2010-08-15

"ソシュールと言語学" 町田健 著

言葉のニュアンスというものは、個人や文化によって微妙に違うものである。にもかかわらず、だいたい意思疎通ができるのだから、人間の直感も捨てたもんじゃない。いや、意志疎通ができていると勝手に信じているだけのことかもしれん。
例えば、「体系化」という言葉は、学問分野によっても体系レベルがまったく違う。数学の体系化では、方程式に完全に嵌ることを要求する。対して、社会学など人間精神を相手取る分野での体系化は、せいぜいカテゴリーに分類するぐらいなもの。こうした認識の違いは、集団に属す文化的感覚の違いから生じるのだろうか?
人間の犯罪意識ほど、個人差のあるものはないだろう。どんな残虐な行為も宗教的観念から聖域と解釈する者もいれば、理性の持ち主と自負する者が法律スレスレならばなんでもありと解釈したりと、節操がない。天才たちに、自殺する例を多く見かけるのは、人間が生きること自体を罪と認めた結果なのかもしれない。
となれば、言語の体系化は、認識の体系化から組み立てなければならなるまい。つまり、精神の体系化である。しかし、それは人間の認識能力では、自己矛盾に陥り不可能であろう。こうした絶望的な事情であるにもかかわらず、めいめいが勝手な解釈を与え、議論を戦わせながら相手を罵りあえるのだから人間という存在はおもしろい。まるで自己の存在を固守するかのように。おまけに、人間自身が人間認識のアルゴリズムを明確に説明できないでいる。

スイスの言語学者ソシュールに始まる言語学を、「構造主義言語学」と呼ぶそうな。レヴィ=ストロースあたりにあやかった用語であろうが、物事を構造的に分析しようという試みは自然な分析方法に映る。なにも大袈裟な用語を持ち出さなくても、ソシュールの研究が色褪せることはないだろう。
言語学の構造分析では、単語と単語の関連性や文法を解析することになる。文に構造がなければ、共通認識を辿るのも難しくなり、言葉は伝達能力を極度に失うだろう。完璧とは言えないにしても、現実に翻訳が成り立っているのは、そこに文法という手掛かりがあるからである。言葉や文章を解析するには、品詞などの要素に分解して、要素の性質を調べる必要がある。文章構成を解析するには、階層的な関係や並列的な関係など、立体的な視点も必要となろう。したがって、人間が認識を合わせようとするところには、なんらかの構造的要素が存在するものと思われる。

素朴に「言葉の役割とは何か?」と問えば、それは伝達する手段ということになろう。では、何を伝達するのか?社会の出来事や人間の行動といった様々な現象の伝達であるが、中でも厄介なのが精神の内にあるものの伝達である。言葉で伝達するからには、ある程度の公的な立場で客観的に表わす必要がある。だが、精神の内にあるものは極めて情念的なので、完璧に表わすことは難しい。いまだ人間は、誰もが使える言語としての普遍的原理を見つけられないでいるのだから。したがって、言語学は非常に危機的な状況にある。それを言いだしたら、人間精神を相手取る学問は、すべて危機的状況にあると言わざるを得ないが。最も厳密性の高い数学ですら不完全性に見舞われながら自己矛盾と対峙しているし、人間認識を介在しない学問は人間社会には存在しないわけだが...
日本語にきわめて曖昧さが残るのは、単一民族という特徴から暗黙に通じる共通認識なるものがあるのだろう。多民族間の意思疎通という意味では、厳密性の強い西洋語の方が有効なのだろう。欧文で、やたらと人称代名詞を使ったり、未来形や過去形あるいは現在完了形や過去完了形といった時制をしつこく使うのも、厳密性の表れであろう。しかし、精神を微妙に表現するには、民族固有の言語を捨て去ることはできない。言語は社会慣習や民族文化と密接にかかわる極めて経験的なものであって、厳密性だけでは精神の内にある芸術性を表わすことは難しい。翻訳にしても、だいたいのニュアンスを伝えることができても、完璧に単語をあてがうことは難しい。多くの民族で似たような言葉が見つかっても、微妙にニュアンスが違ったりする。口の動かし方にも民族に違いが見られる。音素のLとRの周波数の違いは、日本人には舌を噛むか噛まないかぐらいの違いにしか認識できない。言葉の多様性を扱うことは、人間の多様性を扱うぐらい難しい問題である。
となると、これだけ複雑でありながら、「なぜ言葉は通じるのだろう?」という素朴な疑問がわいてくる。本書は、まさしくこの疑問と対峙する。著者は、言語学は数学のような抽象的概念ではなく、「現実の尊重」であると語る。これは、純粋科学というよりは経験科学の領域にある。数学の一般的な考察は、公理から出発して定理が演繹されることによって進化してきた。対して、言語学の考察は、まず現実から出発して、帰納法的方法で定理を発見していくことになろう。そして、どんな言語にでも当てはまる普遍的な言語法則や文法法則が見出せるのか?これが、言語学の抱える根本的な課題のようだ。
「西欧で流行している学説を、時代性を考慮せずに無批判に取り入れてもてはやすことの好きな日本人は、構造主義などもう古いと思ってしまいがちです。しかし、言語学という学問の本質にとって、構造主義が最もふさわしい方法を提供してくれる学説であることに疑いはありません。」

人間は、集団社会の中で自分たちだけが認識できるような合言葉で、互いの意識を認め合うところがある。仲間意識の誇張と言おうか、縄張り意識による自己存在の防衛意識とでも言おうか。人間には孤独を恐れる習性がある。流行語には、時代に遅れていないかの自己の存在位置を確認する役目がある。ある集団が他の集団よりも優れているという勝ち誇った共通意識を持とうとすれば、彼らにしか理解できない言葉で優越感にも浸る。人間は、他人よりも優勢であると認識したいがために、知識や言葉を身に付けようと努力するのかもしれない。
世界中で普遍的な共通認識が持てるような世界共通語なるものがあれば、意思疎通という意味では便利である。だが、意思疎通が曖昧だからこそ、精神の高まりを呼び起こし、そこに芸術性が生まれる。言語は、合理性の作用で今後も変化し続けるだろうが、歴史的背景を消し去ることはできない。あらゆる学問において人間にかかわる事象を科学的に解明しようとし、ことごとく人間精神の壁に阻まれてきた。言語学も同じ運命を辿るであろう。

1. 音声と意味
本書の特徴は、言葉の音声と、言葉の意味を関連付ける議論に終始するところであろうか。そういえば、とっさに言葉が思いつかない時に、とりあえず擬声語のようなものを発することがある。静かな様を「シーン」とか、鋭い様を「スパッ!」とか、非常に寒い様を「うぅー寒ぅ!」とか、身ぶりを付けながら。ちなみに、アル中ハイマーは、いちころな様を「もうメロメロ!」と呟くそうな。なるほど、人間が言葉を使う時、まず音に頼っているのかもしれない。いや、象形文字のように形をイメージする場合もある。いずれにせよ、言語は、聴覚や視覚といった人間の知覚能力から発達したと考えてよさそうだ。ただ、音声と意味が関連付けられるのも、慣習や文化などの経験的なものであって、動物の鳴き声を表わすにしても、民族によって様々な違いを見せる。
本書は、言葉が成立するための必要な要素は、単語の意味と、意味を表すための音だとしている。意味を表すための音を「聴覚映像」と呼ぶらしい。これは、音から意味をイメージする認識能力といったところだろうか。また、音声と意味は異質な要素であるにもかかわらず、そこに結びつきを求めること自体が不思議なことだ!とも語っている。音声は音波という物理的現象で説明できるが、意味は頭の中で解釈されるものであって、なんとも説明し難い。ソシュールは、音によって意味を伝達するという基本的な性質を出発点にして、言葉の仕組みを解明しようとしたという。音声から分析するにしても、人間の顎の形はある程度決まっており、発せられる音も限られる。音声を聞き取る耳にも周波数の限界がある。人間の持つ入出力装置の能力によって、ある程度言葉も決まる。
おまけに、同音異義語まである。「とうさん」の会社は「倒産」しちゃった。なので「当分」酒も飲めずに「糖分」控え目。なんのこっちゃ?
民族間で音に対する感情の違いが見られるにしても、現実には世界的にヒットする音楽がある。となれば、言葉の音声に普遍的な原理が見つけられないにしても、ある程度の共通した性質を見出すことはできるのだろう。ソシュールは、その普遍性に挑んだというから、その試みは壮大である。

2. 会話と共通認識
会話は、話し手と聞き手の役割分担があって、互いにその役割を交換することによって成立する。これは、言葉の共通認識があるからこそ、成り立つメカニズムである。
本書は、言葉から共通認識が得られるということは、そこに社会性があることを意味するという。もっと言うなら、社会性には暗黙の認識のようなものがあって、他文化を研究するとは、まさしくこの点を解明することであろう。言葉は一種の記号を示すが、それだけの機能にとどまらない。人間は、言葉によって自由に恣意する。したがって、言葉のニュアンスが違ってくるのも自然であり、人間が精神を獲得した時点から持つ自然な性質である。時代が変わるということは社会環境が変化することを意味し、時代とともに言葉に変化が見られるのも自然である。
厳密で客観性を持つはずの専門用語でさえ、組織文化の違いによって微妙にニュアンスの違いを見せる。ずっーと一つの組織に依存していると、組織文化に染まっていることすら気づかない。そして、当り前のように文化を押し付けて、言葉が通じないと馬鹿にすることもある。こっちが馬鹿だから仕方がないのだが。近年登場するネット関係の用語は、専門家ですら明確に説明することが難しい。客観性を帯びるはずの専門用語は、ますます曖昧になって雲の上に登っていくかのようだ。これがクラウド化の正体か?実体が見えないからこそ、集団心理を煽りやすく、安全性や利便性を強迫観念にまで押し上げやすい。そして、人間社会の実体は、ますます仮想化へと向かう。いや、そもそも実体なんてものは幻想だったのかもしれない。

3. 言葉の合理性と経済性
言葉が、伝達の手段であるならば、そこに一種の合理性が現れるだろう。口語体は、時代の変化に応じて合理性に基づいて変化してきた。明治から大正デモクラシーにかけて、急速に西洋化が進み、欧文かぶれの口語体が出現した。現在の日本語は、国際感覚が混入しながら合理的に育まれた結果と言えよう。しかし、人間の価値観には多様性があり、合理性にも多様性が現れる。どんなに、グローバリズムの波が押し寄せようとも、精神の合理性にはおよぶまい。
ところで、口語体には、できるだけ労力を使わずに単純に表現したり、効率的に表現するという傾向がある。あらゆる技術や手段は、利便性を求め、合理的に使えるように発明されてきた。人間の思考は楽をするために様々な工夫をするもので、言語の発達もその過程の一つと言えよう。人間の脳は、なるべく多くの情報量を効率良く合理的に処理したいという願望から進化している。日常生活やあらゆる学問で、用語の短縮形が見られるのも、一種の合理性である。熟年夫婦ともなれば、「あれ」やら「それ」といった代名詞で意思疎通ができるようだ。若年層の間では、合言葉のように独特の省略形が用いられる。ネット社会で使われる顔文字も、合理性から育まれたと言えよう。言葉が伝達の手段だけならば、経済性の原理だけで説明ができる。しかし、文学作品では、わざわざ回りくどい表現を使ったり、読みにくい表現を使うことで、精神の働きを呼び起こそうと仕掛けてくる。これも、精神を呼び起こすための合理性と捉えることもできるのだが。となれば、合理性にも多様性があり、合理性を単に情報量だけで判断することもできまい。

4. 表示部と内容部
構造主義的な立場からすると、文は記号であり、記号は表示部(音素列)と内容部(意味)が備わっているという。本書は、言語学にとって表示部と内容部をと独立させて分析することが重要だと語る。
だが、音素列は物理量として分析できるにしても、意味だけを分析するとはイメージし辛い。名詞であれば、その音素列が指すものは明らかであるが、既に意味を含んでいるような?文章はそれぞれ違った性質の単語が連結されて一体化して意味をめぐらすような性質がある。文章を分析するには、全体を見渡すような立体的な感覚も必要である。内容部を無視した表示部の分析って可能なのだろうか?現実に、要素として摘出できるのは、表示部だけのような気がする。本書も、内容部の存在は幻想のようでもあると語っている。そもそも、言葉は表示部で成り立つもので、意味を表わすための手段じゃないんだっけ?音素列と意味を独立させるとは、言語学が自己矛盾に陥っているようにも映るが...んー?よく分からん!ただ、疑問を持ったところで、ソシュールの著書を読む勇気は持てないような気がする。

2010-08-08

"文章読本" 丸谷才一 著

日本文学には、或る系譜がある。明治の文豪たちから受け継がれる「文章読本」という遺伝子である。それは谷崎潤一郎に始まり、川端康成や三島由紀夫らを経て、丸谷才一が挑んだ。
「文章読本」という言葉には、「文章を書くための入門書」といった意味が隠される。アル中ハイマーは、義務教育の時代に文章のセンスがまったくないことを徹底的に叩き込まれた。そういうわけで、文章を書くことは、ただ精神の解放の手段としか考えていない。うまく書こうなどという願望は、とっくに捨てたはずなのに、この言葉の響きに誘われるのは、どこかに諦めきれない心理が隠されているのだろうか?
この系譜は、だいたい書き手のためにあるのだが、三島版は「いかに読むか」という視点に立っている。それならば馴染めるかもしれないと思い、ずーっと前に読み記事にした。したがって、「いかに書くか」という視点に立った本を読むのは、これが初めてである。丸谷版はこの系譜の中でも正統派と評されるらしい。そして、丸谷氏は谷崎版が格段に力を持った傑作であると評している。惚れっぽい酔っ払いは、次に谷崎版に目を付けるのであった。

長い日本の文学史において、明治から昭和にかけて、これほど同じような本が多く書き下ろされたのも珍しいだろう。なぜ、この時代に集中して入門書とも言えるものが文学界を賑わしたのか?そこには、明治から大正デモクラシーに渡って、富国強兵の下で欧米文化が急速に流れ込んだために、日本語の伝統が急速に失われ、口語体が欧文かぶれになっていった様子がうかがえる。やたらと人称代名詞を使ったり、未来形と過去形をしつこく使ったりすると、古来の日本語の性質からひどく逸脱する。もともと日本語は曖昧な性格があり、法律の条文などに適さない側面がある。単一民族という特徴から暗黙に通じる認識なるものがあるのかもしれない。だから、多様な解釈の入り込む余地を与え、言葉遊びなどで見られる創造に富んだ芸術性が現れるとも言えるのだが。
厳密性という意味では、欧文の方が優れているのだろう。西洋哲学が厳密性と論理で組み立てるのに対して、日本風哲学には、自然的でどこか風狂的なところがある。日本人が、論理的思考が弱いと言われるのも、日本語ベースで思考するからかもしれない。そこで、和文と欧文が融合して、合理的に現代語が形成された結果が、現在の口語体ということになる。いまや伝統的日本語の原型がどこまで残っているのかも、現代人には分からないのだろう。ちなみに、アル中ハイマーには、西洋かぶれの翻訳調なのか、純粋な日本語なのかも区別できない。
森鴎外の随筆集を読んだ時も、前期の作品よりも後期の作品の方が、はるかに読みやすかった。現代調の口語体を提供できたのは、明治の文豪たちの貢献が大きい。50年前の文献を読むだけでも、旧仮名使いや旧漢字で悩まされることがある。これほど、古文と現代語で変化のある国語も珍しいのかもしれない。
ところで、本書の例文には、反軍的なものが目立つ。これは反社会思想の表れであろうか?それとも、口語体の未熟を、文明の成熟度と重ねているのだろうか?本書は、文章批判をしながら、文明批判をしているかのようでもある。

なんのために文章を書くのか?それは誰かに読ませるためであろう。その意味で、文章を書くことは公的な行為となる。サイトやブログにも運営者の公的な立場がある。とはいっても、それほど堅苦しく構えては文章も書き辛い。本ブログが対象とする読者は、十年後の自分である。当時の考え方を振り返るために。その意味で、極めて私的な行為だと捉えている。だが、十年後の自分は人格も変わっているだろうし、別人と捉えることもできるわけで、やはり公的な立場で書いているのかもしれん。少々大袈裟で芝居かかったところもあるのだから...
本書は優れた文章を書くための呪文を授けてくれる。「名文を読め!」、「ちょっと気取って書け!」、「馴染みの語彙を選べ!」と...中でも、文章上達の極意は、ただ一つ「名文を読め!」に尽きるという。そして、常に文章は伝統によって学び、個性の才能とは、伝統を学ぶ学び方の才能にほかならないという。どんな名文も、ことごとく過去の言葉づかいの合成であり、最良の様式が名文として収まると。思いもしない事を書けば、たちまち文章に力を失う。だからといって、思ったとおりに書けばいいというわけでもない。本書は文章の型に則ってなければならないと助言してくれるが、文法の勉強をしたことがないアル中ハイマーには辛い。言語と精神を直結させる文章を書くことは難しいが、自由な精神が介在しなければ創造性も見出せないだろう。文章を書くことは、言葉との戯れ、あるいは言葉の遊びとでも言おうか。文章とは、所詮言葉の羅列であるが、それは伝達性と論理性によって支えられる。
「つまり文才とはなんのことはない、言葉、言葉、言葉の取り合わせの才能にほかならないし、言葉の綾とは実は数多くの語の関係の巧妙適切な設定の仕方だといふことになる。」
文章で論理性を記述することは難しい。そこには言葉の綾が絡み、多くの解釈を生む。これこそが文学の醍醐味なのだろう。
「文章の調子にとつては個人個人の生理や体質よりももつとずつと大切なものがある。それは人間の思考といふ普遍的なもので、その普遍的なものに合致するやうに言葉をつらねるからこそ、文章は他人に理解してもらへ、つまり伝達が可能になるのである。」
本書は、言葉は語ることがある時に力強く流れるという。これも精神と文章の自然な関係というわけか。逆に言えば、書くに値するものがなければ、書くな!というわけか。

