2014-06-22

"ピタゴラスの定理" Eli Maor 著

いまさら感のあるピタゴラスだが、あらゆる建築術の礎がここにあることに変わりはない。定理そのものの美しさは誰もが認めるところであろう。ただ、あくまでも直角三角形という特殊ケースを扱ったに過ぎない。
ところが、ちょいと変形してみると、何かの呪縛から解き放たれるかのように拡張性を発揮しやがる。三平方の定理や斜辺定理、はたまた鉤股弦の法など様々な呼び名があるように、内包される意味や解釈はいまだ広がりを見せる。幾何学だけでなく、代数的な解釈も豊富で、三角関数といった周期性と結びつくと、公式が無限にあると揶揄される。幾何センスがゼロの泥酔者には、対数螺旋やサイクロイドと結びつくだけで崇高な気分になれる。いや、目が回る。幾何学のバイブル「ユークリッド原論」I47(第I巻、命題47)にも記載される。尚、原論はあくまでも証明集であって、ユークリッド自身がどこまで証明をやってのけたかは不明だが...
証明法に至っては実に400を超えるとされ、本書は、幾何学的証明と代数的証明の分類や、最も短い証明と最も長い証明などの観点から、いくつかを紹介してくれる。ルジャンドルやアインシュタインによる証明、あるいは、プトレマイオス、ダ・ヴィンチ、アメリカ大統領J.A.ガーフィールド... など。無名少女アン・コンディットに至っては、大数学者たちが誰一人としてやらなかったことをやってのけた。定理が単純ならば、解釈も多く、乱用もしばしば。数学的な思考に、アマとプロの境界がないことを改めて意識させてくれる。
「答が宇宙なら質問は何か?はい、それは a2 + b2 = c2。それを証明する方法はおよそ400通りある。それでは他に何かいうことがあるか?たくさんある。なぜだかはよく分からないが、ピタゴラスの定理ほど多くの注釈、変種、応用、珍本を作り出した定理はかつてない。」

ピタゴラスの定理を言葉で表すと... 直角三角形において、直角をなす二辺の平方和は斜辺の平方に等しい... となる。お馴染みの代数的な記述は極めて単純!ちょいと見方を変えるだけで、こうなる。

  d = √(x2 + y2)

喫煙 x と深酒 y といった不摂生が平方で祟ると、寿命ディスタンス d は平方根で縮むという寸法よ。だが、このような形で表されるようになったのは16世紀頃で、ピタゴラスの意図したものではない。代数学には、これに似た恒等式が亡霊のようにつきまとい、ちょいと次元を増やしてみようかという衝動に駆られる。n次元に抽象化された「フェルマーの最終定理」が問題提起されたのは17世紀。オイラーは3次元に憑かれ、ワイルズによって解決されたのはほんの1994年のこと。既に2500年もの歴史がある。
しかしながら、ピタゴラスが最初の発見者ではない。少なくとも千年前にバビロニア人は知っていたし、中国人も知っていたと推測されている。インドにも証明の痕跡が見つかっているそうな。エジプト人も知っていたかもしれない。でないと、あれほどの精度でピラミッドを作るのは難しいはず。となると、実に4000年も遡ることに...
紀元前1800年頃のメソポタミア文明の遺跡は、一辺を 1 とする正方形の対角線の値 √2 のかなり高い精度の近似値を得ていたことを示しているという。「YBC7289(イエール大学のバビロニア・コレクション銘板番号7289)」には、傾いた正方形に2本の対角線の図形が描かれ、d = a√2 の関係を60進法の楔形文字で刻まれているとか。中国最古の数学書「周髀算経」にも、柱と影の長さに関する記述があるという。三辺(3, 4, 5)の説明図とともに。古代ギリシア人のお好きな「グノーモン」ってやつか。やはり人間は、自分の影を引きずりながら生きる運命にあるようだ...

結局のところ、数学とは思考の産物であろうか?自然の産物であろうか?人間とは独立した存在だとすれば、その記述は人間のご都合主義によって編み出されることになる。
ゲーテ曰く、「数学者に何を言っても、彼らは自分自身の言葉に書き換える。そしてそれは直ちに何かまったく違ったものになる。」
数学そのものが信仰や哲学から派生したものであっても、やがて純粋客観へ近づこうとする。ヒルベルトの時代になると、すべての現象は数学で完全に説明できるかに見えた。しかし、不完全性定理の登場で人間の野望は打ち砕かれ、哲学に引き戻された感がある。著者エリ・マオールはこう語る。
「私が考えるには、数学の本質は、型を探し、構成と規則性を探し、一見何の関係もないように見えるものの間の関係を探すこと、現実的であろうと抽象的であろうと問題ではない。この意味で芸術とまったく同質である。とくに音楽に近い。音楽では、ある主題の型、リズムの型が繰り返し繰り返し現れるが、それと同じように、ある代数式が数学のいろいろな分野で繰り返し現れる。」

1. ピタゴラス教団
若きピタゴラスが老師タレスに学んだ可能性は十分に考えられる。ただ、数学が極めて宗教に近い時代、いや占いの類いか。ピタゴラス学派は「万物は数である」という信仰を崇め、古代ギリシア哲学には数を幾何的に記述する伝統が育まれた。プラトンのアカデメイアの門には、「幾何学に精通せざる者、我が門に入るべからず!」と刻まれる。
さて、ピタゴラスの発見に音響学に関するものがある。弦の長さを半分にすると1オクターブ高い音が生じ、元の音と調和することに気づくと、和音の理論が構築された。音楽が数の法則に従うとすれば、宇宙もまた数に支配されると考える。天体運動を数学で説明できれば、天空の音楽理論が構築できる。彼らの数への執念が整数論を育んできた。調和平均、調和級数、調和関数なども、ピタゴラス思想の継承を感じる。
しかしながら、妥協のない数至上主義は、狂信的ですらある。対称美や調和を崇めるあまりに、物理学の進化を妨げた。天文学はあまりにも真円を崇めたために、現実世界が見えなかった。ピタゴラス学派は五芒星形の美しさに魅せられて紋章とし、古代ギリシア人はすべての算術を幾何的操作に頼る。積は面積で代替でき、平方根は対角線で代替できる。言い換えれば、作図不能な算術はできないことになる。ユークリッド原論もこの原則に従う。アルキメデスのような現実主義者は、あまり重要視されなかったのだろう。完全を崇めれば、不完全が見えなくなる。プラトン立体の美しさに憑かれ、やはり人間は美人に目がない。
ところが、聖なる正方形の対角線に √2 という無理数が存在すると知ると、整数にこそ理性の存在を認めていたピタゴラス学派を動揺させた。彼らは秘密主義を誓うが、ヒッパソスが世間に暴露しようとすると仲間たちに船から放り出された、という逸話が伝えられる。やはり、宇宙は... 社会は... 人間は... 適度に不完全とする方が健全なようである。

2. ピタゴラスの亡霊たち
ピタゴラスの定理の源泉を遡れば、バビロニア、中国、インドなど、実に多くの地で見かけることができる。しかし、ピタゴラスが一際輝いているのは、厳密な証明が残されるからであろう。ここに客観性の威力を魅せつける。
ちなみに、イライシャ・スコット・ルーミスという人が、著作「ピタゴラスの命題」で371個もの証明法を分類しているという。数学界では、あまり知られていない人物らしい。大まかに代数的証明と幾何的証明の二つに分け、さらに、四元数的証明と力学的証明に分けているとか。四元数とは、何のことはない。複素数(i)を三次元(i, j, k)に拡張した概念で、その特徴は乗法の交換法則が成り立たないこと。ハミルトンによって提唱されたが、今ではベクトル空間で抽象化される。非可換という性質が、物理現象を扱う上で都合がいいのだ。
さて、ピタゴラスの定理は、無限や微積分といった概念とも結びついてきた。無限級数といえば、リーマンのゼータ関数を思い浮かべる。

  ζ(x) = Σ(1/ns)

オイラーは、ζ(2) = π2/6 に収束すると宣言した。いわゆる、バーゼル問題である。無限和がある数に収束する上に、πという無理数が絡むところに神秘がある。だが、最初に無限積で表す公式を編み出したのは、16世紀のフランソワ・ヴィエトという人だそうな。

  2/π = Π xn, (1 ≦ n < ∞)
  ただし、x1 = √(1/2), xn+1 = √{(1 + xn)/2 }

本書は、これを導出する過程で、円周上を移動する直角三角形の頂点との関係を示してくれる。ピタゴラスの定理は、真円上で振る舞うと周期性と相性がいい。平方根は周期性と調和させるための概念、とするのは言い過ぎだろうか...

また、点(x1, x2)と、点(y1, y2)の間の線分の長さ s はこうなる。

  s = √{(x1 - x2)2 + (y1 - y2)2}

そして、ピタゴラスの定理の微分版がこれだ。

  ds2 = dx2 + dy2

さらに、対数螺旋やサイクロイドとも相性がよく、ちょいと座標系の視点を変えて、半径 r と角度θの関係からも規定できる。

  ds = √{(dr)2 + (rdθ)2}

双曲線正弦(ハイボリックサイン)や双曲線余弦(ハイボリックコサイン)など、実に多くの曲線で応用できる。ユークリッド言論、VI31(第VI巻、命題31)には、こう記されるという。
「任意の直角三角形において、二つの辺の上に立てられた円の面積の和は外接円の面積に等しい。」
つまり、直角三角形の辺の上に立てる図形は、正方形である必要はないということだ。相似形にさえなれば、多角形でも、円でも、それ以外の任意の図形でもいい。図における、面積Aa, Ab, Ac の関係は、こうなる。

  Aa + Ab = Ac






「ヒポクラテスの月」と呼ばれる図形も、ピタゴラスの亡霊に憑かれている(下図)。中心O、半径OA(= OB)の円の4半分OABにおいて、ABを直径とする半円を描くと、外側に三日月の領域ができる。そして、その面積は三角形AOBと同じになる。円周率と関係しそうな面積が、二等辺直角三角形で代替できるとは...




ピタゴラスが周期性に囚われると、平方根 √1, √2, √3,... もまた螺旋状に幽閉される(下図)。





3. ピタゴラスと相対性理論
三次元座標系の原点にある光源から球面波が放出され、光速 c で伝播して時間 t 後に点(x, y, z)へ達するとすると、

 x2 + y2 + z2 = c2t2

これは、観測者が点(x, y, z)にいる場合で、別の観測者が一定の速度 v で動きながら点(x', y', z')にいるとすると、空間次元 + 時間の座標系において以下の関係がある。

  x2 + y2 + z2 - c2t2 = x'2 + y'2 + z'2 - c2t'2

ここで注意すべきは、c にはダッシュがつかないこと。光速はどんな観測系でも一定だから。相対性理論は、なんといってもローレンツ変換が基本!座標系(x, y, z, t)と座標系(x', y', z', t')への変換はこうなる。

  x' = (x - vt)/√(1 - v2/c2)
  y' = y
  z' = z
  t' = (t - (v/c2)x)/√(1 - v2/c2)

ここで、√(1 - v2/c2) は特殊相対性理論の中核をなしている。アインシュタインの有名な公式は、E = mc2 の形で知られるが、実はこうなるわけだ。

  E = {m/√(1 - v2/c2)}c2

4. ピタゴラスの3数
ピタゴラスの3数とは、直角三角形の三辺が(3, 4, 5)になるような整数の組のこと。二つの整数(u, v)において、u > v で、 u と v が互いに素(共通因数を持たない)で、偶奇が逆である時、整数 a, b, c において、

  a = 2uv, b = u2 - v2, c = u2 + v2

が成り立つならば、既約なピタゴラス3数をなす。
また、二つの平方数の和にも不思議な関係があることを紹介してくれる。二つの平方数の和とは、こういうもの。

  2 = 12 + 12, 5 = 12 + 22

そして、次の定理が成り立つという。
「正の整数 a が二つの平方数の和となるのは、a ≡ 3 (mod 4) でないときだけである。すなわち、a を 4 で割った時のあまりが 3 にならないときだけである。」
もっとも、これが与えられるのは、1つの数が二つの平方数の和であるための必要条件で、十分条件ではないとしているが。
3 という数に何か意味があるのか?それとも、mod 4 の方に意味があるのか?必要十分条件の方は、こうなるという。
「ある整数 a が二つの平方和であるための必要十分条件は、a の素因数分解の中に 3 に mod 4 で合同な素数が偶数回登場することである。」
そして、完全平方数が二つの平方数の和である時、ピタゴラスの3数(a, b, c)が得られるという。

2014-06-15

"天秤の魔術師 アルキメデスの数学 " 林栄治, 斎藤憲 著

前記事「解読! アルキメデス写本」では、歴史の面から数学の醍醐味を味わった。今宵は、もう少し専門的に突っ込んで、アルキメデスの考え方や意図といったものを味わうことにしよう。ギリシア数学は、一般的に命題と証明という形で書かれ、その代表に「ユークリッド原論」がある。証明に至った思考プロセスについては、ほとんど触れられないために、数学は無味乾燥な学問とされがちである。
ところが、アルキメデスの著作の中でも「方法」だけは異質で、思考プロセスが記述されるという。彼の著作群が残される写本は、ヨハン・ルーズヴィー・ハイベアによってA写本、B写本、C写本と名付けられ、9世紀から11世紀頃、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)のコンスタンティノープルで作成されたとされる。A写本とB写本は、古くから発見され、ルネサンス期の巨匠たちの目にも触れたようである。
一方、C写本が発見されたのは、1906年と新しい。おまけに、一度行方不明になりながら、1998年クリスティーズのオークションに再出現したという謎めいた経緯がある。アルキメデスの「パリンプセスト」と呼ばれるが、あくまでも中身は再利用された祈祷書であって、C写本は上書きされた中に埋もれていた。そのために当初、貴重なものとは見なされなかったようである。著作「方法」は、このC写本にのみ記載されるという。本書は、この「方法」の解説を中心に据えながら、アルキメデスの思考原理がニュートンやライプニッツより二千年も先んじていた可能性を匂わせてくれる。

人間の叡智は、いかに無駄なプロセスを辿ってきたことか。その多くは宗教戦争や政治紛争の類いで抹殺されてきた。古代知識の宝庫であったアレクサンドリア図書館は何度焼かれたことか。あるいは、結論だけ知っていても、それを存分に使いこなせなければ、無駄な知識に終わる。知識とは、なんらかの目的や欲望から生じるものであろう。それを編み出す過程の奥に秘められた哲学を学ぶことは、知識を深遠なものにするとともに、応用力を高めることになる。
しかしながら、発見や思考のプロセスが疎かにされるのは、いつの時代も同じ。現在とて、管理職にある者は結果ばかりを求め、目先の解決策を示さなければ発想力がないと愚痴を垂れる。人の考えを発展させて自分で具体化しようとしないとなれば、どちらが発想力がないのやら?人は皆、面倒臭さがり屋よ。近道をしようとすれば、却って遠回りをする。しかも、そのことに気づかなければ幸せになれるという寸法よ。それでも、いつも道草ばかりで、はしご酒する酔っ払いよりはマシか。
それはさておき、アルキメデスが既知の理論の発見法を残してくれるのは、学問に対する姿勢が伺える。研究者の中には、この時代、純粋に真理を探求するのではなく、相手を蹴落とすために論理武装し、成果を最大限に見せることにしのぎを削っていた、とする意見もあるらしい。今もあまり変わらんような...
肝心な箇所の記述が欠落していることが、「アルキメデス意地悪説」をくすぶらせる。「方法」の序文には、挑戦的な一文があるという。
「アレクサンドリアにいる君たちや将来の学者に、私の方法を利用するだけの能力がありますかな。」
これは、皮肉であろうか?あるいは、次世代の研究者に託した言葉であろうか?

注目したい思考法は、比例関係を重視していることである。ギリシア数学の理論体系は、面積や体積を表す公式を導くことではなく、既知の身近な図形との比較によって大きさの関係を明らかにすることだった。実際、ユークリッド原論やアルキメデスの著作の中に、三角形の面積が底辺掛ける高さ割る2、などというお馴染みの公式を見つけることはできない。せいぜい、平行四辺形は三角形の2倍、といった定理を見つけることぐらい。そこで、相似形や等積定理といった概念が鍵となる。
最も重要な概念は、図形の切り口とその総和の関係を、つり合いの原理に持ち込んでいることである。細かく刻んだ図形を足し合わせとして眺めれば、自ずと重心が計測でき、物事の関係が見えてくる。本書は、この思考法を「仮想天秤」と呼んでいる。面積の切り口は直線となり、体積の切り口は面となり、アルキメデスは次元を落とす術を知っていたことになる。次元という意識があったかどうかは知らんが、おそらく比を問うことで代替しているのだろう。積分的思考とは、総和という思考で代替できる統計的観測というわけだ。
「方法」の対象では、放物線、楕円、双曲線といった円錐曲線の議論を避けることはできない。やはり、基本図形は三角形であろうか。もっと言うなら、底辺と高さの関係、すなわち対象までの距離の考察である。三角形の一辺を軸に回転させれば円錐ができる。いきなり命題1には、放物線の回転体と円錐の関係が示される。
「放物線のすべての切片は、同じ底辺と等しい高さをもつ三角形を3分の1だけ超過する。」
ところで、物理学にはモーメントってやつがある。支点からの距離と重さの積で表される物理量だ。モーメントの和が支点の左右で等しくなれば、物体はつり合うと考えることができる。対して、アルキメデスが利用しているのは、距離と重さの逆比例関係であり、まさに天秤の原理だ。立体の重さの比を、天秤の支点との距離という直線の比で測る。つまり、求積問題が、一次関数の問題に置き換えられている。なんと、導関数という概念を自然に取り入れているではないか。重心を求めることが、回転体の体積比を求めることになるという寸法よ。なんでも吊るしちゃえ!なんでも回転させちゃえ!という思考実験こそが、アルキメデスの思考原理であろうか...

1. 「方法」という表題
「方法」と呼ばれるのは、ハイベアが校訂版を出版する時、ラテン語のタイトルを「Methodus」としたからだそうな。ギリシア語の「メトドス」に由来し、英語の method に相当。ギリシア語写本の表題は「エフォドス」というらしい。どちらも「道」を意味する「ホドス」に前置詞がついた語だという。ただ、微妙なニュアンスの違いがあって、エフォドスは、アプローチ、入り口、攻略といった意味があって、メトドスは、体系的方法という意味があるとか。デカルトの「方法序説」を真似て、体系的方法を好んだ時代でもあろうか。
しかも、エフォドスという語は、標題にあるだけで、本文中には一度も出てこないという。アルキメデスは、「トロポス」という語を使っているそうな。英語では、way と訳される。なるほど、「方法」というより、「やり方」あるいは「道」と言った方がよさそうである。現代風に言えば、攻略本といったところであろうか...

