2019-02-24

"エドガー・アラン・ポー 怪奇・探偵小説集(2)" Edgar Allan Poe 著

頭がきれる探偵が登場すれば、そいつと張り合う気持ちで読み入り、つい夜を徹してしまう。これが推理小説の醍醐味!そして、意外な結末に悔しい思いをし、もう一勝負を挑む。これが短編集の醍醐味!名探偵と銘打つだけで、その人物の言葉を信じてしまい、読者をステレオタイプに飼い馴らす。これが小説家の腕前!もはや語り手は、読者の代理人として行動してやがる。
たいていの推理小説の構成には、ポーの影を感じずにはいられない。ゲーテはカントをこう評した... たとえ君が彼の著書を読んだことがないにしても、彼は君にも影響を与えている... と。ミステリー界にあって、ポーはまさにそんな存在であろう。彼の仕掛ける基本原理には、読者の心理を操作して物語を真理へ導くところにある。心理も、真理も、音調が同じとくれば、意味するものも紙一重。人間ってやつは、心理的な妄想を満たしてくれるだけで真理に触れた気分になれる、実に幸せな存在ときた。
推理モノの定番といえば、密室のような不可能性と犯人の意外性、盲点に仕組まれるトリック、暗号といったところであろうか。名探偵の引き立て役としての愚鈍な警部の配置も欠かせない。柔軟で行動力のある人物と頭でっかちで官僚的な人物との対比は、平凡な日常に束縛された読者に刺激を与えてくれる。お馴染みのシャーロック・ホームズ、刑事コロンボ、金田一耕助といった名探偵たちにも、ポーが創作した C・オーギュスト・デュパンの面影がある。江戸川乱歩が描いた明智小五郎はまさに生き写し。ここには、推理小説の歴史を垣間見るような作品群... 「モルグ街の殺人」,「ぬすまれた手紙」,「おまえが犯人だ」,「黄金虫」の四篇が収録される。
尚、谷崎精二訳版(偕成社文庫)を手に取る。

「物質界には、非物質界とよく似たものがいたるところにある。それゆえ、隠喩または直喩が、議論を強めたり叙述をかざったりするのにもちいられる修辞学上の独断(ドグマ)が、いくらか真理らしく思われたりする。たとえば惰性力の法則は、物理学でも形而上学でも同一であるらしい。物理学で、大きな物体をうごかすには小さな物体をうごかすよりずっと困難で、それにともなう運動量もこの困難に正比例するとみとめている。このことは、能力の大きい知力は劣等な知力よりもずっとその動作において強く、不変であり有効であるが、その行動のはじまりにあってはずっとぎこちなく面倒で、ためらいがちなものである、と形而上学でいわれることとおなじことである。」

「モルグ街の殺人」
モルグ街の惨劇が新聞に掲載され、デュパンが興味を示す。被害者は母娘。母は、足と腕の骨は挫かれ、脛骨と肋骨が折られ、無残に切り裂かれている。娘は、絞殺され、暖炉の煙突に逆立ち状態に。なんと非人間的な残虐さ。
証言者たちの主張もまちまち... フランス人はスペイン語を話していたと言い、オランダ人はフランス語だと言っている。イギリス人はドイツ語だと思い込んでいるが、ドイツ語を知らない。スペイン人は英語だと思い込んでいるが、英語をちっとも喋れない。イタリア人はロシア人と話したことがないのに。もう一人のフランス人はイタリア語も知らないのに... みながみな自分の話せない言語だと思い込んでいる。ヨーロッパの五大国民の耳では聞き分けられないとなれば、アジア人か?アフリカ人か?犯行現場に残された毛は、人間のものではない。逃走ルートを検討してみても、とても人間の運動能力では説明がつかない。この超人的な身のこなしは... デュパンの推理は、いや、オチは... オランウータン!?

「ぬすまれた手紙」
宮殿で消えた手紙をめぐって、貴婦人からパリ警察に依頼が。政治的陰謀の臭いのする手紙。大臣は貴婦人の弱みを握って権力を思いのままに。スキャンダルネタか?この際、内容はどうでもいい。
手を焼いた警視総監 G はデュパンに意見を求める。手紙は大臣の官邸内にあるはず。しかも、すぐ取り出せるところに。大臣は大胆にも、あえて隠そうとはしない手段に出て、警察を欺く。警視総監は大臣が馬鹿だと決めつける... だって大臣は詩人だよ。詩人なんてものは馬鹿と隣あわせよ... と。
ちなみに、論理学には「媒辞不拡充」という概念があるらしい。「あらゆるばかは詩人である」という大前提に対して、「彼は詩人である」という小前提があり、ゆえに「彼は馬鹿である」と結論づける。これが三段論法。ここで、「ばか」を大名辞、「彼」を小名辞、「詩人」を媒辞または中名辞。媒辞は大前提と小前提を仲立ちし、両方に拡充して意味を結び付けなければならないのに、意味不明で拡充できていない。愚鈍な警視総監を揶揄した概念というわけか。
さて、デュパンは、大臣の狡猾さを逆手にとり、手紙をすり替える。大臣は、貴婦人を権力に従わせたが、今度は貴婦人の権力に従う羽目に。彼はまだ手紙が手元にあると信じており、そのつもりで無茶をやり、政治的破滅を招くであろう。失脚するのだ。地獄に堕ちる道はやすし...

「おまえが犯人だ」
ラットル町で、裕福な老紳士バアナバス・シャットルワージーが殺害された。被害者の甥ペニフェザーが容疑者として拘束される。遺産をめぐって揉めていたという証言もある。
そこで、被害者の親友チャールズ・グッドフェローが、事件の真相を暴こうと乗り出す。彼は「オールド・チャーリー」と呼ばれ、正義の人という評判。しかも、ペニフェザーを弁護し、人間性においても寛大さを印象づける。
発見された弾丸は、ベニーフェザーの鉄砲の口径と一致。動機と情況証拠が揃い、住民の非難轟々の中で法廷に引き出され、陪審員は第一級殺人犯の判決を下す。死刑!
一方、オールド・チャーリーの気高い態度は、住民たちに称賛されて祝賀会が催された。そこに、シャトー・マルゴーの大箱が配送される。箱を開けると、血まみれの死体がむくむくと起き上がって、「おまえが犯人だ!」と告げる。青ざめたグッドフェローは罪を告白する。これは、犯人の良心に訴えた仕掛けだとさ...

