2022-01-09

仕事場に理想郷を求めて自己陶酔... 酔わなきゃ、やっとられん!

仕事や学習のスタイルは、十人十色。視覚や聴覚を刺激するタイプに、嗅覚や味覚を刺激するタイプに、運動と連動させるタイプに、読み書きを重視するタイプに... と。思考空間とは、五感を総動員する場!とでもしておこうか...


おいらの場合、聴覚と嗅覚に運動を連動させる。思考を促そうとする場に、BGM は欠かせない。そして、お香を焚き、外の景色を眺めながらベランダを歩き回る。なので、仕事場である自宅は、2階のベランダを広めに設計してある。ベランダには何も置かず、殺風景なままがいい。その解放感が、思考を解放する。
ちなみに、1階は完全介護ルーム化で合理化を図る。
解放感といえば、フル思考を促すためにフルチンでいたいが、同居人がいるとそうもいかない。オンライン会議が割り込めば、やはりそうもいかない。思考がドン詰まれば、公園までお散歩(逍遥)。リュケイオンの歩廊とまではいかないものの、気分に浸ろうと...


とはいえ、完全に集中し、一旦、思考空間の中に入っちまえば、外部環境はほとんど気にならない。仕事場の整備は、あくまでもフロー状態へ導く工夫の一つ。
オフィスチェアにも気を使う。長時間キーボードを叩く場面では、姿勢だけでなく、腕や指のポジショニングも重要。なので、オフィスチェアにバケットシートは理に適っていると思う。思考の合理性は、精神空間を適切な環境に同化させることによって促すことができよう。
但し、この場に、動画は禁物!... と考えてきたが、なんとなく物足りなさを感じる今日このごろ。YouTube から、4K/8K の風景動画を垂れ流しつつ、Wuauquikuna の素朴な調べに、なにやら忘れかけているものを思い出させてくれるような、そんな感覚に見舞われる。
さらに、The Piano Guys の解放的な演出に癒やされ、Peter Bence vs. Peter Buka の魅惑的な着想に翻弄され、Simply Three にシンプルに生きようと意欲を掻き立てられ、裸足で熱唱するパワフルな Adele に生きる力を注入され... 思考のリズムを触発するはずの空間が、仕事場の概念すらぶっ飛んじまう有り様。


無論、理想的な仕事場を得たからといって、能力が上がるはずもなく、むしろ劣悪な環境でひらめくことも多々ある。介護モードともなれば、炊事や掃除が良い気分転換になり、買い物が良い運動になり、思考のリズムを作る。料理は結構好きだったりして、お料理教室に通いたいぐらい。ただ、お風呂の掃除だけは、どうもリズムが合わん。
そして、つくづく思う。介護とは、ひとことで言えば、ウンコ掃除!人間ってやつは、摂取して排泄するだけの存在か... と。それ以外は、可もなく不可もなく、何かに集中している時がもっとも幸せ... と。
考えてみれば、宇宙空間に存在するすべての物体は熱機関として機能している。少なくとも分子構造を持つ物体は、何らかのエネルギーを吸収し、交換エネルギーを放出しながら存在している。人間とて例外ではなく、喰ったら出すだけのこと。仕事をやるにしても、何らかのエネルギーを放出しており、これを生き甲斐にできれば幸せになれそうだ。幸せになる必要があるかどうかは知らんが...


仕事場に理想郷を求めるのは、所詮、自己満足の世界。いや、自己陶酔の。集中した状態とは、自己の中に入り込んだ状態で、すこぶる心地よい。それは、泥酔状態と何が違うのだろう。夜の社交場までも仕事場と化し、君に酔ってんだよ!なんてセリフも飛び出す。仕事に酔おうが... 誰に酔おうが... 人生ってやつは、まったく酔わなきゃ、やっとられん!


「幸福になる必要なんかないと、自分を説き伏せることに成功したあの日から、幸福が僕の中に棲みはじめた。」
... アンドレ・ジッド

2022-01-02

時を刻む新たな相棒を加え、人生をシンプルに刻む...

Simple is the best...
エンジニアなら、この呪文の偉大さを味わったことがあろう。
なんの因果か、人生をシンプルに刻もうと頭を丸坊主にしちまった。かなり薄めで、周りはビックリした様子。実は、行付けの理髪店で、スキンヘッドにして!ってお願いしたら、メンテが大変だからやめた方がええよ!って言われた。近頃、ファッションボーズというものがあるという。それでも、ほんまに切っちゃうよ!って念を押されたけど、いまさら髪型にこだわることもあるまい。
介護モードを軽減するためにも、自分の身には手間をかけたくないし、このぐらいの気分転換も悪くない。介護は大変なストレスだけど、人間観察や身体の使い方、将来への備えなどの勉強にもなる。
そして、外出時はたいてい着物。簡単な着方を教わっているので着衣は三分もあれば。おかげで、お寺さんですか?と声を掛けられることも... サングラスをかけると近寄りがたいとも...
ちなみに、女が前髪を切ると、過去を断ち切る、新境地、あるいは覚悟、なんて意味があるらしい。男が坊主になると、すべてを捨て去る、猛省、ってなるらしいが、おいらの場合、悪いことをしたわけではない。いや、そんな記憶がない。もともとアル中ハイマー病だし、単に頭をシンプルにしただけのことよ...


時を刻むのもシンプルに...
SKAGEN SKW6106 をずっと愛用してきた。北欧デンマーク発の時計ブランドである。なかなかのお気に入りだけど、クロノグラフは使わないし、インダイヤルの日付調整も、ちと面倒。なので、余計な機能を取っ払ったタイプも欲しい。
そこで、北欧デンマーク発に南欧イタリア風味を加えてみるのはどうか... ってなもん。庶民のささやかな贅沢を満喫しつつ。
モノは、KLASSE14 Volare Vintage Gold VO18VG004M で、ヴィンテージ感がなかなか。おまけに、交換用の黒革ベルト(TiCTAC別注)が付属され、スプリング感のあるレバーで簡単に付け替えられる。おかげで、時を刻むパターンが、その日の気分で三つになり、ヒップフラスコで乾杯!



2021-12-26

"古寺巡礼" 和辻哲郎 著

紅葉香る並木道に沿って古本屋を散歩していると、古寺を巡る印象記なるものに出逢う。この記録に沿って、奈良の地を逍遙してみるのも悪くない。リュケイオンの徒のごとく。てなわけで、この書を観光の手引きとして眺めている。
しかしながら、美術品を理解することは難しい。骨董品ともなると、美的感覚を超えた何かがあり、歴史の重みに威圧感、恐怖心までも呼び寄せる。芸術性を味わうには、こうした造詣味ある解説書でも伴わないと...