2. アルキメデスの比例論、いや、つり合い論
「方法」の導入部は、序文と、その後に続く11個の補助定理で構成されるという。その記述は、重心とつり合いの関係がかなり意識されていることが伺える。
例えば、円錐や円柱や角柱といった図形の重心と中点の関係を述べたり、二つの量に対して合計の重心と各々単独の重心の関係を述べたり、任意の個数の重心が同一直線上にあるならば、合計量の重心も同一直線上にあるとしたり... 複数の比例関係から対応する項の和をとっても比例関係が成り立つ条件を述べるという形で、記述が始まる。
そして、最初の命題1には、アルキメデスの基本的な思考が表れている。まず、放物線の切片ABGをとる(下図)。AGは、必ずしも軸に垂直である必要はない。Gにおける接線GZを引き、Aを通って放物線の軸DEに平行な直線AZを引く。そして、AG間の任意の点Cを通って軸DEに平行な直線COMを引く。




すると、以下の比例関係が成り立つという。

  CM : CO = AG : AC

この関係は直観的に想像できる。アルキメデスはこの証明のために以下の図形を設定しているという。放物線の性質より、DB = BE となる。直線GBを延長して、GK = KQ となるようなQをとる。そして、三角形AGZと、三角形ABGのつり合い関係を観察する。
「放物線の切片ABGを点Qに移すと、もとの位置に残した三角形GZAと点Kに関してつり合う。」




3. 球の切片
命題2で現れる球の体積は、アルキメデスが最も誇りをもった成果であろうか。というのも、墓に刻まれた。

  V = (4/3)πr3

アルキメデスは、これを二つの表現で示しているという。
「球は、その大円を底面としその半径を高さにもつ円錐の4倍である。」
「球の外接円柱は、この球の1倍半に等しい。」
内接円錐、半球、外接円柱の体積比を眺めるだけで、アルキメデスがこれらの図形に魅了された気持ちが分かる。

  円錐 : 半球 : 円柱 = 1 : 2 : 3

さて、おいらを魅了するのは命題7の方だ。この法則を眺めるだけで、本書に出会った甲斐があるというもの...
命題7の主張は、こうだ。
「球の半径r、切片の軸をh、切り取られた切片の軸をh'とすると、球の切片ABDは、これに内接する円錐ABDに対して、次のような比例関係を満たす。」

  切片ABD : 円錐ABD = (r + h') : h'




直観的にはもっともらしいが、ほんまかいな???
これを積分法で計算してみる。球の切片軸上の任意の点Sにおいて切断する(下図)。




この時、円の方程式は中心点O(r, 0) において、

  (x - r)2 + y2 = r2
  y2 = 2rx -x2

切断面の面積S(x)は、

  S(x) = π(2rx - x2)

切片ABDの体積Vは、

  V = ∫S(x)dx
    = π∫(2rx - x2)dx = (1/3)πh2(3r - h), ただし、(0 ≦ x ≦ h)

次に、内接円錐ABDの体積をV'、底辺の半径をRとすると、

  R2 = 2rh - h2

であるから、

  V' = (1/3)πR2h = (1/3)πh2(2r - h)

よって、

  V : V' = (1/3)πh2(3r - h) : (1/3)πh2(2r - h)
         = (3r - h) : (2r - h)

さらに、2r - h = h' だから、

  V : V' = (r + h') : h'

なるほど、安心して眠れそうだ!

4. 爪形と交差円柱
アルキメデスが扱った図形で、もう一つ興味深いものがある。しかも、主役のような扱い。
正方形を底面とする角柱とこれに内接する円柱において、下底面の直径と上底面の一辺を通る斜めの平面で円柱を切断すると、半円、半楕円、円柱の側面に囲まれた爪形図形が切り取られる。




アルキメデスの主張はこうだ。
「爪形の体積は、外接する四角柱の6分の1に等しい。」
なぜ、こんなヘンテコな図形に憑かれたのだろうか?この図の摩訶不思議なところは、縦にスライスすると、直角二等辺三角形が大きさを変えながら移動することだ。つまり、縦横の比が常に同じということ。その求積手順は、まず命題12と13で仮想天秤によって決定され、命題14では天秤を利用せず、無限個の平面の切り口から同じ結果を得て、ようやく命題15で外接図形と内接図形の関係から厳密な証明が与えられる。命題14には、無限小という概念が用いられ、それを正当化しようとする工夫が見られるという。ただし、欠落部分が多いとか。んー、残念!

命題12では爪形と半円柱のつり合いが、命題13では半円柱と三角柱のつり合いが論じられる。垂直にスライスしながら、三角形の集合体として捉えて重心を求めるといった具合に。この際スライス方向は、平行だろうが垂直だろうが、どっちでもよかろう。思考法の問題なのだから。
さらに、本書は球との関係を指摘している。この関係は、今まで見落とされてきたと指摘している。
「爪形と球は、同じ相対質量分布をもつ。」
また、命題14では、「不可分者」という用語を用いて解説される。この用語は、17世紀、カヴァリエーリが名づけたものだそうで、著作「不可分者による連続体の幾何学」で使った言葉だという。ここでは、三角形の面積を求める時、底辺に平行な直線で上から下までスライスするようなイメージで、直線の比を議論の対象とする。無限分割の連続体として捉えている。
では、無限個の切り口を、どうやって足し合わせたのか?アルキメデスの求積の議論では、体積や面積をいくら細分化したところで質量のある物理的イメージは残される。
ところが、命題14だけは、厚みや幅のない切り口によって思考される。2001年に明らかになったことは、なんと無限個の切片に対して「個数が等しい」という言葉を用いているとか。そのために、古代ギリシア数学において、実無限という概念を使用していたという可能性が注目されているという。二次元の面積を、直線の比という1次元関数に置き換え、三次元の体積を、三角形の比という2次関数に置き換えているとすれば、被積分関数を変形して積分するというイメージが出来上がっている。
しかしながら、補助定理では有限個の項に適用され、無限個の項に利用するのには、ちと無理がありそうだ。アルキメデスが、無限を正当化しようとした努力は想像できても、厳密な水準に達しているとは言い難いようである。命題14の意義は、つり合いの原理だけでは、無限個の項を扱うことに限界を感じたということであろうか?
では、なぜ、ここだけ都合よく情報が欠落しているのか?わざとか?序文の皮肉が甦る。

また、命題15で紹介される思考法は、ちと抵抗がある。というのも、あの忌々しいε-δ論法に映るからだ。そのイメージは、三角柱P、爪形Uとすると、次の三つのパターンで最初の二つが矛盾し、3つ目が成り立たざるを得ない、という具合に議論される。

  U > (2/3)P, U < (2/3)P, U = (2/3)P

本書は、これを「二重帰謬法」と呼んでいる。残念ながら、命題15も途中で終わっているらしい。既知の情報から比較関係によって迫ろうとする思考法は、解けない微分方程式の前で大小関係によって迫る考えにも似ている。おいらを数学の落ちこぼれにした野郎だが、その幾何学版にも映るわけだ。
さらに、球、交差円柱、爪形の共通性へと議論が進む。そこで、ちょいと三つの図形を重ねて描いてみると...




爪形の図形は円柱からも描けるし、交差円柱の交差する部分の球からも描ける。爪形の図形とは、差分の考察に用いようとしたのだろうか?残念ながら、交差円柱の証明も失われているそうな。

2014-06-08

"解読! アルキメデス写本" William Noel & Reviel Netz 著

TED.comを散歩していると、ウィリアム・ノエルという人物の講演を見かけた。それは、アルキメデスの写本に関するもの。アルキメデスの偉大な著作群は辛うじて三つの写本によって伝えられ、学術的に、A写本、B写本、C写本と呼ばれる。A写本とB写本は、ダ・ヴィンチやガリレオといったルネサンス時代の巨匠たちの目にも触れたようである。
しかし、この二冊は姿を消した。B写本は、1311年ローマ北のヴィテルボ市の教皇図書館で確認されたっきり、A写本は、1564年イタリアのとある人文主義者の蔵書として記載されていたのが最後だそうな。
そして、歴史の舞台に新たに登場したのが、C写本。1906年ヨハン・ルーズヴィー・ハイベアによって見出された。アルキメデスの「パリンプセスト」と呼ばれるヤツだ。ハイベアという名はユークリッドの「原論」でも見かけたが、ギリシア数学のほとんどの文献を校訂した人物。1988年、ニューヨークでクリスティーズの競売にかけられ時には、ハイベアがほぼ解読済で新たな発見はないだろうと目されていたようである。220万ドルで落札した匿名の人物は、引退しつつあるIT長者で「ミスター・B」という名で紹介される。ちなみに、ビル・ゲイツではないらしい。なぜかホッ!
早々、ウォルターズ美術館の学芸員ノエルが代理人を通じて接触すると、この大富豪も学術調査を依頼するつもりだったらしく、大乗り気だったという。しかも、惜しみなく資金を提供したとか。多くの偉大な著作が、政治的思惑や宗教的活動によって抹殺されてきたというのに、歴史の役割をよく心得た方の手元に渡るのは幸運この上ない。
ノエルは、まずスタンフォード大学のギリシア数学研究者リヴィエル・ネッツを迎え、世界中から様々な分野の専門家を動員し、解読プロジェクトを結成する。だが、20世紀の研究者たちは薬品を使いまくり、既に状態は最悪。21世紀の光学技術、情報工学、画像処理アルゴリズムなどを駆使することに。本書は、プロジェクトの視点からノエルが、数学の視点からネッツが、章ごとに交互に綴る冒険物語である。一つの目的のために結集する様子は、これぞプロ集団!ボランティアの真髄を感じずにはいられない...

尚、アルキメデスのパリンプセストについては、一年前にも記事にした。斎藤憲著「よみがえる天才アルキメデス」で。立ち読みしていると、飄々とした文面と妙に波長が合い、つい買ってしまったことを覚えている。本書でもケンと呼ばれ、当代きっての数学史家の一人として紹介される。これほどの権威者だったとは知らなんだ。改めて座り直し、心して読み直さなければ...
そもそも、世界中のギリシア数学研究者は20数人ぐらいしかいないそうな。業界で認められた人物という意味であろうが。この分野では、現代西洋語はもちろんギリシア語やラテン語といった古代語まで造詣の深さが求められる。おまけに、歴史の意義を知り、数学の専門知識を要するとなれば、数が絞られるのも当然であろう。斎藤氏は本書の解説も手がけており、照れくさそうに語る文面が、またいい...

さて、アルキメデスの功績は枚挙にいとまがない。
まずは、重心の意義について綴ってみよう...
長らく古代人たちを悩ませてきた問題に、重力の謎がある。地上の物体が地面に落ちるのに、星々は落ちてこない。それどころか、天空で永遠に円軌道を描いてやがる。大地には、何か隠れ住んでいるヤツがいて、落ちるものを選りすぐっているとでも?哲学は大地と対話し、天文学は天空に問いかけ、数学は神の仕業を説明する道具とされた。
しかしながら、アルキメデスの数学は異質だ。神の仕業を問うどころか、人間の実用的な道具とした。アルキメデスがシラクサの戦いで用いた投石機は、ローマ軍の度肝を抜いた。投石機の原理はもっと古くからあったが、ローマ軍が面食らったのは、正確な照準と射程調整にあったという。まさに応用数学の威力というわけだ。人間が地上で実用的な科学をもたらすには、重力と対話しなければならない。アルキメデスの功績の中心は、重力をめぐってのものと言ってもいいだろう。
そこで、三角形の重心が基本的な思考を組み立てる。あらゆる図形は、三角形で分割できる。曲線も、底辺と高さという属性を持った丸みと捉えれば、永遠に三角形で埋め尽くせる。そして、一つの三角形の重心が求まれば、これらの総和によってどんな図形でも、重力と釣り合う点が得られるという寸法よ。ここには造船技術の基礎がある。有限総和の思考こそが無限数学の扉を開き、無限数学こそが実世界を記述する応用数学へと導く。
さらに、円錐の意義についても綴ってみよう...
円錐に魔力を感じる人も少なくないだろう。一点から全世界を見下ろす、神の視界のようなものを感じないではない。ここにはすべての世界が内包されている。切り口次第で、真円にも、楕円にも、放物線にもなり、円も、円柱も、球もすべて円錐からの派生形という見方ができよう。やはり、宇宙は曲率に支配されているようだ。アルキメデスもまた、この魔力に憑かれた一人だったに違いない。その証拠に、あらゆる曲線を含んだ図形の求積を試みている。アルキメデス以前の数学者たちは、あまりに真円を崇め過ぎたために実世界を記述することが苦手だった。だが、世界はちょっと歪んでいるとした方が人間には居心地がよい。アルキメデスは、数学を信仰から解放し、科学の道を切り開いた、究極の現実主義者と言えるかもしれない。円周率をπなどと理想化するより、3.1415... とした方がずっと現実的なのだ。
それにしても、科学や数学の偉大な古典が、科学の光学技術と数学のアルゴリズムで甦るとは。アルゴリズムとは、コンピューティングによって定式化した算法を繰り返して解を求めることであり、まさにアルキメデスのやった可能な限り三角形を詰めて近似するのと同じ思考法だ。アルキメデスの知識もまたアルキメデスの知識によって甦る。すべては、アルキメデスによって仕組まれていたのだろうか。人類は、自ら編み出した謎掛けを自ら解き明かすような、いわば、自己循環の宿命を背負わされているのだろうか...

1. 失われてきた偉大な書群
アテネ大主教の弟ニキタス・ホニアテスは、1204年に起きた大虐殺の光景を書き残しているという。エルサレム解放へ向かうはずの第4回十字軍は、その使命を忘れ、栄華を誇る都市コンスタンティノープルを襲った。聖地パレスチナへ向かうはずだったが、問題はどうやってエジプトへ渡るか?船団はヴェネチア総督が用意したが、十字軍は資金不足。ヴェネチアのために属領を略奪したり、行きがかり上コンスタンティノープルのカトリック教への改宗を約束したりで、余計な残虐行為に及ぶ。コンスタンティヌス帝によって築かれた町は、古代知識の最後の砦であったのだが...
こうした光景は、女性数学者ヒュパティアの運命を思い浮かべる。映画「アレクサンドリア」の主人公だ。アレクサンドリア図書館といえば、古代知識の中心。彼女もまたアルキメデスの知識に触れる幸運に恵まれたことだろう。しかし415年、八つ裂きにされた。彼女の書き記した知識は、現代人の目に触れることはできない。ギリシアの叡智は、ローマ・カトリックにとって異教徒の知識。その古典の多くは不適切とされた。
とはいえ、修辞学のためのホメロスや幾何学のためのユークリッドなどの価値は認めた。アルキメデスの数学は実践的な科学であって、神を記述しようとしたものではない。そのために興味も薄かったのだろう。写字生たちはキリスト教典を書き写すのに大忙し。満遍なく古典を書き写したのが、唯一コンスタンティノープルだったという。
真の価値を見出せる権威者が一人いると、その時代は救われる。アルキメデスの知識がどういう経緯で生き残ってきたかは分からない。A写本とB写本は、ヴァチカンに流れ着く。ダ・ヴィンチもガリレオも、はるか昔、自分を超えた数学者がいたことに驚かされたことだろう。
一方、パリンプセストが発見された地は、、コンスタンティノープル(現イスタンブール)の修道院だった。ただ誤解がないように、こいつは祈祷書だ。なんの祈祷書かは、この際どうでもええ。尚、パリンプセストとは、ギリシア語のpalin(再び)と、psan(こする)から派生した語だという。文字を上書きするために羊皮の表面が削られ、何度も再利用される。当時、パピルスよりも長持ちする山羊皮紙が用いられる。現在でも、長期間残したい証明書や表彰状などは、羊皮紙が使われることがあると聞く。アルキメデスの知識を見るということは、この祈祷書の下に眠るインクを叩き起こすということである。
ちなみに、羊皮紙は、小アジアのペルガモンで発明されたと言われている。国王エウメネス2世がアレクサンドリアに比肩する図書館を作ろうとしたために、紀元前2世紀の初め、プトレマイオス朝はエジプトからのパピルスの輸出を禁止したという。辛うじて、山羊皮によって偉大な知識が伝播されたということらしい。
そして、結果的に一個人の手元へ渡ることに。ノエルは、落札者の考えを代弁している。
「アルキメデスのパリンプセストが落札されたとき、写本が個人の所有物に返ることに憤慨する研究者もいた。しかし、アルキメデスが公のものとして価値があるなら、公の学術研究機関が競り落としたはずだ。そこまでの価値があるとは見なされなかったのである。公の機関は実際に競売で落札された額よりも低い価格を提示し、弾かれた。それが恥ずべきことだと考える人は、あまんじて恥を受け入れるほかない。わたしたちは価値を金額で量る世界に暮らしている。世界的遺産の行く末を案じて政治的にどうこう言いたいのなら、申し訳ないがそれなりの金を出すつもりでどうぞ、というわけだ。」

2. アルキメデスの人物像
古代における第二次ポエニ戦争は、現代における第二次世界大戦になぞらえられる。科学の進化は、皮肉にも歴史に深い傷跡を残してきた。第二次大戦でアインシュタインの科学が原爆を生んだように、第二次ポエニ戦争ではアルキメデスの応用数学が強力な兵器を生んだ、という見方もできるかもしれない。一時、ハンニバルがローマを征服したかに見えたが、ローマは危機を乗り越え、終戦時には地中海全体を制圧する。シラクサの戦いではアルキメデスの知識が活躍するものの、カルタゴと手を結んだために陥落し、ギリシアの都市国家群は自治を奪われる。アルキメデスは、そんな時代を生きた。
さて、アルキメデスという名は非常に珍しく、しかも、奇妙なほど相応しい名だという。ギリシャ語で、原理、規則、最高を意味する「arche (アルケー)」と、知性、英知、機知を意味する「medos(メードス)」からなる。似たような系統に、デイオメデスという名もあるらしい。「dio(ディオ)」はゼウスの異形だとか。
アルキメデスの人物像は、著作「螺旋について」の序文に顕れるという。その序文は数学者仲間ドシテオスに宛てた手紙になっているとか。しかも、アレクサンドリア図書館宛てに、わざと間違った定理を送っているらしい。そのことから、本書は、温厚な人柄でもなければ生真面目でもなく、いたずら好きで狡猾だったと評している。糞真面目な科学者らしくないというわけだ。
しかし、シラクサはアレクサンドリアから見ればド田舎。研究者の熱意は、孤独と矜持によって支えられるところがある。あるいは、少しぐらい妬みもあったかもしれない。なによりも、科学では子供心が大切だ。これを狡猾と言うのはどうだろうか?
また、著作のなかで、エウドクソスに二度の賛辞を送っているという。エウドクソスを最も偉大な先達と考えていたようだ。ユークリッドの方は主に基礎数学を扱っていたので、それほど高く評価していなかったようである。アルキメデスの哲学には、実践してなんぼ... というのがあるのかもしれん。

