2022-10-09

"読書と或る人生" 福原麟太郎 著

本を読むことに愉悦を覚える人は、我流の読書論といったものが心の中に湧き上がるであろう。おいらが「本を読む」といえば、熟読を意味するが、そんな読み方はあまり合理的とは言えまい。人生は短いのだ!
ただ、貧乏性のせいか、買った本は隅々まで字を拾わないと気が済まない。そして、週に一、ニ冊のペースで読む。
本の虫!という形容もあるが、どのくらいの量を読めば、その称号に相応しいのであろう。或る大学の先生は、月に四、五十冊も読むと聞くが、よほどの奥義を会得していると見える。しかし、速読術は速愛術のようにはいかんよ...

読書に限ったことではないが、やはり習慣がモノを言うのでろう。一人の読書家を育てるにも、かなりの好奇心がいる。習慣さえ身につけば、最初の十ページでその本の読み方がだいたい掴めるようになるし、文章のリズムから斜め読みでも、読み飛ばしでも、要点を拾うことができるようになる。
それでも、おいらには速読は難しい。カントの批判書を速読できる才能は尊敬に値するが、羨ましいとは思わないし、プラトンの饗宴は速読できそうだが、そんなもったいないことを...

「よく、速読が良いか精読が良いかと訊ねられることがあるが、必要に応じて、どちらでもすぐやれなければ、どちらも役に立たない。... 精読も速読も、習慣の問題で、いずれも一種の才能である。精読しようにも、その習慣を持たない人は、読み方を知らないものである。」

読書には、まず、目的は何か?どの本を選ぶか?という問題がある。それは、百人百様。知識を得るため... 視野を拡げるため... 実利のため... 人生の糧として... など様々な動機があろう。丸谷才一は、こんな助言をしてくれた。「大事なのは本を読むことではなく、考えること。本は原則として忙しい時に読むべきもので、まとまった時間があったら考えよ。」と...
おいらの場合、なによりも好奇心の解放がある。そして、そこに本があるから... というのも付け加えておこう。要するに、目的なんてものは、あまり考えてないってことだ。娯楽を、そんな大層なものにしたくはないよ...
「明窓浄机」という言葉もあるが、あえて部屋を暗くし、LED ライトでページにスポットを浴びせ、さらに、BGM で気分を盛り上げ、酒で気分をほぐし、お香を炊いて心を癒す。こうした空間演出に自由ってやつを感じる。おいらにとっての読書のひとときは、五感を総動員する場であり、リラクゼーションの時間なのである。
それで、感動できる本に出会えれば、儲けもの。その一冊から引用や参考文献を辿れば、好奇心は指数関数的に増幅する。なので、おいらの ToDo リストの書籍欄は、いつも溢れてやがる。おかげで、退屈病を患うことはなさそうだ...

「無目的に読むなどいう言い方で読書家を定義づけるのは理屈である。本好きはそんなことを思ってはいない。銀行家でも看護婦さんでも誰でもいい。何も自分の職務上の参考にするというわけでなく、ただ、歴史の本だとか、小説だとか、詩集だとか、本を読むのが好きだから、あるいは、どんな本でも良い、本を読むのが、とにかく好きだからというので、かけ出しには及びもつかぬほど多量に本を読んでいられる、それが読書家といわれる人種なのだ。読書家は定義で始まるのではない。実践に始まる。」

本選びにも、流行を追うという本能めいた感覚がある。誰もが知っていることを知らないということは、不安に駆られるもの。情報の性質からして、誰もが知らないことを知っているということの方が希少価値が高いはずだけど。クチコミやオススメの類いが流布し、瞬時に拡散する時代に、こうしたものから目を閉じることは難しい。
情報の自由化は、偽情報の自由化でもある。必読書百選!といった類いの宣伝文句までも目につき、つい目移りしちまう。
そこで、古典という選択肢がある。時代の篩にかけられ、それでもなお輝きを失わないのが古典というもの。不思議の国のアリスだって、人生哲学を物語ってくれるし...
流行に惑わされず、自分の目で評価を見極められるようになるのも、やはり習慣ということになろうか。となると、「読書 = 習慣」という図式が出来上がる。「読書と或る人生」とは、或る習慣を身につける方法論を説いた書であったか...

「読書は満ちた人をつくる。」... フランシス・ベーコン

2022-10-02

"眩暈" Elias Canetti 著

原題 "Die Blendung..."
「眩暈」というより、「盲目」とする方がよさそうな...
とはいえ、細密な描写に執着する著述姿勢は、どこか異様で奇怪な人間模様を炙り出し、推理小説風の香気をも醸し出し、この常軌を逸した文面ときたら、めまいにも似た感動を禁じえない...

物語は、「世界なき頭脳」、「頭脳なき世界」、「頭脳の中の世界」の三部で構成される。タイトルも然ることながら、これほど中身と見出しの一致を試みながら読ませる書も珍しい。その珍味こそが推理小説風というわけだ。エリアス・カネッティという作家に、おいらはイチコロよ!
尚、池内紀訳版(法政大学出版局)を手に取る。

「世界は滅亡する!これが人間だ、悪党ばらが頭をもたげ、神様は眼をおつむりだ!」

主人公は、二万五千もの書巻を所蔵し、自前の図書室で研究することを生き甲斐とする孤高の学者。人間社会に息苦しさを感じ、書物の言葉を引く。孟子に、孔子に、ブッダに、プラトンに、アリストテレスに、カントに... 大人(たいじん)の風格と交わるうちに、小人(しょうじん)の知識欲が増していく。小人にだって自尊心ぐらいあるさ。
しかしながら、叡智は容赦しない。人間ってやつは、知らぬことはやらぬもの。それが盲目の原理であり、無知の原理。狂気した行動は漠然とし、矛盾ずくめ。それを語るに、同じ言葉を繰り返すことしか知らぬ。これを狂人というらしい。
ちなみに、正気とは、愚鈍の類いを言うらしい...

孟子曰く...
「かの者たちは行為しつつおのが行為の何たるかを知らぬ。習慣を続けながらその習慣を知らず、生涯、さまよいながらその道を知らぬ。しかるが故に群衆たるかれらは遂に群衆にとどまる。」

自らの狂気を認めるには、よほどの修行がいる。私が孤独だって?ならば、書物に囲まれた、この賑やかな空間はどうか?
そもそも、盲目に書物の意味はあるのか。いや、盲目だからこそ活字に飢える。高度な情報化社会では言葉が荒れ狂い、逆に言葉は貧素になる。皮肉なもんだ。貧素な言葉ばかりを目にすれば、心も貧素になる。皮肉なもんだ。これを盲人というらしい...

「盲目とは時間並びに空間に対する武器である... 宇宙の支配的な原則とは盲目にほかならない... 盲目があって初めて、もし互いに見交わすなら不可能なものが並び存在できる... 盲目を待ってようやく、元来なし得ないはずの時間切断の壮挙が可能になる... 自分は盲目を発明したわけではない。活用したまでだ。当然の権利だ。これにより見者(けんじゃ)は生きる...」

無言と沈黙は、まったくの別物。沈黙の意味を知るには、よほどの修行がいるらしい。因果応報の素朴な論理に立ち返るにも、よほどの修行がいるらしい。自己欺瞞を放棄するにも、よほどの修行がいるらしい。
孤独を生きる者にとって、人間関係ほど面倒なものはない。愛情と憎悪が、こんなにも近いものか。孤独への恐怖は、むしろ群衆の中にある。挙句、我が身を狂妄の焦土とする羽目に...

