「ルーベンス展」の余韻に浸りながら、もう一冊。酔っ払った美術オンチには、名画を読み物としてくれる、このような書はありがたい存在である。尚、ここでは、本書にならってオランダ語発音で「リュベンス」と表記する。
ペーテル・パウル・リュベンスは、第一に画家であったが、学者でもあり、絵画や古代彫刻の熱心なコレクターでもあったという。さらに、外交官としてスペインとイギリスの講和にも尽力し、世を去る時には荘園領主になっていて、野心的で好機を掴む才能に長けていたという。
リュベンス自身が下絵を描いて制作したものと、他人に制作を委ねて監督したものとを合わせると、絵画、銅版画、木版画の全部で3000点余りにのぼるとか。多様な作品群と、その圧倒的な生産力は驚異的!装飾画の連作や大画面の祭壇画をはじめ、肖像画、神話画、歴史画、寓意画などの視覚ボキャブラリーの豊かさは、一つの絵画的言語を形成している。そこには、芸術の才能の上に、ヨーロッパの王族や貴族と個人的な面識を持つ、一代で財を築いた成功者の姿がある。
しかし、彼の人生は順風満帆であったわけではない。幼少期には、宗教迫害のために亡命生活を余儀なくされる。南北で分裂したネーデルラントにあって、絵画という手段を用いて平和を唱え続けるが、落胆せざるを得ない状況に追い込まれる。それどころか、全ヨーロッパが三十年戦争へ向かうのであった。粛清の時代には、直接の批判を避け、遠回しで皮肉じみた文化が育まれる。彼の晩年の作品には、歴史の激動期に裏付けられた寓意に満ち満ちている。
宗教の役割とは何であろう?カトリック教が寛容さを失えば、異教弾圧を激化させる。罪人に寛容でも異教徒に厳しいとは、これいかに?そもそも、神を厳密に規定する必要があるのか?俗界の住人に分かるはずもないのに...
そして、ルネサンス期に生じた古代回帰の思想は、一神教への批判と解するのは行き過ぎであろうか?というのも、ギリシア神話やローマ神話には、神々の自由な振る舞いが生き生きと描かれる。少なくとも、厳正で抑圧的な一人の神より、欠点を持った人間味溢れる多くの神々の方が賑やかで楽しかろう。生命体は多様性に満ちており、それぞれに欠点を補いあう神々の世界の方が現世に適合していそうである。
リュベンスの晩年の作品にも、神話や聖書に反して、物語に微妙なアレンジを加えたものが現れる。彼は古典文学者としても知られるので、無知がそうさせているのではなく、世情に対するメッセージが巧みに組み込まれている。本書で注目したいのは、その作風の変化を、心境の変化と歴史に照らし合わせながら紹介してくれるところである。
さて、リュベンスの作品でまず目につくのが、豊満な肉体と官能的に描く人物像である。キリスト受難では、痩せ細った悲壮感よりも、むしろヘラクレスの英雄的な肉体美を重ねるかのように。女性像では、露出した乳房をふくよかに描き、ヴィーナス像を重ねるかのように。イタリア時代、ローマで古代ギリシア・ローマ彫刻の模写を続けた修行が、作風にはっきりと見て取れる。もっとも、17世紀前半フランドルの慣習的な美の構想に、ふくよかな女性像があったそうな。
ただ、リュベンスの場合はそれだけではなさそうである。なんと、53歳で16歳の女性と再婚!この頃から作風に変化が見られるという。晩年の作品とは、この時期以降を指す。人物画家として名声を博していたが、風景画にも重きを置くようになる。人間と風景を一緒に描く場合、残虐行為では人間どもが主役になり、穏やかな光景では風景が主役になるとは、これいかに?人間をいくら巧みに描いても、自然と同化できなければつまらない、とでも考えたのだろうか?もともと女性や幼児に平和の象徴としての役割を与える作風ではあるが、それがはっきりとしたメッセージとなっていく...
1. 亡命から画家への道
リュベンスは、ドイツのジーゲンで生まれる。彼の両親は、もともとネーデルラントのアントウェルペン(アントワープ)出身。大航海時代、アントウェルペンは国際貿易の中心地であり、思想と情報の発信源であった。父ヤン・リュベンスは、アントウェルペンの市参事会員に選ばれるほどの法律家であったが、カルヴァン派に属していたため1568年異端の嫌疑で告発され、リュベンス一家は20年近い亡命生活を余儀なくされたという。生涯に渡って和解と平和を信条にしたキリスト教的な人文主義者であったのも、こうした経験からくるのだろう。
ネーデルラントは、ハプスブルク家の権力争いに振り回される。1556年、カール5世が退位して修道院に隠遁すると、神聖ローマ帝国は東西に分裂。東のオーストリアは弟フェルディナント1世が統治し、ネーデルラントを含む西は息子のスペイン王フェリペ2世が統治する。フェリペ2世は強烈なカトリック信者で、ネーデルラントに好意を持っておらず、スペインの専制支配を押し付けた。彼の厳格な宗教政策とスペイン軍のネーデルラント駐屯が、反スペイン感情を刺激する。教会や修道院の破壊や略奪は、カルヴァン派の神学思想だけで生じたものではなさそうである。民衆の抗議運動では、単なる政治体制への反感が民族や宗教感情と結びついて、同一視されることが現在でもある。ここでは、スペインとカトリック教会が同一視される。つまり、自由を迫害するもの全てが敵となる。フェリペ2世は、司令官アルバ公爵フェルナンド・アルバレス・デ・トレドを派遣して報復し、恐怖政治を布く。1566年、ついにオラニエ公ウィレム1世が挙兵し、1581年、ユトレヒト同盟によってオランダ共和国の独立となる。当初、南部も北部と組んで抵抗したが、1585年、アレッサンドロ・ファルネーゼ率いるスペイン軍に降伏。
さて、リュベンスは、しばしばカトリック系の芸術家と見なされるが、それは便宜上の改宗であったのだろうか?両親の影響でプロテスタント的教育を受けたのは確かであろう。経済的に余裕がなかったにせよ、母親は高い社会階級に属していることを強く意識していたという。ラテン語が政治や学問などで国際語であった時代、リュベンスは人文主義教育を受け、ラテン語と古典文学を学ぶ。そして、可能な限り原典に立ち返り、ラテン語やギリシア語の原文で読む習慣を貫いたという。オウィディウスの「変身物語」やウェルギリウスの「アエネイス」などの文学作品、あるいは、ウァレリウス・マクシムス、プルタルコス、プリニウス、リウィウスといった古代ローマの歴史家の著述を... こうした原語へのこだわりが、独創的な発想を生み出すのに重要な意味があったという。
また、家族が困窮する中、小姓に出されるなどしたが、画家としての才能が優ったようである。風景画家トビアス・フェルハーフトに師事した後、アントウェルペンの有名な画家アダム・ファン・ノールトに師事し、さらに、アントウェルペンで最も称賛されたオットー・ファン・フェーンに師事し、1598年には親方資格を取得したという。ただ面白いことに、リュベンスは、芸術家としては大器晩成型かもしれないという。というのも、初期作品があまりにも少ないそうな。滅多に著名しなかったそうで、作品の判定では様式的な基準に頼るしかないらしい。後の多作ぶりを考えれば、作者不詳の作品に混じって美術館の収蔵庫に眠っている可能性は否定できないという。真の芸術家とは、作品を残すことに命をかけ、名を残すことにあまり興味を示さないものなのかもしれん。
...Cheers for unknown!, Hurrah for Mr. Nobody!
2. ローマ修行
1600年、リュベンスは、弟子のデオダート・デル・モンテとともにイタリアへ行き、マントヴァ公ヴィンチェンツォ1世・ゴンザーガと出会う機会に恵まれ、まもなく宮廷画家に迎えらる。ゴンザーガ家では、視覚芸術だけでなく、音楽や詩、そして学問も重んじられたという。リュベンスの滞在中、クラウディオ・モンテヴェルディが宮廷音楽家を努め、ガリレオも少なくとも2回はマントヴァを訪れているという。これだけ素晴らしい文化環境にあっても、公爵自身は、真の芸術愛好家ではなかったそうな。公爵の芸術庇護は、貴族としての威信を保つだめだったとか。リュベンスが雇われたのも、宮廷の女性たちを描くためだったかもしれないと。リュベンスは主君に従ってフィレンツェへ赴く。メディチ家の公女マリアとフランス王アンリ4世の代理結婚式に参列するために。マリア・デ・メディチは、後にリュベンスのパトロンになる人物。
また、公爵のためにコピーを制作するという名目でローマに赴き、古代ギリシア・ローマの芸術に触れ、美術品の模写を徹底的にやりまくったそうな。彫刻の「セネカの胸像」や「ラオコーン像」などは、後の人物画の影響に見て取れる。徹底的な基礎訓練の反復が、やがて独自の技術として開花することになる。これが独創性の正体なのかもしれん。模写と猿真似の違いは、オリジナルをヒントに独自に解釈して、自分のものにしてしまうということであろうか。リュベンスは古典だけでなく、レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロの作品にも触れ、模写しまくる。システィーナ礼拝堂では、ミケランジェロの天上画の預言者や巫女のポーズ、そして比類なき裸体青年のポーズを写し取ろうと、何時間も仰向いたであろうという。
しかしながら、イタリア滞在中の作品で最も顕著なのは、ティツィアーノ、ヴェロネーゼ、ティントレットらのヴェネツィア派の画家たちの影響だという。特にティツィアーノの影響は、晩年の作品にも再び目立つようになる。
ヴェネツィア派の特徴は、色彩の用い方と筆さばきにあるという。一方、フィレンツェ = ローマ派の特徴は、デザインないし「ディセーニョ」を強調したことで知られるという。ちなみに、ルネサンスの美術理論における「ディセーニョ」という用語は、完成作の土台に素描を用いるやり方を指すそうな。対照的にヴェネツィア派のやり方は「コローレ」と呼ばれ、カンヴァスに直接絵具を塗りつけるそうな。ヴェネツイア派の作品は、素描による複製には向かないということか。ディセーニョによって作品を生み出したミケランジェロのような美術家は、生身のモデルや古代彫刻のような理想的なモデルの写生を通して訓練し、人体の複雑なポーズを考案するという。対して、リュベンスの特徴は、模写の際、輪郭線に影付けを強調し、立体表現を際立たせていることだという。ほとんどの仕上げで、黄色、黄土色、バラ色、白などのハイライトを水彩あるいは油彩で点じているとか。なるほど、リュベンスは、ディセーニョとコローレというルネサンスの二つの伝統を融合させたということか。
また、イタリアの修行で最も重要なのは、カラヴァッジョとの出会いだという。カラヴァッジョの革新的な特徴はリアリズムで、カラヴァッジョ作「キリストの埋葬」の模写に表れている。さらに、ドイツ人画家アダム・エルスハイマーにも魅了されたという。サイズや効果など作品の性格は異質だが、しばしばエルスハイマーの光と影の用い方を取り入れているとか。
これほど芸術溢れる魅力的なローマとはいえ、対抗宗教改革の中枢にある都市、リュベンスにとっては複雑な心境だったかもしれない。あるいは、芸術を通しての真理の探求は、政治的な感情を凌駕していたのだろうか?
3. 普遍的な構想
1609年、12年間の休戦協定が調印され、ネーデルラントの平和に希望の光がさす頃、アントウェルペンへ帰郷する。スペイン宮廷の反対をものともせず休戦を推進したのは、アルブレヒト大公とイサベラ大公妃だったという。イサベラ大公妃は非凡な人物で、政治情勢に精通し、自立した判断力と強い性格の持ち主だったとか。リュベンスは、「女性の美徳をすべてに恵まれた高貴なお方」と評したという。人情味溢れる良心的な大公夫妻に敬意を払い、まもなく宮廷画家となる。こうした人脈が工房を成功へと導くことに。
対抗宗教改革は、その目標の多くを達成しつつあった。16世紀末には、ヨーロッパの半分がプロテスタント国を表明していたが、1650年には、5分の1にまで減り、多くがカトリックに復帰する。カトリック教会の改革運動の推進は、大半が才能豊かな個人によって行われたという。イエズス会を創設した聖イグナティウス・デ・ロヨラ、イエズス会士で東洋へ布教に赴いた聖フランシスコ・ザビエル、オラトリオ会を創設した聖フィリッポ・ネーリ、カルメル会を改革した聖女テレサといった人たちである。リュベンスは、これらの修道会からも注文を受けたが、最も関わりの深いのがイエズス会だったという。宗教思想を煽るのに、ダイナミックな視覚効果による宣伝ほど有効なものはないだろう。しかも、大画面で等身大の迫力で。そのうってつけが、リュベンス工房というわけである。リュベンスは、光と影の強い対比を用いて、キリスト像に英雄的なイメージを植え付ける。光源が人体の上で戯れる様子は、ミケランジェロには見られなかったものだが、カラヴァッジョの影響で典型的なバロックの特徴を与える。ルネサンスの作品には、ここまでの迫力はないらしい。
「キリスト昇架」には、両腕をあげて天を見上げる筋骨たくましいキリストの姿がある。痩せこけ、衰弱してうなだれるイメージとは、まったく正反対。力強く生きておられるという願いが込められているのか?なんとなく復活を予感させる。ヨハネの福音書(1:14)には、「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」というのがある。この作品は「肉となった神」にほかならないというわけか。
リュベンス絵画には、世俗的なリアリズムが宿る。大柄で肉付きのよい男性像、露わな胸に裸の子供を抱き寄せる母性像、豊満で官能的な女性像、興奮した犬... こうしたものは大袈裟にも映る。信仰心を掻き立てるだけなら、禁欲的で物質感のないものの方がよさそうな気もする。だが、彼の作品には物理的な物質関係までも描かれ、霊的な法悦や天上の物語でさえも、ニュートン力学上の出来事であるかのようである。リュベンスは、本当にカトリック的な信仰心を煽ろうとしたのか?熱烈な宗教心に対して、ちょっと冷静になれよ!と訴えているように映るのは気のせいか?
「キリスト降架」には、ぐったりした死せるキリストが、人々の手で十字架から降ろされる姿が描かれる。聖母マリアとマグダラのマリアの悲しむ姿など登場人物に強い光をあてて背景を暗くしていることが、悲壮感を強調する。この作品を見て、とても残虐な弾圧を支持する気にはなれない。リュベンスは、神を崇める前に、人道としての感情を呼び覚まそうとしたのでは?と解するのは行き過ぎであろうか?
「リュベンス芸術の最大の功績の1つは、彼以前のミケランジェロの功績と同様、ギリシア・ローマ神話であるか聖書であるかを問わず、いにしえの物語から普遍的真実を抽出したことだった。異教世界とキリスト教世界の硬直した区別を超えた真実である。かくして、ラオコーンの死はキリストの受難へと転じた。」
4. 外交官としての平和への願い
1621年、休戦協定が期限切れとなると、再び戦争が勃発し、やがて全ヨーロッパへ波及する。当時、全ヨーロッパは二陣営に分かれていた。一方は、カトリックを信仰するハプスブルク勢で、スペイン、ポルトガル、ハンガリーの一部、ドイツ諸侯の国々。もう一方は、これらに対抗するイギリス、フランス、デンマーク、スウェーデン。
1618年、ボヘミアのプロテスタントがプラハの王宮を襲い、三人の国王参事官を窓から放り出すという「プラハ窓外放出事件」が起こる。反乱者は、新しいプロテスタント王としてドイツ人フリードリヒ5世を擁立。フリードリヒ5世はイギリス王ジェームズ1世の娘を妃に迎えていたので、イギリスとの講和を期待してのこと。しかし、1620年、フリードリヒ5世はヴァイサーベルクの戦いで大敗を喫し、オランダへ亡命。アルブレヒト大公とイサベラ大公妃は休戦協定の更新を望むが、フェリペ3世はオランダへの軍事行動を再開しようとしていた。折悪しく、大公アルブレヒトは1621年に世を去り、南ネーデルラントの自治権はスペインへ返還される。
こうした混乱期に、いくら巨匠とはいえ、外交官として手腕を振るうとは、驚くべきものがある。宮廷画家には王室に近づきやすいという利点もあり、工作員という目でも見られる。実際、名画は外交の道具とされてきた歴史がある。とはいえ、国家同士のいがみ合いは、文化交流が糸口になるのも確かで、現在では経済交流が戦争リスクを軽減する。政治家が大局を推し量れず、自らの面子ばかりで処理しようとすれば、政治不要説ならぬ政治家不要説が叫ばれ、そこにマスコミという名の工作員が便乗するという構図は、いつの時代も同じか。
芸術の巨匠が、ハプスブルク家の正式な外交官に任命されることは、大きな意義がある。プロテスタント国イギリスは、もともとオランダと同盟している。リュベンスの目論見は、スペインがイギリスと講和すれば、その仲介でオランダとの協定が戻るというもの。いくら反目しあっていても、休戦という状態が大切なのだ。友愛なんてものを押し付けるから、却ってナショナリズムを煽る。人間関係というものは、近づきすぎるとろくな事にならないようである。好き嫌いは人間感情として自然に生じるもので、紛争は隣国で起こりやすく、神の前で誓った永遠の愛ですら長続きしない。ましてや宗教感情となると、交じ合うものではない。互いに存在を認め、そっとしておくこそ肝要。平和裏に共存するとは、距離をはかるという意味であろうか。
ところが、リュベンスにとっての平和とは、オランダがスペイン統治下に復帰することを意味していたという。駐英オランダ大使アルベルト・ヨアヒミは、唯一の方法はスペイン人をネーデルラントから追い払うことだ、と主張していたというのに。リュベンスほどの眼力の持ち主が、オランダが独立を放棄するとか、スペイン支配の下で平和を求めるとか、こんな非現実的な信念を持っていたとは。亡命時代を忘れたわけではなかろうが、カトリック信仰とハプスブルク家に対する忠誠心が強かったようである。というより、イサベラ大公妃への忠誠であろう。だが、イサベラ大公妃の意向とスペイン国王の野心は正反対。リュベンスは、大公妃のために北部諸州と交渉を試みるが、1631年と32年のオラニエ公訪問は不成功に終わる。
5. 理想の女性像とヌードモデル
妻イサベラ・ブラントが死去して4年後、1630年、リュベンスは16歳のエレーヌ・フールマンと再婚する。そして、多くの肖像画を残すだけでなく、彼女を数々の物語に登場させているという。スペイン宮廷が注文した「パリスの審判」では、枢機卿王子フェルディナンドから中央のウェヌス(ヴィーナス)が妻エレーヌにそっくりだと指摘されたとか。それは、トロイア王子パリスが、三人のうちで誰が最も美しいかと審判を求められた物語で、中央のウェヌスとは、トロイアのヘレネで、スパルタ王メネラオスの妻のこと。パリスがヘレネを連れ去ったことでトロイア戦争の原因となる。
「ウェヌスの祭り」や「三美神」もエレーヌをモデルにしているという。なるほど、エレーヌの肖像「毛皮をまとったエレーヌ・フールマン」とそっくり。この作品は、ヘット・ペルスケン(毛皮さん)と通称されるそうな。しかも、古代ギリシア・ローマ彫刻と結びついて「恥じらいのヴィーナス」や「メディチのウェヌス」のポーズが描かれる。
一般的に裸の女性モデルを前に描くことは、19世紀になるまで行われなかったという。1850年まで公的な美術学校では女性モデルが許されておらず、私的な環境でしかありえなかったとか。エレーヌは、リュベンス工房における愛の女神のような存在なのかもしれない
ところで、主要な文学作品にオウィディウスの「変身物語」がある。しかも、女性ヌードを描く恰好の口実だったという。画家たちに最も人気があり、「変身物語は画家の聖書」と呼ばれたほどだとか。アポロに追われたダフネは樹木に変身し、糸つむぎと機織りの腕前を女神ミネルウァと競おうとしたアラクネは蜘蛛に変えられる。ローマ神話の主神ユピテルは、ギリシア神話で言えばゼウスだが、様々なものに身をやつして、汚れを知らないニンフや人間の女を犯しまくる。エロティズムとユーモアあふれる雷オヤジの情熱が、オウィディウスの「変身物語」には満ちている。リュベンスの作品がみだらなものにならないのは、神話に取り組んでいるためだという。それは、普遍的なエロティズムを追求した結果であろうか?
6. 寓意画に見る晩年の境地
再婚した頃から、作風が公的なものから私的なものへ変化していくという。成功と財産を手中にしようとした野心的な時期には、パトロンたちに気に入られようと、大半が公共芸術となる。こうした時期を経て、やがて私的世界へ籠るようになる。富や名声に虚しさを感じるようになったのだろうか?騒がしい日々に嫌気がさし、真の安らぎを求めようとしたのだろうか?開眼のためには、自己の野心をも経験せねばならないのかもしれん。
「ヤヌスの神殿」には、戦争と平和という寓意が込められる。古代ローマの慣習で、ヤヌス神殿は平和な時は閉じられる。しかし、この作品では扉が開かれ、目隠しをして剣と松明を振りかざす男が、扉から出てくる場面が描かれる。
右手には、カドゥケウスを持つ「平和」が両手で扉を閉めようとし、後ろから大公妃と白衣の「敬虔」が力を貸す。「敬虔」は、火を灯した祭壇の上に献酒用の皿をかざしている。そして、ケシの旗と麦の穂とシュロの技を携えた「安全」と「平安」の擬人像が、それぞれ体現される。
一方、左手には、蛇の髪をした「不和」と復讐の女神ティシフォネが扉を開けようとしている。二人の間には、壺が倒れて血が流れ出る。その左から、大鎌を持ち、疫病の松明を掲げたミイラが死へ誘なう。「飢饉」は翼と竜の尾を持つ女面鳥身の怪物として表され、左側の連中の上を飛び回る。
しかしながら、戦争の非道さを最も雄弁に物語っているのは、母親の髪を掴み子供を引き離そうとする兵士の描写であろう。もはや、リュベンス芸術の主役は、宗教の神や歴史上の人物ではなく、罪のない犠牲者の象徴としての母と子へと移っていく。
創造力を刺激した官能的な霊感源が妻エレーヌだとすれば、芸術的な霊感源はティツィアーノだという。イタリアで、ティツィアーノ作品を模写しまくった真の成果が、晩年になって現れたようである。それは、風景の中に、神々を再構築、あるいは再創造するような...
ティツィアーノ作「ウェヌスの礼賛」の模写などは、その典型であろうか。その作品では、ティツィアーノが、矢で狙いをつけられて両手を広げている男の子クピド(キューピッド)を、女の子に変えているという。クピドたちは男の子にだけ翼があることになっている。ギリシア神話では、クピドはウェヌス(ヴィーナス)の息子だから。しかし、あえて女の子にしたのは、リュベンスにとって愛とは本質的に男女の間の現象で、性別は関係ないということらしい。しかも、多産を平和の象徴としているのか?
「ディアナとカリスト」という作品は、復讐の物語を同情によって愛の物語に変貌させているという。ディアナは、ギリシア神話でいうアルテミスのことで、狩りを司る処女神。供をするニンフたちも純潔でなければならないが、ユピテルはディアナに化けてカリストに近づき我がものにする。やがてカリストは身ごもり、ディアナの知るところとなり、罪として熊に変えられる。熊になったカリストは、息子アルカスに追われると、ユピテルはカリストを天上に非難させ、母子ともに大熊座と子熊座になったというお話。
ティツィアーノの作品は、二人のニンフがカリストを押さえつけ、それをディアナがなじるという荒々しい構想。対して、リュベンスの作品では、二人の主役は対等に描かれるという。ニンフたちは、下から覗きこむように慰めているように見え、カリストに対する同情の念を感じる。また、ディアナが結わない髪をなびかせているのが、異教徒的なイメージを体現しているそうな。なるほど、最初どれがディアナか分からなかった。
「平和の寓意」には、和平交渉の成功に鼓舞された楽観論から、平和は容易ではないという悲観論への推移が表れているという。平和の擬人像と愛の女神ウェヌスを融合させるという構想でありながら、妙に暗い印象を与える。中央に「平和」が座り、乳房からミルクを絞りだして赤ん坊にあてがう。赤ん坊は、通常、富の神プルトスと解されるらしい。果実を囲んだ平和な光景に、鎧に身を固めた戦の神マルスと復讐の女神たちが襲う。対して、兜をかぶった知恵の女神ミネルウァが「平和」を防御する。
母性と多産と子供の守り手としての「平和」という考え方は、古代ギリシアに由来するもので、ホメロスやヘシオドスに見られ、アリストファネスの反戦劇にも語られているという。この作品は、チャールズ1世に捧げられたそうな。
「戦争の惨禍」にもウェヌスに役割を与え、ついに「マルスと戦うヘラクレスとミネルウァ」で英雄ヘラクレスと芸術の神ミネルウァを戦の神マルスと戦わせることに...
「嬰児虐殺」では、新約聖書にあるヘロデ王の命でローマ兵たちが、嬰児たちが虐殺される場面。しかし、嬰児だけでなく、市民全体が虐殺されているところに、深刻なメッセージがうかがえる。三十年戦争へ拡大する絶望を描いたのか?あるいは、ヘロデ王の虐殺は、人類史で繰り返される普遍的行為と皮肉っているのか?
リュベンスの作品で、最も残虐な殉教図の一つが「聖ペテロの磔刑」であろう。聖ペテロの殉教は「黄金伝説」の記述で広く知られる。ペテロが自ら望んで逆さ磔にしてもらうのは、キリストと同じ形になることを遠慮したとされる。この作品は、4人の刑吏と、1人のローマ兵が聖ペテロを十字架に釘で打ち付ける場面。身の毛もよだつとは、こういう構図を言うのだろう。
7. 風景画に託す自然への思い
晩年の寓意画には、苦難が満ち、愛に絶望し、争いに裂かれた現実を想起させるものがある。しかし、同じ時期の風景画には、安定した世界があるという。もともと、独立した主題としての風景画は、さほど関心がなかったらしい。展覧会でも強烈な人物画家としての印象が強い。風景画もあるにはあったが。
リュベンスは、ティツィアーノの「カール5世騎馬像」に感銘を受けていたという。ティツィアーノは、カトリック世界の擁護者としての皇帝を描くのに、夕映えの風景を巧みに使っている。リュベンスの「レルマ像騎馬像」の風景は、ティツィアーノの手法に倣ったものだという。人物に威信を与えるために、風景を効果的に利用するのは常套手段であるが、あくまでも人物が中心に据えられる。
一方、晩年の作品では、風景が主役となっているのが見て取れる。歳をとると、故郷の風景に思いを重ねて、懐かしんだりするものなのだろう。普段のなにげない風景に、情緒を感じたりするのは、感受性が豊かになった証であろうか?あるいは、自然を新たな目で観察できるようになるのだろうか?
「虹のある風景」には、自然の中に人間たちと牛たちが溶け込む。そこに歴史物語はないが、妙に癒される。人間は自然と同化してこそ、本来の姿ということであろうか。「羊飼いと羊のいる日没の風景」、「月光の風景」など、もはや余計な説明はいらない。「フランドルのケルメス」には、人々が御馳走を食べ、酒を飲み、踊っている光景。人々が描かれるものの、やはり主役は風景。「嬰児虐殺」のように、残虐行為では人間が主役になり、平和の光景では自然が主役になる。
しかしながら、農民の祭りと対照的に描かれるのが、まったく違う社会で繁栄する人々。
「愛の園」には、17世紀の上流階級の集いが描かれる。豪華な衣装に飾られた古典的建築の前で、愛を育む人々。なぜか?こちらは人間が中心に映る。
Contents
- 2013-07-14 "リュベンス" Kristin Lohse Belkin 著
- 2013-07-07 "ルーベンス 栄光のアントワープ工房と原点のイタリア" 中村俊春 監修
- 2013-06-30 "リーマン・ショック・コンフィデンシャル(上/下)" Andrew Ross Sorkin 著
- 2013-06-23 "天才たちの誤算" Roger Lowenstein 著
- 2013-06-16 "なぜGMは転落したのか" Roger Lowenstein 著
- 2013-06-09 "民主主義がアフリカ経済を殺す" Paul Collier 著
- 2013-06-02 "最底辺の10億人" Paul Collier 著
- 2013-05-26 "貧乏人の経済学" Abhijit V. Banerjee, Esther Duflo 著
- 2013-05-19 "実験心理学が教える人を動かすテクノロジ" B. J. Fogg 著
- 2013-05-12 "ゲーム開発のための数学・物理学入門" Wendy Stahler 著
2013-07-14
2013-07-07
"ルーベンス 栄光のアントワープ工房と原点のイタリア" 中村俊春 監修
2013年6月2日... 北九州市立美術館で「ルーベンス展」を鑑賞した。俳優谷原章介氏の声が館内に調和し、至福のひとときを提供してくれる(音声ガイド500円)。そして、余韻を楽しむために図録を購入(本書2,400円)。美術オンチには、このような解説書でもないと味わうことが難しいのだ。おかげで、版画の鑑賞を疎かにしていたことに気づかされる。
鮮やかな油彩画が大画面で押し寄せ、等身大のド迫力に圧倒されると、版画の陰翳芸術が地味に映る。しかし、図録には版画の歴史的意義といったものが語られる。歴史でくすぐられると、酔っ払いの好奇心は疼き、もう一度足を運ばずにはいられない...6月11日
ところで、芸術の愉悦を味わうには五感を総動員したい。視覚と聴覚は揃っている。嗅覚も絵の具の雰囲気が漂う。触覚は図録で我慢するとして、足りないものは味覚だ。ブランデーを持ち込むと怒られるだろうなぁ...と呟きつつ...相棒のヒップフラスコっち...と目が合う。
さて、「ルーベンス展」と銘打っているが、彼自身の作品だけではない。これだけの数の大作を、どうして作り得たのか?それは、アントワープにあるルーベンス工房に鍵がある。芸術の大量生産システムと言えば、大袈裟であろうか。
17世紀頃、画家たちは工房組織によって芸術活動をしていたという。だが、大規模な工房による絵画制作に批判的な意見も少なくない。実際、ルーベンスの工房作品に対して、軽率に描かれるという批判があり、フランスの評論家ロジェ・ド・ピエールも好ましくない作品が多いことを認めているという。芸術の創作意欲は、孤高の天才によって手がけられるというイメージがある。社会の騒音から隔離された静謐な仕事場こそ、芸術に相応しいと思ったりもする。こうした考えは、19世紀のロマン主義時代に定着した芸術像だそうな。工房の役割は絵画制作だけではなく、教育機関としても機能していたようである。
本展覧会では、ルーベンス工房で活躍した5人を紹介してくれる。ヤーコプ・ヨルダーンス、アントーン・ヴァン・ダイク、アブラハム・ファン・ディーペンベーク、ヤン・ファン・デン・フッケ、ヤン・ブックホルスト。尚、ヤーコプ・ヨルダーンスは、弟子というより外注という形で参加していたという。
中でも、ヴァン・ダイクは傑出した存在のようで、イングランド国王チャールズ1世の宮廷画家になっている。彼は、親方資格を取得しながらルーベンス工房にとどまり、助手であり続けたという。その偉大さは、パウルス・ポンティウス作「ルーベンスとヴァン・ダイク」という二人の肖像版画に顕れている。
また、ルーベンス工房に属さない共同制作者の存在が大きい。画家にも得意分野があり、他の学問と同様、専門細分化や分業といった傾向があるようだ。人物画家のルーベンスと、風景、動物、静物などを得意とする専門画家とのコラボレーションは、合理性を追求した結果であろうか。得意分野の集合体として絵画を完成させる手法は、16世紀初頭のフランドルで誕生し、さらに画家の専門化が進み、ちょうどルーベンスの時代に花開いたようである。
特に注目したいのは、動物画と静物画の専門家フランス・スネイデルスと、風景画家ヤン・ウィルデンスで、彼らも自身の工房を構えていたという。ルーベンスが主動的な立場であったのは確かなようだが、彼らとの共同制作には腕比べの意味もあったようだ。
「狼と狐狩り」という作品では、ルーベンスが自尊心を傷つけられたというエピソードを紹介してくれる。注文主のカールトンは、オリジナルの動物を描いたのはスネイデルスだと思い込むが、実はルーベンスが描いたもの。ルーベンスにはスネイデルスに劣らない自負があって、皮肉まじりに弁明している。スネイデルスに死んだ動物を描かせたら天下一品だが、生きた動物を描かせたら自分の方が上だと言わんばかりに。尚、年長のヤン・ブリューゲル(父の方)との共同制作では、ルーベンスの方が客員という立場で描くことが多かったという。その息子ヤン・ブリューゲル(父と同名)の作品にも人物を描いているとか。本展覧会では、彼らの作品も紹介される。
スネイデルス作「猟犬に襲われる猪」には、狩猟者などの人物が登場しない。なのに、猪に噛み付く犬は、人間に飼い慣らされているような妙な雰囲気を漂わせている。白い犬には、ペットの象徴のような先入観があるのだろうか?
