし、堂々と意志がないことを表明させればいい。そういう人ほど、回答意思はあるようなことを匂わせて言い訳めいたことを言うのだろうけど...
何回訪問してダメなら通知のビラを配り、さらに、至急通知と調査票の再配布などと、手順作りをやってる場合ではない。ボランティアだって、そんなことに付き合っている暇はない!中には、やったことにしている調査員もいるのでは?実際、そんな誘惑にも駆られる。真面目にやる人ほど馬鹿を見るのが人間社会というものか。知ってたけど...
4. インターネット回答でもトラブルあり...
インターネットで回答したという方でも結果に反映されていないケースがあった。最後の送信まで到達していなくても、完了したと思っているかもしれない。実際、送信ボタンで画面が固まったというユーザ報告もある。
せめて、ログインした時間ぐらいの履歴情報は欲しい。でないと、説得できない。いい人だったので再ログインをお願いし、それで完了してくれた。
そもそも、行政機関のサイトを信用していない人が多い現状がある。どんなに使いやすくても完璧なシステムなんてありえないし、回答完結の情報だけではあまりにショボい。せっかくの電子化、システムに有用な履歴情報を組み込むことぐらいは、そう難しくはあるまい...
5. 回答期限延長で、さらに荒れ狂う...
当初、回答期限は 10/7 であったが、回答率が低いということで、10/20 まで延長された。それで、期限延長の知らせが調査員にまったくないとは、どういうわけか?テレビや新聞で宣伝されているとはいえ。おいらはネットで知ったが、他の調査員に教えてもオオカミ少年扱い。いくらなんでも本部から連絡があるだろう、って。そりゃそうだろう。おいらも、総務省のサイトを疑ったぐらいだ。回答期限も正確に知らないのは、国勢調査員を名乗る詐欺か!と罵倒もされる。前から鉄砲で撃たれ、後ろからも撃たれている気分。回答意志のある人は、たいてい期限を守るか、少し遅れるぐらいなもの。むしろ、回答意志のない人に口実を与えている。
さらに、10/7 時点の回答状況確認表が 10/9 の金曜日に郵送されてきたが、郵送回答があまりに少ない。しかも、まさか!この人が回答してない?という名が、ずらりと挙がってきていない。インターネット回答は即反映されていて、ほとんどの人がインターネットで回答したことになっている。
回答率の最初の速報が、50%台。8日の時点で約 68%。よそは大変だなぁ... と眺めていたが、他人事ではなかった。
調査員は土日が勝負!
さっそく翌日から訪問して当たりをつけてみたところ、感触ではポスト投函から 5日ぐらいのディレイがありそうだった。最初の締切 10/7 から 5日ほど遡ると、10/2 になるが、それが本当だとすれば、まったく使い物にならないレベル。いや、むしろ混乱させる情報だ。おかげで、調査員たちは怒られまくり。
さっそく月曜日に本部へ赴き最新情報を要求したら、各担当区の指導員がネットからアクセスできる QR コードを持っていることを知り、これに救われた。本部の方々は地方公務員で、総務省からの命令でやっているだけであろうから、文句を言うのも気の毒。せめて現場の状況報告を上げるよう文書でお願いして、おしまい...
6. そして、帰結...
人生は短い!興味のないことに付き合っている暇はない。
そもそも、おいらは人間嫌い!調査資料の整理も終わったことだし、人間関係の整理でもやるかぁ...
2020-10-25
"獄中からの手紙" Mohandas Karamchand Gandhi 著
実際主義の流れを汲む中に、ガンディーを嫌う人は思いのほか多い。歴史を振り返れば、理想主義が現実社会を破壊した事例はわんさとあるし、平和主義者の理念が国家主義者の横暴を許し、戦争を招き入れた事例も少なくない。
「マハートマ(偉大なる魂)」の称号を持つこの人物はというと、確かに理想高すぎ感はある。が、夢想家と呼ぶ気にはなれない。「塩の行進」や「糸車で紡ぐ」などの日常生活に根ざした民衆運動は、近年の市民運動にも通ずるものがある。宗派や人種を超えた象徴として...
