2015-11-15

"解析概論 改訂第三版" 高木貞治 著

三十年来、引き戻され続ける書を、もう一冊。相も変わらず、しつこく仕事に絡んできやがる。お前は酔っ払いか。そして、電磁気学で苦しめられた、あの忌々しい奴らにやられる。そう、ガウスとストークスだ。おいらは永遠に赤点よ!ただ、数学屋ではないし、結果だけ知っていれば、道具とすることはできる。薄っぺらな知識しかなくても、生き方はある...

数学は代数学と幾何学の二大分野によって成し、解析学はその双方を調和する立場にある。物事を解析するには、記号的で論理的な思考も、空間的で感覚的な思考も欠かせない。そして、数式と数式の行間に隠された言葉を読みとる。これが解析学の醍醐味であろうか。
本書は、こうした思考原理が微積法にあることを教えてくれる。物理現象の本質を見極めるには、瞬時な方向性を観察するか、総合的な流れを眺望するか、いずれにせよ極限に迫る必要がある。話題の中心は、変数を複素数に拡張した関数。そう、初等関数ってやつだ。これを初等と呼ぶことに、いまだに抵抗を感じるのであった...

代数学の観点から眺めると...
現象を解析するということは、数学的な法則性を導き出すことを意味する。そこで重要となるのが、級数の概念だ。項を多項式などで抽象化し、無限和や無限積で記述できれば、極限値を得る可能性を匂わせる。級数が収束する性質を持つかどうかが、微分可能か、積分可能かの判定基準になる。そして、テイラー展開やフーリエ変換、あるいはゼータ関数といったものの性質が考察される。こうした概念は、アルゴリズムの実装時に非常に有用である。

幾何学の観点から眺めると...
アルキメデスに始まる細かく切断して足し合わせるという求積法が、直感的な思考法としてある。ここに、定規とコンパスで作図できるかという問いかけが、実数の連続性と結びつく。そこで、最初に登場する概念が、デデキントの切断だ。連続性で保証されるからこそ、大小関係が決定でき、適当なところで切断できる。おぼろげな対象には、大雑把な大小関係から始まり、徐々に目標を絞っていくという考え方が成り立つ... などと言えば、あの忌々しいε-δ論法だ。とはいえ、この思考法は、解析学の王道と言うべきかもしれない。相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体にとって、絶対的な現象を認識することは難しく、なんらかの比較対象を必要とする。そして、認識能力の支柱をなしているのが、時間という連続性だ。精神病患者の多くは、時間の概念を失った状態とも聞く。連続性から大小関係という感覚的に対象に迫るという思考法は、人間にとって自然であり、合理的にも映る。

コーシーは、連続関数の積分和の極限値として、基本的な考察を試みたという。問題は、連続性が保証されない場合である。ルーベル積分の登場で、リーマン積分は中間的な存在になったという。連続性を仮定しなくても積分可能な条件を確定したのがリーマンで、特異点が無数にある場合を扱ったのがルーベルだとか。しかしながら、泥酔者にとって有用なのは有限区間を論じる定積分で、相も変わらずアルキメデスの世界観に幽閉されたまま。その証拠に、酒の力を借りて記憶がぶっ飛ぶと、連続性から解放されて幸せになれる。この現象も、デデキントの切断原理に付け加えておこう...

1. 実数の連続性
入門の概念として、実数の連続性に関する重要な性質を四つ挙げてくれる。

(1)デデキントの切断
実数の切断は、下組と上組との境界として、一つの数を確定する。

(2)ワイエルシュトラスの定理
数の集合 S が上方(または下方)に有界ならば S の上限(または下限)が存在する。

(3)有界な単調数列の収束
有界なる単調数列は収束する。

(4)区間縮小法
閉区間 In = [an, bn] (n = 1, 2, ...) において、各区間 In がその前の区間 In-1 に含まれ、n が限りなく増すとき、区間 In の幅 bn - an が限りなく小さくなるとすれば、これらの各区間に共通なるただ一点が存在する。

いずれも集合論と結びつく概念である。そして、幾何学に投影するために、座標点の距離を観察しながら、それらの大小関係を考察するといった思考を要請してくる。
いま、n次元空間における座標点を、P(x1, x2, ..., xn), P'(x'1, x'2, ..., x'n) とすると、その距離は...

  √{(x1 - x'1)2 + (x2 - x'2)2 + ... + (xn - x'n)2}

そして、三角関係 P, P', P" において、PP' + P'P" ≧ PP" が成り立つ。
さらに、P を中心とする半径 δ となる n次元の球の境界を考察すると...

   |x1 - x'1| < δ, |x2 - x'2| < δ, ..., |xn - x'n| < δ

まずもって数の連続性を想定することが、解析学における基本的な思考となるが、あの忌々しいやつが思いっきり匂い立ってやがる。ちなみに、ε-δ論法風に記述するとこんな感じか...

f(x) が x = a において連続であるということは、
  x → a の時、f(x) → f(a)
であることにほかならず、
  |x - a| < δ の時、|f(x) - f(a)| <ε
となるは必然...

2. 平均値の定理
連続性が想定できれば、平均値を考察するというのは、最も素朴な思考法であろう。そして、平均値を極限に近づけることが重要となる。
まず、微分における平均値の定理では、ラグランジェとコーシーのものが紹介される。

・ラグランジュの平均値定理
f(x) は区間 [a, b] において連続、(a, b) において微分可能とする。然らば、

 f(b) - f(a)

 (b - a) 
 = f '(ξ),  a < ξ < b

なる ξ が存在する。

・コーシーの平均値定理
区間 [a, b] において f(x), g(x) は連続で、(a, b) において微分可能とする。然らば (a, b) 内の或る点 ξ において、

 f(a) - f(b)

 g(a) - g(b) 
 =   f '(ξ)

 g '(ξ) 
,  a < ξ < b 

ただし、g(a) ≠ g(b)、f '(x), g '(x) は区間内で同時に 0 にならないと仮定する。

次に、積分法においては、第一平均値定理と第ニ平均値定理が紹介される。

・第一平均値定理
区間 [a, b] において f(x) は連続、φ(x) は積分可能で、一定の符号を有するならば、
a < ξ < b なる或る点 ξ において、

b
a
f(x)φ(x)dx  =  f(ξ) b
a
φ(x)dx

・第二平均値定理
区間 [a, b] において f(x) は積分可能、また φ(x) は有限で単調とする。然らば、

b
a
f(x)φ(x)dx  =  φ(a) ξ
a
f(x)dx  + φ(b) b
ξ
f(x)dx ,  a ≦ ξ ≦ b 

なるξが存在する。

3. 定積分の近似法
積分法を、平均値や総和で考察する観点は、統計学的とも言えよう。ここでは、シンプソンの方法とガウスの方法が紹介される。
尚、どちらも定積分のアルゴリズムとして実装しやすく、幾度となくお世話になっている。

・シンプソンの方法
区間 [a, b] を 2n 等分して、各分点に対応する f(x) の値を y0, y1, y2, ..., y2n とし、
h = (b - a)/2n と置き、近似値として、

 h

 3 
(y2i - 2 + y2i + 4y2i - 1)

を取って i = 1, 2, ..., n 上にわたって統計すれば、

b
a
f(x)dx  ≒   h

 3 
{y0 + y2n + 2(y2 + y4 + ... + y2n - 2) + 4(y1 + y3 + ... + y2n - 1)}

... これが、シンプソンの公式である。

一方、ガウスの方法では、ラグランジュの球関数を利用する。
いま、n - 1 次以下の多項式 Q(x) に関して、

b
a
Q(x)Pn(x)dx = 0

になるような n次の多項式 Pn(x) を求めることを考える。そして、区間 [-1, 1] において関数が定まるという。
Pn(x)  =   1

 2n・n! 
 dn

 dxn 
(x2 - 1)n

... これが、ラグランジェの球関数である。

・ガウスの方法
さて任意の連続関数 F(x) がある時、区間 [-1, 1] において、xv およびそのほか n 個の点、すなわち合わせて 2n 個の点において F(x) と等しい値を有する 2n - 1 次以下の多項式を f(x) として、それを F(x) に代用して、∫F(x)dx の近似値として、∫f(x)dx を取れば、

1
-1
F(x)dx  ≒  n

v = 1
PvF(xv)

n個のF(xv)だけを用いて、近似値が計算されるところにガウスの方法の特色があるという。

4. ガウスの定理とストークスの定理
多変数の積分は、なかなか悩ましい。ここで重要な数学の道具は、発散(div)と回転(rot)の概念である。ここでは、ガウスの定理とストークスの定理を挙げておこう。なにしろ電磁気学で欠かせないのだから。
まずは、ベクトル場の記述から、

  div u = ∂a/∂x + ∂b/∂y + ∂c/∂z
  rot u = (∂c/∂y - ∂b/∂z, ∂a/∂z - ∂c/∂x, ∂b/∂x - ∂a/∂y)

さて、ガウスの定理は、閉曲面 S において、内部区域 K に関する三次元積分を表す。具体的には、(x, y, z) の三つの関数において、

  a(x, y, z), b(x, y, z), c(x, y, z)

が、K において連続的に微分可能とすれば、



S
a dydz + b dzdx + c dxdy = 

K
(ax + by + cz)dxdydz

... これが、ガウスの定理である。
別の表記では、閉曲面 S の各点において、外部への法線の方向余弦を cos α, cos β, cos γ とすると、



K
(ax + by + cz)dω = 

S
(a cos α + b cos β + c cos γ) dσ

dω は K の微小領域、dσ は S の微小面積。
さらに、より簡単な記述は、(a, b, c) をベクトル u の座標とし、法線上に単位ベクトルを n とすると、



K
div u dω = 

S
u・n dσ

次に、ストークスの定理では、ガウスの定理において、div u = 0 の場合を考える。
任意のベクトル v = (a ,b, c) において、

  u = rot v = (cy - bz, az - cx, bx - ay)
  n = (cos α, cos β, cos γ)

と置くと、



S
u・n dσ = 

S
((cy - bz)cosα + (az - cx)cosβ + (bx - ay)cosγ) dσ

結局、曲面 S で面積分したものが、その境界線 C で線積分したものと一致するという。



S
(cy - bz)dydz + (az - cx)dzdx + (bx - ay)dxdy = 

C
a dx + b dy + c dz

... これが、ストークスの定理である。
さらに、C の接線 t と S の法線 n を対応させると、簡略化できる。



S
rot v・n dσ = 

C
v ・t ds

尚、ds は C の微小弧。

2015-11-08

"初等整数論講義" 高木貞治 著

ガウスは、整数論を数学の中の数学と論じたそうな...
整数論は、デジタルシステムを設計する上でも礎をなす道具。そして三十年来、この書にいつも引き戻される。今更感に苛まれながらも古典に縋る思いは、数学に落ちこぼれた者の宿命か、いや幸福か。もとより初等数学と高等数学に明確な境界はないが、有理数の領域に限定してくれるだけで、ちょっぴり安堵する。ここでは、ε-δ論法なんて言いっこなしだ!
しかしながら、素のイデアルを考察する段になると頭痛がはじまり、何度読み返しても最後まで辿り着けたためしがない。それも、プラトンが唱えたイデアという純粋な魂の型を完全に失った泥酔者の宿命であろうか...