「黄金虫」
暗号小説の草分けとも評される作品。黄金虫は金持ちだ... という童謡もあるが、コガネムシはゴキブリの方言という説もあるらしい。この虫にかまれたら、金の臭いをかぎつけ、金の猛者とさせるのか。
ポーは、こいつにキャプテン・キッドの財宝伝説を絡めて、黄金探検活劇へといざなう。語り手の友人ウィリアム・ルグランは新種の昆虫を発見して興奮した様子。その場で羊皮紙を掴んでスケッチを描いたが、木の枝にとまっている甲虫がどうにもドクロにしか見えない。彼は「甲虫は財産の手引き」と主張し、語り手と共に宝探しへ。
羊皮紙にスケッチした時には、何も描かれていなかったはずだが、炙り出しのような化学反応から、文字が浮かび上がる。海賊の暗号文書か?言語解析で、まず用いられる方法は、最も多い文字と最も少ない文字を抽出する。そう、頻度分析だ。各国語には特有の性質があり、例えば、英語では "e" が最も頻度が高いので、これに当ててみる。そして、"e" を含む最もありふれた語は "the" で、その前後の文字に当ててみるといった具合に。これは、初歩的な換字式暗号ではないか。この作品には、ポーの暗号理論が暗示されている、というのはちと大袈裟であろうか...

2019-02-17

"エドガー・アラン・ポー 怪奇・探偵小説集(1)" Edgar Allan Poe 著

奇っ怪なものに触れると、心までも奇っ怪になる。陰鬱の感染力はよほど強いと見える。そこにあるは不気味さと恐怖感。恐怖感を説明することは意外と難しい。ふと冷静になってみると、なにゆえこんなものを... と。なんとなく... といった感覚が輪をかけて妄想を掻き立てる。
一方で、説明が不要なほど明らかな恐怖感がある。生きながら埋葬され、棺の中でもがき苦しむのを想像すれば、身の毛もよだつ。もし、火葬中に目を覚ましたら... と。生に執着すれば、最大の恐怖は死ということになる。死臭ほど不気味さを演出するものはあるまい。そんな臭いのしてきそうな作品群... 「黒猫」,「大うずまき」,「ウィリアム=ウィルスン」,「早すぎた埋葬」,「細長い箱」,「アッシャー家の崩壊」の六篇が、ここに収録される。
尚、谷崎精二訳版(偕成社文庫)を手に取る。

毎日、夜になると眠る。これを一時的な眠りとすれば、死は永遠の眠りと位置づけられる。その違いはなんであろう。一時的な眠りでは夢を見る。では、夢を見るか見ないかの違いか。いや、熟睡すれば、夢も見ない。眠りの中で認識論を語るのは難しい。なにしろ無意識な自我を相手取るのだから...
しかし、人間の本質はむしろ無意識の領域にありそうだ。たとえ行動が意識できたとしても、その動機を説明することは難しい。怖いもの見たさ、といった衝動はどこからくるのか。やってはいけない!と分かっていながら、ついやっちまうのはどういうわけか。退屈病がそうさせるのか。刺激を求めすぎて哲学病を患えば、天邪鬼精神を旺盛にさせる。そして、意識と無意識の境界は、生と死を分ける境界にも見えてくる。人生とは、生まれながらにして生と死の狭間をさまよっているようなものか...
すべての物事を認知できるような全知全能な人間なんていやしない。どんな人間にも、認知できない領域がある。知らぬが仏というが、それはどうやら本当らしい。神はその能力ゆえに思い煩い、言葉にもできないでいるのやもしれん。言葉が発せられるのは、まだ余裕のある証か...
死生観は、生ある者の深層心理を支配する。では、死する者にとっての死生観とは、どんなものだろう。少なくとも、生きている間は生きている者同士で騒ぎ、死んだら死んだ者同士で静かに言葉を交わし、生きている者に邪魔をされたくないものである...

「黒猫」
愛猫の名はプルートー。それは閻魔という意味。もともと優しい性格で動物好きな主人公は、この猫の喉首をとらえ、目玉をえぐりとる。この愚行を呪いながら身体中に熱を帯び、執筆中ときた。そして、涙を流しながら、首に縄をかけ、木に吊るして殺してしまう。さらに、呪われた行為は妻に及ぶ。愛という衝動に悪戯という衝動が重なると、こうも残虐非道になれるものなのか...

「大うずまき」
ノルウェーのロフォーテン諸島海域に「メイルストロム」という大うずまきがあるそうな。海峡の中心には、地球の中心を貫いてどこか遠くへ出る深淵があると伝えられる。例えば、ボスニア湾はその一例とされるとか。この手の言い伝えには、海の怪物伝説が語り継がれ、漁師たちを恐れさせてきた。そして、老人の容貌をした男が体験談を語る。大うずまきに吸い込まれ一命をとりとめたものの、冷静に振り返ってみると、あまりの恐ろしさに一夜にして髪が真っ白になっちまったとさ...

「ウィリアム=ウィルスン」
善と悪が一人の人間の中に共存する。心の葛藤の末、片方がもう片方を殺してしまう。だが、生き残った方も自ら抹殺せずにはいられない。恐ろしい良心を相手取る男の運命は...

「早すぎた埋葬」
19世紀初頭、生きながらの埋葬の惨事がフランスで起こったそうな。事実は小説よりも奇なりというが、どうやら本当らしい。
しかし、ここでは実際に生き埋めにされた恐怖を描いているのではない。あれこれ想像することで恐怖心を煽っているだけ。死と見間違えられた昏睡状態から目を覚ますと、そこは狭く窮屈な棺の中。絶対的な暗黒と深海の沈黙に支配され、いずれ肉体を蝕むであろうウジ虫の大群が襲ってくる。そんなことを想像しながら、疑惑が駆け巡る。なぜこんな目に?ヤブ医者の犠牲か?人体を医学的に無理やり生きているように見せかけることは可能であろう。だが、生きることと死なないということは同意ではない。機械仕掛けの人体を永遠停止と定義できるものとは。実体の死よりも、想像の死こそ真の恐怖というものか...

「細長い箱」
船上で不気味さを醸し出す箱の中身を想像するお話。箱は船倉ではなく、主人公夫妻の船室に運ばれた。主人公は画家で、箱の中身は絵であろうか。いや、後から思えば、妻というのは、あれは召使いだったのか。船は嵐に襲われて難破。海に放り出された箱を追って、主人公も海の底へ。箱の中身は愛妻だったのか...

「アッシャー家の崩壊」
思い悩んだ兄は、人里離れた古い館に旧友を招く。兄妹は双生児で、妹は遺伝的な神経疾患を患っているという。兄はほとほと疲れた様子。やがて妹は息を引き取ったと告げ、亡骸を地下室に安置する。だが実は、妹は生きていたと告白する。生きていると知っていながら棺の中に閉じ込めたというのである。隠者は断末魔とともに蘇る。重い黒檀の扉が開くと、妹が震えながら立っていた。彼女は兄に覆いかぶさり、断末魔の苦しみのうちに死ぬ。彼は恐怖心の犠牲となったのか。そして、アッシャー家の館も崩れ落ちたとさ。
ところで、ヒポコンデリーという病があると聞く。心気症とも呼ばれる。病気を苦に、精神障害までも引き起こす負の連鎖作用のような。妹がなんらかの病気であったことは本当であろう。だが、深刻な精神病を患っていたのは兄の方であったか...

