デカルト、ライプニッツとくれば、次はニュートンであろうか...などとこじつける。
近年なぜか?古典を読みたいという衝動に駆られる。現代書よりも新鮮さを感じるからであろうか?現在の瞬間的な現象は、後世の歴史に照らしてみないと冷静に評価することが難しく、そのほとんどは評価の間もなく廃れていくだろう。現在まで生き残ってきた古典は、それだけ洗練されていることの証しであり、ハズレる確率が低いのは確かなようだ。
大学の図書館で「プリンシピア」を初めて見かけた時、その分厚さに圧倒されたか、枕にちょうどいいと思ったか、は定かではない。これを入手することは難しい。古書専門店でも見つけられず、ネットでは中古品に3, 4倍の値がついている。ということで市立図書館を利用した。実は、むかーしから注目している古典で図書館にもないものがいくつかある。電子書籍の話題で盛り上がる昨今、新しいメディアの果たす役割は未知数だが、古典パワーこそ見せつけてほしい。本書が、閉架扱いされ、おまけに特別参考室に保管されるのは、それだけ貴重な資料ということなのだろう。状態も良く、図書館職員の情熱が感じられる。尚、これを貸出期限2週間で読破するのは難しい。延長!延長!
ニュートンが生きた17世紀頃は、まだ純粋幾何学が客観性において最高の地位にあったようだ。あらゆる自然現象を数学の法則に従わせようとした基本思想は、現代に受け継がれる。
本書には、真理はすべて幾何学にあると信じ、合理的な力学はすべて幾何学で説明できるはずだという執念が感じられる。人間が直接感じられるのは重力であり、物理学は重力を中心に発展してきた。本書はそれを体現している。原著は、当時の慣例にならってアカデミックなラテン語で書かれているという。その形式は、ギリシャ幾何学書の体裁を整えユークリッドを彷彿させる。ニュートンは、今日の微積分法である「流率法」を発見した。本書にも微積分の概念が図示される。
本書は、序論と三つの編から構成される。
序論では、力学概念である質量、運動量、力をはじめ絶対運動が定義され、続いて、運動の3法則や力の合成分解の法則が記され、力学の理論的、方法論的な基礎が確立される。これらの基礎を踏まえて第I編と第II編では、物体の運動をひたすら数学的原理で記述される。客観的な考察ができないところは、数学的な記述よりも実験データを根拠にしている。少々異質に思える粒子による流体運動が持ち出されるのは、渦動説批判への布石か?あるいは、流体の渦巻状の運動を天体運動と重ねながら銀河系の形状を想像し、更には宇宙の形状を語ろうとしたのか?
そして、第III編では、無味乾燥的な考察に陥らないように哲学的論究を加えると宣言され、数学的原理が天体へと拡張され、いよいよ世界体系へと踏み込む。これが本編と言ってもいいかもしれない。それは、「プリンシピア」の正式名称が「自然哲学の数学的原理」であることからも納得できよう。
また、結びとして設けられた「一般注」では、「Hypotheses non fingo(仮説をつくらない)」という有名な言葉とともに、当時の風潮への批判がうかがえる。それは、デカルト派をはじめとする渦動説に対するものであり、いかにも仮説の嫌いなニュートンの性格が表れている。更に、敬虔なキリスト信者が到達した宇宙論とも言うべき神学の持論を展開する。ただ、宇宙論的世界観が唯一キリスト教と結び付くように語られるところに違和感があるが...
「プリンシピア」は、けして読み易い本ではない。専門用語でも現代感覚とは微妙に違うように映る。「物体の運動」といえば通常は位置の変化を表すのだろうが、ここでは運動量であったり、質量と速度の相乗積であったりと、少し想像を膨らませないと解釈しずらい。「物質の量」も、質量と解せば読みやすい。「正弦」は、高さと斜辺の比ではなく高さそのものを表したりと、言葉の使い方にも少々違和感がある。「モーメント」は力の能率といったものではなく、流率法特有の言葉で微積分における微小や増分に相当するようだ。
一つ一つの命題や定理は、明確な論理で記述されるので、じっくりと読めば理解できそうだが、物量作戦の感があって、これらを体系として解釈しようとするとたちまち難解な書となる。真理に近づこうとすれば、多くの場面で抽象的な表現からは逃れられず、科学書というよりは哲学書の性格を帯びてくる。そもそも人類が発明した体系で、絶対的な真理を語れるはずもないのだけど...
1. ニュートンの生い立ち
1642年、リンカーンシャー州ウールスソープに生まれる。父は一小農で、生まれる2、3カ月前に死去。母が再婚すると、母方の祖母と一緒にウールスソープに残される。12歳でグランサムの公立中学校に入り、ある薬剤師の家に住みこんだという。その薬剤師との出会いが化学に興味を持たせたようだ。
1656年、再婚相手が死去して母が再びウールスソープに戻ってくると、長子ニュートンに農場経営をさせるために学校をやめさせた。しかし、彼が農業に興味がないことが分かると、親戚の助言もあって、1661年ケンブリッジ大学のトリニティー・カレッジに籍を置く。最初に影響を受けたのがケプラーの光学書だそうな。そして、ユークリッド幾何学を勉強して当たり前だと片づけてしまうと、デカルト幾何学に影響を受け独創的な数学の研究を始めたという。
1665年、ペストが大流行すると大学が閉鎖され、リンカーンシャーの農場に退避する。そして、光学や化学に集中できる環境を得て、重力理論の思索が始まる。この頃、二項定理や流率法を発見したそうな。後年ニュートン自身が、65年から66年の2年間が数学的で哲学的な思考が全盛であったと回想しているという。
1667年、ケンブリッジ大学でトリニティー・カレッジが再開されると、フェローに選ばれる。
その二年後、友人で師でもあるバロー博士の後を継いでルーカス講座の数学教授に任命される。幼年のニュートンは母の愛情に飢えていたとも言われ、後に、猜疑心が強く、異常に怒りっぽく、執念深く笑わない性格が形成されたとも言われる。王立協会では、よく会員たちと論争を巻き起こしたらしい。ニュートンは、自責の言葉を残しているという。
「まぼろしを追い求めて自分の心の平静という大きな恵みを手放す結果になったのは、自分の無分別のせいである」
2. 絶対性と相対性
本書は、絶対時間、絶対空間、絶対運動について言及している。
「真の運動と相対運動とが相互に区別されるその原因は、運動を起こすために物体に加えられる力である。真の運動は、物体にある力が加えられ、それによって動かされるのでなければ生成もされないし、変化もしない。しかし相対運動は、物体に何らの力をも加えることなしに生成され、あるいは変化する。なぜならば、そのめにはただ、この物体が比較されるべき、他の諸物体にある力を加えるだけで充分だからである。」
一般的に運動は、物体の位置の変化で定義される。つまり、相対的な位置関係が変化すれば、なんらかの運動が観測できる。だが、絶対的な場所が規定できなければ、絶対運動や絶対静止を観測することはできないだろう。つまり、人類は、いまだ真の運動の正体が分からないままでいる。強いて言えば、それは光速であろうか?そして、絶対運動を定義しようとすれば、自己言及に嵌り、ついには自己矛盾に陥るしかない。
人間が計測できる時計、つまりは物体の運動によって測れる時間は、相対的な見かけ上の時間でしかない。人間の認識能力は、周りの物体の運動を認識することによって生じる。人間の定義するという行為そのものが、相対的認識に過ぎない。すなわち、科学が認識できる物理現象は、あらゆる観測系に人間が認識できる時間の一方向性が介在するからこそ、生じる現象ということになろうか。その帰結は、エントロピーの可逆性は得られないということになろうか。だって、人間には時間は逆転できないとしか認識できないのだから...
もし、あらゆる物理現象に可逆性を観測することができれば、絶対運動なるものを認識することができるかもしれない。では逆に、相対的な運動や認識が絶対的なものになると、人間はどういう存在になるのだろうか?生命体そのものの意味が失われるのかもしれない。それは、人間精神が絶対的価値観に到達することを意味するのだろうか?
3. 物体の運動
微積分法のアプローチでは、ライプニッツと対立関係にあるとされる。
本書には代数学的な方法ではなく、幾何学的な作図法が用いられる。この視覚的概念は数学の入門者にとってありがたい。ニュートンの第2法則で力の定義を質量と加速度の積で示されるのは、お馴染みのやつだ。加速度は速度の変化率であり微分である。速度は物体の位置座標の微分である。つまり、軌道から微分によって力を求めることができ、力から積分によって軌道が求まることを意味する。
ここでは運動法則に微積分の概念が埋め込まれ、与えられた焦点から楕円運動、放物線運動、双曲線運動の軌道を導く方法が論じられる。考えてみれば、楕円の面積を考察する時に、極限的な求積法を用いるのは自然な発想のように思える。まぁ、既に導関数を学んでいるから、そう思えるのかもしれないが...
楕円方程式は、長半径a、短半径bとすると、以下のように表される。
x^2 / a^2 + y^2 / b^2 = 1
これは、x方向に x = a sin ωt で運動し、y方向に y = b cos ωt で運動しているとすると、以下のように導かれる。
(sin ωt)^2 + (cos ωt)^2 = 1
x = a cos(ωt + θ)としても、楕円であることに変わりはない。
ここには、三角関数の直交性質が表わされ、解析学の概念が内包されている。むかーし、フーリエ解析を楕円解析と言ってもいいじゃないかと思ったりもした。周期を持つという意味では円運動も波動も同じで、モジュロ計算という発想も成り立つだろう。酔っ払って目が回るのも、千鳥足という揺らぎも、空間運動としては周期的に同列に扱えるはず。だから、アル中ハイマーの年齢もモジュロ計算され、永遠に生まれ変わるというわけさ。
4. 世界体系
本書は、地球上の物体運動を考察する時にひたすら数学的原理を用いてきたが、天体運動を考察する段階になると詳細な実験データで補う。太陽系内の惑星と、惑星をとりまく衛星との位置関係や、軌道と周期を考察する時はひたすら観測データに頼る。太陽や月の軌道から潮の満ち干の観測、地球の自転と遠心力との関係から楕円球形になる観測、ハレー彗星の軌道予測など、ここには自然哲学と実験哲学の融合が見られる。目の前にある現実から、けして目を背けようとはしない一貫した姿勢には、執念のようなものがある。
太陽は不断の運動によって扇動されてはいるが、、太陽系の全惑星の共通重心から遠く離れることはないとしている。そして、世界体系の一つの推論を立てている。
「世界体系の中心は不動であること。」
推論であるからには仮説ではないか。んー、ニュートンらしくない。
5. 一般注
世界体系の最後に「一般注」が付けられる。これは重力に関するニュートンの総括である。ただ、あからさまに渦動説を批判している。ニュートンの運動法則がデカルトの影響から生まれたのは間違いなかろう。デカルトは、自然界が一つの機械であると考え、慣性力や運動量保存の法則を導き、更には渦動説を唱えた。渦動説とは、物体の運動は互いに接触して押し合うことで生じることを前提とし、宇宙空間に充満する物質の存在がなければ天体は動かないとする仮説である。この思想がエーテル充満説を登場させた。
ただこの時代に、ルネッサンスの自然主義、あるいは自然魔術的な思想が流行り、占星術や錬金術に勢いがあったことに注意せねばなるまい。その中にはオカルト的な思想も蔓延り、まさしく磁石には魔術のような香りがしたことだろう。磁力とは不思議なもので、真空であっても物質を引き寄せる何かを感じる。ホットな女性の周りには磁界が生じ、あらゆる男性を引き寄せれば、空間に小悪魔の存在を前提しなければ説明できない。いずれにせよ、引力の正体を何かに求めることになる。ケプラーは引力を天体間の磁力で説明しようとしたのだろうか?
本書によると...
渦の運動でケプラーの第2法則を説明しようとすれば、渦の各部分の周期は太陽からの距離の2乗に比例しなければならない。しかし、ケプラーの第3法則を説明しようとすれば、渦の各部分の周期は太陽からの距離の3/2乗に比例しなければならない。より小さな渦が他の惑星の周りで小さな公転を保持し、しかも、太陽のより大きな渦の中で乱されることなく泳ぎうるためには、太陽の渦の各部分の周期は相等しくなければならない。しかし、これらの渦運動と一致するはずの太陽や惑星の自転運動は、それらの比率とはまるでかけ離れている。つまり、渦動説からは、太陽や惑星の自転や公転の周期、はたまた彗星の軌道もまったく説明できない。
...と指摘している。
更に総括では、重力理論を神学の領域にまで押し上げる。
「全知全能の神は、世の霊としてではなく万物の主としてすべてを統治する。そしてその統治権ゆえに「主たる神」あるいは「宇宙の支配者」とよばれるのが常である。なぜなら、神というのは相対的なよび名であり、僕(しもべ)に対してかかわりをもつものであって、神性とは、神を世の霊であると空想する人びとが考えるように、神自身の体へのその君臨ではなくて、僕(しもべ)の上に及ぶ支配だからである。至高の神は、永遠、無限、かつ絶対に完全な存在者である。しかし、たとえどんなに完全であっても、支配を欠く存在者は主なる神とはいえない。」
Contents
- 2010-11-28 "プリンシピア" アイザック・ニュートン 著
- 2010-11-21 "モナドロジー, 形而上学叙説" ゴットフリート・ライプニッツ 著
- 2010-11-14 "情念論" René Descartes 著
- 2010-11-07 "哲学原理" René Descartes 著
- 2010-10-31 "ギリシア神話" アポロドーロス 著
- 2010-10-24 "仕事と日" ヘーシオドス 著
- 2010-10-17 "神統記" ヘシオドス 著
- 2010-10-10 "オデュッセイア(上/下)" ホメロス 著
- 2010-10-03 "イリアス(上/下)" ホメロス 著
- 2010-09-26 "経済発展の理論(上/下)" Joseph A. Schumpeter 著
2010-11-28
2010-11-21
"モナドロジー, 形而上学叙説" ゴットフリート・ライプニッツ 著
前回、前々回とデカルトを記事にしたので、その批判的立場にあったライプニッツにも触れてみたい。
数学者ライプニッツといえば、ニュートンと微積分の功績を争ったことで有名であるが、デカルトの運動量保存則の批判者としても知られる。とはいえ、デカルトと同じように自然学的立場にあったのは間違いないだろう。双方とも精神構造を機械的に説明しようしたが、自己矛盾に陥ることは避けられず、ついには神の存在を前提することになる。それは、矛盾と無矛盾、完全性と不完全性、善悪の規範といったあらゆるものを抽象化してしまうほどの絶対的な存在の必要性に到達したかのように...若き日に哲学や倫理学を蔑み、数学だけが真理を与えるとしながら、結局哲学へ帰依していった偉大な数学者は珍しくない。純粋な真理を探究すれば、純粋な精神を探求せずにはいられなくなるのだろう。道徳家や宗教家が語る神は、なんとなく胡散臭く、こそばゆいが、なぜか?科学者や数学者が語る神は素直に耳を傾けられる。信じるかどうかは別だけど...主観性の強い権威的な神に対して、客観性の強い自然的な神と言ったところだろうか。自然学的な絶対神は、なんとなくその存在を意識しても、人間の認識能力を超越した宇宙論的存在にならざるを得ない。少なくとも、神を擬人化する行為や、祈りを捧げることによって運命を変えられるなどと信じる行為ほど神を冒涜するものはないだろう。
本書には、「モナドロジー」と「形而上学叙説」の二作品が収録される。スピノザが世俗的な生活を嫌い禁欲的で孤独な書斎裡として生きたのに対して、ライプニッツは実践的な世間活動に生きた。実践的という意味で、彼の著作のほとんどは未完結な「機会の書」であるという。その中でも、この二作品は体系的な部類になるようだ。
「モナドロジー」は、死の二年前の著作で、ライプニッツの遺書とも言うべきものである。それが、アリストテレスに影響されたことは疑うべきもない。実存的要素の概念では、単純素朴な物理的な原子にあるのではなく、形而上学的な「モナド」にあるとしている。ちなみに、「モナド」は、ギリシア語の「モナス」に由来し、究極的不可分の「一」を意味する。それは、あらゆる実体を形成する単純な素要素とでも言おうか...
幾何学的座標で表される「点」は、客観的に「一」という素要素として存在するが、あくまでも抽象的な観念論であって実在的ではない。対して、精神が表現と表出を形成するのは、モナドが過去、現在、未来、あるいは無限を表象しうるものとして存在するからだという。そして、精神は、単に存在するものとしての実体ではなく、作用を本性とする主体であるとしている。
ライプニッツは、お気に入りの言葉をプラトンの著書「パイドン」から紹介してくれる。
「叡知的な存在はあらゆる事物の原因であって、それが事物を適当に配置し、またその価値をたかめたのである。」
これは、唯物論的哲学者を批判する時に、ソクラテスの言葉として用いている。
ライプニッツの時代は、三十年戦争の余韻が残り、カトリックとプロテスタントが分裂したままで、物質的にも精神的にも荒廃していた。この時代のドイツは悲惨で、人口を三分の一にまで減らしたと言われるほどに。政治団体には、あらゆる悪徳と癒着が蔓延したという。政治が堕落すれば、民衆は哲学に目覚めるのだろうか?科学者や数学者であっても、神学論や政治論、あるいは国家論を語らずにはいられなかったのかもしれない。ライプニッツは、教会再統一のための政治活動にも没頭したという。挫折に終わったようだが...
文化政策にも熱心で、歴史、政治、神学、哲学、数学、技術、あるいは中国文化やモンゴル文化にまで及ぶ博学振り。彼は、あらゆる学問の普遍的統一を夢見ていたのだろうか?その多様性から均衡と調和の哲学と見ることができそうだ。思想的には、伝統的なスコラ学と自然学との対立を調和しようとする。そして、「神はいかにして人間の悟性に作用するか」あるいは「神はいかにしてわれわれの魂を強制せずして傾動させるか」といった問題と対峙する。
一般的に、宇宙の形状が球形と想像するのは、精神的真理なのかもしれない。例えば、一本の糸で端と端をつなげて空間をできるだけ大きくするには、どのように糸を描くか?と問われれば、幾何学的に示されるように円形にするだろう。等しい周囲を持つ図形で最大面積を持つのは円であるから。それを三次元空間に拡張すれば球形となる。何か得体の知れない物体があれば、なんとなく球形のような空間を想像する。精神という宇宙もなんとなく球形のような空間を思い浮かべているような気がする。楕円しているかもしれないが。こうした直観的感覚は、案外真理なのかもしれない。
一方で、真理に似たような存在で、人間が定義するものに公理や公準というものがある。公理や公準は、何事も前提しなければ証明できない根源的な概念であって、つまりは真理ということになろうか。あらゆる公理は、別の公理から証明することができても、それ自体だけで純粋に証明することはできない。三角形の内角の和が二直角に等しいというのも、別の公理を前提するから証明できる。公理が、純粋真理のような存在だとすれば、自己矛盾に陥るのは避けられないだろう。
では、真理や公理の源泉とは何か?人間の直観なのか?もっと言えば、人間の気まぐれなのか?算術は、記号や符号を定義するから実現できる。あらゆる定理は、言葉や記号を前提して、はじめて推論することができる。人間は、あらゆる事物に適合する表記法を編み出して秩序立ててきた。その意味で、宇宙の秩序には人間のご都合主義が介在してきた。一定の秩序や一定の様式に従ってさえいれば、方程式の解のように、ある決まった形で一致をみる。真理は、事実として認めるしかないのであって、人間にとってこれ以上受動的にならざるものはないはず。にもかかわらず、人間が秩序立てるという奇妙な関係がある。いったい神は人間に何をさせようというのか?何を求めようというのか?いや!神は何も求めておらず、単に気まぐれでやっていることを、真理などと崇めて神を理解しようと努力する人間どもを滑稽に眺めているだけのことかもしれん!
1. 17世紀という時代
15世紀を「学芸復興の世紀」とするならば、16世紀は「理性の世紀」と呼ばれるという。そして、17世紀はデカルト、ロック、ホッブズ、スピノザなどの偉人を排出した「天才の世紀」と呼ばれ、18世紀は「哲学者の世紀」と呼ばれるという。まぁ、世紀の呼び名は各学問の視点から様々な見解があろう。いつの世紀にも天才や偉人が出現するであろうから。ちなみに、20世紀は「殺戮の世紀」とでも呼んでやるか。21世紀は仮想化で邁進する「空虚の世紀」か?あるいは精神が荒廃する「不毛の世紀」か?
16世紀から17世紀にかけては、ルネサンスに対して、宗教改革で思想の動乱が起こったバロックの時代でもある。ちなみに、バロックとは、「いびつな真珠」を語源にし、ルネサンスの古典的調和に対して激動と氾濫を意味するそうな。
カトリック教会が普遍的地位から転落し、プロテスタント教会との対立を激化する。プロテスタントでも、ルター派とカルヴァン派が骨肉の争いを繰り返す。いずれにも属さない中立の立場の人々は無信仰とされ、これまた異宗教扱いされる。芸術の分野では、ルネサンス対バロックの構図がはっきりする。
「一人の教皇と一人の皇帝」というヨーロッパ体制が崩壊し、神聖ローマ帝国による支配力も名目的なものと化す。そして、現ヨーロッパの国家基盤となる独立した諸国民国家が成立した。
思想領域においては、スコラ学に対する自然科学的哲学が台頭し、プラトンやアリストテレスを源泉とする哲学思想は多様化を見せ、思想の分野に続々と科学者が名乗りを上げた時代とも言えよう。知識は権威や伝承から得られるとした伝統主義を打破し、人間の認識力による知性によって得られるとした。新たな思考方法では、フランシス・ベーコンが「新機関」を、デカルトが「方法序説」を発表し、続いてスピノザやライプニッツが体系化に挑む。この流れは、カントの悟性理論へと継承され、18世紀には哲学が英雄的な学問を脱し市民権を獲得することになる。
2. 数学者ライプニッツ
ライプニッツの数学者としての功績といえば、微積分の発見であろう。これがニュートンとの優先権問題を引き起こし、両者は和解することはなかったようだ。ニュートンが円の求積法から研究したのに対して、ライプニッツはパスカルの「サイクロイドに関する書簡」とデカルトの「解析幾何学」の研究から接線の問題と対峙し、その手法の独創性が証明された。微積分の発見そのものはニュートンの方が先であったが、ライプニッツの記法は優れていて現在でも受け継がれる。
また、計算機でも知られるらしい。もともと計算機はパスカルの発明であるが、加減算だけである。更に、ライプニッツは剰余と開平を可能にしたという。
彼の晩年は、学問の競争者との対立を激化し、孤独で暗いものだったという。葬送には、40年間も宮廷に尽瘁したにもかかわらず、一人の参列者もいなかったそうな。無信仰者として扱われ、プロイセン科学アカデミーですら創立者ライプニッツに対して沈黙したという。
3. モナドロジー
「モナドは自然における真のアトムである。」
アリストテレスの用語に「エンテレケイア」というのがある。これは、あるものがその可能性を完全に実現しうるものとして、その目的に到っている状態とでも言おうか。プラトンは、あらゆる性質はイデアという原型なるものから派生して存在すると考えたが、アリストテレスは、質料と形相とを存在の根源とし、それらは分離できないと考えた。
本書は、まず形を持たない質料、つまりは第一質料の段階では受動的存在であるが、第二質料の段階では能動的原理が働くとしている。この能動的原理である原始的エンテレケイアが、生命の原理として表象する力を与える。しかも不滅。これが魂というものだそうな。
魂は、広義では「生命」あるいは「生命の原理」と同じもので、単一者モナドの内に存在する内的作用の原理であるという。そして、内的作用に外的作用が応じて「単一者における複合体の表現、一における多の表現」が表象を構成するとしている。
狭義では、魂はもっと高尚な生命の一種で感覚的生命だという。この場合は、単なる表象的能力ではなく感覚能力となり、表象に注意や記憶が加わっている状態としている。これは、精神がいっそう高尚な魂であろうとするような、理性や真理の普遍性が付加された状態を言っているように映る。
生命が表象の原理となるとしても、表象がすべて知覚されるわけではない。睡眠や失神といった、まったく意識のない表象もある。あらゆる原始的エンテレケイアは、生命の原理に自然的機械が結び付くという。この機械は、有機的物体である身体として自己に属するとしている。モナドは、「形而上学的アトム」であり、部分を持たず、自然的に生じたり滅びたりするものではないという。精神を形成する根源的な要素として存在するだけでなく、あらゆる実体の要素として存在するというわけか。したがって、精神や魂はあらゆる実体に存在するもので、けして人間や動物を優越するためのものではないとしている。
「どの物体の中にも一種の感情、欲求、精神があるから、人間にだけ実体形相や精神を承認するのは馬鹿らしいことである。そしてこれは、あらゆるものが人間だけのために造られているとか、地球が宇宙の中心だとか思うのが馬鹿らしいのと同様である。」
あらゆる実体が複合体として存在する以上、なんらかの基本的な単一体が存在するのかもしれない。その森羅万象の要素なるものが、モナドということのようだ。あらゆる素粒子が宇宙創生期に誕生し自然消滅することがないように、モナドもまた神の創造物として誕生し自然消滅することはないというわけか?もし消滅するとすれば、それは宇宙の終焉と運命をともにするということか?そりゃ、魂が永遠の存在となれば、宗教家は喜ぶさ。
また、様々な原子の種類が存在するように、モナドも異なる性質を持った個として存在するという。そして、内部が他の被造物によって変質や変化を受けることはないとしている。変質や変化をともなうのは、それが複合体だからだそうな。
4. 形而上学叙説
最高かつ無限の知恵の持ち主は、形而上学的だけにとどまらず、道徳的にも完全なもの、善の規範とか完全性の規範を超越した無限の存在だという。しかし、人間には、神を自己流に歪め、妄想を仕立てあげる性質がある。人間の持つご都合主義と有難迷惑主義もまた神のお導きであろうか?神ほど意地悪な存在はない。永遠の真理は、ほんのわずか数学の領域に見せてくれるだけなのだから。神の行いがすべて善であるとしても、人間はその善を理解することすらできない。人間ができることといえば、真理を導く努力、善を導く努力を怠らないことぐらいか。
本書は、精神の幸福が神の主な目的だとしている。人間以外にも精神の持ち主がいるのかもしれないが、人間はしばしば精神の持つ動物は人間だけだと考え、人間だけが幸福になる権利があると解釈してしまう。そもそも、神の目的を語る人間って、神を冒涜していることにならないのか?
また、神の行為で、秩序に外れるようなものは何一つないという。異常現象に見えるのは特殊な秩序に照らしただけのことで、矛盾や不完全性といった気持ちの悪い現象は、人間の価値観で勝手に評価しているに過ぎないのだろう。ただ、すべての現象が神の意志だとすると、人間の悪行もまた神の意志ということにならないのか?それも、人間に悪を知らしめ、善の尊さを教えようとしているのか?
本書は、スコラ学者を批判する立場にありながら、一方でスコラ学の省察を無視してはならないと指摘している。それは、場所をわきまえて適当に用いるならば、思ったよりもしっかりしたところがあるという。実体の本性について深く考察すると、物体の属性である形、大きさ、運動といった表面的な現象に囚われる。だが、それだけでは説明ができない。人体を機械的機能から考察しても、精神や魂との結び付きを感じないわけにはいかない。
「あらかじめ定められたとおりに起こることは確実ではあるが必然的ではない。」
人間の自由が奪われ、絶対的運命に支配されているような錯覚に陥らないためには、偶然的真理と必然的真理を区別して認識する必要があると指摘している。
5. 運動量保存則への批判
デカルトは、運動量と運動力を同一視するが、ライプニッツは運動力は保存されるが、運動量とは同一でないことを論証する。つまり、デカルトの誤謬は運動量と力を同一視したことにあると指摘している。
ここで持ちだされる物理現象の例はおもしろい。要約するとこんな感じだろうか。
...
物体Aが高さDから落下した場合と、物体Aの4倍の質量の物体Bが高さ1/4Dから落下した場合を考えると、力においては、同じ結果が得られるのは明らかである。
では、運動量においてはどうか?落下速度は加速度運動をするので、物体Aの速度は物体Bの速度の2倍しか得られない。運動量は、質量 x 速度で得られるので、物体Aの質量を1とすると、物体Aの運動量は、1 x 2 = 2 となり、物体Bの運動量は、4 x 1 = 4 となるので、2倍の違いが生じる。したがって、運動量と力には大きな違いが生じる。
...
デカルトは運動の保存量が速さや時間に比例すると考えたが、ライプニッツは保存量を活力とし距離に比例すると考えたようだ。運動量保存則に対して、力学保存則、あるいはエネルギー保存則のようにも見える。デカルトは、物体から自発的運動能力を排除し、精神と物体を峻別した。対してライプニッツは、実体の本性を力に求め、精神的被造物と物体的被造物の統一性を示す。したがって、物体的実体も、なんらかの精神的で能動的作用があると捉えたのであろう。確かに、人間の行動の可能性には、物理的可能性に精神的意欲が加わる。その性質が、しばしば偏重した精神論を持ち出す輩を育てるのだが...
「力学の一般的原理は幾何学というよりもむしろ形而上学である。」
デカルトの運動法則は、静的あるいは受動的機械において成立することを唱えたわけだが、ライプニッツは、あらゆる実体を能動的機械として考察するべきだと言っているのかもしれない。あるいは、受動的実体と能動的実体の調和を唱えているのかもしれない。いずれにせよ、両者の物体観と実体思想という世界観の違いであって、もっと言うならば宗教観の違いであろう。ニュートンと折り合いがつかなかったのも、ニュートンが宗教論争を煙たく思ったからであろうか?
数学者ライプニッツといえば、ニュートンと微積分の功績を争ったことで有名であるが、デカルトの運動量保存則の批判者としても知られる。とはいえ、デカルトと同じように自然学的立場にあったのは間違いないだろう。双方とも精神構造を機械的に説明しようしたが、自己矛盾に陥ることは避けられず、ついには神の存在を前提することになる。それは、矛盾と無矛盾、完全性と不完全性、善悪の規範といったあらゆるものを抽象化してしまうほどの絶対的な存在の必要性に到達したかのように...若き日に哲学や倫理学を蔑み、数学だけが真理を与えるとしながら、結局哲学へ帰依していった偉大な数学者は珍しくない。純粋な真理を探究すれば、純粋な精神を探求せずにはいられなくなるのだろう。道徳家や宗教家が語る神は、なんとなく胡散臭く、こそばゆいが、なぜか?科学者や数学者が語る神は素直に耳を傾けられる。信じるかどうかは別だけど...主観性の強い権威的な神に対して、客観性の強い自然的な神と言ったところだろうか。自然学的な絶対神は、なんとなくその存在を意識しても、人間の認識能力を超越した宇宙論的存在にならざるを得ない。少なくとも、神を擬人化する行為や、祈りを捧げることによって運命を変えられるなどと信じる行為ほど神を冒涜するものはないだろう。
本書には、「モナドロジー」と「形而上学叙説」の二作品が収録される。スピノザが世俗的な生活を嫌い禁欲的で孤独な書斎裡として生きたのに対して、ライプニッツは実践的な世間活動に生きた。実践的という意味で、彼の著作のほとんどは未完結な「機会の書」であるという。その中でも、この二作品は体系的な部類になるようだ。
「モナドロジー」は、死の二年前の著作で、ライプニッツの遺書とも言うべきものである。それが、アリストテレスに影響されたことは疑うべきもない。実存的要素の概念では、単純素朴な物理的な原子にあるのではなく、形而上学的な「モナド」にあるとしている。ちなみに、「モナド」は、ギリシア語の「モナス」に由来し、究極的不可分の「一」を意味する。それは、あらゆる実体を形成する単純な素要素とでも言おうか...
幾何学的座標で表される「点」は、客観的に「一」という素要素として存在するが、あくまでも抽象的な観念論であって実在的ではない。対して、精神が表現と表出を形成するのは、モナドが過去、現在、未来、あるいは無限を表象しうるものとして存在するからだという。そして、精神は、単に存在するものとしての実体ではなく、作用を本性とする主体であるとしている。
ライプニッツは、お気に入りの言葉をプラトンの著書「パイドン」から紹介してくれる。
「叡知的な存在はあらゆる事物の原因であって、それが事物を適当に配置し、またその価値をたかめたのである。」
これは、唯物論的哲学者を批判する時に、ソクラテスの言葉として用いている。
ライプニッツの時代は、三十年戦争の余韻が残り、カトリックとプロテスタントが分裂したままで、物質的にも精神的にも荒廃していた。この時代のドイツは悲惨で、人口を三分の一にまで減らしたと言われるほどに。政治団体には、あらゆる悪徳と癒着が蔓延したという。政治が堕落すれば、民衆は哲学に目覚めるのだろうか?科学者や数学者であっても、神学論や政治論、あるいは国家論を語らずにはいられなかったのかもしれない。ライプニッツは、教会再統一のための政治活動にも没頭したという。挫折に終わったようだが...
文化政策にも熱心で、歴史、政治、神学、哲学、数学、技術、あるいは中国文化やモンゴル文化にまで及ぶ博学振り。彼は、あらゆる学問の普遍的統一を夢見ていたのだろうか?その多様性から均衡と調和の哲学と見ることができそうだ。思想的には、伝統的なスコラ学と自然学との対立を調和しようとする。そして、「神はいかにして人間の悟性に作用するか」あるいは「神はいかにしてわれわれの魂を強制せずして傾動させるか」といった問題と対峙する。
一般的に、宇宙の形状が球形と想像するのは、精神的真理なのかもしれない。例えば、一本の糸で端と端をつなげて空間をできるだけ大きくするには、どのように糸を描くか?と問われれば、幾何学的に示されるように円形にするだろう。等しい周囲を持つ図形で最大面積を持つのは円であるから。それを三次元空間に拡張すれば球形となる。何か得体の知れない物体があれば、なんとなく球形のような空間を想像する。精神という宇宙もなんとなく球形のような空間を思い浮かべているような気がする。楕円しているかもしれないが。こうした直観的感覚は、案外真理なのかもしれない。
一方で、真理に似たような存在で、人間が定義するものに公理や公準というものがある。公理や公準は、何事も前提しなければ証明できない根源的な概念であって、つまりは真理ということになろうか。あらゆる公理は、別の公理から証明することができても、それ自体だけで純粋に証明することはできない。三角形の内角の和が二直角に等しいというのも、別の公理を前提するから証明できる。公理が、純粋真理のような存在だとすれば、自己矛盾に陥るのは避けられないだろう。
では、真理や公理の源泉とは何か?人間の直観なのか?もっと言えば、人間の気まぐれなのか?算術は、記号や符号を定義するから実現できる。あらゆる定理は、言葉や記号を前提して、はじめて推論することができる。人間は、あらゆる事物に適合する表記法を編み出して秩序立ててきた。その意味で、宇宙の秩序には人間のご都合主義が介在してきた。一定の秩序や一定の様式に従ってさえいれば、方程式の解のように、ある決まった形で一致をみる。真理は、事実として認めるしかないのであって、人間にとってこれ以上受動的にならざるものはないはず。にもかかわらず、人間が秩序立てるという奇妙な関係がある。いったい神は人間に何をさせようというのか?何を求めようというのか?いや!神は何も求めておらず、単に気まぐれでやっていることを、真理などと崇めて神を理解しようと努力する人間どもを滑稽に眺めているだけのことかもしれん!
1. 17世紀という時代
15世紀を「学芸復興の世紀」とするならば、16世紀は「理性の世紀」と呼ばれるという。そして、17世紀はデカルト、ロック、ホッブズ、スピノザなどの偉人を排出した「天才の世紀」と呼ばれ、18世紀は「哲学者の世紀」と呼ばれるという。まぁ、世紀の呼び名は各学問の視点から様々な見解があろう。いつの世紀にも天才や偉人が出現するであろうから。ちなみに、20世紀は「殺戮の世紀」とでも呼んでやるか。21世紀は仮想化で邁進する「空虚の世紀」か?あるいは精神が荒廃する「不毛の世紀」か?
16世紀から17世紀にかけては、ルネサンスに対して、宗教改革で思想の動乱が起こったバロックの時代でもある。ちなみに、バロックとは、「いびつな真珠」を語源にし、ルネサンスの古典的調和に対して激動と氾濫を意味するそうな。
カトリック教会が普遍的地位から転落し、プロテスタント教会との対立を激化する。プロテスタントでも、ルター派とカルヴァン派が骨肉の争いを繰り返す。いずれにも属さない中立の立場の人々は無信仰とされ、これまた異宗教扱いされる。芸術の分野では、ルネサンス対バロックの構図がはっきりする。
「一人の教皇と一人の皇帝」というヨーロッパ体制が崩壊し、神聖ローマ帝国による支配力も名目的なものと化す。そして、現ヨーロッパの国家基盤となる独立した諸国民国家が成立した。
思想領域においては、スコラ学に対する自然科学的哲学が台頭し、プラトンやアリストテレスを源泉とする哲学思想は多様化を見せ、思想の分野に続々と科学者が名乗りを上げた時代とも言えよう。知識は権威や伝承から得られるとした伝統主義を打破し、人間の認識力による知性によって得られるとした。新たな思考方法では、フランシス・ベーコンが「新機関」を、デカルトが「方法序説」を発表し、続いてスピノザやライプニッツが体系化に挑む。この流れは、カントの悟性理論へと継承され、18世紀には哲学が英雄的な学問を脱し市民権を獲得することになる。
2. 数学者ライプニッツ
ライプニッツの数学者としての功績といえば、微積分の発見であろう。これがニュートンとの優先権問題を引き起こし、両者は和解することはなかったようだ。ニュートンが円の求積法から研究したのに対して、ライプニッツはパスカルの「サイクロイドに関する書簡」とデカルトの「解析幾何学」の研究から接線の問題と対峙し、その手法の独創性が証明された。微積分の発見そのものはニュートンの方が先であったが、ライプニッツの記法は優れていて現在でも受け継がれる。
また、計算機でも知られるらしい。もともと計算機はパスカルの発明であるが、加減算だけである。更に、ライプニッツは剰余と開平を可能にしたという。
彼の晩年は、学問の競争者との対立を激化し、孤独で暗いものだったという。葬送には、40年間も宮廷に尽瘁したにもかかわらず、一人の参列者もいなかったそうな。無信仰者として扱われ、プロイセン科学アカデミーですら創立者ライプニッツに対して沈黙したという。
3. モナドロジー
「モナドは自然における真のアトムである。」
アリストテレスの用語に「エンテレケイア」というのがある。これは、あるものがその可能性を完全に実現しうるものとして、その目的に到っている状態とでも言おうか。プラトンは、あらゆる性質はイデアという原型なるものから派生して存在すると考えたが、アリストテレスは、質料と形相とを存在の根源とし、それらは分離できないと考えた。
本書は、まず形を持たない質料、つまりは第一質料の段階では受動的存在であるが、第二質料の段階では能動的原理が働くとしている。この能動的原理である原始的エンテレケイアが、生命の原理として表象する力を与える。しかも不滅。これが魂というものだそうな。
魂は、広義では「生命」あるいは「生命の原理」と同じもので、単一者モナドの内に存在する内的作用の原理であるという。そして、内的作用に外的作用が応じて「単一者における複合体の表現、一における多の表現」が表象を構成するとしている。
狭義では、魂はもっと高尚な生命の一種で感覚的生命だという。この場合は、単なる表象的能力ではなく感覚能力となり、表象に注意や記憶が加わっている状態としている。これは、精神がいっそう高尚な魂であろうとするような、理性や真理の普遍性が付加された状態を言っているように映る。
生命が表象の原理となるとしても、表象がすべて知覚されるわけではない。睡眠や失神といった、まったく意識のない表象もある。あらゆる原始的エンテレケイアは、生命の原理に自然的機械が結び付くという。この機械は、有機的物体である身体として自己に属するとしている。モナドは、「形而上学的アトム」であり、部分を持たず、自然的に生じたり滅びたりするものではないという。精神を形成する根源的な要素として存在するだけでなく、あらゆる実体の要素として存在するというわけか。したがって、精神や魂はあらゆる実体に存在するもので、けして人間や動物を優越するためのものではないとしている。
「どの物体の中にも一種の感情、欲求、精神があるから、人間にだけ実体形相や精神を承認するのは馬鹿らしいことである。そしてこれは、あらゆるものが人間だけのために造られているとか、地球が宇宙の中心だとか思うのが馬鹿らしいのと同様である。」
あらゆる実体が複合体として存在する以上、なんらかの基本的な単一体が存在するのかもしれない。その森羅万象の要素なるものが、モナドということのようだ。あらゆる素粒子が宇宙創生期に誕生し自然消滅することがないように、モナドもまた神の創造物として誕生し自然消滅することはないというわけか?もし消滅するとすれば、それは宇宙の終焉と運命をともにするということか?そりゃ、魂が永遠の存在となれば、宗教家は喜ぶさ。
また、様々な原子の種類が存在するように、モナドも異なる性質を持った個として存在するという。そして、内部が他の被造物によって変質や変化を受けることはないとしている。変質や変化をともなうのは、それが複合体だからだそうな。
4. 形而上学叙説
最高かつ無限の知恵の持ち主は、形而上学的だけにとどまらず、道徳的にも完全なもの、善の規範とか完全性の規範を超越した無限の存在だという。しかし、人間には、神を自己流に歪め、妄想を仕立てあげる性質がある。人間の持つご都合主義と有難迷惑主義もまた神のお導きであろうか?神ほど意地悪な存在はない。永遠の真理は、ほんのわずか数学の領域に見せてくれるだけなのだから。神の行いがすべて善であるとしても、人間はその善を理解することすらできない。人間ができることといえば、真理を導く努力、善を導く努力を怠らないことぐらいか。
本書は、精神の幸福が神の主な目的だとしている。人間以外にも精神の持ち主がいるのかもしれないが、人間はしばしば精神の持つ動物は人間だけだと考え、人間だけが幸福になる権利があると解釈してしまう。そもそも、神の目的を語る人間って、神を冒涜していることにならないのか?
また、神の行為で、秩序に外れるようなものは何一つないという。異常現象に見えるのは特殊な秩序に照らしただけのことで、矛盾や不完全性といった気持ちの悪い現象は、人間の価値観で勝手に評価しているに過ぎないのだろう。ただ、すべての現象が神の意志だとすると、人間の悪行もまた神の意志ということにならないのか?それも、人間に悪を知らしめ、善の尊さを教えようとしているのか?
