「かつて起ったこと、それはこれからも起るだろうものと正に同じだ。人間がかつてやってきたもの、それは彼らがこれからもやるだろうことにほかならない。」
... ソロモン
音楽評論家に音楽以外のものを... と勧められて書いたものが、この本だそうな。著者にとって、文学も音楽と同じように心に奏でるものがあると見える。中原中也に宇宙論の啓示を見、吉田一穂に自恃の表出から湧き出る虚無を感じ、荷風に急速な近代化への反発心を共感し、漱石に日本社会の病魔を意識する。その明るい筆の影に、昭和の戦争が深刻化していく様を想像せずにはいられない。
「日本人の最大の特徴は、外国の文物思想の浅薄な模倣をよろこぶ気持ちと、深いところに潜在する排外思想との間の緊張ではあるまいか。その間に調和を求めるものは、どこかに逃避しなければならない。」
芸術は、ある種の社会的反抗から生じるところがある。人間の自由と個人の尊厳こそが、その精神を支える。知性と意志に働きかけ、感情、ことに皮膚感覚に微妙をきわめた音色が聞こえてきそうな...
詩人でなくても、芸術家たちは自己の中に詩を奏でるようである。詩人とは、よほど辛いものらしい。自殺するにせよ、諦念のうちに死ぬにせよ、けして妥協を許さない。自己破滅型人間、いや、自己完成形か。どうしてこんな人種がいるのか、理解を絶する。狂気しなければ到達しえない境地が、確かにある。それは、人生における戦術の問題であろうか。彼らの生き様は滑稽ですらある。いや、あえて滑稽に生きよ!というのか。狂気できない者は未熟児同然というのか。そうかもしれん。彼らは、自分の人生をハッキングしながら生きようというのか...
中原中也との出会いには、こう回想する。
「彼の存在が、私にあきらかにしてくれたことは、一口でいうと、何億という人間の中には、『この宇宙で人間が生きている』という、簡単といえば簡単な事実について、ある意味を、突然、私たちが日常生活ではあまり経験しないような形で、啓示できる人間がいる、ということである。」
吉田一穂については、裸の思想を紹介してくれる。
「だから詩を書くのだ。私は詩人だ。ほかの何者でもない。だが、詩とは何か?詩とは自分の内外にある虚無に向かって、火を放つものだ。詩は、もう一つの宇宙を創る天を低めて自らを神とする術である。」
漱石については、こう語る。
「漱石は、近代百年を通じて、日本人の意識の変化と混乱を最もはっきり意識した人であり、また、その混乱の正体をはっきり意識することに一生を賭けた人であったように見える。その彼が、どんな治療法を示しているか、私にはわからない。彼を読んで私にわかるのは、私たちが病気だということだけである。病気だといえば世界中がそうではないか、と言われるかも知れないが、それなら日本の病気は日本としての非常な特殊性をもっている。」
とはいえ、時事的おしゃべりでは、やはり音楽畑を離れることはできないと見える。カール・リヒターやアルトゥール・ルービンシュタインといった偉大な音楽家たちを、単に音楽の達人としてだけでなく、人生の達人として捉える。バッハがどんな人物だったかは知らない。知る由もない。ただ、音楽に憑かれた人で、探求してやまない人であったことは確かであろう。彼らを語る風景には、ルーベンスやラファエロといった稀代の名画が合いそうだ。そして今宵は、虎の子のフィーヌ・ブルゴーニュをやらずにはいられない...
尚、これはルービンシュタインの言葉として紹介される。
「私は人生をあるがままにうけ入れる。人生とは多くの、より多くの幸福を内蔵しているものだ。たいがいの人は幸福の条件をまず考えるが、幸福とは人間が何の条件も設置しない時、はじめて感じることができるものだ。
... 人生には、より一層の幸福がある。諸君が幸福になるための条件など数えたてず、人生をありのままにうけ入れれば、そこに幸福があるだろう。その時、音楽もきこえてくるだろう。」
Contents
- 2019-05-19 "ソロモンの歌" 吉田秀和 著
- 2019-05-12 "一枚のレコード" 吉田秀和 著
- 2019-05-05 "ウィトルーウィウス建築書" Marcus Vitruvius Pollio 著
- 2019-04-28 "詳解 Linux カーネル" Daniel P. Bovet & Marco Cesati 著
- 2019-04-21 "ガロアの夢 群論と微分方程式" 久賀道郎 著
- 2019-04-14 "群論への30講" 志賀浩二 著
- 2019-04-07 "天才ガロアの発想力 - 対称性と群が明かす方程式の秘密" 小島寛之 著
- 2019-04-01 人生の操作性は、軽いアンダーステア...
- 2019-03-24 "近世数学史談" 高木貞治 著
- 2019-03-17 "コペルニクス・天球回転論" Nicolaus Copernicus 著
2019-05-19
2019-05-12
"一枚のレコード" 吉田秀和 著
レコードをコレクションし、自己満足に浸る。それは三十年ぐらい前のこと。今ではレコード針を求めるのも一苦労で、プレーヤーが健在でなければ再生もできない。もはや蓄音機か。そして、CD でコレクションをやり直すも、ハイレゾ音源の出現でまたもや迷走する。
とはいえ、デジタル化によって音質が保たれるということは、幸せな時代を生きていると言わねばなるまい。テクノロジカルに精神が同化した時、ノスタルジアやデジャヴといった感覚へ導かれる...
芸術は、極めて人工的な行為でありながら、自然な感覚に強く訴える。騒々しい日常から逃避するかのように...
おまけに、芸術は、自己主張の強い世界。ことクラシックでは、演奏家たちは誰もが作曲家の意図を忠実に再現していると、その正統性を主張してやまない。そのくせ、ちっとも強制的でなく、威圧的でなく、機械的でなく、鑑賞者に人間味のある自由な空間を提供してくれる。音楽は、心が平静であり続けることを許さない。音楽家たちは無責任にも、絶えずも心をかき乱すよう仕掛けてきやがる。圧倒的な才能たる腕力で無力感に苛ませ、これが心地よいとくれば、M性にはたまらない。
本書で紹介される演奏家たちの音楽哲学も様々で、即興的な天才演奏家あり、およそ考えられる限り完璧な域に達しないと披露しない者あり、一つの曲だけを徹底的に究めるスペシャリストあり... これほどの多様性をドレミファソラシドだけで体現できるとは。音符に魂を吹き込むとは、こういう仕事を言うのであろう。但し、最高のものばかり味わうのでは、ちと疲れる。駄作の存在感も噛み締めなければ。時代、時代に達人が登場し、そのたびに古典は新たな力を得て蘇る。古典ほど長く愛される新作があろうか...
さて、レコードには、作曲家と演奏家がセットになって刻まれる。そして、生涯でこの一枚!となるとなかなか手強い。選曲だけでも大変なのに、演奏家が絡むとほぼ無限に広がる。ベスト 10 を選ぶだけでも葛藤が収まりそうにない。
吉田先生ほどの音楽評論家ですら、「一枚のレコード」と題しておきながら、二十枚じゃ済まない。バッハのカンタータに宇宙論を求め、シューベルトのピアノ書法に清澄な光景を見い出し、はたまた表現主義的なネオバロックに惹かれるかと思えば、トロイメライにスラブ的な憂愁を感じ入り、エロイカシンフォニーに誇りをくすぐられ、魔笛に音楽のアルファとオメガを見るといった具合。音楽の思い出や音楽とのふれあいを風景画のごとく描いて魅せる。
ちなみに、α(アルファ)とΩ(オメガ)はギリシャ語アルファベットの最初と最後の文字で、聖書には神が最初から最後まで看取るという形で、これらの文字が刻まれる。音楽もそういう感覚で刻まれていくのであろう。
吉田先生にとっても、やはりモーツァルトは特別な存在と見える。
「魔笛とは何たる音楽だろう!! この音楽をきいて、胸を打たれない人は、音楽を必要としない人だ。こんなに美しくて、しかも冷たい水が歯にしみるように胸に沁みてくる音楽はほかにない。タミーノの恋心、パミーナの悲しみ、夜の女王の誇り高き怒り、パパゲーノの嘆きと有頂天、ザラストロのくそまじめな説教とモノスタトスの黒い欲望。三人の侍女と三人の童子の、奇妙に無量感を脱した呼びかけ... この中の、そうして、これ以外のすべての一つ一つが、何の作為もなしに、透明な矢のように私たちの胸にまっすぐに走ってくる。この音楽は、私にはほとんど涙なしにはきき終えられないものだが、さてその涙は悲しみから生れたのか、それとも喜びからのものかときかれても、わかったためしがない...」
1. オーマンディの一枚
無理やりにでも「一枚のレコード」とするならば、最初に出会ったものを挙げることはできよう。どんなに美味いラーメン屋に行っても、結局、地元のラーメンの味が忘れられないように...
そして、おいらが美少年と呼ばれていた小学校低学年の頃、曲名も分からず、テレビで聞いた記憶を頼りにレコード屋に連れて行ってもらった記憶が蘇る。それが何だったのか?結局分からず、ジャケットのオーケストラの見栄えだけで選んだ一枚が... 「新世界交響曲」、ユージン・オーマンディ + ロンドン交響楽団... であった。レコードの解説には、こうある。
「かつて... フィラデルフィア管弦楽団という天下の銘器は、ストコフスキーによってつくられ、オーマンディによってかき鳴らされる... といわれたものだ。」
おかげで、おいらの音楽鑑賞人生はオーマンディに始まり、コレクション人生はフィラデルフィア管弦楽団に始まったのだった。
本書にも、オーマンディのエピソードが綴られる。彼はこう言ったそうな。
「フィラデルフィア管弦楽団の音ということがよく言われるが、あれは私の音であり、オーマンディ・トーンと呼んで欲しい。」
2. 魔王に惹かれて
シューベルトにはデモーニッシュな面があり、魔王には何がしら不思議な力が宿る。国粋的で、大衆動員的な気配。志賀直哉は、この音楽を「子供を持ったことのない男の無思慮な残酷さ」と言って酷評したそうな。だが、この深く食い入ってくる悪魔性にどことなく惹かれるのは、吉田先生とて同じようである。
3. バロックな自由のエチケット
「十七世紀から十八世紀のバロックの音楽では、楽譜の書き方が近代のそれと違っていて、演奏されるべき音のすべてを、一つ一つ克明に書きつけておくというのでなく、楽譜に書かれたものを実際の音として現実化するに当っては、演奏家の判断、つまり彼らの趣味と手腕、音楽的教養と知性といったものに任せる部分が少なからずあった。特に、当時はまた、描写的標題音楽では、ソリストに最大限の自由を保証することがエチケットとされていたのである。」
とはいえ、デジタル化によって音質が保たれるということは、幸せな時代を生きていると言わねばなるまい。テクノロジカルに精神が同化した時、ノスタルジアやデジャヴといった感覚へ導かれる...
芸術は、極めて人工的な行為でありながら、自然な感覚に強く訴える。騒々しい日常から逃避するかのように...
おまけに、芸術は、自己主張の強い世界。ことクラシックでは、演奏家たちは誰もが作曲家の意図を忠実に再現していると、その正統性を主張してやまない。そのくせ、ちっとも強制的でなく、威圧的でなく、機械的でなく、鑑賞者に人間味のある自由な空間を提供してくれる。音楽は、心が平静であり続けることを許さない。音楽家たちは無責任にも、絶えずも心をかき乱すよう仕掛けてきやがる。圧倒的な才能たる腕力で無力感に苛ませ、これが心地よいとくれば、M性にはたまらない。
本書で紹介される演奏家たちの音楽哲学も様々で、即興的な天才演奏家あり、およそ考えられる限り完璧な域に達しないと披露しない者あり、一つの曲だけを徹底的に究めるスペシャリストあり... これほどの多様性をドレミファソラシドだけで体現できるとは。音符に魂を吹き込むとは、こういう仕事を言うのであろう。但し、最高のものばかり味わうのでは、ちと疲れる。駄作の存在感も噛み締めなければ。時代、時代に達人が登場し、そのたびに古典は新たな力を得て蘇る。古典ほど長く愛される新作があろうか...