ただ、非暴力運動の実践となると、人類はまだまだ若すぎると見える。おいらは、この人物が好きでも嫌いでもない。ただ、尊敬はできても、生き方が合わないという人はいる。それも、まったく敵わないと、心の中で白旗を上げている。そして、ガンディーのものとされる、この言葉が好きなだけだ。
"Live as if you were to die tomorrow.
Learn as if you were to live forever."
「明日死ぬと思って生きよ。不老不死だと思って学べ。」
実は、この言葉を拾うために本書を手に取ったのだが、合致するものに巡り合うことはできなかった。邦訳版だからなんとも言えないけど。それでも、この言葉の哲学は充分に味わえる。
ちなみに、おいらは言葉を追い求める夢想家だ。その証拠に、未だハーレムという言葉に救いを求めている。未練は男の甲斐性よ...
1930年、ガンディーはヤラヴァーダー中央刑務所に収監された。彼は、アーシュラム(修道場)の弟子たちに宛てて一週間ごとに手紙を送ったという。厳粛なる道徳的観点からの戒律を。牢獄の時間は、哲学原理を沈黙思考するには貴重な時間だったと見える。
おいらは、戒律ってやつが大の苦手ときた。抑圧的で説教じみていて、なにより息苦しい。だがここに、そんな感覚はない。それは、真理を第一のものと位置づけているからであろう。真理は実在に由来するという。神は真理なり、というよりは、真理こそが神。真理を探求し続けることこそ、修行の道というわけである。
しかしながら、真理ってやつが本当に存在するのかも、よう分からん。この酔いどれ天の邪鬼には、単なる認識の産物ではないかとさえ思える。それでも、宗教が唱える神の存在を信じるよりは、真理の存在を信じる方がはるかにましか...
尚、森本達雄訳版(岩波文庫)を手に取る。
「最高の真理は、それ自体で存在するのです。真理は目的であり、愛はそこに至る手段(みち)です。わたしたちは、愛の法(のり)に従うのは容易ではないことを承知していますが、愛すなわち非暴力とは何か、については知っています。しかし真理については、その断片を知るのみです。完全に真理について知ることは、完全に非暴力を実践するのと同様、人間には成しがたい業です。」
1. 宗教家か、政治家か...
ガンディーは、宗教家であったのか、政治家であったのか。真理の探求者が、なにゆえ政治なんぞに深く関わったのか。彼の生きた時代は、イギリス帝国主義からの独立を経て、インドとパキスタンが分離独立に至った激動期。時代が使命感を駆り立て、政治へと向かわせたのか。プラトンは、哲学者による統治という理想国家像を描いて魅せたが、これに通ずるものを感じる。
力なき者が巨大な国家を相手取るには、ゲリラ戦の様相を呈する。民衆運動という集団戦術によって。ガンディーは、弱者の非暴力ではなく勇者の非暴力を唱え、不服従運動を人間の誇りの運動に位置づける。そのために、真理の哲学を用いたというわけか。
しかしながら、真理ってやつは意外と脆い。なにしろ、真理めいたものはすぐに見えても、本当の真理はなかなか姿を見せてくれないのだから。
なるほど、真理は神に似ている。ただ人間ってやつは、神の存在を強烈に意識し、それを恐れても、真理の存在はあまり意識せず、恐れることもあまりない。
古来、宗教と政治は両立しうるかという問題がある。今日、政教分離の原則が声高に唱えられるが、ガンディーは、宗教なくして政治はありえないという立場で、道徳性や精神性の欠いた政治は避けるべきだとしている。
彼の言う宗教とは、互いにいがみ合うような盲目的な信仰ではなく、寛容の精神に基づくような普遍宗教のこと。その意味で、真理の探求者もまた宗教家ということになろうか。いや、信念を持ち続けることができれば、誰もが宗教家なのやもしれん。ガンディーは、世界宗教なるものを夢見ていたのだろうか...