本書は、スコラ学者を批判する立場にありながら、一方でスコラ学の省察を無視してはならないと指摘している。それは、場所をわきまえて適当に用いるならば、思ったよりもしっかりしたところがあるという。実体の本性について深く考察すると、物体の属性である形、大きさ、運動といった表面的な現象に囚われる。だが、それだけでは説明ができない。人体を機械的機能から考察しても、精神や魂との結び付きを感じないわけにはいかない。
「あらかじめ定められたとおりに起こることは確実ではあるが必然的ではない。」
人間の自由が奪われ、絶対的運命に支配されているような錯覚に陥らないためには、偶然的真理と必然的真理を区別して認識する必要があると指摘している。
5. 運動量保存則への批判
デカルトは、運動量と運動力を同一視するが、ライプニッツは運動力は保存されるが、運動量とは同一でないことを論証する。つまり、デカルトの誤謬は運動量と力を同一視したことにあると指摘している。
ここで持ちだされる物理現象の例はおもしろい。要約するとこんな感じだろうか。
...
物体Aが高さDから落下した場合と、物体Aの4倍の質量の物体Bが高さ1/4Dから落下した場合を考えると、力においては、同じ結果が得られるのは明らかである。
では、運動量においてはどうか?落下速度は加速度運動をするので、物体Aの速度は物体Bの速度の2倍しか得られない。運動量は、質量 x 速度で得られるので、物体Aの質量を1とすると、物体Aの運動量は、1 x 2 = 2 となり、物体Bの運動量は、4 x 1 = 4 となるので、2倍の違いが生じる。したがって、運動量と力には大きな違いが生じる。
...
デカルトは運動の保存量が速さや時間に比例すると考えたが、ライプニッツは保存量を活力とし距離に比例すると考えたようだ。運動量保存則に対して、力学保存則、あるいはエネルギー保存則のようにも見える。デカルトは、物体から自発的運動能力を排除し、精神と物体を峻別した。対してライプニッツは、実体の本性を力に求め、精神的被造物と物体的被造物の統一性を示す。したがって、物体的実体も、なんらかの精神的で能動的作用があると捉えたのであろう。確かに、人間の行動の可能性には、物理的可能性に精神的意欲が加わる。その性質が、しばしば偏重した精神論を持ち出す輩を育てるのだが...
「力学の一般的原理は幾何学というよりもむしろ形而上学である。」
デカルトの運動法則は、静的あるいは受動的機械において成立することを唱えたわけだが、ライプニッツは、あらゆる実体を能動的機械として考察するべきだと言っているのかもしれない。あるいは、受動的実体と能動的実体の調和を唱えているのかもしれない。いずれにせよ、両者の物体観と実体思想という世界観の違いであって、もっと言うならば宗教観の違いであろう。ニュートンと折り合いがつかなかったのも、ニュートンが宗教論争を煙たく思ったからであろうか?
2010-11-14
"情念論" René Descartes 著
「情念」という言葉を定義するのは難しい。感情の中でも根深く激しく、本質的な精神から生起する想念といったところであろうか。アリストテレス的でスコラ学的な伝統的教説では、情念(パトス)を悪とし、理性(ロゴス)を善としてきた。精神の原理が、根拠の薄弱さと矛盾に見舞われるため、その思想も分からなくはない。現在においても、報道屋や政治屋が曝け出す醜態を眺めれば、感情論が災いをもたらすと考える人の方が多数派であろう。感情は精神から受動的に呼び起こされるために消極的な印象を与え、知性は精神を能動的に制御しようとするために積極的な印象を与える。人間社会において、一般的に積極的な方に高い評価を与えるのは、自由意志の存在を信じている証であろうか。
一方、デカルトは、情念を精神の持つ本性と認め自然学的に善とし、感情の行き過ぎを理性的に導くことを説いている。それは、情念の動きを妨げるのではなく、存分に解放しながら、知性と結びつけて精神のバランスをとるといったところであろうか。情念の存在が実存主義的に真である以上、それを善へ導くしかない。その存在認識を、神という原因性に委ねるならば受動的にならざるをえないが、その存在を前提しない限り能動的な理性も生起しない、というのがデカルトの考えであろうか...あくまでも勝手な解釈だけど...
本書が、アリストテレスやスコラ学を批判する立場にあるのは冒頭から伝わる。人間は主観的思考の方が強いように思えるので、客観的思考を強調するぐらいでちょうどいいのだろう。どちらも人間の持つ本質であるからには、そこから逃れようがない。主観性と客観性の双方を凌駕してこそ、精神の持つ合理性へ近づくことができるであろう。本書は、善悪を判断できる理性をともなう限り、豊かな情念を持った人間にこそ、多くの喜びを享受できると主張する。しかし、人間にはどう足掻いても制御できない精神要素がある。どんなに崇高な理性をまとうことができたとしても。それが「気まぐれ」ってやつさ!
デカルトと言えば、精神と身体(物体)とを峻別した二元論の印象が強い。本書にもその傾向が現れる。前半では、身体に帰するものは精神なき物体のうちにあるもの、精神に帰するものは物体に属しえないものとしている。しかし、後半ではこれらの一元論が展開される。二元論と一元論が混在して矛盾するようにも映るが、精神を考察して矛盾に遭遇しないわけがない。前記事の「哲学原理」でも、心身の結合という問題に触れており、更に「情念論」でその一元論を深めているようだ。
まず、精神は、精神のうちに対しては受動的に働くが、身体に対しては能動的に働くとしている。情念を生物的精気の運動によって精神のうちに引き起こされる思考であるとし、外的対象に対する感覚と、身体の内的状態に対する感覚とを区別している。そして、善悪と道徳、あるいは自由意志と神の存在から、偶然性と運命性を区別しながら、情念の一般的治療法が語られる。
中でも、情念は身体の生理的現象でもあり医学的観点から、人体の構造と機能を機械論的に考察されるのは興味深い。言い換えれば、人体を、心臓の活動と血液循環で構成される一種の熱機関として捉え、精神を血流の変化による物理現象として説明している。物体が運動すればエネルギーを放出し、精神が思考すれば血流を促し蒸気として表面化するというわけだ。身体が病がちになれば、気力を失い血流も損なわれ、気力が充実すれば、胃袋の働きも活性化するだろう。精神的プレッシャーを感じれば、筋肉を収縮させ自由な運動を妨げるだろう。
「目は口ほどに物を言う」という格言があるが、それを視神経の太さと、眼には蒸気が通る小さな動脈が多数あることで説明している。情念によって多量の血液を心臓に送り多量の蒸気が眼に送られるというわけだ。また、年をとると涙もろくなると言われるが、それは老人特有の体質の冷たさによって動揺が緩慢になり、悲しみの情念が先行しなくても蒸気が冷やされ液体に変わるためだという。ほんまかいな???
これは自然科学的哲学である。そして、あらゆる感情現象は物理学で説明できそうな気がしてくる。夜の社交場で放出されるオーラのようなものも、血流運動で説明できるかもしれない。ホットな女性の周りには明らかに違った電磁場が発生する。電流が走れば、そりゃぁ...しびれるさ!
1. 受動と能動
情念が、身体の入力装置である五感によって作用する場合には受動的と言えよう。そして、その情念の影響で身体を動かす場合には能動的と言えよう。ただ、視覚対象を精神に表象するのは、単に目に映る画像情報だけで作用するのではなく、脳の中で何かが起こっている。人間は、物体を知覚する時、冷たいとか熱い、堅いとか軟らかいといった感覚を一般的に持っている。だが、怒りや喜びといった感情は実に個性があって、くだらない事に怒りを覚えたり、つまらないことに喜びを感じたりする。また、外的情報にだけ反応するわけでもなく、精神内部から湧き上がるようなものがある。
こうした精神を動かす原理とは何か?本書は、思考以外に精神に帰するものは何もないという。そして、精神の能動は意志のすべてであり、思考は知性と意志の活動であり、知覚や知識は精神の受動に属するとしている。
しかし、精神の活動を受動と能動で区別したところで、相対的に解釈するしかないだろう。幻想や夢想は、無意識に起こる現象なので精神の受動的活動のように思える。だが、そこで思い描くものは個人的なもので、これを想像力と解するならば能動的のようにも思える。ただ、どんなに頑張って能動的な意志を強調したところで、気まぐれには勝てない。心地よい夢を見ればいいところで目が覚め、続きを見ようとして二度寝したところで、熟睡して寝過ごすのがオチだ。
精神の原因性を宇宙論的に説明しようとすれば、すべての認識は運命的で受動的にならざるを得ないだろう。だが、宇宙の存在を絶対的な神の仕業としたところで、神の正体を知る由も無い。となれば、すべての意志は能動的で、自由意志の存在を信じるぐらいが幸せでいられそうだ。
ところで、人間の中心機能は何か?と問えば、一般的には脳や心臓と答えるだろう。脳は、思考によって能動的に活動する印象を与えるが、心臓は、その動きを意志によって制御できるわけではないので受動的な印象を与える。なるほど、愛を語る時にハートを強調するのは、従属するという意志が無意識に働いているわけか。そこに、ご都合主義に支配された人間独特の所有概念が生じるから訳が分からん!
2. 六つの基本情念
本書は、驚き、愛、憎しみ、欲望、喜び、悲しみを六つの基本情念と定義し、他のあらゆる情念は基本情念の複合形や系統に含まれるとしている。
では、情念の原因とは何か?精気が脳の中の小さな腺を動かす動揺が一つの要因であるという。だが、それだけでは説明できない。対象を捉えようとする積極的な意志によっても引き起こされ、身体の状態や脳内にたまたま生じた刻印によっても引き起こされる。ただ、対象が自分に害をなしたり、利益をもたらしたりする時に、なんらかの情念が働く。
本書は、最初に働く情念を「驚き」だとしている。
まず注視することから精神の活動が始まり、驚きの度合いで精神の成熟度が測れるとしている。驚きの情念への生来的傾向をまったく持たない人は無知であるが、過度な驚きは理性を歪めるとしている。過剰反応は、最初のイメージだけに注意を払い、重要な認識を見落とすことになろう。現れた事物を、反省と注意に向かわせるためには、できるだけ客観的な観察が必要である。
「愛」の情念は、多種多様なところを見せる。
その対象が、異性に向かう時は独占欲が働くくせに、家族や組織などに対しては分有欲が働く。名誉や金や自然に対する愛も、同種の感覚とは思えない。
だが、その反対にある「憎しみ」の情念は感情的には単純であるという。それは、諸悪の違いに差異を認めないからだそうな。
「欲望」の情念は不思議なもので、未来への善として認識され、なかなか悪とは認識しないものである。大まかには、知への純粋な欲望と、脂ぎった欲望とに分けることができるだろう。スコラ哲学では、善の追求に向かう情念のみを「欲望」とし、悪の回避に向かう情念を「嫌忌」とするそうな。しかし、本書は、善の行為に、悪という認識が欠如すれば、それは積極的な悪であるとしている。そして、「欲望」と「嫌忌」を抽象化し、善の要求と悪の回避の両方をともなうことが「欲望」の情念だと定義している。
「喜び」の情念は、精神の快い情動で善の享受とし、「悲しみ」の情念は、無気力感や精神の不調だとしている。
ところで、精神とは奇妙なもので、必ず快い情念を求めているわけではない。自らの身を危険に曝すといった衝動もある。勇敢さを試すかのように。わざわざ難局に立ち向かう衝動もある。何か悟りでも得ようとするかのように。こうした情念は、一種の満足感であろうか。あるいは、より高尚な欲望への開眼であろうか。
また、喜びなのか苦しみなのかも分からない奇妙な情念もある。快感であるはずの恋はなんとなく息苦しい。不快であるはずの憎しみが病みつきになったりする。
情念を生みだす血液と精気の運動が外的表象としてある。目や顔の表情で、ある程度の精神状態を測ることができる。となると、喜び多き人生を送れば、表情が習慣的に穏やかになるのだろうか?悲しみ多き人生を送れば、自然に顔のしわが増え、憎しみ多き人生を送れば、自然にしかめっ面になるのだろうか?顔が赤いのは、怒り多き人生を送るからであろうか?いや、単なる飲み過ぎだろう。
3. 情念の矛盾性
精神の苦痛は、まず悲しみの情念を生みだし、次にその苦痛を引き起こす原因性に憎しみを持ち、更にそこから逃れようとする欲望を生みだすという。
一方、精神にとって有益なことは、ある種の心地よさであり、これが喜びの情念を生みだし、次に心地よさの原因性に愛を感じ、更に喜びの持続あるいは享受させようという欲望を生みだすという。
情念の根源を辿ると、第一にくるのが防衛本能からくる悲しみや苦しみであろうか。そして、喜びは不可欠となる。となると、基本情念は、悲しみと喜びで、だいたい説明ができそうな気がする。
本書は、「憎しみは愛よりも不可欠」であるとしている。なぜなら、害となるかもしれないものを斥ける方が、生きるために必要な完全性を獲得するよりも重要だからだという。これは、宗教家からは非難されそうな発言だ。宗教は、憎しみを捨てることを説き、愛を強要する。だが、憎しみを知らなければ、愛を知ることもできないだろう。善を行うために悪を避けようとする行為は、悪を知らなければできない。善は、悪への憎しみから生じるとしたら、憎しみという情念も捨てたものじゃない。憎しみと悲しみが極度になれば健康を害す。だからといって、愛と喜びが極度になれば悪の認識を欠如させ無意識に悪を犯す。結局、人間は相対的に認識することしかできないのであって、その対称性から善悪を認識している。ここに、情念の矛盾性があり自然性がある。自らの道徳観に自信を持つ者は、悪徳の達人となろう。愛の達人は、憎しみの達人というわけか。
4. 自己重視と自己軽視
認識力は、何をどれだけ注視するかにかかっている。まず、自分自身を重視するか軽視するかによって分かれる。人間が最も不快を覚えるのは、自分の存在を否定されたり、自尊心を傷つけられることであろうか。なにかと他人からの評価は気になるものであろう。自己の重視と軽視のバランスを保つことは難しい。自分自身を軽視するよりも、他人を軽視することの方がはるかに容易いのだから。いかに自分自身を客観的に見られるかは、最も難しく鍛練を必要とする。精神修行とはこれに尽きるのかもしれない。
本書は、自己重視の観点から「高邁」と「高慢」を考察し、自己軽視の観点から「気高い謙虚」と「悪しき謙虚」を考察している。高邁と高慢は、自らに高い評価を与える点では同じであるが、その性質はまったく異なり、正当な評価が高邁で不当な評価が高慢である。そして、最も高邁な人が他人を重視すれば、最も謙虚な人になるとしている。これが、「気高い謙虚」である。自己の情念を支配しうるのは、高邁な資質にあるのかもしれない。つまり、自分を含めたすべての人間を重んじるということである。自分の徳で精神が安定していれば、他人の徳を冷静に観察できるだろう。真の高邁とは、誇りという言葉で換言できるかもしれない。
一方、無知で愚かな者ほど偽の高邁、つまりは高慢に陥るとしている。高慢は、自分を高めながら他人を低めようと努める。おまけに、脂ぎった欲望の奴隷となって、憎しみ、羨みに執着する。高慢とは反対であるが、同類の精神構造に卑屈がある。これが「悪しき謙虚」である。卑屈は、自らの不当な低い評価から憎しみを生じさせる。自分が弱く決断力のない人間と信じ込み、自虐の念に陥る。自分だけでは生きていけないと極度に自信を失い、何事も他人に委ね、自ら努力を怠る。人間が完全な自立を果たすことは不可能であろう。だが、自立を諦めるのと努力するのとでは意味が違ってくる。正当な自己評価は人間の認識能力で最も難しいように思える。そうでなければ、自己矛盾に陥ることもないだろう。
5. 崇敬と憐れみ
「崇敬や敬意」は、その対象を重視するだけではなく、対象に好意を持ち、精神のうちにある不安をも服従させるという。少なくとも、善と判断したものに対する情念であろう。その反対に軽蔑がある。絶望は希望の裏返しにある。精神が達成できない未来像を描く時、希望は絶望へと変貌する。勇気の持ち主は、自分の臆病を知っているのだろう。恐怖心を自覚しているのだろう。真の勇気とは、客観性に裏付けされた冷静な判断力である。偽装した勇気は、単なる強がりであり、無謀となる。死への恐怖心があるから生へ執着できる。臆病だから、危険を察知することができ工夫が生まれる。だが、臆病、驚愕、不安の過剰反応は、逆に行動力の妨げとなる。
「憐れみ」とは、宗教的によく使われる言葉だ。最も憐れみやすいのは、自分を弱い人間と認め、偶然的運による逆境に屈しやすい人としている。それは、他人への愛よりも、自分自身に向かう愛によって憐れみに動かされるからだという。自己愛がなければ生きていくのも難しいのだけど...宗教家というのは、最も自己愛の激しい連中なのだろう。
ところで、事業で大成功を収め大金持ちになった人が、突如として慈善事業を始めたりするのはなぜか?散々金儲けをした挙句、欲望行為に対する懺悔心でも生じるのか?精神の奥底に眠っていた良心が、突然湧き上がるのか?あるいは、慈善活動をする自分を眺めて、自己愛に酔いしれるのか?いずれにせよ、裕福でないにもかかわらずボランティア活動に励む人が、真の慈善家ということになろうか。
一方、デカルトは、情念を精神の持つ本性と認め自然学的に善とし、感情の行き過ぎを理性的に導くことを説いている。それは、情念の動きを妨げるのではなく、存分に解放しながら、知性と結びつけて精神のバランスをとるといったところであろうか。情念の存在が実存主義的に真である以上、それを善へ導くしかない。その存在認識を、神という原因性に委ねるならば受動的にならざるをえないが、その存在を前提しない限り能動的な理性も生起しない、というのがデカルトの考えであろうか...あくまでも勝手な解釈だけど...
本書が、アリストテレスやスコラ学を批判する立場にあるのは冒頭から伝わる。人間は主観的思考の方が強いように思えるので、客観的思考を強調するぐらいでちょうどいいのだろう。どちらも人間の持つ本質であるからには、そこから逃れようがない。主観性と客観性の双方を凌駕してこそ、精神の持つ合理性へ近づくことができるであろう。本書は、善悪を判断できる理性をともなう限り、豊かな情念を持った人間にこそ、多くの喜びを享受できると主張する。しかし、人間にはどう足掻いても制御できない精神要素がある。どんなに崇高な理性をまとうことができたとしても。それが「気まぐれ」ってやつさ!
デカルトと言えば、精神と身体(物体)とを峻別した二元論の印象が強い。本書にもその傾向が現れる。前半では、身体に帰するものは精神なき物体のうちにあるもの、精神に帰するものは物体に属しえないものとしている。しかし、後半ではこれらの一元論が展開される。二元論と一元論が混在して矛盾するようにも映るが、精神を考察して矛盾に遭遇しないわけがない。前記事の「哲学原理」でも、心身の結合という問題に触れており、更に「情念論」でその一元論を深めているようだ。
まず、精神は、精神のうちに対しては受動的に働くが、身体に対しては能動的に働くとしている。情念を生物的精気の運動によって精神のうちに引き起こされる思考であるとし、外的対象に対する感覚と、身体の内的状態に対する感覚とを区別している。そして、善悪と道徳、あるいは自由意志と神の存在から、偶然性と運命性を区別しながら、情念の一般的治療法が語られる。
中でも、情念は身体の生理的現象でもあり医学的観点から、人体の構造と機能を機械論的に考察されるのは興味深い。言い換えれば、人体を、心臓の活動と血液循環で構成される一種の熱機関として捉え、精神を血流の変化による物理現象として説明している。物体が運動すればエネルギーを放出し、精神が思考すれば血流を促し蒸気として表面化するというわけだ。身体が病がちになれば、気力を失い血流も損なわれ、気力が充実すれば、胃袋の働きも活性化するだろう。精神的プレッシャーを感じれば、筋肉を収縮させ自由な運動を妨げるだろう。
「目は口ほどに物を言う」という格言があるが、それを視神経の太さと、眼には蒸気が通る小さな動脈が多数あることで説明している。情念によって多量の血液を心臓に送り多量の蒸気が眼に送られるというわけだ。また、年をとると涙もろくなると言われるが、それは老人特有の体質の冷たさによって動揺が緩慢になり、悲しみの情念が先行しなくても蒸気が冷やされ液体に変わるためだという。ほんまかいな???
これは自然科学的哲学である。そして、あらゆる感情現象は物理学で説明できそうな気がしてくる。夜の社交場で放出されるオーラのようなものも、血流運動で説明できるかもしれない。ホットな女性の周りには明らかに違った電磁場が発生する。電流が走れば、そりゃぁ...しびれるさ!
1. 受動と能動
情念が、身体の入力装置である五感によって作用する場合には受動的と言えよう。そして、その情念の影響で身体を動かす場合には能動的と言えよう。ただ、視覚対象を精神に表象するのは、単に目に映る画像情報だけで作用するのではなく、脳の中で何かが起こっている。人間は、物体を知覚する時、冷たいとか熱い、堅いとか軟らかいといった感覚を一般的に持っている。だが、怒りや喜びといった感情は実に個性があって、くだらない事に怒りを覚えたり、つまらないことに喜びを感じたりする。また、外的情報にだけ反応するわけでもなく、精神内部から湧き上がるようなものがある。
こうした精神を動かす原理とは何か?本書は、思考以外に精神に帰するものは何もないという。そして、精神の能動は意志のすべてであり、思考は知性と意志の活動であり、知覚や知識は精神の受動に属するとしている。
しかし、精神の活動を受動と能動で区別したところで、相対的に解釈するしかないだろう。幻想や夢想は、無意識に起こる現象なので精神の受動的活動のように思える。だが、そこで思い描くものは個人的なもので、これを想像力と解するならば能動的のようにも思える。ただ、どんなに頑張って能動的な意志を強調したところで、気まぐれには勝てない。心地よい夢を見ればいいところで目が覚め、続きを見ようとして二度寝したところで、熟睡して寝過ごすのがオチだ。
精神の原因性を宇宙論的に説明しようとすれば、すべての認識は運命的で受動的にならざるを得ないだろう。だが、宇宙の存在を絶対的な神の仕業としたところで、神の正体を知る由も無い。となれば、すべての意志は能動的で、自由意志の存在を信じるぐらいが幸せでいられそうだ。
ところで、人間の中心機能は何か?と問えば、一般的には脳や心臓と答えるだろう。脳は、思考によって能動的に活動する印象を与えるが、心臓は、その動きを意志によって制御できるわけではないので受動的な印象を与える。なるほど、愛を語る時にハートを強調するのは、従属するという意志が無意識に働いているわけか。そこに、ご都合主義に支配された人間独特の所有概念が生じるから訳が分からん!
2. 六つの基本情念
本書は、驚き、愛、憎しみ、欲望、喜び、悲しみを六つの基本情念と定義し、他のあらゆる情念は基本情念の複合形や系統に含まれるとしている。
では、情念の原因とは何か?精気が脳の中の小さな腺を動かす動揺が一つの要因であるという。だが、それだけでは説明できない。対象を捉えようとする積極的な意志によっても引き起こされ、身体の状態や脳内にたまたま生じた刻印によっても引き起こされる。ただ、対象が自分に害をなしたり、利益をもたらしたりする時に、なんらかの情念が働く。
本書は、最初に働く情念を「驚き」だとしている。
まず注視することから精神の活動が始まり、驚きの度合いで精神の成熟度が測れるとしている。驚きの情念への生来的傾向をまったく持たない人は無知であるが、過度な驚きは理性を歪めるとしている。過剰反応は、最初のイメージだけに注意を払い、重要な認識を見落とすことになろう。現れた事物を、反省と注意に向かわせるためには、できるだけ客観的な観察が必要である。
「愛」の情念は、多種多様なところを見せる。
その対象が、異性に向かう時は独占欲が働くくせに、家族や組織などに対しては分有欲が働く。名誉や金や自然に対する愛も、同種の感覚とは思えない。
だが、その反対にある「憎しみ」の情念は感情的には単純であるという。それは、諸悪の違いに差異を認めないからだそうな。
「欲望」の情念は不思議なもので、未来への善として認識され、なかなか悪とは認識しないものである。大まかには、知への純粋な欲望と、脂ぎった欲望とに分けることができるだろう。スコラ哲学では、善の追求に向かう情念のみを「欲望」とし、悪の回避に向かう情念を「嫌忌」とするそうな。しかし、本書は、善の行為に、悪という認識が欠如すれば、それは積極的な悪であるとしている。そして、「欲望」と「嫌忌」を抽象化し、善の要求と悪の回避の両方をともなうことが「欲望」の情念だと定義している。
「喜び」の情念は、精神の快い情動で善の享受とし、「悲しみ」の情念は、無気力感や精神の不調だとしている。
ところで、精神とは奇妙なもので、必ず快い情念を求めているわけではない。自らの身を危険に曝すといった衝動もある。勇敢さを試すかのように。わざわざ難局に立ち向かう衝動もある。何か悟りでも得ようとするかのように。こうした情念は、一種の満足感であろうか。あるいは、より高尚な欲望への開眼であろうか。
また、喜びなのか苦しみなのかも分からない奇妙な情念もある。快感であるはずの恋はなんとなく息苦しい。不快であるはずの憎しみが病みつきになったりする。
情念を生みだす血液と精気の運動が外的表象としてある。目や顔の表情で、ある程度の精神状態を測ることができる。となると、喜び多き人生を送れば、表情が習慣的に穏やかになるのだろうか?悲しみ多き人生を送れば、自然に顔のしわが増え、憎しみ多き人生を送れば、自然にしかめっ面になるのだろうか?顔が赤いのは、怒り多き人生を送るからであろうか?いや、単なる飲み過ぎだろう。
3. 情念の矛盾性
精神の苦痛は、まず悲しみの情念を生みだし、次にその苦痛を引き起こす原因性に憎しみを持ち、更にそこから逃れようとする欲望を生みだすという。
一方、精神にとって有益なことは、ある種の心地よさであり、これが喜びの情念を生みだし、次に心地よさの原因性に愛を感じ、更に喜びの持続あるいは享受させようという欲望を生みだすという。
情念の根源を辿ると、第一にくるのが防衛本能からくる悲しみや苦しみであろうか。そして、喜びは不可欠となる。となると、基本情念は、悲しみと喜びで、だいたい説明ができそうな気がする。
本書は、「憎しみは愛よりも不可欠」であるとしている。なぜなら、害となるかもしれないものを斥ける方が、生きるために必要な完全性を獲得するよりも重要だからだという。これは、宗教家からは非難されそうな発言だ。宗教は、憎しみを捨てることを説き、愛を強要する。だが、憎しみを知らなければ、愛を知ることもできないだろう。善を行うために悪を避けようとする行為は、悪を知らなければできない。善は、悪への憎しみから生じるとしたら、憎しみという情念も捨てたものじゃない。憎しみと悲しみが極度になれば健康を害す。だからといって、愛と喜びが極度になれば悪の認識を欠如させ無意識に悪を犯す。結局、人間は相対的に認識することしかできないのであって、その対称性から善悪を認識している。ここに、情念の矛盾性があり自然性がある。自らの道徳観に自信を持つ者は、悪徳の達人となろう。愛の達人は、憎しみの達人というわけか。
4. 自己重視と自己軽視
認識力は、何をどれだけ注視するかにかかっている。まず、自分自身を重視するか軽視するかによって分かれる。人間が最も不快を覚えるのは、自分の存在を否定されたり、自尊心を傷つけられることであろうか。なにかと他人からの評価は気になるものであろう。自己の重視と軽視のバランスを保つことは難しい。自分自身を軽視するよりも、他人を軽視することの方がはるかに容易いのだから。いかに自分自身を客観的に見られるかは、最も難しく鍛練を必要とする。精神修行とはこれに尽きるのかもしれない。
本書は、自己重視の観点から「高邁」と「高慢」を考察し、自己軽視の観点から「気高い謙虚」と「悪しき謙虚」を考察している。高邁と高慢は、自らに高い評価を与える点では同じであるが、その性質はまったく異なり、正当な評価が高邁で不当な評価が高慢である。そして、最も高邁な人が他人を重視すれば、最も謙虚な人になるとしている。これが、「気高い謙虚」である。自己の情念を支配しうるのは、高邁な資質にあるのかもしれない。つまり、自分を含めたすべての人間を重んじるということである。自分の徳で精神が安定していれば、他人の徳を冷静に観察できるだろう。真の高邁とは、誇りという言葉で換言できるかもしれない。
一方、無知で愚かな者ほど偽の高邁、つまりは高慢に陥るとしている。高慢は、自分を高めながら他人を低めようと努める。おまけに、脂ぎった欲望の奴隷となって、憎しみ、羨みに執着する。高慢とは反対であるが、同類の精神構造に卑屈がある。これが「悪しき謙虚」である。卑屈は、自らの不当な低い評価から憎しみを生じさせる。自分が弱く決断力のない人間と信じ込み、自虐の念に陥る。自分だけでは生きていけないと極度に自信を失い、何事も他人に委ね、自ら努力を怠る。人間が完全な自立を果たすことは不可能であろう。だが、自立を諦めるのと努力するのとでは意味が違ってくる。正当な自己評価は人間の認識能力で最も難しいように思える。そうでなければ、自己矛盾に陥ることもないだろう。
5. 崇敬と憐れみ
「崇敬や敬意」は、その対象を重視するだけではなく、対象に好意を持ち、精神のうちにある不安をも服従させるという。少なくとも、善と判断したものに対する情念であろう。その反対に軽蔑がある。絶望は希望の裏返しにある。精神が達成できない未来像を描く時、希望は絶望へと変貌する。勇気の持ち主は、自分の臆病を知っているのだろう。恐怖心を自覚しているのだろう。真の勇気とは、客観性に裏付けされた冷静な判断力である。偽装した勇気は、単なる強がりであり、無謀となる。死への恐怖心があるから生へ執着できる。臆病だから、危険を察知することができ工夫が生まれる。だが、臆病、驚愕、不安の過剰反応は、逆に行動力の妨げとなる。
「憐れみ」とは、宗教的によく使われる言葉だ。最も憐れみやすいのは、自分を弱い人間と認め、偶然的運による逆境に屈しやすい人としている。それは、他人への愛よりも、自分自身に向かう愛によって憐れみに動かされるからだという。自己愛がなければ生きていくのも難しいのだけど...宗教家というのは、最も自己愛の激しい連中なのだろう。
ところで、事業で大成功を収め大金持ちになった人が、突如として慈善事業を始めたりするのはなぜか?散々金儲けをした挙句、欲望行為に対する懺悔心でも生じるのか?精神の奥底に眠っていた良心が、突然湧き上がるのか?あるいは、慈善活動をする自分を眺めて、自己愛に酔いしれるのか?いずれにせよ、裕福でないにもかかわらずボランティア活動に励む人が、真の慈善家ということになろうか。
2010-11-07
"哲学原理" René Descartes 著
本書に登場する「運動量保存の法則」は、現代科学の感覚からすると簡潔過ぎるきらいがある。幾何学至上主義に陥りやすい時代ではあったのだろう。科学的知識から精神的意義を求めようとした挙句、一般的な自然科学からやや離れていく気もしなくはない。それでも、その延長上にニュートン力学や相対性理論の影を感じる。デカルト座標は、義務教育ですら当たり前のように使われるが、デカルトという名前で馴染んでいないのはなんとも惜しい。デカルト哲学と言えば、「我思う、故に我あり」という言葉が象徴するように形而上学的な狭義の哲学を意味するのであろう。本書にもその路線がはっきりと見える。しかし、ここでは数学的原理が語られる。もっとも、数学は哲学だと思っているので、まったく違和感はない。
「私は自然学においては、幾何学もしくは抽象数学におけるとは違った原理を、容認もしないし、望ましいとも思わない。なぜならば、かようにしてすべての自然現象は説明されるし、それについて確かな論証を与えることができるから。」
当初、デカルトの体系構想は、次のようなものだったという。
第一部では、形而上学的思想が語られ、これは伝統的な哲学に属する部分である。その思想は、デカルトの著書「省察」とほぼ同じ内容だそうな。思考プロセスを辿りたければ「省察」の方がお勧めらしいが、形の整ったものとなると本書の第一部になるらしい。
第二部では、物体の運動法則を中心に自然学が語られる。
また、序文には「エリザベート公女殿下にささぐ」と題して献辞が付せられる。デカルトが王女と文通をしていた証拠が残るのは、歴史的に貴重なものだそうな。
「まず最もふつうのことから始めて、哲学とは何であるかを説きたかったのです。」
哲学とは知恵の探求を意味し、それは処世の知恵ばかりではなく、日常生活や健康に対する思慮から技術革新に至るまで、人間の知りうるすべての知識を意味する。そして、あらゆる知恵の原因性を導き出すことが、最終的に善の正体を知ることとしている。また、知恵は段階的に得られるものであって、神的啓示のように一挙に信仰によって高められるものではないと指摘している。
そこには、キリスト教的で予定説的な影響を受けながら、客観的思考を加えながら、宇宙論的思想を構築していく様子がうかがえる。偉大な数学者が、若き日に数学だけが真理を与える信じながら、独自の神学を構築した例は珍しくない。デカルトにとって、哲学とは科学をも含めた総合的な学問だったのだろう。哲学は自然の一切を対象とし、人間精神もまた自然現象の一つである。哲学的宇宙論とは、神学と科学の融合と解することもできよう。あらゆる原因性を探求することこそ「哲学する」ということであろうか。したがって、哲学的思考のない学問なんてありえないように思える。ただし、不毛な議論となることを覚悟せねばなるまいが...
プラトンは、師ソクラテスに素直に従い、自分では何も見出すことができなかいことを認めた。そして、真理らしく見えるものを語り、若干の原理を想定するに留めた。一方、アリストテレスは、師プラトンとは違った原理にすがり、師匠ですら見えない真実を確実なものとして提示した。未だ哲学原理が真理を確実なものにできない以上、どちらにも欠点があるのは仕方がない。ただ、哲学論争は、熱を帯びるほど真理から遠ざかる傾向にある。よって、どんなに偉大な哲学者の主張であれ、盲目的に従うわけにはいかない。尊敬と崇拝の境界線も実に微妙で、人物や思想を絶対的に崇めた時、宗教的思考に陥る。完全に納得できる原理的体系を、精神のうちに構築することは不可能であろう。
したがって、信頼とは、完全に信仰して思考停止状態に陥ることではないのだろう。信頼とは、欠点を認めながら受け入れるということであろうか。こうしてみると信頼という言葉の意味でさえ、分かっていないことに気づかされる。自分の思想に疑いを持つことは勇気のいることであるが、それが知性の源泉であろうか。何事もちょっと疑うぐらいがちょうどいい。恋愛もちょっと嫉妬するぐらいでちょうどいい。
尚、下記はデカルトが意図したことかは知らん!泥酔者の思考が発散した結果なのだから...
1. 「エリザベート公女殿下にささぐ」
エリザベートとは、ファルツ選帝侯フリードリヒ5世の長女エリザベート・フォン・ベーメンのことのようだ。彼女は24歳の頃からデカルトの教えを受けたという。デカルトは、自らを「殿下の最も献身的な崇拝者」として書簡している。
知恵には、知性の認識と意志の傾動の二事が必要であると説く。ただ、誰にでも意志はあろうが、知性には個人差がある。知識を得たからといって、正しい知性へ導くとは限らない。誤謬に陥れば、むしろ有害となろう。本書は、ほとんどの人々が、形而上学に拘われば幾何学的なことを恐れ、逆に幾何学を研究すれば哲学を理解しないのが常であると指摘している。
「明敏な頭脳と、真理認識の最高の配慮とを、兼ね具えた者こそ、遥かに優秀な人々なのであります。」
2. 哲学原理
「神なるものがあること、それはこの世界に存ずる一切のものは創造者であり、あらゆる真理の源泉であるから、我々の知性が、その極めて明晰判明な認識を持つことについて下した判断において、間違いをするような性質には、決して造らなかったということです。」
すべての実体が、物体的で自然学的に運動しながら存在するということ、これが哲学原理の基本的な考えである。そして、あらゆる知的事実は、感覚的知覚に支えられるというわけか。しかし、神を見たり触れたりすることはできず、その実体は精神の内、つまりは認識の中にしかない。
哲学的思考を高めるためには、論理学の研究も怠ることはできない。だが、それはスコラ学のようなものではないという。スコラ学の論理は、既に知っていることを他人に理解させたり、知らないことですら言葉巧みに語る手段を教える論弁術に過ぎないと蔑む。精神の論理性は、しばしば慣習に左右される。純粋な客観性を求めるならば、その訓練は数学的思考を重ねることになろう。
「真理を探究するには、生涯に一度すべてのことについて、できるかぎり疑うべきである。」
日常では、ほとんどが感覚的判断に委ねられる。すべての物事をいちいち疑っていては判断が遅れて実践的ではない。そのために、多くの先入観に囚われることになる。
ところで、数学的証明を疑うことができるだろうか?今まで自明であった、あるいは自明であると信じてきた原理を、見直す必要があるのか?という疑問はある。だが、トポロジーはユークリッドの第五公準への疑いから始まったと言えよう。自由意志の源泉とは、まさしく疑問を持つという思考にあるのかもしれない。
3. 実存論
「我々は疑っているとき、自ら存在していることを疑うことはできない。」
思惟する精神が存在するからこそ、物体的存在を認識できるわけで、もはや精神の実存は自明というわけか。確かに、物事を認識できるからには、自己の存在を前提しないと説明できない。
しかし、だ!自らの存在を疑ってみることも肝要であろう。思惟する精神の存在を疑うように思惟するとは自己矛盾に陥りそうだが、その自己矛盾にこそ宇宙原理があるのではないだろうか。自己矛盾に陥りながら、美味い酒を飲んで心地よくなる。これこそ「哲学する」ことだと思っている。したがって、自己の存在に疑いを持つことに何の恐れがあろうか。
本書が言うように、精神の内に実存認識が根底にあるのは認めよう。そして、存在する空間をイメージしながら、時間という一方向性の中を精神がうごめいているような気がする。しかし、その存在認識ですら現実なにか夢想なのか、はっきりとせずさまようのが精神の得体の知れないところである。実存を過信し自己の存在感を強調するから、それが革新的精神の妨げであっても、既得権益に固執し権威を誇示するような振る舞いが生じる。神の存在を過信するから、宗教的信仰に欺かれる。
また、実存認識の前提として神の必然性が語られるわけだが、デカルトの言う神とは、けして人間の知りうるものではなく、人間の発明した宗教から導き出せるものではないということであろうか?つまり、宇宙は必然的に存在するわけで、人間の信仰などには一切かかわりのないもの。そのように勝手に解釈するならばなんとなく理解できる。神のような存在があると仮定して、それは矛盾の概念すら凌駕するような最高完全者、いや、完全性と不完全性でさえ抽象化してしまうような絶対的な寛容さがなければ、宇宙の創造主の存在は説明できないだろう。完全性や不完全性、あるいは矛盾や論理性などという概念は、人間が勝手に認識しているだけなのかもしれない。
となれば、神の存在に対して、人間の存在は受動的あるいは消極的に受け入れるしかできないはず。しかし、人間社会は、能動的あるいは積極的な活動に高い評価を与える。そして、政治屋や報道屋は余計な行動に明け暮れる。ただ、あらゆる事象に疑いを持つという行為も、精神の積極的活動である。
「神によって啓示されることは、たとい我々の理解を超えていても、すべて信ずるべきである。」
そりゃそうだろう。だが、神が啓示することって、どうやって認識できるんだ?例えば、「三角形の内角の和は二直角である」といった数学的公理のようなものか?だとすると、神の啓示するものは、自然数学からしか得られないだろう。
本書は、三位一体の秘儀をこの種のものだと述べているあたりに、宗教的思考の入り込む隙を与えているように映る。神は欺瞞者ではなく誠実な存在者であるというが、誠実という人間の価値観で測れるものなのか?科学がいくら自然現象を解明しようとも、結果論を説明したに過ぎず、すべては神の思し召しなのかもしれないが。...結局、知的生命体には、永遠に知性の探求を課せられたということであろうか...
4. 物理的存在と空間認識
「物体の本性は、重さ、堅さ、色等のうちにではなく、ただ延長のうちに成り立つ。」
物体認識では、重さや堅さといった属性によって刺激を受けるのではなく、長さや幅や深さの拡がりによって刺激されるという。本書は、物体を認識する本質的感覚を「物体を構成する延長」という言葉で表現している。延長とは、空間的延長であって、離れたところから観察して得られる感覚的認識といったところであろうか?確かに、物体に直接触れなくても、その質感や運動を眺めることによって存在が認識できる。そして、空間の中における相対的な位置関係を認識している。人間が認識できるのは相対的運動であって、絶対的運動なるものを計測することはできない。絶対的静止というものの正体すら知らないのだから。
あらゆる物体認識には、空間認識が前提にある。空間とは、自己を中心とした空間である。その空間も、仮想空間といった想像を働かすことができるので、すべての空間が空虚という可能性もないとは言えない。精神とは、空間的な存在であって、そこに実存するかもしれないという錯覚から生じるのかもしれない。
では、精神の内に空間的イメージが無くなれば、はたして精神の居場所を認識することができるのだろうか?空虚と無を感じることができる人は、精神病をも恐れない勇気の持ち主なのかもしれない。精神病とは、時間の連続性が失われた現象だという話を聞いたことがあるが、空間感覚も空虚や無を直接感じることができるのかもしれない。ただ、絶対的な認識は、空虚や無を感じられなければ獲得できないような気がする。精神病とは、精神の進化する過程なのか?