3. 史上初の組合せ論?
アルキメデスの遊び心がよく顕れている著作といえば、「ストマキオン」であろう。ストマキオンとは腹痛の意味で、腹が痛くなるほど難しい問題というわけだ。彼は、このパズルで何をしようとしたのか?
本書の解釈はこうだ。決められた十四片で何通りの正方形が作れるかを計算しようとしたのではないか。つまり、人類史上初の「組み合せ論」というわけである。組み合わせという概念は、直感的に分かりやすいが、要素数がちょっと増えるだけで指数関数的にパターンが増える。しかも答えを求める近道があまりない。確率論の先駆けという見方もできそうか。しかし、数字の組み合わせだけならまだしも、図形の組み合わせとなると反転や回転といった作用まで加わり、極端に複雑化する。そして、群論的な思考が求められる。実際、この組み合わせは、17,152通りにもなるという。
「ニュートン科学はきまじめだ。アルキメデスの科学はちがう。アルキメデスは、引っかけや謎掛けやまわり道で知られていた。これは表面的な論述の特徴ではなく、アルキメデス自身の科学的な個性を表している。科学は... 数学は... 人間味のない無味乾燥なものではない。想像力を自由にめぐらせることのできる場だ。アルキメデスも想像力をめぐらせて、ストマキオンと呼ばれる子供の遊びを思いついた。ストマキオンとは、"腹痛"の意味で、十四片を並べ換えて正方形にするタングラム(知恵の板)を言う。アルキメデスは、このパズルにどんな数学が隠されているだろうと考えた。」
同じく遊び心を誘うものに、ホメロス著「オデュッセイア」に因んだ「ヘリオスの牛の問題」がある。オデュッセウスの部下たちは、ヘリオス神に捧げられたトリナキエ島に上陸する。彼らは、オデュッセウスの忠告を聞かず、ヘリオスの牛を殺して七日間も派手に食いまくったために、恐ろしい罰を受ける。この島は昔からシケリア島とされ、ちょっかいをかけない方がいいという警告の物語にも作り換えられたとか。
ちなみに、現在のシチリア島はマフィアの町というイメージがあるが、映画の見過ぎであろうか?
それはさておき、アルキメデスは、計算問題に詩を綴る。黒、白、黄、まだらの四つの群れを、それぞれ牡牛と牝牛に分け、8つの未知数からなる7つの方程式と、2つの追加方程式からなる算術問題をこしらえた。最小の解でも、20万桁を超える。無限数学を思考できるほどの知識があれば、組合せ論ぐらい編み出すことができるかもしれんが...

4. 異質な「方法」の命題14
「方法」の序文には、挑戦的な言葉が綴られるという。
「偉大な数学者のあなたなら、わたしの方法に真の評価をくだせるでしょう...」
ギリシア数学は、厳密性を崇めるがゆえに、パラドックスを避け、無限の落とし穴までも避けてきた。そもそも無理数を忌み嫌う。円周率が無理数だというのに。
本書は、数を好きなだけ大きくしたり小さくしたりすることを「可能無限」と呼び、実無限と区別している。無限の抽象化は、ガリレオやニュートンらによって進められた。だが、代償もある。無限にはパラドックスがつきもの。数学は、強力にはなったが、昔ほど厳密ではなくなった。
古代ギリシア数学は、都合のよい範囲で、無限と戯れていたと考えられてきた。命題1から13には無限個の線分の足しあわせが記述されるが、物理イメージできるような実世界的な思考が見られる。
対して、命題14は違うようである。物理学との組み合わせに頼るのではなく、無限和だけを拠り所にしているという。純粋数学だけで無限を扱っているらしい。尚、ハイベアは命題14を解読できなかったという。
命題14では、円柱の切片の体積を求めようとしている。その図形は奇妙な爪形をしている。正方形を底面とする角柱とこれに内接する円柱において、下底面の直径と上底面の一辺を通る斜めの平面で円柱を切断する。すると、その切片は、半円、半楕円、円柱の側面に囲まれた爪形に切り取られる。しかも、この問題を一般化して、あらゆる平行六面体に当てはめているという。


ここで紹介される思考方法は、実に興味深い。まず、立方体の垂直面に平行な任意の平面を考え、この爪形の図形に対して、縦にスライスする。まるでCTスキャンのように。そして、任意の切り口でスライスした平面を足し合わせるという考え方だ。結論は、円柱の切片の体積が、それを囲む立法体の 1/6 になるとしている。どうやって、この結論に達したのだろうか?ただの直感であろうか?
爪形の図形を縦にスライスすると、底辺と高さが連続に変化していく三角形の集合となる。この様子を上から眺めると、放物線、すなわち半円の内接する長方形を横切る線分でスキャンするように見える。三角形の断面は、点かだんだん大きくなり円柱の高さまでくると、そこをピークにしてだんだん小さくなって点に戻る。ここで重要となるのが、スライスされた三角形と、垂直に長方形上をスキャンする線分との比だ。アルキメデスは、こう書いているという。
「三角柱の三角形の面積が円柱の三角形に対するように、長方形の線分は放物線の線分に対する。」
なんと、二次元図形の比が一次元図形の比と同じになるという比例関係を述べているではないか!これは、幾何学的な直角を数学的な直交性に応用していると解釈するのは、行き過ぎであろうか?何かの正体を知ろうとすれば、その構成要素を探る。分解とは、解析学の基本思考であり、近代数学は直交性を重視する。直交性とは、幾何学の直角を代数学で抽象化した概念だ。例えば、フーリエ変換は正弦波と余弦波の直交性を利用して、現象の成分を分解しようとする。こうした直交性を持った成分によって限りなく分解しようとする試みは、微積分学とすこぶる相性がいい。
さらに、こう書いているという。
「三角柱の体積が円柱の切片の体積に対するように、長方形全体の面積は放物線の切片全体の面積に対する。」
つまり、三次元の図形同士の比が二次元の図形同士の比と同じになると言っている。これは、放物線の求積に対する拡張版という見方もできそうだ。
ところで、科学界の有名な醜い功績争いの一つに、ニュートンとライプニッツによる微積分学をめぐってのものがある。彼らはアルキメデスの「方法」に触れることはできなかった。ここにアルキメデスが割って入れば、二人を黙らせたかもしれん。いくらなんでも二千年前の功績にケチはつけられまい...

2014-06-01

"不思議宇宙のトムキンス" George Gamow, Russell Stannard 著

懐かしやトムキンス!物理学を専攻した者で、トムキンス冒険物語の存在を知らぬ者はいないだろう。たとえ読んだことがなくても... 定常宇宙説と膨張宇宙説の論争が旺盛な時代、物理学者ジョージ・ガモフは、時空の歪曲や膨張宇宙といった難解な物語を、初心者向けに書き下ろした。近年、この手の科学啓蒙書は当たり前のように書かれ、おいらも学生時代、ブルーバックス教の信者であった。しかし、その先駆者の存在感は衰えるどころか、むしろ輝きを増してやがる。
本書は、ラッセル・スタナードによる新版で、時代に即してオリジナル版からかなり改訂されている。尚、主人公C.G.H.トムキンスは物理学に興味を持つ平凡な銀行員、イニシャルは光速c, 重力g, プランク定数hに由来する。

さて、相対性理論に触れると、最初にぶつかる疑問がこれであろうか。すべての運動が相対的と言っておきながら、光速だけは絶対速度とは、これいかに?やはり神は存在するのか?なぁーに、心配はいらない!光速が不変ならば、時間や空間の方を可変にすればいい。神だって、ご都合主義よ。
人間は、3次元 + 時間という認識空間を生きている。だが、時間次元だけは明らかに異質だ。こいつだけは逆戻りできない。これを説明するために、アインシュタインは時間と空間を区別しない時空という概念を持ちだした。時間と空間は光速に対して数学的に対称性がある、ということにすれば、双方を入れ替えても物理法則が成り立つという寸法よ。そもそも時間が一定などというのは疑わしい。心地よい事は瞬く間に過ぎ去るくせに、忌わしい事はいつまでも居座ってやがる。死に際には走馬灯を見ると言うではないか。時計なんぞで一定に刻まれるとするから、時間依存症で苛む。
人間が何かを認識するには、なんらかの比較の対象を必要とし、その対象を一時的にスタックする機能が求められる。格納された情報は前後関係で結びつけられ、情報を取り出す順番が時の流れを作る。これが記憶のメカニズムだ。人間ってやつは、事象をなんらかの関係で結び付けないと、思考することすらできない。つまり、時間なんてものは、関係によってもたらされる概念であって、認識の産物に過ぎないとでもしておこうか。物事を時系列で秩序立てると、自己存在の瞬間が確認できて、心が落ち着くわけだ。ならば、何も認識しなければ、人間は自然物のままでいられるのか?と問うても、そんなことは知らん。ただ言えることは、質量を持つものはみな、相対性に幽閉された存在だということぐらいであろうか...

まさに、ニュートン力学は質量を持った物体を対象とする。この世界においては、空間と時間は完全に独立した物理量で定義され、すべての運動は時間の関数で記述される。つまり、あらゆる現象は連続性で説明できるという仕掛けだ。対して、量子力学では質量ゼロの素粒子が登場しやがる。光子やら電子やらがそれで、宇宙空間を自由に飛び回ることができる。電子が気の毒なのは、原子核に縛られることである。いや、M性が病みつきになって、自ら自由を放棄したのかもしれん。もともと自由電子と呼ばれたはずだが...
量子の存在は統計的にしか扱えない。不確定性原理は、位置と運動量といった同時に二つの物理量を決定できないという制約を課す。光が絶対速度で決定されるなら、光子の位置ぐらい決定できそうなものだが、そうもいかないらしい。素粒子などと呼んでいるが、本当に粒子なのか?質量もなければ、まるで霊感のような存在。人体が量子で構成されるからには、霊感の強いヤツがいても不思議はあるまい。
また、アインシュタインのあの有名な公式は、エネルギーと質量の等価性を示している。つまり、無から物質を作ることはできないが、エネルギーからは物質を作ることができると言っているのだ。おまけに、エネルギー状態への移行は、プランク定数の定義で離散的にしか行えないことになっている。つまり、宇宙空間のどこでも、何かが突然湧いて出るかもしれないと言っているのだ。物心がつくとは、そんな状態であろうか?実存観念の本質とは、物質よりもエネルギーの方にあるのかもしれん...

1. 同時性の問題
特殊相対性理論は、一様で一定の運動をする系における、時間と空間の関係を論じている。すなわち、等速運動を唱えている。一般相対性理論は、これに重力の作用を加えて抽象度をあげている。すなわち、重力場と加速度運動との等価性を唱えている。重力場とは、空間が曲がっていることの物理的現れであり、その曲率は光線の曲がり具合を観察すればいい。絶対速度が歪めば、時間も歪む。つまり、二点における時間差は、双方の重力ポテンシャルの差で決まることになる。太陽表面上の出来事は、重力ポテンシャルの違いにより、地球表面上よりもゆっくりと進行するだろう。象さんのように体重が大きくて動作が鈍そうに見えても、時間の長さは同じように感じているのかもしれん。
さて、絶対速度が存在するとは、何を意味するだろうか?光速を超えられないとすれば、宇宙現象の同時性なんぞに意味がないということか?少なくとも時間に幽閉された生命体には、そんな気がする。そもそも運動しているかどうかなど、どうでもいいのでは?いくら生に意義を求めてもいずれ無に帰するし、どんなに足掻いても絶対静止には敵わんよ。しかし、生に意義を求めなければ、人生なんて退屈でしょうがない。なるほど、暇つぶしに意義を与えるとは、絶対速度恐るべし!
宇宙年齢が計測できるのも、絶対速度のおかげである。ビッグバン宇宙論が正しければ、絶対速度を物差しとしながら宇宙の果てから届く光を観測すればいい。観測するということは、認識するということ。もし、完全な同時性が成立すれば、宇宙年齡どころか、自分の年齡すら認識できないかもしれない。
しかし、同時性が成立すれば、後悔せずに済みそうな気もする。何事を知るにも、直接経験しない限り、事後報告によってもたらされるのだから。実際、人間社会では既成事実を作った者が勝つ。事実よりも風説流布の方が、はるかに波動エネルギーは巨大だ。光速を絶対速度に崇めれば、それが神となりうるだろうか?いや、いつも一緒だよ!なんて神の前で誓っても当てにはならない。人間社会にとって、絶対的な同時性なんてものは邪魔な存在かもしれん。あるいは、同時性という自由を放棄したからこそ、認識能力というものが成り立つのかもしれん。

2. マクスウェルの魔物
第一種永久機関は、外部からエネルギーを受けることなく、仕事を外部に取り出す機関で、エネルギー保存則に矛盾して実現できないとされる。
一方、第二種永久機関は、何もないところからエネルギーを取り出すのではなく、大地や海や大気といった周囲の熱源からエネルギーを取り出すので、理論的にはイケそうな気もしなくはない。例えば、石油や石炭を燃やす代わりに、水から熱を取り出すといったことが。とはいえ、冷たいものから熱いものへ自然に熱が移動するのも考えにくい。案の定、量子力学は、確率が思いっきり低いというだけで、不可能とまでは言わない。それが、マクスウェルの悪魔ってやつだ。本書は「魔物」と呼んでいるが、物語にはこちらの方がしっくりくる。
個々の分子を観察すると、中にはすばしこいヤツがいる。運動方向を自在に変えられるような。熱力学の第二法則、すなわちエントロピーの法則に逆らうようなヤツが、原子や分子レベルで確率的に存在する可能性がないと言い切れるか?という問題提起である。この魔物にかかれば、瞬間的に熱を移動させ、平坦なところにも温度勾配を作ることだってできるかもしれない。宇宙が138億年も存在してきたなら、そんな現象が一度ぐらいあっても不思議ではあるまい。
なるほど、市場原理は、しばしばエントロピーの呪縛を破って、ブラックホールに吸収される。魔物を見たければ、メフィストフェレスがうようよしてそうな人間社会を観察すればよかろう。そういえば、目の前のウィスキーがいつの間にか無くなっている。突然、魔物が蒸発熱を発したからに違いない。

3. M性な電子たち
「偉大なる建築家ニールス・ボーアが建立(こんりゅう)された美しき原子構造の内部には、さまざまな量子部屋がありましてな、遊び好きの電子たちをそれぞれの部屋に正しく住まわせておくことがわたしの務めというわけです。秩序と規律を保つために、同じ軌道には二つの電子しか飛ぶことを許しておりません。三角関係はトラブルのもとですからな。おたがいに逆のスピンをするもの同士がカップルになっているのがおわかりでしょう。性格が正反対の夫婦のようなものですな。部屋がそうしたカップルで占められてしまえば、第三者の乱入は許されません。これは良くできたルールでして、破られたことはただの一度もありません。電子たちも、これが健全なルールだということはわかってくれているのです。」
良くできたルールかもしれんが、自由を謳歌したい者には甚だ迷惑!一般的に、電子殻にはエネルギー準位の低い方から、K殻, L殻, M殻, ... という居場所が用意されている。ナトリウム原子の価電子となったからには、運命を受け入れるしかない。ナトリウム原子核は、電子を11個抱えており、そこに塩素原子が近づくと、M殻に空きを見つけて穴を埋める。そう、心の隙間を埋めるのだ。電子が不足して原子核がカッカしてくれば、マイナスイオンのひとときを差し上げますわ!って。M性同士がM殻で同居するとは、よくできたものよ。
しかも、パウリの排他原理によって、一つの軌道に同じスピン状態の電子が同居できないときた。M性のくせしやがって、独占欲だけは強い。原子核が負担になる余分な電子を抱えれば、移り気が激しく精神が不安定となる。電子はいつも安定社会への引っ越しを求め、数千個に及ぶ原子が結合したりする。中にはDNAってヤツも居て、昔の思い出に縋りながら必至に忘れまいと、二重螺旋構造というバックアップ機構まで具えてやがる。男性諸君もまた女王様を囲む電子のような存在よ。どうりで、簡単には楕円軌道から逃れられないわけだ。だが、心配はいらない。強烈なオーラを放射する小悪魔が近づけば、簡単にスピンアウトできる。ただ、結婚は恐ろしい!と経験者は愚痴っている。法律という紙切れ一つで、生涯の軌道が運命づけると聞いた。
ところで、電子の寿命は永遠ではないらしい。突然消滅したり。物質とは、役目を終えれば果敢ないものよ。光子にしても光を伝え終えれば消滅する。電子の死は、衝突によって生じるという。問題は衝突の激しさではなく、衝突する相手だ。負電荷を持つ者同士であれば問題ないが、中には正電荷を持つヤツがいる。陽電子ってやつだ。ポジトロンなんてニックネームがあるが、まったくポジティブに見えない。普段は粒子として振る舞いながら、電子と出会った途端に「対消滅」を起こす。無理心中か!同じ電子同士だと思って油断していると、えらい目にあう。合体でもしようものなら身の破滅よ。