若き日に印象に残ったことを記録しておくことは、なかなか面白そうだ。数十年後の自分へのメッセージとして。歳を重ねていくと感動が薄れていく。羞恥心への負い目からか、脂ぎってしまった心は、もはや純真な頃を思い出せないでいる。まったく、汚れちまった悲しみに... といった心境である。
「この書の取り柄が若い情熱にあるとすれば、それは幼稚であることと不可分である。幼稚であったからこそあのころはあのような空想にふけることができたのである。今はどれほど努力してみたところで、あのころのような自由な想像力の飛翔にめぐまれることはない。そう考えると、三十年前に古美術から受けた深い感銘や、それに刺戟されたさまざまな関心は、そのまま大切に保存しなくてはならないということになる。」


若き日の和辻哲郎は、唐招提寺、薬師寺、法隆寺、中宮時など奈良近辺の寺々に遊び、日本文化の源泉探しの旅へといざなう。通常、日本のお寺や仏像を論じる場合、中国文化やお釈迦さまの影響を考察するものだが、もっと西方のガンダーラやペルシア、さらにはギリシアへ至る道筋からその原点を探る。
イデアに看取られた旅行記とでもしておこうか。プラトンは、精神の原型のようなものをイデアと呼んだが、そんな純真な存在を現代社会に見つけることは叶うまい。おそらくプラトンが生きた時代ですら。
アレキサンダー大王は、小アジア、エジプト、ペルシアを征服し、その地の統治者に現地人を多く採用したと伝えられる。それは家庭教師アリストテレスの助言か、あるいは、よそ者が統治するより合理的と考えたのか。大王の東方遠征はインドに至り、ヘレニズム文化とオリエント文化の融合を想像させる。
そして、中国を経て日本へと通ずる壮大な旅を、奈良時代や平安時代の歴史観光から紐解くという試みである。


ギリシア神話には、実に多種多彩で人間味溢れた神々が住み着いていた。その代表は、主神ゼウス。全能者みずから動物に化け、女神たちに近づいてはあちこちで孕ませ、人間の美女にまで手を出して多くの半神半人を生み出す始末。その女ったらしぶりときたら、まったく懲りない雷オヤジよ。ゼウスの子供たちは様々な得技を持ち、神といえども得手不得手を心得ていた。この主神ゼウスを理想化し、一神教にまで崇めたのが、キリスト教やイスラム教である。その理想高すぎ感は、不完全な人間ゆえの憧れというものか...
神に近づくための修行にも段階が規定され、聖職者にも階級制度が設けられる。それは、キリスト教、イスラム教、仏教のいずれにも見られる現象で、神の声を聞くには資格がいるらしい。
ヴェーダを聖典とするバラモン教やヒンドゥー教は、死に至る様々な道をこしらえた。地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天上道といった六道輪廻を。死の世界には、現世の生き方がそのまま投影される。差別好きで、優越感に浸りたがる人間のことだ、生き方にも格付けがなされる。
そして、精神の段階を置き去りにし、名声や肩書に目を奪われようとは。それは、宗教の世界だけでなく、人間社会に蔓延るあらゆる集団や組織において...
「しかし浄土の幸福が現世の享楽の理想化に過ぎないという点は動かせない。不完全な人間存在が完全な生への願望を含むところに深い宗教的な要求の根がある。それは官能的悦楽のより完全な充足を求める心としても現われ得るだろう。」


奈良には、観音と呼ばれる像だけでも多種多彩なものがある。ギリシア神話の神々のごとく。写真で紹介されるものでは、三月堂本尊不空羂索観音、聖林寺十一面観音、百済観音、法寺十一面観音、薬師寺東院堂聖観音、夢殿観音、中宮寺観音... 等々。
ギリシア風の芸術家は、自然主義的な写実を好む傾向があり、例えば、聖母マリア像には、母の慈愛と処女の清らかさという女性の理想像が伺える。
一方、インド風の芸術家は、一つ一つの人体を精巧に描きながら、自然をまったく無視したやり方も厭わないようで、観音菩薩の穏やかな表情に慈悲と威厳を感じるものの、人間離れ感が強い。
そして、日本風の芸術家はというと、人間味溢れた作品も多く、インド風でありながらギリシア風でもあるという。
鬼や悪魔までも神格化し、不思議な生気を感じて思わずたじろぐことも。いずれも偶像崇拝の類いではあろうが、超人的な存在でなければ崇拝も叶うまい。
とはいえ、芸術作品には、人の精神を高め、人の心を浄化し、自省までも促す力がある。皮肉なことに宗教よりも...
和辻哲郎は、薬師寺の吉祥天女について、こう感想をもらす。
「誇大して言えば少し感性的にすぎる。細い手や半ば現われたかわいい耳も感性的な魅力を欠かない。要するに、これは地上の女であって神ではない。ヴィナスに現われた美の威厳は人に完全なるものへの崇敬の念を起こさせるが、この像にはその種の威厳も現われていないと思う。しかし単に美人画として見れば、非の打ちどころのないものである。」

2021-12-19

"風土 - 人間学的考察" 和辻哲郎 著

こいつぁ... 人間精神の風土哲学とでも言おうか...
文化論とは、比較の論とも言える。故に、理解への道は二つ。他文化との差異において自文化を位置づけるか、他文化を摂取する過程を通して自文化を受け止めるか。人間は、単に過去を背負うだけでなく、魂に根付いた土着をも背負って生きている。この時間軸が自己に与える影響は、想像しているよりもはるかに大きい...

「風土」は、古くは「水土」と呼ばれ、土地の気候や地質、地形や景観などの総称であったり、文化の形成や精神に影響を及ぼす環境であったり、あるいは、宗教的風土や政治的風土といった言い方をする。人間は、自然環境だけに影響されて生きているわけではない。むしろ、社会を通して人間同士の影響の方が強いかもしれない。
文明人ってやつは、最も依存しているはずの自然との付き合い方を忘れちまうのか。書物、メディア、技術などあらゆる社会的産物が人格形成に影響を与え、教育がより高度な偏見をもたらす。利便性に憑かれ、意思力が養われない教育が、精神を堕落させるのかは知らんが、ジョン・アダムズは、こんなことを言った...「自然によってつくられた人間と野獣との違いよりもはるかに大きな違いが、教育というものによって人間と人間との間にできるものである。」と...