5. 運動量保存の法則
「神は運動の第一原因であり、そして宇宙のうちに常に同じ運動の量を維持する。」
本書は、どんな複雑な運動もすべて神の前の完全性で説明できると主張し、運動法則を神の不変性にまで崇めている。運動とは、時間の関与があって成立する概念であろう。一般的には、運動はある物体がある場所から他の場所へ移動する働きであると定義される。運動が始まるには作用が必要である。その作用の根源とは何か?物体を押せば動く。その押す力は外部要因である。その外部要因を与える力もまた、どこかの別の外部要因である。そして、そのまた外部要因も...などと考えを巡らすと眠れなくなる。
物体への働きかけ、つまりは抵抗力の根源とは何か?静止している物体が静止を維持しようとして、抵抗力が発生するのは容易に想像できる。では、運動している物体の抵抗力の根源とは何か?そもそも、静止を基準に考えるからおかしなことになるのかもしれない。あるいは、静止状態も運動状態の一種と考えるべきなのかも、いや、静止している物体なんて存在しないのかも。などと考えれば、運動の不変性は神の仕業としか説明ができないのかもしれない。
ところで、すべての物体の運動エネルギーの総和は、宇宙創生時の総エネルギーで説明できるのだろうか?物体の運動は、単純な慣性力の重なり合いとして、ある程度は説明できるだろう。となれば、人間社会における複雑な運動を、基本運動の重なりとして完全に説明できると考えるのも不思議ではない。ただ、人間社会における運動は、しばしば政治や経済の暴走という形で現れるから厄介である。人間社会では、相対的な静止ですら維持しようとする努力は半端ではない。振動は永遠だが、静止は永遠ではないのか?静止は特異点なのか?だとすると、安定した社会を構築するためには、心地よい振動が必要ということになる。なるほど、酔っ払った時の体の揺れには心地よいものがある。自己中心説を唱えるならば、すべての物体が静止しているつもりだ!などと皆が主張して騒がしいことになりそうだ。それで酔っ払いほど、自分は酔っていないと言い張るわけか。
「私は自然学においては、幾何学もしくは抽象数学におけるとは違った原理を、容認もしないし、望ましいとも思わない。なぜならば、かようにしてすべての自然現象は説明されるし、それについて確かな論証を与えることができるから。」
当初、デカルトの体系構想は、次のようなものだったという。
- 第一部、人間認識の諸原理について
- 第二部、物質的事物の諸原理について
- 第三部、可視的世界について
- 第四部、地球について
- 第五部、動物および植物の本性について
- 第六部、人間の本性について
第一部では、形而上学的思想が語られ、これは伝統的な哲学に属する部分である。その思想は、デカルトの著書「省察」とほぼ同じ内容だそうな。思考プロセスを辿りたければ「省察」の方がお勧めらしいが、形の整ったものとなると本書の第一部になるらしい。
第二部では、物体の運動法則を中心に自然学が語られる。
また、序文には「エリザベート公女殿下にささぐ」と題して献辞が付せられる。デカルトが王女と文通をしていた証拠が残るのは、歴史的に貴重なものだそうな。
「まず最もふつうのことから始めて、哲学とは何であるかを説きたかったのです。」
哲学とは知恵の探求を意味し、それは処世の知恵ばかりではなく、日常生活や健康に対する思慮から技術革新に至るまで、人間の知りうるすべての知識を意味する。そして、あらゆる知恵の原因性を導き出すことが、最終的に善の正体を知ることとしている。また、知恵は段階的に得られるものであって、神的啓示のように一挙に信仰によって高められるものではないと指摘している。
そこには、キリスト教的で予定説的な影響を受けながら、客観的思考を加えながら、宇宙論的思想を構築していく様子がうかがえる。偉大な数学者が、若き日に数学だけが真理を与える信じながら、独自の神学を構築した例は珍しくない。デカルトにとって、哲学とは科学をも含めた総合的な学問だったのだろう。哲学は自然の一切を対象とし、人間精神もまた自然現象の一つである。哲学的宇宙論とは、神学と科学の融合と解することもできよう。あらゆる原因性を探求することこそ「哲学する」ということであろうか。したがって、哲学的思考のない学問なんてありえないように思える。ただし、不毛な議論となることを覚悟せねばなるまいが...
プラトンは、師ソクラテスに素直に従い、自分では何も見出すことができなかいことを認めた。そして、真理らしく見えるものを語り、若干の原理を想定するに留めた。一方、アリストテレスは、師プラトンとは違った原理にすがり、師匠ですら見えない真実を確実なものとして提示した。未だ哲学原理が真理を確実なものにできない以上、どちらにも欠点があるのは仕方がない。ただ、哲学論争は、熱を帯びるほど真理から遠ざかる傾向にある。よって、どんなに偉大な哲学者の主張であれ、盲目的に従うわけにはいかない。尊敬と崇拝の境界線も実に微妙で、人物や思想を絶対的に崇めた時、宗教的思考に陥る。完全に納得できる原理的体系を、精神のうちに構築することは不可能であろう。
したがって、信頼とは、完全に信仰して思考停止状態に陥ることではないのだろう。信頼とは、欠点を認めながら受け入れるということであろうか。こうしてみると信頼という言葉の意味でさえ、分かっていないことに気づかされる。自分の思想に疑いを持つことは勇気のいることであるが、それが知性の源泉であろうか。何事もちょっと疑うぐらいがちょうどいい。恋愛もちょっと嫉妬するぐらいでちょうどいい。
尚、下記はデカルトが意図したことかは知らん!泥酔者の思考が発散した結果なのだから...
1. 「エリザベート公女殿下にささぐ」
エリザベートとは、ファルツ選帝侯フリードリヒ5世の長女エリザベート・フォン・ベーメンのことのようだ。彼女は24歳の頃からデカルトの教えを受けたという。デカルトは、自らを「殿下の最も献身的な崇拝者」として書簡している。
知恵には、知性の認識と意志の傾動の二事が必要であると説く。ただ、誰にでも意志はあろうが、知性には個人差がある。知識を得たからといって、正しい知性へ導くとは限らない。誤謬に陥れば、むしろ有害となろう。本書は、ほとんどの人々が、形而上学に拘われば幾何学的なことを恐れ、逆に幾何学を研究すれば哲学を理解しないのが常であると指摘している。
「明敏な頭脳と、真理認識の最高の配慮とを、兼ね具えた者こそ、遥かに優秀な人々なのであります。」
2. 哲学原理
「神なるものがあること、それはこの世界に存ずる一切のものは創造者であり、あらゆる真理の源泉であるから、我々の知性が、その極めて明晰判明な認識を持つことについて下した判断において、間違いをするような性質には、決して造らなかったということです。」
すべての実体が、物体的で自然学的に運動しながら存在するということ、これが哲学原理の基本的な考えである。そして、あらゆる知的事実は、感覚的知覚に支えられるというわけか。しかし、神を見たり触れたりすることはできず、その実体は精神の内、つまりは認識の中にしかない。
哲学的思考を高めるためには、論理学の研究も怠ることはできない。だが、それはスコラ学のようなものではないという。スコラ学の論理は、既に知っていることを他人に理解させたり、知らないことですら言葉巧みに語る手段を教える論弁術に過ぎないと蔑む。精神の論理性は、しばしば慣習に左右される。純粋な客観性を求めるならば、その訓練は数学的思考を重ねることになろう。
「真理を探究するには、生涯に一度すべてのことについて、できるかぎり疑うべきである。」
日常では、ほとんどが感覚的判断に委ねられる。すべての物事をいちいち疑っていては判断が遅れて実践的ではない。そのために、多くの先入観に囚われることになる。
ところで、数学的証明を疑うことができるだろうか?今まで自明であった、あるいは自明であると信じてきた原理を、見直す必要があるのか?という疑問はある。だが、トポロジーはユークリッドの第五公準への疑いから始まったと言えよう。自由意志の源泉とは、まさしく疑問を持つという思考にあるのかもしれない。
3. 実存論
「我々は疑っているとき、自ら存在していることを疑うことはできない。」
思惟する精神が存在するからこそ、物体的存在を認識できるわけで、もはや精神の実存は自明というわけか。確かに、物事を認識できるからには、自己の存在を前提しないと説明できない。
しかし、だ!自らの存在を疑ってみることも肝要であろう。思惟する精神の存在を疑うように思惟するとは自己矛盾に陥りそうだが、その自己矛盾にこそ宇宙原理があるのではないだろうか。自己矛盾に陥りながら、美味い酒を飲んで心地よくなる。これこそ「哲学する」ことだと思っている。したがって、自己の存在に疑いを持つことに何の恐れがあろうか。
本書が言うように、精神の内に実存認識が根底にあるのは認めよう。そして、存在する空間をイメージしながら、時間という一方向性の中を精神がうごめいているような気がする。しかし、その存在認識ですら現実なにか夢想なのか、はっきりとせずさまようのが精神の得体の知れないところである。実存を過信し自己の存在感を強調するから、それが革新的精神の妨げであっても、既得権益に固執し権威を誇示するような振る舞いが生じる。神の存在を過信するから、宗教的信仰に欺かれる。
また、実存認識の前提として神の必然性が語られるわけだが、デカルトの言う神とは、けして人間の知りうるものではなく、人間の発明した宗教から導き出せるものではないということであろうか?つまり、宇宙は必然的に存在するわけで、人間の信仰などには一切かかわりのないもの。そのように勝手に解釈するならばなんとなく理解できる。神のような存在があると仮定して、それは矛盾の概念すら凌駕するような最高完全者、いや、完全性と不完全性でさえ抽象化してしまうような絶対的な寛容さがなければ、宇宙の創造主の存在は説明できないだろう。完全性や不完全性、あるいは矛盾や論理性などという概念は、人間が勝手に認識しているだけなのかもしれない。
となれば、神の存在に対して、人間の存在は受動的あるいは消極的に受け入れるしかできないはず。しかし、人間社会は、能動的あるいは積極的な活動に高い評価を与える。そして、政治屋や報道屋は余計な行動に明け暮れる。ただ、あらゆる事象に疑いを持つという行為も、精神の積極的活動である。
「神によって啓示されることは、たとい我々の理解を超えていても、すべて信ずるべきである。」
そりゃそうだろう。だが、神が啓示することって、どうやって認識できるんだ?例えば、「三角形の内角の和は二直角である」といった数学的公理のようなものか?だとすると、神の啓示するものは、自然数学からしか得られないだろう。
本書は、三位一体の秘儀をこの種のものだと述べているあたりに、宗教的思考の入り込む隙を与えているように映る。神は欺瞞者ではなく誠実な存在者であるというが、誠実という人間の価値観で測れるものなのか?科学がいくら自然現象を解明しようとも、結果論を説明したに過ぎず、すべては神の思し召しなのかもしれないが。...結局、知的生命体には、永遠に知性の探求を課せられたということであろうか...
4. 物理的存在と空間認識
「物体の本性は、重さ、堅さ、色等のうちにではなく、ただ延長のうちに成り立つ。」
物体認識では、重さや堅さといった属性によって刺激を受けるのではなく、長さや幅や深さの拡がりによって刺激されるという。本書は、物体を認識する本質的感覚を「物体を構成する延長」という言葉で表現している。延長とは、空間的延長であって、離れたところから観察して得られる感覚的認識といったところであろうか?確かに、物体に直接触れなくても、その質感や運動を眺めることによって存在が認識できる。そして、空間の中における相対的な位置関係を認識している。人間が認識できるのは相対的運動であって、絶対的運動なるものを計測することはできない。絶対的静止というものの正体すら知らないのだから。
あらゆる物体認識には、空間認識が前提にある。空間とは、自己を中心とした空間である。その空間も、仮想空間といった想像を働かすことができるので、すべての空間が空虚という可能性もないとは言えない。精神とは、空間的な存在であって、そこに実存するかもしれないという錯覚から生じるのかもしれない。
では、精神の内に空間的イメージが無くなれば、はたして精神の居場所を認識することができるのだろうか?空虚と無を感じることができる人は、精神病をも恐れない勇気の持ち主なのかもしれない。精神病とは、時間の連続性が失われた現象だという話を聞いたことがあるが、空間感覚も空虚や無を直接感じることができるのかもしれない。ただ、絶対的な認識は、空虚や無を感じられなければ獲得できないような気がする。精神病とは、精神の進化する過程なのか?
5. 運動量保存の法則
「神は運動の第一原因であり、そして宇宙のうちに常に同じ運動の量を維持する。」
本書は、どんな複雑な運動もすべて神の前の完全性で説明できると主張し、運動法則を神の不変性にまで崇めている。運動とは、時間の関与があって成立する概念であろう。一般的には、運動はある物体がある場所から他の場所へ移動する働きであると定義される。運動が始まるには作用が必要である。その作用の根源とは何か?物体を押せば動く。その押す力は外部要因である。その外部要因を与える力もまた、どこかの別の外部要因である。そして、そのまた外部要因も...などと考えを巡らすと眠れなくなる。
物体への働きかけ、つまりは抵抗力の根源とは何か?静止している物体が静止を維持しようとして、抵抗力が発生するのは容易に想像できる。では、運動している物体の抵抗力の根源とは何か?そもそも、静止を基準に考えるからおかしなことになるのかもしれない。あるいは、静止状態も運動状態の一種と考えるべきなのかも、いや、静止している物体なんて存在しないのかも。などと考えれば、運動の不変性は神の仕業としか説明ができないのかもしれない。
ところで、すべての物体の運動エネルギーの総和は、宇宙創生時の総エネルギーで説明できるのだろうか?物体の運動は、単純な慣性力の重なり合いとして、ある程度は説明できるだろう。となれば、人間社会における複雑な運動を、基本運動の重なりとして完全に説明できると考えるのも不思議ではない。ただ、人間社会における運動は、しばしば政治や経済の暴走という形で現れるから厄介である。人間社会では、相対的な静止ですら維持しようとする努力は半端ではない。振動は永遠だが、静止は永遠ではないのか?静止は特異点なのか?だとすると、安定した社会を構築するためには、心地よい振動が必要ということになる。なるほど、酔っ払った時の体の揺れには心地よいものがある。自己中心説を唱えるならば、すべての物体が静止しているつもりだ!などと皆が主張して騒がしいことになりそうだ。それで酔っ払いほど、自分は酔っていないと言い張るわけか。
2010-10-31
"ギリシア神話" アポロドーロス 著
実は、前記事までにホメロスやヘシオドスを読んできたのは、アポロドーロスを読むための布石であった。いきなり読んでも難しいと思ったから...案の定、複雑怪奇!学生時代から、生涯で一度は挑戦してみたいと思っていた領域である。
この書からは、神々と人間の祖先の系統、あるいはヘラス(ギリシア)各地の地名、河川、山、海の命名由来などを辿ることができる。だが、様々な諸説が絡み合うこともあって、その関連をまともに把握できる人はごく稀であろう。いかにもギリシア的で、論理的に説明しようとする努力は認めよう。だが、矛盾らしきものも目立ち、非常に読み辛い。それが逆に推理小説風でおもろい。こりゃ仕事にならん!読書の秋だねぇ~
訳者高津春繁氏によると、従来日本に紹介されるギリシア神話は、ヘレニズム時代の感傷主義の影響を受けた甘美の物語が多いという。特に、古代ローマ時代の詩人オウィディウスの愛の物語の影響が強いらしい。対して、本書の神話は、純粋に古代ギリシアの著述を典拠したギリシア神話の原典と言われる。また、ローマ神話の伝説を、故意的に無視しているという。例えば、アイネイアスの記述では、ローマ人があれほど苦心してトロイアの系譜に自己の祖先を結びつけたにもかかわらず、そのことに一切触れていない。アポロドーロスが、古代ローマ最盛期の人だとすれば、これは驚くべきことかもしれない。情熱的に語られる風潮を無視しながら、純粋に過去の伝説を典拠したという点では、文学的というよりも歴史学的に意義深いのであろう。矛盾する伝説をそのまま記述しているところも、異なる説が乱雑していたことを示している。アポロドーロスは歴史家なのか?権威や評判にあまり関心を持たなかったのかもしれない。
本物語は、まずカオスから生じる宇宙創生時代から始まり、ウーラノス(天空)、息子クロノス、孫ゼウスの三代に渡って王位が継承され、ついに、混沌とした世界から主神ゼウスの下で秩序ある世界が形成される。そして、神々はギリシア人の祖先たちをこしらえ、神々のひいきする人間たちの活躍を物語る。そこには、ペルセウスの怪物ゴルゴーン退治、ヘーラクレース伝説、アテーナイの伝説の王テーセウスなどの活躍があり、更にトロイア戦争を経て、智謀の勇士オデュセウス伝説までが綴られる。そして、物語全般において、雷オヤジのゼウスの気まぐれが重要な場面でかかわってくる。まさしく「俺が法律だ!」の世界だ。ゼウスは、神という特権的能力を発揮しながら、いかにも少女の喜びそうな馴れ親しい動物などに姿を変じ、気に入った女性に近づき交わりまくる。嫁さんに浮気がばれないように苦労しながら、お茶目な姿を曝け出すゼウス、節操のない全能者よ!おまけに、交わった女性とその子らは、ことごとくゼウスの妻ヘーラーの嫉妬の餌食となり禍いを背負う運命にある。なるほど、人間にとって神々は禍いの存在というわけか。現在でも、小悪魔という女神に化けた存在があるわけだが...どうやら秩序ある世界とは、ハーレムのことらしい。
さて、断片的ではあるが、ちょいと興味を惹いたところを記述してみよう。すべての系統を結び付け、その流れを矛盾なく記述するのは、アル中ハイマーの能力では不可能であるからして。
尚、宇宙創生時代は、ヘシオドスの「神統記」で語られる系譜と重なり、トロイア戦争以降は、ホメロスの「イリアス」や「オデュッセイア」とほとんど重複するので、軽く読み流した。多少、違う説も紹介されるのだが...
1. 宇宙創生時代とヘシオドスの「神統記」との違い
最初、ウーラノス(天空)が全世界を支配した。ウーラノスはガイア(大地)を娶り、ヘカトンケイル(百手巨人)たちと、キュクロープス(単眼の巨人)たちが生まれた。だが、ウーラノスは自分の子らを縛ってタルタロス(冥界)に幽閉した。ちなみに、「神統記」によると、この子供らは片っ端からガイアの腹中に閉じ込められたとされる。
ガイアは、ティーターン(タイタン)と呼ばれる息子たちとティーターニスと呼ばれる娘たちを生んだ。ここではティーターン族を男子6人と女子7人で分類され、女子にはディオーネーが加えられ、計13神となっている。また、アプロディーテーはディオーネーが生んだとしているが、「神統記」ではクロノスの男根から生まれたされる。
ガイアは、タルタロスに幽閉された子供たちを心配して、ティーターンたちに父ウーラノスを襲うように説き、ティーターンの末弟クロノスに金剛の斧を与え、生殖器を切り落とさせた。かくして、タルタロスに幽閉された子供らは解放され、クロノスが王位についた。しかし、クロノスは、再び兄弟たちをタルタロスに幽閉し、姉妹のレアーを妻とした。また、ガイアとウーラノスが、クロノスの子によって王位が奪われるであろうと予言したので、クロノスは生まれくる子供らを片っ端から呑みこんだ。これに怒ったレアーは、ゼウスを孕んだ時クレータへ赴き、ディクテーの洞窟でゼウスを生む。そして、ゼウスの身代わりに大石に産衣を着せて渡すと、クロノスはその石を呑み込んだ。
ゼウスが成年に達すると、オーケアノス(大洋)の娘メーティス(智)を協力者とした。メーティスはクロノスに薬を飲むように与えると、呑みこんだ子供らを吐き出した。ちなみに、「神統記」では、メーティスの協力は言及されていない。
助け出されたゼウスの兄弟たちは、クロノス率いるティーターンたちと戦争をする。戦争が10年になろうとする時、ガイアはタルタロスに幽閉された者たちを味方にすれば勝利するだろうと予言を与えた。そのとおりに味方にすると、キュクロープスはゼウスに雷光と雷電を与える。戦争に勝利すると、ゼウスはティーターンたちをタルタロスに幽閉した。そして、ヘカトンケイルを牢番とし、ゼウス自身に天空を、ポセイドーンに海洋を、プルートーンに冥府の支配権を割り当てた。
ガイアは、タルタロスに幽閉された我が子ティーターンたちのためにギガース(巨人)たちを生んだ。ギガース(Gigas)は、ジャイアント(giant)の語源でもあるようだ。ちなみに、「神統記」では、ギガースは切り取ったウラノスの男根の血から生まれたことになっている。また、ギガースとの戦い(ギガントマキア)は、「神統記」では言及されていない。
ギガースたちは神々によっては滅ぼせないが、人間が味方になれば退治できるという予言があった。ガイアは、人間の手によっても滅ぼせないような薬草を求めていた。だが、ゼウスは先を制してアテーナーを通じて人間の英雄ヘーラクレースを味方にして勝利した。
次に、ガイアはタンタルスと交わって半人半獣テューポーンを生んだ。これは、ガイアが生んだ最大の怪物で、百の竜の頭を持ち、頭はしばしば天の星を摩り、眼からは火を放つ。オリュンポスの神々は、テューポーンが天に向って突進してくるのを見ると、姿を動物に変えてエジプトへ逃げ延びた。ゼウスは雷光で応戦し、イタリアのシシリーに追い詰め、エトナ山に怪物を投げつけた。それ以来、エトナ山は火山になったという。
2. ギリシア人の祖先ヘレーンの誕生
「神統記」では、最初にゼウスの新政権に敵対したのは、イアペトス家であったとしている。本書にも、同じようにイアペトス家のプロメーテウス伝説と女の誕生が語られるのだが、ただ、最初の人間はプロメーテウスが水と土で創ったとしている。
プロメーテウスの弟エピメーテウスは、ゼウスが禍いのために人間世界に送り込んだ最初の女パンドーラーを娶り、娘ピュラーが生まれた。プロメーテウスの一子デウカリオーンは、ピュラーを娶った。ゼウスが「青銅時代」の人間を滅ぼそうとした時、デウカリオーンはプロメーテウスの助言で箱舟を建造し、妻ピュラーとともに乗り込んだ。ゼウスは大雨を降らしヘラスの大部分の地を洪水で覆い、高山に逃れた少数の者を除いて人間どもを滅ぼした。デウカリオーンは九日間箱舟で海上を漂いパルナーッソスに流れ着いた。雨がやむと、箱舟から降りてゼウスに犠牲を捧げた。ゼウスはヘルメースを遣わして、何でも望みのものを選ぶようにと言った。デウカリオーンは人間が生じることを選び、妻ピュラーはヘレーンを生んだ。ちなみに、ヘレーンの父はゼウスという説もあるらしい。
続いて、後にアッティカ王となったアムピクテュオーン、娘プロートゲネイアが生まれた。ヘレーンは山のニムフ(精霊)オルセーイスを妻として、ドーロス、クスートス、アイオロスが生まれた。ヘレーンは子供たちに自分の名前をとってヘレーン(ギリシア人)と名付け、その地を分配した。クスートスはペロポネーソスを得て、エレクテウスの娘クレウーサを妻として、二人の息子アカイオスとイオーンが生まれた。二人はそれぞれアカイア人とイオーニア人の祖とされる。ドーロスはペロポネーソス対岸の地を得て、住民をドーリス人と名付けた。アイオロスはテッサリアーを中心とする周辺の地を得て、住民にアイオリス人と名付けた。
3. イーナコスの後裔と牝牛にされたイーオー
オーケアノスとテーテュースの間にアルゴスにある河イーナコスに名を与えたイーナコスが生まれた。イーナコスは、オーケアノスの娘メアリーを娶り、息子ポローネウスとアイギアレウスが生まれた。アイギアレウスは子供がなくて死に、その地はアイギアレイアと呼ばれた。ポローネウスは、後にペロポネーソス全土を支配して、ニムフ(精霊)テーレディケーとの間にアーピスとニオベーを生んだ。アーピスは暴戻な僭主で陰謀によって殺害される。ニオベーは、ゼウスが人間の女と交わった最初の女で、ゼウスの息子アルゴスを生む。アルゴスは、ペロポネーソスの地を自分の名をとってアルゴスと呼んだ。
ややこしいが...この家系の何代か先に同名の怪物アルゴスが生まれ、全身に眼があり、力並びなく、アルカディアーを悩ましていた牡牛を退治して、その皮を身に纏っていたという。後者のアルゴスは、アルカディアー人に害を加えて家畜を奪うサテュロスを殺し、ガイアとタルタロスの娘で通行人を掠める怪物エキドナを退治した。
話を戻そう...アルゴスには一子イーアソスが生まれた。イーオーはイーアソスの娘だという。ただ、多くの詩人はイーナコスの娘だといい、ヘシオドスはペイレーンの娘としている。
イーオーは、ゼウスの妻ヘーラーの祭官の職にあったが、ゼウスに犯された。ちょうどヘーラーに発見された時、ゼウスは少女イーオーに触れて白い牝牛に変えてしまった。ヘーラーはゼウスから牝牛を乞いうけて、その番人にアルゴスを任じた。ゼウスはヘルメースに牝牛を盗むように命じるが、見つかってアルゴスを殺してしまった。これが、ヘルメースが「アルゴスの殺戮者」と呼ばれる所以だという。解放された牝牛イーオーは、まずイーオニア湾へ行き、トラーキア海峡を渡り、エジプトへ至り、そこで元の姿に戻ってナイル河辺でエパポスを生んだ。ヘーラーは追っ手を差し向けて、イーオーの子供をどこかにやってしまった。イーオーは子エパポスがビュブロス王のもとで保育されていることを知り、全シリアをさまよい歩く。そして、エパポスを探し出しエジプトに戻って、エジプト王テーレゴノスと結婚した。エパボスはエジプト王になったという。
4. ペルセウス伝説
アルゴス王アクリシオスは、娘から生まれる子供に殺されるであろうという神託を受けていた。彼は、それを恐れて娘ダナエーを青銅の室に閉じ込めた。しかし、ゼウスが黄金の雨に身を変じてダナエーの膝に流れ入って交わり、ペルセウスが生まれた。アクリシオスは、娘がゼウスに犯されたことを知ると、娘と子供を箱に入れて海に投じた。箱がセリーポスに漂着した時、ペルセウスはディクテュスに拾われて養育された。
ディクテュスの兄弟ポリュデクテースはセリーポス王で、ダナエーに恋をし、成人したペルセウスが邪魔になった。ポリュデクテースは、他国の王女と結婚のための祝宴を催すと称して人々を集めた。その席でペルセウスは、「祝いの贈り物としてゴルゴーンの首とて否とは言えない」と発言したので、ゴルゴーンの首を持ってくるように命じた。これはペルセウスを排除するための策謀である。ゴルゴーンとは、竜の鱗の頭を持ち、歯は猪のごとく大きく、手は青銅、翼は黄金という怪物の3姉妹で、ステノー、エウリュアレー、メドゥーサである。彼女らは見た者を石に変じる能力を持っている。メドゥーサだけが不死ではなかったので、ペルセウスはそこに狙いをつけて、アテーナーに導かれて首を切り落とした。首を切り取るや、有翼の馬ペーガソスとクリュサーオールが飛び出した。これはメドゥーサとポセイドーンの間の子だという。
ゴルゴーンの首を持ち帰る途中、ケーペウスが支配するエティオピアにさしかかると、王女アンドロメダが海の怪物の生贄として供えられているのを見つけた。ケーペウスの妻カッシエペイアが、海のニムフ(妖精)たちよりも美しいと誇ったから、海神ポセイドーンが憤慨して高潮と怪物を送り、娘を生贄にすれば救われるであろうと予言したのだった。ペルセウスはアンドロメダを見て恋をし、もし少女を救って妻にしてくれるならば、怪物を退治しようと約束した。ペルセウスは怪物を退治してアンドロメダを解放したが、彼女には婚約者がいた。ケーペウスの兄弟ピーネウスである。ピーネウスは陰謀を企てるが、ペルセウスはそれを察知して共謀者たちにゴルゴーンの首を見せて石に変えた。
そして、セリーポスへ帰還すると、ポリュデクテースの暴行でディクテュスと母ダナエーが祭壇に繋がれていた。ここでもゴルゴーンの首を見せて、ポリュデクテースとその共謀者たちを石に変えた。
次に、母ダナエーと妻アンドロメダをともなってアルゴスへ行く。それを知ったアクリシオスは、神託を恐れてアルゴスを去りラーリッサへ逃げた。ラーリッサでは、王が亡くなって、その供養のために運動競技が催されていた。ペルセウスは競技に参加するために、この地へやってくる。そして、円盤投げに参加して、偶然にもアクリシオスに当てて殺してしまった。かくして、アクリシオスは娘から生まれた息子に殺され、神託は成就したのだった。ペルセウスは、自分の手にかけて殺した者を継ぐことはできないと、アルゴスを去った。
5. ヘーラクレースの誕生
ペルセウスの子エーレクトリュオーンがミュケーナイ王になると、同じくペルセウスの子孫であるタポス島の王プテレラーオスの子供たちがやって来た。彼らは祖父メーストールの領地を要求したが、拒否されて戦になった。エーレクトリュオーンは息子たちの復讐を誓って、王国と娘アルクメーネーをアムピトリュオーンに委ね、自分が戻るまで娘の処女を守ることを誓わした。
ところが、帰還したエーレクトリュオーンにアムピトリュオーンが牛を引き渡そうとした時、1頭の牛が飛び出し、アムピトリュオーンが止めようとして棒を投げたところ、棒は牛の角に跳ね返りエーレクトリュオーンに当たって殺してしまった。この不幸な出来事によってアムピトリュオーンは追放され、アルクメーネーとともにテーバイに亡命した。
アルクメーネーは、兄弟の仇討ちをアムピトリュオーンとの結婚の条件にした。そして、アムピトリュオーンは、テーバイ王クレオーンにタポス攻撃の協力を求める。クレオーンはテーバイを苦しめている牝狐を退治することを協力の条件とした。この牝狐はテーバイ人の誰にも捕まらないと運命づけられ、毎月市民の子供一人を生贄に供えていた。そこで、アムピトリュオーンは、アテーナイのケパロスに助けを求めた。ケパロスの持つ犬は、追いかけたものは何でも捕らえる定めになっているから。アムピトリュオーンは、タポスとの戦争で得られるはずの分け前を与える条件で、その犬を連れてきた。しかし、ケパロスの犬が牝狐を追い始めると、牝狐が捕まることも、犬が獲物を取り逃すことも運命に反するので、ゼウスは両者を石に変えてしまった。結果的に牝狐が石になったのでOK。かくして、アムピトリュオーンはタポスへ攻め入り勝利する。
アムピトリュオーンがテーバイへ帰還する前夜、ゼウスがアムピトリュオーンに身を変じてアルクメーネーに近づいた。アムピトリュオーンが帰国すると、アルクメーネーが愛情を示さないので原因を尋ねると、昨晩一緒に愛し合ったなどと訳のわからないことを言う。アムピトリュオーンは、預言者テイレシアースからゼウスと一緒に交わったことを聞いた。アルクメーネーは二人の子を生む。ゼウスの子ヘーラクレースと、アムピトリュオーンの子イーピクレースの双子である。嫉妬したヘーラーは子供らを殺そうと、2匹の蛇を寝床に送った。アルクメーネーが大声で助けを求めると、ヘーラクレースが蛇を退治した。この逸話では、アムピトリュオーンがどちらが自分の子かを知りたくて蛇を投げ入れ、ヘーラクレースは蛇に立ち向かい、イーピクレースは逃げたので、イーピクレースが自分の子だと知ったという説もあるという。
6. ヘーラクレースの十二の功業
ヘーラクレースは18歳でキタイローン山の獅子を退治し、その皮を身に纏い、その開いた口を冑とした。ヘーラクレースは義父アムピトリュオーンが属するテーバイを助けてオルコメノスの軍と戦いこれを倒した。王クレオーンは、褒美として長女メガラーを妻として与え、3人の子供が生まれた。しかし、ヘーラーがヘーラクレースを狂わせ、我が子とイーピクレースの子を炎に投げ込んで殺してしまった。ヘーラクレースは、自らを罰して追放の判決を下し、デルポイに赴き、どこに居住すべきかを神に問うた。その時、巫女たちは初めてヘーラクレースと呼んだ。というのも、それまでアルケイデースと呼ばれていたからである。神託は、「ミュケーナイ王エウリュステウスに仕え、10の仕事を果たせ!」というものだった。そして、あの有名な「十二の功業」が語られる。
7. ヘーラクレースの死
ヘーラクレースはカリュドーン王オイネウスの娘デーイアネイラに求婚し、彼女を争って牡牛の姿をしたアケローオスと格闘した。そして、勝利しデーイアネイラと結婚する。だが、ヘーラクレースは、またもや誤ってオイネウスの近親の子を殺してしまった。オイネウスは、事故であって故意ではないと許したが、ヘーラクレースは法に従い追放されることを望んだ。そして、妻デーイアネイラと国を去った。
亡命先のトラーキアへ向う途中、河を渡ろうとすると、ケンタウロスのネッソスが座っていた。ヘーラクレースは、妻の河を渡る手助けを頼んだ。ネッソスは、渡っている間に彼女を犯そうとした。彼女の叫びを聞いて、ヘラークレースはネッソスの心臓を射抜いた。ネッソスは死に際に、自分の精液と血を混ぜるとヘーラクレースの媚薬になると言うと、彼女はその通りにして蔵した。
ヘーラクレースは国々を征服しながら進み、オイカリアを征服した時、王女イオレーを捕虜とした。デーイアネイラは、夫の愛情がイオレーに移ることを心配して、ネッソスの血を媚薬だと信じて、ヘーラクレースの下着に塗った。するとヒュドラー(水蛇)の毒が皮膚を腐蝕し始めた。ヒュドラーはかつてヘーラクレースが退治した大蛇である。ヘーラクレースは、下着を引き剥がすと、肉も一緒に引き剥がれるという悲惨な姿のまま船で運ばれた。これを知ったデーイアネイラは自殺した。
ヘーラクレースは、火葬壇を築き自分を燃やすように命じ、火葬壇が燃えている間に、雷鳴とともに天へ上ったという。そして、天でヘーラーと仲直りし、その娘ヘーベーを娶った。かくして、ヘーラクレースはオリュンポスの神々の一員となったとさ。
8. テーバイ建国とスパルトイ
ポセイドーンとリビュエーの間に、ベーロスとアゲーノールが生まれた。ベーロスはエジプトを支配し、アゲーノールはフェニキアを支配した。アゲーノールはテーレパッサを妻として、娘エウローペーと息子カドモス、ポイニクス、キリクスが生まれた。ゼウスは、エウローペーに恋をし、馴れ親しい牡牛に身を変じ、そのまま彼女を乗せてクレータに連れ去った。そして、ゼウスとエウローペーの間に、ミーノース(後のクレータ王)、サルペードーン、ラダマンテュスが生まれた。
娘エウローペーが失踪すると、アゲーノールは、娘が見つかるまで帰国を許さないと、息子たちに探索を命じた。ゼウスの仕業なので見つかるはずもなく、息子たちは帰国を断念し、おのおの異なる地に居を定めた。カドモスはトラーキアに、ポイニクスはフェニキアに、キリクスはフェニキア近傍に。
カドモスは、エウローペーに関する情報を得ようとデルポイに赴いた。だが、神は「エウローペーについて悩むのはやめて、牡牛が疲れて倒れた地に都市を建設せよ!」という神託を授けた。
カドモスが牡牛に出合ってその後をつけると、ある場所で横たわった。その地がテーバイである。
カドモスは、牡牛をアテーナーに捧げんと、従者を軍神アレースの泉に水を汲みに行かせた。だが、その泉は竜が護っていて従者の大半を殺した。カドモスは怒って竜を退治すると、アテーナーの勧めに従って歯を播いた。すると播かれた歯から男たちが現れた。彼らは「スパルトイ(播かれた男)」と呼ばれる。彼らは、ふとしたことから互いに殺し合い5人が生き残った。カドモスは、殺した者たちの償いで、アレースに「無限の一年」を仕えた。この1年は8年に相当したという。解説によると、8年を一周期とする古い暦法があって、殺人罪を償うための期間とされたという。この奉仕の後、アテーナーはカドモスに王国を与え、ゼウスはアプロディーテーとアレースとの間の娘ハルモニアーを妻に与えた。しかし、カドモスの子供らはヘーラーに狂わされ悲劇に見舞われることになる。
9. オイディプースとテーバイ国
テーバイ王が何代か続いてラーイオスが継ぐ。彼はイオカステーを妻とすると、「男子を儲けべからず」という神託を受けていた。生まれくる子が父親を殺すであろうから。だが、酒に酔って妻と交わり妊娠させてしまう。ラーイオスは、生まれた子の踵にブローチを刺して歩けなくして、キタイローン山に捨てさせた。しかし、コリントス王ポリュボスの牛飼が赤児を見つけてコリントスへ連れ帰り、王妃ペリボイアが養子として育てた。これが、オイディプースでその名は「足が腫れる」という意味があるという。
オイディプースは、同輩の者よりも優れた成人になると、それを妬んで偽りの子と罵られた。誰も自分の本当の両親のことは教えてくれない。そこで、デルポイへ赴いて両親のことを尋ねた。そして、「自分の故郷へ赴くなかれ、父を殺して母と交わるであろうから」という神託を受けた。オイディプースは、両親はコリントス王夫妻であると信じて、コリントスを去った。そして、戦車に乗ってコリントスから離れる途中、戦車に乗ったラーイオスに出会う。ラーイオスの伝令が道を開けよ!と命じたが、オイディプースは従わず、格闘となってラーイオスを殺した。
オイディプースがテーバイへ着くと、クレオーンが継いでいた。テーバイは、テューポーンの子スピンクスという怪物に襲われていた。怪物は女面に獅子の体を持ち、鳥の羽を持っていた。スピンクスは「四足、三足、二足になるものは何か?」という謎かけをした。テーバイ人は、謎かけが解ければスピンクスの難から逃れられるであろうという神託を受けた。多くの者が謎が解けず喰われてしまう。ついにクレオーンの子が犠牲になった時、謎解きをした者にラーイオスの妻イオカステーを与えると布告した。オイディプースは、それは人間であると答えた。「赤児の時は四足で這い、成人して二足、老年になっては杖を使って三足となるから」
謎が解かれると、スピンクスは山から身を投じて王国に平和が戻った。オイディプースはテーバイ国を継ぎ、イオカステーを実母と知らずに妻とし、エテオクレース、ポリュネイケース、アンティゴネーが生まれた。しかし、妻が実母であるという真実を知ると、それが許せないのか?母を縛り、わが身を目盲にして、自分をテーバイから追放した。オイディプースは、娘アンティゴネーとともに、アッティカのコローノスに来て哀訴者として坐した。そして、アテーナイ王テーセウスに受け入れられて、間もなく死んだという。このあたりは「ラーイオスを殺した者をテーバイから追放しろ!」という神託を受けたという説もあるらしい。
その後のテーバイは、オイディプースの子エテオクレースとポリュネイケースが、互いに一年ごとに国を治める協定を結んだ。だが、エテオクレースが王位を独占したため、ポリュネイケースはアルゴス王女を娶り、七将とともにテーバイを攻めた。両軍は決議によって、エテオクレースとポリュネイケースの一騎討で決することにした。だが、相討ちとなって両者は死に再び戦闘となり、テーバイが勝利する。クレオーンはテーバイ王権を継承し、アルゴス人の死骸の埋葬を禁じて棄却させた。しかし、アンティゴネーは、密かに禁を破って、ポリュネイケースの死体を盗んで埋葬した。これがクレオーンに見つかって、彼女は生き埋めにされた。10年後、アルゴスの七将の子供らが、父の復讐としてテーバイに遠征し、テーバイは陥落した。
10. アッテイカとアテーナー
アッティカの初代王ケクロプスは、ガイアの子で人間と大蛇を混合した体を持っている。この時代、オリュンポスの神々は、おのおの自己の特有の崇拝をうけるべき都市を獲得しようと競っていた。
まず、ポセイドーンがアッティカに来て、三叉の戟をもってアクロポリスの中央を打ち、エレクテーイスの泉を湧き出させた。この泉は、アクロポリス山上のエレクテイオン神殿中にある井戸のことらしい。
その後、アテーナーが来て、パンドロセイオンにオリーブの木を植えた。パンドロセイオンは、アクロポリス山上のエレクテイオン神殿の西方にあるらしい。
そして、ポセイドーンとアテーナーの間でアッティカの争奪が生じた。ゼウスはどちらの神の都市とするかを、オリュンポスの十二神を審判役とした。そして、ケクロプスはアテーナーが最初にオリーブの木を植えたと証言したために、アッティカの地はアテーナーのものとなった。この都市は、アテーナーの名をとってアテーナイとなる。これに怒ったポセイドーンは、アッティカを海中に浸した。
11. アテーナイの伝説の王テーセウス
アテーナイ王アイゲウスは子がなく悩んでいた。そこで、デルポイへ赴き、「酒袋の突き出た口を解くなかれ、アテーナイの頂きに着くまでは」という信託を受けた。だが、彼には神託の意味が分からない。アイゲウスはアテーナイへの帰途につきトロイゼーンを通った時、その王ピッテウスの客となる。ピッテウスには神託の意味が分かり、娘アイトラーを近づけ妊娠させた。
アイゲウスは、アイトラーに男子を産んだならば、誰の子と言わずに育てるように命じた。そして、岩の下に刀とサンダルを隠し、この岩を押しのけて、これらの物を取ることができたら、父の名を明かしアテーナイへ送りだすようにと言った。この男子がテーセウスである。成長したテーセウスは、岩を押しのけて刀とサンダルを取り、アテーナイへ急いだ。途中、悪人たちが蔓延る道を掃討した。テーセウスの「六つの武勇伝」である。
怪物ミーノータウロスへの貢物が送られる時期になると、テーセウスは三番目の貢物に加えられた。怪物退治に自ら志願したという説もあるという。貢物のいきさつは、ミーノース王子アンドロゲオースがパンアテーナイア祭の競技に招かれた時、アイゲウスの命でマラトーンの牡牛退治にやったところ、牡牛に殺されたという事件があったという。ただ、すべての競技に勝ったアンドロゲオースを、競技相手が嫉妬して殺したという説もあるらしい。いずれにせよ、ミーノース王子がアテーナイで亡くなり、怒ったミーノース王は講和の条件として、怪物ミーノータウロスの貢物として、7人の少年と7人の少女を要求した。当時、勢力を誇っていたミーノース国にアテーナイは屈服していたのだった。
テーセウスがミーノースに着くと、ミーノース王女アリアドネーが恋心を抱く。そして、妻にしてくれるなら、援助しようと申し出る。テーセウスは、ダイダロスの迷宮(ラビュリントス)の出口に導くように頼んだ。アリアドネーは糸玉を渡し、テーセウスはその糸を扉に結び付け、その糸を辿って案内させた。ミーノータウロスと出会うと勇敢に拳を打って殺し、迷宮の出口まで糸をたどって脱出した。
テーセウス一行とアリアドネーは船でナクソス島に着いた。この島で、ディオーニューソスがアリアドネーを奪い、レームノスへ連れて行ってしまった。
あらかじめ、父アイゲウスは、船は黒い帆を持っていたので、もし生きて帰れば、船に白い帆を張るように命じていた。テーセウスは、アリアドネーが奪われた悲しみで、白い帆を張るのを忘れていた。船が近づくと黒い帆のままなので、テーセウスは死んだものと思ったアイゲウスは絶望して自ら海に身を投げた。その海が、「アイゲウスの海」という意味でエーゲ海と呼ばれるという。
テーセウスは、アテーナイ国を継承した。そして、ペイリトゥースと協力して、ゼウスの娘を後妻にすることにした。テーセウスにはスパルタ王女ヘレネーを、ペイリトゥースには冥界の王妃ペルセポネを妻にと。すると、ラケダイモーン(スパルタ)人とアルカディアー人が攻めてきて、アテーナイを攻略した。テーセウスは、スキューロス島のリュコメーデース王のところに身を寄せたが、深い穴に投げ落とされ死んだ。
12. ペロプスとペロポネーソス半島
ピーサの王オイノマオスには、娘ヒッポダメイアがいた。オイノマオスは、娘を溺愛していたせいか、彼女と結婚した男の手にかかって死ぬという神託を受けていたせいか、求婚者たちをことごとく殺していた。というのも、求婚者にコリントス地峡まで競争して逃げおおせた者に、娘を妻にさしだすという条件を出していたのだが、オイノマオスは軍神アレースからもらった武具と馬を持っていて、求婚者には到底勝ち目のない競争だったのである。
タンタロスの息子ペロプスもまた求婚に赴いていた。彼は、ポセイドーンから有翼の戦車を与えられて自信を持っていた。ヒッポダメイアはペロプスの美貌に恋心を抱き、御者ミュルティロスに援助を頼んだ。ミュルティロスはオイノマオスの戦車に細工をすると、オイノマオスは手綱に絡まって引きずられるようにして死んだ。ペロプスはヒッポダメイアを妻にするが、ミュルティロスが犯そうとする。それを知ったペロプスはミュルティロスを海に投じた。ミュルティロスは、投げられる時にペロプスの子孫に呪いをかけた。
やがて、ペロプスにはアトレウスなどの多くの子が生まれた。アトレウスは王位継承で骨肉の争いをし、アトレウスの子アガメムノーンとメネラーオスはトロイア戦争に明け暮れるといった具合に、その子孫たちは呪いによって、血なまぐさい運命を背負わされたのかもしれない。ちなみに、ペロポネーソス半島は「ペロプスの島」という意味があるらしい。
この書からは、神々と人間の祖先の系統、あるいはヘラス(ギリシア)各地の地名、河川、山、海の命名由来などを辿ることができる。だが、様々な諸説が絡み合うこともあって、その関連をまともに把握できる人はごく稀であろう。いかにもギリシア的で、論理的に説明しようとする努力は認めよう。だが、矛盾らしきものも目立ち、非常に読み辛い。それが逆に推理小説風でおもろい。こりゃ仕事にならん!読書の秋だねぇ~
訳者高津春繁氏によると、従来日本に紹介されるギリシア神話は、ヘレニズム時代の感傷主義の影響を受けた甘美の物語が多いという。特に、古代ローマ時代の詩人オウィディウスの愛の物語の影響が強いらしい。対して、本書の神話は、純粋に古代ギリシアの著述を典拠したギリシア神話の原典と言われる。また、ローマ神話の伝説を、故意的に無視しているという。例えば、アイネイアスの記述では、ローマ人があれほど苦心してトロイアの系譜に自己の祖先を結びつけたにもかかわらず、そのことに一切触れていない。アポロドーロスが、古代ローマ最盛期の人だとすれば、これは驚くべきことかもしれない。情熱的に語られる風潮を無視しながら、純粋に過去の伝説を典拠したという点では、文学的というよりも歴史学的に意義深いのであろう。矛盾する伝説をそのまま記述しているところも、異なる説が乱雑していたことを示している。アポロドーロスは歴史家なのか?権威や評判にあまり関心を持たなかったのかもしれない。
本物語は、まずカオスから生じる宇宙創生時代から始まり、ウーラノス(天空)、息子クロノス、孫ゼウスの三代に渡って王位が継承され、ついに、混沌とした世界から主神ゼウスの下で秩序ある世界が形成される。そして、神々はギリシア人の祖先たちをこしらえ、神々のひいきする人間たちの活躍を物語る。そこには、ペルセウスの怪物ゴルゴーン退治、ヘーラクレース伝説、アテーナイの伝説の王テーセウスなどの活躍があり、更にトロイア戦争を経て、智謀の勇士オデュセウス伝説までが綴られる。そして、物語全般において、雷オヤジのゼウスの気まぐれが重要な場面でかかわってくる。まさしく「俺が法律だ!」の世界だ。ゼウスは、神という特権的能力を発揮しながら、いかにも少女の喜びそうな馴れ親しい動物などに姿を変じ、気に入った女性に近づき交わりまくる。嫁さんに浮気がばれないように苦労しながら、お茶目な姿を曝け出すゼウス、節操のない全能者よ!おまけに、交わった女性とその子らは、ことごとくゼウスの妻ヘーラーの嫉妬の餌食となり禍いを背負う運命にある。なるほど、人間にとって神々は禍いの存在というわけか。現在でも、小悪魔という女神に化けた存在があるわけだが...どうやら秩序ある世界とは、ハーレムのことらしい。
さて、断片的ではあるが、ちょいと興味を惹いたところを記述してみよう。すべての系統を結び付け、その流れを矛盾なく記述するのは、アル中ハイマーの能力では不可能であるからして。
尚、宇宙創生時代は、ヘシオドスの「神統記」で語られる系譜と重なり、トロイア戦争以降は、ホメロスの「イリアス」や「オデュッセイア」とほとんど重複するので、軽く読み流した。多少、違う説も紹介されるのだが...