4. 素粒子はどこまで素粒子なのか?
物質はこれ以上分割できない基本要素から構成されるという考え方は、古代ギリシアの哲学者デモクリトスまで遡る。atomには、ギリシア語で「分割できないもの」という意味がある。また、物理学では、同じ原子構造を持ちながらアイソトープ(同位体)で区別する。原子核における陽子の数が同じでも、中性子の数が違えば質量も違ってくるので、もっともな見方である。
「中性子だけで置いておくと、たしかに不安定なんじゃがの。原子核内にきっちりと詰め込んで周囲を他の粒子で固めておけば、きゃつらもずいぶん安定するんじゃよ。それもまあ、原子核内の陽子の数にくらべて中性子の数が多すぎなければの話じゃが。もしそうなると、中性子は余分な塗料をマイナス電荷の電子として原子核外に放出して陽子に変わってしまうんじゃ。同様に、陽子の数が多すぎる場合には、陽子は余分な塗料をプラス電荷の電子として放出し、中性子に変わってしまう。こうした調節を、わしらはベータ崩壊と呼んどるんじゃがの。ベータというのはこうした放射性崩壊によって放出される電子につけられた古い呼び名じゃ。」
宇宙は広大なのだから、なにも原子核なんてちっぽけな住まいに、ひしめき合わなくてもいいのに。質量あるものは、満員電車を好むらしい。
さらに、陽子や中性子を構成する物質にクォークが発見されると、アイソスピンという回転の仕方で種別される。本当にスピンしているのかも疑わしいが、物理的にスピンしているような性質を持っているということであろうか。少なくとも、量子状態として見ることはできそうである。この状態を「フレーバー(香り)」と呼び、アップ、ダウン、ストレンジ、チャーム、トップ、ボトムの6種類で区別される。なぜ香り(flavor)と言うかは知らんが、気配のようなものであろうか?霊感のような...
ただ、すべてに物質が、クォークからできているわけではない。クォークからできているのは重粒子と中間子で、ハドロンと呼ばれるやつ。ハドロンは強い核力を感じるが、軽粒子と呼ばれるレプトンは感じないという。レプトンもスピンの仕方で種別される。
ところで、スピンのパターンには、驚くべき対称性の法則がある。
「自然界にはSU(3)の対称性が成り立っている」
数学には、対称性を観察するのに、群論という便利な道具がある。中でも角運動量にピッタリなのが、ユニタリってやつだ。数学オンチは、こいつで随分と悩まされてきたのだが...
SU(Special Unitary)群とはユニタリ群の部分群で、(3)とは3回転対称性を表す。つまり、±1/3(120度)、±2/3(240度)、±1(360度)で同じ状態になることを意味する。そして、アップクォーク(u)とダウンクォーク(d)で構成される陽子は(u, u, d)、中性子は(u, d, d)と表記される。スピン状態が離散的であるのは、電子軌道が離散的であるのと同様に、プランクエネルギーの介在を想像させる。もっと言うと、スピン状態の離散性が、量子コンピュータの記憶素子としての可能性を匂わせるわけだ。ただ、状態遷移ではかなりのエネルギーを消費するだろう。量子の世界では、なにかと「ポテンシャル障壁」と呼ばれるエネルギー障壁がつきまとう。
また、人間の対称性への思いは、留まるところを知らない。粒子には必ず対となる反粒子が存在するとされる。質量とスピンを同じとし、電荷を逆転させて存在を相殺させるわけだ。粒子と反粒子が衝突すれば、エネルギー保存則に矛盾なく、丸く収まるという寸法よ。こんな仕掛けで、質量の存在を説明できるのかは知らん。確かに、反粒子だけ消滅すれば、質量が残りそうな気がするが、反粒子の方が残るってことはないのか?いや、あるだろう。人間の認識空間に見当たらないだけで。いずれにせよ、素粒子レベルともなると、スピンの仕方の違いだけで物質の存在を抽象化できてしまう。
さらに、話題が超ひも理論にまで及ぶと、物質の存在は単なる振動でしかないってか。いくら人間の個性や人間社会の多様性を強調したとこで、しょぼい存在よ。人間ってやつは、ヒモという背後霊に憑かれた存在というだけのことかもしれん。社会がヒモになり、組織がヒモになり、家族がヒモになるとなれば、女のヒモになるのを夢見る男性諸君で溢れてやがる...

2014-05-25

"銀河の世界" Edwin Powell Hubble 著

物理学を支えてきた研究者には、二つの相補的な資質がある。それは、理論派と観測派(実験派)だ。科学文献では、理論が主役で観測データは付録のように静かに掲載されるのが、一般的であろうか。エドウィン・ハッブルは自ら観測派に属すと語り、少々悔しさを滲ませる。
しかしながら、双方の資質を厳密に区別することは難しい。理論的な推測なくして、適格な観測は成し得ないのだから。実際、ハッブルは観測による標本収集というアプローチから、銀河の距離と遠ざかる速度の法則を導いた。銀河の放射する赤方偏移は近似的な距離の線形関数である、などという法則性を見抜く眼力こそが秘められた資質と言えよう。
本書は、その立場から理論説明よりもデータ解析が主に置かれる。局部銀河群では、M31、M32、NGC205、M33、NGC6822、IC1613 などの詳細データが紹介され... 書籍版プラネタリウムとでもしておこうか。そして、銀河の分布や構造を論じながら、島宇宙仮説と膨張宇宙説の証拠をつきつける。また、宇宙定数についても言及される。アインシュタインは、せっかく編み出した美しい宇宙方程式に自己の思想観念を埋め込んだために、人生最大の失敗!と言わしめた。権威者が自分の過ちを素直に認めることは難しい。健全な懐疑主義こそが、科学に最も求められる資質であろう。そして、啓発された利己主義ってのも付け加えておこうか...

どんなに理論が優れていようとも、見たまんま!というほど説得力のあるものはあるまい。だが、観測の命は精度にあり、宇宙規模にまで及べば誤差との戦いが宿命づけられる。
研究者たちの精度のこだわりや、道具を駆使する技術的発想は、どこからくるのだろうか?理論家の中には、狂信者のレッテルを貼られたまま世を去った者も少なくない。観測者の中には、結果的に無駄に終わる実験に憑かれて人柱となった者も少なくない。人間自身を知ろうとする執念が、そうさせるのか?まずは、自己存在を強烈に意識させる自己の棲家を知ることだ。
ゲーテは言った、制約の中にのみ巨匠の技が露になると。宇宙の距離梯子は、科学者たちの思考梯子として受け継がれる。観測技術は進化し、信憑性のあるデータは確実に増えていく。もし、ニュートンが今を生きていたら、どんな法則を発見してくれるだろうか?ジョージ・サートンは、こう書いたという。
「現代の聖人は、千年前の聖人より神々しい必要がない。現代の芸術家は、ギリシャ初期の芸術家ほどに偉大である必要もない。実際彼らは劣っていそうだ。そしてもちろん、科学者は昔の科学者より知性的である必要はない。しかし一つだけ確かなことは、科学者の知識は次第により広範になり、同時に正確になっていくということだ。確実な知識の取得と体系化は、人間のみが行える行動で、真に蓄積的で日々進歩するものである。」

ところで、単位系ってやつには、その学問分野の哲学がさりげなく顕れるものだと思う。天文学では、視差(parallax)の観点から生まれた「パーセク」という単位がある。やはり、距離測定の基本は三角法にあろう。比較的近い天体は、地球上の二点による視差や、年周視差によって算出できる。なんといっても、天文学の基礎は掃天観測にあり、統計学と誤差関数の欠かせない世界。この単位だけで、ガリレオから受け継がれる望遠鏡のロマンを感じる。
やがて、遠方の恒星では、光のスペクトルから距離を算出する方法が編み出された。だいたいにおいて恒星は太陽型のスペクトルをもっており、そこに絶対等級との関係が定式化されると、見かけの明るさが距離の二乗に反比例するという法則が利用できる。
さらに遠方の銀河では、セファイド変光星を利用して距離を算出する方法が編み出された。周期的に光度が変化し、宇宙の灯台と呼ばれるやつだ。周期が長いほど明るいという性質が判明すると、周期と絶対等級の関係が定式化され、見かけの明るさと比較しながら距離を推定することができる。
ハッブルの法則は、こうした観測過程から生まれた。彼の主な功績は、ハッブル分類を提唱したこと、セファイド変光星を発見して銀河の距離を測定したこと、そして、銀河の距離と赤方偏移の関係を定式化して宇宙膨張を示したことである。確かに、ここに示される観測データは時代的に古く、銀河までの距離が2倍から5倍ほど短めに示される。だが、宇宙の成り立ちの大枠が変更されたわけではない。本書がその醍醐味を最もよく伝えているのは、理論的な結論よりも観測データから生じる思考過程を大切にしていることである。忘れかけていた技術魂を思い出させてくれるような...

1. ハッブル分類
銀河の大部分は「規則銀河」と呼ばれ、共通パターンは明るい中心核に対して回転対称性を示すこと。対して、「不規則銀河」の方は、数%程度しか存在しないという。そして、規則銀河の構造的特徴を「楕円銀河」,「正常渦巻銀河」,「棒渦巻銀河」の三つに分類する。
とはいえ、見かけの話で、その基準は像の形や明るさの勾配のみ。円に見える銀河だって、本当は球になっているかもしれないし、扁平な銀河なのかもしれない。
まず、扁平率の小さいものから大きなものへと並べ、楕円銀河を左側に置いて右側で二種類の渦巻銀河に分離する。楕円銀河は左から、E0, E1, E2, ... で表され、二種類の渦巻銀河の分岐点は、S0 で表され、続いて、正常渦巻銀河、Sa, Sb, Sc、棒渦巻銀河、SBa, SBb, SBc が配置される。この系列は、銀河の成長過程を示していることが、すぐに想像できる。収縮による回転速度の増加により、扁平率が高くなることが、考慮されているのだろう。その意識は、「初期型」「晩期型」という用語に顕れている。
正常渦巻銀河は、中心核が小さいほど腕がはっきりし、渦巻腕は開いて、しまいには中心核が分からなくなるほど小さくなる。棒渦巻銀河は、外側の領域に同心円上の輪と、中心核の端から端を貫く棒を持つレンズ状の形をしている。ギリシア文字のθのような。そして、中心領域が小さくなるとともに、渦巻きが発達し、星の分布も中心核に集まり、しまいにはS字型となる。二つの渦巻銀河は、最終的に中心領域が小さくなり合流するかのように見える。
不規則銀河にしても、その典型とされるマゼラン銀河などは、晩成型の渦巻銀河に似ているという。そのために、規則銀河の最終段階と見られることもあると。推測の域を出ていないとしながらも。
本質的な現象は、回転対称性を持たないことよりも、中心核がないことの方かもしれない。中心核がないから必然的に回転対称性が持てない、という見方もできそうだから。
「銀河の形の研究は、銀河が強い関係を持った単一の種族を構成しているという結論を導いた。それらは限られた領域に沿って系統的に変化する基本的なパターンを形づくっている。銀河は、形についての規則的な系列を自然に作り、その性質は系列上の標準銀河に縮約される。」
恒星の構造にしても、規模の違いはあれど、太陽型スペクトルでほぼ近似できるようだし、宇宙における物質のあり方は、それほど多様ではないということか。これが自然の摂理というものか。恒星が一度天体を形成すると、ほとんど衝突せず、銀河の重力体系の一員として振る舞う。衝突しなければ、熱エネルギーも極度に減少することはない。この奇跡の調和力は、ダークマターの仕業であろうか?いや、ダースベイダーの野郎に違いない...

2. 銀河の分布
天の川銀河の吸収、散乱物質による見かけの分布を議論している様子は圧巻!当初、銀河が天の川銀河を避けるように分布することが、研究者を悩ませてきたという。仮想的な万有反発力を唱えた研究者もいたとか。
ハッブルは、銀河面に集中して吸収、散乱物質が存在し、低銀緯ほど視界が悪くなることを指摘している。暗黒星雲は、天の川の帯に沿って分布し、天の川銀河の中心核方向に多くあるという。そして、吸収、散乱物質には二種類あるとしている。一つは、暗黒星雲中の塵によるもの。塵による散乱は青い光を吸収し、星の色が全般的に赤く見える。二つは、銀河面に一様に広がる成分で、高温ガス中にある自由電子のトムソン散乱だと考えられている。高温ガスは、ほぼ一定の厚さで銀河円盤内に満ちている。したがって、天体の分布を考察するには、天の川銀河の吸収効果を補正する必要があるというわけだ。
また、小さな銀河の分布は不規則で、大きな銀河の分布は近似的に一様であるとしている。分布の勾配が見つからず、どの方向の観測領域でも、ほぼ同じであると。ただ、この時代では、銀河の規模も限定的とされ、銀河団までの言及はあるが、超銀河団の記述は見当たらない。

3. 銀河の距離
宇宙の距離梯子は、望遠鏡の進化の歴史を如実に物語っている。それは、見かけの明るさの標本集めから始まり、やがて、赤方偏移が距離の一次関数であることが定式化される。
1924年、ハッブルはアンドロメダ銀河の中に、セファイド変光星を発見した。当時、アンドロメダ星雲と呼ばれ、銀河が恒星の集団であるということが、あまり認知されていなかったようである。
さて、天文学には、「H.R(ヘルツシュプルング・ラッセル)図」で示されるように、光スペクトルと絶対等級に重要な関係がある。絶対等級が分かれば、見かけの明るさが距離の二乗に反比例することから算出できるという仕掛けだ。恒星の場合、恒星の発するスペクトルが分れば、絶対等級が推定できる。
対して、銀河の場合は、セファイド変光星の周期と光度の関係を利用する。セファイド変光星は、変光周期が長いほど絶対等級が明るいという性質を持っている。銀河の中にセファイド変光星が見つかれば、その絶対等級から距離が推定できるという仕掛けだ。
「セファイド変光星で距離が決められた銀河の中の最も明るい星は、その絶対光度は天の川銀河の内の最も明るい星と同程度であるという事実が、この結果に整合性をさらに与えている。」

4. 赤方偏移による速度と距離の校正
当然ながら、それぞれの銀河は質量も違えば、大きさも違うし、光度も違う。測定対象によって補正を加える必要がある。ハッブルの法則におけるハッブル定数が、その役割を果たす。本書では、赤方偏移による見かけの明るさを補正する事例が紹介される。
例えば、次式は見かけの等級 mc に対して、⊿m0 は赤方偏移の効果を表している。

  mc = m0 - ⊿m0

赤方偏移の効果は速度が速いほど増加するが、偏移が3000マイル/秒以上になるまでは重要でないとしている。
また、速度の対数 v と見かけの等級 mc の相関が、次式の形で考察される。

  log v = 0.2mc + 補正値

尚、補正値は、銀河や銀河団で値を変えている。速度は、赤方偏移に光速をかけたもの。そして、距離の対数 d の校正が次式で示される。ただし、Mは絶対等級。

  log d = 0.2(mc - M) + 1.513

しかし、このままでは、あまり抽象度を感じない。速度が生じるということは時間に関係するので、ハッブル定数を時間の関数とすれば、もっとシンプルに記述できるだろう。
無数の銀河が一様に分布しながら赤方偏移しているということは、膨張宇宙説の強力な裏付けとされる。速度が対数で表されるということは、指数関数的に遠ざかっていることを示している。天文学がいくら進化しても、宇宙の果てに追いつけそうな気がしない。そして、人間がやりがちな、膨張の中心はどこにあるのか?なんて議論も虚しく映る。
「天文学の歴史は地平線の後退の歴史である。」

2014-05-18

"ワープする宇宙" Lisa Randall 著

猛省す!
女性の物理学者というと、ちと懐疑的であった。知らず知らず偏見があったことに気づかされる。600ペーン超の分厚い重みは、物理学への熱い思いの顕れ。初心者にも配慮しながら数式を徹底的に排除する一方で、深い見識と文才を魅せつける。真理の探求に、理系やら、文系やら、といった枠組みになんの意味があろうか?と問うかのように...

古来、人類は重力の問題に悩まされてきた。自己存在をこれほど強烈に意識させる物理量が他にあろうか。しかしながら、人類はいまだ重力の正体を知らない。普通の感覚では、物体に力が働くということは、何らかの物質の影響を受けているからだと考えるだろう。古代ギリシアでは、なぜ天体に運動が生じるのか?と問えば、真空をめぐっての論争が繰り広げられた。アリストテレスの時代、物理運動はすべて物質の媒介によるものとされ、宇宙には何らかの物質が充満しているからこそ天体に運動が生じるとされた。そして、エーテル充満説として決着を見る。だが、ニュートンが万有引力を提示すると、マイケルソン・モーリーの実験を後ろ盾にして、エーテルの存在が否定された。
では、引力や重力の正体とは何か?
アインシュタインが、あの有名な公式によって質量とエネルギーの等価性を示すと、真空中においてもエネルギーを介して力の作用が生じるとされる。そして、重力の作用を時空の歪で図式化した。こうして、物質が直接接触しなければ力の影響を受けることはないという考えは捨てられ、真空の概念が定着した。哲学的な実存観念においても、質量よりもエネルギーの方が本質である可能性を匂わせたのだった。
さらに、近年の観測結果は新たな問題を突きつける。銀河が今の形を維持するためには、銀河に含まれる星々の総質量では不足しているというのだ。そして今、そのエネルギーの不足分を補っているとされる影の立役者の存在がささやかれている。そぅ、ダークマター(暗黒物質)ってやつだ。しかも、宇宙空間の至るところに暗躍するとされる。宇宙論は、エーテル充満説へ回帰しようとしているのか?
著者リサ・ランドールは、まさにこの問題に挑む。この物語は、余剰次元の歪曲(ワープ)という観点から説明を試みる、ある種の思考実験である。アインシュタインの公式は質量のマイナスを規定しない、なんてことはないだろう。質量がプラスの世界がたまたま有限宇宙とされ、至るところに質量がマイナスの無限宇宙が接触している、という可能性がないとは言えまい。そして、質量を持った知的生命体には、それが認識できないというだけのことかもしれん。もしかしたら、ユークリッド幾何学とは、神がこしらえた悪魔の棲家、または監獄の設計図なのかもしれん...

ところで、量子の世界では、質量ゼロが当たり前のように出現する。光子や電子といった素粒子は、質量を持たないからこそ宇宙の果てまで達することができる。質量が存在するから量子場の影響を受けて、自由運動が制限される。では、質量なんて奇妙な性質は、どこから生じるのだろうか?その原因を、場の量子論が唱える「対称性の破れ」、あるいは「超対称性の破れ」から説明してくれる。
「対称性は重要な要素だが、宇宙はふつう完璧な対称性をまず実現させない。わずかに不完全な対称性が、この世界を興味深い(しかし統制のとれた)ものにしている。」
質量ってやつは、宇宙法則における超常現象なのであろうか?
宇宙法則に完璧な対称性が成り立てば、質量なんて奇妙なものは存在できず、宇宙は平坦で無限でいられるのかもしれない。これが、不確定性原理が暗示していることであろうか?不確定性原理の不思議なところは、不確定となるまでは納得できても、不等号で示されることに不自然を感じる。量子力学では、ある特定の二つの物理量を同時に正確に測定することは不可能とされる。例えば、位置と運動量を測定する場合、先に位置を測定して後に運動量を測定した場合と、その逆では結果が違う。それでも、二つの物理量の曖昧さの積は、プランク定数系よりも大きくなるという符号の方向性だけは残る。
この方向性は何を意味するのだろうか?
観測とは人間が認識しようとする行為であり、純粋な物理現象に観測系が関与すれば時間という次元に幽閉される。質量を持つ物体が関与すれば、物理系は何らかの次元に幽閉されるということであろうか?宇宙の秩序を乱す唯一の要因が質量だとしたら、それを認識せずには生きられない人間は、神の嫌われ者かもしれん。だから、人間は神の気を引こうとして、知らず知らず悪魔になろうとしているのか?
また、あらゆる素粒子は、人間の認識できない余剰次元によって接触しあっている可能性を匂わせてくれる。あらゆる次元が接触しあうには、空間が歪曲している必要がある。というより、人間が勝手に歪曲していると感じているだけのことかもしれん。人間ってやつは、質量を基準にしなければ思考することもできず、おまけにユークリッド空間に幽閉されているときた。
そこで、次元の境界条件としてブレーンの概念を導入すると、思考を助けてくれる。ブレーンとは、膜のように閉じられた次元空間のようなもので、複雑な高次元の風景を眺めるにはうってつけのツールだ。宇宙空間を多層多面にスライスし、人間の住む3次元空間は一枚のブレーンに閉じられていると考える。量子の運動範囲が、ブレーンの境界条件によって決まるというわけだ。素粒子には、自由に通過できるブレーンが決まっている、という性質でもあるのだろうか?人間が認識できる3次元空間と接触できる素粒子にも制限があるとすれば、目の前にあっても気づかないだろう。素粒子物理学では、重要な仮想粒子にグラビトン(重力子)の存在がささやかれる。結局、物質が直接接触しなければ力の影響を受けることはないという考えからは、逃れられないのかもしれん...