「気狂いとはおのれのことしか考えぬ者の謂である。して、狂気とは利己主義に下しおかれる刑罰だ。かくして精神病棟には国中の無頼の徒党が蝟集する。本来、これらを容れるに牢獄をもってすべきであるが、学問は研究素材として瘋癲院を必要とする。」

1. 世界なき頭脳
図書管理に雇った女性の丁重な書物の扱いぶりに惚れ、妻とするも、相続の権利を得るや、金の亡者に変貌する。蔵書は、総額でいくらになることやら。遺言書を書かされ、家からポイ!
蔵書をいくら溜め込んでも、知識をいくら溜め込んでも、活かされなければ宝の持ち腐れ。古本屋で売りさばく方が、よほど合理的であろう。下手に財産となるがために、乗っ取られようとは。図書室という聖域を侵され、生きる世界を失った孤高の学者の運命は...
「世界なき頭脳」というより「世界を失った頭脳」といったところか。いや、「世界を乗っ取られた頭脳」とでもしておこう...

2. 頭脳なき世界
家から追い出されると、今度は頭の中に図書室をこしらえ、理想郷を夢想する。せめて思い浮かべた蔵書一覧を満たすために書店を巡って買い漁ろうとすると、書籍商を名乗る人物に国営の質物取引所を紹介してもらう。しかも、その取引所は、「テレジアヌム」という奥ゆかしい名を掲げ、その名に惹かれて質入れされる書物を買い漁ることに生き甲斐を見い出す。すると、今度は偽客にカモられ、所持金を巻き上げられる始末。
ある日、書物を質入れに来た妻の姿を見つける。もみ合いになって守衛に引き立てられ、皮肉なことに、自宅?元自宅?の門番に引き取られようとは。頭脳までも失ってしまったか...

3. 頭脳の中の世界
門番に引き取られ、その住まいの覗き穴から人間観察という新たな生き甲斐を見い出す。そんな狂人ぶりを知った弟が、害となる兄の妻と門番を追い出し、かつての図書室を取り戻すも、今度は自ら聖域を焼き、蔵書もろとも燃え果てたとさ。
すべては頭の中で思い描いた世界、すべては妄想の世界、人生なんてものは、夢幻の如くなり...
「遂に炎が身体にとりついたとき、その生涯についぞなかったほどの大声で笑いころげた...」

2022-09-25

"愛犬たちが見たリヒャルト・ワーグナー" Kerstin Decker 著

穏やかな秋風に誘われて古本屋を散歩していると、ちょいと風変わりな伝記小説に出会った。ケルスティン・デッカーは、愛犬の目線から偉大な音楽家の人物像を物語ってくれる。吾輩は猫である... じゃないが、おいらは犬である... といった様相で...

孤独を恐れ、人を裏切り、借金まみれに、人格破綻とくれば、そんな嫌なヤツも、犬が語れば、いいヤツに見えてくる。ワーグナーは、作曲したものすべてを愛犬たちに向かって歌い、演奏して聞かせたという。ホ長調なら全身をピンと伸ばし、変ホ長調だとちょっと眠そうに尻尾を揺らす。犬が教えてくれるそうな。ホ長調は官能的な愛を表し、変ホ長調は聖なる愛を表すことを...
そして、孤独に苛む自己を犬に同情され、犬に弁明されれば、人間嫌いを加速させ、あとは、犬の生き様に縋る。こいつは、犬の哲学か。犬儒学の実践か。
愛犬たちは、御主人様に授かった愛の洗礼を歌う。タンホイザーに、ローエングリンに、トリスタンに... それは、愛の独占か。ラインの黄金に、ヴァルキューレに、ジークフリートに... それは、愛の支配か。そして、愛は神々の黄昏に帰するのか。本書には、品の良いアイロニーに満ち満ちている...
尚、小山田豊訳版(白水社)を手に取る。

「愛犬たちがいなければ、リヒャルト・ワーグナーはリヒャルト・ワーグナーたりえなかった...」

犬好きに悪い人はいない... と言われるが、それは本当だろうか。警戒心の強い犬は、怪しいヤツを見ると、すぐに吠える。
では、尻尾を振ってくれば、いいヤツってことになるのだろうか。いや、人間だって、見えない尻尾を振ってくる。
自己を支配できないから、他人を支配しようとするのか。人を支配できないから、犬を支配しようとするのか。犬畜生とは、人間の代名詞だ。
ドイツやオーストリアには、愛犬家が多いようだ。フリードリヒ大王に、ショーペンハウアーに、ビスマルクに、あの愛しい皇妃エリーザベトも犬を愛した。ヒトラーまでも...

人間嫌いなワーグナーは、教会へも行かなかったらしい。それは、神の存在を本当に信じていたからだとか。真の芸術家なら、じかに神と接することができるという。
それでも、なんらかの仲立ちがなければ神を信じられない人々のために、定期的に指揮する。夕べの祈りの音楽を。人間嫌いが人間を相手に、不安に満ちた音調を大量生産!
絶望のどん底にある御主人様は、日記をつけ始める。最も強く支配する心の状態と、その中で生じた省察を書き留めるために。
メロディの在庫が尽きれば、リヒャルト・ワーグナーであることの苦痛を思い知る。自分のやりたいことが何一つできなくなったら、自分への追悼文でも書くさ。故人を最もよく知るのは、亡くなった本人である、と自負しながら...
犬は自分を舐めることができる。だが、人間にはそれができない。我が身を慰めることが、こんなにも大変なことだとは。
そして、こんな言葉が紙面を踊るのを想像しながら、恐れおののく...

「リヒャルト・ワーグナー、未来の音楽の担い手、書いても書いても完結しない、おそらくは未完の連作オペラをはじめ、上演不可能な作品多数を残し、債務者監獄へ!」

犬は飼い主に似るというが、犬が自己投影なら、良き精神科医となろう。人間がワン公と呼ぶのは悪気があってのことではなく、むしろ親しみを込めてのこと。
ただ、飼い主と言うからには、犬を所有物だと思っている自分がどこかにいる。人間には、所有の幻想が欠かせないと見える。それは弱さの証か。
何かを理解するということは、それを明確に言葉にできることだと思っている。知識にも所有の意識が働き、知性にも、徳性にも、倫理観にも、世界観にも... 人間の意識そのものが、自身の所有物だと思っている。そして、あらゆることを表現できる言葉は、絶対に欠かせない所有物となる。
しかしながら、人が自分自身を言葉で語ることは、すこぶる難しい。言葉を操り、言葉を費やし、言葉の限りを尽くしたところで、結局は同じ意味の言葉を繰り返し、表現を変えて自己を偽る。人間が言葉を編み出したのは、孤独を紛らわすためか。
独り言は尽きない。言葉に疲れ、黒い壁に向かって、君って黒ずんでるね... なんて話しかければ、沈黙する存在すべてが仲間に見えてくる。沈黙の苦手な人間が、沈黙に救いを求めようとは... 言葉を喋らない犬が、救世主とは...

