2022-07-17

"差異と欲望 ブルデュー「ディスタンクシオン」を読む" 石井洋二郎 著

生涯に一度は読んでみたい...
そう思いつつ、ToDo リストに何十年も居座ってるヤツらがいる。大作ってやつは、分かりやすさに群がる風潮にあっては、近寄りがたい存在に成り下がる。そんな時、天の邪鬼な性分が救ってくれる。気まぐれは偉大だ。難解さを理解への渇望に変えちまうんだから。まずは知識の下地が欲しい。前置きとなる歴史背景が欲しい。ピュアな情熱に触れるには、前戯を丹念に...
ピエール・ブルデューの著作「ディスタンクシオン」も、そうした一冊である。解説書の類いが多く出回るのは難解な証拠であるが、それだけではあるまい。解説書や翻訳書が原作の本質を暴けば、それが原本にフィードバックされ、重厚な改版に生まれ変わる事例も少なくない。これが、知の世界というものか。知識や教養は、私有、独占できるものではないし、共有こそが本来の姿なのであろう。共有すれば、悪意に晒すことにもなるのだけど...

フランス語の "distinction" を辞書で引くと、動詞 "distinguer" の名詞形で、区別、弁別、識別といった意味が出てくる。これの過去分詞 "distingué" が形容詞として用いられると、上品な、気品のある、といった意味になるらしい。したがって、「ディスタンクシオン」とは、「差別化」「卓越した品位」の両方の意味を含んだ用語だという。
人間は、比較においてのみ自己を自覚し、他を認識できる。それは、相対的な認識能力しか持ち合わせていない知的生命体の宿命。経験を積めば、自己を時間軸にマッピングしながら、自己と自己とを比較することもできよう。となれば、人間は絶えず差異の確認作業に追われて生きているとも言える。その場合、過去の自己は、すでに自己ではないかもしれんが...
差異は欲望を生み、欲望はさらなる差異を生み、そこにアイデンティティとやらを結びつける。それが単なる差別意識に終わるか、そこに卓越性なるものを見い出すかは、かなりの隔たりがあり、その隔たりを乗り越えるために、自由や自律といった洗練した欲望がともなう。「ディスタンクシオン」という言葉に込めたブルデューの思いに、人間の本質を垣間見る思い...

「人間は、他人と異なっていることにも、他人と同じであることにも、ともに耐えられない存在である。他人と異なっていれば、他人と同じになろうとする。他人と同じであれば、他人と異なろうとする。要するに人間は、相反する二つの欲望に引き裂かれた存在である。他人と同一化したいという欲望と、他人と差異化したいという欲望と...」

著者の石井洋二郎氏は、「ディスタンクシオン」の翻訳者として知られる。翻訳者が最も理解した立場とは言い切れないが、最もピュアな情熱をもって触れているということは言えそうか。本書は、この難物に立ち向かう術(すべ)として、「資本概念の拡大」「社会空間とライフスタイルの結びつき」「ハビトゥスとプラティックの概念」という三つのアプローチからヒントを与えてくれる。

「資本概念の拡大」とは、何を持って資本とするか、それは解釈の問題でもある。資本ってやつは、なにも金銭だけで測れるものではない。自己実現や自己啓発といった動機は独善的な自問を繰り返しながら、どんな情報も、どんな経験も、自己資本として捉えることができる。文化資本に、社会資本に、環境資本に... 精神的土壌を整える糧として...
経済学的には、資本は投資と結びついて合理的となる、いわば両輪。なんでも貪欲に自己投資しちまうのが、哲学する!ということかもしれん...

「社会空間とライフスタイルの結びつき」については、支配階級、中間階級、庶民階級といった分類に始まり、経済的格差や身分的差別に人種差別的意識、選好空間の分散やライフスタイルの多様化といった側面から人間認識の根源を追う。
フランス社会では、支配者階級と労働者階級で明らかな区別があり、ブルジョワやプロレタリアといった用語も輝きを放つが、日本社会ではどうであろう。階級なき社会などと形容されることもあり、プチブルや小ブルジョアといった用語の方がしっくりいくであろうか。戦時中の一億総玉砕の意識は、戦後に一億総中流の意識へ移行し、集団意識の強さは変わらないようである。経済的格差や身分的差別はヨーロッパ社会に比べると小さそうだが、その分、集団的な排他意識が強そうな。村社会、いや、村八分社会と言われる所以である。ライフスタイルは多様化しているものの、それを影で否定し、陰湿な攻撃を仕掛ける集団性が蔓延り、顔の見えぬ仮想空間となれば、誹謗中傷の嵐が渦巻く...

「中学校から大学にいたるまで、ほとんど露骨と言ってもいいような学校同士のランク付けがなされている。学校とは個々の生徒を差別化する制度であると同時に、みずから集団的に差別化される対象でもあるからだ。そして個人の偏差値と学校の偏差値のあいだには、きわめて緊密な共犯関係が成立する。」

「ハビトゥスとプラティック」は、両輪をなす概念だという。
"habitus" という用語は、habitude(習慣)からも想像できるように、後天的に獲得されたもろもろの性向であり、思考や行動様式そのもの。わざわざ「ハビトゥス」という言い方を持ち出して習慣と微妙に区別した理由は、「強力な生成母胎」というニュアンスを強調するためだとか。それは、ほとんど無意識化されたルーティンのような感覚であろうか。人間の本性は、無意識の領域に広大な部分があるということであろうか。
そこで、"pratique" という用語が補足してくれる。このフランス語の単語には、大抵「実践」という訳語が当てられるらしいが、英語の "practice" と重なり、意欲的な行動をイメージさせる。ただ、フランス語の文脈では、マルクス = サルトル的なイメージで用いられることが多いという。ここでは、「慣習行動」という用語を当て、無意識の領域をも含んだもっと広い意味を与えている。
となると、慣習行動はいかに惰性化を免れ、主体なき実践となりうるか?と問わずにはいられない。慣習は恐ろしい。実に恐ろしい。日々の繰り返しが、いつのまにか義務のような感覚に囚われ、疑問すら感じなくなる。それだけで行動規範と化し、自分自身の行動パターンを縛っちまう。常識ってやつも、この類い。
だがその反面、規範ってやつは、逆らいたいという意識をどこかに忍ばせ、突然爆発するパワーを誘発させることがある。それが、自由意志ってやつかは知らんが、アリストテレスは、こんな言葉を遺してくれた。「人は繰り返し行うことの集大成である。それゆえ優秀さとは、行為ではなく、習慣である。」と...

... こうして眺めていると、「ディスタンクシオン」という用語に、卓越した差別化といったものをイメージしてしまう。人間は、本質的に差別好きな動物である。ならば、差別するという性癖を率直に受け止め、これを卓越したものに化学変化させるにはどうするか、などと問えば、なんと酷な要請であろう。卓越性とは、それ自体が他との区別であり、優越意識でもある。
その意識がネット社会に晒されると、たちどころに大衆化し、弁別機能を失う。差異を意識するあまりに、それに属すグループが異様なまでに似通ってしまうのである。
卓越性がさらなる卓越性を求めれば、大衆というグループに属すことを極端に嫌うようになる。自己が存在を意識するということは、わたしはあなたではない!ということを強烈に意識することだ。それは、自由意志によって裏付けられるのであろうが、自由意志ってやつは必ずしも意識的に働いているとは限るまい。むしろ無意識の領域に本性が隠されているのやもしれん。無意識の領域にまで卓越性を求めるとは、なんと酷な!意識の領域ですら、みすぼらしいというのに。哲学者という人種が、金銭や名誉なんぞではけして満たされない、最も貪欲な存在に見えてくる...

「社会がその健全なダイナミズムを維持することができるとすれば、それはただ、私たちがみずからの欲望を励起しながら、ざわめく差異の群れを次々に差別化のプロセスへと送り出し、社会というテクストを絶えず新たに織りなおすことによってのみである。いかなる絶対化からも自由な場所で、あらゆる停滞と硬直に抗しつつ、みずからを熾烈な差別化 = 卓越化の運動にさらすこと。差異のフェティシズムを周到に回避しながら、しかし執拗なまでに差異を生産しつづけること。『ディスタンクシオン』とは結局のところ、社会に生命を与える最も根源的な集合的欲望の別名にほかならない。」

2022-07-10

"アルファベットの事典" Laurent Pflughaupt 著

おいらは、大の辞書嫌い。かつては、そうだった。義務教育時代に国語アレルギーを摺り込まれ、事典と名のつくものを避けてきたところがある。
しかしながら、知の宝庫を放棄するのは、あまりにもったいない。合理的に生きるためにも。ましてや今の時代、辞書を引くのも随分と手軽になった。引くというより検索!仮想空間には専門や雑多な知識に溢れ、ウィキウィキ百科に、ウェブリオ・シソーラスに、グー国語辞典に、グルグル翻訳に... おまけに新旧漢字対照表や手書きサイトまで...
多角的な知識は多様な解釈やアイデアの種となり、なにも辞書通りに生きることはあるまい。辞書の視点に奥行きや柔軟性という感覚が加わると、言葉の視界がぐっと拡がる。いや、そんな気分になれる。人生の合理性に、気分は重要である...

