2008-01-23

"国際金融危機の経済学" Jean Tirole 著

アル中ハイマーが本屋で本を買う時は、立ち読みをしないわけがない。少なくとも前書きは読むはずだ。ところが、本書は読まずに買ったのだろうか?酔っ払いの衝動を自覚できるはずもないが、10冊ほどまとめ買いした中に紛れ込んでいる。本書は、翻訳の波長が合わないのか?内容が合わないのか?いまいちリズムに乗れない。行間が広く文字も少ない上に、170ページほどで一気に読める量だが、なかなか前進できない。それほど難しい本とも思えないのだが、度々読み返す場面に出くわす。せっかく減った煙草の量も増えてしまう。どんな分野でも専門用語が登場するのは当り前である。ネット社会の住民はその都度検索するので、それほど抵抗を感じることはない。それでも本書は、情報が断片的に脳を刺激するので、いまいち要点がつかめない。そもそも酔っ払った脳とは、文章が脳細胞まで到達しないものである。せっかく立派な事を書いてくれている著者には失礼であるが、後書きに頼りながら読んでいる。学者向けの本なのだろうか?素人が読んではいけないのかもしれない。

本書は、数々の世界経済危機の解釈から、国家の金融活動を効率的に行うための方策について議論している。その中で、まず、経済学者の思考パターンを概観してくれるところはありがたい。そして、国家が外国投資家から融資される仕組みについて述べられ、通常の企業金融との違いは、重複代理人と共通代理人の存在であると語られる。この二つの存在以外は、通常の企業金融と同じであるという前提で書かれている。著者は、重複代理人、共通代理人の観点からの研究の蓄積を訴えている。

1. 重複代理人
国家が外国投資家から融資を受ける場合、政府が窓口となり、民間へ配分されることになるが、実際には、その民間と外国投資家との間には契約が存在する。重複代理人とは、外国投資家の収益を担う役割が、政府と民間の複数が存在する状況である。外国投資家は民間との契約によって監視機能を果たせるが、政府とは契約を結ばない。そもそも政府は、その国で選出されるのであって、国民を優先するインセンティブが働く。政府が外国投資家に利益供与をもたらさない可能性だってある。本書は、外国投資家と政府とが運営上の契約を結べないことが、市場の失敗の原因であると語る。しかし、政府が国内を優先し過ぎる傾向にあれば、外国投資家から改善要求が出されるか、資金を引き揚げればいいだけのことである。もし踏み倒そうものなら社会的制裁を受ける。ただ、政府というのは政権交代する。自分の時代だけ乗り切ろうなんて政治家もいる。そして、後世に問題を押し付けて、自分の時代は良かったと思い出に耽る。経済活動に政治不安によるリスクはいつも付きまとう。

2. 共通代理人
本書は、政府が、複数の貸し手から借り入れた場合も、市場の失敗を招くと語る。それは、貸し手との融資契約が、他の貸し手とのバランスを欠いた時である。融資内容のミスマッチや、モニタリングの不公平さが生じる。そこで、共通代理人を立てれば効率良くなるだろう。では、その役割は誰が担うか?IMFのような国際機関が望ましいと語る。しかし、国際機関も旧態依然たる人事を繰り返す。IMFの長を務めるのは、決まってヨーロッパ人。世界銀行の長はアメリカ人。しかも、各国の代表は、その国の特定の産業や金融機関の利害関係に結びついた人間である。各国の思惑が入りすぎて、中立の立場を保持するのも難しいだろう。

んー!今宵はいまいち気が乗らない。
気分転換に学者気分で難しく語ってみよう。
ドリフのもしものコーナー!もしもアル中ハイマーな学者がいたら!

経済学はイデオロギー論争の中で迷走している。この学問は、人間の行動や社会システムを相手どった極めて高度な複雑系の中にある。しかし、無謀な体系化よりは、迷走していることを認識できる方が都合が良い。この世界を一つのイデオロギーで説明できるとは到底思えないからである。科学界は物理法則に不確定性な要素があることを認めた。数学界は算術の世界ですら不完全性の存在を認めた。計測不能だからといって、確率論という道具を用いて解析しようと努力している。多くの微分方程式が解けないと認めつつも、極限に近づくことを諦めたわけではない。ところが、イデオロギーというやつは一筋縄ではいかない。絶対に自らの主張が正しいという姿勢を崩そうとはしない。社会を良くするために考案された政治という人類の産物は、しばしば社会にとって悪しき作用をする。資金の流れを良くするために立案された政策は、リスクの高い場所から刺激が始まる。それは、人間の欲望という領域である。必要な規制と緩和がバランスしなければ受け入れ難い不平等を助長する。そして、社会不安を呼び起こし、経済は歪んだものとなる。GDPのような経済成長の指標は、あくまでも総合指数に過ぎない。平均値が判断の対象となれば、現象そのものを考察することを諦めたことを意味する。もし、人類が自然法則を受け入れるならば、時間はかかるだろうが、いずれ収束を見せるであろう。それは「臨機応変」という新概念へと。

だめだこりゃ!次いってみよう!

2008-01-18

"生物と無生物のあいだ" 福岡伸一 著

本書はアマゾンのお薦めにあった。前記事で「ゲノムサイエンス」を読んだからである。アル中ハイマーは、科学の分野で生物学ほど嫌いなものはなかったが、この本のおかげで少し興味が持てるようになった。そして、なんとなくショッピングカーをクリックしてしまう。酔っ払いはネット商法に引っかかりやすい。
本書は、科学と文学を融合したような本である。それを期待して買ったのであるが。文章もなんとなく癒してくれるところがある。本書は、「生命とは何か?」という問いに対して、「生命とは自己複製するシステムである」という答えに到達するまでの物語である。生命体はプラモデルのような静的なパーツから成り立つ分子機械ではない。パーツ自体が動的なモデルである。その中で、生物を無生物から区別するものはとは何か?人間が食べ続ける意味とは何か?という問題を、人間の生命観から考察していく。

1. 野口英世像
野口英世の研究業績の包括的な再評価は、彼の死後50年を経て行われてきたことを紹介してくれる。アメリカ人研究者イザベル.R.プレセットによると、彼の業績は今日意味のあるものはほとんどないという。当時、そのことが誰にも気づかれなかったのは、サイモン・フレクスナーという大御所の存在によるものらしい。彼が権威あるパトロンとして野口氏の背後に存在したことが、批判を封じ込めたと結論付けている。むしろ、ヘビー・ドランカーやプレイボーイとして評判だったようだ。生活破綻者としてのイメージがあるが、日本では偉人伝として神秘化されている。その証拠に千円札の肖像画にもなった。野口英世の時代は、世界はまだウィルスの存在を知らなかった。黄熱病も、狂犬病も、その病原体はウィルスによるものである。

2. ウィルスとは何か?
ウィルスは単細胞生物よりずっと小さい。栄養を摂取することがない。呼吸もしない。二酸化炭素を出すことも、老廃物を排泄することもない。いっさいの代謝を行わない。ウィルスはただの機械分子のように見える。しかし、単なる物質と一線を画す唯一の特性が、自らを増殖させることができることである。ウィルスは自己複製能力を持つが、単独では何もできない。細胞に寄生することによってのみ複製する。細胞に対して自身のDNAを注入し、細胞はそのDNAを自分の一部だと勘違いして複製する。新たに作リ出されたウィルスは細胞膜を破壊して外へ飛び出す。ウィルスは生物と無生物のあいだをさまようかのようである。ウィルスが生物か無生物かという論争はいまだに続いているようだ。

3. DNAの二重ラセン構造
昔、遺伝子の本体がDNAではなく、タンパク質であるという論調が強かった。タンパク質はアミノ酸を数珠つなぎにした物質であり、この複雑な配列こそ遺伝子情報であると考えられていた。そんな時、オズワルド・エイブリーが登場する。彼は、DNAの二重ラセン構造を発見し、DNAが細胞から細胞へと遺伝情報を運ぶことを示した。そして、構成要素の組み合わせを法則としたのが、シャルガフである。だた、ノーベル賞を受賞したのは、ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックである。彼らが、DNA配列を解明したと発表し、おいしいところを持っていったようだ。
DNAは、長い紐状の物質であり、強い酸の中で熱すると、その長い紐のつながりが切断されて、構成要素がバラバラになるという。その要素は、A,C,G,Tの四文字しかなかった。遺伝子情報は構成要素そのものではなく、その配列にある。更にそれぞれの文字は必ずペア構造をとる。重要なことは、DNAがラセン状に存在することではなく、ペアで存在することにあるようだ。これは生物学的に情報の安定を担保することになる。一方の文字列が決まれば、他方が一義的に決まる。二本のDNA鎖のうちどちらかが部分的に失われても修復することができるということである。生物が進化の過程で、過酷な生存競争の中で構築してきたシステムである。二重ラセンという美しいペア構造が、自己複製機構を示唆する。それは、互いに他を写し出し、それぞれラセン状のフィルムに遺伝子情報が暗号化されている。タンパク質の構造は、そのアミノ酸配列に依存し、アミノ酸配列はDNAの塩基配列に暗号化されてゲノム上に書かれているということらしい。ヒトゲノムは30億個の文字から成り立っているという。

4. シュレディンガーの問い
ここで、なぜか物理学者のシュレディンガーの二つ問いが登場する。「生命とは何か?」「なぜ原子はそんなに小さいのか?」逆に言うと、人間の体は、なぜ原子に比べてもこんなにも大きいのか?生命現象が全て物理法則に従うとすれば、様々なランダムな原子運動があるにも関わらず、生命が秩序を構築できるのは不思議である。その中に、人間の大きさの理由もあるはずだと語られる。ランダムな原子運動は、ある膨大な量が集まって、平均的なふるまいをし統計的な法則に従う。安定するためには、秩序を守るためには、エントロピーは増大する方向だろう。秩序を守り続けるために、絶え間なく体内で壊され続けなければならないのか?これがものを食べる原理なのだろうか?
シェーンハイマー曰く。
「生命とは、代謝の持続的変化であり、この変化こそが生命の真の姿である」
アル中ハイマー曰く。
「幸福とは、飲酒の持続的行動であり、この行動こそが幸福の真の姿である」

5. 食べるということ
タンパク質のアミノ酸が外部から吸収され、次々と入れ変わっていく様は、食べることの意味を教えてくれる。絶え間ない合成と分解が繰り返される。そして傷ついたタンパク質や変性したタンパク質を取り除き、これが蓄積するのを防ぐ。これが秩序を守るということのようだ。脂肪でさえも、アル中分子でさえも。ただ、おもしろいのは、食料からして自分のDNAとは全く違うものを採取している。そこから必要なものを吸収し、不要なものは排泄する。自分のDNAに合ったものを選んで吸収できるということなのか?生物の神秘はますます広がる。しかし、蓄積速度よりも排泄速度が遅くバランスが崩れた時、蓄積されたエントロピーが生命を危機に追い込む。その典型が、タンパク質の立体構造が変化して引き起こされるプリオン病であるという。その代表が、アルツハイマー病、狂牛病、ヤコブ病なのだそうだ。ここで、おいらは疑問にぶつかる。これだけ合成と分解の繰り返しが起こるのに人間はなぜ老化するのだろうか?遺伝子に細胞の合成と分解の繰り返し回数でも記録されているのだろうか?