「人間は不幸な動物なのだ、でなかったら芸術を生み出すことも、求めることもないだろう。芸術の存在、それは人間の本質に重大な欠陥があることの証明ではないだろうか。やがて観察力の鋭い、人情の機微に通じた詩人が現れて、この調査結果を別の言葉で表現するだろう。
『心臓(こころ)が思考を始めたら、鼓動をやめてしまうだろう』
わたしのご主人はこのころからすぐに、頭で考えた理屈よりも心が感じたことに従う人だった。」

ワーグナーは、ショーペンハウアーを崇拝する。そんな御主人様を愛犬が愚痴る。おバカな犬には理解不能な言葉ばかり。じっくり考えても、意味すら汲み取れない。だが、中身は簡単!犬も人間も同じだって言っているだけよ。個の存在を放棄しなければ、自らを没落させるとさ。逆に、ニーチェ風の永劫を思えば個の存在を超越でき、それが救済の第一歩だとさ。
個からの脱皮を試みなければ、御主人様を救えないってか。犬派は、アンチ・ショーペンハウアー党か。人間は、不安に駆られて生きている。ぼんやりとしたものに怯えて生きている。自由なんぞ、この世にあるものか。なのに、その幻想を追い求めてやまない。

人間は犬より、毛が三本足らないらしい。もっと洒落っ気(毛)があれば、気楽に生きられるであろうに。人間とは、なんと、はかない動物であろう。せめて毒舌ぐらい、はくとしよう。いや、せめてパンツぐらい、はくとしよう...

「しかしわたしは知っている。もったいぶって、まるで神聖なことのように、細かなことをあげつらう連中が多いけれども、そんなことに血道を上げるのは、真の人間らしさに対する感覚が欠けている者、人の心を知らない輩だけだ... こんな世間一般に対してわたしがどれほど敬意を抱いているか、ひとことで言おう。
三歩下がってわたしに寄るな!」

2022-09-18

"アッタ・トロル - 夏の夜の夢" Heinrich Heine 著

諷刺文学ってヤツに、おいらは目がない。天の邪鬼な性癖がそうさせるのか...
時代を彩り、時代を炙り出し、時代に演じられた滑稽を芸術の域にまで昇華させ、ここに批判哲学の実践を見る。芸術心ってやつは、道化を演じることに始まるのやもしれん。猿楽を深化させ、「風姿花伝」を記した世阿弥のように...
ハインリヒ・ハイネの作品では、詩文と散文の入り乱れた「精霊物語」と「流刑の神々」の二篇にしてやられた(前記事)。ここでは、純粋な詩文に心を委ねるとしよう...
尚、井上正蔵訳版(岩波文庫)を手に取る。

「アッタ・トロル」とは、熊の名。これは熊の物語である。かつて百獣の王として自由に生きたアッタ・トロルも、谷間の町で見世物となり、くだらぬ人間どもの前で踊り、笑い物として生きていた。そんな一匹の熊が、檻を破って森へ逃げ帰り、人間に対抗するために動物たちに一致団結を呼びかける。毒舌を捲し立てる様子は、まるで革命家気取り!

 人間はすべてこの世の
 財宝を取りっこしている、
 それも、果てしない掴み合いだ、
 どいつもこいつも泥棒だ!

 そうだ、全部のものの遺産が
 めいめいの掠奪物になっている、
 そのくせ、所有権とか
 私有財産とかぬかしてやがる!

 私有財産!所有権!
 おお、盗む権利!嘘つく権利!
 こんな怪しからん滅茶苦茶の悪企みは
 人間でなけりゃ考え出せない。

この長編叙事詩が誕生したのは、1841年の晩秋。当時、政治詩が流行し、「反政府派がその皮を買って文学となった」と皮肉る。時代は、まだフランス革命の血生臭さが色濃く残り、ナポレオン戦争を経てウィーン体制を崩壊させた諸国民の春へと向かう、いわば革命の時代。ハイネは祖国を追われ、自由都市パリへ逃れ、ドイツの革命家ベルネ派と知り合う。だが、主義主張を相い容れず、臆病者背信者とみなされ、こう罵られたという。
「才能はあるが、節操がない!」
そして、物語では言葉を裏返して、こう唄い上げる...

 アッタ・トロル、傾向的熊なり、
 道徳的宗教的、妻に対して肉欲旺ん、
 時流の思想に誘惑されし
 山出しのサンキュロット。

 踊りは、すこぶる拙劣なれど
 毛深き胸に高邁なる信念を抱く。
 またしばしば悪臭を放つことあり、
 才能はなけれど、節操あり!

フランス革命に発した共和主義の思想原理は、自らの暴走によって国粋主義へと向かわせる。恐怖政治とテロリズムは、すこぶる相性がいいと見える。独裁政権は危険だが、民主政治の暴走もまた危険というわけか。どんな善も行き過ぎると悪と化す、人間社会とは、そうしたものらしい。
芸術が国家思想の後ろ盾となり、国家権力を後押しするようになると、ナショナリズムという集団的な悪魔が寄生する。愛国心と呼べば聞こえはいいが、国家に忠誠を誓うのと権力に服従するのとでは、しばしば矛盾する。独裁政権ともなれば尚更。国家を私物化しちまった政権に忠誠を誓うことが、本当の忠誠なのか。権力の正当性をどう担保するか、政治体制が永遠に問い続けなければならない問題であろう。それゆえ、政治屋は正義といった言葉にすこぶる敏感で、これを乱用しまくる。法を後ろ盾にして...

「傾向的...」という柔らかめの表現に物足りなさを感じ始めると、これを、偏狭な主義主張... 愛国心の暴走... などと大袈裟に解し、やがて訪れるイデオロギー戦争の時代を予感させる。思想観念なんてものが、そうなに大層なものなのかは知らんが、党派心に燃えない者を、目的がない!と罵れば、中庸の哲学はまさに目的がないということになり、痛快に唄い上げる...

 夏の夜の夢よ!私の歌は
 空想のように目的がない。
 たしかに恋のように命のように
 神と自然のように目的がない!

 わが愛する天馬(ペガサス)は
 自由自在に
 地を走り天を飛び
 物語(ファーベル)の世界を駆けまわる。

 わが天馬は市民社会に
 役立つ律儀な馬車馬ではない、
 悲壮に地を蹴っていななく
 党派心に燃える軍馬でもない!

そして、アッタ・トロルは、妻ムンマのそっくりな声におびき出され、奸計のうちに銃殺されたとさ...

 私はその時シラーの言葉を思い出した。
 「詩にうたわれて永遠(とこしえ)に生きるものは
 この世では滅びなければならぬ!」

2022-09-11

"流刑の神々 精霊物語" Heinrich Heine 著

どんな散文も、形式を整えれば、詩に見える。音調を整えれば、詩に聴こえる。寓意を込めれば、戒文となり、霊妙を匂わせば、呪文となる。巷に溢れるキャッチフレーズの類い。標語に、スローガンに、モットーに、殺し文句に... 心に響く言葉は、人を惑わす。天国の門と地獄の門は、隣り合わせ。神と悪魔は、仲良しこよし。マクベス王の魔女どもが口ずさむ。きれいは汚い、汚いはきれい... 人間どもも負けじと狂喜乱舞。狂ったこの世で狂うなら気は確かだ!