「すべての宗教は、聖なる霊に触発されて生まれたものですが、それらは人間の精神の所産であり、人間によって説かれたものですから、不完全です。一なる完全な宗教は、いっさいの言語を超えたものです。ところが不完全な人間が、それを自分に駆使できる言語で語り、その言葉がまた、同じ不完全な他の人びとによって解釈されるのです。いずれの人の解釈が正当だと主張できましょうか...」
2. インド的な戒律
身分制度の歴史は、どこの地域にも見られるが、現在でも色濃く残るものとしては、カースト制度が挙げられる。法律でいくら規定しても、慣習の力は強すぎるほどに強い。ガンディーは、不可触民制の撤廃を強く唱える。特定の身分や家柄の生まれというだけで、その人々に触れると穢れるなどと考えることは理不尽きわまる、このような制度は、社会の癌!宗教を装いながら宗教を堕落させている!と...
また、スワデシーという国産品愛用の呼びかけも、インド的。暑いインドでは、塩は特に重要。海岸線や山中からも採取できる自然の贈り物に対して、外国政府が管理し、課税するとはどういうわけか。
さらに、伝統的な紡績産業に目を向け、国産品に愛着を持つという運動で「塩」や「糸」がシンボルとなる。
但し、こうした運動は、外国人に悪意を抱くことでも、憎悪崇拝でもないとしている。
しかしながら、凡人は、こうしたことで愛国主義を旺盛にしていくもので、海外製品のボイコット運動を引き金に、外国人排斥運動を激化させていく。製造品が、そのまま人種や民族と結びついて...
それは、21世紀の現在とて同じ。ただ現在は、まだ救われているかもしれない。自国製品や自国企業が、もはや自国のものではないことを多くの人が知っている。外国製品をボイコットすれば、自分の首を絞めてしまうことを。
とはいえ、グローバリズムを旺盛にすれば、同時にナショナリズムを旺盛にさせ、社会はますます二極化していく。人間社会で中庸を生きることは、よほどの修行がいると見える...
3. 人間は生まれつき盗っ人か...
不服従運動に執心するガンディーの姿は、みすぼらしい。彼は、不盗の戒律を唱えているが、それは、人の持ち物を盗んではならないという社会常識を説いているような、ちっぽけな話ではない。まず、地上で生存するためには、衣食住のすべてが何らかの形で自然の恩恵を受けている、と考える。
そして、生活に必要以上の広大な土地を所有しているとしたら、その日の糧を得なければならない人から自然の恵みを略奪していることに... 食べきれないほどのご馳走をテーブルに並べ、食べ残して捨てているとしたら、飢えている人から食べ物を横領していることに... といった論理を働かせて、不盗の戒律を無所有の精神と結びつける。必要以上を求めない、パンのための労働を、と。必要以上に所有しない、自己放擲と犠牲の精神を、と。
しかしながら、必要以上とは、どの程度をいうのであろう。ここが凡人の解釈と分かれるところ。自己放擲や犠牲にしても、凡人は自己満足で終わる。事業で大成功し大金持ちになった人が、私的な慈善団体を設立するのも、必要以上に儲けてきたことへの償いであろうか。いや、貧乏人にだって、憐れみの情念はある。
人間はみな幸福を願って生きている。しかし、幸福が誰かの犠牲の上に成り立っているとしたら、豊かさが誰かの犠牲の上に成り立っているとしたら、そんなことを素直に願うことができようか... これが、ガンディーの問い掛けである。
さて、自分の欲望とどう向き合うか。主犯格は嗜欲か。死を運命づけられた人間にとって、人間目的がはっきりしないのは実にありがたい。謙虚な人ほど自らの謙虚さを意識せず、大層な目的を知らないことも素直に認め、自然に振る舞えるものなのかもしれん...