1. 宇宙創生時代とヘシオドスの「神統記」との違い
最初、ウーラノス(天空)が全世界を支配した。ウーラノスはガイア(大地)を娶り、ヘカトンケイル(百手巨人)たちと、キュクロープス(単眼の巨人)たちが生まれた。だが、ウーラノスは自分の子らを縛ってタルタロス(冥界)に幽閉した。ちなみに、「神統記」によると、この子供らは片っ端からガイアの腹中に閉じ込められたとされる。
ガイアは、ティーターン(タイタン)と呼ばれる息子たちとティーターニスと呼ばれる娘たちを生んだ。ここではティーターン族を男子6人と女子7人で分類され、女子にはディオーネーが加えられ、計13神となっている。また、アプロディーテーはディオーネーが生んだとしているが、「神統記」ではクロノスの男根から生まれたされる。
ガイアは、タルタロスに幽閉された子供たちを心配して、ティーターンたちに父ウーラノスを襲うように説き、ティーターンの末弟クロノスに金剛の斧を与え、生殖器を切り落とさせた。かくして、タルタロスに幽閉された子供らは解放され、クロノスが王位についた。しかし、クロノスは、再び兄弟たちをタルタロスに幽閉し、姉妹のレアーを妻とした。また、ガイアとウーラノスが、クロノスの子によって王位が奪われるであろうと予言したので、クロノスは生まれくる子供らを片っ端から呑みこんだ。これに怒ったレアーは、ゼウスを孕んだ時クレータへ赴き、ディクテーの洞窟でゼウスを生む。そして、ゼウスの身代わりに大石に産衣を着せて渡すと、クロノスはその石を呑み込んだ。
ゼウスが成年に達すると、オーケアノス(大洋)の娘メーティス(智)を協力者とした。メーティスはクロノスに薬を飲むように与えると、呑みこんだ子供らを吐き出した。ちなみに、「神統記」では、メーティスの協力は言及されていない。
助け出されたゼウスの兄弟たちは、クロノス率いるティーターンたちと戦争をする。戦争が10年になろうとする時、ガイアはタルタロスに幽閉された者たちを味方にすれば勝利するだろうと予言を与えた。そのとおりに味方にすると、キュクロープスはゼウスに雷光と雷電を与える。戦争に勝利すると、ゼウスはティーターンたちをタルタロスに幽閉した。そして、ヘカトンケイルを牢番とし、ゼウス自身に天空を、ポセイドーンに海洋を、プルートーンに冥府の支配権を割り当てた。
ガイアは、タルタロスに幽閉された我が子ティーターンたちのためにギガース(巨人)たちを生んだ。ギガース(Gigas)は、ジャイアント(giant)の語源でもあるようだ。ちなみに、「神統記」では、ギガースは切り取ったウラノスの男根の血から生まれたことになっている。また、ギガースとの戦い(ギガントマキア)は、「神統記」では言及されていない。
ギガースたちは神々によっては滅ぼせないが、人間が味方になれば退治できるという予言があった。ガイアは、人間の手によっても滅ぼせないような薬草を求めていた。だが、ゼウスは先を制してアテーナーを通じて人間の英雄ヘーラクレースを味方にして勝利した。
次に、ガイアはタンタルスと交わって半人半獣テューポーンを生んだ。これは、ガイアが生んだ最大の怪物で、百の竜の頭を持ち、頭はしばしば天の星を摩り、眼からは火を放つ。オリュンポスの神々は、テューポーンが天に向って突進してくるのを見ると、姿を動物に変えてエジプトへ逃げ延びた。ゼウスは雷光で応戦し、イタリアのシシリーに追い詰め、エトナ山に怪物を投げつけた。それ以来、エトナ山は火山になったという。
2. ギリシア人の祖先ヘレーンの誕生
「神統記」では、最初にゼウスの新政権に敵対したのは、イアペトス家であったとしている。本書にも、同じようにイアペトス家のプロメーテウス伝説と女の誕生が語られるのだが、ただ、最初の人間はプロメーテウスが水と土で創ったとしている。
プロメーテウスの弟エピメーテウスは、ゼウスが禍いのために人間世界に送り込んだ最初の女パンドーラーを娶り、娘ピュラーが生まれた。プロメーテウスの一子デウカリオーンは、ピュラーを娶った。ゼウスが「青銅時代」の人間を滅ぼそうとした時、デウカリオーンはプロメーテウスの助言で箱舟を建造し、妻ピュラーとともに乗り込んだ。ゼウスは大雨を降らしヘラスの大部分の地を洪水で覆い、高山に逃れた少数の者を除いて人間どもを滅ぼした。デウカリオーンは九日間箱舟で海上を漂いパルナーッソスに流れ着いた。雨がやむと、箱舟から降りてゼウスに犠牲を捧げた。ゼウスはヘルメースを遣わして、何でも望みのものを選ぶようにと言った。デウカリオーンは人間が生じることを選び、妻ピュラーはヘレーンを生んだ。ちなみに、ヘレーンの父はゼウスという説もあるらしい。
続いて、後にアッティカ王となったアムピクテュオーン、娘プロートゲネイアが生まれた。ヘレーンは山のニムフ(精霊)オルセーイスを妻として、ドーロス、クスートス、アイオロスが生まれた。ヘレーンは子供たちに自分の名前をとってヘレーン(ギリシア人)と名付け、その地を分配した。クスートスはペロポネーソスを得て、エレクテウスの娘クレウーサを妻として、二人の息子アカイオスとイオーンが生まれた。二人はそれぞれアカイア人とイオーニア人の祖とされる。ドーロスはペロポネーソス対岸の地を得て、住民をドーリス人と名付けた。アイオロスはテッサリアーを中心とする周辺の地を得て、住民にアイオリス人と名付けた。
3. イーナコスの後裔と牝牛にされたイーオー
オーケアノスとテーテュースの間にアルゴスにある河イーナコスに名を与えたイーナコスが生まれた。イーナコスは、オーケアノスの娘メアリーを娶り、息子ポローネウスとアイギアレウスが生まれた。アイギアレウスは子供がなくて死に、その地はアイギアレイアと呼ばれた。ポローネウスは、後にペロポネーソス全土を支配して、ニムフ(精霊)テーレディケーとの間にアーピスとニオベーを生んだ。アーピスは暴戻な僭主で陰謀によって殺害される。ニオベーは、ゼウスが人間の女と交わった最初の女で、ゼウスの息子アルゴスを生む。アルゴスは、ペロポネーソスの地を自分の名をとってアルゴスと呼んだ。
ややこしいが...この家系の何代か先に同名の怪物アルゴスが生まれ、全身に眼があり、力並びなく、アルカディアーを悩ましていた牡牛を退治して、その皮を身に纏っていたという。後者のアルゴスは、アルカディアー人に害を加えて家畜を奪うサテュロスを殺し、ガイアとタルタロスの娘で通行人を掠める怪物エキドナを退治した。
話を戻そう...アルゴスには一子イーアソスが生まれた。イーオーはイーアソスの娘だという。ただ、多くの詩人はイーナコスの娘だといい、ヘシオドスはペイレーンの娘としている。
イーオーは、ゼウスの妻ヘーラーの祭官の職にあったが、ゼウスに犯された。ちょうどヘーラーに発見された時、ゼウスは少女イーオーに触れて白い牝牛に変えてしまった。ヘーラーはゼウスから牝牛を乞いうけて、その番人にアルゴスを任じた。ゼウスはヘルメースに牝牛を盗むように命じるが、見つかってアルゴスを殺してしまった。これが、ヘルメースが「アルゴスの殺戮者」と呼ばれる所以だという。解放された牝牛イーオーは、まずイーオニア湾へ行き、トラーキア海峡を渡り、エジプトへ至り、そこで元の姿に戻ってナイル河辺でエパポスを生んだ。ヘーラーは追っ手を差し向けて、イーオーの子供をどこかにやってしまった。イーオーは子エパポスがビュブロス王のもとで保育されていることを知り、全シリアをさまよい歩く。そして、エパポスを探し出しエジプトに戻って、エジプト王テーレゴノスと結婚した。エパボスはエジプト王になったという。
4. ペルセウス伝説
アルゴス王アクリシオスは、娘から生まれる子供に殺されるであろうという神託を受けていた。彼は、それを恐れて娘ダナエーを青銅の室に閉じ込めた。しかし、ゼウスが黄金の雨に身を変じてダナエーの膝に流れ入って交わり、ペルセウスが生まれた。アクリシオスは、娘がゼウスに犯されたことを知ると、娘と子供を箱に入れて海に投じた。箱がセリーポスに漂着した時、ペルセウスはディクテュスに拾われて養育された。
ディクテュスの兄弟ポリュデクテースはセリーポス王で、ダナエーに恋をし、成人したペルセウスが邪魔になった。ポリュデクテースは、他国の王女と結婚のための祝宴を催すと称して人々を集めた。その席でペルセウスは、「祝いの贈り物としてゴルゴーンの首とて否とは言えない」と発言したので、ゴルゴーンの首を持ってくるように命じた。これはペルセウスを排除するための策謀である。ゴルゴーンとは、竜の鱗の頭を持ち、歯は猪のごとく大きく、手は青銅、翼は黄金という怪物の3姉妹で、ステノー、エウリュアレー、メドゥーサである。彼女らは見た者を石に変じる能力を持っている。メドゥーサだけが不死ではなかったので、ペルセウスはそこに狙いをつけて、アテーナーに導かれて首を切り落とした。首を切り取るや、有翼の馬ペーガソスとクリュサーオールが飛び出した。これはメドゥーサとポセイドーンの間の子だという。
ゴルゴーンの首を持ち帰る途中、ケーペウスが支配するエティオピアにさしかかると、王女アンドロメダが海の怪物の生贄として供えられているのを見つけた。ケーペウスの妻カッシエペイアが、海のニムフ(妖精)たちよりも美しいと誇ったから、海神ポセイドーンが憤慨して高潮と怪物を送り、娘を生贄にすれば救われるであろうと予言したのだった。ペルセウスはアンドロメダを見て恋をし、もし少女を救って妻にしてくれるならば、怪物を退治しようと約束した。ペルセウスは怪物を退治してアンドロメダを解放したが、彼女には婚約者がいた。ケーペウスの兄弟ピーネウスである。ピーネウスは陰謀を企てるが、ペルセウスはそれを察知して共謀者たちにゴルゴーンの首を見せて石に変えた。
そして、セリーポスへ帰還すると、ポリュデクテースの暴行でディクテュスと母ダナエーが祭壇に繋がれていた。ここでもゴルゴーンの首を見せて、ポリュデクテースとその共謀者たちを石に変えた。
次に、母ダナエーと妻アンドロメダをともなってアルゴスへ行く。それを知ったアクリシオスは、神託を恐れてアルゴスを去りラーリッサへ逃げた。ラーリッサでは、王が亡くなって、その供養のために運動競技が催されていた。ペルセウスは競技に参加するために、この地へやってくる。そして、円盤投げに参加して、偶然にもアクリシオスに当てて殺してしまった。かくして、アクリシオスは娘から生まれた息子に殺され、神託は成就したのだった。ペルセウスは、自分の手にかけて殺した者を継ぐことはできないと、アルゴスを去った。
5. ヘーラクレースの誕生
ペルセウスの子エーレクトリュオーンがミュケーナイ王になると、同じくペルセウスの子孫であるタポス島の王プテレラーオスの子供たちがやって来た。彼らは祖父メーストールの領地を要求したが、拒否されて戦になった。エーレクトリュオーンは息子たちの復讐を誓って、王国と娘アルクメーネーをアムピトリュオーンに委ね、自分が戻るまで娘の処女を守ることを誓わした。
ところが、帰還したエーレクトリュオーンにアムピトリュオーンが牛を引き渡そうとした時、1頭の牛が飛び出し、アムピトリュオーンが止めようとして棒を投げたところ、棒は牛の角に跳ね返りエーレクトリュオーンに当たって殺してしまった。この不幸な出来事によってアムピトリュオーンは追放され、アルクメーネーとともにテーバイに亡命した。
アルクメーネーは、兄弟の仇討ちをアムピトリュオーンとの結婚の条件にした。そして、アムピトリュオーンは、テーバイ王クレオーンにタポス攻撃の協力を求める。クレオーンはテーバイを苦しめている牝狐を退治することを協力の条件とした。この牝狐はテーバイ人の誰にも捕まらないと運命づけられ、毎月市民の子供一人を生贄に供えていた。そこで、アムピトリュオーンは、アテーナイのケパロスに助けを求めた。ケパロスの持つ犬は、追いかけたものは何でも捕らえる定めになっているから。アムピトリュオーンは、タポスとの戦争で得られるはずの分け前を与える条件で、その犬を連れてきた。しかし、ケパロスの犬が牝狐を追い始めると、牝狐が捕まることも、犬が獲物を取り逃すことも運命に反するので、ゼウスは両者を石に変えてしまった。結果的に牝狐が石になったのでOK。かくして、アムピトリュオーンはタポスへ攻め入り勝利する。
アムピトリュオーンがテーバイへ帰還する前夜、ゼウスがアムピトリュオーンに身を変じてアルクメーネーに近づいた。アムピトリュオーンが帰国すると、アルクメーネーが愛情を示さないので原因を尋ねると、昨晩一緒に愛し合ったなどと訳のわからないことを言う。アムピトリュオーンは、預言者テイレシアースからゼウスと一緒に交わったことを聞いた。アルクメーネーは二人の子を生む。ゼウスの子ヘーラクレースと、アムピトリュオーンの子イーピクレースの双子である。嫉妬したヘーラーは子供らを殺そうと、2匹の蛇を寝床に送った。アルクメーネーが大声で助けを求めると、ヘーラクレースが蛇を退治した。この逸話では、アムピトリュオーンがどちらが自分の子かを知りたくて蛇を投げ入れ、ヘーラクレースは蛇に立ち向かい、イーピクレースは逃げたので、イーピクレースが自分の子だと知ったという説もあるという。
6. ヘーラクレースの十二の功業
ヘーラクレースは18歳でキタイローン山の獅子を退治し、その皮を身に纏い、その開いた口を冑とした。ヘーラクレースは義父アムピトリュオーンが属するテーバイを助けてオルコメノスの軍と戦いこれを倒した。王クレオーンは、褒美として長女メガラーを妻として与え、3人の子供が生まれた。しかし、ヘーラーがヘーラクレースを狂わせ、我が子とイーピクレースの子を炎に投げ込んで殺してしまった。ヘーラクレースは、自らを罰して追放の判決を下し、デルポイに赴き、どこに居住すべきかを神に問うた。その時、巫女たちは初めてヘーラクレースと呼んだ。というのも、それまでアルケイデースと呼ばれていたからである。神託は、「ミュケーナイ王エウリュステウスに仕え、10の仕事を果たせ!」というものだった。そして、あの有名な「十二の功業」が語られる。
- ネメアーの獅子の皮を持ってくるように命じられた。
- レルネーのヒュドラー(水蛇)を殺すことを命じられたが、独力ではなかったのでカウントしてもらえなかった。
- ケリュネイアの鹿を生きたままミュケーナイへ持ってくることが命じられた。
- エリュマントスの猪を生きながら持ってくることが命じられた。
- アウゲイアースの家畜の糞を一日で運び出すことを命じたが、仕事の報酬をもらう約束をしたという理由でカウントしてもらえなかった。
- ステュムパーロスの鳥を追い払うことが命じられた。
- クレータの牡牛を連れてくるように命じられた。
- トラーキア王ディオメーデースの牡牛を持ち帰ることを命じられた。
- アマゾーン女王ヒッポリュテーの帯を持ってくるように命じられた。
- ゲーリュオネースの牛を持ってくることが命じられた。
- ヘスペリスたちの黄金の林檎を持ってくるように命じられた。
- 地獄の番犬ケルベロスを持ってくるように命じられた。
7. ヘーラクレースの死
ヘーラクレースはカリュドーン王オイネウスの娘デーイアネイラに求婚し、彼女を争って牡牛の姿をしたアケローオスと格闘した。そして、勝利しデーイアネイラと結婚する。だが、ヘーラクレースは、またもや誤ってオイネウスの近親の子を殺してしまった。オイネウスは、事故であって故意ではないと許したが、ヘーラクレースは法に従い追放されることを望んだ。そして、妻デーイアネイラと国を去った。
亡命先のトラーキアへ向う途中、河を渡ろうとすると、ケンタウロスのネッソスが座っていた。ヘーラクレースは、妻の河を渡る手助けを頼んだ。ネッソスは、渡っている間に彼女を犯そうとした。彼女の叫びを聞いて、ヘラークレースはネッソスの心臓を射抜いた。ネッソスは死に際に、自分の精液と血を混ぜるとヘーラクレースの媚薬になると言うと、彼女はその通りにして蔵した。
ヘーラクレースは国々を征服しながら進み、オイカリアを征服した時、王女イオレーを捕虜とした。デーイアネイラは、夫の愛情がイオレーに移ることを心配して、ネッソスの血を媚薬だと信じて、ヘーラクレースの下着に塗った。するとヒュドラー(水蛇)の毒が皮膚を腐蝕し始めた。ヒュドラーはかつてヘーラクレースが退治した大蛇である。ヘーラクレースは、下着を引き剥がすと、肉も一緒に引き剥がれるという悲惨な姿のまま船で運ばれた。これを知ったデーイアネイラは自殺した。
ヘーラクレースは、火葬壇を築き自分を燃やすように命じ、火葬壇が燃えている間に、雷鳴とともに天へ上ったという。そして、天でヘーラーと仲直りし、その娘ヘーベーを娶った。かくして、ヘーラクレースはオリュンポスの神々の一員となったとさ。
8. テーバイ建国とスパルトイ
ポセイドーンとリビュエーの間に、ベーロスとアゲーノールが生まれた。ベーロスはエジプトを支配し、アゲーノールはフェニキアを支配した。アゲーノールはテーレパッサを妻として、娘エウローペーと息子カドモス、ポイニクス、キリクスが生まれた。ゼウスは、エウローペーに恋をし、馴れ親しい牡牛に身を変じ、そのまま彼女を乗せてクレータに連れ去った。そして、ゼウスとエウローペーの間に、ミーノース(後のクレータ王)、サルペードーン、ラダマンテュスが生まれた。
娘エウローペーが失踪すると、アゲーノールは、娘が見つかるまで帰国を許さないと、息子たちに探索を命じた。ゼウスの仕業なので見つかるはずもなく、息子たちは帰国を断念し、おのおの異なる地に居を定めた。カドモスはトラーキアに、ポイニクスはフェニキアに、キリクスはフェニキア近傍に。
カドモスは、エウローペーに関する情報を得ようとデルポイに赴いた。だが、神は「エウローペーについて悩むのはやめて、牡牛が疲れて倒れた地に都市を建設せよ!」という神託を授けた。
カドモスが牡牛に出合ってその後をつけると、ある場所で横たわった。その地がテーバイである。
カドモスは、牡牛をアテーナーに捧げんと、従者を軍神アレースの泉に水を汲みに行かせた。だが、その泉は竜が護っていて従者の大半を殺した。カドモスは怒って竜を退治すると、アテーナーの勧めに従って歯を播いた。すると播かれた歯から男たちが現れた。彼らは「スパルトイ(播かれた男)」と呼ばれる。彼らは、ふとしたことから互いに殺し合い5人が生き残った。カドモスは、殺した者たちの償いで、アレースに「無限の一年」を仕えた。この1年は8年に相当したという。解説によると、8年を一周期とする古い暦法があって、殺人罪を償うための期間とされたという。この奉仕の後、アテーナーはカドモスに王国を与え、ゼウスはアプロディーテーとアレースとの間の娘ハルモニアーを妻に与えた。しかし、カドモスの子供らはヘーラーに狂わされ悲劇に見舞われることになる。
9. オイディプースとテーバイ国
テーバイ王が何代か続いてラーイオスが継ぐ。彼はイオカステーを妻とすると、「男子を儲けべからず」という神託を受けていた。生まれくる子が父親を殺すであろうから。だが、酒に酔って妻と交わり妊娠させてしまう。ラーイオスは、生まれた子の踵にブローチを刺して歩けなくして、キタイローン山に捨てさせた。しかし、コリントス王ポリュボスの牛飼が赤児を見つけてコリントスへ連れ帰り、王妃ペリボイアが養子として育てた。これが、オイディプースでその名は「足が腫れる」という意味があるという。
オイディプースは、同輩の者よりも優れた成人になると、それを妬んで偽りの子と罵られた。誰も自分の本当の両親のことは教えてくれない。そこで、デルポイへ赴いて両親のことを尋ねた。そして、「自分の故郷へ赴くなかれ、父を殺して母と交わるであろうから」という神託を受けた。オイディプースは、両親はコリントス王夫妻であると信じて、コリントスを去った。そして、戦車に乗ってコリントスから離れる途中、戦車に乗ったラーイオスに出会う。ラーイオスの伝令が道を開けよ!と命じたが、オイディプースは従わず、格闘となってラーイオスを殺した。
オイディプースがテーバイへ着くと、クレオーンが継いでいた。テーバイは、テューポーンの子スピンクスという怪物に襲われていた。怪物は女面に獅子の体を持ち、鳥の羽を持っていた。スピンクスは「四足、三足、二足になるものは何か?」という謎かけをした。テーバイ人は、謎かけが解ければスピンクスの難から逃れられるであろうという神託を受けた。多くの者が謎が解けず喰われてしまう。ついにクレオーンの子が犠牲になった時、謎解きをした者にラーイオスの妻イオカステーを与えると布告した。オイディプースは、それは人間であると答えた。「赤児の時は四足で這い、成人して二足、老年になっては杖を使って三足となるから」
謎が解かれると、スピンクスは山から身を投じて王国に平和が戻った。オイディプースはテーバイ国を継ぎ、イオカステーを実母と知らずに妻とし、エテオクレース、ポリュネイケース、アンティゴネーが生まれた。しかし、妻が実母であるという真実を知ると、それが許せないのか?母を縛り、わが身を目盲にして、自分をテーバイから追放した。オイディプースは、娘アンティゴネーとともに、アッティカのコローノスに来て哀訴者として坐した。そして、アテーナイ王テーセウスに受け入れられて、間もなく死んだという。このあたりは「ラーイオスを殺した者をテーバイから追放しろ!」という神託を受けたという説もあるらしい。
その後のテーバイは、オイディプースの子エテオクレースとポリュネイケースが、互いに一年ごとに国を治める協定を結んだ。だが、エテオクレースが王位を独占したため、ポリュネイケースはアルゴス王女を娶り、七将とともにテーバイを攻めた。両軍は決議によって、エテオクレースとポリュネイケースの一騎討で決することにした。だが、相討ちとなって両者は死に再び戦闘となり、テーバイが勝利する。クレオーンはテーバイ王権を継承し、アルゴス人の死骸の埋葬を禁じて棄却させた。しかし、アンティゴネーは、密かに禁を破って、ポリュネイケースの死体を盗んで埋葬した。これがクレオーンに見つかって、彼女は生き埋めにされた。10年後、アルゴスの七将の子供らが、父の復讐としてテーバイに遠征し、テーバイは陥落した。
10. アッテイカとアテーナー
アッティカの初代王ケクロプスは、ガイアの子で人間と大蛇を混合した体を持っている。この時代、オリュンポスの神々は、おのおの自己の特有の崇拝をうけるべき都市を獲得しようと競っていた。
まず、ポセイドーンがアッティカに来て、三叉の戟をもってアクロポリスの中央を打ち、エレクテーイスの泉を湧き出させた。この泉は、アクロポリス山上のエレクテイオン神殿中にある井戸のことらしい。
その後、アテーナーが来て、パンドロセイオンにオリーブの木を植えた。パンドロセイオンは、アクロポリス山上のエレクテイオン神殿の西方にあるらしい。
そして、ポセイドーンとアテーナーの間でアッティカの争奪が生じた。ゼウスはどちらの神の都市とするかを、オリュンポスの十二神を審判役とした。そして、ケクロプスはアテーナーが最初にオリーブの木を植えたと証言したために、アッティカの地はアテーナーのものとなった。この都市は、アテーナーの名をとってアテーナイとなる。これに怒ったポセイドーンは、アッティカを海中に浸した。
11. アテーナイの伝説の王テーセウス
アテーナイ王アイゲウスは子がなく悩んでいた。そこで、デルポイへ赴き、「酒袋の突き出た口を解くなかれ、アテーナイの頂きに着くまでは」という信託を受けた。だが、彼には神託の意味が分からない。アイゲウスはアテーナイへの帰途につきトロイゼーンを通った時、その王ピッテウスの客となる。ピッテウスには神託の意味が分かり、娘アイトラーを近づけ妊娠させた。
アイゲウスは、アイトラーに男子を産んだならば、誰の子と言わずに育てるように命じた。そして、岩の下に刀とサンダルを隠し、この岩を押しのけて、これらの物を取ることができたら、父の名を明かしアテーナイへ送りだすようにと言った。この男子がテーセウスである。成長したテーセウスは、岩を押しのけて刀とサンダルを取り、アテーナイへ急いだ。途中、悪人たちが蔓延る道を掃討した。テーセウスの「六つの武勇伝」である。
- 最初に「棒の男」ペリペーテースを殺した。鉄棒で通行人を殺すから。
- 次に、「松曲男」シニスを殺した。通行人に松の木を曲げさせるのであるが、たいてい力足らずして跳ね上げられて殺すから。
- 凶暴な牡の猪パイアを退治した。
- スケイローンを殺した。通行人に自分の足を洗わせ、洗っている時に深みに投げ入れて、巨大な亀の餌食としたから。
- ケルキュオーンを殺した。通行人に相撲を強いて殺したから。
- ダマステースを殺した。ある人々は、これをポリュペーモーンと呼ぶという。二つの大小のベットをしつらえて通行人を客に招き、小さい者は大きなベットに寝かせ、ベッドと同じ大きさに引き伸ばし、大きい者は小さなベッドに寝かせ、体のはみ出た部分をノコギリで切り落とすから。
怪物ミーノータウロスへの貢物が送られる時期になると、テーセウスは三番目の貢物に加えられた。怪物退治に自ら志願したという説もあるという。貢物のいきさつは、ミーノース王子アンドロゲオースがパンアテーナイア祭の競技に招かれた時、アイゲウスの命でマラトーンの牡牛退治にやったところ、牡牛に殺されたという事件があったという。ただ、すべての競技に勝ったアンドロゲオースを、競技相手が嫉妬して殺したという説もあるらしい。いずれにせよ、ミーノース王子がアテーナイで亡くなり、怒ったミーノース王は講和の条件として、怪物ミーノータウロスの貢物として、7人の少年と7人の少女を要求した。当時、勢力を誇っていたミーノース国にアテーナイは屈服していたのだった。
テーセウスがミーノースに着くと、ミーノース王女アリアドネーが恋心を抱く。そして、妻にしてくれるなら、援助しようと申し出る。テーセウスは、ダイダロスの迷宮(ラビュリントス)の出口に導くように頼んだ。アリアドネーは糸玉を渡し、テーセウスはその糸を扉に結び付け、その糸を辿って案内させた。ミーノータウロスと出会うと勇敢に拳を打って殺し、迷宮の出口まで糸をたどって脱出した。
テーセウス一行とアリアドネーは船でナクソス島に着いた。この島で、ディオーニューソスがアリアドネーを奪い、レームノスへ連れて行ってしまった。
あらかじめ、父アイゲウスは、船は黒い帆を持っていたので、もし生きて帰れば、船に白い帆を張るように命じていた。テーセウスは、アリアドネーが奪われた悲しみで、白い帆を張るのを忘れていた。船が近づくと黒い帆のままなので、テーセウスは死んだものと思ったアイゲウスは絶望して自ら海に身を投げた。その海が、「アイゲウスの海」という意味でエーゲ海と呼ばれるという。
テーセウスは、アテーナイ国を継承した。そして、ペイリトゥースと協力して、ゼウスの娘を後妻にすることにした。テーセウスにはスパルタ王女ヘレネーを、ペイリトゥースには冥界の王妃ペルセポネを妻にと。すると、ラケダイモーン(スパルタ)人とアルカディアー人が攻めてきて、アテーナイを攻略した。テーセウスは、スキューロス島のリュコメーデース王のところに身を寄せたが、深い穴に投げ落とされ死んだ。
12. ペロプスとペロポネーソス半島
ピーサの王オイノマオスには、娘ヒッポダメイアがいた。オイノマオスは、娘を溺愛していたせいか、彼女と結婚した男の手にかかって死ぬという神託を受けていたせいか、求婚者たちをことごとく殺していた。というのも、求婚者にコリントス地峡まで競争して逃げおおせた者に、娘を妻にさしだすという条件を出していたのだが、オイノマオスは軍神アレースからもらった武具と馬を持っていて、求婚者には到底勝ち目のない競争だったのである。
タンタロスの息子ペロプスもまた求婚に赴いていた。彼は、ポセイドーンから有翼の戦車を与えられて自信を持っていた。ヒッポダメイアはペロプスの美貌に恋心を抱き、御者ミュルティロスに援助を頼んだ。ミュルティロスはオイノマオスの戦車に細工をすると、オイノマオスは手綱に絡まって引きずられるようにして死んだ。ペロプスはヒッポダメイアを妻にするが、ミュルティロスが犯そうとする。それを知ったペロプスはミュルティロスを海に投じた。ミュルティロスは、投げられる時にペロプスの子孫に呪いをかけた。
やがて、ペロプスにはアトレウスなどの多くの子が生まれた。アトレウスは王位継承で骨肉の争いをし、アトレウスの子アガメムノーンとメネラーオスはトロイア戦争に明け暮れるといった具合に、その子孫たちは呪いによって、血なまぐさい運命を背負わされたのかもしれない。ちなみに、ペロポネーソス半島は「ペロプスの島」という意味があるらしい。
2010-10-24
"仕事と日" ヘーシオドス 著
前記事の「神統記」に続いて読んでみたいが絶版中!なんとなく中途半端で気持ちが悪い。そこで図書館を漁ってみた。電子図書の話題で盛り上がる昨今、古典パワーこそ見せつけてほしい。
この書は、本来「仕事と日々」と呼ばれることが多いようだが、訳者松平千秋氏はあえて「仕事と日」と題している。ギリシャ語の「ヘーメライ」が複数形だから素直に訳せば「日々」となる。様々な吉凶の日について語られるので、それはそれで自然であろう。しかし、日本語は元来、外国語ほどは単複を使い分けないし、ニュアンスも少し違ってくるだろうという意図があるらしい。
本書は、怠惰で性悪な弟を訓戒するための叙事詩である。ヘーシオドスは、父親の遺産をめぐって弟ペルセースと法廷で争った。ペルセースは賄賂で解決したが、遺産を浪費し、再び不正によって兄ヘーシオドスの財産を奪おうとする。こうした背景があって、兄が弟に労働の尊さを説こうとする。極めて個人的な状況を題材とした点で、この時代には珍しく歴史的にも貴重なものだそうな。
ただ、必ずしも弟にだけ語りかけているのではなく、社会風刺も込められているのであろう。それは、神々の関与による人間の創世を語り、人間の苦悩の根源をパンドーラの物語に立ち返っていることから、一般的な教説と解することもできるからである。古代ギリシャ人は、強力な軍隊を背景に新天地を次々と植民地化していった。そうした時代背景で、奪い取るばかりで自国農業が衰退していった様子と重ねているのかもしれない。
本書の思想の根源には、人間の行為は神々によって監視され、悪行に対してはいずれ天罰が降りかかるというのがある。そして、正義を回復するために、実直に仕事に励むことだとしている。世の中への絶望を語るあたりは、一種のニヒリズムの表れであろう。
また、迷信めいた事柄と神の行為を重ねながら教説を唱える。農耕をやる季節や航海のための風向きなど、あらゆる仕事を行う時期は神々の導くままに従うようにと。この書には、まさしくキリスト教の予定説的な思想の源泉、あるいは「働かざる者食うべからず」といった思想の原点があるように思える。ルネサンスや宗教改革に現れた思想転換期にしても、その源流をこの時代に遡ることができそうだ。こうしてみると、人間の精神は古代からあまり進歩していないかのように映る。
本書には、付録で「ホメーロスとヘーシオドスの歌競べ」が収録される。ヘーシオドスとホメーロスは、古代ギリシャの詩人として比較されることが多いので、この題目には興味深いものがある。しかし、実際に二人が競ったのかは疑わしく、創作というのが大方の見方のようだ。
この作品は、13世紀か14世紀のものと推定される古写本によって伝承されたもので、1573年ヘンリクス・ステファヌスによって初めて刊本されたという。通称「ケルターメン(歌競べ)」で呼ばれるそうな。
この短篇が学界で注目されるきっかけになったのは、ニーチェの論文だという。それまでアレクサンドリア時代の無名の作家が作った駄文とされてきたが、紀元前4世紀の高名な弁論家で修辞学者のアルキダマースに由来する可能性を示したという。更に19世紀になると、いくつかのパピルスからテキストの断片が発見され、「アルキダマース著、ホメーロスについて」というのが見つかり、アルキダマース原作説が有力になったという。ただし、実証されたわけではないようだ。
1. エリス(争いの女神)
本書は、ムーサ(詩歌女神)たちが、父なるゼウスへの語りから始まる。知るものも知らないものも、語るものも語らないものも、すべてゼウスの御心のままにあると。この形式は、この時代の叙事詩の流行りであろうか?あるいはヘーシオドスの形式であろうか?