言葉は、時代とともに変化してきた。言葉は精神の表れとも言われるが、精神という実体を完全に解明できない限り、これからも変化し続けるだろう。
言葉の柔軟性こそが言葉そのものを豊かにし、記述の仕方や使い方などで、そのセンスが問われる。言葉が変化すれば、その構成要素をなす文字そのものも変化してきた。ただ、人間は変化を嫌う動物でもあるのだけど...
ここでは、アルファベット 26 文字に焦点を当てる。事典ってやつは、なにも読むだけのものではあるまい。文字の形を歴史年表上にマッピングすれば、風景のように眺められ、まるでフォント事典!
猫も杓子もデジタル化を叫ぶ昨今、杓子定規的なシステムフォントを押し付けられて、うんざりしているところに、アナログ風フォントや手書き文字に癒やされようとは。グラフィックアートの真髄は文字にあるのやもしれん。著者ローラン・プリューゴープトの紹介には、グラフィックデザイナー、書家、画家とある。なるほど...
尚、南條郁子訳版(創元社)を手に取る。

「文字にオマージュを捧げること、それが本書の目的である。」

人類最古の文字といえば、古代メソポタミアの楔形文字や古代エジプトのヒエログリフに遡る。楔形文字はシュメール人が使った絵文字の発展形とされ、有名な記述に「ギルガメシュ叙事詩」がある。
ヒエログリフは、ギリシア語の "hieros(神聖な)" と "gluphein(彫る)" からつくられた名称だそうな。いわゆる象形文字のことだが、これを解読する出発点になったのが、あのロゼッタ・ストーンである。"gluphein" という言葉は、グラフィックの語源にも通じそうな。グラフィックの源泉は、線を彫ることにあろうか...

文字の変化は形だけでなく、それを表記する手段までも変化してきた。まず彫る作業に始まり、ペンを走らせる作業へと変化し、今では、キーボード入力やフリック入力。手段がどんなに進化しようとも、一次元の情報を二次元にマッピングする行為に変わりはない。一次元の行為ならば、書き順までも規定される。
ただ、キーボード入力に慣れちまうと、「漢字」の記憶がおぼろげになり、いざ手で書こうとすると、書き順も忘れ、形がこんな「感じ」ってな具合...
写真技術が発明された時代は絵画の衰退が叫ばれたらしいが、そうはならなかった。印字技術がどんなに進化しようとも、手書きがなくなることはなさそうである...
また、直線や曲線を空間に解き放てば、線と線で挟まれた空白の膨らみが存在感を強調する。線を描くということは、いかに空白を彩るか。文字のアイデンティティってやつは、線そのものよりも空白の方に大きな意味があるのかもしれん。存在とは、無の引き立て役に過ぎないのかもしれん...

本書は、「手で書く」という行為を通して、文字の在り方を熱く語ってくれる。
「まず『手(main)』についていうと、この単語は『人間(humain)』という単語の第 2 音節をなし、ラテン語の manus(手)に由来している。manus は印欧語根 m-n からつくられているが、ラテン語の mens(知性、精神)や、英語の man(人)も同じ語源をもっている...。こうしてみると、どうやら『手』という単語においては、それが本来あらわしているもの以上に、その本質ともいうべき肉体と精神の基本的な相互作用こそが重要であるらしい。
  ... <略> ...
それでは『書く(écrire)』という単語はどうだろうか。この単語はラテン語の scribere に由来し、scribereは<切り目><刻み目>などに関係する印欧語根の ker や sker からつくられている。それなら『書く』とは、記号を刻みつけて概念をそこに固定することであって、かならずしも多くの辞書が示唆しているように、『それを使う人たちの間で取り決められた文字記号によって言葉を表すこと』とは限らないだろう。」

文明社会では、文字は誰もが理解できる通信プロトコルとなっている。文字が文字たるための重要な要素は、形を規定することと、音を固定すること。線で形作るパターンは無限にあり、音声にしても、母音と子音が基本要素としながら、歯音、歯茎音、舌背音、口蓋音、軟口蓋音、咽頭音、喉頭音、唇音など、その組み合わせは無限にある。
通信プロトコルとなりうるには、形や音声が合理的に単純化されてきたはず。文字そのものにも、慣習によって刻まれてきたイメージがあろう。デジタル社会では絵文字が流行り、意味を知らないネアンデルタール人は馬鹿にされる。おまけに、プレーンテキストだけで視覚効果を与えるアスキーアートまで出現する。こうした風潮は、古代回帰にも映る。

グラフィックの世界では、これに色が加わる。色は電磁波の物理特性であり、白色光をプリズムに通すと、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫に分散できる。たいていの場合、トゥルーカラーの 24bit で十分であろうが、達人ともなると、48bit や浮動小数点カラーまで持ち出し、そこには無限色が渦巻く。ただ、Web で多用される透明色の Transparent 属性は、特別な輝きを放っていると見える。どんなに高精細な表示システムも、無色の引き立て役なのやもしれん...

「美術作品の要素のうちで色ほど魔術的なものはない。主題やフォルムや線はまず思考力に働きかけるのに、色は知性にとっては何の意味もなく、ひたすら感性に訴え、感情を揺さぶる。」
... ウジェーヌ・ドラクロワ

本書は、アルファベット 26 文字が、それぞれ象形となったいきさつを物語ってくれる。ややこじつけ感があるものの、着想は愉快!実に愉快!
例えば...

A は、アルファベットの最初の文字にして、最初の母音字。フェニキア文字の先頭を飾るアレフに当たり、雄牛を表す絵文字に由来するという。クロスバーをやや低めに配置して安定感や重量感を与え、ピュタゴラス学派が愛した三角形をイメージさせる。
ただ、クロスバーのない書体もある。例えば、おいらが愛用するマザーボードメーカ ASRock のロゴには、A にクロスバーがない。クロスバーがなければ、二本の線が二項対立を表す、という解釈も成り立ちそうか。そして、その結び目の頂点に、高次の実在を夢見たかは知らんが、文字を発明した人は最初の文字に強い思い入れがあったと見える...

N は、否定や内面性を意味するという。斜め線には、右上がりに上昇を、右下がりに下降をイメージさせるのは、経済指標の見すぎであろうか。そして、A, M, W, V, W は、右上がり線と右下がり線が結びついているが、右下がり線だけの文字は、N のほかに見当たらない。
それで、H は安定ってか。柵がハシゴになってできた文字?うん~...
ならば、おいらは、S に、波乱万丈か行き当たりばったりを、X に人生の行き違いを、Y に人生の分岐点を、終いには、Z に S が角張って人生の行止りをイメージしちまう。ちなみに、XYZ というカクテルは味わい深い...

U & V には、器、土、母体をイメージして、老子の言葉まで飛び出す...
「埏埴以為器。當其無、有器之用。」
(粘土をこねて器をつくる。その中が空であるところに器の有用性がある。)

2022-07-03

"モノここに始まる" John Beckmann 著

ここに収集された知識の群れは、分類すれば雑学ということになろう。いや、ウンチクのオンパレード!誰かからの又聞きの又聞きに、その又聞きの又聞きといった推定文体が押し寄せてくれば、まるで伝言ゲーム。
しかし、知識なんてものは、総じてそうしたものかもしれん。例えば、地球は丸く、自転しながら太陽の周りを公転している... なんて当たり前のことも、義務教育で叩き込まれただけのこと。自分の目で確かめたわけでもなければ、巷で馬鹿にされぬよう用心するばかり。疑うこともできなければ、宗教と何が違うのだろう。まるで、逆ガリレオ心理学、異端審問にでもかけてくれ!
そこで、ウンチクなら安心して疑ってかかれるし、なによりも好奇心を焚きつける。すべての物事に始まりがある。その根本にある動機は、やはり好奇心か。健全な懐疑心を保ちつつ知識を豊かに調和させるには、ウンチクあってこそ。好奇心が後押しすれば、どんな突飛な発想も受け入れられる...
尚、今井幹晴訳版(地球人ライブラリー)を手に取る。

本書が扱う題材は、あまりに多種多彩で目が回る。日用品では洗濯石鹸や黒鉛の鉛筆... 経済観念では複式簿記や錬金術... 発明技術では蒸気機関や携帯時計... 自然物ではチューリップや電気石... 嗜好品では手品や機械人形... 制度では公衆衛生や金融... と、仕込まれたネタは実に四十数個にのぼる。
博物学とやらが、いつの時代に始まったかは知らんが、古代ギリシア時代にその源泉を辿ることはできよう。万学の祖と称されるアリストテレスは、形而上学、倫理学、論理学、自然学、政治学など、多岐に渡って学問の道を切り開いてくれた。叡智とは、総合的な知識を得、それらを調和させることにあると言わんばかりに...
しかしながら、知識を深めれば、高度に専門化していくは必定。学問分野は多岐に渡って細分化され、時代とともに総合的な調和を求めることが難しくなっていく。
そして、ヨハン・ベックマンの試みに、学問の始まりに立ち返って博物学の始原を見る思い。なにごとも、その本質を知りたければ、事の始まりを探求すること、という考えは一理ある...