2020-10-18
"タゴール詩集 ギーターンジャリ" Rabindranath Tagore 著
こいつには、救われる...
BGM のように流れ去っていく文学作品とは、こういうものを言うのであろうか。フレーズそのものは頭に残らなくても、心地よさだけは確実に残る。読書に BGM は絶対に欠かせないが、だとしても、これほど BGM を引き立て、自らバックグラウンドを演じきる書があろうか。この控えめな汎神論的自然観には、悲愴感が漂う。ここは、チャイコの六番に乗せて。いや、ショパンの調べも捨てがたい...
尚、渡辺照宏訳版(岩波文庫)を手に取る。
ラビンドラナート・タゴール...
このインドの詩人は、1913年、詩集「ギーターンジャリ(歌の捧げもの)」でノーベル文学賞を受賞し、アジア人初のノーベル賞受賞者となった。ガンディーとも親交があり、マハートマの称号を贈ったのもタゴールだったという。ガンディーといえば、彼のものとされるこの言葉を思い浮かべる。
"Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever."
「明日死ぬと思って生きよ。不老不死だと思って学べ。」
本書には、ガンディー哲学が乗り移ったような感がある...
ギーターンジャリ...
この大作には、本家本元のベンガル語版と、タゴール自ら翻訳した英語版の二つがあるそうな。本書は、あえて「ベンガル語本による韻文訳」と「英語本による散文訳」の両方を掲載しくれる。というのも、各々まったく違う形式をとっているのである。
ベンガル語版は、定形詩 157 篇を収め、すべて吟誦に適しているという。
一方、英語版は、散文詩 103 篇を収め、うちベンガル語版からの採用は 53 篇のみで、他は別の詩集から持ってきたものだとか。定型詩と散文詩というだけでも違った印象を与えるが、内容もまったく別物。ノーベル文学賞の対象となったのは、英語版の方らしい。
タゴールは、ロンドン大学で英文学を学び、西洋思想や西洋哲学を熟知していたと見える。採用に漏れた詩群は、西洋人の感覚に合わないと見たかは知らんが、なんと惜しいことを...
ここには、邦訳ではあるが、ベンガル語版の方が壮大な景観が見て取れる。とはいえ、英語版の散文形式もええ、まるでシェイクスピア劇場を見ているような...
詩を味わうには原語で読むべきだ!と、よく言われるが、タゴールの詩は特にそうらしい。思想や哲学、あるいは内容だけでは味わえない領域が確かにある。やはり、詩で最も重要なのはリズムであろう。それは形式ばった調子ではなく、自然に奏でる調べ...
日々の習慣もまたリズム。
道を歩けば何気なく歩幅にテンポが生じ、思考に耽れば自然に頭が揺れ、日常の繰り返しが精神に秩序をもたらす。
仕事にもリズムは欠かせない。検討から成果が出るまでの周期、あるいは達成感を得るタイミング、こうしたものが気持ちに減り張りをつけ、意欲を持続させる。
これら日常のリズムが詩の奏でるリズムと同期した時、耳障りで調子外れのものは量子エネルギーの対消滅のように消え去り、心地よい韻律だけが残る。やはり、人生で最も重要なのはリズムであろう...
さて、ここでは、詩篇を拾うことは難しい。が、言葉の欠けらを拾うことは容易い。それでお茶を濁すとするか。引用しやすいのが散文の方というのも奇妙。芸術ってやつは、壮大なほど鑑賞者を沈黙させるらしい。自我を支配する無力感!無力感て、こんなに心地よいものなのかぁ。もう、どうにでもして!おいら、M だし...
1. ベンガル語本による韻文訳より...
天界の光が、眩しすぎて見えないのは幸せかもしれない。光の正体は、一種の電磁波。そのうち人間の眼に見える波長を、物理学で可視光線と呼ばれ、巷では光と呼ばれる。この宇宙空間に電磁波の存在しない領域はない。おそらく精神空間にも。すべての電磁波が眼に見えるとしたら、この世は眩しすぎる。むしろ盲目の方が楽であろうに...