1. 風土とは...
和辻哲郎は断じる。「風土とは、人間の精神構造の中に刻みこまれた自己了解の仕方に他ならない...」と。風土の現象は、芸術、信仰、風習などに露わになる、いわば、人間生活の表現様式であるという。個人的でありながら社会的でもある二重性格の内にある自己了解という行為は、同時に歴史的であり、歴史と離れた風土もなければ、風土と離れた歴史もない... と。
カントは、ア・プリオリな認識に空間と時間を規定した。すなわち、自己存在という認識原理は、空間性と時間性に発すると。風土とは空間性であり、歴史とは時間性であり、まさに、自己存在という認識契機を自己了解において論じている。
こうして眺めていると、「風土」という用語もなかなか手ごわい。あまりに広範な意味を含み、単なる自然環境や社会環境などでは足りない。存在認識の仕方など、人間の認識能力すべてを飲み込んでしまうような。
自己を満足させようとすれば、自己言及の群れが押し寄せてくる。自己啓発に自己実現、自己陶酔に自己泥酔、自己欺瞞に自己肥大... そして、自己嫌悪に自己否定とくれば、ついに自我を失う。人間の認識能力なんてものは、すべて自己了解の仕方に過ぎないのやもしれん...
「かくのごとく風土は人間存在が己れを客体化する契機であるが、ちょうどその点においてまた人間は己れ自身を了解するのである。風土における自己発見性と言われるべきものがそれである。我々は日常何らかの意味において己れを見いだす。あるいは愉快な気持ち... あるいは寂しい気持ち... このような気持ち、気分、機嫌などは、単に心的状態とのみ見らるべきものではなくして、我々の存在の仕方である。」

2. 三つの類型
和辻哲郎は、人間の風土的な多様性を「モンスーン、沙漠、牧場」の三つの類型で抽象化して魅せる。やや、こじつけ感も否めないが、なかなか興味深い。マリア様がモンスーン的か、牧場的か、はたまた沙漠的かは知らんが...

「モンスーン」とは、季節風のこと。特に、熱帯の大洋から陸に吹き付ける夏の風を指し、アラビア語由来とされる。気候面では、暑熱と湿気が同時に押し寄せる特性があり、生活面では、暑さより湿気の方が耐え難く、暑さより湿気の方が防ぎにくいといった特徴がある。それ故、自然に対する抵抗力が弱いという。運命論を受け入れる傾向にあるのも、そうした風土的な要件によるものであろうか。春風駘蕩の哲学を育むのも...
尚、モンスーンの型どおりの土地柄といえばインドだが、支那や日本もこの型に含めている。日本の場合、さらに台風や地震などの災害が多く、地母神ガイアで象徴される母なる大地への想いも、ちと複雑やもしれん...

「沙漠」とは、"desert" の訳語だが、意味するものがちと違う。地域的には、アラビア、アフリカ、蒙古などに広がる不毛の地。雨量の欠乏した乾燥を本質とし、自然には生気がない。荒々しく空虚な場。人間性をも捨象するような...
渇きの生活が水源の奪い合いとなり、死を目の当たりにしながら、闘争心や対抗心を育むという。こうした土地柄が、人間の絶対服従を求めるヤーヴェのような人格神を必要とするのであろうか。
とはいえ、現代社会を見渡せば、世界はことごとく乾燥そのもの。街中に植えられた少しばかりの樹木を除いては、人工物で埋め尽くされる。巨大モニュメントは、渇ききった人間の象徴か...
「自然への対抗が最も顕著に現れているのはその生産の様式である。すなわち沙漠における遊牧である。人間は自然の恵みを待つのではなく、能動的に自然の内に攻め入って自然からわずかの獲物をもぎ取るのである。かかる自然への対抗は直ちに他の人間世界への対抗と結びつく。自然との戦いの半面は人間との戦いである。」

「牧場」とは、wiese や meadow の訳語だが、家畜を囲う場、あるいは、家畜の飼料を栽培する土地といった意味を強める。機械的で疎外的な現実としての工場も、牧場の延長上に配置して...
ちなみに、ヨーロッパには雑草がないと言われるそうな。ほんまかいな?夏の乾燥と冬の湿潤という安定した気候サイクルが、雑草を駆逐して全土を牧場たらしめるという。日本の梅雨のようなジメジメした気候では雑草との戦いを強いられるが、ヨーロッパにはそんな苦労がないとか。ほんまかいな?まぁ、雑草の程度の問題なのだろうけど...
規則正しい循環雨季の到来が、農作物を安定供給する。安定した気候ゆえに、人間の目には自然が従順に見え、自然合理性が人間合理性と結びつき、ホッブズ、ロック、ルソーらが自然状態を論じてきた伝統も分かるような気がする。安定した土壌は、冒険心を駆り立てる。大航海時代がヨーロッパに発したのも、そうした土壌があるからかもしれない。
そして、活動の自由、精神の自由が哲学を育むという。ゴシック文化や啓蒙主義、あるいは、人文主義的な思想が発達するのも、合理的精神や論理的思考を育むのも、そうした風土との関係からであろうか。ヨーロッパの自然科学は、牧場的風土の産物だという...
「牧場的風土においては理性の光が最もよく輝きいで、モンスーン的風土においては感情的洗練が最もよく自覚せられる。」

ちなみに、ヘーゲルも三つの自然類型を規定したそうな。
一つは、広い草原や平地を持った水のない高原。遊牧の掟や族長政治といったものの影響力が強いが、発展性が乏しい。
二つは、大河の貫流し灌漑する河谷の平野。移り行きの国土。安定した土壌で農業と国家が発達し、文化の中心となり、君主と隷属の関係が著しい。
三つは、海に隣接する海岸の国土。海路によって世界を結びつけ、商業が発達し、征服欲や冒険心がわきあがり、市民の自由が自覚される。

なるほど、和辻哲郎の三つの類型は、ヘーゲルからのアップデート版のようだが、旧バーションも捨てがたい...

2021-12-12

"イシ 北米最後の野生インディアン" Theodora Kroeber 著

自由に生きるとは、どういうことであろう。自然と戯れながら生きることができれば... 孤独とは、どういう状態を言うのであろう。集団の中にこそ、それがある...