ベロンベロン状態とは、エントロピー最大な状態である。それは、アル中ハイマーにとって、極めて気持ちよく自然であるからである。ランダム性から体内秩序を保つために飲み続ける。そして最期には飲まれる。
「飲んで!飲んで!飲まれてー飲んで!」

2008-01-11

"ゲノムサイエンス" 榊佳之 著

アル中ハイマーは、科学の分野で生物学ほど嫌いなものはなかった。用語の発音のリズムが合わないからであろう。学生時代の先生が嫌いだったせいもあるかもしれない。よって、アミノ酸やタンパク質と聞いただけで拒否反応を起こす。それでも、気まぐれで本書を手にしてみた。それも、ブルーバックス教の信者だからかもしれない。本書でも苦手な用語が登場するが、記号と思って目で抽象化する技を磨いたので思ったより苦にならない。本書のおかげでこの分野に少し興味が持てるようになったのはありがたい。

生体を分解すると、暗号として機能するDNAと、これに組織され制御されるタンパク質からなる。アル中ハイマーが生物創造のアルゴリズムで、神秘的で興味深く思えるのは、一個の細胞から有機体が形成されることである。DNAの役割は、遺伝情報を伝えることである。生物の基盤はタンパク質であり、更に、様々なアミノ酸からできている。このすべてがDNAというアルゴリズムの指揮のもとでスケジューリングされる。驚くべきは、DNAは不死身だということである。しかも、複製ミスをも二重らせん構造によって互いに補完しあう仕組みは、いかにも神秘的である。これは、未来を洞察するように設計されているというのか?人生の冒険をも、DNAでスケジューリングされているとしたら、まさしく運命には逆らえない。ならば、このアルゴリズムを、純米系の成分によって逆転させてみたい。髪の毛が戻り、肌の張りが戻り、不幸な結婚生活が逆戻りできれば、誰もが幸せを感じられるだろう。アル中ハイマーは、純米系の成分で自らのDNAを操作し、パラレルワールドでハーレムの世界を生きようと試みるのである。さあ、今日もいい感じで酔ってきたところで、本書のまろやかなところを摘んでおこう。なぜかって?そこに純米酒があるから。

1. 遺伝子ってなんだ?
アル中ハイマーは、遺伝子というと、先祖から受け継がれる形質や性質といった概念ぐらいしか思いつかない。それが分子生物学によって、物質としての実体解明が進む。ヒトの体は、約60兆個の細胞で構成されているという。その中で、生殖細胞や赤血球細胞などの特殊な細胞を除いて、すべての細胞は核の内部に全く同じDNAを持っているらしい。これは、A(アデニン), G(グアニン), C(シトシン), T(チミン)の組み合わせに支配される。ヒトのDNAには2万以上のタンパク質をコードする遺伝子が存在する。しかし、細胞内では、タンパク質コード遺伝子は、いっせいに働くわけではない。臭いを識別する嗅覚受容体遺伝子は嗅神経細胞でのみ働き、水晶体を作るクリスタリンというタンパク質を作る遺伝子は目でのみ働く。遺伝子はそれぞれの役割に応じて、必要な時に必要な場所で必要な量だけ、タンパク質を生産するように制御される。また、タンパク質をコードする遺伝子ばかりではないらしい。

2. 遺伝子操作
遺伝暗号表は、地上の全ての生物に当てはまり、全てが一つの祖先から生まれたことを証明するという。はさみとのり、遺伝子組換え、DNA断片を人為的に編集するなど、遺伝子操作の話はおもしろい。生物のゲノム地図を作るとは、気が遠くなりそうだ。遺伝子の組換えとは、全身の細胞を組み換えるのだろうか?全細胞に自然増殖させるのだろうか?ヒトDNA断片を持つ大腸菌の集団、すなわちヒトDNAライブラリというものがあり、これを組み換えるのだそうだ。これを取り出して、別のものに組み込めばクローンもできるわけだ。大腸菌が持つ乳糖を分解する酵素は、必要な時に必要な量だけ合成できるように複数の遺伝子が協調して調整する仕組みがあるという。これを利用して細胞を転写していくのだそうだ。

3. ヒトゲノム計画
世界規模の遺伝子研究プロジェクトを紹介してくれる。1996年バミューダ会議が開催される。参加国は米英日仏独の5カ国。基本方針は、個人の利益を追求するものではない。データは即時公開。データ利用に制約は無し。特許権など権利を主張するものではない。参加する特定グループや特定の国だけで利益を得るものであってはならない。などなど、まさしく人類規模の方針が並ぶ。これを「バミューダ原則」というらしい。
しかし、この国際チームの方針とは異なる戦略で民間企業がヒトゲノムの解読作業を始める。そして特許を取ったり、金を出したグループにだけデータを提供する。クレイグ・ベンター氏が率いるセレラ・ジェノミクス社である。民間企業がやや優位になると、国際チームは米英で勝手に方針転換する。これにドイツが異論を唱える。そして、理想主義のバランスが崩れ、日本も方針転換を迫られる。民間の機動性と官僚的行動の鈍さ、あるいは、民間の傲慢さと理想主義、といった対立構図はどこにでも見られる。また、政治的にも利用される。ヒトゲノムのドラフト配列の解読が完了した発表も、2000年に世界的イベントとして、米英主導で政治パフォーマンスとして行われた様が語られる。そのセレモニーでは、クリントン大統領、ブレア首相が参加する中、日本では森首相が総選挙で忙しかったようだ。せっかくの世界的技術に貢献した日本の研究者達も、政治的戦略で影に追いやられたのは苦々しい経験であると、著者は悔しそうに語る。そうした中、日独が中心に二十一番染色体の配列を決定する。各国で政府高官が盛り上げている一方で、日本の研究者達は政治的にはうまく振舞えなかったと語る。

4. 様々な遺伝子
遺伝子には様々な役割があるようだ。細胞の活動を支える遺伝子、形態形成、頭、手足、そして臓器などの体を形成する遺伝子、体全体の活動を調節する遺伝子などなど、臓器の活動をバランスする。酒飲み遺伝子についても触れている。アル中ハイマーとして反応しないわけにはいかない。酒をいくら飲んでも平気な人と、全く飲めない人がいる。これは、ゲノムの中のたった一塩基の個人差による。酒を飲むとアルコールは体内でまずアルデヒドに変わる。そして、アルデヒド脱水素酵素の働きによって更に水と酢酸に分解される。ところが、この過程の中でアルデヒドを分解するアルデヒド脱水素酵素をコードする遺伝子配列のたった一塩基の違い、すなわち487番目のグルタミン酸をコードするGAAという配列のGをAに置き換えてAAAという配列で受け継がれた人は、酵素が充分に働かないため、体内にアルデヒドがたまり気分が悪くなる。逆に、このAをGに置き換えれば、アル中ハイマーにもなる。

本書とは関係ないが、鎌形赤血球遺伝子の話を聞いたことがある。
アフリカのマラリア発生地域と鎌形赤血球遺伝子分布には強い相関がある。この遺伝子を持つと赤血球が鎌形に変形して酸素運搬機能が低下し、貧血症が起こる。逆に、鎌状赤血球にはマラリア原虫が寄生できないという優位性もある。マラリアに強い遺伝子を生物の進化の過程で見事に作り上げたのだ。正常な赤血球と鎌形赤血球の両方の遺伝子を引き継ぐと病気に強くなりそうだ。病気に強いなどの遺伝子に恵まれる一方で、五体満足でない人が確率の低いところで存在する。DNAの複製段階で、生命に致命的ダメージを与えるものや、機能面で何らかの支障をきたすものもある。これは、生物学的にも統計学的にもやむをえないだろう。障害者がいる家庭では、無神経な親類から、相手の家系の遺伝子のせいにする輩がいたりする。おいらも身近に知的障害者がいるが、昔は幼いながらもムカついたりしたものだ。こうして反社会分子という遺伝子を引き継ぐのである。
全人類のヒトゲノムは99.9%が同じで、0.1%程度の個人差があるという。この配列が、何世代にもわたって誤差として蓄積され、更には、父方と母方の混合物から創られる。この偶然は、人間が好む差別の存在など、全く無意味であるように思える。DNAの複製の過程で、極めてまれに起きる複製ミスによって生じるからである。