さて、言葉の欠けらを拾ってみよう...
わが頭(こうべ)、垂れさせたまえ... わが高慢は、残りなく、沈めよ、涙に...
遍く満つる天界地界(あめつち)に... 生命逞し、神酒なみなみと...
後方(しりへ)に騒ぐ波の音、高鳴る大空、面(おも)にさし来る朝日影、雲の絶え間より... 物思ひ、心絶えなむ...
門毎(かどごと)に森の女神の、法螺、響(とよ)みて聞こゆ、天の琴の調べに合わせ...
闇の夜の時の間を、何の調べに、今、過ごすべき、何過ちてか今みな忘れ、思ひ煩ふ、絶間なく雨濯ぎ、降りしき止まず...
蒼天の声なき語り、露けき悩ましさ...
この虚空に遍く... 語るを許せ、許しませ...
黄昏の勤行(つとめ)、徒ならざれ、... ひれ伏さしめよ... 足許に...
夢に奏でぬ、相聞の深き調べを...
天地(あめつち)の沈黙(しじま)を、汝が家に来させよ...
黄昏ときに君とわれ、そこに打解けばやと、暗闇にただ一人...
高慢の及ばぬところ... 誇りの満つところにて...
佯りて戯れに戯る、この戯れをわれ好む...
われは旅人、生命(いのち)の限り、道行き歌ふ... われは旅人、荷はみなすべて、捨てて行かむ... われは旅人、瞬きせず、ただ目凝らして、暗闇に覚醒めてありき...
恐怖(おそれ)おこさせ、懶惰(ものぐさ)ほろぼし、睡眠(ねむり)やぶりて、恐怖をやぶる...
汝、嬰児(おさなご)の如く、力なきとき、内重(うちのへ)の奥、深く留まれ、時至るまで
いささかの痛みによろめき
いささかの火に焦がれ
いささかの塵身につかば
汚れなむ
内重(うちのへ)の奥、深く留まれ、時至るまで...
君、わが生命を満たしたまへば、悔残るまじ、今死して
夜昼、苦楽あまたに
胸に響きし調べあまた...
2. 英語本による散文訳より...
この世の存在は、みな囚人か。自らの財で縛り、自らの権力で縛り... 自己を縛るは欲望。精神空間に自由の王国を築くには、よほどの修行がいる。荒れ狂うこの世で心を静めるには、我が死を思うこと。自我を救う道は、それしか残されていないのか...
さて、言葉を拾ってみよう...
「愚か者よ、自分を自分で担いで歩こうというのか。乞食よ、自分のうちの門口(かどぐち)に立って物乞いをするのか。その荷物をみな、何でも背負うことのできるあの方の手に、委ねるがよい。そして、未練がましく振り向くな。おまえの欲望の息が触れると、燈火の光はたちまち消えてしまう。汚らわしい...」
「光は、おお、光はどこだ。欲望の燃える火で光を点そう。燈火はあっても、焔ひとつ燃え上がらない。これがおまえの運命なのか、私の心よ。おお、おまえには死の方がずっとましだ...」
「私をしばる束縛はきつい。しかし断ち切ろうとすると、私の心は痛む。自由さえあればよい。だが、それを望むのは恥ずかしい... その暗い蔭の中に、自分の真の存在を見失う...
囚人よ、いったい誰がおまえを縛ったのか...
富と権力で誰にも負けないつもりだった... 世界を奴隷にし、自分だけが勝手気儘でいられるつもりだった...