2019-02-10

"開高健ベスト・エッセイ" 小玉武 編

小説「ロマネ・コンティ...」に誘われ、なにやら懐かしい風を感じる文体に吸い込まれる。デジャヴってやつか...
やはり随筆はいい。小説家の書き下ろした随筆はいい。小説の仕事は、著者の筆を物語の設定や形式の中に封じ込める。わざわざ息苦しい枠組みを自らこしらえ、煩悶する。なにゆえ、そのような企てを試みるのか。M な性分がそうさせるのか。そこから自己を解き放った時、その反動から何が見えてくるかを期待してのことか。相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体が、真の自由を知ろうとすれば、束縛をも受け入れなければならない。求められる視点は、日常に対する鋭い観察眼、人間観察と自己観察。随筆とは、まさに人生試論!過去の作品群と対峙する自省論は自らの歩みを露わにし、顔を赤らめずにはいられまい。この試みが、人生哲学をより明確にすれば、自己破壊へ導かずにはいられまい。なぁーに心配はいらない。人間狂わずして、何が見えてくるというのか...
「何かを手にいれたら何かを失う。これが鉄則です。何物も失わないで何かを手に入れることはできない。それは失ったものに気がついてないだけ、あるいは手に入れたものについて気がついてないだけ。失ったものと手に入れたもののバランスシートは誰にもわからない。」

さて、開高健というと、ウィスキーの CM のイメージがいまだ残っている。モンゴル草原に幻の魚を求めては、私はさまよっていた... などとつぶやく釣師に、タヌキを水筒代わりに腰にぶらさげてアラスカ列車に FLAG STOP をかける冒険家といったイメージである。両人対酌すれば山花開く、一杯一杯復た一杯(李白)... こうした名文に出会えたことも喜びであった。
彼は、壽屋(現、サントリー)の専属コピーライターとして活躍した。酒の宣伝で欠かせない BGM といえば、ウィスキーを注ぐ音... ドクドクドク。これには学生時代の悪夢が蘇る... レッドやトリスを一気飲みさせられて... 毒、毒、毒!そして、あの有名なフレーズが蘇る。
「人間らしく やりたいナ トリスを飲んで 人間らしく やりたいナ 人間なんだから...」

本書の魚釣りの場面では、「キャッチ & リリース」という言葉が登場する。このフレーズも、開高健が広めたという説を聞いたことがあるが、真相は知らない。哲学者たちが遺してきた名言や格言の類いは人生のキャッチコピー、いやキャッチ & リリース、言葉をキャッチして次の世代に解放していく。一度捕まえた恋人も、いずれ手放すことに。随筆も、小説という枠組みに囚われながら、自我を解き放つ。人生は、まさにキャッチ & リリースの連続か...
酒も、魚も、心地よく食すには腐らせ方の按配が難しい。やはり人間も、腐らせ方が肝要なようである。年老えば、足が臭くなり、口が臭くなり、酒宴の席で醜態を演じ、精神が腐っていくのを感じる。現在は瞬く間に過去となる。いい頃合いにリリースしてやらねば... 智恵が哀しみにならぬうちに...
ちなみに、いい酒とは、こういうものを言うそうな...
「こんな女がいたらさぞや迷わせられるだろうな、と思いたくなるような酒がいい酒なの。黙ってても二杯飲みたくなる酒がいい酒なの...」

「釣師というものは、見たところ、のんきそうだが、実は脱走者で脱獄者だ。仕事から、世間から、家庭から脱出しようとあがきながら、結局、脱出できないことを知って、瞬間の脱獄気分を楽しんでいる囚人だ。」
... 林房雄「緑の地平線」より

1. 小説は文学か、文楽か...
「気質からいえば私は文学部へいくべきであったかも知れないが、当時の気持では、大学の文学部の存在理由が私にはのみこめなかった。経済学や法学などは "学問" の対象として扱ってもさしてむりはないように思うが、だいたい文学部で教えることは語学をのぞけば、小説や戯曲などの解説である。古典作品、現代作品の区別を問わず、いったいこうしたものは "学問" といえるものなのだろうか。いわゆる文学的感動なるものはしばしばゴロリとねころがって読んでいるときに訪れるではないか。"文学" とは本来 "文楽" と書かれるべき性質のものではないか。教壇のうえから教えられたところでどうなるものでもあるまい。のみならず、たいていのものは教壇にのぼると、砂をかむようなものになってしまう。これがこわい。ほんとに文学を愛するものは文学部と無関係である。アホらしい...」
そう考えて法学部へ進んだそうだが、出くわす文章がことごとくハイボールからウィスキーを抜いたような代物ばかりで、およそしらじらしきこと。たちまち言葉の鬱へ導かれる。自分の思考を確かなものにしようと思えば、精神の実体を確かなものにしようと思えば、言葉にしてみることだ。生きることが息苦しければ、言葉に救いを求める。言葉が記憶を確かなものにし、歩みを確かなものにする。
とはいえ、言葉だって実体があるかどうかも分からないし、もしかしたら幻想かもしれない。開高健は小説家としての持論を軽く言い放つ...
「食べ物と女の話が書けたら一人前だ!」

2. 喜劇の時代
小説作品は、発作にそそのかされて編み出されるものらしい。衝動によって導かれるのであれば、道徳に反抗する形で現れる。天国の言葉を軽く、薄っぺらなものにし、煉獄や地獄の言葉を重く、哲学を匂わせる。
小説を書くとは、ある種の病いか。もがき、あがき、慢性宿酔で苦しみ、気がつくと酷い体力減退。しかも締切に追われる日々に、自由な筆も義務と化す。義務も、依存症も、たいした違いはなさそうだ。小説家とは、なんと儚い職業であろう。いや、読者だって儚さでは負けちゃいない。歳を重ね、くだらない経験を積んでいくと、癒やされる文章に縋るしかないのだから...
「現代は考えることのできる人にとっては喜劇、感ずることのできる人にとっては悲劇、こういう時代です。いつの時代もそうかもしれないがね。それで、考えることのできる人と感ずることのできる人の数を比べてみると、いつの時代も感ずることのできる人はごく少ない。だから喜劇の時代だということになるな。」