21世紀は生命科学の世紀と言われているらしい。
遺伝子研究が進めば、病気のみならずあらゆる面で優位になろうとするだろう。人間の欲は計り知れない。科学の進歩とともに遺伝子売買が始まるかもしれない。その時は、遺伝子に格付けがなされるであろう。価格も違ってくる。オークションでも登場する。人間は、他と差別するのが好きな動物だから、学歴差別のごとく遺伝子差別なんて問題が起きるかもしれない。長寿遺伝子、スポーツ遺伝子、学者遺伝子などなど。今月の流行遺伝子なんて雑誌が出回るかもしれない。食材は天然ものが良いとされているが、そのうち天然ものが馬鹿にされる時代がくるかもしれない。そして、天然の人間が姿を消し、遺伝子格差社会の登場である。しかし、酒の肴で喰うさしみは天然物の方が美味い。

2008-01-05

"人類の住む宇宙 シリーズ現代の天文学(第1巻)" 日本天文学会 編

今年2008年は、日本天文学会の創立100周年だそうな。その記念に刊行されたのが「シリーズ現代の天文学」全17巻である。いや、まだ7巻しか刊行されていない。第1巻だけ読んだ時は、なかなかおもしろいので、全巻揃えて17記事を掲載しようかとも思っていた。しかし、第1巻以外は難しい。アル中ハイマーにはお茶を濁すことぐらいしかできない。
天文学の書籍といえば、カール・セーガン著の「COSMOS」を思い出す。学生時代、どこぞの放送局が特番でやっていたのに魅せられて買った。本棚を探してみると、おっー!あるではないか。てっきり古本屋行きだと思っていたが奇跡である。1980年刊行!そんなに昔なんだ。アホな頭脳を顧みず宇宙物理学やらに夢を描いていた時代である。当時、アル中ハイマーは高台に住んでいた。街が一望でき、夜景が綺麗なのが自慢だった。ただ、幼稚園の遠足コースでもあり、雪が降ると動けないので馬鹿にもされた。妙に脚力があったのは毎日登山していたからだろうか?深夜、天体観測と称して友人の望遠鏡を持ち込んで遊んだものだ。今思えば、近所の住民から避けられていたような気がする。「のぞき」と間違えられたのかもしれない。徹夜で盛り上がり、カップ麺がうまかったのを思い出す。定番は「赤いきつね」と「緑のたぬき」だった。当時を思い出して喰いたくなった。記事を書く前にちょいとコンビニへ行ってこよう。

天文学のテーマといえば「人類とは何者か?どこからきたのか?どこへ行くのか?」第1巻は、この疑問に対する答えを探ろうとした人類の願望を語り、シリーズの序章の位置付けにある。天文学の意義、哲学的な宇宙観から始まり、膨張宇宙のビックバンへと、観測と想像の歴史を振り返る。科学は宗教の影響を受けた歴史がある。宗教的立場は、主張の異なるものを異端宗教と考える。宗教が道徳を説くと主張する宗派ほど、紛争がお好きなようだ。どの主張も正統性に基づいていると信じているから質が悪い。そして、科学も一つの異端宗教と考えられた。地動説を主張したガリレオは宗教裁判にかけられた。主張するのは勝手だが、なにも押し付けなくても。これが神の創造物である人間の正体か?神も随分と罪なことをなさる。と、独り言は置いといて、アル中ハイマーの疑問に合わせて本書を追ってみよう。

1. 宇宙の起源とは?
宇宙は時刻ゼロに、物質、エネルギー密度が無限大に発散した状態から始まる。無からの創生である。何らかの方法で極微の時空さえ作れば、インフレーション理論によってビックバン宇宙へと発展する可能性があるという。このインフレーション理論、酔っ払いには、いまいちよくわからない。物質のエネルギーは運動エネルギーと位置エネルギーの合計である。これは物理学を専攻すれば習う基本法則である。つまり、運動しなければ全てが位置エネルギーというわけだ。ところが、量子論では、どんなに運動を小さくしてもこれ以上小さくできない運動エネルギーが残るという。この最低状態の運動をゼロ点振動と呼ぶ。無とは、体積ゼロであるから全エネルギーはゼロ、時空の大きさもゼロのはずだが、量子論的にはゆらぎが存在する。これがゼロ点振動のエネルギーというわけだ。この無から虚時間に量子的ゆらぎが生じ、ゼロエネルギーが膨張して、実時間の世界を創る?とかいう説明がなされる。虚時間で膨張したエネルギー反応が、その反動で実時間に飛び出して、膨張を続けるのが宇宙創生モデルである。やっぱり酒がないとアル中ハイマーには解釈が難しい。スコッチでも飲んで体を揺らすことにしよう。

2. 天体までの距離はなんで分かるの?
本書でも天体を知るには距離を調べることが重要であるが、難問であると語られる。「宇宙の距離はしご」という言葉で紹介されるが、計測方法には全ての天体に応用できる測定法がないようだ。よって、近傍から遠方へと手法をつないでいく。簡単にそのステップを追ってみよう。
(ステップ1: 太陽までの距離)
惑星(水星、金星、火星)までの距離をレーダー法により測定し、ケプラーの第3法則「惑星の公転周期の2乗は、惑星の軌道半径の3乗に比例する」を用いる。惑星の軌道半径と地球の軌道半径の比は、惑星の公転周期と地球の公転周期の比から求まるようだ。ちなみに、太陽までの距離を1天文単位(AU)と呼ぶらしい。
(ステップ2:太陽近傍の星までの距離)
年周視差。よく知られる三角測量である。離れた2点において、別々に見える方向の角度を計測するのだが、地球内の2点では距離が近すぎる。よって、地球が移動する場所から2点を選ぶ。
(ステップ3:標準光源法による近傍銀河の測定)
「宇宙の距離はしご」の基本であり、既知である天体の真の明るさを基にして、天体の見かけの明るさを測定することにより距離を求める。これが標準光源法である。見かけの明るさは、真の明るさに対して、距離の2乗に反比例して暗くなっていく。よって、見かけの明るさと真の明るさが分かれば距離が求まる。
(ステップ4:遠方銀河までの距離)
ある明るさの天体がどれくらいの個数存在するかを表す関数を光度関数という。この光度関数がガウス関数で近似され、そのピークの明るさがどの銀河の球状星団でもほぼ一定であることがわかっているらしい。このピークとなる明るさを標準光源として用いる。

「宇宙のはしご」とは、なんとも夢心地でええ感じである。夜の社交場をはしごすると店間距離が求められるが、千鳥足というゆらぎによって誤差は計り知れない。

3. 物質の根源とは?
元素で一つの章をさいてくれるのは、学生時代の化学を思い出させてくれてうれしい。昔、化学で落ちこぼれた原因に、安定元素と放射性元素の存在がある。永遠に安定しつづけるとはどういうことか?宇宙がビックバンから発生し、それが永遠とは矛盾しないのか?なぜ、特有の寿命を持ち、いずれ放射線を放出して他の元素に移り変わるものがあるのか?核子の質量が小さければ、それだけ安定エネルギーは小さくてすむ。とはいえ質量は存在する。エネルギーは尽きないのだろうか?
本書は、単独の中性子が存在し続けるために必要なエネルギーがいかに大きいかを教えてくれる。軽い核種から核融合により重い核種に変化する。核反応の前後で質量差に相当するエネルギーが解放される。核融合反応に必要な条件として、この核種によるエネルギー差に加えて、原子核内に存在する電荷の間で引き合う電気的力、クーロン力を越える(クーロン障壁)だけの運動エネルギーを持たなければならないという。おいらは、高温にすれば物質中の原子核が互いに衝突し合い熱エネルギーが発散し、これがクーロン障壁を超えた時に核反応を起こすのだろうぐらいにしか思っていない。クーロン障壁を超える熱エネルギーが必要なのかと思えば、そうでもないらしい。クーロン障壁を量子力学的な効果で透過する(トンネル効果)確率がどのくらい大きいかが問題であるという。実際は、平均の熱エネルギーがクーロン障壁よりずっと低いエネルギーで、二つの原子核がトンネル効果によってさらに近づいた時に核融合が起きるらしい。

4. 太陽の熱源は?なぜ明るさを保てるのか?
天文学で、アル中ハイマーが、最初にぶつかった疑問である。石炭や石油などの化石燃料や、重力エネルギーでは、46億年にわたって太陽の明るさを維持できない。1950年代、太陽の中心部で、高温、高密度環境の元で、熱核融合反応によってエネルギーが供給されていることが明らかになった。水素の原子核が反応してヘリウム原子核と陽子ができる。この時、質量欠損に相当するエネルギーが発生する。これが太陽の熱源である。現在まで太陽を輝かすために消費した水素量は、太陽の持つ水素量のわずか1%に過ぎないという。また、太陽中心核にある水素量から見積もって、今後50億年程度は輝き続けられるようだ。

5. 地球的惑星は存在するか?
天文学者は、数々の観測法によって、地球型惑星の探求を続けてきた。ただ、いずれの方法も間接的な観測であり惑星そのものの光をとらえたわけではない。重力効果や影でとらえているに過ぎないことを紹介してくれる。間接観測によって発見されたものは、質量も大きく、地球規模の小質量の惑星を検出するには、もう少し時間がかかりそうだ。直接観測こそ、これからの大きな課題であろう。観測には、ロケット探索という手段もあるが、もっとも近い恒星ですら到達するのに1万年から10万年かかる。当面は天文学的な観測の方が現実的である。地球のエネルギー史は、地球誕生時にそのほとんどが決まっている。せめて、それまでは地球を大切にして、人類文明を存続させてもらいたい。