囚人よ、この頑丈な鎖をいったい誰がこしらえたのか。
私がこしらえた...」
「わが神よ、この私の生命の溢れる盃から、どのような神酒をお飲みになるのか。わが詩人よ、私の眼を通してご自分の創造物を見、私の耳の戸口に立ってご自分の永遠の調和にじっと耳を傾ける、それがあなたの歓喜であるのか。あなたの世界は私の心の中で言葉を織りなし、あなたの喜びはその言葉に旋律を添える...」
「世界中に広がって、無限の空に無数の形相を生み出すのは孤独の苦悩である。夜もすがら星から星を見つめて沈黙し、雨降る七月の闇の中でざわめく木の葉のうちに詩を喚びおこすのは孤独のこの悲しみである...」
2020-10-11
"現象学的心理学の系譜 人間科学としての心理学" Amedeo Giorgi 著
心理学は、科学であろうか。アメディオ・ジオルジは明言する。科学であると...
原題 "Psychology as a Human Science" は、1970年刊行とある。ジオルジの生きた時代は、科学といえば自然科学を意味し、人間性と科学は矛盾するという立場が優勢だったようである。彼は、「人間科学」という用語を持ち出す。これは自然科学という意味では、科学ではない。が、科学の定義の仕方によっては科学になりうる。それは、現象学に基づくアプローチによって... これが、ジオルジの主張である。
尚、早坂泰次郎訳版(勁草書房)を手に取る。
「心理学は科学である。なぜならば、科学の目的に関与するから、すなわち、関心のある現象に対して批判的態度をとったり、方法論的、系統的なしかたでそうした現象を研究しようとするからである。しかしながら、その主題には人格としての人間が含まれているので、自然科学がその目的を求めていくのとはちがったやり方で、目的を達成しなければならない。」
ところで、科学とはなんであろう。科学たるには、どうあるべきであろう。
まず、「客観性」という観点がある。この用語ほど、基準が曖昧でありながら権威ある言葉もあるまい。あらゆる学問が理論武装のために、この言葉にあやかって科学する。
但し、この用語には水準や度合いといったものがある。客観性のレベルでは、数学の定理は他を寄せ付けない。この方面では、古来、もてはやされてきた方法論に演繹法ってやつがある。
だが、現実世界を記述するのに演繹的な視点だけでは心許なく、帰納的な視点も必要である。人間を相手取れば、尚更。研究対象が人間自身に向けられると、自然科学から乖離していき、人文科学や社会科学などの学問分野が編み出されてきた。それで人間が自然的な存在かどうかは知らんが、少なくとも学問は自然的な存在であってほしい。
デカルト風に言えば、人間は思惟する存在である。つまり、人間が意識する過程では、主観が介在するってことだ。意識なくして学問は成立するだろうか。客観とは、主観に支配された人間の憧れか。
ちなみに、政治屋や有識者たちが客観的に主張すると宣言して、そうだったためしがない。それで、自らの語り口に権威を持たせられるかは知らんが...
一方で、芸術家たちが体現する精神に、無我の境地なるものがある。無我とは、意識を放棄したわけではなく、むしろ自意識を存分に解き放った末に達しうる何か。彼らは、なにかに取り憑かれたように自我に籠もって熱狂できる資質を持っている。無我とは、自己否定の過程で生じるのであろうか。あるいは、高みにのぼるために、主観と客観を対立させるのではなく、調和させるということであろうか。いや、客観性というより普遍性といった方がいい...
ジオルジは、現象学を心理学に応用する立場である。現象といえば、まず観ること。科学には、その精神を根本から支える信条に、古代から受け継がれる観察哲学がある。それは、先入観や形而上学的な判断を排除する態度であり、21世紀の科学者とて、その境地に達したとは言えまい。正しく観察できなければ、適格な判断ができない。正しいとは、何を基準に正しいとするか。この態度には、誤りを適格に観ることも含まれるが、健全な懐疑心が持ち続けるのは至難の業。現象を正しく観ることの難しさは、客観性の水準の高い学問ほどよく理解していると見える。ましてや、人間現象を相手取るのに主観は避けられない。主観を客観的に観察しようにも、観察者の側にも主観がある。
となれば、観察サンプルを増やし、統計学的に、確率論的に分析するのが現実的であろう。心理学が、臨床医学と結びついて発達してきたのも分かる気がする。但し、医学は病を相手取る。いわば、精神状態の例外処理であるが、心理学では例外処理とはなるまい。
こうして眺めていると、心理学が量子論に見えてくる。量子力学が唱える不確定性原理は、位置と運動量を同時に正確に観測することは不可能だと告げている。それは、観測対象である物理系に観測系が加わっては、もはや純粋な物理現象ではなくなるということである。量子ほどの純粋な存在を観測するには、ほんの少しでも不純物が交じると正確性を欠く。となると、主観を観察するには、若干なりとも主観を含んだ客観性の眼では、やはり正確性を欠くのだろうか。いや、精神ってやつが、それほど純粋な存在とも思えん。自由精神は、物理的には純粋な自由電子の集合体なんだろうけど。
いずれにせよ、純粋客観なる精神状態を人間が会得するには、よほどの修行がいる。それには、人類がまだ若すぎるのやもしれん...