3. 釣師、荒野をさまよう...
釣師は、手錠をはめられるのを待っている脱獄囚のようなものらしい。荒野を求めて旅をする。黄昏を求め、自然と戯れるために。だが、荒野は地の果てにあるとは限らない。大都会にも、ネオンの荒野がある。集団社会の中にこそ孤独の荒野がある。結局、真の自由はどこにも見つけられず、言葉の幻想に縋る。息苦しい現実社会にあって自由を求めれば、自己破壊を企てるしかなさそうだ。自然を懐かしみ、醜いものを排除し、遠くへ行き過ぎれば、戻ってくるのが難しくなる。なにかを得るために、なにかを失わねばならぬという苛酷な鉄則は、文明でも、革命でも、また小説でも同じことか...
「赤い荒野には《物》しかながったが、そのことに私はおびえていたたまれなくなりながらも、どこかで、優しいと感じていたはずである。《物しかない現代の悲惨!》という文明評論家の蒼白な肥満の糾弾にときとして私は憤怒と侮蔑をおぼえることがある。この人は《人》にも《物》にも絶望したことがないのではないか。《人》に絶望した人は《物》をこそ優しいと感ずるはずなのである。なぜなら《物》は原子爆弾のボタンであろうと自転車修理用のペンチであろうと、つねにそこに確固とした形をとって存在し、つつましく沈黙し、《人》にふれられるまではけっしてうごこうともせず、変貌しようともせず、転向しようともしない。そしてふれられたときにはあらかじめ予測された仕事を、一連の体系をやってのけるだけであって、その結果が地球の破壊であろうが、川沿いの五月の道の散歩であろうが、けじめしない。《物》は冷酷であるがゆえに謙虚であり、実力にみち、優しいのである。このことを知っているのは労働者と農民だけで、知識人たちはまったく《物》にふれたことがないのだ。」

2019-02-03

"ロマネ・コンティ・一九三五年 六つの短篇小説" 開高健 著

本書には、「玉、砕ける」、「飽満の種子」、「貝塚をつくる」、「黄昏の力」、「渚にて」、「ロマネ・コンティ・一九三五年」の六作品が収録され、捉えどころの難しい作品群は主義や思想などという枠組みでは規定できそうにない。美酒、美食、阿片、魚釣への好奇心は、単なるエピキュリアニズムか。それとも、もっと深い何かが。政治的な出来事や歴史的な背景を盛り込み、求道的な陰翳を語っているようにも映る。いや、そう感じさせるだけで、読者に意地悪をしているのかも。いずれにせよ、文体の黄昏感に癒やされるのであった...
ちなみに、北京官話の語感で「開高健」の反語は、「閉低患」となるらしい。発音は、カイ・カオ・チェンがピー・ティー・ファンに...

人生論に縋りはじめたら、そろそろ終わりが見えてきたということか。郷愁に誘われながら、性懲りもなく繰り返す愚行論。歳を重ねると感動が薄れていき、憂鬱に浸ったまま無気力になっていく。もう未来に高揚感も湧かない。頭が朦朧とした中で青春の映像をセピア色に染め、自己陶酔に耽る。このビンテージ感ときたら。そして、夕焼けに染まる時刻になると、飲まずにはいられない。
ちなみに、二十年来の馴染みに「BARは5時から...」というキャッチフレーズを掲げるバーがある。「いくつものドラマがはじまるバーの扉は午後5時に開きます...」だとさ。それにしちゃ、バーの扉は重い。紳士淑女でなければ、開ける資格がないと言わんばかりに。心身ともにくつろごうとする場で、緊張感を煽ってどうする。扉の重厚感の前で、客は怯んで引き返すか、バーテンダーに勝負を挑むか、選択肢は二つ。まさに人生は、選択の中で進行していく。それも後戻りのできない選択だ。
そして、物語が迫ってくる。「白か黒か、右か左か、有か無か、あれかこれか。どちらか一つを選べ。選ばなければ殺す!」と。しかも、選択の余地がありそうで、相手は最初からどちらを選ぶか決めている気配。どう答えても幸せにはなれそうにない...

ちょっと待ってくれ!考える時間をくれ!まずは、スパでリラクゼーション!アカスリでもして人生の垢を落とそう。その垢ときたら、固く固く固まってウズラの卵ぐらいの玉に。フルチンじゃ、「玉、砕ける」。垢を落とし、爪を切り、排泄物を流し、ろ過作用を促すも、体内の不純物を蒸留し、すかさず蒸留酒を補給。ん~... 気分転換しても答えが出そうにない。コインでも投げて、どちらか選べば楽になれそうだが、選択しないという選択肢も欲しいところ。人生のドラマは、軽々しく選択できるものではなさそうだ。一九三五年モノともなれば、扉の重々しさはさらに増す...
「馬でもないが虎でもないというやつですな。昔の中国人の挨拶にはマーマーフーフーというのがあった。字で書くと馬々虎々です。なかなかうまい表現で、馬虎主義と呼ばれたりしたもんですが、どうもそう答えたんではやられてしまいそうですね...」

1. 飽満な魔力... 阿片
禁断療法がどれほどの苦しみかは知らんが、阿片を「飽満の種子」と書き残した者もいるらしい。この魔力は、温和で爽快な疲労回復剤にとどまることはないようである。阿片中毒者ジャン・コクトォは著作「阿片」の中で、こう書いたそうな。
「永続的快感の状態にある阿片喫煙者を見て堕落だと責めるのは、例えば大理石を見て、これはミケランジェロにそこなわれた結果だと言い張り、画布を見て、これはラファエルに汚されたのだと叫び、紙を見て、これはシェークスピアにけがされたのだとあわれみ、沈黙を見て、これはバッハに破られたのだと云うのと同じことになる。阿片喫煙者、これほど不純でない傑作はまたと他にはない。だがすべてに分配を求めてやまない社会が、この傑作を、目に見えない美、切売りの出来ない美だと認めて、排斥するのも、また極めて当然だ。」

2. 聞きしにまさる官能酒... ロマネ・コンティ
「小説家は耳を澄ませながら深紅に輝く、若い酒の暗部に見とれたり、一口、二口すすって噛んだりした。いい酒だよ。よく成熟している。肌理がこまかく、すべすべしていて、くちびるや舌に羽毛のように乗ってくれる。ころがしても、漉しても、砕いても、崩れるところがない。さいごに咽喉へごくりとやるときも、滴が崖をころがりおちる瞬間に見せるものをすかさず眺めようとするが、のびのびしていて、まったく乱れない。若くて、どこもかしこも張りきって、潑剌としているのに、艷やかな豊満がある。円熟しているのに清淡で爽やかである。つつましやかに微笑しつつ、ときどきそれと気づかずに奔放さを閃かすようでもある。咽喉へ送って消えてしまったあとでふとそれと気がつくような展開もある。」
これが、酒についてのくだりであろうか。思えば、美酒への欲望も、美女への欲望も同類、官能的な酒が官能小説を際立てる。人生にくたびれた老人をボトルのくびれが癒やし、ワインがグラス越しにエクスタシーを物語る。
ちなみに、VSOP には二つの意味があるそうな。通説の Very Superior Old Pale. と、もう一つは、Vieux Sans Opinion Politique(政治的意見に関係なく古い).
政治家ってやつは、あまりに脂ぎっているために、ビンテージもののようにまろやかにはなれないものらしい...