6. 生命の進化に必要な条件とは?
しばしば地球は水惑星と言われるが、実際には地球が含む水は質量の0.1%程度である。しかし、地表の3分の2が海で覆われ、水の及ぼす影響が大きいのも事実だろう。そもそも液体状態は、きわめて限られた温度と圧力の範囲だけで存在でき、水に限らず表面に液体が存在する天体自体が珍しい。これらの条件がなぜ成り立つのかは、まだ不明のようだ。太陽からの距離が絶妙であり、地球の大きさも適度である。地球の自転軸傾斜は数万年で約1度変化し、軌道離心率も約10万年で変化している。これが原因で、数万年から10万年で氷河期と間氷期をくりかえしている。磁気圏が宇宙線を地表に到達できないようにしているのも必要条件である。などなど、地球環境はあらゆる偶発的な条件が重なっているように見える。なんとなく神の存在を信じるのもわからなくはない。アル中ハイマーも地球の自転の影響を体で感じている。夜の社交場をぐるぐる回るのは、北半球に住んでいるからであり、コリオリの力が働いているに違いない。南半球に移住すれば、きっと昼間に図書館めぐりをしていることだろう。また、店のゲートを通過する度に体温が上昇するのは、地球上に流動するアルコール成分の影響で、一種のエルニーニョ現象と考えている。

2008-01-01

blogを一年間続けてみて

年末深夜、ドヴォルザークを聴きながらスコッチする。そして、夢想するのが年中行事の一環である。ブログを一年間続けてみて、ほとんどが読書論評に費やされてしまったのは情けない。思ったよりも、つまらない人生を送っていることに気づかされる。ネタを探すことに苦労はしない。どんな本を読んでも感想が無いなんてありえない。それは、映画や音楽でも同じである。ただ、読書はリアルタイムではないので記事にしやすい。映画や音楽は、その瞬間を楽しむものである。記事にしたいが、あまりのスピードに酔っ払いの頭では脳細胞に記憶が留まらない。
アル中ハイマーは、情けないことに要点をまとめるのが苦手である。よって文章も長くなる。頻繁に記事にすることもできない。そもそも酔っ払った脳は整理することができないのだ。ツボを押さえる要領を得たいものである。ちなみに、足ツボのマッサージは病みつきである。

昨年は、読んだ本の数が例年よりも減った。ブログ効果で文章を丁寧に読むようになったからであろう。今までは、いい加減に読むので内容すら覚えられない。ブログは記憶媒体としてすばらしい。内容ばかり気にかけていたものが、フレーズを楽しむことを覚えた。翻訳語に毒された酔っ払いには考えられない傾向である。また、学生時代に読んだ本まで持ち出す。アル中ハイマーの人生は、モジュロのような閉じた宇宙を回り続ける。そうだ!今度から年齢表記は16進数ではなくモジュロ計算することにしよう。何度も生まれ変われそうだ。
読書の数が減ったからといって嘆くこともない。目的は数をこなすことではない。楽しみが増えた上に経済的に節約できるのはありがたいではないか。気になるのは、どうしても分野が偏りがちだ。それも個性というものである。ただ、精神のバランスが知識のバランスから得られると信じているところもある。いや、知識が詩的な解釈を邪魔することだってある。無知がゆえに得られるものがある場合だってある。哲学を探求すれば鬱病となり、論理学に嵌っては精神病にさいなむ。あまりに見事な文章は驚嘆するばかりで記事にすらできない。ボードレールの詩的な文章の前では手も足も出ない。ためになる本は、読むのに苦労し、記事にするのも難しい。人は詩という言葉を、詩的な文章、詩的な風景、詩的な人物という具合に使う。詩は感情を煽る。こうした思考を表現するには、ある一定の距離を持った冷静さが必要である。感情移入された酔っ払いには、無力感に襲われるだけである。ただ、この無力を嘆くものでもない。馬鹿な自分を嘆くよりも、馬鹿な自分を楽しむのもいい。工学の世界では、技術の難問を解決した時に快感を味わう。哲学的思想は、心の遊びから快感を得る。芸術は、無力感を快感にしてくれる。

芸術の巨匠たちは、数々の偉大な作品を残した。凡人は、手も足も出ない作品を自らの世界へ持ち込もうとする。だが、自分自身のことを論じることぐらいしかできない。これが論評の姿である。凡庸な論評は実体そのものを壊す。だが、その衝動には勝てない。そして、一つの疑問にぶつかる。巨匠たちの傑作は完成品なのだろうか?天才たちには完成形が見えるのだろうか?自分の記事は読み返す度に修正したくなる。情けない文章にもうんざりさせられる。仕事でさえ完全に満足できたものはない。どこか気に入らない部分が必ず生まれる。技術の難問を目の前にすれば、「コンピュータは嘘をつかない」と探究心を励まし、ついには、「科学でも解き明かせない問題がある」と挫折する。思考は妥協を繰り返す。アル中ハイマーの思考は、今日も言い訳を探し求めてバーへ向かう。

仕事でも読書でも思考する上で心がけることは、決して無理をしないことである。じっくりと弓を引き、的を射抜こうとするのではない。矢の方から自然と離れていくのを待つ。これぞ、集中力の極意というものである。酔っ払いは気分を高めるために、しばしば深夜海へ行く。こちらから出向くのではない。自然に足が向くのだ。アル中ハイマーには、海を眺めているだけで思考をリセットできるという不思議な性質がある。ただ、困ったことにリセット解除の手段を知らない。深夜出歩くと警官から職務質問を受けることもある。いつも挨拶で済むのだが、たまに呼び止められる。酔っ払いの面を知らねーとは、勉強が足らねーなあ。
酔っ払いの思考は今も精神の探求をしている。精神を自由に放つと、そこは気まぐれに支配される。気まぐれは、波のように押し寄せる。この波は三角関数で表現できる。三角関数をいくら微分しても三角関数に帰着する。波は永遠に波であり続けるということだ。気まぐれという精神は、極限に近づきつつも、なおも揺れ続ける。そして、精神を追い求めて思考するうちに、やがてふらふらになる。思考の目的とは、ふらふらになって肉体を疲れさせることにある。疲れた時の一杯は格別である。スコッチのピート香が、精神をグラスと氷の板ばさみにして煙臭くしていく。もはや、酔っ払いの精神を相手にすることすら馬鹿らしい。アル中ハイマーの精神とは、気まぐれの集合体であるから。

2007-12-26

"アート・オブ・プロジェクトマネジメント" Scott Berkun 著

書店で立ち読みしていると、ある言葉に引き寄せられる。アートという言葉は、なんとなく癒してくれる香りがする。サブタイトルに「マイクロソフトで培われた実践手法」とある。これにはちょっと引っ掛かる。そうこうしているうちに第一章を読み終わった。ちょうどその時、カウンターから鋭い視線を感じる。なかなか可愛いお姉さんだ。どうやらおいらに気があるらしい。話かけるチャンスをあげよう。「この本を頼む!」とドスの利いた声で迫る。お姉さんは決まりきった営業台詞であっさりとかわす。どうやら照れ屋さんのようだ。

MSと言えば、ソフトウェアの品質を恐ろしく低いものにし、これを社会認識として標準化したというイメージがある。ユーザを飼いならしたのだ。しかし、本書はそうした固定観念を無視すればおもしろい。アル中ハイマーにもプロジェクトマネジメントの経験があるので、この分野に多少なりと興味がある。といってもそれほど多くの経験があるわけではない。規模も5人から10人ぐらいの小規模である。おいらは、マネジメントを体系化できるものとは信じていない。プロジェクトの前提は、人員や技術レベルなど、あらゆる面で異なるからである。本書は、例題を組み込みながらも哲学を優先しているところに感銘を受ける。ただ、読めば読むほど相槌を打ちながら、本に向かって話しかけている自分が怖い。妙な仲間意識でも芽生えたのだろうか?今日は、なんとなく愚痴りたい気分である。ついグラスの氷に話しかける。「君って冷たいね!」
今から述べる物語はフィクションである。

エピソード1 「刻まれた作業」
通りがかりにおもしろいスケジュール表を見かけた。そのプロジェクトは1年近く続いており、リリースまであと1週間と迫っていた。ちょうどコーヒーを入れて席に戻ろうとした時、ふと会議室を覗くと、おいらは目を疑った。マネージャはホワイトボードに線表を書き始めた。なんと10分単位で刻まれている。それも直接ホワイトボードで管理されている。そこは殺気だっていた。つい悪戯書きの衝動にかられる。
1時間後にトイレに立った時、ちらっと会議室を覗くとホワイトボードが炎上していた。刻まれたのは時間ではなく作業の方だった。きめ細かいスケジュール表を作成することに命をかけるマネージャがいる。何事も計画どおりにはいかない。きめ細かいものが精度が高いとはいえない。ただ、このマネージャはそういうレベルではない。彼の口癖は「死守!」である。この期に及んで、明日のためのスケジュールを時間単位で練っていた。
「明日はきっーと。なにかあるー。明日はー!どっちだあ...」

エピソード2 「1分と持たない会議資料」
会議で召集されるのはいいが、事前に何をするのかはっきりしない会議は実に多い。1時間の会議をしようと思うと主催者は下準備に半日ぐらいはかかるものである。会議をするということは担当者の作業を止めるということである。だらだらとした会議は作業者のストレスを招く。だから効率良くやろうと気配りする。
ある日、突然呼び出された。何をするのかわからない。事前資料もない。とりあえず議題を提供するために、疑問点や検討内容を事前資料として送付した。さあ、会議だ!いきなり大前提が変わったと発表がある。用意した資料は1分と持たなかった。おまけに状況がかなり複雑化している。そして意見を求められた。わけがわからないので考える時間をくださいと発言して会議は即終了!アル中ハイマーは頭が悪いので事前に考える時間がないと議論に参加できない。ほとんどの場合、事前準備の要領が悪い人の説明は異常に難しい。何をするのかシミュレーションできていないのだ。会議では、お偉いさんの勉強会になることもよくある。単語の意味すら通じない。そもそも事前資料に目を通さない。会議とは議論するところである。前提を出席者に浸透させておくのも主催者の務めである。

