2022-12-18

"サピエンス全史(上/下) - 文明の構造と人類の幸福" Yuval Noah Harari 著

すべては空想か... すべては虚構か...
現代人は、ますます仮想空間にのめり込み、恐ろしく柔軟で変化に富んだ社会を生きている。クラウドコンピューティングに、デジタル通貨に、メタバースに... すると、国家や法律も、自由や平等も、愛やお金も... すべては概念化したものにすぎないのではないか、と思えてくる。概念とは、人間が勝手に意味を与え、言語化したもの、自由気ままに定義したもの。概念にこだわり、概念に振り回され、概念に支配されて生きている、ただそれだけのこと。それは、人間が人間自身を支配しようという試みの一貫であろうか...

概念は、虚構と実体を区別しない。どちらも認識の産物にすぎないということか。宇宙空間も、精神空間も、大した違いはないということか。どうりで夢を見ている間は、現実との区別もつかないわけだ。魂や精神を虚構と認めた上で、虚構をもって自己を制す。それは、毒を以て毒を制すの類いか...
とはいえ、虚構も悪くない。なにしろ無限の可能性を秘めているのだから。現実にはすぐに幻滅させられるというのに。どうやらホモ・サピエンスという種は、虚構に依存するという究極の依存症を患っているようだ。そんな依存遺伝子が組み込まれた人間とは、いったいどのような存在であろうか。その答えを求めて、歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリは人類史全体を巡る旅へいざなう...
尚、柴田裕之訳版(河出書房新社)を手に取る。

「アフリカでほそぼそと暮らしていたホモ・サピエンスが、食物連鎖の頂点に立ち、文明を築いたのはなぜか。その答えを解く鍵は『虚構』にある。我々が当たり前のように信じている国家や国民、企業や法律、さらには人権や平等といった考えまでもが虚構であり、虚構こそが見知らぬ人同士が協力することを可能にしたのだ。やがて人類は農耕を始めたが、農業革命は狩猟採集社会よりも苛酷な生活を人類に強いた、史上最大の詐欺だった。そして歴史は統一へと向かう。その原動力の一つが、究極の虚構であり、最も効率的な相互信頼の制度である貨幣だった...」

人間社会には、生まれると半ば強制的に、どこかの国に所属させられるという奇跡的なシステムがある。たいていの人は生まれる地を選べないばかりか、生まれる場所すら与えられない人もいる。つまり人間は、生まれ出ると、まず不自由を経験することになる。だから、本能的に自由に焦がれるのか。
おまけに、租税の義務まで自動的に背負わされる。慣習とは恐ろしいものだ。そこに疑問すら持てないのだから。
しかしそれは、薬物依存症と何が違うのだろう...

「近代に至って、なぜ文明は爆発的な進歩を遂げ、ヨーロッパは世界の覇権を握ったのか?その答えは『帝国、科学、資本』のフィードバック・ループにあった。帝国に支援された科学技術の発展にともなって、『未来は現在より豊かになる』という、将来への信頼が生まれ、起業や投資を加速させる『拡大するパイ』という、資本主義の魔法がもたらされた...」

人間社会で、最も信頼の置けるものとは何であろう...
古代人は、神話や占いの類いに救いを求め、やがて宗教が発明された。占星術は科学の種を蒔いたが、やがて科学と宗教は反目するようになる。
本書は、宗教の歴史的な役割に、秩序やヒエラルキーといった概念に超人間的な正統性を与えたことを指摘している。この正統性が、人々を統一へ向かわせたと...
秩序やヒエラルキーは、想像上の産物だけに脆い。表向きでは、宗教は神を仲介して人々を救済する、ありがたい存在ということになっている。だが実は、こうした想像上の概念を絶対的な存在に昇華させたことに大きな意味があったのやもしれん。
多神教の時代には、まだ神との対話に親和性があった。各々の神は、得意技とともに欠点を曝け出し、雷オヤジのゼウスですら女神では飽き足らず、人間の美女に手を出す始末。やがて全能者となった神は、一神教となって不要な神をばっさりと切り捨て、絶対的な存在となった。絶対的であるからには、よほどの威信が伴わなければ。その威信はどこからくるのか。それは、信者の数か。宗派の優劣は、多数決の原理に支配されるのか。神の世界も生存競争はすこぶる厳しいと見える。なるほど、これが民主主義ってやつか...

「多神教は本来、度量が広く、異端者や異教徒を迫害することはめったにない。多神教信者は、巨大な帝国を征服したときにさえ、被支配民を改宗させようとはしなかった。エジプト人も、ローマ人も、アステカ族も、異郷に宣教師を送って、オシリスやユピテル、ウィツィロポチトリ(アステカ族の主神)の礼拝を広めようとはしなかったし、その目的で軍を派遣することは断じてなかった。」

本書は、秩序やヒエラルキーといった概念に、「共同主観的」という用語を当てる。それは、主観的とも、客観的とも違う。
現代社会では、共有という用語が乱用され、どんなに偏重しようが、どんなに偏狭になろうが、集団意識が強調される。しかも、その意識は両極端に振れ、そのまま基準とされる危険な時代でもある。共同主観的とは、これに近いものがありそうだ。
21世紀の今、宗教はそれほど必要ではなくなり、むしろ差別や偏見を助長する根源と見なされることが多い。そして、自由主義や人道主義といったイデオロギー的な概念が台頭してきた。普遍的な価値観や宇宙論的な世界観を信仰するという意味では、イデオロギーもまた宗教と呼べなくもない。伝統的な宗教は、世界における重要な知識はすべて分かっていると主張してきたが、科学はその逆の立場を主張してきた。科学革命は、無知を知ることを重要視したとも言えよう。信仰体系という意味では、啓蒙思想も立派な宣教活動であり、科学もまた立派な宗教と言えよう...

「過去三百年間は、宗教がしだいに重要性を失っていく、世俗主義の高まりの時代として描かれることが多い。もし、有神論の宗教のことを言っているのなら、それはおおむね正しい。だが、自然法則の宗教も考慮に入れれば、近代は強烈な宗教的情熱や前例のない宣教活動、史上最も残虐な戦争の時代ということになる。近代には、自由主義や共産主義、資本主義、国民主義、ナチズムといった、自然法則の新宗教が多数台頭してきた。これらの主義は宗教と呼ばれることを好まず、自らをイデオロギーと称する。だが、これはただの言葉の綾にすぎない。もし宗教が、超人間的な秩序の信奉に基づく人間の規範や価値観の体系であるとすれば、ソヴィエト連邦の共産主義は、イスラム教と比べて何ら遜色のない宗教だった。」

世界を統一する概念といえば、宗教やイデオロギーを遥かに凌ぐツールがある。そう、貨幣ってやつが。宗教やイデオロギーは、共通意識を持った者同士を結びつけるが、同時に異なる意識を持った者同士を反目させる。しかも、きわめて政治的であったり、何らかの先入観を助長したり、攻撃的な性格までも帯びている。
その点、貨幣は世界観を超えた価値として社会に合理性をもたらしてきた。なんでも貨幣換算すれば、すべての取引が成立する。人の命ですら。無味乾燥的という意味では、数学的ですらある。
しかし、貨幣は万能ではない。すべての価値観を網羅できるものでもない。それでも折り合いをつけることはできる。つまりは、妥協である。人間の意識が時間の矢に幽閉され、どんな状況にあっても前に進まなければならないとすれば、妥協の仕方が重要となる。人間社会に富をもたらしたのは、宗教でもなければ、イデオロギーでもなく、やはりお金であろうか。いや、お金を主体にしたイデオロギーもある。そう、資本主義ってやつが。
しかしながら、哲学者や道徳家たちは何千年も前から、お金に汚名を着せてきた。お金は未来に対して利息という概念を生み、こいつが悪用されてきた歴史は長い。あるいは、人権に反する人身売買も横行すれば、遺産相続で演じる骨肉の争いは、実に醜い。
お金ってうやつは、人をえげつなくする。しかし、お金がないと、精神不安に陥る。人間社会において信頼の置けるものには、必ず邪悪な面が備わっているようである。それは、人間自身に善と悪が共存していることの証であろう...