3. あの荘子と恵子の論争... 魚の気持ちなんか知らんがね
「昔、中国に哲学者がいた。その哲学者が、ある日、弟子をつれて散歩にでた。河岸へくると、魚が泳いでいるのが見えた。それを見て、哲学者は、魚が楽しんでいるといった。弟子は、あなたは魚ではないのにどうして魚が楽しんでいるとわかるのですと、たずねた。すると哲学者は、おまえはおれではない。それならば、おれが魚の楽しみをわかってはいないと、どうしておまえにわかるのだといった。すると弟子は、私はあなたではないのだからもちろんあなたのことはわからない。あなたはもちろん魚ではないのだから、あなたに魚の楽しみはわからない。これはたしかだ...」

2019-01-27

マネー!マネー!マネー!

お金が人を狂わせるのか、そもそも人が狂っているのか...

お金ってやつは、享楽の前では愛と同列であり、不安の前では死と同列である。こいつの前では、いつも人間は近視眼であり、永遠に人生のアマチュアであり続ける。経済学がお金の流れを追いかける研究分野であるからには、金融工学やファイナンス理論を旺盛にしていくのも、その顕れ。
お金に関する金言は、愛のものに匹敵する。ベンジャミン・フランクリンは、こんなことを言った、「お金と人間は持ちつ持たれつだ。人間は贋金をつくり、金は贋の人間をつくる」と。お金に対する愚かさは、愛に対するものより強烈やもしれん。金狂家は主張するだろう... 愛にうんざりしても、詩にうんざりしても、お金だけは裏切らない... と。資本主義というお金を自然増殖させる奇跡的なシステムを支えているのは、投資という行動原理である。しかしながら、投資の哲学的意義なんぞを問うても上の空。浪費家は主張するだろう... 金は天下の回り物... と。金融屋は主張するだろう... 金融商品を買おうという客で溢れているのに売らない手はない... と。その影で投機屋は、サヤ取りに明け暮れて元の鞘に収まるのかは知らん。

貨幣流通の最大の役割は、金儲けの平等化であろうか。人類は価値の概念に弄ばれてきた。価値の指標を探し求めた挙げ句に貨幣を発明し、価値の概念を自由に解放してしまったがために仮想化へまっしぐら。パンドラの箱を開けちまったか。精神ってやつが得たいの知れない実体だけに、仮想的な存在とすこぶる相性がいいと見える。つまり人間は、長い長い歴史経験をもってしても、真の価値を知らずにいるということか。いや、経済哲学を身にまとうには、まだまだ経験が足らないというのか。
いまや仮想化の波は現金を抹殺にかかる。時代はリアル貨幣の最期を迎えようとしているのか。あるいは、一連の金融危機によって、紙幣や硬貨を絶滅の危機から救おうとしているのか。その影で、お金はお構いなしに自由に振る舞う。
今、ラジオからあの懐かしい ABBA の曲が流れてくる。Money... Money... Money...

1. 贋金崇拝!
古くから、お金は崇められてきた。贋金で敵国の財力を奪う戦略は、既に古代の記録にある。贋金の歴史は、賢い人間のことだから、おそらく貨幣の発明とともに始まったのだろう。犬のディオゲネスとあだ名された哲学者は、価値の本質を問い、貨幣の真の存在を問うて貨幣偽造に及んだがために、国外追放をくらった。この御仁にしてお金の犬になったのかは知らんが、彼に陶酔する酔いどれ天の邪鬼が子猫ちゃんの犬であることは確かだ。
やがて科学の時代が到来するが、仮説を嫌ったニュートンでさえ錬金術に嵌った。金に目がくらみ、金で遊んでいるつもりが、金に弄ばれ、堕ちていく。天国と地獄の区別もつかんと。豊かな社会で貧しいよりは、貧困な社会で貧しい方がましやもしれん...

2. お客様は神様?
価格の決定権は誰にあるか?生産者側の価格競争がある程度は機能するにしても、その主導権が消費者側にあるというのは疑わしい。消費者が欲しがらない物を生産しても意味がない、といえばその通りだろう。では、消費者は何を欲しがっているのか?実は、消費者にも分かってない。それを提案するのが生産者であって、選択肢は常に生産者側が提供しているし、消費者は単なる批評家に成り下がる。
一方で、生産者の提案がヒットする場合もあれば、不発に終わる場合もあり、消費者側にも選択の自由が残されている。となると、誰に主導権があり、誰が神様なんだか?とんと分からん。
生産者責任は問われても、消費者責任は問われないのは不公平。やはり神様は、沈黙を守ってこそ威厳があるというもの。神様とクレーマーを同一視することはできない。大勢の神様がいるならば、自己主張の強すぎる神様を黙らせなければ。こと人間社会においては神様ってやつは、一神教でなければ、なかなか機能しないものらしい...

3. お金は手に余る...
貨幣は、国家の信用度を裏付ける存在として君臨してきた。では、国家の信用は、どこから発しているのか?造幣局は、なにゆえ信用に足るのか?それは、単に慣習がそうさせるのか?あるいは、信じたいという願いがそうさせるのか?お金ってやつは、ますます神秘性をまとい、人類を迷信へと駆り立てる。
やはり人間にとって、お金は手に余る... 自由に泳がせておくのが一番... そう考えて編み出されたのが市場原理である。市場に人間の苦手な客観的価値の指標を委ねたのである。だが、市場もしばしば暴走し、価値を歪ませる。その度に金融政策や財政政策が発動されて国家の存在感を強めるが、そこに余計な思惑が働いて、これまた価値を歪ませる。市場は、しばしば政策立案の思惑とは真逆の反応を示す。人間どもにお金の正体が一向に見えてこないだけに、結局はイデオロギー論争にすり替えられる。しかも、持つ者と持たざる者の闘争という形を装って。これが、マルクスの言う階級闘争なのかは知らん...

2019-01-20

悪魔と和解を...

迷える子羊にさえ、いつも沈黙をなされる神様よりも、お喋りな悪魔と和解する方が得策やもしれん。生きたいか、死にたいか、それが分かるまで、生きてみるしかあるまい...