そこで、手っ取り早く分析する方法に、条件を限定するやり方がある。条件を絞りながら因果関係を紐解き、徐々に条件を広げていく、といった考え方は、解析学でもよく用いるし、経済学や社会学でもよく見かける。
例えば、金銭欲や物欲、あるいは、名声欲や権力欲といったものに限定すれば、行動パターンがある程度読める。市場原理は、様々な価値観を持った人間が集まれば、欲望が相殺しあって適格な価値判断ができるのだろうが、あまりにも欲望が偏っているために、しばしば市場価値を歪ませる。政治屋や報道屋が仕掛ける扇動は、大衆心理を巧みに利用した者の勝ち。文学作品ともなれば、心理学以上に心理学的だ。リア王やマクベスの狂乱に触れれば、それだけで精神分析学が成り立つ。
心理学の学術的な地位がいまいちなのは、こうした背景もあろうか...
問題解決のためのプロセスでは、現象を整理、分析し、本質的な内容や意味を探り当て、その方法や手段を編み出す。本書は、心理学が内容や手段に目を奪われ、方法論に特権的地位を置こうとする、と苦言を呈す。
ただ、あらゆる学問がそうした傾向にある。方法論が編み出せるということは、それが条件付きとはいえ、ある種の結論に達していることを意味している。
しかし、心理現象を結論づけることは至難の業。多義的な上に、これといった答えが見つからない分野である心理学では特に、整理や分析といった前工程、すなわちアプローチが重要だというわけである。メタ心理学は、精神をメタ的な地位に押し上げたために、現実世界でメタメタになるのかは知らんが...
ジオルジは、アプローチを一つのカテゴリとして確立することを提案している。方法論と一線を画する視点として。人間のタイプは、知力、武力、政治力、カリスマ性、徳性など、能力の数値化によってある程度の種別はできる。シミュレーションゲームのように。実際、企業の人事部などでも数値データが人材評価に用いられる。そうした数値化は、ゲームに勝つため、企業戦略を機能させるため、といった目的が明確な場合では有効となろう。
では、もっと普遍的なレベルでの人間性となるとどうであろう。人間目的なんてものをまともに答えられる人が、この世にどれほどいるのだろう。精神の正体も、人間の正体も分からずにいるというのに。人間精神の多様性は、果てしない宇宙に見えてくる。無理やり結論を出すぐらいなら、分析過程を大切にする方がよさそうである...
2020-10-04
"小説神髄" 坪内逍遙 著
そういえば、おいらは「小説」という言葉に疑問を持ったことがない。今日、novel の訳語として定着している、この言葉に...
小説家たちは、ノベルで何を述べようというのか。小さな説と書くからには、大きな説というものがあるのだろう。元は中国に発し、取るに足らないつまらない議論、あるいは民間の俗話の記録などを意味したという。国家の思惑を物語るのに対して、大衆の本音を物語る。どちらが取るに足らないのやら。上っ面の教説や良識めいた美談を綴るのに対して、悪徳や愚行に看取られた人間の本性を暴く。どちらが大きな説なのやら。
小説家に、人類を救え!などとふっかけても詮無きこと。人間の本性に迫るからには、精神を自由に解き放たなければ...