さて、レコードには、作曲家と演奏家がセットになって刻まれる。そして、生涯でこの一枚!となるとなかなか手強い。選曲だけでも大変なのに、演奏家が絡むとほぼ無限に広がる。ベスト 10 を選ぶだけでも葛藤が収まりそうにない。
吉田先生ほどの音楽評論家ですら、「一枚のレコード」と題しておきながら、二十枚じゃ済まない。バッハのカンタータに宇宙論を求め、シューベルトのピアノ書法に清澄な光景を見い出し、はたまた表現主義的なネオバロックに惹かれるかと思えば、トロイメライにスラブ的な憂愁を感じ入り、エロイカシンフォニーに誇りをくすぐられ、魔笛に音楽のアルファとオメガを見るといった具合。音楽の思い出や音楽とのふれあいを風景画のごとく描いて魅せる。
ちなみに、α(アルファ)とΩ(オメガ)はギリシャ語アルファベットの最初と最後の文字で、聖書には神が最初から最後まで看取るという形で、これらの文字が刻まれる。音楽もそういう感覚で刻まれていくのであろう。
吉田先生にとっても、やはりモーツァルトは特別な存在と見える。
「魔笛とは何たる音楽だろう!! この音楽をきいて、胸を打たれない人は、音楽を必要としない人だ。こんなに美しくて、しかも冷たい水が歯にしみるように胸に沁みてくる音楽はほかにない。タミーノの恋心、パミーナの悲しみ、夜の女王の誇り高き怒り、パパゲーノの嘆きと有頂天、ザラストロのくそまじめな説教とモノスタトスの黒い欲望。三人の侍女と三人の童子の、奇妙に無量感を脱した呼びかけ... この中の、そうして、これ以外のすべての一つ一つが、何の作為もなしに、透明な矢のように私たちの胸にまっすぐに走ってくる。この音楽は、私にはほとんど涙なしにはきき終えられないものだが、さてその涙は悲しみから生れたのか、それとも喜びからのものかときかれても、わかったためしがない...」
1. オーマンディの一枚
無理やりにでも「一枚のレコード」とするならば、最初に出会ったものを挙げることはできよう。どんなに美味いラーメン屋に行っても、結局、地元のラーメンの味が忘れられないように...
そして、おいらが美少年と呼ばれていた小学校低学年の頃、曲名も分からず、テレビで聞いた記憶を頼りにレコード屋に連れて行ってもらった記憶が蘇る。それが何だったのか?結局分からず、ジャケットのオーケストラの見栄えだけで選んだ一枚が... 「新世界交響曲」、ユージン・オーマンディ + ロンドン交響楽団... であった。レコードの解説には、こうある。
「かつて... フィラデルフィア管弦楽団という天下の銘器は、ストコフスキーによってつくられ、オーマンディによってかき鳴らされる... といわれたものだ。」
おかげで、おいらの音楽鑑賞人生はオーマンディに始まり、コレクション人生はフィラデルフィア管弦楽団に始まったのだった。
本書にも、オーマンディのエピソードが綴られる。彼はこう言ったそうな。
「フィラデルフィア管弦楽団の音ということがよく言われるが、あれは私の音であり、オーマンディ・トーンと呼んで欲しい。」
2. 魔王に惹かれて
シューベルトにはデモーニッシュな面があり、魔王には何がしら不思議な力が宿る。国粋的で、大衆動員的な気配。志賀直哉は、この音楽を「子供を持ったことのない男の無思慮な残酷さ」と言って酷評したそうな。だが、この深く食い入ってくる悪魔性にどことなく惹かれるのは、吉田先生とて同じようである。
3. バロックな自由のエチケット
「十七世紀から十八世紀のバロックの音楽では、楽譜の書き方が近代のそれと違っていて、演奏されるべき音のすべてを、一つ一つ克明に書きつけておくというのでなく、楽譜に書かれたものを実際の音として現実化するに当っては、演奏家の判断、つまり彼らの趣味と手腕、音楽的教養と知性といったものに任せる部分が少なからずあった。特に、当時はまた、描写的標題音楽では、ソリストに最大限の自由を保証することがエチケットとされていたのである。」
2019-05-05
"ウィトルーウィウス建築書" Marcus Vitruvius Pollio 著
何を建て、何を築くか...
「建築」という概念も、二千年もの月日が流れると、随分と変質してきたようである。原題 "De Architectura" は、現代語の "architecture" で認知される建築術の範疇に収まりそうにない。それは、建築技術や土木技術はもちろん、音楽論、機械技術、造兵技術にまで及び、都市計画から国家防衛論までも視野に入る。ガウディは、自ら画家、音楽家、彫刻家、家具師、金物製造師、都市計画家となって、建築をあらゆる芸術の総体と捉えた。建築家という人種は、五感を存分に解放できる空間を求め、その空間のみが五感を超越した六感なるものを生起させる、かのように考えるものらしい。真の自由は、まさに空間にあると言わんばかりに...
「学問なき才能あるいは才能なき学問は完全な技術人をつくることができない... そして願わくば、建築家は文章の学を解し、描画に熟達し、幾何学に精通し、多くの歴史を知り、努めて哲学者に聞き、音楽を理解し、医術に無知でなく、法律家の所論を知り、星学あるいは天空理論の知識をもちたいものである。」
時代は、アウグストゥスの時代。建築様式ではドリス式やイオニア式は廃れ、コリント式に取って代わっていたという。にもかかわらず、この建築書は、ローマ帝政時代に好んで用いられた様式にはあまり触れず、ドリス式やイオニア式に多くのページを割く。ウィトルウィウスは、古き様式に何を求めたのだろうか。人間社会ってやつは、繁栄の度が過ぎると、やたらと流行り建造物を乱立させるものだが、ローマ帝政時代にもそのような傾向があったと見える。この書は、時代への苦言と解するのは行き過ぎであろうか...
ちなみに、公共浴場については、ローマ時代に thermae(テルマエ)と呼ばれたが、ここでは、balneae(バルネアエ)という語を用い、この分野でも建築の地位が確立されていたことが見て取れる。
技術の進化が抽象的な概念を具現化していく。学問の進化が学問分野を細分化していく。各分野で専門性を高めれば高めるほど専門バカを量産し、門外漢を閉め出す。それで、哲学的な論点を見失うとしたら、それは進化なのだろうか。知識の総体を眺める立場と、より深い知識を探求する立場のバランスは、いつの時代も問われてきた。
技術の進化が大いなる利便性をもたらしてきたのは確かだ。今日、続々と出現する電子機器によってユーザたちは達人レベルに飼い慣らされ、もはや道具を使っているのやら、道具に使われているのやら。そして今、巷を騒がす AI ってやつは機械なのか、道具なのか。それとも、人間の方が...
AI は情報を集積し、学習し、そのデータを元に機能する。高度な計算や状況分析の分野では非常にありがたい代物である。となると、人間らしい知識とは、どんなものを言うのであろう。文明が高度化するほど、人間は人間自身を見失わせるのか。人体を構造的に眺めれば、原子や電子の集合体でしかないし、人間もまたオートマタに過ぎないのかもしれない。心臓の鼓動が、ゼンマイ仕掛けのオルゴールと何が違うというのか。精神の正体は、単なる自由電子の集合体なのかもしれない。純粋な意志が集まり過ぎると、脂ぎった意志に変貌するらしいことは、人間社会という集団性が示している...
さて、本書は建築のバランス感覚を成立させる要素として、「オールディナーティオー」、「ディスポシティオー」、「エウリュトミア」、「シュムメトリア」、「デコル」、「ディストリブーティオー」という用語を持ち出す。現代語で表現するなら、数学的な対称性やシンメトリーな美、調合性や均衡性といった感じになろうか...
「オールディナーティオーとは、作品の肢体が個別的に度に適っていることであり、全体的比例をシュムメトリアに即して整えることである。」
「ディスポシティオーとは、物をぴったりと配置することであり、その組み合わせによって作品を質を以て立派につくり上げることである。」
「エウリュトミアとは、美しい外貌であって、肢体の組立てにおいて度に適って見えることである。」
「シュムメトリアとは、建物の肢体そのものより生ずる工合よき一致であり、一定の部分が個々の部分から採られて全体の姿に照応することである。」
「デコルとは、建物が是認された事物によって権威をもって構成され、欠点なく見えることである。」
「ディストリブーティオーとは、材料や場所を工合よく配分することであり、工事の際の費用の計算によって細かく割り振ることである。」
ウィトルウィウスは、こうした用語に数学を結びつけ、当時、基本物質とされた四元素(気、地、火、水)を体現する場としての空間論を唱える。それは、神の宿る場としての、あるいは、魂の居心地の良い場としての宇宙論という見方もできよう...
「建築術の理論とコンパスの作図を通じて宇宙における(太陽の)挙動が見いだされる。宇宙は自然万物を総括する最高のものであり、星群と星の軌道で形成された天空である。それは、軸の両端を中心として、絶えず地と海のまわりを回転している。実に、ここで自然を支配する力は(宇宙を)このように建築的に組立て、中心としての両端を、一は地と海から天頂にあるいは北斗七星そのもののうしろに配置し、他は反対に地中を通って南方に配置した。」
人間は、その本性において模倣的である。技術の習得も、芸術の習得も、その鍛錬において似たところがある。何を師範にするか、それを作品に求めるか、師匠に求めるか、はたまた書に求めるか...
それにしても、本書の図柄を眺めていると、数学と芸術の相性の良さを感じずにはいられない。理念においても、表現においても、ヘレニスティックな香り漂う。この酔いどれ天の邪鬼ときたら、この大技術書を美術図鑑として眺めている...
「建築」という概念も、二千年もの月日が流れると、随分と変質してきたようである。原題 "De Architectura" は、現代語の "architecture" で認知される建築術の範疇に収まりそうにない。それは、建築技術や土木技術はもちろん、音楽論、機械技術、造兵技術にまで及び、都市計画から国家防衛論までも視野に入る。ガウディは、自ら画家、音楽家、彫刻家、家具師、金物製造師、都市計画家となって、建築をあらゆる芸術の総体と捉えた。建築家という人種は、五感を存分に解放できる空間を求め、その空間のみが五感を超越した六感なるものを生起させる、かのように考えるものらしい。真の自由は、まさに空間にあると言わんばかりに...
「学問なき才能あるいは才能なき学問は完全な技術人をつくることができない... そして願わくば、建築家は文章の学を解し、描画に熟達し、幾何学に精通し、多くの歴史を知り、努めて哲学者に聞き、音楽を理解し、医術に無知でなく、法律家の所論を知り、星学あるいは天空理論の知識をもちたいものである。」
時代は、アウグストゥスの時代。建築様式ではドリス式やイオニア式は廃れ、コリント式に取って代わっていたという。にもかかわらず、この建築書は、ローマ帝政時代に好んで用いられた様式にはあまり触れず、ドリス式やイオニア式に多くのページを割く。ウィトルウィウスは、古き様式に何を求めたのだろうか。人間社会ってやつは、繁栄の度が過ぎると、やたらと流行り建造物を乱立させるものだが、ローマ帝政時代にもそのような傾向があったと見える。この書は、時代への苦言と解するのは行き過ぎであろうか...
ちなみに、公共浴場については、ローマ時代に thermae(テルマエ)と呼ばれたが、ここでは、balneae(バルネアエ)という語を用い、この分野でも建築の地位が確立されていたことが見て取れる。
技術の進化が抽象的な概念を具現化していく。学問の進化が学問分野を細分化していく。各分野で専門性を高めれば高めるほど専門バカを量産し、門外漢を閉め出す。それで、哲学的な論点を見失うとしたら、それは進化なのだろうか。知識の総体を眺める立場と、より深い知識を探求する立場のバランスは、いつの時代も問われてきた。
技術の進化が大いなる利便性をもたらしてきたのは確かだ。今日、続々と出現する電子機器によってユーザたちは達人レベルに飼い慣らされ、もはや道具を使っているのやら、道具に使われているのやら。そして今、巷を騒がす AI ってやつは機械なのか、道具なのか。それとも、人間の方が...