ベックマンが生きた時代は、18世紀後半。ヨーロッパでは実験科学が脚光を浴び、理論的な仮説から脱皮して実証的な見解が重要視されていく。彼は、ヨーロッパ圏の十ヶ国語を修得して暗黙の言語パスポートを手に入れ、実際に各地で見聞したものと古代文献とを比較しながら見識を広げていったという。
例えば、スウェーデンでは、鉱山での作業を通じて、鉱石や地質についての研究に没頭したとか。当時、石炭を始めとする鉱石が物事を動かしたり、変化させたりする原動力とされ、科学者たちが化け学に群がった。かのニュートン卿までも錬金術に執着したことは広く知られる。
本書では、天文学で惑星の名と金属の名の関連性に執着し、物質の根源を金属原子に求めるあたりは、周期表でエネルギーの根源を探っているようにも映る。時代の象徴を元素で表すならば、現在はシリコンといったところか。その視点は、唯物論的であり、機械論的であり、これを構造主義の始まりと見るのは行き過ぎであろうか...
また、経済学では、一般的なものと違い、民族学的であり、生態学的であり、さらに宗教的慣習までも含んでいる。これを厚生経済学の始まりと見るのは行き過ぎであろうか...
ベッグマンの思考回路には、物質面では原子論に立ち返り、社会面では人間の本性に立ち返る、といったパターンがあるようだ。そして、すべての始まりが人類の叡智によってもたらされ、すべての物事が自由と欲望に看取られていたとさ...

1. 文明人とは、文明の重荷を背負う人種か...
人口が溢れていくと、多種多様な職業が生まれる。技術で収入を得る者、人を楽しませて収入を得る者、人の苦しみを和らげて収入を得る者、そして、人を騙して収入を得る者など。
手品のように、太陽によってできる影、不思議な力をもつ電気、身体を映し出す鏡、金属を引きつける磁石など、自然現象を利用して大袈裟に演出して魅せれば、根拠のない迷信や秘跡、呪いや魔術といったものにのめり込む。火を使って感動を呼ぶ芸も多く編み出され、口から火を吹き出したり、花火職人もその類い。現在ではイルミネーションなどとお洒落に呼称される。
こうした芸は神をも恐れさせ、聖職者たちが実験科学に目くじらを立てるのも頷ける。そして、伝統あるメディチ家に枢機卿という特権を与え、科学の進歩を抑え込もうとした。人口密度が過剰になれば、娯楽が多様化する反面、働く機会を失う者も増え、犯罪も巧みになる。すべては人口論に看取られているのであろうか...
「文明社会は、子孫の繁栄という本能的な強い衝動を、どのように幸福に結びつけていったらよいかを教えてはくれず、結婚を苦しみに満ちたものにしたり、重荷にさせてしまう。文明から遠くへだたった未開の地に住んでいる人々は、このような悩みがないようだ。」

2. 価値あるブツには偽物が出回る...
価値が本当にあるかどうかは別にして、価値があると認められたものには偽物が出回る。添加物という発明品は、もともとはワインの味を台無しにする酸味を抑えるためのものであったが、やがて食品添加や食品保存などの本来の目的を見失い、俗悪な味を誤魔化すために用いる悪質業者が出現した。
庭を飾る優雅なチューリップは、貴族階級の象徴とされて価値が高まると、やがて市場で投機の対象となり、チューリップなんぞに興味のない連中までも先物相場に群がった。チューリップ狂は、経済学で忌まわしい記録として語り継がれ、市場価値の脆弱性を物語ってくれるが、今も尚、対象物を変えながら受け継がれている。
社交界で貴婦人たちが真珠の美しさを競えば、人造真珠を発明する者が出現した。ところで、真珠って本当に酢に溶けるの?クレオパトラ伝説が本当かどうかは知らんが、彼女は恋人と賭けをし、酢に漬けた真珠を自ら飲み込んで見せ、見事に賭けに勝ったとさ...
すべては価値の欺瞞か。現代風に言えば、価値の仮想化!うん~... 実にうまい言い方である。
錬金術もその類いか。古くから、物品を高価に見せるために金メッキという技がある。これに使用するアマルガムの性質を、古代人はよく知っていたそうな。多量の水銀を金属に練り合わせるとペースト状になり、これがアマルガムってヤツ。水銀は、金属と簡単に混じり合うが、土と混じり合わない性質があり、加熱すると蒸発するので、金や銀を含む鉱石などの物質から貴金属を分離するのに利用できる。金メッキの場合、アマルガムを塗って水銀が蒸発するまで加熱すれば、表面に金だけが残るって寸法よ。
現在では、水銀が有毒であることが知られ、歯科医院では歯の詰め物にも使われてきたので健康被害も囁かれる。
また、超伝導体としても知られ、最先端技術への応用が期待されるばかりか、古代遺跡でも発見され、考古学的にも意味深い存在となっている。
いずれにせよ、人類の叡智は、善にも悪にも作用する。どんなに優れた技術も、悪用は避けられそうにない...

3. なぜ記録をつけるのか...
記録をつける行為が、歴史の礎となっているのは確かである。日記をつける習慣は古くからあり、現在でも思い出を写真や動画に残したりと。それで生きた証しを残そうってか。死を運命づけられた知的生命体は、未練がましいってか。
ただ、記録が正確だとは限らず、欺瞞や誤謬がつきもの。忌まわしい過去に至っては抹殺されてきた。
古代ギリシアでは、病気にかかって健康が回復すると、その症状や治療法について書き記し、医術の神アスクレピオスの神殿に納めたという。この記録は、医学の父ヒポクラテスも利用したと言われる。
一方で、伝染病に関する検疫制度や防疫制度の記録はお粗末らしい。そんな記録を残せば、忌まわしい病の発祥地が、わざわざ自分の土地だと宣言するようなもので、国家の思惑が絡んできたことも想像に易い。
例えば、ペストについては、トルコ人はエジプトからきたと信じ、エジプト人はエチオピアから持ち込まれたと断言する。もちろんエチオピア人だって...
地理的には、レヴェント近郊のトルコと、トルコと頻繁に交易した地域で何度も発生しており、これらの国々で検疫制度が確立されたと言われる。それで、新型コロナの震源地はどこかって?そんなことは知らんが、政治的駆け引きは相変わらずのようである。
人間社会では、善であろうが、悪であろうが、情報は操作される運命にある。陰謀や謀略で用いられる医薬品に、秘毒というものがある。飲んだ人に気づかれぬよう軽い持病のような感覚を植え付け、徐々に生命を弱らせていく毒薬である。
十七世紀のイタリヤとフランスほど頻繁に造られ、巧みに使用された時代はないだろうって。いや、病気がなくなれば医者は儲からないし、秘毒だけにいつどこで仕込まれるやら。国家が関与すれば、隠蔽工作や文書改竄なんぞお茶の子さいさい。
ちなみに、あぶりだしインクの歴史は古く、古代ローマの詩人オヴィティウスは、親の目を忍んで恋人に手紙を書く手法を述べているという。恋文に暗号文の始まりを見る思い。セキュリティシステムだって適当に穴を仕込んでないと、誰もアップデートしなくなり、経済的に立ちゆくまい...