「イシの足は、幅広で頑丈、足の指は真直ぐできれいで、縦および横のそり具合は完璧.... 注意深い歩き方は優美で、一歩一歩は慎重に踏み出され、まるで地面の上をすべるように足が動く... この足取りは侵略者が長靴をはいた足で、どしんどしんと大またに歩くのとは違って、地球という共同体の一員として、他の人間や他の生物と心を通わせながら軽やかに進む歩き方... イシが今世紀の孤島の岸辺にたった一つ遺した足跡は、もしそれに注目しようとしさえすれば、おごり高ぶって、勝手に作り出した孤独に悩む今日の人間に、自分はひとりぼっちではないのだと教えてくれることだろう。」
... シオドーラ・クローバーの娘アーシュラ・クローバー・ル=グウィン


物語は、未開の地に隠れ住む一人のインディアンが、突然、文明の地に姿を現したことに始まる。その名は、イシ。白人の集団的残虐行為によって、皆殺しにされた部族の最後の生き残り。1911年、彼は飢えに耐えられず、畜殺場のほとりで犬に追い詰められ逮捕された。部族の運命と同じく、死を覚悟して...
ところが、運命とは皮肉なもので、白人の世界に迷い出たことで厚遇と友情に囲まれ、カリフォルニア博物館に迎えられる。天然記念物のようにマスコミに晒し者とされ、原住民の研究材料とされるは必定。それでも、イシは快活な忍耐心で凛々しく生きたという...
尚、行方昭夫訳版(岩波書店、同時代ライブラリー)を手に取る。


「イシと彼の部族の歴史は否定しようもなくわれわれ自身の歴史の一部となっている。われわれは彼らの土地を吸収して自分たちの所有地にしてしまった。それに応じて、彼らの悲劇をわれわれの伝統と道徳の中にとりいれ、それについての責任ある管理人とならねばならない。」
... シオドーラ・クローバー


1916年、イシは亡くなった。それ以来、彼の物語は人々の記憶から薄らいでいく。ようやく一般人にも書き残しておこうという考えが関係者の頭に浮かんだのは、1950年代になってからのこと。
文化人類学者アルフレッド・L・クローバーは、イシと最も親しくしていた人物の一人だが執筆を望まなかったという。それは、暗い歴史を物語ることになるからであろうか。あるいは、イシという人物を晒し者にしたくなかったからであろうか。アルフレッドの仕事は、カリフォルニア原住民の言語や暮らしなどの情報を収集すること。そのために、大量殺戮の目撃者となった。イシの遺体を解剖するという話があった時、こう言い放ったという。
「科学研究のためとかいう話が出たら、科学なんか犬にでも食われろ!と私の代わりに言ってやりなさい。」
そして、イシの物語を書くことになったのは、少し距離を置く妻シオドーラ・クローバーである。本書は、第一部「ヤヒ族イシ」と第二部「ミスター・イシ」で構成され、前半でインディアン種族として生きた運命、後半で文明社会を生きたイシの生き様を物語ってくれる...
「おそらく人間の歴史の感覚というものは、思春期から大人になりかけたときと、老境に達して、人生の永遠の真実を再評価し、熟考し、すすんでそれとかかわりを持つ余裕の生じたときとに、さしせまった鋭いものになるのであろう。」


1. インディアン種族の呪われた運命
それは、1844年に始まったという。メキシコ政府は土地所有認可を濫発し、それを合衆国政府が承認した。インディアン種族の土地は、法の下で、権利を主張する自由主義によって略奪されたのである。
原住民の死因の多くは強制移住によるものだという。抵抗する者は集団虐殺。文明から様々な感染病も撒き散らされた。麻疹、水痘、天然痘、結核、マラリア、腸チフス、赤痢など。売春も知らず、性病とも無縁だった女性たちも...
西部開拓史や西部劇などでは、よくインディアンが野蛮で残虐者として描かれているが、馬や牛を盗んだり、時々殺人を犯すぐらいは、些細な仕返しにも映る。法律用語に「正当な征服」なんてものがあるのかは知らんが...
「孤絶した共同体という現象は人間の歴史上稀であるが繰り返し起こる現象である。社会的、相互交流的、拡散的である人間の性質の故に、こういう社会は呪われた運命にある...」


2. 文明人ミスター・イシ
イシが、文明社会を生きた期間は五年間。たったの五年間。結核というこれまた文明からの死の賜物によって。彼は忍耐強く、不平も言わず、看護師たちに気遣い、世話をかけまいと静かに死を受け入れたという。アルフレッドは、どれほどの悲しみ、どれほどの怒りや責任を感じたことだろう。
文明社会を襲う恐怖心よりも強い孤独感。それは、現代人が抱える病理。死を選ぶ者が、なんと多いことか。仲間意識などという美談は、見返りの舌を垂れてやがる。天然記念物的なイシを見世物にして金儲けを企む者はあとをたたず、映画出演の要請やマスコミの餌食に。イシの目には、文明人とやらが、つまらぬ連中に映ったことだろう。
現代社会を生きるための知識を知らぬということが、無知といえるだろうか。人類は、道具を発明することによって文明を育んできた。だが、その文明人が道具なしで生きる術を忘れちまった。最先端商品に目を奪われ、虜になり、そして依存する。誰にでも使える道具を手にし、思考する面倒から解放され、それが自由の正体か。生物が最も依存しているはずの自然を知らずに生きているのが、人間ってやつか...
「彼の魂は子供のそれであり、彼の精神は哲学者のそれであった。」

2021-12-05

"青い鳥" Maurice Maeterlinck 著

童心に帰るのは難しい。脂ぎった大人には、さらに難しい。いまさら童話なんぞを... と思いつつ。気まぐれってヤツは、いつやってくるか分からん...


ところで、青い鳥が幸せを運んでくるってのは、本当だろうか...
かの偉大なアニメには、宇宙脱走犯「青い鳥」なんて逸話も見かける。無理やり幸福光線を浴びせかけ、まるっきり的外れな願いを叶えて、みんなを不幸にしちまう凶悪犯。この野郎を、岡っ引きのチルチルとミチルが追うというドタバタ劇である。高橋留美子も、メーテルリンクにはイチコロだったと見える。
それにしても、メルヘンチックなオリジナルより、そちらの方に癒やされようとは、もはや魂の腐敗は止められそうにない。夜の社交場では、おいらが幸せにしてやるぜ!なんて台詞まで飛び出す始末。
アンドレ・ジッドは、こんな言葉を遺してくれた。「幸福になる必要なんかないと、自分を説き伏せることに成功したあの日から、幸福が僕の中に棲みはじめた。」と...