1. 重力と階層性(ヒエラルキー)問題
解明されてない大きな問題は、重力ってやつが他の既知の力に比べて、なぜこんなにも小さいかということ。地球という大きな天体の持つ重力に逆らって、ちっぽけな人間は手を上下させたり、ジャンプすることができる。クリップだって磁石に吸い寄せられて浮き上がる。地球上の運動現象は、地球の全質量に逆らって運動できるわけだ。そのくせ太陽や月という膨大な重力とも、うまいこと均衡してやがる。
これをうまく説明できる思考法に「等価原理」がある。それは慣性質量と重力質量を同一視するもので、一般相対性理論の構築原理とされる。つまり、周囲のすべてが自由落下していれば重力場を感じることはない、加速系の中では重力が相殺される、という考え方。おかげで、地球上の生物は地球の自転を感じずに暮らせるという寸法よ。この原理に従えば、重力は等加速度と区別がつかない。だが、実ははっきりと区別がつく。重力が加速度と等価ならば、地球の裏で生じる反対側の加速度運動が説明できない。あらゆる方向に対する力の保存則が成り立たないとなれば、等価原理では局所的にしか加速度に置き換えられない。そこで、重力が二つの物体間に生じる力という考えを捨て、電磁気学のように場の概念を当てはめる。重力場として空間全体を眺めると、時空の歪で説明できるわけだ。
さらに、著者リサ・ランドール、ラマン・サンドラム、アンドレアス・カーチらの共同研究によると、余剰次元の概念を当てはめれば、空間のある領域では重力が強くても、他の領域では一様に弱くなるという。そして、驚くべき発見が紹介される。
これまで余剰次元は微小なものでなければならない、さもなければ目に見えないことが説明できないとされてきたが、なんと!空間の歪曲によって重力の弱さが説明できるだけでなく、余剰空間が曲がった時空の中で適切に歪曲していれば、その広がりは無限になる可能性があるという。有限宇宙は、高次元領域において無限宇宙だというのか?人間は3次元ポケットの住人に過ぎないというのか?... そうかもしれん。肉体とは、一時的に3次元空間に住むための宇宙スーツのようなものであろうか。
また、重力の問題は「ヒエラルキー問題」と関係し、相対性の力は富のトリクルダウン理論のようなものだという。トリクルダウン理論とは、政治家がよく口にする、富裕層に資金を流せば自然に貧困層にまで浸透するという経済理論だ。富の階層構造のように、エネルギーにも階層構造があるとすればイメージしやすい。階層性問題は、膨大なプランクスケール質量と低いウィークスケール質量の比から生じる。プランクスケールでは、長さ 10-35m に対して、プランクスケール質量(エネルギー)は 1019GeV。ウィークスケールでは、長さ 10-17m に対して、ウィークスケール質量(エネルギー)は 103GeV。つまり、エネルギーにおいて、16桁もの量子補正が必要ということだ。適切な補正を怠れば、資金が貧困層に到達する前に、金融危機というブラックホールに捕まるのも道理というものよ。三次元 + 時間という空間は、悪魔が捕まったブラックホールのようなものなのか?

2. 準結晶と余剰次元
準結晶とは、結晶でもなく、アモルファス(非晶質)でもない、第三の固体と言われる物質である。例えば、準結晶でコーティングされたフライパンは、熱を効果的に分散させて焦げ付かない。この不思議な構造は、余剰次元でしか解明されないという。普通の結晶は、原子や分子が対称的な格子状になって一定の基本配列を繰り返す。対して、準結晶は厳密な規則性が欠けているように見える。この不可解な配列を、高次元の結晶構造として捉え3次元に投射すると、対称性を持った秩序ある構造が見えてくるという。まさかフライパンに、こんな高度なテクノロジーが潜んでいたとは...
さて、人類にも進化過程で、1次元しか認識できない、2次元しか認識できない時代があったのだろう。そして、突然変異によって3次元が認識できるようになったのかは知らん。時間を加えれば、4次元空間。ダーウィンの自然淘汰説風に言えば、認識能力は生存競争において育まれてきた。アボット著「フラットランド」風に言えば、2次元空間の生命体には、3次元の物体が近づくと点からだんだ大きな円になっていき、やがて小さくなって点となって消えるように見える。人間が認識できる宇宙とは、そういう存在であろうか。人間社会で生じる危機的現象も突然出現するように見えて、実は、別の次元から近づいてくるだけのことかもかもしれない。自然災害にしても、金融危機にしても、戦争にしても... そして、地球外生命体は、目の前にある危機から避難しようとしない無謀な知的生命体を、地球という天体上に見つけ、滑稽に思っているのかもしれない。命が最も尊いと叫びながら他人を地獄に陥れ、自らも地獄へ向かう自虐な生命体と...
余剰次元とは、認識する必要のない、生活に支障のない次元ということはできるだろう。では、必要に迫られれば、いつの日か5次元空間が認識できるようになるのだろうか?人間社会は、仮想空間を夢想し続ける。その動機が現実逃避だとしても、仮想次元に慣らされていくうちに、もっと高次な認識が育まれるのかもしれない。3Dテレビのように表示システムの多次元化は、今後も進化を続けるだろう。そしてある日、突然変異を果たした高次元人類が出現するのかもしれない。未来社会では、21世紀という時代は認識次元が幼いために仮想貨幣や領土問題などに惑わされて、3次元空間争奪戦を繰り広げていたなどと嘲笑されるのだろうか?いや、所有をめぐって憤慨する性格は変えられそうにない。多次元空間争奪戦ともなれば、もっと凄いことになりそうだ。魂や霊感までも掌握されそうな... ちなみに、行付けの寿司屋の大将の口癖は... 心を握らせてもらいます!

3. 場の量子論と排他原理
素粒子は、固有スピンの性質の違いでボソンとフェルミオンに種別される。具体的には、スピン角運動量の大きさが換算プランク定数(ℏ)の整数倍か、半整数 (1/2, 3/2, 5/2, ...) 倍かの違い。ただし、回転して相互作用をする性質があるだけで、実際には回転していないそうな。実際の物理運動とは無関係に、量子力学上のスピンというものがあるらしい。
パウリの排他原理によれば、同じタイプのフェルミオンが同じ場所に存在することはできない。例えば、同じスピンを持つ電子同士が同じ場所にいられない。そのおかげで、原子は化学反応の基盤となる構造を保てる。対して、ボソンはパウリの排他原理に従わない。この二つの性質が、対称性の破れ、あるいは超対称性の破れの鍵となる。つまり、質量が生じる可能性である。
さて、最初に場の概念を持ち出しだのは、マイケル・ファラデー。そして、マクスウェルが、電荷と電流の分布から電磁場を記述する一連の方程式を導いた。あの有名な四つの一階微分方程式は、場の概念に波動性を結びつける。そのうち二つを組み合わせると、電場か磁場だけを含んだ二階微分方程式が導けるという特徴が、数学の美を醸し出す。
「場と遠隔作用には大きな概念上の違いがある。電磁気学の場の解釈にしたがえば、電荷が空間の別の領域にすぐさま影響を与えることはない。場は適応の時間を必要とする。運動中の電荷は、そのすぐ近くに場を生みだし、そこで生みだされた場が空間全体に広がっていく。物体が遠くの電荷の運動を知るのは、光がそこに届くまでの時間が経っているからである。したがって電場と磁場は、光の有限の速さが許すよりも速くは変わらない。空間のどの時点でも、場が適応を果たすのは、遠い電荷の効果がそこに達するための時間が経過してからである。」
光も電磁場を形成する。ゲージボソンとして最初に持ちだされたのが光子だが、ゲージという用語はなんのことはない。鉄道のレール間の距離を示す「軌間(ゲージ)」を意味し、光子の伝播のイメージと無理やり重ねたところからきているという。他のゲージボソンには、ウィークポゾンとグルーオンがあり、ウィークポゾンは弱い力を伝え、グルーオンは強い力を伝える。
量子電磁気学は、光子の受け渡しが、どのように電磁気力を生み出すかを予言する。二個の電子は、相互作用領域に入ってきて、光子を受け渡した後、伝えられた電磁気力によって定められた径路に進む。ファインマン図は、この相互作用する場を図式化し、図の各部分に数字を当てはめれば運動が記述できるという仕組み。入ってくる電子が光子を放出し、放出された光子が別の電子に向かって進み、電磁気力を伝え終えると消滅する。そして、電磁気力は電荷を帯びた対象に対して引力や斥力が働く。
素粒子というのは、物質というよりはある種のエネルギー状態で、量子場の励起状態と考える方がよさそうである。換言すると、量子場がなんらかの原因で基底状態を保てなくなり、量子固有の離散的な高エネルギーへ移行した状態とでもしておこうか。素粒子をまったく含まない真空では定常場しか生じないが、素粒子の存在する領域では隆起や振動の起こる場が生じる。これが波動性の正体というものか。しかも、電子や光子を生成、消滅させる場は、どこにでも存在するという。そうでないと、あらゆる相互作用が時空のどの点でも生じるようにならない。現実に、真空にもかかわらず電磁波が伝わる。
んー... エーテルを場と言い換えただけのような気もしなくはない。物質的ではないと言えば、そうなのだが。エネルギーの伝播だけで粒子の生成と消滅が説明できるとすれば、物質ってなんなんだ?単なる認識の産物ということか?認識もまた脳内の量子運動から生じ、認識の生成と消滅を繰り返す。量子場における粒子の生成と消滅は、まさに気移りや気まぐれのメカニズムか。しかも、その制御は確率論的ときた!

4. 弱い力と強い力
物理学者たちは、電磁力、強い力、弱い力、重力の四つの相互作用における統一理論を構築することを夢見てきた。現実世界を説明する上で鍵となるのが、弱い力だという。弱い力の効果を生じさせる素粒子はウィークボソン。それは、W+, W-, Z の三種類があって、Wはプラスとマイナスの電荷を帯び、Zは中性。弱い力は、ある種の核崩壊の要因であって、重い元素の生成に寄与するという。また、恒星が輝きを放つためにも不可欠だとか。水素をヘリウムに変える連鎖反応を引き起こし、宇宙を絶え間なく変化させることを手助けするそうな。
電磁気力と弱い力には、いくつか重要な違いがあるという。中でも奇妙なのが、弱い力は右と左を識別し、粒子とその鏡像が互いに異なる振る舞いをする。「パリティ対称性の破れ」というやつだ。パリティが保存されない分かりやすい例は、人体の心臓が左側にあるといったこと。そのメカニズムは、粒子が右回りと左回りのスピン方向を選ぶことによって生じる。
弱い力の作用を受けるのは、左回りの粒子だけだそうな。なんじゃそりゃ?中性子が崩壊する時に現れる電子は、常に左回りだとか。もしかして、左利きやら、左巻きやらも、弱い力の影響なのか?
弱い力の奇妙な特性を他にも紹介してくれる。なんと、ある種類の粒子を別の種類に変えてしまうんだとか。例えば、中性子とウィークポゾンが相互作用すると、陽子が現れることがあるという。光子はどんな種類の粒子と相互作用したところで、電荷を帯びた粒子の最終的な数は変わらない。対して、電荷を帯びたウィークポゾンが中性子や陽子と相互作用すると、単独の中性子が崩壊し、まったく別の粒子に変わる。
とはいえ、中性子と陽子は質量も電荷も違うので、電荷とエネルギーと運動量を保存するには、崩壊時に陽子だけでなく、電子とニュートリノを生成する。いわゆる、ベータ崩壊だ。
ウィークポゾンが質量を持つことが、弱い力の理論を成り立たせるという。ほんのわずかでも質量があれば、非常に短い距離でしか作用を及ばさず、距離が長くなると存在しないほど弱くなることが、物質の存在を可能にするというわけか。その点、光子やグラビトンは質量ゼロ。だから、永遠に力を伝えられる。
一方、強い力は、どんなに遠くても引きつけてしまい、クォークのような粒子が単独で発見されることはない。クォークを陽子と中性子の姿に結合させたり、クォークをジェットの中に閉じ込めたりできるほど強力。めいっぱい離れたクォークと反クォークは、膨大なエネルギーを蓄えることになるので、その間に別のクォークと反クォークを生み出す方が、エネルギー効率がいい。したがって、クォークと反クォークを引き離すと、真空から新たなペアのクォークと反クォークが生まれるという。ほんまかいな?新たな量子が生まれる前に、宇宙空間が消滅するってことはないのか?あるいは、宇宙が階層化されるとか?
尚、無質量粒子という概念は、素粒子物理学では当たり前のように使われる。粒子に質量がなければ、光速で伝播でき、むしろ、質量がゼロでないゲージボソンの方が特異とされるようだ。人間が安定社会を望んだり、官僚体質に陥りやすいのも、質量を持つ物質の特性からきているのだろうか?

5. フレーバー対称性とヒッグス場
対称性は、物理学や数学では美として崇められる神聖な原理だ。場の量子論では、あらゆる粒子の対となる反粒子が想定される。1個のマイナス電荷を持つ電子に対しては、1個のプラス電荷を持つ陽子では質量が大きすぎるので陽電子を置く。反粒子が時間を遡る粒子となることで、時間の非対称性を相殺することができる。対称性は、場の理論において欠かせない調整原理と言えよう。
ただ、素粒子物理学では、ちと違った対称性を考察する。「内部対称性」ってやつだ。内部対称性とは、空間的な対称性とは違い、完全に別個の物体でありながら、同じ物理法則で交換できるということ。ここでは異なる種類の粒子を関連づけ、かなり抽象的な対称変換を与えており、二つの粒子において電荷と質量が同じならば、同じ物理法則に従うと考える。これを記述するのが、「フレーバー対称性」だという。例えば、電子とミューオンは、電荷を帯びた二つのレプトンで電荷が同じ。質量はまったく違うけど。電子とミューオンは、フレーバー対称性に従って同じように振る舞うと考えるらしい。量子の世界では、質量に意味がないとでもいうのか?質量の抽象化とすれば、女性が喜びそうな原理だ。ただし、電子とミューオンはあまりにも質量が違っていて、厳密には同じようには振る舞わないらしいけど...
さて、量子の世界は、非対称性の世界を、いかに対称性の目で見るかという関係性を問う世界のようである。対して、現実世界は、あらゆる対称性の破れから生じるというわけか。自然界に完全な対称性しか存在しなければ、宇宙は存在しないのかもしれない。それこそ、神に御登場を願うこともない。悪魔が登場する舞台に、神がキャスティングされなければ、なんともしまらない。
本書は、質量を獲得するメカニズムとして「ヒッグス機構」を紹介してくれる。ヒッグス機構は、「自発的対称性の破れ」という現象に依存するという。
自発的対称性ってなんだ?ある夕食の席を考えてみよう。大勢が円卓を囲んで、それぞれの席の間に水の入ったグラスが置かれる。各人は右と左のどちらかのグラスをとる。この際、行儀作法はなしだ。一人が左のグラスをとれば、全員が左のグラスをとらなければ、行き渡らない。誰かがグラスを選んだ途端に、右回りか左回りかのスピンが決定されて、対称性が破れることになる。自発的とは、確率論のようなものか。神だってサイコロを振るらしい。なーんだギャンブル好きじゃん!しかも、質量があれば内部対称性を保存しないという。
では、肝心の質量はどこから生じるのか?
質量ゼロのゲージボソンの偏極は二つしかないが、質量のあるゲージボソンの偏極は三つあるという。質量ゼロのゲージボソンは、常に光速で進み、けして静止しない。したがって、運動方向も一つに決まるので、進行方向に垂直な方向意外の並行な偏極と区別できる。実際、物理的な偏極は垂直方向にしか振動しない。一方、質量のあるゲージボソンは、物体と同様に静止できる。そして、静止時に運動が一方向に定まらないという。これを「縦偏極」と呼んでいる。光が横波で音波が縦波だから、音波のような振動も混在するということか。もしかして、縦波と横波の違いが生じるのは、質量が関与するかどうかの違いなのか?
ヒッグス機構は、質量の問題を解決する唯一の方法とされるそうな。ヒッグス粒子が生じるのは、ヒッグス場においてのみ。ただ、ヒッグス機構という用語は多少ルーズなところがあって、様々なモデルが提唱されているらしい。簡単に言うと、「弱い力の対称性を自発的に破って素粒子に質量を与える」
ヒッグス場では、粒子が一切存在しないくせに非ゼロ値をとることができるという。素粒子の起源は、エネルギーが先か?質量が先か?と問えば、卵と鶏の関係に見えてくる。非ゼロ値の場が帯びている荷量は、現実の世界に存在するという。真空中にもウィーク荷の密度が観測されているそうな。非ゼロ値のヒッグス場は、ウィーク荷を宇宙の至る所に分布させているとか。クォークやレプトンがヒッグス場を通過する際、ウィーク荷と衝突することになるが、跳ね返される時に質量を獲得するという。
では、質量ゼロのゲージボソンが通過するとどうなるのだろうか?エネルギー条件によって確率的に質量を帯びる可能性があるというのか?光子が特別扱いされるのは、ウィーク荷を帯びた真空の場から影響を受けないからだという。光子は電磁気力を伝える粒子なので、電荷を帯びたものとしか相互作用しないから。光子は、ヒッグス場においても、完全に質量ゼロでいられる唯一のゲージボソンだそうな。