4. 人間の心理学には損得勘定が働く...
金銭感覚に貸し借りのバランスシートが根付いたところで、心理的には見返りの原理が働き、利息は膨れ上がるばかり。これが、イタリア式簿記、すなわち複式簿記の本性か。
そもそも宗教には施しの原理が働く。そして、貸し借りといった行為も、そうした慣習から始まったのであろう。ただ、孤児養育所などに入所する子供を集めるのはそれほど難しくないが、親代わりとなって面倒を見る人を集めるのは極めて難しい。
宗教では悪書は禁書とされるが、悪書が戒めとなったり、反省を促すところがある。善行が社会に必ず良い影響を与えるとは言えないし、盲目を奨励するところがある。貸し借りも、善悪も、そして、様々な知識にもバランスシートが必要やもしれん...
「キリスト教は慈愛や慈悲を人にほどこすことを信仰の中心にかかげているため、じつは血も涙もない残虐行為であるのに、それとは気づかずに善行であると思って押し付けることがある。かと思えば、貧困な人々に対してはいたって寛容で、あまりにも寛容すぎるために、かえって貧困者を増やしてしまう事実は否定できない...」

2022-06-26

"貨幣改革論 若き日の信条" John Maynard Keynes 著

おいらは、経済学が大っ嫌いだ!義務教育時代に思いっきり劣等感を押し付けられた国語よりも。だがそれも、天の邪鬼な性癖が救ってくれる。
どんな学問であれ、專門知識の前では誰もが素人... そんなことを言ってくれた学者は誰であったか。元々数学者であったケインズも、一般理論の序文で、これを読むのは経済学の専門家であろうが、是非大衆にも読んでもらい議論に参加してもらいたい... といったことを書いてくれた。天の邪鬼でも、こうした言葉には素直に耳を傾け、勇気づけられるのであった...

さて、論語読みの論語知らず... という格言があるが、ケインズ知らずのケインジアン... というのも見かける。どんな理論にも的外れな批判はつきものだが、これに負けじと的外れな擁護派も湧いて出る。どんな学問分野にも、哲学を引き継がず、手段だけを持ち出す事例はわんさとあるが、特に経済学は顕著に現れる。この分野が人間学に根ざしているのを置き去りにして。いや、人間集団工学がそうさせるのか。
ケインズが指摘したように、マクロ的な視点とミクロ的な視点でまるで景色が違うのも、この分野の特徴である。彼が「貨幣改革論」を発表したのは四十の頃。経済学者としては遅咲きであったことも興味を惹く。経済学という分野は、專門に特化した高度な知識よりも、総合的な視野に立った知識のバランスこそが鍵となりそうな...
尚、本書には、「若き日の信条」、「自由放任の終焉」、「貨幣改革論」、「繁栄への道」、「戦費調達論」の五篇が収録され、宮崎義一、中内恒夫訳版(中公クラシックス)を手に取る。

「経済学者や政治哲学者の思想は、それが正しい場合にも間違っている場合にも、一般に考えられているよりもはるかに強力である。事実、世界を支配するものはそれ以外にはないのである。どのような知的影響とも無縁であるとみずから信じている実際家たちも、過去のある経済学者の奴隷であるのが普通である。経済哲学および政治哲学の分野では、二十五歳ないし三十歳以後になって新しい理論の影響を受ける人は多くなく、したがって官僚や政治家やさらに煽動家さえも、現在の事態に適用する思想はおそらく最新のものではないからである。しかし、遅かれ早かれ、良かれ悪しかれ危険なものは、既得権益ではなく思想である。」
... 「一般理論」より

本書の流れは、こんな感じ...
まず、「若き日の信条」では、G.E. ムーアの「倫理学原理」とラッセルの「数学原理」に没頭した熱き日を振り返り、ベンサム主義嫌いを露わにする。若き日のケインズの眼には、功利主義が弱者切り捨ての論理に映ったようである。
そして、「自由放任の終焉」では、マクロ的な貯蓄や投資の調整、あるいは、適切な人口政策を説き、「貨幣改革論」では、金本位制を猛烈に批判し、物価安定のための管理通貨制度の導入を提言している。当時、大蔵大臣だったチャーチルは、真面目に金本位制への回帰を唱えていたらしい。

「保守主義と懐疑主義はしばしば結託するものであるが、おそらくは、そのうえに迷信まで加わって、金はなお色香衰えず魅力を保っているのである。十九世紀の変動のはげしい世界にあって、金がその価値の安定の維持に成功したことは、確かにすばらしいことであった... だが、将来の状況は過去の状況とは異なる。戦前に均衡を保たせた特殊条件が継続すると期待する十分な根拠はないのである。」

また、アメリカ政府のドル本位制には皮肉を交える。金本位制を維持すると宣言しておきながら、実のところ、金の価値にドルの価値を一致させるのではなく、ドルの価値に金の価値を一致させるために巨額を投じていたという。現在でも、世界通貨という地位をめぐって様々な駆引きがあるが、大国の論理というヤツか...

「口先だけで金本位制を維持していた最後の国で金の非貨幣化が行われたのであり、黄金の仔牛に代わってドル本位制が祭壇に安置された... これは、新しい叡智と古い偏見とを結びつけることが可能な富裕な国のやり方である。」

「繁栄への道」では、公共投資による需要創出の効果と、さらに、各国政府が協調できる世界経済会議の開催を提案している。
五篇に渡って、総じて論じている点は、経済状況に応じて、政府がなすべき基準を定めよ!といったところであろうか。経済政策を論じる場面というのは、たいてい不況局面であろうし、政府の役割が大きくなるのも頷ける。言い換えれば、経済循環がある程度機能している時は、政府は口出しすな!とも解せる。
しかしながら、政治家ってやつは、いつも存在感を強調したがる連中で、好況な局面では地元選挙民へ予算を捻出したり、同調できる政策であっても他人がやると反対する立場をとったりと、なんでも自分の手柄にしないと気が済まないと見える。政治ってやつは、本来は裏方の仕事であり、やたらと政治家が目立つ社会は、あまり健全とは言えまい...

ところで、ケインズは、大きな政府論者の代表のように言われるが、それは本当だろうか。公共事業の推進者、あるいは、バラマキ政治の代弁者のような言われよう。
確かに、大きな政府は累積する財政赤字の元凶となるが、経済危機や大恐慌のような局面では、強力な指導力を持つ政府が必要となる。景気には波があり、どんなに好況であっても不況の業種が必ず生じる。一時的な傾向に無理やりケインズ理論を適応し、特定の業種に助成金をバラ撒いたりすれば、経済全体を歪めてしまう。「戦費調達論」では、彼自身も愚痴をもらす...

「私は、自由社会に全体主義的方法を適用しようとするものだという攻撃を受けてきた。だが、これほど見当違いの批判はありえない。全体主義国家にあっては、犠牲の分配という問題は存在しない。それは全体主義国家が戦争の際に有する本来の利点である。政府の任務が社会的正義の要求によって複雑になるのは、自由社会においてのみである。奴隷国家にあっては、生産のみを問題とすればよいのである。貧困層や老年層は運を天にまかせるほかない。支配階級が特権をほしいままにするうえに、これほど都合のよい制度はない。したがって、本書の目的は、自由社会の分配制度を戦争の制約に適合させる方法を探すことである。」

ケインズが、戦争経済という概念を唱え、経済的に犠牲の再分配を論じていたというのは興味深い。結果的に、「戦費調達論」はヒトラーの手で実現されたとの評価もあるが、そう単純ではあるまい。
ちなみに、当時の日本には、戦争経済なんて概念すらなかったであろうし、情報に疎い体質、または、情報が希望的観測に利用される様は、現在でも伝統的に受け継がれているように見える...

ケインズ理論は万能ではない。というより、人間学において万能薬というものは、おそらく存在しないだろう。
例えば、日本では、バブル崩壊後、長期不況の中で金利が低下しても、物価水準は低迷したまま。ゼロ金利政策を打ち出したところで、デフレと不況の同居という難病を抱えている。その処方箋は、より大規模な財政政策を発動すべきか?それとも、日銀がインフレ率に大胆な数値目標を掲げ、なんでもありの金融政策によって実質金利をマイナスまで引き下げるか?あるいは、まったく別の視点から、構造改革を地道に推し進めて潜在能力を引き出すか?
こうした現象は、ケインズが想定した恐慌や失業とは別物のように映る。実際、金利がマイナスにまで低下しても、民間投資や個人消費が停滞を続けるなんて、誰も想像できなかったであろう。右肩上がりで邁進してきたツケのような。豊かな社会が引き起こした反動のような。あるいは、戦後、八千万に満たなかった日本の人口が、一億二千万まで増幅したことへの警鐘のような...
人間ってやつは、金銭的な欲望がある程度満たされると、別の欲望が芽生えはじめる。それが、より高度な欲望への移行か、低欲望への回帰かは知らんが...