さて、物語は、クリスマス・イブに薄気味悪い老婆が、ティルティルとミティル兄妹の家を訪ねたことに始まる。老婆は見るからに醜いけど、妖精なんだって。その妖精の娘は、ひたすら幸せになりたがる病にかかっちまったとさ。娘を救おうと、どこかに青い鳥はおらんかねぇ... 鳥籠にコキジバトがいるけど、あまり青くないねぇ...
そして、二人の兄妹は、妖精と一緒に青い鳥探しの旅に出るのだった。まず妖精の邸宅を訪れ、記憶の国、夜の城、月夜の森、幸福の館、真夜中の墓地、未来の王国を巡って...
尚、江國香織/訳 + 宇野亜喜良/絵(講談社文庫版)を手に取る。


サンタのおじさんは、お金持ちの家にはやって来る。だが、貧しい家では、ママがお願いに行けなかったから、来年はきっと大丈夫よ!と慰める。来年は遠い。幼い子には、遥か彼方。ティルティルとミティル兄妹には妹が二人いたが、すでに亡くなっている。貧しい家では、子供を無事に育て上げるのも大変。
記憶の国では、この世にはいないお爺ちゃんやお婆ちゃん、妹たちと出会い、過去の思い出に浸る。だが、ここには青い鳥はいない。過去に縋っても、幸福は得られないの?
幸福の館では、様々な贅沢三昧を検分する。金を持つ贅沢、土地を持つ贅沢、満たされた虚栄の贅沢、何もしない贅沢、必要以上に眠る贅沢、ぶくぶく太る贅沢、不幸な人たちを救いたがる贅沢、宇宙の摂理を知る贅沢など。しかし、ここにも青い鳥はいない。贅沢は幸福ではないの?
夜の城や月夜の森では、光が問題となる。月の光に照らされる死んだ鳥たちは誰が殺したの?真夜中の墓地では、みんながみんな天国へ行けるわけではない。未来の王国に希望を託したところで同じこと。偉大な未来に絶望するか。明るい未来に退屈病を患うか。
そして、現実に引き戻される。すべての旅は夢だったの?目を覚ますと、鳥籠のコキジバトが青く見える。これが、クリスマスプレゼントなの?色彩の特性には三原色ってやつがある。色付きメガネで見れば、好きな色に見えることも。色盲なら想像で補うことも。すべては見方次第!凡人は、目の前の幸せにも気づかない...


「なんにも見ようとしない人間がいるとは聞いていたけど、まさかお前は、そんな心のねじれた、無知な人間ではないだろう?でも、見えないものも見なきゃいけないよ!人間っていうのはほんとに妙な生き物だね。妖精たちが減ってしまってからというもの、人間はなにも見ないばかりか、目に見えるものを疑いもしない...」

2021-11-28

"現代建築家集 Venturi Scott Brown & Associates"

紅葉に誘われて古本屋を散歩していると、懐古風のスケッチ群に出逢った。自然に馴染んだ街づくり... 風景に同化した都市計画... こうしたセピア画像に癒やされる。英語の文献だけど、まったく抵抗感なし。活字がちょいと控え目なのがいい。古本にしては、ちと値が張るものの、いつもながら気まぐれは頼もしい。読書の秋というが、本ってやつは、なにも読むためだけのものではあるまい...


空間認識は、人間が生きる上で重要な認識能力の一つ。カントは、空間性と時間性をア・プリオリな認識に位置づけた。建築とは、まさに空間認識の具現化であり、極めて人工的でありながら、実のところ過剰なほど自然を意識している。それは、人間が本能的に思い描く憧れのようなものであろうか...
懐古風な空間性にしても、ノスタルジックな時間性にしても、それらが調和した途端に憩いの場を提供してくれる。調和という観念には、摩訶不思議な力が秘められている。人工物と自然物という矛盾の共存ですら、そこに芸術性が生じ、心の拠り所にしちまう。
ガウディは、自ら画家、音楽家、彫刻家、家具師、金物製造師、都市計画家となって、建築をあらゆる芸術の総体として捉えた。建築家という人種は、五感を存分に解放できる空間を求め、その空間のみが五感を超越した六感なるものを生起させる、かのように考えるものらしい。真の自由は、まさに空間にあり!と言わんばかりに...


さて、ヴェンチューリ・スコット・ブラウン & アソシエイツは、20世紀を代表する建築設計事務所として知られる。創始者は、ロバート・ヴェンチューリとその妻デニス・スコット・ブラウン。
本書は、この二人の建築家の作品集で、建築計画に至るスケッチや模型が掲載され、集合住宅に大宇宙を見、個人住宅に小宇宙を見ながら、建築家が思考する空間アルゴリズムを体感させてくれる。
「住宅は内気だが、雄弁である。」


ヴェンチューリとスコット・ブラウンは、ポストモダニズムの建築家に属すらしく、本書の文面からもモダニズムへの反発が読み取れる。建築は正しく建てれば、当然の帰結として健康と幸福が宿る... といったことが叫ばれた風潮への言及や、今日の建築家の集合住宅に対する理想が、住宅市場並みに単調である... といった皮肉まじりの言及に。
「正しく建てる」とは、どういうことであろう。啓蒙主義にしても、理性主義にしても、説教じみていて、押し付けがましいものには反発したくもなる。それが、自由精神というものか。そして答えは、多様化ということになろうが、まさに現代社会が歩んでいる道である。
とはいえ、新しい形式や様式ってやつは、従来のものを批判する形で登場する。改善の余地がなければ、変わる必要もない。芸術ともなれば、鑑賞者は飽きっぽく、いつも刺激に飢えている。人間にとって、退屈病はよほど辛いと見える。それで、人間社会に批判の嵐が吹き荒れるのかは知らんが...
やはり、カントのような批判哲学を実践することは難しい。対象を正しく理解しなければ、正しく批判することができないのは当然だとしても、さらに歴史という時間の流れの中で調和を求めるとなると...


モダニズムは、20世紀初頭、近代化を背景にアヴァンギャルドな造形理念をまとって登場した。ルネサンス風の精神体現より、もっと現実的に、もっと機能的に、もっと合理的に... と。アヴァンギャルドというからには、前衛的で試行錯誤的な意味合いが強かったのかもしれない。
近代化の波は産業革命や科学技術の発達ととともに押し寄せてきたが、極度の合理性は、機械的で、工業的で、無味乾燥なイメージを与え、人間性をも見失わせる。そうした風潮は、ヴァイマル共和政時代に製作されたモノクロサイレント映画「メトロポリス」でも象徴されようし、マルクスら思想家たちが唱えた「疎外」という概念も、近代主義への警鐘と言えよう...