1. 谷崎版「文章読本」批評
本書は、谷崎版を絶賛しながらも、谷崎氏の論旨にことごとく同意するものではないという。それは、しばしば巨匠に見られる危険な野望や無謀な野心が表れ、浅はかな了見や用語の誤りもあるという。だが、そうした弱点も、うっかりと読み飛ばしてしまうほど巧みに演出されているらしい。これぞ文章の達人!というわけか。ほんの少し見せる弱点がむしろ現代日本語の課題を浮き彫りにし、安全な入門書というよりは危険性を宣言したものだという。
更に、谷崎版は少々異質で、自己批判の性格を帯びているそうな。谷崎氏の最大の過ちは、「文法的に正確なのが、必ずしも名文ではない、だから、文法に囚はれるな」と強調しながら、文法とは、日本語のことではなく英文法のことを指しているという。これは実にありがたい言葉であるが、極端な欧文脈の文章を書いてはならないと教えているのだそうな。英文直訳風に主語を置くな!英文直訳風に時制を用いるな!などというのは、実は自己批判であり、谷崎氏自身の文体の危機と、現代日本語の危機を重なて論じているということらしい。それでも、丸谷氏は、谷崎氏が欧文脈で書き続けたことを咎めてはいない。むしろ、その矛盾に生きたことこそ、偉大であると評している。日本語体の保守派と革新派の中にあって、谷崎氏はもっとも現実的に生きた小説家の一人だという。現実的な風俗に接してこそ、庶民層を鋭く抉る小説らしい小説が書けるというわけか。

2. 名文とは
本書は、どんなに美辞麗句を並べ立て、歯切れがよくても、伝達の機能を疎かにする文章は駄文以下だという。ここで言う伝達には、精神に訴えるという意味が含まれているようだ。
ところで、名文の定義は難しい。
「有名なのが名文か。さうではない。君が読んで感心すればそれが名文である。たとへどのやうに世評が高く、文学史で褒められてゐようと、教科書に載ってゐようと、君が詰まらぬと思つたものは駄文にすぎない。」
読者が敬服し陶酔できれば、それが名文というわけか。とはいっても、名文を陶酔できるだけの精神に到達していなければ認識することすらできないが...
更に、「文章の呼吸」という捉えどころのない言葉を登場させる。辞書や教科書といった類いは、「文章の呼吸」を教えてくれないという。この言葉を説明するのは難しいが、口調や調子、あるいはメリハリとかいうものでは、いまいち狭すぎる感がある。それらのものの総体に論理とレタリックとを重ねたようなものと形容したところで、まだ物足りないが、「生気を帯びた実体」といった感じで説明される。いずれにせよ、その感覚は体で覚えるしかなさそうだ。名文には、作者の精神の充実を感じさせる。これが文章の本質なのかもしれない。
ただおもしろいことに、「名文を読め!」と言うからには「駄文を読むな!」と言いたくても言わない!と宣言している。駄文を判別する認識能力も、名文を嗅ぎ分ける能力と言っているのだろうか?そもそも読んでみないと、名文か駄文かも判断できないのだが...

3. 文章の論理性
文章を説得力のあるものにする要因として論理性がある。名文とは、論理性を前提にしながら、精神を覆いかぶせるような存在といったところだろうか。文章を書く時、論理的思考を働かせる。だが、書き出されたものが、必ずしも論理的とは言えない。わざと論理を壊すような、論理を絶妙に壊すための論理があるとでも言おうか。文学作品には、複雑なものを整然とした論理で語って頭に入りやすいものもあれば、単純なものに無駄を混入させてわざと理解し辛くするものもある。ストレートな表現で情熱的に語ったり、奥歯に物がはさまったように回りくどかったり、はたまた、ニヤけるようなユーモアで悪戯のような趣があったりと、芸術家たちは様々な趣向(酒肴)で仕掛けてくる。名文には、形式的な姿を見せてくれない。結局、論理と精神の按配は、芸術家のセンスに委ねられる。
ちなみに、著者の代表作「笹まくら」を読んだ時は、その文章構成に驚嘆した。それは、戦時中と戦後を何度も自在に往来する時系列の流れである。軍隊からの逃亡生活と、居場所のない戦後社会を対比しながら、本名と偽名が往来する。それも、なんの前触れもなく、突然瞬間移動しやがる。まさしく酔っ払いが気持ち良く時空を散歩するかのごとく。ここにも一種の論理性があるから、突然の時系列の変化にも違和感を感じることがないのだろう。

4. 言葉の伝統
文学作品は、文章を後世に残すことを視野に入れるという。となれば、新語を使うにも注意がいる。文学では、古くから伝わって、現在でも使われる語彙を選ぶのが有効であるという。ただ、どの時代にも流行語がある。言葉は社会環境に密着するので、時代の変化によって言葉の意味が微妙に変化していくのも自然であろう。人間が精神を獲得した時点で、言葉に対する恣意性を妨げることもできまい。歴史は劣悪な言葉を淘汰されるだろうが、残ったものがすべて上等とも言えない。たとえ優れた言葉であっても、ドサクサに紛れて葬られることもあろう。おまけに、カタカナで表される日本語英語のようなものが続々と誕生する。古い言葉だけでは、すぐに表現の限界に達する。新語と伝統語の混在、この按配にも作家の力量が現れる。
言語の伝統を引き継ぐ役割を担うものといえば、国語辞典がある。言語の世界は、辞典編纂者である国語学者の主観に委ねられるとも言える。だが、辞典が、柔軟性を硬直させ言葉の成長を妨げることもあろう。辞典で覚えただけの言葉では、生きた文章は書けまい。いつの時代でも、言葉の乱れを社会の乱れと重ねながら嘆く評論家がいる。
「言葉はもともと歴史的な存在であり、過去によつて刻印を打たれることではじめて機能が成立するものなのだから、然るべく言葉を選ぶには、その語の由来来歴から現代との関係に至るまでの総体をしつかりと感じ取ってゐなければならない」
本書は、言葉は意味を暗記するという知識の問題ではなく、伝統の感覚を身につけることが最高の教養だと説く。そして、伝統の感覚が欠落した名文家などあり得ないという。言葉から感じ取る幅が広ければ語義に詳しく、感じ取る度合が深ければ語感が鋭いというわけか。

5. イメージと論理
日本語には、漢字、平仮名、片仮名の様式があり、現代ではローマ字まで混ざる。おまけに、疑問符や感嘆符、顔文字までも。これほど、うまい具合に融合した文字文化を持つ国も珍しいだろう。
いつも悩ましいのが、漢字で表現するか、平仮名で表現するか、はたまた片仮名で表現するかである。漢字は要点を短く表現でき、仮名は読むリズムを与えるところがある。漢字には、知識に溢れ圧迫感を与えるようなものがあり、平仮名の丸っこい感じが、なんとなく安心感を与える。明治の文豪には、平仮名だけで表現して、わざわざ読み辛くするものも見かける。本書は、こうした平仮名の手法に、すらすら読めないところから「盲人の訥々たる語り口をぢかに聞くような気がする」と表現している。なんとなくこのフレーズには座布団一枚差し上げたい。
また、句読点の入れる箇所にも、しばしば悩まされる。それも、確立された様式がないからであろう。わざわざ読点を用いないような作品もあるから驚きだ。これは嫌がらせか?
本書は、文章には、論理も大切だが、いかに光景をイメージできるかが重要だという。現在では、webサイトを眺めているとレタリング効果が大きいことが分かる。タイトルを工夫するだけでも惹き付けるものがある。書き出しで、前景と後景のイメージを存分に表現できれば、それだけで世界に引き込むことができる。バーで飲む酒と、自宅で飲む酒の違いで、空間イメージがより一層五感を刺激するような...文章にそうした舞台設定のような効果がほしいが、こうしたセンスの持ち主は、羨ましいとしか言いようがない。
レタリング効果にしても、肝心なのはそこに潜む論理であろう。比喩的な表現を使ってイメージ効果を上げることができても、あるいは、情景の描写で色彩感覚や音調を用いても、優れた論理が根底になければ色褪せる。だからといって、論理だけの文章では味気がない。イメージは、論理との兼ね合いが絶妙な時に効果を発揮するのだろう。
本書は、近代文学ではイメージを軽視する傾向があると指摘している。政治演説にしても、社説にしても、色彩と綾に乏しく、人の心を酔わせることが滅多にないのは、イメージを軽視していることにあると。この時代に論理的な文章が急激に増加したのも、西洋文化の影響だろうか?イメージは、論理的とは言いにくいが、非論理的とも言えまい。具体性と漠然性の按配という意味では、イメージにも美的論理のようなものがありそうだ。

6. 形式化への批判
文章を追うと、どうしてもシーケンシャルに読みがちになる。そこで、緒論、本論、結論といった順番で記述することになる。学校教育では、起承転結なんて作法を習う。だが、本書は、形式的作法に疑問を投げかける。いや、むしろ好まないと言っている。確かに、文章の順を追って、それで理解できれば楽である。だが、芸術作品は、立体的に読まないと、解釈の難しいものが多い。というより、文章という手段で精神宇宙のようなものを表現するのが文学作品の意図するところであって、立体的な感覚を必要としない芸術なんてあり得ないのかもしれない。その立体感にも、様々な様式が見られる。前章の言い回しがそのまま結論でオチとして繋がったり、序章や本論などがバラバラに配置されていても絶妙にバランスされた立体的な体系を成していたり、いきなり結論を持ちかけたり、突然議論がさまよったりと。議論文であっても叙述的な書き出しに美を感じることもある。
となれば、分かりやすく書くことが一概にいいとも言えまい。わざと読み辛くしたり、難しく書くことによって、読者の思考を呼び込むこともできる。哲学的な書の多くは、こうした手法を多く用いているような気がする。結論をちりばめることによって、わざと意図をぼかしたり、奥深い解釈を誘うように、わざと矛盾するように構成したりと。そして、読者に立体的な感覚がなければ、作品を理解することも難しいということになる。こうした技法は、作家の絶妙なバランス感覚によって実現できるものであり、素人には手も足も出ない領域にある。
本書は、立体的な仕掛けだけではなく、「螺旋階段のような曲がりくねった調子」だと言っている。もちろん、起承転結で形式ばっていても、見事な芸術性を見せてくれる例もある。形式に無理やりはめ込んでしまえば、それなりの文章にはなるだろう。どんな仕事でも、形式化する思惑の一つに、能力差を目立たなくし最低限の品質を保つというのがある。だが、芸術性という意味では、むしろ形式化は妨げとなりそうだ。

7. ニーチェと外国語
「ニーチェは、文筆家は外国語を学んではいけない、母国語の感覚が鈍くなるからと教へたといふ。例によって厭になるくらゐ鋭い意見だ -- 別に従ふ必要はないし、従はないほうがいいけれども。」
ニーチェの念頭にあったのは多分フランス語で、ギリシャ語やラテン語は外国語に入っていないだろうという。そして、日本人には、ギリシャ・ラテン語が漢文に当たるぐらいに考えればいいという。
そういえば、比較言語学では、ヨーロッパの古典語は、ギリシャ語とラテン語、英語とドイツ語、ロシア語とアイルランド語といった具合に、先祖の分類がなされると聞いたことがある。英語とドイツ語には似たような語彙を見つけることができるし、ギリシャ語やラテン語に由来する語彙も多い。それに、フランス語やスペイン語やイタリア語やルーマニア語あたりも、ラテン語系じゃなかったっけか?ニーチェには、フランス文化が異質という感覚でもあるのか?いや!おフランスへの嫌味か?いずれにせよ、天才たちの抽象感覚を、凡庸な、いや凡庸未満の酔っ払いに分かるはずもない。

2010-08-01

"アナバシス" クセノポン 著

「アナバシス」は、ペロポネソス戦争後の歴史叙述として、なんとなく興味を持っていた。著者クセノポンはソクラテスの弟子であるが、哲学者ではなく軍人である。
ちなみに、クセノポンは別のペンネームを使っていたという説もあるらしい。

時代は、紀元前4世紀。本書は、王位奪還を目指すペルシャ王子キュロスに味方したギリシャ軍が、ペルシャへ攻め上り、キュロスの死でバビロンを目前に敵中に取り残され、敵中突破してギリシャへ帰還するまでの従軍記録である。これは、著者自身の指揮官としての英雄伝と言った方がいいかもしれない。ただ、おもしろいことにクセノポンが書いたとされながら、著者自身を三人称で扱っている。第三者の考察として信憑性を強調しようとしたのだろうか?いや、そんな野心は感じられない。小アジアからアルバニアの山々を越えて撤退しなければならないギリシャ軍の虚しさを伝えながら、自分の立場を理想化しているわけではない。蛮族の方が正しいことも、他国の領土を略奪者の群れが進軍していることも、十分に心得ているかのように映る。そこには、植民地主義的な偽善をまったく感じさせない。淡々と略奪や侵害を描写しているだけだ。
また、ギリシャ軍が様々な兵科の使い方を敵軍から学んでいく様子もうかがえる。お馴染みの重装歩兵を主力とするギリシャ軍が、軽装備の投石兵や少数ながらも騎兵隊を備えていく。これには、後の戦術としても参考にできただろう。なるほど、アレキサンダー大王が愛読したと言われるわけだ。
本書には、たびたび兵士の説得や交渉における弁論が組み込まれる。論理的な思考を根幹とした民主的議論は、いかにもギリシャらしい。これには、歴史家トゥキュディデスの影を感じる。
作品の特徴としては、文章の綴り方に注目したい。あまりに淡々と綴られる様は、文章が絶えず変化し、要点を見出す箇所を見つけるのが難しい。目に見えるような細部や動作が次々と描写され、その移り変わりの早さが、読み終えた時に何を読んだのか忘れさせるような、心地よい疲労感を残す。これは、引用の難しい作品である。悪く言えば、ダラダラとしたアル中ハイマーの文章にも似ているのだが、ダイナミックな点で大きく違う。回想的でありながら臨場感を与えるところに、文学作品となりうるかの境目がありそうだ。

「アナバシス」という言葉には、「上り」という意味があるらしい。また、山登りや乗馬や、河を遡行するという時にも使われるそうな。本書では、弟キュロスが兄アルタクセルクセス2世から王位を奪還すること、あるいは、地方からバビロンへ攻め上ることを意味しているようだ。帰路にあたるところは、むしろ「下り」であるが、雪深いアルメニア山中の難行軍や、ティグリス(チグリス)河の遡行などで苦難を乗り越えるという意味も込められるのだろう。つまり、上りの「アナバシス」と下りの「カタバシス」を合わせ持った意味で使われているのかもしれない。
ところで、本書のお陰で新たに二つの疑問がわいてきた。一つは、ペルシャ王子キュロスとギリシャの間で親交があったこと、二つは、指揮官として従軍したソクラテスの死に関する記述である。これらには、改めて歴史の解釈の難しさを感じる。ソクラテスに関する記述はほんの一瞬で終わるのだが、彼自身が著述を残さなかったために歴史的には貴重なものらしい。

1. バビロンへ進軍(上り)
紀元前401年、アテナイがペロポネソス戦争で敗れた3年後。ペルシャ王ダレイオス2世には二子がいた。兄アルタクセルクセスと弟キュロス。ダレイオスは、自分の死期を悟ると二人を呼び寄せた。アルタクセルクセスはその場に居合わせたが、キュロスは西方の統治領であるカストロス平原(リュディアのサルディス付近の地名らしい)から駆けつける。そのまま、アルタクセルクセスが王位を継ぐ。
ここで、本書のキーとなるティッサペルネスという人物が登場する。キュロスはティッサペルネスを味方だと信じていたが、ティッサペルネスはアルタクセルクセスにキュロスの謀反の志を讒訴する。そして、キュロスびいきの母の嘆願により、特赦を乞い無事統治領へ返される。キュロスは王位を奪還すべく、ギリシャ軍や異民族を集結させる。ギリシャ軍の指揮官の一人に、あの有名な哲学者ソクラテスがいた。
この時、ティッサペルネスを排除するという口実を持ち出して、ペルシャ王を討伐する事は誰にも知らされていない。そして、サルディスからエウプラテス(ユーフラテス)河沿いにバビロンへと行軍する。バビロンへ近づくと、実はペルシャ王を討伐するのではないか、という噂が広まる。ギリシャ軍の中には偉大なペルシャ王への反抗を拒む者も少なくない。キュロスは、王位奪還の意志を表明して、給料の増額などで混成部隊を説得して進軍する。だが、キュロスはバビロンを目前にして戦死する。
ちなみに、本書ではティッサペルネスを陰謀の首謀者としているが、プルタルコスによると、キュロス本人が謀反を計画したという説もあるようだ。となれば、キュロスがティッサペルネスを味方だと信じていたというのは怪しいかもしれない。