エピソード3 「嫌がらせの納品物」
初めての取引先に、試しにモジュール設計を外注したことがある。HDLで1000行ほどのコードに、キングファイル3冊にも及ぶタイミングチャートだけの検証報告書を納品された。初めての付き合いだったから、大量のデータでアピールするつもりだったのだろうか?製本されていて見かけは美しい。ブックエンドにでもしようと思ったが分厚過ぎる。これは嫌がらせに違いない。結局、検収できないのでマネージャ自身がやり直した。これはおいらの責任なので誰かにやってくれ!とは口が裂けても言えなかった。簡単なモジュールだからと言って意思疎通を怠ってはいけないという教訓を得る。そもそも、こんなモジュールを外注したおいらが悪いのである。

エピソード4 「マネージャ力石」
かつて失敗したことがないと自負するマネージャに出会ったことがある。失敗するような仕事を任せられていないか、失敗したことに気づいていないのだろう。成功、失敗の基準は人によっても違う。お金を回収できたという意味で失敗していないのかもしれない。いや!本当にそうなのかもしれない。だって、目の前で彼の仕事が炎上しているのだ。それも見事な燃えっぷりである。完全に焼き尽くして失敗した痕跡すら残らないほどに。
「ブスブスとそこいらにある見てくれだけの不完全燃焼とはわけが違う。ほんの一瞬にせよ。まぶしいほどに真っ赤に燃え上がるんだ。そして後には灰だけが残る。燃えかすなんか残りゃしない。真っ白な灰だけだ!」

エピソード5 「政治に支配された仕様」
ある日、モジュール設計を請け負った。その要求書には目を疑った。超スーパー間接アドレッシング・ミレニアムとでも呼んでやろう。これは笑った。論理的にも物理的にもイメージできない。一つのアドレスにRAMやらレジスタやらがビット単位でバラバラに存在する。おまけに1ビットの意味合いも複雑に絡み合う見事なスパゲッティ仕様の上にスパイシーなミートソースがきいている。わざわざ仕様確認のためのスペシャル仕様書を作ったものだ。こんな複雑なことになっているとは誰一人として気づいていなかった。思想の違う過去の仕様を組み合わせたことは明白である。おまけに部署間の政治力が遺憾なく発揮されている。当然のように決定事項なので変更できないと主張している。仕様決定は早いもの勝ちという体質も手助けしている。最初から日程が遅れることを見越して、責任逃れのための言い訳を準備している。そして実際に遅れると責められるのは政治力の弱い部署である。官僚体質で硬直化した組織の課長さんには同情する。上流工程はスケジュールの精度に影響を与える。よく検討された仕様は精度を高める。この仕打ちは、プロジェクトそのものを潰したいという裏の政治力が働いているに違いない。

エピソード6 「呪われた黒箱」
流用モジュールと聞くと呪文のように聞こえる。「実績がある」という言葉は人間不信に陥れる。ある仕事で、政治的に流用するように仕向けられたモジュールがあった。見るからに異様な香りが漂う。黒箱には黒幕が潜んでいるのだ。この香りだけでメンバー全員が拒否反応を起こす。おいらは、メンバーをやる気にさせるために、どうあってもこの異様な黒箱を葬り去るしかない。と言っても対処は簡単である。政治に屈するぐらいなら仕事自体をチャラにすればいい。政治的に仕向けるからにはモジュール説明会を要求した。そしてコードの説明が始まる。if... then... もし条件が成り立てばこれこれする。そのまんまじゃん!このモジュールがどういう振る舞いをするか、使う時の注意点などを質問しても一切答えがない。更に強烈なのはこんな会議に3日間缶詰にされたことだ。拷問とはNOをYESと言わせる手段である。だいたい流用モジュールで使えるかどうかは仕様書を見れば想像がつく。断固拒否したお陰で無事リリースできた。仕事の後のブラックコーヒーは美味い!余韻に浸りながらぶらぶらしていると、あれ?会議室が炎上している。どうやら、この黒箱を流用したプロジェクトがあったらしい。政治的陰謀に陥った連中がいた。気の毒に!噂によると提供されたソースが最新版ではないというのが1年経った今になって明らかにされた。

エピソード7 「ふるせー奴ら!」
メンバーにヤクザのあねさんがいると緊張感は半端ではない。
間違っても背中を見せられない。いつタマを取られるかわからない。
ただ、スケジュール管理は簡単である。あねさんが一言。「今度の連休はオーストラリアに行くのよね!」これで連休前にプロジェクトは完了する。これはどんな政治力もおよばない。自然災害でさえ無力だ。あねさんの趣味はダイビングである。某サイトではダイブ100回記念の写真が公開されているが、いまいち本人確認ができない。面がわれるとヤバいようだ。ちなみに、とっとと鮫に喰われちゃえ!と面と向かって言ったY氏は消息不明である。本人から博多湾の埋立地にアドベンチャーな会社を起こすという知らせがあったが、そのまま埋立地に埋まっているという噂もある。詳しい話はルーマニアのgさんに聞くといい。鉄砲玉だったM氏は韓国人女性と一緒のところを雑餉隈でパクられた。彼は大阪でもパクられたが、その相棒S氏はウクライナで匿われている。一世風靡したSMコンビも今となっては懐かしい。おいらは、というと一時中国に飛ばされたが、今では頭からビールをかけられて可愛がられている。
メンバーにおかまのIちゃんがいると緊張感は半端ではない。
間違っても背中を見せられない。いつタマを取られるかわからない。
彼の席は、おいらの隣であったが無事だった。ちなみに、向う隣のO氏はやられた。その証拠に会社を辞める時、彼は内股で歩いていた。示談で済んだと聞いたが、手切れ金をいくら払ったかは定かでない。ただ、O氏はそれを資金にして中洲でおかまバーを経営している。その店でアレックスを指名するとIちゃんが登場するというから恐ろしい。ショータイムにはパンティーとYシャツ姿でメキシカンダンスを踊るという。
メンバーに16進数がわからない奴がいると緊張感がなくなる。
痛みを伴わないと理解しないだろうと、ある日、お宅の16進数で1万円とおいらの10進数で1万円を交換しようと持ちかけた。しかし、これは損な取引である。奴は16進数で数えられない上に損得勘定はできるのだ。あんまりなので、O氏の店に放り込んでやったら、翌日アレックスとできていた。

おっと!飲みすぎた。スピリタスという酒には96%の現実を仮想空間へ追いやってしまう力がある。仮想空間では、アル中ハイマーは評判が悪い。お陰様であちこちの会社で出入り禁止をくらっている。アル中ハイマー病とは現実と仮想空間をさまよう病である。

いつのまにか本題がどっかへ飛んでしまっている。本書についても付け加えておこう。仕様書の記述や作業の文書化を行うにあたって万能の作法などないと断言している。仕様書は常に最新版に維持され、メンバーから信頼されなければ機能しない。神聖な存在であると共に、いつでも最適化できる柔軟性を兼ね備えてこそ機能する。実行するのは難しいが、実行しないと破綻する。Joel Spolsky氏著の「Joel on Software」で「仕様書は生きている!」というフレーズを思い出す。
本書は、更に仕様書の位置付けをコミュニケーションの一形態として捉えている。大規模なプロジェクトであろうと仕様書の著者は一人に限定すべきであると述べられるが、果たして可能だろうか?おいらが担当するような小規模なプロジェクトではマネージャが一人で作成してメンテナンスするべきである。担当者からいつも文句を言われ、悪者になったり、アホ面をするのもマネージャの務めである。アル中ハイマーはいつも酔っ払い扱いされるので、メンバーは文句を言いやすいようだ。実は酒に弱く、わざと酔っ払った演技をしていると言っても誰も信じてくれない。ただ、その演技力はリアルである。

本書を一言で要約すると、本文中にちょうど良いのが見つかった。
「プロジェクトマネージャの実力は、チームメンバーの人間関係で評価されると言っても過言ではない。」
エンジニアの中には気難しい人も少なくない。アル中ハイマー自身が人見知りが強く、気難しい人間である。チーム内を円滑にするために、笑いネタにできる人間が一人ほしい。Mタイプである。馬鹿を演じられる人間は貴重である。実は賢いと認められた人間の成せる技である。マネージャ自身の馬鹿げた行動を暴露するのもいい。チームには常に笑いを起こせる共通のネタを仕込んでおきたい。目的はただ一つ。仕事を楽しもうとしているだけなのである。しかし、どうしても合わない人間はいる。そういう場合は一緒に組まないのが一番である。アル中ハイマーが担当してきたプロジェクトは運良くメンバーに恵まれてきた。それなりに楽しくやれてきたからである。失敗もあるが今では笑い話にできる。
マネジメントの仕事は辛い。一つとしてクビをかけずにやった仕事はない。いつも机に忍ばせていた辞表は、捺印済みで、後は日付を書き込むだけの状態にしていた。しかし、こんなものを用意しておくのは良くない。人間は衝動にかられるものである。酔っ払ってつい出ちゃったじゃん!明日から生活どーすんだよ!スピリタスでも飲んで96%忘れるしかない。以上、遠い昔の出来事である。

2007-12-23

ホンダのリコール CBR1000RR

実は、さっきまで、鴎外通り付近の行付けのバーに、年末の挨拶まわりをしていた。うまい葉巻もいただいて、ええ気持ちである。ただ、一軒だけ混んでいて門前払いをくらったのは心残りである。いや!実は空いていたのかもしれない。もしかして乗車拒否?週末には必ず現れるというトップガンの兄さんにロックオンしてもらおうと思ったが、残念ながら時間が合わなかったようだ。もちろん、クラブ活動にも余念がない。黒木瞳風のホットな女性に癒してもらった。少なくともベロンベロンにはそう見えた。「君に酔ってるぜ!」。さあ!次週は中洲方面の挨拶まわりだ。ちなみに、本部と呼ばれる某大将の店に、最終日5時に行くとベロンちゃんに会えるという噂だ。どうも酔っ払わないとブログ記事を書く気がしないから困ったもんだ。そんな言い訳はどうでもええ!