スネイデルスの動物画の躍動感は、ルーベンスとの共同作品「熊狩り」に見られる。この作品は、スペイン国王フェリペ4世に依頼された最後の作品で、8点からなる狩猟を題材にした大画面連作の1点だという。どうせなら連作で鑑賞したいものだが、うち6点は火災で失われたそうな。これも横幅3メートルあったものが、右側が失われ2メートルに縮まっているとか。種明かしがなければ違和感はないのだが、下絵の油彩スケッチと比べると、やはり躍動感が違う。芸術とは、部分描写も重要だが、観点や思慮の総合的描写によって決まるということか。尚、「シルヴィアの鹿の死」は、失われた6点の中の下絵として展示される。
失われた作品であっても、下絵や原画を模写した版画が残されれば、いずれ工房で復活する可能性がある。だからといって、ルーベンスが色褪せることはないだろう。真の芸術には、著作権をやかましく主張しなくても、鑑賞者を黙らせる力があるのだと思う。それが、模倣芸術との違いであろう。展示会では、つい本作品に目がいきがちだが、下絵や原画を模写した版画には歴史が詰まっていることを留意しておきたい。そして、解説に目を通していくと、助手たちの「見えざる手」といったものが見えてくる。アダム・スミスではないが、これぞ神の手というものであろうか。したがって、「ルーベンス展」というより「ルーベンス工房展」と呼んだ方が良さそうである。
1. 時代背景
中世、カトリック教の強烈な支配で寛容性が失われると、古代ギリシア・ローマ時代の自由意志を懐かしむ風潮が生じ、古典回帰の文化運動が巻き起こる。いわゆるルネサンス。芸術とは、自由精神の開花の結果であり、芸術の爆発とは、抑圧された社会への反動から生じるものなのだろう。レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロといった画家が、15、16世紀頃に登場したのも偶然ではあるまい。そして、美術品の収集活動は、メディチ家の断絶後、ハプスブルク家が受け継ぐ。
16世紀以来、ネーデルラントはハプスブルク家の支配下にあった。スペイン国王フェリペ2世の時代になると、新教徒に対する激しい弾圧や経済情勢の悪化のために民衆の不満が高まる。1566年、オラニエ公ウィレム1世が反政府軍を組織し、1581年、北部7州はユトレヒト同盟によってスペイン統治を拒否。一方、南部の諸州はスペインの支配下として残り、カルヴァン派の勢力の強いアントワープも、1585年、アレッサンドロ・ファルネーゼ率いるスペイン軍に制圧される。こうして、ネーデルラントは、プロテスタント国である北のオランダ連邦共和国と、スペイン支配下の南ネーデルラント(フランドル)に分裂した。しかし、スペインは、1648年のミュンスター講和までオランダの独立を認めず、1609年から1621年の休戦期間を除いて、武力衝突が続く。ルーベンスは、ちょうどこの時期、いわゆるバロック期に活躍する。
彼は、芸術の中心がイタリアにあると確信すると、1600年イタリアへ行き、マントヴァ公の宮廷画家となる。8年間のイタリア滞在後アントワープへ帰郷し、1609年、統治者アルブレヒト大公とイザベラ大公妃の宮廷画家に任命される。1623年頃から外交官としての手腕を振るい、スペインとイギリスの和議成立にも貢献したという。
また、古典を基礎に置く教育を受けた人文主義学者でもあったという。ラテン語や古典文学にも造詣が深く、自宅や工房や装飾などを手がける建築家でもあったとか。ガウディは、建築はあらゆる芸術空間の総合であり、建築家のみが統合的な芸術作品を完成することができるとした。天才芸術家の精神というものは、絵画という平面空間にとどまることができず、多次元空間へ飛び出さずにはいられないのだろう。実際、魅せつけられる作品群は、静止画でありながら動画よりもはるかに動的な歴史物語を語っている。魔力を吹き込んだ動的リアリズムとでも言っておこうか。寓意的な描写が多く感じられるのは、激動の時代を生き残るための術であろうか。
ここでは、その時代を象徴する作品を二つ挙げておこう。
「勝利者としてのローマ」
ここには、ローマの元老院と市民 "Senatus Populusque Romanus" を意味する「S.P.Q.R.」が記される。マクセンティウスを打ち破った古代ローマ皇帝コンスタンティヌスが、ローマを暴君から解放し、市民の自由を取り戻したことが描かれているわけだ。ネーデルラントの自由を、ローマの自由に重ねたのだろうか?
「二人の女性寓意像とアントワープの城塞の眺望」
ここには、弾圧に対する反感がうかがえる。いささか生気を欠いた女性二人に、光の陰影効果もいまいちな作品ではあるが...
短剣を抱え、兜と盾の上に足を載せている女性は、戦争と勇気を描いた寓意像で、一緒に抱きあう後ろ姿の女性は、運命の寓意像だという。その背景には、五角形のアントワープの城壁が描かれる。アントワープの城壁は、1568年、スペインがこの地の統治を強化するために、アルバ公爵の命で建造された。だが、1577年、一時的にスペイン支配を脱して取り壊され、1585年、再びスペイン軍に占領されて再建される。この城は、スペイン軍がアントワープへ入市行進を行う出発地でもあったという。ルーベンスは、入市行進式典の芸術監督を務めたことから、その式典に関連した作品と推定されている。
本書は、プロテスタント勢力に対する勝利を象徴しているという解釈を支持している。一方で、武具を踏みしめていることから平和への渇望が描かれているという解釈もあるらしい。確かに、この作品だけを眺めるとネーデルランド色が強い。だが、作品全般を眺めると普遍的な思いを感じないわけではないので、後者の解釈も捨てがたい。一人の人生に一貫性を持たせることは不可能であろうから、作品の時期によっても作者の思いは違うだろう。
2. キリスト物語
ルーベンスの作品群には、キリスト教的な人文主義を信条にしていたことが伝わる。本展覧会にも見事なキリスト物語が蘇る。とりわけ、「ご訪問」、「羊飼いの礼拝」、「聖母子と聖エリサベツ、幼い洗礼者ヨハネ」、「キリスト哀悼」、「復活のキリスト」は、連作として眺めると味わい深い。
「ご訪問」は、長い間不妊であった聖母マリアが、天使から懐妊のお告げを受け、従姉妹のエリサベツのもとを訪れる場面。
「羊飼いの礼拝」は、生まれたばかりのキリストを、聖母マリアが布で包もうとする場面で、キリストに礼拝するためにベツレヘムまでやってきた羊飼いたちが描かれる。
「聖母子と聖エリサベツ、幼い洗礼者ヨハネ」では、幼いヨハネが聖母に抱かれる幼児キリストを見つめている。聖ボナヴェントゥーラ作として普及していた13世紀後半のフランシスコ派の書作「キリストの生涯についての瞑想」には、聖母マリアとヨセフがエジプトからの帰途、幼児キリストを伴ってマリアの従姉妹エリサベツとその子である洗礼者ヨハネのもとへ訪れるが、その際、幼いヨハネがキリストに敬意の念を示したことが記されるという。まさにその場面。
「キリスト哀悼」は、安らぎの象徴、聖母マリアとマグダラのマリアに抱かれて死を迎えようとするキリストの姿。身体を清めたと思われる洗面具や白い布などとももに、左下の隅には、ちと見えにくいが、受難具の釘とハンマーが描かれる。
「復活のキリスト」は、死後3日目に蘇ったとされるキリストが、既に右足を地面に置き、次に左足を地面に置こうとする瞬間。左足親指の立っている角度が妙に生々しい。生に満ちた目は、十字架で絶望の淵にあった目とは対照的。死を克服した者を描いているのだろうか?最後の審判の際の天国への復活を願う信者たちには、とりわけ好まれた作品だという。
ところで、それぞれの人物像にはモデルが実在したようである。妙にリアティがあるのはそのためであろうか?
「アッシジの聖フランチェスコ」の首をかしげている姿は、その辺にいるオッサン!などと感想を漏らせば怒られそう。修道衣を身につけた聖フランチェスコの手と足は、磔刑に処せられたキリストと同じ場所に聖痕を負っている。空から注ぐ聖なる光を帯びて、両手に胸を当てた謙譲のポーズだそうな。しかし、光の質感が粗悪で、聖なる光には見えない。人物像がこれほどリアティで、なぜ背景が粗悪なのか?
さて、男性像に関しては個性を感じるが、女性像に関してはヴィーナスを象徴するような、豊満な乳房にふくよかな肉体像ばかりが目立つ。「9つの頭部」と題してルーベンスの素描も展示されるが、老人の表情など古代ギリシアの哲学者を彷彿させるような繊細さ。一方、「聖ドミティッラ」、「毛皮をまとった婦人像」、「三美神」など...カトリック的な理想の女性像であろうか?
「悔悛のマグダラのマリア」はヴァン・ダイクの作品ではあるが、その特徴が強く表れている。マグダラのマリアは、キリストに悪霊を追い払ってもらい、磔刑と埋葬に立ち会い、墓前では天使から主の復活を告げられ、復活後のキリストに最初に出会う栄誉を受けた女性。中世、この聖女にまつわる伝説が拡充し、フランスのプロヴァンス地方サント=ボームの荒野に隠棲したという伝承が生まれ、荒野で悔い改める図像が出来上がったという。しかも、この世の財を捨て去った隠棲聖人らしく、ほぼ裸体で表されるようになったとか。豊満な乳房を露出させ、官能性を強調するのは、そういう意味もあるようだ。上を見つめて大粒の涙を流すが、口元は笑みを浮かべ、やや狂乱気味。この作品には伝承の風潮が見て取れる。ただ、隠棲を強調するならば、痩せ細っている方が説得力がありそうな気もするけど。
3. ギリシア神話とローマ神話
ギリシア神話とローマ神話を描いたこの二つの作品を眺めるだけでも、ルネサンス期の風潮が伝わる。
「ヘクトルを打ち倒すアキレス」
トロイア門外で、アキレスに加勢する女神ミネルワが槍を渡し、その槍で喉を刺してヘクトルが崩れ落ちようとする場面。ギリシャ神話の好きなおいらは、この題材だけで見入ってしまう。
「ロムルスとレムスの発見」
ここには、ローマ建国伝説の主役ロムルスとレムスの誕生秘話が描かれる。アルバ・ロンガの王ヌミトルから王位を奪った弟アムリウスは、ヌミトルの子孫によって復讐されることのないように、その娘レア・シルウィアを処女が義務付けられるウェスタの巫女にした。だが、レアは軍神マルスに見初められ、双子の兄弟ロムルスとレムスを産む。双子は、アムリウスの命によりテヴェレ川に捨てられるが、雌狼とキツツキに育てられ、羊飼いのファウストゥルスに発見され引き取られる。ここには、ファウストゥルスが、川辺のイチジクの木の下にいる双子の兄弟を発見した奇蹟の場面が描かれる。
4. 版画作品
濃淡と明暗だけの世界に歴史の重みを感じるのは、モノトーンがノスタルジーな精神色彩の基本だからであろうか。版画といっても浮世絵のような木版画ではない。彫刻刀で彫るのではなく、鉄のペンで描くエッチングで、化学薬品などの腐食作用を利用した塑形や表面加工といった技法。だから極めて精細な版画となるそうな。
ルネサンス以降、画家が生み出した構図は、版画を通じて広く普及したという。ラアファエロの素描は、版画家マルカントニオ・ライモンディによって、その構想が伝えられたそうな。ティツィアーノに至っては、油彩画の版刻によって、それを目にできない人々にも構図の観賞ができるよう配慮したとか。版画は、工房に収集され、制作資料となり、若い芸術家たちの素描学習のための手本となる。
ルーベンスもまた自ら監督となり、自作絵画の版画化を進めている。だが、彼自身は版画にそれほど精通していなかったらしく、主に訂正を加えるものだったらしい。それは... まず、下絵素描は工房の画家が行い、ルーベンスがその素描にインクと白のグワッシュで訂正を施す。次に、下絵素描の裏面に黒または赤のチョークを塗り、その面を版刻する原板の上に置き、素描の形態の輪郭線を先の鋭い金属製のペンでなぞって原板に写される。そして、版画家がその輪郭線をなぞって版刻する... といった具合に。
本展覧会では、クリストッフェル・イェール作「エジプト逃避途上の休息」と一緒に、ルーベンスによる加筆訂正版が展示される。美術館へ二度目に足を運んだ時、ここだけで何度往復したことやら...
当時、著作権が十分に保護されないため、ルーベンスの絵画に基いて版画を制作することは誰にでも可能だったようだ。ただ、印刷物である版画に関しては、プリウィレーギウム(Privilegium)という複製を禁ずる独占版権を得ることができたという。国ごとに申請する必要があり、ルーベンスは、南ネーデルラント、フランス、オランダで版権を取得したという。
工房で生み出された版画は極めて質が高く、明暗のコントラストや素材感を見事に再現している。その貢献は、版画家リュカス・フォルステルマンによるものが大きいという。しかし、ルーベンスのこだわりは半端ではなく、フォルステルマンがその厳しさに追い詰められ、暗殺を企てたという噂もあるとか。
ここでは、モノトーンに刻まれた歴史物語をつまんでおこう。
「ホロフェルネスの首を切り落とすユディット」コルネーリス・ハッレ作
旧約聖書外典「ユデイット記」によると、ユダヤの町ベツリアがアッシリア軍に包囲された時、美貌の寡婦ユディットの英雄的な行為が町を救ったという。彼女は民を裏切ったように振舞い、敵の司令官ホロフェルネスに取り入る。魅了されたホロフェルネスは彼女を招いて宴を催すが、酔いつぶれたところを剣で首を切り落とされる。まさに、その切り落とそうとする場面。寝台から滑り落ちそうなホロフェルネスが苦痛で顔をゆがめるところに、ユディットが右手で口を押さえ、冷酷な暗殺者を演じている。その見下した目がなんとも印象的だ。それを4人の天使が見つめているという構図。版画のコントラストが、油彩画には現れない冷酷さを強調するかのようだ。
「アレクサンドリアの聖カタリナ」ルーベンス作
アレクサンドリアのカタリナは、伝説上の聖女。ヤコブス・デ・ヴォラギネの「黄金伝説」によると、カタリナとの結婚を望んだ皇帝マクセンティウスは、彼女にキリスト教の信仰を捨てさせようと、哲学者たちと議論させる。だが、哲学者たちが逆にキリスト教の信者になってしまい、彼らは火刑に処せされる。さらに皇帝は、カタリナを4つの車輪からなる拷問の道具で処刑しようとするが、彼女が縛り付けられると、天から稲妻が落ち車輪は粉砕される。その後、彼女は首を切り落とされ、遺骸は天使たちによってシナイ山に運ばれたという。この作品では、カタリナは勝利の殉教者として描かれる。
「ソドムを去るロトとその家族」リュカス・フォルステルマン作
旧約聖書「創世記(19:1-28)」に記されたロトとその家族が、ソドムの町を去る場面。神は、罪深い人々が住むソドムとゴモラを滅亡させるに際し、ロトと彼の家族だけを救うことにした。かくして天使に導かれ、ロトと妻、二人の娘たちが町を去らんとするが、ロトは苦悩の表情を浮かべ、妻は涙する。ちなみに、その後、後ろを振り返ってはならぬという神の命に背いたため、妻は塩の柱に変えられ、娘たちは子孫を残すために父ロトを酔わせて誘惑するそうな。
「スザンナと長老たち」リュカス・フォルステルマン作
旧約聖書外典「ダニエル書」によると、裕福なユダヤ人ヨアキムの貞淑な妻スザンナが庭で入浴していると、二人の長老が彼女に襲いかかり、言うことを聞かないと若い男と通じていると告発すると脅すが、彼女は脅しに屈せず助けを叫んだ。そのために彼女は虚偽の告発を受けるが、預言者ダニエルにより長老たちの嘘が暴かれる。この物語は、ルネサンス期以降に好んで題材にされたという。
「聖家族のエジプトからの帰還」リュカス・フォルステルマン作
ユダヤの王となる運命を持つキリストが生まれたことを知ったヘロデ王は、王座から追われることを恐れて、ベツレヘムとその近郊の子供たちをことごとく殺害するよう命じる。しかし、マリアとヨセフは、キリストを連れてエジプトへ逃避していたので難を逃れる。この作品は、エジプトから帰還する場面で、キリストは既に幼児ではなく、少年に成長している。
「キリスト降架」リュカス・フォルステルマン作
ルーベンスの最も有名な作品の一つで、キリストの亡骸を十字架から降ろす人々を描いた作品。もはや説明はいるまい。版画には、生々しい血痕が赤く見えない分、余計に迫力がある。まさに陰翳芸術の最たるものか。
「聖母マリアの被昇天」パウルス・ポンティウス作
対抗宗教改革期のカトリック教会では、プロテスタントとは対照的にマリア信仰が重視されたという。マリアの魂と肉体が死後3日後に天に引き上げられるという被昇天の主題も頻繁に描かれたそうな。
「トミュリスとキュロス」パウルス・ポンティウス作
ヘロドトスの「歴史」には、マッサゲタイ族の女王トミュリスによるペルシア王キュロスに対する復讐の物語がある。トミュリス軍を率いる女王の息子スパルガビセスは、キュロスの奸計によってワインを飲まされ、酩酊させられ破れる。捕らえられたスパルガビセスは自害。息子を失った女王は、復讐に燃えてキュロスに勝利し首をはねる。「私は、お前の血への渇きを癒してやると言ったが、その通りにしてやるのだ。」と言ったとか。まさに、キュロスの首を手にした若者が、敵の血で満たされた鉢に浸けようとする場面。豪華なドレスをまとった女王トミュリスとその周囲の者たちが、その様子を冷ややかに見下ろしている。
「キリストの磔刑(槍の一突き)」ボエティウス・アダムスゾーン・ボルスウェルト作
福音書によれば、キリストは二人の盗人とともに、ゴルゴタの丘で磔刑に処せられたが、そのうちの一人がキリストに罵声を浴びせたのに対し、もう一人はキリストに帰依したとされる。馬に乗った兵士が、槍を持ってキリストの脇を突き刺している。この兵士は、他の福音書にある「まことに彼は神の子であった」と叫んだとされる百卒長と同一視され、後に槍を意味するギリシア語に由来するロンギヌスと呼ばれるようになったという。この作品は「槍の一突き」と通称されるそうな。
「ライオン狩り」スヘルテ・アダムスゾーン・ボルスウェルト作
ド迫力!後ろ足で立ち上がった馬から真っ逆さまに落馬するムーア人に噛み付くライオン。そのライオンを後ろから槍で仕留めようとする甲冑を身につけたローマ風の兵士。さらにそれを支援する馬に乗った二人のムーア人。人物と動物が一体化した動感溢れる狩猟のドラマが描かれる。
「ヘロデの饗宴」スヘルテ・アダムスゾーン・ボルスウェルト作
新約聖書「マタイによる福音書(14:6-11)」によると、ヘロデ王は、誕生日の祝いの席で、妻ヘロデヤの連れ子サロメが巧みに踊ったのを褒め称え、彼女の望むものを何でも与えると約束したという。サロメは、ヘロデヤに従って洗礼者ヨハネの首を所望したとか。ヘロデが兄弟ピリポの妻であったヘロデヤを娶ったことをヨハネが非難したため、ヘロデヤはヨハネを憎悪していた。まさに、切り取られたヨハネの首を載せた皿を抱えるサロメが描かれ、それをヘロデ王に見せている場面。ヘロデ王が後退りする横で、ヘロデヤは平然と王に語りかけている。
「奇蹟の漁り」スヘルテ・アダムスゾーン・ボルスウェルト作
「ルカによる福音書(5:1-11)」にある、キリストによる奇蹟の漁りの場面。ゲネサレ湖で、キリストは漁師ペテロに船を沖へ出し、網をおろすように命じる。前夜、何も取れなかったペテロは、いぶかしく思いつつ網をおろすと、大量の魚がかかる。別の船でヤコブとヨハネも手伝うが、ともに船が沈みそうになるほどに。その時、キリストはペテロを諭してこう言ったという。
「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ。」
「酔っ払ったシレノス」クリストッフェル・イェール作
オウィディウスの「転身物語」で語られるシレノスの逸話。アル中ハイマーを名乗るからには、通り過ぎるわけにはいかない作品だ。酒神バッカスの師シレノスが泥酔してよろよろ歩くところを、フリジアの農民たちに捕まりミダス王のもとに連れられる。王は、バッカスの育ての親シレノスを歓迎し十日十夜の宴を催す。シレノスはすっかり酔っ払い、自然の精霊サテュロスと農耕の精霊ファウヌスに抱えられる場面。ヘシオドスの物語「仕事と日」を思い浮かべながら、朝っぱらから飲んでないで仕事しろ!と説教が聞こえてきそうな...
鮮やかな油彩画が大画面で押し寄せ、等身大のド迫力に圧倒されると、版画の陰翳芸術が地味に映る。しかし、図録には版画の歴史的意義といったものが語られる。歴史でくすぐられると、酔っ払いの好奇心は疼き、もう一度足を運ばずにはいられない...6月11日
ところで、芸術の愉悦を味わうには五感を総動員したい。視覚と聴覚は揃っている。嗅覚も絵の具の雰囲気が漂う。触覚は図録で我慢するとして、足りないものは味覚だ。ブランデーを持ち込むと怒られるだろうなぁ...と呟きつつ...相棒のヒップフラスコっち...と目が合う。
さて、「ルーベンス展」と銘打っているが、彼自身の作品だけではない。これだけの数の大作を、どうして作り得たのか?それは、アントワープにあるルーベンス工房に鍵がある。芸術の大量生産システムと言えば、大袈裟であろうか。
17世紀頃、画家たちは工房組織によって芸術活動をしていたという。だが、大規模な工房による絵画制作に批判的な意見も少なくない。実際、ルーベンスの工房作品に対して、軽率に描かれるという批判があり、フランスの評論家ロジェ・ド・ピエールも好ましくない作品が多いことを認めているという。芸術の創作意欲は、孤高の天才によって手がけられるというイメージがある。社会の騒音から隔離された静謐な仕事場こそ、芸術に相応しいと思ったりもする。こうした考えは、19世紀のロマン主義時代に定着した芸術像だそうな。工房の役割は絵画制作だけではなく、教育機関としても機能していたようである。
本展覧会では、ルーベンス工房で活躍した5人を紹介してくれる。ヤーコプ・ヨルダーンス、アントーン・ヴァン・ダイク、アブラハム・ファン・ディーペンベーク、ヤン・ファン・デン・フッケ、ヤン・ブックホルスト。尚、ヤーコプ・ヨルダーンスは、弟子というより外注という形で参加していたという。
中でも、ヴァン・ダイクは傑出した存在のようで、イングランド国王チャールズ1世の宮廷画家になっている。彼は、親方資格を取得しながらルーベンス工房にとどまり、助手であり続けたという。その偉大さは、パウルス・ポンティウス作「ルーベンスとヴァン・ダイク」という二人の肖像版画に顕れている。
また、ルーベンス工房に属さない共同制作者の存在が大きい。画家にも得意分野があり、他の学問と同様、専門細分化や分業といった傾向があるようだ。人物画家のルーベンスと、風景、動物、静物などを得意とする専門画家とのコラボレーションは、合理性を追求した結果であろうか。得意分野の集合体として絵画を完成させる手法は、16世紀初頭のフランドルで誕生し、さらに画家の専門化が進み、ちょうどルーベンスの時代に花開いたようである。
特に注目したいのは、動物画と静物画の専門家フランス・スネイデルスと、風景画家ヤン・ウィルデンスで、彼らも自身の工房を構えていたという。ルーベンスが主動的な立場であったのは確かなようだが、彼らとの共同制作には腕比べの意味もあったようだ。
「狼と狐狩り」という作品では、ルーベンスが自尊心を傷つけられたというエピソードを紹介してくれる。注文主のカールトンは、オリジナルの動物を描いたのはスネイデルスだと思い込むが、実はルーベンスが描いたもの。ルーベンスにはスネイデルスに劣らない自負があって、皮肉まじりに弁明している。スネイデルスに死んだ動物を描かせたら天下一品だが、生きた動物を描かせたら自分の方が上だと言わんばかりに。尚、年長のヤン・ブリューゲル(父の方)との共同制作では、ルーベンスの方が客員という立場で描くことが多かったという。その息子ヤン・ブリューゲル(父と同名)の作品にも人物を描いているとか。本展覧会では、彼らの作品も紹介される。
スネイデルス作「猟犬に襲われる猪」には、狩猟者などの人物が登場しない。なのに、猪に噛み付く犬は、人間に飼い慣らされているような妙な雰囲気を漂わせている。白い犬には、ペットの象徴のような先入観があるのだろうか?
スネイデルスの動物画の躍動感は、ルーベンスとの共同作品「熊狩り」に見られる。この作品は、スペイン国王フェリペ4世に依頼された最後の作品で、8点からなる狩猟を題材にした大画面連作の1点だという。どうせなら連作で鑑賞したいものだが、うち6点は火災で失われたそうな。これも横幅3メートルあったものが、右側が失われ2メートルに縮まっているとか。種明かしがなければ違和感はないのだが、下絵の油彩スケッチと比べると、やはり躍動感が違う。芸術とは、部分描写も重要だが、観点や思慮の総合的描写によって決まるということか。尚、「シルヴィアの鹿の死」は、失われた6点の中の下絵として展示される。
失われた作品であっても、下絵や原画を模写した版画が残されれば、いずれ工房で復活する可能性がある。だからといって、ルーベンスが色褪せることはないだろう。真の芸術には、著作権をやかましく主張しなくても、鑑賞者を黙らせる力があるのだと思う。それが、模倣芸術との違いであろう。展示会では、つい本作品に目がいきがちだが、下絵や原画を模写した版画には歴史が詰まっていることを留意しておきたい。そして、解説に目を通していくと、助手たちの「見えざる手」といったものが見えてくる。アダム・スミスではないが、これぞ神の手というものであろうか。したがって、「ルーベンス展」というより「ルーベンス工房展」と呼んだ方が良さそうである。
1. 時代背景
中世、カトリック教の強烈な支配で寛容性が失われると、古代ギリシア・ローマ時代の自由意志を懐かしむ風潮が生じ、古典回帰の文化運動が巻き起こる。いわゆるルネサンス。芸術とは、自由精神の開花の結果であり、芸術の爆発とは、抑圧された社会への反動から生じるものなのだろう。レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロといった画家が、15、16世紀頃に登場したのも偶然ではあるまい。そして、美術品の収集活動は、メディチ家の断絶後、ハプスブルク家が受け継ぐ。
16世紀以来、ネーデルラントはハプスブルク家の支配下にあった。スペイン国王フェリペ2世の時代になると、新教徒に対する激しい弾圧や経済情勢の悪化のために民衆の不満が高まる。1566年、オラニエ公ウィレム1世が反政府軍を組織し、1581年、北部7州はユトレヒト同盟によってスペイン統治を拒否。一方、南部の諸州はスペインの支配下として残り、カルヴァン派の勢力の強いアントワープも、1585年、アレッサンドロ・ファルネーゼ率いるスペイン軍に制圧される。こうして、ネーデルラントは、プロテスタント国である北のオランダ連邦共和国と、スペイン支配下の南ネーデルラント(フランドル)に分裂した。しかし、スペインは、1648年のミュンスター講和までオランダの独立を認めず、1609年から1621年の休戦期間を除いて、武力衝突が続く。ルーベンスは、ちょうどこの時期、いわゆるバロック期に活躍する。
彼は、芸術の中心がイタリアにあると確信すると、1600年イタリアへ行き、マントヴァ公の宮廷画家となる。8年間のイタリア滞在後アントワープへ帰郷し、1609年、統治者アルブレヒト大公とイザベラ大公妃の宮廷画家に任命される。1623年頃から外交官としての手腕を振るい、スペインとイギリスの和議成立にも貢献したという。
また、古典を基礎に置く教育を受けた人文主義学者でもあったという。ラテン語や古典文学にも造詣が深く、自宅や工房や装飾などを手がける建築家でもあったとか。ガウディは、建築はあらゆる芸術空間の総合であり、建築家のみが統合的な芸術作品を完成することができるとした。天才芸術家の精神というものは、絵画という平面空間にとどまることができず、多次元空間へ飛び出さずにはいられないのだろう。実際、魅せつけられる作品群は、静止画でありながら動画よりもはるかに動的な歴史物語を語っている。魔力を吹き込んだ動的リアリズムとでも言っておこうか。寓意的な描写が多く感じられるのは、激動の時代を生き残るための術であろうか。
ここでは、その時代を象徴する作品を二つ挙げておこう。
「勝利者としてのローマ」
ここには、ローマの元老院と市民 "Senatus Populusque Romanus" を意味する「S.P.Q.R.」が記される。マクセンティウスを打ち破った古代ローマ皇帝コンスタンティヌスが、ローマを暴君から解放し、市民の自由を取り戻したことが描かれているわけだ。ネーデルラントの自由を、ローマの自由に重ねたのだろうか?
「二人の女性寓意像とアントワープの城塞の眺望」
ここには、弾圧に対する反感がうかがえる。いささか生気を欠いた女性二人に、光の陰影効果もいまいちな作品ではあるが...
短剣を抱え、兜と盾の上に足を載せている女性は、戦争と勇気を描いた寓意像で、一緒に抱きあう後ろ姿の女性は、運命の寓意像だという。その背景には、五角形のアントワープの城壁が描かれる。アントワープの城壁は、1568年、スペインがこの地の統治を強化するために、アルバ公爵の命で建造された。だが、1577年、一時的にスペイン支配を脱して取り壊され、1585年、再びスペイン軍に占領されて再建される。この城は、スペイン軍がアントワープへ入市行進を行う出発地でもあったという。ルーベンスは、入市行進式典の芸術監督を務めたことから、その式典に関連した作品と推定されている。
本書は、プロテスタント勢力に対する勝利を象徴しているという解釈を支持している。一方で、武具を踏みしめていることから平和への渇望が描かれているという解釈もあるらしい。確かに、この作品だけを眺めるとネーデルランド色が強い。だが、作品全般を眺めると普遍的な思いを感じないわけではないので、後者の解釈も捨てがたい。一人の人生に一貫性を持たせることは不可能であろうから、作品の時期によっても作者の思いは違うだろう。
2. キリスト物語
ルーベンスの作品群には、キリスト教的な人文主義を信条にしていたことが伝わる。本展覧会にも見事なキリスト物語が蘇る。とりわけ、「ご訪問」、「羊飼いの礼拝」、「聖母子と聖エリサベツ、幼い洗礼者ヨハネ」、「キリスト哀悼」、「復活のキリスト」は、連作として眺めると味わい深い。
「ご訪問」は、長い間不妊であった聖母マリアが、天使から懐妊のお告げを受け、従姉妹のエリサベツのもとを訪れる場面。
「羊飼いの礼拝」は、生まれたばかりのキリストを、聖母マリアが布で包もうとする場面で、キリストに礼拝するためにベツレヘムまでやってきた羊飼いたちが描かれる。
「聖母子と聖エリサベツ、幼い洗礼者ヨハネ」では、幼いヨハネが聖母に抱かれる幼児キリストを見つめている。聖ボナヴェントゥーラ作として普及していた13世紀後半のフランシスコ派の書作「キリストの生涯についての瞑想」には、聖母マリアとヨセフがエジプトからの帰途、幼児キリストを伴ってマリアの従姉妹エリサベツとその子である洗礼者ヨハネのもとへ訪れるが、その際、幼いヨハネがキリストに敬意の念を示したことが記されるという。まさにその場面。
「キリスト哀悼」は、安らぎの象徴、聖母マリアとマグダラのマリアに抱かれて死を迎えようとするキリストの姿。身体を清めたと思われる洗面具や白い布などとももに、左下の隅には、ちと見えにくいが、受難具の釘とハンマーが描かれる。
「復活のキリスト」は、死後3日目に蘇ったとされるキリストが、既に右足を地面に置き、次に左足を地面に置こうとする瞬間。左足親指の立っている角度が妙に生々しい。生に満ちた目は、十字架で絶望の淵にあった目とは対照的。死を克服した者を描いているのだろうか?最後の審判の際の天国への復活を願う信者たちには、とりわけ好まれた作品だという。
ところで、それぞれの人物像にはモデルが実在したようである。妙にリアティがあるのはそのためであろうか?