2. 逃亡劇(下り)
そもそもペルシャ王を攻めるなどと大それたことを考えていなかったギリシャ軍は、ペルシャ軍と休戦協定を結ぶ。だが、これは偽りの協定で見事に陰謀に嵌ってしまう。ティッサペルネスは、ギリシャ軍の指揮官たちを自分の陣営に招き入れて、そのまま捕らられて処刑する。その中にソクラテスがいた。ギリシャ軍は、指揮官たちが全員捕らえられて指揮機能を失う。
ここから、指揮官の後任に選ばれたクセノポンが登場し、ギリシャ軍の逃亡劇が始まる。彼は、物資の欠乏したギリシャ軍を率いて、遠回りのティグリス(チグリス)河沿いを北上する。ティグリス河沿いには、物資の豊富な村が多いからである。そして、困難なアルメニア山中を抜けて、ティグリス河の遡行など、幾多の苦難を乗り越え故国を目指す。
黒海へ到達すると、そこから西方へ進路をとるわけだが、少し様相が変わる。クセノポンは、黒海沿岸と親交を深め、軍隊が定住できるような町を建設すれば、重要拠点にできると考える。シノペとヘラクレイアの間で海上交通網を構築すれば、後のペルシャ対策にも利用できるというわけだ。ちなみに、シノペは、おいらの好きなディオゲネスが通貨変造事件で追放になったとされる町である。
黒海で船団が準備できれば、ギリシャへの帰路もそう遠くはない。兵士たちも故郷への思いを募らせる。ヘラクレアまでくれば、ギリシャの入口ビザンチオン(現イスタンブール)まであとわずか。クセノポンは、ギリシャ人が友好的であると印象付けるためにも掠奪を禁止する。とはいっても、物資の不足した大軍が宿営するとなると、不埒な輩もいて、掠奪や土地を荒らしたりと揉め事が起こる。おまけに、逃亡中ともなれば、兵士への給料も滞る。現地を征服してしまえば、兵士への給料は一発で解決するが、そうもいかない。命の確保が保証されれば、次は金銭的な欲望へと目移りするのが人間の性というものか...ギリシャ軍が敵中を横断した距離は6000キロに及び、要した年月は上りと下りで一年と三ヶ月だったという。

3. キュロスとギリシャの関係(疑問1)
ギリシャ人の祖先は、ペルシャ王クセルクセスの侵攻を陸海軍ともに打ち破った経緯がある。その頃からギリシャとペルシャには深い怨恨があったことは推察できる。となれば、ギリシャ軍がペルシャ王子キュロスに味方することは奇妙に思える。にもかかわらず、本書はペルシャ王子キュロスの人間的魅力が強調される。キュロスは、以降のペルシア人の中でも最も王の風格を具え、統治者に相応しい人物だったと...幼少の頃から兄弟や子弟と共に教育されるが、すべての点で最も優れていて、最も謙虚で、馬術や武技にも優れていたという。条約や協定では、二枚舌を使うことを嫌い、諸都市からも信頼されていたという。他国であっても、キュロスほど多くの人々に愛された人物はいないとまで褒めちぎる。まるで、多くの都市がキュロスに味方するのも当然と言わんばかりに。普通に考えれば、正統継承者に従うところであろう。血筋からしても兄が継承者となるのが自然である。だが、ペルシャ王側からキュロスの陣営に走った者は多数に上り、キュロス側を去ったものは一人もいなかったと記している。ただ、キュロスは、スパルタ側に肩入れして、アテナイとの対立に積極的に協力した人物と目されていたとも記される。つまり、キュロスはアテナイの天敵とも言える。
当時のアテナイがペロポネソス戦争の敗戦の後遺症を負っていたのは想像に易い。それは、勝利したスパルタ側も含めて全ギリシャに戦争の傷を残していただろう。ギリシャ全土をもってしても、ペルシャの命令に逆らう国力はなかっただろう。言い換えれば、ペルシャの後継者争いが、ギリシャ本土を安泰にしたとも言えるかもしれない。キュロスは、父ダレイオス王から、リュディア、大プリュギア、カッパドキアの総督を任せられ、同時にカストロス平原の総司令官に任命されていた。ギリシャに近い領土において、キュロスとそれなりに交流があったことも想像できるのだが...
ギリシャ軍はキュロスの説得で、ペルシャ王を攻めることに一旦は合意している。しかし、キュロスが死ぬと、ペルシャ王へ逆らう気はないと、あっさりと休戦協定に応じている。こうしたことを踏まえて、キュロスの人物像を美化した記述は、ペルシャ王子キュロスに味方したことへの言い訳にも思える。つまり、この書は、ギリシャ民衆に向かっての弁解の書と考えるのは、行き過ぎた解釈であろうか?

4. ソクラテスの死(疑問2)
ソクラテスは、自分の考えを著述で残さなかったために、その言行を正確に伝えるものがないと言われる。プラトンは、ソクラテスの言葉から自分の考えを著述するが、クセノポンはそのまま著述したとされるので、ソクラテスの言行が正確に再現されるとも言われるらしい。
しかし、本書は、あまりにもあっさりと記述されるところに、むしろ混乱しそうな気がする。クセノポンが従軍したいのは、指揮官や兵士としてではなく、単に古い友人にキュロスに紹介してもらうためだという。ソクラテスは、デルポイへ赴いて神意をうかがうように忠告する。ソクラテスは、クセノポンの従軍に反対していたようだ。だが、神託があったというなら否定することもできない。
クセノポンは、プラトンと同年輩と推測されるらしいが、その交友関係は分からない。いずれにせよ、両者の人生観にソクラテスが大きな影響を与えたのは間違いないだろう。
ところで、ソクラテスの死については、矛盾しているような気がしてならない。プラトン著「ソクラテスの弁明」によると、国家の信じる神々を無視して新たな信仰を持ち出し、青年を腐敗させた罪で死刑宣告を受けたことになっている。つまり、ギリシャ人に裁かれて処刑されたのかと。しかし、本物語では、指揮官として従軍したソクラテスは、ティッサペルネスに捕まって処刑されたことになっている。享年30代半ば。捕まった指揮官全員が処刑されたかは定かではないが、ペルシャ王への反逆罪としてペルシャ側に裁かれたような印象を受ける。無理やり辻褄を合わせるならば、後にギリシャへ帰還できたとして、ペロポネソス戦争の敗北や、その後のペルシャに敗北したことに対して、軍人として戦争責任を負ったと解釈することもできるかもしれない。
プラトンのソクラテス伝は、彼を崇めるための行き過ぎた創作なのか?確かに、ソクラテス伝については、クセノポンは哲学者として理解が浅いと評される場合もあれば、プラトンは自分の考えが強すぎると評される場合もある。偉大な哲学者の死に相応しいという意味では、プラトン説に軍配が上がるのだろうが...

2010-07-25

"民間防衛" スイス政府 編

本屋を散歩していると、ちょいと風変わりな本を見つけた。編著がスイス政府???
スイス政府が全家庭に一冊ずつ配ったものだそうな。そこには、美しいアルプスの穏やかな農村イメージとは程遠い、スイス国民の自由と平和への執念とも言うべき姿がある。スイス国家の歴史的背景を踏まえれば充分納得できるが、日本人にとっては衝撃的であろう。それは、日本社会でよく見かける非武装思想の平和論とは、真逆な発想だからである。単なるスローガンで空想的平和主義を叫ぶのとは大違いで、民主国家が自由と平和を尊重するには、国民一人一人に勇気と覚悟が必要だと訴えている。国土防衛に専念するあまりに少々過激なところもあるが、決して国粋主義を煽ろうとするものではない。「民間防衛」と名付けてはいるが、国防は言うまでもなく、テロ、自然災害、放射能汚染など、日常生活で瀕するあらゆる危機から身を守るための指針が記される。
「われわれは、脅威に、いま、直面しているわけではありません。この本は危急を告げるものではありません。しかしながら、国民に対して、責任を持つ政府当局の義務は、最悪の事態を予測し、準備することです。軍は、背後の国民の士気がぐらついては頑張ることができません。」
このフレーズは、「十年先の公約を掲げてどうする?」といった、どこぞの先見性のない言い分とは根本的に違う。この書には、国家が存続する意味とは何か?それは、基本的人権という人間の普遍原理を前提とした価値観と言おうか、そういうものを問い掛けているような気がする。このスイス政府の英断には感服せざるを得ない。彼らの独立精神の根源にウィリアム・テル伝説があるのかは知らん。
ちなみに、イギリスの民間防衛研究所の機関紙は、本書を次のように評したという。
「第三次世界大戦が勃発しても生き残る国民はスイスだけであろうし、彼らはまたそれに値する。」

本書を読めば、ぬるま湯の平和論がくすぶる日本社会では、即刻スイスを見習い中立を宣言しろ!などという意見が聞こえてきそうだ。だが、他国の猿真似をしたところで、歴史的な経験から育まれた国民意識と比べるべくもない。それは政府と国民の信頼関係が前提される。つまり、国家をうまく機能させるために「良心の自由の尊重」という基本精神に則っとられる。
対して、日本政府にどれほどの信頼が置けるのか?拉致問題にしても、数万人規模の被害者が存在すれば、さすがに政府も重い腰を上げるかもしれないが、犠牲者が少数ならば基本的人権すら放棄することを認識させられた。おまけに、政府はその国と国交正常化を求める。民主国家が独裁国家を容認できるはずもなかろう。長期間放置してきた結果が今である。この点では、スイス国民は祖先たちに恵まれたと言えるかもしれない。国際的に中立国として認められてきたのは、過去の戦争において中立を維持してきた覚悟への恩賞と言っていい。
はたして、現在の日本国民がその祖先になり得るのか?スイスを見習うのであれば、国家百年計画のビジョンを打ち出す必要があろう。しかし、日本は、どの戦争においても、優勢な方に与するという発想で生きてきた。第二次大戦ではナチスと組んだ。冷戦構造の中でアメリカに依存してきたのは、歴史の流れからすると仕方がない。お陰で経済的に豊かな国になった。日本には、どこかの陣営に所属していないと不安になる性格が伝統的に強いのかもしれない。それが島国だからか?組織でも個人でもその傾向が強い。国家は歴史を背負いながら生きている。理想論だけですぐに方針転換はできない。
本書は、スイス経済が海外貿易と外国人労働者に依存していることを認めている。食糧自給も外国に依存している。国際的緊張が発生すれば、すぐに労働力不足や食糧不足に陥る可能性をを想定している。その上で、突然、国家的緊張が生じたとしても、国民が動じないような方策を具体的に示している。最も訴えているものは、国家の安全保障は国民意識に左右されるということであろう。自由と独立は断じて与えられるものではなく、絶えず守らなければならない権利だという。このあたりの思考の違いが、日本では真の意味での改革は、自力ではできないなどと揶揄されるのだろう。根源的な哲学的思考を疎かにすれば、どんなに巧みな手段を持ち出したところで、まやかしで終わる。基本的人権に対する認識の甘さでは、反省させられる思いである。

スイスは、ヨーロッパの中央に位置し、大国に挟まれながら民族間の侵入や征服を経験してきた国である。永世中立国として200年近くの伝統があるが、そこに至るまでの苦難は日本人には想像し難いものがある。フランス王国からの圧力、神聖ローマ帝国から独立したとはいえハプスブルク家からの圧力、そして第二次大戦では中立を宣言したばかりに強国に封鎖される経験をした。一部の領空権が奪われ、爆撃の経験もした。しかし、あのヒトラーにしてスイス侵攻を断念させた決意は、スイス国民の誇りとして根付いているようだ。彼らは、具体的な危機に直面してから準備するのでは遅すぎるということを経験的に知っているのだろう。「やむにやまれぬ」と言って戦争に突入した国家とは大違いだ。自由と平和を望む者は、その努力を惜しむな!というわけか。
また、中立であるがために、多くの難民が洪水のように押し寄せる可能性を指摘している。人道的見地から宿泊施設や食糧を提供する義務があるが、中には監視を必要とする怪しい輩も紛れ込むだろう。難民を受け入れるには、治安維持のための警察能力が必要であると説く。人間の尊厳を守るには、美しいことばかり言っても実践できないというわけか。人間の徳が善悪の両方に存在することを、尊重しているとも言えよう。
「もしも国民が、自分の国を守るに値しないという気持ちを持っているならば、国民に対して祖国防衛の決意を要求したところで、とても無理なことは明らかである。国防とはまず精神の問題である。」
自由と人権のためでなければ、戦う理由などないというわけか。対して、日本は幸いなことに民族抗争や亡国の歴史的経験がない。せいぜい戦後に占領された時期が一瞬あるぐらいなもの。その意味で、危機感に大きな違いがあるのも当然と言えば、当然である。その分、地震などの自然災害に対する日本人の意識は、世界的にも高いと評価される。スイスでは、自然災害も国防のレベルにまで押し上げられるようだ。

どんな人間でも、目の前に危機が迫らなければ、意識は高められないだろう。常に倒産の危機を背負っている企業では、従業員たちも革新的な精神が欠けることを恐れる。失業の心配がなければ、無駄な予算を計上するのも仕方があるまい。労働組合は相変わらず高度成長期の幻想に憑かれて、派遣労働者や下請け業者を犠牲にしてまで賃上げ要求をする。大企業は、高額な企業年金に固執しながら現役労働者を犠牲にし、経営不振ともなると国の補助金を当てにする。そして、アル中ハイマーは、酒に溺れながらブツブツとグチる毎日を送る。こうしたことは、平和ボケでもなければ、成り立たない論理であろう。日本は自力で平和を勝ち取ったわけではない。だから余計に、アメリカの軍事力を後ろ盾に幻想の平和論で盛り上がるのかもしれない。平和国家であることを自慢しながら、ますます自己イメージを膨らませる。まだしも、冷戦構造では大国による圧力が暗黙の監視役となっていた。だが、現在ではテロがどこで起こるか分からない。核兵器は拡散し、偶発的に核戦争を招く可能性を拡大した。状況は過去にもまして脅威になったと言えよう。たとえ小規模な組織の紛争であっても、大規模な悲劇を招く可能性がある。脅威は戦争だけではない。むしろ経済的な人為的脅威の方が大きいかもしれない。

1. 永世中立国の民間防衛意識
永久平和が無条件に保障されるならば、なにも軍事的防衛や民間防衛の意識を高める必要はない。スイスでは、民衆が平和を望めば、それで戦争に備える義務から解放されると感じる人はいないという。他国を侵略しないことはもちろん!他国にも侵略させない!という決意が表れる。国際的に永世中立国と認められているからといって盲人であってはならないという。単に戦争を放棄したり、中立を宣言するだけでは、世界から認められるわけではない。スイス国民の祖先は、18世紀から平等と自由を訴え続けてきたという。しかし、最初から平和愛好国であったわけではなく、征服や侵略の経験もある。封建体制に反発し、連邦を構成する個人の相互尊重を与えることに苦悩してきた。こうした経験が世代間で受け継がれ、ようやく理解されて侵略戦争を放棄するに至ったという。まさしく、国家は世代間の伝統と積み重ねによって建設されるというわけか。民間防衛の意識が高まっていれば、あえて敵国を名指する必要もなければ名指しする理由もないという。
また、民主主義の真価は、絶えず必要な改革を促すことであるということが強調される。健全な民主主義を発展させるためには、建設的な反対派による批判や審査が必要だと指摘している。ここには、すべてのシステムは、欠陥と不完全性に見舞われるという前提がある。なるほど、憲法論議にしても、論理的に完璧な条文なんてあり得ないにもかかわらず、検証を怠る国とは違う。民主主義を実践するための現実的な手段である選挙制度にしても、欠陥の見直しもなされず、何十年も亡霊のようにつきまとう。一党独裁が黒幕を暗躍させ、高級官僚と癒着を深め、巨大官僚体制を築いてしまった。そして今、改革してるんだか、更に悪化してるんだか...
こうした硬直化した状況を作り出したのは、国民の責任と言われているようで頭が痛い。民主主義に対する意識は、百年ぐらいの差を感じる。

2. 自由と寛容の精神
ヨーロッパといえば、どこの国でも宗教戦争の余韻が残る。本書は、宗教や信仰に対する寛容さを強調し、キリスト教上の異説も良心の自由の証拠として大目に見ようと語る。そして、カトリック司教と新教の牧師との関係も良好で、反ユダヤ主義も過去のものとなり、いまや宗教上の闘争はなくなったという。自由主義が宗教に無関心にさせることも認めている。現代的な合理的感覚が、信仰心を弱めたのも事実である。宗教に頼らなくても、隣人愛と公民としての義務は実践できるだろう。ただし、他人に対する良心の自由が侵害された時は、寛容さを享受できないとしている。
近代戦ともなれば、軍事行動だけではなく、心理的に揺さぶりをかけてくる。近年の民族紛争では、世界世論を味方に付けようとする巧みなメディア戦争の色が濃い。どこの国にも売国行為はあるもので、それにジャーナリストや識者たち自身が気づかないことも多い。情報社会では、マスコミの扇動に負けずに自分で考えることの難しさがある。本書は、自ら守る決意を持っていれば、扇動に惑わされることはないと呼びかける。

3. 最悪の事態
危機に備えて、家庭における生活用品や食糧の貯蔵のやり方など、細々と記される。地域防災システムでは、自警団、国防軍の地域防衛隊、避難所の建設といった防災組織が徹底される。第二次大戦では一時的に避難所へ退避すればよかったが、核被害ともなれば長期間避難所で暮らさなければならない。その心得や物資の確保、あるいは防災組織としての地方自治体の役割などが解説される。スイスには、充分に整備された監視警報組織があるという。人口が少ないことも、目が届きやすい利点だ。
本書には、たとえ核攻撃であっても自国で身が守れる!という自信の裏付けのようなものを感じる。原爆に対しては、熱線、火傷、火災、圧力波、放射線などの対処方法までも細々と記される。その救助姿勢には、応急手当が生死を決めることが徹底される。生物兵器や化学兵器への対処、あるいは防災活動の方法などが、すべての避難所建設と同期している。
ただ、そこまで疑い深くなるのはいかがなものかと思わせる箇所もある。スイスが戦場となり、落下傘部隊が随所に降下してくれば、裏切り者が出る可能性まで言及している。
また、国土が占領下に置かれたことまで想定している。レジスタンスの意義まで唱えているところは、少々行き過ぎを感じないわけではない。大戦の中を中立国として生き残ってきた経験がそうさせているのだろう。