2022-06-19

"経済分析の基礎" Paul A. Samuelson 著

「数学は言語なり」... J. ウィラード・ギィブス

これは、おいらが信奉している格言の一つ。まさか経済学の書で出くわそうとは。しかも、表紙をめくったら、いきなり掲げてやがる。
米国大学院では、一年目に理論とそれに付随する数学の修得に向けられ、「経済分析の基礎」は、第一に読むべし!とされるものらしい。ポール・サミュエルソンといえば、「経済学」という教科書的な大著があるが、これと並び評されるとか。
しかし、こいつぁ、本当に経済学の書であろうか。ルシャトリエの原理、オイラーの定理、ヤコービ行列、クロネッカーのデルタ、ラグランジュの乗数... と並べ立てられ、おいらの眼には解析学の書に見えてならない...
尚、佐藤隆三訳版(勁草書房)を手に取る。

数学には、連続性を保つ物理現象を扱う強力な道具に、微積分とやらがある。微分は、その時点における方向性や傾向を察知するのに役立ち、積分は、大きな流れや長期的な展望を掴むのに役立つ。経済現象は、ある種の社会現象で、そのほとんどが連続性に看取られている。たまーに、天災や人災によって、大恐慌やハイパーインフレなどの不連続な現象があるとはいえ...
景気には、必ず波が生じる。好況であっても、不況の業種が必ず生じる。一時的な流れに無理やり政策を施したり、特定の業種に助成金をバラ撒いたりすれば、経済全体を歪めてしまう。重要なのは、経済危機のような状況を未然に防ぐこと。そのために健康状態を常にモニタし、経済分析を怠るわけにはいかない。

本書は、この積分と微分の特徴に対応させて、静学と動学の観点を導入し、これらを協調させる様子を物語ってくれる。静学的観点では均衡状態を基底にし、動学的観点では、ある均衡状態から別の均衡状態への移行と見なし、比較静学と動学とが矛盾しないばかりか、相性の良さが論じられる。均衡状態からの移行を察知するには、数学的には、基準となる均衡状態から乖離する条件とパラメータを模作することになる。そして、「線型動学的体系」という用語の元で、重畳定理を基本に据えている。
経済理論ってやつは、人間の行動パターンに関して、合理的な経済人とやらを想定しがちだが、ここでは厚生経済学の立場から、その意義をアダム・スミスの道徳哲学に求めたり、均衡状態としてマルサスの人口論に触れながら、最適人口にも言及される。

また、ケインズ体系を単純化して、三つの変数、利子率 x1, 所得 x2, 投資 x3 に対して、三つの方程式、流動性選好 f1, 資本の限界効率 f2, 消費性向 f3 を配置し、符号だけで行列式を記述するだけでも、かなり経済動向が見て取れる。状態移行サインモデルとでも言おうか...

(sign fji) = + - 0
- + -
0 - +

ところで、微分と積分は、見事な対称性をなす。数学的対称性は、直交性として現れ、解析学には欠かせない性質である。
尚、直交性とは、幾何学で言うところの直角を、代数学的に抽象化した概念である。
本書にも、ちょいと顔を出すフーリエ解析にしても、正弦波と余弦波が美しい対称性をなす。数学的対称性があらゆる分析に有効なのは、物理現象を成分で分解し、互いの成分で打ち消す作用があるからである。ある現象を微分したものは積分すれば元に戻るし、積分したものは微分すれば元に戻る。物理現象を記述するのに、微分方程式ほど便利な道具もあるまい。便利だからといって使いやすいわけではないけど。そればかりか、使い方を間違えると大変なことになるけど。
こいつの組み立て方は簡単で、すべての変数を抽出し、各々偏微分した項の総和で記述できる。組み立て方が簡単だからといって、解くのも簡単というわけではないけど。
金融屋が群がるデリバティブ評価で有名なブラック・ショールズ方程式にしても、微分方程式である。

しかしながら、方程式には魔物が棲む。そう呼ばれるだけで、明確な答えが得られると錯覚しちまう。やはり微分には、方向性や傾向を嗅ぎ取るぐらいの役割にとどめておく方が合理的であろう。大局的に眺めるには積分で...
微分方程式の厄介なところは、初期条件と境界条件の見極めの難しさにある。経済理論では、多くの場合、均衡方程式に対して極大値や極小値を仮定する。企業戦略で利潤の最大化を想定したり、生産コストを最小で見積もったり。
その瞬間、瞬間に、最高な解を求めようとするから見誤るリスクも高くなる。幸福度ってやつは、ちょいと幸せぐらいがいい。幸せ過ぎるとツケを払わされることに。均衡状態において、軽いインフレが望ましいのは、そういうことではあるまいか。
金融市場にしても、大きく儲けようとはせず、損しなきゃええや... ぐらいの気持ちで参加する分には、そんなに居心地の悪い場所ではない。
但し、分析では、その瞬間、瞬間で最適化を試みるべし。この機会に自ら構築したポートフォリオと... にらめっこしましょ、笑うと負けよ!

2022-06-12

"法の原理 人間の本性と政治体(コモンウェルス)" Thomas Hobbes 著

トマス・ホッブズは、権威主義や絶対君主制の擁護派とも言われるが、はたしてそうだろうか。政治体制は、アリストテレスがやったように君主制、貴族制、民主制の三つに分類できるが、どれも根本原理は同じはず。つまりは、人間の本性に則ったシステムでなければ機能しないってことだ。ホッブズが生きた時代は、清教徒革命、国王と議会の抗争から共和制の成立、クロムウェルの独裁、そして、王政復古に至る激動期。国王が狼なら、民衆も狼ってか...
歴史を振り返れば、君主制は専制政治や独裁政治へ、貴族制は寡頭政治へ、民主制は衆愚政治へと変容してきた。ただ言えることは、民主制は貴族制よりマシだった、君主制より遥かにマシだったということぐらい。いまだ人類は、崇めるほどの政治体制を手に入れられずにいる。ならば、政治体制を問うより、統治そのものの在り方を問う方が合理的やもしれん。それは、人間とは何かを問うことになろう...
尚、田中浩, 重森臣広, 新井明訳版(岩波文庫)を手に取る。

本書には、「自由」という言葉が散りばめられる。それは、人間が人間たるに最も必要な要素ということらしい。アリストテレスは、民主制の原理を自由精神に求めたが、ホッブズもこれを継承していると思われる。
但し、自由には制約がある。他人の自由を侵害しない程度に自由。この限りにおいて、平等と両立しうる。
そのための指針として、本書では自由精神と自然状態の考察に半分以上が割かれる。理性が命じる自然法が生起する様、あるいは、自然的人格によって生じる信約といったものを政治的人格に対応づけながら。自由といっても、個人の抱く自由は実に多種多様で、一筋縄ではいかない。だからこそ、人間の本性から論ずるべき、というわけか...
そして、その自然法から導かれ、それを補完するための市民法の在り方を考察する様を、前記事で触れた「市民論」の姉妹書として眺めている。コモンウェルスの成員相互の安全だけでなく、共通の敵に対する安全保障までも視野にいれるあたりは、やがて訪れる近代国家への布石か。いや、怪物リヴァイアサンへの布石か...

法の原理を問うにしても、対象のほとんどは愚人であり、戒律というより刑罰によって機能する側面が大きい。そもそも法とは、命令であり、自由とは対極にある。
それでも、市民法が自然法に適って制定されていれば、自由と矛盾しないばかりか、うまく適合できるという。自然法とは、道徳哲学を総括したようなものか。
本書は、自然法を聖書の言葉で確証しているが、宗教に頼るところに法の限界を見る。自由は自発的な情念に発するが、宗教は自発性としばしば対立するばかりか、盲信を歓迎する。
古来、知識は宗教と反目し、迫害の対象とされてきた。異端書とされたグノーシス文書、コンスタンティノープルで焼かれた多くの書物、知の女性ヒュパティアの虐殺など、枚挙にいとまがない。キリスト教の迫害を受けなければ、科学の進歩は千年早まったとも言われる。ホッブズは、異端審問にかけられたガリレオとも交流があったようで、当時、公にされなかったらしい。繰り返される記憶と知識の抹殺。これも人間の定めというものか...