ニンフは、至る所を棲家とする。海の精、川の精、山の精、森の精... 美しい精霊たちは自然界を看取り、小悪魔たちは人間界を見下す。美酒でもてなし、死者の館へいざなう者どもよ。誇り高き白鳥の乙女は、ヴァルキューレか、それとも死神か...
タンホイザー君ときたら、享楽の奥義を会得しようとヴェヌス山に籠もり、美女を侍らすこと丸一年。偉大な享楽が手に負えないと知れば、誰はばかることなくローマ法王に懺悔する。懺悔で本当に人は救われるのだろうか...
盲目でいる方が幸せやもしれん。アポロン神の愛を受け入れる代わりに予言能力を授かった王女カッサンドラは、見える未来に翻弄されて人生を狂わせちまった。
そして、神々は流刑の身となり、精霊たちも人間の住む場所から追放されちまったとさ。一神教の神に葬られた古代ゲルマンの民族神たちが、古代ギリシアの神々の共感を呼ぶ...
尚、本書には、詩と散文の入り乱れた「精霊物語」と「流刑の神々」の二篇が収録され、小沢俊夫訳版(岩波文庫)を手に取る。

「喜ぶがいい、迷信の可哀想な生け贄として葬られたお前たちの先祖の血は報復されたぞ!だが根深い遺恨などに取り憑かれていない私たちは、偉大なる者の落ちぶれた姿を見ると心から感動し、敬虔なる同情の念を捧げるのだ。この情の脆さゆえに、私たちの物語には、歴史叙述者の誉である冷たい生真面目な調子がつかないで済んだのだろう。」

詩であれ、散文であれ、ハインリヒ・ハイネの字面には、ローマ・カトリック教会への皮肉が込められる。いや、形式を整え、音調を整えれば、皮肉も神聖化すると見える。
昔の詩人は、ローマ教会の権威という軛から抜けられなかったようだ。詩人たちは、キリスト教の慈悲の深さを思い知るように、懺悔があらゆる罪をお許しになるという救済の力を讃美することを強いられてきた。そのために、古代の自然信仰を悪魔(サタン)への奉仕とし、異教徒の勤行を魔術とし、個性的な神々を悪魔(トイフェル)と触れ込む。森の奥では、悪魔たちが毎晩バカ騒ぎをし、地の果てでは、魔女たちが淫らな行為をしている、といった具合に...
トイフェルの容姿はグロテスクに描かれる。イメージ化するのは人間の御家芸。悪魔は俗人っぽく、神は人間離れしたように。手の届かない存在だからこそ、崇高や魔力が強調される。そうなると、理性は誰の能力であろう。人間の能力ということになろうか。神は、理性をも必要としないほど完全なはず。理性ってやつは、悪に対して働くのだから。そして、理性家は、神よりも悪魔に極めて近いということになろう...

「トイフェルは論理家である。彼は世俗的栄光や官能的喜びや肉体の代表者であるばかりでなく、物質のあらゆる権利の返還を要求しているのだから人間理性の代表者でもあるわけだ。かくてトイフェルはキリストに対立するものである。すなわちキリストは精神と禁欲的非官能性、天国での救済を代表するばかりでなく、信仰をも代表しているからである。トイフェルは信じない。彼はむしろ自己独自の思考を信頼しようとする。彼は理性をはたらかせるのである!ところで自己独自の思考は、もちろんなにかおそろしいものをもっている。ゆえにローマ・カトリック・使徒教会が独自の思考を悪魔的だとして有罪と認め、理性の代表者たるトイフェルを虚偽の父であると宣言したのももっともなことではある。」

古代ギリシア時代には、人間味あふれた多種多様な神々が住んでいた。得意技もあれば、欠点も堂々と曝け出す。実に神らしくない。主神の地位を思いのままにする雷オヤジときたら、女神では飽き足らず、人間の美女にまで手を出す始末。実に神らしくない。神らしくないということは、息苦しくなくていい。
十九世紀初頭に生をうけた近代詩人たちは、いかなる権威の圧力にも屈せず、ファンタジーを自由に駆け巡り、自然に湧き出る感情を表出することができたという。自らの精神をひたすら追求することこそ、詩の原点。一神教のドグマは、多様化する現代社会には不向きやもしれん...

「魔女裁判の時代から保存されているトイフェルの契約書を読むことほどおもしろいものはない。その契約書には、契約者がすべての策略に対して用心深くただし書きで制限をつけているし、あらゆる申しあわせを、ひどく心配そうに書きなおしているのである。」

2022-09-04

"ハイネ" 一條正雄 著

詩ってヤツは、癒やされるためだけにあるのではない。幸福を感じるためだけにあるのでもない。美しい調べに乗せて歓喜に耽り、感傷に浸るのもいい。だが、それでは足りない。目を背けたくなるような苦難を叫び、皮肉まじりの風刺を効かせ、シニカルなブラックユーモアまでもぶちまける。詩の受容性は、自ら愚痴の捌け口となり、滑稽なほどの悲壮感を漂わせ、寓意を込めて惨憺たる時勢を唄い上げる。自ら怒りの矛先となり、心の奥底に棲み着く悪魔をも包み込む。そんな作風を試みた最初の詩人を、おいらは知らない。
ただ、ハインリヒ・ハイネの詩には、そんな空気を漂わせるフレーズがちらほら目に留まる。おいらの天の邪鬼な性癖が、そのような字面ばかりを追わせているのやもしれんが...
印象深い言葉といえば、これだ!本書には紹介されないけど...

"Dort wo man Bücher verbrennt, verbrennt man auch am Ende Menschen."
「本を焼く者は、やがて人間をも焼くようになる。」
... 戯曲「アルマンゾル」より

焚書は序章に過ぎない... というのは本当らしい。歴史文献にしても、当時の実力者たちが改竄や抹殺した可能性が多いにある。人間のやることだから...
一方、芸術の物語性には人の苦痛を治癒する力があると言われるが、晩年のハイネにとっては苦痛も幸福も一体化して捉えていたようである。「快く失血死する!」とまで言い切ったとか。同様の叫びが、詩文のあちこちに散りばめられる...

「耐えに耐えたわが心よ、裏切り故に恨むまいぞ!」
「エホバ!どこまでも怒らせるために告げるぞ、俺はバビロンの王だ。」
「友よ!なんの役にたつというのか、いつも昔の歌を掻き鳴らして...」
「気違いじみた子供のぼくは、いま暗闇でうたうのだ。その歌が楽しくなくても、ぼくを不安から解き放ってくれたのだ。」
「この本は、僕の恋の焼け殻のつまった骨壺だ。」
「そこにはまた一人男が立って虚空をじっと見ている、そして両手を揉み合わせている、苦痛のあまり。その男の表情を見てぞっとした、月光がぼくに見せたのはぼく自身の姿だ。」
「暗黒の海に神の声がお前に聞こえるか?その神は数知れぬ声で語りかけている。われらの頭上の数知れぬ神の光、それがお前には見えるか?」
「そうだ、立派な散文でぼくらは隷属のくびきを打ち破ろう!でも詩歌のなかではもうぼくらの最高の自由の花が咲いている。」

本書では、「光輝ある孤立を保った最後のロマン主義詩人にして、最初の現代詩人」と紹介され、抒情詩「歌の本」、「新詩集」、「ロマンツェーロ」と叙事詩「アッタ=トロル」、「ドイツ冬物語」を辿る。
そして、ヘーゲル哲学の洗礼を受け、マルクスやフランスの卓越した友人たちと交流し、若き日は、シュレーゲルに問い、ゲーテに挑みながらも、その相違に苦悩する様子などが描かれる。
また、ユダヤ人の家に生まれてキリスト教との狭間で苦闘し、政治や社会革命における著述活動の草分けでもあったという。
ハイネが生きた時代は、まだフランス革命後の血生臭さが色濃く残り、ナポレオン戦争を経てウィーン体制が崩壊していく政治動乱の時代。その象徴とも言うべきドラクロワの描いた「民衆を導く自由の女神」は、ジャコバン党の赤い帽子をかぶり、片手にフリント銃、他方の手に三色旗を持ち、腰まで肌を露わにし、屍を踏み越えて士気を鼓舞する。ハイネは、この女性を「娼婦、商い女、自由の女神のたぐいまれな混合」と捉えていたという...