しかしながら、人間にとっての合理性には、精神的合理性と物質的合理性がある。この二重性は、主観性と客観性の駆け引きの中で対峙している。時には矛盾に苛み、時には協調しながら。科学の進歩が客観的な洞察を鋭利にしたのは確かだが、思考するのはあくまでも主体であり、自己である。物理的には無駄な空間も、精神的には有用なことがよくあるし、無味乾燥な芸術作品も、数学的に眺めれば違った光景が見えてくる。
また、自由精神ってやつは、抑圧との関係からいっそう輝く。ロマンティシズムの反動で写実主義や自然主義をもたらすこともあれば、ルネサンスによる古代・古典回帰から、モダニズムによる機能的・合理的造形理念を経て、再びポストモダニズムによって精神性へと引き戻される。自由と抑圧の綱引きに、主観と客観の駆け引きが絡み合って...
主観には思考の深さを牽引する役割があり、客観には感性と知性の均衡を保つ役割がある。その双方を凌駕してこそ、人間的合理性に近づくことができるのであろうし、その過程では、自己肯定も、自己否定も必要であろう。芸術家に自己破滅型を多く見かけるのも頷ける...

2021-11-21

"芸術の条件 近代美学の境界" 小田部胤久 著

芸術に足る条件とは、なんであろう...
自己を侮辱することによって芸術家は魔術性を露わにし、自己否定によって芸術作品は堂々たる威風を漂わせる。この自殺行為によって、芸術は芸術たりうるというのか。
そもそも芸術とは、なんであろう...
芸の術と書くからには、技術の類いか。あるいは、魔術の類いか。技術の産物が感動を呼ぶ時、鳥肌が立つような感覚が全身を駆け巡る。精神空間を瞬時に伝搬する波動現象とでも言おうか。そういえば、芸術は爆発だ!という名言を遺した芸術家がいた。
思いっきり身勝手な世界を創造する自己陶酔型でありながら、精神病を患うほど徹底的に心を追い詰める自己破壊型。独りの芸術家に、S と M が同居してやがる。鑑賞者はというと、その狂気に癒やされるとくれば、こちらも狂気。狂ったこの世で狂うなら気は確かだ!


芸術家も鑑賞者も、さらなる刺激を求めてやまない。互いに競うかのように。古代ギリシア・ローマ文化を伝承する古典様式から、中世にはゴシック様式が出現。ゴシックとは、ゴート風といった意味で、ローマの知識人たちが無秩序で野蛮といった侮辱な意味を込めた用語である。近代には、感受性を堂々と曝け出すロマン主義が旺盛となる。こうした変化は、ある種の精神的合理性によってもたらされた。要するに、人間は飽きっぽいってことだ。退屈病は恐ろしい。実に恐ろしい。この病を癒やしてくれるのが、芸術ってやつか...


さて、前戯はこのぐらいにして...
著者の小田部胤久は、フィリップ・フランツ・フォン・ジーボルト賞を受賞した人だそうな。この賞の名は初めて耳にするが、ドイツにおける日本人研究者の貢献を讃えるものだとか。
前記事では「芸術の逆説」と題して、芸術家や芸術作品、創造性や独創性といった芸術を支える根本から論じて魅せた。ここでは「芸術の条件」と題して、「所有、先入見、国家、方位、歴史」といった、およそ芸術とは縁遠い観点から論じて魅せる。「芸術の逆説」と「芸術の条件」という二つの著作は、内と外から芸術論を語った姉妹作品というわけか。
双方とも、「美学」という学問の成立の時代から、古典的な芸術と近代的な芸術を観察している。ここでは、その時間的な境目をめぐり、ひいては近代国家との連関を紐解く。この時代が、啓蒙思想や近代国家の成立と重なるのは、偶然ではなさそうである。
「美学」という用語は哲学風で、既にプラトンやアリストテレスあたりが論じていそうだが、明確に著したのは、カント、シェリング、ヘーゲルあたりになるらしい。本書は「近代美学」と称している。つまり、18世紀頃に生起した美意識を通じて、芸術とやらを語ってくれる。


なかなか興味深い試みではあるが、こいつは本当に芸術論であろうか...
「所有」といえば、経済学の核となる概念。「国家」といえば、政治学の領域。むしろ、芸術とは正反対に映る。「先入見」「歴史」はどんな学問にも関与するし、「方位」にしても地域的な傾向や民族的な特徴はどんな文化にも見られ、なにも芸術論に限ったことではあるまい。
所有の概念は、何によって正当化されるだろうか。経済学者たちは口を揃える。それは労働であると。ただ、労働や勤勉は、芸術家になくてはならぬ資質の一つ。独創性ってやつも、試行錯誤の末に生じるのであろうから、無心で没頭できる能力こそ芸術家の資質となろう...


また、芸術ってやつは、社会風刺や批判、滑稽を美の意識にまで高め、人間社会に反省を促すところがある。ピカソの「ゲルニカ」のような作品は、国家の暴走がなければ、けして生み出されることはなかったであろう。
人間には、ホラーやスリラーといった恐怖に魅了される性癖がある。神話や聖書ですら恐怖の要素に満ち満ちており、残虐な描写までも美意識にしちまう。額縁に囲まれた光景は、まるで別世界。不幸ってやつは、遠近法で眺める分には心地よいと見える。鑑賞者は、自己に災いが降りかからない程度に距離を測ることができ、他人の不幸を見て自己を慰めることもできる。
しかし、創造者である芸術家はどうであろう。ムンクの「叫び」のような作品は、大衆社会へ何を訴えようとしたのだろうか...


「思索家の多くは、先入見の上着を投げ捨ててただ裸の理性のみを残すよりは、むしろ理性が織り込まれた先入見を継続させるほうがはるかに賢明であると考える。」
... エドマンド・バーク


何事も、それを分析し、その本質を理解しようとすれば、批判的な目線を向けることになる。逆説を論じるにせよ、その条件を問うにせよ。思想や信条の類いは、しばしば古典回帰してきた。ルネサンスに限らず。昔は良かった!などと懐かしむ心情は、もはや老人病か。いや、老人病を免れて現代病を患えば、同じこと。いずれにせよ、社会の息苦しさが、批判精神を呼び覚ます。愚痴も美の意識にまで高めると、崇高な哲学になるのであろう。カントの批判哲学も、愚痴の延長上にあるような気がする。
そもそも、人間とはなんであるか。キェルケゴールは答えた。それは、精神である... と。では、精神とはなんであるか。精神病も患えない人間は、もはや精神を持ち合わせてはいまい。そして、自己に対して批判精神を呼び起こすことも。これが芸術家に足る条件であろうか...