先々週、CBR1000RRの「フューエルタンク交換」というリコール案内が届いた。フューエルタンクのエアベントパイプが、特定のエンジン回転数で共振して亀裂が発生し、燃料漏れを起こす恐れがあるというものだ。丁寧に対応してくれたスタッフの方々には感謝である。その時、カラーリングの相談を持ちかけたら、こけたら考えたらとあっさり流された。アル中ハイマーには、笑い話には期待にこたえないと気が済まないところがあるが、これだけは勘弁である。ちなみに、歴代の購入バイクでこけていないのは、これだけだ。一つ前のバイクは、買ったその日に立ちごけしたというおまけつきである。おいらは猫に弱い。見つめられると、どっちに避けていいか迷ってしまい、ついこけてしまう。ちなみに、クラブでも子猫ちゃんに見つめられると、いちころだ。ついでに08式のパンフレットを見せてもらった。来年はフルモデルチェンジの年である。ディーラーの店長は、フルモデルチェンジの度に買い換えているらしい。つまり、二年おきである。マフラーの配置は右へ戻っているが、デザインは斬新だ。フルパワー改造も大変そうだ。重量は、2kgほど軽量化したらしい。装備重量、199kg。



いつも思うのだが、乾燥重量という表記がある。今回は装備重量で示している。乾燥重量といって、実際に走れない重さを表示されても困る。そもそも、どこまで乾燥にするのか?オイルは基本的には全部抜くべきだろうが、ダンパーオイルとかも?メーカーによってまちまちのようだ。そこで、装備重量で表示してくれるのはありがたい。ただ、燃料は満タンと思っていいみたいだが、各種オイルは走行に必要分なのか?これも、メーカーによってまちまちなのか?やっぱり、両方表示してほしい。こうした表記は業界で統一できないものなのだろうか?今まで思惑をめぐらせていたメーカーほど統一には反対するだろう。それが政治というものだ。いずれにせよ、アル中ハイマーはヘタッピなので、数キロぐらい違っていても関係ないのだが、体が小さいので、なるべくなら軽いものを選びたい。

教習所では右回りが苦手だった。右回りの練習では、左手一本で右手はシートの後ろ左側に置いて体を内側に開いて、ずっとグルグル回ったものだ。大型バイクはアクセルを握らなくても勝手に進むから楽である。しかし、峠だと右コーナーの方が好きだというのも不思議である。そういえば、カートも右ヘアピンの方が下手である。へその位置がずれているのかもしれない。今宵は、サトウキビ系のアルコール燃料によって、アル中ハイマーの思考は限界ラップ中にある。コーナリングでは、Gを感じながらアンダーステアとオーバーステアの狭間にある。どんどん燃焼させて、「右曲がりのダンディ」と言わせてやるのだ。

2007-12-20

"ボーイング747はこうして空中分解する" Carl A. Davies 著

読んだ記憶もなければ、買った記憶もない本を見つけた。しかも、古いカバンの中にある。このカバンはニ年以上使っていない。本書はニ年以上眠っていたことになる。きっと誰かにもらった本だろう。いや!神様の贈り物かもしれない。いや!ホットな女性からのクリスマスプレゼントに違いない。今年中に処理してすっきりさせよう。

本書は、ボーイング747の墜落事故にまつわる物語である。747といえば通称ジャンボ、機首が卵型で頭でっかちなやつだ。この機首部分をセクション41といい、重要な欠陥があったという。著者は、ボーイングレポート(秘密修理文書)を入手し、更に数々の証拠を分析した結果、パンナム103便、TWA800便、エア・インディア182便の墜落原因は、この欠陥によって引き起こされたと主張する。そして、1988年12月21日のパンナム機爆破事件を中心に取り上げる。マスコミはパンナム103便をテロ事件として報じた。この事件はリビアによる報復事件として扱われる。
本書は、素人にも読み易すいように意識しているせいか?肝心なところが大雑把である。また、話が飛ぶので少々読み辛いところもある。それでも、政治的な話はまあまあおもろい。

1. 747の欠陥
初期型747の抱える問題は、飛行中にセクション41が胴体から外れるというものだ。まれに地上走行中でも機首が落ちるという報告があったというから笑わせてくれる。ボーイングレポートは、まさに構造修理を必要とする部分として示していると語る。事故後、パンナム103便、TWA800便、エア・インディア182便は、3機とも機首部分が他の残骸から何キロも離れた場所で見つかっているらしい。原因は、金属疲労と破断であるが、問題とされるのは劣悪なアルミニウムにある。1970年代初頭、数々の産業が苦難する時代、航空業界も例外ではなかった。コスト削減を強いられる中、アルミニウムのコストは馬鹿高い。そんな中でボーイング社は、低価格で納入するメーカーを旧ソ連で見つけたという。一般的に旧ソ連のアルミニウムの品質は悲惨なくらい劣悪なのだそうだ。ちなみに、初期型とは747-100、747-200、747-300を指す。ANAのサイトによると、747-400は活躍中のようだが、初期型は使ってないようだ。JALのサイトによると、747-100Bは、2006年に退役してる。747-200、747-300はまだ現役っぽいなあ。どっかの掲示板によると、747-200、747-300は、2009年に退役を控えているらしい。

2. なぜ陰謀説に?
なぜリビアによる報復事件として扱われたのだろうか?本書はテロリズムの根源についても触れる。それは、迫害され続けたユダヤ人国家であるイスラエルを建国したところから始まる。アラブ人の不満は、イスラエルがパレスチナの地に建国されたことにある。イスラエルはアメリカの後ろ盾により元気づくが、パレスチナは戦力で圧倒されゲリラ戦を余儀なくされる。よって、イスラエルを支援するアメリカは敵国である。これが現在のテロリズムであると語る。歴史的には宗教紛争はずっと以前からあり、その中で体当たり行為もあっただろう。これをテロリズムの根源とするのは、もう少し検証が必要だと思われるが、面倒なのでとりあえず、ここでは本書の説を受け入れておこう。こうした背景では、まずアラブ人を疑え!となる。パンナム103便事件の発端は、米軍がイラン航空のエアバスをイラン軍戦闘機と誤認して撃墜したことにある。ホメイニ師は、その報復にアメリカ航空機の撃墜を秘密裡に命じる。攻撃の実行を元シリア陸軍士官アフメド・ジブリルに委任する。彼はフランクフルトで実行しようとする。フランクフルトはアメリカの航空機にとって重要なハブ空港である。パンナム103便も、フランクフルトからロンドンを経由してニューヨークへ向かうはずだった。しかし、その作戦はドイツ警察に押さえられ失敗しアラブ人が逮捕される。その時、東芝製ラジオの中に爆弾を仕掛けたが、この型と同じラジオがパンナム103便の残骸から見つかったという筋書きである。この論理では、アフメド・ジブラルの関与ということになりそうだ。そしてシリアとイランに疑いをかけた。それがいつのまにかリビアになっている。まあ、リビアもアラブ社会であるのだが。イラクがクウェートに侵攻した時、ブッシュ大統領はイラク攻撃を開始し湾岸戦争が勃発した。ちょうど、イランと共謀してパンナム103便を爆破したとされていたシリアが多国籍軍に参加する。湾岸戦争には、普段アメリカと敵対していたアラブ諸国の支援も必要だったのである。ブッシュ大統領は、急遽、シリアの代わりにリビアの避難を始めた。なんでもかんでもカダフィ大佐のせいにしたのである。その後、二人のリビア人が指名手配される。リビアのせいにする論理も簡単である。レーガン大統領は1986年トリポリをはじめとするリビアを爆撃した。これに対する報復だとすればいいのである。リビアはドイツのディスコ「ラ・ベル」での爆弾テロに関与したとされているがいまだ不明である。

3. なぜ政府は747の欠陥を隠したのか?
無理やりテロ事件にしなくても、アメリカ政府はなぜボーイング社の問題を隠すのだろうか?747の問題に対処するためには大規模な修理が必要だった。莫大なコストもかかる。下手すると運行停止である。これは世界的な大混乱にもなりかねない。航空会社側も消極的になる。特にTWAは何度も倒産の危機に陥っていた。修理コストの負担など不可能だった。この問題は、航空業界、アメリカ連邦航空局、アメリカ政府も知っていたのだろう。クリントン=ゴア組は1996年の再選運動資金として航空業界から献金を受けているという。しかし、単純に747の欠陥を揉み消すためだけに献金したとは考えにくいのだが。
欠陥の問題については、航空業界の体質もあるだろう。欠陥の修理やメンテナンスは最終的には航空会社の責任となる風潮にも問題がある。

今宵のアイリッシュ・ウィスキーは不味くはないのだが奇妙な味がする。なんとなくつぶやきたい気分だ。
著者は、アメリカ政府や、それに関わる高級官僚は嘘つきであると語る。これは間違いである。こんなことはアメリカ政府に限った話ではない。どこの国も政府、高級官僚は嘘をつく。逆に、彼らは反論するだろう。全て国のためだ。国の面子のためだと。正確には、業界も含めた彼らの既得権益のためであるとした方が現実である。少なくともくだらない陰謀を施すよりは、国の理性を見せる方が国益というものである。冷戦構造も終わり、アメリカは自らの理念に従い、強大な軍事力を楯に世界の警察官を自認している。そして、様々な紛争に介入してきた。その理想主義はある意味すばらしい。しかし、一部の情報を隠蔽し、警察行動が世論で操作されるならば、あるいは司法の判断が世論に流されるならば、いくらでも支配できることになる。裁判官が有罪を下した以上、論理的な説明をする義務がある。ましてや、一国家に疑いをかけたのだ。これは、国際法から、個人を裁くものまで全て同じである。そうでなければ誰が警察行動を信用できようか。また、充分な検証もなしで、一国の行動を支持することは無責任である。これが世論操作によるものであれば、間違った世論を助長することになり、もはや同罪である。
おっと、悪酔いしたみたいだ。寒くなると理屈っぽくなるのよねえ。お前、誰やねん?ちなみに、アル中ハイマーは二重人格症である。その証拠にいつも物が二重に見える。