かつて小説を書くためには、まず小説とは何かを知らねばならぬ時代があったとさ。小説ごときを、けしからん!などと、有識者たちが憤慨した時代である。江戸戯作に親しみ、西洋文学を渉猟した若き文学士が、明治の世に物申す...
「我が小説の改良進歩を今より次第に企図(くわだ)てつつ、竟には欧土のノベルを凌駕し、絵画、音楽、詩歌と共に美術の壇頭に煥然たる我が物語を見まくほりす。」
何事も、文化として居座る仮定では低俗扱いされるもの。ざっと時間軸を追うと、近くに漫画やアニメ、遠くに能や歌舞伎を見つける。芸能文化は、人間社会への批判を間接的に皮肉る形で根付いてきた。つまりは、諷刺や滑稽の類いである。世阿弥らが編んだ「花伝書」は、滑稽演芸を理論化し、芸術の域にまで高めた。何事も本質を観るには、遊び心がいる。憤慨していては、見えるものも見えてこない。哲学するには、自ら滑稽を演じてみることだ...
「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ。人情とはいかなるものをいふや。曰く、人情とは人間の情慾にて、所謂百八煩悩是れなり。」
人間は情欲の動物であり、いかなる賢人も、いかなる善人も、これを避けるのは至難の業。百八を数える煩悩を避けるには、よほどの修行がいる。自分の煩悩を克服できなければ、他人の煩悩を目の敵にし、他人の欠点を攻撃する。人情の解放と煩悩の克服は、まさに表裏一体。自己を克服するには、もはや自分の煩悩を味方につけるしかあるまい。なるほど、まず情ありて、人の心を動かさぬものは小説にあらず... というわけか。
しかしながら、心を動かす者もいれば、動かさぬ者もいる。芸術とはそうしたもの。分かりやすいものは重みを欠く。寓意ってやつは、チラリズムとすこぶる相性がいいときた。心が動かされなければ、作者はいったい何がいいたいのか?などと最低な感想をもらす。芸術ってやつは、芸術家のみならず、鑑賞者をも高みに登ってこい、と要請してくる。暗示にかかった鑑賞者は、刺激がますます貪欲になり、もっと深い、もっと凄い表現を求めるようになる。情欲を相手取ると、まったく底なしよ。ここに、小説の無限の可能性を見る。
ところで、小説の意義とはなんであろう...
それは、単なる勧懲の道具ではないという。人情に共感したり、反面教師にしたりして、人間性を磨く。となれば、人情の描写こそが小説の意義というのは、尤もらしい。
そして、ノベルを凌駕し、絵画、音楽、詩歌と共に... 小説は美術なり!というわけである。逍遙は、小説の四大裨益を挙げている。
第一に、人の気格(きぐらい)を高尚になす事。
第二に、人を勧奨懲戒なす事。
第三に、正史の補遺となる事。
第四に、文学の師表となる事。
拙筆なおいらにとっては、第四の裨益が一番大きい。優雅な文章を魅せつけられると、惚れ惚れする。言葉に惚れ、フレーズに惚れ、しかも、皮肉たっぷりに。それが、生きる指針になり、座右の銘となる。道徳家や教育家の安っぽい教説よりも心に響くのは、そこにチラリズムがあるから...
寓意や教訓の類いは、ここに発する。それは自省へと導く。他人の行いをも自省と解するよう。相対的な認識能力しか持ち合わせない精神の持ち主が、悪を知らずして善を知ることはできまい。他人の欠点が目につくのは、自分自身にもあるってこと。自分自身に欠点がなければ、そんなものが目についても、さほど興味を持つこともあるまい。
それゆえ、偉大な哲学者たちは、自省論なるものを様々な形で遺してきた。小説の主脳は人情なり... とするなら、小説はまさに自省の語り草となろう...