「批評とは、歴史と哲学の中間項であり、それは両者を結びつけ、両者を新たな第三のものに統合すべきものである。哲学的精神なくして批評が成功しないことは、誰もが認めるとおりである。だが同時に、歴史的知識を欠いて批評が成功することもない。歴史と伝承を哲学的に解明し吟味することは、疑いもなく批評であるが、同様に、哲学についてのいかなる歴史的見解もまた疑いもなく批評である。」
... フリードリヒ・シュレーゲル

2021-11-14

"芸術の逆説 近代美学の成立" 小田部胤久 著

何事も、その本質を覗きたければ、逆説的に論じてみるのも一献。押してもダメなら引いてみな!ってな具合に...
ここでの逆説の対象は「芸術」とやら。近代的芸術論は、「美学」という学問の成立と連関しているという。美学とは、哲学に近い用語であろうか。「近代的」というのは、18世紀にヨーロッパで成立したものを言うらしい。
古来、芸術は自然との関係から論じられてきた。アリストテレスの芸術論は自然主義を重んじ、詩や音楽の奏でる心地よい響きに自然との同化を思わせる。
しかし、だ。芸術ってやつは、きわめて人為的な試み。いや、人間そのものの投影という言うべきか。実際、自然風景の原物よりも、それを描いた絵画の方に価値が認められる。純粋な自然の光景に、脂ぎった人間の精神を混入し、塩と胡椒で味付けをやる。これが、芸術ってヤツか...


おまけに、芸術家ときたら、自分の生きる世界に対して、徹底的なこだわりを見せる。妥協ってやつが、人生を楽にしてくれるところもあるのだが、あえて苦難を受け入れ、時には利己主義に走り、時には快楽主義に身を委ね、自我ってヤツと存分に対峙しながら自己陶酔に耽る。その生き様にこそ、ある種の美学が備わる。美学とは、エゴイズムの類いか、ナルシシズム類いか...
鑑賞者の方はというと、感銘を受ける芸術作品に出会えば、自分の生き方と向かい合い、自省を促されることも。感動に対する自己分析、作品に対する批評、その身勝手な矛先は、芸術家にも向けられる。そして、理解できないとなれば、作者はいったい何が言いたいのか?などと最低な感想をもらす。認識できなければ、感動もできない。幸せなんだか、不幸せなんだか...


建築物や美術品に目を向ければ、シンメトリー、黄金比、ルート矩形といった幾何学原理に溢れ、ここに美意識が体現される。
プラトン立体は美しい。だが、自然界を見渡しても、こんな形式的なものは見当たらない。黄金比は美しい。こちらの方は自然界に溢れている。松ぼっくり、ヒマワリの種、サボテンの刺、巻貝の螺旋形... 等々。動植物が美しく見える配列にフィボナッチ数列が出現すれば、そこに偉大な宇宙法則を感じずにはいられない。
自然界に耳を澄ませば不規則な音源に溢れ、人口の溢れる街がこれらの音源を掻き消す。自然な音源が乏しくなると、人間はますますリズムやハーモニーといった人為的な音源を渇望する。十二音技法は、精神的合理性と数学的合理性の混合物か。大バッハは、ここに対位法の完成を見たのであろうか...


偉大な芸術作品には、神と悪魔が同居する。マクベスには、自我に潜む悪魔を目覚めさせ、ツァラトゥストラには、神は死んだ!と叫ばせ、ダンテに至っては、地獄の門、煉獄の門、天国の門を同心円上に描いて御満悦と見える。人間の美意識は、神に看取られるだけでは不十分だというのか。
それは、自然と形式の調和、もっと言えば、秩序と無秩序の調和によってもたらされる。矛盾ってヤツは調和しちまえば心地よいが、凡人の為せる業ではない。悪魔をも味方につける業となれば、尚更。芸術家たちは、鑑賞者の好奇心を焚きつける。作品を理解し、十分に味わいたければ、もっと高みに登ってこい!と。鑑賞者も負けじと、ますます刺激を求め、もはや自然との同化だけでは満たされない。主題は、残虐でも、滑稽でも、愚鈍でも、精神を体現できるものなら何でもあり、狂気をも芸術にしちまう。
例えば、ピカソの「ゲルニカ」などは、自然主義から掛け離れ、まるで数学的観念論!そう、キュビスムってやつだ。三次元の物体を様々な角度から眺めながら重ね合わせ、一つの統一体として二次元にマッピングして魅せる。アリストテレスがこれを見て、芸術と認めるだろうか...


「芸術世界の中で芸術家であるということは、過去に対してある立場をとることであり、そして必然的に、過去に対して自分とは異なった仕方で対応する同時代の人々に対してもまた一つの立場をとることである。従って、ある芸術家の作品は暗黙の内に、先行する作品と後続する作品への批評である。」


世間では、芸術家と呼ばれる人種は、独創的な主体として認識されている。だが、独創と模倣の関係は微妙である。模倣の動機は憧れの情念に発し、対象を正しく理解しなければ正しく模倣できないし、それを批判するにしても、やはり正しく理解しなければできない。健全な懐疑心を放棄すれば盲目となるばかり。芸術家たちは徹底的に模倣に明け暮れ、試行錯誤の上で独創性を覚醒させていく。ラファエロしかり、ミケランジェロしかり、ダ・ヴィンチしかり。彼らは芸術的な行為を義務や使命にまで高めていく、偉大な模倣者とでも言おうか...


「独創性の概念の成立は、芸術家が自己に先立つ規範から自己を解放しつつ、むしろ自己自身の内に一種の規範性を獲得する過程を証している。」

2021-11-07

"政治経済学の国民的体系" Friedrich List 著

経済学を外観すると、自由と保護の綱引きの歴史が見えてくる。それは、人間精神が本質的に抱える自由と平等の葛藤とでも言おうか...
新たな理論は、従来の理論を反駁する形で登場する。どんな学問分野であれ事情は似ているが、特に経済学は流行り廃れが激しいと見える。
相対性理論の登場でニュートン力学が蔑まれることはない。量子力学の登場で相対性理論が使い物にならなくなったわけでもない。トポロジーの登場でユークリッド幾何学が廃れることもないのである。なのに、経済学の理論ときたら...