デジタルシステムにおける最も有用な概念は、整数論的な近似法であろう。アルゴリズムの実装検討において、変数や定数を抽出し、多項式や微分方程式までは組み上げることができても、そこに解があるかどうかがシステム実現への鍵となる。問題は、解がない時である。解が見つからないから実装できない!などと言って仕事を放棄できればいいが、そうはいかない。人間社会では、じっくりと時間をかけて完璧な答えを得るよりも、思いっきり手を抜いてそこそこ正しそうな答えを得る方が有用な場合が多い。極端に言えば、解の公式よりも、そこに内包される判別式の方が重宝されるということだ。
ではどうやって、そこそこ正しそうな答えに迫るか?まずは数の本質を見極めること、すなわち素(そ)を探求することであろう。物理学が素粒子はどこまで素粒子なのかを求めるように、数学もまた数はどこまで素なのかを求めてやまない。いまや数学の研究対象は数(かず)ではなく、演算の結果、解がどの系に属すかという性質を巡ってのものへと移ってきた。自然数の弱点は、減法や除法によって解が系からはみ出すことにある。演算によって系が閉じられないという現象が、数の体系を整数、有理数、実数、複素数へと抽象化させた。そこに集合論が結びつくと多項式までも呑み込まれ、体、群、環、イデアルへと抽象度を高める。整数の正体を見極めるために素因数分解を試みるように、多項式もまた素となる成分で分解しようとする。
本書は、約数を持たない素数から、共通の約数を持たない互いに素の関係を経て、素のイデアルに迫ろうとする。その過程で、モジュロ世界に幽閉すれば、素の光景も変わって見える。そう、原始根ってやつだ。ある素数を法とする除法の周期性が、あるいは、その合同式が解を有するかどうか... こうした考察が、いかに数の本質を明るみにしてくれるかを味あわせてくれる。

また、二次体の理論において、x2 + y2 = a2 の解にこだわる様子は、複素共役の関係にあるノルムの意義のようなものを語ってくれる。ガウスは、四乗剰余の相互法則を求めるに際し、整数の概念を複素数に拡張する必要性を認めたという。共役な関係を同一の因数と見做せるならば、実装上の演算を極端に減らすことができ、めでたしめでたし!
複素数系における共役は、別の系では、ある単数型を掛けて符号が変わる関係というように単純化できる。そう、同伴の関係だ。i(愛)を賭(掛)けることが同伴を意味するとなれば、二次元愛の虜となろう。整域とは、まさに聖域!さっそく鏡の向こうの住人が、夜の社交場という聖域へ向かって同伴メールを送ってやがる...
そして更に、n次元で抽象化すれば、フェルマーの最終定理となる。解法の基本形式が円の方程式、あるいは、n次元の球の方程式で抽象化できるとすれば、整数がモジュロ世界に閉じられる様子は、まさに幾何学に投影した姿と言えよう。実際、三角関数で非常によい近似を与えてくれる古典的な方法にフーリエ変換があり、あるいは、暗号システムでは素数の原理とモジュロ演算が絶対に欠かせない。自然界は、人間社会で重宝される四則演算よりも、除法における余りの方が重要だと言っている。余り物には福があるとは、よく言ったものだ...

1. 数の体系と方程式系
本書は、不定方程式という伝統的な用語を用いている。ディオファントスの方程式と呼ばれるやつだ。そして、最も単純な一次不定方程式がこれ...

  ax + by + cz = k

この式が、解を有するための必要かつ十分な条件は、k が d = gcd(a, b, c) で割り切れることだという。gcd : greatest common divisor(最大公約数)
言い換えると...

  f(x, y, z) = ax + by + cz

によって表される数は、d = gcd(a, b, c) の倍数の全体である... となる。
そして、ある数の集合の元から加法や減法によって作られる数が、やはりその集合に属するかどうか、こうした性質を考察することが整数論、ひいては集合論の鍵となる。

2. 合同式の概論
人間社会では、四則演算が一定の地位を保ってきた。しかし、第五の演算と呼ばれるモジュロ演算こそ、四則演算のすべてを抽象化する能力を持っている。すこぶる単純な概念でありながら、人間の感覚では、ちと馴染みにくいというだけのこと。
例えば、整数 a, b の差が m の倍数であるとき、a と b は、 m を法として互いに合同である。

  a ≡ b (mod m)

こうした合同式は、相等、相似、対等などと同じ範疇に属する関係であるという。
反射的: a ≡ a (mod m)
対象的: a ≡ b ならば、 b ≡ a (mod m)
推移的: a ≡ b, b ≡ c ならば、a ≡ c  (mod m)

こうした性質は、数に対するだけでなく、多項式までも合同式として捉えると、解釈の幅が広がる。仮に、素数の分布に周期性があるとすれば、どの数を法とするか?などと悩む必要はなくなるかもしれない。さらに、ゴールドバッハ予想が正しければ、すべての数は素数と 1 の加法で定義できることになる。
「2 以外の偶数は二つの素数の和として表し得る」

そして、この定理がより一層輝きを放つであろう。
「法 p が素数である時、n 次の合同式 f(x) ≡ 0 (mod p) は、n よりも多くの解を有することを得ない。」

実際、ファルマーの小定理で定義される合同式は、暗号システムで重宝される。
「p が素数で、a は p で割り切れないならば、a(p-1) ≡ 1 (mod p)」

3. 平方剰余の性質
平方数の性質は、例えば... ある平方数を 3 で割った余りは 0 か 1 で、2 になることはない。4 で割った余りもまた、0 か 1 で、2 や 3 になることはない。ここで重要なのは、除数と素数の関係である。そして、合同式、xn ≡ a (mod p) が解を有するかどうか?を問うことが意味を持つ。
これをルジャンドルの記号で表記すると...

(  a

 p 
)  =  +1 or -1 (解がある時、+1, ない時、-1)

そして、次の法則が成り立つという。

「オイラーの基準
(  a

 p 
)  ≡  a(p-1)/2 (mod p)

「平方剰余の相互法則」
(  p

 q 
) (  q

 p 
)  =  (-1){(p-1)/2}・{(q-1)/2}

「第一補充法則」
(  -1

 p 
)  =  (-1)(p-1)/2

「第ニ補充法則」
(  2

 p 
)  =  (-1)(p2-1)/8

こうした性質を利用して、不定方程式の解の範囲を絞り込むという寸法よ。絞り込んだところで、完全な解が得られるとは限らんが...

4. 連分数とミンコフスキーの定理
実数の連分数展開が、有用な近似分数を与えてくれる。そこで、主近似分数と中間近似分数の見極めが重要となる。本書は、その手段として平面格子を用いた思考法を紹介してくれる。座標平面上の格子点が、有理数を表すことはイメージしやすい。
「面積 1 なる正方形を基本とする格子の一点に中心を置いて、面積 4 なる任意の平行四辺形を描けば、その内部または周上に中心以外の格子点が必ず含まれる。」

ミンコフスキーは、さらに拡張して平行四辺形を任意の有心凸形で置き換えたという。有心凸形とは、平行四辺形の辺を楕円で膨らませたような、卵型をしている。
「格子点に中心点を置いて面積が 4 なる有心凸形を描けば、その内部または周上に中心以外の格子点が含まれる。」

二次元空間における格子点で不定方程式の解が絞り込めるとすれば、ミンコフスキーの定理は二次体と相性がよさそうである。そして、複素平面も意味深いものとなる。
「二次無理数は、循環連分数に展開される。」

5. 二次体と同伴解
二次方程式 ax2 + bx + c = 0 の解と言えば、義務教育から叩きこまれたこの形...

 x   =   -b ± √(b2 - 4ac)

 2a 

ここで重要なのは、D = b2 - 4ac が判別式として使えること。中学レベルの算数も馬鹿にはできない...
「D が二次無理数の判別式であるがために必要かつ十分な条件は、D は平方数でなくて、D ≡ 0 または 1 (mod 4) であることである。」

そして、整数論において、二次体は重要な意味を持つことになる。
「二次不定方程式: ax2 + bxy + cy2 = k において、
(第一) D < 0  ならば、整数解があるとしても、それは有限個に限る。
(第二) D > 0  で、D が平方数でない時、解があるならば無限の多くの解があるが、それらの解は有限組の同伴解に分かれる。」

複素共役の重要な性質は、互いに掛け合わせると...

  (a + ib)(a - ib) = a2 + b2

つまり、複素数系において共役な関係を同一の因数とみなせば、整数系に引き出される。そして、ノルムに意義を与え、幾何学的には距離を考察することになる。

6. 二次体のイデアル
いま、x + y√m を簡単化するために、K(√m) と表記する。そして、二次体 K(√m) において、整数μで割り切れる整数の全部を一つの集合とすると...

(1) この集合に属す任意の二つの整数α, βの和および差は、やはりこの集合に属す。
(2) この集合に属す整数αの任意の倍数λαは、やはりこの集合に属す。
(3) α1, α2, ..., αn がこの集合に属すならば、λ1, λ2, ..., λn を任意の整数とする時、λ1α1 + λ2α2 + ... + λnαn もこの集合に属す。

(3)は、(1),(2)から導き得るが、(3)は(1),(2)の特別な場合だという。そして、イデアルをこう定義している。
「二次体 K(√m) の整数の集合が (1), (2) の性質を有するとき、その集合を一つのイデアルという。」

さらに本書は、共通の約数を持たない原始イデアル、あるいはイデアルの共役について考察し、素なるイデアルを探求する。互いに共役な二つのイデアルの積は一つの有理整数から生ずる単項イデアルに等しいという。素のイデアルとは、素数を集合論に拡張したようなものであろうか。二次体の判別式を求める段になってもなお、素数がまとわりついてきやがる。既に頭は、素っからかん!またもや最後まで辿りつけないのであった...

2015-11-01

"ロウソクの科学" Michael Faraday 著

マイケル・ファラデー... この名を耳にするだけで、あの忌々しい記憶が蘇る。電磁気学の赤点地獄!俗界の泥酔者は、純真な心を取り戻すために、このあたりから科学をやり直す必要がありそうだ。いや、燃え尽きた炎は取り返しがつかない...
1860年の暮、ファラデーは、Royal Institution(王立研究所)において、少年少女のために6回に渡って講義を行った。このとき七十... 1867年、静かな晩年のうちに逝く。本書は、その講義をウィリアム・クルックスが編纂したものである。ロウソクが如何に科学の夢を抱かせる題材となりうるか... ファラデーのクリスマスプレゼントが歴史を刻む。
尚、いくつか翻訳版がある中、科学のいにしえに浸るために、あえて黴臭い矢島祐利訳版(1956年, 岩波文庫)を手にとる。

人類の炎の歴史は、原始のたいまつからロウソクに至るまで長い年月を要してきた。火の使い手となり、火の崇拝者となり、やがて暗黒を照らす道具は信仰の域に達する。人々がどのような方法で家の中を照らしているかは、文化の尺度とすることができよう。そして近代文明は、イルミネーションという人々の心を動かす技術を開発した。燃焼エネルギーの余力によって。ただ、余力とは、浪費と解することもできる。
人生をロウソクになぞらえるのは、詩人や作家だけの特技ではあるまい。ファラデーは、ロウソクの燃焼原理を人体の呼吸メカニズムと重ねながら、熱機関の寿命としての等価性を熱く語る。主要な登場人物は、酸素、水素、窒素、そして炭酸ガス。中でも、燃えるために重要な役割を演じているのは酸素と水素だ。
しかしながら、本当に重要な役割を果たしているのは、不活性な気体の方かもしれない。本書は、空気中の酸素と窒素の容積比が 20 : 80 となり、総質量比が 22.3 : 77.7 となる様子を情熱的に物語る。つまり、不活性な窒素が圧倒的に多いことが、地上を炎の海に包むことなく、生命体にとって適度な環境をもたらしてくれる、というわけだ。動物が生きるためには酸素を必要とするが、植物が生きるためには炭酸ガスを必要とする。おまけに、動物は植物がなければ生きてはいけず、まったく自立性を欠いている。
何事も共存のためには、不活性な部分が必要である。動物よりも植物の方が圧倒的に多いから、生命体にとって地上は楽園であり続ける。政治論争においても、感情論に走ったり、暴徒化する連中を冷たい目で眺める人々がいるから、社会が成り立つ。この割合のバランスを欠くと、犯罪や武装勢力が勢いづき、緊迫した社会となろう。理性と感情、あるいは知性と衝動の割合は、どちらが多いかは知らん。そして質量比で逆転するのかもしれん。いずれにせよ、集団性において善玉菌よりも悪玉菌の方が感染力が強いのは、確かなようである。ファラデーは、講義の最後をこう締めくくる。
「諸君の生命が長くロウソクのように続いて同胞のために明るい光輝となり、諸君のあらゆる行動はロウソクの炎のような美しさを示し、諸君は人類の福祉のための義務の遂行に全生命をささげられんことを希望する次第であります。」

ところで、ロウソクの性能向上を実感できる場といえば、葬儀であろうか。遺体の前では、ロウソクの火を絶やさぬよう、一晩寝ずの番をする。だが、最近のロウソクは、一晩中消えないよう工夫がなされる。球形で、蝋が溜まる皿が大きくなるように。この原理が分からず、結局一晩、寝ずに考えこむ。とはいえ、科学の進歩は、ロウソクの火を3D映像化させるだろう。自分の身体が仮想空間にあるのかも分からない時代では、生きていることを実感することが難しい...