2010-07-18

"国家学のすすめ" 坂本多加雄 著

一般的に、国家の存在が民衆の心の拠り所となっているのは確かであろう。ごく稀に、国家という枠組みから外れた人たちもいるわけだが...考えてみれば、この世に生を受けて自動的に所属させられるというのも、奇跡的な仕組みのような気がする。しかも、運命的に出会った国家から無条件に納税を義務付けられるとは...なんとなく理不尽を感じないわけではない。そうした当たり前という意識が、政府の仕事に対して受動的にさせるのかもしれない。
本書は国家学の必要性を唱えながら、日常意識としての国家や国民の意義を問い直そうとする。それは、国家学を体系的に語ろうとするものではない。主権国家としての自立と、それなりの民衆の覚悟を促している。
「国家とは、私たちの外側にあって、他の誰かが適当に面倒を見てくれているような存在ではなく、私たち一人一人の心のなかの問題である。」
ところで、国家学という言葉を持ち出すとちょっと構えてしまう。ナショナリズム的なニュアンスがあるからか?戦時中、軍国主義のナショナリズムと国家とが混同されたために、国家学という言葉を遠ざけてきたのかもしれない。日本の教育では自国の国旗や国歌を尊重することを教えない。それが教育方針ならば仕方がないが、そのお陰で外国で国旗掲揚の際に日本人が無礼な態度をとったとして物議を醸すのも頭が痛い。
政治学は、肝心な「国家とは何か?」という基本的な議論を疎かにして、法律や制度といった政治手法に目が奪われる。経済学は、肝心な価値判断を疎かにして、もっぱら流通量に目が奪われる。本書は、けしてナショナリズムを高揚しようとするものではない。「国家とは何か?」あるいは「国民とは何か?」という素朴な疑問に立ち返ろうとするものである。

人間社会とはおもしろいもので、「民族の誇り」を掲げた独裁者が異文化を迫害する一方で、「世界は一つ」と提唱する平和主義者が多数決的な価値観を押し付ける風潮がある。すべて平等という人権だけで共存を唱えても、往々にして文化や生活様式を差別してしまう。マスコミにも独特な価値観があって、その論調から外れた人々は、あたかも社会の害虫のように叩かれる。まるで人間の多様性を否定するかのように...グローバリズムの流れから、国家の枠組みを排除しようとする理想平和主義を唱える人も少なくない。しかし、現実には経済人的な独特の価値観が優勢のようだ。BIS規制にしても、品質管理の国際基準であるISOにしても、国際会計基準にしても、産業界の利害関係から生じた。かつて軍事力によって植民地化されたが、現在ではマネー力によって植民地化される感覚さえある。自由競争を崇めれば独占形態に行き着く。民主主義の暴走は、独裁政権と同じくらい質ちが悪いと肝に銘ずるべきであろう。
本書は、経済が意味するグローバリズムとは、物、金、人のすべてが地球上を自在に移動することを意味するという。つまり、万人が出身地によるハンディを背負わないということである。現実に、物品と貨幣に関してはグローバル化が進んでいる。だが、人は本当に自在に移動しているのか?どこの地域にも、文化や慣習や言語などの優位性がある。真の意味で自在に世界を移動できるのは、一部の才能豊かな人たちだけであろう。ほとんどの人は、日系企業や、外資系であっても日本に拠点を持つ企業など、日本分化を後ろ盾にしている。はたして、文化の多様性を無視したグローバリズムなんてものが、成り立つのだろうか?そして、本当に国家という枠組みを超えた存在というものがあり得るのだろうか?本書は、こうした疑問を投げかけているような気がする。

どんな政治形態にせよ、そこには何らかの安全保障体制がある。それは国内外の圧力に向けられる。国内では行政サービスや警察行動によって秩序が維持され、国外に対しては国防力を保持する。君主が統治した時代では、権力者の保全のために国防軍を備え、秩序を維持するための掟が存在した。民主国家では、基本的人権を守るための安全保障の機能が働かなければ、税金を納める意味を失うだろう。しかし、平和主義を唱える中には、ことなかれ主義のもとで拉致被害者を黙認してきた輩がいる。おまけに、不景気からくる愚痴からか?救出された拉致被害者が優遇され過ぎるという風潮すらある。拉致被害者たちはずーっと基本的人権を侵害されてきた。だが、この件で国家反逆罪に問われた政治家を一人も知らない。拉致問題は、まさしく「国家とは何か?」を問い直すのにちょうどよい題材であろう。
世界には、いまだに独裁形態の国家が数多くある。しかも、民主国家たる先進国は、彼らを陰ながら援助してきた歴史がある。そもそも民主国家が独裁国家を容認できるのか?相手国の民衆運動と結び付く方が現実的であろう。ところで、日本と台湾は正式な国交がないにもかかわらず、国民レベルでは良好という不思議な関係がある。政治レベルの国際関係と、国民レベルの国際関係が、これだけ乖離している例も珍しいだろう。ならば、国家とは矛盾を創出するだけの無用な産物と思われても仕方があるまい。
本書は、日本は敵対国に対して知恵と勇気を持って共存に努める心構えが必要だと語る。それは、武力衝突はあり得ないと信じるのではなく、万が一にも可能性があることを前提にすべきだということである。安全保障制度とは、こうした覚悟の上で成り立つという。これは戦争の準備ではない。ただし、戦争という最悪な状況を想定しないような呑気な政府もないだろう。東アジアに脅威を残しているのも、アメリカの戦略と考えることもできるわけだが...国家は個人以上に利己的に振舞う可能性が高く、国家間の関係は個人相互間の関係よりも不安定であるという。

1. 国家の正統性
そもそも、国家という存在が人間社会にとって必要なのか?という議論もあるだろう。レヴィ=ストロースは、その著書「悲しき熱帯」でブラジル原住民の生態系から首長の存在意義を考察していた。彼は、政治リーダは集団形成に必要という観点から存在するのではなく、むしろ集団に先立って存在するように思えると語っていた。その説は、リーダ的存在は集団社会の必然性から生じたという一般的な見解に、別の視点を与えたという意味で興味深い。実際には、どちらが先だっているというのではなく、双方にとって必然性があるのだろうが...
本書は、国家が社会の他の諸団体に優越するわけではないと指摘している。しかし、政治家や政府高官たちは、歴史的に背負ってきた権力者による抑圧的態度を継承しているように映る。社会的には、法的な制限があるにせよ、国家が暴力の独占団体ということになるのだろう。警察行為は、犯罪行為に対して、敢然と撲滅する態度を取らなければ、国民からの信頼が得られない。だが、一部の既得権益者のために制度が活用されるのであれば、まさしく国家レベルの暴力と化すであろう。
昔々、国家が民衆の抑圧機関として存在した時代があった。君主制の時代から様々な規定が設けられ、官僚機構が発達すれば、官僚統治の基盤である法律の運用は欠かせない。次に、民衆が政治に参加できる仕組みが生まれると、政治家と民衆が癒着し、民衆は国家へ無限の期待をかけるようになる。そして、国家権力を制限するための監視機構が必要となる。その前提になるのが、情報の透明化と国民意識であろうか。立憲主義が民主主義と共存する必要を感じるのは、まさしくこの点であろう。
現代の風潮は、政府は国民を監視するために存在すると誤解し、国民はあらゆる自由が保障されると誤解しているように映る。過剰な国家権力を抑止するのは、裁判所の役割ということになろうか。だとしても、もはや三権分立が機能していると信じる人も少数派であろう。国家の正当性を認めているから無条件に法律に従う。警察行動には国家権力の代行者としての信頼が前提される。
「近代国家は、治安の維持という主権の原理、基本的人権の保護のために政府機能に制限が与えられる立憲主義の原理、民衆の意向が反映されるための民主主義の原理、この三つの正当性原理によって成り立つ。」

2. 日本固有の平和主義
本書は、理想化した、いや空想化した日本の平和主義者への批判書という様相を見せる。太平洋戦争における戦死者の多くは、戦場に向かう途中で輸送船が撃沈されての海没死であったり、劣悪な補給による餓死や戦病死であったりと、武勇による華々しい死とは程遠いものだったという。生活基盤も徹底的に破壊され、敗戦の体験は戦の悲劇ではなく、人間の尊厳そのものを失うような惨めなものだったと...
日本は民族抗争や亡国の歴史的経験がない。ほんの一瞬だけアメリカ軍に占領された経験があるだけだ。正義の戦争と信じた結果が惨禍と悲劇で終わるのであれば、非条理としか言いようがない。
本書は、戦後の実存を合理的に説明しようとすれば、反省にすがるしかないのではないか、と分析している。そして、憲法九条の平和主義を擁護することで、戦後を生きるための出発点にするしかなかったと...少なくとも、太平洋戦争は間違いだったという精神に立ち返らない限り、前には進めないほど徹底的に社会が破壊されていた。ただ、明治維新以降からの戦争で、太平洋戦争だけを悪とする風潮があるのには疑問が残る。当時の国民は、太平洋戦争も含めてすべての戦争を正義であると信じていただろう。どんな戦争だって、それぞれの国で言い分があり、正義だと信じられるから残虐行為もできる。自国の戦争が不正義だと思えば、そんな行為を世論が許すわけがない。当時の日本は、それほどの立憲国家であったはず。現在では、その反動からか?国際紛争から目を背け、日本だけ平和を謳歌する風潮が蔓延する。「平和国家日本」というスローガンは、アメリカの軍事力が後ろ盾になっているだけのことで、日本が自立して平和を維持しているわけではない。にもかかわらず、日本の平和論は、平和国家であることを自慢しながら、ますます自己イメージを膨らませる。確かに、「戦争のない国」という言葉には心地良い響きがある。だが、日本だけ理想主義を信じたところで幻想でしかない。目の前で戦火と対峙する国々とは違い、空想的な思考に憑かれるのも仕方がないのかもしれないが。日本の平和論は、「世界平和」と「自国平和」を混同しているように映る。これが、戦後から育まれてきた平和ボケと言われる日本固有の平和主義ということだろうか...

3. 非武装思想
憲法九条の非武装思想は、世界が平和であるという前提から成り立つという。その通りであろう。現実に、世界各地で紛争が続き、平和なのは日本をはじめとする特定の地域だけである。そもそも世界中が平和だった時期は、原始時代にでも遡らないと見当たらない。第二次大戦後、むしろ紛争の数は増している。その流れからすると、近い将来、日本においても平和の幻想が覆されることになるかもしれない。
本書は、憲法九条は日本国憲法の原案作成者である占領軍当局の国際認識に由来すると指摘している。第二次大戦は、全体主義と民主主義の戦いだった。ただ、ソ連や中国を民主主義と呼べるかは疑問であるが。憲法前文にある「平和を愛する諸国民の公正と信義の信頼」というのは、民主主義の防衛を表しているという。つまり、「平和を愛する諸国民」というのは連合国を指しているのであって、その監視下にある日本を牽制するということらしい。その意味ではベルサイユ条約のような性格が強いのかもしれない。国連を創設したのも、枢軸国の復活を抑止するための連合国の機構であったことは想像できる。当初の国連の意義がどうであれ、現在ではその意義を多少は高めてきたのかもしれない。ただ、まともに機能しているとも思えんが...
戦後まもなく、アメリカは日本の非武装化思想を覆して、自衛隊の設置を要求した。要するに現実路線への転換である。冷戦構造において同盟国の中に完全に武力放棄した国があっては迷惑するだろう。しかも、日本は経済大国になった。無思考で金だけ出してくれる方が有難いかもしれないが...
冷戦構造が終結すると、アメリカは軍事力を後ろ盾に世界の警察官を自認してきた。そして、民主主義の旗を掲げながら、あらゆる紛争に介入してきた。その理想主義はある意味美しい。その反面、暴走とも言える戦争も多く引き起こしてきた。結局、一つの国家の意思による警察行動は国益に左右される。そこで、国連軍の役割が強調され、各国の国防軍が国連の傘下に入ることになろう。日本の国防は自衛隊が担う。となれば、今後、自衛隊の役割も世界的に拡大する方向なのだろう。しかし、日本では憲法上の解釈から、自衛隊の存在すら否定する風潮がある。基本的人権を守るという観点から、国防は政府の義務であるはず。中立や不戦という理想を掲げたところで、現実に大規模な犯罪組織もあれば、国家規模の侵略者も存在する。自衛隊すら認めない平和主義を自称する連中は、国防すら他国に委ねるということか?非武装が真の意味で平和を意味するのか?国内で警察を必要としないという論調がないのに、なぜ国防軍が必要ないという論調になるのか?どちらも、安全保障、ひいては基本的人権にかかわる問題ではないのか?自衛隊が国際的に活躍する機会を得れば、自衛官が銃撃戦で死亡する可能性も出てこよう。警察官が犯罪者の追跡中に殉職する可能性があるように。自衛隊を派遣する場合、非戦闘地域ならばOK!という理屈も奇妙である。安全ならば民間支援でええではないか。真に平和を願うならば、自国の犠牲を甘受できるかが問われるだろう。実際に政府が自衛隊へ防衛出動を発動できるのかも疑問である。
「仮に国際法上国家として認められた場合でも、その国が自主的な対応を行うだけの力量を備えていない場合は、その国は、強大な国家の様々な動きに弄ばれるだけになる。たとえば、中立を宣言しても、それに関する国際法に則した対処をしないと、各国からは中立国と見なされない。」

4. 公民としての国民
本書は国民が公民として自覚することを促している。そして、今日の政治不信の根底には、公的論理の貧困化があると指摘している。ちなみに、マックス・ヴェーバーの言葉に、「政治のために生きる人」ではなく、「政治によって生きる人」というのがあるらしい。
現実に、すべての政策や制度が利害関係だけで成り立っているわけではない。政策や制度の形成に関わる動機が私的なものであっても、それを実現するための論理は公的なものになるだろう。だが、公的な論理は、正義、公平、平等、自由、友好、人権、安定、平和といった癒し系の言葉を巧みに操り、宣伝の道具にされる。政策や制度を普及させる上で、マスコミの役割は大きいが、実際には世論操作の道具にされ、民衆は客観的に観察することが難しい。
また、国会が必ずしも公の議論の場とはなっていない。与野党が国会対策委員なるもので、談合によって議論が進められ、その結果を演じているかのように映る。ちなみに、欧米では、しばしば国会対策委員という例が、日本の民主主義の未熟さの象徴として取り上げられるらしい。ここで手腕を見せれば出世もする。いわゆる、国対族の暗躍である。長らく裏方の国対族が政府を牛耳ってきた。外国の首脳も、首相よりは黒幕と直接交渉する方が意義が大きいと考えてきた。現在はどうなんだろう?いまだに怪しい香りがプンプンするにもかかわらず、国会対策委員という形態そのものに、疑問を呈する議論をあまり聞かない。だからといって、欧米のシステムが健全というわけでもないだろうが...

5. 民族と国家の概念
他民族と接することによって、新たな価値観に目覚めることもあろう。こうした思考は、日本人が世界にどのように位置するかを確認する上でも重要である。民族という概念は厳密な定義が難しい。それでも、本書はなんとか定義してくれる。
「言語、宗教、習俗といった個別的に同定できる客観的属性に還元できるものではなく、それら諸々の要素を取り込みながら成立した共通の文化 = 生活様式を共有するところの、主観的な集団的同胞意識である」
民族的意識やアイデンティティーは、何らかの基盤がないところに突然沸いて出るような概念ではないという。そういえば、グローバリズムを煽ると、同時にナショナリズムが高揚されるという現象があるように思える。文化の破壊された歴史を持つ民族では、無理やり伝統的文化を創るケースもある。これは、民族固有の意識が消滅することへの恐れか?あるいは実存への願望か?移民を受け入れる国々では、民族間の摩擦が大きな社会問題となる。いずれ、日本も同じような経験をする時代が来よう。そうなると、日本人という民族的概念も拡大するのかもしれない。よく日本人は同胞意識が強いと言われるが、いずれ民族が共存する中で同化していくのかもしれない。だとしても、突然湧いて出る価値観ではなく、新たな日本人の民族概念が構築されるのだろう。簡単に伝統や文化的慣習を超えることはできそうにない。
本書は、異なった歴史的、地理的環境のなかに形成された外国の制度や文化の都合の良いところをつまみ食いして合成したところで、真の国家像を形成することはできないと指摘している。

2010-07-11

"悲しき熱帯(I/II)" Claude Lévi-Strauss 著

レヴィ=ストロースが亡くなったと大々的に報じられたのは、昨年の秋頃だろうか(2009年10月30日没)。彼の名は、社会学系の書ばかりでなく科学や数学の書でも時々見かけ、その都度「構造主義」という言葉に出くわし悩まされてきた。レヴィ=ストロースは構造主義の祖とされる。民俗学では、伝統的慣習や民族系統などに着目して社会構造を分析するのだろうが、一種の分析論といったところだろうか。
しかし、あらゆる事象を解析しようすれば、構成要素を抽出して構造的に分析しようと試みるであろう。そして、抽象化しながら分類したり系統立てたりするのは、古代から受け継がれる自然な方法に映る。物理学の法則を「質量主義」や「物理主義」などと呼ぶようなものか?何々主義などと高級な言葉を持ち出さなくても、レヴィ=ストロースの研究が色褪せることはない。
ちなみに、コンピュータ業界でも「構造化プログラミング」という言葉があるが、むかーし構造のないプログラムなんてあるの?と皮肉ったこともあったっけか...