AI は情報を集積し、学習し、そのデータを元に機能する。高度な計算や状況分析の分野では非常にありがたい代物である。となると、人間らしい知識とは、どんなものを言うのであろう。文明が高度化するほど、人間は人間自身を見失わせるのか。人体を構造的に眺めれば、原子や電子の集合体でしかないし、人間もまたオートマタに過ぎないのかもしれない。心臓の鼓動が、ゼンマイ仕掛けのオルゴールと何が違うというのか。精神の正体は、単なる自由電子の集合体なのかもしれない。純粋な意志が集まり過ぎると、脂ぎった意志に変貌するらしいことは、人間社会という集団性が示している...
さて、本書は建築のバランス感覚を成立させる要素として、「オールディナーティオー」、「ディスポシティオー」、「エウリュトミア」、「シュムメトリア」、「デコル」、「ディストリブーティオー」という用語を持ち出す。現代語で表現するなら、数学的な対称性やシンメトリーな美、調合性や均衡性といった感じになろうか...
「オールディナーティオーとは、作品の肢体が個別的に度に適っていることであり、全体的比例をシュムメトリアに即して整えることである。」
「ディスポシティオーとは、物をぴったりと配置することであり、その組み合わせによって作品を質を以て立派につくり上げることである。」
「エウリュトミアとは、美しい外貌であって、肢体の組立てにおいて度に適って見えることである。」
「シュムメトリアとは、建物の肢体そのものより生ずる工合よき一致であり、一定の部分が個々の部分から採られて全体の姿に照応することである。」
「デコルとは、建物が是認された事物によって権威をもって構成され、欠点なく見えることである。」
「ディストリブーティオーとは、材料や場所を工合よく配分することであり、工事の際の費用の計算によって細かく割り振ることである。」
ウィトルウィウスは、こうした用語に数学を結びつけ、当時、基本物質とされた四元素(気、地、火、水)を体現する場としての空間論を唱える。それは、神の宿る場としての、あるいは、魂の居心地の良い場としての宇宙論という見方もできよう...
「建築術の理論とコンパスの作図を通じて宇宙における(太陽の)挙動が見いだされる。宇宙は自然万物を総括する最高のものであり、星群と星の軌道で形成された天空である。それは、軸の両端を中心として、絶えず地と海のまわりを回転している。実に、ここで自然を支配する力は(宇宙を)このように建築的に組立て、中心としての両端を、一は地と海から天頂にあるいは北斗七星そのもののうしろに配置し、他は反対に地中を通って南方に配置した。」
人間は、その本性において模倣的である。技術の習得も、芸術の習得も、その鍛錬において似たところがある。何を師範にするか、それを作品に求めるか、師匠に求めるか、はたまた書に求めるか...
それにしても、本書の図柄を眺めていると、数学と芸術の相性の良さを感じずにはいられない。理念においても、表現においても、ヘレニスティックな香り漂う。この酔いどれ天の邪鬼ときたら、この大技術書を美術図鑑として眺めている...
2019-04-28
"詳解 Linux カーネル" Daniel P. Bovet & Marco Cesati 著
入手したはいいが、その場しのぎで、十年、二十年と放置してきた奴らがいる。ヘネパタか、パタヘネか、こいつらはその代表。本書もその類いで、章ごとに完結し、元が辞書的な構成になっている。そして、心の奥から貧乏性がつぶやいてやがる。せっかく買ったんだから... って。そろそろ引退勧告されそうな身で、再トライ!といこう。こいつを拾い読みするだけで書籍代も助かるし...
Linux のソースコードは自由に目にすることができ、その気になれば自分なりにカスタマイズすることもできる。とはいえ、いきなりコードを手にしても、途方に暮れるばかり。そんな時に指南役となってくれるのが、この詳解である。
おそらく、ソフトウェア屋さん向けに書かれたものであろう。だが、CPU を活かすためのカーネルという見方をすれば、ハードウェアの仕組みにも踏み込む。実際、コードのカスタマイズが求められるケースは、ハードウェア依存の高い部分が多い。おいらはプログラマではないが、それでも、割り込みベクタ、例外ハンドラ、同期処理、MMU、あるいは、ブートシーケンスぐらいは基本知識として持っておいて損はない。実際、知らなければ、プロセッサや周辺回路の設計で困るし...
本書の有り難いところは、コードの実装イメージを優先してくれることである。もちろんコードの厳密性も重要だけど、少々の効率性は犠牲にしてでも。例えば、schedule() 関数のカスタマイズでは、かなり教育を意識している。著者の二人はローマ大学の先生で、この詳解はイタリアの有数の工科大学で教材にされているそうな...
マルチタスク環境で主役を演じる機能といえば、プロセスの切り替えやそのスケジューリングといったところ。プロセスの切り替えでは、時間間隔、すなわちクォンタムが、システムの最適値として問われる。
さらに、今日当たり前となったマルチプロセッサ環境では、プリエンプティブか、ノンプリエンプティブか、がより重視される。Unix 環境では、ジョブに一定時間を割り当てるプリエンプティブな方式が当たり前のように用いられるが、リアルタイム処理ではそうはいかない。Linux の場合、ユーザプロセスがプリエンプティブでも、ノンプリエンプティブな部分も混在しており、本書は、負荷の高いシステムでは既定のクォンタムでは大きすぎることを指摘している。
また、スワップとキャッシュの位置づけを明確にしている。今日の OS は、幸いにも物理メモリをすべて管理する必要はない。ハードウェアの強力な支援があるからである。それだけに、スワップとキャッシュのトレードオフはより顕著化する。キャッシュは、メモリ領域を犠牲にしてでもパフォーマンスを向上させ、スワップはアクセス速度を犠牲にして、利用可能なメモリ領域を拡大させる。すべてキャッシュで済めばいいが、スワップはメモリ不足時の最終手段という考え方もできる。いわば保険として。そして、ゾンビプロセスとの葛藤では、今日のガベージコレクションを思い浮かばせる。
個人的には、モノリシックカーネルという特徴も味わいたい。本来の Unix 思想は、メモリ管理やファイルシステムなどを独立させて小さな部品を集めてシステムを構築するというものだが、あえて Linux は、これらすべてをカーネルに取り込んで一つのアドレス空間で実行させようとする。しかも、カーネルモジュールに対して、機能のアップデートや削除を動的に行える仕組みを備えている。
... こうした技を魅せつけられれば、いくらアホな天の邪鬼でもちょっといじってみたくなる。この酔いどれ庶民には高価なシステムは高嶺の花で、非力な x86 系のためのチューニング思想の方がありがたい。
近年の Linux は行儀よくなったもので、あのメッセージに出くわす機会がぐっと減った。ちと淋しいけど。歳のせいか、安定志向に走り、CentOS に鞍替えしてからは、とんとご無沙汰。そこで、わざと発生させて、心のオアシスを求めるのであった...
Kernel Panic !!!
ところで、「プロセス」という概念は、あまりに慣れ親しみ過ぎて、その意味を問うたこともない。簡単に言えば、「プログラムの実行時におけるインスタンス」として定義される。通常、割り込みは、「プロセッサが実行する命令列を変更するイベント」として定義されるとか。
こうした用語の捉え方を眺めるだけでも、当たり前といえばそうなのだが、その意味を再確認する上で古典を読む意義は大きい。いや、愉快!
尚、デッドロック回避に用いられる「セマフォ」という概念には苦労した記憶が蘇る。考え方は単純でも、抽象化されたデータ型に馴染むには、ちと時間がかかる。抽象数学に悩まされてきたように...
Linux のソースコードは自由に目にすることができ、その気になれば自分なりにカスタマイズすることもできる。とはいえ、いきなりコードを手にしても、途方に暮れるばかり。そんな時に指南役となってくれるのが、この詳解である。
おそらく、ソフトウェア屋さん向けに書かれたものであろう。だが、CPU を活かすためのカーネルという見方をすれば、ハードウェアの仕組みにも踏み込む。実際、コードのカスタマイズが求められるケースは、ハードウェア依存の高い部分が多い。おいらはプログラマではないが、それでも、割り込みベクタ、例外ハンドラ、同期処理、MMU、あるいは、ブートシーケンスぐらいは基本知識として持っておいて損はない。実際、知らなければ、プロセッサや周辺回路の設計で困るし...
本書の有り難いところは、コードの実装イメージを優先してくれることである。もちろんコードの厳密性も重要だけど、少々の効率性は犠牲にしてでも。例えば、schedule() 関数のカスタマイズでは、かなり教育を意識している。著者の二人はローマ大学の先生で、この詳解はイタリアの有数の工科大学で教材にされているそうな...
マルチタスク環境で主役を演じる機能といえば、プロセスの切り替えやそのスケジューリングといったところ。プロセスの切り替えでは、時間間隔、すなわちクォンタムが、システムの最適値として問われる。
さらに、今日当たり前となったマルチプロセッサ環境では、プリエンプティブか、ノンプリエンプティブか、がより重視される。Unix 環境では、ジョブに一定時間を割り当てるプリエンプティブな方式が当たり前のように用いられるが、リアルタイム処理ではそうはいかない。Linux の場合、ユーザプロセスがプリエンプティブでも、ノンプリエンプティブな部分も混在しており、本書は、負荷の高いシステムでは既定のクォンタムでは大きすぎることを指摘している。
また、スワップとキャッシュの位置づけを明確にしている。今日の OS は、幸いにも物理メモリをすべて管理する必要はない。ハードウェアの強力な支援があるからである。それだけに、スワップとキャッシュのトレードオフはより顕著化する。キャッシュは、メモリ領域を犠牲にしてでもパフォーマンスを向上させ、スワップはアクセス速度を犠牲にして、利用可能なメモリ領域を拡大させる。すべてキャッシュで済めばいいが、スワップはメモリ不足時の最終手段という考え方もできる。いわば保険として。そして、ゾンビプロセスとの葛藤では、今日のガベージコレクションを思い浮かばせる。
個人的には、モノリシックカーネルという特徴も味わいたい。本来の Unix 思想は、メモリ管理やファイルシステムなどを独立させて小さな部品を集めてシステムを構築するというものだが、あえて Linux は、これらすべてをカーネルに取り込んで一つのアドレス空間で実行させようとする。しかも、カーネルモジュールに対して、機能のアップデートや削除を動的に行える仕組みを備えている。
... こうした技を魅せつけられれば、いくらアホな天の邪鬼でもちょっといじってみたくなる。この酔いどれ庶民には高価なシステムは高嶺の花で、非力な x86 系のためのチューニング思想の方がありがたい。
近年の Linux は行儀よくなったもので、あのメッセージに出くわす機会がぐっと減った。ちと淋しいけど。歳のせいか、安定志向に走り、CentOS に鞍替えしてからは、とんとご無沙汰。そこで、わざと発生させて、心のオアシスを求めるのであった...
Kernel Panic !!!
ところで、「プロセス」という概念は、あまりに慣れ親しみ過ぎて、その意味を問うたこともない。簡単に言えば、「プログラムの実行時におけるインスタンス」として定義される。通常、割り込みは、「プロセッサが実行する命令列を変更するイベント」として定義されるとか。
こうした用語の捉え方を眺めるだけでも、当たり前といえばそうなのだが、その意味を再確認する上で古典を読む意義は大きい。いや、愉快!
尚、デッドロック回避に用いられる「セマフォ」という概念には苦労した記憶が蘇る。考え方は単純でも、抽象化されたデータ型に馴染むには、ちと時間がかかる。抽象数学に悩まされてきたように...