1. そこの奥さん、ちょっと、みてみてみて!
ファラデーは、実際にロウソクを作って見せる。どこぞの実演販売風に...
ここに取りい出したる、牛の肝臓の脂肪と硫酸。さて、やり方はこうです!まず、獣脂つまり脂肪を石灰で煮て石鹸をつくりましょう。次に、硫酸を加えて石灰を除き、脂肪の中のステアリン酸を取り出すと、グリセリンができました。このような化学反応によって、なんと獣脂からグリセリンができちゃいます。
ところで、そこの奥さん!グリセリンが砂糖にも似た味のある液体というのは、ご存知?さらに、圧出によって油酸を取り除きましょう。圧力をだんだん強くしますと、一緒に不純物が運び去られて固形体が残ります。これを溶かせば、はい!ステアリンロウソクの出来上がり...
尚、物理学の光度には、カンデラという単位があるが、これも獣脂ロウソクという意味のラテン語に由来するとされる。

2. 糸芯ロウソクの原理
ロウソクの原理は、単純そうで、なかなか手強い!ランプの場合は、油だけでは燃えないので、芯の先まで運ばれ、空気と触れて燃える。対して、ロウソクは、芯の先まで何も運ばれないのに、その場を維持して燃え続ける。摩訶不思議?これを、ファラデーは、空気の流動だけで説明してのける...
炎の熱のために、下から上に向かって空気の流れが生じる。外側は冷却されることになるから、炎の縁は真ん中より温度が低い。内側は炎が芯を伝わって下へ行って溶けるが、外部は溶けにくい。したがって、炎の周辺の蝋は、中央が凹んだ皿を作る。重力が蝋の液体を表面張力によって水平に保とうとし、皿から液が溢れ出て落ちる。しかもその溢れ出る外側を溶かす速度で燃え続けるという寸法だ。
言い換えれば、燃える時に、上部で皿を作る性質を持たない物質では、ロウソクは作れない。
また、炎が燃焼物質を捕まえる原理は、「毛細管現象」と同じだという。細い管を水の中に浸すと、水が水面よりも上に管を登る。水銀の場合は、逆に降りる。溶けた蝋は表面張力によって維持され、溶けた脂肪の油が芯を伝わって登っていくというわけだ。上昇気流による冷却と、皿を作る性質というだけで... これほど自然を味方につけた技術があろうか!

3. 燃えないものと燃えカス
燃焼の結果、残るものは窒素で、匂いもなく、味もない。水にも溶けず、酸性でもアルカリ性でもない。人間の感官ではほとんど感じられない、まさに虚無な存在。
酸素はものを盛んに燃えさせるが、窒素は火を加減し、人間の使用に耐えうるよう調節してくれる。人間社会にとって、すこぶる有用な働きだ。まったく無気力な存在が、燃えすぎる存在を抑制してくれる。情報化社会で加熱する世論の中にあって、集団性から距離を置き、ニヒリズムが旺盛になるように。窒素は、酸素の他の物質とも容易に結合しようとはしない。共有や仮想友人で結びつきの旺盛な社会では、なおさら貴重な存在だ。
しかしながら、残るものはそれだけだろうか?残るのではなく、燃焼によって発生するものがある。そう、炭や煙、すなわち、炭素や炭酸ガスだ。動物から見れば燃えカスだが、植物から見れば、まさに生命の源。人間は生きてせいぜい百年だが、植物には何千年も生きるものがいる。有史以来、人間どもをずっと観察してきたヤツもいるだろう。静粛しきった植物だって、なんらかの周波数を発している。そこに言葉がないと言い切れるだろうか。人間の知能で自然のすべてが語れるわけもない。人間が言葉として捉えられるのは、知覚能力で制限される特定の周波数帯域のみ。自然の声を耳にするには、資格が必要なのかもしれん。曇のない魂の持ち主ならば、ひょとしたら聞こえるのかもしれん。植物たちは、動物たちが何をそんなに騒いでいるのか?と冷たい眼で眺めていることだろう。炭酸ガスは、空気よりも重たい気体となるところに意味がある。CO2の多い世界とは、騒がしい世界を少し静かにさせようという神の目論見であろうか...

4. 燃料電池の先駆けを垣間見る
ファラデーは、ヴォルタ電池を使って、燃える原理を説明するための実験を披露する。二枚の白金板を置いて、銅と硝酸からできた溶解液を接触させると、白金板の表面に銅が付着し、電極が形成される。この溶解液に何を用いるかが、科学者の見せ所!
カリウムが水を分解する様子は、ちょうどロウソクが空気から酸素をとるように、水から酸素をとって水素が分離される。カリウム自身は酸素と化合する。水素が分離されるということは、燃えやすい部分を切り離すことを意味する。水素と酸素の混合物を燃やしてみると、その配分によっては、水素が多いと爆発するほどのエネルギーを秘める。ロウソクが燃焼することで、取り出した水素を燃やし、水を作るのと同じ原理だ。そして、カリウム、亜鉛、鉄などにどんな燃焼力が潜んでいるか、化学の成果というべきものを披露してくれる。
「水素はその燃焼の産物として水を生ずるところの、自然における唯一の物質であることを記憶にどとめておくことが肝要です。」
このような物語を眺めていると、今日注目される燃料電池を彷彿させる。燃料電池は、まさに水素と酸素から電力を取り出す原理を利用する。これをロウソクの産物と解するのは行き過ぎであろうか...

2015-10-25

"化学のはじめ 増補訂正版" Antoine-Laurent de Lavoisier 著

化学革命の父と呼ばれるアントワーヌ・ラヴォアジエ。バケガクで赤点の危機にあったおいらには、忘れられない名だ。今日認められる元素のアイデアを確立し、それを分かりやすく整理したものが、この入門書である。
ラヴォアジエは、フロギストン説を打破した人物としても知られる。古代ギリシアの自然哲学者たちは、万物の根源的な存在をアルケーと呼び、四大元素説を唱えた。あらゆる物体は、火、空気、水、土の四つの要素によって構成されると考えたのである。この説を覆したのが、1789年に出版された「化学のはじめ」というわけだ。仮説ってやつは、否定を証明された時、はじめて偏見であったことに気付かされる。18世紀になって、ようやく化学は形而上学からの脱皮を図ろうとする。この間、二千年とは!現代科学が迷信に囚われていないと、どうして断言できようか...
尚、この文句は、化学者フランソワ・ルエルが、実験室の最も目につく場所に大きな文字で書き記したものだという。
「さきに感覚に在らざりしところのなにものも、悟性に在ることなし。」

化学とはなんであろう...
元素の組み合わせや結びつきから、性質の違う物質が生まれる。物質には、人体にとって良いものや悪いものがあり、ちょいと組み合わせを変えるだけで良いものが悪いものに、悪いものが良いものに変わる。まさに化ける様子を学ぶというわけだ。その性質を知るために、構成される元素とその比重を調べ、結びつき方を観察する。実験の考え方そのものは極めて単純!分解と結合を繰り返すだけ。物質を細かく砕き、ふるいにかけ、天秤にかけ... これが化学の基本操作であり、パラダイムだ。... などと言えば、人間関係の極意を語っているようでもある。元素はどこまで元素なのか、素粒子はどこまで素粒子なのか、これは人類にとって永遠のテーマとなろう。
「化学は、分解、再分解さらにその再分解の分解を経て、その目的と完成に向かって進む。」

新たな元素が発見される度に、性質に適合する命名規則を模索する。化学には、まさに命名の哲学が内包されている。言語は、事実を描くものでなければならないと同時に、アイデアを生むものでなければなるまい。道はひたすら単純化することにあるが、人類はいまだ合理的な言語体系を編み出せないでいる。凡庸な、いや凡庸未満の泥酔者には合理性が複雑系に見えるが、天才にはそれが単純化に見えるのであろうか。そして、くだらない悩み事から解放され、真に悩むべき事柄に没頭できるのであろうか...
「われわれは言葉の助けによって考えること。言語は真の分析方法であること。表現のすべての方法に、その目的を満たしてくれる最も簡単、最も正確、最も優れている代数は、一つの言葉であり、また分析方法であること。最後に、論理学はよく整った言語に縮少される。」

1. ラヴォアジエとラヴォアジエ夫人
ラヴォアジエは、科学者としては変わり種だったようである。最高裁判所検事の長男として生まれ、マザランカレッジで法律を学び、区裁判所の弁護士になったとか。徴税管理官や火薬管理官を勤め、農家の貧困と老衰を保護するための保険制度を草案し、「フランス王国の国富について」という報告書を作って、合理的な税制を施すための基礎を作ったという。
科学者としても優れた教育を受け、数学、天文学、化学、植物学、地質学、鉱物学などを学ぶ多彩な天才だったようである。数学者のラグランジュやラプラスらとともに度量衡の単位の改制に務め、その労作は今日のメートル法の基礎になったという。
宗教心の強烈な時代では、これに対抗するために、自然科学をはじめとする普遍の学問を欲するのであろうか。ルネサンス期に多くの万能人を輩出したように...
しかしながら、科学者にとって皮肉な事件が勃発する。フランス革命ってやつが。革命裁判にかけられ、裁判官コフィナルのあの言葉を耳にしょうとは...
「わが共和国には科学者はいらない。さあ、裁判を続けよう。」
税の負担を軽減しようと努力してきた徴税管理官は、不当な掠奪、搾取の罪を問われ、コンコルド広場でギロチンの露と消えた。ラグランジュの残した言葉が響く...
「彼らはたった一瞬の間に、この首を落とすことができたが、これと同じ頭脳を得るには一世紀あっても足りないであろう。」
ここで、ラヴォアジエの実験器具へのこだわりも然ることながら、ボールズ夫人の存在が大きかったことを付け加えておこう。この才能高き婦人は、画家ルイ・ダヴィッドに絵画を学び、本書に添付される実験器具のスケッチや製図は、彼女によるものだという。天才ラヴォアジエの実験助手として科学史に名を留めるべき人物である。地道な実験人生では孤独の闘いを強いられる。化学革命の女神のような存在があったからこそ、偉大な功績が残せたのであろう。彼女の作品は妙にリアリティがあり、木造校舎の理科の実験室を思い出させてくれる。蒸留酒を作るための装置、いや酒蔵のスケッチに見えてくるのは、精神が泥酔しているせいであろうか?いや、君に酔ってんだよ!

2. 元素表と熱素(カロリック)
本書には、32個の単一物質が紹介される。大まかに分類すると、物体の基本を成す単体(5つ)、酸化する非金属(6つ)、酸化する金属(16つ)、土類で塩となる単体(5つ)の四種。物体の基本を成す単体には、光、熱、酸素、窒素、水素を挙げている。まさかこの時代に、光子の概念があったとは思えないが、熱を含めてある種の力のような存在を考えていたようである。力があれば質量が存在し、そこに物質なるものが存在すると考える。それは、物質と熱との間に、親和力、吸引力、はたまた弾性力を考察している点に見て取れる。
そして、「質量保存の法則」が記述される。化学反応によって元素が増加したり減少したり、他の元素に転化したりはしないと。つまり、光も熱も元素である必要があるという考えである。
固体に熱を加えると、液体や気体になって容積が増加する現象を、熱の素が分離することで説明し、これに「calorique」と名づけている。いわゆる、カロリック説というやつだ。
しかしながら、力の正体については、アリストテレスの運動論以来、インペトゥス、モーメント、トルク、フォースなどと用語が乱立してきた。ニュートンは質量を万有引力で説明し、アインシュタインはあの有名な公式で質量とエネルギーの等価性を示した。ここに、力は質量を通じてエネルギーと結びつき、今日では、熱量と仕事量の等価性からエネルギー保存の法則、すなわち熱力学第一法則で説明される。
だからといって、力の定義の曖昧さが解消されたわけではない。エネルギーってやつは奇妙なもので、質も、量も、力も、運動という概念の中で都合よく抽象化される。その証拠に、人間はあらゆる関係において力が生じることを本能的に知っており、政治の力、金の力、愛の力... などと物質欲の幻想に憑かれている。ラヴォアジエが、熱の正体を物質で説明しようとしたのも道理であろう。カロリックがカトリックと同じ音律に響くのは、偶然ではないのかもしれん。そう、同じ熱病よ!