本書は、ブラジル探検における調査記録である。そこには、原始的社会から眺めた文明社会への批判が込められる。とはいっても、流れるような文章に魅せられて、むしろ文学作品として楽しませてもらった。悲観主義に色彩描写や音律的表現が絶妙に絡む。痛烈な社会批判も幻想的な表現で包めば、癒しの空間を与えてくれるというわけか。訳者川田順造氏のテクかもしれない。
レヴィ=ストロースは、フランスの社会人類学者で、その名前からしてユダヤ系のようだ。ナチスから迫害された経験が、文明人に圧殺される原住民に共感したのだろうか?あちこちに、インディオ文化を侵略する連中への怒りや道義的感情が現れる。自然に隷従する原始的社会と人間に隷従する文明社会の対比と言おうか、野蛮人は獣のままでいるより奴隷になる方が望ましいという価値観の押し付けへの反感と言おうか。かつて開拓された残骸が考古学上の遺跡のように見える様子では、...再び植物が覆い茂っているものの、もはや原生林の高貴な面影はない...といった現代社会の未来に重苦しさを感じながら、原始的社会の破壊への嘆かわしい描写が連続する。これはヨーロッパ中心主義の批判書と言っていい。いや、思い上がった人間中心主義への批判書と言うべきかもしれない。
文化的水準が高まれば精神的欲求も高まる。芸術や科学は、まさしくそうした精神から発展してきた。だが、同時に脂ぎった欲望を呼び起こす。進化と退化は表裏一体であるかのように。文明は必要以上の狩りを推進してきた。自然原理からすると、人間の欲求は他の動物よりも劣るのかもしれない。現代の地球環境保護といった風潮も、人間が生き残るためのご都合主義に過ぎないのだろう。純粋に宇宙原理の観点から環境問題を意識している人間はいないのだろう。人類はいまだ宇宙原理の正体を知らないのだから。
本書は、原住民の新世界を発見し、それを調査し、挙句の果てに植民支配という醜態が現れるという大航海時代の負の遺産を見せつける。レヴィ=ストロースは言う、「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」と。

著者は親日家のようで、東京、大阪、京都や中国地方、四国地方、能登半島など、各地を訪れたエピソードを語ってくれる。そして、日本人の「はたらく」という意味をこんな風に捉えているそうな。
「西洋式の生命のない物質へのはたらきかけだけでなく、人間と自然のあいだにある親密な関係の具体化ということです。」
また、日常生活に詩的価値を付与して、芸術的意味を与えていると語ってくれる。日本には、豊かな季節があると同時に災害も多いので、西洋人よりは自然の偉大さを身近に感じているのかもしれない。日本文化の現代と伝統の共存から、その先に人間と自然の調和を眺めていたのだろうか?しかし、こう褒められるとくすぐったくもなる。いや!せっかくの環境を粗暴に扱う日本人を皮肉っているのか?ヴァレリーやガウディのように、地中海の自然を崇める態度の方に憧れてしまうが...

本書には、民族学の意義のようなものが、あちこちにちりばめられる。
「感性の領域を理性の領域に、前者の特性を少しも損なうことなしに統合することを企てる、一種の「超理性論」である。」
あらゆる学問でその根源を遡れば、人間の本質のようなものに出くわすであろう。そして、自己を自己のうちに求めながら精神疾患にもなる。哲学で議論される二律背反などは、無意味な言葉の遊戯に過ぎないという。対して、民族学は現実を直視する学問ということらしい。哲学は認識論を進化させてきた。カントからそれほど進化しているようにも思えないが...では、社会学のような現実を直視する学問が、人間認識を進化させているかと言えば、そうとも思えない。認識論にしても価値観にしても、多様性に向かう動きと、それを抑えつける動きの衝突が延々と繰り返される。民族学には、現実社会と人間認識を融和させる性質があるのかもしれない。古代遺跡や歴史建造物が時の流れを止めて人々を誘なうように、時空を超えた体系に自分自身を順応させてみようとする。そうした感傷の場面にこそ、芸術的精神が解放される。だが、本書はそうした芸術的精神への批判もあり、人間存在そのものに悲観的様相を見せる。物語の流れからしてそのように嘆くのも分からなくはない。だが、人間の存在も偉大な自然に従うのであって完全否定することもできまい。

ここで、ある映画のフレーズが思い浮かぶ。
「ジョージ・ウェールズだ。...お前らに敵うもんか。」
「わしはインディアンだが、文明族と言われている。文明化されているから簡単にやられちまうんだ。もう何年も白人にやられっぱなしさ。」
「チェロキー族か?」
「そうさ、白人はわしらに慰留地へ行けと言った。今より幸せになれると言って、わしらの土地を奪った。」
映画「アウトロー」より...

1. 民族学者の弁明
「民族学者が自分の集団に対してめったに中立の態度をとらないというのは、偶然ではない。」
研究対象がエキゾチックであればその価値も高い。魅せられた世界を依怙贔屓するのも仕方がない。民族学者の中に順応主義を主張する人も少なくない。本書は、そうした態度が野蛮人に対する軽蔑や反感といった意識から生じることを認めている。意識の根底には、西洋社会が優越しているという前提があると。また、現実社会への反抗心から、異民族社会への擁護という態度が現れるという。なるほど、好奇心の源泉とは一種の現実逃避なのかもしれない。原始的社会を覗けば、文明に潜む矛盾も目立つ。文明人のおこがましい改良が何の役にも立たず、現地人の工夫の方がはるかに役立つ例を紹介してくれる。文明人の理屈は、その種族が生きる自然の中で育まれる合理性には敵わないというわけか。科学が発達すれば合理性の手段として役立て、客観性の範囲が広がっていく。だが、必ずしも純粋な客観性の構築へ向かっているかは疑わしい。合理性や客観性は、単なるご都合主義の言い訳として利用されているケースも珍しくない。人間精神は、進化と退化の振り子の中で振動し、その振幅が大きくなるだけで、同じ所を揺れ動いているだけなのかもしれない。
民族学者は、自分の生きる社会に批判的でありながら、他の社会に適合する不思議な性質を持っているという。それは、異民族社会を破壊してきたことへの贖罪からきていると指摘している。人口増加にともない社会が複雑化する中で様々な多様化が生じる。だが、社会風潮は多様性を否定するかのようにうごめく。自由や平等あるいは寛容といった価値観を獲得したところで、異民族よりも優越すると認識した時点で、どんな優れた価値観も色褪せるだろう。価値観や宗教観が優れていると自覚すれば、教化がはじまり、文化の押し売りが始まる。

2. 冒険の意義
本書は冒険記であるが、冒頭から「私は旅や探検家が嫌いだ」と始まる。民族学者にとって、冒険は単なる仕事に付随するものであって、格別の意義を持たないということらしい。彼らは、研究対象に到達するために浪費を積み重ね、取るに足らない出来事の連続を体験する。研究者が、多くの距離を移動し、多くの地を訪れれば、それだけで説得力を感じる。しかし、旅行記や探検記、それに付随する写真集などが、読者に強い印象を与えるという意図が目立ち、客観的な検分がなされているかを検証することは難しい。知名度の高い学者という評判だけで、空虚な言葉でも民衆は耳を傾ける。
有識者たちは様々な都市を訪れないと、知識は蓄えられないと脅しやがる。確かに、世界各地を歩きまわった方が見識も深めれらるだろう。旅をすることで、新たな境地を開き、新たな価値観を覚醒させやすくもなろう。だが、そうとも言い切れない例もある。偉大な建築家ガウディは、バルセロナの地にだけ集中して作品を持つ。世界をかけめぐることなく世界を一転させた芸術家というところに凄みがある。中途半端に世界を知るぐらいなら、足元を徹底的に探求した方が得られるものが多いと言わんばかりに。となれば、精神の極みに達する瞬間は、どんな職業でも、どんな生活様式にも現れる可能性があるのではないか。昔の人々は、旅をするのも大変で、それほど移動距離も長くはなかっただろう。だからといって、飛行機で簡単に移動できる現在の芸術家の方が優れていると言えようか?現代人の方が寿命が長いからといって、昔の芸術家よりも精神が進化していると言えようか?近代社会が生産性を格段に向上させたことに疑いはない。だが、創造性が向上したかは疑わしい。経験とは新鮮さという相対認識から生まれる。芸術家は日常生活の平凡な出来事でさえ幸せを感じることができるのだろう。冒険の経験から、新たな精神の解放が見出せなければ、それは単なる経過に過ぎない。尚、これは貧乏人の僻みである。

3. 文明批判
「西洋の秩序と調和は、今日地上を汚している夥しい量にのぼる呪われた副産物の排泄を必要とする。」
原始的社会の方が、まだしも節度を保っていたという。西洋文明が、科学を発展させ近代工業をもたらし、人間社会を豊かにしてきた貢献は大きい。ただ、人間には、自分が良いと思う思想や手段を、他人に啓蒙したがる性質がある。これは一種の自慢であろうか?少なくとも、自分の優位性を意識している行為と言えそうだ。有難迷惑が行き過ぎると信仰的怨恨を残す。どんな社会を比較したところで、ある部分では優れていても、別の部分で劣っている部分があるだろう。そこには、自然から育まれる合理性が存在するのだから。説教される人は、いずれ説教する側に立つ。それは、人間社会の循環法則とでも言おうか。
現代では、グローバリズムによる西洋的市場価値が優勢だ。市場は、人間のできない価値判断を自然法則に委ねる形で創設された。だが、市場に参加するのは、特有な価値観を持った経済人たちである。原始的社会に西洋的価値観を押し付ける様子は、経済人の価値観を市場原理を通して民衆に押し付ける様子に似ている。産業革命期に確立された現代資本主義が招く失業と投機、そして、市場の餌食となった貧困層、この構図は昔から変わっていない。文明の恩恵で得られる優れた道具は、犯罪の利便性を高める。情報化社会が高度化するにつれ、利便性の背後に情報犯罪が巧妙化し、セキュリティ対策に無防備な人々を蔑むような風潮が現れ、自己責任という社会意識が強迫観念にまで高められる。人口増加で複雑化する社会では、人間は生き残るためにニッチな市場を求め、犯罪も社会の隙間に入り込む。まるで、文明の発達によって、人口増加を煽り、無理やり仕事をつくるかのように。人間社会は、自らの文明の利便性によって自殺するのだろうか?

4. 野蛮人
人間は、自分の価値観では推し量れないものに対して不気味さを感じる。日本でも、西洋人を野蛮人と呼んだ時代があった。当時の西洋人が、原住民を野蛮人と呼ぶのも、異物に対する恐れや軽蔑があるからであろう。排泄の様子や恥じらいのなさを観察すれば、目を背けたくもなる。だが、それは生活水準から必然的に生じるのであって、むしろ自然と同化した姿と言える。となれば、自然から逸脱した姿を曝け出す文明人の方が野蛮と言えるのかもしれない。
イエズス会は、インディオたちを野蛮な生活から引き離し、自治体を形成した。その名残が、ブラジルの人口現象に奇妙な特徴を与えるという。そして、絵画や美術品の目利きができても、民族的な観察力の欠如は精神上の欠陥であると指摘している。自然の醸し出すどんな粗野な風景であっても、そこには人間の入り込む余地のない秩序がある。人間が土地を支配し他所へ移動すると、そこには自然を傷つけた痕跡だけが残る。
「人間が未知の土地に敢然と立ち向かったこの戦場に、次第に無秩序のうちに一つの単調な植物相が再生したが、その無秩序は、偽りの無垢の表情の下に戦いの記憶と経過を保っているだけに、なおのこと人を欺くのである。」
このフレーズには、人間の感傷が、いかに一方的な解釈で成り立つかが込めらているように思う。
人間社会は、多くの職業や生活様式といった分業体制によって成り立つ。だが、個人の役割は、人間社会における都合上の役割であって、自然法則で説明することができない。自分の居場所を追い求め、一旦居場所が見つかれば優位性を築こうと躍起になる。人間社会は、自分の役割を守る利害関係という異常な熱意に支配されるかのように映る。分業体制の根底にあるのは、他の知識を拒絶しながら独自の縄張りを形成することなのか?
かつて、人間は自然と戯れることによって、知恵を見出してきた。天文的知恵によって方角を知り、迷信めいたものが心の安らぎを与える。現地人たちが自然に実践していた知恵は、最小コストで知的調和を得る術を心得ていたという。科学が人間に客観的精神を呼び起こしたのも事実である。だが、逆に精神は暗黒の中をさまよい続けるのはなぜか?知識の高度化が、精神病を患わせ、空虚へと向かわせるのはなぜか?客観性を求める科学は、単純な体系にこそ崇高なものを感じる。となれば、単純な構造を持つ微生物から複雑な精神構造を持つ知的生物へと進化する過程は、退化しているのか?原始的社会の方が道義的には優れているのかもしれない。人間はその本性からして野蛮人であり続けるのかもしれない。

5. 種族の存続
本書は、カデュヴェオ族、ボロロ族、ナンビクワラ族、トゥピ=カワイブ族などの原始的社会を考察している。ボロロ族の円形集落では、宣教師たちが村落の形態を放棄させることが、改宗させるのに手っ取り早い方法だったと回想している。また、神話や夢想から現れる習俗は、一種の周期律表のようなもので描けるかもしれないという。
人間社会の体系には似通った様式があるのかもしれない。どの種族においても女性が重要な位置にある。子孫を残すことが種族存続となるから。逆に言えば、女性を支配することが主導権を握ることになろう。日常生活や住居に関することには女性に優先権が与えられ、宗教の奥義は男性だけに許される傾向があるという。子孫を生むという物理的優位性に対して、知的で精神的に支配しようとする本能が働くのだろうか?種族存続という意味では、人々を養わなければならない。だが、貧しく劣悪な生活環境では子供が多いのも問題となる。種族の中には、人口増加を抑制する慣習も見られるらしい。原始的社会は文明社会の未来像を提示しているような気がする。現実に、アフリカをはじめとする発展途上国で人口抑制政策がとられている。
そういえば、多くの民族において、化粧をして着飾る習慣があるのは女性の方であろう。女性には、他族に嫁入りすることから、特別に装飾されるという本能的感覚があるのだろうか?女性は、伝統的に道具として扱われる一方で、部族間の仲裁役のような役割がある。伝統的に我慢強いのは女性の方で、聞き役に徹するような遺伝子が組み込まれているのかもしれない。...などと発言すると、フェミニストから刺されそう。現在では、その現象も逆転しているようだが...
ところで、近親相姦が社会的罪悪となるのは、民族存続と何か関係があるのだろうか?近親の範囲も慣習や世界観によって違いがあるのだろう。まさか、遺伝子学的な知識があるとは思えない。本書は、ナンビクワラ族のおもしろい取り合わせを紹介している。民族学的には、「平行いとこ」「交叉いとこ」という言葉があるらしい。「平行いとこ」とは同性兄弟の子供同士で、「交叉いとこ」とは異性兄弟の子供同士。「平行いとこ」は兄弟や姉妹と同列に扱われ、婚姻は「交叉いとこ」同士で奨励されても、「平行いとこ」同士で禁止される慣習があるという。どちらも血筋レベルでは同じだが、女性は他家に嫁ぐので家系が違うことになる。血が少し離れていて信頼のおける関係となると、「交叉いとこ」という関係がちょうどよいなどと考えるのだろうか?