6. 超対称性とブレーンワールド
超対称性とは、ボソンとフェルミオンをも入れ替える対称変換である。とてもありそうもない組み合わせで、スーパーパートナーと呼んでいる。究極のスワップ関係か。あらゆる価値が、市場を介して貨幣換算されれば、すべてスワップ可能となる。量子場とは、市場のようなものか?
超対称性が存在するかもしれないという理由は、二つあるという。一つは、超ひもで、二つは、超対称性が階層性問題を解決する可能性があること。ひも理論を持ち出せば、究極の構成単位となり、すべてひもで変換できそうな気がしてくる。
とはいえ、超対称性だって破れの問題がつきまとう。ひも理論では、素粒子はひもの共振モードから生じると考え、振動の仕方は多種多様なために何種類もの粒子に見えるとされる。最初は一種類のひもを想定してきが、現在では何種類もあると考えられている。二次元のひもには、大きく二種類の運動がある。端が開いたものと、閉じたもの。超ひも理論がオリジナルよりも優れている点は、スピン1/2の粒子が含まれることで、電子やクォークのようなフェルミオンを記述できる可能性があるという。
超ひも理論の奇妙な特徴は、9次元 + 時間の10次元でしか意味をなさないことで、他の次元では存在してはならない共振モードが現れるという。発生確率がマイナスになるような。そして、余剰次元は認識できないほど微小に巻き上げられていると考える。このコンパクト化モデルに、「カラビ - ヤウ多様体」という数学のテクニックを紹介してくれる。カラビ - ヤウ多様体は超対称性を保存するという。数学では、多様体や多面体を扱う時、双対性という概念を用いる。ここでは、双対性の驚くべき例を紹介してくれる。なんと!10次元超ひも理論と11次元超重力理論が等しいというのだ。
「強く結合した超ひも理論と弱く結合した11次元の超重力理論との双対性により、強く相互作用する10次元超ひも理論のなかの知りたいことは、外面的にまったく異なる理論での計算をすることで、結果的に何でも計算できる。強く相互作用する10次元超ひも理論によって予言されることは、弱く相互作用する11次元超重力理論からすべて導き出せる。その逆も同じだ。」
エドワード・ウィッテンが提唱した「M理論」とは、11次元超重力理論を統一理論として抽象化しようとしたものらしい。しかしながら、双方には不可解な特徴がある。10次元超ひも理論にはひもが含まれているが、11次元超重力理論には含まれない。この謎は、ブレーンを使えば、すっきり説明できるというわけだが...
さらに、「隔離」という概念を持ち込んで、粒子は異なるブレーンに隔離されている可能性があるとしている。
「超対称性の破れの原因となる粒子が標準モデルの粒子から隔離されているモデルでは、粒子を別のフレーバーに変えてしまうような相互作用を導入せずに、超対称性を破ることができる。」
相互作用をするかどうかがブレーンで違うとすれば、カラビ - ヤウ多様体を持ち出すよりもイメージしやすい。しかも、ブレーンは超対称性を適当に保存しながら、たまーに破られるってか?
んー... 個人が認識できるブレーンの数も違いそうな気がしてきた。これが能力差というものか?運動能力には動体視力ってものがあるが、ボールが止まって見える!というのは本当かもしれん。肉体は現実ブレーンを生きるしかない。だが、魂はもうちょっと自由で天国ブレーンにも地獄ブレーンにも行けそうだ。天才たちは自由ブレーンを生き、凡庸な、いや凡庸未満の酔っ払いは監獄ブレーンに収容される... ってか。

2014-05-11

"宇宙創成(上/下)" Simon Singh 著

人類の知りたいという執念には驚くべきものがある。それは、自分自身を知るための旅だ。どこから来て、どこへ行くのか?これを問い続け、自己の棲家である宇宙の正体を知らずにはいられない。つまり、人類は自分が何者かも知らない。己を知る欲望こそ、科学の原動力である。古来、哲学者たちが夢見たことは、その数千年後、ポアンカレの語ったこの言葉で言い尽くされていよう。
「科学者が自然を研究するのは、それが役に立つからではない。科学者が自然を研究するのは、そのなかに喜びを感じるからであり、そこに喜びを感じるのはそれが美しいからである。もしも自然が美しくなかったなら、それは知るに値しないだろうし、もしも自然が知るに値しなかったら、命は生きるに値しなかったろう。もちろんここで私は五感を刺激する美、質と見かけの美について語っているのではない。そのような美の価値を低く見てはいない。それどころがそうした美を高く評価している。ただ、そのような美は、科学とは関係がないということだ。科学にかかわる美は、各部分が調和した秩序からもたらされ、純粋な知性によって把握されるような、より深い美なのである。」

世界中のあらゆる文化が、独自の宇宙創成モデルを作った。創造主という神話を。ビッグバンモデルが優れているのは、誰にでもイメージしやすいこと。案の定、カトリック教会は教義の後ろ盾とした。人間の客観性への憧れは、信仰への頑固さに劣らない。客観的に述べると宣言された有識者どもの主張が、客観的であったためしはない。無い物ねだりというやつか。アインシュタインは常識というものを激しく批判したという。「18歳までに身につけた偏見の寄せ集め」と...
慣習に培われた常識とやらに蝕まれていくと、やがて疑問すら持てなくなる。常識に囚われるということは、自発的な思考意欲を失ったと見るべきかもしれない。まずは自分が信じているお気に入りの仮定を捨ててみることだ。人間の思考において主観性が強いのは、自然の姿であろう。それを承知してこそ、思考結果を検証するための客観性の役割が見えてくる。物理学では、理論構築において論理思考が牽引し、実験結果によって実証されてきた。その過程で、理論の根拠にしようと自ら目論んだ実験が、結果的に反証してしまうこともある。いわば、自己否定に追い込まれるのだ。
マイケルソンは、エーテル説を実証しようとしたが、マイケルソンとモーリーの実験は反対の答えを証明してしまった。彼は、結果が容易に受け入れられず、こうもらしたとか。
「愛しいエーテルは打ち捨てられてしまったが、私は今も多少の愛着を感じている。」
ラザフォードは、J.J.トムソンが提唱した「プラムプディングモデル」、いわゆる、ぶどうパンモデルを実証しようとしたが、あっさりと覆された。
アインシュタインは、静止した永遠宇宙を信じて、せっかくの美しい重力場方程式に奇怪な宇宙定数を加えたがために、「人生最大の失敗」と言わしめた。
理論派は徹底的に論理にこだわり、実験派は徹底的に精度にこだわる。科学は、その互いの資質の相補作用によって成り立つ。本書は、理論派にケプラー、ルメートル、フリードマン、アインシュタインといった面々を、実験派にエラトステネス、ガリレオ、ハッブルといった面々を紹介しながら、宇宙論をめぐる科学史を外観してくれる。また、ガモフ、アルファー、ハーマンらのビッグバン宇宙論派と、ホイル、ゴールド、ボンディらの定常宇宙論派の論争もなかなかの見モノ。尚、表題は「ビッグバン宇宙論」から「宇宙創成」に改題される。
それにしても、神は究極の退屈しのぎを作ったものよ。ビッグバンという現象は、もしかしたら神の死を意味するのか?だとすれば、揉め事をこしらえ、不完全な遺産を残したことになる。なんと無責任なヤツか!
「創造主である巨人が死ななければならなかったことから、人間は永遠に苦労するように運命づけられた。」

ところで、「科学」や「科学者」という用語は、意外にも新しいらしい。
1834年、ヴィクトリア朝の博識家ウィリアム・ヒューエルが「scientist(科学者)」という造語を用いたのが初めだそうな。ラテン語で知識を意味する「scientia」に由来。それまでは、「natural philosopher(自然哲学者)」と呼ばれていたという。
確かに、哲学は主観によって牽引されてきた。いや、直観と言うべきか。アインシュタインが時空の概念を持ち出す百年も前、カントがア・プリオリな認識に時間と空間の二つを置いたことは、直観の偉大さを示している。そして、冷静な目としての論理性で補完しながら、熱狂や迷信に対する解毒剤としてきた。真理に近づくために主観性だけでは不十分だと知れば、悟性が客観性を求めるは必定。ヒューエルがどういう意図で、このような用語を持ちだしたかは知らんが、客観性を強調したことは想像に易い。
とはいえ、科学は自然との相性がすこぶるよく、哲学にしても人間の自然の姿に意義を求めるため、自然哲学という用語も捨てがたい。
そういえば、日本語の「科学」という用語も奇妙な漢字が当てられる。「科」を「学ぶ」とはすべての学科を含むニュアンスを与える。実際、人文科学、社会科学などの用語が編み出されてきた。現在では客観性という意味で用いられることが多いか。いずれにせよ、客観性のレベルは、数学のものとは比べものにならない。
「どんな科学分野でも、人が初心者であることをやめてその分野の達人となるには、自分は一生初心者のままだと知ったときである。」... ロビン・ジョージ・コリングウッド

1. アリストテレスの呪縛
神話という語は、物語を意味するギリシャ語の「ミュトス」に由来するそうな。他にも「権威ある言葉」という意味もあるとか。世界中の神話は、その社会で絶対的な真理を表してきた。神話は信仰や迷信と強く結びつき、これに疑問を呈する者はことごとく罰せられる。そんな時代が長く続いた後、紀元前6世紀頃、知識人たちは突如として様々な可能性を考えるようになったという。哲学者たちは、広く受け入れられていた神話的宇宙観を捨て、自分なりの説明を自然学の下で作り出す。
例えば、ミレトスのアナクシマンドロスは、地球の周りには火に満ちた環(わ)が回っていて、太陽はその環に開いた穴であるとしたという。月や星も同じように、天空に空いた穴であると。小学校の工作で見かけそうな手作りプラネタリウムの発想か。
コロポンのクセノパネスは、地球は可燃性のガスを放出していて、夜のうちに溜まり、臨界質量に達すると発火して太陽になると考えたという。ガスの玉が燃え尽きると再び夜が訪れ、後に火花として星々が残ると。月もまたガスが溜まっては燃えるという周期で動いていると。
本格的な合理主義運動は、紀元前540年頃のピュタゴラスに始まる。「万物は数である」という信仰だ。弦の長さを半分にすると1オクターブ高い音が生じ、元の音と調和することに気づくと、一弦琴を使って和音の理論を構築した。一般的に弦の長さを調整する時、元の弦に対して簡単な比になるようにすると、元の音と調和する。弦の長さを3対2にすると今日で言う5度の音程になり、複雑な比にすると不協和音になる。太陽も月も、星々も、すべての天体運動が数学で説明されると、天空の音楽理論が構築される。宇宙が数によって調和しているとなれば、人間社会におけるあらゆる運動が数学モデルで構築される。気象観測、市場予測、人口予測など。カオスを前にして、やや息切れ気味ではあるものの...
アリストテレスの時代、惑星のループ軌道がカオスに映ったことだろう。自己存在の大前提とされる大地が丸いというだけで、人々はまるで悪魔の世界であるかのように戸惑い、知性の崩壊から理性の崩壊を招いてきた。おまけに、地球は太陽の周りを回り、太陽系も銀河系も運動しているとなれば、黙殺せずにはいられない。
しかし、現代人はアリストテレスの世界観を本当に捨てきれているだろうか?リンゴが木から落ちるのを見て、自発的に落下しているのか?地球の重力に引き寄せられているのか?と問えば、相対的な解釈はどちらでも可能だ。ならば、自分は社会を生きているのか?社会に生かされているのか?を問うてみるがいい。人間ってやつは、何かを中心に置き、しかもそれに向かって運動していないと落ち着かないものらしい。そして、いくら客観的な知識を蓄えたところで、いくら神を崇めたところで、最終的に自分を中心に置くことになる。重い物体も軽い物体も同時に落下するって本当なのか?と問うてみても、たとえガリレオが正しいと知っていても、やっぱり酔いどれはアリストテレスの世界で生きている。その証拠に、アルコール濃度が重いほど肉体も精神も沈むのが速い!

2. 宗教から科学への回心
宗教が科学理論を支持したところで、なんの援護にもならない。証券アナリストが、ほら当たった!と自慢するのと同類か。
アリストテレスは、哲学的な考察から重い物体は軽い物体よりも速く落下すると論じた。ガリレオは実験によってその間違いを証明したが、アリストテレスは既に神聖化された人物。ガリレオには権威の反対を主張する勇気があった。望遠鏡によって測定精度という観点を、科学にもたらした貢献は大きい。ガリレオは異端審問でこう反論したという。
「聖書は天国への行き方を教えるものであって、天の仕組みを教えるものではありません。」
科学者には政治的に振る舞うのが苦手な人が多い。その功績は死後に称えられるケースも珍しくない。何かにつけて常識を持ち出し、道徳を持ち出し、その究極に神を持ち出すのは、無知を覆い隠す絶好の手段となろう。ベラルミーノ枢機卿はこう述べたという。
「地球が太陽のまわりを回ると主張することは、イエスは処女から生まれてはいないと主張するのと同様に誤りである。」
聖書の馬鹿馬鹿しい解釈のおかげで、その反発として科学的思考が生まれ、宇宙創成モデルの構築が始まった。ダーウィンの進化論が登場すれば、人類の歴史もすぐに覆される。マックス・プランクは、こう述べたという。
「重要な科学上の革新が、対立する陣営の意見を変えさせることで徐々に達成されるのは稀である。サウロがパウロになるようなことがそうそうあるわけではないのだ。現実に起こることは、対立する人々がしだいに死に絶え、成長しつつある次の世代が初めから新しい考え方に習熟することである。」
尚、サウロはキリスト教徒迫害者であったが、奇跡的な回心を遂げて使徒パウロという呼び名となった。

3. ビッグバン宇宙論への道
アインシュタインは、重力場方程式に宇宙定数を付け加えた。それ故に、一般相対性理論と静的で永遠宇宙という概念を両立させることができる。
対して、アレクサンドル・フリードマンは、重力場方程式の美しさのみに着目したために、宇宙に自由な形を与えた。特に重要なのは、宇宙定数がゼロの時の宇宙モデルで、動的に発展することが示されたこと。動的とは、激烈な崩壊によって終焉を迎えることを意味する。最初は膨張によって始まり、重力に対抗できるだけの勢いがある。そして、宇宙が重力に対抗する方法は、三つの可能性が考えられる。
第一の可能性は、宇宙の平均密度が高く、与えられた体積中に含まれている星の数が多い場合。星が多ければ重力の総和が大きくなり、やがて星が引き寄せられて膨張が止まる。宇宙は収縮に転じ、ついに完全に潰れる。
第二の可能性は、星の平均密度は低いものと仮定した場合。重力の総和が宇宙の膨張を押さえこむことなく、どこまでも膨張を続ける。
第三の可能性は、宇宙の密度は高くも低くもない場合。重力のために膨張速度は小さくなるが、膨張が完全に止まることはない。宇宙は収縮して一点になることもなければ、無限大に膨張することもない。
これらの中でどのパターンになるかは、宇宙が膨張を始めた時の速度と、宇宙に含まれる物質の総和で決まる。いずれにせよ、フリードマンが提示したのは、宇宙は変化するという発想だ。多くの物理学者が宇宙定数を歓迎し、一般相対性理論が固定観念になりつつある中、フリードマンはコペルニクス的な柔軟性を披露した。にもかかわらず、アインシュタインの方がはるかに名声が高い。37歳の若さで死んだこともあろうか。理論家の多くは狂信者として世を去っていく。エドウィン・ハッブルの観測によって宇宙の膨張が発見されると、高く評価されることになるが、死後のこと。
聖職者で宇宙論研究者のジョルジュ・ルメートルは、ビックバン・モデルをはじめて合理的に説明したという。彼は、放射性崩壊というプロセスを知っていたようだ。ウランなどの大きな原子が壊れて小さな原子になる時、粒子、放射線、エネルギーを放出する。まさに原子モデルを宇宙モデルと重ねた発想だ。そして、フリードマンより少し運が良かったようである。ハッブルが発見した大ニュースを耳にすることができたのだから。
「宇宙について無知であればあるほど、宇宙を説明するのは簡単だ。」... レオン・ブランシュヴィック

4. 宇宙論と望遠鏡
宇宙論の発展に望遠鏡の進化は欠かせない。パルサー(脈動星)の発見が、一般相対性理論が予言する重力波の存在を匂わせる。宇宙の灯台と言われるやつだ。
1700年代、ハーシェル(フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヘルシェル)は、太陽系が天の川銀河という星団の集団に埋もれていることを示した。では、天の川銀河は宇宙で唯一の銀河なのか?あらゆる星雲は天の川銀河の内側にあるのか?外側にあるのか?シャルル・メシエは、星雲のカタログを作る。
1912年、ヘンリエッタ・リーヴィットは、ケフェウス型変光星、いわゆるセファイドを調べることで、距離を見積もることができることを示した。天文学者は宇宙を測定するための物差しを手に入れた。セファイドは、安定した平衡状態にはなく状態が揺れ動く。圧縮と膨張を繰り返す風船のような。この発見だけでも、宇宙の膨張と収縮を予感させる。北極星も代表的なセファイドで、天空に同じ位置にありながら明るさが変化する。
1923年、ハッブルは、アンドロメダ星雲内のケフェウス型変光星を見つけ、天の川銀河の遥か遠くにあることを示した。ほとんどの星雲が天の川銀河とは別物で、宇宙は銀河に満ちていた。
原子は決まった波長の光を放出したり吸収したりするので、分光学によって星の光を調べれば星が何でできているかが分かる。ハギンズ夫妻は、星の光の波長がわずかにずれていることを観測する。それはドップラー効果によって説明できる。銀河の大半は、天の川銀河から赤方偏移を示すことが観測された。ハッブルの法則は、銀河の距離と速度の関係を示す。それは、宇宙の膨張を予感させるだけでなく、なんらかの出発点があったことを予感させる。聖書は正しかった!と叫んで飲み明かした宗教家も少なくなかったろう。

5. 原子モデルと核反応
ルメートルは、宇宙の始まりは、極めて小さく有限な状態を持った原初の原子が平衡を失って、放出した結果だとした。フリードマンはちと違う。宇宙は原初の原子から始まったのではなく、一点から始まったとした。ゼロからの創成ならば、時間も空間も有限ということか?完全なる神が消滅するとなれば、宗教家にとっては由々しき問題!
ビッグバンモデルを受け入れるには、科学的にも無視できない問題がある。豊富に存在する物質もあれば、稀にしか存在しない物質もあるのはなぜか?物体が均等に存在しないのはなぜか?宇宙は大きくて重い元素ではなく、小さくて軽い元素で占められている。元素の存在率は、水素の90% 、ヘリウムの0.9%。ここから原子を理解しようという試みが始まる
アーネスト・ラザフォードは、ラジウム原子にアルファ粒子を衝突させる実験から、一つの原子核と多数の電子からなる原子モデルを提唱した。原子核は、陽子と電荷を持たない中性子で構成され、しかも原子に対して驚異的に小さい。陽子と電子の数は、原子の種類を決める重要な指標で原子番号とされる。
水素とヘリウムは、小さくて軽い方から二つの元素。陽子と電子をやりとりすることによって、他の原子に変わる。これが放射の背後にあるメカニズムである。ラジウムのような重い原子の原子核は非常に大きく、88個の陽子と138個の中性子を含んでいる。このような大きな原子核は不安定であることが多く、より小さな原子核の状態に移ろうとする。ラジウムの場合、2個の陽子と2個の中性子をアルファ粒子として吐き出し、86個の陽子と136個の中性子を含むラドンに変わる。アルファ粒子とは、ヘリウム原子核の別名だ。大きな原子核が小さな原子核に分かれるプロセスが核分裂である。逆に、水素のような軽い原子と中性子を核融合させれば、ヘリウム原子核に変わる。
水素は比較的安定しているので核反応は自発的に起こらないが、高温高圧などの適切な条件下で起こる可能性がある。水素が核融合してヘリウムになるメリットは、ヘリウムの方がより安定しているからだという。そのエネルギーは、どこから来るのか?それがアインシュタインのあの有名な公式で、エネルギーと質量の等価性が示される。安定した原子状態ほど、核反応が生じた時のエネルギーは莫大なものとなる。水素の核融合爆弾は、プルトニウムの核分裂爆弾よりも、いっそう破壊的というわけだ。核反応の研究が、水素とヘリウムの存在比率に矛盾することなく、ビッグバンモデルを裏付ける。
では、既に宇宙が存在する中で、ビッグバン級の核反応が発生したらどうなるだろうか?宇宙は階層構造となるのか?あるいは、宇宙は破壊されるのか?時間と空間の始まりを宇宙創成、すなわちビッグバンに求めるならば、自由意志の正体とは、空間を自由に泳いでいた原初時代の自由電子の名残であろうか?人間のあらゆる細胞は原子で構成され、当然ながらそこには原子核に捕まった電子がいる。電子の中には、DNAよりも微小な記憶素子が埋め込まれているのだろうか?いずれにせよ、安定志向が強いほど改革は難しく、それだけ大きなエネルギーが必要となるのは道理であろう...