フリードリッヒ・リストが反駁する相手は、アダム・スミスをはじめ、J.B.セイ、T.R.マルサスら。
しかしながら、反駁するに値するかどうか?まず、これが問われる。すべてを否定するのではなく、ドイツの国民性に適合するかどうかという視点から論じられる。
リストが生きた時代は、ウィーン体制という新たな国際秩序を迎えた時代。ナポレオン戦争に勝利したイギリスは、東インド会社を通じてアジア貿易を独占し、北アメリカ、アフリカ、オーストラリアを植民地に従え、世界の海の覇権を握っていた。
一方、ドイツは、神聖ローマ帝国が消滅し、連邦国家として生まれ変わったばかり。アダム・スミスらが唱えた理論は、国際貿易の成熟した経済モデルであって、当時のドイツには時期尚早というわけか...
尚、正木一夫訳版(春秋社)を手に取る。


経済合理性を問えば、その基盤に自由精神が据えられる。それは、多くの経済学者で共通するところ。ケインズだって、恐慌の処方箋として政府介入の必要性を唱えただけで、自由な経済活動が根底にある。積極的な財政政策が、しばしば一部の業界との癒着を招くのも事実だけど。
リストとて、例外ではない。いや、自由主義的な傾向はより強いかもしれない。というのも、本書には、「自由」という言葉があらゆるところに散りばめられている。ここに資本主義という用語は見当たらないが、資本主義と自由主義がすこぶる相性がいいことも見て取れる。
自由な経済活動とは、生産者側の自由だけではなく、消費者側の自由を伴って機能する。セイの法則が唱える... 国民所得は総供給量によって決まる... といった命題も、すぐに限界点に達する。理想を言えば、経済合理性とは、自由意思が万民に浸透し、かつ平等に行き渡った状態を言うのであろう。そのために自由には制限が必要となり、この制限が経済学では保護の概念と重なる。
自由意思ってやつは、実にデリケート。押し付けがましい自由は、むしろ自由精神を破壊してしまうばかりか、弱肉強食と化す。自由精神を育てる上でも、保護の必要な期間がある。過保護によって、搾取産業に成り下がるのでは何をやっているのやら。したがって、保護政策には慎重を期する。国民性に適合した形の保護でなければ。つまり、資本主義には、様々な文化や慣習に応じた段階や形があるってことか...
自己を見つめ、多様性を尊重すれば、グローバリズムに振り回されることもあるまい。労働は富の原因で、怠惰は貧乏の原因... といった考えは、アダム・スミスよりも、ずっと大昔にソロモン王が提示した。ならば、こう問わずにはいられない。何が労働の原因か?何が怠惰の原因か?と。そんなことは、個人の問題だし、自由の問題。答えは、経済理論なんぞ当てにせず、自分の心の中で静かに唱えるさ...


「隷属状態に陥った国民は、獲得することよりも、獲得したものを維持しようと努める。反対に、自由な国民は、維持することよりも、獲得しようと努める。」
... モンテスキュー


本書で注目したいのは、工業と農業のバランスが国力を強化していくという考え方である。リストは実際にアメリカ合衆国に渡り、この新世界の国力を工業力だけでなく、農業力とのバランスに見たようである。現在でも、超大国の国力を工業やハイテク産業で測る傾向があるが、実は、農業大国であることが大きな要因であることを、この時代にあって既に見抜いていたようである。
イギリスでは農業人口が大量に流出したが、ドイツは、そうなってはならないと。これは、まさに現代社会が抱える問題の一つ。
国民の支持を得ない産業は衰退するだろう。そして、それは時代とともに移ろいやすい。21世紀では、自然環境に配慮しない産業はヤバい!そして現在においても、農業の地位の低さは如何ともし難い。人間は喰わなければ生きてはゆけない。そして、農業は食糧に直結する産業だ!なのに...
伝統的な経済政策では、自由貿易と保護政策を産業別に区別する観点から、それぞれ相性のいい業種が配置されてきた。前者が工業で、後者が農業である。自由貿易で鍛えられた工業者は視野も広く、将来を見据えており、対して、国内に閉じ籠もった農業者は知識レベルも低く、目先の補助金に釣られる、といった見方がある。
リストの保護政策では、工業者が牽引役となって農業者を啓蒙し、双方の相乗効果によって国力を高めることを主眼に置く。国力は国民性や人間性と密接にかかわり、物質的な要素だけでなく文化的な要素を伴わなければ、真の国力は養えないというわけか。そして、教育論的な視点も...

「如何なる所また如何なる時においても、市民の知性・徳性および活動性は国民の幸福と比例し、富はこれら諸々の性質とその増減を共にしている。併しながら個人の勤勉や節約・発明心や企業心は、それらのものが市民の自由・公の制度および法律により、国家行政や対外政策により、とりわけ国民の統一や勢力によって支持されていなかった所では、決して偉大な事を成し遂げてはいない。」


また、イギリス式自由とドイツ式自由の違いも指摘している。前者は個人主義が基盤となっているが、後者は個々が国家における役割を認識することを要請している。ここには分業の意義が含まれ、合目的的な人生を求めるところは哲学的でもあり、いかにもドイツ流。
しかしながら、あまり高尚な目的を要求すると、抑圧的な義務や責任に転嫁され、その延長上に国家主義に通ずるものを予感させる。そこまで行ってしまうと、自由はむしろ阻害され、リスト哲学に反する。そして歴史は、後の二つの世界大戦を通じて、国家主義的イデオロギーを顕著化させることに。なんと皮肉な...


いくら自由貿易を崇めても、相手がいなければ成り立たないのであって、その取引では優位な立場を引き出そうとする。リストが生きた時代、国力の差は歴然としており、多くに国が隷属関係を強いられた。輸出では得意分野で荒稼ぎし、輸入で経済的弱点を補うとすれば、21世紀の今でも状況は大して変わらない。いまだ重商主義から脱皮できていないのか。いや、サヤ取り主義で、さらに重商化(重症化)しているような。これに対抗するために、保護主義をますます加熱させることに...
重商主義によって富国強兵の道を突き進むことになるが、保護政策にも負けず劣らずナショナリズムを高揚させていく。愛国心や郷土愛、あるいは民族愛の類いは、人間なら誰もが持っているだろう。自己存在を認識する上で、アイデンティティを確認する上で。そうした認識自体は悪いことではないが、その心理過程で自己に反する属性を蔑み、自己優越感に浸り、宗教心の後押しで迫害までやってのける。これは、言わば人類の性癖。いかなる国家にも、国民の嫉妬や偏見偏狭はつきもの。集団社会はこれを助長する。愛は最も崇められるだけに、こいつの集団暴走ほどタチの悪いものはない...