ホッブズは、人間の弱さを指摘しながら、自発的に生きることを奨励する。評判に頼るのは、成功を遂げても自分自身の力によるものではない、と。術策や虚偽に頼るのは他人の無知に依拠している証である、と。怒りっぽいのも、祖先を自慢するのも自律性に欠ける、と。自分より劣った人と反目したり争うことも、戦争を終わらせる力が欠如している、と。つまりは、これらは自分の意志で生きていない証というわけである。
民主制を機能させるための重要な要素に、統治者の説明能力というものがある。ただ、雄弁とは、話を信じ込ませる能力にほかならず、宗教と似たところがある。現在でも、プレゼンテーションなどとスマートに呼ばれ、絶大な評価を受ける。自分の意志で生きていれば言葉に惑わされることもなかろうが、よほどの修行がいる。扇動者にとって、意志を持たない者が意志を持ったつもりで同意している状態ほど、都合のよいものはない。

ホッブズは断じる、「民主政は、実際には演説者から成る貴族政である」と。そして、統治者の力を強力なものにせよ!権力を集中させよ!承認された統治者の行為が罰せられることもない!と。このあたりの言葉を拾えば、絶対君主制の支持者と言われても仕方があるまい。
しかしながら、統治の正当性においては、国家は人民の合意によって構成されることを大前提とし、人民の生命の安全を保障することを最重要事項に掲げている。「統治の信約は、強制力が与えられていなければ安全を保障できない...」と。「安全の保障がなければ、いかなる私的権利も譲渡できない...」と。「民衆の福祉は至高の法という一語に尽きる。そしてこの言葉の意味するところは、民衆の生命の保存というだけではなく、一般的には民衆の便益と福利であると理解されるべき...」と。
結局、法の制定においては、政治体制を見るより、人間を見よ!ということか。これぞ、法の合理性というものか...

ところで、伝統的に哲学者たちが唱えてきたものに、徳治主義ってやつがある。そりゃ、清廉潔白で公明正大な統治者が居れば、それに越したことはない。この世にそんな人物が居たとしても、それを引き継ぐ者は愚人。理想郷は現実世界を歪め、却って厄介となる。
人間社会は、実に多くのパラドックスに看取られている。政治屋が不公平な社会制度を乱発すれば、金融屋が世界規模の経済危機に陥れる。愛国主義者が敵国をでっち上げれば、平和主義者もまた戦争や紛争を黙認する。教育屋は教養を偏重させ、友愛者は愛を安っぽくさせ、有識者は知識を振りかざし、理性者までも批判の言葉を浴びせかけ、大衆はというと誹謗中傷の嵐に煽られる。言葉ってやつは、学問を可能ならしめるが、その効用は、相互の情念を扇動することも、鎮静することもできる。
また、人間ってやつは、大きな権力を手にすると、必ずと言っていいほど傲慢になる。しかも当人が、それに気づかない。こうした性質は、人間らしさでもある。
感情を持ち、情念を持つことが、長所であり短所あるからには、理性や知性では解決できない領域がある。その領域では、理性や知性は却って論争の道具とされる。相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体にとっては、長所と短所、善と悪、正と邪といったものが、協調し、調和してこそ精神的合理性が得られるというもの。人間にとって自己評価ほど当てにならないものはないが、だからといって、それを怠るわけにもいくまい。この行為のみが自省へと導くであろうから...

2022-06-05

"市民論" Thomas Hobbes 著

人間どもは、人間にとって神か、それとも悪魔か...
人と人とが交流すると、互いに共感し合い、共同体なるものが形成される。だが同時に、互いに似た者同士が集まると、種族と種族とを比べ、国家と国家とを比べ、そこに優越主義が棲み着き、たちまち狼に変貌する。相対的な認識能力しか持ち合わせていない知的生命体には、何かと比べなければ意識すら働かせることができないのだから、それも致し方あるまい。
それにしても、人間どもの帰属意識は如何ともし難い。どんな善人でも、協調意識を煽り、同族意識を煽り、これに宗教心が絡むと、寄ってたかって自由と平等を奪い合い、残虐行為ですら平然とやってのける。どんな賢者でも、感情を理性と思い違いし、憎悪を判断力と履き違える。孤独を必要以上に恐れ、集団の中で自己存在を肥大化させる人間どもの性癖は、如何ともし難い。
そして、人間どもとは距離を置く方が合理的に見えてきますが、いかがでしょう... ホッブズ先生!

アリストテレスは、「人間はポリス的動物である」と定義した。ポリスとは、自由市民が形成する共同体のようなもの。この集団社会で問われるべきは、自由市民に適った法の在り方と、それが自由市民たちによって制定されるプロセスである。自由市民というからには、奴隷ではない。単なる奴隷の管理人でもない。自由ってやつは、なかなか手ごわい。誰もが権利として主張するだけに、余計に手ごわい。卓越した個人によって、ようやく見えてくる観念だけに、さらに手ごわい。市民全体に卓越性を求めるとは、アリストテレスも酷なことを...

トマス・ホッブズは、もう少し現実的に、自由、命令権、宗教という観点から「市民論」とやらを語ってくれる。それは、共同体の在り方を問うているようなもの。自由権の観点から、自然状態や自然法、あるいは契約の役割を論じ、命令権の観点から、国家の条件や自己存在とその防衛、あるいは、権力や権利が生じる原理を論じ、これらの正当性を、宗教、すなわち、キリスト教の教義に求めている。
まず、人間というものを問い、次に市民というものを問い、最後にキリスト教徒としてなすべき務めが叙述される。権利や正義の由来は、キリスト教の本質に基づいていると...
尚、本田裕志訳版(京都大学学術出版会)を手に取る。

ホッブズは、絶対君主権の擁護派とも言われるが、はたしてそうだろうか。確かに、権力者に強い力を与えよ... 権力を分割すべてきではない... といった記述を散見する。臣民はその権利によって暴君を殺すことができる... という誤謬から、どれだけの善人だった王の命を奪ったことかと嘆き、君主権の正当性をキリスト教の法に求め、証明までやってのける。やや強引に...
ホッブズが生きた時代は、清教徒革命、国王と議会の抗争から共和制の成立、クロムウェルの独裁、そして、王政復古に至る激動期。国王が狼とはよく言われることだが、ホッブズの眼には民衆も狼に映ったことだろう。
まず、人間社会には名誉や体面をめぐる争いがあり、内紛や戦争の種には憎悪や嫉妬が絡む。すべては、自己存在とその防衛に動機づけられる情念。理性があれば欠陥も見えてくるが、欠陥は非難の種となり、理性者の猛攻撃を受ける。彼らは、本当に理性者なのか。理性は抑圧とも相性がよく、強制執行にもつながる。
となれば、理性こそが揉め事の種か。いや、それだけではあるまい。知性もまた、相手を蔑む情念を駆り立てる。進化するためには疑問をもつことも必要だが、疑問を持てば不満も生じる。
となれば、無知の方がましか。いや、無知は無知で扇動の種となる。結局、どんな情念をもってしても、人間は揉め事がお好き!群がる習性は如何ともし難い...

「人間の心を苦悩によってさいなむことの最たるものは、あらゆる事物の不足、もしくは生存と品位を保つために必要な事物の欠乏である。そして、富というものは勤労によって調達され倹約によって守られなければならない、ということを知らぬ者はないにもかかわらず、窮乏した人々はみな、まるで私財をすり減らしたのは国の取り立てのせいであるかのように、自分の怠惰と贅沢から国家の統治へと過失を転嫁するのが常である。」

しかしながら、キリスト教の法は自然法であり、市民社会で平和を保つには自然法だけでは不十分である。無論ホッブズもそれを心得ているから、法の制定とその運営を論じている。ただ、市民論のようなものを語れば、共和制の機能性を唱えることになり、晩年は、王党派から裏切り者呼ばわれもしたようである。
国家形態は、君主制、貴族制、民主制の三つに分類できるが、権力と権利の在り方を問えば、どれも大して変わらない。仮に公明正大な君主がいれば、まったく問題なし。むしろ、民主制より機能するだろう。だが、権力ってやつは、一旦手に入れちまうと人を狂わせるもので、君主はことごとく僭主と化す。たった一人の君主でも不十分、周りが追従できる体制でなければ。となれば、理想高過ぎ感は否めない。
自然法は、民衆の合意事項ではなく理性の命令であり、なによりも自己に命令する。したがって、悪魔とは約定しないだろうし、啓示がなければ神とも約定しないだろう。こと集団社会では、理想が高すぎると暴走するもので、毒を以て毒を制すの原理が最も機能しやすい。これが権力分立の本音であろう...