「思想は行為を欲し、言葉は肉体とならんとする。」
「マクシミリアン・ロベスピエールは、ジャン=ジャック・ルソーの手以外の何物でもなかったのだ、血塗れの手。」

なりふり構わず覚醒させた偉大な政治思想へ向かい、誰もがそれを信じることのできた時代。知識人までもが愛国心を高揚させ、イデオロギー時代の幕開けを予感させる時代。それ故、政治的な批判精神を強めていったのか。芸術家であるがゆえに、言葉を操るがゆえに、余計に感じるものがあったのか。しかも、詩では収まらず、散文で捲し立てる...

「詩がこれ以上どうにもならないことを知って久しかったので、私は新たな立派な散文をめざした。けれども散文では、美しい天気、春の日差し、五月の喜び、ニオイアラセイトウ、名もなき樹々で間に合わせることができないので、新しい形式のために新しい素材を求めなければならなかった。そのことによって私はいろいろ理念と取り組むという不運なことを考えついてしまった...」

「共和主義的な視点から、不平等批判がパロディ化される。自由・友愛・民族統一のための闘争が、政治史的視点から、モラルの視点からの真剣さが、美的視点の文化事業としての芸術の理念が、宗教的視点から理神論が、それぞれパロディ化される。社会革命的視点からは結局共有財産がパロディ化される。私的所有は泥棒だ!」

「ワルシャワが陥落した!われらの前衛が斃れた!このような喧嘩の中では、思想や形象のすべてが混乱し、脇へ追いやられてしまう。ドゥラクロワの自由の女神がすっかり顔つきを変えて、私のほうへ歩いてくる。激しい目に不安の色をたたえてといってよいくらいにして。... 死せるチャールズの顔もすっかり変わっった。一挙に変わって、よく見ると黒い柩の中には、王ではなく殺害されたポーランドが横たわっている。柩の前には、クロムウェルはすでに見えず、ロシアの皇帝がいた。」

「サン=ジュストが述べたあの革命の偉大な標語 - パンは人民の権利 - というのは、われわれ汎神論者から言えば、- パンは人間である神の権利である - ということになる。われわれは人民の人権のために戦うのではなくて、神としての人間の権利のために戦う。... われわれは幸福な神々の民主主義国家を建設しようとするのだ。... われわれドイツ人は神の飲む酒、神の食物、緋のマント、尊い香料、肉の歓び... などを求めているのだ。... 私はシェイクスピアの戯曲の中のある道化の言葉を借りて答えよう。- おぬしは自分の行いがまっすぐだからというので、この世に美味い菓子やぶどう酒がないと思うとるのか?」

2022-08-28

"日本の酒" 坂口謹一郎 著

この書を前に、純米酒やらずして無礼であろう。今宵は酒の精にあやかり、老子の言葉を引く、上善!水の如し...

酒の発祥は知らない。「猿酒」と言うぐらいだから、人類の発明ではあるまい。まさか猿でもあるまい。果実などの養分が地面に落ちて腐り、それが雨水などと混ざって樹木の窪みなどに溜まり、偶然できちまったものを通りかかった人が口にした... などと想像する。
とはいえ、麹菌を発見したのは、やはり人間であろう。これを繁殖させる技術を編み出したのも、やはり人間であろう。自然界の化学反応に看取られた酒造りの世界は、伝統によって近代科学を凌駕した酒の化け学とでもしておこうか。
本書は、醗酵学者の目で日本酒造りの世界を熱く語ってくれる。酒造家魂には、なにやら技術屋魂に通ずるものがある...

「日本の酒は、日本人が古い大昔から育てあげてきた一大芸術的創作であり、またこれを作る技術の方から見れば、古い社会における最大の化学工業の一つであるといえる。」

日本酒造りは、「一麹、二酛、三造り」と言われる。良い麹なくしては始まらぬ。
麹とは、蒸した米に麹菌というカビを生やしたもの。カビってヤツは、腐った物や毒物といったものを連想させる。人や組織が古臭く、時代にまったくついていけないような状況でも形容され、カビの生えた野郎!といった表現があるぐらい、巷ではケチョンケチョンな言われよう。そんなカビの胞子を混ぜて造る飲み物とは、いったいどんな飲み物か...
一方で、清酒と呼ばれるヤツがある。腐ったものを混ぜて清いとは、これいかに。御神酒ってヤツもある。半ば腐った物を神様にお供えするとは、これいかに...

カビといっても、善玉と悪玉がある。麹カビは日本酒や焼酎だけでなく醤油や味噌を造る時にも使われ、青カビはチーズを造る時に使われる。
ちなみに、青カビの周りにバクテリアが生えない性質から、ペニシリンが発見された。ペニシリンという名はアオカビの属名に因んだものらしい。対して、食パンやお餅に生えるカビなどは有害とされ、小学校の理科の実験で繁殖させた記憶がかすかに蘇る。

そもそも「腐る」とは、どういう現象を言うのであろう。物質は一定時間を置くと化学反応を起こす。だから、「化け学」と言う。腐るとは、それが人間にとって有害となる場合に、そう言うだけのことか。つまりは、人間のご都合主義か。口にすれば健康を害し、近寄れば悪臭たちこめ不快にさせる。そんな腐り物が、動植物にとっては養分になる。
とはいえ、清酒だって、やりすぎれば身体に悪い。
酒造りとは、腐らせずに名酒にする技術を言うのか。あるいは、腐らせ方の奥義を言うのか。程よく腐らせれば、「熟成」と呼ばれる。人間然り、ちょいと腐らせた方が、人格もまろやかになると見える...

古くから、「名酒はよい水から生まれる」と言われる。理屈の上では、麹の力を引き出すのによい性質の水もあれば、酵母の醗酵に好都合なミネラルを含む水もある。
例えば、宮水は、昔から日本酒に適しているとして知られる。西宮神社の南東側から湧き出る「西宮の水」のことで、三方からの影響を受けいてるという。一つは、夙川の伏流水。二つは、六甲山から流れ出る炭酸塩を含んだ水。三つは、海からの塩分を含んだ水。これらが合流して燐酸や加里を多く含んだ水となり、酵母の養分に具合がいいらしい。自然界が創り出した偶然の賜物というわけか...

また、麹菌の純粋性を保つために「灰」を使うという。蒸米に灰をかけて麹を造ると、麹菌はよく生えるが、アルカリに弱い他の雑菌は生えることができないそうな。灰には害菌を防ぐ作用があるばかりか、灰に含まれる燐酸や加里が麹菌を育てる養分になるとか。しかも、灰の中の微量な銅や亜鉛などや、その他のミネラルが胞子を多くつけ、色もよくさせるそうな。灰の力、恐るべし!そりゃ、ピート香に誘われるのも無理はない...