さらに本書は、最終章で「超ホモ・サピエンスの時代へ」と題して、種を超越した存在に警鐘を鳴らす。いまや科学技術は、生命の法則や自然選択の法則を変えようとしていると。
そして、自然選択に取って代わりうる三つの知的設計について言及している。それは、生物工学、サイボーグ工学、非有機的生命工学である。
近年、「インテリジェント・デザイン」という用語を見かける。これを唱える連中は、学校でダーウィンの進化論を教えることに反対し、創造主の存在を主張する。だが、その主張を否定できるほどの科学的な根拠はない。ひょっとしたら、どこぞの地球外生命体が、一つの惑星をアクアリウムに見立て、生物を飼育したのが始まりだったかもしれないし...
また、機械の知性については、チューリングの時代から問題提起されてきた。コンピュータは心を持ちうるかという問題である。そもそも、心とは何か?魂とは何か?精神とは何か?物理的には、素粒子の集合体ということになろうか。無数の自由電子がある法則に従って群がると、自由意志なるものが創出されるのか?大多数の群衆で形成される社会が、個人とはまったく別の集団的な意志を持って独り歩きを始めるように。
デジタル生物に、バイオニック生命体とくれば、有機体と無機体の区別も覚束ない。生命体という概念までも、ぶっ飛びそうな。人類という種は、想像上の概念を勝手に生み出しておきながら、その概念をぶっ壊すのがお好きと見える。
汝自身を知れ!とは、ソクラテスの時代から問われてきたが、いまだ人類は、自分自身がなんであるか、どこへ向かっているのかも分からずにいる。宇宙法則を凌駕して、神にでもなろうというのか...

「私たちはかつてなかったほど強力だが、それほどの力を何に使えばいいかは、ほとんど見当もつかない。人類は今までになく無責任になっているようだから、なおさら良くない。物理の法則しか連れ合いがなく、自ら神にのし上がった私たちが責任を取らなければならない相手はいない。その結果、仲間の動物たちや周囲の生態系を悲惨な目に遭わせ、自分自身の快適さや楽しみ以外はほとんど追い求めないが、それでもけっして満足できずにいる。自分が何を望んでいるかもわからない、不満で無責任な神々ほど危険なものがあるだろうか...」

2022-12-11

"モチベーション 3.0" Daniel H. Pink 著

TED カンファレンスで、"The puzzle of motivation" と題した講演を見かけたのは、もう十年ぐらい前になろうか。以来、ダニエル・ピンクが ToDo リストに居座ってやがる。そんな奴らが、おいらの ToDo リストに屯しているわけだが、M な性分には嬉しい悩みでもあった...

さて、原題に、"Drive: The Surprising Truth About What Motivates Us" とある。ドライブという語感は自動車の運転といったイメージだが、本書は「ヤル気!」という訳語をあてている。辞書を引くと、「運転」のほかに「前進」や「駆動」といった意味が見つかる。何かに駆り立てられる動機と解せば、「ヤル気!」とするのもなかなか!
ただ、ヤル気!ってやつは、一時的に発揮する分には大したもんでもないが、こいつを持続させるとなると、なかなか手ごわい。やがて、自己への問い掛けが押し寄せてくる。何のために... と。そして、人生の意味までも問うことに...
人を動かす根本的なものとは、なんであろう。ワクワクするような動機だけでは、何か足りない。自発的な意志が湧いて出てくるような、そんな環境も欲しい...
尚、大前研一訳版(講談社)を手に取る。

本書は、動機づけの基本型を三つ提示している。
まず、生存を目的とした人間本能に根ざした第一の動機づけがある。それは、飢餓動因、渇動因、性的動因などの生物的、生理的な欲求に発するもので、これをモチベーション 1.0 と呼ぶ。
次に、報酬や罰則などによる第二の動機づけがある。ここでは「アメとムチ」と表現されるが、見返りの原理とでもしておこうか、これをモチベーション 2.0 と呼ぶ。原始の時代には、腹が減れば喰い、生殖本能のままに性交がなされたが、工業化の時代になるとサラリーマン社会が形成され、アメとムチで扱き使われる。給料がもらえるから働く意欲が出て、法律で罰せられるから抑止が効くとすれば、それは本当に自分の意志であろうか。
そして、第三の動機づけが、自己の内から湧いて出てくるような「ヤル気!」で、これをモチベーション 3.0 と呼ぶ。人間には元来、新しいことを求めたり、やり甲斐を求めたり、あるいは、自分の能力を高め、発揮し、探究し、学ぶといった傾向が備わっているという。こうした性質が第三の動機づけの原動力となる。とはいえ、自己実現や自己啓発を大層に掲げたところで、自己陶酔や自己肥大となるか紙一重。第三の動機づけは他の二つの動機づけよりも脆弱で、それ相応の環境が必要である。

そして、本物のモチベーションを構成する要素に、「自律性、マスタリー(熟達)、目的」の三つを挙げている。真の動機づけを促すものに、自律性と自立性、あるいは、健全な目的の設定が鍵になるのは言うまでもあるまい。そして、交換条件付きの報酬は、自律性を失わせる。給料が高いに越したことはないが、それに依存するようでは真の動機は望めまい。
それゆえ、報酬で釣るような仕組みでは倫理に反する目標を設定したり、ノルマ達成のための水増し請求や、押し売りまがいの不必要な施工といった行為が横行し、社会問題を引き起こすという。メンバーの愚痴が、他者との報酬の差に向きはじめたら、チームの健全さが失われつつあると見ていい...

「第三の動機づけというあべこべの世界では、報酬は往々にして、奨励しようとしている事柄の足を引っ張る役割を果たす。だが、話はこれで終わりではない。外的動機づけが誤って用いられると、これに付随して意図せぬ結果がもたらされる。望まないことをさらに大きくしてしまうのだ。ここでも再び、ビジネスの現場は科学の後塵を拝している。科学的には、アメとムチは悪しき行為を助長し、依存を生み出し、長期的視点をないがしろにした短絡的思考を促すおそれがある、とすでに証明されているからだ。」

そこで、報酬の在り方が問われる。報酬体系で最も問題になるのは、その評価と公平性であろう。能力に見合った報酬が得られるならば、大した問題にはなるまい。社内で能力に応じた給料が得られなければ、ヤル気が失せるし、他社の給料が格段に高ければ、そちらに転職するまでのこと。
逆に言えば、最低限の公平性が担保されれば、健全な動機づけが促せるというわけである。では、促すのは誰か?もちろん自分自身であるが、社風や組織風土といった環境が整わなければ。人間ってやつは、環境に影響されやすい動物である。

三つの構成要素の中で、特に注目したいのは「マスタリー」という用語である。本書は「熟達」という訳語をあてているが、人生のビジョンや生き方といったものを視野に入れた高いレベルでの修練を言うのであろう。それは、目標設定とも大きく関わるが、実際は、現実とのギャップを埋めるプロセスになろう。凡庸な人がやれば、自己啓発から自己実現へのプロセスが、妥協から自己満足、そして、自己陶酔と化す。おいらがやれば、自己泥酔よ。熟達した人であれば、現実とのギャップを自己実現に向けた推進力とするのであろうけど...
そして今、「マスタリー」という用語に、論語を重ねて眺めている。論語には、いい言葉がある... 吾、十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えず... と。
なるほど、モチベーション 3.0 とは、ある種の人生論の提示であったか...