6. 宇宙マイクロ波背景放射とゆらぎ
宇宙マイクロ波背景放射(CMB放射)とは、全天空からほぼ等方的に観測されるマイクロ波である。ビッグバン後に、宇宙の温度が下がって電子と陽子が結合して水素原子を生成し、宇宙が放射に対して透明になった時代のスナップショットと考えられている。宇宙の晴れ上がりの時期の名残か。
密度のゆらぎは、あらゆる現象で見られる。人間社会にも過密と過疎が生じるように、CMB放射にもゆらぎがあるらしい。宇宙初期に生じたゆらぎだとすれば興味深い。COBEチーム(宇宙背景放射探査機)は、ゆらぎの検出に没頭する。ビッグバンから1秒のうちに超高温だった宇宙は膨張して急激に冷え、温度は数兆度から数十億度にまで下がる。その頃、主として陽子と中性子と電子からなり、すべては光の海に浸されていた。それから数分のうちに、水素原子である陽子は他の粒子と反応して、ヘリウムなどの軽い原子核を形成する。最初の数分で、宇宙に存在する水素とヘリウムの比率がほぼ決定されたという。宇宙は、その後も膨張を続け、冷え続ける。この頃の宇宙は、簡単な原子核と、エネルギッシュに飛び回る電子と、膨大な光が存在し、それらがぶつかり合って、跳ね飛ばされる。約30万年が経過すると、温度が十分に下がり、電子の速度が落ちて原子核に捕まり、原子が形成されたという。これ以降、光はほぼ何にも邪魔されず、宇宙をまっすぐ突き進むようになったとか。この光こそが、ガモフ、アルファー、ハーマンらによって予測された宇宙マイクロ波背景放射というわけか。これは、光によるビッグバンのこだまだという。宇宙が平坦でないのも、ビッグバンから30万年後の密度のゆらぎによるものらしい。
1979年、アラン・グースはインフレーション理論を提唱した。宇宙は、一定に膨張してきたのではなく、インフレーション期に一気に膨張し、やがて膨張速度が衰えたというもの。インフレーション期には、ゆらぎも大きかったことだろう。では、やがて膨張は止まるのか?そして、収縮に転じるのか?
まぁ、宇宙からやってくる電磁波の研究もいいが、逆に何を放射しているかということには、科学者はあまり気にしないようだ。地球外生命体から見れば、地球ってやつは惑星のくせしやがって、様々な電波を放出するだけでなく、衛星という宇宙ゴミをまき散らす奇妙な天体に映っているかもしれん。到底自然界では説明のつかない悪魔の棲家にでも...

7. 暗黒物質と暗黒エネルギー
近年の観測によると、銀河の周辺部にある星は非常に大きな速度で運動しており、銀河内部にあるすべての星々の重力を合わせても、銀河の形をつなぎとめるには足りないことが示された。そこで、膨大な量の暗黒物質、すなわち光を出さない重力子のようなものがあり、星たちの軌道をつなぎとめているという説がある。
この物質の天体からの候補は、MACHO(Massive Astrophysical Compact Halo Object)というカテゴリーがあり、ブラックホール、小惑星、巨大な木星型惑星などが分類される。素粒子からの候補では、WIMP(weakly interacting massive particles)というカテゴリーの粒子が想定されている。
1990年代末、宇宙の膨張速度は減速どころか加速を続け、自爆しようとしているという説が検討される。宇宙を膨張に駆り立てているものとは何か?それが暗黒エネルギーってやつか?実は、暗黒物質ってやつが、古くから噂されてきたエーテルってことはないのだろうか?
ビッグバンを仮定すれば、ビッグクランチを想像することも難しくない。あるいは、その間を揺らぐビッグバウンスを繰り返しているのか?いずれにせよ、いまだ人類は宇宙の正体のほとんどを知らないでいる。分からないことがあり続けるということは、幸せなのかもしれない。ビッグバン以前にはどうなっていたのか?この問いに対する神学版とも言うべき答えで、聖アウグスティヌスの言葉を引き合いに出すと...
「神は天地創造以前に何をしていたのか?神は天地創造以前に、そういう質問をするあなたのような人間のために、地獄を作っておられたのだ。」

2014-05-04

AL-Mail とお別れ... 秀丸君よろしく!

GW連休をきっかけに、ようやく踏ん切りがついた。二十年近く付き合ってきた AL-Mail とお別れすることを。今頃なにをやってんだか... 引退間際の古代人は、夜の社交場でも未練がましい!

履歴を調べると、ユーザ登録をしたのが1996年。16bit版から使ってきたわけだ。2006年からアップデートされていないが、Win7(64bit版)上でも動くし、不具合はプラグインでごまかしごまかし、それほど不都合を感じていない。ただ、時代遅れであることは間違いなく、何年も前から乗り換えを考えてきた。とはいえ、メーラは基幹ソフトの一つで、データベース代りにも使ってきただけに、それなりに思い入れがある。
AL-Mail の良さは、基本構造が単純で、プラグインによる拡張性が高いこと。ユーザ側に好きなように拡張させる思想が好きなのだ。スレッド機能、複数アカウントの制御、Secure Tunnel などはプラグインで追加できるし、セキュリティソフトやスパムフィルタなど外部プログラムとの連携で困ったことがない、いや記憶にない。起動オプションがあるので、コマンド制御もできる。ファイル構成がシンプルなために、バックアップスクリプトが書きやすく、他のマシンへの移植も容易。しかも、データ管理がテキスト形式であるため、どんなエディタでも開くことができ、復旧作業で最悪を回避できる。なによりもトラブルに強い点が手放したくない理由であった。ちなみに、拡張性においては、emacs のマクロ機能と比ぶべくもないが、手軽さでは遥かに AL-Mail の方がいい。
さて、次は何にしよう?天の邪鬼な性格は変えようがなく、MS系を避ける方針に変わりはない...

1. メーラの選定
メジャーなのは、Thunderbird あたりか。まず、こいつを試してみると、機能はまったく問題ないが、ちと重い!やはりメーラには軽快感がほしい。
次に、Becky! を試してみると、シェアウェアってのが気になるが、重要なソフトだけに少しぐらいお金を払ってもいい。操作性もよく、軽快、これで決まり!と思っていたら...
ついでに秀丸メールを試してみると、データ管理がバイナリ形式になるのは時流であろうと諦めていたところ、こいつはテキスト形式でやんの。ファイル構成もシンプルで、むしろ、AL-Mail よりいい。機能性も高く、複数アカウントとの相性もいい。おまけに、シェアウェアだが、秀丸エディタのライセンスを持っているので無料で使える。
てなわけで、秀丸君、今後ともよろしく!

2. 秀丸メールへの移行作業
AL-Mail からの移行には、三つのマクロが公開されている。

  データ用: hmml_import_alml_104.lzh
  アドレス帳用: cnvadr_alml2hmml_104.lzh
  振り分け設定用: cnvflt_al2hmml_100.lzh

データはアカウント別に変換するようで、仕掛けが分からず二度ほど失敗するが、分かっちまえば問題なく終わる。アドレス帳では階層エラーが発生した。ただ、AL-Mail のアドレス帳は、Group... End Group キーワードという単純な構成で、自前で csv変換プログラム(数行)を書いて、インポートしておしまい。後で気づいた事だけど、秀丸メール側は、G1/G2... という単純なキーワードで構成されるので、エディタ上で置換した方が早そう。
また、テンプレートとシグネチャには、以下のファイルがアカウント別に生成される。この構成は、AL-Mail よりもいい。尚、拡張子が .bin でも中身はテキストで、アカウント情報(account.bin)などはバイナリ。

  新規用: t_newmail.bin
  返信用: t_reply.bin
  転送用: t_forward.bin
  シグネチャ: sign.bin

複数アカウントにおける POP/SMTP over SSL の管理も楽。POPFile との連携も問題なし。尚、秀丸メール内蔵の迷惑フィルタを使ってみる手もあるが、単語群をせっかく育ててきたので、POPFile をそのまま使う。
また、64bit版には注意事項があるので、当初、32bit版をインストールしていた。でも、アプリケーションはなるべく 64bit版で揃えたく、インストールし直すと、ホームディレクトリを指定するだけでデータは継承できる。当たり前だろうけど。

結局、移行作業で問題になった点は特になし!作業には、1日かかると見ていたが、1時間もかからなかった。
てなわけで、もっと早くやりゃよかった!と思う今日このごろであった...

2014-04-27

"政治論集" David Hume 著

啓蒙時代の哲学書に触れると、デイヴィッド・ヒュームの名をよく見かける。彼の主著「人間本性論」はなかなか手強そうだ。入門書として「政治論集」と呼ばれるエッセイ集で、お茶を濁してみよう...

ヒュームの立場は、共和主義的な自由主義に立脚している点ではありふれた思想にも映る。ただ注目したいのは、アダム・スミスに先んじて経済原理から自由主義を唱えている点である。古典的な共和主義では、宗教的な道徳感情に支配され、商業的な欲望を悪習と見做す禁欲主義が旺盛であった。自由の基盤には、土地が中心に据えられてきた。言い換えれば、自己存在を確認できる場所を中心にした考え方である。ヒュームは、まず土地への執着に疑問を投げかける。そして、商業的な欲望と禁欲的な欲望の差異に対して、人間本性から迫ろうとする。商業活動は、自由精神とすこぶる相性がいい。土地への従属精神は、商業活動によって解放されてきたとも言えそうか。
しかしながら、土地依存症は、人間社会の発達とともに組織依存症から情報依存症へと変化してきた。自己存在の確認できる場所もまた仮想空間へと移行する。精神現象そのものが幻覚なのだから問題ないってか。俗世間の泥酔者には、仮想と幻想の違いがとんと分からん...

当時の政治の理想像では、トマス・モアのユートピアが思い描かれるようである。ヒューマニズムを信奉する点では、時代的差異をほとんど感じない。ただ、労働を奨励しておきながら富を憎む思考回路は、マルクス主義に通ずるものがある。労働に励めば生産物を潤し、商業活動が盛んになり、富が増大するのも道理であろうに...
ヒュームは、商業を強欲と結びつけて断罪する社会風潮に、我慢ならないようである。彼は、そんな時代にあって経済的自由主義を大胆に提唱する。そして、富と徳は本当に両立できないのか?と問いかける。伝統的な道徳観念では、奢侈を怠惰の代名詞とし、快楽を悪徳としてきた。だが、勤勉によって富が獲得されるのも事実。貧困のために書物も買えないようでは、知識を得る機会までも奪われる。勤勉を放棄した道徳的堕落と、自由活動に執着した欲望的堕落は、どちらも人間の本性だ。富を欲することも、権力を欲することも、名誉を欲することも欲望ならば、健康を欲することも、愛することもまた欲望、抑制することも、禁欲もこれすべて欲望なのである。欲望は人間の本性であって、その一部を抹殺すれば、精神のバランスを欠き、他の本性を剥き出しにする。歴史を振り返れば、修道士ですら征服者同様、残虐行為に及んできたではないか。幸福過ぎても不幸過ぎても、やはり人間は冷酷になるようである。
「人びとが快楽に関して洗練の度をまぜばますほど、どんな種類の快楽にも過度に耽ることはますます少なくなる。」

本書は、商業、貨幣、利子、貿易差額などに関する論説において、哲学者と政治家の役割を語る。資本と労働の生産利用という経済原理の確立では、スミスに譲ることになるのだが...
ヒューム以前の政治学は、経済問題を軽視してきた。重商主義は、空虚な理想主義への反発から生じたとも言えそうか。オランダは、ヨーロッパのどの国よりも先んじて、商業共和国を謳歌した。やがてイギリスが追い越し、自由主義との結びつきから、商業ヒューマニズムを形成することになる。欧米式資本主義は、契約の原理に支えられている。ひいては、神との契約であり、そこに帳簿の正当性を与える。実践的には商法の進化であり、法律が商業活動の後ろ盾となる。民衆の商業活動が、法律を庶民化させてきたという見方もできるかもしれない。
とはいえ、宗教的政治による既得権益を、自由主義的商業が解放したとしても、やはり不正は蔓延る。そればかりか、過度の経済活動がしばしば災いをもたらし、極度の貿易不均衡が戦争の火種となってきた。公債や金融は有益な公共財ではあるが、度を越して用いれば経済危機を招く。いまや、信用経済は国家の枠組みを越え、手に負えない怪物となった。
ヒュームの視点には、商業と自由の結びつき、あるいは平和を前提とした産業がある。そして、強欲を克服し、自由を制御し、平和で安定した社会を築くにはどうすればいいか?これを問うている。頼みとするものは知性と徳性であろう。だが、いまだ人類は強欲を克服できないでいる。金銭欲とは不思議なもので、金持ちほど旺盛になるらしい。権力欲とて同じようだ。政治家になるべき者ほど自ら資格を疑い、自分の道徳に自信満々な者ほど目立ちたがる。これが政治の世界というものか。哲学者が統治する国家を理想像とするのは、やはり夢想ではなかろうか?プラトン君!

1. 政治の世界
ヒュームは、人間本性的に政治論、経済原理、人口論を語ってくれる。それは、利害関係を楯にした嫉妬の力学とでもしておこうか。嫉妬、憎悪、競争心、見返り... こういった思惑が本音を建前で偽装する。ナショナリズムは感情論と結びつきやすいだけに仮想敵国をでっちあげ、かたや経済や文化が繁栄すれば、流言蜚語の類いから陰謀や罠まで仕掛ける。平和に寄与する経済交流や文化交流に励む人々にとっては、はなはだ迷惑であろう。
そもそも、国連という世界規模の同盟が存在すれば、わざわざ国別に友好関係を斡旋する必要があるのか?いかに国連が独立権限を持たず、各国の思惑が絡み、本来の機能を果たしていないかという証でもあろう。本来の政治活動とは、人類の普遍的価値を求めるための集団的行動とならなければならないはず。それとも、政治とは、人間の醜態を曝け出すためにあるというのか?いわば、理性の捌け口として。なるほど、理性のない者に理性の捌け口はいらない。法律の限界実験をしながら、自分の理性の限界を試しているとでも言うのか?陰謀が渦巻くところに、必ず政治力が働く。政治力や権力のないところに陰謀は成り立つまい。
「浅薄な思想の人間は誰も、健全な知性の持ち主までも、思想家、形而上学者、改良家だと非難しがちであって、自分の弱い理解力が及ばないことは何であれ正しいとは認めたがらない。」
政治が、慢性的に矛盾を抱えるのは、強欲が絡み合うからなのか?確かに、政治には大義が必要である。だが、政治家どもの理屈では、野心と志を混同させ、国家の面子よりも政治家の面子が優先されるではないか。おまけに、人を貶め、蔑むことに懸命で、公の場ではパフォーマンスで勝つことに懸命だ。ヒュームは、政治が突発性や偶然性、あるいは少数の人間の気まぐれに依存してはならないと語る。そして、嫉妬の競争原理を、建設的な競争原理へ向かわせる術を模索するものの... やはり、毒を以て毒を制す!の原理に縋るしかないのではないかい!
「すべての人間のうちで、政治的企画室というのは、権力を握ると、これほど有害なものはないし、権力をもたなければ、これほど滑稽なものもない。」

2. 自由と公信用
人間社会には、生まれるとすぐに強制的にどこかの国に所属させられるという奇跡的なシステムがある。人間は、生まれる地を自由に選べないばかりか、生まれる場所すら与えられない人もいる。つまり、人間はまず不自由を体験することになる。だから、本能的に自由に憧れるのかは知らん。おまけに、無条件に租税の義務までも背負わされる。こうしたシステムが機能するのは、ひたすら慣習が支えているからであろう。人間には、本性的に当たり前という感覚に慣らされる性質がある。本書は、こうした性質に「公信用」という語を当てる。
犯罪を見れば、警察に知らせるという性質が、自動的に治安システムとして機能させる。だが、公信用が崩壊すると、国家は成り立たない。私有財産を守る権利が維持されない社会に、信用など担保できない。すべてを自己責任に委ねれば無法地帯となろうし、すべての判断を世論に委ねれば法治国家を放棄することになろう。自己責任と公信用の按配こそが、社会を維持させるというわけか。慣習の力、恐るべし!
となれば、いくら自由を唱えたところで制限されることになる。自由精神の本質は、自らの自由をいかに抑制できるかにかかっているのかもしれん。人間社会には、哲学的、思弁的な原理体系が必要であろうが、民衆は思弁的な点では極めて粗雑となりがち。空気を大切にする社会は空気に呑まれやすく、村八分社会では哲学することも難しい。
一方で、自分の利益を放棄してまで、他人の意思のままになろうとする人も少ない。主権者に正義の保護が前提されなければ、義務を課すこともできない。人間は何らかの代償がないと動かないというのか。その代償が、正義と結びつくかは別にして。なるほど、神に対してですら見返りを求めてやがる...
「貧しい農民や職人が自分の国を離れる自由な選択権があると、まじめに主張できるであろうか?外国の言葉も生活様式も知らず、稼いだわずかな賃金でその日暮らしをしているのだから。ある人が眠っているあいだに船に乗せられ、船から離れようとする瞬間に、大洋に落ちて死んでしまうにもかかわらず、船内に留まっていることによって、その人が船長の支配に自由な同意を与えているのだ、と主張するのと同然であろう。」