忌まわしいエリスは抗争を撒き散らす。エリスは根性なき男を目覚めさせて仕事に向かわせる。富を目指して励む人には、その隣人が羨望を抱く。陶工は陶工に、大工は大工に敵意を燃やし、物乞いは物乞いどうしで、伶人は伶人どうしで妬みあう。裁判では賄賂をむさぼる連中が蔓延る。悪行が横行するのは、神が人間に「命の糧」を隠しておられるから。人間の怠け癖や横暴な振る舞いは、いずれゼウスの裁きによって田畑を荒らすことになろう...と歌い上げる。
2. パンドーラの甕
有名な「パンドーラの箱」の一節であるが、「仕事の日」では「箱」ではなく「甕」としている。奸智のプロメーテウスが天界から火を盗み取り人間に与え、これにゼウスが怒り人間どもに災厄を与えるというお馴染みの話である。
まず、ヘーパイストスに命じて泥で乙女の体を造らせ、それに生命を注ぎ込む。アテーネーには様々な技芸や布を織る術を教えさせ、アプロディーテーには乙女の頭に魅惑の色気を漂わせ、恋の苦しみを注ぎかけよと命じる。更に、ヘルメイエース(神々の使者ヘルメス)には犬の心と不実の性を植え付けよと命じる。
こうして造られた乙女にパンドーラの名を与え、プロメーテウスの弟エピメーテウスに贈った。エピメーテウスは、兄からゼウスからの贈り物を受け取れば禍いが振りかかると忠告されていたが、パンドーラの美に惹かれ受け取ってしまう。
それまで、地上に住む人間どもは、あらゆる煩いを免れ、苦しい労働もなく、死をもたらす病苦も知らなかった。ところが、女が甕の蓋を開けて、人間に様々な苦難を撒き散らしてしまった。しかも、その中のエルピス(希望)だけが甕の縁に残って、女はそれが外に飛び出す前に蓋を閉じてしまったとさ。
3. 五時代の説話
五時代とは、黄金の時代、銀の時代、青銅の時代、英雄の時代、鉄の時代である。
オリュンポスの館に住む神々は、最初に人間の「黄金の種族」を作った。これは、クロノスがまだ君臨していた時代の人間たちで、心に悩みもなく、労苦も悲嘆も知らず、神々と同じように暮らしていた。惨めな老年が訪れることもなく、手足は衰えず、あらゆる災厄を免れて宴楽に耽っていた。死は眠るがごとく訪れ、あらゆる善きものに恵まれ、農地はひとりでに豊かな稔りをもたらし、幸せに満ちていた。
しかし、ガイア(大地)がこの種族を覆い隠した後は、クロノスの子ゼウスが人間の守護神となって、人間に富を授けた。それが第二の種族の「銀の種族」である。それは黄金の種族とは似つかぬものであった。子供は百年の間、頑是ない幼な子のままで、家の中で戯れつつ母の膝のもとで育てられた。やがて成年に達すると、無分別ゆえに互いに無法な暴力を抑えることができず、様々な禍いを被って生涯を終える。ゼウスは、人間どもが神々に敬意を払わぬのを怒って、この種族を消してしまった。しかし、ガイアがこの種族をも覆い隠し地下に住まわせ、黄金の種族に劣るとはいえ至福なる人間と呼ばれる栄誉を授けた。
ついで、ゼウスが第三の種族、「青銅の種族」を作った。とねりこの樹から生じ、怖るべく力強く、悲惨なる暴力を好む。心は鋼のごとく硬く、強靭な肢体、扱う武器は青銅製で、青銅の農具を使って田畑を耕す。彼らは、互いに討ちあって倒れ、身も凍るハーデス(冥界)のカビ臭い館へと落ちて行った。
しかるに、ガイアがこの種族をも覆い隠した後、ゼウスは第四の種族を作った。この種族は先代よりも正しく優れた英雄たちの高貴な種族で、半神と呼ばれた。だが、この種族ですら、忌まわしき戦争によって滅び去った。これがトロイア戦争前後の「英雄の種族」である。
最後にゼウスは、第五の種族、「鉄の種族」を作った。鉄具を使って農耕を営む種族で、まさしく現世の人々である。昼も夜も労役と苦悩に苛まれ、神々は苛酷を与え、様々な禍いに見舞われ、親子で心が通わず、兄弟どうしで争う。親が老いれば、たちまたこれを冷遇し、正義は腕力にあるとする。あらゆる悪事が横行し、正義や希望のない退廃を極める。政界では、アイドース(廉恥)とネメシス(義憤)の二神がその美しき姿を覆い隠し、人間どもを見捨ててしまった。ここには、ゼーロス(妬み)に憑かれた悲惨な人間社会がある。
「かくなればわしはもう、第五の種族とともに生きたくはない、むしろその前に死ぬか、その後に生まれたい。」
4. 農事暦とセイリオス
神々は季節に応じて仕事をお示しなさる。田畑を耕し種子を蒔く時期をお示しなさる。人間はただそれに従えばいいと。
ここで、セイリオス(シリウス)の星について言及している。その際立った明るさのために、強力な熱源と考えられていたという。この星が夜明けの直前に昇るのが7月頃で、終日太陽とともに頭上にあって暑熱をもたらす。9月下旬になると、この星が昇る時刻が4時間ほど早くなるので、昼間に頭上に留まる時間が短くなり、暑気が和らぐとされた。夏の猛暑を耐えて大切に種子を育てれば、稔ある収穫が得られるのが農耕というわけか。
「仕事と日」は、シリウス星について言及した最初期のもので、歴史的にも貴重なものらしい。
5. 人生訓
この章句には宗教じみた説教が続き、アル中ハイマーな天の邪鬼にとって、なんともこそばゆい。
6. ホメーロスとヘーシオドスの歌競べ
ヘーシオドスもホメーロスも、自国の出身として誇りにされるという。
ヘーシオドスの出身については、父親が小アジアのキューメーに住んでいて、貿易業に失敗してギリシャ本土に移住し、ボイオーティアー地方の寒村アスクレーに定住したことを、自身が書き残しているので議論の余地はないだろう。
一方、ホメーロスには、様々な国の住人たちが自国の出身であると主張しているそうな。その代表はスミュルナの住民で、当初メレース河にちなんでメレーシゲネースの名で呼ばれ、後にホメーロスと改名したという。ホメーロスとはその国で盲人を意味する。対して、キオスの住人は、ホメーロス一族と称する後裔としているという。更に、コロポーンの住人は、ホメーロスの処女作が「マルギーテース」だと主張し、その作詩した場所まで示しているという。両親が誰かという説も様々な主張が飛び交い、その例を上げると切りがない。こうした状況が、ホメーロスが本当に実在したのか?と疑わせるところかもしれない。生きた時代も、ホメーロスとヘーシオドスではどちらが古いか?あるいは同年代か?と様々な説が飛び交う。
これだけ情報が錯綜すれば、二人が歌競べをしたという伝説が残っていても不思議はなかろう。「仕事と日」にも、自分の航海経験としてエウボイア島のカルキスで歌競べに勝ち、賞品に三脚釜を獲得してヘリコーン山麓のムーサたちに奉納したことが記される。この記述が、「ホメーロスとヘーシオドスの歌競べ」の題材とされたのは想像に易い。
話の展開では、ヘーシオドスが一方的に質問をしホメーロスが答えるという構図があって、どう見てもホメーロスが勝つように仕組まれている。ホメーロスの詩人としての技巧の高さは評判で、優れた回答を出すことは聴衆も分かっているのだから。逆に、質問者ヘーシオドスが失敗することはないとも言える。
こんな具合に...
ヘーシオドスが問う。
「メレースが一子、神より叡知を授かりたるホメーロスよ、語ってくれ、死すべき人間には何がもっとも良いことか。」
ホメーロスは答える。
「地上に住む者にとっては、そもそも生まれぬことがもっとも良い、生まれたからには一刻も早くハーデース(冥王)の門をくぐることじゃ。」
ヘーシオドスが問う。
「されば神にも似たるホメーロスよ、次のことを語ってくれ、死すべき者にとり、何がもっとも賞(め)でたきことと、そなたは思うぞ。」
ホメーロスは答える。
「愉楽の気は堂に満ち、宴(うたげ)に与る客は屋敷のうちに席を列ねて、楽人の歌に耳を傾け、傍らの食卓にはパンと肉とが山と盛られ、酌人は混酒器より美酒を酌んで席を廻り、酒盃(さかずき)に酒を注ぐ、これぞ愉楽の極致とわしは思うぞ。」
...
ホメーロスの見事な回答が観客を唸らせ、もはや勝敗は決したかに見えた。ところが、最後にパネーデース王の発言で、両者に朗誦で競わせ、しかも強引な裁定で逆転させる。ヘーシオドスは農業と平和を歌い、続いてホメーロスは戦争とその英雄を歌った。その応酬でも、観客はホメーロスの勝利を信じていたが、パネーデース王は、真の勝利者たるものは農業と平和の勧めを説くものでなくてはならないとし、ヘーシオドスが勝利する。実際に「パネーデースの判定」という諺があって、愚かな判定の意で使われるらしい。
この書は、本来「仕事と日々」と呼ばれることが多いようだが、訳者松平千秋氏はあえて「仕事と日」と題している。ギリシャ語の「ヘーメライ」が複数形だから素直に訳せば「日々」となる。様々な吉凶の日について語られるので、それはそれで自然であろう。しかし、日本語は元来、外国語ほどは単複を使い分けないし、ニュアンスも少し違ってくるだろうという意図があるらしい。
本書は、怠惰で性悪な弟を訓戒するための叙事詩である。ヘーシオドスは、父親の遺産をめぐって弟ペルセースと法廷で争った。ペルセースは賄賂で解決したが、遺産を浪費し、再び不正によって兄ヘーシオドスの財産を奪おうとする。こうした背景があって、兄が弟に労働の尊さを説こうとする。極めて個人的な状況を題材とした点で、この時代には珍しく歴史的にも貴重なものだそうな。
ただ、必ずしも弟にだけ語りかけているのではなく、社会風刺も込められているのであろう。それは、神々の関与による人間の創世を語り、人間の苦悩の根源をパンドーラの物語に立ち返っていることから、一般的な教説と解することもできるからである。古代ギリシャ人は、強力な軍隊を背景に新天地を次々と植民地化していった。そうした時代背景で、奪い取るばかりで自国農業が衰退していった様子と重ねているのかもしれない。
本書の思想の根源には、人間の行為は神々によって監視され、悪行に対してはいずれ天罰が降りかかるというのがある。そして、正義を回復するために、実直に仕事に励むことだとしている。世の中への絶望を語るあたりは、一種のニヒリズムの表れであろう。
また、迷信めいた事柄と神の行為を重ねながら教説を唱える。農耕をやる季節や航海のための風向きなど、あらゆる仕事を行う時期は神々の導くままに従うようにと。この書には、まさしくキリスト教の予定説的な思想の源泉、あるいは「働かざる者食うべからず」といった思想の原点があるように思える。ルネサンスや宗教改革に現れた思想転換期にしても、その源流をこの時代に遡ることができそうだ。こうしてみると、人間の精神は古代からあまり進歩していないかのように映る。
本書には、付録で「ホメーロスとヘーシオドスの歌競べ」が収録される。ヘーシオドスとホメーロスは、古代ギリシャの詩人として比較されることが多いので、この題目には興味深いものがある。しかし、実際に二人が競ったのかは疑わしく、創作というのが大方の見方のようだ。
この作品は、13世紀か14世紀のものと推定される古写本によって伝承されたもので、1573年ヘンリクス・ステファヌスによって初めて刊本されたという。通称「ケルターメン(歌競べ)」で呼ばれるそうな。
この短篇が学界で注目されるきっかけになったのは、ニーチェの論文だという。それまでアレクサンドリア時代の無名の作家が作った駄文とされてきたが、紀元前4世紀の高名な弁論家で修辞学者のアルキダマースに由来する可能性を示したという。更に19世紀になると、いくつかのパピルスからテキストの断片が発見され、「アルキダマース著、ホメーロスについて」というのが見つかり、アルキダマース原作説が有力になったという。ただし、実証されたわけではないようだ。
1. エリス(争いの女神)
本書は、ムーサ(詩歌女神)たちが、父なるゼウスへの語りから始まる。知るものも知らないものも、語るものも語らないものも、すべてゼウスの御心のままにあると。この形式は、この時代の叙事詩の流行りであろうか?あるいはヘーシオドスの形式であろうか?
忌まわしいエリスは抗争を撒き散らす。エリスは根性なき男を目覚めさせて仕事に向かわせる。富を目指して励む人には、その隣人が羨望を抱く。陶工は陶工に、大工は大工に敵意を燃やし、物乞いは物乞いどうしで、伶人は伶人どうしで妬みあう。裁判では賄賂をむさぼる連中が蔓延る。悪行が横行するのは、神が人間に「命の糧」を隠しておられるから。人間の怠け癖や横暴な振る舞いは、いずれゼウスの裁きによって田畑を荒らすことになろう...と歌い上げる。
2. パンドーラの甕
有名な「パンドーラの箱」の一節であるが、「仕事の日」では「箱」ではなく「甕」としている。奸智のプロメーテウスが天界から火を盗み取り人間に与え、これにゼウスが怒り人間どもに災厄を与えるというお馴染みの話である。
まず、ヘーパイストスに命じて泥で乙女の体を造らせ、それに生命を注ぎ込む。アテーネーには様々な技芸や布を織る術を教えさせ、アプロディーテーには乙女の頭に魅惑の色気を漂わせ、恋の苦しみを注ぎかけよと命じる。更に、ヘルメイエース(神々の使者ヘルメス)には犬の心と不実の性を植え付けよと命じる。
こうして造られた乙女にパンドーラの名を与え、プロメーテウスの弟エピメーテウスに贈った。エピメーテウスは、兄からゼウスからの贈り物を受け取れば禍いが振りかかると忠告されていたが、パンドーラの美に惹かれ受け取ってしまう。
それまで、地上に住む人間どもは、あらゆる煩いを免れ、苦しい労働もなく、死をもたらす病苦も知らなかった。ところが、女が甕の蓋を開けて、人間に様々な苦難を撒き散らしてしまった。しかも、その中のエルピス(希望)だけが甕の縁に残って、女はそれが外に飛び出す前に蓋を閉じてしまったとさ。
3. 五時代の説話
五時代とは、黄金の時代、銀の時代、青銅の時代、英雄の時代、鉄の時代である。
オリュンポスの館に住む神々は、最初に人間の「黄金の種族」を作った。これは、クロノスがまだ君臨していた時代の人間たちで、心に悩みもなく、労苦も悲嘆も知らず、神々と同じように暮らしていた。惨めな老年が訪れることもなく、手足は衰えず、あらゆる災厄を免れて宴楽に耽っていた。死は眠るがごとく訪れ、あらゆる善きものに恵まれ、農地はひとりでに豊かな稔りをもたらし、幸せに満ちていた。
しかし、ガイア(大地)がこの種族を覆い隠した後は、クロノスの子ゼウスが人間の守護神となって、人間に富を授けた。それが第二の種族の「銀の種族」である。それは黄金の種族とは似つかぬものであった。子供は百年の間、頑是ない幼な子のままで、家の中で戯れつつ母の膝のもとで育てられた。やがて成年に達すると、無分別ゆえに互いに無法な暴力を抑えることができず、様々な禍いを被って生涯を終える。ゼウスは、人間どもが神々に敬意を払わぬのを怒って、この種族を消してしまった。しかし、ガイアがこの種族をも覆い隠し地下に住まわせ、黄金の種族に劣るとはいえ至福なる人間と呼ばれる栄誉を授けた。
ついで、ゼウスが第三の種族、「青銅の種族」を作った。とねりこの樹から生じ、怖るべく力強く、悲惨なる暴力を好む。心は鋼のごとく硬く、強靭な肢体、扱う武器は青銅製で、青銅の農具を使って田畑を耕す。彼らは、互いに討ちあって倒れ、身も凍るハーデス(冥界)のカビ臭い館へと落ちて行った。
しかるに、ガイアがこの種族をも覆い隠した後、ゼウスは第四の種族を作った。この種族は先代よりも正しく優れた英雄たちの高貴な種族で、半神と呼ばれた。だが、この種族ですら、忌まわしき戦争によって滅び去った。これがトロイア戦争前後の「英雄の種族」である。
最後にゼウスは、第五の種族、「鉄の種族」を作った。鉄具を使って農耕を営む種族で、まさしく現世の人々である。昼も夜も労役と苦悩に苛まれ、神々は苛酷を与え、様々な禍いに見舞われ、親子で心が通わず、兄弟どうしで争う。親が老いれば、たちまたこれを冷遇し、正義は腕力にあるとする。あらゆる悪事が横行し、正義や希望のない退廃を極める。政界では、アイドース(廉恥)とネメシス(義憤)の二神がその美しき姿を覆い隠し、人間どもを見捨ててしまった。ここには、ゼーロス(妬み)に憑かれた悲惨な人間社会がある。
「かくなればわしはもう、第五の種族とともに生きたくはない、むしろその前に死ぬか、その後に生まれたい。」
4. 農事暦とセイリオス
神々は季節に応じて仕事をお示しなさる。田畑を耕し種子を蒔く時期をお示しなさる。人間はただそれに従えばいいと。
ここで、セイリオス(シリウス)の星について言及している。その際立った明るさのために、強力な熱源と考えられていたという。この星が夜明けの直前に昇るのが7月頃で、終日太陽とともに頭上にあって暑熱をもたらす。9月下旬になると、この星が昇る時刻が4時間ほど早くなるので、昼間に頭上に留まる時間が短くなり、暑気が和らぐとされた。夏の猛暑を耐えて大切に種子を育てれば、稔ある収穫が得られるのが農耕というわけか。
「仕事と日」は、シリウス星について言及した最初期のもので、歴史的にも貴重なものらしい。
5. 人生訓
この章句には宗教じみた説教が続き、アル中ハイマーな天の邪鬼にとって、なんともこそばゆい。
- しかるべき歳で嫁を迎い入れよ。良妻に勝るもらいものはなく、悪妻を凌ぐ恐るべき災厄はない。
- 至福なる神々を敬うことを怠ってはならぬ。
- 友人を兄弟として扱ってはならぬ。しかもなお、そうする場合は、こちらから先に相手を害してはならぬ。
- 相手が先に気に障ることをすれば、二倍にして返してやれ。しかし、仲直りしたいと申し出て償いもすると言えば、それを受けてやれ。あれこれと友人を変えるような者は、つまらぬ奴じゃ。
- 内なる心が、外なる姿を欺くようなことがあってはならぬ。
- 他人から客好きとも、客嫌いとも言われぬようにせよ。
- 貧困に苦しむ人を嘲るごとき振舞いがあってはならぬ。貧しさもまた神々の下されたものだから。
- 言葉を慎め、節度を守って動く舌は、何にもまして床しく好ましい。
6. ホメーロスとヘーシオドスの歌競べ
ヘーシオドスもホメーロスも、自国の出身として誇りにされるという。
ヘーシオドスの出身については、父親が小アジアのキューメーに住んでいて、貿易業に失敗してギリシャ本土に移住し、ボイオーティアー地方の寒村アスクレーに定住したことを、自身が書き残しているので議論の余地はないだろう。
一方、ホメーロスには、様々な国の住人たちが自国の出身であると主張しているそうな。その代表はスミュルナの住民で、当初メレース河にちなんでメレーシゲネースの名で呼ばれ、後にホメーロスと改名したという。ホメーロスとはその国で盲人を意味する。対して、キオスの住人は、ホメーロス一族と称する後裔としているという。更に、コロポーンの住人は、ホメーロスの処女作が「マルギーテース」だと主張し、その作詩した場所まで示しているという。両親が誰かという説も様々な主張が飛び交い、その例を上げると切りがない。こうした状況が、ホメーロスが本当に実在したのか?と疑わせるところかもしれない。生きた時代も、ホメーロスとヘーシオドスではどちらが古いか?あるいは同年代か?と様々な説が飛び交う。
これだけ情報が錯綜すれば、二人が歌競べをしたという伝説が残っていても不思議はなかろう。「仕事と日」にも、自分の航海経験としてエウボイア島のカルキスで歌競べに勝ち、賞品に三脚釜を獲得してヘリコーン山麓のムーサたちに奉納したことが記される。この記述が、「ホメーロスとヘーシオドスの歌競べ」の題材とされたのは想像に易い。
話の展開では、ヘーシオドスが一方的に質問をしホメーロスが答えるという構図があって、どう見てもホメーロスが勝つように仕組まれている。ホメーロスの詩人としての技巧の高さは評判で、優れた回答を出すことは聴衆も分かっているのだから。逆に、質問者ヘーシオドスが失敗することはないとも言える。
こんな具合に...
ヘーシオドスが問う。
「メレースが一子、神より叡知を授かりたるホメーロスよ、語ってくれ、死すべき人間には何がもっとも良いことか。」
ホメーロスは答える。
「地上に住む者にとっては、そもそも生まれぬことがもっとも良い、生まれたからには一刻も早くハーデース(冥王)の門をくぐることじゃ。」
ヘーシオドスが問う。
「されば神にも似たるホメーロスよ、次のことを語ってくれ、死すべき者にとり、何がもっとも賞(め)でたきことと、そなたは思うぞ。」
ホメーロスは答える。
「愉楽の気は堂に満ち、宴(うたげ)に与る客は屋敷のうちに席を列ねて、楽人の歌に耳を傾け、傍らの食卓にはパンと肉とが山と盛られ、酌人は混酒器より美酒を酌んで席を廻り、酒盃(さかずき)に酒を注ぐ、これぞ愉楽の極致とわしは思うぞ。」
...
ホメーロスの見事な回答が観客を唸らせ、もはや勝敗は決したかに見えた。ところが、最後にパネーデース王の発言で、両者に朗誦で競わせ、しかも強引な裁定で逆転させる。ヘーシオドスは農業と平和を歌い、続いてホメーロスは戦争とその英雄を歌った。その応酬でも、観客はホメーロスの勝利を信じていたが、パネーデース王は、真の勝利者たるものは農業と平和の勧めを説くものでなくてはならないとし、ヘーシオドスが勝利する。実際に「パネーデースの判定」という諺があって、愚かな判定の意で使われるらしい。
2010-10-17
"神統記" ヘシオドス 著
前記事でホメロスを読めば、ヘシオドスを読まずにはいられまい。読書の秋やねぇ~
紀元前700年頃の詩人ヘシオドスは、ホメロスと並ぶ最古の叙事詩人として名高く、その著書「神統記」は、ギリシア神話における宇宙論の原典とされる。叙事詩としては、ホメロスの作品よりも詩(うた)っぽい。どちらの翻訳にも苦悩がうかがえるわけだが、ホメロスの長篇大作物語に対して、短編詩小説といったところであろうか。
本書は、宇宙創生のカオスの世界から、宇宙を構成する神々の系譜が生まれ、ついにはゼウスを主神とした秩序ある世界が誕生するまでを唄いあげる。ゼウスの得意技は雷鳴で、秩序を乱すところには必ず轟きわたる。それにしても全能者ってやつは...女神に目をつけては、あちこちに子を孕ませやがる...節操のない雷オヤジやなぁ...
本物語は、カオスから生まれた初代王ウラノス(天)、息子クロノス、孫ゼウスの三代に渡る王位継承伝説である。3人の王は、いずれも自分の権力を子供に奪われることを嫌い、子供たちを母親の腹中に閉じ込めたり、あるいは王自身が子供や妻を呑み込んだりと、この世に後継者が出現することを拒む。だが、王の本意に逆らい子供らは解放され、王位継承問題は骨肉の争いで解決されてきた。王の傲慢な性格は血を争えぬというわけだ。このまま残忍な行為が続けば無限循環論に陥り、混沌とした世界が続くであろう。
しかし、ゼウスには強力な味方がいた。ティタン(タイタン)族系の娘ステュクスの子供たちである。その子供たちとは、ゼロス(栄光)、ニケ(勝利)、クラトス(威力)、ビア(腕力)である。彼らにはゼウスの館の永住権が与えられ、あらゆる戦争に勝利するための原動力となる。そして、同じくティタン族系のプロメテウスなどの抵抗者に寛大な態度をとったり、オリュンポスの神々に持ち分を公平に分け与え特権を定めるなどして、全能者としての頭角を現していく。また、度重なる結婚を経て、エウノミア(秩序)、デイケ(正義)、エイレネ(平和)、モイラ(運命)たちの子供を儲けて、主神ゼウスの下に秩序ある世界の基礎が固まるのであった。
ヘシオドスについて、訳者廣川洋一氏は次のように解説している。
「ヘシオドスのあとにやがて訪れる新しい表現の時代、抒情詩の興隆時代の先触れとして、文学中のあざやかな経過のうちに彼をおいてみるとき、作中の個性の表出をたんなるフィクションとして見過すことは正しくないように思われる。」
ヘシオドスの代表作には、他に「仕事と日々」というのがある。ちなみに、岩波文庫から「仕事と日」として刊行されるが、絶版中のようだ。惜しい!
ヘシオドスは、農夫でありながら海上貿易商でもある半農半商の暮らしをしていたという。父親の遺産をめぐって弟ペルセスと争った時は、法廷に持ち込まれ、ペルセスは司法権を持つ貴族への賄賂で解決した。おまけに、怠惰なペルセスは遺産を浪費して、再び不正なやり方でこの実直な詩人の財産をも狙いをつけたという。このあたりは、「仕事の日々」に匂わせているらしい。
その後、ヘシオドスは、窮迫してボイオティアの寒村で農夫生活をしたという。その頃、ヘリコン山麓で特別な体験をしたことが、この「神統記」の序詞に記される。羊を飼い畑を耕す農民が、ムーサ(詩歌女神)たちに出会って詩人に目覚めていく場面である。
「野山に暮らす羊飼いたちよ 卑しく哀れなものたちよ 喰(くら)いの腹しかもたぬ者らよ
私たちは たくさんの真実に似た虚偽(いつわり)を話すことができます
けれども 私たちは、その気になれば 真実を宣(の)べることもできるのです」
当時ムーサという職業が存在したのかもしれないが、それは落語家が神聖化したようなものだろうか?僧侶のような意味合いもあるのかもしれない。
ヘシオドスは、真実を唄う詩人として目覚めていくわけだが、本業は農民であって、専門的な職業詩人ではないという。この作品は、ムーサに歌わせているようで、実はヘシオドス自身が伝説を調べて記録したものなのか?文学作品のようで、歴史小説風の性格も兼ね備えてる。こうして見ると歴史学は文学から派生したようにも見えてくる。また、宇宙体系の成立する原理を、自然要素の擬人化や神格化によって物語るあたりは、自然哲学と科学の結びつきの源泉、あるいは宗教の源泉なるものを眺めているような気がしてくる。
1. 序詞
物語は、ヘリコン山のムーサ(詩歌女神)たちの賛歌から始まる。この山には神々の霊魂が宿り、ムーサたちを祀る泉があるとされる。馬の蹄に蹴られて生じた泉は、馬の泉(ヒップウクレネ)と呼ばれ、そのほとりにはゼウスの祭壇があるという。後世、その馬は天馬ペガソス(ペガサス)であったという説もある。ペルメソスとオルメイオスの二つの川が合流してコパイス湖に注ぐ。ちなみに、この二つの川は、現在のどの河川に相当するかは判明していないらしい。
エレウテルの丘陵を治める女神ムネモシュネは、ピエリアの地で父神ゼウスに九夜に渡って添寝し、9人の娘のムーサたちが生まれた。ちなみに、ピエリアとは、オリュンポス山のすぐ北側の地で、ホメロスでは神々がオリュンポスから天降る際、最初に降り立つとされる所。
ここでは、主神ゼウスが父クロノスを打ち負かして、オリュンポスの神々に持ち分を公平に分け与え特権を定めた...という物語を、ムーサたちが歌っていることが宣言される。
2. 宇宙の創生
まず、原初にカオスが誕生した。次にガイア(大地)、タルタロス(冥界)、美しいエロス(愛)が生まれた。更に、カオスから、エレボス(幽冥)とニュクス(夜)が生まれ、エレボスとニュクスが情愛を契りして、アイテル(澄明)とヘレメ(昼)が生まれた。カオスといえば混沌とした世界を想像するが、ここでは万物を創生するための空間のようなものが生じたという意味があるようだ。そこには、あらゆる空間要素を擬人化し、おまけに神格化する独特の宇宙観念がある。これには、精神における一種の実体的な存在とでも言おうか、実存論の源泉なるものを感じる。
3. ティタン(タイタン)族と怪物の誕生
ガイアは、情愛の契りもせずにウラノス(天)、ポントス(海)、そして高い山々を生んだ。次に、ガイアは、ウラノスに添寝してティタン十二神を生んだ。父ウラノスが「ティタンども」と渾名したのは、子供たちを罵って、向こう見ずにも手を伸ばし(テイタイノ)、大それた所業をなすが、やがて報復(テイシス)がやってこようという意味があるという。その十二神とは、オケアノス(大洋)、コイオス、クレイオス、ヒュペリオン(太陽神あるいは光明神)、イアペトス、テイア、レイア、テミス(義しさ、秩序)、ムネモシュネ(記憶)、ポイベ、テテュス(泉や地下水の神)、末子の悪知恵長けたクロノス。
また、ガイアは単眼の巨人キュクロプス(円い目と渾名された)どもを生んだ。ブロンテス、ステロペス、アルゲスがそれで、ゼウスに雷鳴を贈り、雷電を造りやったものどもである。ガイアとウラノスの間からは、他にも五十の首を持つヘカトンケイル(百手巨人族)たちが生まれた。コットス、ブリアレオス、ギュゲスがそれである。
4. ウラノスの去勢とアプロディテの誕生
ガイアが生んだ怪物たちは、最初から父ウラノスから憎まれていた。悪業にうつつを抜かしていたからである。父ウラノスは、この子供らを片っ端からガイアの腹中に閉じ込めた。怨んだガイアは、鋼鉄(アダマス)の族を造り、大鎌をこしらえると、愛しい子供たちに語った。父の非道な仕業に復讐せよと。だが、父を恐れて口を開く者はいない。そこに、末子クロノスがその役目を引き受けると申し出た。喜んだ母ガイアは、大鎌を手渡し密計を授けた。そして、夜にウラノスがガイアに情愛を求めて覆いかぶさると、クロノスが大鎌で父の男根を刈り取った。流れ出る血の滴りからは、エリニュス(復讐女神)たち、ギガス(巨人)たち、そして、メリアと呼ばれるニュンペ(女精)たちが生まれた。かくして、ウラノスの子供らは解放され、クロノスが王位についた。
さて、父の男根の方はというと、海に投げ捨てられるとしばらく海面に漂っていた。やがて、白い泡(アプロス)が不死の肉から湧き立ち、その中から一人の乙女が生まれた。乙女は、まず聖キュテラに立ち寄り、キュプロス島に辿り着いた。これが原初の美女神アプロディテである。ちなみに、アプロディテとは、「アプロゲネス(泡から生まれた女神)、麗しい花冠をつけたキュテレイア」という意味があるという。
5. ゼウスの誕生
王クロノスは、姉妹のレイアを妻として栄えある子供たちを生んだ。ヘスティア(炉の女神)、デメテル、ヘラ、冷酷な心を持つ強いハデス(プルートーン)、大地を震わすポセイドン、賢いゼウスの6人を。ところが、クロノスは子供たちを片っ端から呑みこんでしまった。というのも、母ガイアから己の息子によって打ち倒されるという定めを聞いていたからである。
レイアは悲しみに暮れ、ゼウスを孕んだ時クレタへ赴きガイアに懇願した。ガイアは、アイガイオン山中の洞窟に匿い、ゼウスの身代わりに大石に産衣を着せて渡すと、クロノスはその石を呑み込んだ。やがて、ゼウスは成長する。クロノスは、ゼウスの策略によって呑み込んだ子供たちを吐き出した。最初に、最後に呑み込んだ石を吐く。ゼウスは、この石をパルナッソスの谷間のピュトの地に安置した。ちなみに、ピュトの地がパルナッソス山ふもとのデルポイという説もあるそうな。かくしてゼウスは、兄弟たちを父の恐るべき束縛から解放したのであった。そして、ゼウスと兄弟たちは、不死の神々に君臨した。
6. プロメテウス伝説と女の誕生
ティタン族のイアペトスは、オケアノス(大洋)の娘クリュメネを娶り、アトラス、メノイティオス、策に富むプロメテウス、思慮の浅いエピメテウスが生まれた。プロメテウスは「先を見とおす者」、エピメテウスは「後から知る者」という意味があるという。イアペトス家は、ゼウス新政権の最初の敵対者であった。後に、暗愚のエピメテウスは、ゼウスからの贈り物を一切受け取ってはならないと忠告したプロメテウスの言葉を忘れ、乙女(パンドラ)を受け取って禍いを被ることになって、はじめて真相を知ることになる...
イアペトス家に怒ったゼウスは、傲慢なメノイティオスをエレボス(幽冥)へ送った。アトラスは、大地の果てで、ヘスペリス(黄昏の娘)たちの面前で、立ったままの姿勢に。プロメテウスには、冷酷な縄目によって縛り付け、鷲をけしかけた。鷲は彼の不滅の肝臓を毎日喰ったが、肝臓は同じ分量だけ生え出した。テバイ生まれのヘラクレスは、その鷹を退治し、プロメテウスを苦痛から救い出した。これはゼウスの意向に沿わないはずだが、「高空に知ろしめすゼウスの意向に悖りはしない」とし、むしろヘラクレスの誉れを贊えたのであった。しかも、プロメテウスの智謀はゼウスと互角だから、ゼウスは以前から抱いていた怒りを鎮めたとしている。なんとも矛盾に見える展開であるが、ゼウスの寛容さを強調しているのか?
ゼウスは、地上に暮らす死すべき身の人間どもには、けして火を与えなかった。だが、プロメテウスは、ゼウスの裏をかいて天空から火を盗み出し、人間どもに与えた。ゼウスは激怒し、すぐさま火の代償として、人間どもに禍いを創った。火の神ヘパイストスは、土から花恥ずかしい乙女(パンドラ)の姿を創る。女神アテナは、乙女に帯をつけてやり、白銀色の衣を着せる。ゼウスは、「善きもの(火)」の代わりとして、「美しい禍悪(女)」をこしらえ、人間どものところへ送ったのだった。おまけに、女たちの惹き起こす厄介事を避けて、結婚しようとしない者は、悲惨な老年に至るのだと。男どもに、老後の面倒を見てもらうために女に屈服する運命を与え、死ねば財産はすっかり嫁のものになるという寸法だ。なるほど、女性の方が寿命が長いにもかかわらず、男は自分より若い女にうつつを抜かす性格を持つというわけか。そして、立派な妻を娶るためには、競争を煽られる運命にあるのか。わざわざ人間どもに禍いをもたらさなくても、直接プロメテウスに怒りをぶつければいいものを...全能者のやることは陰険だ!
7. ステュクスの子供たち
様々な系譜が語られる中で、重要な役割を果たすのがオケアノス(大洋)の娘ステュクスの子供たちである。彼らが、主神ゼウスを中心とした秩序ある世界を形成する原動力になる。ステュクスは、ティタン族との戦いで、真っ先にゼウスに味方する。その際、ティタン族クレイオスの息子パロスとの間で儲けた強力な子供らを引き連れる。その子供らとは、ゼロス(栄光)、ニケ(勝利)、クラトス(威力)、ビア(腕力)である。スティクスの戦争の功により、この子供らにゼウスの館に永住するという特権が与えられ、ゼウスはこれを後ろ盾にして大いなる威勢を振るうことになる。
8. ヘカテ頌
突然、女神ヘカテが登場する。ヘカテ女神信仰は、カリア(アナトリア西部でイオニア方面)からギリシアにもたらされたものらしい。ここで語られるヘカテは、後世とは性格がかなり違ったものだという。つまり、しばしばアルテミスと混同される月神や地母神などの呪術的な特性を持っていないという。ヘカテは、冥界を除く、天、海、地に万能ではないにせよ、相当な権限を持ち、人間のあらゆる業を助けるとされる。そして、「善きものの贈り手」という性格があると同時に、気に入らぬ者には「奪い手」になるという性格がある。これは、一般的なギリシアの神々の典型だという。
天、地、海という広い範囲で権限を持つということは、ゼウスや海神ポセイドンの権限を犯すことにもなる。だが、家畜を殖やす場面では、神ヘルメスと協調したりと温和な性格を見せる。いくら権限を持つからといっても、結局ゼウスの大命の元でなされる特権であって、ヘカテには包容力を具えた偉大さが表れている。
9. ティタン戦争(ティタノマキア)
クロノスはティタンの神々を集めて、ゼウスのオリュンポスの神々と敵対した。オリンポス山に布陣したゼウスたちと、オトリュス山に布陣したティタンたちによる10年間の戦争である。ティタン族との対立とはいえ、ゼウスはティタン族のテミスを妻にしたり、これまたティタン族のムネモシュネを妻にしたりと複雑な関係がある。ゼウスの元には、ステュクスのようにティタン族系の子供らが味方したり、そもそもゼウス自身がティタン族クロノスの息子である。まぁ、宇宙創生から間もないのだから、三代も遡ればウラノスに辿り着くわけで、ティタン族との対立というよりはクロノス兄弟とゼウス兄弟の世代間対立と言った方がいいだろう。
母ガイアは、タルタロスに幽閉した者たちを味方にすれば、勝利を得ると予言した。そこで、ゼウスは、タルタロスに幽閉されていた怪物のキュクロプスとヘカトンケイルを味方につけた。キュクロプスは、ゼウスに雷光と雷電を与えた。戦争に勝利すると、ティタンの神々をタルタロス(冥界)に幽閉し、ヘカトンケイルを牢番とした。そして、ゼウス自らは天を、ポセイドーンには海を、ハデスには冥府の支配権を割り当てた。
10. テュポエウス(テュポン)との戦い
ティタンの神々が天から追放されると、ガイアはアプロディテの手引きでタルタロスと情愛の契りをして、怪物テュポエウスが生まれた。テュポエウスの腕は強力で疲れを知らない。肩からは竜の百の首が生え、目からは火を放つ。放っておけば、この怪物は世界に君臨するであろう。ゼウスは、それをいち早く察知して、雷鳴と雷光を浴びせて怪物の首を焼き払い、タルタロス(冥界)へと投げ込んだ。
さて、テュポエウスからは湿りを帯びて吹く荒々しい風どもが生まれてくる。ただし、ノトス(南風)、ポレアス(北風)、晴れ空をもたらすゼピュロス(西風)の出自は神々に由来する三柱の風で、死すべき身の人間どもには有益である。それ以外の風どもは、嵐となって荒れ狂い、人間どもには大きな禍いとなる。
11. タルタロス(冥界)とその住人たち
ここには、ヘシオドスの宇宙観が現れる。タルタロスのまわりには、青銅の牆が高くめぐらされ、夜が三重の層を成している。この暗闇の陰湿な場所にティタンの神々やテュポエウスが閉じ込められる。神楯(アイギス)を持つゼウスの忠実な見張り役としてポセイドンが青銅の門を設けている。ここに閉じ込められる連中は、太陽の光が与えられない。おまけに、大地からタルタロスまでは遠く隔たれる。天から青銅の鉄床までは、九日九夜も落ちつづけて、やっと十日目にして大地に届くほど遠く、大地から青銅の鉄床までは、九日九夜も落ちつづけて、やっと十日目にしてタルタロスに届くほど遠い。つまり、宇宙の最下底域にタルタロス(冥界)があるというわけだ。タルタロスの少し上まで、大地と海の根が伸びているという。そして、天の根までも最下底に伸びてきて、これらの根が複雑に絡みあってカオスを形成しているというのか?もはや現生には、宇宙の構成要素としての天や大地や海の区別もなく、天国や地獄の区別もないのかもしれない。
12. ゼウスと女神たちの結婚
ゼウスは、7度の結婚を繰り返す。最初に、オケアノス(大洋)とテテュスの娘、賢いメティスを妻とした。メティスが女神アテナを出産しよとした時、ゼウスは言葉巧みにメティスを欺き、妻を呑みこんだ。賢いメティスからは、並外れた賢い子供が生まれる定めになっていて、権力を奪われることを恐れたのだ。
二番目に、テミス(義しさ、秩序)を妻とし、エウノミア(秩序)、デイケ(正義)、エイレネ(平和)、そしてモイラ(運命)たちが生まれた。この子らには、死すべき身の人間どもの仕事に配慮して抜群の特権を与えた。モイラには、善運と悪運を授けた。三番目に、オケアノス(大洋)の娘エウリュノメを妻にし、3人のカリス(優雅女神)が生まれた。カリスたちが眼差しを向けると、四肢の力を萎えさせるエロスが溢れ出た。四番目に、デメテルを妻とし、ペルセポネが生まれた。五番目に、髪美しいムネモシュネを娶ると、9人のムーサ(詩歌女神)が生まれた。六番目に、レトを妻とし、アポロン、アルテミスが生まれた。最後に、ヘラを妻とし、ヘベ、アレス、エイレイテュイアが生まれた。
そして、かつて呑みこんだ女神アテナが、ゼウスの頭から生まれ出たとさ。
紀元前700年頃の詩人ヘシオドスは、ホメロスと並ぶ最古の叙事詩人として名高く、その著書「神統記」は、ギリシア神話における宇宙論の原典とされる。叙事詩としては、ホメロスの作品よりも詩(うた)っぽい。どちらの翻訳にも苦悩がうかがえるわけだが、ホメロスの長篇大作物語に対して、短編詩小説といったところであろうか。
本書は、宇宙創生のカオスの世界から、宇宙を構成する神々の系譜が生まれ、ついにはゼウスを主神とした秩序ある世界が誕生するまでを唄いあげる。ゼウスの得意技は雷鳴で、秩序を乱すところには必ず轟きわたる。それにしても全能者ってやつは...女神に目をつけては、あちこちに子を孕ませやがる...節操のない雷オヤジやなぁ...
本物語は、カオスから生まれた初代王ウラノス(天)、息子クロノス、孫ゼウスの三代に渡る王位継承伝説である。3人の王は、いずれも自分の権力を子供に奪われることを嫌い、子供たちを母親の腹中に閉じ込めたり、あるいは王自身が子供や妻を呑み込んだりと、この世に後継者が出現することを拒む。だが、王の本意に逆らい子供らは解放され、王位継承問題は骨肉の争いで解決されてきた。王の傲慢な性格は血を争えぬというわけだ。このまま残忍な行為が続けば無限循環論に陥り、混沌とした世界が続くであろう。
しかし、ゼウスには強力な味方がいた。ティタン(タイタン)族系の娘ステュクスの子供たちである。その子供たちとは、ゼロス(栄光)、ニケ(勝利)、クラトス(威力)、ビア(腕力)である。彼らにはゼウスの館の永住権が与えられ、あらゆる戦争に勝利するための原動力となる。そして、同じくティタン族系のプロメテウスなどの抵抗者に寛大な態度をとったり、オリュンポスの神々に持ち分を公平に分け与え特権を定めるなどして、全能者としての頭角を現していく。また、度重なる結婚を経て、エウノミア(秩序)、デイケ(正義)、エイレネ(平和)、モイラ(運命)たちの子供を儲けて、主神ゼウスの下に秩序ある世界の基礎が固まるのであった。
ヘシオドスについて、訳者廣川洋一氏は次のように解説している。
「ヘシオドスのあとにやがて訪れる新しい表現の時代、抒情詩の興隆時代の先触れとして、文学中のあざやかな経過のうちに彼をおいてみるとき、作中の個性の表出をたんなるフィクションとして見過すことは正しくないように思われる。」
ヘシオドスの代表作には、他に「仕事と日々」というのがある。ちなみに、岩波文庫から「仕事と日」として刊行されるが、絶版中のようだ。惜しい!