「それが天職かどうか、その人の仕事ぶりを観察する必要はない。ただその目を見るだけでよい。ソースを調合するシェフ、難しい手術にあたる外科医、船荷の送り状を作成する事務員、みな同じように熱中した面持ちを浮かべ、その仕事に没頭している。対象物を見つめる眼差しの、なんと美しいことか...」
... W・H・オーデン

モチベーション 3.0 のメカニズムを促進的とするなら、モチベーション 2.0 は抑圧的。組織社会では、自由にやらせれば怠ける... 独断でやらせれば責任を逃れる... 期限やノルマを与えなければサボる... といった考えを持つマネージャをよく見かける。おいらは、ず~っと前から、「マネジメント」という用語に「管理」という訳語を当てることに違和感を持ってきた。日本では、管理職は偉い!ということになっている。肩書社会の象徴か。マネージャも技術職も営業職も役割が違うだけのことで、目標は同じはず。ある程度経験を積んだ人がマネジメントをやるのは理にかなっているとはいえ、向き不向きもある。管理職を欲する人は、いったい何を管理するというのか。いや、管理したいから欲するのであろう。自己を支配できぬ者は、他人を支配しようとする。独裁的な性格が強いほど、周囲には抑圧的な空気を漂わせておきたいらしい...

一方で、自由精神に飢えたボランティア的な活動を方々で見かける。実際、社会福祉の分野だけでなく、無償でコードを書くエンジニアがわんさといる。知識への渇望や能力の向上は、心をワクワクさせる。情報交換しながら、互いに高めようと。そこに上下関係はない。たいていの技術は、そうした自由な活動から生まれてきたし、どんなに優れた技術でも最初は金にならぬもの。それでも、根気よくやってきた無名の人たちがいる。動機づけのレベルで哲学的な意識のすり合わせができれば、上司と部下という概念も崩壊するやもしれん。人生は短い!仕事の動機づけは、シンプルな好奇心で共有したいものである...

「ことによると『マネジメント』という言葉そのものを、『アイスボックス(icebox)』や『ホースレスキャリッジ(horseless carriage)』と一緒に、累々たる死語の山に投げ捨てる時期かもしれない。21世紀は、『優れたマネジメント』など求めていない。マネジメントするのではなく、子供の頃にはあった人間の先天的な能力、すなわち『自己決定』の復活が必要なのである。」

2022-12-04

"エッセンシャル思考" Greg McKeown 著

仕事を断るのは、意外と難しい。独立した動機の一つに仕事を選ぶということがあるが、それでも難しい。村社会には、NO! と言えない空気が淀んでいる。人生において重要なことは?最優先すべきことは?などと思いを巡らせつつ...

「"NO" は完成された文章である。」... アン・ラモット

高度な情報化社会では、情報検索の手段が豊富で、その気になれば大抵の知識が手に入る。学ぼうと思えば、いくらでも学べる時代である。言い換えれば、受け身な人は置いてけぼりを喰らい、意識格差をどんどん拡大させていく時代でもある。

では、何を学ぶか?学習意欲が旺盛なのはいい。生き甲斐にもできる。
しかし、人生は短い。あらゆることを吸収しようとすれば、消化不良で吐き気を催す。学ぶことによって馬鹿になるのでは、何をやっているのやら。優秀な人ほど、こうした類いのパラドックスに陥りやすいという。
頭がいいと、いろんなことが認識でき、多くのことを学べそうだが、学び方にも不相応というものがある。まずは、楽しむこと!これを人生の基本方針としたい。重要なことに集中するということは、重要でないことを切り捨てるということ。そして、捨てる能力が問われる。これが、「エッセンシャル思考」というものか...

そして、三つの呪文を、あっさりと上書きする。
「やらなくては」ではなく「やると決める」
「どれも大事」ではなく「大事なものはめったにない」
「全部できる」ではなく「何でもできるが全部はやらない」

尚、高橋璃子訳版(かんき出版)を手に取る。

「向上心はときに絶えざるプレッシャーとなってあなたを襲う。あれもこれも試したい、いいことは全部自分の生活に取り入れたい。だが、そんなやり方で人は進歩できない。何事も中途半端に終わるのがオチだ。この苦境から抜け出すための鍵は、人生を本質的要素だけに絞り込むこと...」
... ダニエル・ピンク

基本的人権の一つに自由権とやらがある。信仰の自由に、思想の自由に、職業選択の自由に... 社会には自由が溢れている。少なくとも建て前では...
それで、自分は自由に生きているだろうか。組織にどっぷりと浸かり、義務という名の強迫観念に囚われる日々。心理学には、学習性無力感という用語を見かけるが、諦めの境地にも似た感覚に見舞われ、惰性的にやっていることばかり。選択肢があるにもかかわらず、選択肢を否定することによって消極的な選択を引き受けている。本当に自分の足で歩いているのやら...

「選ぶ能力は誰にも奪えない。ただ、本人が手放してしまうだけだ。」

トレードオフを直視せよ!
グレッグ・マキューンは、何かを取るために何かを捨てるというタフな決断を要請してくる。
「エッセンシャル思考は、より多くのことをやりとげる技術ではない。正しいことをやりとげる技術だ。もちろん、少なければいいというものでもない。自分の時間とエネルギーをもっとも効率的に配分し、重要な仕事で最大の成果を上げるのが、エッセンシャル思考の狙いである。」

そして、重要な選択を見極めるために、五つの助言を与えてくれる。
「じっくりと考える余裕、情報を集める時間、遊び心、十分な睡眠、そして何を選ぶかという厳密な基準」
あればありがたい贅沢品ばかり。遊び心なんて、ふざけた事を言う前にさっさと働け!などと怒鳴られそうな。しかし、これらを避けていては袋小路に入ってしまう。まるでアドレナリンジャンキー!
エッセンシャル思考の人は、時間をかけて調査し、じっくりと検討することを大切にするという。逆説的に、忙しい時ほど考える時間を確保することが合理的な行動につながると考えるようである。
一度立ち止まる時間を作るというのは、重要だと分かっていながら、実践するのは難しい。日々の仕事を思えば、勇気もいる。それが現実的でない!というなら、一度人生をリセットするぐらいの覚悟がいるやもしれん...
「本質を見失うことの代償は大きい。自分で優先順位を決めなければ、他人の言いなりになってしまう。」

さらに、自分の能力を最大限に引き出すためのシステマティックな方法として、習慣づくりを少しばかり伝授してくれる。良い習慣によって、本質的な行動を無意識化するというわけである。そして、マインドフルネスを身につけよ!と...
スポーツ選手が試合に集中するために、練習などでルーティンというものを重要視する傾向がある。日々の思考法にも、そうした儀式的な所作が結構役に立つ。ジャンクフードを断ち切るのにも...
正しい習慣は、妨害に打ち克つための最強の武器になるという。本質的な目標に向かう行動を習慣づけてしまえば、あとは自然に振る舞うだけ。習慣づけにちょいとばかり努力がいるけど...

「決まりきった行動は、賢い人の場合、高い志のあらわれである。」
... W・H・オーデン

2022-11-27

"アジール - その歴史と諸形態" Ortwin Henssler 著

歴史学者伊藤正敏は、アジールの視点から中世日本の寺社勢力論を熱く語ってくれた(前記事)。アジールに、民主主義や自由精神、あるいは、基本的人権の源泉を見る思い。そして、オルトヴィン・ヘンスラーという人の「アジール論」が紹介され、その成り行きで本書を手に取った次第。おいらは、暗示にかかりやすいのだ。
しかしながら、品切れときた。古本屋でも見つけられず、市立図書館に縋って...
尚、舟木徹男訳版 + 解題(国書刊行会)を手に取る。

注目したいのは、「アジール法」という表現である。法といっても、実定法というよりは、それを超えた平和秩序に属すものらしい。
そもそも法制度というものは、文化の投影であり、共同体の在り方の表明であり、社会に対する態度でもある。集団社会には、慣習のうちに暗黙の掟のようなものが湧いて出る。人間ってやつは、なにかと決まり事をこしらえ、それを周りに守らせるのが、お好きと見える。
そして、自分自身が法となり、独占欲を旺盛にし、独裁欲を露骨にする。自分だけの決まり事にしておけばいいものを...
ちなみに、国権の最高機関と謳われる国会には立法権とやらがある。それで、政治家自身が決めた法律のストレステストをやってりゃ、世話ない。形骸化していく法を量産して...
実定法を超越した掟となると、自己存在に基づく普遍性のようなものが感じられ、自己防衛本能に根ざした自然法のようなものが見て取れる。
ヘンスラーは、「アジール法」という用語に、「不可触性」「不可侵性」という二重の意味を込め、血讐を抑止するような考えを植え付けることが重要だとしている。そして、こう定義する。