3. 大気の命名
ジョゼフ・プリーストリーとカール・ヴィルヘルム・シェーレ、そしてラヴォアジエが同時に発見した空気についても言及される。本当のところ、誰が最初だったかは知らん...
当初、ラヴォアジエは、「air éminemment respirable(優れて呼吸に適した空気)」と名づけたという。そして後に、「air vital(活性空気)」と呼ばれるようになったことに、苦言を呈している。空気を分解して窒素と酸素を見出し、呼吸に適するかどうかという性質から迫っている。窒素については、ギリシャ語のゾイ(生命)に否定詞 a をつけて、「azote(アゾト)」と名づけている。
また、ラヴォアジエの名は、酸素の発見者は誰か?という論争でも見かける。歴史上の功績は、プリーストリーということになっているが、シェーレの実験抜きには語れない。そして、命名したのがラヴォアジエということで落ち着いているようである。
本書には、二つのギリシア語、oxys(酸)と genen(つくる)から、oxygen(酸素)と名づけた様子が語られる。酸化についての系統的な命名法を決定して、硫酸、リン酸、炭酸... とし、分子構成と性質によって、お馴染みの、いや!蕁麻疹の出そうな、 oxide...、acide... と命名する様子など。そして、燃える物質という視点から、酸素の飽和度で分類される。例えば、オキソ酸は、ヒドロキシ基(-OH)とオキソ基(=O)の結合によって構成されるが、その種類では、硫酸 H2SO4 や酸素が一つ少ない亜硫酸 H2SO3 で区別されるといった具合に...
当時、「化学命名法」を発表して伝統的な言語系をすっかり変えてしまい、世間から猛烈な非難を受けたことを苦々しく語ってくれる。ラヴォアジエの化学改革を推奨したウプサラ大学のベルクマン教授は、こう書き残しているという。
「不適切な名称はどんなものでも容赦してはならない。それまでにそれを知っている者は、いつまでも覚えていることになるし、まだ知らない者は、ただちに覚え込むであろう。」

4. 酒精発酵と酒の聖霊
アル中ハイマーと呼ばれるからには、「酒精」という用語に反応せずにはいられない。アルコール、エタノール、エチルアルコールなどと呼び方は違えど...
発酵も腐敗も似たような現象である。ただ違うのは、化学反応を起こした結果、人体にとって好ましいかどうか。物体が固体、液体、気体の三態のいずれかで存在しうるのは、世間で常識とされる。
では、それらの魂とはどういう状態であろうか?固体のように頑なになることもあれば、液体のようにドロドロした人間関係もあり、アルコール濃度の高いものと反応すれば、カッとして揮発する。はたまた、腐ったものが、必ずしも悪いものとは言えない。適度に腐れば、それは発酵と呼ばれ、酒の精霊となる。さらに蒸留して熟成すると、記憶までも蒸発してしまう。化学の最大の貢献は、錬金術なんぞではあるまい。魂を聖霊と化すことであろうか。やはり化学実験には、蒸留と濾過は欠かせない。固体と液体を分離する道具では、デカンテーションが紹介されるが、デキャンタと言ってくれた方が親しみやすい。そう、バー用語だ。おまけに、物体が蒸留して固形の状態に凝結することを、「sublimation(昇華)」と名づけている。今宵も、精神を昇華させるために、夜の社交場へ向かう衝動を抑えられそうにない...

2015-10-18

Win 10 にアップして... あっぷっぷ!

十月になって、一段と催促が激しくなったようである。おまけに、事務員さんが、何かの拍子にアップデートが勝手に始まった!と騒ぎよる。仕事が落ち着いたらアップデート計画を立てます... 年内にはなんとかします... と通達してきたが、しょうがねぇなぁ!
結果的に、大した問題はなかったにせよ、精神衛生上よろしくない。コンピュータ業界に限らず通信業界もそうだが、横暴な宗教勧誘は勘弁願いたい。誰か残業代、いや睡眠代を払ってくれ!
... こんな愚痴がこぼれるのも、M性の定めであろうか。ちなみに、M性とは、Mさんの奴隷になってもなお、もっといじめて!とピロートークを仕掛けてくる人のことを言うらしい...

まず、対象マシンは...
  Surface Pro3           : Win 8.1 Pro 64bit
  Dell Studio XPS8100    : Win 7 64bit
  Dynabook Satellite J70 : Win 7 32bit # どうしてもと頼まれた!

とりあえずの心得は、サードパーティのウイルス対策ソフトは削除しておくこと、常駐プログラムはなるべく止めておくこと、そして、ドライバの対応状況を確認しておくこと、ぐらいであろうか。まだまだ情報不足の感はあるが、あとは問題が発生したら考えるとしよう。
いくらなんでも、Surface は問題ないでしょう!Mさん... と思ったら、なんじゃこりゃ!
一方、Dynabook はメモリを増設して無理やり Win 7 を動かしている状態で、しかも他人のマシンなので、ドライバ情報を念入りに調査して挑んだが、まったく問題なく拍子抜け!

1. 64bit系アプリケーションの実体が消えた!
64bi環境では... 64bit系アプリは、Program Files 以下に tools というフォルダを作成して、ここにインストールしている。32bit系アプリは、Program Files (x86) 以下に同じ構成でまとめている。
なんと! Program Files\tools というフォルダだけが、そっくり削除されているではないか。Surface と XPS8100 で同じ現象。"tools" というキーワードが悪いのか???ぶつかっている様子はないが...
[プログラムと機能]で調べると、"既にアンインストールされている可能性があります" だって。ショートカットやレジストリのゴミは、しっかり残っている。
おかげで小一時間、体が固まってしまった。結局、64bit系アプリを再インストールする羽目に...

2. ファイル共有とホームグループが動かない!
いきなりホームグループに参加できなければ、新たなホームグループの作成もできない。これだけで数時間悩む...
先にファイル共有を動かそうとすると、これもダメ!どうやら一旦チャラにして、再設定するとうまくいくようだ。おそらくホームグループもそうだろうと思い、一旦チャラにしようとしても、今度は[ホームグループ設定の変更]以下の項目が一切出てこない。そうこうしているうちに、この項目が出てきた。今がチャンスとばかりに、一旦チャラにして再設定するとうまくいった。そして、一台がうまく繋がると、他のマシンも問題なく繋がるようになる。結局、何が悪かったのか分からずじまい???
トラブルシューティングで最も厄介なのは、再現性がないことだろう...

3. 日本語入力システムの既定が勝手に戻される!
Google IME を既定にして再起動しても、すぐに MS IME に戻される。一旦アンインストールして、再インストールするとうまくいった。Mさんは、Gさんに恨みでもあんの???
尚、ATOKでも同じらしい...

4. Google Chrome のフォントが微妙におかしい!
web コンテンツのフォント設定がきかないケースがある。Chrome を一旦アンインストールして、再インストールすると直った。やっぱり、Gさんに恨みでもあんの???

5. 一週間ほど様子を見て、前バージョンのゴミを抹殺!
無償アップデート後、1ヶ月以内なら前バージョンに戻せることになっている。ということは、1ヶ月後に新たな問題が発生しそうな臭いがする。どうせなら、今のうちに膿を出しておきたい... と思い、disk cleanup やら手動やらでゴミを削除した。Windows.old や $Windows.~BT など...
そして、二週間経つが、今のところ問題はない。
尚、この行為は推奨されていない。こんな衝動に駆られるのも、クリーンインストールするきっかけが欲しい!という意識が心のどこかで働いているものと思われる...

ただし、Surface関係のドライバの削除で手間取る。

  SurfaceAccessoryDevice.sys, SurfaceDisplayCalibration.sys

パスはここ...
  c:\Windows.old\Windows\System32\drivers\
  c:\Windows.old\Windows\System32\DriverStore\FileRepository\

Disk Cleanup でダメ!
rd /S /Q c:\windows.old でもダメ!
所有者を変更してフルアクセス権を与えても、"別のプログラムが開いている" とのメッセージが... まさか、本当に参照されているのか?いや、どこからも参照されている様子がないし、c:\Windows\System32\ 以下にしっかりと実体がある。結局、Cygwin から管理者権限で remove した。これをやれば、出来るとは思っていたが...

所感...
何か問題が発生した場合、一旦削除したり、設定をチャラにしたりで、最初からやり直す!... これでだいたいうまくいくようだ。アップデートに成功したものの、安心できない。やはり、この手のアップデートはクリーンインストールすべきであろうか...
また、Windows update やシステム関係などは[設定]の中にあり、アイコン通知領域の設定を見つけるだけで苦労した。「とりあえずコントロールパネル」という発想は変えた方がよさそうである。
なにかと騒がせるスタートメニューについては、選択肢が増えた点では、ましになったようである。Surface では、その場でタブレットモードに切り替えられる機能はいいかもしれない。しかしながら、デスクトップ環境では、愛用してきた StartMenu X がやめられない。
尚、バッテリ残量がパーセント表示だけでなく、残りまでと充電完了までの目安時間が表示されるようになったのはありがたい。

おまけ...
ウィンドウ枠がほとんどなくなったのは、モバイル環境ではありがたい。だが、タイトルバーが白色しかないのは、ちと寂しい。これらの調整が欲しいという方が結構いるので、ついでにメモっておく...
デフォルトのままでも十分ではあるが、なぜ、このような機能を削ったり隠したりするのか?おいらには理解できない。Win 8 でも感じたことだが、ユーザ環境に自由度を与えないというのはどうであろうか?ユーザインターフェースは、用途や個人によって多様化する方が、自然に適っているような気がする。業界そのものが、ますます宗教に見えてくる...

1. タイトルバーの色変更
尚、Win 10 のバージョン 1511、ビルド10586 にアップデートすると、タイトルバーの色変更ができるようになった。1511 とは、2015年11月という意味らしい。... 2015/11/14追記。

関係ファイルは、二つ。

  c:\Windows\Resources\Themes\aero\aero.msstyles
  c:\Windows\Resources\Themes\aero\Ja-JP\aero.msstyles.mui

どうやら、"Aero" というキーワードで管理されていて、\aero 以下をコピーしてリネームするだけでいいようである。この作りもどうかと思うが...
元ネタはここ。

  http://winaero.com/blog/get-colored-title-bars-in-windows-10/

尚、このサイトのホーム(http://winaero.com/)には、「Winaero Tweaker」というツールが紹介されている。これを使うと、"Colored Title Bars" というテーマが追加される。気に入らなければ、同時に、colored というテーマのタネが生成されるので、このタネを対象テーマで直接指定すればいい。

  c:\Windows\Resources\Themes\colored\colored.msstyles
  c:\Windows\Resources\Themes\colored\Ja-JP\colored.msstyles.mui

そして、対象テーマの中にある [VisualStyles]という項目のパスをエディタで直接修正する。例えば、xxxx.theme 内の Path に colored.msstyles を指定する。

c:\Users\username\AppData\Local\Microsoft\Windows\Themes\xxxx.theme

  ....
[VisualStyles]
Path=%ResourceDir%\Themes\colored\colored.msstyles
  ....


実際、ツールと手動の両方を試したが、結果は同じ。尚、手動では、"colored" とは別の名前にしてみた(管理者権限が必要)。

2. 色彩を微調整するツール
標準機能だけでは色彩の調整が大雑把すぎるので、隠された微調整ツールを使う。
これを実行すると設定ウィンドウが出現...

  rundll32.exe shell32.dll,Control_RunDLL desk.cpl,Advanced,@Advanced

3. ウィンドウ枠のテーマには、AeroLite ってやつがある

  c:\Windows\Resources\Themes\Aero\AeroLite.msstyles

同様に、[VisualStyles]にタネを指定すればいい。

c:\Users\username\AppData\Local\Microsoft\Windows\Themes\xxxx.theme

  ...
[VisualStyles]
Path=%ResourceDir%\Themes\Aero\AeroLite.msstyles
  ...


しかし、default の幅が太いので、レジストリで細くする。

HKEY_CURRENT_USER\Control Panel\
  Desktop\WindowMetrics\PaddedBorderWidth
# default = -60  -> -20

ただし、スタートメニュー枠の影の部分が透明になって気になる。個人的には枠はほとんどなくていい!

2015-10-11

"科学革命の構造" Thomas S. Kuhn 著

宗教をも巻き込んだ科学革命の大エピソードには、コペルニクス、ガリレオ、ニュートン、アインシュタインといった人物をあげることができる。だがそれは、歴史における便宜上の問題でしかないかもしれない。科学の大転換点は、突如として出現する一人の天才だけのものではない。ささやかな観測技術の発明、細々とした理論、こうしたものが蓄積された結果、ある日、科学体系として開花させてきた。それは、進化論に通ずるものを感じる。継続的な意識がエネルギーの蓄積を伴って突然変異を引き起こすような、連続性と離散性の協調のようなものを。
科学史家トーマス・クーンは、「科学革命」に「通常科学」という用語を対置させる。通常と呼ぶからには、異常について語るということだ。彼は、「パラダイム」という概念を持ち出した人物として知られ、変革時に出現する変則性とその必然性を語る。革命ってやつは、官僚主義に陥った惰性的精神を打倒するために生じるところがある。健全な懐疑心を失った社会に、進化の道はない。
一方で、安定した周期を持つ慣習ってやつが、魂に安住の地を与える。不変の周期があるとすれば、それは世代を超えて持続されてきた知への渇望であろうか。ゲーデルは晩年... 不完全性定理は自分が発見しなくても、いずれ誰かが発見するだろう... と語った。この発言は、おそらく正しい。真理の概念は必然的な存在であり、概念が歴史の道を散歩しているようなもの。誰がその概念を歴史の舞台にあげるかは、大した問題ではないのかもしれない。
すると、人間は何のために存在するのか?人間は真理を暴くための使命を帯びているのか?人口増加とは、その確率を高めるためのものなのか?戦争とは、怠け癖のある人間を尻たたきするためのものなのか?競争の原理とは、その最終目的は宇宙法則を導くことなのか?神は随分と遠回しな思わせぶりを、人間社会に埋め込んだものよ...