2019-04-21
"ガロアの夢 群論と微分方程式" 久賀道郎 著
三十年間、ずっと纏わり付いてくる奴がいる。あぁ、捉えどころのない微分方程式!物語は、こんな言葉から始まる...「そして山の裂目(クレパス)にのまれてしまったとさ...」
現実世界を生きるには、難問に遭遇しても、とりあえず答えを出していかないと前に進むことが難しい。数学の世界には、そうした暫定的な処理に、漸近線や近似解といった有用な方法論がある。微分方程式ってやつが、いかに解けないケースが多いことか。特異解が現実解を覆い隠すのである。解が見つけられなければ、解のある微分方程式で代替するか、解そのものを近似するか。あるいは、いくつかの方程式を連らね、それぞれに定義域を割り当てて連続性を保ったりと、誤魔化し、誤魔化し、生きている。
とはいえ、妥協人生も悪くない。人間社会では、真理よりも、真理っぽく見えることの方がずっと実用的なのだ。いや、完全な真理なんぞ見たくもない!という深層心理が働いているのやもしれん。そりゃ、自己の本性を知っちまえば、絶望するしかあるまい。
情報社会では、検索アルゴリズムにおいて、100% 満足のいく結果をじっくりと得るよりも、80% ぐらい満足できる答えを手っ取り早く得る方が有用である。人間は多忙なのだ。
素数定理でも近似法が幅を利かせているではないか。デジタル社会で絶対に欠かせないコンピューティングに目を向ければ、見過ごせない弱点を浮き彫りにする。浮動小数点演算で答えが合わないと騒ぐ新人君を見かければ、IEEE 754 の意義を匂わせてやればいい。システムエラーの回避に欠かせない前提が、数学の領域を制限することを。実数演算で冪乗の壁を乗り越えられない限り、近似の概念に頼らざるを得ない。だがそれは、数学の落ちこぼれには、ありがたいことである...
本書は、著者が東京大学教養学部のゼミナールで行った講義の記録で、題目には「群論と微分方程式」とある。ガロア理論は告げている... 二次、三次、四次方程式には解の公式が存在するが、五次以上の方程式にはそれが存在しない... と。それは代数方程式に対して、どこまで解けるかを問うたもの。ここでは、微分方程式に対して、どこまで解けるかを問う。
ガロアの思惑は代数方程式論では成功を見たが、同様の考察が微分方程式においても可能であるか。この問題に生涯を賭けたソフス・リーは、リー群を編み出した。だが、微分方程式の群論的考察という意味では、リー自身は決定的な寄与はできなかったそうで、ピカールやベシオに受け継がれ、さらに代数化されて、リットやコルチンという流れ。線型常微分方程式を群論的に扱う試みは、多くの偉大な数学者が挑み、まだまだ未知数が多い。
しかしながら、この講義はそのような大理論を展開する場ではなく、かなり制限を与えてくれる。題材とされるのは「フックス型微分方程式」と「モノドロミー群」。耳慣れない用語に尻込みしそうになるが、なんのことはない。フックス型は、こんな形をしている。しかも、二階微分で扱ってくれる...
これをベースにすれば、たいていの現象を近似できるだろう。ちょっと乱暴に言えば、こういうことらしい...
「フックス型の微分方程式とは、解がみな確定特異点しかもたぬ有理関数係数の微分方程式のことである。」
また、monodromy を辞書で引くと、一人芝居、ひとりで回る... といった意味を見つける。そして、対象となる現象を、部分集合を連ねて移動体とし眺めてみる。関数の特性を離散的な部分集合で近似するようなイメージで、集合の塊が螺旋状を回転しながら移動していく様子を想像してみるのである。
R ∋ { A0, A1, A2, A3, ... }
A0 ∪ A1 ∪ A2 ....
A0 ∩ A1 ∩ A2 ....
二次元平面で眺めれば、実数同士の直積のような空間をイメージできる。それは、複素平面でも同じこと。ただしこれは、monodromy の用語に誘われて、独り善がりな解釈を試みた結果であって、本書の意図からは酷く逸脱しているだろう。酔いどれ天の邪鬼の目には、ストルツ角領域ってやつが、螺旋状に吸い込まれていく現象に見えるもんだから... 久賀先生ごめんなさい!
それはさておき、連続性を保証してくれれば、微分可能であることが前提できる。このように対象を限定することは、一般法則を求める数学屋には許せないことかもしれない。しかし、ガロア理論が視覚化できて、教育には良さそう...
「空疎な一般論よりは、深みを偏愛するわれわれ数論屋としては、構造の豊かな特殊な族をこそ求めるべきであろう。それゆえ、われわれの関心の対象を、Euler 積分を持つもののみに限ることとする。」
とはいえ、群論の視点から微分方程式を考察するというのは、やはり尋常ではない。ようやく群論という巨大な要塞の入り口に立つことができたと思ったら... ようやく空間イメージができるようになったと思ったら... またもや自由群にしてやられる。自由ってやつは、数学界においても、やはり手に負えないものらしい。
そして、講義は、HATTARI... で締めくくられる...
「ほとんどが検証されていない事実(?)ばかりである。すなわち、ほとんどすべてハッタリである。わずかな兆候に想像力を無限大に働かせて外挿してゆくのだ。数学はこのような段階が一番たのしい...」
現実世界を生きるには、難問に遭遇しても、とりあえず答えを出していかないと前に進むことが難しい。数学の世界には、そうした暫定的な処理に、漸近線や近似解といった有用な方法論がある。微分方程式ってやつが、いかに解けないケースが多いことか。特異解が現実解を覆い隠すのである。解が見つけられなければ、解のある微分方程式で代替するか、解そのものを近似するか。あるいは、いくつかの方程式を連らね、それぞれに定義域を割り当てて連続性を保ったりと、誤魔化し、誤魔化し、生きている。
とはいえ、妥協人生も悪くない。人間社会では、真理よりも、真理っぽく見えることの方がずっと実用的なのだ。いや、完全な真理なんぞ見たくもない!という深層心理が働いているのやもしれん。そりゃ、自己の本性を知っちまえば、絶望するしかあるまい。
情報社会では、検索アルゴリズムにおいて、100% 満足のいく結果をじっくりと得るよりも、80% ぐらい満足できる答えを手っ取り早く得る方が有用である。人間は多忙なのだ。
素数定理でも近似法が幅を利かせているではないか。デジタル社会で絶対に欠かせないコンピューティングに目を向ければ、見過ごせない弱点を浮き彫りにする。浮動小数点演算で答えが合わないと騒ぐ新人君を見かければ、IEEE 754 の意義を匂わせてやればいい。システムエラーの回避に欠かせない前提が、数学の領域を制限することを。実数演算で冪乗の壁を乗り越えられない限り、近似の概念に頼らざるを得ない。だがそれは、数学の落ちこぼれには、ありがたいことである...
本書は、著者が東京大学教養学部のゼミナールで行った講義の記録で、題目には「群論と微分方程式」とある。ガロア理論は告げている... 二次、三次、四次方程式には解の公式が存在するが、五次以上の方程式にはそれが存在しない... と。それは代数方程式に対して、どこまで解けるかを問うたもの。ここでは、微分方程式に対して、どこまで解けるかを問う。
ガロアの思惑は代数方程式論では成功を見たが、同様の考察が微分方程式においても可能であるか。この問題に生涯を賭けたソフス・リーは、リー群を編み出した。だが、微分方程式の群論的考察という意味では、リー自身は決定的な寄与はできなかったそうで、ピカールやベシオに受け継がれ、さらに代数化されて、リットやコルチンという流れ。線型常微分方程式を群論的に扱う試みは、多くの偉大な数学者が挑み、まだまだ未知数が多い。
しかしながら、この講義はそのような大理論を展開する場ではなく、かなり制限を与えてくれる。題材とされるのは「フックス型微分方程式」と「モノドロミー群」。耳慣れない用語に尻込みしそうになるが、なんのことはない。フックス型は、こんな形をしている。しかも、二階微分で扱ってくれる...
| d2w dz2 |
+ | P(z) | dw dz |
+ | Q(z)w | = | 0 |
これをベースにすれば、たいていの現象を近似できるだろう。ちょっと乱暴に言えば、こういうことらしい...
「フックス型の微分方程式とは、解がみな確定特異点しかもたぬ有理関数係数の微分方程式のことである。」
また、monodromy を辞書で引くと、一人芝居、ひとりで回る... といった意味を見つける。そして、対象となる現象を、部分集合を連ねて移動体とし眺めてみる。関数の特性を離散的な部分集合で近似するようなイメージで、集合の塊が螺旋状を回転しながら移動していく様子を想像してみるのである。
R ∋ { A0, A1, A2, A3, ... }
A0 ∪ A1 ∪ A2 ....
A0 ∩ A1 ∩ A2 ....
二次元平面で眺めれば、実数同士の直積のような空間をイメージできる。それは、複素平面でも同じこと。ただしこれは、monodromy の用語に誘われて、独り善がりな解釈を試みた結果であって、本書の意図からは酷く逸脱しているだろう。酔いどれ天の邪鬼の目には、ストルツ角領域ってやつが、螺旋状に吸い込まれていく現象に見えるもんだから... 久賀先生ごめんなさい!
それはさておき、連続性を保証してくれれば、微分可能であることが前提できる。このように対象を限定することは、一般法則を求める数学屋には許せないことかもしれない。しかし、ガロア理論が視覚化できて、教育には良さそう...
「空疎な一般論よりは、深みを偏愛するわれわれ数論屋としては、構造の豊かな特殊な族をこそ求めるべきであろう。それゆえ、われわれの関心の対象を、Euler 積分を持つもののみに限ることとする。」
とはいえ、群論の視点から微分方程式を考察するというのは、やはり尋常ではない。ようやく群論という巨大な要塞の入り口に立つことができたと思ったら... ようやく空間イメージができるようになったと思ったら... またもや自由群にしてやられる。自由ってやつは、数学界においても、やはり手に負えないものらしい。
そして、講義は、HATTARI... で締めくくられる...
「ほとんどが検証されていない事実(?)ばかりである。すなわち、ほとんどすべてハッタリである。わずかな兆候に想像力を無限大に働かせて外挿してゆくのだ。数学はこのような段階が一番たのしい...」
2019-04-14
"群論への30講" 志賀浩二 著
我武者羅にやっているうちに、突然、視界が開ける瞬間がある。ある種の突然変異であろうか。そんな感覚に見舞われることを期待しながら、むかーし、返り討ちに遭ったヤツに再挑戦!抽象数学の醍醐味を味わいたくて...
今回、縋るのは、数学30講シリーズ。一つ一つの講義は、10分ほどで読める量で、各々完結しているのも、ちょっとした時間に読もうかという気分にさせてくれる。それでいて、ストーリー性も匂わせてくれる。群論という巨大な要塞も分解してしまうと、軽やかな調べのように流れていくものらしい。そして、ようやく入り口に立てたような気がするのであった...
数学が数を対象とする学問であることは確かである。そして、万物は数である... とのピュタゴラス派の格言を信じるならば、その対象は無限に拡がる。自然数のような数そのものであったり、球形や多面体のような形を成すものであったり、はたまた、方程式のような関連性を記述する文字の羅列であったり...
本書は、まず正多面体から、対称群、交代群、巡回群... の成り行きを追う。群論の特殊な表記法にも馴染みにくいものがあるが、なぜこんな表記に至ったのか、その経緯も軽く解説してくれる。
そして、H を G の部分群とすると、G の元 g に対して、こいつの正体を追っていくわけだが、
gHg-1
巡回群を形成していく様子を眺めるだけでも、そこに暗号システムの源泉が透けて見えてくる。G = { g0, g1, g2, g3, g4, g5 } において、g6 = g0 となれば、巡回群となり、モジュロ演算との相性の良さが浮かび上がる。
そして、巡回群は位数によって分類され、左余剰類や右余剰類の意味を探りながら物語は進んでいく。ここで言う位数とは、有限群の元の個数のことだが、無限集合における濃度のようなものに見えてくる。個数を抽象化すれば、濃度になるってか。なんと、正多面体の頂点が左剰余類に吸い込まれていくではないか。剰余類とは、文字通りモジュロ演算に関係する。
さらに、加群の近さから距離の概念が登場し、位相群へといざなう。アーベル群の可換性から位相の概念へと導くのである。位相とは距離の抽象化というわけか。ここまでくれば、トポロジーが見えてくる。
それにしても、こいつらは本当に数なのだろうか。抽象度を高めるほど、考古学的とも言うべき暗号めいた記法へと導かれる。人間が編み出した自然言語は、宇宙の合理性には適っていないと見える。宇宙が有限ならば、向かう先も有限群ということになりそうか...
抽象的なものを相手にすると、効率的な表現法が求められる。プログラミング言語の世界では、文字列の集合体を効率的に記述する「正規表現」なるものがあるが、群論にもこれに似た思考法があるようだ。数学もまたある種の形式言語というわけか。表記法ってやつは、効率性を追求すると、暗号めいたものになって人間の感覚からは遠ざかっていくものらしい。そして、数論に発する抽象論は、表現論に帰着するのであった...