道徳哲学者たちは、法の原理を倫理や道徳と結びつけて唱えてきた。自発的で自然な行為として、理性のないところに法の実践なし!と。
しかしながら、現実の法律は罰則によって機能している。自発的というよりは、受動的で、強制的で、威圧的ですらある。これに巻き込まれて、義務までも半強迫観念となる。
奴隷にも二種類あるらしい。信用されて多少の自由を享受する奴隷と、獄舎や足枷に縛られて労働を強いられる奴隷と。前者は主人に対して義務を負い、後者は義務なんぞ負う必要がないばかりか、義務なんて概念すら生じないだろう。自由市民はというと、やはり前者で、義務を負って自然法を遵守する立場。では、主人は誰だ?
自然法ってやつは、道徳法則のようなもので、これを機能させるには自分自身の持つ理性に頼ることになる。ただ、理性ってやつは脆い。実に脆い。自分の理性に自信を持った時点で、すでに理性は暴走を始めている。
しかも、理性は言葉と結びついて機能するだけに、言葉の道具にされやすい。似た用語に正義ってやつもあるが、これも扇動者の言葉の道具として悪名高い。ネット社会ともなれば、こうした言葉は気晴らしの道具とされ、言葉の嵐が吹き荒れる。
結局、神の言葉に縋るしかないってことか。しかし、神の言葉を耳にするには、資格がいるらしい。というより、神という概念を編み出したのは、人間の弱さの証しであろう...

「自然状態、すなわち統治することもされることもない人々の状態がそうであるような絶対的自由の状態とは、無政府状態であり敵対的状態であること、そのような状態を避けるための規制が自然の法であること、国家は最高命令権なしには存在することができないこと、最高命令権を保持している人々には、端的に、言いかえれば神の命令に反しないすべてのことに関して、服従しなければならないこと、これらのことは本書のここまでの部分において、合理的根拠と聖書の証言によって立証された。市民の義務の完全な認識のために欠けていることは、神の法ないし命令とは何かを知るという、この一事である。」

2022-05-29

"私の酒 「酒」と作家たち II" 浦西和彦 編

「酒と作家たち」の第一弾(前記事)では、酒にまつわる作家たちの逸話を、息子が語り、娘が語り、夫人が語り、先生と慕う人が語り、仕事仲間たちが語ってくれた。武勇伝ってやつは、なにも酒豪だけのものではない。酒に弱くても酒の勧め方の妙技が飛び出せば、一滴も飲めない下戸が酒宴に同化しちまうのも名人芸。酒の場で飲めない存在は無に等しいが、飲まずに飲み、人を飲み、場まで飲んでかかる。無を実在に変えちまう空間能力ときたら、呆気にとられるばかり...

そして、第二弾!
今度は、作家たち自身が酒哲学とやらを熱弁してやがる。酒は飲むべし、飲まれるべからず... という古びた言葉も、俗悪極まるアフォリズムとして語り継がれてきたが、真理であることに違いはあるまい。これに輪をかけて、酒は暇潰しに飲むもの... 酒について語ることは自己精神を語ること... などと能書きを垂れてやがる。
ちなみに、酒に落ちると書いて、お洒落... と能書きを垂れるバーテンダーがいる。棒が一本足らんよ...

この「酒と作家たち」シリーズは、四十年に渡って、たった一人の女性編集者の手で刊行された雑誌「酒」に掲載されたエッセイ集で、本書には 49 篇が収録される。佐々木久子の孤軍奮闘ぶりは、事務所もなく、電話もなく、文房具も机もないところから始まったとさ。西宮酒造(日本盛醸造元)の伊藤保平会長から、イキな言葉をかけられ...
「お金が無いなら、倉庫があいているから、家賃はいらないから使いなさい。そして家賃が払えるようになったら出て行きなさい...」

総合雑誌に掲載される論説などは、時代とともに色褪せてしまうものだが、こと酒の話題となると、逆に時代色が引き立ち、味わい深くなる。文章も、熟成させる方がよさそうだ。
とかくこの世は色と酒というが、酒を飲みながら仕事をやると悪行のような言われよう。罪悪感まで植えつけやがる。
しかしながら、思考を活性化させるための適量は、刺激剤になる。ブログを書く時は、きまってやる。それで筆の走りも滑らかに。筆が滑らかになるのだから、思考だって滑らかになるはず。無論、撃沈しちまっては本末転倒。ソースコードを書く時は、さすがにやらないにしても、着想の段階ではやっちまう。この手の書は、純米酒をやりながら読むと、書き手と対話しているような気分になり、独り酒の持ちがいい。文豪たちに、酔悼!

さて、落穂拾いならぬ、酔文(名文)拾いといこう...

「天地開闢以来、人智を以って考えだしたもの、古くは火から、新らしくは原水爆の儔(たぐい)に至るまで、数えきれないほど数多いなかに、自分でこしらえて置きながら、自分がとッちめられて、醜態を演ずる現象の最も著しいのが、金と酒とだ。あれば、これほど便利重宝なもののない金とはいえ、一旦ないとなったが最後、これほどまた人困らせなものもなく、一人で、二人で、家族づれの大勢で、この世におさらば、という結末へも、往々にして導かれる。... ところで酒だが、こいつもまた厄介な代物をこしらえて了ったもので、飲まれる奴ならそこらじゅうにウジョウジョいるけれど、さて飲む人間となると、めったに見かけられない。」
... 里見弴

「もう一つアタマがほしい二日酔い」
... 川上三太郎

「その薬の効用は、即ち、酔うこと。酔うことで大方の人間は疎外されていた自分をとり戻すことが出来る。忘れていた歌がよみがえり、薄れかかった郷愁が戻っても来る。まっとうな人間らしい感情で素直に人を恨んだり、殺そうと思ったり、手前を嘲けったり出来るのも酒が入れば尚だ。甚だ礼儀正しい人間でも酒をのんだらばこそ、気にくわない奴をぶんなぐりも出来ると言うものだ。」
... 石原慎太郎

「小説を書くものにとって、酒は欠かすことのできないものだという、私の主張の根拠は、酒は忘却をもたらしてくれるというところにある。」
... 野間宏

「ひと歌書き上げたあとの、反芻のときに呑む、孤独な、暗い酒ほどに美味いものを、私は知らない。歌一曲を太刀のごとく畳につきさして、世の中と対決しているような、ちょっとした緊迫感があるのだ。」
... なかにし礼

2022-05-22

"「酒」と作家たち" 浦西和彦 編

昭和の文学運動は、プロレタリア文学にしても、新興芸術派にしても、機関紙などの雑誌に結集するところから展開されたという。その風潮は戦後も続き、雑誌には何か社会を動かす力があると信じることのできた、そんな時代である。平成、令和と続くグローバルなネット社会から眺めれば、なにゆえこんな媒体に... という感は否めない。しかしながら、昭和を生きた酔いどれ天の邪鬼の眼で大正から明治へ遡ると、骨董品のような古臭さを感じながらも文豪たる生き様に魅せられちまう。令和を生きる人も、昭和の文豪たちに文学たる何かを求めたりするのではあるまいか。酒は年月が経つほど味わい深くなるというが、文豪たちが放つ色彩にもそうしたものを感じる、今日このごろであった...


1955年、株式新聞社から「酒」という雑誌が創刊されたそうな。その頃、佐々木久子が入社したが、赤字のため一年で廃刊となり、彼女も解雇されたという。まだ戦争の余韻が冷めやまぬ時代、国民生活も貧しく、酒の雑誌なんぞを読む余裕のある人が少なかったと見える。
そこに、火野葦平の言葉「死ぬまで原稿を書いてあげるから」。このひと言に奮起した佐々木久子は、1997年まで独力で刊行し続けたという。
本書には、この雑誌に掲載された作家たちの酒縁(酒宴)が、三十八篇も収録される。


私小説がもてはやされた時代、小説家というのは、酒にだらしなく、性にだらしなく、金にだらしなく... そんな芸術家像を思い浮かべる。それも、身を削る思いで自己を曝け出した結果であり、小説家が特別というわけではあるまい。巷には、酒に逃げずにはいられない人生や酒に溺れる人生に溢れ、酒に命を奪われる人生だってある。
ただ、言葉を生きる糧にする芸術家だからこそ、余計に感じ入るものがあるのだろう。入水心中があれば、ピロポン中かアル中かも見分けられない死に様あり、陽気な酒豪が睡眠薬自殺をしたり、文壇には破滅型人間で溢れている。遺書には「将来に対する唯ぼんやりした不安」やら、「漠然とある不安のため」といったものも見かける。自我の征服に失敗すれば、その存在すら許せなくなるのだろうか...