知るには、まず観ること!思考の礎がここにある。そして、知識は押し付けがましいところがある。さらに、学ぶには知識の前提が必要である。学ぶとは、受動的な活動が能動的な活動に昇華する過程を言うのであろうか。知性に優れた者ほど寛容さを発揮できるのは、知識を欠いていた頃の自分自身を鋭く観察してきたからであろうか。そんな境地に達してみたいものだが...
科学理論は、後から出てくるものほど真理に近いとは、よく耳にする。アリストテレス力学よりもニュートン力学が、さらにアインシュタイン理論が優ることに疑いはない。科学は着実に客観性を進化させているかに見える。ならば、人間は主観性をも進化させているだろうか?はたまた、客観性が主観性を打倒しようとしているのか?どちらか片方でも失えば、人間を失いそうだ。真理の勝利とは、人間性を失わせることなのか?まさか...
では、真理ってやつは、本当に存在するのか?仮に存在するとして、人間の認識能力で説明できるような代物なのか?それでも真理は存在すると信じたい... などと語れば、科学もなかなかの宗教である。客観性や論理性ってやつは、崇めるに値するものなのか?いや、科学とて論理崇拝主義だけでは心許ない。社会学は心理学を経て生物学に、生物学は化学を経て物理学に還元され、そして自然学へ昇華し、やがて形而上学へ帰するのかは知らん。帰納法と演繹法とでは、どちらが王道なのかも知らん。
真理への道は、はたして抽象化が正しい作法なのか?それとも多様化が正しい作法なのか?仮に、宇宙法則という観点から正しい道というものがあるとして、それは主観的な人間にとって可能な道なのか?やはり邪道も必要である... とすれば、酔いどれだって居場所が得られる。
本書は、科学であっても、たまには社会学的に、心理学的に語ることの大切さを教えてくれる。真理の探求に、理系も、文系も、はたまた体育会系もあるまい。間違いなくセクシー系も、癒し系も、はたまたハッスル系も必須だ...

1. パラダイムとパラドックス
「パラダイム(paradigm)」という言葉の響きには、「パラドックス(paradox)」と同じ音律を感じる... のは気のせいであろうか。アインシュタインは、同時性が相対性であることを示したのか?それとも、同時性自体の概念を変えたのか?同時性と相対性にパラドックスを感じるのは、誤謬を犯しているからか?あるいは、形而下で矛盾するものは、形而上では矛盾しないとでも言うのか?このフレーズを眺めるだけでも、パラダイムという用語に多義性があることが分かる。
「ニュートンの法則は、時にはパラダイムであり、時にはパラダイムの部分であり、時にはパラダイム的である。」
哲学的な用語とはそうしたもので、真理を探求すれば必然的に言語の限界に挑むことになる。言語システムは、真理に到達していない人間が編み出したものだから。にもかかわらず、専門家の間でも用語の解釈で食い違いがあると、理解が足らないと馬鹿にする。露出狂の有識者ほど、その傾向を強めるらしい。明確に定義できないから新たな語を必要とするのであって、人によってニュアンスの違いが生じるのも自然であろうに。そもそも用語を的確に理解している者などいるのか?言葉を編み出した本人でさえも...
例えば、「抽象化」という用語でも、学問分野によってニュアンスが違う。政治屋や経済人は、曖昧さという意味を込めて、具体化しなければ無意味として片付けがちだが、社会学や歴史学では、一般化という意味合いが強いだろうか。科学や哲学では、普遍性という意味合いが強く、コンピュータ工学では、データ構造の隠蔽という意味合いで用いたりする。「客観性」という用語でも、学問分野によって度合いが違い、数学のそれは他を寄せ付けない。「信用」という用語では、道徳家は大切に用いるが、経済人は担保がなければ受け入れられない。
さて、パラダイムという用語は、コンピュータ科学やソフトウェア工学、はたまたマネジメント論やビジネス書でも見かけ、いまや一般的となっている。それは、ある学問分野を席巻する理論の法則性や思考の方向性といった総合的体系を指す言葉と理解している。本書は、こう定義している。
「パラダイムとは、一般に認められた科学的業績で、一時期の間、専門家に対して問い方や答え方のモデルを与えるもの。」
あくまでも科学に発した言葉というわけだが、研究における思考の傾向を示すからには極めて社会学的となろう。実際、論理実証主義者から非難された経緯がある。科学理論が論理的実証の立場から支えられているのも事実だ。おそらく世界は、絶対的な宇宙法則に支配されているだろうし、純粋客観にこそ真の合理性があるのだろう。
しかし、だ。人間の持つ合理性という観点からは、どうであろうか?主観すなわち直観が、思考力を牽引するところがある。相対的な認識能力しか発揮できない人間にとって、最初から客観性を得ることなどできないばかりか、獲得した客観性ですら主観性に惑わされ、おまけに、それすら気づかないでいる。ならば、人間の持つ合理性は、主観と客観の双方を凌駕するしかないのではないか。だが、どちらも完全に凌駕することは不可能ときた。やはり主観と客観の調和を求めるのが、現実的ということになろうか。
一般的な科学の方法論では、まず仮説を立て、それを検証するものと言えば、もっともらしく聞こえる。だが、研究に携わった経験のある人には陳腐に聞こえるだろう。現場では、極めて直観的な思考を試しては、泥臭くそれを繰り返している。そして、科学的な思考には、芸術的な思考がよく適合するように映る...

2. 科学者集団の社会学
客観性を崇める科学者集団の世界とて、人間社会であることに違いはない。そこには権威や名声もあれば、嫉妬や憎悪も生じる。科学界の論争で醜態を演じたものの一つに、微積分学の功績を巡るニュートンとライプニッツのものがあるが、アルキメデスの功績が明るみになると、彼らも少しは遠慮したかもしれない。
専門用語の揚げ足をとるような論争に巻き込まれると、肝心な用語の定義を忘れ、正論を語ることを怠り、ミイラ取りがミイラになることもしばしば。論争とはそうしたものである。
そこで、仮説嫌いのニュートンに、ちょいと反論しておこう。誤った仮説も全然ないよりはましよ。仮説が誤りであることは、恥でもないだろう。科学者としての恥は、概念が固定化され、広く承認され、一種の信仰告白となって誰も疑うことが許されない風潮を作ることである。ある大科学者は、常識とは18歳までに身につけた偏見の寄せ集め、と言ったとか言わなかったとか。かつて学問は、総合的で学際的な知に支えられた。現代の聖人は、古代の聖人ほど神秘的である必要はない。現代の芸術家は、古代の芸術家ほど威厳を持つ必要はない。現代の知識人は、古代の知識人ほど迷信的である必要はない。そして、現代の科学者は、古代の科学者よりも知性的である必要はないのかもしれん。実際、劣っていそうだし。だからこそ専門に特化し、そこに人生を賭けることができる。
しかしながら、専門化が進めば視野を制限し、パラダイムの変革を妨げることになりはしないか?深く学ぶことと多面的に学ぶことを両立させることは、まさにパラドックス。だが、どちらも怠ることはできない。したがって、研究のどの立場に身を置くか、これも人生の賭けだ!理論が検証され、否定されたら研究人生も終わるのだから。科学者はそれを覚悟し、研究に没頭する冒険心が求められる。自分の立場を正当化しようと固執するのは、人生の無駄を認めたくないからであろう。しかし、間違いを証明できれば、それはそれで有意義な無駄となる。無駄の概念をちょいと変えるだけで、そこに居場所が与えられるという寸法よ...
真理の探求者は、けして自己否定を拒まないものらしい。真理とは、自己愛や自己陶酔の類いよりも、遥かに心地よいと見える。パラダイムとは、理論体系だけで説明できるものではなく、研究者の意識傾向も含めて体系化された結果であろう。人類の叡智とは、知の永劫回帰のようなもの。それは、思考実験の繰り返しに支えられている。正しいことばかりを求めている人は、まったくリスクを背負えないばかりか、正しいことを何一つ掴めず、他人の後追いをしているに過ぎない... ということになろうか。そして、知識の抗争では、後出しジャンケンの原理に縋って非難攻撃を展開することになる。正しいことを掴んだ者は、多くの間違いを犯してきたはず。失敗をしたことがないと主張する者は、とこか失敗の概念を間違えている... と言わねばなるまい...

2015-10-04

"色彩論" Goethe 著

人類は、光に特別な地位を与えてきた。魂の難題を迎え入れては開眼を求め、絶望の淵にあっては神に乞う。光を与えよ!と。人間が知覚できるものの中で、これほど幻想的で、神秘的なものがあろうか。しかしそれは、闇をともなって、はじめて成り立つ情念。光は盲人を区別しない。俗世間は、相も変わらず眼の前の事象に惑わされる。物事が本当に見えているのは、どちらであろうか。絶望を見た者にしか見えない何かがある。その何かを見るためには、純粋な集中力をともなった精神活動を要請してくる。
一方で、物理学では、光は可視光線と呼ばれ、電磁波の一種に過ぎない。闇は光の存在しない状態、すなわち無であり、光学的に意味をなさない。
だが、芸術の巨匠たちは、闇の方に深い意味を含ませ、光をより効果的に用いて見事な陰影を仕掛けてくる。人間にとって、闇は光の引き立て役なんぞではない。光と闇が対照に配置されると、神と悪魔、あるいは自然と人工が同列に扱われ、物理現象に精神現象が結びついた結果、薄気味悪い無限とやらを彷彿させる。色彩が心象に現れ、ある種の有機体のようなものが生起するのである。その状態は薄明のままに留まり、いつまでも明確な意識として説明できず、もはや自分自身を啓蒙するしかない。それは精神そのものが、幻想的で神秘的な存在だからであろうか。未だ人類は、精神の正体を知らないということか。
ゲーテは、物理的現象と化学的現象に生理的現象を結びつけ、客観的な光学現象を主観的な色彩現象として考察する。無味乾燥な周波数スペクトルだけでは、色彩を語ったことにならないというわけである。とはいえ、いくら陰翳を礼賛したところで、人はみな色仕掛けに弱い...

ゲーテの自然研究は、植物学、動物学、地質学、鉱物学、骨学、色彩学、気象学など多岐に渡る。これらの共通点には、16世紀頃の汎知学に影響された神秘的な自然観があるらしい。この文豪が自然研究に没頭したことは、現在でも毀誉褒貶が絶えない。ニュートン批判に及ぶと、素人が何を言うか!と。
だが彼は、自然は物質的存在であると同時に精神的存在であるという立場を変えようとしない。学問にもそれぞれの立場がある... 利用する人、知識の人、直観する人、包括する人... そして、包括する人を最高位とし、ゲーテ自身その段階を極めようとする。学問は、専門家だけのものでもなければ、専門家が支配するものでもあるまい。科学者も元を辿れば、同じ自然愛好家であったはず。現実に素人の発想が専門知識を補完することはよくあり、専門的な知識が邪魔をして誤謬を犯すことだってある。それ故、全生涯を学問に捧げることができない者であっても、学問に寄与できないなどとは言えまい...
「芸術を高次の意味で考察した場合、願わしいのは、名匠のみが芸術にたずさわり、弟子は厳格に能力をためされ、愛好者は芸術にうやうやしく近づくだけで幸福に感じるということである。なぜなら、芸術作品はほんらい天才から生ずべきものであり、また芸術家は内実と形式を彼自身の存在の奥底から呼び起こし、素材に対して支配者としてふるまい、外面的影響はたんに自己完成のために利用すべきだからである。」

ところで、波という物理現象が人間の感知できるというだけで特別扱いされるのは、視覚だけではない。物理学的には雑音も同じく音波でありながら、人間の魂に何か訴えるものがあると、それは音楽と呼ばれる。music の語源は、ギリシア神話の詩歌の女神ムーサ(ラテン語形の musa, 英語形の muse)に遡る。いま巷で騒がれるハイレゾ音源は、人間の耳の持つ可聴帯域を超え、精神的に安心感や快感を与えるという研究報告がある。光もまた、人間の眼の持つ可視帯域を超えた領域で、身体全体で光線を浴びて感じとっているのだろうか。人間の知覚能力は、五感だけでは説明できないところが多分にある。人体構造を司る遺伝子メカニズムは、スイッチをオン/オフするだけで多様な細胞形態をこしらえる機能を具える。とすれば、人体を形成するあらゆる細胞に、なんらかの周波数感知能力が潜在的に眠っている可能性はないだろうか。それが、第六感ってやつかは知らん...
「人間は世界を知る限りにおいてのみ自己自身を知り、世界を自己の中でのみ、また自己を世界の中でのみ認識する。いかなる新しい対象も、深く観照されるならば、われわれの内部に新しい器官を開示するのである。」