2007-12-14

"日本マスコミ「臆病」の構造" Benjamin Fulford 著

電車で移動中、暇つぶしにキオスクで買った本である。著者は20年間日本に滞在し外国人の目で日本を観察してきたジャーナリストである。アル中ハイマーは、昔、著者の本を読んだ記憶がなんとなくある。外国人にしてはなかなかの観察力だと感心したような気がする。そう言えばテレビで見かけなくなったなあ。著者は、政、官、業、ヤクザの「鉄の四角形」が日本の支配構造であると指摘する。そして、日本社会では書けないタブーが驚くほど多いと語る。本書はもともと単行本で発刊されたらしい。新たに文庫化してくれるのは移動中に読むのにありがたい。

本書は、マスコミの報道姿勢から日本人の特徴をよく観察している。9.11テロ報道は米国内においてさえその硬直ぶりを露呈した。そんな中、日本のマスコミも米国の統治下になったと語る。バブル崩壊後の経済不況の長期化にもマスコミの責任があるだろう。形式的な経済政策批判を続けたおかげで、政、官、業、ヤクザの癒着はより強固になった語る。誰一人として良いとは思わない記者クラブの制度についても疑問を呈してる点は注目したい。また、情報ソースの信頼できる順には考えさせられるものがある。外国人記者にとって、最も信用できるものは右翼の街宣車。続いて雑誌やタブロイド版夕刊紙。最大の嘘つきはメディアの本流をいく大新聞であるという。これは一般的な日本人の感覚からは逆の順ではないだろうか。おいらは、右翼の街宣車が駅前の銀行でぶちまけているのを、おもしろくて小一時間聞き入ったりする。ただ、大新聞が信頼できないのはわかるが、雑誌を馬鹿にしていたアル中ハイマーには衝撃である。今宵は悪い酒を飲んだせいか、思いっきり愚痴りたい。この季節は寒さが寂しさを助長するのである。

1. マスコミの構造
本書は、マスコミの情報ルートを解明してくれる。例えば、住専問題で、国会が何十億ドルもの税金を投じながら、住専から借りたまま返さない多くの暴力団を無罪放免している。日本の新聞はこれを全て知っていながら絶対に触れない。当時、右翼の街宣車が財務省を取り囲み、政治家の実名を叫んだ。このような事例は山のように挙げられるという。日本が民主主義国家とは言えないことはうすうす気づいているが、もはや法治国家であることも疑わしい。情報力だけを比較すると、最強の報道機関は、NHK、朝日、読売を筆頭とする新聞社であるという。やや矛盾しているようだが、仕掛けはこうだ。規模と取材体制が最も充実していても縛りがきつい。だから、彼らは絶対に書けない記事を、しばしば雑誌にリークする。それだけではない。政治家や官僚に、雑誌の動きをしっかりリークする。これはダブルスパイである。最後の駆け込み寺が、外国メディアかインターネットになる。皇室報道に至っては、情報に詳しいのは宮内庁記者クラブだけである。彼らはそれを書けないため週刊誌にリークする。週刊誌でも書けない内容は海外の新聞にリークする。英語の記事が出ると、それを後追いする。発信源である新聞が、わざとらしい調子で海外で言っているんだから間違いないだろうと報道する。新聞と週刊誌と海外メディアの共犯で成り立つこのシステムの歴史は古いらしい。そもそも海外のマスコミが皇室情報を得ることが難しいことは、素人でもわかりそうなものである。このような海外メディアが日本の記者の駆け込み寺になっているケースはたくさんあるようだ。他のメディアに代弁させるような手法は卑怯である。

2. 企業報道
日本の企業情報は、投資情報としてもニーズは高い。しかし、時折メディアにとって、企業記事は最大のタブーとなることもあるという。経済記事は、事実関係も大切であるが、優先順位がが最も重要である。素人が見てもスポンサーには逆らえない構図は想像がつく。金融機関の最大のスポンサーは政府であろう。破綻すれば公的資金が流れるようになっているからである。しかし、政府のスポンサーは国民であることは、しばしば忘れがちのようだ。本書は、宣伝部と編集部は物理的に距離を置くのが出版社としての常識であると語る。当然だろう。ところが、日本では宣伝部が編集部に口を出すのが当たり前なのだそうだ。よほど正義感の強い人でなければ編集部は務まらないということか。W.リップマンは著書「世論」の中で、ジャーナリズムの本質は人間の理性にかかっていると悲観的に結論付けていた。

3. 日本人の体質
日本人の体質の恐ろしいところは、下が上をまともに監視しない。不公平、不平等に対するアンテナが鈍く、上に従うという体質が恐ろしく根強いと語る。実に頭の痛い指摘である。著者がよく言われる言葉に、「外国人だから書ける」というのがあるらしい。日本人記者には、外国人記者が知りえないような重大な数字や、それだけで政権がぶっ飛ぶくらいのインパクトのある政治家の秘密を知っているくせに、なぜ書かないのか?知っているのに書かないのは、嘘より重い罪であると語る。
日本の社会システムで最も抜けているのは監視機構である。互いにこんな悪いことをするわけがないという楽観論が根強いからである。それも悪い感覚ではないのだが、過信してはいけない。また、面倒臭いという体質もある。民主主義やら自由というのは、実は自己管理を要求される面倒なシステムである。社会保険は役所任せで、サラリーマンは税金ですら組織に管理を任せている。酷い政治にも程度があるが、その境界線を政府も国民もなんとなく理解している。こうしたバランス感覚を外国人に理解することは難しいだろう。ただ、そのバランスも壊れている。醜い程度も閾値を超えている。マスコミの攻撃的な論調は、弱い立場の人間、情報を持たない人間に対してのみ厳しい姿勢で追及する傾向にある。

4. ジャーナリストとは
ジャーナリストは本来組織ではなく個人であると語る。会社の名刺がなくなった時、私はジャーナリストですと胸を張って言える人がどれほどいるだろうか?と疑問を投げる。これはエンジニアにも言えるだろう。エンジニアは比較的会社を移動する人が多い。おいらの周りがたまたまそうなのかもしれないが、技術を磨くのに、一つの凝り固まった文化に染まるのは好ましくない。独立して個人でやっている人も多い。今年も周りに何人増えたことだろう。もし、楽しそうだと勘違いしているとしたら、きっと後悔することになるだろう。いや!勘違いではない。人生に酔っ払うのは幸せなのである。職人の世界では、大工さんのような一人親方制度というのは悪くないと思っている。ジャーナリストもある種の職人と言えるだろう。

著者の取材経験から、外国人記者には裏情報が集めやすい傾向があるという。日本のマスコミには全く対応しない人物が、英語インタビューだと応じてくるケースも少なくないらしい。これは、外国人記者がエキゾチックで珍しいからではなく、日本のマスコミに対する失望や嫌悪、不信であると語る。日本人でも日本のマスコミに不信を抱いている人は少なくない。そんな事は、ほんの少しネットサーフィンすれば伝わってくる。記者クラブというギルドを形成し、政、官、業と馴れ合い関係を持っていることは言われなくても感じる。こうしたマスコミとの癒着構造がいいわけがない。ジャーナリストの連中でさえ悪い制度だと公言している。にも関わらす廃止できないでいる。誰もが否定する制度や組織がゾンビのように君臨している例は多い。これが日本社会の現実である。マスコミの存在意義とは何だろうか?もし独立した中立機関であるとするならば、真っ先に改革すべきであろう。記者クラブでさえ解散できないような連中が、組織や個人を攻撃している姿は滑稽に見える。

2007-12-08

"自壊する帝国" 佐藤優 著

「国家の罠」がまあまあおもしろかったので、ついでに本書も読んでみた。こっちの方がおもろい。前記事でも書いてが、本当は歴史の興味からラスプーチンが読みたいのだ。それも、しばらくおいておこう。アル中ハイマーは人生の道草が好きである。

本書は、著者が外交官としてソ連崩壊を目の当たりにした時の回想録である。どうやら、内容の波長と文章のリズムがアル中ハイマーには合うらしい。一晩で読見切ってしまった。出会った学生や神父、政治に関わった人々との会話や随想をまとめた一種の紀行文のようだ。おいらは、紀行文のような趣向(酒肴)を好む。どんな立派な主義主張よりも、事実をありのままに伝える方が説得力を感じるからである。また、ところどころに散りばめられた歴史や宗教の知識も参考になる。更に、外務官僚への皮肉もブレンドされているところが、ウォッカのようなクリスタル感を醸し出す。それにしても、やたらウォッカを一気に飲み干す場面が登場する。それも一人5本とか。こっちまで二日酔いになりそうだ。

本書は、バルト三国で高まった改革意識を中心に物語る。元凶はソ連共産党による極端な中央集権である。マルクス・レーニン主義の限界が訪れると新しいイデオロギーを提起する必要があった。これがペレストロイカである。これは表向き改革を掲げているが、実はソ連体制の維持を目的としていた。この矛盾した目的の二重構造を突いて市民が決起する。そして、ゴルバチョフ派を打倒したエリツィン派が登場する。ここで語られるペレストロイカは、一般的に西側で宣伝されている印象とは違うようだ。ゴルバチョフはノーベル平和賞を受賞している。
大部分の日本人は、日本国が崩壊するとは考えてもいないだろう。大企業でさえ倒産するとは考えていなかった。しかし、現実に起きている。程度の違いはあれ、なんとなく似た状況を感じる。日本も民主主義とは名ばかりの中央集権国家である。現在は、政治家のスキャンダルなどで表面化していないが、霞ヶ関の実態が明るみになれば、真の改革意識が加速するかもしれない。監督すべき立場の金バッチの現状からして、遠い道のりではある。ただ、市民はうすうす気づきはじめている。当時のアル中ハイマーは、ソ連という大国が崩壊するなどと考えもしなかった。国家とは、ある日突然崩壊するものなのかもしれない。