ヘシオドスは、農夫でありながら海上貿易商でもある半農半商の暮らしをしていたという。父親の遺産をめぐって弟ペルセスと争った時は、法廷に持ち込まれ、ペルセスは司法権を持つ貴族への賄賂で解決した。おまけに、怠惰なペルセスは遺産を浪費して、再び不正なやり方でこの実直な詩人の財産をも狙いをつけたという。このあたりは、「仕事の日々」に匂わせているらしい。
その後、ヘシオドスは、窮迫してボイオティアの寒村で農夫生活をしたという。その頃、ヘリコン山麓で特別な体験をしたことが、この「神統記」の序詞に記される。羊を飼い畑を耕す農民が、ムーサ(詩歌女神)たちに出会って詩人に目覚めていく場面である。
「野山に暮らす羊飼いたちよ 卑しく哀れなものたちよ 喰(くら)いの腹しかもたぬ者らよ
私たちは たくさんの真実に似た虚偽(いつわり)を話すことができます
けれども 私たちは、その気になれば 真実を宣(の)べることもできるのです」
当時ムーサという職業が存在したのかもしれないが、それは落語家が神聖化したようなものだろうか?僧侶のような意味合いもあるのかもしれない。
ヘシオドスは、真実を唄う詩人として目覚めていくわけだが、本業は農民であって、専門的な職業詩人ではないという。この作品は、ムーサに歌わせているようで、実はヘシオドス自身が伝説を調べて記録したものなのか?文学作品のようで、歴史小説風の性格も兼ね備えてる。こうして見ると歴史学は文学から派生したようにも見えてくる。また、宇宙体系の成立する原理を、自然要素の擬人化や神格化によって物語るあたりは、自然哲学と科学の結びつきの源泉、あるいは宗教の源泉なるものを眺めているような気がしてくる。
1. 序詞
物語は、ヘリコン山のムーサ(詩歌女神)たちの賛歌から始まる。この山には神々の霊魂が宿り、ムーサたちを祀る泉があるとされる。馬の蹄に蹴られて生じた泉は、馬の泉(ヒップウクレネ)と呼ばれ、そのほとりにはゼウスの祭壇があるという。後世、その馬は天馬ペガソス(ペガサス)であったという説もある。ペルメソスとオルメイオスの二つの川が合流してコパイス湖に注ぐ。ちなみに、この二つの川は、現在のどの河川に相当するかは判明していないらしい。
エレウテルの丘陵を治める女神ムネモシュネは、ピエリアの地で父神ゼウスに九夜に渡って添寝し、9人の娘のムーサたちが生まれた。ちなみに、ピエリアとは、オリュンポス山のすぐ北側の地で、ホメロスでは神々がオリュンポスから天降る際、最初に降り立つとされる所。
ここでは、主神ゼウスが父クロノスを打ち負かして、オリュンポスの神々に持ち分を公平に分け与え特権を定めた...という物語を、ムーサたちが歌っていることが宣言される。
2. 宇宙の創生
まず、原初にカオスが誕生した。次にガイア(大地)、タルタロス(冥界)、美しいエロス(愛)が生まれた。更に、カオスから、エレボス(幽冥)とニュクス(夜)が生まれ、エレボスとニュクスが情愛を契りして、アイテル(澄明)とヘレメ(昼)が生まれた。カオスといえば混沌とした世界を想像するが、ここでは万物を創生するための空間のようなものが生じたという意味があるようだ。そこには、あらゆる空間要素を擬人化し、おまけに神格化する独特の宇宙観念がある。これには、精神における一種の実体的な存在とでも言おうか、実存論の源泉なるものを感じる。
3. ティタン(タイタン)族と怪物の誕生
ガイアは、情愛の契りもせずにウラノス(天)、ポントス(海)、そして高い山々を生んだ。次に、ガイアは、ウラノスに添寝してティタン十二神を生んだ。父ウラノスが「ティタンども」と渾名したのは、子供たちを罵って、向こう見ずにも手を伸ばし(テイタイノ)、大それた所業をなすが、やがて報復(テイシス)がやってこようという意味があるという。その十二神とは、オケアノス(大洋)、コイオス、クレイオス、ヒュペリオン(太陽神あるいは光明神)、イアペトス、テイア、レイア、テミス(義しさ、秩序)、ムネモシュネ(記憶)、ポイベ、テテュス(泉や地下水の神)、末子の悪知恵長けたクロノス。
また、ガイアは単眼の巨人キュクロプス(円い目と渾名された)どもを生んだ。ブロンテス、ステロペス、アルゲスがそれで、ゼウスに雷鳴を贈り、雷電を造りやったものどもである。ガイアとウラノスの間からは、他にも五十の首を持つヘカトンケイル(百手巨人族)たちが生まれた。コットス、ブリアレオス、ギュゲスがそれである。
4. ウラノスの去勢とアプロディテの誕生
ガイアが生んだ怪物たちは、最初から父ウラノスから憎まれていた。悪業にうつつを抜かしていたからである。父ウラノスは、この子供らを片っ端からガイアの腹中に閉じ込めた。怨んだガイアは、鋼鉄(アダマス)の族を造り、大鎌をこしらえると、愛しい子供たちに語った。父の非道な仕業に復讐せよと。だが、父を恐れて口を開く者はいない。そこに、末子クロノスがその役目を引き受けると申し出た。喜んだ母ガイアは、大鎌を手渡し密計を授けた。そして、夜にウラノスがガイアに情愛を求めて覆いかぶさると、クロノスが大鎌で父の男根を刈り取った。流れ出る血の滴りからは、エリニュス(復讐女神)たち、ギガス(巨人)たち、そして、メリアと呼ばれるニュンペ(女精)たちが生まれた。かくして、ウラノスの子供らは解放され、クロノスが王位についた。
さて、父の男根の方はというと、海に投げ捨てられるとしばらく海面に漂っていた。やがて、白い泡(アプロス)が不死の肉から湧き立ち、その中から一人の乙女が生まれた。乙女は、まず聖キュテラに立ち寄り、キュプロス島に辿り着いた。これが原初の美女神アプロディテである。ちなみに、アプロディテとは、「アプロゲネス(泡から生まれた女神)、麗しい花冠をつけたキュテレイア」という意味があるという。
5. ゼウスの誕生
王クロノスは、姉妹のレイアを妻として栄えある子供たちを生んだ。ヘスティア(炉の女神)、デメテル、ヘラ、冷酷な心を持つ強いハデス(プルートーン)、大地を震わすポセイドン、賢いゼウスの6人を。ところが、クロノスは子供たちを片っ端から呑みこんでしまった。というのも、母ガイアから己の息子によって打ち倒されるという定めを聞いていたからである。
レイアは悲しみに暮れ、ゼウスを孕んだ時クレタへ赴きガイアに懇願した。ガイアは、アイガイオン山中の洞窟に匿い、ゼウスの身代わりに大石に産衣を着せて渡すと、クロノスはその石を呑み込んだ。やがて、ゼウスは成長する。クロノスは、ゼウスの策略によって呑み込んだ子供たちを吐き出した。最初に、最後に呑み込んだ石を吐く。ゼウスは、この石をパルナッソスの谷間のピュトの地に安置した。ちなみに、ピュトの地がパルナッソス山ふもとのデルポイという説もあるそうな。かくしてゼウスは、兄弟たちを父の恐るべき束縛から解放したのであった。そして、ゼウスと兄弟たちは、不死の神々に君臨した。
6. プロメテウス伝説と女の誕生
ティタン族のイアペトスは、オケアノス(大洋)の娘クリュメネを娶り、アトラス、メノイティオス、策に富むプロメテウス、思慮の浅いエピメテウスが生まれた。プロメテウスは「先を見とおす者」、エピメテウスは「後から知る者」という意味があるという。イアペトス家は、ゼウス新政権の最初の敵対者であった。後に、暗愚のエピメテウスは、ゼウスからの贈り物を一切受け取ってはならないと忠告したプロメテウスの言葉を忘れ、乙女(パンドラ)を受け取って禍いを被ることになって、はじめて真相を知ることになる...
イアペトス家に怒ったゼウスは、傲慢なメノイティオスをエレボス(幽冥)へ送った。アトラスは、大地の果てで、ヘスペリス(黄昏の娘)たちの面前で、立ったままの姿勢に。プロメテウスには、冷酷な縄目によって縛り付け、鷲をけしかけた。鷲は彼の不滅の肝臓を毎日喰ったが、肝臓は同じ分量だけ生え出した。テバイ生まれのヘラクレスは、その鷹を退治し、プロメテウスを苦痛から救い出した。これはゼウスの意向に沿わないはずだが、「高空に知ろしめすゼウスの意向に悖りはしない」とし、むしろヘラクレスの誉れを贊えたのであった。しかも、プロメテウスの智謀はゼウスと互角だから、ゼウスは以前から抱いていた怒りを鎮めたとしている。なんとも矛盾に見える展開であるが、ゼウスの寛容さを強調しているのか?
ゼウスは、地上に暮らす死すべき身の人間どもには、けして火を与えなかった。だが、プロメテウスは、ゼウスの裏をかいて天空から火を盗み出し、人間どもに与えた。ゼウスは激怒し、すぐさま火の代償として、人間どもに禍いを創った。火の神ヘパイストスは、土から花恥ずかしい乙女(パンドラ)の姿を創る。女神アテナは、乙女に帯をつけてやり、白銀色の衣を着せる。ゼウスは、「善きもの(火)」の代わりとして、「美しい禍悪(女)」をこしらえ、人間どものところへ送ったのだった。おまけに、女たちの惹き起こす厄介事を避けて、結婚しようとしない者は、悲惨な老年に至るのだと。男どもに、老後の面倒を見てもらうために女に屈服する運命を与え、死ねば財産はすっかり嫁のものになるという寸法だ。なるほど、女性の方が寿命が長いにもかかわらず、男は自分より若い女にうつつを抜かす性格を持つというわけか。そして、立派な妻を娶るためには、競争を煽られる運命にあるのか。わざわざ人間どもに禍いをもたらさなくても、直接プロメテウスに怒りをぶつければいいものを...全能者のやることは陰険だ!
7. ステュクスの子供たち
様々な系譜が語られる中で、重要な役割を果たすのがオケアノス(大洋)の娘ステュクスの子供たちである。彼らが、主神ゼウスを中心とした秩序ある世界を形成する原動力になる。ステュクスは、ティタン族との戦いで、真っ先にゼウスに味方する。その際、ティタン族クレイオスの息子パロスとの間で儲けた強力な子供らを引き連れる。その子供らとは、ゼロス(栄光)、ニケ(勝利)、クラトス(威力)、ビア(腕力)である。スティクスの戦争の功により、この子供らにゼウスの館に永住するという特権が与えられ、ゼウスはこれを後ろ盾にして大いなる威勢を振るうことになる。
8. ヘカテ頌
突然、女神ヘカテが登場する。ヘカテ女神信仰は、カリア(アナトリア西部でイオニア方面)からギリシアにもたらされたものらしい。ここで語られるヘカテは、後世とは性格がかなり違ったものだという。つまり、しばしばアルテミスと混同される月神や地母神などの呪術的な特性を持っていないという。ヘカテは、冥界を除く、天、海、地に万能ではないにせよ、相当な権限を持ち、人間のあらゆる業を助けるとされる。そして、「善きものの贈り手」という性格があると同時に、気に入らぬ者には「奪い手」になるという性格がある。これは、一般的なギリシアの神々の典型だという。
天、地、海という広い範囲で権限を持つということは、ゼウスや海神ポセイドンの権限を犯すことにもなる。だが、家畜を殖やす場面では、神ヘルメスと協調したりと温和な性格を見せる。いくら権限を持つからといっても、結局ゼウスの大命の元でなされる特権であって、ヘカテには包容力を具えた偉大さが表れている。
9. ティタン戦争(ティタノマキア)
クロノスはティタンの神々を集めて、ゼウスのオリュンポスの神々と敵対した。オリンポス山に布陣したゼウスたちと、オトリュス山に布陣したティタンたちによる10年間の戦争である。ティタン族との対立とはいえ、ゼウスはティタン族のテミスを妻にしたり、これまたティタン族のムネモシュネを妻にしたりと複雑な関係がある。ゼウスの元には、ステュクスのようにティタン族系の子供らが味方したり、そもそもゼウス自身がティタン族クロノスの息子である。まぁ、宇宙創生から間もないのだから、三代も遡ればウラノスに辿り着くわけで、ティタン族との対立というよりはクロノス兄弟とゼウス兄弟の世代間対立と言った方がいいだろう。
母ガイアは、タルタロスに幽閉した者たちを味方にすれば、勝利を得ると予言した。そこで、ゼウスは、タルタロスに幽閉されていた怪物のキュクロプスとヘカトンケイルを味方につけた。キュクロプスは、ゼウスに雷光と雷電を与えた。戦争に勝利すると、ティタンの神々をタルタロス(冥界)に幽閉し、ヘカトンケイルを牢番とした。そして、ゼウス自らは天を、ポセイドーンには海を、ハデスには冥府の支配権を割り当てた。
10. テュポエウス(テュポン)との戦い
ティタンの神々が天から追放されると、ガイアはアプロディテの手引きでタルタロスと情愛の契りをして、怪物テュポエウスが生まれた。テュポエウスの腕は強力で疲れを知らない。肩からは竜の百の首が生え、目からは火を放つ。放っておけば、この怪物は世界に君臨するであろう。ゼウスは、それをいち早く察知して、雷鳴と雷光を浴びせて怪物の首を焼き払い、タルタロス(冥界)へと投げ込んだ。
さて、テュポエウスからは湿りを帯びて吹く荒々しい風どもが生まれてくる。ただし、ノトス(南風)、ポレアス(北風)、晴れ空をもたらすゼピュロス(西風)の出自は神々に由来する三柱の風で、死すべき身の人間どもには有益である。それ以外の風どもは、嵐となって荒れ狂い、人間どもには大きな禍いとなる。
11. タルタロス(冥界)とその住人たち
ここには、ヘシオドスの宇宙観が現れる。タルタロスのまわりには、青銅の牆が高くめぐらされ、夜が三重の層を成している。この暗闇の陰湿な場所にティタンの神々やテュポエウスが閉じ込められる。神楯(アイギス)を持つゼウスの忠実な見張り役としてポセイドンが青銅の門を設けている。ここに閉じ込められる連中は、太陽の光が与えられない。おまけに、大地からタルタロスまでは遠く隔たれる。天から青銅の鉄床までは、九日九夜も落ちつづけて、やっと十日目にして大地に届くほど遠く、大地から青銅の鉄床までは、九日九夜も落ちつづけて、やっと十日目にしてタルタロスに届くほど遠い。つまり、宇宙の最下底域にタルタロス(冥界)があるというわけだ。タルタロスの少し上まで、大地と海の根が伸びているという。そして、天の根までも最下底に伸びてきて、これらの根が複雑に絡みあってカオスを形成しているというのか?もはや現生には、宇宙の構成要素としての天や大地や海の区別もなく、天国や地獄の区別もないのかもしれない。
12. ゼウスと女神たちの結婚
ゼウスは、7度の結婚を繰り返す。最初に、オケアノス(大洋)とテテュスの娘、賢いメティスを妻とした。メティスが女神アテナを出産しよとした時、ゼウスは言葉巧みにメティスを欺き、妻を呑みこんだ。賢いメティスからは、並外れた賢い子供が生まれる定めになっていて、権力を奪われることを恐れたのだ。
二番目に、テミス(義しさ、秩序)を妻とし、エウノミア(秩序)、デイケ(正義)、エイレネ(平和)、そしてモイラ(運命)たちが生まれた。この子らには、死すべき身の人間どもの仕事に配慮して抜群の特権を与えた。モイラには、善運と悪運を授けた。三番目に、オケアノス(大洋)の娘エウリュノメを妻にし、3人のカリス(優雅女神)が生まれた。カリスたちが眼差しを向けると、四肢の力を萎えさせるエロスが溢れ出た。四番目に、デメテルを妻とし、ペルセポネが生まれた。五番目に、髪美しいムネモシュネを娶ると、9人のムーサ(詩歌女神)が生まれた。六番目に、レトを妻とし、アポロン、アルテミスが生まれた。最後に、ヘラを妻とし、ヘベ、アレス、エイレイテュイアが生まれた。
そして、かつて呑みこんだ女神アテナが、ゼウスの頭から生まれ出たとさ。
2010-10-10
"オデュッセイア(上/下)" ホメロス 著
前記事「イリアス」に続いて、今宵もホメロスの叙事詩に陶酔する。読書の秋やねぇ~
「オデュッセイア」とは、「オデュッセウスの歌」という意味。オデュッセウスは、トロイア陥落の契機となった木馬の計を用いた人物で、智謀の勇士として名高い。トロイア戦争終結後、勝利したアカイア軍の勇士たちはギリシャ各地へ帰途につくが、オデュッセウスには苦難な漂流の旅が待っていた。
一方、故国イタケでは、王オデュッセウスは死んだとされ、王妃ペネロペイアに多くの求婚者が遺産目当てに殺到し、国を乗っ取ろうとする謀略者で渦巻いていた。
本物語は、オデュッセウスが美貌の仙女カリュプソの島に足止めされている場面から始まる。この勇士を気の毒に思った女神アテネは、主神ゼウスに取り計らって帰国の許可を得る。だが、イタケへの帰途、トロイアびいきのポセイダオン(海神ポセイドン)が妨害を企てる。オデュッセウスは、様々の苦難の末、トロイア出征から20年後にして故国へ帰還する。そして、求婚者たちへのマカロニウエスタン風の復讐劇が始まるのであった。
ところで、トロイア戦争にまつわる伝説は、全8作の叙事詩によって語り尽くされるという。いわゆる「叙事詩の環」と呼ばれるものである。
その順を追うと...
1. 詩神ムーサへの祈り
「ムーサよ、わたくしにかの男の物語をして下され、トロイアの聖なる城を屠った後、ここかしこと放浪の旅に明け暮れた、かの機略縦横なる男の物語を。」
かの男とは、オデュッセウスのこと。つまり、本書の語り手は詩神ムーサという設定がある。ちなみに、ムーサ(ラテン語形Musa)の英語名Museは、musicやmuseumの語源にもなっているようだ。
智謀の勇士オデュッセウスは、美貌の仙女カリュプソの島に引き止められていた。ポセイダオン以外の神々は、聡明なオデュッセウスを憐れんだ。神々の集会で、アテネがゼウスに建言し、オデュッセウスの帰国が決議される。そして、女神カリュプソの元へは父神ゼウスの子ヘルメスを、イタケへは女神アテネが遣わされる。
2. 息子テレマコス、父オデュッセウスを探す旅へ
イタケでは、オデュッセウスの妻ペネロペイアに多くの求婚者が財産目当てに殺到していた。オデュッセウスの息子テレマコスは、女神アテネの激励を受け、父オデュッセウスを探すべく、トロイア戦争に参戦したネストルの居城のあるピュロス(ペロポネソス半島南西部)へと船出する。一行がピュロスに着くと、ネストル一族が海神ポセイダオンに生贄を献じているところであった。テレマコスは歓待を受け、ピュロス王ネストルの知っている情報を聞く。ネストルは、勇士アイアス、パトロクロス、アキレウスがトロイアの地で最期を遂げたことと、アガメムノンが既に死んだことを話すが、オデュッセウスの消息については知らないという。そして、アガメムノンの弟であるスパルタ王メネラオスを訪ねるように勧める。テレマコスは、ネストルの末子ペイシストラトスと共にスパルタ国の聖都ラケダイモンへ向う。
一行は、スパルタでメネラオスとその妻ヘレネの歓待を受ける。メネラオスはエジプトに漂流した時、ポセイダオンに仕える翁プロテウスから聞いたアカイア軍の将領たちの消息を語る。そして、将領たちのうち二人が帰国の途中に命を落としたという。まず、小アイアスが船団の中で果てた。ポセイダオンがその船を岩礁に撃ちつけたが、一旦は救いだされた。彼はアテネに恨まれていたが、暴言を吐いていなかったら助けられていたかもしれないと。次に、アガメムノンは、女神ヘレに助けられて故郷の地を踏んだが、見張り役に奸計をめぐらされ殺害されたという。オデュッセウスについては、生存しているらしいということしか判らないという。
一方、求婚者たちは、テレマコスの帰途を狙って殺害せんと企てていた。
3. オデュッセウス、パイエケス人の国へ
神々の使者ヘルメスが、主神ゼウスとオリュンポスの神々の意志を伝えると、美貌の仙女カリュプソは快く承諾する。そして、オデュッセウスに筏を作らせ大海へ送り出す。だが、パイエケス人の国スケリエ島に到着直前、ポセイダオンに見つけられ筏は破壊される。海の女神レウコテエは、ポセイダオンに苦難を与えられる不運な男を憐れみ助ける。オデュッセウスは島に泳ぎ着き、森をさまよいオリーブの茂みで眠りにつく。
女神アテネは、パイエケス人の国へ行き、王女ナウシカアの夢枕に立ち、翌朝洗濯をするように勧める。洗い場の近くで眠っていたオデュッセウスは、女中たちの声で目覚め王女に救いを求める。王女ナウシカアは着物と食事を与え王宮へ連れ帰る。オデュッセウスは客人として歓待を受け、王アルキノオスに嘆願して帰国の援助を確約する。
ちなみに、女神アテネが言うには、パイエケス人の国の初代王ナウシトオスは、あの恨みをかっているポセイダオンの御子だという。後にオデュッセウスを助けたパイエケス人たちは、ポセイダオンの怒りにふれることになる。
この時、まだ異国の客人オデュッセウスは名前を名乗っていない。彼は、貴公子たちの競技で円盤投げに参加して見事な腕を見せる。宴席では、楽人デモドコスの歌うトロイア戦の物語を聞いて、オデュッセウスが涙する。続いて「アレスとアプロディテの密通」の物語を歌う。ちなみに、アプロディテはパリスを誘惑してトロイア戦争の原因を作り、軍神アレスはトロイアに戦いを煽った厄介神。ついで、「木馬の計」の物語に再び落涙し、王アルキノオスから素性を訊ねられる。
4. オデュッセウスの漂流記
王アルキノオスにイタケのオデュッセウスであることを明かし、これまでの漂流記を物語る。...
まず、キコネス人(トラキアの部族)の国を荒らした。ついで隻眼の巨人キュクロプスの国では、多くの部下が食われながらも、奇略によって眼を潰し辛くも脱出した。風神アイオロスの島では、せっかく風神が風を封じこめてくれた袋を、部下が宝物と邪推して開けたために嵐となり、帰国寸前にアイオロスの島へ逆戻りした。ついで、キュクロプス族に似て野蛮なライストリュゴネス族の国に着き、多くの部下を失う。おまけに、魔女キルケに部下が豚にされる。だが、神ヘルメスに救われて、ここで丸一年を過ごしてしまう。魔女キルケは、帰国の道順を知りたければ、冥界へ行って帰国に関する予言を聞かなければならないと教える。オデュッセウスは、冥府では先ず、キルケの許で死んだ部下エルペノルの霊に会う。ついで予言者の老師テイレシアスが帰国のこと、帰国後のことを予言する。オデュッセウスの母アンティクレイアの霊からは留守宅の事情を聞く。また、アガメムノン、アキレウス、アイアスらの旧友、タンタロス、シシュポス、ヘラクレスらの著名な英雄たちの霊と会った話を...
更に、セイレーンの誘惑、怪物スキュレと魔の淵カリュブディス、陽の神(エエリオス)の牛の話を続ける。オデュッセウスは、一旦、魔女キルケの許へ戻り再出発する。途中、美声で人間を惑わし難破させる魔女(怪鳥)セイレーンたちのいる海域を通過することになることを、魔女キルケが忠告する。オデュッセウスは、部下たちに耳を蜜蝋で塞ぐように指示するが、歌が聞きたいために自身の体を帆柱に縛り付けるように命じる。続いて、怪物スキュレの棲家である岩と魔の淵カリュブディスでは、犠牲者を出しながらもなんとか通過する。オデュッセウスは、予言者テイレシアスと魔女キルケに「陽の神の島は避けよ!」と警告されていたことを部下たちに伝えるが、部下たちは禁じられたことはせぬと宣誓して、トリナキエの島に上陸してしまう。やがて、船荷に穀物と酒の蓄えが尽きると、船員たちは禁断のエエリオス(ヘリオス)の牛を殺して食してしまった。そのことを娘ランペティエが陽の神ヒュペリオン(エエリオスの異名)に知らせると、荒れ狂う風によって、魔の淵カリュブディスや怪物スキュレの棲家まで引き戻され、部下はことごとく死ぬ。そして、オデュッセウスただ一人が、カリュブディス(カリュプソ)の島に着く。
...これで、オデュッセウスの物語る漂流記はおしまい。
5. オデュッセウス、イタケに帰還
オデュッセウスは多くの土産物をもらい、王アルキノオスから船を提供してもらいイタケに送ってもらう。パイエケス人たちは、眠っているオデュッセウスをイタケに降ろして、置いたまま去る。だが、パイエケス人たちが、スケリエ島に帰港する寸前、怒ったポセイダオンは船を石に変えて海底に沈める。
眠りから覚めたオデュッセウスは、ここが故国とは気づかずに一人途方に暮れる。それを女神アテネが助け、土産などの宝物を洞窟に隠し、正体がばれないようにオデュッセウスをみすぼらしい老人に変装させる。そして、求婚者たちを討つ手立てを協議した後、アテネはテレマコスを迎えにスパルタへ発つ。オデュッセウスは、アテネの指示に従って下僕の中で最も忠実な豚飼エウマイオスを訪ねる。エウマイオスはそれがオデュッセウスと知らずに、異国の老人を歓待する。オデュッセウスは素性を明かさずに、作り話の遍歴談を語り、オデュッセウスが年内に帰国すると話す。だが、エウマイオスは信じようとしない。主人は既に亡くなったと思っている。
一方、息子テレマコスは、女神アテネに帰国を促される。いつまでも、求婚者たちに財産を好き放題にさせるわけにはいかないと。そして、スパルタを発ちピュロスから乗船してイタケへ向う。船には、亡命者テオクリュメノスという占いに長けた男を同乗させる。求婚者たちは、イタケと岩根険しきサモスの間の海上で待伏せして、テレマコスを殺害せんとする。アテネは神々が順風を送ってくださると励まし、求婚者の一味をはぐらかしてイタケに帰国させる。
一行のうちテレマコスだけは、町へ行かず豚飼エウマイオスを訪ねる。豚飼エウマイオスは若様の帰還を喜び、求婚者の暴慢無礼な言語道断を報告する。豚飼が妃ペネロペイアにテレマコスの帰国を報告に出かけた後、アテネがオデュッセウスに立派な衣裳を整えると、テレマコスは神になった父を見るかのように再会を喜ぶ。オデュッセウスは、主神ゼウスの後ろ盾で女神アテネによって助けられたことを語り、二人は求婚者討伐の計画を練る。
そして、父が亡くなったと偽ることにして、またもやみすぼらしい衣裳を身に纏う。
6. オデュッセウスと妻ペネロペイアとの再会
テレマコスが一足先に屋敷へ帰り、母ペネロペイアに無事な姿を見せ、乞食の異国人がオデュッセウスのことを何か知っていると話す。オデュッセウスと豚飼は、求婚者たちがたむろする屋敷の広間へ向った。求婚者の頭領アンティノオスは、オデュッセウスのみすぼらしい乞食姿を見て罵り、足台を投げつける。そこに、土着の乞食で通称イロスという意地汚さで評判な男がいた。彼は乞食姿のオデュッセウスに喧嘩を売る。求婚者たちは二人の乞食が争う様を愉快に見物するが、オデュッセウスの乞食姿から見せた全身の筋肉の見事さに感嘆する。そして、イロスを打ち据えると、求婚者たちはその異国の老人を讃える。
妃ペネロペイアは、求婚者たちの無法をなじりながら、言葉巧みに贈り物を要求する。オデュッセウスは、妻が心中とは別のことを思いつつも、求婚者たちの心を惑わす態度をひそかに喜ぶ。
一旦、求婚者たちが屋敷を去ると、妻ペネロペイアがオデュッセウスに近づき、いよいよ再会となる。だが、出征してから20年にもなるだから、この長い月日を隔てれば、話しかけるのも容易なことではない。その場は、偽りの素性を語り、王が近々帰国すると話す。
足洗い場では、乳母の老女エウリュクレイアが、乞食の足に触れると足の古傷に気づき、それがオデュッセウスだと知る。だが、オデュッセウスは、求婚者たちを討つためと召使たちの裏切りを見抜くために素性を明かさぬように指示する。
7. 求婚者誅殺
妃ペネロペイアは、新しい夫を選ぶために、翌日弓の競技を開催することを伝える。求婚者たちをいかに誅罰すべきかを思いめぐらせながら眠れぬオデュッセウスの前に、女神アテネが現れ援助を約束する。成功を祈願するオデュッセウスに、ゼウスが雷鳴を鳴らし吉兆を示す。アテネは、宴会中の求婚者たちを錯乱状態に陥れる。亡命した予言者テオクリュメノスが彼らの最期の近いことを予言する。
王妃は、アテネに促されて12の斧を射通した者に嫁ぐと宣言する。求婚者たちが試みてはことごとく失敗。豚飼エウマイオス同様、忠義の召使に牛飼ピロイティオスなる人物がいた。豚飼と牛飼の二人がオデッュセウスの帰還を神々に祈願していると、「その男はここに帰ってきている!」と、自分の正体を明かす。そして、オデュッセウスに弓を手渡して見事に射抜く。オデュッセウスは纏っていたボロをかなぐり捨て、次の瞬間、盃を口元へ近づけようとする首謀アンティノオスの咽喉を射当てた。オデュッセウスは、トロイアから帰還したことを高々と宣言する。アンテノオスと並ぶ実力者エウリュマコスは、開き直って他の求婚者たちとともにオデュッセウスに躍り掛かる。オデュッセウスは、求婚者をことごとく誅殺した後、不忠の召使や女中たちを処刑する。
すべてが終わった後、屋敷の惨劇の跡を硫黄を燃やして清める。
8. 冥界の物語と求婚者たちの親族との和解
妃ペネロペイアは、乳母エウリュクレイアから乞食の客人がオデュッセウスであるこを聞く。広間で夫婦が再会するが、妃は容易に夫であることが信じられない。オデュッセウスが、二人しか知らない寝室の秘密に触れるとようやく納得する。そして、漂流中の出来事を物語って聞かせる。翌朝、オデュッセウス親子と忠義の下僕の二人は、老父ラエルテスの住む田舎の農園へ向う。
神ヘルメスは求婚者たちの霊魂を呼び出した。求婚者たちの霊は神ヘルメスに導かれて冥界に降り、アガメムノンやアキレウスらの霊に会う。旧友の霊たちはオデュッセウスの無地帰還したことを語り合う。
農園で老父ラエルテスは、亡くなったと思っていた我が子を見て涙する。求婚者たちの親族は、アンティノオスの父エウペイテスに扇動されて農園を襲うが、エウペイテスは老父ラエルテスに討たれる。そして、女神アテネの裁定によって、両者は和解して物語を終える。
「オデュッセイア」とは、「オデュッセウスの歌」という意味。オデュッセウスは、トロイア陥落の契機となった木馬の計を用いた人物で、智謀の勇士として名高い。トロイア戦争終結後、勝利したアカイア軍の勇士たちはギリシャ各地へ帰途につくが、オデュッセウスには苦難な漂流の旅が待っていた。
一方、故国イタケでは、王オデュッセウスは死んだとされ、王妃ペネロペイアに多くの求婚者が遺産目当てに殺到し、国を乗っ取ろうとする謀略者で渦巻いていた。
本物語は、オデュッセウスが美貌の仙女カリュプソの島に足止めされている場面から始まる。この勇士を気の毒に思った女神アテネは、主神ゼウスに取り計らって帰国の許可を得る。だが、イタケへの帰途、トロイアびいきのポセイダオン(海神ポセイドン)が妨害を企てる。オデュッセウスは、様々の苦難の末、トロイア出征から20年後にして故国へ帰還する。そして、求婚者たちへのマカロニウエスタン風の復讐劇が始まるのであった。
ところで、トロイア戦争にまつわる伝説は、全8作の叙事詩によって語り尽くされるという。いわゆる「叙事詩の環」と呼ばれるものである。
その順を追うと...
- 「キュプリア(キュプロス物語?)」 スタシーノス作
主神ゼウスの思いつきでトロイア戦争が始まり、「パリスの審判」が語られる。これは、キュプロス物語という意味のようだが、その命名は判然としないという。 - 「イリアス」 ホメロス作
トロイア戦争末期の聖都イリオスの攻防、アキレウスがトロイア最大の英雄ヘクトルを討つ。 - 「アイティオピス(エチオピア物語)」 ミトレスのアルクティノス作
トロイアに来援したエチオピア王メムノンがアキレウスに討たれ、アキレウスもアポロンの援助を受けたパリスに討たれる。 - 「小イリアス」 レスケース作
亡きアキレウスの武具をめぐってオデュッセウスと大アイアスが競い、敗れた大アイアスは狂って自刃する。木馬の計は、ここで語られる。 - 「イリオス落城」 ミトレスのアルクティノス作
木馬の計でトロイア陥落。 - 「ノストイ(帰国談)」 アギアス or コリントスのエウメーロス作
故国に凱旋するギリシア軍諸将の運命を物語る。小アイアスの死、あるいは妻と姦夫によるアガメムノン謀殺、そして、その遺児オレステスが仇討ちを果たす。 - 「オデュッセイア」 ホメロス作
生き残った智謀の将オデュッセウスの物語。
- 「テレゴニア(テレゴノス物語)」 エウガモン作
イタケに帰国したオデュッセウスは、魔女キルケとの間に息子テレゴノスをもうける。そして、テレゴノスは誤って父オデュッセウスを殺してしまう。
1. 詩神ムーサへの祈り
「ムーサよ、わたくしにかの男の物語をして下され、トロイアの聖なる城を屠った後、ここかしこと放浪の旅に明け暮れた、かの機略縦横なる男の物語を。」
かの男とは、オデュッセウスのこと。つまり、本書の語り手は詩神ムーサという設定がある。ちなみに、ムーサ(ラテン語形Musa)の英語名Museは、musicやmuseumの語源にもなっているようだ。
智謀の勇士オデュッセウスは、美貌の仙女カリュプソの島に引き止められていた。ポセイダオン以外の神々は、聡明なオデュッセウスを憐れんだ。神々の集会で、アテネがゼウスに建言し、オデュッセウスの帰国が決議される。そして、女神カリュプソの元へは父神ゼウスの子ヘルメスを、イタケへは女神アテネが遣わされる。
2. 息子テレマコス、父オデュッセウスを探す旅へ
イタケでは、オデュッセウスの妻ペネロペイアに多くの求婚者が財産目当てに殺到していた。オデュッセウスの息子テレマコスは、女神アテネの激励を受け、父オデュッセウスを探すべく、トロイア戦争に参戦したネストルの居城のあるピュロス(ペロポネソス半島南西部)へと船出する。一行がピュロスに着くと、ネストル一族が海神ポセイダオンに生贄を献じているところであった。テレマコスは歓待を受け、ピュロス王ネストルの知っている情報を聞く。ネストルは、勇士アイアス、パトロクロス、アキレウスがトロイアの地で最期を遂げたことと、アガメムノンが既に死んだことを話すが、オデュッセウスの消息については知らないという。そして、アガメムノンの弟であるスパルタ王メネラオスを訪ねるように勧める。テレマコスは、ネストルの末子ペイシストラトスと共にスパルタ国の聖都ラケダイモンへ向う。
一行は、スパルタでメネラオスとその妻ヘレネの歓待を受ける。メネラオスはエジプトに漂流した時、ポセイダオンに仕える翁プロテウスから聞いたアカイア軍の将領たちの消息を語る。そして、将領たちのうち二人が帰国の途中に命を落としたという。まず、小アイアスが船団の中で果てた。ポセイダオンがその船を岩礁に撃ちつけたが、一旦は救いだされた。彼はアテネに恨まれていたが、暴言を吐いていなかったら助けられていたかもしれないと。次に、アガメムノンは、女神ヘレに助けられて故郷の地を踏んだが、見張り役に奸計をめぐらされ殺害されたという。オデュッセウスについては、生存しているらしいということしか判らないという。
一方、求婚者たちは、テレマコスの帰途を狙って殺害せんと企てていた。
3. オデュッセウス、パイエケス人の国へ
神々の使者ヘルメスが、主神ゼウスとオリュンポスの神々の意志を伝えると、美貌の仙女カリュプソは快く承諾する。そして、オデュッセウスに筏を作らせ大海へ送り出す。だが、パイエケス人の国スケリエ島に到着直前、ポセイダオンに見つけられ筏は破壊される。海の女神レウコテエは、ポセイダオンに苦難を与えられる不運な男を憐れみ助ける。オデュッセウスは島に泳ぎ着き、森をさまよいオリーブの茂みで眠りにつく。
女神アテネは、パイエケス人の国へ行き、王女ナウシカアの夢枕に立ち、翌朝洗濯をするように勧める。洗い場の近くで眠っていたオデュッセウスは、女中たちの声で目覚め王女に救いを求める。王女ナウシカアは着物と食事を与え王宮へ連れ帰る。オデュッセウスは客人として歓待を受け、王アルキノオスに嘆願して帰国の援助を確約する。
ちなみに、女神アテネが言うには、パイエケス人の国の初代王ナウシトオスは、あの恨みをかっているポセイダオンの御子だという。後にオデュッセウスを助けたパイエケス人たちは、ポセイダオンの怒りにふれることになる。
この時、まだ異国の客人オデュッセウスは名前を名乗っていない。彼は、貴公子たちの競技で円盤投げに参加して見事な腕を見せる。宴席では、楽人デモドコスの歌うトロイア戦の物語を聞いて、オデュッセウスが涙する。続いて「アレスとアプロディテの密通」の物語を歌う。ちなみに、アプロディテはパリスを誘惑してトロイア戦争の原因を作り、軍神アレスはトロイアに戦いを煽った厄介神。ついで、「木馬の計」の物語に再び落涙し、王アルキノオスから素性を訊ねられる。
4. オデュッセウスの漂流記
王アルキノオスにイタケのオデュッセウスであることを明かし、これまでの漂流記を物語る。...
まず、キコネス人(トラキアの部族)の国を荒らした。ついで隻眼の巨人キュクロプスの国では、多くの部下が食われながらも、奇略によって眼を潰し辛くも脱出した。風神アイオロスの島では、せっかく風神が風を封じこめてくれた袋を、部下が宝物と邪推して開けたために嵐となり、帰国寸前にアイオロスの島へ逆戻りした。ついで、キュクロプス族に似て野蛮なライストリュゴネス族の国に着き、多くの部下を失う。おまけに、魔女キルケに部下が豚にされる。だが、神ヘルメスに救われて、ここで丸一年を過ごしてしまう。魔女キルケは、帰国の道順を知りたければ、冥界へ行って帰国に関する予言を聞かなければならないと教える。オデュッセウスは、冥府では先ず、キルケの許で死んだ部下エルペノルの霊に会う。ついで予言者の老師テイレシアスが帰国のこと、帰国後のことを予言する。オデュッセウスの母アンティクレイアの霊からは留守宅の事情を聞く。また、アガメムノン、アキレウス、アイアスらの旧友、タンタロス、シシュポス、ヘラクレスらの著名な英雄たちの霊と会った話を...
更に、セイレーンの誘惑、怪物スキュレと魔の淵カリュブディス、陽の神(エエリオス)の牛の話を続ける。オデュッセウスは、一旦、魔女キルケの許へ戻り再出発する。途中、美声で人間を惑わし難破させる魔女(怪鳥)セイレーンたちのいる海域を通過することになることを、魔女キルケが忠告する。オデュッセウスは、部下たちに耳を蜜蝋で塞ぐように指示するが、歌が聞きたいために自身の体を帆柱に縛り付けるように命じる。続いて、怪物スキュレの棲家である岩と魔の淵カリュブディスでは、犠牲者を出しながらもなんとか通過する。オデュッセウスは、予言者テイレシアスと魔女キルケに「陽の神の島は避けよ!」と警告されていたことを部下たちに伝えるが、部下たちは禁じられたことはせぬと宣誓して、トリナキエの島に上陸してしまう。やがて、船荷に穀物と酒の蓄えが尽きると、船員たちは禁断のエエリオス(ヘリオス)の牛を殺して食してしまった。そのことを娘ランペティエが陽の神ヒュペリオン(エエリオスの異名)に知らせると、荒れ狂う風によって、魔の淵カリュブディスや怪物スキュレの棲家まで引き戻され、部下はことごとく死ぬ。そして、オデュッセウスただ一人が、カリュブディス(カリュプソ)の島に着く。
...これで、オデュッセウスの物語る漂流記はおしまい。
5. オデュッセウス、イタケに帰還
オデュッセウスは多くの土産物をもらい、王アルキノオスから船を提供してもらいイタケに送ってもらう。パイエケス人たちは、眠っているオデュッセウスをイタケに降ろして、置いたまま去る。だが、パイエケス人たちが、スケリエ島に帰港する寸前、怒ったポセイダオンは船を石に変えて海底に沈める。
眠りから覚めたオデュッセウスは、ここが故国とは気づかずに一人途方に暮れる。それを女神アテネが助け、土産などの宝物を洞窟に隠し、正体がばれないようにオデュッセウスをみすぼらしい老人に変装させる。そして、求婚者たちを討つ手立てを協議した後、アテネはテレマコスを迎えにスパルタへ発つ。オデュッセウスは、アテネの指示に従って下僕の中で最も忠実な豚飼エウマイオスを訪ねる。エウマイオスはそれがオデュッセウスと知らずに、異国の老人を歓待する。オデュッセウスは素性を明かさずに、作り話の遍歴談を語り、オデュッセウスが年内に帰国すると話す。だが、エウマイオスは信じようとしない。主人は既に亡くなったと思っている。
一方、息子テレマコスは、女神アテネに帰国を促される。いつまでも、求婚者たちに財産を好き放題にさせるわけにはいかないと。そして、スパルタを発ちピュロスから乗船してイタケへ向う。船には、亡命者テオクリュメノスという占いに長けた男を同乗させる。求婚者たちは、イタケと岩根険しきサモスの間の海上で待伏せして、テレマコスを殺害せんとする。アテネは神々が順風を送ってくださると励まし、求婚者の一味をはぐらかしてイタケに帰国させる。
一行のうちテレマコスだけは、町へ行かず豚飼エウマイオスを訪ねる。豚飼エウマイオスは若様の帰還を喜び、求婚者の暴慢無礼な言語道断を報告する。豚飼が妃ペネロペイアにテレマコスの帰国を報告に出かけた後、アテネがオデュッセウスに立派な衣裳を整えると、テレマコスは神になった父を見るかのように再会を喜ぶ。オデュッセウスは、主神ゼウスの後ろ盾で女神アテネによって助けられたことを語り、二人は求婚者討伐の計画を練る。
そして、父が亡くなったと偽ることにして、またもやみすぼらしい衣裳を身に纏う。
6. オデュッセウスと妻ペネロペイアとの再会
テレマコスが一足先に屋敷へ帰り、母ペネロペイアに無事な姿を見せ、乞食の異国人がオデュッセウスのことを何か知っていると話す。オデュッセウスと豚飼は、求婚者たちがたむろする屋敷の広間へ向った。求婚者の頭領アンティノオスは、オデュッセウスのみすぼらしい乞食姿を見て罵り、足台を投げつける。そこに、土着の乞食で通称イロスという意地汚さで評判な男がいた。彼は乞食姿のオデュッセウスに喧嘩を売る。求婚者たちは二人の乞食が争う様を愉快に見物するが、オデュッセウスの乞食姿から見せた全身の筋肉の見事さに感嘆する。そして、イロスを打ち据えると、求婚者たちはその異国の老人を讃える。
妃ペネロペイアは、求婚者たちの無法をなじりながら、言葉巧みに贈り物を要求する。オデュッセウスは、妻が心中とは別のことを思いつつも、求婚者たちの心を惑わす態度をひそかに喜ぶ。
一旦、求婚者たちが屋敷を去ると、妻ペネロペイアがオデュッセウスに近づき、いよいよ再会となる。だが、出征してから20年にもなるだから、この長い月日を隔てれば、話しかけるのも容易なことではない。その場は、偽りの素性を語り、王が近々帰国すると話す。
足洗い場では、乳母の老女エウリュクレイアが、乞食の足に触れると足の古傷に気づき、それがオデュッセウスだと知る。だが、オデュッセウスは、求婚者たちを討つためと召使たちの裏切りを見抜くために素性を明かさぬように指示する。
7. 求婚者誅殺
妃ペネロペイアは、新しい夫を選ぶために、翌日弓の競技を開催することを伝える。求婚者たちをいかに誅罰すべきかを思いめぐらせながら眠れぬオデュッセウスの前に、女神アテネが現れ援助を約束する。成功を祈願するオデュッセウスに、ゼウスが雷鳴を鳴らし吉兆を示す。アテネは、宴会中の求婚者たちを錯乱状態に陥れる。亡命した予言者テオクリュメノスが彼らの最期の近いことを予言する。
王妃は、アテネに促されて12の斧を射通した者に嫁ぐと宣言する。求婚者たちが試みてはことごとく失敗。豚飼エウマイオス同様、忠義の召使に牛飼ピロイティオスなる人物がいた。豚飼と牛飼の二人がオデッュセウスの帰還を神々に祈願していると、「その男はここに帰ってきている!」と、自分の正体を明かす。そして、オデュッセウスに弓を手渡して見事に射抜く。オデュッセウスは纏っていたボロをかなぐり捨て、次の瞬間、盃を口元へ近づけようとする首謀アンティノオスの咽喉を射当てた。オデュッセウスは、トロイアから帰還したことを高々と宣言する。アンテノオスと並ぶ実力者エウリュマコスは、開き直って他の求婚者たちとともにオデュッセウスに躍り掛かる。オデュッセウスは、求婚者をことごとく誅殺した後、不忠の召使や女中たちを処刑する。
すべてが終わった後、屋敷の惨劇の跡を硫黄を燃やして清める。
8. 冥界の物語と求婚者たちの親族との和解
妃ペネロペイアは、乳母エウリュクレイアから乞食の客人がオデュッセウスであるこを聞く。広間で夫婦が再会するが、妃は容易に夫であることが信じられない。オデュッセウスが、二人しか知らない寝室の秘密に触れるとようやく納得する。そして、漂流中の出来事を物語って聞かせる。翌朝、オデュッセウス親子と忠義の下僕の二人は、老父ラエルテスの住む田舎の農園へ向う。
神ヘルメスは求婚者たちの霊魂を呼び出した。求婚者たちの霊は神ヘルメスに導かれて冥界に降り、アガメムノンやアキレウスらの霊に会う。旧友の霊たちはオデュッセウスの無地帰還したことを語り合う。
農園で老父ラエルテスは、亡くなったと思っていた我が子を見て涙する。求婚者たちの親族は、アンティノオスの父エウペイテスに扇動されて農園を襲うが、エウペイテスは老父ラエルテスに討たれる。そして、女神アテネの裁定によって、両者は和解して物語を終える。
2010-10-03
"イリアス(上/下)" ホメロス 著
人類の歴史というものは、確かな記録が残されなければ神話化してしまうところがある。その創成が自らの起源に関わるとなると、よりいっそう尊厳ならしめ、奇妙な擬人化によって神々に帰する。太古の時代ともなると、それが人間業なのか神業なのかも区別がつかない。肯定も否定もできないとなれば、「誇大妄想の原理」が働き、ますます想像を膨らませる。現在ですら、企業の創始者を崇拝したりするのだから...