さらに、日本酒造りで特徴的な方法に、「火入り」というものがあるという。50 度から 60 度くらの低温で殺菌する方法で、フランスでは「低温殺菌法」がパスツールによって発表されたが、それよりもずっと前からの伝統手法として日本酒造りに用いられているらしい。
そういえば、現在でもパスチャライゼーションという殺菌法を耳にする。低温殺菌牛乳といった商品も目にする。
科学的根拠とは別に、職人の勘と技で磨いてきた方法論は、まさに技術国の片鱗を見る思い。火入りの主な目的は殺菌だが、それとともに熟成の効果も狙っているようである。

こうして酒造りの工程を見渡すと、偶然というか、自然というか、うまいこと化学反応が寄与していることが見て取れる。
古くから、人類には火を崇めてきた歴史がある。屍体を焼くのは素朴な土に戻すためとも言われ、着ていた物や使用していた布団も焼いたりする。
しかしながら、バクテリアの中には、そんな風習を物ともせず、焼かれて灰になってもなお生き残る連中がいる。これが純粋性というヤツかは知らんが、このしぶとい奴らのお陰で、腐ったものにも価値を与えてくれる。
例えば、100 度ぐらいの沸騰水の中でも短時間なら平気なバクテリアがいる。こんな奴らを殺すには、缶詰のように高圧蒸気で 100 度以上に加熱する必要がある。

ところが、だ!
幸いなことに、酒のような酸性の強いものの中では繁殖できない性質を持っていて、それ故、カビや酵母を殺すことのできる 50 度から 60 度ぐらいの低温でも、5 分から 10 分ぐらいで殺菌効果が得られるという。
さらに、「火落菌」という酒好きの菌があるらしい。他のバクテリアは、牛乳、肉汁、野菜スープなどの中で喜んで生えてくるのに、こいつだけは一向に生えてこない。
ところが、だ!
わずかの清酒を入れると、盛んに生えてくるという。おまけに、こいつが清酒ではなく、葡萄酒やビールを入れたのでは決して生えてこないというから、摩訶不思議!
こうした醸造技術は、論文になることもなく、研究発表されることもなく、むしろ極秘とされてきた。ひたすら味の極意を会得しようとしてきた化学技術の結晶を見る思い。
本書の冒頭には、日本酒づくりの光景を思い浮かべる歌が紹介される。喜びは、味と香りの出来栄え、それと喉越しに尽きるというわけか...

「夜のうちに湧きつきにけりフラスコの液のおもてに泡ぞみなぎる
 つつしみて護りし種ゆまさしくもたふときいのち生(あ)れいでにけり
 うたかたの消えては浮ぶフラスコはほのぬくもりて命こもれり
 見入りたる接眼鏡(オクラル)のはての薄明にこの世のほかのいのちひしめく
 たまゆらに視野を横切るものありて待ちはてにつる心ときめく

 かぐはしき香り流るる酒庫(くら)のうち静かに湧けりこれのもろみは
 留うちて後は静かやあけくれにうつろふ泡のゆくへをぞ守(も)る
 冷え冷えと寒さ身にしむ庫のうち泡の消えゆく音かすかなり
 湧きやみて桶にあふれし高泡もはだれの雪と消え落ちにけり
 泡蓋を掻けばさやけきうま酒の澄みとほりてぞ現はれにける
 泡分けてすくひとりたる猪口(ちょく)のうちふくめばあまし若きもろみは
 待ちえたる奇しき香りのたちそめて吟醸の酒いま成らむとす

 うまさけはうましともなく飲むうちに酔ひての後も口のさやけき」
... 「歌集 醗酵」より

2022-08-21

"書物の破壊の世界史 シュメールの粘土板からデジタル時代まで" Fernando Báez 著

破壊された書物を紹介する本が、ある種の目録になっている。過去に灰になった本に泊がつくのも、皮肉な話である。
破壊がすべて悪とは言えまい。創造あるところに破壊あり。人類の歴史は、創造と破壊の繰り返しであった。創造主は同時に破壊者でもある。大地を揺るがす地震は神の怒りか。一瞬にして暗闇にしてしまう日食は神のお告げか。破壊の神話は救済の神話にもなってきた...
尚、八重樫克彦 + 八重樫由貴子訳版(紀伊国屋書店)を手に取る。

「人間が創り出したさまざまな道具のなかでも、最も驚異的なものは紛れもなく書物である。それ以外の道具は身体の延長にすぎない。たとえば望遠鏡や顕微鏡は目の延長でしかないし、電話は声の、鋤や剣は腕の延長でしかない。しかしながら書物はそれらとは違う。書物は記憶と想像力の延長なのである。」
... ホルヘ・ルイス・ボルヘス

破壊者たちは、なにゆえ書物を恐れるのか...
書物の破壊は、自身の愚かさや無知に気づかぬ者の所業と思われがちだが、それはまったくの見当違いだという。
ビブリオクラスタ(書物破壊者)とは、むしろ用意周到な人間を言うらしい。頭脳明晰で世情に敏感、完全主義者で注意深く、並外れた知識の持ち主、抑圧的で批判を受け入れることが苦手、利己主義で誇大妄想癖あり、比較的恵まれた家の出で幼少期にトラウマを抱え、権力機関に属していることが多く、カリスマ性すら持ち合わせているとか。
確かに、無教養な人間が書物を恐れる理由は見当たらない。哲学者や作家が、書物の破壊行為を公言した例も多い。ディオゲネス・ラエルティオス著「ギリシア哲学者列伝」によると、プラトンですら論敵デモクリトスの著作を燃き、自作の詩も焼いたという。書物は、迫害の目的だけで焼かれるわけではない。自身の落胆や失望までも絡む。作家が、自らの作品の不完全さを嘆き、処分を遺言する事例も見かける。ウェルギリウスは、未完に終わった長編叙事詩「アエネーイス」の焼却を遺言したと伝えられる。

図書館戦争ともなると、血なまぐさい歴史が浮かび上がる...
アレクサンドリア図書館の変遷には、黒い噂がつきまとう。真の創始者とされるデメトリオスは、エジプトコブラの犠牲になったと伝えられるが、それは事故か、自殺か、それとも他殺か。検死をした医師たちは沈黙を守ったとされるが、それは保身のためか。女性天文学者ヒュパティアの悲劇は、映画「アレクサンドリア」にも描かれる。ギリシアとローマの伝統を併せ持つコンスタンティノープルでも、図書館は焼かれた。プラトン、アリストテレス、ヘロドトス、トゥキュディデス、アルキメデスらの功績が灰に...

「コンスタンティノープルの略奪は歴史上でも類を見ぬ性質のものだ... 第四回十字軍以上に、人類に対する最大の犯罪はないと思う。」
... 歴史家スティーヴン・ランシマン

イスラム世界には、「知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)」という学術機関があったそうな。コンスタンティノープルから難を逃れた人類の叡智を、フナイン・イブン・イスハークやサービト・イブン・クッラといった翻訳家たちが辛うじて救った。それでも、ほんのわずかであろうが...
イスラムの科学者たちは、古代ギリシア、インド、ペルシア、バビロニア、中国の知的遺産をアラビア語に翻訳することで、自らの文化に取り入れたという。そして、継承した遺産に独自の思索と研究を加え、昇華させた上で西洋社会へ引き継いだ。アッバース朝の時代には、個人図書館を有する者も多かったとか。彼らの意思を継ぎ、翻訳や写本の絶え間ない努力によって、今日まで叡智が生き残ってきたことはありがたいことである。コンピュータ工学に欠かせないアルゴリズムの語源になったフワーリズミーの功績も...
そして、知恵の館もまたモンゴル帝国の侵略によって灰燼に帰す...