1. 光学 vs. 色彩論
本書には激しいニュートン批判が込められている。そこで酔いどれ天の邪鬼は、ニュートンを少し弁護したい気分になる。
そもそもニュートンが研究したのは光学であり、ゲーテが探求したのは色彩論であり、ここに決定的な違いがある。光も色彩も自然現象であり、同じ物理学の研究対象であることに違いはない。
ただ、芸術の観点から色彩は重要な要素であり、光よりもむしろ闇の方に大きな意義が与えられる。それ故、ゲーテが陰影現象に主眼を置くのも道理に適っている。
物理学がいくら客観性を主張したところで、観察するということは人間が認識することを意味する。人間が認識するということは、主観が関与するということだ。科学実験は、客観と主観の仲介役とでもしておこうか。客観性と主観性の重きの置き方に違いはあれど、どちらも興味深い研究であることは間違いなく、互いに補完的な立場に置きたい。学問と芸術はすこぶる相性がよく、けして分離できないものであろうから...
「われらの書きしもの、正誤いずれにせよ、われら生くる限り、それを弁護してやまず。われらの死後、いま遊び戯れる子らが裁き手とならん。」

2. 生理的色彩と陰翳礼讃
医学的に健康とされる眼に映る色彩は、生理的色彩と呼ばれる。対して、病理的色彩というものがありそうだ。それは、有機的に異常に発達した状態、あるいは劣化した状態ということになろうか。
ただ、正常を明確に定義することも難しい。生理的色彩を語るからには、心理的領域に踏み込むことになり、それは、空想的、想像的、あるいは妄想的ですらある。人間の認識が五感だけで説明がつかないとすれば、色覚異常と精神異常を区別することも難しい。いずれにせよ、色彩で最も単純な構造は、白黒画像ということになろうか。そこに物体の像を浮かび上がらせるのも、認識脳の中で物体が再構築されるからである。
人間の知覚能力は、危険との関係、すなわち自己存在との関係から発達させるところがある。生まれつき盲目な人が青年期に手術を受けて視力を回復させても、目の前の像から危険を察知することができない、と聞く。はっきりと何かが見えるのだが、その像が自分にとって何を意味するかが分からないと。ならば、危険を感じない領域では、客観的なものの見方ができるのだろうか。それはそれで、無感動、無価値、無駄、無意味として通り過ぎるだけのことかもしれん...
一方で、認識脳ってやつは、物理現象に享楽が結びつくと、あらゆる幻想を見せる性質を持ってやがる。真理が心地良い存在となれば、光がさすところに開眼や悟りの像を見せる。それは、陰影から育まれる像であって、そこに多彩な色が副次的に結びついて、より豊かな感情を呼び覚ます。色彩を超越した心的エネルギーの覚醒とでも言おうか。バーの空間が薄暗く演出されるのも道理である。余計な情報を排除してこそ味覚も研ぎ澄まされ、五感を総動員しなければ真の愉悦は得られまい。となれば、色彩論の本質はむしろ無彩色の方にあるのかもしれん。
尚、ゲーテは見事なほどのロウソクの妙技を語ってくれるが、このお爺ちゃんが七十を過ぎて二十歳前の娘を口説く時、陰影の妙技を演出したのかは知らん...

3. 色相環の巡回符号
三角形は、数学者によって特別な地位を与えられ、神秘主義者たちは崇拝の源泉としていきた。実際、三角形を用いると実に多くのことが図式化される。正三角形の向きを反転させて重ねると、神秘の代名詞となった。
ゲーテの色彩論もまた、赤(深紅)を頂点とし、底辺に青と黄を配置した三原色論を導入し、さらに、逆三角形の頂点(底点)に緑を置いて、菫と橙を底辺に配置し、赤(深紅)、菫、青、緑、黄、橙の色相環を形成する。そして、最高の深紅色を尊厳ある色とし、その対極の緑を希望の色として、神秘的な解釈を試みる。緑は自然の中で最も始源的な色で、青や黄へ枝分かれしながら精神の高進が始まり、深紅という一致する高貴な対象へ向かうというのである。
確かに、緑は目に優しい色とされ、植物の放つ緑は最も自然的な存在で、心を落ち着かせる。目の悪いおいらは、眼科のお医者さんに、遠くの緑の風景を見るようにするといい、と助言されたことがある。対して、赤は情熱的な色とされ、何か駆り立てるものがある。その段階的な色彩で、古くから階級を区別したり、心理学では精神状態を重ねるといった試みもある。
一方で、色彩現象では、色の混ざり具合によって色相、明度、彩度といった状態が近似され、色の伝達、除去、同化といった感覚的相殺が生じる。実際、錯視という現象がある。同じ物体でも、色の明るさによって大きさが違って見えたり、色の領域がはっきりと区別されても、遠くから見ると一つの色に見えたり。ミュラー・リヤー錯視、ツェルナー錯視、ヘリング錯視... など幾何学的錯視の事例は腐るほどある。
こうした感覚は、認識脳の都合上の問題であろうか。テレビが動画としてそれなりに見えるのは、視覚能力の追従性の鈍感さを利用して、誤魔化しているに過ぎない。そう、残像効果ってやつだ。人間の知覚能力には、認識脳と協調して、うまいこと補完する機能を具えている。それは、誤り訂正能力、いや、都合よく見せる技と言うべきか。宇宙人の眼には、ノイズだらけの情報で熱中する地球人が滑稽に映ることだろう。だから、近づかないようにしているのか?
無限にある色彩の状態は、いまだ精神の過程にあるとすれば、精神状態は常に色彩循環を求めているのだろうか?ちなみに、符号理論では、巡回符号を誤り訂正の手段として用いられる。認識の誤りを色彩循環によって補正しようとするならば、ここには一種の巡回符号が形成されている... と解するのは行き過ぎであろうか。
しかしながら、このお爺ちゃんは深紅を崇めつつ、七十を過ぎてもなおバラ色のテクニックを駆使したものの、二十歳前の乙女の心を射止めるには至らなかった...




4. 像を写しだす境界面と接合芸術
人間の眼に色彩を写しだすためには、ガラス、水面、鏡、スクリーンなどの境界面を必要とする。しかも、その境界面で色を重ねたり相殺したりすると、別の色に見せたり、無色に見せることだってできる。あらゆる色が空気中を浮遊しているにもかかわらず、境界面においてのみ眼に見えるとは、どういうわけか?その境界では、色彩エネルギーが心的エネルギーに変換されるとでも言うのか?
ニュートンのプリズム実験は、光線のエネルギー境界を示したという重要な意味があり、単に屈折を示したわけではあるまい。液晶ディスプレイは、それ自体発光しない液晶組成物を利用して光を変調することによって像を映し出す。太陽の像にしても、目に危険を冒してまで直接見なくても、反射面を利用すれば間接的に観察することができる。実は、色彩の物理的意味は、物事を間接的に観察するってことかもしれん。
さて、色彩現象の度合いは屈折の度合いに比例すると考えられ、屈折の強弱は媒体の密度に依存するとされる。実際、大気中の空気や霧の密度が高まるほど、像の変位の度合いを増す。また、屈折の原因は物質的性質の他に、化学的性質を加える必要があるとしている。屈折の増加は酸性によって規定され、減少はアルカリ性によって規定されると。
本書は、最初に実用化されたクラウンガラスとフリントガラスを紹介してくれる。望遠鏡の設計で欠かせない概念に、色収差というものがある。接眼レンズの設計は、単純に屈折率や拡大率を調整すればいいというものではなく、収色性や余剰色といったものの補正を考慮する必要がある。この点は、光学と色彩論が協調して振る舞う部分である。精度の高い望遠鏡は、見事な接合芸術というべきであろう...
「有色の輪の現象が最も美しく生じさせられるのは、同一の球面に従って研磨された凸レンズと凹レンズを接合させる場合である。私はこの現象を、色収差のない望遠鏡の対物レンズの場合ほどすばらしく見たことはいまだかつてない。その対物レンズの場合、クラウンガラスとフリントガラスとじつにぴったり接触していたに違いなかった。」

5. 自然に恋したゲーテ
「自然!われわれは彼女によって取り巻かれ、抱かれている。彼女から脱け出ることもできず、中へより深く入っていくこともできない。頼まれもせず、予告することもなしに彼女は輪舞の中へ引き入れ、われわれとともに踊りつづけるが、そのうちにわれわれは疲れ果て、彼女の腕からすべり落ちる。
...
彼女は比類のない芸術家である。いとも単純な素材から最大の対照物をつくり上げ、苦労のあともなく最大の完成にいたる。緻密な確実さを有しながらつねに何かを柔弱なものでおおわれている。彼女の作品はいずれも独自の存在をもち、彼女の現象はいずれもはっきりと孤立した現実ではあるが、すべては一つをなしている。
...
自然は一つの芝居を演じている。彼女がそれを自分で見ているかどうか、われわれは知らない。しかしながら彼女はそれをわれわれのために演じ、われわれは片隅に立っている。
...
自然の冠は愛である。愛によってのみ人間は彼女に接近する。彼女はすべての個物のあいだに間隙をもうけたにもかかわらず、すべてのものは互いにからみ合おうとする。彼女がすべてのものを孤立させたのは、すべてのものを引き寄せるためである。愛の酒杯からほんのすこし飲むだけで、彼女は苦労に充ちた生活の償いをする。」

ドイツ語の Natur が女性名詞であることは、偶然ではなさそうである。掴みどころのない永遠の謎!自然の中に生きながら、その正体をまったく知らない。自然は人間を支配し続け、人間は自然ばかりでなく、自分自身ですら支配できない。自然は、常に運動を続け、停滞することを許さない。静止とは、ある種の呪いであろうか。永劫不変とは、永遠に未完成であることを意味する。人間ってやつは、完成の美よりも、はるかに未完の美に恋焦がれる。どうりで男はみな色仕掛けに弱い...

2015-09-27

"魚道(さかなどう) 海の四季" 水谷修 + 鈴木一人 著

本屋を散歩していると、奇妙な組み合わせを見つけた。夜回り先生(水谷修) + 葉山「稲穂」の大将(鈴木一人)。二人は、海から命をいただく気持ちを大切にしたいと熱く語る。なるほど、鮨で語る人生論であったか...
「旬にきちんと食すことは、食されるいのちへの最低限の敬意!」
養殖や空輸など食の保存技術が進歩し、一年を通して好きなものが食べられるとは、なんと贅沢な時代であろう。その分、食材が回転寿司のように年中回り、季節を感じられなくなる。便利な世の中が、旬を味わうという贅沢な食感までも鈍らせるとは。おまけに、クロマグロがレッドリストに指定され、乱獲、乱食に警鐘を鳴らす。自然と向き合った食の在り方とは、いかなるものであろうか...

海の季節を感じたければ、寿司屋がうってつけであろう。寿司屋やバーに行付けの店をつくるのは、そこに技術屋魂を感じるからである。哲学をともなわない技術は、陳腐なものとなろう。彼らのこだわりは、同じ技術者として学ぶべきものが多い。寿司職人は、新鮮さと天然もので自然の味わい方を教え、バーテンダーは、カクテルを作る技よりも、酒の本来の姿を見極める目を養わせる。
どちらの職人も、食材の発酵や腐敗と戦っている。物理現象として眺めれば、微生物の作用で有機化合物を酸化させることでは同じだ。しかしながら、身体にとって有害か無害かの見極めは至難の業。ひらたく言えば、ほどよく腐らせる技術である。発酵技術をうまく利用すれば、野菜は漬物になり、身が柔らかくなり甘みが出るのも道理である。鮨ネタでは、少し寝かせることによって甘みを醸し出し、酒では、熟成の仕方によって酔い方を演出する。
「寿司屋と板前を作るのは、客だよ。江戸前の本当の鮨を知っている客が、カウンターに座れば、こっちも勝負したくなる。... でもな、鮨のことを何もわからず、ましてや勉強したいと思っていない客では、ただ、腹を一杯にするためだけに、酒のつまみにしたいだけに来る客では、こっちも気合も何も入らない。寿司屋と板前を、活かすも殺すも、客次第だよ!」

寿司屋に入ると、まずネタケースを見聞し、大将のお薦めに従って本日の戦略を練る。淡泊な白身から始まって、徐々に味の濃いものへ移り、そして、湯引きした穴子のタレと塩の両方を頂いて、お吸い物で締める。お吸い物の代わりに、茶碗蒸もなかなか。これがおいらのパターンだ。寿司屋だからといって、握りばかりを食べる場所だとは思わない。土瓶蒸し、アワビのバター焼き、アゲマキ焼き、白子をボイルしてポン酢、トロのあぶりなどがお気に入り。たまーに、天ぷら会食もいい。季節やその日のタイミングで作れないこともあるので、行く時は前もって宣言する。
ほとんどお任せだが、いつも言いなりになるのも癪だ。こんなもの作れるの?と挑発すると、なんでも作れるわい!と大将も負けん気が強いから思う壺よ。逆に、これ食ってみな!と、勝手に作り始めることもしばしば。在庫処分か?向こうも思う壺よ、と思っているかもしれん。ちなみに、行付けの寿司屋の大将のポリシーは、心を握ります!だそうな。聞いてるこっちの方が恥ずかしくなる...