時代は、トロイア戦争末期。トロイア戦争は、小アジアのトロイアへ、ギリシアのアカイア人が遠征したギリシア神話上の戦争である。登場人物が、主神ゼウスをはじめとするオリュンポス十二神たちや、その子孫である人間たちであることから、想像上の物語であることは間違いない。だが、神々の人間味溢れた行動は実話を元にしていると言っても否定はできないだろう。実際に、ギリシア人が遠征したという証拠もなければ、トロイア人がどういう民族だったかも分からないようだし、ホメロスだってが架空の人物とする説もある。ただ、考古学的には、ギリシアとトロイアの間で交易があったことは出土品などからも明らかだそうな。いずれにせよ、ホメロスの大作が、単なる文学作品なのか、歴史と結びつく何かがあるのかは、想像するしかないわけだが...アッティカ王の時代では、神々の伝説と重ねながら権力を誇示したことだろう。その慣習がトロイア戦記に現れても不思議ではない。こうして見ると、歴史と文学の境界線も微妙であることに気づかされる。
ホメロスの叙事詩「イリアス」や「オデュッセイア」は、トロイア伝説を取材した物語である。現代感覚からするとかなり胡散臭さが残るが、そこが神話の良い(酔い)ところ。ヘラクレス伝説を受け継ぐ勇士たちが、神々の伝説で煽られる様子は、わざとらしくもあり、こそばゆくもある。歴史叙述というものは、その時代に生きた取材者たちの主観的解釈を、後に歴史的に評価されて構築されていくものであろう。後のヘロドトスやトゥキュディデスなどの歴史の大家たちが、ホメロスの情緒的な詩(うた)を読みながら、客観的視点を取り入れて歴史叙述というものを進化させていったのだろう...などと想像しながら読んでいる。
「イリアス」とは、「イリオス(またはイリオン)の歌」という意味がある。すなわち、聖都イリオスの城をめぐる攻防戦を歌った英雄叙事詩である。ちなみに、訳者松平千秋氏の解説によると、古代ギリシアの叙事詩の起源は、ミケーネ時代に遡ると推察されるという。ミケーネ文明は、青銅器時代の後期に当たる。
ところで、叙事詩というと、「歌い物」をイメージしてしまう。だが、本書には音律があるわけでもなければ、詩的効果もあまり感じられない。神々の語りには比喩的な表現も多彩で、第一歌から第二十四歌という長大な構成ではあるのだが、むしろ緻密な長篇物語と言った方がいい。ホメロスの時代、叙事詩は「歌い物」から「語り物」へと変質していったのだろうか?いや、それも翻訳の効果で、当時の詩家たちが原語で朗読すれば「歌い物」になるのかもしれない。
言語は伝達手段として音から始まり、英雄伝説は音韻や音律を交えて歌い物として伝えられたのだろう。かつて、歴史はリズムによって伝えられた時代があったのだろう。後にパピルスのような記録媒体が登場すると、物語は人間の記憶力から解放され、長篇の雄大な物語が誕生する。ここには、歴史学における記録媒体の原理のようなものを見せてくれているような気がする。
神話という現象は、多くの国々や民族で見られるからおもしろい。それも、だいたい神は一人ではないようだ。神々は、自由に風を吹かし、嵐を呼び、疫病などの禍をもたらすといった神秘的で超人的な力を発揮しながら、戦争の神、愛の神、海の神、山の神など様々な特徴や機能を持つ。同時に、長所と短所を持ち合わせ、神々同士で憎しみあったり、愛し合ったりと人間味溢れた描写が多い。おまけに、人間の姿を借りて、いつでも自由に現世に出没し、人間たちを惑わす。神話の時代の神は、宗教的な神とは違って、かつて人間だったものがあの世から到来した御先祖様のような親和性を与える。
本書で描写されるオリュンポスの神々も、主神ゼウスの目を掠めて様々な画策を仕掛けたり、色仕掛けをしたりと、完全なる神からは程遠い。絶対的な支配力を持つ主神ゼウスにしても全能ではあるが、完全な精神の持ち主とも言えない。所詮、人間が記すもので完全な精神の持ち主を表わすことなどできるはずもないが...もしかしたら、古代ヘラスの地に、人類の歴史には登場しないゼウスに相当する絶対的な国王が実在して、それが神話化しただけのことかもしれない。
ところで、いつ頃から、神は宗教的な絶対的な地位を確立したのだろうか?人々は、必ず救済してくれるに違いないと、絶対神なる存在を夢想してきた。そして、思想の天才たちの出現が、いつのまにか神格化され、信仰心を最高潮にまで崇める。不完全なる多くの神々よりも、完全なる一つの神の方が分かりやすく洗脳力が強い。一神教の威力は絶大である。神話の時代では、まだ人々は神々と戯れていた。長所や短所を兼ね備えた神々が共存するから、趣味を語るように好みの神が語れて、賑やかで楽しい。絶対神なる一つの存在を規定するから、必要以上に崇められ、強迫観念に掻き立てられ、気楽には語れなくなる。そして、自分の信仰する神が罵倒された時に、宗教的な怨恨を持つことになる。宗教の発明が、異教徒の神を蔑み、いがみ合う結果になろうとは...
1. 伝ヘロドトス作「ホメロス伝」
末巻に「ホメロス伝」が付録される。これは、ローマ帝政時代に書かれたものと推測されるらしい。つまり、作り話か?しかも、本人はヘロドトスと称して「できるだけ正確に」などと書いて、すましている。ちなみに、「正確な(アトレケース)」はヘロドトスが最も愛用した語だそうな。
「ホメロス伝」は、ヘロドトスの著書「歴史」と同じイオニア方言で書かれているという。冒頭から、「ハリカルナッソス出身のヘロドトスがホメロスの生い立ちと生涯を記す」と宣言しているあたりは、わざとらしい。
この伝記によると...
ホメロスが生きた時代は、アイオリス地方の古都キュメが建設された時で、ヘラス(ギリシア)各地から様々な部族がイオニア地方に移住してきたという。ホメロスはキュメから南のスミュルナという町で生まれたそうな。当初、メレスの生まれという意味で、メレシゲネスと名付けられたという。生まれつき詩に優れた才能を持っていて、学塾の教師をしていた。知識を広めようと旅に出て、オデュセウスに関する伝承などを聞き知ったとされる。だが、旅の途中コロポンあたりで失明する。盲目となって、スミュルナに帰国したメレシゲネスは詩作に専念する。その後、キュメに移り住み、神々への讃歌を披露して人々に絶賛されたという。キュメの方言で、盲人のことを「ホメロス」と言うらしい。盲人ということで、町の評議会の評判は悪かった。そこで、キュメ人に対して、今後高名な詩人が生まれぬように呪いをかけ、ポカイアへ移住する。
ホメロスは、人の集まる場所で、坐を構えて朗誦しながら生計を立てる。そして、多くの詩作の中で、世話を受けた人々を、恩返しの意味で物語に登場させているという。町々で出会った光景の写実が、現実性や親和性といったものを醸し出すのかもしれない。どんな嘘っぱちでも、具体的な地名や事柄を持ち出すと、真実味を増すものではあるが。ちなみに、ホメロスが生まれたのは、トロイア戦争の168年後のことだったという。
2. 本物語の前提「女神コンテスト」
女神テティスとペレウスの結婚式ですべての神々が招かれたが、唯一争いの女神エリスだけは招かれなかった。エリスは怒り、皮肉をこめて祝宴に「最も美しい女神に与える」と黄金の林檎を投げ入れた。すると、オリュンポスの女神たちは、それは自分のことだと主張した。中でもゼウスの妻ヘレ、ゼウスの娘アテネとアプロディテの3女神が譲らない。ゼウスは、3女神に「最も美しいのは誰か?」という判定を迫られる。争いに巻き込まれたくないゼウスは、その判定をトロイア王プリアモスの息子パリス(アレクサンドロス)に委ねた。いわゆる「パリスの審判」である。ヘラは「全アジアの支配権」、アテネは「あらゆる戦いにおける勝利と知恵」、アプロディテは「人間界で最も美しい女」と、それぞれ条件を出してパリスを誘惑する。そして、パリスはアプロディテの条件に乗る。だが、人間界で最も美しい女は、スパルタ王メネラオスの妃ヘレネであった。パリスはヘレネを奪い取る。その奪還のためにアカイア人はトロイア討伐の兵を上げる。その統帥はメネラオスの兄アガメムノン。容姿は並外れて美しいパリスの浅はかな行為が、トロイア国に大きな禍をもたらすことになる。
3. イリアス物語
主な登場人物を挙げると切りがない。とりあえず、アキレス腱の語源である俊足の勇士アキレウス、その親友パトロクロス、トロイア軍の勇士ヘクトルの3人を挙げておこうか。登場する人々が、オリュンポス十二神たちに操られながら、物語は進行する。
アカイア軍の統帥アガメムノンとアキレウスの間には、かつてから確執があった。戦利品をめぐって、アキレウスが受けた恩賞の女をアガメムノンが奪ったからである。怒ったアキレウスはアカイア軍から離脱し、名誉回復を母テティスに訴える。そして、テティスがゼウスに嘆願すると、ゼウスはいずれアキレウスに名誉を与えることを約束する。ちなみに、テティスは、海底に住むネレウスの姫神たち(ネレイデス)の一人。
この約束が、トロイア軍の大将ヘクトルを剛勇に育て、そのライバルをアキレウスが討つというシナリオを作り上げることになる。そして、ヘクトルが、アキレウスの親友である剛勇パトロクロスを討ち、その仇討ちというマカロニウエスタン風の復讐劇が展開されるのであった。
4. パリスとメネラオスの一騎討
ゼウスは、テティスの約束を果たすべく、まず、アガメムノンに惑わしの「夢」を送り、戦闘を再開させる。アガメムノンに味方にすべきアキレウスを怒らしたことを後悔させるために。トロイア軍とアカイア軍の両軍は、長期に渡って苦難を被り、一刻も早く引き分けで終わってほしいと願っていた。そこへ、トロイア軍のパリスが、自分と一騎討せよ!と挑発し、アカイア軍のメネラオスがその挑戦を受ける。一騎討によって、ヘレネとその財宝がどちらのものか一気に決しようというわけである。パリスは敗れるが、女神アプロディテに救われる。ヘクトルは、パリスの不甲斐なさに呆れる。アガメムノンはメネラオスの勝利を主張し、ヘレネと財宝の返還ならびに補償を要求して一旦休戦となる。
メネラオスにはゼウスの妻ヘレが味方している。ヘレはトロイア軍に肩入れするゼウスに怒って口論となる。このまま終戦となっては、ゼウスのシナリオが狂うので、トロイア側から休戦の誓約を破らせるように手配せよと命令する。さっそく、アテネが武将パンダロスをそそのかして、メネラオスに矢を射かけさせ負傷させる。これをきっかけに、トロイア軍には軍神アレスが、アカイア軍には女神アテネが後ろ盾になって激戦が再開される。
5. ディオメデスの奮戦
女神アテネの庇護の下に武将ディオメデスが無類の剛勇ぶりを発揮する。パンダロスを討ち、女神アプロディテの子アイネイアスを傷つけ、アプロディテにも傷を負わせる。これに荒れ狂った軍神アレスは、トロイア軍を立て直すために、四方を駆け巡る。アレスが後ろ盾になった将軍ヘクトルの強さは半端ではない。女神ヘレはアレスに腹を立て、ゼウスの了解を得て、人間にとっての厄介神アレスを懲らしめんとする。アテネが後ろ盾になったディオメデスがアレスに傷を負わせる。
軍神アレスはオリュンポスに逃げ帰り、ゼウスの叱責を受ける。「オリュンポスに住む神々の中で、お前ほどわしが憎いと思う者は他にはおらぬ。お前が好むのは、争い事、戦争、喧嘩ばかり。」と。ちなみに、ローマ神話では、軍神アレスはマルス(火星)に相当し、マルス神がトロイア人の末裔の娘を犯してできた子が、初代王ロームルスだったような...ローマ帝国は厄介神の子孫の国というわけか。
6. ヘクトルとアイアスの一騎討
ヘクトルは、オリュンボスの神々がパリスをトロイアの民に大きな禍として育てたと、パリスを叱責する。そして、トロイアの民を守るために立ち上がる。ヘクトルの戦意は凄まじく、今度はトロイア軍が優勢となる。トロイア軍の勝利を願うアポロンと、アカイア軍をひいきする女神アテネが合意して休戦とし、大ヘクトルと大アイアスが両軍を代表して一騎討をさせることにする。だが、勝敗の定まらぬうちに日没となり、両者は武具を交換して別れる。
ゼウスが神々が戦闘に介入することを禁ずると、トロイア軍の優勢が確定的となり、ヘクトルは遂にアカイア軍の船陣に迫る。ヘレとアテネは、密かにアカイア軍を助けようとするが、ゼウスに気づかれ叱責される。
7. ポセイダオンとヘレの策謀
非勢となって落胆したアガメムノンは、国へ引き上げることを主張するが、ディオメデスが反対する。ネストルは、アガメムノンが自分の非を認めて、他人の意見に耳を傾けるよう説き、アキレウスとの和解を勧める。アガメムノンはそれに従い、その旨を伝えるべく、ポイニクス、大アイアス、オデュッセウスを派遣して、勝利の暁には戦利品の分け前やトロイアの美女を選び取らせるなどの約束を伝える。しかし、アキレウスはアガメムノンへの怒りが収まらず、その申し出を拒絶する。
ゼウスの虚を衝いて、ポセイダオン(オリュンポス十二神の一柱ポセイドン)が、アカイア軍の応援に駆けつける。ゼウスとポセイダオンは家系が同じで両親も同じだが、ゼウスの方が生まれも早く、知恵も優れている。そこで、ポセイダオンは表立って助けるのを避け、ゼウスの目を盗みながらアカイア軍を激励した。ヘレが一策を案じ、ゼウスの姫アプロディテと「眠り」の神の協力で、色仕掛けでゼウスをイデ山上に眠らせる。その隙にポセイダオンがアカイア軍に活を入れる。ヘレは、勇猛ヘクトルを戦えぬようにし、トロイア軍を敗走へ追い込んだ。
目を覚ましたゼウスは、ヘレの謀略に気づき激怒する。そして、ポセイダオンを戦場から引き上げさせ、アポロンにヘクトルを再起させ援護せよと命令する。ヘクトルは死運を免れ、再び立ち上がる。
8. パトロクロスの奮戦
アカイア軍は、剛勇ディオメデスが矢を受け、槍の名手オデュッセウスとアガメムノンも槍に刺されて、劣勢に立たされている。アキレウス軍にも戦禍が及びそうな勢い。パトロクロスは、この様を見かねてアキレウスがただ見守るだけなら、武勇はかえって仇となるので、せめて自分だけでも出陣させてくれ!と嘆願する。アキレウスもアガメムノンへの怒りを収め、パトロクロスに出陣を許す。そして、アキレウスの武具を借り、ミュルミドネス勢を率いて戦場に向い、トロイア軍を撃退しさらに追撃する。パトロクロスは、ゼウスの子サルペドンを討ち、その屍をめぐって激戦となる。それを見かねたゼウスは、アポロンにサルペドンの屍を連れ戻して安らかに眠らせるように指示する。アポロンは、サルペドンの屍を連れ出し丁重に葬った。そして、アポロンは、誇り高きトロイア人の城はパトロクロスの手で落とす定めにはない、引き退れ!と凄まじい声で忠告する。アポロンによって戦意を奪われ、退いたパトロクロスは、エウポルボスの槍で傷を受ける。そこへ、ヘクトルが追い討ちをかけて止めを刺す。パトロクロスの遺体を守ってメネラオスが奮戦するが、パトロクロスの身に付けたアキレウスの武具は遂にヘクトルに奪われる。残された屍をめぐって激戦が続くが、女神アテネの助けもあって、辛うじてパトロクロスの遺体を確保する。
9. アキレウスの奮戦
親友パトロクロスの死を知らされたアキレウスは激しく悲しむ。そこに母テティスが現れ慰める。アキレウスの激しく悲しむ声に、海底に住むネレウスの姫神たち(ネレイデス)が集まる。アキレウスは、親友の死を悼んで絶食を続ける。周りの人々の説得も聞かずに。そこへ、アテネが神々の食物を与えて元気づける。テティスは我が子のために、名工ヘパイストスに新たな武具を造らせる。そして、アガメムノンの怨恨を断ち切って戦う決意をせよ!と説得する。アキレウスは、ヘクトルめの首と武具を取り戻すまでは、パトロクロスの葬儀はやらぬと決意する。
手傷を負ったアガメムノンがアキレウスを訪ね、両者は和解する。出陣するアキレウスに名馬クサントスが人語を語って、彼の死期の迫っていることを予言する。馬に人語を語らせたのは、女神ヘレであった。アキレウスは、死を覚悟した決意で臨む。
女神テミスは、正義や掟を護る神で、職能を司る職能もあったという。テミスは、オリュンポスの頂上から神々にゼウスの館に参集するように呼びかける。ゼウスは、ここから見物すると宣言し、神々に戦闘への介入を許す。アカイア軍には、ヘレ、ポセイダオン、アテネら、トロイア軍には、アポロン、アレス、アルテミスらが支援する。
アキレウスは、誰よりも勇将ヘクトルとの対決を望む。ヘクトルは、アキレウスの剛勇に劣ることを自覚しているが、所詮は神々のお膝の上にあること、力の劣る者が負けるとは限らないと言って、アキレウスと戦う。アポロンは、ヘクトルが危ないと見るや、すぐにさらって濃い霧の中に隠す。ヘクトルとアキレウスの対決は、アテネとアポロンがそれぞれ応援し物別れに終わる。アキレウスは勢いに乗るが、アポロンの謀略で、一旦はイリオス城から外れた場所へと誘い出される。それに気づいて、すぐさまヘクトルを追って三たび城のまわりを巡った後、一騎討に入りヘクトルを討ち取る。そして、遺体を車につけて走り廻り陵辱する。ヘクトルの両親と妻アンドロマケは嘆き、トロイア軍は町を挙げて悲しみに暮れる。
10. パトロクロスの葬送競技とヘクトルの遺体引取り
アキレウスとミュルミドネス勢は、パトロクロスの遺体を囲んでその死を悼む。その夜、アキレウスの枕元にパトロクロスの亡霊が現れ、火葬を督促する。アキレウスは、火葬を終えると、様々な賞品を賭けて葬送競技を催す。大アイアス、オデュッセウス、ディオメデスらの剛勇も競技に参加して盛況となる。競技の最後には、アキレウスが総帥アガメムノンの勝利を宣言して、今や彼への怒りが全く解消したことを示す。
アキレウスはヘクトルの遺体を傷つけることをやめない。神々もさすがに見かね、ゼウスは女神テティスに命じて、遺体を返すように説得させる。ゼウスの命にアキレウスも素直に従う。トロイア王プリアモスは、深夜アキレウスの陣屋を訪れ、息子ヘクトルの遺体を受け取り、トロイアでその葬儀が営まれ物語を終わる。
時代は、トロイア戦争末期。トロイア戦争は、小アジアのトロイアへ、ギリシアのアカイア人が遠征したギリシア神話上の戦争である。登場人物が、主神ゼウスをはじめとするオリュンポス十二神たちや、その子孫である人間たちであることから、想像上の物語であることは間違いない。だが、神々の人間味溢れた行動は実話を元にしていると言っても否定はできないだろう。実際に、ギリシア人が遠征したという証拠もなければ、トロイア人がどういう民族だったかも分からないようだし、ホメロスだってが架空の人物とする説もある。ただ、考古学的には、ギリシアとトロイアの間で交易があったことは出土品などからも明らかだそうな。いずれにせよ、ホメロスの大作が、単なる文学作品なのか、歴史と結びつく何かがあるのかは、想像するしかないわけだが...アッティカ王の時代では、神々の伝説と重ねながら権力を誇示したことだろう。その慣習がトロイア戦記に現れても不思議ではない。こうして見ると、歴史と文学の境界線も微妙であることに気づかされる。
ホメロスの叙事詩「イリアス」や「オデュッセイア」は、トロイア伝説を取材した物語である。現代感覚からするとかなり胡散臭さが残るが、そこが神話の良い(酔い)ところ。ヘラクレス伝説を受け継ぐ勇士たちが、神々の伝説で煽られる様子は、わざとらしくもあり、こそばゆくもある。歴史叙述というものは、その時代に生きた取材者たちの主観的解釈を、後に歴史的に評価されて構築されていくものであろう。後のヘロドトスやトゥキュディデスなどの歴史の大家たちが、ホメロスの情緒的な詩(うた)を読みながら、客観的視点を取り入れて歴史叙述というものを進化させていったのだろう...などと想像しながら読んでいる。
「イリアス」とは、「イリオス(またはイリオン)の歌」という意味がある。すなわち、聖都イリオスの城をめぐる攻防戦を歌った英雄叙事詩である。ちなみに、訳者松平千秋氏の解説によると、古代ギリシアの叙事詩の起源は、ミケーネ時代に遡ると推察されるという。ミケーネ文明は、青銅器時代の後期に当たる。
ところで、叙事詩というと、「歌い物」をイメージしてしまう。だが、本書には音律があるわけでもなければ、詩的効果もあまり感じられない。神々の語りには比喩的な表現も多彩で、第一歌から第二十四歌という長大な構成ではあるのだが、むしろ緻密な長篇物語と言った方がいい。ホメロスの時代、叙事詩は「歌い物」から「語り物」へと変質していったのだろうか?いや、それも翻訳の効果で、当時の詩家たちが原語で朗読すれば「歌い物」になるのかもしれない。
言語は伝達手段として音から始まり、英雄伝説は音韻や音律を交えて歌い物として伝えられたのだろう。かつて、歴史はリズムによって伝えられた時代があったのだろう。後にパピルスのような記録媒体が登場すると、物語は人間の記憶力から解放され、長篇の雄大な物語が誕生する。ここには、歴史学における記録媒体の原理のようなものを見せてくれているような気がする。
神話という現象は、多くの国々や民族で見られるからおもしろい。それも、だいたい神は一人ではないようだ。神々は、自由に風を吹かし、嵐を呼び、疫病などの禍をもたらすといった神秘的で超人的な力を発揮しながら、戦争の神、愛の神、海の神、山の神など様々な特徴や機能を持つ。同時に、長所と短所を持ち合わせ、神々同士で憎しみあったり、愛し合ったりと人間味溢れた描写が多い。おまけに、人間の姿を借りて、いつでも自由に現世に出没し、人間たちを惑わす。神話の時代の神は、宗教的な神とは違って、かつて人間だったものがあの世から到来した御先祖様のような親和性を与える。
本書で描写されるオリュンポスの神々も、主神ゼウスの目を掠めて様々な画策を仕掛けたり、色仕掛けをしたりと、完全なる神からは程遠い。絶対的な支配力を持つ主神ゼウスにしても全能ではあるが、完全な精神の持ち主とも言えない。所詮、人間が記すもので完全な精神の持ち主を表わすことなどできるはずもないが...もしかしたら、古代ヘラスの地に、人類の歴史には登場しないゼウスに相当する絶対的な国王が実在して、それが神話化しただけのことかもしれない。
ところで、いつ頃から、神は宗教的な絶対的な地位を確立したのだろうか?人々は、必ず救済してくれるに違いないと、絶対神なる存在を夢想してきた。そして、思想の天才たちの出現が、いつのまにか神格化され、信仰心を最高潮にまで崇める。不完全なる多くの神々よりも、完全なる一つの神の方が分かりやすく洗脳力が強い。一神教の威力は絶大である。神話の時代では、まだ人々は神々と戯れていた。長所や短所を兼ね備えた神々が共存するから、趣味を語るように好みの神が語れて、賑やかで楽しい。絶対神なる一つの存在を規定するから、必要以上に崇められ、強迫観念に掻き立てられ、気楽には語れなくなる。そして、自分の信仰する神が罵倒された時に、宗教的な怨恨を持つことになる。宗教の発明が、異教徒の神を蔑み、いがみ合う結果になろうとは...
1. 伝ヘロドトス作「ホメロス伝」
末巻に「ホメロス伝」が付録される。これは、ローマ帝政時代に書かれたものと推測されるらしい。つまり、作り話か?しかも、本人はヘロドトスと称して「できるだけ正確に」などと書いて、すましている。ちなみに、「正確な(アトレケース)」はヘロドトスが最も愛用した語だそうな。
「ホメロス伝」は、ヘロドトスの著書「歴史」と同じイオニア方言で書かれているという。冒頭から、「ハリカルナッソス出身のヘロドトスがホメロスの生い立ちと生涯を記す」と宣言しているあたりは、わざとらしい。
この伝記によると...
ホメロスが生きた時代は、アイオリス地方の古都キュメが建設された時で、ヘラス(ギリシア)各地から様々な部族がイオニア地方に移住してきたという。ホメロスはキュメから南のスミュルナという町で生まれたそうな。当初、メレスの生まれという意味で、メレシゲネスと名付けられたという。生まれつき詩に優れた才能を持っていて、学塾の教師をしていた。知識を広めようと旅に出て、オデュセウスに関する伝承などを聞き知ったとされる。だが、旅の途中コロポンあたりで失明する。盲目となって、スミュルナに帰国したメレシゲネスは詩作に専念する。その後、キュメに移り住み、神々への讃歌を披露して人々に絶賛されたという。キュメの方言で、盲人のことを「ホメロス」と言うらしい。盲人ということで、町の評議会の評判は悪かった。そこで、キュメ人に対して、今後高名な詩人が生まれぬように呪いをかけ、ポカイアへ移住する。
ホメロスは、人の集まる場所で、坐を構えて朗誦しながら生計を立てる。そして、多くの詩作の中で、世話を受けた人々を、恩返しの意味で物語に登場させているという。町々で出会った光景の写実が、現実性や親和性といったものを醸し出すのかもしれない。どんな嘘っぱちでも、具体的な地名や事柄を持ち出すと、真実味を増すものではあるが。ちなみに、ホメロスが生まれたのは、トロイア戦争の168年後のことだったという。
2. 本物語の前提「女神コンテスト」
女神テティスとペレウスの結婚式ですべての神々が招かれたが、唯一争いの女神エリスだけは招かれなかった。エリスは怒り、皮肉をこめて祝宴に「最も美しい女神に与える」と黄金の林檎を投げ入れた。すると、オリュンポスの女神たちは、それは自分のことだと主張した。中でもゼウスの妻ヘレ、ゼウスの娘アテネとアプロディテの3女神が譲らない。ゼウスは、3女神に「最も美しいのは誰か?」という判定を迫られる。争いに巻き込まれたくないゼウスは、その判定をトロイア王プリアモスの息子パリス(アレクサンドロス)に委ねた。いわゆる「パリスの審判」である。ヘラは「全アジアの支配権」、アテネは「あらゆる戦いにおける勝利と知恵」、アプロディテは「人間界で最も美しい女」と、それぞれ条件を出してパリスを誘惑する。そして、パリスはアプロディテの条件に乗る。だが、人間界で最も美しい女は、スパルタ王メネラオスの妃ヘレネであった。パリスはヘレネを奪い取る。その奪還のためにアカイア人はトロイア討伐の兵を上げる。その統帥はメネラオスの兄アガメムノン。容姿は並外れて美しいパリスの浅はかな行為が、トロイア国に大きな禍をもたらすことになる。
3. イリアス物語
主な登場人物を挙げると切りがない。とりあえず、アキレス腱の語源である俊足の勇士アキレウス、その親友パトロクロス、トロイア軍の勇士ヘクトルの3人を挙げておこうか。登場する人々が、オリュンポス十二神たちに操られながら、物語は進行する。
アカイア軍の統帥アガメムノンとアキレウスの間には、かつてから確執があった。戦利品をめぐって、アキレウスが受けた恩賞の女をアガメムノンが奪ったからである。怒ったアキレウスはアカイア軍から離脱し、名誉回復を母テティスに訴える。そして、テティスがゼウスに嘆願すると、ゼウスはいずれアキレウスに名誉を与えることを約束する。ちなみに、テティスは、海底に住むネレウスの姫神たち(ネレイデス)の一人。
この約束が、トロイア軍の大将ヘクトルを剛勇に育て、そのライバルをアキレウスが討つというシナリオを作り上げることになる。そして、ヘクトルが、アキレウスの親友である剛勇パトロクロスを討ち、その仇討ちというマカロニウエスタン風の復讐劇が展開されるのであった。
4. パリスとメネラオスの一騎討
ゼウスは、テティスの約束を果たすべく、まず、アガメムノンに惑わしの「夢」を送り、戦闘を再開させる。アガメムノンに味方にすべきアキレウスを怒らしたことを後悔させるために。トロイア軍とアカイア軍の両軍は、長期に渡って苦難を被り、一刻も早く引き分けで終わってほしいと願っていた。そこへ、トロイア軍のパリスが、自分と一騎討せよ!と挑発し、アカイア軍のメネラオスがその挑戦を受ける。一騎討によって、ヘレネとその財宝がどちらのものか一気に決しようというわけである。パリスは敗れるが、女神アプロディテに救われる。ヘクトルは、パリスの不甲斐なさに呆れる。アガメムノンはメネラオスの勝利を主張し、ヘレネと財宝の返還ならびに補償を要求して一旦休戦となる。
メネラオスにはゼウスの妻ヘレが味方している。ヘレはトロイア軍に肩入れするゼウスに怒って口論となる。このまま終戦となっては、ゼウスのシナリオが狂うので、トロイア側から休戦の誓約を破らせるように手配せよと命令する。さっそく、アテネが武将パンダロスをそそのかして、メネラオスに矢を射かけさせ負傷させる。これをきっかけに、トロイア軍には軍神アレスが、アカイア軍には女神アテネが後ろ盾になって激戦が再開される。
5. ディオメデスの奮戦
女神アテネの庇護の下に武将ディオメデスが無類の剛勇ぶりを発揮する。パンダロスを討ち、女神アプロディテの子アイネイアスを傷つけ、アプロディテにも傷を負わせる。これに荒れ狂った軍神アレスは、トロイア軍を立て直すために、四方を駆け巡る。アレスが後ろ盾になった将軍ヘクトルの強さは半端ではない。女神ヘレはアレスに腹を立て、ゼウスの了解を得て、人間にとっての厄介神アレスを懲らしめんとする。アテネが後ろ盾になったディオメデスがアレスに傷を負わせる。
軍神アレスはオリュンポスに逃げ帰り、ゼウスの叱責を受ける。「オリュンポスに住む神々の中で、お前ほどわしが憎いと思う者は他にはおらぬ。お前が好むのは、争い事、戦争、喧嘩ばかり。」と。ちなみに、ローマ神話では、軍神アレスはマルス(火星)に相当し、マルス神がトロイア人の末裔の娘を犯してできた子が、初代王ロームルスだったような...ローマ帝国は厄介神の子孫の国というわけか。
6. ヘクトルとアイアスの一騎討
ヘクトルは、オリュンボスの神々がパリスをトロイアの民に大きな禍として育てたと、パリスを叱責する。そして、トロイアの民を守るために立ち上がる。ヘクトルの戦意は凄まじく、今度はトロイア軍が優勢となる。トロイア軍の勝利を願うアポロンと、アカイア軍をひいきする女神アテネが合意して休戦とし、大ヘクトルと大アイアスが両軍を代表して一騎討をさせることにする。だが、勝敗の定まらぬうちに日没となり、両者は武具を交換して別れる。
ゼウスが神々が戦闘に介入することを禁ずると、トロイア軍の優勢が確定的となり、ヘクトルは遂にアカイア軍の船陣に迫る。ヘレとアテネは、密かにアカイア軍を助けようとするが、ゼウスに気づかれ叱責される。
7. ポセイダオンとヘレの策謀
非勢となって落胆したアガメムノンは、国へ引き上げることを主張するが、ディオメデスが反対する。ネストルは、アガメムノンが自分の非を認めて、他人の意見に耳を傾けるよう説き、アキレウスとの和解を勧める。アガメムノンはそれに従い、その旨を伝えるべく、ポイニクス、大アイアス、オデュッセウスを派遣して、勝利の暁には戦利品の分け前やトロイアの美女を選び取らせるなどの約束を伝える。しかし、アキレウスはアガメムノンへの怒りが収まらず、その申し出を拒絶する。
ゼウスの虚を衝いて、ポセイダオン(オリュンポス十二神の一柱ポセイドン)が、アカイア軍の応援に駆けつける。ゼウスとポセイダオンは家系が同じで両親も同じだが、ゼウスの方が生まれも早く、知恵も優れている。そこで、ポセイダオンは表立って助けるのを避け、ゼウスの目を盗みながらアカイア軍を激励した。ヘレが一策を案じ、ゼウスの姫アプロディテと「眠り」の神の協力で、色仕掛けでゼウスをイデ山上に眠らせる。その隙にポセイダオンがアカイア軍に活を入れる。ヘレは、勇猛ヘクトルを戦えぬようにし、トロイア軍を敗走へ追い込んだ。
目を覚ましたゼウスは、ヘレの謀略に気づき激怒する。そして、ポセイダオンを戦場から引き上げさせ、アポロンにヘクトルを再起させ援護せよと命令する。ヘクトルは死運を免れ、再び立ち上がる。
8. パトロクロスの奮戦
アカイア軍は、剛勇ディオメデスが矢を受け、槍の名手オデュッセウスとアガメムノンも槍に刺されて、劣勢に立たされている。アキレウス軍にも戦禍が及びそうな勢い。パトロクロスは、この様を見かねてアキレウスがただ見守るだけなら、武勇はかえって仇となるので、せめて自分だけでも出陣させてくれ!と嘆願する。アキレウスもアガメムノンへの怒りを収め、パトロクロスに出陣を許す。そして、アキレウスの武具を借り、ミュルミドネス勢を率いて戦場に向い、トロイア軍を撃退しさらに追撃する。パトロクロスは、ゼウスの子サルペドンを討ち、その屍をめぐって激戦となる。それを見かねたゼウスは、アポロンにサルペドンの屍を連れ戻して安らかに眠らせるように指示する。アポロンは、サルペドンの屍を連れ出し丁重に葬った。そして、アポロンは、誇り高きトロイア人の城はパトロクロスの手で落とす定めにはない、引き退れ!と凄まじい声で忠告する。アポロンによって戦意を奪われ、退いたパトロクロスは、エウポルボスの槍で傷を受ける。そこへ、ヘクトルが追い討ちをかけて止めを刺す。パトロクロスの遺体を守ってメネラオスが奮戦するが、パトロクロスの身に付けたアキレウスの武具は遂にヘクトルに奪われる。残された屍をめぐって激戦が続くが、女神アテネの助けもあって、辛うじてパトロクロスの遺体を確保する。
9. アキレウスの奮戦
親友パトロクロスの死を知らされたアキレウスは激しく悲しむ。そこに母テティスが現れ慰める。アキレウスの激しく悲しむ声に、海底に住むネレウスの姫神たち(ネレイデス)が集まる。アキレウスは、親友の死を悼んで絶食を続ける。周りの人々の説得も聞かずに。そこへ、アテネが神々の食物を与えて元気づける。テティスは我が子のために、名工ヘパイストスに新たな武具を造らせる。そして、アガメムノンの怨恨を断ち切って戦う決意をせよ!と説得する。アキレウスは、ヘクトルめの首と武具を取り戻すまでは、パトロクロスの葬儀はやらぬと決意する。
手傷を負ったアガメムノンがアキレウスを訪ね、両者は和解する。出陣するアキレウスに名馬クサントスが人語を語って、彼の死期の迫っていることを予言する。馬に人語を語らせたのは、女神ヘレであった。アキレウスは、死を覚悟した決意で臨む。
女神テミスは、正義や掟を護る神で、職能を司る職能もあったという。テミスは、オリュンポスの頂上から神々にゼウスの館に参集するように呼びかける。ゼウスは、ここから見物すると宣言し、神々に戦闘への介入を許す。アカイア軍には、ヘレ、ポセイダオン、アテネら、トロイア軍には、アポロン、アレス、アルテミスらが支援する。
アキレウスは、誰よりも勇将ヘクトルとの対決を望む。ヘクトルは、アキレウスの剛勇に劣ることを自覚しているが、所詮は神々のお膝の上にあること、力の劣る者が負けるとは限らないと言って、アキレウスと戦う。アポロンは、ヘクトルが危ないと見るや、すぐにさらって濃い霧の中に隠す。ヘクトルとアキレウスの対決は、アテネとアポロンがそれぞれ応援し物別れに終わる。アキレウスは勢いに乗るが、アポロンの謀略で、一旦はイリオス城から外れた場所へと誘い出される。それに気づいて、すぐさまヘクトルを追って三たび城のまわりを巡った後、一騎討に入りヘクトルを討ち取る。そして、遺体を車につけて走り廻り陵辱する。ヘクトルの両親と妻アンドロマケは嘆き、トロイア軍は町を挙げて悲しみに暮れる。
10. パトロクロスの葬送競技とヘクトルの遺体引取り
アキレウスとミュルミドネス勢は、パトロクロスの遺体を囲んでその死を悼む。その夜、アキレウスの枕元にパトロクロスの亡霊が現れ、火葬を督促する。アキレウスは、火葬を終えると、様々な賞品を賭けて葬送競技を催す。大アイアス、オデュッセウス、ディオメデスらの剛勇も競技に参加して盛況となる。競技の最後には、アキレウスが総帥アガメムノンの勝利を宣言して、今や彼への怒りが全く解消したことを示す。
アキレウスはヘクトルの遺体を傷つけることをやめない。神々もさすがに見かね、ゼウスは女神テティスに命じて、遺体を返すように説得させる。ゼウスの命にアキレウスも素直に従う。トロイア王プリアモスは、深夜アキレウスの陣屋を訪れ、息子ヘクトルの遺体を受け取り、トロイアでその葬儀が営まれ物語を終わる。
2010-09-26
"経済発展の理論(上/下)" Joseph A. Schumpeter 著
ユーロ圏のように、流通の利便性を促進するために通貨を統一するという考えもあろう。しかし、ギリシャ危機はその考えに疑問を呈する。ギリシャ国家の財政破綻は、世界的に規模が小さいにもかかわらず、ヨーロッパを震撼させた。ユーロを導入していないアイスランドやイギリスも財政赤字で喘ぐのは同じである。ギリシャが独自の貨幣を持っていたら、流通レートを変えることで経済危機をヨーロッパに波及させることはなかったという意見も聞く。そもそも、ユーロ創設の過程で、貨幣の受け入れ準備ができていない国々にまで単一通貨を押しつけた経緯がある。欧州のリーダたちは、共通価値の幻想のようなユートピアにでも憑かれていたのだろうか?国々で貨幣が統一されていないのは、ある意味リスク回避になっているのかもしれない。それにしても、財政再建のために、神話に登場するイオニア海やエーゲ海の島々が売却されるという噂を聞くと心苦しい。世界的遺産は、国家の思惑の及ばないようところに置きたいものである。
もう一つ、国家危機と言えば、先日の中国との外交問題における日本政府の態度には呆れた。伝統的に危機管理に疎い体質を見れば、予測できる展開ではあったのだが...しかも、高度な外交問題の責任を他部門に押し付けるという前代未聞まで演じるオマケ付きだ!本当に地検が勝手に判断したとしても、そんな言い訳をする政府の態度は国家戦略が存在しないことを宣言しているようなもので、むしろ最悪だ。なるほど、この分野の地方分権化は進んでいるというわけか。
更に、大きな問題を露呈したのは、政府ばかりでなく一国に依存し過ぎる産業界の体質である。しかも、その相手国というのが、いまだ共産主義の旧体質に憑かれたままという恐ろしい現実がある。冷戦構造が終結したとはいえ、もはや平和ボケでは済ませられまい。おそらくリスク管理を怠ってきたのは、政府や産業界ばかりではないだろうから。さて、愚痴はこのぐらいにして...