3. 民主主義の本性
民主主義には、議会を支配すれば都市を乗っ取ることだってできるという危険がある。ある地方議会を、圧倒的過半数で占拠すれば、外国から動員された移住者によって現地人の発言を沈黙させ、部分的に別の国家に組み込むことだってできる。また、偽装貨幣の鋳造が、貨幣量を増大させることによってインフレを引き起こし、ライバル国の経済を転覆させようとする目論みも、よく機能する。古来、このような政治的な陰謀がしばしば実施されてきた。
現在ですら、ライバル国を蹴落とすことによって自国の安泰を図るという思惑は、当たり前のように実行される。政治は正義などという心地よいもので支えられているのではなく、政治家たちの集団的動物性によって支えられている。だから、いつの時代も、政治不要説ならぬ政治家不要説がくすぶるのか。あるいは、自己の幸福を確保するためには他人の犠牲が必要だという人間の本能が、そうさせるのか。政治現象とは、突き詰めれば、自己存在、ひいては自己愛の強調なのであろう。その具体的な解決手段が、暴力か話し合いかの違いぐらいなもの。この違いが大きいのも事実だけど...
クセノフォンは、「ソクラテスの饗宴」の中で、アテナイの民衆の暴政をごく自然に叙述しているという。
「かつて富をもっていたときよりも、貧乏な現在のほうが私ははるかに幸福である。それはちょうど恐怖よりも安心な状態にあるほうが、奴隷よりも自由人が、機嫌をとるより取られるほうが、疑われるより信頼されるほうが、幸福であるのと同じである。以前は、私はあらゆる密告者に気を使わざるをえず、いくばくかの賦課金がいつもかけられ、また都市を留守にすることはけっして許されなかった。ところが、貧乏な今では、私は偉そうな顔つきをし、他人を脅している。金持ちは私を恐れ、あらゆる種類の礼儀と尊敬の念を示してくれる。だから私はこの都市で一種の僭主になっている。」

4. 老齢と成熟
宇宙を永遠ないし不滅と断定できる根拠は、何一つ見当たらない。いつか宇宙が滅亡するならば、幼年期、青年期、壮年期、老年期といった段階があるのだろう。人間社会にも。
しかしながら、幼年期よりも青年期が、壮年期よりも老年期が、成熟していると言えるだろうか?人間社会は、若年であれ、青年であれ、壮年であれ、老年であれ、文句を垂れる量で存在感を強調する力学の世界である。寿命が延びれば、新たな世代層が生まれる。かつて人間50年という時代があったが、いまや60代ですら老齢と見なされない。高齢化社会や少子化社会と言われながら、世界全体では人口増加に歯止めがきかない。地球資源は限られているというのに。自発的に人口を抑制する傾向が生じるのは、悪いことなのだろうか?日本の人口がたった半世紀で、8千万人が1億2千万人にも膨れ上がったことは自然現象で片付け、ちょっとぐらいの人口減少を民族滅亡説のように目くじらを立てる。現在の世代バランスの歪は、過去の人口増加率に問題があるとは考えず、現在の繁殖意欲や養育制度の問題だとする。
はたまた、歳を重ねれば、決まって過去を懐かしみ、現在の有り様を嘆く。自己存在に自信が持てなくなるからか?そして経験を積めば、寛容性が増すと言えるだろうか?短気になり、イライラを募らせ、文句を垂れるようになるのは、人生の終焉に焦りを感じるからか?組織に隷属してきた連中が高度成長時代を謳歌し、今度は老後を謳歌する権利を要求するどころか、年金をご褒美だと考えている。惰性的な制度によって企業年金をたかり、現役社員の収入をたかる。歳を重ねると、若者以上に欲望をむき出しにし、パイの争いは世代間闘争となる。社会制度が崩壊するのも時間の問題か。尤も、褒美をあげるべき者ほど、そんなものに期待せず、自発的に生きようとするのだろうけど。
いずれ、社会制度や年金、国家の支配までも、グローバル企業に委ねる時代がくるのかもしれん。国防産業がアウトソーシングされるように。政治に哲学が期待できなければ、国会議員も、国家元首も、スポーツの代表監督のように、海外で実績を積んだ政治哲学者が雇われる日が来るのかもしれん...

5. 王位と中立性
人間社会では、しばしば集団性の気紛れによって論争が巻き起こる。権力者を巻き込みながら偏見に満ちた応酬となり、嫉妬が嫉妬を呼び、憎悪が憎悪を呼び、公共の自由は興奮のるつぼと化す。民主主義社会では、支持するのも批判するのも自由。だが、その基準が好き嫌いで判断されるとすれば、それは議論に参加する資格があるのだろうか?後援会だから、地元出身だから、ライバル政党だからという動機では、ただの応援団に過ぎない。すると、冷静に議論できる立場は、どの党派にも依存しない哲学者のみということになりそうだが、そんな人はこの世にいるのか?人間は誰しも群れるのがお好き!自分の意思で考えているつもりになって洗脳されることが、いかに心地よいかを潜在的に知っている。それは、催眠療法が示している。
政治において中立の立場に置くことがいかに難しいことか、これをヒュームは匂わせる。そこで、国家を統一する上で、都合のよい立場にイギリスには王室の役割がある。英国王のスピーチが、歴史的な窮地でいかに励みとなってきたことか。パパラッチの餌食にされるのは、なんとも気の毒である。我が国にも、似たような立場に象徴天皇がある。どんな政治的意見にも肩入れしないことが、唯一、国民の統一的立場に立てるという原理を成立させる。安直に言葉にできないという窮屈な立場であるが、一旦言葉を発すると首相のそれとは重みがまるで違う。それは、大震災で発せられた言葉を見れば、一目瞭然であろう。政治や世論が悪しき方向に向かった時、唯一歯止めとなる可能性を秘めた立場である。政治利用しようなどとは言語道断!だが、戦後においても、天皇の存在を政治利用しようとする目論見がいくつも見られる。したがって、皇居は永田町とは距離を置き、京の都あたりに設置する方が相応しい気がする。

2014-04-20

"功利主義論集" John Stuart Mill 著

功利主義という用語は、掴みどころがなく手強い。古くから道徳哲学を信奉する人々に批判されてきたのも、ジェレミ・ベンサムの唱えた最大幸福原理が、快楽の総和として計算されるからである。いわば、GDPのような経済指数として。現在でも、経済人の価値観に偏っていると叩かれる一方で、その批判者たちもまた客観性を欠くと反撃を食らう。この用語を曖昧にしているのは、正義と幸福の観念を支柱にしているからであろう。人間社会はこの二つの観念なくしては成り立たず、共通の合言葉として君臨している。
しかしながら、厄介なことに、正義にしても、幸福にしても、個人によって求めるものが違う。人間は本性的に利己的で、この性質を完全に排除しようとすれば、今度は別の本性が暴走を始める。多様性もまた人間本性的で、これを軽視すると、正義の観念は、すぐさま宣伝やバフォーマンスの類いで扇動され、幸福の観念は、幸福の使者を自負する者によって有難迷惑を撒き散らす。
人間の本性の一部を、単純に悪だと片付けて抹殺すれば、そこに残されるのは人間なのであろうか?功利性にしても、正義にしても、道徳にしても... こうした用語は、真の自由人にとっては強力な武器となろうが、群衆心理や自己欲望に隷属する俗人には危険な道具となる。自由人ってやつは、真理の探求という険しい道ですら、快楽の美酒に変えてしまうようである。本書は、まさに高次の快楽とは何かを問うている。
「満足した豚よりも不満を抱えた人間の方がよく、満足した愚か者よりも不満を抱えたソクラテスの方がよい。」

功利主義が唱えられたのは18世紀頃、最初はペイリーらによって神学的功利主義として提示され、後にベンサムやミルらによって理論体系化がなされた。
しかしながら、功利主義的な発想は、既に古代ギリシア哲学に見つけることができる。プラトンは著書「国家」の中で、政治の役割は国家全体ができるだけ幸福になるよう仕向けることだとし、アリストテレスは著書「政治学」の中で、私有財産の観点から政治算術のような考え方を匂わせている。ミルは、こうした古代哲学に立ち返ってベンサム主義と一線を画し、改良した功利主義を唱えている。
本書の特徴は、ミルの思考過程を辿るかのように論説集が組み立てられていることにある。まずセジウィックの論説を批判し、次にベンサムの功利主義を語り、ヒューウェルの道徳哲学を批判した後に、ミルが再構築した功利主義を論じている。ベンサムへの批判は、だいたいにおいて道徳感情や倫理観が欠けているというもの。確かに、功利性ってやつは、経済的な損得勘定や利害関係と相性がよさそうに映る。ミルも、ベンサムの人間観察が浅はかであることを指摘している。快楽の所在についてはあまり論じていないと。ベンサムは、人間の道徳判断が結局は利己的であり、道徳感情にあまり期待しないという立場のようである。それでも、ミルは積極的な評価を与えている。宗教的な道徳感情の強い時代に、科学的な観点からの思考習慣を政治学に取り入れたとして。そして、ベンサム主義を足がかりに、人間の多様な価値観を認めつつ、多面的な功利主義を構築しようと試みる。
「徳は望まれるべきだけでなく、利害関心を離れてそれ自体として望まれるべきものである。」

ところで、建設的な批判とは、こういうものを言うのであろうか...
ミルは、相手の主張を否定するのではなく、うまくいなしている感がある。批判的論争ってやつは、互いに言葉の揚げ足をとり、本質的な問答から乖離して泥沼化しやすく、聴衆者はどちらにも加担したくない、といった構図になりがちである。
「すでに社会的感情を発達させている人は、自分以外の同胞を幸福の手段をめぐって相争う競争相手と考えたり、自らの目的を達成するために同胞たちの目的が挫折するのを望んだりすることはありえない。」
例えば、キリスト教の根源的な営みにしても、多様性に満ちている。ローマ教会に頼らず独自に修正したキリスト教を唱える者もいれば、神の定義を宇宙法則に求めるようなキリスト教徒もいる。そもそも宗教原理ってやつは、寛容性を伴うから救われるのであろうに...
「キリスト教を批判する人がその真理や好ましい傾向をイエズス会士あるいはシェーカー教徒が抱いている見解に基づいて判断するとしたら、その批判者はどのように思われるだろうか。」
批判や議論のあり方とて、同じようなもの。どんなに優れた哲学書でも、まったく隙のない記述などありえようか。すべての状況を想定して記述することが不可能となれば、偉人の残した書は言葉足らずに欠席裁判を強いられる宿命を背負う。後出しジャンケンの餌食よ!そして、不合理な批判が別種の不合理な批判を呼び、批判の堂々巡りを始める。人間ってやつは、なにかと揉め事がお好き!人生とは、よほど退屈なものらしい...
「ロックが用いなければならなかった以外の議論が彼の結論のいくつかを立証するために不可欠であるという理由で彼を攻撃することは、証験論を書かなかったという理由で福音主義者を非難するようなものである。問題は、ロックがどのようなことを述べていたかではなく、彼が現在に至るまでの自分に対する反論すべてを聞いたとしたらどのようなことを述べるかということである。」

1. セジウィックの論説
地質学者で聖職者でもあるアダム・セジウィックは、直観主義の立場からジョン・ロックの経験論と、ウィリアム・ペイリーの神学的功利主義を批判したそうな。セジウィックは、正義をなすための道徳判断を下す能力、いわば道徳感情は生得的であると唱え、道徳感情を経験的とすれば、計算高い思惑と結びつくとしているらしい。
だからといって、直観的な道徳感情を、神聖視するのは行き過ぎであろう。確かに、閃きやア・プリオリな認識を与えてくれる直観は、偉大である。おいらには、気まぐれこそ崇高な精神に映る。しかし、その直観から生じた観念を、科学的、論理的に検証してこそ、より確信へと導くことができよう。ミルは、なにも直観的思考を批判しているわけではない。なによりも芸術心が拠り所にする思考法であることは、誰もが認めるところである。本書は、不可解な先天的能力を学術的に説明できるまで理解し、後天的能力として道徳観念を導くべきだとしている。直観学派に対して、功利主義を帰納学派としているところにも、その意識が見える。

2. ヒューウェルの道徳哲学
ウィリアム・ヒューウェルは、セジウィックと似た立場で、直観主義的な立場からベンサムを批判したそうな。ミルは、残念ながらイングランドの大学は、正統とされる思想以外は受け入れない宗教的組織だと指摘している。真理よりも、宗教、保守主義、平和といったものが重要視されると。言うまでもなく、後ろ盾はイングランド国教会であるが、その傾向がヒューウェルの哲学思想にも顕れているらしい。キリスト教に限らず、宗教的な道徳観念では、苦痛を美徳とする傾向がある。それは、精神修行や苦行といった形に顕れる。逆に言えば、快楽は悪徳の象徴とされる。ミルは、ヒューウェルが功利主義を利己主義と取り違えていると指摘している。
ベンサム主義の原理では、快を増大させ、苦痛を予防することが、道徳への道と考える。それゆえに、快を悪とする主張に対して、すべて反対者と見なす。宗教的禁欲主義とは、まさにこの類いであろう。宗教的道徳観では、苦痛こそ追求するもので快は避けるものと考え、自虐行為ですら賞賛する。そのために報酬や将来の恩恵を期待したりはしないかと言えば、そうでもない。ベンサムは、こうした考えを一般化して禁欲主義としているそうな。ベンサム主義者は盲目的に忠誠を誓ったりはしないという。
だが現実社会は、宗教思想や会社組織の創始者というだけで崇められる。その功績や考え方を理解するのではなく、人物を盲目的に崇め、いわば神格化させてしまう。批判する側もまた盲目的に人物を攻撃する。ベンサムは、このような流動的な見識に、道徳の基礎を置いたのではないという。最大多数の最大幸福とは、普遍的価値観を前提にしているのであって、単純な多数決に委ねたわけではないということか。有徳者や有識者たちにありがちなのが、正義がなんであるかを説明できず、感覚で正義を押し付け、義務がなんであるかを説明できず、感覚で義務を押し付ける。彼らは、直感を直観へ昇華させることができないでいる。有徳者や有識者ですらこんな有り様なのに、酔いどれごときがどうして理性なんぞ理解できようか...

3. ベンサム主義
ベンサムの格言にこういうものがあるそうな。
「すべての人が一人として数えられ、誰も一人以上として数えられない。」
多数決の原理は民主主義と相性が良さそうに映るが、そこには落とし穴がある。実際、多数決を民主主義の象徴として崇める政治屋は多い。そのために多数派工作に余年がなく、選挙屋になりさがる。正義ってやつは、道徳を基準として実践されるわけではない。法と道徳は一致すべきなのだろうが、現実にそうなっていない。幸福にしても道徳観念から構築されるべきなのだろうが、道徳観念もまた普遍性に達していない。人類は、いまだ善悪すらきちんと規定できないでいる。正義がこれほど脆弱にもかかわらず、政治屋どもは堂々と正義を主張する。なんと厚かましいことか。
デヴィット・ヒュームの言葉に、こんなものがあるそうな。
「世界は政治哲学をもつにはまだ若すぎる!」
正義や幸福や道徳という用語は、心地よく響くだけに、民衆を欺瞞する道具とされる。義務という用語も怪しい。自分で判断できず、ただ組織の命令に従うことが義務なのか?義務の正体をきちんと説明できずに、義務が果たせるのか?そして、権利とは、義務をともなうもののはずだが。平等という用語も危険である。公平とは似ても似つかぬ。ベンサムの唱える個人目的にしても、少々経済的動機が優勢のようである。
「最大幸福が道徳の原理であってもそうでなくても、現に人々は自分自身の幸福を望んでおり、したがって自分たちの幸福を増進してくれる他者の行為を好み、自分たちの幸福を明らかに脅かすような行為を嫌悪する。ベンサムが前提に置いたのはこのことだけである。」

4. 功利主義
功利主義とは、功利性を究極的な価値の原理とする理論であるという。倫理的な観点では、正義は善悪という道徳基準によって決定されるとし、社会的な観点では、個人の功利性に結びついた社会的功利性の向上が社会目的とされる。本書は、その特徴を四つ挙げている。
  • 帰結主義... 正義は結果的に社会的な善で規定される。結果主義とも言えそうか。
  • 福利主義... 共同体全体の幸福を考慮する。
  • 総和主義... 人員に優劣をつけることがなく、全体幸福量の総和を志向する公平性。
  • 最大化主義... 幸福の総量を最大化するとは、まさに経済原理か。
ミルの主張する功利主義には、道徳権利が前提される。しかしながら、多様な価値観を総合的に解決するには、最低基準を規定する方が実践的であろう。これが、基本的人権というものであろうか。法律の役割にしても、正義をなすことではなく、なるべく不正義をなさないようにする。推定無罪にも、功利性が働いていると言えよう。
... などと言えば、なんとも消極的な動機にも映る。神に縋るのと大して変わらないような。しかし、真の自由人は、法律や神も、理性や道徳も、意識せずとも自然に振る舞い、自然に義務を果たせるのであろう。逆説的ではあるが、高次な快楽を求めるには、最低限の規定を与えるだけで、なるべく自由の余地を与えた方がいい、とすれば積極的な動機となろうか。
「人生における個人的な楽しみを放棄することによって世界の幸福の総量を増大させることができるとき、楽しみを自ら放棄することのできる人々は本当に賞賛されるべき人々である。しかし、何らかの他の目的のためにそうしていたり、他の目的のためにそうしていると公言したりしている人は、自分が念頭においているような禁欲主義者と同じ程度にしか賞賛に値しない。」
功利主義を端的に言えば... 一般的な価値観の基準では最低限の道徳性を規定することぐらいしかできない、そして、社会全体では高次の快楽を求めるように意識を向けることで集団的な利益をもたらす... といったところであろうか...