「アッシジの聖フランチェスコ」の首をかしげている姿は、その辺にいるオッサン!などと感想を漏らせば怒られそう。修道衣を身につけた聖フランチェスコの手と足は、磔刑に処せられたキリストと同じ場所に聖痕を負っている。空から注ぐ聖なる光を帯びて、両手に胸を当てた謙譲のポーズだそうな。しかし、光の質感が粗悪で、聖なる光には見えない。人物像がこれほどリアティで、なぜ背景が粗悪なのか?
さて、男性像に関しては個性を感じるが、女性像に関してはヴィーナスを象徴するような、豊満な乳房にふくよかな肉体像ばかりが目立つ。「9つの頭部」と題してルーベンスの素描も展示されるが、老人の表情など古代ギリシアの哲学者を彷彿させるような繊細さ。一方、「聖ドミティッラ」、「毛皮をまとった婦人像」、「三美神」など...カトリック的な理想の女性像であろうか?
「悔悛のマグダラのマリア」はヴァン・ダイクの作品ではあるが、その特徴が強く表れている。マグダラのマリアは、キリストに悪霊を追い払ってもらい、磔刑と埋葬に立ち会い、墓前では天使から主の復活を告げられ、復活後のキリストに最初に出会う栄誉を受けた女性。中世、この聖女にまつわる伝説が拡充し、フランスのプロヴァンス地方サント=ボームの荒野に隠棲したという伝承が生まれ、荒野で悔い改める図像が出来上がったという。しかも、この世の財を捨て去った隠棲聖人らしく、ほぼ裸体で表されるようになったとか。豊満な乳房を露出させ、官能性を強調するのは、そういう意味もあるようだ。上を見つめて大粒の涙を流すが、口元は笑みを浮かべ、やや狂乱気味。この作品には伝承の風潮が見て取れる。ただ、隠棲を強調するならば、痩せ細っている方が説得力がありそうな気もするけど。
3. ギリシア神話とローマ神話
ギリシア神話とローマ神話を描いたこの二つの作品を眺めるだけでも、ルネサンス期の風潮が伝わる。
「ヘクトルを打ち倒すアキレス」
トロイア門外で、アキレスに加勢する女神ミネルワが槍を渡し、その槍で喉を刺してヘクトルが崩れ落ちようとする場面。ギリシャ神話の好きなおいらは、この題材だけで見入ってしまう。
「ロムルスとレムスの発見」
ここには、ローマ建国伝説の主役ロムルスとレムスの誕生秘話が描かれる。アルバ・ロンガの王ヌミトルから王位を奪った弟アムリウスは、ヌミトルの子孫によって復讐されることのないように、その娘レア・シルウィアを処女が義務付けられるウェスタの巫女にした。だが、レアは軍神マルスに見初められ、双子の兄弟ロムルスとレムスを産む。双子は、アムリウスの命によりテヴェレ川に捨てられるが、雌狼とキツツキに育てられ、羊飼いのファウストゥルスに発見され引き取られる。ここには、ファウストゥルスが、川辺のイチジクの木の下にいる双子の兄弟を発見した奇蹟の場面が描かれる。
4. 版画作品
濃淡と明暗だけの世界に歴史の重みを感じるのは、モノトーンがノスタルジーな精神色彩の基本だからであろうか。版画といっても浮世絵のような木版画ではない。彫刻刀で彫るのではなく、鉄のペンで描くエッチングで、化学薬品などの腐食作用を利用した塑形や表面加工といった技法。だから極めて精細な版画となるそうな。
ルネサンス以降、画家が生み出した構図は、版画を通じて広く普及したという。ラアファエロの素描は、版画家マルカントニオ・ライモンディによって、その構想が伝えられたそうな。ティツィアーノに至っては、油彩画の版刻によって、それを目にできない人々にも構図の観賞ができるよう配慮したとか。版画は、工房に収集され、制作資料となり、若い芸術家たちの素描学習のための手本となる。
ルーベンスもまた自ら監督となり、自作絵画の版画化を進めている。だが、彼自身は版画にそれほど精通していなかったらしく、主に訂正を加えるものだったらしい。それは... まず、下絵素描は工房の画家が行い、ルーベンスがその素描にインクと白のグワッシュで訂正を施す。次に、下絵素描の裏面に黒または赤のチョークを塗り、その面を版刻する原板の上に置き、素描の形態の輪郭線を先の鋭い金属製のペンでなぞって原板に写される。そして、版画家がその輪郭線をなぞって版刻する... といった具合に。
本展覧会では、クリストッフェル・イェール作「エジプト逃避途上の休息」と一緒に、ルーベンスによる加筆訂正版が展示される。美術館へ二度目に足を運んだ時、ここだけで何度往復したことやら...
当時、著作権が十分に保護されないため、ルーベンスの絵画に基いて版画を制作することは誰にでも可能だったようだ。ただ、印刷物である版画に関しては、プリウィレーギウム(Privilegium)という複製を禁ずる独占版権を得ることができたという。国ごとに申請する必要があり、ルーベンスは、南ネーデルラント、フランス、オランダで版権を取得したという。
工房で生み出された版画は極めて質が高く、明暗のコントラストや素材感を見事に再現している。その貢献は、版画家リュカス・フォルステルマンによるものが大きいという。しかし、ルーベンスのこだわりは半端ではなく、フォルステルマンがその厳しさに追い詰められ、暗殺を企てたという噂もあるとか。
ここでは、モノトーンに刻まれた歴史物語をつまんでおこう。
「ホロフェルネスの首を切り落とすユディット」コルネーリス・ハッレ作
旧約聖書外典「ユデイット記」によると、ユダヤの町ベツリアがアッシリア軍に包囲された時、美貌の寡婦ユディットの英雄的な行為が町を救ったという。彼女は民を裏切ったように振舞い、敵の司令官ホロフェルネスに取り入る。魅了されたホロフェルネスは彼女を招いて宴を催すが、酔いつぶれたところを剣で首を切り落とされる。まさに、その切り落とそうとする場面。寝台から滑り落ちそうなホロフェルネスが苦痛で顔をゆがめるところに、ユディットが右手で口を押さえ、冷酷な暗殺者を演じている。その見下した目がなんとも印象的だ。それを4人の天使が見つめているという構図。版画のコントラストが、油彩画には現れない冷酷さを強調するかのようだ。
「アレクサンドリアの聖カタリナ」ルーベンス作
アレクサンドリアのカタリナは、伝説上の聖女。ヤコブス・デ・ヴォラギネの「黄金伝説」によると、カタリナとの結婚を望んだ皇帝マクセンティウスは、彼女にキリスト教の信仰を捨てさせようと、哲学者たちと議論させる。だが、哲学者たちが逆にキリスト教の信者になってしまい、彼らは火刑に処せされる。さらに皇帝は、カタリナを4つの車輪からなる拷問の道具で処刑しようとするが、彼女が縛り付けられると、天から稲妻が落ち車輪は粉砕される。その後、彼女は首を切り落とされ、遺骸は天使たちによってシナイ山に運ばれたという。この作品では、カタリナは勝利の殉教者として描かれる。
「ソドムを去るロトとその家族」リュカス・フォルステルマン作
旧約聖書「創世記(19:1-28)」に記されたロトとその家族が、ソドムの町を去る場面。神は、罪深い人々が住むソドムとゴモラを滅亡させるに際し、ロトと彼の家族だけを救うことにした。かくして天使に導かれ、ロトと妻、二人の娘たちが町を去らんとするが、ロトは苦悩の表情を浮かべ、妻は涙する。ちなみに、その後、後ろを振り返ってはならぬという神の命に背いたため、妻は塩の柱に変えられ、娘たちは子孫を残すために父ロトを酔わせて誘惑するそうな。
「スザンナと長老たち」リュカス・フォルステルマン作
旧約聖書外典「ダニエル書」によると、裕福なユダヤ人ヨアキムの貞淑な妻スザンナが庭で入浴していると、二人の長老が彼女に襲いかかり、言うことを聞かないと若い男と通じていると告発すると脅すが、彼女は脅しに屈せず助けを叫んだ。そのために彼女は虚偽の告発を受けるが、預言者ダニエルにより長老たちの嘘が暴かれる。この物語は、ルネサンス期以降に好んで題材にされたという。
「聖家族のエジプトからの帰還」リュカス・フォルステルマン作
ユダヤの王となる運命を持つキリストが生まれたことを知ったヘロデ王は、王座から追われることを恐れて、ベツレヘムとその近郊の子供たちをことごとく殺害するよう命じる。しかし、マリアとヨセフは、キリストを連れてエジプトへ逃避していたので難を逃れる。この作品は、エジプトから帰還する場面で、キリストは既に幼児ではなく、少年に成長している。
「キリスト降架」リュカス・フォルステルマン作
ルーベンスの最も有名な作品の一つで、キリストの亡骸を十字架から降ろす人々を描いた作品。もはや説明はいるまい。版画には、生々しい血痕が赤く見えない分、余計に迫力がある。まさに陰翳芸術の最たるものか。
「聖母マリアの被昇天」パウルス・ポンティウス作
対抗宗教改革期のカトリック教会では、プロテスタントとは対照的にマリア信仰が重視されたという。マリアの魂と肉体が死後3日後に天に引き上げられるという被昇天の主題も頻繁に描かれたそうな。
「トミュリスとキュロス」パウルス・ポンティウス作
ヘロドトスの「歴史」には、マッサゲタイ族の女王トミュリスによるペルシア王キュロスに対する復讐の物語がある。トミュリス軍を率いる女王の息子スパルガビセスは、キュロスの奸計によってワインを飲まされ、酩酊させられ破れる。捕らえられたスパルガビセスは自害。息子を失った女王は、復讐に燃えてキュロスに勝利し首をはねる。「私は、お前の血への渇きを癒してやると言ったが、その通りにしてやるのだ。」と言ったとか。まさに、キュロスの首を手にした若者が、敵の血で満たされた鉢に浸けようとする場面。豪華なドレスをまとった女王トミュリスとその周囲の者たちが、その様子を冷ややかに見下ろしている。
「キリストの磔刑(槍の一突き)」ボエティウス・アダムスゾーン・ボルスウェルト作
福音書によれば、キリストは二人の盗人とともに、ゴルゴタの丘で磔刑に処せられたが、そのうちの一人がキリストに罵声を浴びせたのに対し、もう一人はキリストに帰依したとされる。馬に乗った兵士が、槍を持ってキリストの脇を突き刺している。この兵士は、他の福音書にある「まことに彼は神の子であった」と叫んだとされる百卒長と同一視され、後に槍を意味するギリシア語に由来するロンギヌスと呼ばれるようになったという。この作品は「槍の一突き」と通称されるそうな。
「ライオン狩り」スヘルテ・アダムスゾーン・ボルスウェルト作
ド迫力!後ろ足で立ち上がった馬から真っ逆さまに落馬するムーア人に噛み付くライオン。そのライオンを後ろから槍で仕留めようとする甲冑を身につけたローマ風の兵士。さらにそれを支援する馬に乗った二人のムーア人。人物と動物が一体化した動感溢れる狩猟のドラマが描かれる。
「ヘロデの饗宴」スヘルテ・アダムスゾーン・ボルスウェルト作
新約聖書「マタイによる福音書(14:6-11)」によると、ヘロデ王は、誕生日の祝いの席で、妻ヘロデヤの連れ子サロメが巧みに踊ったのを褒め称え、彼女の望むものを何でも与えると約束したという。サロメは、ヘロデヤに従って洗礼者ヨハネの首を所望したとか。ヘロデが兄弟ピリポの妻であったヘロデヤを娶ったことをヨハネが非難したため、ヘロデヤはヨハネを憎悪していた。まさに、切り取られたヨハネの首を載せた皿を抱えるサロメが描かれ、それをヘロデ王に見せている場面。ヘロデ王が後退りする横で、ヘロデヤは平然と王に語りかけている。
「奇蹟の漁り」スヘルテ・アダムスゾーン・ボルスウェルト作
「ルカによる福音書(5:1-11)」にある、キリストによる奇蹟の漁りの場面。ゲネサレ湖で、キリストは漁師ペテロに船を沖へ出し、網をおろすように命じる。前夜、何も取れなかったペテロは、いぶかしく思いつつ網をおろすと、大量の魚がかかる。別の船でヤコブとヨハネも手伝うが、ともに船が沈みそうになるほどに。その時、キリストはペテロを諭してこう言ったという。
「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ。」
「酔っ払ったシレノス」クリストッフェル・イェール作
オウィディウスの「転身物語」で語られるシレノスの逸話。アル中ハイマーを名乗るからには、通り過ぎるわけにはいかない作品だ。酒神バッカスの師シレノスが泥酔してよろよろ歩くところを、フリジアの農民たちに捕まりミダス王のもとに連れられる。王は、バッカスの育ての親シレノスを歓迎し十日十夜の宴を催す。シレノスはすっかり酔っ払い、自然の精霊サテュロスと農耕の精霊ファウヌスに抱えられる場面。ヘシオドスの物語「仕事と日」を思い浮かべながら、朝っぱらから飲んでないで仕事しろ!と説教が聞こえてきそうな...
2013-06-30
"リーマン・ショック・コンフィデンシャル(上/下)" Andrew Ross Sorkin 著
原題 "TOO BIG TO FAIL"... 大き過ぎて潰せない!
この言葉を何度聞かされたことか。破綻が明るみになると、少しでも不良資産を減らす努力をするかと思えば、逆に隠蔽してきた損失を大幅に見積もり、公的資金をたかろうとする。高級車を何台も所有し、自家用ジェット機で買い物に行くなど、何かと富をひけらかす輩!さっさと支援金を返済したところで、倒産した会社や首をくくった社長たちの命は返ってこない。
「なかんずく気がかりなのは、いまだにウォール街のマシンの中心に位置するのが、エゴであることだ。金融危機は多くの人のキャリアや評判を破壊し、さらに多くの人々を打ちすえ、傷つけた。崖っぷちから生還した人は、自分が不死身であるかのように感じてる。いまの環境に欠けているのは、純粋な人間性だ。」
これは、ニューヨーク・タイムズの記者アンドリュー・ロス・ソーキンが、業界体質を暴いた物語である。
経済システムの原動力は生産性にある。人間社会が消費によって成り立つ限り、豊かな生活を送るには生産は絶対に欠かせない。なのに、生産性に直接寄与する産業が経済の主役とならず、カネを循環させるだけで何の生産性のない連中が主役であり続ける。人体では、血液の弁を一箇所牛耳るだけで、その弁にかかわる機能を支配できる。弁は、脳に近いほど思考停止に陥れ、心臓に近いほど生命を脅かす。どんなに生産性の高い細胞であっても、近くの弁をちょいと調節するだけで機能不全に陥れる。これが世界を牛耳る仕掛けである。
生産性の効率を高めるには、生産から得た価値のフィードバック、すなわち投資が鍵となる。資産の流動性が経済成長を促し、金融業は投資を円滑にするための仲介役として君臨する。投資家が資金を提供するために、企業や事業や商品などがどれだけ生産性に寄与するかを予測できる情報開示が鍵となる。投資は成長戦略の一環であるから、もちろんリスクをともなう。そして、成功率は株価や利率や配当金に反映される。つまり、生産性は将来価値によって算出され、価値評価こそが経済循環における核心部分となる。金融業界の価値評価に正当性がなければ、時限爆弾を抱えているようなもの。まさに、リーマン・ショックは、価値の欺瞞から生じた...
投資銀行が、その性格上リスクを背負うのは当然である。そこに、いくらリスクを抱えようが本質的な問題ではない。投資家はそれを承知した上で行動すればいいだけのことだから。しかし、リスク評価までもが欺瞞されているとしたら...
引き金となったサブプライム住宅ローンは、低所得者向けに開発された金融商品で、所得審査をまったく必要とせず、ほぼ誰でも50万ドル級のローンが契約できる。当然ながら住宅価格は高騰し、過熱しきった不動産市場で、ごく普通の人々までが投機家となって家を転売し、住宅担保ローンで高級車やモーターボートを買う始末。
さらに、保険業界のクレジット・デフォルト・スワップ(CDS)ってやつが、価値評価を複雑化させる。債権の委譲なしで信用リスクのみを委譲するとは、どういうことか?この業界は幽体離脱がお得意のようだ。おまけに、格付会社の保証付きとなれば、住宅という実体はそっちのけでサブプライムローン担保証券だけが彷徨い、転売の転売の転売... どこの地方役場の年金資金のポートフォリオにも紛れ込んでいる可能性がある。まさに、金融屋、保険屋、格付屋がぐるになった魔術!規制緩和という、いかにも自由を感じさせる言葉で政治家たちは経済刺激策を用いるが、中身を見極める必要がある。とはいっても、国民にそんな専門的な目があるはずもなく、彼らの独壇場となるだけか...
尚、価値を煽って敵国を滅亡させようという陰謀は古代からある。通貨変造や偽金造りで貨幣量を増やせば、通貨の信用を失墜させ、一国の経済を麻痺させることができる。ここに、マネーサプライによる増殖システムの弱点がある。うまく利用すれば、処方箋にもなるのだが。資本主義経済が投資を原動力とするからには、もともと暴走する仕組みが具わっていると考えなければなるまい。そして、デリバティブという形で仮想価値を煽るということは、あらゆる価値が貨幣で換算される社会では、価値の信用を失墜させる最も効率的な方法と言えるだろう。その陰では、いつも空売り屋が虎視眈々と狙っている。ウォーレン・バフェットは、デリバティブを大量破壊兵器と呼んだ。本来、価値の評価とは単純性や透明性が鍵となるはず。だが奇妙なことに、金融工学があえて複雑怪奇にしているように映る。
ところで、我が国にも時限爆弾らしきものが見え隠れする。本書を教訓にするなら、日本国債の危険性の判断にレバレッジの水準がある。その多くを国内金融機関が保有する限り、政府は圧力がかけられる。安定資産と言われる所以である。こんなものにグローバルな空売りを仕掛けてもリスクが高い。となれば、外国人保有率が一つの目安となるだろう。その水準も、危険水域に近づきつつあるようだけど。いずれにせよ、国債残高がGDP比200%というのは尋常ではない。今、長期金利が上昇しているのは何を意味しているのか?一旦トレンドがはっきりした時、すなわち、実態に国民が気づきはじめた時、はたしてどうなるか?日本人にだって空売り屋はいるし、自称日本人ってのもいる。日本人は風評に流されやすいだけに、国債ではなく別の金融商品から資産が逃げはじめるかもしれない。まさにリーマン・ショックは、サブプライムローンの危険を匂わせながら、金融商品全般に渡って空売りの餌食となった。情報社会が高度化するほど、いや複雑化するほど、ささやかな欺瞞情報から別の所でパニックになる恐れがある。当時、リスクを分散しようとして不動産資産に手を出したために裏目に出た人も多いだろう。要するに、日本国債という一つの金融商品だけで、危険性を判断することは困難だということだ。おそらく本当の危険水域を知っている者など誰もいないだろう。それは過去の金融危機から専門家が実証してくれている。
そういえば、最近(2013年4月)、ノーベル賞経済学者ポール・クルーグマンは、ニューヨークタイムズに「エクセル不況」という興味深い記事を書いた。マクロ経済学の権威、ハーバード大学のカーメン・ラインハートとケネス・ロゴフが2010年に発表した論文「Growth in a Time of Debt.(国家債務時代の経済成長)」において、初歩的な計算ミスがあったというのだ。マサチューセッツ大学院生が、Excelのスプレットシートのミスを指摘したということでも大々的に報じられた。その論文によると、国家の負債残高が対GDP比で90%を超過すると、マイナス成長になるとされる。このマジックナンバー90%を根拠にしながら、各国政府で政策立案がなされてきた。実際、EUでもこの数値を前提にして、政府債務を圧縮すべし!と叫ばれてきた。経済学の権威とは、この程度のものなのか?
能力に驕れば、いずれ罠に落ちる。危機を回避できたとしても、偶然ぐらいに見ておいた方がよさそうである。そもそも市場は本当に機能しているのだろうか?市場が過熱するのも困るが、反応が鈍いのも困る。市場は、しばしば機能不全に陥る。所詮、カオスに対して無力な人間は、占い師ぐらいにしかなれないのかもしれん。
1. サブプライムローンの猛威
サブプライム住宅ローンは、2006年あたりにピークを迎えたが、専門家からはその危険性が指摘されてきた。
まず、リスクヘッジを担う保険業界が敬遠しはじめる。2005年末、AIG(アメリカン・インターナショナル・グループ)は、サブプライムローン担保証券が用いられたCDO(債務担保証券)の保険を引き受けないと発表。モーゲージ証券があまりにも複雑化し、誰にも値付けできないことが明るみになると、二つの住宅専門会社、ファニーメイ(連邦住宅抵当金庫)とフレディマック(連邦住宅金融抵当金庫)の株が暴落。この2社は、住宅市場で圧倒的な位置を占めており、住宅ローンの40%以上を引き受けていたという。そして、五大投資銀行の中で最もレバレッジ比率の高い業界5位のベア・スターンズが破綻。
これらの救済に、財務長官ヘンリー・ポールソン、NY連銀総裁ティモシー・ガイトナー、FRB議長ベンジャミン・バーナンキらが乗り出す。2008年、ベア・スターンズは政府救済のもとでJPモルガン・チェースに買収され、住宅専門会社2社はチャプターイレブン(連邦倒産法第11章)が適用され国有化された。ちなみに、2007年の時点ですらバーナンキはサブプライムローン問題が住宅金融専門会社以外に及ばないと主張している。だが、素人の目にもそうは映らない。投資銀行のリスクヘッジがうまく機能しなくなると、業界の脆さを露呈する。信用を失った金融商品に引きずられて、信用ある金融商品までも空売りの餌食となり、ハゲタカはハゲタカ・ファンドによって喰い物にされる。
しかし、投資銀行でも明暗を分けた。連鎖反応で次に破綻したのは、業界4位のリーマン・ブラザーズ。なんとレバレッジ比率は、リーマンの 30.7 対 1、メリルリンチは僅かにましで、26.9 対 1 だったという。LTCM級か。普通に銀行と呼ばれる銀行持株会社には連銀の規制があり、レバレッジに頼る資金調達には多くの制限が設けられている。だが、投資銀行は、伝統的な商業銀行と違い、やりたい放題。報酬制度の後押しで、サブプライムローンを売っただけボーナスに反映される。低所得者層のマイホームの夢を喰い物にしたと言われても仕方があるまい。報酬制度については、今なお問題が指摘されているが、未だ健在のようだ。
既に、金融業界に対する世論の目は厳しく、政府は救済処置をとれないでいる。そして、リーマンは見捨てられた。さて次は、業界3位のメリルリンチか?業界2位のモルガン・スタンレーと業界1位のゴールドマン・サックスも気が気きでない。
2. TARP(不良資産救済プログラム)の発動
ポールソンと言えば、ゴールドマン・サックスの元CEOで、何かと陰謀説が囁かれる人物である。というのも、LTCMの破綻時、ほとんどの銀行が打撃を受けたにもかかわらず、ゴールドマンだけはそれほど打撃を受けていない、という指摘がある。本書にも、LTCMをヘッジでうまく利用したのではないかという噂が紹介される。しかも、ゴールドマンの経営陣は、AIGの破綻に対してすべて担保をとって、むしろヘッジで儲けていると自慢気に語る。ABX指数、すなわちサブプライムローン担保証券と結びついたデリバティブのバスケットの逆張りで資産運用していたんだとか。危険性を察知していれば当然の戦略であるが、空売りの仕掛け人という見方もできる。
さらに、リーマンが倒産すれば、その顧客との取引をどこかが肩代わりしなければならない。業界全体が失墜しても、ライバル会社にとってはおいしい話だ。ポールソンや財務省にいるゴールドマンOBとのつながりも、噂の材料とされる。実際、ゴールドマン・サックスは全米最大級の他の金融機関と同様、大き過ぎて潰せないまま残っている。
しかし、ポールソンはそんな陰謀説に構っている余裕はない。ただ、政府介入というのはデリケートな問題である。支援策の規模によっては業界ごと国有化され、むしろ逆効果となろう。そもそも焦げ付いたモーゲージ証券の値付けのできる者が誰もいないので、底なしとなる恐れがある。おまけに、大統領選の材料にされ、共和党と民主党はともに支援反対を表明。案の定ヒラリー・クリントン上院議員は、ベア・スターンズ救済を批判し、イラン問題にまで結び付けている。
下院で救済策への反対票が投じられる中、株価は急落。だが、二度目の投票では救済策の可決の目処が立ち、値を戻す。上院向けの期限切れを迎えるはずだった多くの優遇税制が付加され、個人預金に対するFDIC(連邦預金保険会社)の保証上限が、10万ドルから25万ドルに引き上げられたことが好材料になったという。1回目の投票中、株価急落を見て、金融危機の兆候を間近に感じ、賛成に転じた議員もいるようだ。さらに、ノースカロライナの大手金融機関ワコビアが必死にパートナー探しをしているという情報が流れたのも、金融危機が全米に拡がりつつあることを世間に知らしめたという。こうして、ポールソンのTARPは後押しされることに。
3. 買収戦略
救済策の成功の鍵は、不良資産の処理スピードにかかっている。世論に逆らってまで金融支援策を進めるのは、日本の二の舞だけは避けたいという信念からだ。ポールソンは、全CEOを招集して、業界の尻拭いは自分たちでやれ!とカツを入れるが、ただでさえ非協力的な業界。政府の進め方は、当然かもしれないが強引である。メリルリンチには、バンク・オブ・アメリカにタダ同然の条件でも売るように仕向けたり。それでも、なんとか最悪の条件を免れた買収となったようだけど。
一方、モルガン・スタンレーには波乱が待っていた。ポールソンは、中国初の政府系ファンドCIC(中国投資有限責任公司)に買収させようと画策する。だが、条件が悪すぎて交渉は難航。これまた、タダ同然の買収でも受け入れるように圧力をかけるが、CEOジョン・マックは従業員を守るために断固拒否。そんな時、三菱UFJから融資の話が入る。そもそも日本の銀行は、動きが鈍く、リスクを嫌い、極めて官僚的という評判。ポールソンは、日本の銀行は当てに出来ないと説得する。ごもっともだが、マックには信じるしか選択肢がなかったのだろう。中国側は日本の介入で機嫌を損ねて交渉の場を去るが、モルガン・スタンレーにとって大口顧客であり、北京まで頭を下げに行く羽目に。結局、三菱UFJから90億ドルの融資を受けることになるが、三菱UFJの動きは日本国内でも物議をかもした。
国家危機ともなれば、犠牲者はつきもので、どこかで線引は必要であろう。ポールソン、ガイトナー、バーナンキらは、リーマン・ブラザーズまでで終わりにしようとしたが、結局ゴールドマン・サックス以外の投資銀行は合併か身売りとなる。そして、リーマン・ブラザーズだけが、政府支援を受けられずに倒産した。ただ、リーマン・ブラザーズにしても、イギリスの国際的金融グループ、バークレイズとの交渉機会があったようだが、あまり執着していなかったという。ポールソンと米政府は、バークレイズを交渉に留めようと努力しなかったのか?時間の無駄だとすれば、ポールソンの判断は、正しかったのかもしれないが。そして、結果論かもしれないが、ゴールドマン・サックスの安泰が最優先!という戦略にも映る。
4. 業界体質と救済策の賛否
ウォール街の銀行ビッグ9のCEOがワシントンDCに最終招集されると、ポールソンは告げる。TARPの権限により、財務省は年末までに銀行や貯蓄金融機関の優先株を最大2500億ドル分購入すると。そして、国内最強の銀行が資金を受け取ることで、後に続く弱い銀行にとっては隠れ蓑になると説明している。
業界が危機に陥る度に、潰すべき企業は潰すべきだ!という意見があり、経営責任や業界体質を問うのは当然である。しかし、政策に対する効果を語ることはほぼ不可能であろう。選択肢の双方を経験することなどできないのだから。人間社会は、あくまでも試行実験の場でしかない。人間がやれることと言ったら、再発を防止することぐらいであろう。バーネット・フランクという人は、こう述べたという。
「政治の問題は、大惨事を回避したからといって、功績は認められないことだ。有権者のまえで、"いやはや、まったく最低の事態だ。でも知っているか?もし私がいなかったら、事態はもっとひどいことになっていた"と言えるだろうか。世界の歴史上、演壇でそんなことを言って選ばれた人間などひとりもいない。」
それにしても、後に明るみになった業界体質には唖然とする!
メリルリンチは、契約締結直前に社員に何十億ドルものボーナスを払っていたことが判明し、内密交渉が開示されると株主が大爆発!そもそもバンク・オブ・アメリカとの合併は、メリルリンチの救済措置として提示されたはず。契約締結までの数カ月でメリルリンチの損失は大きく膨らみ、それを隠蔽したまま両社の株主投票にかけられ承認されたことになる。水面下では、ポールソンとバーナンキが圧力をかけての合併交渉だったが、やはり陰謀の臭いがする。バンク・オブ・アメリカも、気づきながらあえて公表しなかったとの指摘もある。おまけに、メリルリンチのCEOジョン・セインは、取締役会に4000万ドルものボーナスを要求していたとか。
しかしながら、世間から最大の反感を買ったのは、AIGだという。850億ドルの資金援助を皮切りに、最終的には政府から1800億ドル以上の支援を受け取るに至ったと。AIG幹部に何百万ドルものボーナスが支払われたという記事が掲載される。支援金の4分の1は、即座にゴールドマン・サックス、メリルリンチ、ドイツ銀行といったグローバル金融機関に移されたという。特に、ゴールドマン・サックスはAIGから129億ドルを受け取り、最大の支払い先として批判される。
そういえば、昨年末(2012年12月)、米財務省はAIGの保有株を全株売却すると、大々的に報じられた。納税者は投資利益も得た格好となったと。このニュースに煮えくり返った人も大勢いるだろう。
一方、予期せぬ副産物もある。金融業界の混乱は、資本主義の将来にどういう意味を持つのか?経済システムにおける政府の役割とはいかなるものか?そして、今回の役割が演じたものは、不可逆的なものなのか?こうしたことに改めて疑問を提起したことである。その後、米政府は、ウォール街だけでなく、デトロイト銀行救済後、ゼネラルモーターズとクライスラーの二大自動車企業を救済した。そして今、オバマ政権下で医療保険システムにおける政府の役割にまで及んでいる。
そこで日本との比較になるわけだが、失われた10年と言われながら20年が過ぎようとしている...
この言葉を何度聞かされたことか。破綻が明るみになると、少しでも不良資産を減らす努力をするかと思えば、逆に隠蔽してきた損失を大幅に見積もり、公的資金をたかろうとする。高級車を何台も所有し、自家用ジェット機で買い物に行くなど、何かと富をひけらかす輩!さっさと支援金を返済したところで、倒産した会社や首をくくった社長たちの命は返ってこない。
「なかんずく気がかりなのは、いまだにウォール街のマシンの中心に位置するのが、エゴであることだ。金融危機は多くの人のキャリアや評判を破壊し、さらに多くの人々を打ちすえ、傷つけた。崖っぷちから生還した人は、自分が不死身であるかのように感じてる。いまの環境に欠けているのは、純粋な人間性だ。」
これは、ニューヨーク・タイムズの記者アンドリュー・ロス・ソーキンが、業界体質を暴いた物語である。
経済システムの原動力は生産性にある。人間社会が消費によって成り立つ限り、豊かな生活を送るには生産は絶対に欠かせない。なのに、生産性に直接寄与する産業が経済の主役とならず、カネを循環させるだけで何の生産性のない連中が主役であり続ける。人体では、血液の弁を一箇所牛耳るだけで、その弁にかかわる機能を支配できる。弁は、脳に近いほど思考停止に陥れ、心臓に近いほど生命を脅かす。どんなに生産性の高い細胞であっても、近くの弁をちょいと調節するだけで機能不全に陥れる。これが世界を牛耳る仕掛けである。
生産性の効率を高めるには、生産から得た価値のフィードバック、すなわち投資が鍵となる。資産の流動性が経済成長を促し、金融業は投資を円滑にするための仲介役として君臨する。投資家が資金を提供するために、企業や事業や商品などがどれだけ生産性に寄与するかを予測できる情報開示が鍵となる。投資は成長戦略の一環であるから、もちろんリスクをともなう。そして、成功率は株価や利率や配当金に反映される。つまり、生産性は将来価値によって算出され、価値評価こそが経済循環における核心部分となる。金融業界の価値評価に正当性がなければ、時限爆弾を抱えているようなもの。まさに、リーマン・ショックは、価値の欺瞞から生じた...