「酒は人間と同じやうに、醜悪で動物的である。酒は人間と同じやうに、無邪気で天真爛漫である。すべてに於て『酒は人間そのものに外ならぬ』(ボードレール)それ故にこそ、人間性の本然を嫌ふ基督教が、酒を悪魔の贈物だと言ふのである。」
... 萩原朔太郎


一方で、執念で酒人生を全うした小説家たち...
酒の上で決して矩を超えない亀井勝一郎に、じっくり延々と飲み続ける横綱級の井上靖に、酒鬼!梅崎春生に... と。彼らは酒が好きなのか、酔うのが好きなのか。銀座のクラブで知的な話術でホステスたちを惹きつける高見順がローソク病を熱弁すれば、君に酔うのが好きなんだよ!なんて台詞も聞こえてきそうな...


「俺が酒を呑むのは、経済的スリラーを忘れるためや。寝るときも大コップ一杯のウィスキーを呑む。それで寝られんなんだら朝まで起きてな、しゃあない」
... 富士正晴


雑誌のタイトルからして、酒豪の武勇伝ばかりかと思いきや、まったく逆の下戸の逸話も...
川端康成は、一滴も酒が飲めないのに、酒席を楽しむ様は名人芸であったとか。大宅壮一も大変な下戸だったらしいが、夫人の方はイケる口らしい。漱石の芸ともなると、体質的にアルコールを受け付けなかっただけではモノ足らず、「吾輩は猫である」の猫がビールに酔って水甕に落ちてお陀仏ときた。彼の筆の酔いっぷりときたら...
酒を飲むとインスピレーションが湧くかもしれんが、それで文章が光彩を放つわけではあるまい。とはいえ、酒が飲めなくても、酒に関わることで筆の走りがよくなるということは、ありそうな話である。


ちなみに、亀井家の新年会では、太宰一派が猛威を振るったそうな...
「まだ日の暮れないうちから酒宴がはじまったが、いち早く集まってくるのが、太宰さんのまわりにいた人たち。つまり太宰の残党である。この一派は、酒が滅法強い。そして酔うほどに、話題はきまって太宰治である。太宰以外に、文学もなければ文学者もいない、といった勢いである。これでは、まるで太宰家の新年宴会である。... そしてたがいに酔うほどに、喧嘩口論がしばしば起こる。喧嘩をしかけるのは、きまって太宰一派。なにしろこの人たちは、太宰を自分の占有物と心得ているから、一派でもない評論家や作家の口から、太宰、という言葉が出るやいなや、きっとなって気色ばんでくる。ましてや、彼らが信奉している太宰論、太宰像と少しでも違った意見が出ると、猛烈に襲いかかる。こういうとき、亀井さんは決して止め男や裁き役にはならない。なるがままに委せて、ご自分はふだんどおりニコニコしているだけである。」

2022-05-15

"「救済」の音楽" 礒山雅 著

音楽には救われるよ...
政治屋どもの安っぽい言葉よりも、報道屋どもの正義漢ぶりよりも、宗教屋どもが押し売りする博愛よりも。存在感を声高にアピールする必要はない。音楽家に人類を救え!などとふっかける気もない。ただ奏でるだけでいい。才能を存分に発揮するだけでいい。彼らの自由な振る舞いにこそ救われる。
まったく、対位法には救われるよ...
音符の二次元配列を単純な幾何学操作で重ね合わるだけで立体的なカノンを奏で、主題を多重化させてフーガを奏で、しかも重低音で愛してくれる。

芸術作品には、思想、観念、哲学といったものが露わになる。だがそれは、芸術家が最初から意図したことではあるまい。評論家が、後付けで解釈を加えただけということもあろう。何事にも意味を与えないと落ち着けないのが、人間の性分。無意味な人生は、よほど恐ろしいと見える。意味が見い出せなければ、神の仕業にするだけのこと。いや、悪魔のせいに...
そして、作品は作り手を離れ、それ自体が独り歩きを始める。偉大な芸術作品とは、そういうもの言うのであろう。
こと音楽となると、演奏家はみな独自性を主張する。作品の一番の理解者であることを自負するかのように。そこには、様々な解釈が渦巻く。アレンジあり、インスパイアあり、オマージュあり... そして、パロディあり。エゴイズムの欠片もないところに、真の芸術は生じまい...

さて本書は、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ワーグナー論集を交えて、救済の音楽を外観してくれる。救済といえば、まず宗教音楽を思い浮かべる。大掛かりなパイプオルガンが教会で鳴り響く様子を。
バッハの存命中は、作曲家よりオルガニストとして名を馳せたと聞く。ルター派教会で開花したクラヴィーアの名手として。ドイツでは、ひなびた農村のささやかな教会にさえ、堂々としたオルガンが設置されるという。礼拝ではオルガンが不可欠となり、教会が劇場と化す。現代でも、平均律クラヴィーア曲集やインヴェンションは教育の場で生き続ける。
ただ、おいらの場合、教会で奏でる音楽にあまり良い印象が持てないでいた。大バッハのカンタータにしても、大袈裟に永遠の愛を唱え、神と魂が延々とラブシーンまがいのセリフを交わすとくれば、教会詩にはまったくうんざり。なので、バッハをずっと避けてきたところがある。ようやく味わえるようになったのは、三十代半ば頃。モーツァルトの対位法をより味わいたければ、やはりバッハ抜きでは...

モーツァルト論では、ミサ曲に注目し、その核心部であるクレド書法について言及される。いわゆる、信仰告白の賛歌の章。それはモーツァルトに限らず、バッハにしても、ベートーヴェンにしても、伝統と混じり合って最も精神が露わになる部分ということになろう。アマデウスの魅力は、なんといっても伝統をぶち壊すほどの遊戯性にある。
対してベートーヴェンは、音楽に遊戯性を超えて思想を持ち込んだとされる。バッハがルター派の影響を受けたとすれば、啓蒙思想の時代とも重なり、ロックやルソーの影響もあろう。アマデウスにそんなものは感じない。もっと崇高な自由を。いや、気まぐれを...
バッハの楽譜は強弱をどのようにつけても受ける感じは変わらないが、ベートーヴェンの楽譜を強弱なしで演奏すると、意味を失って無味乾燥なものになるという。ハイドンやモーツァルトと比較してさえ、強弱が綿密に指示されているようである。第九は、歓喜の歌としても知られるが、そう単純なものでもあるまい。
「第九はなかなか複雑な性格を内包した作品である。しかしその呼びかけは単純明快で、音楽的にも圧倒的な説得力を備えているため、誰もがこの作品について、わかった気がしてしまうのではないだろうか。だが細部を調べてみると、首をひねらざるを得ない問題が、あちこちに出てくる。説得され、感動するからといって、作品のメッセージを正確に言語化できるとはかぎらないのである。」

ワグナーにとって芸術とは、人間をいかに救済するか、というテーマを自覚的に探求するものであったという。制度化されたキリスト教は、偽善的な騎士道世界の人々に見せかけの救いを与えこそすれ、生を深く生きる真の救済能力はないと。十字架の苦難を辿り直すことによってのみ救われると...
ワグナーを語り始めると、おいらもつい熱くなる。「ニーベルングの指輪」は、精神を呪縛し、自由を享受するいとまを与えない。ラインの黄金に、ワルキューレに、ジークフリートに、神々の黄昏とくれば、病的なほどの自己陶酔に浸る。まさに、ハーゲンの魔酒よ!
ワグナーを聴きながら罪の内省を問えば、無力感の憤りがつきまとう。道徳的な人間が人間らしいのか。罪を感じない人間が人間らしいのか。なにゆえ、悲観主義を忌み嫌い、ポジティブ思考に取り憑かれるのか。地獄がどれほどのものか。煉獄がどれほどのものか。天国はそれほど居心地の良い所か。愛ってやつは、人を救う反面、絶望の淵に追いやる。自己肯定感を煽って現実を見れば、絶望感を浴びせられる。人間は、自己意識の芽生えゆえに苦しむ。ならば、自己否定によって救われることもあろう。これが、おいらにとってのワグナーだ!
「バイロイトでこの作品を聴いていると、そうした救済がいま本当に実現したかのような錯覚に陥る。身体がほてり、ああ良かった、寿命が延びた、という気がするのである。そんな錯覚すなわち感動の中に、案外、人間の獲得しうる最良の救済が存在するのかもしれない...」

ところで、巷には「レクイエム」と題する曲があまりに多く、その意味なんぞ考えずにきた。本来、カトリック教会の死者のためのミサで用いられるラテン語の典礼文に曲を付けたもの。それが今では、典礼から離れ、もっと一般的な哀悼の意を表す用法とされる。こうした自由な発想は、ブラームスに始まったそうな。ルター訳聖書の章句を自由に組み合わせて人間のための追悼音楽として。尤も、この構想を最初に思いついたのが、ブラームスの師シューマンだったという。ブラームスの「ドイツ・レクイエム」は、師シューマンの意思を受け継いだ形で成立したらしい...