6. 首長の存在意義
原住民の生態系から、首長の存在意義を考察しているところは興味深い。
「首長の政治力は、共同体の必要から生まれたものではないように思われる。」
一般的には、政治的リーダは、集団の形成に必要という観点から登場したと考えるだろう。だが、本書は、そうではなく、むしろ集団に先立って存在し、集団の形や規模を決定しているという。これは、社会構成の歴史的必然性や発展といった論説への挑戦か?
原始的社会では、権力を握ることを勧めても、それを激しく拒絶することは珍しくないという。権力が熱烈な競争対象になっているのも間違いないようだが、その地位を自慢するというよりは、むしろ任務の重さから逃避する傾向があるという。多数によって支持されなければ、首長自体が存続できない自然の体系があったらしい。特権と同時に頑強な義務が生じることや、権威の運用が難しいことを、自然に認識しているわけか。原始的な社会では、法律が後ろ盾になった権威はないので、自然に民衆の監視機能が働いているのかもしれない。
しかし、権力が蔓延する現代社会では、特権ばかりが強調されるという皮肉な構図がある。大臣になりたがる脂ぎった連中は、神経がいかれているとしか思えない。ニーチェ風に言えば、政治家は余計な人々になりさがる。かつて自然に構築された社会秩序は、いまや法律を頼りにしなければ機能しないということか。民衆が、権力者を監視できない社会は、幼稚な社会と言えるのかもしれない。情報の透明性という意味では、原始的社会の方がはるかに優れた社会体制と言えそうだ。

2010-07-04

"タイムマシン" Herbert George Wells 著

「タイムマシン」という言葉が登場したのは、H.G.ウェルズの小説が最初だと言われるそうな。ちなみに、映画と原作はだいぶイメージが違うように思える。映像には明確なメッセージを与える力があるが、文章には読者の感性で勝手に想像を膨らませる力がある。それがいい...
本書はH.G.ウェルズの短編集で、「タイムマシン」、「盗まれた細菌」、「深海潜航」、「新神経促進剤」、「みにくい原始人」、「奇跡を起こせた男」、「くぐり戸」が収録される。H.G.ウェルズといえば、多くの科学者が絶賛するSF小説家で、数学と文学の境界線を曖昧にした作家とでも言おうか、そんな印象がある。「タイムマシン」は科学的な観点からの印象通りの作品であるが、他の作品では知識の広さや感情の豊かさを見せつけやがる。特に「くぐり戸」は、独特な人生観を披露する。ウェルズは、ロンドンの科学師範学校で、物理、化学、生物学、地質学を学び、恩師には進化論者トマス・ヘンリー・ハクスリーがいたという。ハクスリーが学校を去ると、政治や文芸にも興味を持ったそうな。なるほど、それぞれの作品に進化論的味わいがちりばめられる。この作品群で、小説家の見事な多重人格性に魅せられてしまう。

数学は、あらゆる次元を平等に扱う。ただ、実際に幅のない線なんて存在しない。厚みのない平面なんて存在しない。おそらく、縦、横、高さだけで定義できる立方体なんて存在しないだろう。これらは、数学上の抽象概念に過ぎない。数学者は、時間を一つの次元に過ぎないことを心得ている。しかし、人間の認識は時間という次元を特別扱いする。実存を定義しようとすると、どうしても時間の概念を必要とする。人間は、三次元空間の中で、左右を自在に移動することができ、上下を重力に反発しながらもエレベータや航空機といった道具を使って移動できる。だが、時間を前後に移動することはできない。生から死へ流れる一方通行に、一定の間隔を刻むことぐらいしかできない。時間は、次元の中でも異質なのだ。人間は、「三次元 + 時間」という空間認識の中で生きている。おそらく、あらゆる次元を認識できる生命体は、「認識できる次元 + 時間」という概念からは逃れられないのだろう。
しかし、だ!実は、時間を自在に行き来している可能性はないのだろうか?時間の経過に対して、脳の記憶素子も状態遷移するはず。未来に進めば過去の記憶も残るだろうが、過去に戻れば現在までの記憶はすべて失われるだろう。だとすれば、移動していることすら認識できないだけではないのか?時間が戻ることによって消去されるはずの記憶の欠片が、わずかに残ることはあるかもしれない。磁気記憶装置のデータを消去したところで、わずかに磁界の痕跡が残るように。これが予感というやつの正体か?霊感というやつの正体か?実存の観念からすれば、物体の寿命よりも未来に進むことはできないだろう。となれば、物体が存在した時間の区間内であれば、移動できてもよさそうな気がする。人間は、物体の存在を時間の流れの中で、物体の移動や変化の状態を観察しながら認識する。となれば、時間を自在に移動することを認識するということは、時間を遠目から眺めることになり、認識自体の自己矛盾に陥ってしまうのかもしれない。自我の実存にいまいち自信が持てないのも、夢と現実の境界がいまいちはっきりしないのも、時間の流れを遠目から眺める視点が持てないだけのことかもしれない。
そして、アル中ハイマーは一つの帰結に至る。時間を自在に移動できても認識できないのであれば、タイムマシンを作っても意味がないではないかと...白けること言ってごめんなさい!ウェルズさん。

「タイムマシン」
タイムマシンを発明したタイム・トラベラーは80万年後の世界を旅する。そこで見た未来人は、地上に住む知力や体力の退化したエロイ族と、光に怯えながら地下に住むモーロック族の二つの種族であった。エロイ族は、ただ美しいだけで役に立たない存在になりさがり、辛うじて地上を独占する。モーロック族は、地下に住み慣れて、日光に絶えられない体質になっている。この二種族には、資本者階級と労働者階級の社会的差異の成れの果てが暗喩されているように映る。富裕層は排他的傾向が強く、教養を高め、貧困層との差別化を図る。利益のために土地を所有しながら独占欲を強める。まさしく経済人と言おうか。そして、この階層だけで分け合う平等を享受する。その一方で、労働者は、劣悪な環境に慣れながらますます地下へ潜り、それなりに幸せに生きる。賃貸料が払えなければ、地上に生きる権利も与えられないわけだ。そこには、地上には持てる者のみが住み、地下には持たざる者が追いやられるという構図がある。エロイ族は、所有独占の果てに安穏で快適な生活が保障されると、生存競争の中で培われる動物的本能が退化する。モーロック族は、地下の劣悪な環境で食糧不足に喘ぎ、人間が人間を食すというあってはならない人類の概念が失われる。そう、モーロック族は、エロイ族を捕食する体質へと変貌したのだ。地上で安穏と暮らしていた人々は、かつて地上から追い出した人々によって脅かされる。遠い未来には、人類の精神が自殺してしまった時代があったというわけか。
習慣と本能が役に立たなくなった時、はじめて動物は知能を動員する。変化も変化の必要もなければ知能は生まれない。また、人間は飢餓に追い込まれれば、理性的本能も簡単に放棄することができる。家族愛や子孫愛は、あらゆる外敵から身を守るためにすべて正当化されよう。生存競争の原理では、活動的で賢い者が生き残るようにできている。だから、社会を均衡させるためには、有能な人間が自己を抑制し、弱者に協力するようなことが必要となる。だが、弱者が強者にいつも保護されることが当たり前になってくると、強者の優位性は失われていき、ついに弱者と強者の立場は逆転する。人類は、一度は生活も財産も完全に保障される社会を構築することができるかもしれない。失業問題や社会問題もほとんど解決され、平穏な社会がもたらされるような。人口が均衡した豊かな社会では、子供を多く生むことは国家への功績どころか罪悪にもなろう。嫉妬や憎しみといった不愉快さをすべて放棄した洗練された精神の行き着く果てとは何か?社会の完全なる調和とは、すべての欲求を放棄することなのか?精神と肉体の均衡がとれれば、勇気や闘争心はかえって邪魔なものになるのかもしれない。芸術的衝動でさえ消滅してしまう。そして、成熟しきった挙句に、下等生物よりもはるかに劣った社会になり下がるのかもしれない。偉大な生物界において、一匹の微生物よりも貢献できる人間など一人もいないというわけか。

「盗まれた細菌」
細菌学者は、ちっぽけなコレラの病原菌で大都市を絶滅させることができるなどと大言壮語する。その話を聞いた男は、世間からつまらないと蔑まれた孤独な人間がどんなものかを思い知らせてやるために、細菌を盗んで自ら飲んでしまう。細菌が社会にばらまかれるのを楽しみにしながら。彼は無政府主義者だったのだ。しかし、細菌学者は、そんなことは知らずに、新種のバクテリアの培養したものを、冗談でコレラ菌と言ってからかっただけだった。そして、実は皮膚病の菌に過ぎないと笑った。

「深海潜航」
ほんまに潜航できるのか懐疑的な海軍中尉と、公平そうな口調で話す部下の二人が、潜水艇をめぐって論議している。まるで飲み屋の座談会のように。そして、泡を立てて潜航する様子を海上から眺めている。時間が経ってもなかなか浮上してこない。悪い想像をしていると、ようやく浮上してきた。搭乗員は大怪我をしていた。彼は奇妙な体験をしたらしく、再び潜りたいと言う。海底に新世界を見つけたというのだ。その体験談では、ガラス窓から擬似人類とも言うべき深海生物が見えたという。奇怪な住人どもが潜水艇の鉄壁を強くたたき、更に、群集によって深海へと引き摺りこまれる。ぼやけた建物が並んでいるように見えるのは、難破した船であろうか?窓越しに奇怪な幽霊の大群。ようやく潜航が止まると、連中は艦艇の前にひれ伏し、祭壇であるかのように跪いた。これが海底都市の姿だという。海底人たちは、地上の人間どもが大気中の奇怪な生物で、海上の神秘的な暗黒から降りて来て、やがて不慮の死を遂げると思っているのか?海底人にしてみれば、難破した船も潜水艇も、海上から降ってきた暗黒のかたまりに見えるだろう。それは、人間が、宇宙から流星のように落ちてくる火のかたまりを眺めるのと同じ感覚なのかもしれない。まるで宇宙人が到来したかのように。彼は海底都市に憑かれて、再び改良した潜水艇で潜航する。だが、二度と戻っては来なかった。海底都市の実証は、もう企てられることもなかろう。

「新神経促進剤」
無気力な人々を、進歩的な時代のテンポに合わせることができる総合神経興奮剤を発明した教授がいた。催眠剤や鎮静剤や麻酔剤の類いは、精神を麻痺させて中枢エネルギーを増強するか、神経の伝導力を低下させて適宜なエネルギーを増強するかでしかない。だが、教授が作り出したいのは、まさしく副作用もない全身くまなく効く純粋な興奮剤だという。その効き目は何百倍か何千倍か想像もつかない。そこで、教授と聞き手の二人で薬を試すことにした。薬を飲んだ二人が外出すると、落下する物体が止まっているように見え、自転車を忙しそうにこいでいる人が静止しているように見え、男女が向かい合って微笑んでいるのも永遠であるかのように見える。二人は、通常の千倍の時間感覚で物事を感じ取ることができるのだった。二人が普通の感覚で動くと、実際にはあまりにも速いために、空気との摩擦で周囲が燃えてしまう。そこで、ゆっくり行動するように心掛ける。やがて、薬の効き目がなくなった。今度は、テンポの速い社会でストレスを感じないような緩和剤を考える。
新促進剤を使えば仕事は速く片付くだろう。だが、その分仕事が増えるだけのことで精神の満足度は変わらない。また、緩和剤を使ったところで、時間を引き延ばすだけのことで、ストレスが解消されるわけではない。所詮、精神を促進しようが緩和しようが、時間感覚そのものは変わらないではないか。時計が速く回ったり、遅く回ったりするだけのことで、なにも人生が豊かになるわけでもなんでもない。人間は相対的な認識しか持てないのだから。にもかかわらず、懸命に薬の開発に取り組む滑稽な姿がある。

「みにくい原始人」
古い骨を発見したところで、素人から見れば単なる骨だ。だが、考古学者は、博物館に標本を飾って奇妙な名前を付ける。火や石器を使いマンモスに追いまわされた動物を、原始人やホモ・サピエンスなどと呼ぶ。原始人は人間に酷似している過去の動物というだけで人類の祖先ではない。ネアンデルタール人は、人間とは歯の並びも違えば、顔面が大きく額が小さい。脳の大きさは現代人と同じくらいだが、後脳が大きく前脳が小さく構成がまるで違う。となれば、思考方法も違うだろう。記憶力が強く、推理力が弱く、感情が強く、知性が低かったことが推察できる。類人獣の研究が進めば、血のつながりも認められず、人間とは似つかない動物に見えてくる。真の人間種は、南からヨーロッパに入ってきたとされる。そして、ヨーロッパで、真の人間種とネアンデルタールが出会って、互いに争ったのかもしれない。ライオンや熊と戦うように。
人間種とネアンデルタール人の違いは、集団社会を形成したかどうかの違いであろうか。集団化が生存競争の鍵になるのかもしれない。社会形成では女性の存在が大きい。多種族から嫁をもらい、兄弟の殺し合いを仲裁するという調停役にもなる。近親相姦というタブーは本能的に育まれたのだろうか?現代では、遺伝子的に悪影響を与えることが説明できるが、まさか原始時代にそんな知識はないだろう。人間には、集団社会を形成し、掟や自制心を持つ複雑な精神構造がある。奇妙なタブーという制約も慣習から形成される。迷信の役割は、悪事に対する罰として恐れさせる。そこに無条件に成立する秩序がなければ、集団社会は維持できない。非力な人類が生存競争で生き残ってこれたのも、この無条件に従う秩序によるものであろうか。自然界では、集団生活の苦手な種族ほど、生存競争に負けるようにできているのかもしれない。現代でも、集団から外れた感覚の持ち主は社会の害として差別されるのは、生存競争の名残りであろうか?
本作品は、原始人と人類の祖先が戦う様子を空想的に描く...なんとなく文明批判が隠されているような...

「奇跡を起こせた男」
とても奇跡の起こせるようには見えない男がいた。むしろ懐疑主義者で奇跡なんて信じない。ひどく議論好きの雄弁家。その男が酒場で奇跡について議論する。そして、奇跡を定義した。
「自然の成り行きに反するでき事で意志の力によって成し遂げられるものだよ。特別な意志の働きなしには起こり得ないものだよ」と...
ところが、「ランプにさか立ちになって、燃えつづけろ!」と男が命令すると、その通りに奇跡が起きた。集中力をきらすとランプが落下して壊れた。すると、店主が怒って店から追い出された。男は、自分の能力が信じられなくて自宅でいろいろと実験をすると、なんでも実現できることに驚く。そして、自分の意志力は、よほど珍しく強力なものに違いないと結論付ける。だが、この能力を使うにしても、用心深く人目を警戒しなければならない。男は奇跡を信じない人間としても知られていたので、「奇跡なんだ!」という言い訳も通用しないから。
そこで、牧師に相談する。牧師の目の前で、なんでも物が変えられることを見せる。これは奇跡か?魔術か?人を地獄へ送ろうと想像すれば、実現できてしまうのだ。牧師は奇跡を起こす男をおだてて教会堂で奇跡を行わせる。二人は奇跡の能力に自信を持って、空想と野望をみるみるうちに膨らます。議事堂地区の酔っ払いどもを片っぱしから正気に戻させ、鉄道交通を改善し、土地を耕し、教区牧師のこぶを取り除いたりと、あらゆる善行に酔いしれる。牧師は、月を指差してヨシュアと呟く。ちなみに、旧約ヨシュア記に、太陽と月に静止せよ!と命令する話があるらしい。男は、月を見上げて少し高過ぎると反論する。牧師は、ならば地球の自転を止めればいいとそそのかす。地球に自転を止めよ!と命令すると、男は猛烈なスピードで空中に飛び出した。服は摩擦熱で焦げ始めた。次に、安全無事に地上におろせ!と命令する。無事に地上へ着いたはいいが、辺りは猛烈な風が天地を吹き荒れる。暴風と雷が鳴り響き、穏やかな月夜はなくなり、町そのものがなくなってしまった。すべての生物や建物はぶつかりあってこなごなになってしまった。気象変動を起こせなどとは命令してないのに。男は、命令の何かが間違っていることは分かるが、それが何かが分からない。やがて、奇跡を起こせる能力自体が災いだったことに気づく。ついに、奇跡よ去れ!すべてを元に戻せ!と命令する。そして、目を開けると、記憶も精神もすべて元に戻り、酒場で奇跡について屁理屈を並べる自分の姿があったとさ。
結局、奇跡が起こせる、あるいはすべての欲望が満たせる能力とは、災いしかもたらさないというオチか。あらゆる物事や事象は、因果関係から成り立っている。くだらない勝手な欲望から奇跡を起こしても、世界の均衡が崩壊するだけというわけか。
また、人間は、欲求が満たされずに、夢を描き続けている瞬間が最も幸せでいられる。天才は、あらゆることに気づく能力があるので、余計な悩みを背負い込むのだろう。となれば、凡人の方がはるかに幸せであろう。そして、酔っ払いは凡庸な幸せを謳歌するのであった。

「くぐり戸」
ある男にくぐり戸が生活に入ってきたのは、幼児の頃からだという。緑のくぐり戸には、白い塀がついていて、真っ赤なツタが紅葉していて美しい。その男は、早熟な少年で素晴らしい頭脳を持ちながら自分の生活を味気ないものだと思っていたようだ。彼は、子供の頃から、そのくぐり戸を開けて入りたいという衝動があったが、その行為をずっと保留してきた。自由に入ることができることは分かっているのに、なぜ?くぐり戸に入ると、勉強に集中できず、父親から叱られるということらしい。くぐり戸にはなんとなく魔法の楽園のような雰囲気が漂う。彼は夢想する癖があったという。
ある日、そのくぐり戸の前で、幼い頃の楽団や楽しい仲間たちとの思い出に耽る。そこへ、本を持った女性が現れた。なんとその本には、男の生きてきた物語が綴られていた。忘れかけていた記憶も蘇る。読みすすめていくと、くぐり戸の前で、ためらいながらたたずむ自分の姿にぶつかる。次のページをめくると、楽しい思い出は何も記載されていなかった。思い出はすべて夢想だったのか?子供の頃、秘密にしていたくぐり戸の話を友人たちに打ち明けたことがあった。すると、友人たちを案内する羽目になる。だが、どうしても、くぐり戸が見つからず、友人たちにからかわれる。それでも、憂鬱を感じながら、ずっと魔法の楽園の夢を見続けている。
男は、勉強に集中して出世のために努力し、たくさんの苦しい仕事をしながら、高名な政治家となった。あれから何度かくぐり戸にぶつかったが、またもや衝動に従わなかった。やがて、男の死が新聞で報じられた。死体は駅近くの深い穴で見つかった。公衆が立ち入るのを防止するために柵で囲まれていたが、木戸口には鍵がかかっていない。男は、その木戸口を入って穴に落ちて死んだのだ。危険な木戸口が、くぐり戸に見えたのだろうか?緑のくぐり戸は、幻だったのか?幻覚が、醜い世の中からの脱出口を提供したのか?これは事故なのか自殺なのか?