「生ある限り、全てが試練である。」... ニーチェ

悪魔との和解が急務...
宗教に疎いおいらは、昔からプロテスタントという用語の扱いが微妙だと感じてきた。ルター派もあればカルヴァン派もあり、反カトリックという意味では英国国教会を含む場合もある。カトリックからの分裂派という意味で、東方教会やロシア正教会までは含まないようだけど...
人間の思考を遡れば、だいたい同じところに辿り着く。信仰心は人類にとって普遍的な存在なのだろう。無宗教者で無神論者の酔いどれ天の邪鬼といえども、なんとなく絶対的な、宇宙論的な存在を感じる。それが宗教の唱える「神」とは異質なものに見えてならないというだけのこと。
実際、キリスト教徒を称しても、科学的な見地から教会とは距離を置き、独自のキリスト教を構築する人たちがいる。彼らは布教という行為にはあまり興味がないと見える。人間の信仰心は実に多種多様で、精神を宗教団体などという枠組みで画一化できるものではないし、ましてや強制できるものでもあるまい。
ユダヤ教はエジプトの神から派生し、キリスト教はユダヤ教から派生し、イスラム教にしてもこれらの影響を受け、源泉は同じところに発する。これら三つの主教はアブラハムの宗教と呼ばれ、共通した人物を崇める、いわば兄弟のような間柄。なのに、なぜこうもいがみあうのか。古代ギリシア時代には、ゼウスを中心とした実に個性的な神々が共存していた。一神教となった途端にそうさせるのか...
人々を救済するはずの宗教が、寛容性を失い、排他主義に憑かれ、悪魔と化す。どんな大罪人でも懺悔すれば救済されるというのに、異端というだけで害のない人々までも抹殺にかかる。しかも、紛争は近い地域や近い思想の間で生じやすいときた。血の濃い関係ほど憎しみの根も深いと見える。人間ってやつは、本性的に差別好きで、縄張り意識が強く、自己存在を強調せずにはいられない存在である。いまや神に縋るより、悪魔と和解する方を優先せねば...

役に立つという視点...
成功より失敗から多くを学ぶように、幸福より不幸から多くを学ぶ。五体満足で幸せに生きる人より、身体的な障害を抱え苦悩して生きる人から多くを学ぶ。有識者たちの道徳感たっぷりな言葉よりも、知能的に障害を持つ人が純粋に曝け出すものに人間の本性を学ぶ。古代都市スパルタでは、そうした人たちを遺棄したが...
となれば、「役に立つ」という概念も違って見えてくる。役に立つと自認している人ほど、大して役に立っていないのかもしれないし、役に立たないと思っている人ほど、思ったより役に立っているのかもしれない。まずは、自分の価値観や世界観を見直してみることだ。常に、検証を怠るな。これが、ソクラテス流の「よく生きる」ということであろう。
相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体が善を認識する方法は、悪との比較においてのみ。これが悪との和解である。善悪は、ただ情念にのみ依存する。真偽もまた、偽を意識した上で真が薄っすらと見えてくる。となれば、真理ではないものも、それなりに存在意義をもってくる。
必要悪というものは、確実に存在する。どう生きればいいのか。それが明確に見えてこないから、人生は退屈しないでいられる。いまや善や徳を唱える前に、メフィストフェレスの言い分に耳を傾けなければ...

2019-01-13

「信者」と書いて、「儲」かりまっかぁ...

何事も信じることが、悟りの第一歩...
人間ってやつは、妄想を満たせば、それだけで幸せを感じられる。それは、精神という得体の知れないものを獲得した知的生命体の性癖であろうか。これはもう、ある種の精神安定剤なのである...

人間が生きていくには、なんらかの信仰や信念の類いが不可欠...
信仰は、モノを考え、根拠を評価する必要性を回避するための絶好な口実となる。つまり、人間は言い訳人生を生きているということか。自己満足感を満たすために...
証拠がないにもかかわず、いや、ないからこそ信じられる。自己を正当化するために...
信仰は、実に都合のいい代物だ。答えを求めても、神はいつも沈黙しているが、その代理人と称する者が答えてくれる。
信仰が必要なのではない。信じ込む自己に陶酔したいだけだ。合目的が必要なのではない。なんとなく目的感が欲しいのだ。人生の意味が必要なのではない。なんとなく意味があるという実感が欲しいのだ。この世に自由なんぞありはしない。だから、自由意志を崇めてやまない。現実に自由を与えられても、責任まではいらない。責任感だけで十分。
真理なるものが存在すると信じるだけで、退屈病から解放される。盲目感には耐えられない。自分自身が盲目であることを絶対に受け入れられない。この世のすべてが空虚などと認めたくはない。だから、自己に意義を求め、自己存在感を求めてやまない。そして、名声欲に憑かれ、肩書に縋る。人間は、意味づけを求めてやまない生き物である。
孤独を感じている人が、社会の手がかりを甚だ主観的な眼を通して見るのは、不思議なことではない。目の前の現象をどう解釈するか、そうやって生きていくしかないだけのこと。しかも、いかようにも解釈できるときた。この能力は貴重である。そうでなければ、矛盾した社会を生きていくことは難しい。
真理を探求できるのも、真理が存在すると信じているから。けして到達できないという無力感に苛みながらも、その無力感に快感を覚える。そして、自己に言い訳できなくなったら、あとは狂うしかない。人間の弱さを素直に曝け出し、自分の弱さを認める勇気を持ちたいものだが、これこそ危険な行為となる。

自己を知ろうとする衝動は抑えられない...
一歩引いて自己を眺めようとするメタ認知的な思考は、確かにある。それは、精神を抽象概念へいざない、自我を曖昧にさせる。それが普遍的な思考と一致すれば、神が看取っていると思い込むことができる、実に幸せな存在ときた。
精神の合理性を否定するなら、合理的な側面も語らなければなるまい。純粋な理性を語るならば、社会にあふれる思惑的な理性を糾弾しなければなるまい。
宇宙の始まりを問えば、始まりの前を問わずにはいられない。そして、宇宙なんてものをこしらえた奴は誰だ?と製造者責任を追求する。完全な絶対者が人間なんて不完全な代物をこしらえたのは、なぜか?と神の意志を問えば、無神論者だって、神を否定するために神の概念を必要とする。
ただし、人間の思考には無意識的な領域が広大であることも、意識しておく必要があろう。無意識の領域に本性が内包されているとすれば、自己を知ることに対して絶望的である。無意識な自己に、どう自己責任を押し付けようというのか。
信じる者は救われる!という単純な原理は、単純だからこそ潜在意識に強く訴える。こんな馬鹿なことを!といったことでも簡単に信じられる。
世界の破滅を予言したカルト宗教は、予言日に何事も起こらないと、詐欺だ!と信者たちから集団訴訟を起こされる。だが、より深いレベルの信者たちは、全財産を捧げたおかげで災いが起こらなかったと疑わない。障碍者を抱える家族では、お布施によって症状がこれ以上悪くならない、と信じる人たちが少なからずいるし、高額なお布施を差し出しても疑わない。それは、自分が騙されたことが絶対に受け入れられないのであって、自分が悪いということが認められないのである。どんな世界にも、不幸事に対してこれ以上悪くならないのは、自分たちのお祈りのおかげだと信じる人たちがいる。
しかしながら、こうした信仰心は人間の本質的なものかもしれない。普段から、自分の行動は正解だった!自分の行為は間違いなかった!などと主張する人がわんさといるではないか。まるで自己を慰めるかのように...
自分が正しいと主張し続けることは、生理学的に依存症と似たところがある。自分の過去を否定することは、自己否定につながる... といった意識がどこかにある。地上で、これほど自己否定を恐れる生命体が他にあろうか。それは、精神を獲得した者の性癖であろうか。だから、説明のつかない領域、信仰の及ばない領域、自己責任の及ばない領域では、神に縋るしかないってか。
目的や意味を失った時、不快となり、どうしよもない不安感に襲われる。人間は、目的感や意味感や信仰感を本能的に必要としている。真の目的が分からなくても、その目的を感じていたい。人生の意味が分からなくても、その意味を感じていたい。
そして、それらを感じている自分自身を信じることに幸せを感じることができる。やはり人間には、神の概念が必要なようである。言い訳を求めながら生きている生き物には特に...