投資銀行が、その性格上リスクを背負うのは当然である。そこに、いくらリスクを抱えようが本質的な問題ではない。投資家はそれを承知した上で行動すればいいだけのことだから。しかし、リスク評価までもが欺瞞されているとしたら...
引き金となったサブプライム住宅ローンは、低所得者向けに開発された金融商品で、所得審査をまったく必要とせず、ほぼ誰でも50万ドル級のローンが契約できる。当然ながら住宅価格は高騰し、過熱しきった不動産市場で、ごく普通の人々までが投機家となって家を転売し、住宅担保ローンで高級車やモーターボートを買う始末。
さらに、保険業界のクレジット・デフォルト・スワップ(CDS)ってやつが、価値評価を複雑化させる。債権の委譲なしで信用リスクのみを委譲するとは、どういうことか?この業界は幽体離脱がお得意のようだ。おまけに、格付会社の保証付きとなれば、住宅という実体はそっちのけでサブプライムローン担保証券だけが彷徨い、転売の転売の転売... どこの地方役場の年金資金のポートフォリオにも紛れ込んでいる可能性がある。まさに、金融屋、保険屋、格付屋がぐるになった魔術!規制緩和という、いかにも自由を感じさせる言葉で政治家たちは経済刺激策を用いるが、中身を見極める必要がある。とはいっても、国民にそんな専門的な目があるはずもなく、彼らの独壇場となるだけか...
尚、価値を煽って敵国を滅亡させようという陰謀は古代からある。通貨変造や偽金造りで貨幣量を増やせば、通貨の信用を失墜させ、一国の経済を麻痺させることができる。ここに、マネーサプライによる増殖システムの弱点がある。うまく利用すれば、処方箋にもなるのだが。資本主義経済が投資を原動力とするからには、もともと暴走する仕組みが具わっていると考えなければなるまい。そして、デリバティブという形で仮想価値を煽るということは、あらゆる価値が貨幣で換算される社会では、価値の信用を失墜させる最も効率的な方法と言えるだろう。その陰では、いつも空売り屋が虎視眈々と狙っている。ウォーレン・バフェットは、デリバティブを大量破壊兵器と呼んだ。本来、価値の評価とは単純性や透明性が鍵となるはず。だが奇妙なことに、金融工学があえて複雑怪奇にしているように映る。
ところで、我が国にも時限爆弾らしきものが見え隠れする。本書を教訓にするなら、日本国債の危険性の判断にレバレッジの水準がある。その多くを国内金融機関が保有する限り、政府は圧力がかけられる。安定資産と言われる所以である。こんなものにグローバルな空売りを仕掛けてもリスクが高い。となれば、外国人保有率が一つの目安となるだろう。その水準も、危険水域に近づきつつあるようだけど。いずれにせよ、国債残高がGDP比200%というのは尋常ではない。今、長期金利が上昇しているのは何を意味しているのか?一旦トレンドがはっきりした時、すなわち、実態に国民が気づきはじめた時、はたしてどうなるか?日本人にだって空売り屋はいるし、自称日本人ってのもいる。日本人は風評に流されやすいだけに、国債ではなく別の金融商品から資産が逃げはじめるかもしれない。まさにリーマン・ショックは、サブプライムローンの危険を匂わせながら、金融商品全般に渡って空売りの餌食となった。情報社会が高度化するほど、いや複雑化するほど、ささやかな欺瞞情報から別の所でパニックになる恐れがある。当時、リスクを分散しようとして不動産資産に手を出したために裏目に出た人も多いだろう。要するに、日本国債という一つの金融商品だけで、危険性を判断することは困難だということだ。おそらく本当の危険水域を知っている者など誰もいないだろう。それは過去の金融危機から専門家が実証してくれている。
そういえば、最近(2013年4月)、ノーベル賞経済学者ポール・クルーグマンは、ニューヨークタイムズに「エクセル不況」という興味深い記事を書いた。マクロ経済学の権威、ハーバード大学のカーメン・ラインハートとケネス・ロゴフが2010年に発表した論文「Growth in a Time of Debt.(国家債務時代の経済成長)」において、初歩的な計算ミスがあったというのだ。マサチューセッツ大学院生が、Excelのスプレットシートのミスを指摘したということでも大々的に報じられた。その論文によると、国家の負債残高が対GDP比で90%を超過すると、マイナス成長になるとされる。このマジックナンバー90%を根拠にしながら、各国政府で政策立案がなされてきた。実際、EUでもこの数値を前提にして、政府債務を圧縮すべし!と叫ばれてきた。経済学の権威とは、この程度のものなのか?
能力に驕れば、いずれ罠に落ちる。危機を回避できたとしても、偶然ぐらいに見ておいた方がよさそうである。そもそも市場は本当に機能しているのだろうか?市場が過熱するのも困るが、反応が鈍いのも困る。市場は、しばしば機能不全に陥る。所詮、カオスに対して無力な人間は、占い師ぐらいにしかなれないのかもしれん。
1. サブプライムローンの猛威
サブプライム住宅ローンは、2006年あたりにピークを迎えたが、専門家からはその危険性が指摘されてきた。
まず、リスクヘッジを担う保険業界が敬遠しはじめる。2005年末、AIG(アメリカン・インターナショナル・グループ)は、サブプライムローン担保証券が用いられたCDO(債務担保証券)の保険を引き受けないと発表。モーゲージ証券があまりにも複雑化し、誰にも値付けできないことが明るみになると、二つの住宅専門会社、ファニーメイ(連邦住宅抵当金庫)とフレディマック(連邦住宅金融抵当金庫)の株が暴落。この2社は、住宅市場で圧倒的な位置を占めており、住宅ローンの40%以上を引き受けていたという。そして、五大投資銀行の中で最もレバレッジ比率の高い業界5位のベア・スターンズが破綻。
これらの救済に、財務長官ヘンリー・ポールソン、NY連銀総裁ティモシー・ガイトナー、FRB議長ベンジャミン・バーナンキらが乗り出す。2008年、ベア・スターンズは政府救済のもとでJPモルガン・チェースに買収され、住宅専門会社2社はチャプターイレブン(連邦倒産法第11章)が適用され国有化された。ちなみに、2007年の時点ですらバーナンキはサブプライムローン問題が住宅金融専門会社以外に及ばないと主張している。だが、素人の目にもそうは映らない。投資銀行のリスクヘッジがうまく機能しなくなると、業界の脆さを露呈する。信用を失った金融商品に引きずられて、信用ある金融商品までも空売りの餌食となり、ハゲタカはハゲタカ・ファンドによって喰い物にされる。
しかし、投資銀行でも明暗を分けた。連鎖反応で次に破綻したのは、業界4位のリーマン・ブラザーズ。なんとレバレッジ比率は、リーマンの 30.7 対 1、メリルリンチは僅かにましで、26.9 対 1 だったという。LTCM級か。普通に銀行と呼ばれる銀行持株会社には連銀の規制があり、レバレッジに頼る資金調達には多くの制限が設けられている。だが、投資銀行は、伝統的な商業銀行と違い、やりたい放題。報酬制度の後押しで、サブプライムローンを売っただけボーナスに反映される。低所得者層のマイホームの夢を喰い物にしたと言われても仕方があるまい。報酬制度については、今なお問題が指摘されているが、未だ健在のようだ。
既に、金融業界に対する世論の目は厳しく、政府は救済処置をとれないでいる。そして、リーマンは見捨てられた。さて次は、業界3位のメリルリンチか?業界2位のモルガン・スタンレーと業界1位のゴールドマン・サックスも気が気きでない。
2. TARP(不良資産救済プログラム)の発動
ポールソンと言えば、ゴールドマン・サックスの元CEOで、何かと陰謀説が囁かれる人物である。というのも、LTCMの破綻時、ほとんどの銀行が打撃を受けたにもかかわらず、ゴールドマンだけはそれほど打撃を受けていない、という指摘がある。本書にも、LTCMをヘッジでうまく利用したのではないかという噂が紹介される。しかも、ゴールドマンの経営陣は、AIGの破綻に対してすべて担保をとって、むしろヘッジで儲けていると自慢気に語る。ABX指数、すなわちサブプライムローン担保証券と結びついたデリバティブのバスケットの逆張りで資産運用していたんだとか。危険性を察知していれば当然の戦略であるが、空売りの仕掛け人という見方もできる。
さらに、リーマンが倒産すれば、その顧客との取引をどこかが肩代わりしなければならない。業界全体が失墜しても、ライバル会社にとってはおいしい話だ。ポールソンや財務省にいるゴールドマンOBとのつながりも、噂の材料とされる。実際、ゴールドマン・サックスは全米最大級の他の金融機関と同様、大き過ぎて潰せないまま残っている。
しかし、ポールソンはそんな陰謀説に構っている余裕はない。ただ、政府介入というのはデリケートな問題である。支援策の規模によっては業界ごと国有化され、むしろ逆効果となろう。そもそも焦げ付いたモーゲージ証券の値付けのできる者が誰もいないので、底なしとなる恐れがある。おまけに、大統領選の材料にされ、共和党と民主党はともに支援反対を表明。案の定ヒラリー・クリントン上院議員は、ベア・スターンズ救済を批判し、イラン問題にまで結び付けている。
下院で救済策への反対票が投じられる中、株価は急落。だが、二度目の投票では救済策の可決の目処が立ち、値を戻す。上院向けの期限切れを迎えるはずだった多くの優遇税制が付加され、個人預金に対するFDIC(連邦預金保険会社)の保証上限が、10万ドルから25万ドルに引き上げられたことが好材料になったという。1回目の投票中、株価急落を見て、金融危機の兆候を間近に感じ、賛成に転じた議員もいるようだ。さらに、ノースカロライナの大手金融機関ワコビアが必死にパートナー探しをしているという情報が流れたのも、金融危機が全米に拡がりつつあることを世間に知らしめたという。こうして、ポールソンのTARPは後押しされることに。
3. 買収戦略
救済策の成功の鍵は、不良資産の処理スピードにかかっている。世論に逆らってまで金融支援策を進めるのは、日本の二の舞だけは避けたいという信念からだ。ポールソンは、全CEOを招集して、業界の尻拭いは自分たちでやれ!とカツを入れるが、ただでさえ非協力的な業界。政府の進め方は、当然かもしれないが強引である。メリルリンチには、バンク・オブ・アメリカにタダ同然の条件でも売るように仕向けたり。それでも、なんとか最悪の条件を免れた買収となったようだけど。
一方、モルガン・スタンレーには波乱が待っていた。ポールソンは、中国初の政府系ファンドCIC(中国投資有限責任公司)に買収させようと画策する。だが、条件が悪すぎて交渉は難航。これまた、タダ同然の買収でも受け入れるように圧力をかけるが、CEOジョン・マックは従業員を守るために断固拒否。そんな時、三菱UFJから融資の話が入る。そもそも日本の銀行は、動きが鈍く、リスクを嫌い、極めて官僚的という評判。ポールソンは、日本の銀行は当てに出来ないと説得する。ごもっともだが、マックには信じるしか選択肢がなかったのだろう。中国側は日本の介入で機嫌を損ねて交渉の場を去るが、モルガン・スタンレーにとって大口顧客であり、北京まで頭を下げに行く羽目に。結局、三菱UFJから90億ドルの融資を受けることになるが、三菱UFJの動きは日本国内でも物議をかもした。
国家危機ともなれば、犠牲者はつきもので、どこかで線引は必要であろう。ポールソン、ガイトナー、バーナンキらは、リーマン・ブラザーズまでで終わりにしようとしたが、結局ゴールドマン・サックス以外の投資銀行は合併か身売りとなる。そして、リーマン・ブラザーズだけが、政府支援を受けられずに倒産した。ただ、リーマン・ブラザーズにしても、イギリスの国際的金融グループ、バークレイズとの交渉機会があったようだが、あまり執着していなかったという。ポールソンと米政府は、バークレイズを交渉に留めようと努力しなかったのか?時間の無駄だとすれば、ポールソンの判断は、正しかったのかもしれないが。そして、結果論かもしれないが、ゴールドマン・サックスの安泰が最優先!という戦略にも映る。
4. 業界体質と救済策の賛否
ウォール街の銀行ビッグ9のCEOがワシントンDCに最終招集されると、ポールソンは告げる。TARPの権限により、財務省は年末までに銀行や貯蓄金融機関の優先株を最大2500億ドル分購入すると。そして、国内最強の銀行が資金を受け取ることで、後に続く弱い銀行にとっては隠れ蓑になると説明している。
業界が危機に陥る度に、潰すべき企業は潰すべきだ!という意見があり、経営責任や業界体質を問うのは当然である。しかし、政策に対する効果を語ることはほぼ不可能であろう。選択肢の双方を経験することなどできないのだから。人間社会は、あくまでも試行実験の場でしかない。人間がやれることと言ったら、再発を防止することぐらいであろう。バーネット・フランクという人は、こう述べたという。
「政治の問題は、大惨事を回避したからといって、功績は認められないことだ。有権者のまえで、"いやはや、まったく最低の事態だ。でも知っているか?もし私がいなかったら、事態はもっとひどいことになっていた"と言えるだろうか。世界の歴史上、演壇でそんなことを言って選ばれた人間などひとりもいない。」
それにしても、後に明るみになった業界体質には唖然とする!
メリルリンチは、契約締結直前に社員に何十億ドルものボーナスを払っていたことが判明し、内密交渉が開示されると株主が大爆発!そもそもバンク・オブ・アメリカとの合併は、メリルリンチの救済措置として提示されたはず。契約締結までの数カ月でメリルリンチの損失は大きく膨らみ、それを隠蔽したまま両社の株主投票にかけられ承認されたことになる。水面下では、ポールソンとバーナンキが圧力をかけての合併交渉だったが、やはり陰謀の臭いがする。バンク・オブ・アメリカも、気づきながらあえて公表しなかったとの指摘もある。おまけに、メリルリンチのCEOジョン・セインは、取締役会に4000万ドルものボーナスを要求していたとか。
しかしながら、世間から最大の反感を買ったのは、AIGだという。850億ドルの資金援助を皮切りに、最終的には政府から1800億ドル以上の支援を受け取るに至ったと。AIG幹部に何百万ドルものボーナスが支払われたという記事が掲載される。支援金の4分の1は、即座にゴールドマン・サックス、メリルリンチ、ドイツ銀行といったグローバル金融機関に移されたという。特に、ゴールドマン・サックスはAIGから129億ドルを受け取り、最大の支払い先として批判される。
そういえば、昨年末(2012年12月)、米財務省はAIGの保有株を全株売却すると、大々的に報じられた。納税者は投資利益も得た格好となったと。このニュースに煮えくり返った人も大勢いるだろう。
一方、予期せぬ副産物もある。金融業界の混乱は、資本主義の将来にどういう意味を持つのか?経済システムにおける政府の役割とはいかなるものか?そして、今回の役割が演じたものは、不可逆的なものなのか?こうしたことに改めて疑問を提起したことである。その後、米政府は、ウォール街だけでなく、デトロイト銀行救済後、ゼネラルモーターズとクライスラーの二大自動車企業を救済した。そして今、オバマ政権下で医療保険システムにおける政府の役割にまで及んでいる。
そこで日本との比較になるわけだが、失われた10年と言われながら20年が過ぎようとしている...
2013-06-23
"天才たちの誤算" Roger Lowenstein 著
なぜGMは... に触発されて、ロジャー・ローウェンスタインをもう一冊。実は、十年以上前に一度読んでいる。株式投資の勉強を始めた当時、オプション、デリバティブ、アービトラージ、VaR(Value at Risk)など、ヘッジ手法の入門書として感服したものである。そして、リーマンショックへの流れを眺めると、金融業界の体質がまったく変わっていないことに気づかされる。
本書の主役、すなわち悪の根源は、LTCM(ロングターム・キャピタル・マネジメント)。1994年、突如無名のチームが、二人のノーベル賞経済学者ロバート・マートンとマイロン・ショールズを擁して登場すると、多くの金融機関が損失を出す場面で一人勝ちの成績を収め、夢の4年間を過ごす。しかも、年間40%のリターンを稼ぐ驚異ぶり。ブラック = ショールズ方程式の伝道師となった彼らは、ヘッジファンドなどという自覚はなく、金融リスク保険会社を自負する。
「われわれはただのファンドではなく、金融工学(ファイナンシャル・テクノロジ)カンパニーです。」
そして、難解な数学用語を持ちだし、勘と度胸が売りのウォール街土着の非科学的なネアンデルタール人どもを圧倒する。金融屋たちは、リスクとは無縁に映るドリームチームに目が眩み、われ先にと取引を申し出る始末。外国のグローバル銀行や政府系機関、そしてFRB議長グリーンスパンまでも、彼らのデリバティブ取引の仕組みに心を奪われる。
しかし、1998年、ロシア債がデフォルトに陥ると状況は一変。ポートフォリオの不透明さに加え、異常なほど高いレバレッジは30倍。自己資本が目減りした時期には55倍にまで膨らむ。世界的金融危機を免れるため、ゴールドマン・サックスがリーダ格となり、ベア・スターンズやメリルリンチなどの投資銀行が救済に乗り出す。そう、後のリーマンショックで主役に躍り出る連中だ。
結局、LTCMは14銀行に買収される。総額36億5千万ドル。十年前に読んだ時、この数字に目を丸くしたものだが、今読むと感覚が麻痺している。リーマンショックでも、ベア・スターンズやリーマン・ブラザーズの演じたレバレッジ水準は30倍に達した。おまけに、公的資金の注入では数千億ドルと桁が違う。ここで救済役を演じた連中が、十年後には主役を演じるわけだ。なるほど、本書はウォール害(街)の雛形物語であったか...
しかし、ウォール街で長く記憶される教訓はない。さて、次の十年後には誰が主役に抜擢されるだろうか?ちなみに、リーマンショックでは、財務長官ポールソン、NY連銀総裁ガイトナー、FRB議長バーナンキらが救済役を演じたが、まさか...
「第二のマートンが現れ、リスク管理しオッズを予想する優美なモデルを発表しても、過去を完璧に記憶するコンピュータが開発され、将来のリスクを測定できると言われても、投資家は今度は、大急ぎで別の方向に逃げ出すだろう。」
とかく人は、カネが絡むと合理的に行動できないものである。アナリストたちの将来予測ほど当てにならないものはない。プロスペクトル理論は、いわば欲望の法則と言っていいだろう。リスクとリターンの関係は常に監視しておく必要がある。とはいえ、リスク分散の難しい時代、不可能なほどに...
証券取引において最も注意を払うのはリスク管理であろう。そこで、無関係そうな証券を組み合わせてポートフォリオを形成し、分散投資する。その組み合わせは、流動性の高いものと低いもの、変動性の大きいものと小さいもの、あるいは多業種に分散させたりと、投資戦略を練る。だが、無関係に見えても誰かがポートフォリオに組み込み、少しでもレバレッジをかけた時点で関係を持つことになる。レバレッジをかければ決済期限に縛られ、損失が生じると評価額が下がり、証拠金を見せなければならない。損失が広がれば、証拠金を見せるために連鎖して他の証券が売られる。リーマンショックでは、資産運用リスクを分散させるために不動産に手を出して、却って大損した人もいるだろう。
また、一つの銘柄が、欧州市場、米国市場、アジア市場など重複して上場している企業も多く、なによりも地球上にある市場は為替で結びついている。しかも、ネット社会では、世界中の市場がリアルタイムでつながる。大手金融機関の間では、アルゴリズムを使って自動売買を高速で行う高頻度取引(HFT)がお盛んだ。コンマ何秒で差益を決するとなれば、大衆は大挙して押し寄せ、リスク分散だけでは対処できない。ブラック = ショールズ・モデルのような微分方程式の弱点は非連続性への対応であり、まさに金融危機とはそうした状況にある。数学的にはアトラクターのような、物理学的にはブラックホールのような状態なのだ。人は、理は避けられても、偶然までは避けられない。人間は本能的に、偶然に対して無防備にならざるをえない。
では、レバレッジをかけなければどうだろうか?1929年の世界恐慌から100年スパンで眺めれば、多少の瞬間ノイズがあるにせよ、市場全体では連続性を保っているように映る。デフォルトした国家ですら立ち直っているではないか。倒産リスクがあるにせよ、決済期限に縛られなければ、ポートフォリオはずっと機能しやすくなるのではないか。仮想価値に目を奪われず、経済循環の根幹である生産性に確実に向かっている銘柄を選択すれば、偶然のリスクを軽減することはできるだろう。実体を見据えておけば、世間が大騒ぎするような事態には陥らずに済むのではないか。ウォーレン・バフェットといった多くの投資家が、デリバティブを毛嫌いする理由がここにある。財布と相談しながら気に入った事業に投資し、地道に配当金を狙うだけでも、銀行金利よりはるかに良い成績が得られるし、わずかでも年金運用の足しにはできる。少々要領が悪くても、数年後には金融危機前の水準に回復する。マスコミや風潮に踊らされてよほどの高値を掴まされない限り。むしろ逆張りで行く方がいいかもしれない。わざわざリスクの高い時期に売買に参加することもあるまい。
いずれにせよ、リスクのない成長はありえないし、リスクを完全にコントロールすることも不可能である。それは遺伝子工学が教えてくれている。人間は、DNA配列の複製ミスのリスクを冒してまで進化の道を選んだ。欲望は人間の本質、抑制するもまた欲望、この性質はけして消し去ることはできない。そこで、微分方程式を用いて環境条件を絞りながら分析しようとする試みが、悪いとは思わない。ただ実際、カオス系で条件を網羅することは不可能なぐらい難しく、初期条件と境界条件をちょいと間違えるだけで、まったく違う答えを弾き出す。道具ってやつは、弱点を心得た上で用いて威力を発揮する。LTCMの最大の問題は、数学の道具を宗教レベルにまで崇めたことであろう。
1. 陰謀説と市場原理
世界的金融危機が生じると、必ず取り沙汰されるのが金融陰謀説。ユダヤ系金融支配説やフリーメイソン世界支配説、あるいは、ロックフェラーやロスチャイルドの影響が何かと噂され、アメリカの建国史そのものが、フリーメイソンとの関係を噂されてきた。近年で言えば、ゴールドマン・サックスであろうか。その創設もユダヤ系。本書でも不穏な動きを見せる。積極的に援助を申し出て帳簿に侵入し、ポジションをそっくりノートパソコンにダウンロードしたようだと。その張本人ジェイコブ・ゴールドフィールドは、なぜかリーマンにも精通している。ゴールドマン側は必死に否定しているけど。しかし、これは単なる産業スパイの類いに見える。金融業界そのものが、陰謀めいた性格を持っているし...
経済にとって最も重要なのは生産性であるが、それを触発するのが投資である。生産によって得られる利益を効率良く投資にフィードバックさせれば、経済循環をより活性化させることができる。資金を効率良く投資に向かわせるには、生産財の価値評価が欠かせない。その評価に信用をもたらすのが金融業界の役割である。逆に言えば、価値評価をちょいと欺瞞するだけで、経済循環を根元から牛耳ることができる。国家の枠組みを超えたヘッジファンド、あるいはテロリストによる世界金融支配を目論む連中が存在するのも確か。実際、日本国債にしても、空売り攻撃を何度も経験している。今のところ外国人保有率が低いので動じないようだが、日本人にも空売り屋はいるし、自称日本人ってのもいる。それに、経済危機の後は、国債などの安定資産に資金が向かう傾向にある。危険水準にあれば、ちょっとしたきっかけで一斉に暴落を誘発する可能性があるということを、そして、どんな金融商品であれデフォルトのリスクは避けられないということを、この物語は教えてくれる。要するに、今現在、市場が機能しているかどうかなど、誰にも分からないということだろう。やはり、アナリストとは占い師の類いか...
2. 底なしの資金調達機関
LTCMの当初の戦略は、安定資産をロングポジション(買い)で仕込み、ショートポジション(売り)でヘッジするというやり方。つまり、デリバティブをヘッジとして機能させている。この手法は、それほど悪くない。むしろ参考になるぐらいだ。
ただ、一つ一つの取引が小銭稼ぎのために、ファンドとしての利益拡大が見込めない。そこで、自己資本を大幅に超えた資金を投じる物量作戦にでる。失敗の確率は、いくら資金を投入しても同じという先入観。しかし、失敗した時に取り返しがつくかどうかは別で、小学生でも分かりそうなものだけど。そして、デリバティブ残高は、1995年の時点で6500億ドル、1997年では1兆2500億ドルという途方も無い値にまで膨れ上がる。レバレッジをかけた分、損失期間を耐えぬくための資金が必要になる。ここにデリバティブのメカニズムがある。
それにしても、ちっぽけなファンドがなぜ、これだけの資金を集めることができたのか?LTCM率いるジョン・メリウェザーは、数学の才能に溢れ、ソロモン・ブラザーズで債券アービトラージャーとして才覚を現した人物だという。内気で一分の隙もないポーカーフェース。怯えと強欲さというトレーダーにとって命取りとなる二つの感情を、並外れた自制心で抑えることができるという。私利を追求する人間には珍しく気品を感じさせるそうな。業界でも信頼が厚く、寛容な態度と部下を思いやる態度は、トレーダーらしくない道徳心も見せるという。
彼の人事戦略は単純で、自分より頭のいい人材を雇うこと。まず、ノーベル経済学賞の有力候補ロバート・マートンとマイロン・ショールズの二人を引き入れる。さらに、射止めた人物は衝撃を与える。グリーンスパンの後継者とも言われる人物、FRB副議長デビッド・W・マリンズ。ワシントンから太鼓判を押された格好で、香港土地開発局、シンガポール政府投資公社、台湾銀行、バンコク銀行、クウェート国営年金基金などから相次いで契約を取る。イタリア中央銀行の外為局に1億ドルを投資させる離れ業まで披露。とても民間のヘッジファンドのできる芸当ではない。というより、相手側もヘッジファンドという感覚がないのだろう。住友銀行も1億ドルの契約、ドイツ銀行とリヒテンシュタイン・グローバル・トラストも、スイスのプライベート・バンク、ジュリアス・ベアーは億万長者の顧客にファンドを売り込んだという。LTCMの掲げる肩書きに、銀行をはじめ一般の大企業のCEOや著名人たち、あるいは資産運用機関が群がる。手数料の高さなど、そっちのけ。マートンとショールズの書籍を読めば、ローリスク投資だと思い込んでいる。ウォール街の幹部クラスは、学術的な話になるとチンプンカンプン。
しかし、金融屋や保険屋という人種は、専門家ですら理解の難しい複雑な金融商品を編み出して、素人を喰い物にする連中である。ここでは逆に、難しい数学用語によって喰い物にされる。メリウェザーがいなかったら、こうした数学者たちに実験の場を与えることはなかったのだろうけど...
3. 金融工学の相対性理論 = サヤ取り商法
経済循環における投資の役割は、流動性を形成することである。だが、LTCMの戦略は、流動性などはどうでもよく、相対価値戦略にある。サヤ取りこそが、メリウェザーの基本形というわけだ。というより、業界全体の体質であろう。
市場で相対価値が生じる最も基本的な形は、先物と現物であろう。つまり、将来価値と現在価値の差益を求める仕組み。原理的には、将来価値は現在価値に収束するはず。その前提では、購入時に将来価値と現在価値の差が大きいほど、差益が得られることになる。つまり、相対価値戦略とは、相対的な関係を持つ金融商品において、その双方のスプレッド(格差)を狙う取引術である。
本書が紹介する住宅ローンの仕組みは興味深い。それは、PO債(Principal Only)とIO債(Interest Only)である。借り手が、住宅ローンを途中で借り換える場合、元のローンは一括返済される。多額の元本が一気に支払われ、利息プールへの支払いは、そこで途絶える。その元本のみの証券が、PO債である。一方、当初の契約どおりに月ごとの利払いのみを行う証券が、IO債である。つまり、IO債は、借り換える人が増えると値を下げ、借り換える人が減ると値を上げることになる。
1993年頃から、米国では借り換えブームが起きたという。ベトナム戦争後、初めて住宅ローン金利が 7% を割り込み、ベビーブーマー世代が一斉に利払いの節約に走ったという。IO債は明らかに低すぎる水準まで急落。そこに目を付けたLTCMは、IO債を買いまくり大儲けする。その基本原理には、イールドカーブ取引による戦略がある。金利がある期間に限って、これといった理由もなく通常の水準から乖離していると、すかさず介入。例えば、中期の金利が短期を上回り、長期に肩を並べそうな水準であるような場面で一連のアービトラージ取引を仕掛け、この中期の出っ張りが消える方向に賭ける。こうした複雑な取引を物色する眼力は鋭い。1994年の米国債権市場の混乱が、ドイツ、フランス、イギリスの国債と、それぞれの先物とのスプレッドが拡大、そこにLTCMが飛びつき利益を上げる。あるいは、日本株ワラントと東証株価指数オプションとのアービトラージにも目をつける。その性格が、ロシア債にも手を出すことになる。
また、ペア株にも目を付ける。複数の市場に上場した銘柄は、必ずスプレッドが生じる。しかし、だ。PO債やIO債にせよ、元本と金利を分けた証券を編み出したのは金融屋だ。まるで価値の幽体離脱!マイホームの夢は、どこの国でも同じようで、住宅ローン証券は餌食にされやすい。信用取引とは、実体価値から信用だけが浮遊してまわる原理というわけか。金融屋たちは霊感が強いのか?
そして、リーマンショックでは、もっと巧みな技法、CDS(クレジット・デフォルト・スワップ)という債権の委譲なしで、信用リスクのみを委譲するなんて証券が主役を演じることになる。相対価値を無理やり編み出してスワップするのは、金融屋の得意技か。他にも、貸出を資本にスワップされるような仕掛けを編み出すなど...これが金融工学なのか?金利スワップに、株式スワップに、通貨スワップに、信用スワップに...なるほど、欲望の原理はスワップにあったのかぁ。そして、夫婦関係もスワップ?
金融業界は、こういう取引のあり方に疑問を持たないのだろうか?本来のデリバティブは、災害などで生じる大幅な価格変動を軟着陸させるための方策であったはず。堺の商人によって考案された先物取引は、気象状況に影響されないように、予め米価を決めておくことによって価格を安定させ、社会混乱を避けようとする仕組みであった。政治屋は金融屋と結びついて、規制緩和をいかにも自由主義の象徴にように持ち出すが、奇妙な金融商品を編み出すために利用されているとしたら、本末転倒も甚だしい。最大の問題は、LTCMの出現よりも、その出現を呼び込んだ業界体質の方にあるように思えてならない。
4. ボラティリティで、ぼられる?