「一人の人間が、特定の空間、人間ないし時間と関係することによって、持続的あるいは一時的に不可侵になる、その拘束力をそなえた形態」

これに対して、解題では舟木徹男が、庇護だけでなく、庇護を提供する場所それ自体をも含めて、こう再定義する。

「平和聖性にもとづく庇護、およびその庇護を提供する特定の時間・空間・人物」

どちらの定義も、なかなか...
例えば、刑法は、犯罪者に対する被害者の復讐心を肩代わりする役割もあろう。復讐の連鎖は、社会秩序において重要な問題であり、目には目を... では循環論に陥ってしまう。法の加減は難しい。被害者を犯罪に走らせる社会では、法治国家とは言えまい。
しかし、だ。犯罪者に限らず、どんな集団社会にも、馴染めない人々がいる。周りにうまく溶け込めず、自然体でいることの困難な人々が少なからずいる。異端者やアウトロー、家庭環境や経済状態の過酷な者、ハラスメントやドメスティック・バイオレンスに苦しむ者など、その境遇は様々。アジールだって集団社会の一形態であって、誰もが安堵して暮らせる理想郷というわけにはいくまい。集団社会から逃れた先が、これまた集団社会とは。世間で忌み嫌われる孤独死こそが、理想的な死という考えも成り立ちそうな...

「危険で恐ろしい森は人を容易に近づけない。ということは逆に、土地に縛り付けられていた農奴や領主に反抗したり不正に犠牲になった人々には、森とは人気のない静寂さに自由な空気が流れる解放の場だと夢想させたし、社会から追放されたアウトローには追っ手のかからぬなによりのアジールだったはずである。」
... 伊藤進

さて、本書はアジール法の形成過程を三段階で物語ってくれる。最初に「宗教的・魔術的段階」、次に「実利主義的段階」、そして最後に「退化と終末の段階」と...

まず、人を動かす原始的な心理状態に、不安と恐怖がある。聖霊や神への畏敬は原初的な動機でありながら、21世紀の現在でもなお生き続けている。その仲介役を演じる魔術師や妖術師、あるいは聖職者に神秘的な力を信じつつ。
ここでは、霊力のようなものを「オレンダ」という用語で説明している。強い効力を持つ有形無形の霊的な存在を信仰する観念状態を「オレンディスムス」というそうな。
そして、オレンダ化に不可侵のタブーが結びついた退避場所が、神秘的な聖域と化す。あるいは、その聖域に一般人を寄せ付けない不可触のタブーが働く。これが、宗教的・魔術的段階である。

次に、法が宗教から距離を置くようになり、やがて離脱していく。国家が組織として確固たるものとなり、国家権力を拡大させていくが、まだ、信仰的な法が大きな適用力を持つ。政治の行事にも宗教的な祭祀が設けられ、アジールの存在を暗黙に承認しつつ、国家権力との共存を図る。これが、実利主義的段階である。

そして遂に、国家が宗教から独立し、国家がすべての強制力や法を独占することで、アジールの終結を見る。法の細分化、専門家が進み、合理的な秩序が構築され、宗教的・魔術的アジールは不要であるばかりか、国家にとって敵対する存在となる。かくして中央集権化が推し進められることに...

近代国家は、アジールのような多様な世界の抹殺に貢献したということであろうか。21世紀の現在でも、愛国心の下で世界観の一元化を図ろうとする輩が勢いづく。ただ、こうした動きに反発するかのように、仮想社会では多様化が進む。現在の社会構図は、一元化と多様化の二極化という見方もできよう。
国家の概念も、プラトンの国家から随分と変質したようである。近代国家の概念からも、そろそろ脱皮してもよさそうな。
となると、こう問わずにはいられない。本当にアジールは終わっちまったのだろうか?21世紀版のアジールが存在するとしたら、それはどんな形であろうか?と。そして、国民である前に、市民でありたいものである...

いまや国家の概念は、領土だけで説明がつくものではない。むしろ、イデオロギーや世界観、あるいは哲学的な共通観念による枠組みの方が大きな意味を持つ。アジールもまた地域や領域で説明がつくものではあるまい。
誰とでもつながれる社会では、孤独愛好家を増殖させる。グローバリズムが浸透するほど、民族意識やナショナリズムを旺盛にさせる。これだけ人間が溢れているというのに、なにゆえ小じんまりとした関係に縛られなければならんのか。
やはり人間社会には、駆込み場、退避所、聖域といったものが必要である。世間に惑わされずに生きることは難しい。誹謗中傷の嵐が吹き荒れる社会では尚更である。まずは、じっくりと自分という人間を知ること。アジールとは、そうした思考を促す場であったり、時間であったり、それらを取り巻くあらゆる関係を言うのであろう。だとすれば、現代社会にこそ必要な概念に見えてくる...

2022-11-20

"アジールと国家 - 中世日本の政治と宗教" 伊藤正敏 著

政治が歴史の表舞台だとすれば、こちらは裏舞台。だが、人間の本質を突いているのは、こちらの方やもしれん。
歴史書に触れれば、輝かしい政治指導者や華々しい権力争奪戦に目を奪われがちだが、その陰で真に社会を支え、静かに生きてきた無名の人々がいる。表通りは、なにかと騒がしい。SNS で無理やり繋がろうとする絆社会は、なにかと鬱陶しい。ならば、あえて静かな裏路地を歩いてみるのも悪くない...

どんな集団社会にも馴染めない人々がいる。周りにうまく溶け込めず、自然体でいることの困難な人々がいる。異端者やアウトロー、家庭環境や経済状態の過酷な者、ハラスメントやドメスティック・バイオレンスに苦しむ者、あるいは、犯罪に走ってしまう者や極道に身を投じる者など、その境遇は様々。中世武家社会には、戦に敗れ、身分を追われ、家柄や家系を隠して放浪した者も多くいたはず。誰もが安堵して暮らせる理想郷なんぞ、この世に存在しまい...

人は窮地に追い込まれると神に縋る。だが、神は消極的な人間がお嫌いと見える。神と交信できそうな寺院や神社が最初の駆込み場となるものの、そこも集団社会であることに変わりはない。平和と安住を求めて集まった人々が、突如として武装集団に変貌することもしばしば。
そうなると、集団の掟は却ってタチが悪い。息苦しい集団にしがみつくぐらいなら、孤独の方が合理的という見方もできよう。
とはいえ、面倒な縁をすべて断ち切り、自立して生きてゆくには勇気がいる。覚悟がいる。そうしないと生きてゆけないとすれば、社会から隔離した領域が生じ、世間からタブー視される。無縁所のような場は、人間社会には必要なのだろう。つまりは、個人にとっての聖域が...

伊藤正敏は、著作「寺社勢力の中世」の中でアジール的な性格を見い出しながら、「無縁所」という語を使っていた(前記事)。その理由は、寺社勢力が巨大な経済センターとしての機能を持ちながらも、権力や武力と無縁とは言えず、平和秩序の追求を目的とするアジールとするには、あまりに多くの不純物が含まれていると感じたためだという。
おそらく純粋なアジールなんて、この世には存在しまい。不完全な知的生命体が思い描いた理想郷なんぞに。本書は、中世の日本史をアジール論から再解釈を試みる...

さて、「アジール」とはなんであろう。この用語はギリシア語に由来し、「神聖な場所」、「統治権力の及ばない領域」といった意味があるらしい。オルトヴィン・ヘンスラーという人が、こんな定義をしたそうな。

「一人の人間が、特定の空間、人間、ないし時間と関係することによって、持続的あるいは一時的に不可侵なものとなる。その拘束力をそなえた形態」

このフレーズだけでも、ヘンスラーの書に興味が湧く。おいらは暗示にかかりやすい。但し、品切れで入手は難しそう...