2019-01-06

神が人間をこしらえたのか... 人間が神をこしらえたのか...


「人間は神の失敗作に過ぎないのか、それとも神こそ人間の失敗作にすぎぬのか。」... ニーチェ

自然哲学者たちは、楽天的な認識論を神の誠実さという構想の上に築いてきた。しかしながら、神が人間を欺くなどありえないと、どうして言えよう。無知は、自らの力に謀られて、無知の状態のままにしておこうと企てる。無知は精神を毒し、虚偽で満たす。神が欺いているのか、人間が欺こうとしているのか。
いずれにせよ、神のせいにして生きて行ければ楽になれる。神への責任転嫁は、神も望むところであろう。誤謬に陥る人間の能力も、神がこしらえたのさ。こんな不完全な存在をこしらえる必要がどこに。神の気まぐれときたら、ゼウスの女たらしっぷりで証明されている。なにしろ女神連に飽き足らず、人間の女にまで手を出すのようなヤツだ。
あらゆる人間は、自己の中に自分自身の神を造る。偶像崇拝に励み、何か正体が分からないものに権威を与える。正体が明確になれば、有難味も感じられない。だから、権威主義に陥るのか。人間社会における権威もまた偶像崇拝の類いか。形式や常識に縋るのも、その類いか。現実に絶望すれば、得体の知れないものに縋る。ただ、それだけのことやもしれん。つまりは、気分の問題よ。
「神は存在する!」とした方が、なにかと都合がよい。なによりも精神衛生上よい。少しばかり大きすぎる自我を控えめにさせるためにも。科学者は、それを宇宙論的な存在とみなす。この世に神がいるかどうかは知らん。もしいるとしても、それは人間のためにいるわけではあるまい。もし人間のために、とするならば、人間がこしらえるしかない。だから偶像をこしらえずにはいられないのだ。かくして神の存在理由は、人間の存在においてのみ説明がつく。人間が生まれ出たことが無知の起源であったか...

「私が神から特別に保護されていないという証拠はあるのか。」... アドルフ・ヒトラー

人間は、「人間原理」とやらを求めてやまない。神に看取られていると信じては宗教に縋り、きっと救われると切に願う。宇宙法則を知れば知るほど、人間都合のデザイン論を思い描かずにはいられない。地球の絶妙な大きさと重力、太陽からの絶妙な距離、月という絶妙な付属品、公転や自転の絶妙な周期... こうした偶然性は何を意味するのか?誰かが意図したというなら、それは神なのか?
おまけに、宇宙法則には、様々な物理定数が介在する。光速、重力定数、プランク定数、ボルツマン定数... これらの数値を眺めていると、人間が誕生するように調整されているかのように思えてくる。電磁気力の強度法則をちょいと変えるだけでも、生命は誕生しないだろう。α粒子の結合力をちょいと弱めるだけでも、トリプルアルファ反応のような核融合は起こらないだろう。物理法則には、人間が宇宙の観測者という特別な存在であると信じるに事欠かない。宗教が、神が人間を創造した... と唱えれば、科学も負けじと、神は人間を創造するように宇宙を設計なされた... と唱える。
人間が生きるには、信念や信仰を必要とする。知的生命体に概して備わる性癖なのかは知らんが。精神ってやつを持ち合わせ、かつそれを実感でき、しかも精神の正体を知らないとなれば、それも致し方あるまい。すべての現象をいかようにも解釈できるおめでたい存在となれば、やはり神の仕業か。
そして今、巷を騒がせているダークエネルギーは、人間にとって都合のよい物理量なのだろうか。おそらく、究極の物理法則が編み出された時には、その方程式の中に定数といった数値は現れないであろう。宇宙の仕組みが、物理法則に支配されているとすれば、神に選択する余地はないはず。だが、神が物理法則を超えた存在ならば、神にも選択の余地はありそうだ...

2018-12-30

"舟を編む" 三浦しをん 著

映画で観たのは何年前であろうか。映像には見たまんまの分かりやすさがある。とはいえ、原作も読んでみたい。やはり原作はいい。文字は作家の哲学を露わにする。そして、このフレーズに出会いたいがために...
「私は十代から板前修業の道に入りましたが、馬締と会ってようやく、言葉の重要性に気づきました。馬締が言うには、記憶とは言葉なのだそうです。香りや味や音をきっかけに、古い記憶が呼び起こされることがありますが、それはすなわち、曖昧なまま眠っていたものを言語化するということです。... おいしい料理を食べたとき、いかに味を言語化して記憶しておけるか。板前にとって大事な能力とは、そういうことなのだと、辞書づくりに没頭する馬締を見て気づかされました...」

主人公は、真面目と渾名されそうな馬締(まじめ)君。考えることが得意でも、何を考えたかを人に説明するのが苦手。心を開いて会話しているつもりでも、どうもうまくいかない。それが辛くて本を読むようになったとさ...
学校で本を読んでいれば、迂闊に話しかけられずに済む。辞書は知識を伝えるための道具、なによりも正確さを旨とする。言葉好きで人間嫌いにとっての辞書づくりは、都合のいい世間との媒体物となる。人は不安でしょうがないから必死に努力する。人とどう付き合っていいか分からないから必死にアプローチする。不器用だからこそ、真面目にならざるをえない。言葉にまつわる不安と希望を実感できるからこそ、言葉のいっぱい詰まった辞書に惹かれる。何かに本気で心を傾けたら、様々なやり方を試し、自ずと目標値が高まっていくだろう。物事の本質を見る目を養おうと思えば、ちょっと不器用なくらいの方が多くの機会に恵まれるのやもしれん...
「どんなに少しずつでも進みつづければ、いつかは光が見える。玄奘三蔵がはるばる天竺まで旅をし、持ち帰った大部の経典を中国語訳するという偉業を成し遂げたように。禅海和尚がこつこつと岩を掘り抜き、三十年かけて断崖にトンネルを通したように。辞書もまた、言葉の集積した書物であるという意味だけでなく、長年にわたる不屈の精神のみが真の希望をもたらすと体現する書物であるがゆえに、ひとの叡智の結晶と呼ばれるにふさわしい。」