LTCMの基本形と言うべき取引に、エクイティ・ボラティリティといものがあるという。これが破綻の原動力か。
さて、ボラティリティ(変動性)に賭けるって、なんだ?変動幅を予測するのは、チャート分析では欠かせない考え方で、微分方程式を用いた基本的な思考方法である。ただ、変動の激しさを予測するとなると、途端に難しくなる。
1998年の初め、LTCMはエクイティ・ボラティリティを大量に売り始めたという。といっても、エクイティ・ボラティリティなんて株式や証券があるわけではない。オプション価格を決定する鍵は原資産の予想ボラティリティにあり、ブラック = ショールズ方程式によると、オプション価格が分かれば、市場がどの程度のボラティリティを予想しているかを推定できる。ボラティリティから市場予測の間違いを推定し、オプションの方向性を売るといったことをやるわけだ。
まず、オプションの買い手は、相場の下落に備えて保険をかけたいと考える。暴落のリスクに対して、わずかばかりの保険料(プレミアム)なら喜んで支払うだろう。一方、LTCMは保険料を徴収する代わりに、市場が暴走した時は損失を引き受ける義務を負う。モルガン・スタンレーは、LTCMに「ボラティリティ中央銀行」というニックネームを進呈したとか。
実際には、LTCMは急速な下落と急速な上昇の双方向のリスクに対して、保険(オプション)を売ることになる。買い手は、オプション価格が適性かどうか判断できないので、双方に買い手がつく。ちょうどアジア通貨危機を目の当たりにした時期で、保険料の相場がどうであれ、保険に入りたいという心理が働く。投資家が安全ネットへの出費を増やせば、オプション価格を押し上げる。金融機関は、投資家の不安につけ込み、下落リスクをヘッジした株価指数商品を売り込む。LTCMは、こうした動きが、オプション価格を人為的に押し上げると見ている。それも間違いではあるまい。オプション価格が高い水準にあれば、実質的には保険に割高な料金を請求していることになり、オプション契約満了時に儲かるという寸法。なるほど、保険屋の言い分ももっともだ。
「保険にばかげた値段を支払おうという客がいるのに、売らない理由がどこにある。」
長期的なオプションは取引所では売買されないので、個別契約をしているという。1対1の契約を、JPモルガン、ソロモン・ブラザーズ、モルガン・スタンレー、バンカース・トラストといった大手に売る。エクイティ・ボラティリティは、長期的には理に適っている。だが、短期的にはハイリスクとなる。やはり、レバレッジに耐えうるだけの資金力が鍵になるというのは同じか。
本書の主役、すなわち悪の根源は、LTCM(ロングターム・キャピタル・マネジメント)。1994年、突如無名のチームが、二人のノーベル賞経済学者ロバート・マートンとマイロン・ショールズを擁して登場すると、多くの金融機関が損失を出す場面で一人勝ちの成績を収め、夢の4年間を過ごす。しかも、年間40%のリターンを稼ぐ驚異ぶり。ブラック = ショールズ方程式の伝道師となった彼らは、ヘッジファンドなどという自覚はなく、金融リスク保険会社を自負する。
「われわれはただのファンドではなく、金融工学(ファイナンシャル・テクノロジ)カンパニーです。」
そして、難解な数学用語を持ちだし、勘と度胸が売りのウォール街土着の非科学的なネアンデルタール人どもを圧倒する。金融屋たちは、リスクとは無縁に映るドリームチームに目が眩み、われ先にと取引を申し出る始末。外国のグローバル銀行や政府系機関、そしてFRB議長グリーンスパンまでも、彼らのデリバティブ取引の仕組みに心を奪われる。
しかし、1998年、ロシア債がデフォルトに陥ると状況は一変。ポートフォリオの不透明さに加え、異常なほど高いレバレッジは30倍。自己資本が目減りした時期には55倍にまで膨らむ。世界的金融危機を免れるため、ゴールドマン・サックスがリーダ格となり、ベア・スターンズやメリルリンチなどの投資銀行が救済に乗り出す。そう、後のリーマンショックで主役に躍り出る連中だ。
結局、LTCMは14銀行に買収される。総額36億5千万ドル。十年前に読んだ時、この数字に目を丸くしたものだが、今読むと感覚が麻痺している。リーマンショックでも、ベア・スターンズやリーマン・ブラザーズの演じたレバレッジ水準は30倍に達した。おまけに、公的資金の注入では数千億ドルと桁が違う。ここで救済役を演じた連中が、十年後には主役を演じるわけだ。なるほど、本書はウォール害(街)の雛形物語であったか...
しかし、ウォール街で長く記憶される教訓はない。さて、次の十年後には誰が主役に抜擢されるだろうか?ちなみに、リーマンショックでは、財務長官ポールソン、NY連銀総裁ガイトナー、FRB議長バーナンキらが救済役を演じたが、まさか...
「第二のマートンが現れ、リスク管理しオッズを予想する優美なモデルを発表しても、過去を完璧に記憶するコンピュータが開発され、将来のリスクを測定できると言われても、投資家は今度は、大急ぎで別の方向に逃げ出すだろう。」
とかく人は、カネが絡むと合理的に行動できないものである。アナリストたちの将来予測ほど当てにならないものはない。プロスペクトル理論は、いわば欲望の法則と言っていいだろう。リスクとリターンの関係は常に監視しておく必要がある。とはいえ、リスク分散の難しい時代、不可能なほどに...
証券取引において最も注意を払うのはリスク管理であろう。そこで、無関係そうな証券を組み合わせてポートフォリオを形成し、分散投資する。その組み合わせは、流動性の高いものと低いもの、変動性の大きいものと小さいもの、あるいは多業種に分散させたりと、投資戦略を練る。だが、無関係に見えても誰かがポートフォリオに組み込み、少しでもレバレッジをかけた時点で関係を持つことになる。レバレッジをかければ決済期限に縛られ、損失が生じると評価額が下がり、証拠金を見せなければならない。損失が広がれば、証拠金を見せるために連鎖して他の証券が売られる。リーマンショックでは、資産運用リスクを分散させるために不動産に手を出して、却って大損した人もいるだろう。
また、一つの銘柄が、欧州市場、米国市場、アジア市場など重複して上場している企業も多く、なによりも地球上にある市場は為替で結びついている。しかも、ネット社会では、世界中の市場がリアルタイムでつながる。大手金融機関の間では、アルゴリズムを使って自動売買を高速で行う高頻度取引(HFT)がお盛んだ。コンマ何秒で差益を決するとなれば、大衆は大挙して押し寄せ、リスク分散だけでは対処できない。ブラック = ショールズ・モデルのような微分方程式の弱点は非連続性への対応であり、まさに金融危機とはそうした状況にある。数学的にはアトラクターのような、物理学的にはブラックホールのような状態なのだ。人は、理は避けられても、偶然までは避けられない。人間は本能的に、偶然に対して無防備にならざるをえない。
では、レバレッジをかけなければどうだろうか?1929年の世界恐慌から100年スパンで眺めれば、多少の瞬間ノイズがあるにせよ、市場全体では連続性を保っているように映る。デフォルトした国家ですら立ち直っているではないか。倒産リスクがあるにせよ、決済期限に縛られなければ、ポートフォリオはずっと機能しやすくなるのではないか。仮想価値に目を奪われず、経済循環の根幹である生産性に確実に向かっている銘柄を選択すれば、偶然のリスクを軽減することはできるだろう。実体を見据えておけば、世間が大騒ぎするような事態には陥らずに済むのではないか。ウォーレン・バフェットといった多くの投資家が、デリバティブを毛嫌いする理由がここにある。財布と相談しながら気に入った事業に投資し、地道に配当金を狙うだけでも、銀行金利よりはるかに良い成績が得られるし、わずかでも年金運用の足しにはできる。少々要領が悪くても、数年後には金融危機前の水準に回復する。マスコミや風潮に踊らされてよほどの高値を掴まされない限り。むしろ逆張りで行く方がいいかもしれない。わざわざリスクの高い時期に売買に参加することもあるまい。
いずれにせよ、リスクのない成長はありえないし、リスクを完全にコントロールすることも不可能である。それは遺伝子工学が教えてくれている。人間は、DNA配列の複製ミスのリスクを冒してまで進化の道を選んだ。欲望は人間の本質、抑制するもまた欲望、この性質はけして消し去ることはできない。そこで、微分方程式を用いて環境条件を絞りながら分析しようとする試みが、悪いとは思わない。ただ実際、カオス系で条件を網羅することは不可能なぐらい難しく、初期条件と境界条件をちょいと間違えるだけで、まったく違う答えを弾き出す。道具ってやつは、弱点を心得た上で用いて威力を発揮する。LTCMの最大の問題は、数学の道具を宗教レベルにまで崇めたことであろう。
1. 陰謀説と市場原理
世界的金融危機が生じると、必ず取り沙汰されるのが金融陰謀説。ユダヤ系金融支配説やフリーメイソン世界支配説、あるいは、ロックフェラーやロスチャイルドの影響が何かと噂され、アメリカの建国史そのものが、フリーメイソンとの関係を噂されてきた。近年で言えば、ゴールドマン・サックスであろうか。その創設もユダヤ系。本書でも不穏な動きを見せる。積極的に援助を申し出て帳簿に侵入し、ポジションをそっくりノートパソコンにダウンロードしたようだと。その張本人ジェイコブ・ゴールドフィールドは、なぜかリーマンにも精通している。ゴールドマン側は必死に否定しているけど。しかし、これは単なる産業スパイの類いに見える。金融業界そのものが、陰謀めいた性格を持っているし...
経済にとって最も重要なのは生産性であるが、それを触発するのが投資である。生産によって得られる利益を効率良く投資にフィードバックさせれば、経済循環をより活性化させることができる。資金を効率良く投資に向かわせるには、生産財の価値評価が欠かせない。その評価に信用をもたらすのが金融業界の役割である。逆に言えば、価値評価をちょいと欺瞞するだけで、経済循環を根元から牛耳ることができる。国家の枠組みを超えたヘッジファンド、あるいはテロリストによる世界金融支配を目論む連中が存在するのも確か。実際、日本国債にしても、空売り攻撃を何度も経験している。今のところ外国人保有率が低いので動じないようだが、日本人にも空売り屋はいるし、自称日本人ってのもいる。それに、経済危機の後は、国債などの安定資産に資金が向かう傾向にある。危険水準にあれば、ちょっとしたきっかけで一斉に暴落を誘発する可能性があるということを、そして、どんな金融商品であれデフォルトのリスクは避けられないということを、この物語は教えてくれる。要するに、今現在、市場が機能しているかどうかなど、誰にも分からないということだろう。やはり、アナリストとは占い師の類いか...
2. 底なしの資金調達機関
LTCMの当初の戦略は、安定資産をロングポジション(買い)で仕込み、ショートポジション(売り)でヘッジするというやり方。つまり、デリバティブをヘッジとして機能させている。この手法は、それほど悪くない。むしろ参考になるぐらいだ。
ただ、一つ一つの取引が小銭稼ぎのために、ファンドとしての利益拡大が見込めない。そこで、自己資本を大幅に超えた資金を投じる物量作戦にでる。失敗の確率は、いくら資金を投入しても同じという先入観。しかし、失敗した時に取り返しがつくかどうかは別で、小学生でも分かりそうなものだけど。そして、デリバティブ残高は、1995年の時点で6500億ドル、1997年では1兆2500億ドルという途方も無い値にまで膨れ上がる。レバレッジをかけた分、損失期間を耐えぬくための資金が必要になる。ここにデリバティブのメカニズムがある。
それにしても、ちっぽけなファンドがなぜ、これだけの資金を集めることができたのか?LTCM率いるジョン・メリウェザーは、数学の才能に溢れ、ソロモン・ブラザーズで債券アービトラージャーとして才覚を現した人物だという。内気で一分の隙もないポーカーフェース。怯えと強欲さというトレーダーにとって命取りとなる二つの感情を、並外れた自制心で抑えることができるという。私利を追求する人間には珍しく気品を感じさせるそうな。業界でも信頼が厚く、寛容な態度と部下を思いやる態度は、トレーダーらしくない道徳心も見せるという。
彼の人事戦略は単純で、自分より頭のいい人材を雇うこと。まず、ノーベル経済学賞の有力候補ロバート・マートンとマイロン・ショールズの二人を引き入れる。さらに、射止めた人物は衝撃を与える。グリーンスパンの後継者とも言われる人物、FRB副議長デビッド・W・マリンズ。ワシントンから太鼓判を押された格好で、香港土地開発局、シンガポール政府投資公社、台湾銀行、バンコク銀行、クウェート国営年金基金などから相次いで契約を取る。イタリア中央銀行の外為局に1億ドルを投資させる離れ業まで披露。とても民間のヘッジファンドのできる芸当ではない。というより、相手側もヘッジファンドという感覚がないのだろう。住友銀行も1億ドルの契約、ドイツ銀行とリヒテンシュタイン・グローバル・トラストも、スイスのプライベート・バンク、ジュリアス・ベアーは億万長者の顧客にファンドを売り込んだという。LTCMの掲げる肩書きに、銀行をはじめ一般の大企業のCEOや著名人たち、あるいは資産運用機関が群がる。手数料の高さなど、そっちのけ。マートンとショールズの書籍を読めば、ローリスク投資だと思い込んでいる。ウォール街の幹部クラスは、学術的な話になるとチンプンカンプン。
しかし、金融屋や保険屋という人種は、専門家ですら理解の難しい複雑な金融商品を編み出して、素人を喰い物にする連中である。ここでは逆に、難しい数学用語によって喰い物にされる。メリウェザーがいなかったら、こうした数学者たちに実験の場を与えることはなかったのだろうけど...
3. 金融工学の相対性理論 = サヤ取り商法
経済循環における投資の役割は、流動性を形成することである。だが、LTCMの戦略は、流動性などはどうでもよく、相対価値戦略にある。サヤ取りこそが、メリウェザーの基本形というわけだ。というより、業界全体の体質であろう。
市場で相対価値が生じる最も基本的な形は、先物と現物であろう。つまり、将来価値と現在価値の差益を求める仕組み。原理的には、将来価値は現在価値に収束するはず。その前提では、購入時に将来価値と現在価値の差が大きいほど、差益が得られることになる。つまり、相対価値戦略とは、相対的な関係を持つ金融商品において、その双方のスプレッド(格差)を狙う取引術である。
本書が紹介する住宅ローンの仕組みは興味深い。それは、PO債(Principal Only)とIO債(Interest Only)である。借り手が、住宅ローンを途中で借り換える場合、元のローンは一括返済される。多額の元本が一気に支払われ、利息プールへの支払いは、そこで途絶える。その元本のみの証券が、PO債である。一方、当初の契約どおりに月ごとの利払いのみを行う証券が、IO債である。つまり、IO債は、借り換える人が増えると値を下げ、借り換える人が減ると値を上げることになる。
1993年頃から、米国では借り換えブームが起きたという。ベトナム戦争後、初めて住宅ローン金利が 7% を割り込み、ベビーブーマー世代が一斉に利払いの節約に走ったという。IO債は明らかに低すぎる水準まで急落。そこに目を付けたLTCMは、IO債を買いまくり大儲けする。その基本原理には、イールドカーブ取引による戦略がある。金利がある期間に限って、これといった理由もなく通常の水準から乖離していると、すかさず介入。例えば、中期の金利が短期を上回り、長期に肩を並べそうな水準であるような場面で一連のアービトラージ取引を仕掛け、この中期の出っ張りが消える方向に賭ける。こうした複雑な取引を物色する眼力は鋭い。1994年の米国債権市場の混乱が、ドイツ、フランス、イギリスの国債と、それぞれの先物とのスプレッドが拡大、そこにLTCMが飛びつき利益を上げる。あるいは、日本株ワラントと東証株価指数オプションとのアービトラージにも目をつける。その性格が、ロシア債にも手を出すことになる。
また、ペア株にも目を付ける。複数の市場に上場した銘柄は、必ずスプレッドが生じる。しかし、だ。PO債やIO債にせよ、元本と金利を分けた証券を編み出したのは金融屋だ。まるで価値の幽体離脱!マイホームの夢は、どこの国でも同じようで、住宅ローン証券は餌食にされやすい。信用取引とは、実体価値から信用だけが浮遊してまわる原理というわけか。金融屋たちは霊感が強いのか?
そして、リーマンショックでは、もっと巧みな技法、CDS(クレジット・デフォルト・スワップ)という債権の委譲なしで、信用リスクのみを委譲するなんて証券が主役を演じることになる。相対価値を無理やり編み出してスワップするのは、金融屋の得意技か。他にも、貸出を資本にスワップされるような仕掛けを編み出すなど...これが金融工学なのか?金利スワップに、株式スワップに、通貨スワップに、信用スワップに...なるほど、欲望の原理はスワップにあったのかぁ。そして、夫婦関係もスワップ?
金融業界は、こういう取引のあり方に疑問を持たないのだろうか?本来のデリバティブは、災害などで生じる大幅な価格変動を軟着陸させるための方策であったはず。堺の商人によって考案された先物取引は、気象状況に影響されないように、予め米価を決めておくことによって価格を安定させ、社会混乱を避けようとする仕組みであった。政治屋は金融屋と結びついて、規制緩和をいかにも自由主義の象徴にように持ち出すが、奇妙な金融商品を編み出すために利用されているとしたら、本末転倒も甚だしい。最大の問題は、LTCMの出現よりも、その出現を呼び込んだ業界体質の方にあるように思えてならない。
4. ボラティリティで、ぼられる?
LTCMの基本形と言うべき取引に、エクイティ・ボラティリティといものがあるという。これが破綻の原動力か。
さて、ボラティリティ(変動性)に賭けるって、なんだ?変動幅を予測するのは、チャート分析では欠かせない考え方で、微分方程式を用いた基本的な思考方法である。ただ、変動の激しさを予測するとなると、途端に難しくなる。
1998年の初め、LTCMはエクイティ・ボラティリティを大量に売り始めたという。といっても、エクイティ・ボラティリティなんて株式や証券があるわけではない。オプション価格を決定する鍵は原資産の予想ボラティリティにあり、ブラック = ショールズ方程式によると、オプション価格が分かれば、市場がどの程度のボラティリティを予想しているかを推定できる。ボラティリティから市場予測の間違いを推定し、オプションの方向性を売るといったことをやるわけだ。
まず、オプションの買い手は、相場の下落に備えて保険をかけたいと考える。暴落のリスクに対して、わずかばかりの保険料(プレミアム)なら喜んで支払うだろう。一方、LTCMは保険料を徴収する代わりに、市場が暴走した時は損失を引き受ける義務を負う。モルガン・スタンレーは、LTCMに「ボラティリティ中央銀行」というニックネームを進呈したとか。
実際には、LTCMは急速な下落と急速な上昇の双方向のリスクに対して、保険(オプション)を売ることになる。買い手は、オプション価格が適性かどうか判断できないので、双方に買い手がつく。ちょうどアジア通貨危機を目の当たりにした時期で、保険料の相場がどうであれ、保険に入りたいという心理が働く。投資家が安全ネットへの出費を増やせば、オプション価格を押し上げる。金融機関は、投資家の不安につけ込み、下落リスクをヘッジした株価指数商品を売り込む。LTCMは、こうした動きが、オプション価格を人為的に押し上げると見ている。それも間違いではあるまい。オプション価格が高い水準にあれば、実質的には保険に割高な料金を請求していることになり、オプション契約満了時に儲かるという寸法。なるほど、保険屋の言い分ももっともだ。
「保険にばかげた値段を支払おうという客がいるのに、売らない理由がどこにある。」
長期的なオプションは取引所では売買されないので、個別契約をしているという。1対1の契約を、JPモルガン、ソロモン・ブラザーズ、モルガン・スタンレー、バンカース・トラストといった大手に売る。エクイティ・ボラティリティは、長期的には理に適っている。だが、短期的にはハイリスクとなる。やはり、レバレッジに耐えうるだけの資金力が鍵になるというのは同じか。
2013-06-16
"なぜGMは転落したのか" Roger Lowenstein 著
世界一の自動車メーカとして君臨し、アメリカの象徴となったゼネラルモーターズ。会長チャーリー・ウィルソンが国務長官に任命された時、議会で発言したあの言葉が蘇る。
「我が国にとって良いことは、GMにとっても良いことであり、その逆もまたしかり。」
ところが、2009年、GMはチャプターイレブン(連邦倒産法第11章)の適用を申請する。その凋落ぶりの最大の原因は、利益を喰い潰す企業年金にあったという。しかも、この問題はビッグスリーに留まらず、全米に蔓延していると指摘している。
注目すべきは、民間部門よりも、むしろ公共部門の方が深刻なことである。どこの国でも、民間企業の従業員よりも公務員の方が、明らかに職場の財政破綻に対する危機感が薄い。周知の通り、アメリカは社会保障制度があまり充実していない。その分、民間企業がその役割を果たしてきたということか。言い換えれば、企業に所属しなければ社会保障制度にありつくこともできない。労働組合は奇妙な労働者権利を増幅させてきた。まさに既得権益の原理がここにある。
本書は、地方自治体の至るところで年金爆弾を抱えている実態を暴き、実際にニューヨーク市地下鉄とサンディエゴ市で起こった年金破綻の事例を紹介してくれる。特に、サンディエゴ市の事例はエンロン級の粉飾、いや、陰謀の類いか。著者はペテン師と呼んでいる。これらの事例で共通している事は、経営陣による「先送りの原理」と労働組合による「タカリの原理」が相補に作用した結果だということ。そして、我が国にもそのまま当て嵌まるということ。いや、20年前に語るべきものだったかもしれない。
「不幸なことだが。年金プランは政府予算のバランスをとるために支出を簡単に先送りできる領域だ。」
...連邦下院議員エルウッド・ヒリス
まだしも民間部門の破綻は仕方がないかもしれない。だが、地方自治体の破綻を目の当たりにすると国家の危機となる。公共機関における労働組合の政治的結束力は強く、そのまま公務員という名の特権階級に押し上げる。ただ、公務員にも同情すべき点はある。法律でストライキ権が認められていない上に、なにかと批判の対象とされやすい。それでも、TWU(全米運輸労組)は過去に二度のスト経験があるらしいが。いずれにせよ、能力主義が明確に現れない職場ほど、奇妙な団結力を発揮するものである。
本書に驚かされるのは、あのアメリカにして共産主義的な、社会主義的な思想が根強くあることである。老舗巨大産業は、1974年のエリサ法(従業員退職所得保障法)などを経て、労働者待遇の義務化を押し付けられてきた。GMから分社化した自動車部品メーカ、デルファイの従業員は、こんな権利まで手にしていたという。歯科、眼科、年金、生命保険、疾病、身体障害、事故などに対応する各種保険、約5週間の有給休暇、おまけに無料法律相談... と、呆れんばかりの優遇!こんな堕落産業に公的資金投入とは、これいかに?官僚化とは、なにも公務員の専売特許ではない。モラルハザードとは、なにも金融屋の専売特許ではない。そして、航空会社、繊維メーカ、製鉄業など至る所で年金スポンサーが倒産に追い込まれる。
一方、ウォルマートのような小売業やグーグルのようなIT企業といった新興産業では、企業年金を拒否する。米議会では国民皆保険でいまだ揉めているようだが、あながちアカの政策とも言えないようだ。日本でも同じように、企業の競争力を削ぐかのように巨額な法人税を課す。純粋な競争力で試算すると、日本企業も捨てたもんじゃないはずだが。社会保障において、国家と民間の役割分担を論じることは難しい。それは、国際競争力と深く関わり、絶対的な解を見つけることはできないだろう。
こうした構図を眺めていると、我が国でも似たような政策に出くわす。最近の例では、2009年に成立したモラトリアム法(中小企業金融円滑化法)あたりであろうか。リーマンショックの煽りで成立したと言っていいだろう。当時の金融担当相亀井静香氏が推進した政策で、約30万社に総額95兆円をばら撒いたとも言われる。返済を猶予すると宣言すれば、弱者を守る心地良い制度に映る。実際、この制度を活用して助かった企業も少なくないだろう。だが、1年間の時限立法だったはずが、1年延長、2年延長と先送り。当初からペーパー会社の乱立が指摘された。民間が政治家にたかる構造によって政治家が大きな顔をする、その典型であろう。頭の痛い金融副産物は、いまだ亡霊のごとくつきまとう。
1. 労働組合
「年金物語の大半は、労働組合の力がゆっくりと増大する物語である。」
労働組合はその性格上、共産主義や社会主義と結びつきやすい。プロレタリアートの代表として。企業側が裏社会と結びつき労働者組織を潰しにかかれば、共産主義者が突撃部隊を組織し、ストライキ、脅し、あからさまな政治工作によって、議会の一大勢力へ伸し上がってきた。暴力抗争の末、ニューディール政策によって労働者を保護するワグナー法が制定されると、上品な労使交渉へと移行していく。それでも、ルーズベルト大統領は公共機関に対する労働組合という考えには冷ややかだったという。
労働組合にしても共産主義にしても、発足当初はおそらく意義深いものだったに違いない。あらゆる市民階層から生じる草の根運動の類いが、そうであるように。資本階級に権利が集中した時代、マルクスが資本主義の弱点を指摘すると、労働組合は労働者の権利を獲得していく。だが、どんな組織でも、増殖していくうちに心得違いした者が紛れ込み、本質的な意義が失われていく。これが、官僚化の法則というやつだ。
そして今、労働組合は本当に労働者の代表者として機能しているだろうか?本書が紹介する逆転現象は興味深い。大手労組の多くは自らの政治的利益にきわめて敏感な幹部で固められ、確実だが控えめな給付金よりも、不確実でも贅沢な利益を求める交渉を好んだという。むしろコダックやIBMのように労働組合のない企業の方が、年金基金の積立状況が良いそうな。日本においても大手労組が選挙運動に血眼になる光景を見かける。目先の平等主義を訴える姿を。組合費が選挙戦に費やされ、まさに政治団体と化す。経済学者の中には、労働組合不要説を唱える人も少なくない。実際、労組が獲得する賃上げ運動が非正規社員や下請けをいじめ、組織外の人々に犠牲を強いることによって存在感を示している。
2. 先送りとタカリの融合
選挙の機能について、興味深い指摘がある。選挙は、一般人にとっては政策の選択となるが、公務員にとっては上司の選択になるという。サンディエゴ市の事例では、政治家たちは情報を隠蔽し、労働者優遇や公共施設の整備を訴えて当選を繰り返す。そして、サンディエゴ市職員の給付金は、民間企業よりもはるかに高い水準にまで達したという。GMでは馴れ合い取締役会が先延ばしを続け、サンディエゴ市では政治家の心地良い公約が市民を欺瞞し続けた。
「政府の実施する計画のなかで、年金ほど政治的性格が試されるものはない。年金は未来との契約である。つまり、市が職員をどれだけ評価するかを表明するものだ。」
では、政治家が情報を開示し、正直に給付金カットを宣言したらどうだろうか?それでも当選できるだろうか?市民は冷静な判断を下せるだろうか?政治家がいくら先延ばししようとも、市民が実態を知り、拒否すれば済む話。
そこで、一つは情報の透明性が鍵となる。全面的な情報開示は健全な株式市場には必要不可欠で、良好な行政においても同じであろう。しかし、仮に正確な情報を公開したところで誰が信じる?既に、政治不信は蔓延しているというのに。それに、市民は給付金カットに応じないだろう。そして、より権利を主張してデモを繰り返すだろう。企業が既に破綻しているにもかかわらず、どこぞの労働組合は賃金カットを拒否するどころか、賃上げを要求する始末。人は誰しも、不都合な事実には目を向けない上に、多数決の場に安住を求める。ちなみに、大都市が焼夷弾で焼け野原になっている現実を前にした時でさえ、戦争は勝っているという言葉を信じる。これが集団心理ってやつか。
また、選挙戦を踏まえれば、地方自治体の財政破綻は絶対にありえない!などと主張する政治屋や有識者がいる。暗に、必ず国が援助してくれると主張するがごとく。民間企業では、大き過ぎて潰せない!という言葉を何度聞かされたことか。
先送りとタカリは相性がいいだけに、これらが融合すると集団性の悪魔に取り憑かれた状況となる。そして、一度でも隠蔽するとそれが習慣となり、一度獲得した保障は病みつきよ。なるほど、これは人間の本質と、その集団性を暴いた物語であったか。
「我が国にとって良いことは、GMにとっても良いことであり、その逆もまたしかり。」
ところが、2009年、GMはチャプターイレブン(連邦倒産法第11章)の適用を申請する。その凋落ぶりの最大の原因は、利益を喰い潰す企業年金にあったという。しかも、この問題はビッグスリーに留まらず、全米に蔓延していると指摘している。
注目すべきは、民間部門よりも、むしろ公共部門の方が深刻なことである。どこの国でも、民間企業の従業員よりも公務員の方が、明らかに職場の財政破綻に対する危機感が薄い。周知の通り、アメリカは社会保障制度があまり充実していない。その分、民間企業がその役割を果たしてきたということか。言い換えれば、企業に所属しなければ社会保障制度にありつくこともできない。労働組合は奇妙な労働者権利を増幅させてきた。まさに既得権益の原理がここにある。
本書は、地方自治体の至るところで年金爆弾を抱えている実態を暴き、実際にニューヨーク市地下鉄とサンディエゴ市で起こった年金破綻の事例を紹介してくれる。特に、サンディエゴ市の事例はエンロン級の粉飾、いや、陰謀の類いか。著者はペテン師と呼んでいる。これらの事例で共通している事は、経営陣による「先送りの原理」と労働組合による「タカリの原理」が相補に作用した結果だということ。そして、我が国にもそのまま当て嵌まるということ。いや、20年前に語るべきものだったかもしれない。
「不幸なことだが。年金プランは政府予算のバランスをとるために支出を簡単に先送りできる領域だ。」
...連邦下院議員エルウッド・ヒリス
本書に驚かされるのは、あのアメリカにして共産主義的な、社会主義的な思想が根強くあることである。老舗巨大産業は、1974年のエリサ法(従業員退職所得保障法)などを経て、労働者待遇の義務化を押し付けられてきた。GMから分社化した自動車部品メーカ、デルファイの従業員は、こんな権利まで手にしていたという。歯科、眼科、年金、生命保険、疾病、身体障害、事故などに対応する各種保険、約5週間の有給休暇、おまけに無料法律相談... と、呆れんばかりの優遇!こんな堕落産業に公的資金投入とは、これいかに?官僚化とは、なにも公務員の専売特許ではない。モラルハザードとは、なにも金融屋の専売特許ではない。そして、航空会社、繊維メーカ、製鉄業など至る所で年金スポンサーが倒産に追い込まれる。
一方、ウォルマートのような小売業やグーグルのようなIT企業といった新興産業では、企業年金を拒否する。米議会では国民皆保険でいまだ揉めているようだが、あながちアカの政策とも言えないようだ。日本でも同じように、企業の競争力を削ぐかのように巨額な法人税を課す。純粋な競争力で試算すると、日本企業も捨てたもんじゃないはずだが。社会保障において、国家と民間の役割分担を論じることは難しい。それは、国際競争力と深く関わり、絶対的な解を見つけることはできないだろう。
こうした構図を眺めていると、我が国でも似たような政策に出くわす。最近の例では、2009年に成立したモラトリアム法(中小企業金融円滑化法)あたりであろうか。リーマンショックの煽りで成立したと言っていいだろう。当時の金融担当相亀井静香氏が推進した政策で、約30万社に総額95兆円をばら撒いたとも言われる。返済を猶予すると宣言すれば、弱者を守る心地良い制度に映る。実際、この制度を活用して助かった企業も少なくないだろう。だが、1年間の時限立法だったはずが、1年延長、2年延長と先送り。当初からペーパー会社の乱立が指摘された。民間が政治家にたかる構造によって政治家が大きな顔をする、その典型であろう。頭の痛い金融副産物は、いまだ亡霊のごとくつきまとう。
1. 労働組合
「年金物語の大半は、労働組合の力がゆっくりと増大する物語である。」
労働組合はその性格上、共産主義や社会主義と結びつきやすい。プロレタリアートの代表として。企業側が裏社会と結びつき労働者組織を潰しにかかれば、共産主義者が突撃部隊を組織し、ストライキ、脅し、あからさまな政治工作によって、議会の一大勢力へ伸し上がってきた。暴力抗争の末、ニューディール政策によって労働者を保護するワグナー法が制定されると、上品な労使交渉へと移行していく。それでも、ルーズベルト大統領は公共機関に対する労働組合という考えには冷ややかだったという。
労働組合にしても共産主義にしても、発足当初はおそらく意義深いものだったに違いない。あらゆる市民階層から生じる草の根運動の類いが、そうであるように。資本階級に権利が集中した時代、マルクスが資本主義の弱点を指摘すると、労働組合は労働者の権利を獲得していく。だが、どんな組織でも、増殖していくうちに心得違いした者が紛れ込み、本質的な意義が失われていく。これが、官僚化の法則というやつだ。
そして今、労働組合は本当に労働者の代表者として機能しているだろうか?本書が紹介する逆転現象は興味深い。大手労組の多くは自らの政治的利益にきわめて敏感な幹部で固められ、確実だが控えめな給付金よりも、不確実でも贅沢な利益を求める交渉を好んだという。むしろコダックやIBMのように労働組合のない企業の方が、年金基金の積立状況が良いそうな。日本においても大手労組が選挙運動に血眼になる光景を見かける。目先の平等主義を訴える姿を。組合費が選挙戦に費やされ、まさに政治団体と化す。経済学者の中には、労働組合不要説を唱える人も少なくない。実際、労組が獲得する賃上げ運動が非正規社員や下請けをいじめ、組織外の人々に犠牲を強いることによって存在感を示している。
2. 先送りとタカリの融合
選挙の機能について、興味深い指摘がある。選挙は、一般人にとっては政策の選択となるが、公務員にとっては上司の選択になるという。サンディエゴ市の事例では、政治家たちは情報を隠蔽し、労働者優遇や公共施設の整備を訴えて当選を繰り返す。そして、サンディエゴ市職員の給付金は、民間企業よりもはるかに高い水準にまで達したという。GMでは馴れ合い取締役会が先延ばしを続け、サンディエゴ市では政治家の心地良い公約が市民を欺瞞し続けた。
「政府の実施する計画のなかで、年金ほど政治的性格が試されるものはない。年金は未来との契約である。つまり、市が職員をどれだけ評価するかを表明するものだ。」
では、政治家が情報を開示し、正直に給付金カットを宣言したらどうだろうか?それでも当選できるだろうか?市民は冷静な判断を下せるだろうか?政治家がいくら先延ばししようとも、市民が実態を知り、拒否すれば済む話。
そこで、一つは情報の透明性が鍵となる。全面的な情報開示は健全な株式市場には必要不可欠で、良好な行政においても同じであろう。しかし、仮に正確な情報を公開したところで誰が信じる?既に、政治不信は蔓延しているというのに。それに、市民は給付金カットに応じないだろう。そして、より権利を主張してデモを繰り返すだろう。企業が既に破綻しているにもかかわらず、どこぞの労働組合は賃金カットを拒否するどころか、賃上げを要求する始末。人は誰しも、不都合な事実には目を向けない上に、多数決の場に安住を求める。ちなみに、大都市が焼夷弾で焼け野原になっている現実を前にした時でさえ、戦争は勝っているという言葉を信じる。これが集団心理ってやつか。
また、選挙戦を踏まえれば、地方自治体の財政破綻は絶対にありえない!などと主張する政治屋や有識者がいる。暗に、必ず国が援助してくれると主張するがごとく。民間企業では、大き過ぎて潰せない!という言葉を何度聞かされたことか。
先送りとタカリは相性がいいだけに、これらが融合すると集団性の悪魔に取り憑かれた状況となる。そして、一度でも隠蔽するとそれが習慣となり、一度獲得した保障は病みつきよ。なるほど、これは人間の本質と、その集団性を暴いた物語であったか。
2013-06-09
"民主主義がアフリカ経済を殺す" Paul Collier 著
ポール・コリアー氏をもう一冊。「最底辺の10億人」では基本的人権を問うていた。本書では権力の側を問うている。冷戦終結後、国連をはじめとする国際的圧力は、紛争国家に対して民主主義を広めてきた。それが悪いとは思わない。しかし、最底辺の国々では、民主主義の普及ではなく選挙の普及となった。大統領たちは、政治理念を学ばず、ひたすら選挙での勝利法を学ぶ。その結果、恐怖選挙と化し、腐敗政権に正義のお墨付きまでも与えてしまう。通常の民主主義国家では、選挙の敗者は信念があるなら、それを貫くために次回の選挙に備えるだろう。だが、敗者が政治暴力によって迫害されるとなれば、選挙の意義は紛争の火種と化す。そして、正当性を信じる改革派は、選挙で負けることを察知すれば、不正選挙だと叫んでボイコットする。これが民主主義の姿だと言うのなら、民衆は民主主義に幻滅するだろう。そして、独裁制へ回帰する機会を与える。本書は、デモクラシーならぬ「デモクレイジー」と呼んでいる。
古代ギリシアの教訓では、民主主義には啓発された市民が前提され、プラトンは哲人たちの支配による国家を理想に掲げた。スイスのように数百年に渡って自らを磨き続け、村レベルから統治について試行錯誤を重ねるような国であれば、民主主義は有効なシステムとなろう。何事も手段に目を奪われ、意義や哲学観念といったものを無視して運営することは危険である。人間が完璧でない以上、あらゆる分野において完璧なシステムを構築することは不可能であろう。そして、システムの弱点をよく研究した上で、実践することが肝要となるはず。民主主義は、人間社会が試行を重ねた結果、比較的ましな政治システムというだけで、なにも崇めるほどのものではない。先進国と言われる我が国でさえ、「民主主義 = 選挙」という目でしか見られない政治屋どもで溢れている。確かに、選挙は民主主義を実践する上で有効な手段の一つである。選挙運営を観察すれば、その国の民主主義の成熟度を測ることができよう。
民主主義は自由と相性がいいだけに、凶暴化すると弱肉強食となりがち。だから、権力分散が基本概念にある。民主主義にとって、選挙よりも分権によるパワーバランスの方がはるかに本質的であろう。だが、話題性を煽るには選挙の方がはるかに盛り上げやすいし、報道屋どもは存在価値をここに求める。ならば、民主主義を機能させる上で、透明性が重要な鍵となろう。本書は、「チェック・アンド・バランス」を強調する。
「銃が人を殺すのではなく、人が人を殺す。」
内戦の愚かなところは、自ら国家を破壊することにある。最底辺の国々の政治指導者たちは、自国の生産性を破壊し、自国民を虐殺してまで、権力の座を固守する。その非人道性が国際世論に曝されると、国際的な軍事介入によって政治的暴力は抑圧される。しかし、政治理念まで変えることはできない。国際的な支援金は、国家安全保障の名目で軍事費に消える。公共財が不足しているというのに、カラシニコフの経済学は見事なまでに機能する。中古品が政府軍から流出し、安価なカラシニコフが出回るグローバル市場を形成する。闇の市場は、まさに武器のブラックホール。そして、内戦気運がいつも燻り、労働技術の習熟に向かうはずの人材が、カラシニコフの達人となる。軍部も公共財であることに違いはないが、もはや公共悪として君臨する。
また、援助のあり方にも問題があると指摘している。労働者を海外から受け入れるために、自国の若者たちが労働機会を失い、生活は一向に改善されないという。必要な援助は、レンガ職人、配管工、溶接工などの技術指導であって、「国境なきレンガ職人団」であると訴える。
そして何よりも強く訴えているのは、国際的な軍事介入である。それも10年スパンで。軍事介入は主権にかかわるデリケートな問題で、国際世論から非難されやすい。だが、あえてそこに踏み込むのは、国家主権が政治家やエリートたちに私物化されているからである。国の面子よりも政治家の面子が優先されるのは、どこの国でも似たり寄ったり。必要な供給は、ワクチン同様、安全保障とアカウンタビリティであると指摘している。
「ブッシュ大統領は、予防措置がこうした安全保障上の問題に対する正しい対応になりうるという点では正しかったが、先制的な手段として最適なのが軍事侵略だと考えた点で誤っていた。」
1. アフリカの地域特性
最底辺の国々における戦争は、歴史で経験してきた戦争とは少々様子が違う。二つの大戦をはじめとする過去の戦争は、ほとんどが領土意識から生じた侵略戦争であった。そして、領土としての価値と軍事リスクが天秤にかけられる。国家の威信などという動機で、無闇に領土を拡げる場合もあるが、いずれにせよ国益が前提とされてきた。
対して、今日頻繁に起こっているのは内戦である。内戦も古くからある現象だが、それが民族間戦争となり、国家間戦争へと発展してきた。21世紀となった今では、侵略型の戦争は稀である。休火山のように鳴りを潜めているだけのことかもしれないが。
ヨーロッパでは、大帝国による統一と、その滅亡による分裂というパターンを繰り返してきた。ローマ帝国、ハプスブルク家、ナポレオン戦争、そして、二つの世界大戦を経て、今の国境線に落ち着く。
ところが、最底辺の国々では、国境があまり動いたことがないという。周辺国からの挑戦や、併合などの恐怖にあまり遭遇してこなかったとか。ほんまかいな?アフリカ大陸では、そうした経験をする前に、あっさりと植民地化されたということか?あるいは、民族の多様性が、外敵よりも民族間闘争を優先させてきたということか?だとしても、歴史を遡れば、ローマ帝国に対抗できるほどの古代エジプトという勢力があったし、エチオピア帝国も生じた。民族の多様性にしても、どこの地域にも見られる現象で、それほど特別な状況ではないように思える。植民地だった地域が、突然解放されて独立したという意味では、アジア諸国にも似たような経緯がある。世界のどの地域を眺めても、似たような国が集まりやすいというのは言えるかもしれない。最貧国がアフリカに集中したのは、宇宙のクラスタ化のような現象であろうか?そして、負の相乗効果が生じた結果であろうか?