まず、国家と一線を画す場とすることはできよう。そこには、不可触と不可侵という二重の意味が込められる。消極的な意味では、社会からの駆込み場、世間からの退避所といった暗いイメージもあるが、積極的な意味では、政治体制に束縛されない自由活動の場というようなワクワク感もある。その生命線は、暗黙の不入権ということになろうか。
アジール法は、実定法による秩序よりも、それを超えた平和秩序に属すという。法を制定する目的は、平和と人権を第一とするであろうが、法の精神だけを説いたところで現実感に乏しい。平和秩序のための武力保持は、自然に発する自己防衛意識の顕れであり、現代法でもその正統性が認められる。
法治国家という形態がたとえ表向きであれ、中世の時代にこんな領域が自然発生するとは、なんとも魔術的で呪術的ですらある。
中世日本の主役は、封建制を確立した武士階級というのが建て前とされるが、公家、武家、寺社勢力の三つ巴の時代という見方もできそうだ。そして、各々が対立しつつ補完しあって統治していたと。俗世間を逃れ、身分を超えた移民や難民の集合体が、第三勢力となって日本の経済センターを担っていたと。
いつの時代でも、経済ってやつは、あまり政府や官僚が口を出さない方が、自由にアイデアを創出し、活発にもなるようである。
本書が提示する「アジール ≒ 無縁所 ≒ 寺社勢力」という図式もイメージしやすい。そして、この領域に、民主主義の源泉と経済活動を背景にした自由精神の体現を見る思い...

「アジールは人々を魅了してきた。網野善彦『増補 無縁・公界・楽』(平凡社選書、1987年、初版『無縁・公界・楽』1978年)は、原始以来、人々の生活の中に脈々と生きつづけ、権力や武力と異質な自由と平和『無縁、公界、楽』、アジール的な世界を叙事詩さながらに描いた。現代人はどこかにこんな世界への憧憬を持っている。またこういう場が現代社会にもどこかにあると信じたい。」

2022-11-13

"寺社勢力の中世 - 無縁・有縁・移民" 伊藤正敏 著

日本の文明や思想の源流は、その大半が中世の寺社にあるという。中世の寺社は、古代の寺社とも近世の寺社とも似ても似つかぬものだとか。それ故、学会では特に「中世寺社勢力」と呼ぶそうな...

古代に創建された東大寺、興福寺、延暦寺、高野山などが中世には変貌を遂げ、最先端技術、軍事力、経済力などを背景に、その勢力は幕府や朝廷を凌駕していたという。
信長の叡山焼き討ちの例を一つ挙げても、政治権力者たちは、何故、そこまでの惨殺行為に及んだのか、ずっと疑問に思ってきたところ。神や仏を後ろ盾にした思想が、しばしば権力とぶつかり、それが目障りだったことは確かであろう。だが、それだけか。別の何かを恐れてのことか...
寺社といえば、僧侶を中心とした仏教団体をイメージしてしまうが、ここでは宗教的な意味合いを超えた、もっと合理的な組織としての様子が伺える。

中世の自治都市といえば、堺の町を思い浮かべる。執政官により治められる自由都市として、イエズス会宣教師によって西欧に紹介され「東洋のベニス」と呼ばれた町である。そこには勝者も敗者もなく、堀によって他勢力を寄せ付けず、人々は平和に暮らしていると。しかも、当時の最新兵器である鉄砲の最大流通路でもあった。堺の町は、代わる代わる時の権力者が支配にかかったが、あらゆる政治的駆け引きをもって屈せずにきた。堺焼き討ちの日まで...
これに似た自治都市が日本には無数に点在したという。自由精神ってやつは、抑圧するほど反発する性質がある。21世紀の今でも、抑圧的な政治権力ほど、常に民衆を監視せねばならないという奇妙な理屈がつきまとう。独裁的な人物ほど民主的な風土を恐れると見える...
尚、伊藤正敏は、この寺社勢力を「境内都市」と呼んでいるが、どうも気に入らないらしい...

「境内都市というのはどうも語感が悪い。よい言葉を思いつかないので使っているが、自分でも気に入っていない。学会では境内町と呼ぶ人がいるが、門前町と似た小さな町のイメージがあり、日本の経済センターを呼ぶ言葉としては弱い感じがする。最後になるが読者にお願いがある、よいネームを考えていただきたい。よろしくお願いします。」

近代国家という枠組みが出来て以来、たいていの人は生まれてすぐ様、この枠組みに編入される。そこに自由はない。おまけに、疑問すら持たない。まさに奇跡的な自動化システムである。その裏で、社会に馴染めず孤立していく人々が少なからずいる。どんな集団社会にも、退避する場がいる。距離を置く場がいる。無闇に絆を煽る社会では、尚更。孤独ってやつは、集団の中にこそある...

中世にも、幕府や領主の元で主従関係を結ぶという枠組みがあり、同時に、はみ出し者の避難所も自然発生した。寺社の役割は、信仰的な救済だけでなく、村社会から追いやられた者、犯罪を犯して逃げ惑う者、政権争いに敗れて流人となった武士などの駆込み場ともなっていた。この場には、農民、職人、商工業者、武士など身分を超えた人材が集まってくる。大袈裟な見方をすれば、移民たちで活気づくアメリカ合衆国のような雰囲気さえ感じる。
避難民たちは過去を断ち切りたい。身分を捨て、生まれ変わって出直したい。国家に属す社会を有縁所だとすれば、社会を拒絶した無縁所。そこには夢と希望が溢れ、中には過去の栄光を取り戻さんがために、一時的に退避した武士もいる。
身分や家柄に囚われなければ、自然に能力主義が育まれ、才ある者が指導者となる。様々な書物に明るい僧侶の教えに導かれ、智慧が智慧を呼ぶ。自由な経済活動に自由精神の源泉を見れば、身分に囚われない組織構造に民主主義の源泉を見る思い...

しかしながら、自由放任ってやつは、やがて弱肉強食の性格を露わにする。議会制にも似た決議方式は、平等を建て前にすれば、難なく運営できよう。寺社ともなれば、神の前で平等が前提され、尚更。だが、集会や議会といった類いには派閥が蔓延り、事実上、派閥のボスが決定権を持つことに。まさに現代の縮図を見る思い...

「境内都市は、民主主義というより大衆社会の特徴が目立つのだ。外見上の議会制度をもち、民主主義的約束がありながら、議論を尽くした結果とはいいがたい決定が出る。皮肉なことにこれも現代大衆社会に酷似する。」

本書は、「国家 = 社会全体」という図式は、陥りやすい思い込みであると指摘している。では、現在の国家の概念はどうであろう。国家主義や愛国心と距離を置く人は多い。グローバル社会ともなれば、尚更。それは、他国を蔑むことによって自国を美化する連中の集まりにも映り、郷土愛のような自然に発する思いとはまったく別物に感じる。
そして、ネット社会にも、誹謗中傷の荒れ狂う裏で、無縁の仮想空間が拡がる。エンジニアの世界にも、企業や組織に所属せず、在野に生きる人たちがいる。オープンソースの世界には、ボランティア的な活動に励む人たちが多い。ひたすら自らの技術を磨こうと。ギークにも、ホワイトハッカーにも、そうした傾向を見つける。こうした世界も、ある種の無縁所に映る。
そして、21世紀の今、組織に所属する意味が問われる時代へ回帰するかに見えるのは気のせいであろうか。現在と中世とでは、無縁の概念も随分と違うであろうが、いつの時代でも無縁所の役割は大きいと見える。誰もが馴染める理想郷は、おそらくこの世には存在しまい...