「本を燃やす人間は、やがて人間をも燃やすようになる。」
... ハインリッヒ・ハイネの戯曲「アルマンゾル」より

戦争や迫害が書物を焼いてきた例は目にあまる。異端審問にかけられた書物の群れ。パスカルは警告した、「人は宗教的確信に促されて行なうときほど、完全に、また喜んで悪事を働くことはない」と...
ダンテの作品は幾度も焚書とされ、その生涯は受難ばかり。永久追放に、焚刑に、放浪中に何度も殺されかけ、そして客死。だから、「神曲」で最初に遭遇するのが地獄ってか...
自由主義者が自由な執筆を妨げ、平等主義者が書物が平等に行き渡ることを拒み、モンテスキューやルソーも焚書とされた。
大衆もこれに呼応し、本を焼くだけでは不十分!書いた奴も燃くべきだ!と叫ぶ。人間の優越主義には呆れるばかり、書物のゲルニカはビブリオコーストに投影される。それは政治思想や宗教思想に留まらない。数学や科学でさえ、劣等民族の功績とされるものは抹殺されてきた。グノーシス文書の消滅にしても、よく推理小説の題材にされ、なにやら陰謀の臭いがする。人間は陰謀論に目がないときた。
ただ、過去の記録がすべて正確とは限らない。どんなに優れた叙述家でも、当時の時代背景から都合よく改竄した可能性もある。時には、自らの主義主張のために。時には、保身のために。人類の歴史は、改竄の歴史でもあり、改竄の応酬の歴史でもある。

では、21世紀の今はどうであろう。検閲主義から解放されているだろうか...
誹謗中傷の嵐は荒れ狂い、改竄の手口は巧妙化し、集団的抹殺はますます旺盛に。書物の媒体も電子化が進み、その記述も半永久的な存在となった。そして、その破壊の歴史は、まだ序章なのやもしれん...

「ここでひとつ引用させてもらおう。『芸術家の個性は、本来妨げられることなく発展させるべきものだ。われわれが要求するのはただひとつ、われわれの主義主張を公言することだ。』これはナチス・ドイツの大物、ローゼンベルクの言葉だ。それからもうひとつ。『どの芸術家にも自由を創作する権利がある。しかしわれわれ共産主義者はひとつの計画に適合することを余儀なくされている。』こちらはレーニンの言葉。あまりに似かよっていて、仮にこれが悲劇でなかったとしたら、実に笑える話なのだが...」
... ウラジーミル・ナボコフ

2022-08-14

"非常民の民俗文化 - 生活民俗と差別昔話" 赤松啓介 著

人間は、表と裏のある動物である。建前と本音を使い分ける動物である。
アリストテレスは言った、人間はポリス的な動物である... と。ポリス的とは、単に社会的という意味ではない。精神的に最高善を求める共同体、その一員としての合目的的な存在といった高尚な意味が含まれている。
しかしながら、善を知れば、悪をも知ることになる。最高善を求めれば、その対極にある悪魔的な意識をも相手取ることになる。善悪ってやつは、表裏一体で迫ってくる。それは、相対的な認識能力しか持ち合わぜていない知的生命体の宿命であろう。
そして、人間社会にも表と裏がある。陽な側面と陰な側面とが。いつの時代も、力ある者が力なき者を足蹴りし、才ある者が才なき者の鼻面を引き回す。堂々と正義を掲げる輩の陰に、権利の主張もできず、ひたすら耐え抜く人々が。これが人間力学というものか。本書は、陰の側面から人間社会を直視する、いわば、本音の社会学とでもしておこうか...

「これは一人の男の、敗北と挫折の記録である。いまから金儲けしようとか、立身出世したいという希望をもっているような人間が読んで、ためになるような本では断じてないだろう。また労働運動、反差別運動、平和運動など、いわゆる社会運動のなかで、あるいは加わって、民衆を指導し、指揮しようという大志をもつ連中も、読まない方がよい。社会変革を達成するために、民衆、あるいは市民を鼓舞激励する手法などは、なに一つ発見できないからである。むしろ、民衆とは、、市民とは、こんなつまらないものであるかと、失望するだろう。いや、そう見せかけて、実は、民衆の、あるいは市民の、かくされた大きな潜在力を暗示し、その発掘を示唆しているのだ、などと買いかぶるのはやめてもらいたい...」

民俗学の用語に、柳田國男が提唱した「常民」という概念がある。本書は、これに疑問を投げかけ、「非常民」の側面から人間社会というものを物語ってくれる。柳田民俗学を陽とするなら、赤松民俗学は陰ということになろうか。
そして、人間の本質は陰の部分にこそ露わになる。人が正直に生きることは難しく、自己までも欺瞞してかかる。しかも、無意識に。無意識の領域は意識の領域よりも遥かに広大で、これを相手取るにはよほどの修行がいる。
古来、哲学者たちは問い掛けてきた、人間は生まれつき善か、それとも悪か、と。悪とするぐらいが控え目でよかろう。それで謙虚になれる。いや、本当に悪魔になりきるやもしれん。自分の理性に自信を持てば、理性が暴走を始める。理性ってやつは、脆弱である。実に脆弱である。しかし人間社会は、これに縋るほかはない。ならば、自問する力こそが問われよう...

いまや学問は、大学や研究機関だけで営まれる時代ではない。優れた研究者がアカデミズムの外にも溢れ、魂のこもった仕事をしている多くに在野の研究者を見かける。そして、彼らは反主流派に位置づけられる。著者の赤松啓介も独学で取り組んだ一人。
確かに、人間社会には必要悪というものがある。例えば、人類最古の商売とされる売春が、売春防止法なんぞでなくなると信じるお人好しは、そうはいまい。いじめのない世界なんて信じるおめでたい人は、そうはいまい。差別のない世界なんて信じるおめでたい人は、そうはいまい。村八分社会や階層社会なんてものは、日本社会のあらゆるところに蔓延る。その証拠に、世間には勝ち組と負け組で区別することのお好きな輩に溢れ、自分自信を勝ち組の側にいると信じて安心を買おうと必死だ。
おまけに、理性屋どもは、人間社会に蔓延る悪癖にこぞって目くじらを立てる。おそらく、彼らは清廉潔白なのだろう。清廉潔白な人間?それは本当に人間なのだろうか。人間の皮をかぶった悪魔にも見えてくる。正義依存症や道徳依存症といったものは、アルコール依存症や麻薬依存症と何が違うのだろう。幻想を追いかける点で同類項にも見えてくる。天の邪鬼の眼には...