2. 民族の多様性とアイデンティティの共有
国民の意識を一つにする要因に外敵の存在がある。侵略の恐怖に曝されれば、世論は国防論で盛り上がる。ナショナリズムの高揚のために、古くから愛国心教育が実施されてきた。多民族国家で分裂の危機となれば、仮想敵国をでっちあげる政策がよく用いられる。だが、アイデンティティというものは、集団的な自衛だけで形成されるほど単純なものではあるまい。そこには、長い年月によって育まれた価値観の共有がある。本書は、国民的アイデンティティは政治的に構築されるとしている。確かに、そういうところもある。だが、民族的アイデンティティは文化や言語、あるいは風土によって構築される。方言で地元意識を感じたり、同じ語を喋るコミュニティが文化的な誇りとなったりする。チームワークがよく機能した集団では、同じポーズや合言葉のようなものが自然に生まれる。こうした帰属意識のようなものは、政治体制を議論する前に考慮すべき問題のように思える。
しかし、最底辺の国々では、民族的多様性がアイデンティティの共有を妨げているという。それでも本書は、民族の多様性に一筋の希望を見出してくれる。公共性においては、多様性が悪影響を及ぼすが、民間活動においては、多様性が利点になるという。確かに、多様性の高いチームは、一緒に仕事をするのが難しい面があるが、その分潜在能力は高い。個性の強い集団ほど、チームとしてうまく機能すれば生産性は著しく高い。実際、アメリカの生産力は民族の多様性によって支えられ、組織の柔軟性は思考の多様性を原動力としている。しかも、それが教育システムと結びついて、イノベーションの可能性を高める。概して、官僚は同じような学歴や経歴を持つ同類項となりがちだが、民間は多様性を取り入れる傾向がある。
とはいえ、最底辺の国々では、多様性を活かせるほどのスキルがない。よって、指導力のある人材を必要とするという。まずは、民主主義を受け入れる土壌作りから始めることであろうか。
3. イボワールの奇跡とは何だったのか?
独立から1980年まで大成功を収めた国が、突如破綻国家となった事例を紹介してくれる。それは、開発災害の餌食となった典型で、暴力選挙、クーデター、内戦と本書が扱うテーマをすべて網羅している。
コートジボワールの首都アビジャンは、「アフリカのパリ」と呼ばれた。過去の成功は、独裁的なウフェ = ボワニ大統領の構想に基づいている。故郷の村ヤムスクロに遷都し、サンピエトロ大聖堂をモデルにした巨大なバシリカ式聖堂を建設し、ローマ教皇を招いた。しかし、建築費に援助金が流用されたために、援助国は不快感と嘲笑の入り混じった気持ちで眺めていたという。一方、隣国のガーナは社会主義モデルを採用し、失敗国となっていた。
さて、コートジボワールの成長戦略の核は、移民政策だったという。移民を歓迎し、未利用地にココア農園を開拓させる。内陸国で天然資源の少ない隣国ブルキナファソから移民が押し寄せる。なんと、80年代まで労働力の40%が移民で占めたという。国民への埋め合わせとして、移民が生産するココアに重税を課す。移民が一大勢力となる高いリスクの下で、一党独裁制のもとで運営されていた。そこに経済ショックが訪れると、戦略は頓挫。平均所得は3分の1まで目減りし、貧困が拡大。
こうした状況に拍車をかけたのが政策だという。ココアに対する課税は、価格安定策を装っていたという。実際には価格保証だが、国際水準よりも低い水準まで下がると、課税どころか助成の対象となる。おまけに、移民優遇とならないように、均衡を保つために国民の雇用を占める行政部門、官僚組織を拡大したという。移民に働かせて国民が甘い汁を吸うというリスクの高い戦略は、経済ショックのために移民をも保護せねばならない。民間経済を活性化させるどころか、官僚を強化したために、更に経済を悪化させてしまう。ウフェ = ボワニ大統領は、30年以上も権力の座に居座り、老人となっていた。そして、1993年死去。政府が求心力までも失うと、移民政策が政治問題として表面化し、ガバナンスが急激に劣化。暴力選挙や軍事クーデターが起こるが、フランス軍は介入を避けたために内戦が勃発したという。
その後、政変を繰り返し、ローラン・バグボが不正選挙と私兵による蜂起で大統領になる。すると、バグボから排除された政治家たちがクーデターを起こす。アビジャンは、アフリカで群を抜いて多くのフランス人居住者が集中していたという。それを人質としフランス軍に防衛を要請。しかも、フランス軍がバグボ政権を防衛する最中、バグボは若者の集会でフランス人を殺せと扇動する異常な事態。独裁体制にありがちな、タカリの構図である。そこに、コートジボワール沖の海底油田の開発など、天然資源の利権までも絡む。
国家の様変わりとは恐ろしいものである。一瞬のうちに大企業が消え、産業ごと頓死しても不思議ではない時代、国家とはいえ、ちょっとしたきっかけで破綻する可能性があることを認識しておくべきだろう。我が国にも、奇跡と呼ばれる戦後の高度経済成長があったが、それが何だったのか?とならないよう願いたい。
4. 腐敗した政治家の定義
腐敗した政治家を定義する簡単な方法を教えてくれる。それは、自由に着服できる分を最大化する税率を選ぶ能力があること。課税が低すぎても、横領できる分がなくなるので困る。課税が高すぎても、横領に対する目が厳しくなるので都合が悪い。そこで、腐敗者から見て理想的な税率なるものがあり、それも極めて低いという。支援金にしても、あまり大きいと監視が厳しくなる。常に最適値を導き、タカリの按配を絶妙に設定できるセンスの持ち主。金融法則の預入利息と貸出利息の按配のような設定か。なるほど、腐敗者は経済学の達人というわけか。
古代ギリシアの教訓では、民主主義には啓発された市民が前提され、プラトンは哲人たちの支配による国家を理想に掲げた。スイスのように数百年に渡って自らを磨き続け、村レベルから統治について試行錯誤を重ねるような国であれば、民主主義は有効なシステムとなろう。何事も手段に目を奪われ、意義や哲学観念といったものを無視して運営することは危険である。人間が完璧でない以上、あらゆる分野において完璧なシステムを構築することは不可能であろう。そして、システムの弱点をよく研究した上で、実践することが肝要となるはず。民主主義は、人間社会が試行を重ねた結果、比較的ましな政治システムというだけで、なにも崇めるほどのものではない。先進国と言われる我が国でさえ、「民主主義 = 選挙」という目でしか見られない政治屋どもで溢れている。確かに、選挙は民主主義を実践する上で有効な手段の一つである。選挙運営を観察すれば、その国の民主主義の成熟度を測ることができよう。
民主主義は自由と相性がいいだけに、凶暴化すると弱肉強食となりがち。だから、権力分散が基本概念にある。民主主義にとって、選挙よりも分権によるパワーバランスの方がはるかに本質的であろう。だが、話題性を煽るには選挙の方がはるかに盛り上げやすいし、報道屋どもは存在価値をここに求める。ならば、民主主義を機能させる上で、透明性が重要な鍵となろう。本書は、「チェック・アンド・バランス」を強調する。
「銃が人を殺すのではなく、人が人を殺す。」
内戦の愚かなところは、自ら国家を破壊することにある。最底辺の国々の政治指導者たちは、自国の生産性を破壊し、自国民を虐殺してまで、権力の座を固守する。その非人道性が国際世論に曝されると、国際的な軍事介入によって政治的暴力は抑圧される。しかし、政治理念まで変えることはできない。国際的な支援金は、国家安全保障の名目で軍事費に消える。公共財が不足しているというのに、カラシニコフの経済学は見事なまでに機能する。中古品が政府軍から流出し、安価なカラシニコフが出回るグローバル市場を形成する。闇の市場は、まさに武器のブラックホール。そして、内戦気運がいつも燻り、労働技術の習熟に向かうはずの人材が、カラシニコフの達人となる。軍部も公共財であることに違いはないが、もはや公共悪として君臨する。
また、援助のあり方にも問題があると指摘している。労働者を海外から受け入れるために、自国の若者たちが労働機会を失い、生活は一向に改善されないという。必要な援助は、レンガ職人、配管工、溶接工などの技術指導であって、「国境なきレンガ職人団」であると訴える。
そして何よりも強く訴えているのは、国際的な軍事介入である。それも10年スパンで。軍事介入は主権にかかわるデリケートな問題で、国際世論から非難されやすい。だが、あえてそこに踏み込むのは、国家主権が政治家やエリートたちに私物化されているからである。国の面子よりも政治家の面子が優先されるのは、どこの国でも似たり寄ったり。必要な供給は、ワクチン同様、安全保障とアカウンタビリティであると指摘している。
「ブッシュ大統領は、予防措置がこうした安全保障上の問題に対する正しい対応になりうるという点では正しかったが、先制的な手段として最適なのが軍事侵略だと考えた点で誤っていた。」
1. アフリカの地域特性
最底辺の国々における戦争は、歴史で経験してきた戦争とは少々様子が違う。二つの大戦をはじめとする過去の戦争は、ほとんどが領土意識から生じた侵略戦争であった。そして、領土としての価値と軍事リスクが天秤にかけられる。国家の威信などという動機で、無闇に領土を拡げる場合もあるが、いずれにせよ国益が前提とされてきた。
対して、今日頻繁に起こっているのは内戦である。内戦も古くからある現象だが、それが民族間戦争となり、国家間戦争へと発展してきた。21世紀となった今では、侵略型の戦争は稀である。休火山のように鳴りを潜めているだけのことかもしれないが。
ヨーロッパでは、大帝国による統一と、その滅亡による分裂というパターンを繰り返してきた。ローマ帝国、ハプスブルク家、ナポレオン戦争、そして、二つの世界大戦を経て、今の国境線に落ち着く。
ところが、最底辺の国々では、国境があまり動いたことがないという。周辺国からの挑戦や、併合などの恐怖にあまり遭遇してこなかったとか。ほんまかいな?アフリカ大陸では、そうした経験をする前に、あっさりと植民地化されたということか?あるいは、民族の多様性が、外敵よりも民族間闘争を優先させてきたということか?だとしても、歴史を遡れば、ローマ帝国に対抗できるほどの古代エジプトという勢力があったし、エチオピア帝国も生じた。民族の多様性にしても、どこの地域にも見られる現象で、それほど特別な状況ではないように思える。植民地だった地域が、突然解放されて独立したという意味では、アジア諸国にも似たような経緯がある。世界のどの地域を眺めても、似たような国が集まりやすいというのは言えるかもしれない。最貧国がアフリカに集中したのは、宇宙のクラスタ化のような現象であろうか?そして、負の相乗効果が生じた結果であろうか?
2. 民族の多様性とアイデンティティの共有
国民の意識を一つにする要因に外敵の存在がある。侵略の恐怖に曝されれば、世論は国防論で盛り上がる。ナショナリズムの高揚のために、古くから愛国心教育が実施されてきた。多民族国家で分裂の危機となれば、仮想敵国をでっちあげる政策がよく用いられる。だが、アイデンティティというものは、集団的な自衛だけで形成されるほど単純なものではあるまい。そこには、長い年月によって育まれた価値観の共有がある。本書は、国民的アイデンティティは政治的に構築されるとしている。確かに、そういうところもある。だが、民族的アイデンティティは文化や言語、あるいは風土によって構築される。方言で地元意識を感じたり、同じ語を喋るコミュニティが文化的な誇りとなったりする。チームワークがよく機能した集団では、同じポーズや合言葉のようなものが自然に生まれる。こうした帰属意識のようなものは、政治体制を議論する前に考慮すべき問題のように思える。
しかし、最底辺の国々では、民族的多様性がアイデンティティの共有を妨げているという。それでも本書は、民族の多様性に一筋の希望を見出してくれる。公共性においては、多様性が悪影響を及ぼすが、民間活動においては、多様性が利点になるという。確かに、多様性の高いチームは、一緒に仕事をするのが難しい面があるが、その分潜在能力は高い。個性の強い集団ほど、チームとしてうまく機能すれば生産性は著しく高い。実際、アメリカの生産力は民族の多様性によって支えられ、組織の柔軟性は思考の多様性を原動力としている。しかも、それが教育システムと結びついて、イノベーションの可能性を高める。概して、官僚は同じような学歴や経歴を持つ同類項となりがちだが、民間は多様性を取り入れる傾向がある。
とはいえ、最底辺の国々では、多様性を活かせるほどのスキルがない。よって、指導力のある人材を必要とするという。まずは、民主主義を受け入れる土壌作りから始めることであろうか。
3. イボワールの奇跡とは何だったのか?
独立から1980年まで大成功を収めた国が、突如破綻国家となった事例を紹介してくれる。それは、開発災害の餌食となった典型で、暴力選挙、クーデター、内戦と本書が扱うテーマをすべて網羅している。
コートジボワールの首都アビジャンは、「アフリカのパリ」と呼ばれた。過去の成功は、独裁的なウフェ = ボワニ大統領の構想に基づいている。故郷の村ヤムスクロに遷都し、サンピエトロ大聖堂をモデルにした巨大なバシリカ式聖堂を建設し、ローマ教皇を招いた。しかし、建築費に援助金が流用されたために、援助国は不快感と嘲笑の入り混じった気持ちで眺めていたという。一方、隣国のガーナは社会主義モデルを採用し、失敗国となっていた。
さて、コートジボワールの成長戦略の核は、移民政策だったという。移民を歓迎し、未利用地にココア農園を開拓させる。内陸国で天然資源の少ない隣国ブルキナファソから移民が押し寄せる。なんと、80年代まで労働力の40%が移民で占めたという。国民への埋め合わせとして、移民が生産するココアに重税を課す。移民が一大勢力となる高いリスクの下で、一党独裁制のもとで運営されていた。そこに経済ショックが訪れると、戦略は頓挫。平均所得は3分の1まで目減りし、貧困が拡大。
こうした状況に拍車をかけたのが政策だという。ココアに対する課税は、価格安定策を装っていたという。実際には価格保証だが、国際水準よりも低い水準まで下がると、課税どころか助成の対象となる。おまけに、移民優遇とならないように、均衡を保つために国民の雇用を占める行政部門、官僚組織を拡大したという。移民に働かせて国民が甘い汁を吸うというリスクの高い戦略は、経済ショックのために移民をも保護せねばならない。民間経済を活性化させるどころか、官僚を強化したために、更に経済を悪化させてしまう。ウフェ = ボワニ大統領は、30年以上も権力の座に居座り、老人となっていた。そして、1993年死去。政府が求心力までも失うと、移民政策が政治問題として表面化し、ガバナンスが急激に劣化。暴力選挙や軍事クーデターが起こるが、フランス軍は介入を避けたために内戦が勃発したという。
その後、政変を繰り返し、ローラン・バグボが不正選挙と私兵による蜂起で大統領になる。すると、バグボから排除された政治家たちがクーデターを起こす。アビジャンは、アフリカで群を抜いて多くのフランス人居住者が集中していたという。それを人質としフランス軍に防衛を要請。しかも、フランス軍がバグボ政権を防衛する最中、バグボは若者の集会でフランス人を殺せと扇動する異常な事態。独裁体制にありがちな、タカリの構図である。そこに、コートジボワール沖の海底油田の開発など、天然資源の利権までも絡む。
国家の様変わりとは恐ろしいものである。一瞬のうちに大企業が消え、産業ごと頓死しても不思議ではない時代、国家とはいえ、ちょっとしたきっかけで破綻する可能性があることを認識しておくべきだろう。我が国にも、奇跡と呼ばれる戦後の高度経済成長があったが、それが何だったのか?とならないよう願いたい。
4. 腐敗した政治家の定義
腐敗した政治家を定義する簡単な方法を教えてくれる。それは、自由に着服できる分を最大化する税率を選ぶ能力があること。課税が低すぎても、横領できる分がなくなるので困る。課税が高すぎても、横領に対する目が厳しくなるので都合が悪い。そこで、腐敗者から見て理想的な税率なるものがあり、それも極めて低いという。支援金にしても、あまり大きいと監視が厳しくなる。常に最適値を導き、タカリの按配を絶妙に設定できるセンスの持ち主。金融法則の預入利息と貸出利息の按配のような設定か。なるほど、腐敗者は経済学の達人というわけか。
2013-06-02
"最底辺の10億人" Paul Collier 著
世界銀行は貧困の撲滅を使命とし、IMFは世界経済の安定を使命とする...などというのは本当であろうか?著者ポール・コリアーは、そうした観点から注目してきた経済学者の一人で、アフリカ経済の世界的権威者と目される人物。彼は、世界銀行で開発研究グループディレクターを勤めた経験から、ノーベル賞経済学者ジョセフ・スティグリッツの示唆を受けて最貧国の研究を進めてきた様子を語ってくれる。そして、最底辺の国々が負のスパイラルから抜け出せない原因を、四つの罠から解き明かす。それは、紛争の罠、天然資源の罠、劣悪な隣国に囲まれる内陸国の罠、劣悪なガバナンス(立法、司法、行政に及ぶ広義の統治)の罠である。しかも、一国の直面する問題がその中の一つだとしても、周辺地域の統合によって複雑化し、悪の相乗効果を生み出す。さらに、犯罪者やテロリストや疫病の逃避先となり、悪のブラックホールと化す!
どんなに苦しくても、ほんの少し生活が右肩上がりになり、今年よりも来年は必ず改善されるという保障さえあれば、人々は希望をつなぐことができよう。しかしながら、どんな集団にも蟻地獄に吸い込まれていく人たちがいる。これが集団性の法則だとすれば、人間社会は集団性の悪魔と同居していることになろう。この書は、基本的人権を問うている。
負のスパイラル下では、援助もまた絶好の餌食となる。援助の熱狂は、ある種のイメージ作りとしてロックスターやセレブやNGOによって引き起こされる。だが、援助を受ける側では既得権益が優先され、多額の支援金が腐敗を助長する。おまけに、抵抗勢力が海外主導の改革を頓挫させれば、奇妙な国家安全思想を煽り軍事費を増大させる。支援金で一時的に貿易が改善されたとしても、すぐに軍事費に吸い上げられ、元の木阿弥!
天然資源にしても、オランダ病の根源となって他の生産活動を阻害する。石油やダイヤモンドなど一次産品に依存すれば、そこに欲望が群がり、神からの恵みも悪魔からの施しと化す!更に追い打ちをかけるのがグローバリズムで、見事なほど負のスパイラルと同化している。国内に失望した優秀な人材が海外へ逃避するのを手助けし、グローバル化した金融システムが資本の海外流出を円滑にする。
各国の政治家たちは、援助を世論向けの宣伝材料にする。正義という名を掲げれば、そこに人々が群がる。似非ヒューマニズムってやつは、どこにでも転がっているものだ。だいたい、友愛やら博愛やらといった癒し系の言葉には危険性が孕んでいるとしたものである。
援助をめぐっては、激しい政治対立に曝される。左派は、援助を植民地主義に対する償いと見なし、開発のためでなく西側社会の贖罪であると主張する。右派は、援助を生活保護へのたかりと同等に考え、単なる施しは問題を拡げるだけだと主張する。本書は、左派と右派の対立は最悪な部分を引き出し合うかのように見えると語る。
「世界政府というものは存在しない。それはたぶん良いことだろう。たとえ世界政府を望んだところで、それは誕生しないという事実を受け入れなければならない。少なくとも、底辺の10億人の国が直面する問題に関わる期間には起こりえない。」
アフリカや中東の地図を眺めると、国境線が一直線になっているところが多く見られる。民族や部族による生活圏によって作られた境界線ならば、自然地形に沿った複雑な線となりそうなもの。それは人為的に作成された境界線であることは明らかで、欧州列強国による植民地時代の名残である。したがって、国境付近には、無理やり分裂させられた民族や部族が混在し、国家とは無関係の集団を点在させる。こうした構造に、アルカイダ系イスラム組織などの武装勢力が結びつくと、国境付近で政府軍の及ばないテロ活動のリスクを抱えることになる。近年、北アフリカや中東でテロの脅威に曝されるのも、植民地時代の代償を払っているという見方もできるだろう。
本書は、軍事介入の必要性と、貿易障壁の削減を主張している。こうした意見は世論を敵に回すことになろう。軍事介入は平和主義者によって主権を脅かすと非難され、貿易障壁の削減は平等主義者によって弱い者いじめだと非難される。しかし、軍事介入を躊躇したがために大虐殺が発生し、貿易障壁を設けるがために一次産品への依存度を高めると指摘している。支援では、自立を促す必要がある。国が自立するためには、生産性を高めて貿易品目を多様化させる必要がある。国際援助はそれを阻害しているというのか?俗世間の酔っ払いができる事といったら、ユニセフのような援助機関を通じて寄付金を出し、自己満足に浸ることぐらい。だが、募金の使途など知る由もない。ひょっとしたら腐敗の手助けをしているのかもしれない。先進国とされる我が国ですら復興財源が転用される始末。ガバナンスなんてものが、いかに脆いものか。モラルハザードは、なにも金融業界の専売特許ではない。
著者は、国際的な機関や開発機関だけでなく、各国の有権者の考え方も変えなれければならないと訴える。有権者の世界観こそが可能性を形づくると。まずは、見ること!知ること!であろうか。そして、残された道は情報の透明性ぐらいであろうか。
「情報に精通した有権者がいなければ、政治家は底辺の10億人の国を写真撮影の機会に利用するだけで、それらの国を真に変化させようとはしない。」
1. 軍事介入の必要性
いくら政府レベルで公的資本を投下しても、労働機会を見出すことができないのはなぜか?必要なのは民間資本の方だという。確かに、手っ取り早い方法は民間企業の進出であろう。工場誘致によって労働機会を見出すことができる。アジア諸国が豊かになって実質賃金が上昇すれば、次はアフリカの番であろうか。とはいえ、ロボット化が進み、工場が無人化していく中で、東アジアで成功したような事例は期待できないかもしれない。
さて、ポール・クルーグマンとアンソニー・ベナブルズによる洞察の重要な要素に「集積の経済」という用語があるそうな。規模の経済による利益を相殺するほど賃金格差が大きくなるとどうなるか、と二人は考えたという。いくら労働賃金が安いとはいえ、企業がその国に最初に進出するリスクは大きい。労働に対する意欲や教育、工場立地のための整備、そして何よりも言語と文化の壁がある。資本の根本には信用の問題があり、国際援助で誘発される改革を投資家はあまり信用しないだろう。ましてや、政治リスクや暴動リスクが高ければ躊躇する。それでも、成功例を一つでも作れば、話は変わってくる。よって、治安維持が最優先されることになる。
本書は、国外軍の駐留を10年スパンで行うことを主張している。国内軍の充実は、むしろ内戦の発端になるという。しかし、世論は軍事介入となると敏感に反応し、誇大宣伝に流されやすい。特にアフリカへの介入は、ネオコロニアリズム(新植民地主義)と非難を受け、先進国の間でも歴史の陰がつきまとう。だが、軍事介入を躊躇したために、ルワンダでは50万人にのぼる大虐殺が発生した。シエラレオネでは、アハメド・フォディ・サンコーが反政府勢力である革命統一戦線(RUF)を組織し、若者を麻薬中毒にして従順に従う兵士にするばかりか、村人たちの手や脚を切り落とした。歴史背景が躊躇させるなら、アフリカの一国がリーダーシップをとって介入に乗り出すという手もある。実際、南アフリカはコートジボワールの内戦の調停に乗り出しているという。
また、アジアから企業進出する手もある。アジア諸国は経済成長に伴い天然資源の確保に必死だ。特に中国はアフリカの至るところに働きかけている。しかし、中国の巨額支援は、天然資源依存という悪循環を助長していると指摘している。ガバナンス問題をあまり気にしないために、却って情勢を悪化させると。政治的影響力を強めようという意図は見え見えか。そもそも、政治的な思惑を排除した国際援助は可能であろうか?何百年か先であれば、可能かもしれんが...
2. 貿易障壁の削減
保護は、援助と同じぐらいデリケートな問題である。そもそも競争の原理を働かせないと産業は育たない。国際貿易では比較優位の理論が基本的な概念としてあり、貿易政策ではその国の強みを相対的に活かすことになる。だが、保護貿易主義はどこの国にも根強くあり、貧困国ともなれば尚更。しかし、何を保護しているのやら?貿易政策は専門家にも分からない厄介な問題であろう。経済学者たちの意見はまるっきり正反対だし。ならば、確率的なモノの見方をしたらどうか。天気予報のようにとまでは言わないまでも。どうせ蟻地獄が続くのなら、失敗覚悟で思い切った政策を試すべきかもしれない。正論を展開したところで、ジリ貧に陥るようにしか見えないし。いずれにせよ、人間社会は試行実験の場ということになろう。
保護貿易を訴える運動は、だいたいキリスト教の慈善団体が粗雑なマルクス主義を押し付けるという形で生じるという。貿易政策は、いかに時代の潮流に乗るかが検討されるべきであろうが、政治家どもは奇妙な国家像を持ち出す。押し売り的な援助が、関税障壁の問題を悪化させることは想像に易い。本書は、西側の人々がアフリカの貿易障壁削減に反対する運動に、善意の募金を注ぎ込んでいると批判している。とはいえ、初期段階では保護を必要とする。フェアトレード(公正貿易)が解決策となるかは、難しいところではあるが。
本書は、支援が必要としながらも、保護政策が長期化すれば、政府高官たちの汚職の場を提供すると指摘している。親戚や友人の所有する企業の優遇措置として機能すると。多くの国で、保護産業が逆に国際競争力を失う結果となる事例がわんさとある。それが癒着の場となることも珍しくない。そうした経験から、援助に否定的な意見も少なくない。ただ、最底辺の国々では腐敗の次元が違うようだ。援助と腐敗の按配を模索するしかなさそうか。少なくとも援助の質を考慮する必要がある。金銭的支援よりも、人材不足なので人的支援の方が効果がありそうか。多くの場面で現物支給の方が効果がありそうだが、政治家ってやつはどうもバラマキ習性があるようだ。援助バロメータとして選挙アピールしやすいわけか。ならば、有権者の方が見方を変えるしかあるまい。
3. 方向転換の条件
方向転換のための条件として、三種類の特質が検出されたという。なんと、人口が多いほど中等教育を受けた国民の割合が高いこと、さらに、最近内戦から脱した国ほど持続的な方向転換が可能になる傾向があるという。そして、方向転換にそれほど重要でないものは民主主義と政治的権利だという。政策転換や改革には民主主義は向かないのか?これは、底辺の10億人の国々でも民主主義が普及しているため、ひどく失望させる見解である。しかし、妙に説得力がある。我が国の情勢を眺めれば...