ところで、日本の中世とは、いつ頃を言うのであろう。学校の教科書には、鎌倉幕府の成立(1185年)から室町幕府の滅亡、すなわち信長が将軍足利義昭を追放した時点(1573年)、とあったような。そう簡単に何年なんて割り切れるものではあるまい。学会でも、様々な論説があるようだ。
例えば、始まりの一つに、院政の開始とする説。すなわち、平安時代の摂関政治が衰え、白河上皇が実権を握った頃(1086年)。
終わりの一つに、信長が入京し、すでに将軍が死に体となった頃(1568年)とする説など。
しかし本書は、いずれのパターンとも相容れない。こと歴史では、政治権力者が主役を演じる表舞台に注目しがちだが、ここでは庶民に着目した裏舞台に注目している。
まず、始まりは... 1070年2月20日。祇園社が鴨川西岸の広大な地域を「境内」とし、朝廷から不入権を認められた日。これが京における無縁所の第一号というわけである。
そして、終わりは... 1588年7月8日。秀吉が刀狩令を布告した日。農村の武装解除として知られる法令は、全国レベルでの兵農分離を意味するが、同時に寺社に対しても適応されたという。つまり、無縁所の武装解除をもって終焉というわけである。

「人間には、縁などより先に、生の生活、生の感情、自然の尊厳がある。これを積極的価値として位置づけられたのが自然権思想である。縁切りとは、縁のために損なわれた人間の自然権を回復しようとする試みの、第一歩としての逃避である。その人々の思いが作り出した、非制度的制度こそが無縁所なのだ。中世とは、無縁所の時代だ。無縁所が息づいていた時代、これこそが中世である。開始は一〇七〇年、終了は一五八八年だ。」

2022-11-06

"読書論" 小泉信三 著

読書スタイルは、十人十色。読書を論じ始めると、独り善がりにもなる。そして、体験談となるは必定。読書家が論じれば、それに興味を持つ人もまた読書家であろうし、類は友を呼ぶ... とは、よく言ったものである。今更、読書の有用性を説いても詮無きこと。読書の悦楽なんぞ語るまでもあるまい。個々の思い入れに委ねるばかり。とはいえ、何を読むかとなると、達人の意見も聞いてみたい。クチコミやオススメの嵐が吹き荒れる社会では、特に...

たいていの読書家は精読を勧める。本書も例に漏れない。但し、ある程度多く読むことも勧めている。本当は、精読が正論なのであろう。しかし、人生は短い。速読術を会得したいところだが、それには鍛錬がいる。
合理的に生きるために、まずは良書を読むこと。良書を読むには、悪書を読まぬこと。とはいえ、悪書を知らずして、良書を知ることも叶うまい。有意義に生きるためには、無駄な生き方も学ばねば。それは、相対的な認識能力しか持ち合わせていない知的生命体の、いわば宿命。対義的な表現では、論語読みの論語知らず... ってのもあるし、マルクス読みのマルクス知らず... ってのも耳にする。
ちなみに、おいらはマルクス知らずのマルクス嫌いで、本書が高く評価している「資本論」は、いまだ手が出せないでいる。その第一巻第一篇が要約される「経済学批判」を読んだ時は感銘を受け、少し近づけそうな気がしたが、「共産党宣言」を読んで思いっきり引いてしまった。ToDo リストには未練がましく居座ってやがるけど...

ゲーテは「ファウスト」の中で、聖書に記される「始めに言葉ありき」という文句を「始めに行動ありき」と改めた。神は言葉で善悪のすべてを掌握できるらしいが、人間は自ら行動してみないと、なかなか善悪の判断もできない。技芸の道には、習うより慣れよ!という格言があり、プログラミング言語の修得でもおまじないとされる。言い訳じみた言葉を探す前に、やってみよう!学ぶとは、そういうことなのだろう。
とはいえ、大著を前にすれば、やはり尻込みする。まずは一冊、じっくりと、一ヶ月ぐらいかけて。すると、その経験が基準になって読書体力がつき、恐怖心も薄れていく。興味のない本に手を出しても苦痛が残るだけ。読書空間には、常に自由な空気を充満させておきたい。ノルマなんて無用!抑圧的なものはすべて排除!それで、何のために読むか?って。そこに本があるから...

さて、本書は、何を読むべきか、如何に読むべきか、について助言し、何を如何に読んだかを物語ってくれる。読書範囲は好奇心とともに拡がっていく。好奇心は、まずは認識すること、まずは知ることに始まる。興味ある一冊を読み、心を動かされるものがあれば、そこから引用や参考文献を辿る。
貧乏性のおいらは、買った本の活字を隅々まで拾わないと気が済まない。そんな面倒臭い性分が大嫌い。一冊を読むのに思いっきり時間を浪費し、多くを読むのが大の苦手ときた。
しかしながら、活字を拾うのと精読とではレベルが違う。
そういえば、丸谷才一が書いていた... まとまった時間があったら本を読むな。本は原則として忙しい時に読むもの。まとまった時間があれば考えよ!... と。
本書の立場も、読書は目的ではなく、あくまでも思考のための手段の一つ。考えるために本を読む!といったところか...

「読書の良習慣はしばしば読書家の悪癖と相隣りする。よく読書するものに往々自ら見、自ら考えるに怠惰なものが少なくないのは惜しむべきことである。」

また、再三反復して読むことを勧めているが、これが一番の難題やもしれん。気に入った音楽なら何度聴いても飽きないし、映画だって感動すれば何度だって観ちまう。なのに、本となると。二度、三度と読み返していくうちに、新たな境地が開けるかもしれないのに...
学生時代に読んだ「論語」は、いつか読み返そうと思いつつ、三十年が過ぎた。自分のテーマ曲のような本といえば、プラトンの「饗宴」あたりになろうか。いや、キェルケゴールも捨てがたい。いやいや、カントも、ゲーテも、シェイクスピアも... うん~、一生悩んでなさい!しかし、こういう悩みは楽しくて、いかんわ!

「殊に複雑な構造を持つ交響曲の如きは、始めてただ一回それを聴いて、直ちにその美しさ或いは大さの全体を解し、味わうというごときことは到底あり得ない。名曲は反復して聴くべきものであり、それによって始めてその真価を知り、或いはいよいよその真価を知ることが出来る。そしてまた、斯く反復して聴くに堪えるか否かということが、その真価の最も確実なテストとなる。」

さらに、せっかく読んだ内容を忘れちまうのではもったいない!というので、理解を深める目的で、読書覚え書きを残すことを勧めている。自分で文章に起こすとなると、熟考しないわけにはいかない。
だが、そのために言語力が問われ、更に面倒な課題をつきつけられる。言語力をつける方法の一つとして翻訳を勧められたり、言葉を合理的に記述する難しさを思い知らされたりと。
まさか!読書論を読んで、文章論をつきつけられようとは...

「畢竟推敲がいかに大切であるかというに帰着する。推敲とは唐の一詩人が僧敲(ハク)月下門としようか僧推(ハス)月下門としようか迷って苦心したというところに由来するという、その語源も示しているように、いかに適当の場所に適当な言葉を用いるかの吟味選択を指していうのであるが、篩にかけて字句を捨てることは、その最も重要の部分をなすものと知るべきであろう。」

2022-10-30

"エリア随筆" Charles Lamb 著

書き手が名乗る時、なにも本名である必要はあるまい。作者不明の名作もあれば、匿名の名文も見かける。アリスを書いたルイス・キャロルのように、ペンネームというやり方もある。名を隠し、虚空の人物になりすまし、筆の走るままに書く。人間ってやつは、仮面をかぶると自由になれるらしい。自ら演じた醜態を遠近法で眺め、羞恥心と距離を置けば、どちらが本当の自分なのやら。自己責任論を免れ、めでたしめでたし!
トム・ソーヤーを書いたマーク・トウェインもペンネーム。彼は、こんな言葉を遺した。「人間は顔を赤らめる唯一の動物である。あるいは、顔を赤らめる必要のある唯一の動物である。」と。これが、書き手の定めか。そして、「エリア」とは、チャールズ・ラムのペンネームである...

尚、本書には、「人間の二種類」「除夜」「不完全な共感」「近代の女性崇拝」「夢の中の子供たち - ある幻想」「遠方の友へ」「夫婦者の態度について - ある独身者の不平」「退職者」「結婚式」「酔っぱらいの告白」「俗説 - 悪銭身につかずということ」の十一篇が収録され、平井正穂訳版(八潮出版社)を手に取る。

退屈な日常までも物語にしちまう文才。幸せな人間に、こんな芸当ができるはずもない。自由奔放な筆さばきに魅せられれば、不幸な人間という自覚もなさそうだ。不幸な自分を愛し、不幸な自分に酔い、自分の傷を舐めるように書く。狂人ゆえ書かずにはいられない。発狂を抑えるために。随筆家とは、人生の達人であろうか。自ら病的な性癖を認める能力、自身を知る能力があればこそ書けるのやもしれん...