2010-06-27

"ふつうのコンパイラをつくろう" 青木峰郎 著

本屋で立ち読みしていると、嵌ってしまった。こいつは、なんとなく凄い!なにしろ、ド素人の酔っ払いでさえも理解した気にさせてくれるのだから...ただし、これがふつうかどうかは知らん。
半分ほど読み終わったあたりであろうか、600ページ余りと重たいので腕が疲れてきた。ちょうどその時、カウンタから鋭い視線を感じる。お姉さんと目が合った。ドスの利いた声で「この本を頼む!」と声をかける。お姉さんは決まりきった営業台詞であっさりとかわす。どうやら照れ屋さんのようだ。

コンパイラの構造を眺めていると、昔のくだらない記憶が蘇る。実は、論文を書くのにドキュメントコンパイラなるものがあるといいなぁ、と思った時期がある。自分の文章を解析しながら、せめて誤字脱字チェッカだけでもできないものかと考えたりしたものだ。精神の泥酔者は嫌になるほどミスが多い。特許部から大量に添削された資料が戻ってくると、いつもうんざり!代理士と話をするのが憂鬱で仕方がなかった。周りには姑チェックの鬼が一人や二人はいるもので、いつも助けられる。
ところで、自分の書いた文章を解析するパーサを作るのは虚しいものがある。自己否定するような、自己嫌悪に陥っていまいそうな...自我の存在を少しでも認めたいがために、無暗に形容詞を混ぜたいという衝動は抑えられない。そして、自我は発散し、ついにはドキュメントコンパイラはcore(ゲロ)を吐くのであった。技術論文であれば、形容詞の扱いも制限できて、ある程度は形式化できそうな気がする。ボキャブラリが乏しいアル中ハイマーの文章ならば、効果的だろうと思った。しかし、形容詞には微妙なニュアンスの違いを吸収する緩衝材のような役割がある。いわば文章の華のような存在で、文章で癒されるのは形容詞の部分が大きい。
最近では、とても技術資料とは思えないような文章を書くようになった。それでも、ええんでないかい!精神の動きに身を委ねて!どうせ、まともな文章が書けるわけではない。元来、文章恐怖症な上に筆不精なところがあったが、精神の泥酔とともにそんな感覚も麻痺してしまった。脂ぎった欲望を捨て切った時、自然に精神が解放されるのだろうと信じて...

コンパイラは、ほとんど言語仕様で決まるようなものである。しかし、近年はダイナミックリンクも当り前となり、いまやOSを含めた実行環境に依存すると言ってもいいだろう。言語仕様にガベージコレクションのような強力な機能を搭載しているものや、実行環境に実行速度を上げるためのJIT(Just in time)のような機構を備えているものも珍しくない。スクリプト言語とはいえ、実行時に機械語に翻訳しながら動的にコンパイルするなどは普通に見られる。こうなると、従来のインタプリタの概念は、あまり意味がないのかもしれない。
言うまでもないが、コンパイラは作成者の意図を明確に指示しなければ正常に動作しない。まず、新たにプログラミング言語を使う時に注意することは、データ型の整合であろうか。個人的にはデータ型の定義が曖昧な言語はあまり好きになれない。いまだにbasicのイメージが残っているからであろうか?しかし、流行のスクリプト言語は、ほとんど曖昧な方向にあるようだ。確かに面倒な記述から解放されるのはありがたい。数年前から好んで使うRubyも全般的にデータ型の定義は緩やかである。だが、Rubyの場合は数値リテラルなど厳格に型チェックされる部分もあって、その按配が肌に合う。
曖昧さと言えば、構文解析で難しいイメージがあるのが、選択制御文である。C言語のif文の曖昧さは有名らしい。その感覚は酔っ払いだけではなかったか。elseがどのifにぶらさがっているのか、あるいは、ネストが深くなると選択肢の衝突が起こったりする。こうした問題は慣習的に回避しているところがある。ちなみに、回路設計ではハードウェア記述言語(HDL)を使うが、ここでも曖昧な記述はとんでもない回路を生成し、シミュレーションと実装がマッチしなかったりする。
こうした言語の曖昧さの按配というものは主観的な要素が大きい。どんな業界でも見られる暗黙というのが意外と紛らわしい。専門用語ですら、会社や組織によって微妙なニュアンスの違いを見せるのだから。したがって、言語の好みが分かれるのは自然であろう。そして、コンピュータ言語の多様化が進むのかもしれない。生産効率性という意味では矛盾するのかもしれないが、いや、人間社会の多様化には矛盾しないのか?いずれにせよ、製作者がユーザ意識とマッチするものを見出すことができれば、その業界で生きていく幸せが得られるのであろう。

本書は、一冊を通してC♭(シーフラット)という言語のコンパイラcbcを作成する。これは、ほぼC言語のサブセットで、ポインタ演算など主要部分を実装しているから、なんとなく凄そうなオモチャである。実行環境が、x86系で動作するLinuxをターゲットにしているのも手軽だ。ちなみに、C言語とJava言語を知っていることが前提だという。そういえば、むかーしJavaをちょろっとかじったことがあるが、その程度の知識でも十分についていける。そして、構文解析、抽象構文木、意味解析、中間表現から、アセンブラ、リンカ、ELFファイルの作成、更にx86アーキテクチャまで網羅され、プログラミングの実行環境を一冊で見通せる構成となっている。物理アドレスと仮想アドレスにおけるポインタイメージや、限られたレジスタでのスタック構造と関数呼び出しのイメージなどが少々くどく感じられるのは、初心者にも配慮しているからであろう。それにしても、これだけを一冊で網羅しようという試みには畏れ入る。
また、スキャナ(字句解析)やパーサ(構文解析)の実装にはJavaCCを利用し、アセンブラやリンカにはgnu環境を利用している。コンピュータの歴史で、字句解析や構文解析のノウハウが蓄積されているので、こうした定石を使うのが手っ取り早い。業界スタンダードから逸脱したツールは相手にされないということだろうか。考えてみれば、クロス環境がgnu環境で揃うのも凄い時代である。アル中ハイマー世代でお馴染みのアセンブラといえば、masmであろうか。なにしろ、組込み系では、C言語のような高級言語のコンパイラでは性能が出せないために、必然的にアセンブラで書いていた時代である。20年ぐらい前かぁ。
ところで、C言語って今でも高級言語なの???

1. cbcの実装イメージ
C♭には、プリプロセッサがない。したがって、#defineや#includeの代わりにJavaに似せてimport宣言を導入している。データ型には浮動小数点の機能がない。他にも構造体や共用体にも制限がある模様。インポートファイルの構文は、関数宣言、変数宣言、定数宣言、構造体や共用体の定義、typedefのみ。これだけあれば十分に実用レベルと言えよう。ちなみに、パッケージ構造はJavaの標準的なディレクトリ構造に従っているという。
mainメソッドの実装は、単純な構造をしている。コマンドライン引数をOptionクラスのparseメソッドで解析し、SourceFileオブジェクトのリストを得る。SorcsFileオブジェクトは、ソースコードを一つ指定して、buildメソッドに丸投げする。buildメソッドは、foreach文でSourceFileオブジェクトを一つずつ取り出し、Compileメソッドでコンパイルする。Compileメソッドは、ParseFileメソッドでソースコードをパースする。その結果、得られるASTオブジェクト(抽象構文木)に対して、semanticAnalyzeメソッドで意味解析を行う。更に、IRGeneratorクラスのgenerateメソッドでIRオブジェクト(中間表現)を生成する。
ここまでがフロントエンドのコード...
続いて、generateAssemblyメソッドでアセンブラコードを生成し、writeFileメソッドでファイルを書く。最後にlinkメソッドを呼び出して、オブジェクトとライブラリをリンクするといった感じ...

2. JavaCC
JavaCCは、スキャナとパーサを兼ねていて、両方を1つのファイルで同時に記述できるという。パーサジェネレータは、LLやらLALRやらLRといった扱える文法の広さによって区別されるようだ。ちなみに、LRが最も広い文法が扱える。どんなパーサも万能であるはずがない。処理速度など用途に合わせて使い分けるのであろう。
JavaCCは、LLパーサジェネレータで、専用ライブラリを必要としないという。人によっては、パーサジェネレータをコンパイラコンパイラと呼ぶらしい。つまり、コンパイラを生成するコンパイラという意味。JavaCCのCCもコンパイラコンパイラの略。ちなみに、JavaCC4.0では、エンコーディングを指定して日本語文字列のパーサ処理ができるという。このあたりにうまいこと規則を埋め込めば、ドキュメントコンパイラなるものも作成できるのかもしれない。
本書は、字句解析にJavaCCの持つ正規表現を利用している。JavaCCには、抽象構文木を作るための「アクション」という機能があるという。本書は、自力でアクションとノードクラスを書いて構文木を構築しているが、実は半自動生成できるツールにJJTreeというものがあるらしい。JJTreeは、ノードのメンバを配列で持つ設計になっているという。あまり配列に抵抗を感じないが、著者の好みには合わないらしい。

3. パーサの流れ
パーサと言えばyaccの時代が続いていた。yaccはLALRパーサジェネレータの代表格だそうな。
最近は、Packratパーサというものが登場したという。無限に先読みできて、スキャナとパーサを区別せずに書けて、メモリ消費量はソースコード長に比例するという特徴を持っているという。しかも、文法が曖昧にならず、ぶらさがりelseのような問題が発生しないのだそうな。
他にも、プログラミング言語をそのまま使って文法を記述する手法で、パーサコンビネータという技術があるという。JavaCCがJavaとは違った文法を記述するのに対して、そのままの言語でパーサが記述できるので、パーサジェネレータ自体がライブラリとなって、JavaCCのような別のツールを必要としないらしい。プログラミング言語を同じ言語で解析するとなると、自己矛盾に陥りそうな気もするが...

4. プログラムの実行イメージ
プロセスのメモリ展開には、mmapシステムコールを使う。そして、ELFセグメントとメモリ領域の対応や、スタックやヒープの関係など、プログラムの起動から終了までの過程が説明される。
また、GOT(Global Offset Table)とPLT(Procedure Linkage Table)のアドレス取得イメージから、実行可能ファイルであるPIE(Position Independent Executable)の生成といった実行イメージが解説される。ちなみに、GOTはプログラムを位置独立にする柔軟な仕掛けであるが、セキュリティ上は問題があるという。任意のアドレスへ飛ばすようなGOT上書き攻撃があるから。

2010-06-20

"研究室ですぐに役だつ電子回路" 阿部寛 著

「屁理屈はどうでもよいから、こんなことを実際に測定したいというときに、間違いなく測定できる手法を知りたい。」
これが、本書のコンセプトだそうな。とはいっても、基本的な理屈は知っておかなければなるまい。最小限の理論で役立つ実践的な方法といったところだろうか。そして、伝送系やマイクロ波における回路理論をコンパクトに綴ってくれる。ただ、トランジスタやオペアンプを使った、ちょっとした回路製作を期待していたが、この点ではいまいちか。それも、物性屋からの視点が色濃いからであろう。おいらには、ちょっと違った感覚を味あわせてくれておもしろい。
今宵はなんとなく新人時代を思い出す。最近、新人君と接する機会が多く、失敗談を曝け出すようにしている。ちなみに、新人君を勇気づけるための失敗ネタは、いくらでも提供できる。
主語に「友達の友達は」と付けながら...それって自分のことか?アル中ハイマー病患者に定かな記憶を期待するもんじゃない。武勇伝を重なることは、後に笑いネタにできるからいい。だから、いまだに失敗に快感を覚えるのか?

今では、ほとんどソフトウェア寄りの仕事ばかりで、すっかり回路製作に縁が無くなった。昔は、「回路治具」と呼んでいたが、今でも使われる言葉だろうか?方言かもしれないなぁ。要するに大人のおもちゃである。経験してきた電子回路の仕事といえば、主にデジタル回路に実装するためのアーキテクチャ設計といったところだろうか。おいらにとってアナログ回路は、デジタル回路の実験のための補助的な位置付けにしかない。アナログは物理数学の領域にあり、苦手な分野から逃げ回っていたという経緯がある。とはいっても、システムを安定に動作させるために、安定化電源や確実なリセット動作は必須である。三端子レギュレータを使って、安価な電源回路ぐらいは製作したものだ。システムが複雑化すれば、電源シーケンスを疎かにすると、ラッチアップや過電流の原因ともなる。ちなみに、素子を何度か燃やしたことがあり、先輩から呆れられたものだ。
電池駆動となると些細な工夫が必要になる。電源オフ時にマイコンを動作させて、EEPROMやフラッシュメモリにバックアップさせたい場合は、遮断回路にも気配りする。
デジタル回路はノイズ源でも悪名が高いので、システムの誤動作には肩身が狭い思いもした。
また、実験室では、テスト用の簡易的な周辺回路が重宝する。例えば、振幅や周波数やデューティ比を制御できる発振回路や、モノマルチを使った簡単な信号発生器や、ピーク検出器といったものである。デジタルシステムでは、ビット誤り率を計測するカウンタ回路も便利である。
主に使う知識といえば、差動回路や帰還回路といったところだろうか。ほとんど理論は無視してカットアンドトライで誤魔化していた。差動の対称性が、耐ノイズ性に優れているのはなんとなく感覚で分かる。微小信号でも、双方でスイングすれば伝送系で効果がありそうに感じる。その重要な特性は、外因に対する同相の除去効果である。帰還回路では、負帰還で高精度の信号処理をしたり、正帰還で発振器を作ることができる。
こうしたテスト用回路を、すべて高価な装置に頼ることは非現実的であろう。

パソコンと連携してデータ解析するのは便利である。当時、測定器のI/F仕様は、GPIBやHPIBといったものが主流だった。当時は、I/F仕様は自然に頭に入っていたような気がする。自作ボードとパソコンを接続する時に手軽なのがRS-232Cで、マイコン制御するのにアセンブラで記述しても大して手間がかからない。今では、USBを持った市販ボードや雑誌の付録ボードなどが登場して、随分と手軽になったようだ。しかも、大規模なFPGAが搭載されたボードも登場して、CPUやDSPのソフトウェアコアも体験できる。
おいらの新人時代に、ちょうどプログラマブルデバイスが登場した。ザイリンクスのLCAが登場したのが80年代。PALやGALが登場し、74シリーズで組み上げていた時代には画期的だった。まだ、FPGAなんて言葉すらなかった時代である。1000ゲート規模のLCAにランダムロジックを実装すると、動作周波数3MHzで動かすのも苦労する。しかも、使用効率30%ぐらいまで下げないと動作せず、手探りで分割しながら基板の修正にも追われるなど、メーカー公表値で全く動作しなかったのを覚えている。とても製品に搭載するなんて発想もなく、実験レベルのデバイスとして認識されていた。こうした記憶を掘り起こせば、現在のFPGAの性能の高さは驚異的である。なにしろ、アマチュアでも高機能の回路設計を楽しむことができるのだから。
ところで、どんな学問でも言えるのかもしれないが、プロとアマの境界線がだんだん曖昧になっていくような気がする。情報化が進み、知識を得るのが便利な世の中になればなるほど、アマチュアの中から優れた専門知識が誕生することも珍しくない。プロの能力として差別化するのも大変な時代とも言える。そして、プロ意識を持続することも難しくなろう。悲しいかな!興味のあることにしか反応できないアル中ハイマーは、プロ意識とは永遠に無縁である。

1. 実験環境と心構え
本書は、実験における心構えから語られる。そして、乱雑な環境には研究者の基本姿勢が現れるという。そういえば、新人時代、先輩から整理整頓の大切さを指摘された。ボードの製作では、ノイズを抑えるための配線の美しさというものがある。実際に、乱雑な設計やスパゲッティ配線は、怪しい動作をする。
また、抵抗やコンデサーといった部品素子の在庫をチェックして、不足分を予算化するのは新人社員の仕事である。逆に、便利な部品や、興味のあるICなどを、予算に組み込む特権がある。とはいっても、知識が乏しいので先輩の影響力を強めるのだが...そのうち要領を得て、試したい実験のための部品をこっそりと揃えることができるようになる。そして、ICや部品や測定器のカタログを眺めるだけで楽しくなったものだ。
本書は、予算が豊富にあると、必要以上に高価で高機能な測定器を買おうとする悪弊に陥ると指摘している。なるほど、バブル時代になると予算も通りやすく、下っ端のおいらでさえ、高価な計測器をほぼ占有できた。GHz帯の測定器など、何の研究に使うんだと皮肉られたものだ。当時のマイコンは、8bitが主流で動作周波数もせいぜい10MHzぐらいだから、オーバースペックであったのは間違いない。実験室では、古びた実験机が汚くて買い換えを提案したりもしたが、年季のはいった木製の机にもそれなりに意味があった。スチール製だと電磁波が反射するので、電気的に影響のない材質でなければならない。
また、測定器や装置などの配置も馬鹿にはできない。長時間の実験では、疲れない姿勢を保ちたい。効率的で無駄のない実験室というのが理想であろう。研究所ということもあって、実験環境は空間的にも恵まれていた。実験机も大きく、オシロスコープ、ロジアナ、スペアナ、コンピュータなどが自由に配置できた。しかし、環境が恵まれていると実感したのは転職してからである。人間は、自分が優遇されていることに、気づきにくいものであろう。

2. 材料のインピーダンス
「インピーダンスは、一般に電子回路、電子部品材料の交流の入力に対する応答から定義される量で、交流電圧に対する交流電流の流れにくさを表す量である。直流の電気抵抗は、周波数がゼロのインピーダンスということもできる。」
この言葉は、さりげないようで、インピーダンスの複素特性をうまいこと表現しているように思う。電圧や電流は、現実には実数の量であるが、電圧と電流が絡み合うと位相関係があって厄介となる。もし、回路が線形であれば、複素空間に持ち込んで最終的な量を実数部として扱えばいいだろう。本書は、物質の複素誘電率を求める例から、材料のインピーダンス測定が、物性物理学の理解につながることを匂わせてくれる。しかし、物質のインピーダンスを測定することは現実に難しい。例えば、コンデンサの電場分布では、エッジ効果も考慮しなければならない。インピーダンスの測定といえば、基本中の基本であるが、その奥深さを教えてくれる。位相があるということは、共振する場合もああれば、うまいこと打消し合うように構成することもできる。こうした特性を利用して、様々な回路アイデアが登場する。位相の測定だけでも一苦労と言えよう。そこで、位相測定では、二重平衡ミクサ、矩形波間の遅延時間を測定する方法、掛け算器による位相を検出する方法、サンプリングによる高周波の位相検出が紹介される。昔、位相検出回路を、入力信号のトリガに役立てたりしたものだ。