どうやら、教育を受けた批判精神をもつ大衆が必要ということらしい。無知な大衆は却って邪魔ということか。国際的な視点の持てる高度な教育が必要であるが、そもそも国の教育機関が腐敗している。教育レベルが低いと、偏重した愛国心教育によって内戦へ向かわせる。腐敗者は自分が腐敗しているとは思わないし、それどころか正義感旺盛だ。新大統領が就任し、民衆が改革に希望を抱いたところで、中身に幻滅すれば改革そのものを疑う。民主主義が方向転換にそれほど役に立たないとしても、一旦その方向に舵をとれば後戻りできない。もし逆戻りすれば、更に強烈な独裁国家へと進む。政策の失敗を掲げ、大統領を批判するのも命がけ。それでも、そんな勇気を持った人が少なからずいる。改革とは、方向転換の機会が訪れたら、その初期段階をいかに持続させるか?これにかかっている。
どんなに苦しくても、ほんの少し生活が右肩上がりになり、今年よりも来年は必ず改善されるという保障さえあれば、人々は希望をつなぐことができよう。しかしながら、どんな集団にも蟻地獄に吸い込まれていく人たちがいる。これが集団性の法則だとすれば、人間社会は集団性の悪魔と同居していることになろう。この書は、基本的人権を問うている。
負のスパイラル下では、援助もまた絶好の餌食となる。援助の熱狂は、ある種のイメージ作りとしてロックスターやセレブやNGOによって引き起こされる。だが、援助を受ける側では既得権益が優先され、多額の支援金が腐敗を助長する。おまけに、抵抗勢力が海外主導の改革を頓挫させれば、奇妙な国家安全思想を煽り軍事費を増大させる。支援金で一時的に貿易が改善されたとしても、すぐに軍事費に吸い上げられ、元の木阿弥!
天然資源にしても、オランダ病の根源となって他の生産活動を阻害する。石油やダイヤモンドなど一次産品に依存すれば、そこに欲望が群がり、神からの恵みも悪魔からの施しと化す!更に追い打ちをかけるのがグローバリズムで、見事なほど負のスパイラルと同化している。国内に失望した優秀な人材が海外へ逃避するのを手助けし、グローバル化した金融システムが資本の海外流出を円滑にする。
各国の政治家たちは、援助を世論向けの宣伝材料にする。正義という名を掲げれば、そこに人々が群がる。似非ヒューマニズムってやつは、どこにでも転がっているものだ。だいたい、友愛やら博愛やらといった癒し系の言葉には危険性が孕んでいるとしたものである。
援助をめぐっては、激しい政治対立に曝される。左派は、援助を植民地主義に対する償いと見なし、開発のためでなく西側社会の贖罪であると主張する。右派は、援助を生活保護へのたかりと同等に考え、単なる施しは問題を拡げるだけだと主張する。本書は、左派と右派の対立は最悪な部分を引き出し合うかのように見えると語る。
「世界政府というものは存在しない。それはたぶん良いことだろう。たとえ世界政府を望んだところで、それは誕生しないという事実を受け入れなければならない。少なくとも、底辺の10億人の国が直面する問題に関わる期間には起こりえない。」
アフリカや中東の地図を眺めると、国境線が一直線になっているところが多く見られる。民族や部族による生活圏によって作られた境界線ならば、自然地形に沿った複雑な線となりそうなもの。それは人為的に作成された境界線であることは明らかで、欧州列強国による植民地時代の名残である。したがって、国境付近には、無理やり分裂させられた民族や部族が混在し、国家とは無関係の集団を点在させる。こうした構造に、アルカイダ系イスラム組織などの武装勢力が結びつくと、国境付近で政府軍の及ばないテロ活動のリスクを抱えることになる。近年、北アフリカや中東でテロの脅威に曝されるのも、植民地時代の代償を払っているという見方もできるだろう。
本書は、軍事介入の必要性と、貿易障壁の削減を主張している。こうした意見は世論を敵に回すことになろう。軍事介入は平和主義者によって主権を脅かすと非難され、貿易障壁の削減は平等主義者によって弱い者いじめだと非難される。しかし、軍事介入を躊躇したがために大虐殺が発生し、貿易障壁を設けるがために一次産品への依存度を高めると指摘している。支援では、自立を促す必要がある。国が自立するためには、生産性を高めて貿易品目を多様化させる必要がある。国際援助はそれを阻害しているというのか?俗世間の酔っ払いができる事といったら、ユニセフのような援助機関を通じて寄付金を出し、自己満足に浸ることぐらい。だが、募金の使途など知る由もない。ひょっとしたら腐敗の手助けをしているのかもしれない。先進国とされる我が国ですら復興財源が転用される始末。ガバナンスなんてものが、いかに脆いものか。モラルハザードは、なにも金融業界の専売特許ではない。
著者は、国際的な機関や開発機関だけでなく、各国の有権者の考え方も変えなれければならないと訴える。有権者の世界観こそが可能性を形づくると。まずは、見ること!知ること!であろうか。そして、残された道は情報の透明性ぐらいであろうか。
「情報に精通した有権者がいなければ、政治家は底辺の10億人の国を写真撮影の機会に利用するだけで、それらの国を真に変化させようとはしない。」
1. 軍事介入の必要性
いくら政府レベルで公的資本を投下しても、労働機会を見出すことができないのはなぜか?必要なのは民間資本の方だという。確かに、手っ取り早い方法は民間企業の進出であろう。工場誘致によって労働機会を見出すことができる。アジア諸国が豊かになって実質賃金が上昇すれば、次はアフリカの番であろうか。とはいえ、ロボット化が進み、工場が無人化していく中で、東アジアで成功したような事例は期待できないかもしれない。
さて、ポール・クルーグマンとアンソニー・ベナブルズによる洞察の重要な要素に「集積の経済」という用語があるそうな。規模の経済による利益を相殺するほど賃金格差が大きくなるとどうなるか、と二人は考えたという。いくら労働賃金が安いとはいえ、企業がその国に最初に進出するリスクは大きい。労働に対する意欲や教育、工場立地のための整備、そして何よりも言語と文化の壁がある。資本の根本には信用の問題があり、国際援助で誘発される改革を投資家はあまり信用しないだろう。ましてや、政治リスクや暴動リスクが高ければ躊躇する。それでも、成功例を一つでも作れば、話は変わってくる。よって、治安維持が最優先されることになる。
本書は、国外軍の駐留を10年スパンで行うことを主張している。国内軍の充実は、むしろ内戦の発端になるという。しかし、世論は軍事介入となると敏感に反応し、誇大宣伝に流されやすい。特にアフリカへの介入は、ネオコロニアリズム(新植民地主義)と非難を受け、先進国の間でも歴史の陰がつきまとう。だが、軍事介入を躊躇したために、ルワンダでは50万人にのぼる大虐殺が発生した。シエラレオネでは、アハメド・フォディ・サンコーが反政府勢力である革命統一戦線(RUF)を組織し、若者を麻薬中毒にして従順に従う兵士にするばかりか、村人たちの手や脚を切り落とした。歴史背景が躊躇させるなら、アフリカの一国がリーダーシップをとって介入に乗り出すという手もある。実際、南アフリカはコートジボワールの内戦の調停に乗り出しているという。
また、アジアから企業進出する手もある。アジア諸国は経済成長に伴い天然資源の確保に必死だ。特に中国はアフリカの至るところに働きかけている。しかし、中国の巨額支援は、天然資源依存という悪循環を助長していると指摘している。ガバナンス問題をあまり気にしないために、却って情勢を悪化させると。政治的影響力を強めようという意図は見え見えか。そもそも、政治的な思惑を排除した国際援助は可能であろうか?何百年か先であれば、可能かもしれんが...
2. 貿易障壁の削減
保護は、援助と同じぐらいデリケートな問題である。そもそも競争の原理を働かせないと産業は育たない。国際貿易では比較優位の理論が基本的な概念としてあり、貿易政策ではその国の強みを相対的に活かすことになる。だが、保護貿易主義はどこの国にも根強くあり、貧困国ともなれば尚更。しかし、何を保護しているのやら?貿易政策は専門家にも分からない厄介な問題であろう。経済学者たちの意見はまるっきり正反対だし。ならば、確率的なモノの見方をしたらどうか。天気予報のようにとまでは言わないまでも。どうせ蟻地獄が続くのなら、失敗覚悟で思い切った政策を試すべきかもしれない。正論を展開したところで、ジリ貧に陥るようにしか見えないし。いずれにせよ、人間社会は試行実験の場ということになろう。
保護貿易を訴える運動は、だいたいキリスト教の慈善団体が粗雑なマルクス主義を押し付けるという形で生じるという。貿易政策は、いかに時代の潮流に乗るかが検討されるべきであろうが、政治家どもは奇妙な国家像を持ち出す。押し売り的な援助が、関税障壁の問題を悪化させることは想像に易い。本書は、西側の人々がアフリカの貿易障壁削減に反対する運動に、善意の募金を注ぎ込んでいると批判している。とはいえ、初期段階では保護を必要とする。フェアトレード(公正貿易)が解決策となるかは、難しいところではあるが。
本書は、支援が必要としながらも、保護政策が長期化すれば、政府高官たちの汚職の場を提供すると指摘している。親戚や友人の所有する企業の優遇措置として機能すると。多くの国で、保護産業が逆に国際競争力を失う結果となる事例がわんさとある。それが癒着の場となることも珍しくない。そうした経験から、援助に否定的な意見も少なくない。ただ、最底辺の国々では腐敗の次元が違うようだ。援助と腐敗の按配を模索するしかなさそうか。少なくとも援助の質を考慮する必要がある。金銭的支援よりも、人材不足なので人的支援の方が効果がありそうか。多くの場面で現物支給の方が効果がありそうだが、政治家ってやつはどうもバラマキ習性があるようだ。援助バロメータとして選挙アピールしやすいわけか。ならば、有権者の方が見方を変えるしかあるまい。
3. 方向転換の条件
方向転換のための条件として、三種類の特質が検出されたという。なんと、人口が多いほど中等教育を受けた国民の割合が高いこと、さらに、最近内戦から脱した国ほど持続的な方向転換が可能になる傾向があるという。そして、方向転換にそれほど重要でないものは民主主義と政治的権利だという。政策転換や改革には民主主義は向かないのか?これは、底辺の10億人の国々でも民主主義が普及しているため、ひどく失望させる見解である。しかし、妙に説得力がある。我が国の情勢を眺めれば...
どうやら、教育を受けた批判精神をもつ大衆が必要ということらしい。無知な大衆は却って邪魔ということか。国際的な視点の持てる高度な教育が必要であるが、そもそも国の教育機関が腐敗している。教育レベルが低いと、偏重した愛国心教育によって内戦へ向かわせる。腐敗者は自分が腐敗しているとは思わないし、それどころか正義感旺盛だ。新大統領が就任し、民衆が改革に希望を抱いたところで、中身に幻滅すれば改革そのものを疑う。民主主義が方向転換にそれほど役に立たないとしても、一旦その方向に舵をとれば後戻りできない。もし逆戻りすれば、更に強烈な独裁国家へと進む。政策の失敗を掲げ、大統領を批判するのも命がけ。それでも、そんな勇気を持った人が少なからずいる。改革とは、方向転換の機会が訪れたら、その初期段階をいかに持続させるか?これにかかっている。
2013-05-26
"貧乏人の経済学" Abhijit V. Banerjee, Esther Duflo 著
「貧乏な人々を紋切り型の束に還元しようという衝動は、貧困が存在するのと同じくらい昔からあります。」
貧困層に自由を... 人権を... 支援を... 紛争の撲滅を... こうした発想はどれも、それなりに真理を含んでいるのだろう。だが本書は、涙するような悲惨な物語の盛り立て役でしかないと指摘している。政府の支援策がことごとく失敗するのは、本当に何をすべきかを知らないからであろう。有識者たちは、困っている人たちの意見を聞こう!と主張する。しかし、だいたい要求や文句を垂れるのは少し余裕のある人で、本当に苦しんでいる人はそれを口にする機会すら与えられない。プロの開発経済学者や訓練を受けた政策立案者でさえ、貧困生活を単純なモデルに頼っている。そもそも自分以外の人を理解することなど、できるのだろうか?自己ですら理解できないというのに...
自分がいい目にあうと、誰かに喋りたくてしょうがない。そしてつい、同じように振る舞うよう押しつけてしまう。だが、その助言が仇となれば、却って宗教勧誘のごとく有難迷惑となる。価値観に多様性を認めれば、支援という行為も慎重にならざるを得ない。
しかし、だ。支援には、ある程度の強制的、義務的なところも必要であろう。豊かな国の住人こそ、義務教育や福祉制度を半強制的に与えられた受益者である。実際、生活の自由を信じながら、子供の予防接種などが義務化されている。
ただそれは、社会が機能して始めて受益者となりうるのであって、腐敗した社会では制度そのものが歪められる。情報がなく知識も乏しいとなれば、迷信めいたものに頼ろうとする。例えば、多くの子供が下痢で命を落とす状況にあって、塩素漂白剤で飲料水を殺菌するだけでもかなり効果があるというのに、母親たちがそれを信じないで無料配給券をあまり使わないという。水を清潔にし、蚊帳を使うだけでマラリアから子供を守り、駆虫剤や栄養強化小麦粉などでも健康面で大きなメリットがあるのに、そうした安価なものに興味を示さないのだそうな。ちゃんと注射してくれ!高価そうに見える治療を恵んでくれ!というわけだ。そして逆に、不必要な治療がリスクを高める結果に。注射針を殺菌しないまま使い回し、村全体にB型肝炎を感染させる医者がいれば、無資格医師が繁盛する始末。おまけに、教育制度も歪んでいて意識改革も儘ならない。経済的な貧困も問題だが、知識の貧困の方がはるかに問題のようだ。
とはいえ、豊かな国の住人でも、ブランド品というだけで目を奪われ、高額というだけで自慢したりする。いくら生活が豊かになっても、精神は貧困のままというわけか。そして、不必要な情報が社会を混乱させる。金融危機といった現象は、まさにその典型。仮想価値に群がり、一斉に価値を陥れる様子は、まさに迷信に憑かれたごとく。経済的な行動原理に豊かさも貧しさも関係ないのかもしれん。
デフレ不況における若年層の失業問題は、やる気がない!とか、自助努力しろ!とか、そんな意見を言うほとんどの人が、安楽にサラリーマン時代を過ごしたり、バブル期を謳歌して起業した連中である。バブル時代では、学生を集めるために新人教育がハワイ旅行とセットになっている企業があったりと、何かが狂っていた。今は別の意味で狂っている。一昔前、高齢者の医療費免除によって、病院の待合室が老人の井戸端会議の場として占拠されていた。今では、現役の給料をむしりとってまで、企業年金が居座ったまま。経済成長の右肩上がりを十分に味わい、社会制度に守られてきた連中が、今時の若い者は...と説教を垂れたところで説得力を感じない。そして、今時の年寄りは...とつぶやかれるのであった...
さて、著者アビジット・V・バナジーとエスター・デュフロの分析法は、「ランダム化対照試行」と呼ばれるものだそうな。物理学の扱う現象では、条件を揃えて比較検討ができるように配慮する。対して、社会学や経済学の扱う現象は、条件の抽出が不可能なぐらい難しく、絶望的な状況にある。二つの村を比較したところで、民族構成や社会慣習も違い、同じような計測が成り立たない。市場はどこにでもあるが、個人や集団によってそれぞれ市場との距離が微妙に違う。ある地域で驚くべき効果を上げたからといって、その政策を他の地域に適用しても逆効果になることすらある。
そこで、ランダム化対照試行では、個体別に条件を揃えなくてもいいんじゃないか、という発想があるという。理念だけあれこれ議論しても結論は出ないので、実際に試してみるしかあるまい。しかし、実験的に施策を試みることに批判もある。観察目的で地域別に施策を変えるのは不公平といった意見が。いずれにせよ、施策に効果があるかどうかなど誰にも分からない。所詮、人間社会は試行実験の場でしかないということか...
1. 不合理な行動原理
餓死寸前ともなれば、いくらなんでも食べ物が優先されるだろう。だが、貧乏が定着した社会では、たとえ腹ペコであっても、カロリー摂取よりテレビが優先されるという。海外から食糧支援が行われているというのに、民衆はテレビも、パラボラアンテナも、DVDプレーヤーも、携帯電話も持っているとは、これいかに?人生において、退屈とは、飢餓と同じぐらい苦しいものなのかもしれん。
貧乏子沢山というのも不合理に映る。暇だと子づくりぐらいしかやることがないのか?避妊法の知識が乏しいこともある。社会的地位に男女格差があれば、男子が生まれるまで励む。就学や就職に優劣があれば、男子が将来の社会保障制度として機能する。そして、病気に対する治療意識に差が生じ、男女の人口バランスまで歪ませる。インドには「嫁焼き!」というものがあると聞く。ノーベル賞経済学者アマルティア・センは、足りない女性を「喪われた女性たち」と呼んだとか。望まない出産によって生まれた子は、犯罪に走りやすいという見解も聞く。社会秩序という観点からも、避妊法は重要な意味がある。だが、避妊そのものが宗教的にタブーとされる地域も多く、HIV/AIDSの感染率とも関係するデリケートな問題である。
知識が乏しいからといって、教育制度を整えても効果が上がらない。就学率が上がらないのは、学校がないからではなく、子供自身や親が学校に行かせたがらないからだという。家族の露店や店の手伝いをする子供たちは、小学校で教える計算よりもずっと複雑な計算を暗算でやってのける。親たちが、公的な教育効果の質に疑いを持っているばかりか、教育や知識を金儲けの手段ぐらいにしか考えておらず、どうせ学校にやるなら、私立を目指しエリート志向を強める結果となっている。ちなみに、我が国にも昔々、学校に行く暇があるくらいなら、商売の手伝いでもしろ!と説教された時代があった。
また、選挙を実施したところで、誰に投票していいか分からず、選挙の意義も知らない。だから、同じ民族や同じ出身者に投票するだけで、そうした集団行動が既得権益による腐敗を助長する。ただ、このような投票行動は、我が国の後援会選挙と同じに映るのは気のせいか?
ところが、彼らの行動原理も、知識をちょっと与えるだけで、がらりと変化するという。投票行動にしても、民主主義的な知識をちょっと与えるだけで、正反対のインセンティブを働かせることができると。人が愚かな行為をするのは無知にほかならない、という考え方はソクラテス流の教義にある。そして、無知を自覚できる者こそが、賢者というわけだが、インセンティブの働きとは、まさにそれか。人間は不合理な行動がお好き!お金をドブに捨てるような使い方をするのは、どこの国にも見られる。ちなみに、世界人口で2%にも満たない日本人が総額保険料の20%近い保険料を支払っていることに、外国人たちは滑稽に思っているようだ。高額療養費制度まである国で。おまけに長寿大国!そんなにお金が余っているなら、自己投資でもすればいいのに...
2. 奇妙な貯蓄法とインセンティブの働き
途上国では、都心から郊外へ出ると、未完成の家がたくさん見られるという。屋根がなかったり、窓がなかったり、壁が作りかけだったり。それは、貯蓄の手段なのだそうな。手元に現金が余ると、少しずつ家を作っていく。何年もかけて煉瓦100個ずつ建てられる。これが、1日99セントで生活する人々の暮らしで、貧乏だからこそ巧妙な貯蓄法を考えだすという。豊かな国の住人でも、少しづつ増築したり、家具を徐々に増やしたりする。古くから貧乏人は無能で怠惰という見方があるが、貧乏人が貯蓄しないのはお金がないから、という考えはどうも豊かな人の勝手な発想のようだ。
小口の貯蓄口座にしても、銀行側は管理するのに手間がかかる。そこで、インドで人気の「自助グループ」は、コストを下げる方法の一つで、メンバーたちが貯蓄をプールして、引き出しや預け入れを協調して行う仕組みだという。貧乏人にだって、貯蓄が将来の保険として機能することを心得ている。
しかし、肥料に関する行動は腑に落ちない。農民たちは無料で肥料を提供しても使わないという。肥料による年間収益率は、少なく見積もっても7割を超えると推計されていて、効果に対する知識がないわけではないらしい。肥料は少量ずつ買っても使えるので、ごくわずかな貯蓄があれば、活用できる絶好の投資機会となるはず。だが、農民たちは、収穫期から作付けまでの期間に、すっからかんになってしまうそうな。隣人の病気見舞いとか、お客の食事とか、近所付き合いを断りづらいとか...なんだかんだと物入りだとか。そこで、肥料を購入する時期を収穫直後にすると、肥料を使うように誘導できたという。適切な時期に、玄関まで届けてやれば、農民たちは喜んで肥料を買うのだそうな。それは、豊かな国の住人が、モバイル端末のおかげで最も欲求の高ぶるタイミングで物が買える行動原理と似ている。支援とは、こうした行動へのインセンティブを働かせることが重要だという。貧乏だからこそ、余計に自制心が必要なのかもしれない。自家用ジェット機で買い物に行く金融屋が破綻しても公的資金にたかれば済む、のとはえらい違いだ。
ところで、インセンティブには不思議な力がある。我が家で太陽光発電を設置したのが10年ぐらい前。計算上では15年で設備投資が回収できる予定だったが、妙にエコ意識が働き10年未満で回収できた。エコ意識や貯蓄心理というものは、快感になりやすい。意識改革とは、そうしたちょっとした事から始まるものかもしれん。結局、書籍代になって浪費されるのだけど...
3. マイクロファイナンスと初期誘導の難しさ
貧乏人向けの小口融資にマイクロファイナンスという事業がある。だが、かつて騒がれたほど機能するものではないらしい。貧困層は自立性を欠いているので、ボランティア的な性格を持つことになろう。実際、NGOが運営しているケースも多く、この関係事業でノーベル平和賞の対象となったケースもある。一方で、金融屋魂を強めるマイクロファイナンス機関もあって、借金を苦に集団自殺に追い込んだ事例もある。
本書は、マイクロファイナス機関は債務不履行を絶対に避けるべきだとする考えが強く、酷く柔軟性を欠くと指摘している。マイクロ融資は、グループメンバーの連帯責任という形で運営されるという。借金で連帯責任を負わされるとなれば、その利用を躊躇するだろう。グループの構成員ならば、他のメンバーに安全に振舞うように求めるだろうが、他人に口出しされたくもない。マイクロファイナンスに柔軟性を欠くならば、柔軟性のある高利貸しを頼ることになる。高利貸しが必ずしも悪徳業者ではないようだし、結局、高利貸しの引き立て役になってしまうのか。スーツで着飾り、証券取引所で活動するだけでは、真のビジネスモデルを構築することはできない。ドロドロとした現場にこそ、創意工夫というものが現われる。貧乏人は天性の起業家となりうる可能性があり、社会の底辺層から生じたビジネスの成功物語はいくらでもあるという。ゴミ拾いから始め、ゴミ分別モデルとゴミ収集の大規模ネットワークの構築で成功した者も、高利貸しから借金していたとか。
経済学者は、何かと限界収益といった用語を用いたがる。つまり、経営効率が成功の鍵を握ると。それも間違いではない。ただ、貧困社会には最初から非効率で溢れている。政府の施策や社会制度でさえ。限界収益は、利益が枯渇した時、投資を増やすか減らすかを判断する上で重要な考察となる。しかし、貧乏な事業では、投資が最初から限られていて、総収益がどうなるかの方がはるかに重要であると指摘している。小規模な事業が乱雑することも非効率の要因であり、限界収益が高くても総収益が低くならざるをえないと。小事業主のコミュニティ化に融資がセットになって生産性を向上させる。マイクロファイナンス機関が目指すものとは、そういうものであろうか。現実に起業することは難しい。利潤の再投資に対して見通しがなければ、借金しても苦しむだけ。ここに初期誘導の難しさがある。バラマキ政策がうまくいかないのは、非効率性を助長するからであろう。世界最大級のマイクロファイナンス機関FINCAのCEOジョン・ハッチは、こう語ったという。
「貧しいコミュニティに機会を与えて後は邪魔をしないこと」
貧困層に自由を... 人権を... 支援を... 紛争の撲滅を... こうした発想はどれも、それなりに真理を含んでいるのだろう。だが本書は、涙するような悲惨な物語の盛り立て役でしかないと指摘している。政府の支援策がことごとく失敗するのは、本当に何をすべきかを知らないからであろう。有識者たちは、困っている人たちの意見を聞こう!と主張する。しかし、だいたい要求や文句を垂れるのは少し余裕のある人で、本当に苦しんでいる人はそれを口にする機会すら与えられない。プロの開発経済学者や訓練を受けた政策立案者でさえ、貧困生活を単純なモデルに頼っている。そもそも自分以外の人を理解することなど、できるのだろうか?自己ですら理解できないというのに...
自分がいい目にあうと、誰かに喋りたくてしょうがない。そしてつい、同じように振る舞うよう押しつけてしまう。だが、その助言が仇となれば、却って宗教勧誘のごとく有難迷惑となる。価値観に多様性を認めれば、支援という行為も慎重にならざるを得ない。
しかし、だ。支援には、ある程度の強制的、義務的なところも必要であろう。豊かな国の住人こそ、義務教育や福祉制度を半強制的に与えられた受益者である。実際、生活の自由を信じながら、子供の予防接種などが義務化されている。
ただそれは、社会が機能して始めて受益者となりうるのであって、腐敗した社会では制度そのものが歪められる。情報がなく知識も乏しいとなれば、迷信めいたものに頼ろうとする。例えば、多くの子供が下痢で命を落とす状況にあって、塩素漂白剤で飲料水を殺菌するだけでもかなり効果があるというのに、母親たちがそれを信じないで無料配給券をあまり使わないという。水を清潔にし、蚊帳を使うだけでマラリアから子供を守り、駆虫剤や栄養強化小麦粉などでも健康面で大きなメリットがあるのに、そうした安価なものに興味を示さないのだそうな。ちゃんと注射してくれ!高価そうに見える治療を恵んでくれ!というわけだ。そして逆に、不必要な治療がリスクを高める結果に。注射針を殺菌しないまま使い回し、村全体にB型肝炎を感染させる医者がいれば、無資格医師が繁盛する始末。おまけに、教育制度も歪んでいて意識改革も儘ならない。経済的な貧困も問題だが、知識の貧困の方がはるかに問題のようだ。
とはいえ、豊かな国の住人でも、ブランド品というだけで目を奪われ、高額というだけで自慢したりする。いくら生活が豊かになっても、精神は貧困のままというわけか。そして、不必要な情報が社会を混乱させる。金融危機といった現象は、まさにその典型。仮想価値に群がり、一斉に価値を陥れる様子は、まさに迷信に憑かれたごとく。経済的な行動原理に豊かさも貧しさも関係ないのかもしれん。
デフレ不況における若年層の失業問題は、やる気がない!とか、自助努力しろ!とか、そんな意見を言うほとんどの人が、安楽にサラリーマン時代を過ごしたり、バブル期を謳歌して起業した連中である。バブル時代では、学生を集めるために新人教育がハワイ旅行とセットになっている企業があったりと、何かが狂っていた。今は別の意味で狂っている。一昔前、高齢者の医療費免除によって、病院の待合室が老人の井戸端会議の場として占拠されていた。今では、現役の給料をむしりとってまで、企業年金が居座ったまま。経済成長の右肩上がりを十分に味わい、社会制度に守られてきた連中が、今時の若い者は...と説教を垂れたところで説得力を感じない。そして、今時の年寄りは...とつぶやかれるのであった...
さて、著者アビジット・V・バナジーとエスター・デュフロの分析法は、「ランダム化対照試行」と呼ばれるものだそうな。物理学の扱う現象では、条件を揃えて比較検討ができるように配慮する。対して、社会学や経済学の扱う現象は、条件の抽出が不可能なぐらい難しく、絶望的な状況にある。二つの村を比較したところで、民族構成や社会慣習も違い、同じような計測が成り立たない。市場はどこにでもあるが、個人や集団によってそれぞれ市場との距離が微妙に違う。ある地域で驚くべき効果を上げたからといって、その政策を他の地域に適用しても逆効果になることすらある。
そこで、ランダム化対照試行では、個体別に条件を揃えなくてもいいんじゃないか、という発想があるという。理念だけあれこれ議論しても結論は出ないので、実際に試してみるしかあるまい。しかし、実験的に施策を試みることに批判もある。観察目的で地域別に施策を変えるのは不公平といった意見が。いずれにせよ、施策に効果があるかどうかなど誰にも分からない。所詮、人間社会は試行実験の場でしかないということか...
1. 不合理な行動原理
餓死寸前ともなれば、いくらなんでも食べ物が優先されるだろう。だが、貧乏が定着した社会では、たとえ腹ペコであっても、カロリー摂取よりテレビが優先されるという。海外から食糧支援が行われているというのに、民衆はテレビも、パラボラアンテナも、DVDプレーヤーも、携帯電話も持っているとは、これいかに?人生において、退屈とは、飢餓と同じぐらい苦しいものなのかもしれん。
貧乏子沢山というのも不合理に映る。暇だと子づくりぐらいしかやることがないのか?避妊法の知識が乏しいこともある。社会的地位に男女格差があれば、男子が生まれるまで励む。就学や就職に優劣があれば、男子が将来の社会保障制度として機能する。そして、病気に対する治療意識に差が生じ、男女の人口バランスまで歪ませる。インドには「嫁焼き!」というものがあると聞く。ノーベル賞経済学者アマルティア・センは、足りない女性を「喪われた女性たち」と呼んだとか。望まない出産によって生まれた子は、犯罪に走りやすいという見解も聞く。社会秩序という観点からも、避妊法は重要な意味がある。だが、避妊そのものが宗教的にタブーとされる地域も多く、HIV/AIDSの感染率とも関係するデリケートな問題である。
知識が乏しいからといって、教育制度を整えても効果が上がらない。就学率が上がらないのは、学校がないからではなく、子供自身や親が学校に行かせたがらないからだという。家族の露店や店の手伝いをする子供たちは、小学校で教える計算よりもずっと複雑な計算を暗算でやってのける。親たちが、公的な教育効果の質に疑いを持っているばかりか、教育や知識を金儲けの手段ぐらいにしか考えておらず、どうせ学校にやるなら、私立を目指しエリート志向を強める結果となっている。ちなみに、我が国にも昔々、学校に行く暇があるくらいなら、商売の手伝いでもしろ!と説教された時代があった。
また、選挙を実施したところで、誰に投票していいか分からず、選挙の意義も知らない。だから、同じ民族や同じ出身者に投票するだけで、そうした集団行動が既得権益による腐敗を助長する。ただ、このような投票行動は、我が国の後援会選挙と同じに映るのは気のせいか?
ところが、彼らの行動原理も、知識をちょっと与えるだけで、がらりと変化するという。投票行動にしても、民主主義的な知識をちょっと与えるだけで、正反対のインセンティブを働かせることができると。人が愚かな行為をするのは無知にほかならない、という考え方はソクラテス流の教義にある。そして、無知を自覚できる者こそが、賢者というわけだが、インセンティブの働きとは、まさにそれか。人間は不合理な行動がお好き!お金をドブに捨てるような使い方をするのは、どこの国にも見られる。ちなみに、世界人口で2%にも満たない日本人が総額保険料の20%近い保険料を支払っていることに、外国人たちは滑稽に思っているようだ。高額療養費制度まである国で。おまけに長寿大国!そんなにお金が余っているなら、自己投資でもすればいいのに...