「群」の定義そのものは、なにも難しいことを告げてはいない。結合法則が成り立って、単位元なるものが存在して、逆元も存在するような代数的体系。ただそれだけのこと。義務教育のレベルでも定義できそうな。しかし、このお告げがなかなかの曲者ときた。交換法則なんて当たり前!なんて気を抜いていると、宇宙には非可換群で満ち満ちていることを思い知らされる。この酔いどれには、可解群や冪零群なんぞに興味はない。もっと実存感のある群を...
そこで、本書で躍動する群は、幾何学的なものが中心となる。シンメトリーを語るなら、まさに見たまんま。三次元空間の住人にとっての最も神聖な形といえば、球体であろうか。半径を元とする真円球の完全性に魅せられて。いや、人間ってやつは、角(かど)が立つものを欲する。自己が巻き込まれない距離で、他人が揉めるのを眺めるのがお好きときた。角のあるものを崇めるなら、プラトン立体であろうか。神聖なプラトン立体は、回転操作によるπの軽やかな調べに乗って、対称性の美へいざなう。
プラトンは、既に正多面体が五種類しかないことを知っていた。どうやって知ったかは知らんが。多面体の属性が、頂点、辺、面の三つであることも見たまんま。正四面体、正六面体、正八面体、正十二面体、正二十面体をそれぞれ構成する面は、正三角形、正方形、正三角形、正五角形、正三角形となる。正三角形、正方形、正五角形の三つには、神が宿るのかは知らんが。対称性のパターンは、一つの形から出発して、規則立った移動、反転、回転などの操作を繰り返して生成される。この運動の原理を数学的に定式化することが、「群」という考え方の始まりというわけである。
とはいえ、完全な対称性は、ちと窮屈に思える。神の支配力が及び過ぎている感が。抑圧的で宗教的な感が。自然界は、ちょいとバランスを欠くぐらいが収まりがいい。自由を求めるならば、ちょいと調和を欠くぐらいでいい。数学の支配力が及び過ぎるのは疲れる...
「生物の形態や無機物の結晶などにみられる、神の創造としか思えぬような、見事な対称性や、起源をはるかシュメールやエジプトにまでさかのぼる多くの紋様や芸術作品にみられる対称性、これらの対称性は、つねにある特殊な美を表象している。対称性とは何かを分析し、抽象し、一般化していくと、そこに '群' の概念が現われてくる。プラトン的なイデアの世界に立っていうならば、対称性とは群そのものである。」
ところで、本物語の過程で「自由群」なるものが登場する。なんじゃこりゃ?束縛されない関係だとすれば、等式が成り立たないことになるが、となると独立事象ってことか?いや、割り算を介して関係をもつらしい。どうやら自由とは割り切れないものらしい...
「どんな群でも、自由群の商群として表せる。」
んん~、こんなものに何の意味が?自由ほど手に負えないものはない!と告げているのか。どんなに独立した事象であっても、宇宙創生の観点から何らかの関連性を見い出すことができる。宇宙がビッグバン理論のようなただの一点から誕生したとすれば、万物の構造は素粒子レベルでは似たり寄ったり。
そして、関連の度合いが、群論で言うところの位数に相当するのだろうか。位数が素数である場合に何らかの意味が内包されているのだろうか。思考過程では、ひたすら同型を求め... 同類を求め... 仲間を求め... その先に、人間が編み出すクローン人間にも、自己同型の位数がつきまとうのだろうか。やはり、ホモサピエンスという種は、ひたすら関係を求める性癖をもち、群れるのがお好きと見える。群論とは、寂しがり屋の理論であったか...
今回、縋るのは、数学30講シリーズ。一つ一つの講義は、10分ほどで読める量で、各々完結しているのも、ちょっとした時間に読もうかという気分にさせてくれる。それでいて、ストーリー性も匂わせてくれる。群論という巨大な要塞も分解してしまうと、軽やかな調べのように流れていくものらしい。そして、ようやく入り口に立てたような気がするのであった...
数学が数を対象とする学問であることは確かである。そして、万物は数である... とのピュタゴラス派の格言を信じるならば、その対象は無限に拡がる。自然数のような数そのものであったり、球形や多面体のような形を成すものであったり、はたまた、方程式のような関連性を記述する文字の羅列であったり...
本書は、まず正多面体から、対称群、交代群、巡回群... の成り行きを追う。群論の特殊な表記法にも馴染みにくいものがあるが、なぜこんな表記に至ったのか、その経緯も軽く解説してくれる。
そして、H を G の部分群とすると、G の元 g に対して、こいつの正体を追っていくわけだが、
gHg-1
巡回群を形成していく様子を眺めるだけでも、そこに暗号システムの源泉が透けて見えてくる。G = { g0, g1, g2, g3, g4, g5 } において、g6 = g0 となれば、巡回群となり、モジュロ演算との相性の良さが浮かび上がる。
そして、巡回群は位数によって分類され、左余剰類や右余剰類の意味を探りながら物語は進んでいく。ここで言う位数とは、有限群の元の個数のことだが、無限集合における濃度のようなものに見えてくる。個数を抽象化すれば、濃度になるってか。なんと、正多面体の頂点が左剰余類に吸い込まれていくではないか。剰余類とは、文字通りモジュロ演算に関係する。
さらに、加群の近さから距離の概念が登場し、位相群へといざなう。アーベル群の可換性から位相の概念へと導くのである。位相とは距離の抽象化というわけか。ここまでくれば、トポロジーが見えてくる。
それにしても、こいつらは本当に数なのだろうか。抽象度を高めるほど、考古学的とも言うべき暗号めいた記法へと導かれる。人間が編み出した自然言語は、宇宙の合理性には適っていないと見える。宇宙が有限ならば、向かう先も有限群ということになりそうか...
抽象的なものを相手にすると、効率的な表現法が求められる。プログラミング言語の世界では、文字列の集合体を効率的に記述する「正規表現」なるものがあるが、群論にもこれに似た思考法があるようだ。数学もまたある種の形式言語というわけか。表記法ってやつは、効率性を追求すると、暗号めいたものになって人間の感覚からは遠ざかっていくものらしい。そして、数論に発する抽象論は、表現論に帰着するのであった...
「群」の定義そのものは、なにも難しいことを告げてはいない。結合法則が成り立って、単位元なるものが存在して、逆元も存在するような代数的体系。ただそれだけのこと。義務教育のレベルでも定義できそうな。しかし、このお告げがなかなかの曲者ときた。交換法則なんて当たり前!なんて気を抜いていると、宇宙には非可換群で満ち満ちていることを思い知らされる。この酔いどれには、可解群や冪零群なんぞに興味はない。もっと実存感のある群を...
そこで、本書で躍動する群は、幾何学的なものが中心となる。シンメトリーを語るなら、まさに見たまんま。三次元空間の住人にとっての最も神聖な形といえば、球体であろうか。半径を元とする真円球の完全性に魅せられて。いや、人間ってやつは、角(かど)が立つものを欲する。自己が巻き込まれない距離で、他人が揉めるのを眺めるのがお好きときた。角のあるものを崇めるなら、プラトン立体であろうか。神聖なプラトン立体は、回転操作によるπの軽やかな調べに乗って、対称性の美へいざなう。
プラトンは、既に正多面体が五種類しかないことを知っていた。どうやって知ったかは知らんが。多面体の属性が、頂点、辺、面の三つであることも見たまんま。正四面体、正六面体、正八面体、正十二面体、正二十面体をそれぞれ構成する面は、正三角形、正方形、正三角形、正五角形、正三角形となる。正三角形、正方形、正五角形の三つには、神が宿るのかは知らんが。対称性のパターンは、一つの形から出発して、規則立った移動、反転、回転などの操作を繰り返して生成される。この運動の原理を数学的に定式化することが、「群」という考え方の始まりというわけである。
とはいえ、完全な対称性は、ちと窮屈に思える。神の支配力が及び過ぎている感が。抑圧的で宗教的な感が。自然界は、ちょいとバランスを欠くぐらいが収まりがいい。自由を求めるならば、ちょいと調和を欠くぐらいでいい。数学の支配力が及び過ぎるのは疲れる...
「生物の形態や無機物の結晶などにみられる、神の創造としか思えぬような、見事な対称性や、起源をはるかシュメールやエジプトにまでさかのぼる多くの紋様や芸術作品にみられる対称性、これらの対称性は、つねにある特殊な美を表象している。対称性とは何かを分析し、抽象し、一般化していくと、そこに '群' の概念が現われてくる。プラトン的なイデアの世界に立っていうならば、対称性とは群そのものである。」
ところで、本物語の過程で「自由群」なるものが登場する。なんじゃこりゃ?束縛されない関係だとすれば、等式が成り立たないことになるが、となると独立事象ってことか?いや、割り算を介して関係をもつらしい。どうやら自由とは割り切れないものらしい...
「どんな群でも、自由群の商群として表せる。」
んん~、こんなものに何の意味が?自由ほど手に負えないものはない!と告げているのか。どんなに独立した事象であっても、宇宙創生の観点から何らかの関連性を見い出すことができる。宇宙がビッグバン理論のようなただの一点から誕生したとすれば、万物の構造は素粒子レベルでは似たり寄ったり。
そして、関連の度合いが、群論で言うところの位数に相当するのだろうか。位数が素数である場合に何らかの意味が内包されているのだろうか。思考過程では、ひたすら同型を求め... 同類を求め... 仲間を求め... その先に、人間が編み出すクローン人間にも、自己同型の位数がつきまとうのだろうか。やはり、ホモサピエンスという種は、ひたすら関係を求める性癖をもち、群れるのがお好きと見える。群論とは、寂しがり屋の理論であったか...
2019-04-07
"天才ガロアの発想力 - 対称性と群が明かす方程式の秘密" 小島寛之 著
エヴァリスト・ガロア... この名を聞けば、あの忌々しいヤツが頭をよぎる。群論ってヤツが... おいらを数学の落ちこぼれにした張本人と言ってもいい。おいらは数学屋ではないが、いまだに付き纏ってきやがる。なので、ボトルを差し入れては数学屋さんに計算をお願いする羽目に...
体論はまだいい。四則演算の領域にとどまっている間はまだいい。だが、群論となると、抽象レベルが一段上がり、対象物の正体が一向に見えてこない。群の定義は、なにも難しいことを告げているわけではない。結合法則が成り立って、単位元なるものが存在して、逆元も存在するような代数的体系。ただそれだけのこと。義務教育のレベルでも定義できそうな...
しかし、こいつは二項演算における定義であって、この抽象的な演算系がなかなかの曲者。四則演算の領域をとっくに飛び越え、写像を含めたあらゆる変換系が絡んできやがる。おまけに交換法則が問われると、可換群や非可換群に枝分かれし、もうええっちゅに!算数レベルで眺めれば、交換法則なんて当たり前って感覚が、行列式を眺めれば、宇宙には非可換群で満ち満ちていることを思い知らされる。
対象があまりにも抽象的すぎるから、凡人には姿が見えてこないのか。代数学そのものが、数の代替物を用いて記述する抽象的な学問といえば、そうなのだが...
とはいえ、何事も正体ってやつは、ぼんやりとしているぐらいでちょうどいい。神の正体がはっきり見えたとしたら、おそらく身を委ねる気にはなれないだろう。これぞチラリズム!そして、数学は哲学になるのであった...
ガロアの父は、悪意ある司祭によって中傷され自殺したという。そのために正義感を強め、政治運動を過熱させていったのか。二十歳に女をめぐってピストル決闘で絶命。反抗的なエネルギーを持て余す少年の末路に、政治的な策謀があったかは知らない。
彼の遺書は、「もう時間がない!」から始まる壮絶な数学論文だったという。そこに記される「群」という用語に抵抗感があっても、数の構造や性質を観察すること自体は嫌いではない。本書は、この観察の目に、幾何学的なイメージを与えてくれる。
「群は対称性の表現だ!」
おいらの物事を理解したかどうかの判定基準に、図形的なイメージが湧くかどうかという感覚がある。ユークリッド空間的な脳内マッピングとでも言おうか。昔からそうなのだが、いくら記号や文字を操作しても、上っ面しか理解できていないような気がする。頭の中に浮かぶ自己鏡像との葛藤とでも言おうか。サヴァン症候群のダニエル・タメットは「数字が風景に見える」と共感覚能力について語ってくれたが、理解空間にもそのようなものがあるような気がする。
本書に登場する幾何学的な操作は、まさに線対称や回転対称といった基本的なものばかり。これでガロアを語ろうというのだから... おかげで、群論への再挑戦!という衝動に駆られる。一度返り討ちにあったことも忘れて...