1. 海の四季
海の中の四季は、地上の四季よりだいたい一ヶ月程度遅れて来るそうな。地上で春一番が吹き荒れ、三寒四温を繰り返し、桜の開花で春爛漫となる頃、海ではちょうど春が始まるという。ワカメ、カジメ、ヒジキなどの多くの海藻が温かい海水で一斉に成長を始め、鯛や鮃などが岸辺に集まって産卵を始める。季節風のごとく黒潮が日本列島沿岸を北上すると、それに乗って鰹がやってくる。磯では栄螺や鮑が成長し、海のギャングこと蛸が貝類を漁る。
梅雨から夏は、魚たちの成長期。雨が山からたくさんの有機物を川から海へ運ぶ。それを餌とする植物性プランクトンが増え、これを食べる動物性プランクトンが増え、それを餌とする小さな魚が増え、その魚を餌とする大きな魚が増え... などと食の連鎖。
秋風が立つ頃、黒潮の北上が止まり、魚たちは一斉に南へ戻り始める。冬の季節風のごとく親潮や千島海流が南下し、冷たい海で生きる鮭が海流に乗って、産卵のために河川へ向かう。これにともなって鱈や鰊、そして秋といえば秋刀魚、彼らも群れをなして南下する。
冬は地上同様、魚たちにとっても我慢の季節。温かい時期に脂肪を蓄え、じっと春を待つ。
海の幸は、島国にとって宝だ。縄文時代のゴミ捨て場は貝塚と呼ばれ、その地名は日本列島に点在する。昔は、家庭で魚を捌くのをよく見かけたものだが、今ではスーパーで切り身や刺し身がそのまま手に入る。きれいに切り揃え、骨抜きまでしてくれるのは、独身貴族にはありがたい。
それにしても、連鎖の下部にいる弱い生き物ほど数が多いとは、うまいことできている。自然界のバランス感覚に驚嘆せずにはいられない。このバランスの最大の破壊者として君臨するのが人間だ。彼らは食すだけでなく、海洋汚染まで仕掛けてくる。鯛、鮃、魬、鰤、鯵などがほとんど養殖されれば、天然モノがもてはやされる。人工的な社会は、ますます自然を懐かしくさせる。いや、懐かしもうにも、もはや自然の姿が思い出せない。いずれ遺伝子工学の発達によって、天然モノの人間が馬鹿にされるようになるのだろうか...

2. 鯛は本当に旨いのか?
鮨の世界では、王様が鮪なら、女王は鯛とされるそうな。腐っても鯛... 海老で鯛を釣る... などと言うし、めでたい... などと語呂合わせで縁起物にされる。桜鯛などと風流な名前をつければ、春の贅沢品の座を欲しいまま。しかし、鯛をそれほど旨いと思ったことがない。
本書も、真鯛は3月から6月に産卵の季節を迎え、産卵を終えた魚はガリガリに痩せていて、美味しいわけがないという。産卵の時期に乱獲することに問題があるらしい。鯛の旬は、厳しい冬を乗り切るために、たくさんの脂肪をつけた秋口から冬にかけてだという。

3. 夏の風物
京都では、夏の鱧(はも)が珍重されるそうな。梅雨の終わり、祗園で祭り囃子が街角に響き渡るころ、魚屋、寿司屋、割烹、料亭に鱧が並ぶという。鱧の湯引き、天ぷら、照り焼き、さらに、鱧しゃぶなんて聞くと、ヨダレがでてくる。
しかし、鱧もまた夏が産卵期で、味が落ちるのでは?鱧は生命力が強く、海から揚げても、相当長い時間生きているという。内陸部の京都で、魚の傷みやすい夏に、淡泊な魚を味わうには、鱧ぐらいしかなかったようである。
また、夏の白身は板前泣かせだそうな。くそ暑い夏はあっさりした物を欲し、白身が好まれる。なにしろ冷凍、冷蔵がきかない。鯛、鮃、鰈などは鮪や鰹と違って、冷凍したものは刺し身として使い物にならないという。しかも、活け締めで、きちんと血抜きをしないと、すぐに身に血が回ってしまい、身が緩み、血の匂いがついてしまうとか。
季節によって美味い不味いが、白身魚ほどはっきりするものはないという。特に春から夏、産卵前後の白身魚は、とても寿司屋では扱えるものではないらしい。この時期に、いかに美味い白身魚を出すかが、板前の腕の見せどころだそうな。
ただ、この時期にも、白身で淡泊な魚はきちんとある。鱚(キス)がその代表で、青物とか光物と呼ばれる。真子鰈も、夏の最高のネタの一つだという。鰶(このしろ)の子供の小鰭(こはだ)や新子は、まさにこの時期が旬だとか。んー... この時期の酢締めもたまらん。

4. 東西の食感の違い
河豚の出し方は、関西と関東で違うそうな。西では、活けからすぐに捌き、締めたばかりのコリコリ感を料理する。東では、捌いた後、甘みを引き出すために、一日から二日寝かせるという。江戸前職人のこだわりは、そのまま手をかけずに出すことはあまりないようである。鯵は塩で締めて、鮃は昆布で締めて、鯛は湯引きなど、何かと手間をかけるという。河豚に限らず、あらゆる魚で、なんらかの手を加えるのが関東風というわけか。西側の薄味と、東側の濃い味の違いも、このあたりからきているのかもしれん。
昔々、獲れたての魚を出すことができなかった地域では、食材を寝かせる技術を発達させてきたのだろう。とはいえ、地元の隣町、下関が河豚の名産であり、獲れたての感覚に慣れていると、寝かせるのはもったいない気もする。
また、肝を食べるなら河豚よりも、生なら皮剥の肝、煮付けなら鰈や鮟鱇の肝の方がはるかに旨いという。河豚の肝は命をかけるほどのものではないらしい。
鮃や鰈などの白身魚を、ポン酢に紅葉おろしで食べる。これもなかなかだと思うが、白身魚の味を殺しているという。新鮮な白身魚、特に河豚は、本山葵とむらさきで、是非楽しんでください!と。なるほど...
ちなみに、むらさきとは寿司用語で醤油のこと。行付けの店の名も「紫」だが、通称ディープ・パープルで親しんでいる。
醤油の味にも東西で好みが分かれ、時々出張で来る人と議論する。関西は甘め。著者のお二方も関東人で、特に九州の甘みが苦手だと語る。いずれにせよ、幼い頃が慣れ親しんできた地元の味というものは、忘れられるものではあるまい。それは、ラーメンやうどんのスープの味にも反映される。食感に限らず、五感には精神の落ち着く場所というものがありそうだ。

5. 巻物のこだわり
干瓢巻きは、板前にとって一番むずかしい巻物だという。そして、二通りの食べ方があるとか。きちんと簀巻きで巻いてもらって、まずは半分そのまま海苔のパリッとした食感を味わう。そして、もう半分は20分ぐらい置いて食べる。すると、海苔がしゃりと溶け合って、違った風味が出るとか。板前は、この二つの食べ方を考えながら作っているという。
そういえば、干瓢巻きではないが、行付けの寿司屋で手巻きを出す時、寿司下駄に置いてくれればいいものを、直接手渡される。すぐ食べろ!と言わんばかりに。何かこだわりでもあるのか?今度、干瓢巻きと合わせて、大将を挑発してみよう...

6. 玉子焼きのこだわり
玉子焼きには二種類あるという。一つは本焼きと呼ばれ、卵に芝海老や白身のすり身を入れて、砂糖や塩、酒で味付けして焼き上げる。厚さが薄くなることから薄焼きとも呼ばれる。もう一つは、卵に出汁を入れ、味をつけてやきあげた、だし巻き。ほとんどの寿司屋で、だし巻きが出されるようだ。本焼きが廃れたのは、手間がかかりすぎるからだそうな。
行付けの寿司屋も、だし巻きがあるが、これがなかなか旨く、家庭では出せない味である。薦められることはないのだが、ちょっと一服のタイミングで、つまみに頂くのが習慣になっている。

7. しゃりのこだわり
目の前に座る客を見て、しゃりの握り方を変えるのが本物だそうな。客は、つい寿司ネタに目がいく。しかし、一番多く食べているのは、しゃりだ。いつも握る姿を見ては、その優しい手つきに感心するのだけど...
箸で食べる客には、むらさきにつけて口に運ぶときに壊れないように、少し強く握るという。手で食べる客には、その客の鮨の持ち方で握り方を変えるという。また、女性男性、年齢や入れ歯、出身や仕事、口の大きさや空腹かどうかでも、握り方を変えるのだとか。ネタを切る大きさも合わせて。
すべての握りは、しゃりで決まる!とはよく聞くが、しゃりに手を加えれば騙すこともできる。不味いネタを美味いと思わせるのが板前の技術だとすれば、バーテンダーが不味い酒をカクテルで誤魔化すようなものか。
所詮、しゃりは裏方。だが、米ほど一年を通じて、味が変わるものはないという。鮨には、水分が多い米質は合わない。新米が旨いとはいえ、やや水分が多く、鮨にはちと向かない。日本では、コシヒカリが米の王様のように言われるが、こうした含有水分の多い米では鮨に向かないそうな。含有水分の少ないササニシキが、鮨の王道だという。だが、ササニシキは背の高く成長する米で、すぐに台風で倒れてしまい、手に入れることが難しいらしい。
しゃりの味を安定させるために、いかに板前が苦労しているかを客は知らない。これも、大将の挑発ネタとして使えそうだ...

8. 店のこだわり
「あるお客様が、自慢そうに言っていたのですが、そのお客様が東京の有名な寿司屋に入ると、出される魚は、ネタケースの中のものではなくて、冷蔵庫の中のものを特別に引いてくれる。自分は、その寿司屋に大切にされているんだと言いたくて、このような話をされたのでしょうが、これは言語道断です。これをやってしまったら、その寿司屋の信用はなくなってしまいます。」
常連客を大切にしたい気持ちは分かるが、店の客は平等に扱うべきだという。客を大切にすることは難しい。客を選べる立場でもなかろうし。そのために、グルメ雑誌などに掲載されることを嫌う店も見かける。個人的には、行付けの店はいつまでも隠れ家のような存在であってほしい...

2015-09-20

"作家の食と酒と" 重金敦之 著

あらゆる文化は大衆化すると質の低下をもたらすが、飲食文化は違うらしい。芸術の材料がふんだんに鏤められると、作家たちは食卓の行儀作法よりも、美味く食すための段取りにうるさい。食通でもなく、美食家というほどではないにせよ、そこに独特の美学を抱く才は一流ときた。能書きを垂れるのも、一つの作法というわけだ。なるほど、文章術とは、食への執着、酒へのこだわりから生まれるものであったか。こだわりとは難癖をつけることであったか。含蓄とはウンチクの類いであったか...
「酒は百薬の長」というが、「酒は百毒の長」とも言う。大食短命を説く言葉を聞いても、大食漢を賛美する言葉はあまり聞かない。食や酒を満喫しながら、いかにおおらかに生きるか... これは、なかなかの難題だ!今宵は、芸術家たちの飲食哲学を堪能しつつ、濁り酒をやりながら茶化すとしよう...