2. 奇妙な貯蓄法とインセンティブの働き
途上国では、都心から郊外へ出ると、未完成の家がたくさん見られるという。屋根がなかったり、窓がなかったり、壁が作りかけだったり。それは、貯蓄の手段なのだそうな。手元に現金が余ると、少しずつ家を作っていく。何年もかけて煉瓦100個ずつ建てられる。これが、1日99セントで生活する人々の暮らしで、貧乏だからこそ巧妙な貯蓄法を考えだすという。豊かな国の住人でも、少しづつ増築したり、家具を徐々に増やしたりする。古くから貧乏人は無能で怠惰という見方があるが、貧乏人が貯蓄しないのはお金がないから、という考えはどうも豊かな人の勝手な発想のようだ。
小口の貯蓄口座にしても、銀行側は管理するのに手間がかかる。そこで、インドで人気の「自助グループ」は、コストを下げる方法の一つで、メンバーたちが貯蓄をプールして、引き出しや預け入れを協調して行う仕組みだという。貧乏人にだって、貯蓄が将来の保険として機能することを心得ている。
しかし、肥料に関する行動は腑に落ちない。農民たちは無料で肥料を提供しても使わないという。肥料による年間収益率は、少なく見積もっても7割を超えると推計されていて、効果に対する知識がないわけではないらしい。肥料は少量ずつ買っても使えるので、ごくわずかな貯蓄があれば、活用できる絶好の投資機会となるはず。だが、農民たちは、収穫期から作付けまでの期間に、すっからかんになってしまうそうな。隣人の病気見舞いとか、お客の食事とか、近所付き合いを断りづらいとか...なんだかんだと物入りだとか。そこで、肥料を購入する時期を収穫直後にすると、肥料を使うように誘導できたという。適切な時期に、玄関まで届けてやれば、農民たちは喜んで肥料を買うのだそうな。それは、豊かな国の住人が、モバイル端末のおかげで最も欲求の高ぶるタイミングで物が買える行動原理と似ている。支援とは、こうした行動へのインセンティブを働かせることが重要だという。貧乏だからこそ、余計に自制心が必要なのかもしれない。自家用ジェット機で買い物に行く金融屋が破綻しても公的資金にたかれば済む、のとはえらい違いだ。
ところで、インセンティブには不思議な力がある。我が家で太陽光発電を設置したのが10年ぐらい前。計算上では15年で設備投資が回収できる予定だったが、妙にエコ意識が働き10年未満で回収できた。エコ意識や貯蓄心理というものは、快感になりやすい。意識改革とは、そうしたちょっとした事から始まるものかもしれん。結局、書籍代になって浪費されるのだけど...
3. マイクロファイナンスと初期誘導の難しさ
貧乏人向けの小口融資にマイクロファイナンスという事業がある。だが、かつて騒がれたほど機能するものではないらしい。貧困層は自立性を欠いているので、ボランティア的な性格を持つことになろう。実際、NGOが運営しているケースも多く、この関係事業でノーベル平和賞の対象となったケースもある。一方で、金融屋魂を強めるマイクロファイナンス機関もあって、借金を苦に集団自殺に追い込んだ事例もある。
本書は、マイクロファイナス機関は債務不履行を絶対に避けるべきだとする考えが強く、酷く柔軟性を欠くと指摘している。マイクロ融資は、グループメンバーの連帯責任という形で運営されるという。借金で連帯責任を負わされるとなれば、その利用を躊躇するだろう。グループの構成員ならば、他のメンバーに安全に振舞うように求めるだろうが、他人に口出しされたくもない。マイクロファイナンスに柔軟性を欠くならば、柔軟性のある高利貸しを頼ることになる。高利貸しが必ずしも悪徳業者ではないようだし、結局、高利貸しの引き立て役になってしまうのか。スーツで着飾り、証券取引所で活動するだけでは、真のビジネスモデルを構築することはできない。ドロドロとした現場にこそ、創意工夫というものが現われる。貧乏人は天性の起業家となりうる可能性があり、社会の底辺層から生じたビジネスの成功物語はいくらでもあるという。ゴミ拾いから始め、ゴミ分別モデルとゴミ収集の大規模ネットワークの構築で成功した者も、高利貸しから借金していたとか。
経済学者は、何かと限界収益といった用語を用いたがる。つまり、経営効率が成功の鍵を握ると。それも間違いではない。ただ、貧困社会には最初から非効率で溢れている。政府の施策や社会制度でさえ。限界収益は、利益が枯渇した時、投資を増やすか減らすかを判断する上で重要な考察となる。しかし、貧乏な事業では、投資が最初から限られていて、総収益がどうなるかの方がはるかに重要であると指摘している。小規模な事業が乱雑することも非効率の要因であり、限界収益が高くても総収益が低くならざるをえないと。小事業主のコミュニティ化に融資がセットになって生産性を向上させる。マイクロファイナンス機関が目指すものとは、そういうものであろうか。現実に起業することは難しい。利潤の再投資に対して見通しがなければ、借金しても苦しむだけ。ここに初期誘導の難しさがある。バラマキ政策がうまくいかないのは、非効率性を助長するからであろう。世界最大級のマイクロファイナンス機関FINCAのCEOジョン・ハッチは、こう語ったという。
「貧しいコミュニティに機会を与えて後は邪魔をしないこと」
2013-05-19
"実験心理学が教える人を動かすテクノロジ" B. J. Fogg 著
Captology(computers as persuasive technologies)。この用語を耳にしたのは、十年ぐらい前であろうか。コンピュータによる説得のための、あるいは動機づけのためのテクノロジ... 著者B. J. フォッグが名付けた造語だそうな。
コンピュータ設計が、擬人化エージェントという観点から議論され始めたのは、Windows95 が登場したあたりであろうか。むかーし、そんなセミナーに参加した覚えがある。今日、人間同士の社会的インタラクションをネット経由で構築する手法が定着した。その鍵となるのは、なんといっても相互信頼性であろう。本書は、コンピューティングによって構築される信頼性を、説得の観点から掘り下げてくれる。
近年、注目されるものと言えば、TED(Technology Entertainment Design) であろうか。TEDカンファレンスは、非営利目的で開催され、年会費7,500ドルとVIPの世界。ちなみに、講演者の側は報酬ゼロ。しかしながら、TED.com から無料で観賞でき、至福の時間が得られる。グローバルな視点から社会を変革しようと目論む著名人たちは、プレゼン能力を見せつける。まさに説得法の事例である。人を動かすものは好奇心から。そして、あらゆる思考は疑問から始まる... としておこうか。
説得とは、民主主義の根幹的手法である。言うまでもなく、強制や欺瞞といったものが排除されて機能する。アリストテレスの時代から、弁論術や修辞法が盛んに研究されてきた。扇動者にとって、思考しない者が思考しているつもりになって同調している状態ほど都合のよいものはない。賢い見識を持った人たちですら、あるきっかけで愚かな判断を下し、異常な行動をとるものである。よって、説得は、自由意志が働いていると思い込ませる技術となりやすい。そぅ、ある種のマインド・コントロール!これが政治術ってやつか。政治の世界では、心地良い言葉や癒し系の言葉が乱用される。減税やら幸福やら友愛やら...根拠を精査すれば問題なさそうだが、人間には不都合な事は耳に入らない習性がある。
一方、コンピューティングの世界では、使いやすい!分かりやすい!といった言葉が乱用される。コンピュータの最大の武器は、面倒なことを肩代わりしてくれる便利屋になってくれることだろう。なにひとつストレスを感じることなく、従順な奴である。だが、機能が複雑化すると、デフォルト設定の罠が潜む。通信業界は、課金方向に誘導しやがる。サイトでは、面倒な説明文を読む前に、Yes!, Ok!, I agree! がクリックしやすく設計され、販売サイトの操作性が、ワンクリックボタン!をつい押させる。ネット投票が実現すれば、政治に参加しやすいくなるという意見も少なくない。おそらくそうだろう。だが、熟慮の上で選択がなされるかは別である。
さて、人間心理を操作する根本原理に恐怖心の刺激がある。人の行動パターンなんてものは、ほとんど自己存在、ひいては自己愛で説明がつくだろう。流行に乗り遅れる...アップデートしないと脆弱になる...などとちょいと不安を煽れば、人々はその情報に群がる。おまけに、自己存在の危機までも匂わせれば効果覿面!それは、生命の生存競争に裏付けられた原理である。大震災後に災害保険の加入者が急増する。感情論に左右されやすい国民性が、生命保険に群がりやすくさせるのかは知らん。リスクが露わになれば、人々はその考えを見直すだろうが、仮想化社会ではリスクそのものが偽装されやすい。
本書は、説得のためのテクノロジには倫理的問題が裏腹にあることを指摘している。「人を動かすテクノロジ」もさることながら、「人に動かされないテクノロジ」にも留意しておきたい。
人々は、なぜネットに依存するのだろうか?一つは人格形成にあろう。直接対話では、容姿、会話能力といったものを、リアルタイムの下で曝け出す。だが一旦ネット社会に身を置けば、人格までも装うことができ、自分の描く人物像が演出できる。
利便性は人々を衝動へ向かわせやすい。しかし、心理的に煽れば、自ら情報の信頼性を揺るがすことになろう。書店の売り場には、タイトルだけ変えて内容の似たような本が氾濫する。おまけに著名人の写真付きとなれば鬱陶しい。ネットには、お薦め!大好評中!といった宣伝文句が踊る。おまけに目障りなポップアップ広告!カスタマーレビューや口コミにしても怪しい。通販番組では、売り手の甲高い声が深夜に響けば、その周波数で頭が痛い。おまけに、おばさんたちの驚きの声で盛り上げる。こうした脂ぎった商法に、嫌悪感を持つ人も少なくないだろう。商売戦略では、長く付き合うユーザを遠ざけ、その場限りのユーザを囲い込もうとするやり方が流行りやすいのか?ただ、新しく見える手法を編み出しても、ユーザは飽きっぽいものである。
ネット社会には有効な情報が溢れているのも確かだが、絶対に知らなければならない情報となると出会うのが難しい。情報量が膨大になれば、相対的に重要である率は減少するのか?存在の重要度が低いから、余計に存在感をアピールするのか?情報能力は、収集能力から選択能力へと移行している。ちょっとぐらい時代遅れになったところで、大して困らない。そりゃ、新しい情報も知っているに越したことはないが、場合によっては、浦島太郎状態の方が真理を見極めるのに都合がいいだろう。いまや、経済循環やソーシャルダイナミクスは、消費を煽ること、流通を煽ること、情報を煽ることによって成り立っている、とさえ言えるかもしれん。
1. カプトロジ
コンピュータは、ツール、メディア、ソーシャルアクターとして振る舞うことができるという。そして、トンネリングの原理、カスタマイズの原理、監視、バーチャルリハーサル...などの原理から心理学を紐解いてくれる。トンネリングの原理は、ローン地獄や薬物依存といった抜けられない状況に陥ることで、カスタマイズの原理は、顧客固有のニーズにマッチした情報を提供することである。特に重要な機能は、ソーシャルアクターとしての役割であろうか。社交性における有効な原理に、人を褒める振舞いがある。どんなに厄介なユーザにも忍耐強く丁寧に応接できるのは、とても人間にはできない技である。コンピュータに褒められてうれしいかどうかは知らん。いや、リアルなお姉さんロボットに褒められれば、イチコロよ!
また、類似性の原理は興味深い。つまり、自分の行動や思考と似たエージェントに惹かれるというのだ。親近感が生まれるということはあるだろう。おいらの行動様式では、サービスの設計思想や哲学に注目する。じゃ、自由度や柔軟性に惹かれながら、細かいバグの多いサービスを利用するのは、自我が不具合だらけということか?納得だ!
さらに、互恵主義の原理が働くという。コンピュータが助けてくれた時、お返しをしなければならないと感じるのだとか。信頼関係とは、そんなところから生じるものではあるが、ほんまかいな?コンピュータに意思なるものを感じれば、そうかもしれん。というより、設計者の思想に共感することはよくある。
カプトロジでは、こうした人間の行動様式や思考方法を、いかにコンピュータに実装するかということを研究することになる。その意味で、人間が人間自身を理解しようとする学問とすることができそうだ。
「コンピュータが人間をどのように説得するのかが明らかになるにつれて、人間が他人をいかに説得するかについての新しい洞察が加えられていくことになる。」
2. 信頼性と説得
信頼性は、信用性と専門性の二つの側面から構成されるという。そして、信頼性のタイプを、仮定型、外見型、評判型、獲得型の四つに分類し、中でも獲得型が重要だとしている。やはり、信頼性を得るには地道な活動が一番のようだ。尚、おいらは三つ目の側面として、哲学的意志を加えたい。
信頼性は、説得力に直結する要素である。そして、説得には、最適な場所と最適なタイミングが重要だとしている。モバイルコンピューティングは、まさにそれを実現してくれる。そういえば、ユビキタスという用語をとんと聞かなくなった。いまや定着したということか?
コンピューティングが、思惑に惑わされない、客観的な情報を提供してくれるのであれば、権威を持つことができるだろう。しかし、コンピュータの意図を設計するのは人間であり、コンピュータの弾き出した結果を利用するのも人間である。正直で公正、偏見がないと見なされながらも、せっかくの客観的データが政治の思惑で無視される。近年の事例でいえば、災害で活躍するはずだった SPEEDI がそれで、先入観を持たないことが、いかに困難であるかを教えている。
ネット社会はコンピューティング依存をますます促進し、いまやその存在がなければ人間社会そのものが成り立たない。サイトの炎上騒ぎは相次ぎ、いじめでは被害者側が退場させられる始末。徹底的に叩くという歪んだ正義感が、公共の場をストレス解消の場へと変貌させる。見事なまでの集団性の悪魔の体現、その意思はどこから発するのだろうか?いずれ、コンピューティングによってカリスマ的な擬人が出現し、人間社会を扇動する時代が来るのかもしれん。ところで、リアルな擬人化社会では、女性ロボットとの関係で不倫は成立するのだろうか?
コンピュータ設計が、擬人化エージェントという観点から議論され始めたのは、Windows95 が登場したあたりであろうか。むかーし、そんなセミナーに参加した覚えがある。今日、人間同士の社会的インタラクションをネット経由で構築する手法が定着した。その鍵となるのは、なんといっても相互信頼性であろう。本書は、コンピューティングによって構築される信頼性を、説得の観点から掘り下げてくれる。
近年、注目されるものと言えば、TED(Technology Entertainment Design) であろうか。TEDカンファレンスは、非営利目的で開催され、年会費7,500ドルとVIPの世界。ちなみに、講演者の側は報酬ゼロ。しかしながら、TED.com から無料で観賞でき、至福の時間が得られる。グローバルな視点から社会を変革しようと目論む著名人たちは、プレゼン能力を見せつける。まさに説得法の事例である。人を動かすものは好奇心から。そして、あらゆる思考は疑問から始まる... としておこうか。
説得とは、民主主義の根幹的手法である。言うまでもなく、強制や欺瞞といったものが排除されて機能する。アリストテレスの時代から、弁論術や修辞法が盛んに研究されてきた。扇動者にとって、思考しない者が思考しているつもりになって同調している状態ほど都合のよいものはない。賢い見識を持った人たちですら、あるきっかけで愚かな判断を下し、異常な行動をとるものである。よって、説得は、自由意志が働いていると思い込ませる技術となりやすい。そぅ、ある種のマインド・コントロール!これが政治術ってやつか。政治の世界では、心地良い言葉や癒し系の言葉が乱用される。減税やら幸福やら友愛やら...根拠を精査すれば問題なさそうだが、人間には不都合な事は耳に入らない習性がある。
一方、コンピューティングの世界では、使いやすい!分かりやすい!といった言葉が乱用される。コンピュータの最大の武器は、面倒なことを肩代わりしてくれる便利屋になってくれることだろう。なにひとつストレスを感じることなく、従順な奴である。だが、機能が複雑化すると、デフォルト設定の罠が潜む。通信業界は、課金方向に誘導しやがる。サイトでは、面倒な説明文を読む前に、Yes!, Ok!, I agree! がクリックしやすく設計され、販売サイトの操作性が、ワンクリックボタン!をつい押させる。ネット投票が実現すれば、政治に参加しやすいくなるという意見も少なくない。おそらくそうだろう。だが、熟慮の上で選択がなされるかは別である。
さて、人間心理を操作する根本原理に恐怖心の刺激がある。人の行動パターンなんてものは、ほとんど自己存在、ひいては自己愛で説明がつくだろう。流行に乗り遅れる...アップデートしないと脆弱になる...などとちょいと不安を煽れば、人々はその情報に群がる。おまけに、自己存在の危機までも匂わせれば効果覿面!それは、生命の生存競争に裏付けられた原理である。大震災後に災害保険の加入者が急増する。感情論に左右されやすい国民性が、生命保険に群がりやすくさせるのかは知らん。リスクが露わになれば、人々はその考えを見直すだろうが、仮想化社会ではリスクそのものが偽装されやすい。
本書は、説得のためのテクノロジには倫理的問題が裏腹にあることを指摘している。「人を動かすテクノロジ」もさることながら、「人に動かされないテクノロジ」にも留意しておきたい。
人々は、なぜネットに依存するのだろうか?一つは人格形成にあろう。直接対話では、容姿、会話能力といったものを、リアルタイムの下で曝け出す。だが一旦ネット社会に身を置けば、人格までも装うことができ、自分の描く人物像が演出できる。
利便性は人々を衝動へ向かわせやすい。しかし、心理的に煽れば、自ら情報の信頼性を揺るがすことになろう。書店の売り場には、タイトルだけ変えて内容の似たような本が氾濫する。おまけに著名人の写真付きとなれば鬱陶しい。ネットには、お薦め!大好評中!といった宣伝文句が踊る。おまけに目障りなポップアップ広告!カスタマーレビューや口コミにしても怪しい。通販番組では、売り手の甲高い声が深夜に響けば、その周波数で頭が痛い。おまけに、おばさんたちの驚きの声で盛り上げる。こうした脂ぎった商法に、嫌悪感を持つ人も少なくないだろう。商売戦略では、長く付き合うユーザを遠ざけ、その場限りのユーザを囲い込もうとするやり方が流行りやすいのか?ただ、新しく見える手法を編み出しても、ユーザは飽きっぽいものである。
ネット社会には有効な情報が溢れているのも確かだが、絶対に知らなければならない情報となると出会うのが難しい。情報量が膨大になれば、相対的に重要である率は減少するのか?存在の重要度が低いから、余計に存在感をアピールするのか?情報能力は、収集能力から選択能力へと移行している。ちょっとぐらい時代遅れになったところで、大して困らない。そりゃ、新しい情報も知っているに越したことはないが、場合によっては、浦島太郎状態の方が真理を見極めるのに都合がいいだろう。いまや、経済循環やソーシャルダイナミクスは、消費を煽ること、流通を煽ること、情報を煽ることによって成り立っている、とさえ言えるかもしれん。
1. カプトロジ
コンピュータは、ツール、メディア、ソーシャルアクターとして振る舞うことができるという。そして、トンネリングの原理、カスタマイズの原理、監視、バーチャルリハーサル...などの原理から心理学を紐解いてくれる。トンネリングの原理は、ローン地獄や薬物依存といった抜けられない状況に陥ることで、カスタマイズの原理は、顧客固有のニーズにマッチした情報を提供することである。特に重要な機能は、ソーシャルアクターとしての役割であろうか。社交性における有効な原理に、人を褒める振舞いがある。どんなに厄介なユーザにも忍耐強く丁寧に応接できるのは、とても人間にはできない技である。コンピュータに褒められてうれしいかどうかは知らん。いや、リアルなお姉さんロボットに褒められれば、イチコロよ!
また、類似性の原理は興味深い。つまり、自分の行動や思考と似たエージェントに惹かれるというのだ。親近感が生まれるということはあるだろう。おいらの行動様式では、サービスの設計思想や哲学に注目する。じゃ、自由度や柔軟性に惹かれながら、細かいバグの多いサービスを利用するのは、自我が不具合だらけということか?納得だ!
さらに、互恵主義の原理が働くという。コンピュータが助けてくれた時、お返しをしなければならないと感じるのだとか。信頼関係とは、そんなところから生じるものではあるが、ほんまかいな?コンピュータに意思なるものを感じれば、そうかもしれん。というより、設計者の思想に共感することはよくある。
カプトロジでは、こうした人間の行動様式や思考方法を、いかにコンピュータに実装するかということを研究することになる。その意味で、人間が人間自身を理解しようとする学問とすることができそうだ。
「コンピュータが人間をどのように説得するのかが明らかになるにつれて、人間が他人をいかに説得するかについての新しい洞察が加えられていくことになる。」
2. 信頼性と説得
信頼性は、信用性と専門性の二つの側面から構成されるという。そして、信頼性のタイプを、仮定型、外見型、評判型、獲得型の四つに分類し、中でも獲得型が重要だとしている。やはり、信頼性を得るには地道な活動が一番のようだ。尚、おいらは三つ目の側面として、哲学的意志を加えたい。
信頼性は、説得力に直結する要素である。そして、説得には、最適な場所と最適なタイミングが重要だとしている。モバイルコンピューティングは、まさにそれを実現してくれる。そういえば、ユビキタスという用語をとんと聞かなくなった。いまや定着したということか?
コンピューティングが、思惑に惑わされない、客観的な情報を提供してくれるのであれば、権威を持つことができるだろう。しかし、コンピュータの意図を設計するのは人間であり、コンピュータの弾き出した結果を利用するのも人間である。正直で公正、偏見がないと見なされながらも、せっかくの客観的データが政治の思惑で無視される。近年の事例でいえば、災害で活躍するはずだった SPEEDI がそれで、先入観を持たないことが、いかに困難であるかを教えている。
ネット社会はコンピューティング依存をますます促進し、いまやその存在がなければ人間社会そのものが成り立たない。サイトの炎上騒ぎは相次ぎ、いじめでは被害者側が退場させられる始末。徹底的に叩くという歪んだ正義感が、公共の場をストレス解消の場へと変貌させる。見事なまでの集団性の悪魔の体現、その意思はどこから発するのだろうか?いずれ、コンピューティングによってカリスマ的な擬人が出現し、人間社会を扇動する時代が来るのかもしれん。ところで、リアルな擬人化社会では、女性ロボットとの関係で不倫は成立するのだろうか?
2013-05-12
"ゲーム開発のための数学・物理学入門" Wendy Stahler 著
ゲームプログラムを開発するわけではないが、こういう本を眺めているとノスタルジーな気分にさせてくれる。20年ぐらい前になろうか、コマンドラインのOSに勢いがあった時代、ブラウン運動やインクジェットの噴射といった統計的現象を視覚化する時、スクリーンライブラリを駆使したものである。グラフィックライブラリもあるにはあったが、一般化には程遠かった。スクリーン座標系とデカルト座標系が違うのは仕方がない。だが、いまだデカルト座標系には業界標準がないらしい。OpenGL と Direct3D で右手座標系と左手座標系で違うのも気になってしょうがない。確かに、万能な座標系を想定することは難しいだろう。空間座標を固定しない方が、想像空間も拡がるだろうし。そして、相対的な認識能力しか発揮できない知的生命体は、自ら編み出した多種多様な空間変換系によって精神空間までも歪めるのだろうか?
さて、ここに登場する数学と物理学の知識は、極めて基本的なものばかりだが、疎かにはできない。ピタゴラスの定理や三角関数、あるいはベクトルで物体の軌道や投射物の運動を記述し、ニュートンの運動法則と運動量保存則で衝突をモデル化し、行列を用いて2次元空間から3次元空間へ拡張する。
また、運動の要素を観察すると、直線運動と回転運動に分解できる。そこで、ニュートンの運動法則における角運動量、すなわちモーメントとしての解釈が鍵となる。
ゲームでは、物理現象をいかにリアリティに描写するかが問われる。衝突現象を一つとっても、弾性衝突(完全弾性衝突)と完全非弾性衝突の二つの極端な現象の間で、非弾性衝突を記述するわけだが、そこで、はねかえり係数や摩擦係数を用いて按配を計算することになる。
ところで、ニュートン力学の中心的な概念に「力」ってやつがある。なんと曖昧な用語であろう。学生時代、エネルギーと何が違うのか?と悩んだものである。ガリレオは、著書「天文対話」で慣性の法則らしきものを語っているが、質量については、おぼろげな認識しかなかったようである。アリストテレスの運動論以来、インペトゥス、モーメント、トルク、エネルギー、フォースなどと用語が乱立するのも、質量問題は哲学の存在問題との境界をさまよってきた歴史がある。アインシュタインは、あの有名な公式で質量とエネルギーの等価性を示した。おかげで、ニュートンの運動方程式から力をエネルギーに換算することができる。
また、力と同様、曖昧な語に「仕事」ってやつがある。物体に加える力と、その変位との積によって定義される物理量である。仕事と力の関係から、運動エネルギーや位置エネルギーに分解されると、力学的エネルギーとの関係が記述できるようになる。
さらに、「運動量」と「力積」という物理量が登場する。運動量は、質量と速度の積で定義され、絶えず変化する速度によって決まるので、物体の状態を示している。力積は、力と時間の積で定義され、運動量の変化量を示している。
本書は、瞬間運動量や、時間における運動量の変化を考察することに重要な意味があるとしている。運動の軌道を具体的に記述するには、エネルギーを運動量として眺める必要があろう。エネルギー保存則は、力と仕事を通じて運動量保存則に置き換えられるという見方もできそうである。人間認識とは、なんらかの運動に対して生じるものであり、ニュートン力学と運動量の法則があれば、大方記述できるというわけか。ゲームの中にニュートンとデカルトの融合があったとは...
人は、ある現象を説明する時、本能的に力関係を感じたり、努力を仕事量で計ったりするところがある。政治の力、金の力、愛の力などと言えば幻想にしか思えんが、人間認識ってやつはデカルト式実存論がお好きなようだ。尚、ニュートンとデカルトで霊感まで記述できるのかは知らん。
1. 変換系と三角法
「アフィンとは移動後もオブジェクトの基本的な形が保たれるという意味です。」
アフィン変換に関しては様々な記述を見かけるが、ここでは、平行移動、スケーリング、回転について言及される。この変換系には、力の合成や非均一なスケーリングも含まれる。
さて、最も単純な幾何学的軌道は直線である。デカルト座標系では、直線は始点と終点だけで記述できる。その性質には傾きが生じ、それだけで直角三角形と相性がいいことが分かる。そこに角の概念を持つ三角関数を用いれば、直線運動と回転運動の変換が容易になる。ニュートンの運動法則を回転運動として解釈するには、デカルト座標と極座標の変換が欠かせない。
2. 内積と外積
幾何学的な直角の概念は、重要な意味を持っている。線と点の関係では、垂線というだけで、そのスカラー値が距離を示す。さらに、ベクトル空間を用いれば、代数学的な直交性の概念に抽象化され、内積や外積が導入できる。
内積は、ゼロの時は垂直、負の時は直角より大きい、正の時は直角より小さい。この性質は、物体が視野内にあるかどうかの判定に使えたり、正規化すれば投影物の運動も記述できる。つまり、内積は2つのベクトルの関係を示しており、物理現象の観察において重要な道具となる。また、行列演算では、直交性によって演算を簡略化でき、幸せになれることを付け加えておこう。
一方、外積は2つのベクトルに対して、垂直な3つ目のベクトルを生成する。内積の結果がスカラー値になるのに対して、外積の結果はベクトルになる。そのために、外積を使って面法線を計算することができる。曲面に対しては放射ベクトルを生成することもできるわけだ。そして、内積では交換法則が成り立つが、外積では交換法則が成り立たない。
3. 衝突の検知と物体の境界
自動車をモデル化する時、車輪、車体の中央部、前部、後部というように円で分割する。そして、自動車全体を円で囲むことで、その中心点を位置情報とする。こうして複合円の階層構造によって物体を構成する例を紹介してくれる。衝突の検知では円周を境界とし、そのダメージを円の交差点としてモデル化すれば、円の方程式が物体の境界条件にできるという寸法よ。
さて、ここに登場する数学と物理学の知識は、極めて基本的なものばかりだが、疎かにはできない。ピタゴラスの定理や三角関数、あるいはベクトルで物体の軌道や投射物の運動を記述し、ニュートンの運動法則と運動量保存則で衝突をモデル化し、行列を用いて2次元空間から3次元空間へ拡張する。
また、運動の要素を観察すると、直線運動と回転運動に分解できる。そこで、ニュートンの運動法則における角運動量、すなわちモーメントとしての解釈が鍵となる。
ゲームでは、物理現象をいかにリアリティに描写するかが問われる。衝突現象を一つとっても、弾性衝突(完全弾性衝突)と完全非弾性衝突の二つの極端な現象の間で、非弾性衝突を記述するわけだが、そこで、はねかえり係数や摩擦係数を用いて按配を計算することになる。
ところで、ニュートン力学の中心的な概念に「力」ってやつがある。なんと曖昧な用語であろう。学生時代、エネルギーと何が違うのか?と悩んだものである。ガリレオは、著書「天文対話」で慣性の法則らしきものを語っているが、質量については、おぼろげな認識しかなかったようである。アリストテレスの運動論以来、インペトゥス、モーメント、トルク、エネルギー、フォースなどと用語が乱立するのも、質量問題は哲学の存在問題との境界をさまよってきた歴史がある。アインシュタインは、あの有名な公式で質量とエネルギーの等価性を示した。おかげで、ニュートンの運動方程式から力をエネルギーに換算することができる。
また、力と同様、曖昧な語に「仕事」ってやつがある。物体に加える力と、その変位との積によって定義される物理量である。仕事と力の関係から、運動エネルギーや位置エネルギーに分解されると、力学的エネルギーとの関係が記述できるようになる。
さらに、「運動量」と「力積」という物理量が登場する。運動量は、質量と速度の積で定義され、絶えず変化する速度によって決まるので、物体の状態を示している。力積は、力と時間の積で定義され、運動量の変化量を示している。
本書は、瞬間運動量や、時間における運動量の変化を考察することに重要な意味があるとしている。運動の軌道を具体的に記述するには、エネルギーを運動量として眺める必要があろう。エネルギー保存則は、力と仕事を通じて運動量保存則に置き換えられるという見方もできそうである。人間認識とは、なんらかの運動に対して生じるものであり、ニュートン力学と運動量の法則があれば、大方記述できるというわけか。ゲームの中にニュートンとデカルトの融合があったとは...
人は、ある現象を説明する時、本能的に力関係を感じたり、努力を仕事量で計ったりするところがある。政治の力、金の力、愛の力などと言えば幻想にしか思えんが、人間認識ってやつはデカルト式実存論がお好きなようだ。尚、ニュートンとデカルトで霊感まで記述できるのかは知らん。
1. 変換系と三角法
「アフィンとは移動後もオブジェクトの基本的な形が保たれるという意味です。」
アフィン変換に関しては様々な記述を見かけるが、ここでは、平行移動、スケーリング、回転について言及される。この変換系には、力の合成や非均一なスケーリングも含まれる。
さて、最も単純な幾何学的軌道は直線である。デカルト座標系では、直線は始点と終点だけで記述できる。その性質には傾きが生じ、それだけで直角三角形と相性がいいことが分かる。そこに角の概念を持つ三角関数を用いれば、直線運動と回転運動の変換が容易になる。ニュートンの運動法則を回転運動として解釈するには、デカルト座標と極座標の変換が欠かせない。
2. 内積と外積
幾何学的な直角の概念は、重要な意味を持っている。線と点の関係では、垂線というだけで、そのスカラー値が距離を示す。さらに、ベクトル空間を用いれば、代数学的な直交性の概念に抽象化され、内積や外積が導入できる。
内積は、ゼロの時は垂直、負の時は直角より大きい、正の時は直角より小さい。この性質は、物体が視野内にあるかどうかの判定に使えたり、正規化すれば投影物の運動も記述できる。つまり、内積は2つのベクトルの関係を示しており、物理現象の観察において重要な道具となる。また、行列演算では、直交性によって演算を簡略化でき、幸せになれることを付け加えておこう。
一方、外積は2つのベクトルに対して、垂直な3つ目のベクトルを生成する。内積の結果がスカラー値になるのに対して、外積の結果はベクトルになる。そのために、外積を使って面法線を計算することができる。曲面に対しては放射ベクトルを生成することもできるわけだ。そして、内積では交換法則が成り立つが、外積では交換法則が成り立たない。
3. 衝突の検知と物体の境界
自動車をモデル化する時、車輪、車体の中央部、前部、後部というように円で分割する。そして、自動車全体を円で囲むことで、その中心点を位置情報とする。こうして複合円の階層構造によって物体を構成する例を紹介してくれる。衝突の検知では円周を境界とし、そのダメージを円の交差点としてモデル化すれば、円の方程式が物体の境界条件にできるという寸法よ。
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