ガロア理論は告げている。「二次、三次、四次方程式には解の公式が存在するが、五次以上の方程式にはそれが存在しない。」と。五次方程式に解の公式がないことはアーベルによって証明された。だが、解ける場合もあり、アーベルはその判定基準を与えていない。ガロアは方程式が四則演算と冪根で解ける条件を完全に特定したのである。n次方程式を区別することなく群によって表現してみると、自然に解の性質が見えてくるという観点から...
ここで重要な概念は、「自己同型」ってやつだ。それは、代数的な性質を保ちながら対象を写像すること。代数的な性質とは、例えば、四則演算の結果が同じ体にとどまるかを問うた時、自然数体であれば、負の数や少数が生じて整数体や有理数体にはみ出してしまう。そこで、代数的な解法が存在するかを探るということは、代数体の性質を保ちながら体にとどまることができるかを探ることになる。写像が代数体の範疇にとどまれば、方程式の一般的な解法も存在するというわけである。
なるほど、解の発見とは、自己同型群を観察しながら自己を見つめ直し、自我を再発見することであったか。そりゃ、人間には永遠に望めまい。ガロアの発想力は人間離れしている...
ガロアの思考法は、体と群という二つの数学構造を行き来しながら、「方程式の話を対称性の観点から群の話に置き換えた」ということのようである。関数的な操作では恒等写像や共役写像に重要な役割が与えられるものの、幾何学的な操作では、二次方程式の解から作った群を二等辺三角形の底辺の線対称に帰着させ、三次方程式の解から作った群を正三角形の対称性に帰着させ、四次方程式の解から作った群を四角形の対称性に帰着させる。そして、五次方程式の解から作った群を五角形の対称性に帰着させることができれば... ということになるが、かなり複雑であることが想像できる。正五角形のような対称性に収まる場合もあるけど。
解の部分群が巡回群になってくれさえすれば、なんらかの対称性を見出すことができ、このあたりに代数的な解法が存在するかどうかの判定基準が隠されていそうである。
本書は、ハッセ図で部分群を図式化してくれる。ハッセ図とは、部分群の家系図のようなもので、群の対応が視覚化できる。ハッセ図を用いて部分群をいじりたおす!という視点から、いわば、代数学と幾何学の相性を語ってくれているのである。
ところで、二次方程式の解の公式は義務教育で習ったが、三次方程式のものとなるとまったく相手にされない。二次方程式の解の公式は、幾何学的な操作でも証明ができるし、判別式の意義も説明しやすいというのもあろうけど。
そもそも解が存在するということは、因数分解ができることを意味する。三次では、一次と二次の積に分解すればいいので、おぞましい公式なんぞ覚えるのも馬鹿らしいってか。
そこで、本書で紹介されるフォンタナ(タルターリア)の思考法が参考になる。彼は、わざわざ x = y + z を代入して、元々一つしかない変数を一つ増やしたという。三次方程式を一次方程式と二次方程式の連立方程式に帰着させるのである。
ただ、このやり方では、なぜ解けるのかが見えてこないし、三次方程式における解法は感覚的なもののように映る。
ちなみに、フォンタナとカルダーノは、三次方程式の解法の発見における中心的な人物で、論争のエピソードもある。タルターリアは「吃音」を意味し、フォンタナは幼少期にフランス軍の略奪によって顎に障害を負い、言葉が不自由になってそう渾名されたのだとか。おそらく論争は苦手であったろう...
体論はまだいい。四則演算の領域にとどまっている間はまだいい。だが、群論となると、抽象レベルが一段上がり、対象物の正体が一向に見えてこない。群の定義は、なにも難しいことを告げているわけではない。結合法則が成り立って、単位元なるものが存在して、逆元も存在するような代数的体系。ただそれだけのこと。義務教育のレベルでも定義できそうな...
しかし、こいつは二項演算における定義であって、この抽象的な演算系がなかなかの曲者。四則演算の領域をとっくに飛び越え、写像を含めたあらゆる変換系が絡んできやがる。おまけに交換法則が問われると、可換群や非可換群に枝分かれし、もうええっちゅに!算数レベルで眺めれば、交換法則なんて当たり前って感覚が、行列式を眺めれば、宇宙には非可換群で満ち満ちていることを思い知らされる。
対象があまりにも抽象的すぎるから、凡人には姿が見えてこないのか。代数学そのものが、数の代替物を用いて記述する抽象的な学問といえば、そうなのだが...
とはいえ、何事も正体ってやつは、ぼんやりとしているぐらいでちょうどいい。神の正体がはっきり見えたとしたら、おそらく身を委ねる気にはなれないだろう。これぞチラリズム!そして、数学は哲学になるのであった...
ガロアの父は、悪意ある司祭によって中傷され自殺したという。そのために正義感を強め、政治運動を過熱させていったのか。二十歳に女をめぐってピストル決闘で絶命。反抗的なエネルギーを持て余す少年の末路に、政治的な策謀があったかは知らない。
彼の遺書は、「もう時間がない!」から始まる壮絶な数学論文だったという。そこに記される「群」という用語に抵抗感があっても、数の構造や性質を観察すること自体は嫌いではない。本書は、この観察の目に、幾何学的なイメージを与えてくれる。
「群は対称性の表現だ!」
おいらの物事を理解したかどうかの判定基準に、図形的なイメージが湧くかどうかという感覚がある。ユークリッド空間的な脳内マッピングとでも言おうか。昔からそうなのだが、いくら記号や文字を操作しても、上っ面しか理解できていないような気がする。頭の中に浮かぶ自己鏡像との葛藤とでも言おうか。サヴァン症候群のダニエル・タメットは「数字が風景に見える」と共感覚能力について語ってくれたが、理解空間にもそのようなものがあるような気がする。
本書に登場する幾何学的な操作は、まさに線対称や回転対称といった基本的なものばかり。これでガロアを語ろうというのだから... おかげで、群論への再挑戦!という衝動に駆られる。一度返り討ちにあったことも忘れて...
ガロア理論は告げている。「二次、三次、四次方程式には解の公式が存在するが、五次以上の方程式にはそれが存在しない。」と。五次方程式に解の公式がないことはアーベルによって証明された。だが、解ける場合もあり、アーベルはその判定基準を与えていない。ガロアは方程式が四則演算と冪根で解ける条件を完全に特定したのである。n次方程式を区別することなく群によって表現してみると、自然に解の性質が見えてくるという観点から...
ここで重要な概念は、「自己同型」ってやつだ。それは、代数的な性質を保ちながら対象を写像すること。代数的な性質とは、例えば、四則演算の結果が同じ体にとどまるかを問うた時、自然数体であれば、負の数や少数が生じて整数体や有理数体にはみ出してしまう。そこで、代数的な解法が存在するかを探るということは、代数体の性質を保ちながら体にとどまることができるかを探ることになる。写像が代数体の範疇にとどまれば、方程式の一般的な解法も存在するというわけである。
なるほど、解の発見とは、自己同型群を観察しながら自己を見つめ直し、自我を再発見することであったか。そりゃ、人間には永遠に望めまい。ガロアの発想力は人間離れしている...
ガロアの思考法は、体と群という二つの数学構造を行き来しながら、「方程式の話を対称性の観点から群の話に置き換えた」ということのようである。関数的な操作では恒等写像や共役写像に重要な役割が与えられるものの、幾何学的な操作では、二次方程式の解から作った群を二等辺三角形の底辺の線対称に帰着させ、三次方程式の解から作った群を正三角形の対称性に帰着させ、四次方程式の解から作った群を四角形の対称性に帰着させる。そして、五次方程式の解から作った群を五角形の対称性に帰着させることができれば... ということになるが、かなり複雑であることが想像できる。正五角形のような対称性に収まる場合もあるけど。
解の部分群が巡回群になってくれさえすれば、なんらかの対称性を見出すことができ、このあたりに代数的な解法が存在するかどうかの判定基準が隠されていそうである。
本書は、ハッセ図で部分群を図式化してくれる。ハッセ図とは、部分群の家系図のようなもので、群の対応が視覚化できる。ハッセ図を用いて部分群をいじりたおす!という視点から、いわば、代数学と幾何学の相性を語ってくれているのである。
ところで、二次方程式の解の公式は義務教育で習ったが、三次方程式のものとなるとまったく相手にされない。二次方程式の解の公式は、幾何学的な操作でも証明ができるし、判別式の意義も説明しやすいというのもあろうけど。
そもそも解が存在するということは、因数分解ができることを意味する。三次では、一次と二次の積に分解すればいいので、おぞましい公式なんぞ覚えるのも馬鹿らしいってか。
そこで、本書で紹介されるフォンタナ(タルターリア)の思考法が参考になる。彼は、わざわざ x = y + z を代入して、元々一つしかない変数を一つ増やしたという。三次方程式を一次方程式と二次方程式の連立方程式に帰着させるのである。
ただ、このやり方では、なぜ解けるのかが見えてこないし、三次方程式における解法は感覚的なもののように映る。
ちなみに、フォンタナとカルダーノは、三次方程式の解法の発見における中心的な人物で、論争のエピソードもある。タルターリアは「吃音」を意味し、フォンタナは幼少期にフランス軍の略奪によって顎に障害を負い、言葉が不自由になってそう渾名されたのだとか。おそらく論争は苦手であったろう...
2019-04-01
人生の操作性は、軽いアンダーステア...
今日、四月一日...
海辺で恵風に誘われ、軽やかにステアリング操作でもやりたくなる気分。ただ、来た道を振り返ってみると、堂々と冗談の言える日に冗談では済まなくなる。そして、つくづく思う。人生の操作ってやつが、いかに難しいことか... と。十年後の自分を思い描いてみたところで、その通りになったためしがない。なにゆえ、未来像なんてものを描こうとするのか。現在に絶望すれば、未来に希望を抱かずにはいられない。未来像とは、偶像崇拝の類いか。未来に希望を見い出せなければ、過去を懐かしむしかない。すると今度は、昔はよかった... などと老人癖がでる。俗世間には、現実逃避症候群が蔓延しているようだ。ナポレオンはうまいことを言った、「愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る。」と...
人間ってやつは、長く生きれば生きるほど頑固になる。今まで生きてきたことを否定したくないからだ。ならば、ちょいとばかり自己を疑ってかかるぐらいでいい。自己否定は危険な試みではあるけど。イングリッド・バーグマンはうまいことを言った、「幸福とは健康と記憶力の悪さじゃないかしら。」と...
そして、人生の曲がり角を軽いアンダーステアで流そうとしたら、重いゲシュタルト崩壊を引き起こすのであった...
すべてが計画通りに進み、成すことすべてが完全に制御できれば、豊かな人生になるだろうか。いや、それはそれで窮屈なものとなろう。力み過ぎては、人生の曲がり角でスピンする。オーバーステアでは、問題の周りをぐるぐる回ってしまう。人生を彩るには、少しばかり荷重の抜ける余地を残したい。自然に荷重が抜けるように少し力を抜き、そして、精神をちょいと破綻させてみてはどうか。ちょいと狂ってみてはどうか...