1. 除夜に何を想う...
来る者を歓迎し、去る者は追わず。生きている時間が長くなるほど、流れゆく時間は相対的に短くなっていく。過去の時間が長くなるほど、新たなものに臆病になり、過去にしがみつく。如何ともし難い時間の流れに反感を覚える...
「一銭惜しみをする吝嗇家のように、一瞬一刻がついやされてゆくのに我慢ならないのである。歳月が細々と少なくなり、矢のように走り去ってゆくにつれて、私はその経過にいっそう大きな感心を寄せるようになったのである。」

2. 不完全な自我に何を想う...
ネット社会には、共感を求めてやまない輩で溢れている。類は友を呼ぶ... と言うが、哀れな自己に、くだらない個性を見つめては、共感できる者を探し求める。自我を克服するために、少しばかり強すぎる偏狭ぶりをほじくり返しては、自己否定に、自己欺瞞に、自己陶酔に、自己肥大に自我を追い詰めていく。不完全な完全主義者を装うのは至難の業だ...
「私という人間は偏見のかたまりなのである。好きなものは好き、嫌いなものは嫌いという人間、いわば共感の奴隷、無感の奴隷、反感の奴隷なのである。」

3. 独り身の嫌味ごと...
結婚式に出席すれば、孤独を忘れるひとときの喜びを感じるものの、高砂がやがて惰性となる愛の生け贄の祭壇に見えてくる。ブーケトスに幸せをあやかろうと群がれば、地獄への道連れかい。生涯、一人を愛し抜く自信がなければ、独身の方が誠実というもの。この寂しがり屋め!
「結婚というのはいかにも立派なものであるかもしれないが要するに一種の専売権みたいなものであり、これくらい不愉快なものもめったにない。独占的な特権をもっている者ができるだけその特権を他人の眼からみえないようにしておくというのがその知恵というものである。」

4. 退職後に何を想う...
だらだらと勤め上げ、自由に生きる能力を削られ、退職した瞬間に生き方を忘れちまう人は少なくない。時間が重荷なら、散歩でもして払いのけるさ...
「あの昔のバスティユ牢獄に四十年も幽閉されていて突然青天白日の身になった囚人みたいなものであった。」

5. 大酒飲み告白す...
酒の害は誰もが認める。治療法も簡単だ。だが、誰でも依存するものがある。会社や組織に、人間関係や集団社会に... 人との付き合いには、至るところに臆病の気持ちがつきまとう。モラリストどもよ。誰にでも自制がきかず、自省できないものがあると知れ!
「全面的な禁酒と、生命を縮める大酒の間に中庸の道はないものであろうか。」

6. 二つの種族...
人間には二種類あるという。借りる人間と貸す人間である。ゴート民族やら、ケルト民族やら、白人やら、黒人やら、そうした分類は些細なものらしい。そして、借り手を偉大な種族と呼び、貸し手は生まれつき下劣をきわめているとさ。借り手の方がはるかに優秀で、その態度には威風を感じるとさ...
貸し借りといえば、まずお金の関係を思い浮かべる。バランスシートは日本語では貸借対照表と呼ばれ、借方と貸方で記載される。経済学の格言によると、銀行家とは資金を必要としない人たちに、無理やり貸したがる連中を言うらしい。利息をつけるのも、貸す側。この行為を完全自由化すれば、社会には経済破綻者で溢れ、確かに、えげつない。ただ、借り手の無計画性は如何ともし難い。
貸し借りは、なにもお金だけではあるまい。人に親切を施せば、見返りを求める。親切は押し売りもされる。自分のものは自分のもの、人のものも自分のもの。自分の人生も、人の人生も、すべては自分のもの。人間の所有意識は如何ともし難い。多くの書物を所蔵し、自分で図書室をまかなえば、本を借りる達人に書斎を乗っ取られ...
「ある書物の所有権は権利の主張者のその書物に対する理解力と鑑賞力に正比例する。もしこの説を実行する限り、われわれの書棚のうち一つとして掠奪を免れうるものはないといって過言ではないのだ。」

2022-10-23

"愚者の知恵" 福原麟太郎 著

霧曇る秋雨前線を振り切って古本屋で宿っていると、いつの間にやら手にしてやがる。福原麟太郎という書き手は、智慧足らずを焚きつける達人とお見受けする。無い物ねだりは、人間の本能めいたもの。愚者だって、それなりにでも知恵を持ちたいと思う。だから焚き付けられる。
しかしながら、知恵を得るには知識がいる。根気もいる。好奇心だけでは心許ない。知識を得る手段は千差万別で、どれを選ぶにせよ、これまた知識がいる。
まず、手段の一つに、本を読むという行為がある。幸い、この行為にあまり抵抗がない。面倒いところもあるけど... 読書体力もいるけど...

「買わなくても、本の並んでいるのを見るのは愉快なものだ。古本屋は、ことにそうである。... たなをずらりとひと目で見て、買う本が一度に目にとまるという早業までに達しなければ、ほんとうの古本屋党とはいえない。そのくらいになると、念力で本を見つけるようになる。上中下三冊本の上と下は持っているが中はないというような場合、中だけ一冊ぽかり見つかるなどいう経験は、たれでも本好きなら持っている。」

そこで、合理的に良書を選びたい!となるが、それを嗅ぎ分けるにも知恵がいる。良書を良書にできるか、それも読み手次第。賢者なら、悪書までも自省にしちまうだろう。愚者とは、目の前の幸せにも気づかない愚か者をいうらしい。
クチコミやオススメの旺盛な社会にあって、それを鵜呑みにするだけでは芸がない。天の邪鬼だから無条件で反発する。そして、場末の古本屋に癒される今日このごろであった...

「人の推薦や批評が何かと役に立つものであるが、すこし本を読みなれるとよい本と悪い本という区別は、見た瞬間にわかるものだ。直覚的である。人に初めて会ったときの印象と同じである。もちろん、見当違いをすることもあるが、だんだん経験を積むに従って、当たることが多くなるものだ。当りはじめると得意になる。するとまた当たらなくなる。虚心ということがたいせつである。」

本書は、個人主義の視点から知恵というものを物語ってくれる。イギリス留学の経験から最先端の個人主義を通して、個人主義後進国の日本を振り返りながら...
とはいえ、本書が刊行された 1957 年当時、イギリスという国には、個人は立派でも植民地国家としては横暴というイメージが定着していたようである。

イギリス思想を代表する言葉に、「われ愚人を愛す」"I love a fool." というのを挙げている。チャールズ・ラムの随筆「万愚節」 "All Fools' Day." の中に出てくる一句だ。それは、1821年4月1日号のロンドン雑誌に掲載されたもので、"April Fools' Day" に掛けたものらしい。つまり、冗談の許される日というエイプリルフール思想は、人間は愚かであるからこそ、可愛く、可笑しく、愛すべきものという考えに発するというわけである。嘘をつき、騙すような言葉を冗談で笑い飛ばすには、ユーモアのセンスが問われ、まさに高度な個人主義が問われよう。
しかしながら、高度な情報社会では、誹謗中傷の嵐が吹き荒れ、エイプリルフール禁止令が出される始末。個性の発達がついて行けず、自由主義や個人主義を無理やり知識として詰め込んで様々な無理が生じる。真に四月一日を謳歌できる日は、まだまだ遠そうだ...

また、日本人全体が夢やロマンスを失いつつ、あまりにリアリストであり過ぎと指摘している。いかに生きるか、を問うて生きるのがイギリス流だとすれば、学歴や肩書の路線に乗っかるのが日本流ってところか。
個人の在り方を問えば、エゴとの結びつきは避けられない。だが、エゴを否定するばかりでは能がない。エゴを中心とする自我を認める訓練も必要であろう。
21世紀の現在でも、個人主義を利己主義と履き違える人は多い。科学の進歩が迷信の類いを衰退させ、現実主義を旺盛にしてきたのも確か。その分、仮想社会へ邁進すりゃ、世話ねぇや...