1. ソビエト社会主義共和国連邦の姿
当時のソ連は、ロシアが親分でその他の共和国が服従するという印象がある。この見方は間違っていたようだ。本書は、スターリンがロシア人の血が入っておらず、ひどい訛りのロシア語を話していた事実からしても、ロシア人が少数民族を抑圧していたという単純な図式では説明がつかないと語る。中枢はソ連共産党中央委員会であり、絶大な権限を持ってロシア人を含めて支配していた。この中央委員会は絶対に責任を追わない体質を持っているという。中央委員会がソ連外務省に指令するという構図である。成果を上げれば両者でその成果を分配し、失敗すれば外務省を叱責して責任を押し付ける徹底的な無責任体制が確立していたという。ソ連政府は弱みのある聖職者が大好きなのだそうだ。例えば、独身を誓った高位聖職者で女にだらしない者もいる。女性が子供の認知を求めるとKGBが揉み消す。こうしてKGBに貸しを作ると後が恐ろしい。ちなみに、カトリック教会の聖職者は独身制をとっている。プロテスタント教会は地上に聖なる人はいないと考えるので、聖職者という概念がない。よって、牧師は結婚して家族が持てる。ただ、カトリックの独身制にも合理性がある。家族を優遇するような間違った意思決定をさせない。中国やオスマントルコの宦官制度は、官僚が世襲制にならないように去勢された。脂ぎった金バッチもパイプカットするといい。
ロシア正教はもう少しややこしいようだ。司祭には黒司祭と白司祭がある。黒司祭は独身制を誓い修道院長や総主教になる。白司祭は結婚し家族をもち、黒司祭よりも地位は低い。黒司祭は、教会政治、研究活動に没頭できる。一方で、家庭の悩み事に応じるのは家庭を持つ白司祭の方が現実的である。こうした司祭の二分は、組織機能を合理的にするのである。

2. モスクワ大学の二重構造
モスクワ国立大学には、西側のために、わざとロシア語を上達させない特別コースがあるらしい。しかも、ロシア語の自由会話の授業で、日本政府を批判するような画策もあり、ロシア語を学ばせる意欲自体を減退させるような思惑もあったという。ソ連体制は、国民への思想抑制、特に大学あたりでの監視体制は半端ではないことも想像がつく。反体制論文を広めるには、わざと学生に発表させてそれを教授が叱責する。実はその教授が反体制派である。思想を広めるためには発表する機会が必要である。著者はそうした態度に最初戸惑ったという。また、反体制を批判する授業をするからには、反体制主義も勉強しなければならない。つまり、ソ連体制以外の勉強をしたければ、表向き批判するように見せかければいいのだ。禁じられた思想の文献を広めるには、まずイデオロギーの闘争は重要だと主張し欧米思想を紹介する。そして、共産党やレーニン思想から引用を散りばめて、けしからんとできるだけ説得力の無い作文をする。このような文献が、良書なのだそうだ。読者もそれを心得ているというからおもしろい。本書は、日本の外務省の先輩外交官たちが、モスクワ大学は共産主義に汚染されて学問レベルが低いと反応するが、表面的なものしか見ていないと指摘する。ソ連体制では、子供も幼稚園の頃から、表と裏の顔を持つように訓練されていく。虐げられる世界では、幼いなりに防衛策を自然と身につけるものらしい。人間とはたくましいものである。

3. ロシア人のアルコールへの執念
ウォッカなしでは、ロシア人は生きていけないらしい。ゴルバチョフが反アルコールキャンペーンを展開すると、まず食料品店から砂糖とイースト菌が消えた。砂糖を溶かして、イースト菌を入れて発酵させ密造酒を作るのである。街中から砂糖が消えると、次はジャムとジュース類が消えた。更に、果物の缶詰、瓶詰も消える。最後には歯磨き粉までも消えた。歯磨き粉でも酒が造れるのだそうな。ここまでは人体に悪影響がないらしい。ほんまかあ!歯磨き粉はええんかあ?挙句の果てに、化粧品店からオーデコロンが消える。アル中はこんなものまで飲むらしい。そして、死者も出る。これでもまだ終わらない。アル中は靴クリームまで食べた。日本で禁酒法が施行されたら、アル中ハイマーも末恐ろしい。
ロシア人にとってウォッカは人間性を調べるリトマス試験紙になるという。通常の時と酔った時の言動で極端なギャップがある人間を信用しない。アル中ハイマーの台詞は、酔っても酔わなくても「君に酔ってるぜ!」ロシアでは、ウォッカやコニャックなどの酒をちびちび飲むのはルール違反だそうだ。必ず一気に飲み干さなければならない。アル中ハイマーはロシアにだけは行かないと堅く誓う!

4. 自壊の始まり
ある学生の見解は、ゴルバチョフはもう終わっていると語る。歴史を作る力を持っているのはエリツィンだと主張する。ソ連には宗主国がない。ロシア人こそ虐げられている。その本丸は共産党中央委員会。しかし、ソ連共産党を潰すとソ連はなくなってしまう。共産党というシステムは、部分的に自由化や民主主義を受け入れることはできない。ゴルバチョフはそのことがわかっていないという。そして、新しい戦略が展開される。ソ連では主権国家が自発的に連邦を作ったという建前になっている。その締結国は、ロシア、ウクライナ、白ロシア、ザカフカス連邦。ザカフカス連邦は、アゼルバイジャン、グルジア、アルメニアに分かれる。バルト三国を占領した時、エストニア、ラトビア、リトアニアは連邦に加入する手続きをとっていない。これは法的な欠陥である。ゴルバチョフが法の支配を権力基盤にしている以上、バルト三国はスターリン時代の植民地政策に過ぎないという矛盾が生じる。この矛盾を逆手にとる。具体的な行動は、エストニアの首都からリトアニアの首都までは600キロ。一人1メートルとして60万人が集まれば人間の鎖ができる。1989年「人間の鎖」行動は、最大200万人、場所によっては二重三重の鎖が出来た。ここで学生は、日本の北方領土返還についても有利に働くだろうと指摘している。バルト三国にしても北方領土にしても、スターリン時代の負の遺産だからである。当時エリツィンは日露平和条約の締結に前向きだった。それも、お家騒動をかかえていたから止むを得ないだろう。しかし、日本政府はそのチャンスを逃した。

5. ゴルバチョフの軟禁
いよいよゴルバチョフはバルト三国へ軍事介入しようとするが、西側の世論に屈して手が出せなかった。ただ、西側の報道はゴルバチョフ一辺倒だったように記憶している。著者は、ゴルバチョフ派の官僚に霞ヶ関と同じ臭いを感じると語る。権力者の動向や目先の利益には敏感だが、信念がない。エリツィン派やロシア共産党は、それぞれ世界観や政治路線は対峙しているが、両者とも発言と行動がともなっているという。当時のアル中ハイマーの印象は、ペレストロイカという言葉のインパクトが強く、ゴルバチョフは良い人、エリツィンは悪い人という感覚しかなかった。エリツィン更迭は正解だと思っていた。1991年のクーデター未遂事件で軟禁から解放されたゴルバチョフは、もはや大統領の威厳がなくなっていた。着替える暇も与えずぼろぼろな姿でテレビの前に出されたのも、国民に無力を示す演出だったという。権力はもはやエリツィンに移っていたが、本人だけは、それに気づいていなかった。それまで、かたくなに拒んでいたバルト三国の独立を認め、寛容な新しいソ連体制ができたことをアピールしたが、政治的実効性を失って滑稽に見えたと分析している。

6. 情報屋としてのプロ意識
本書の中で、ところどころに著者が情報屋としてのプロ意識に芽生える様がうかがえる。モスクワの日本人記者は外交特権もないので、情報収集の際のリスクも外交官より格段に大きい。大使館が大勢でフォローしているのに、記者は数人で取材し分析している。にも関わらず、大使館のとれない情報をとってくる。そうした様を悔しそうに語る。
「本当の情報操作とは嘘に基づくものではない。部分的事実を誇張して相手側に間違った評価を与えることである。」
これだけ大きな変動がおきている場面では、国際政治や国際法の知識はほとんど役に立たない。むしろ、教会史や組織神学の知識の方が役立つと語る。本書はあらためて政教分離を考えさせられる。宗教は遠くから眺めてこそ見栄えがする。富士山は遠くから眺めると美しい。近くを登るとゴミが散乱している。

本書は、キャリア制度に疑問を持たせてくれる。著者はノンキャリアである。キャリアとノンキャリアで身分差があるのもおかしい。キャリア組は、専門職を恐れて最初から優位性を誇示したいのだろう。波長が合う先輩との会話で、わざわざ大使館を離れた場所に行って愚痴る場面がある。内部の足の引っ張り合いやら、醜い出世競争の渦がまいている。日本人にはソ連体制を嫌う人も多いだろうが、長く付き合うと体制まで似てくるといった話まで飛び出す。有能なキャリアはノンキャリアに対する扱いが丁寧であるらしい。優位性を誇示する必要がないのだろう。むしろ人間的にうまく付き合うことで、専門職の能力を有効に活用できるという論理的思考が働く。一方でキャリアでも明らかに能力の劣る者が、威張り散らすらしい。トイレ掃除を命じる輩までいるそうだ。昼メロ級である。
本物語には、学生やら知識人の見解が頻繁に登場する。その分析レベルは高度である。アル中ハイマーは、若い頃はもちろん現在においても、そんなレベルで物事を考えられない。社会に危機感がないと、優秀な知識人は生まれないのかもしれない。平和ボケでぬるま湯にどっぷりつかった社会では、せいぜ出世争いをするのがオチなのだろう。