人間ってやつは、ちょいと馬鹿なぐらいがいい。ちょいと自信がないぐらいがいい。ちょいと不器用なぐらいがいい。それを自覚できれば、なおいい。だから懸命になれる。ほんのちょっぴり幸せを感じるぐらいでいい。人間ってやつは、幸せ過ぎても、不幸過ぎても、残酷になれるものらしいから。どうやら欲望エントロピーは、軽いインフレを求めているようだ。
目の前は少しばかり霞んでいるぐらいがいい。これがチラリズムの哲学。物事は、ちょいと曖昧なぐらいがいい。意識は、ちょいとばかりうつろなぐらいがいい。騒々しい社会に慣れちまったら、特にそうだ。具体的すぎる社会は疲れる。
ニュートンの法則によると、地球上の重力はすべての物体に平等に働くことになっている。だが、人間は自分の存在感を強調する余り、他人より大きな重みを求めてやまない。いや、影では、女性諸君は体重計の前で軽い存在を演じているらしい。鏡の前での念入りな厚化粧も、ひび割れしては、お肌の曲がり角も曲がりきれないと見える。
夜の社交場では、常識や形式を重んじる理性者どもが、ちょいワルオヤジを演じてやがる。不良ぶるのがモテる秘訣と言わんばかりに。これが右曲がりのダンディズムってやつかは知らん。
女性諸君も、男性諸君も、人生のコーナーをやや攻めすぎていると見える。
知性のコーナーを攻めるのも、なかなか手強い。学問が専門化によって没落するという意見をよく耳にする。だが、専門化そのものを誤りとすれば、深遠な学問はありえない。問題は専門化ではなく、問題そのものが理解できていないことだ。知識が豊富だからといって、知性が磨かれるわけではない。むしろ、知識は人を馬鹿にするための道具に成り下がる。百科事典が知っていることを、わざわざ頭に留める必要もあるまい。人間ってやつは、いつも自分より下の者を探し回っては、自己優位説を唱えていないと不安でしょうがないものらしい。実際、有識者どもはいつも憤慨している。いくら知識で武装しても、精神は平静ではいられないらしい。ましてや利己心に憑かれた酔いどれ天の邪鬼には知性なんぞ無縁だし、知識なんてものは自己を欺くためのまやかしでしかない。
そして今日、四月一日に得られた帰結は...
人生のコーナーを限界まで攻めるには、ちょいとアンダーステアぐらいがいい。どうやらアル中ハイマー病とは、精神と記憶がアンダーステア状態にあることを言うらしい...
海辺で恵風に誘われ、軽やかにステアリング操作でもやりたくなる気分。ただ、来た道を振り返ってみると、堂々と冗談の言える日に冗談では済まなくなる。そして、つくづく思う。人生の操作ってやつが、いかに難しいことか... と。十年後の自分を思い描いてみたところで、その通りになったためしがない。なにゆえ、未来像なんてものを描こうとするのか。現在に絶望すれば、未来に希望を抱かずにはいられない。未来像とは、偶像崇拝の類いか。未来に希望を見い出せなければ、過去を懐かしむしかない。すると今度は、昔はよかった... などと老人癖がでる。俗世間には、現実逃避症候群が蔓延しているようだ。ナポレオンはうまいことを言った、「愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る。」と...
人間ってやつは、長く生きれば生きるほど頑固になる。今まで生きてきたことを否定したくないからだ。ならば、ちょいとばかり自己を疑ってかかるぐらいでいい。自己否定は危険な試みではあるけど。イングリッド・バーグマンはうまいことを言った、「幸福とは健康と記憶力の悪さじゃないかしら。」と...
そして、人生の曲がり角を軽いアンダーステアで流そうとしたら、重いゲシュタルト崩壊を引き起こすのであった...
すべてが計画通りに進み、成すことすべてが完全に制御できれば、豊かな人生になるだろうか。いや、それはそれで窮屈なものとなろう。力み過ぎては、人生の曲がり角でスピンする。オーバーステアでは、問題の周りをぐるぐる回ってしまう。人生を彩るには、少しばかり荷重の抜ける余地を残したい。自然に荷重が抜けるように少し力を抜き、そして、精神をちょいと破綻させてみてはどうか。ちょいと狂ってみてはどうか...
人間ってやつは、ちょいと馬鹿なぐらいがいい。ちょいと自信がないぐらいがいい。ちょいと不器用なぐらいがいい。それを自覚できれば、なおいい。だから懸命になれる。ほんのちょっぴり幸せを感じるぐらいでいい。人間ってやつは、幸せ過ぎても、不幸過ぎても、残酷になれるものらしいから。どうやら欲望エントロピーは、軽いインフレを求めているようだ。
目の前は少しばかり霞んでいるぐらいがいい。これがチラリズムの哲学。物事は、ちょいと曖昧なぐらいがいい。意識は、ちょいとばかりうつろなぐらいがいい。騒々しい社会に慣れちまったら、特にそうだ。具体的すぎる社会は疲れる。
人間は、人生のアマチュアであり続ける。合理主義は肩がこる。ならば、ちょいと不合理なぐらいがいい。人生には、道草、寄り道の類いが不可欠だ。あの大女優のセリフ「すこし愛して、なが~く愛して...」とは、なかなかの真理をついている。その証拠に、ハスキーな甘い声にイチコロよ。人生のコーナーを攻めるには、ステアリング舵角を小さめに、流れるように生きたいものである。五感をニュートラルにして...
ニュートンの法則によると、地球上の重力はすべての物体に平等に働くことになっている。だが、人間は自分の存在感を強調する余り、他人より大きな重みを求めてやまない。いや、影では、女性諸君は体重計の前で軽い存在を演じているらしい。鏡の前での念入りな厚化粧も、ひび割れしては、お肌の曲がり角も曲がりきれないと見える。
夜の社交場では、常識や形式を重んじる理性者どもが、ちょいワルオヤジを演じてやがる。不良ぶるのがモテる秘訣と言わんばかりに。これが右曲がりのダンディズムってやつかは知らん。
女性諸君も、男性諸君も、人生のコーナーをやや攻めすぎていると見える。
知性のコーナーを攻めるのも、なかなか手強い。学問が専門化によって没落するという意見をよく耳にする。だが、専門化そのものを誤りとすれば、深遠な学問はありえない。問題は専門化ではなく、問題そのものが理解できていないことだ。知識が豊富だからといって、知性が磨かれるわけではない。むしろ、知識は人を馬鹿にするための道具に成り下がる。百科事典が知っていることを、わざわざ頭に留める必要もあるまい。人間ってやつは、いつも自分より下の者を探し回っては、自己優位説を唱えていないと不安でしょうがないものらしい。実際、有識者どもはいつも憤慨している。いくら知識で武装しても、精神は平静ではいられないらしい。ましてや利己心に憑かれた酔いどれ天の邪鬼には知性なんぞ無縁だし、知識なんてものは自己を欺くためのまやかしでしかない。
そして今日、四月一日に得られた帰結は...
人生のコーナーを限界まで攻めるには、ちょいとアンダーステアぐらいがいい。どうやらアル中ハイマー病とは、精神と記憶がアンダーステア状態にあることを言うらしい...
2019-03-24
"近世数学史談" 高木貞治 著
歴史は、正確な記録をもって史実となす。それは、読み物としては無味乾燥なものとなろう。しかし、だ。史論となると別だ。史論は各人各様でなければ。ましてや史談となると。そして、客観論を主体とする数学の権威が、ガウス、アーベル、ガロアらを思いっきり主観で語ると宣言すれば、見過すわけにはいかない...
「回顧は、老人の追想談になるのが普通で、それは通例不確かなものであることが世間の定評であるようであります。それは当然不確かになるべきものだと考えられます。遭遇というか閲歴というか、つまり現在の事だって本当には分らない。それは当然主観的である。しかも過去は一たび去って永久に消滅してしまう。そうしてそれを回想する主観そのものも年とともに易(かわ)って行くのであるから、まあ大して当てになるものではない。これは一般にそうだろうが、今私の場合は確かにそうなのだから、むしろ始めから、自己中心に、主観的に、過去を回顧すると、明言して置くのが安全であろう。」
なにをもって近代数学の起点とするか。その一つに、微積分法の発見をもって、という見方がある。だが、理論なんてものは、突然湧いて出るものではない。ニュートンやライプニッツといった偉大な先駆者もいれば、アルキメデスを挙げる呑気な見方もある。18世紀になると、ベルヌーイ家、オイラー、ラグランジュ、ラプラスらの時代がやってきて、微積分法を拡充させた。
しかしながら、ここではガウスに屈する。それは、正十七角形の作図法というセンセーションな発見に始まったとさ。
正多角形の中で、三角形、五角形、十五角形、あるいは、辺数を倍にしていく図形ならば、それが作図可能なことは、酔いどれ天の邪鬼でもなんとなく分かる。だが、十七角形となると、そこに芸術を見る思い。なにしろ、ガウスの円周等分論が後ろ盾になっているのだから。すなわち、xn - 1 = 0 において n =17 の時、この方程式が平方根によって解き得ることに基づいている。円周等分の理論は二千年来の快挙、いまだ人類はコンパスと定規に取り憑かれているようだ。どうやら神はフリーハンドがお嫌いと見える。いったい神は人間に何を描かせようというのか...
ところで、方程式をめぐる物語は、整数論、積分論、楕円関数論へと導かれるが、その影に解析学を感じるのは気のせいであろうか。おいらは数学屋ではない。数学屋にボトルの差し入れで計算をお願いする技術屋で、要するに数学の落ちこぼれ。数学屋を理想派とするなら技術屋は現実派、いわば実装屋である。実装屋にとって、方程式の解を丹念に正確に導くよりも、手っ取り早く近似値を得る方がずっと現実的である。特に、あの忌々しい微分方程式ってヤツは...
微分方程式を一つの抽象として捉えることはできよう。微分方程式の理論一般がそうであるように、ある設定のもとで解の存在が問われる。そこで、無限級数の総和が収束するというだけで、ささやかな光明となる。永遠に足し算をやって、なぜ発散しないのか?そこに魔術を感じずにはいられない。ゼータ関数なんて、まさにオイラーマジック。収束することを保証さえしてくれれば、上位項を適当に選ぶだけで近似値が得られ、テイラー展開やマクローリン展開といった方法論が存在感を増す。すべての現象を、たとえ近似とはいえ解析可能になれば、数学は真に偉大な学問となろう。アーベルやガロアらは、無限の数の羅列に宇宙征服の夢でも描いていたのだろうか...
1. ガウスの美学
ガウスは常に研究の成果が完成されたる芸術的作品の如き形式を具えることを努めた... と伝えられる。数学の定理に神を見ようとすれば、不完全では神に失礼だ。完成された芸術のみを発表するという美学。計算狂ガウスにして、そうならしめたのか。彼は検証を急がない。結論を急がない。この姿勢は、アーベルやヤコービとは大分違うようである。
ヤコービは、「ガウス流の厳格主義!そんな暇があるものか」と言い放ったとか。そのために、ガウスは自ら論争の種をまく。
例えば、最小二乗法の先発権をめぐってルジャンドルとの間に生じた一悶着。ガウス本人が気にかけなくても、ガウスを崇拝する弟子たちが黙っちゃいない。
また、関数論の起源をいつとするか?と問えば、1825年、コーシーの複素積分に関する論文をもって、とするのが一般的なようである。留数という語も、コーシーに発していると認識している。コーシーは、フランスのガウスとも評される人物。しかし、ガウスは既にこのアイデアを自家用として秘蔵していたという。1851年にようやく到達した関数論の基本定理とされるコーシーの積分定理が、40年前にガウスによって明確に述べられていることが書簡の中に見つかったとか。ガウスには、関数論の歴史的発見に、それほどの価値を見い出せなかったと見える。
「ガウスが進んだ道は即ち数学の進む道である。その道は帰納的である。特殊から一般へ!それが標語である。それは凡ての実質的なる学問に於て必要なる条件であらねばならない。数学が演繹的であるというが、それは既成数学の修業にのみ通用するのである。自然科学に於ても一つの学説が出来てしまえば、その学説に基づいて演繹をする。しかし論理は当たり前なのだから、演繹のみから新しい物は何も出て来ないのが当り前であろう。若しも学問が演繹のみにたよるならば、その学問は小さな環の上を永遠に週期的に廻転する外はないであろう。我々は空虚なる一般論に捉われないで、帰納の一途に精進すべきではあるまいか。」
2. Notation でなく、Notion に由って...
数学は、しばしば無味乾燥な表記法とみなされる。だが、高度な抽象論を求めれば、表記よりも概念を上位とみなすであろう。形而上学のごとく。おいらは、数学は哲学である!と考えている。微分方程式を前にして袋小路に陥る時は、だいたい記号の群れに囚われている。解が明らかになるということは、記号で明確に表記できるということ。それゆえ記号に囚われる。だから数学で落ちこぼれ、いまや数学屋に媚びを売るしかない。本書は、そんな嘆きをディリクレ小伝で励ましてくれる。
「偶然の事情に由って -- 多くは伝来上 -- 或る問題にからまっている夾雑物を洗い落として、問題の本質を直視することが、しばしば進歩の鍵である。その一例がここにもある。成るべく計算を厭うて、概念その物を議論の基礎にすることがヂリクレの長所としてたたえられる。計算は盲目で行き当たりばったりである。思想は目明きで目標を直視する。『盲目の計算の極小を以って、目明きの極大へと、問題を追いつめるのがヂリクレの流儀で、それこそ本当のヂリクレの原則(Dirichlet's Principle)と言うものであろう』とは、ミンコフスキの巧まい洒落(の拙い直訳)である。ヂリクレに限るのではない、既にオイラーであったか、ガウスであったかに関して、『Notation(記号)でなくnotion(概念)に由って』という格言を前に引いたが、これも同じ意味である。優れた数学者は決して形式屋(Formelmensch)ではない。」
3. 割りを食ったかルジャンドル?