2022-10-16

"人生十二の智慧" 福原麟太郎 著

霧曇る秋雨前線を振り切って古本屋で宿っていると、智慧足らずを焚きつける奴に出会った。うん~... 天の邪鬼の眼には、「十二の智慧」というより、当時の社会風潮を皮肉った「十二の苦言」に映る。
その背景に、日露戦争から太平洋戦争までの暗黒の時代から、一変して高度経済成長に勢いづく時代へ... 戦争をやりたがっていた国民の意識が、一変して平和ボケへ... そんな変貌ぶりにギャップを感じつつ、「十二の自省」を重ねずにはいられない...

では、21世紀の現代を背景に眺めると、どうであろう。時代は、あまり変っていないようだ。どんなに技術が進歩しようとも、どんなにコミュニケーション手段を拡大させようとも、人間の根本までは変えられないということか。そればかりか、左右両極端の人間性を培養しているかに見える。古来、偉人たちが唱えてきた中庸の哲学が、未だ輝きを失わないのも道理というものか。そして、あらゆる進歩に精神がついて行けず、いつの日か、最後の一線を越えちまうのであろうか。人類の文明は、その輝かしい成功ゆえに滅びゆくのであろうか...

しかしながら、こんな観点から眺めるのでは、著者の意図から大きく逸脱するであろう。福原麟太郎は、十二もの題材を関連づけ、おおらかに語ってくれるが、おいらの色眼鏡のせいか、対立関係に見えちまう。本当のところは、人生の志に根ざした、もっと建設的な書であるに違いないのだけど...

「人が志を立てるというのは、何歳の時のことであろうか。五歳か、十五歳か、二十五歳か。そのいつでもありそうに思われる。三十五歳でも良さそうだ。事実、ぎりぎり切羽つまって来るのは、三十五歳であるかも知れない。あるいは、本当に志がきまってしまうのは、いつのまにか三十五歳に成った頃だといえば言えなくもない。」

尚、本書には、「志を立てること」「愛国心」「金銭について」「偽善と偽悪」「魅力ということ」「失敗について」「顔について」「旅について」「義理と人情」「タイミングについて」「徒党について」「交友について」の十二篇が収録される。

1. 志 vs. 愛国心
まず、人生における「志」というものを、孔子風に... 十五にして学び、三十にして立ち、四十にして惑わず、六十にしてようやく耳を得たり... といった感じで語り、次に「愛国心」を配置するところに、少々違和感を覚えたが、読み進めていくと、そうでもない。
愛国心とは、読んで字の如く国に根ざした感情で、本来は郷愁を覚えたりするものであろう。著者も、自然に根ざした感覚で、郷土愛の如く、素朴でセンチメンタルなものだと語ってくれる。
ところが、この言葉には、戦争と結びついてきた暗いイメージがつきまとう。国家主義や国粋主義と相まって。国家という概念はプラトンの時代からあるにせよ、十八世紀頃、近代国家の枠組みが成立して以来、大きく変貌したかに見える。愛国心という言葉のニュアンスも、この頃に変貌したのであろう。愛国主義者どもは、この戦争は平和のための戦争だ!戦争を殺すための戦争だ!などと叫び、必ず正義を掲げる。そして、市民は殺され、兵士は死んでいく。正義の殺戮なんてものが存在しうるのか。民族主義でも持ち出さない限り説明がつくまい。おまけに、戦争を非難しようものなら、裏切り者呼ばわれ。祖国に忠誠を誓うのと、権力に服従するのとでは、違うであろうに。
したがって、この言葉に警戒感を示す人が、科学者や文芸家の中に多く見られるのも道理である。失敗から学ぶことが多いことも確か。ならば、戦争からも学ぶことが多いはず。うん~... 人間社会という奇妙な世界では、すべての戦争は無意味とするぐらいの方が合理的なのかもしれんが、自衛権までも無意味とするわけにはいくまい...

2. 偽善 vs. 偽悪
偽善や偽悪には、異なるを欺く... といった感覚を覚える。善人なおもて往生を逐ぐ、いわんや悪人をや... という言葉も、なかなか手ごわい。悪人が善人の顔をすると最悪である。とはいえ、陳腐な偽善も装えないようでは、政治家は勤まるまい。
偽善家に対して、偽悪家というのもいる。人間には、本能的に悪に惹かれるところがある。ちょいワル親父を演じたり、昔はワルだったと武勇伝を自慢したり。芸術作品においても、神の崇高さをダイレクトに描くより、悪魔の神秘性をグロテスクに描く方が、高い芸術性を露わにする。

「偽善は罪悪が徳行にはらう敬意である。」... ラ・ロシュフコー

3. 成功 vs. 失敗
失敗のリスクを恐れるより、やらないリスクを恐れよ... 実践に価値を見い出せ... そんな助言は聞き飽きた。失敗を選択肢の一つとするには、勇気がいる。人間とは臆病なもので、できれば苦労は避けたい。そして、成功のためのハウツー本は、いつの時代も活況ときた。それは、成功のアウトソーシングか。
古くは、成功者と失敗者の区分けに階級意識というものがあり、現在では、勝ち組と負け組に色分けされる。高い階級を望むより勝ち組に属す方が、チャンスがある。
しかし、意識そのものは、大して変わらないようだ。面子がそうさせるのか。外ヅラがそうさせるのか。他人の目を意識しているとすれば、自立性に欠ける。人生は失敗であったかもしれん、と思うことはある。そして感傷に襲われる。おそらく人生とは、そうしたものなのだろう。なぁ~に、失敗者の僻みよ。

「運命を改ざんしようとするところに、ストイシズムの倫理が生れた。失敗するごとに立ち直って、理想とか希望とかいうものの方向に一生をもってゆこうとする努力が、先は、人間世界の花である。けれども、それには、この世の中にも、モラルというべきものがなければいけないようだ。成功というのは、図太く、無礼講、破廉恥を極めても、大金持や大臣になることを言う場合もあるが、失敗の方は、金をなくしたにしても試験に落第したにしても、立ち直るときは倫理的なストイシズムが要求される。失敗が教訓を齎すという所以である。」

4. 義理 vs. 人情
今のご時世、義理も、人情も、流行らない。どこか封建的で古臭い。義理は人との間に生じる。金を借りれば、返す義務が生じる。しかも暗黙に。踏み倒してもいいが、そこは義理。きわめて受動的で、後ろめたさのようなものを背負う。そして、義務へと昇華し、やがて強迫観念へと変貌する。
対して、人情は、人間の本能的な感情で、理論や形式を越え、自然に湧き出るもの。普遍的という形容もできようか。その意味で、能動的である。しかしながら、情けは人の為ならず... というように、結局は、見返りの原理に収まる。
人間社会とは、実に奇妙なもので、利己主義を激しく非難しながら、ほとんどの人が自分の利益のために行動している。無私の立場を称賛しながら、自己を捨てられないでいる。しかも、義理も、人情も、村八分社会と相性がいい...

5. 徒党 vs. 交友
徒党とは、嫌な感じの言葉。正しいものを曲げて、無理を通すために団結する... そんなイメージ。
対して、交友は、響きの良い言葉。とはいえ、真の友人を持っているか?と問えば、一人もいないような気がする。なんでも相談できる人はいない。親ですら当てにならんというのに。親友と呼べる奴もいない。ちょいと飲みに行くぐらいの連中ならいる。悪友と呼べる奴らならいる。そして、我らは徒党である...

「現代の人間は、組織の中の個人と、独立した個人とに分れる。これは、現代の避け難き運命であるようだ。何らかの意志を行おうとすると、独立した個人では駄目である。組織の中の器械的なデクの棒、組織的個人でなければならない。その組織的個人が器械的に組織に盲従していると、その組織は、容易に徒党化し、少数の人々の支配下に、正を曲げても恥とせず、私利をはかっても当然と考えるようになる。現代民主主義の危険は、そのようなところにあるのではないか。」