魚料理に癖と臭みはつきもの。それは持って生まれた食材の個性であり、身体に害を及ぼさない限り、癖も味わいたい。しょうがや酢味噌の味ばかりが口に残り、何の魚だったか分からなくなることも、しばしばあるのだから...
人間にも癖がある。それが個性であり、持ち味であり、魅力でもある。ただ、才能豊かな人は、自分の個性が手に負えないということもあろう。世間の枠組みからはみ出すぐらいでなければ、芸術は生まれない。人格円満にして当たり障りのない聖人君子に、小説や随筆なんぞ書けるはずもない。ましてや、幸福な人間に。作家とは、自分の不幸を舐めるように愛しながら書く、そのような境地で生きている人種であろうか。
「嘘を書く」といえば聞こえが悪いが、「演出する」といえば聞こえがいい。食生活の中にもちょっとした演出を仕掛け、五感を総動員しながら食の愉悦を物語る。行間の隙間から粘性に満ちた心理描写、彼らの感受性は日常の何気ない出来事ですら敏感に、しかもディープに反応するだけに、精神を病むこともあろう。何を見ても面白がるという性癖は、ある種の職業病にも映る。
自我を狂わせるほどの執筆エネルギーは、どこからくるのか?小説というものは、恨みや反骨精神だけで書けるものなのか?彼らは、どこかに人間嫌いな側面と社会への反発心を覗かせる。社交的な人間嫌いでもなければ、世間の激流を生きては行けまい。凡人は目の前の幸せにも気づかないものだが、その分、不幸にも気づかなければ同じことかもしれん...

1. 松本清張伝
著者は、ジャーナリズムの基本は知的好奇心にあるとジャーナリズム論を講義したところ、なかなか理解されないと嘆く。
「いささか不謹慎ではあるが、ジャーナリストは戦争でも災害でも、ある意味で面白がっているところがある。」
面白がる対象は、それこそ森羅万象。作家とは、面白がる部分を書き終えると、その作品には興味がなくなってしまい、すぐに次の題材に気移りするものらしい。凡庸な酔いどれですら、仕事の終盤が見えてくると、ホッとして次の興味へ向かう。
その意味で、清張作品の結末は「技巧的な突き放し」であるとか、「判断を読者に委ねている」といった感があるという。あるいは、「新たな迷宮を作り出す」一方で「豊かな余韻を楽しめる」といった読後感もあると。
また、小説にはリアリティが重要だと、しつこく言っていたそうな。小説のリアリティとは生活感のことか。
「人間の内面の思索をあれこれ書くよりも、ちょっとした運命のいたずらによって逆境に立たされる苦悩や冷酷な組織の論理に翻弄される人間の恨みを好んで書いた。現実味のある動機を重視した結果、登場人物の存在を身近なものにした、とは多くの人が指摘するところだ。」
その反面、他人の栄誉や栄達には冷たく、納税額でもライバル意識を燃やしたという。82歳を過ぎても現役で、週刊誌に小説を二本も連載するとは前代未聞。嫉妬心が飽くなき挑戦意欲を掻き立て、生涯を通して小説家の緊張感を持続させたようである。芸術とは、個性を存分に体現する場であり、こだわりとは、ある種のわがままである。そして、嫉妬心をロマンティシズムに変えるのも、小説家の資質であろうか...
「他人の幸福を、自分の幸福に置きかえる余裕や度量よりも、そねみとひがみが伏流し、安穏とか愉悦とかいうことと生涯、無縁であった。そういう意味では人生をきわめて不器用、訥直(とっちょく)に送られたのだと思う。」

2. 長寿の秘訣???
日本画家、横山大観は日本酒好きで有名だそうな。広島県三原市の名酒「醉心」を好み、91歳まで飲み続けたという。「絵を描くのも、酒を造るのも芸術だ!」と熱弁をふるう酒豪ぶり。
一方、まったく酒が飲めずに長生きした文人が、小島政二郎だという。その分、食通だったらしい。老舗菓子屋「鶴屋八幡」のPR誌「あまカラ」に連載したエッセイ「食いしん坊」には、自分の下戸ぶりを書いているとか。
「悲しいことを言うようだが、私くらいの年配になると、もうあと幾度晩飯をおいしく食べる機会があるか知れたものだ。だから、日に一回の晩飯だけは、何かうまいものが食べたい。」
これは60歳頃の文章だそうだが、それから十年後、30歳も若い伴侶を得て、百歳の長寿をまっとうする。文豪ゲーテも、70代で二十歳前の娘に求婚した。やはり長寿の秘訣は、恋でしょうか!
内田百閒は、小学校に入る前から煙草を吸い、好きなビールとなると半ダースは飲み、それでいて83歳まで生きたという。漱石を敬愛し、芥川とも交流があったようで、その評価は様々で、大文章家から大酒豪、吝嗇漢、借金魔、大変人など毀誉褒貶が著しいとか。そして、この記述こそ酒道というものか。
「強い酒を飲んで酔ふのは外道である。清酒や麦酒なら酔つてもそれ程の事はない。しかしお酒にしろ麦酒にしろ、飲めば矢張り酔ふ。酔ふのはいい心持だが、酔つてしまつた後はつまらない。飲んでゐて次第に酔つて来るその移り変はりが一番大切な味はひである。」
このように長寿をまっとうする作家がいる一方で、「全日記 小津安二郎」には、こんな記述がある。
「酒はほどほど 仕事もほどほど 余命いくばくもなしと知るべし 酒ハ緩慢なる自殺と知るべし」

3. 美の気品とは
挿絵画家、風間完の人物画には、美の気品のようなものを感じ、なんとなく癒やされる。本書は、彼の印象を漢字にすると「飄」の字を選ぶと語り、さわやかな気風の持ち主であったと評している。画家ではなく、挿絵画家と称されることにまったく屈託がなかったといえば嘘になろうか。実際、清潔感と美意識は挿絵の域を超え、日本画という言うべき気品を漂わせている。瀬戸内寂聴は、風景画からは「街角の匂いが漂い、立ち話している人の会話が聞こえてくる」といい、人物画については、こう語ったという。
「女性の体臭や肌のぬくもり、手足の冷えまで伝わってくるけど、清潔だからいいのよ。それが本当のエロティズムなの。」

4. 祗園に夢をはせて
日本の料亭文化は、色町の伎芸とともに発展してきた、世界でも稀有な特徴を持っているという。色町といえば京の祗園、「お茶屋」という上品な響きにイチコロよ。生涯で一度、お座敷遊びをしてみたいと夢見ている。
「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」とは、山口素堂の句。目には青葉が広がり、耳には山ほととぎすの声、口には新鮮な鰹を味わう... とは、まさに五感の愉悦を堪能する贅沢。目の前に淑やかな女性がいて、気品ある談笑付きとなれば、食のエロティズムを堪能できるであろう。
一介のサラリーマンでも身元さえはっきりしていれば、気楽にお茶屋に上がれるのが祗園の一筋縄ではいかない魅力だそうな。その寛容さは、どこからくるのだろうか?祗園町は女系家族で、夫以外の子供を産んでも是認する風土があるという。乱暴に言えば、父親の存在はどうでもいい。それは、性道徳や家族意識が乱脈だという意味ではなく、伝統的に女性中心の社会だということ。父親の名前をあからさまにできない女性がいるのも珍しくない。また分かったからといって吹聴するようなこともしない。これが、祗園の仕来りだそうな。早くから女性の自立が植え付けられ、むしろ進んだ社会とうわけか。世間の常識や道徳の規範から多少ずれていても、それを許容する寛大な空気が漂っているのが祗園という町だそうな。
渡辺淳一の小説「化粧」に登場する頼子と里子のイメージは、まさに祗園。性愛文学の原点は京にあったか。彼の持論では、結婚、出産、離婚を経験するのが、女のフルコースだという。世間で負け組と呼ばれる人も、祗園ではカテゴリーが逆転する。
では、男のフルコースはなんであろうか?破産、失業、三行半を喰らう... やはり男は役立たず。そりゃ男性社会でもなければ、生きてはいけんよ...

5. カレーライスとライスカレー
カレーライスとライスカレーの違いとは何か?こんな話題が小学校時代にあったような気がする。古典的な説では、ご飯とカレーが別々に出されるものがカレーライス、ご飯の上にカレーをかけて出されるものがライスカレーとされる。対して、向田邦子は、金を払って外で食べるのがカレーライス、自分の家で食べるのがライスカレーと定義したという。なるほど、生活感が出ている。向田説に一票入れとこう...

6. スローフードとファーストフード
「ミスター円」こと榊原英資の著書「食がわかれば世界経済がわかる」には、こう書かれているそうな。
「世界主要国の食の形態を見ると、アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリアなどは食を資源と捉え、日本、中国、フランス、イタリアなどは文化と考えてきた。前者は食の工業化を推進し、ファーストフードを生み出した。」
世界に広まるスローフードとは、ファーストフードのような合理的なものに対抗して、地方の食文化や食材を見直す運動である。日本では「食育」という用語があって、明治時代に村井弦斎が既に用いているという。だが、こうした耳障りのよい運動も、すぐに企業や政治と結託して逞しい商魂を見せる。本書は、その貪欲さを見直すのも、スローフード運動の精神ではないか、と疑問を呈する。
ちなみに、宮本徳蔵の著書「たべもの快楽帖」には、ボストン名物のロブスターを食した体験から、「アメリカ人は胃袋で味わい、日本人は舌先で味わう」と説いているという。なかなかの達識だ。

7. 秋の季語「ボジョレー・ヌーボー」
毎年11月になると、夜の社交場方面から「ワインと紅葉の夕べ」と題して案内状が届く。そう、ボジョレー・ヌーボー解禁日だ。だが、おいらには場違いなイベントである。なにしろワインの味がわからない。一杯何万円もするワインを飲ませてもらったことがあるが、確かに風味も上品で美味い!しかし、どうしても値段ほどの価値がわからない。その代わり、夏の季語「浴衣祭」の出席は欠かさぬよう釘を刺されている。

8. 行付けと隠れ家
誰にでも、行付けの店や馴染みの店が一つや二つはあろう。なんとなく波長の合う場所と言った方がいい。飲み食いする店だけでなく、本屋、食料品店、薬局、病院など。
場所に限らず道順にも癖が現れ、どこに行こうかと考えているうちに、いつの間にか同じ店へと足が向く。注文する品まで一緒だったりして... いつものやつ!こうした行動パターンにも、ある種の美学が隠れている。慣習とは、ある種のこだわりであったか。
そこで、贔屓の店にはあまり有名になってもらいたくない。いつまでも隠れ家のままでいてほしい。大衆の眼に晒すことで、店のコンセプトが壊れることもあろう。常連さんを大切にするために、わざと宣伝しない店も少なくなく、ミシュランガイドへの掲載を断る店もあると聞く。

2015-09-13

項目の開閉を HTML タグだけで制御、ついでに onmouse ハンドラを試す

これは備忘録である。お歳ですねぇ... と、からかわれ始めて久しい今日この頃であった。はぁ...
さて、全記事数が、500 に達し、Site Map の見た目が鬱陶しい!そこで、ラベル毎に開いたり、閉じたりできるようにした。

方針は...
  1. JavaScript などを使わず、HTML だけで記述し、一つの投稿内で完結する。
  2. テンプレートを変更したくないので、css はインラインに置く。
  3. 具体的には、onclick イベントハンドラで項目内の表示/非表示を切り替える。
    尚、onmouseover/onmouseout という属性を知り、これがなかなかいい!勧告バージョンが、HTML4.01 というのもありがたい。

コードの流れは...
  1. onclick で、id="xxx" で指定した部分を取得し、オブジェクトの display 状態を判定して、block/none を切り替える。
  2. マウスカーソルのスタイルを、pointer に指定し、イベントハンドラを記述する。
    尚、イベントは over -> out の順に発生するので、onmouseover/onmouseout をセットで記述する必要有り。
  3. 開閉部分 id="xxx" を指定する。
    尚、表示/非表示の最初の状態は、display で指定。
    表示の場合、display:block; 非表示の場合、display:none;

<div onclick="obj=document.getElementById('xxx').style;
obj.display=(obj.display=='none')?'block':'none';">

<span style="cursor:pointer;
margin:5px; padding:3px; display:block; width:240px; text-align:left;
background-color:#eee; box-shadow:2px 2px 2px 2px #555;"
onmouseover="this.style.backgroundColor='#ccc'"
onmouseout="this.style.backgroundColor='#eee'"
>項目</span>
</div>

<div id="xxx" style="display:none; clear:both;">
<p>リストの内容</p>
</div>

そして、これがサンプル...

b.読書:数学
  1. 2014-08-10 "数学と論理をめぐる不思議な冒険" Joseph Mazur 著
  2. 2014-08-03 "連分数のふしぎ" 木村俊一 著
  3. 2014-06-29 "数について" Richard Dedekind 著
  4. 2014-06-22 "ピタゴラスの定理" Eli Maor 著
  5. 2014-06-15 "天秤の魔術師 アルキメデスの数学 " 林栄治, 斎藤憲 著
j.読書:文学
m.読書:政治