3. 四端子法
本書は、材料の電気抵抗を測定するのに、四端子法を紹介している。ただ、理論は単純でも、おいらにはあまりない発想なのでメモっておく。プリント基板や配線パターンの設計者は、こうした発想が大切なのだろう。
単純に考えれば、材料の両端に電極を付加して、その電極間を測定すればいいはず。しかし、単に金属を真空蒸着しただけでは、オーミックな電極はできない。ちなみに、オーミックな電極とは、電極にほとんど電圧が印加されず、単に電流の流し口になる電極のことである。電極と材料の間には、複雑なポテンシャル障壁が形成されるので、電圧が障壁近傍に集中し、材料に一様に印加された状態にはならない。半導体ともなれば、小数キャリアの注入が発生したりと厄介である。
そこで、四端子法が多用されるという。まず、電流用の電極を材料に付加し、電極から十分に離れたところに測定用電極を二つ付加する。これはオーミックである必要はないという。つまり、電流用電極から十分に離れているので、奇妙な障壁近辺の現象に影響されることが少ないというわけか。

4. PLL回路
PLL回路は、位相差検出と、電圧制御発信器と、分周器で構成される。これは、テスト入力用の信号発生器で、位相をロックさせたりするのに便利である。おいらのおもちゃにもエントリしていた。
本書は、PLL用ICを使った例を紹介している。そして、発振の振幅制御にはPINダイオードを減衰器として使っている。また、ダイレクトデジタルシンセサイザ(DDS)の選別をしながら、理解していったエピソードも紹介してくれる。矩形波、ノコギリ波などの信号発生器は、ちょっとしたテスト入力用に重宝する。こうした信号発生器とPLLを組み合わせると、簡易的な試験がやりやすくなる。

5. マイクロ波
マイクロ波の帯域では、電磁波にも配慮しなければならない。電磁波の伝播特性は、マクスウェルの方程式によって与えられる。伝送系では、電場と磁場の成分が発生する。電流が流れると、磁場が発生し磁気エネルギーが発生する。回路理論的には磁界というやつか。また、電位差があれば、電場が発生し静電エネルギーが蓄えられる。つまり、伝送線路は、直列インダクタンスと並列容量による梯子型の等価回路をモデルとして扱うことができるというわけだ。そして、いかに損失のない伝送路にするかが問題となる。平たく言えば、インピーダンスに対する反射の現象で、うまくマッチングさせればいい。
本書は、伝送路に定在波が形成されるケースで、負荷インピーダンスを決定する様子が簡単に説明される。また、マイクロ波を解析する時に有効なスミス図表のちょっとした使い方も紹介してくれる。

2010-06-13

"ある数学者の生涯と弁明" G.H.Hardy & C.P.Snow 著

ゴッドフレィ・ハロルド・ハーディを知ったのは、リーマン予想に関する文献を読んだ時で10年ぐらい前であろうか。この解析的整数論の巨匠は、リトルウッドとの共同研究やラマヌジャンを見出したことで有名であるが、ゼータ関数で近似関数等式を示し、自明でない零点の数が無限に存在することを証明したことでも知られる。
本書には、G.H.ハーディの著書「ある数学者の弁明」と、その友人C.P.スノーが綴った偉大な数学者の回想録「ハーディの思い出」の二篇が収録される。たった100ページほどの量だが、重量感は抜群!これは数学書というよりは哲学書である。まぁ、酔っ払いにとって数学は哲学であるので、まったく違和感はない。

「ある数学者の弁明」では、ハーディの晩年の苦悩と弁解が綴られ、数学は創造的な芸術であると誇り高く語りながら、数学の意義と正当性が語られる。ハーディは、純粋数学の偉大さは戦争に関与しないと自慢しているが、後に、相対性理論へ影響を与えて核兵器の応用になったり、数論が軍用の暗号システムで活躍したことは皮肉であろう。純粋な精神は、脂ぎった政治力によって悪用される宿命を背負う。
「専門の数学者にとって、数学について書くと言うのは憂鬱な経験である。数学者の役割とは、何かを為すこと、即ち新しい定理を証明し、数学に新たなものをつけ加えることであり、自分自身や他の数学者がしてきたことについて語ることではない。政治家は政治評論家を軽蔑し、画家は美術評論家を軽蔑し、生理学者、物理学者あるいは数学者も同様な感情を普通抱いている。つまり、創造する人々が、説明する人々に対して抱いている軽蔑ほど根が深く、また全体として正当なものではない。解説、批評、鑑賞などは二流の人の仕事である。」
ハーディは、評論家の立場で物事を語ることを蔑む。だが、創造的な情熱を失った晩年の姿には、もはや評論家の立場に置くしかない寂しい様子がある。そして、「反感を持ったり、嫌になったりしても、退屈するのだけは良くない」と最後の情熱を絞り出すかのように弁明する。純粋な精神が解放された作品には、芸術性を顕にする迫力がある。創造的な生き方ができなくなったと悟ったからこそ、哲学的名著が生み出せたのかもしれない。この偉大な数学者は、純粋数学を追い求めてきて、ついに純粋な精神に到達したのだろうか?芸術に到達した精神には何が見えるのだろうか?
「本当に一つのことをよくやれる人となると、一握りに過ぎない。まして、二つのことを本当によくやれる人の数は無視できるほどのものである。」
それゆえに、才能のある人はあらゆる犠牲を払ってでも、能力を高めなければならないという。知的分野であれ、スポーツであれ、あらゆる分野において達人の域に至った者でしか味わえない境地というものがあるのだろう。
「本当の腕利きを賞賛しない者は、(いやな意味での)知識人だけである。」
人生を一つのことに集中できるというのは、一部の天才たちにのみ与えられた幸せなのであろう。多くのものに手を出しても、どれも究めることなどできやしない。なんでもできるってのは、なんにもできないことを意味し、器用貧乏で終わる。
しかし、だ!凡庸にも満たない酔っ払いに、勝手な解釈で暴走する以外に何ができようか?創造する側に立つのは、はかない憧れでしかない。一つのことすら中途半端にしかできないのであれば、いろんなことに手を出すことに幸せを見出すのも悪くはない。それが酔っ払った凡庸未満の生き方というものである。そして、夜の社交場でいろいろと手を出して火傷ばかりするのであった。

「ハーディの思い出」では、説教されているような感覚に見舞われる。美しく率直な性格、繊細な精神、妬み心とは程遠い寛大さなどと、おいらの性格とはまるで反対の言葉が並べられるからであろう。スノーは、この天才の珍しい気質はアインシュタインやラザフォードなどの天才たちにも及ばないと評している。天才とは、明らかに異質な存在である。ただ、ハーディの場合は付き合いが長くなるほど親しみがわいて、それほど普通の人とは変わらないことが分かってくるという。数学者というのは、理屈っぽく論理的な会話を好む傾向があり、その点では誤解されることもあろう。純粋性を求めるがゆえに、頑固で個性的な面を見せ、皮肉屋なところもある。どんな優れた人間にも、人間関係で好き嫌いはあるはず。
スノーは、ハーディはけして自己陶酔するような人物ではなかったと評している。しかし、芸術的な作品を残すのに、自己陶酔して精神を開放することも必要であろう。ましてや、これだけの傑作なのだ。
ちなみに、アル中ハイマーにとって、文章を書くためのアルコールパワーは絶大な威力を発揮する。気持ち良く顔を赤らめなければ、自己陶酔に浸れるものではない。そして、酔いが覚めて自分の文章を読み返すと、小っ恥ずかしさのために更に赤面する。精神は異次元へ放たれるために、鏡の向こうの住民はいつも顔が赤い...
また、スノーは、ハーディの意外な面も紹介してくれる。それは、自殺に失敗した哀れな姿である。完璧に自殺しようとして睡眠薬の量が多すぎたんだそうな。ん?自殺のための睡眠薬の適量なんてものがあるのかな?健康を害してどっちにせよ長生きできない体になっているのだが、創造力と情熱を失った後ろめたさのような感傷に浸っている。完璧な数学を求めるあまりに、完璧でない精神に嫌気がさしたかのように。
天才たちが若くして死ぬ多くのケースがある。それが自殺であったり、病死であったりと。彼らは、あらゆる複雑系の単純化を探求した挙句に、人生を単純化するには死ぬのが一番とでも悟るのだろうか?

1. 自己弁護の正当性
「自分自身の存在とその仕事を正当化しようとする人は、二つの異なった問いを明確に分けなければならない。その第一は、彼のしている仕事はするに値するものなのか。第二は、その価値はどうであれ、なぜ彼はそれをするのか。という問いである。」
第一の問いは、難しくしばしばがっかりさせられるという。また、第二の問いは、第一の問いに対して、謙遜した言い方に過ぎないので、第一の問いだけ真剣に考えればいいという。
ハーディは、数学者が数学を弁護することは、ある程度利己的にならざるを得ないことも認めている。自らを無理に正当化する理由も見当たらないが、ある程度の自己弁護は自然の感情であろう。自己弁護は、何かを成し遂げようとする意志の源泉にもなる。ハーディは、自己弁護は才能のある人がやる分には理に適っていると弁明する。客観性のみで語っても、精神の深みを探求したことにはならないだろう。多少の誇張も思考を高めるためには仕方があるまい。そもそも、客観性で語ると言って、そうだった例しを知らない。主観性で語る!と堂々と宣言するあたりに、人間の主観性の強さを客観的に考察しているとも言えよう。

2. 数学の有益性
「数学者が作る様式は、ちょうど画家や詩人の様式と同様に美しくなければならない。様々な概念は、色や言葉と同様に、互いに調和しつつ全体を形作らなければならない。美が第一の条件である。この世には醜悪な数学に永住の地はない。」
ハーディの言葉の引用で、よく見かける部分である。彼は、有益で賞賛に値する学問は数学の他には少ないとし、数学より地位の高いものは天文学と原子物理学ぐらいなものだと語る。ここには、本来、人類が目指すべき学問とは何か?という問い掛けが込められている。それは、人間とは何か?真理とは何か?という精神や宇宙原理の探求であろう。歴史は、本質的な価値はどうであれ、真理こそ最も長生きすることを示してきた。これこそ数学の業績にほかならない。ハーディは、数学はもっとも精密な学問で、魅力的な技巧に満ちていると主張する。おいらは、あらゆる学問の源泉は哲学にあると思っている。だが、哲学は、随分と遠回りをしてきたように映る。その点、数学は、地道に定理と証明の積み重ねで発展してきた。いや、仮説に頼ってきた経緯も見逃せないかぁ。ニュートン曰く、「私は仮説を作らない」。ニュートンは、この言葉を残しただけでも偉大である。今日、人類は不確定性に見舞われる複雑系と、不完全性に見舞われる矛盾性と対峙する。こうした時代に、仮説や仮想に精神の安住を求めるのも仕方があるまい。もしかしたら、複雑系と矛盾性は、宇宙原理の本質なのかもしれない。

3. 年齢と戦う学問
「ガロアは21歳で、アーベルは27歳で、ラマヌジャンは33歳で、リーマンは40歳で...死んだ主要な数学上の功績で、50歳を過ぎた人によって為された例を私は知らない。」
数学者にとって年齢は重要な意味を持つ。そこには、創造的情熱を持ち続けることの難しさがある。偉大な数学者には、晩年を悲劇的に過ごした例も珍しくない。数学とは、一旦精力を失うと、精神を失う世界なのだろうか?数学の世界で老いるとは、創造的な思考を失い自らの存在感を失うことであろうか?生命体にとって、老いほどの恐怖はないのかもしれない。
何かに生涯を賭けて究めようとするのは勇気のいることだろう。良い意味での野心を持ち続けることは難しい。ハーディは、最も高貴な野心は後世に何か恒久的な価値を残そうとするものだと語る。野心が、あらゆることを成就させるための源泉であるのは間違いないだろう。好奇心を高めれば純粋な野心が生起する。しかし、野心が利己主義に陥ってしまえば、これほど有害な存在はない。ちなみに、脂ぎった野心が厄介なことは政治屋が教えてくれる。
ところで、フィールズ賞に年齢制限がつけられることは、時代錯誤に映る。かつて40歳を一つの目安にしたことに、それなりの合理性があったことは否定しない。だが、近年では健康寿命が延びているし、生物学的にも突然変異して老人パワーが発揮される時代が到来するかもしれないではないか?

4. 「定理の重さ」と「概念の意義」
ハーディは、「定理の重さ」や「概念の意義」という言葉と結びつけながら、数学の意義を論じる。重くない定理の例として、ラウズ・ボールの「数学の遊び」を紹介してくれる。

(a) 10,000未満で、8712と9801の二つだけが、4桁の数字で逆に並べた数の倍数になる。
8712 = 4 x 2178
9801 = 9 x 1089

(b) 1以外の数で、各桁の数の3乗の和になる数は4つしかない。
153 = 1^3 + 5^3 + 3^3
370 = 3^3 + 7^3 + 0^3
371 = 3^3 + 7^3 + 1^3
407 = 4^3 + 0^3 + 7^3

これらは、数学者に強く訴えるものがないという。証明が難しくても、興味を惹かないものは、定理は重くないというわけか。しかし、証明してみると、実は隠れた重い定理が潜んでいるかもしれないではないか。そこで、たとえ意義がなくても、おもしろいのでメモるのであった。酔っ払いの生きる意義とは、ただ愉快になることなのだから...
数学の歴史とは、抽象化と一般化の歴史と言えるだろう。無理数の概念は、整数を含んだ数字の抽象化であって、整数の概念よりも深いことになる。同様に、ハーディは、素数定理はユークリッドの定理やピュタゴラスの定理よりも深いという。
更に、数学の抽象化は、射影幾何学においておもしろい現象を見せる。非ユークリッド幾何学の登場により、写しを完全にするか、不完全にするかの違いで、実存の議論を抽象化する。物体の構造は、抽象化の進化とともに分解され、ますます実体から離れていくかのように。数学的実存は、形而上学の問題を多く解決してきた。だが、抽象化が進むと哲学的な実存問題をややこしくしやがる。数学の発展がコンピュータを進化させ、議論の対象を実空間から仮想空間へと移してきた。数学は実存の概念から遠ざけようとしているのか?いや!そもそも、実存や実体なんてものは幻想なのかもしれない。科学の進化は、天動説から地動説へ変化したように段々人間の地位を格下げしてきた。そして、人間の存在すら蔑むのか?

5. ハーディの人物像
「彼は優れた知性の持ち主で、しっかりと目を開き、多くの本を読み、人間性に対して極めて一般的な感覚を身に付けていた... 強靭で、物事に集中し、辛辣で、道徳的虚栄心とは縁のない人であった。... 彼が嫌ったのは、傲慢な態度、独善的な義憤、大家具陳列場のような偽善の集まりだった。」
スノーは、美しく率直な精神の持ち主であると評しているが、極限まで純粋さを求めれば偏った性格も見せるだろう。人物像を一方面からだけで評価することはできない。実際に「ある数学者の弁明」に現れるハーディの姿には、欠点的な面も曝け出す。それでも、スノーは、誇り高く謙虚な言葉の方を信じたいと語る。
ちなみに、小説家グレアム・グリーンは、「ある数学者の弁明」の書評で、ヘンリー・ジェームスと並ぶ創造的芸術家であると評したという。
ハーディには聖職者の友人がいたそうだが、彼にとって神は個人的な敵であったという。
「生涯で一番幸福な時間の中の幾らかを、ローマ・カトリック教会の鐘の音と過ごさなければならないとは、不幸なことです。」
偉大な科学者や数学者は、神を思いっきり嫌うと同時に、独自の神学を構築するところがある。強制される神の存在は邪魔だが、自由に想像できる神の存在は邪魔にはならないということであろうか。

6. ラマヌジャンを見出す
スノーは、インドの天才数学者ラマヌジャンを見出したエピソードを紹介してくれる。ラマヌジャンは、荒削りの定理を記した原稿を、二人の有名な数学者に送ったが、いずれも却下されたという。次にハーディへ送ると、見たことも想像したこともない定理があって感動したそうな。そして、インドからイギリスへ連れてこなければならないと決心する。当時では珍しい人種偏見のない様子がうかがえる。ラマヌジャンは、英語がよくできなかったのでマドラス大学に入学できす、独学で数学を勉強したという。ハーディは、ラマヌジャンの洞察力をガウスやオイラーに匹敵する天才と評したが、十分な教育を受けていないことを嘆いていたようだ。数学に貢献する年齢にしては遅すぎたと...

7. 友人のケインズ
経済学で有名なジョン・メイナード・ケインズは、数学者として出発していてハーディの友人でもあったというから驚きだ。これだけで、ケインズの本を読んでみたくなった。かつて、ケインズはこういう忠告をしたそうな。
「彼はクリケットの記録に対するのと同じ集中力をもって、毎日半時間でも株式相場を読んでいたら、間違いなく金持ちになれただろうに!」
ハーディのクリケットの腕前は凄腕だったそうな。