辞書の主役は、なんといっても語釈。万人に受け入れられる語釈となると、客観性が重視される。
しかしながら、語釈とは語の解釈。それは編む者の解釈であり、すなわち主観である。辞書の個性は、まさに語釈に現れる。誰にでも受け入れられる説明文というやつは、味気ないものばかり。おまけに、形式張っていて、分かったようで分からぬ文章のオンパレード。監修者や執筆者一覧ではネームバリューがものをいい、辞書編纂者は批判を恐れて縮こまる。
そういえば、好きな辞書なんて考えたことがない。どれも似たようなものだろうとの思い込みがある。知識の核は自由精神によって支えられ、柔軟性によって担保される。知識の宝庫である辞書には、もっと自由で柔軟な物の言い方を提供してもらいたい。まずは、辞書を権威主義から解放しよう。
辞書はチームワークの結晶だという。人間の多様性は計り知れない。編纂チームには、キモい奴がいても、チャラい奴がいても、ダサい奴がいても構わないし、女子高生が引くようなオヤジギャグが登場しても構わない。語釈といえば、酔いどれ天の邪鬼ときたら、ついアンブローズ・ビアスばりの悪魔の辞典を思い浮かべてしまう。
ちなみに、「ぬめり感」とは... 「情けが深いが去り際のきれいな女」みたいな紙の質感を言うそうな。
「指に吸いつくようにページがめくれているでしょう!にもかかわらず、紙同士がくっついて、複数のページが同時にめくれてしまう、ということがない。これが、ぬめり感なのです!これこそが、辞書に使用される紙が目指すべき境地です。辞書は、ただでさえ分厚い書物です。ページをめくるひとに無用なストレスを与えるようではいけません。」

もちろん万能な辞書はない。万能な言語はない。言語が人間精神を体現するものだとすれば、人間精神を科学的に完全に解明できない限り、完全な言語システムを構築することはできまい。辞書は完成してからが本番。より精度と確度を上げ、改訂に改訂を重ね、次の世代を生き延びようとする。永遠に持続する満足などありはしない。言葉ってやつは、捉えても、捉えても、まるで実体が見えてこない。言葉の終わりなき運動は、無限宇宙を体現するがごとき...
「辞書は言葉の海を渡る舟だ...
ひとは辞書という舟に乗り、暗い海面に浮かびあがる小さな光を集める。もっともふさわしい言葉で、正確に、思いをだれかに届けるために。もし辞書がなかったら、俺たちは茫漠とした大海原をまえにたたずむほかないだろう...
海を渡るにふさわしい舟を編む...」

2018-12-23

"ほろ酔い文学事典 - 作家が描いた酒の情景" 重金敦之 著

なにゆえ、腐った飲み物に... なにゆえ、腐らせる技術に... 著作権先進国の原産へのこだわりときたら... しかも、長く置くほど味わい深いときた。人間の魂も腐ったぐらいの方が味がでるのやもしれん...
こいつに酔うの簡単だ。しかし、ほろ酔うとなると侮れない。上品に格調高く酔うには修行がいる。作家どもは、自ら仕掛けた文章で自己陶酔に浸る。この世界では、酒と女について書けるようになったら一人前らしい。美酒に酔うのも、美女に酔うのも、同じ道というわけか。ただ、どちらに身を委ねるにしも危険がつきまとう。酔うのも溺れるのも紙一重。薬草系のリキュールでも身を滅ぼすことがあり、アブサンともなれば人間失格へまっしぐら。酒はよく口説きの道具とされるが、どちらが道具にされているのやら...
もはや清酒で心を清めても無駄だ。蒸留して不純物を取り除いても無駄だ。文壇では高貴な感受性を持った連中が、グラス越しにエクスタシーを語り合ってやがる。言葉を巧みに操る達人ともなれば、ぶらっと酔いどれ紀行の中に、下品きわまりない隠語をさりげなく盛り込むのもお手の物。どうやら文学の原酒は官能小説にありそうだ。
ちなみに、あるバーテンダーが能書きを垂れていた... 「酒に落ちる」と書いて「お洒落」と... 棒が一本足らんよ。

「どうせいつ死ぬか知れぬ命だ。何でも命のあるうちにして置く事だ。死んでからああ残念だと墓場の影から悔やんでも追付かない。思い切って飲んで見ろと、勢よく舌を入れてぴちゃぴちゃやって見ると驚いた。何だか舌の先を針でさされたようにぴりりとした。人間は何の酔興でこんな腐ったものを飲むのかわからないが、猫にはとても飲み切れない。」
... 漱石「吾輩は猫である」より

1. 食事の序曲
アペリティフにまつわるイベントは各地で見られる。フランス農水省は、2004年から6月の第一木曜日を「アペリティフの日」と定めたそうな。ワインを世界各地に広めようと。京都市では、2012年に「乾杯は清酒で」という条例が制定されたという。日本文化を促進しようと。鹿児島や宮崎や熊本の町でも、焼酎での乾杯を推進する条例があると聞く。焼酎も忘れてもらっちゃ困るとばかりに。
日本のサラリーマン文化には、とりあえずビール!という慣習がある。「とりあえず」という枕詞は、食前酒の地位を確立している証拠。それにしても、接待ビールのお酌は苦い!
ちなみに、酔いどれ天の邪鬼は、食前酒から純米系か、モルト系に走る。アルコール許容量が小さいので、最初から全力投球せざるをえない。前戯も、本ちゃんも、後戯も、いつもヘロヘロよ。そして、ピロートークに走るのさ...

2. 政界にまつわる隠語
酒といえば、アングラなイメージがあり、どこの国でも法律で厳しく規制される。禁酒法の時代には密輸が横行し、戦後の日本では闇市で売買された。高度成長時代には、洋酒を「舶来品」などと呼んで高級なイメージを与えていたが、おいらの世代には、気取っているようで嫌味に聞こえる。今ではジャパニーズ・ウイスキーにも高級なものを見かけ、若い人たちに舶来品なんて言葉は通じないだろう。
さて、1964年、自民党総裁選挙を巡ってのお話...
三選を目指す池田勇人と対抗馬の佐藤栄作は、事実上の一騎打ち。激しい選挙運動のさなか、実弾(現金)が乱れ飛び、様々な隠語が生まれたという。うまいことを言って二派から金を貰うのが「ニッカ」、三派から頂くのが「サントリー」、調子よく各派から貰うのが「オールドパー」と言うそうな。オールド(old)とオール(all)を混同したのか、あるいは、洒落たのかは知らん。パーは白票やチャラを意味するという説もある。もらうだけもらって、いざ投票となると洞ヶ峠を決め込むという寸法よ。オールドパーは当時の最高級ウィスキー、まさに舶来品である。政界を生き抜くには、勝ち馬に乗るのが最も賢明という構図は、いつの時代も変わらない。こと政界においては、人間の腐らせ方は難しいと見える...