「柳田民俗学には、日本人は太古の昔から優秀な民族で、これからも繁栄して行くという空疎な前提がある。だから差別や階層、性、犯罪、革命などという醜悪なことは、日本の民俗や精神生活にはあり得ないと信じようと苦心していた。したがって、そうした視角からより民俗や精神文化、経済社会、生活環境を見ることができなかったので、その調査も、研究も、表面を撫でさすっただけのキレイゴトに終わっている...」

2022-08-07

"奇想の図譜 - からくり・若冲・かざり" 辻惟雄 著

「文化は遊びの形をとって生まれた、つまり、文化はその初めから遊ばれた...」
... ヨハン・ホイジンガ著「ホモ・ルーデンス」より

時系列では「奇想の系譜」から隔てて刊行された「奇想の図譜」だが、姉妹書として意図されていることが伺える。「奇想の系譜」では、近代絵画史で長らく傍系とされてきた達人たち... 岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢蘆雪、歌川国芳らを主流の前衛として紹介してくれた(前記事)。江戸の時代を生きたアバンギャルド!として...
ただ、奇想キテレツ流で欠かせない葛飾北斎については末尾で軽く触れるに留まっていたが、ここでは挨拶代わりに、いきなり北斎のワニザメで度肝を抜かれる。自由自在なる趣向といえば、やはり北斎か。日本画に見る装飾やかざりの極意。すべてのものに魂が宿ると信じるアニミズム。その影響力は、現代のアニメ作品にも見てとれる。
本書は、日本の美を貫くモチーフに遊び心と飾りを配置しながら、人間は生まれながらにしてお洒落であること、飾るという美意識は本能的欲求であることが論じられる。日本は個人主義後進国と揶揄されがちだが、こと日本美術における個性では一目置かれるらしい...

「日本の装飾の魅力をなすもの、それは、いつもその装飾の与え方に現れるファンタジーと奇想である。」
... フランスの美術評論家エルネスト・シェノー

ところで、ワニザメって、どんな生き物?
おいらは、こういうウンチクに目がない。「世界大百科事典」の「ワニ」の項によると、もとは山陰地方における鱶(ふか)の方言で、中国南部に棲む「鰐」に日本語のワニをあてたのは、古代日本における中央文人の誤りだったという。だとすれば、ワニとサメの重ね言葉ということになり、凶暴さと獰猛さのコラボで強烈なイメージを与える。
しかし、架空の動物だ。人間が架空の存在に思いを寄せるのは、精神そのものが仮想的な存在だからであろうか。得体の知れないもの同士で引き合うものがあるのだろうか。臆病であるが故に、怖いもの見たさという衝動が抑えられず、悪魔的なイメージを駆り立てるのやもしれん。
鑑賞者が飽きっぽいなら、作者も負けじと刺激を求めてやまない。そして今、ジュラ紀の映画などでは、ますます強烈な怪物を生み出す。いずれ人類は、仮想的な存在に飽き足らず、遺伝子技術によって本当に恐ろしいものを作り出すであろう...

1. 「をこ絵」と「絵難房」
「今昔物語集」の巻二十八には、比叡山無動寺の義清阿闍梨という僧の説話があるそうな。変わった人柄ゆえ世人には受け入れられず、ただ「をこ絵(嗚呼絵)」の名手として知られていたという。「をこ」とは、笑いをさそう馬鹿げた行為を意味し、義清は「をこ者」として描かれているとか。風刺や滑稽を描いた戯画の先駆者であろうか。柳田國男は、こんなことを指摘したという。「をこ」とは、思慮の足りない愚行のみを意味するのではなく、むしろ逆に、並より鋭い人物が、わざと「をこ」を演じる部分もある... と。
狂言や歌舞伎にしても、風刺や滑稽が芸術の域に達した結果であり、それは、正気よりも狂気の方に人間の本質が内包されているからであろう。芸術ってやつが、自然物ではなく、人為的産物であるがゆえに、達人たちは悪魔的な要素を描かずにはいられない。こうした絵画の傾向は、12世紀頃に出現したらしい。「鳥獣人物戯画」などは、人間どもをおちょくった感がいい。水木しげるを思わせるような動物の擬人化は、まさに現代漫画の先駆け。
また、時代を同じくして、「絵難房」と呼ばれる人物がいたそうな。どんな絵にも難癖をつけては批判することから、そう呼ばれるのだけど、こちらも、まさに現代的キャラクター。本書は、リアリズム評論家として紹介してくれる。新たな試みには批判がつきもの、抑圧には反抗がつきもの、これが人間社会の力学というものだが、いずれも自由精神の体現であり、芸術精神の根源的なもの。12世紀頃、平安から鎌倉にかけての時代に、近代芸術の先駆的意義を探ろうとする本書の試みは、実に興味深い...

2. 白隠慧鶴の禅画
白隠の絵は、「禅画」と呼ばれるそうな。但し、禅画という呼び名はもっと古くからあり、狭い意味で、白隠や仙厓ら江戸時代の禅僧の余技としての意味らしい。本書は、この禅画に、巧みなアマチュア的趣向を紹介してくれる。
禅の精神を伝える題材として、よく用いられるものに、寒山拾得や布袋がある。寒山拾得は小説にもなり、布袋は七福神の一人。こうした題材を率直でユーモアに伝える絵画論は、部分的には、一見しまりなく下手くそに見えながら、全体像では、技巧を超えた徳のようなものを滲ませる。あえて技工を捨てる素人観。それは、熟練工にしかできない芸当であろう。純真な精神を解放するには、高度な知識を捨てねばならぬことがある。神聖な精神が滑稽を演じるようにプロがアマチュアを演じて魅せるのは、厳格化された専門知識に対する、彼らなりの反抗であろうか...

3. 写楽別人説
江戸時代末期の浮世絵師「東洲斎写楽」という人物は、いまだ正体が掴めないらしい。やはり本命は、斎藤十郎兵衛説か。だが、一度はこれの否定説が有力視されたり、写楽北斎同一人説が飛び出したり、はたまた、外国人説が飛び出したり、様々な新説、珍説が後を絶たない。時期によって作風が変われば、独りの人物のしわざかも疑わしい。
現在では、斎藤十郎兵衛説に再び戻って落ち着いたようだけど、歴史なんてものは、新たな古文書の発見でどんでん返しを喰らう。しかし、真に歴史を動かしてきた人物というものは、歴史に名を残してこなかったのやもしれん。ましてや、政治的に目をつけられるほどの奇抜な創造力を持った人物ともなれば... なんらかの形で正体を隠し、世間を欺かなければ、自由精神が体現できない時代ともなれば... そして、現代も...

4. 風流の総括
風流という言葉には、なんとなく惹かれるものがある。風流に、粋に、生きたいものだと。日本的風流といえば、わび、さび、といった質素な感覚があるが、本書が題材とする装飾や飾りは、むしろ逆の立場。しかし、明るい装飾が存在するからこそ、質素な優雅さが際立つ。辻惟雄は、風流という言葉を、陽と陰の両面から、こう総括する...

「風流はきわめて多義である。風狂、好色もまた風流である。みやび、みさお、幽玄、風雅、すきなど、風流に関連する言葉は多い。風流の共通項をあげるなら、松田修氏のいわれるように虚構性ということしかないだろう。私の自己流な分類によれば、風流は陰と陽との両面にわたっている。陰の風流とは、隠遁趣味に結びついた高踏的風流、『かざり』との関連でいえば、あまり飾り立てない風流である。『わび』『さび』はおそらくこれらの風流に結びつくだろう。それに対し、陽の風流とは、賑やかに飾り立てるハレの風流である。いまたどってきたのは、大体この陽の風流の系譜であり、それは『かざり』と『奇』に焦点をしぼった風流の部分象かもしれないが、風流の本質がそこに含まれていることは確かだと思う。口はばったいことを申せば、『わび』『さび』や『ひえかれる』美意識は、この『陽の風流』のはなやかな装飾世界を前提として成り立ったものである。」