本書は、経済学の古典としてケインズの「一般理論」と並び評されるらしい。近代経済学の巨人とも言われるヨーゼフ・シュンペーターは、20歳代にしてこの大作を書き上げたという。彼は「エレガンス」という言葉を好んだというが、これが優美な体系を具えた書かどうかは意見の分かれるところだろう。
シュンペーターは、社会現象や歴史現象などから分離した純粋な経済学の領域だけで理論立てようと試みる。その結論が彼の意図したものかどうかは別にして...種別すると、純理経済学という分野があるらしい。終始、批判に対する防衛的な態度で語られるあたりは、思いっきり批判に曝されたことがうかがえる。ちなみに、アル中ハイマーは、社会現象や歴史現象、あるいは、慣習性や心理学的要因などの多角的な観点を取り入れない経済理論に対して、批判的な態度をとる天の邪鬼である。本書に触れたからといって、その根本の考えが揺らぐわけではない。
しかし、だ!方法論として、どのようにアプローチするかは別である。経済現象の分析の第一歩として、社会学や歴史学との境界を明確にしようと試みることは悪いことではなかろう。何もかも複雑に入り乱れた状態のままでは客観的に考察するにも無理がある。社会学などのカテゴリー分析論がいったい何を解決してくれるのか?と疑問を持ちつつも、現実に分析しようとすれば、まず対象の定義や境界を明確にするところから始めるしかない。
古来、人類の歴史には、哲学的な難題を解明するために、数学的な公理から始め、徐々に抽象度を上げるという伝統的思考方法がある。すなわち、客観的考察の限界に対して、精神にかかわる主観的思考を組み合わせることによって、より実態に近づこうとする試みである。本書も、その流れを汲む分析の第一歩と捉えれば、経済学において貴重な存在と言えよう。その筋道が納得いかないにせよ、ここまで論理的に順序立てて考察を進める経済学書は珍しいかもしれない。
したがって、これを経済学書としてではなく、分析論における思考方法の参考例として読んでいる。
本書は、まず経済現象から、社会的現象、歴史的現象、政治的現象、自然現象などの外的要因を切り離すと宣言する。社会的現象とは人口増加や技術革新など、歴史的現象とは慣習的な民衆心理によって生じる行動など、政治的現象とは戦争や政治情勢など、自然現象とは気候変動などで、こうした影響をまったく無視するというのである。その前提を語る丁寧振りには、いくら前戯の大好きなアル中ハイマーでも「なに無味乾燥的なことを言ってんだ!」と愚痴をこぼし、一旦は「この本を買ったのは失敗だったか!」と思わせた。だが、そこは貧乏性の悲しい性、買った以上は元を取らないと気が済まない。そして、読み進むうちに、その感情は沈静化していく。
その主旨は、経済の内的要因だけで経済理論が構築できるならば、それに越したことはないが、その理論構築に限界があるとすれば、そこではじめて他の学問と連携すればいいということであろう。この分析論が実態経済から乖離する可能性を承知した上で考察され、経済学的思考の意義というものを認識させてくれる。ただし、解釈が偏れば、市場原理主義的な思想も見えてくるわけだが...したがって、社会現象や歴史現象などを無視しているという批判は適当ではないだろう。それらを無視した上で、純粋な経済理論がどこまで構築できるか?という問題と対峙しているのだから。
そして、本書の経済理論は未完成に終わる。当然と言えば当然であるが...著者も、理論としての本質が十分でないことを認めており、その結果、最初から意図したものではなかったと回想している。
また、「経済発展の理論」が第一次大戦前に発表されたことは注目すべきであろう。当時、アメリカは資本主義の新興国として、市場経済を武器に経済力で台頭してきた。その過程で莫大な富が集中したりと、市場原理的志向が強まりつつある時代である。経済発展の過程で、好況と不況の波が生じるは必然であって、その過程で恐慌現象の可能性を指摘している。つまり、世界恐慌を経験する前に、経済理論の観点から市場の暴走を説明しているわけだ。そこには、経済人の心理的傾向も考察されるので、社会学的分析とも言えるわけだが...
ところで、企業体や個人といったミクロ経済の観点で眺めると、それが常識的な行動であっても、マクロ経済で眺めると、たちまち矛盾が生じてしまうのはなぜか?群をなすと、まるで別の生命体に生まれ変わるかのように。そして、良くなるように考案された経済政策は、しばしば悪しき作用をする。科学現象では、単独の光子が粒子性を示すのに対して、光という群をなすと波動性を示す。個と群の二重性とは...それが自然法則なのだろうか?
1. 経済循環と経済発展
本書は、「循環」と「発展」という二つの経済過程を切り離して考察し、「発展なき経済」から循環要因を語り、続いて「発展する経済」のための必要な要因を語る。
まず、単純な循環経済では、自由競争や帰属作用によって価値の増殖があったとしても、それは根源的な生産要素である土地用役や労働用役などの価値変化に吸収されて余剰価値の存続する余地はなく、利潤も利子も発生しないとしている。そして、永続的な循環においては、失業という概念も登場しないという。
その一方で、発展経済では、連続的な成長というよりは断続的な飛躍であり、循環とは異質である。その要因は、企業者の「新結合の遂行」という言葉で説明される。ひとことで言えばイノベーションであろう。例えば、新しい財貨の生産、生産の新方式、販路の開拓、原料の新たな供給源の獲得、新組織の構築や体制の見直しなど、経済活動における効率性を求める行動である。つまり、企業者の革新的精神こそ、経済発展の根幹ということである。ここでは、滑稽な消費者の欲望という動機を度外視すると言っているが、企業者側の儲けを拡大する欲望と言ってしまえば、純粋な経済行為だけでは説明できないような気もする。だが、その欲望が生産の効率性と捉えるならば、純粋な経済行為なのかもしれない。つまり、自由競争に参加すれば、生き残りの原理が働き、自然に革新的な態度が現れ、経済人の合理的活動が生じるというわけだ。ただ、現実に、企業者は生産量の最適値を知っているわけではなく、試行錯誤で経験的に雇用量や生産財を調整しているに過ぎないのだが。
企業者は自社の効率性を求める行為を連続的に行っているわけだが、同時に新体制への移行や新興勢力の出現には反抗的に振る舞う。新しい風潮は最初から馴染むわけではなく、徐々に社会に浸透する。先駆者はいつの時代でも苦労するもので、追従者たちが新たな風潮を加速させることになる。したがって、新結合の遂行の効果は、連続的な成長として現れるのではなく、群生的なエネルギーの塊として現れることになる。
また、共産主義のような権威的な経済では、新結合の遂行が命令的で支配的に行われるが、資本主義経済では、企業者の購買力が重要だという。生産財を購入するには資本が必要であり、それを利益だけから捻出するのは難しい。そして、企業成長には投資が欠かせない。銀行から投資を得るにしても、信用が重要な役割を果たすことになる。したがって、資本主義社会では、信用を通じて購買力が創造されることになる。しかし、信用もまた社会的な慣習という性格が強く、純粋な経済活動だけで説明することはできないだろう。結論として、経済発展の根幹は、企業者の革新的精神から余剰価値が生まれ、その要素として利潤や利子概念が生じるとしている。投資循環の原理からすると、企業者利潤と生産的利子の存在は必要不可欠であろう。尚、利子にもいろいろな種類があるが、ここでは生産的利子だけを対象にしている。
2. 信用と投資
経済発展の源泉である投資循環では、貨幣の影響や銀行の信用問題を議論する必要がある。信用の根底にはすべての価値評価があり、どんな経済的評価においても、共通の指標とされるのが貨幣である。現実に、貨幣があらゆる物の価値の代価として使われ、バランスシートが示す評価もすべて貨幣換算される。したがって、貨幣価値の信用が、市場を支配しているといってもいいかもしれない。
銀行の信用問題では、慣習的な動機や財務実績などの評価が経済活動の指針となろう。銀行は、主に支払いの約束を貸し付けることによって所得を得るという業務を遂行する。つまり、銀行の本業は決済業務であり、銀行の信用が支払い手段を増加させる役割がある。企業者が財産を担保にできるならば、銀行からの信用を容易に獲得できるだろう。だが、こうした活動は本質的な動機ではないという。経済発展における企業者の意義は、現存の財産にあるのではなく、将来における生産価値にあるからである。将来評価を過去の実績に頼るならば、新興企業は成り立たない。だが、購買力によって得られる財貨を担保にするならば、まさしく信用を担保にすることになる。そして、銀行業務で最も困難なのは、企業の将来価値を評価する目利きということになろうか。借り入れができなければ、企業は設備投資や業務維持も難しいので、信用が産業発展に貢献することは明らかであろう。だが、将来の企業評価の重要な要素に経営陣の能力があり、その評価も主観的にならざるをえない。そこで、企業の将来評価を示す役割を果たすものに金融市場がある。本書は、「発展なき経済」では金融市場は存在しないだろうという。金融市場が正常に機能すれば、経済情勢の天気予報ともなろうが、実際には複雑なデリバティブ商品などによって、貨幣の移動量が実態経済を上回る勢いで煽られる。金融市場が金融関係者によって信用を失墜させるとは、なんとも皮肉である。経済循環の域を脱する経済発展とは、信用に基づくものであり、これが資本主義の基本原理ということであろうか。
投資循環においては、まず、企業者は債務者になるのが原理的にある。そして、銀行の貸し付けに対して、企業者は利子を付加することによって信用金額を返済することになる。銀行も企業者も安定した信用を得ようとすれば、銀行はお得意様に利子率を低くし、企業者は購買力における利子を長期的に流通過程にとどめるだろう。信用が低ければ、担保評価も厳しく利子率も上昇する。経済発展が新興企業によってもたらされるならば、過渡的な時期では産業界の構図は信用のインフレ状態となろう。だが、取引を重ねるうちに信用を獲得する企業だけが生き残り、いずれは信用のデフレ状態となろう。不良債権が生じるのは、産業発展の過程においては、ある程度覚悟しなければならない。だが、現実には、信用評価は貸付け側の権利である。銀行は信用確率によって絶対に損をしないように調整することができる。万が一失敗しても、大銀行が潰れたら社会への影響が大きいという理由で、真っ先に公的資金が注入される。そうなると、銀行の信用評価がずさんになり、ことごとく周辺企業を倒産に追い込みながら、自分自身の保全だけが確保されることになり、信用バランスは崩壊するだろう。信用の均衡という観点からすると、銀行も平等に倒産させる方がいいのかもしれない。
3. 資本と資本主義
「資本とは、企業者の必要とする具体的な財貨を自分の支配下におくことができるようにする挺子(テコ)にほかならず、また新しい目的のために財貨を処分する手段、あるいは生産に新しい方向を指令する手段にほかならない。」
ちなみに、レバレッジとは、挺子(テコ)の働きという意味があるようだ。
資本の機能では、借入資本によって投資を行い、利子率よりも高い利潤率を見込むことになる。借入れ資本は、間接的に生産財の役割を果たす。だが、資本は生産過程では必ず生じるので、なにも資本主義経済を特徴づけるものではないという。
では、資本主義経済を特徴づける資本とは何か?本書は、資本を単なる資金や資材と捉えずに、購買力の基金や生産に向う財産と捉えている。生産財では、労働資本の重要性を認めることになろう。労働資本の評価では、賃金という貨幣手段を用いる。信用も流通量を示す貨幣量で評価せざるをえない。だが、資本は単なる交換手段ではなく、生産手段を調達するための目的として働かなければ、それは資本ではないという。つまり、「発展なき経済」では資本は存在せず、資本が生産過程に組み込まれて、はじめて資本主義が機能することになる。ここで言う資本とは、あくまでも私的資本であって、社会的資本は対象外としている。となると、資本主義とは、経済発展を目的として機能する私的活動ということになろうか。資本家も資本を持つ人であるのは間違いないだろうが、本書風に言えば、購買力や生産手段を目的とした資本を供与する人ということになろうか。
本書は、本質的な資本は永続的な生産手段となりうるので、それは購買力や創造力であるという。原料や消費財は生産過程で消滅し、道具や機械はいずれは廃れ破棄される。いずれも生産手段として転用されるが、これらは本質的な資本とは扱っていない。貨幣は、消耗することもなく、廃れることもないという意味では、連続的に人手を渡り歩く。貨幣そのものが生産手段になるわけではないが、生産手段として転用される部分は資本ということになる。ここに、貨幣と財貨が区別されるようだ。
「資本は特殊な動因であるが、それは言葉の通常の意味における財貨ではない。それは新結合を遂行する過程、方法を特徴づけるものである。」
こうして見ると、同じ資本主義でも、専門家によって資本の定義が微妙に違うことに気づかされる。
4. 資本と負債の区別
企業価値を評価する時、その資本額の尺度はバランスシートの借方に記載される総額で明示される。これは一般的な表記に過ぎないが、すべての資産は生産財になる可能性があるので、まったく無意味とも言えないだろう。企業の将来性の指標としては、生産性の創造力や流通手段における信用能力を見込む方が重要であり、これらを貨幣量として資産総額に加えることは難しい。ちなみに、ドイツ民法典では、資本を「営利のための貨幣量」の総額と定義しているという。ここで語られる資本は、バランスシートに現れる資本金と一致しない点も多い。こんなことは本質的なことではないのだが、借方と貸方の区別でずっと疑問に思っていたことが、この書で見かけられるのはうれしい。
本書は、資本は借方で負債は貸方に分類すべきだという。確かに、バランスシートでは資本は貸方に現れる。企業者からすると、資本を注入する立場なので、借方という解釈の方が良さそうに思える。株式が、返済義務が生じないという意味では、負債と同列というのも奇妙かもしれない。その分、資本家の監視の目がきつくなるという負担の意味での負債という解釈もできるわけだが。帳簿上の借方と貸方の区別は、本来的な意味があるのだろうが、現在ではあまり意識されないようだ。税務指導では左側と右側という捉え方で機械的に考えた方がいいと助言され、それに従っている。こうしたものは、論理的な解釈よりも、慣習的に是認されているとでも考えないと眠れなくなる。資本は、企業活動のために経費や資材などに交換されることになるので、帳簿上の右にあろうが左にあろうが、結局は相殺される。その区別が企業者の主観で区別されると、会計基準は成り立たなくなる。そもそも簿記の目的は、会計の明確化であり、むしろ税務的な役割が大きいと解釈している。企業成長を示すためのものであれば、PERやPBRなどの指標の方が有意義であろう。
5. 企業者利潤と労働賃金
本書は、労働賃金は労働の限界生産力によって決まるが、企業者利潤はこの法則の著しい例外であるという。労働力の確保にも競争の原理が働くならば、労働賃金もまた自然に決まるだろう。だが、現実には個人の価値観に委ねられるところが大きい。そうなると、利潤の定義は微妙となる。賃金を低くすれば搾取利潤が生じるが、これは本質的な利潤とは言えない。労働賃金に対する解釈も微妙で、企業者からの搾取と見るか、労働に対する報酬と見るかで世界観は変わってくる。
それはさておき、生産物価格が自由競争によって決定されるならば、利潤はひとえに生産効率によってもたらされるだろう。そして、企業者は利潤を最大限にするために、生産効率を上げようとする。
「発展なしには企業者利潤はなく、企業者利潤なしには発展はない。」
経営陣の報酬を規定できるものはないが、少なくとも労働者が社会保障に頼らなければ生活ができないほどの低賃金を強要して、経営陣が莫大な収入を得るような企業体は経済発展の弊害ということは言えそうだ。安定的で永続的な経済発展をもたらすには、経営者のよほどの倫理的資質によるところが大きいのだろう。
6. 利子の原理
利子は、現在の購買力に対する将来の打歩であるという。消費的利子や国家の信用需要も将来に渡って生じる。消費的利子とは、災害などの経済破壊によって生じる利子、あるいは、巨額な相続によって生じる利子などで、こうした利子は単純な循環経済においても存在するという。
本書が対象とするのは生産的利子で、それは新結合の遂行から生じるという。企業者利潤こそ利子の源泉であり、購買力需要の増減を媒介として利子の変動を引き起こすというわけか。もちろん信用需要にも影響を与える。
利子と物価の関係を眺めると、経済活動が活発になれば利子率が上昇し、そのために物価も上昇する。逆に、物価が上昇すれば利子に影響を与える。物価の上昇は、企業にとってはいっそう大きな資本を必要とするため、むしろ企業活動を鈍らせる。この場合、物価上昇が利子を引き下げることになる。したがって、利子の高い状態は、国民経済の繁栄の一つの指標となる。しかし、購買力の供給が大きくても、やがて需要によって吸収される。高度に発展した経済大国においては、利子が低いといった現象を見る。利子が高いということは、リスクも高いことを意味し、利子が低いということは技術が進んでいるとも言える。発展途上国の方が成長率も高く、利子も高くなる。となれば、利子の適正値は、国の経済力や技術力に依存することになろう。利子の基準だけでも、様々な見方ができ、それだけで利子理論の難しさがうかがえる。
本書は、利子は発展の成果に対するプレミアムではなく、むしろ発展に対する抑制要因であるという。同じことが株価にも言えそうだ。先進国の株価が発展途上国並に上昇すれば、それだけで異常を警告していることになろう。成熟した経済では、資金需要が枯渇していき投資効率も下がり利潤率も下がり、やがて、利潤はゼロに近づき利子率もゼロに近づくことになろう。となれば、資金需要の増加を継続しない限り、恒常的な価値増殖を形成することはできないのか?人口増加が続けば、必然的に世帯数が増え、需要はいつも創出される。生活レベルを維持するだけならば、生活用品はいずれ古びて買い替え需要が循環するだろうが、技術革新が続けば生産物の性能な品質も上がる。更に、競争の原理が続けば、いくら生産効率を高めても、やがて生産物価格は消費者の収入の範疇で買える価格まで下落し、利潤率は限りなくゼロへ近づくことになろう。
7. 景気循環の原理と恐慌
経済発展において景気の波が生じるのは必然的現象で、好況の原因は不況であり不況の収束のうちに好況の基盤が築かれるという。そして、不況を打開するには、新事業の出現が不可欠としている。新事業の生産物が市場に現れるまでに要する時間が、景気回復の鍵ということになる。
ただ、新たな企業者は慣習的制約を受け、新たな風潮を社会が受け入れるのに時間がかかる。新たな風潮が徐々に浸透すれば、追従者の参入を容易にし、群生的なエネルギーの塊として現れることになる。好況に向う本質的な要因は、資本投下と新企業の大量出現ということであろうか。逆に、好況を終わらせる要因は、過剰投資や過剰生産となろうか。
一般的にどんな不況も悪としたものだが、経済学的には、正常な不況と異常な不況があるということである。異常な不況の典型として恐慌がある。恐慌は、発展そのものを終結させ、多くの価値を崩壊させる。恐慌になる兆候が、すべての産業に一様に現れるわけではないが、パニックが加速すると正常な信用価値まで巻き添えを食う。恐慌の引き金になるのは、戦争や突然の保護関税の撤廃などの政治的問題もあれば、投機熱や過剰生産を煽るといった社会的問題もある。
では、純粋に経済学の領域で議論できる恐慌とは何か?本書は、投資が期待通りに利潤に結びつかない場合を考察している。つまり、あらゆる新結合の遂行は、難破する可能性があるというわけだ。しかし、企業者は、投資に対して成果が認められなければ、すぐにでも撤退するだろう。生産は出鱈目に行われるのではなく、あらゆる事態を想定しながら慎重に行われるはず。企業者たちはそれほど無能ではないだろう。こうした議論は、一部の会社の倒産で済みそうなもので、それが恐慌までに発展するのかは疑問である。とはいっても、現実に銀行家の過剰投資が金融危機を招いた例は少なくない。経営者たちは、なぜ暴走を黙認するのか?単に気づかないだけなのか?欲望に目がくらむのか?単なる楽観主義か?現実に人間社会には、それが問題の源泉と知りながら、都合の悪いことをタブー化する傾向がある。人間には、目先の不快なものが直接害とならない限り、見ぬ振りをする習性があるのだろう。
また、本書は、恐慌の処方箋についても考察しているが、ケインズとは異なる。その唯一の方法は景気予測の改善だという。つまり、正常な不況があることを認め、異常な不況から恐慌に至る前に事前に察知するということである。これは予防法であって解決策になっていないような...
もう一つ、国家危機と言えば、先日の中国との外交問題における日本政府の態度には呆れた。伝統的に危機管理に疎い体質を見れば、予測できる展開ではあったのだが...しかも、高度な外交問題の責任を他部門に押し付けるという前代未聞まで演じるオマケ付きだ!本当に地検が勝手に判断したとしても、そんな言い訳をする政府の態度は国家戦略が存在しないことを宣言しているようなもので、むしろ最悪だ。なるほど、この分野の地方分権化は進んでいるというわけか。
更に、大きな問題を露呈したのは、政府ばかりでなく一国に依存し過ぎる産業界の体質である。しかも、その相手国というのが、いまだ共産主義の旧体質に憑かれたままという恐ろしい現実がある。冷戦構造が終結したとはいえ、もはや平和ボケでは済ませられまい。おそらくリスク管理を怠ってきたのは、政府や産業界ばかりではないだろうから。さて、愚痴はこのぐらいにして...
本書は、経済学の古典としてケインズの「一般理論」と並び評されるらしい。近代経済学の巨人とも言われるヨーゼフ・シュンペーターは、20歳代にしてこの大作を書き上げたという。彼は「エレガンス」という言葉を好んだというが、これが優美な体系を具えた書かどうかは意見の分かれるところだろう。
シュンペーターは、社会現象や歴史現象などから分離した純粋な経済学の領域だけで理論立てようと試みる。その結論が彼の意図したものかどうかは別にして...種別すると、純理経済学という分野があるらしい。終始、批判に対する防衛的な態度で語られるあたりは、思いっきり批判に曝されたことがうかがえる。ちなみに、アル中ハイマーは、社会現象や歴史現象、あるいは、慣習性や心理学的要因などの多角的な観点を取り入れない経済理論に対して、批判的な態度をとる天の邪鬼である。本書に触れたからといって、その根本の考えが揺らぐわけではない。
しかし、だ!方法論として、どのようにアプローチするかは別である。経済現象の分析の第一歩として、社会学や歴史学との境界を明確にしようと試みることは悪いことではなかろう。何もかも複雑に入り乱れた状態のままでは客観的に考察するにも無理がある。社会学などのカテゴリー分析論がいったい何を解決してくれるのか?と疑問を持ちつつも、現実に分析しようとすれば、まず対象の定義や境界を明確にするところから始めるしかない。
古来、人類の歴史には、哲学的な難題を解明するために、数学的な公理から始め、徐々に抽象度を上げるという伝統的思考方法がある。すなわち、客観的考察の限界に対して、精神にかかわる主観的思考を組み合わせることによって、より実態に近づこうとする試みである。本書も、その流れを汲む分析の第一歩と捉えれば、経済学において貴重な存在と言えよう。その筋道が納得いかないにせよ、ここまで論理的に順序立てて考察を進める経済学書は珍しいかもしれない。
したがって、これを経済学書としてではなく、分析論における思考方法の参考例として読んでいる。
本書は、まず経済現象から、社会的現象、歴史的現象、政治的現象、自然現象などの外的要因を切り離すと宣言する。社会的現象とは人口増加や技術革新など、歴史的現象とは慣習的な民衆心理によって生じる行動など、政治的現象とは戦争や政治情勢など、自然現象とは気候変動などで、こうした影響をまったく無視するというのである。その前提を語る丁寧振りには、いくら前戯の大好きなアル中ハイマーでも「なに無味乾燥的なことを言ってんだ!」と愚痴をこぼし、一旦は「この本を買ったのは失敗だったか!」と思わせた。だが、そこは貧乏性の悲しい性、買った以上は元を取らないと気が済まない。そして、読み進むうちに、その感情は沈静化していく。
その主旨は、経済の内的要因だけで経済理論が構築できるならば、それに越したことはないが、その理論構築に限界があるとすれば、そこではじめて他の学問と連携すればいいということであろう。この分析論が実態経済から乖離する可能性を承知した上で考察され、経済学的思考の意義というものを認識させてくれる。ただし、解釈が偏れば、市場原理主義的な思想も見えてくるわけだが...したがって、社会現象や歴史現象などを無視しているという批判は適当ではないだろう。それらを無視した上で、純粋な経済理論がどこまで構築できるか?という問題と対峙しているのだから。
そして、本書の経済理論は未完成に終わる。当然と言えば当然であるが...著者も、理論としての本質が十分でないことを認めており、その結果、最初から意図したものではなかったと回想している。
また、「経済発展の理論」が第一次大戦前に発表されたことは注目すべきであろう。当時、アメリカは資本主義の新興国として、市場経済を武器に経済力で台頭してきた。その過程で莫大な富が集中したりと、市場原理的志向が強まりつつある時代である。経済発展の過程で、好況と不況の波が生じるは必然であって、その過程で恐慌現象の可能性を指摘している。つまり、世界恐慌を経験する前に、経済理論の観点から市場の暴走を説明しているわけだ。そこには、経済人の心理的傾向も考察されるので、社会学的分析とも言えるわけだが...
ところで、企業体や個人といったミクロ経済の観点で眺めると、それが常識的な行動であっても、マクロ経済で眺めると、たちまち矛盾が生じてしまうのはなぜか?群をなすと、まるで別の生命体に生まれ変わるかのように。そして、良くなるように考案された経済政策は、しばしば悪しき作用をする。科学現象では、単独の光子が粒子性を示すのに対して、光という群をなすと波動性を示す。個と群の二重性とは...それが自然法則なのだろうか?
1. 経済循環と経済発展
本書は、「循環」と「発展」という二つの経済過程を切り離して考察し、「発展なき経済」から循環要因を語り、続いて「発展する経済」のための必要な要因を語る。
まず、単純な循環経済では、自由競争や帰属作用によって価値の増殖があったとしても、それは根源的な生産要素である土地用役や労働用役などの価値変化に吸収されて余剰価値の存続する余地はなく、利潤も利子も発生しないとしている。そして、永続的な循環においては、失業という概念も登場しないという。
その一方で、発展経済では、連続的な成長というよりは断続的な飛躍であり、循環とは異質である。その要因は、企業者の「新結合の遂行」という言葉で説明される。ひとことで言えばイノベーションであろう。例えば、新しい財貨の生産、生産の新方式、販路の開拓、原料の新たな供給源の獲得、新組織の構築や体制の見直しなど、経済活動における効率性を求める行動である。つまり、企業者の革新的精神こそ、経済発展の根幹ということである。ここでは、滑稽な消費者の欲望という動機を度外視すると言っているが、企業者側の儲けを拡大する欲望と言ってしまえば、純粋な経済行為だけでは説明できないような気もする。だが、その欲望が生産の効率性と捉えるならば、純粋な経済行為なのかもしれない。つまり、自由競争に参加すれば、生き残りの原理が働き、自然に革新的な態度が現れ、経済人の合理的活動が生じるというわけだ。ただ、現実に、企業者は生産量の最適値を知っているわけではなく、試行錯誤で経験的に雇用量や生産財を調整しているに過ぎないのだが。
企業者は自社の効率性を求める行為を連続的に行っているわけだが、同時に新体制への移行や新興勢力の出現には反抗的に振る舞う。新しい風潮は最初から馴染むわけではなく、徐々に社会に浸透する。先駆者はいつの時代でも苦労するもので、追従者たちが新たな風潮を加速させることになる。したがって、新結合の遂行の効果は、連続的な成長として現れるのではなく、群生的なエネルギーの塊として現れることになる。
また、共産主義のような権威的な経済では、新結合の遂行が命令的で支配的に行われるが、資本主義経済では、企業者の購買力が重要だという。生産財を購入するには資本が必要であり、それを利益だけから捻出するのは難しい。そして、企業成長には投資が欠かせない。銀行から投資を得るにしても、信用が重要な役割を果たすことになる。したがって、資本主義社会では、信用を通じて購買力が創造されることになる。しかし、信用もまた社会的な慣習という性格が強く、純粋な経済活動だけで説明することはできないだろう。結論として、経済発展の根幹は、企業者の革新的精神から余剰価値が生まれ、その要素として利潤や利子概念が生じるとしている。投資循環の原理からすると、企業者利潤と生産的利子の存在は必要不可欠であろう。尚、利子にもいろいろな種類があるが、ここでは生産的利子だけを対象にしている。
2. 信用と投資
経済発展の源泉である投資循環では、貨幣の影響や銀行の信用問題を議論する必要がある。信用の根底にはすべての価値評価があり、どんな経済的評価においても、共通の指標とされるのが貨幣である。現実に、貨幣があらゆる物の価値の代価として使われ、バランスシートが示す評価もすべて貨幣換算される。したがって、貨幣価値の信用が、市場を支配しているといってもいいかもしれない。
銀行の信用問題では、慣習的な動機や財務実績などの評価が経済活動の指針となろう。銀行は、主に支払いの約束を貸し付けることによって所得を得るという業務を遂行する。つまり、銀行の本業は決済業務であり、銀行の信用が支払い手段を増加させる役割がある。企業者が財産を担保にできるならば、銀行からの信用を容易に獲得できるだろう。だが、こうした活動は本質的な動機ではないという。経済発展における企業者の意義は、現存の財産にあるのではなく、将来における生産価値にあるからである。将来評価を過去の実績に頼るならば、新興企業は成り立たない。だが、購買力によって得られる財貨を担保にするならば、まさしく信用を担保にすることになる。そして、銀行業務で最も困難なのは、企業の将来価値を評価する目利きということになろうか。借り入れができなければ、企業は設備投資や業務維持も難しいので、信用が産業発展に貢献することは明らかであろう。だが、将来の企業評価の重要な要素に経営陣の能力があり、その評価も主観的にならざるをえない。そこで、企業の将来評価を示す役割を果たすものに金融市場がある。本書は、「発展なき経済」では金融市場は存在しないだろうという。金融市場が正常に機能すれば、経済情勢の天気予報ともなろうが、実際には複雑なデリバティブ商品などによって、貨幣の移動量が実態経済を上回る勢いで煽られる。金融市場が金融関係者によって信用を失墜させるとは、なんとも皮肉である。経済循環の域を脱する経済発展とは、信用に基づくものであり、これが資本主義の基本原理ということであろうか。
投資循環においては、まず、企業者は債務者になるのが原理的にある。そして、銀行の貸し付けに対して、企業者は利子を付加することによって信用金額を返済することになる。銀行も企業者も安定した信用を得ようとすれば、銀行はお得意様に利子率を低くし、企業者は購買力における利子を長期的に流通過程にとどめるだろう。信用が低ければ、担保評価も厳しく利子率も上昇する。経済発展が新興企業によってもたらされるならば、過渡的な時期では産業界の構図は信用のインフレ状態となろう。だが、取引を重ねるうちに信用を獲得する企業だけが生き残り、いずれは信用のデフレ状態となろう。不良債権が生じるのは、産業発展の過程においては、ある程度覚悟しなければならない。だが、現実には、信用評価は貸付け側の権利である。銀行は信用確率によって絶対に損をしないように調整することができる。万が一失敗しても、大銀行が潰れたら社会への影響が大きいという理由で、真っ先に公的資金が注入される。そうなると、銀行の信用評価がずさんになり、ことごとく周辺企業を倒産に追い込みながら、自分自身の保全だけが確保されることになり、信用バランスは崩壊するだろう。信用の均衡という観点からすると、銀行も平等に倒産させる方がいいのかもしれない。
3. 資本と資本主義
「資本とは、企業者の必要とする具体的な財貨を自分の支配下におくことができるようにする挺子(テコ)にほかならず、また新しい目的のために財貨を処分する手段、あるいは生産に新しい方向を指令する手段にほかならない。」
ちなみに、レバレッジとは、挺子(テコ)の働きという意味があるようだ。
資本の機能では、借入資本によって投資を行い、利子率よりも高い利潤率を見込むことになる。借入れ資本は、間接的に生産財の役割を果たす。だが、資本は生産過程では必ず生じるので、なにも資本主義経済を特徴づけるものではないという。
では、資本主義経済を特徴づける資本とは何か?本書は、資本を単なる資金や資材と捉えずに、購買力の基金や生産に向う財産と捉えている。生産財では、労働資本の重要性を認めることになろう。労働資本の評価では、賃金という貨幣手段を用いる。信用も流通量を示す貨幣量で評価せざるをえない。だが、資本は単なる交換手段ではなく、生産手段を調達するための目的として働かなければ、それは資本ではないという。つまり、「発展なき経済」では資本は存在せず、資本が生産過程に組み込まれて、はじめて資本主義が機能することになる。ここで言う資本とは、あくまでも私的資本であって、社会的資本は対象外としている。となると、資本主義とは、経済発展を目的として機能する私的活動ということになろうか。資本家も資本を持つ人であるのは間違いないだろうが、本書風に言えば、購買力や生産手段を目的とした資本を供与する人ということになろうか。
本書は、本質的な資本は永続的な生産手段となりうるので、それは購買力や創造力であるという。原料や消費財は生産過程で消滅し、道具や機械はいずれは廃れ破棄される。いずれも生産手段として転用されるが、これらは本質的な資本とは扱っていない。貨幣は、消耗することもなく、廃れることもないという意味では、連続的に人手を渡り歩く。貨幣そのものが生産手段になるわけではないが、生産手段として転用される部分は資本ということになる。ここに、貨幣と財貨が区別されるようだ。
「資本は特殊な動因であるが、それは言葉の通常の意味における財貨ではない。それは新結合を遂行する過程、方法を特徴づけるものである。」
こうして見ると、同じ資本主義でも、専門家によって資本の定義が微妙に違うことに気づかされる。
4. 資本と負債の区別
企業価値を評価する時、その資本額の尺度はバランスシートの借方に記載される総額で明示される。これは一般的な表記に過ぎないが、すべての資産は生産財になる可能性があるので、まったく無意味とも言えないだろう。企業の将来性の指標としては、生産性の創造力や流通手段における信用能力を見込む方が重要であり、これらを貨幣量として資産総額に加えることは難しい。ちなみに、ドイツ民法典では、資本を「営利のための貨幣量」の総額と定義しているという。ここで語られる資本は、バランスシートに現れる資本金と一致しない点も多い。こんなことは本質的なことではないのだが、借方と貸方の区別でずっと疑問に思っていたことが、この書で見かけられるのはうれしい。
本書は、資本は借方で負債は貸方に分類すべきだという。確かに、バランスシートでは資本は貸方に現れる。企業者からすると、資本を注入する立場なので、借方という解釈の方が良さそうに思える。株式が、返済義務が生じないという意味では、負債と同列というのも奇妙かもしれない。その分、資本家の監視の目がきつくなるという負担の意味での負債という解釈もできるわけだが。帳簿上の借方と貸方の区別は、本来的な意味があるのだろうが、現在ではあまり意識されないようだ。税務指導では左側と右側という捉え方で機械的に考えた方がいいと助言され、それに従っている。こうしたものは、論理的な解釈よりも、慣習的に是認されているとでも考えないと眠れなくなる。資本は、企業活動のために経費や資材などに交換されることになるので、帳簿上の右にあろうが左にあろうが、結局は相殺される。その区別が企業者の主観で区別されると、会計基準は成り立たなくなる。そもそも簿記の目的は、会計の明確化であり、むしろ税務的な役割が大きいと解釈している。企業成長を示すためのものであれば、PERやPBRなどの指標の方が有意義であろう。
5. 企業者利潤と労働賃金
本書は、労働賃金は労働の限界生産力によって決まるが、企業者利潤はこの法則の著しい例外であるという。労働力の確保にも競争の原理が働くならば、労働賃金もまた自然に決まるだろう。だが、現実には個人の価値観に委ねられるところが大きい。そうなると、利潤の定義は微妙となる。賃金を低くすれば搾取利潤が生じるが、これは本質的な利潤とは言えない。労働賃金に対する解釈も微妙で、企業者からの搾取と見るか、労働に対する報酬と見るかで世界観は変わってくる。
それはさておき、生産物価格が自由競争によって決定されるならば、利潤はひとえに生産効率によってもたらされるだろう。そして、企業者は利潤を最大限にするために、生産効率を上げようとする。
「発展なしには企業者利潤はなく、企業者利潤なしには発展はない。」
経営陣の報酬を規定できるものはないが、少なくとも労働者が社会保障に頼らなければ生活ができないほどの低賃金を強要して、経営陣が莫大な収入を得るような企業体は経済発展の弊害ということは言えそうだ。安定的で永続的な経済発展をもたらすには、経営者のよほどの倫理的資質によるところが大きいのだろう。
6. 利子の原理
利子は、現在の購買力に対する将来の打歩であるという。消費的利子や国家の信用需要も将来に渡って生じる。消費的利子とは、災害などの経済破壊によって生じる利子、あるいは、巨額な相続によって生じる利子などで、こうした利子は単純な循環経済においても存在するという。
本書が対象とするのは生産的利子で、それは新結合の遂行から生じるという。企業者利潤こそ利子の源泉であり、購買力需要の増減を媒介として利子の変動を引き起こすというわけか。もちろん信用需要にも影響を与える。
利子と物価の関係を眺めると、経済活動が活発になれば利子率が上昇し、そのために物価も上昇する。逆に、物価が上昇すれば利子に影響を与える。物価の上昇は、企業にとってはいっそう大きな資本を必要とするため、むしろ企業活動を鈍らせる。この場合、物価上昇が利子を引き下げることになる。したがって、利子の高い状態は、国民経済の繁栄の一つの指標となる。しかし、購買力の供給が大きくても、やがて需要によって吸収される。高度に発展した経済大国においては、利子が低いといった現象を見る。利子が高いということは、リスクも高いことを意味し、利子が低いということは技術が進んでいるとも言える。発展途上国の方が成長率も高く、利子も高くなる。となれば、利子の適正値は、国の経済力や技術力に依存することになろう。利子の基準だけでも、様々な見方ができ、それだけで利子理論の難しさがうかがえる。
本書は、利子は発展の成果に対するプレミアムではなく、むしろ発展に対する抑制要因であるという。同じことが株価にも言えそうだ。先進国の株価が発展途上国並に上昇すれば、それだけで異常を警告していることになろう。成熟した経済では、資金需要が枯渇していき投資効率も下がり利潤率も下がり、やがて、利潤はゼロに近づき利子率もゼロに近づくことになろう。となれば、資金需要の増加を継続しない限り、恒常的な価値増殖を形成することはできないのか?人口増加が続けば、必然的に世帯数が増え、需要はいつも創出される。生活レベルを維持するだけならば、生活用品はいずれ古びて買い替え需要が循環するだろうが、技術革新が続けば生産物の性能な品質も上がる。更に、競争の原理が続けば、いくら生産効率を高めても、やがて生産物価格は消費者の収入の範疇で買える価格まで下落し、利潤率は限りなくゼロへ近づくことになろう。
7. 景気循環の原理と恐慌
経済発展において景気の波が生じるのは必然的現象で、好況の原因は不況であり不況の収束のうちに好況の基盤が築かれるという。そして、不況を打開するには、新事業の出現が不可欠としている。新事業の生産物が市場に現れるまでに要する時間が、景気回復の鍵ということになる。
ただ、新たな企業者は慣習的制約を受け、新たな風潮を社会が受け入れるのに時間がかかる。新たな風潮が徐々に浸透すれば、追従者の参入を容易にし、群生的なエネルギーの塊として現れることになる。好況に向う本質的な要因は、資本投下と新企業の大量出現ということであろうか。逆に、好況を終わらせる要因は、過剰投資や過剰生産となろうか。
一般的にどんな不況も悪としたものだが、経済学的には、正常な不況と異常な不況があるということである。異常な不況の典型として恐慌がある。恐慌は、発展そのものを終結させ、多くの価値を崩壊させる。恐慌になる兆候が、すべての産業に一様に現れるわけではないが、パニックが加速すると正常な信用価値まで巻き添えを食う。恐慌の引き金になるのは、戦争や突然の保護関税の撤廃などの政治的問題もあれば、投機熱や過剰生産を煽るといった社会的問題もある。
では、純粋に経済学の領域で議論できる恐慌とは何か?本書は、投資が期待通りに利潤に結びつかない場合を考察している。つまり、あらゆる新結合の遂行は、難破する可能性があるというわけだ。しかし、企業者は、投資に対して成果が認められなければ、すぐにでも撤退するだろう。生産は出鱈目に行われるのではなく、あらゆる事態を想定しながら慎重に行われるはず。企業者たちはそれほど無能ではないだろう。こうした議論は、一部の会社の倒産で済みそうなもので、それが恐慌までに発展するのかは疑問である。とはいっても、現実に銀行家の過剰投資が金融危機を招いた例は少なくない。経営者たちは、なぜ暴走を黙認するのか?単に気づかないだけなのか?欲望に目がくらむのか?単なる楽観主義か?現実に人間社会には、それが問題の源泉と知りながら、都合の悪いことをタブー化する傾向がある。人間には、目先の不快なものが直接害とならない限り、見ぬ振りをする習性があるのだろう。
また、本書は、恐慌の処方箋についても考察しているが、ケインズとは異なる。その唯一の方法は景気予測の改善だという。つまり、正常な不況があることを認め、異常な不況から恐慌に至る前に事前に察知するということである。これは予防法であって解決策になっていないような...
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