G.(ガウス)との比較で、三人の L. が槍玉に挙げられる。既に老大家となったラグランジュ、ラプラス、ルジャンドルの中で、特に、割りを食っている感のあるルジャンドル。整数論、幾何学原理、楕円関数といった仕事のやり方で、ことごとく対照的に描かれる。とはいえ...
「このような対照に於て、我々は成心を以って L. を抑えて G. を揚げるのではない。気紛れな『歴史』が稀に見せてくれる面白い芝居が、ここに演ぜられたのである。新しい時代は新しい人物に由って興るが、ルジャンドルは恰も過ぎ行く時代を代表するような位置にいて、新旧分岐の場面を鮮かにする役をしたのである。」
「回顧は、老人の追想談になるのが普通で、それは通例不確かなものであることが世間の定評であるようであります。それは当然不確かになるべきものだと考えられます。遭遇というか閲歴というか、つまり現在の事だって本当には分らない。それは当然主観的である。しかも過去は一たび去って永久に消滅してしまう。そうしてそれを回想する主観そのものも年とともに易(かわ)って行くのであるから、まあ大して当てになるものではない。これは一般にそうだろうが、今私の場合は確かにそうなのだから、むしろ始めから、自己中心に、主観的に、過去を回顧すると、明言して置くのが安全であろう。」
なにをもって近代数学の起点とするか。その一つに、微積分法の発見をもって、という見方がある。だが、理論なんてものは、突然湧いて出るものではない。ニュートンやライプニッツといった偉大な先駆者もいれば、アルキメデスを挙げる呑気な見方もある。18世紀になると、ベルヌーイ家、オイラー、ラグランジュ、ラプラスらの時代がやってきて、微積分法を拡充させた。
しかしながら、ここではガウスに屈する。それは、正十七角形の作図法というセンセーションな発見に始まったとさ。
正多角形の中で、三角形、五角形、十五角形、あるいは、辺数を倍にしていく図形ならば、それが作図可能なことは、酔いどれ天の邪鬼でもなんとなく分かる。だが、十七角形となると、そこに芸術を見る思い。なにしろ、ガウスの円周等分論が後ろ盾になっているのだから。すなわち、xn - 1 = 0 において n =17 の時、この方程式が平方根によって解き得ることに基づいている。円周等分の理論は二千年来の快挙、いまだ人類はコンパスと定規に取り憑かれているようだ。どうやら神はフリーハンドがお嫌いと見える。いったい神は人間に何を描かせようというのか...
ところで、方程式をめぐる物語は、整数論、積分論、楕円関数論へと導かれるが、その影に解析学を感じるのは気のせいであろうか。おいらは数学屋ではない。数学屋にボトルの差し入れで計算をお願いする技術屋で、要するに数学の落ちこぼれ。数学屋を理想派とするなら技術屋は現実派、いわば実装屋である。実装屋にとって、方程式の解を丹念に正確に導くよりも、手っ取り早く近似値を得る方がずっと現実的である。特に、あの忌々しい微分方程式ってヤツは...
微分方程式を一つの抽象として捉えることはできよう。微分方程式の理論一般がそうであるように、ある設定のもとで解の存在が問われる。そこで、無限級数の総和が収束するというだけで、ささやかな光明となる。永遠に足し算をやって、なぜ発散しないのか?そこに魔術を感じずにはいられない。ゼータ関数なんて、まさにオイラーマジック。収束することを保証さえしてくれれば、上位項を適当に選ぶだけで近似値が得られ、テイラー展開やマクローリン展開といった方法論が存在感を増す。すべての現象を、たとえ近似とはいえ解析可能になれば、数学は真に偉大な学問となろう。アーベルやガロアらは、無限の数の羅列に宇宙征服の夢でも描いていたのだろうか...
1. ガウスの美学
ガウスは常に研究の成果が完成されたる芸術的作品の如き形式を具えることを努めた... と伝えられる。数学の定理に神を見ようとすれば、不完全では神に失礼だ。完成された芸術のみを発表するという美学。計算狂ガウスにして、そうならしめたのか。彼は検証を急がない。結論を急がない。この姿勢は、アーベルやヤコービとは大分違うようである。
ヤコービは、「ガウス流の厳格主義!そんな暇があるものか」と言い放ったとか。そのために、ガウスは自ら論争の種をまく。
例えば、最小二乗法の先発権をめぐってルジャンドルとの間に生じた一悶着。ガウス本人が気にかけなくても、ガウスを崇拝する弟子たちが黙っちゃいない。
また、関数論の起源をいつとするか?と問えば、1825年、コーシーの複素積分に関する論文をもって、とするのが一般的なようである。留数という語も、コーシーに発していると認識している。コーシーは、フランスのガウスとも評される人物。しかし、ガウスは既にこのアイデアを自家用として秘蔵していたという。1851年にようやく到達した関数論の基本定理とされるコーシーの積分定理が、40年前にガウスによって明確に述べられていることが書簡の中に見つかったとか。ガウスには、関数論の歴史的発見に、それほどの価値を見い出せなかったと見える。
「ガウスが進んだ道は即ち数学の進む道である。その道は帰納的である。特殊から一般へ!それが標語である。それは凡ての実質的なる学問に於て必要なる条件であらねばならない。数学が演繹的であるというが、それは既成数学の修業にのみ通用するのである。自然科学に於ても一つの学説が出来てしまえば、その学説に基づいて演繹をする。しかし論理は当たり前なのだから、演繹のみから新しい物は何も出て来ないのが当り前であろう。若しも学問が演繹のみにたよるならば、その学問は小さな環の上を永遠に週期的に廻転する外はないであろう。我々は空虚なる一般論に捉われないで、帰納の一途に精進すべきではあるまいか。」
2. Notation でなく、Notion に由って...
数学は、しばしば無味乾燥な表記法とみなされる。だが、高度な抽象論を求めれば、表記よりも概念を上位とみなすであろう。形而上学のごとく。おいらは、数学は哲学である!と考えている。微分方程式を前にして袋小路に陥る時は、だいたい記号の群れに囚われている。解が明らかになるということは、記号で明確に表記できるということ。それゆえ記号に囚われる。だから数学で落ちこぼれ、いまや数学屋に媚びを売るしかない。本書は、そんな嘆きをディリクレ小伝で励ましてくれる。
「偶然の事情に由って -- 多くは伝来上 -- 或る問題にからまっている夾雑物を洗い落として、問題の本質を直視することが、しばしば進歩の鍵である。その一例がここにもある。成るべく計算を厭うて、概念その物を議論の基礎にすることがヂリクレの長所としてたたえられる。計算は盲目で行き当たりばったりである。思想は目明きで目標を直視する。『盲目の計算の極小を以って、目明きの極大へと、問題を追いつめるのがヂリクレの流儀で、それこそ本当のヂリクレの原則(Dirichlet's Principle)と言うものであろう』とは、ミンコフスキの巧まい洒落(の拙い直訳)である。ヂリクレに限るのではない、既にオイラーであったか、ガウスであったかに関して、『Notation(記号)でなくnotion(概念)に由って』という格言を前に引いたが、これも同じ意味である。優れた数学者は決して形式屋(Formelmensch)ではない。」
3. 割りを食ったかルジャンドル?
G.(ガウス)との比較で、三人の L. が槍玉に挙げられる。既に老大家となったラグランジュ、ラプラス、ルジャンドルの中で、特に、割りを食っている感のあるルジャンドル。整数論、幾何学原理、楕円関数といった仕事のやり方で、ことごとく対照的に描かれる。とはいえ...
「このような対照に於て、我々は成心を以って L. を抑えて G. を揚げるのではない。気紛れな『歴史』が稀に見せてくれる面白い芝居が、ここに演ぜられたのである。新しい時代は新しい人物に由って興るが、ルジャンドルは恰も過ぎ行く時代を代表するような位置にいて、新旧分岐の場面を鮮かにする役をしたのである。」
2019-03-17
"コペルニクス・天球回転論" Nicolaus Copernicus 著
プトレマイオスの大著に遭遇すれば、こいつに向かう衝動は抑えられない。
ニコラウス・コペルニクス... 彼は、中世まで支配的だったアリストテレス=プトレマイオス流の地球中心説を真っ向から反対する宇宙論を唱えた。それは、地球の地位、ひいては地球に住む人間の地位を1ランク下げるものとなる。地球の不動から太陽の不動へ視点が移れば、次は太陽の不動に疑いの目が向けられる。彼の太陽中心説は、科学革命の引き金となった。
しかしながら、自転や公転の証拠がまだ発見されていない時代である。自転の証拠としてはフーコーの振り子が、公転の証拠としてはベッセルの年周視差やブラッドリーの光行差などが挙げられるが、いずれも18世紀以降のお話。これは16世紀の物語で、天文学はまだ自然哲学の域を脱していない。地球の地位を下げるとなれば、神に看取られた人間を崇める宗教だって黙っちゃいない。コペルニクス革命は、まさに思想革命であった。彼が健全な懐疑心を目覚めさせようという意図でやったかは知らんが...
尚、本書には、コペルニクスの主著「天球回転論」から第一巻と、太陽中心説の構想を記した未刊論文「コメンタリオルス」が掲載され、高橋憲一(みすず書房)訳版を手に取る。
トルニの人ニコラウス・コペルニクスの「天球回転論」全6巻
「好学なる読者よ。新たに生まれ、刊行されたばかりの本書において、古今の観測によって改良され、斬新かつ驚嘆すべき諸仮説によって用意された恒星運動ならびに惑星運動が手に入る。加えて、きわめて便利な天文表も手に入り、それによって、いかなる時における運動も全く容易に計算できるようになる。だから、買って、読んで、お楽しみあれ。」
幾何学ノ素養ナキ者、入ルベカラズ!
天空を眺めれば、四角い天体なんぞとんと見かけない。すべてが球形で円運動をしているとすれば、おそらく宇宙も球形だろう... ぐらいの想像はやる。人間が空想する世界は、真円や真球が収まりがよく、角が立たない事が心を落ち着かせると見える。
ただどんな形にせよ、宇宙が形をもっているということは、その空間は有限であることを告げている。そして、中心点はどこか?という議論になるが、母なる大地が運動しているなんて考えたくもない。地震で揺れるだけで恐れおののく人間にとっては、平らでどっしりとした存在であってほしい。想像の域とはいえ、古代人たちは大地が丸いというだけでもよく受け入れたものである。
神の支配に宇宙法則を重ねて見るは、まさに宗教原理。プラトンは、宇宙が数学に支配されているという思想を持っていたと伝えられる。一様円運動の原理を初めて唱えたのは、ピュタゴラス学派だという説もある。プラトンはアカデメイアの門下生に問うた... どのような秩序立った一様円運動を仮定すれば、惑星運動の現象は救われうるだろうか... と。これに一つの答えを与えたのが、エウドクソスの同心天球説である。以来、ヒッパルコスの周転円説などを経て、プトレマイオスの体系が構築された。
そして今、天動説と地動説では、どちらが優れているかと問えば、地動説だと断言できる。なぜなら、小学校で習ったから。自分で確かめたわけでもなければ、確かめる術すら知らず、偉い人が言うことだから間違いないだろう... ぐらいなもの。酔いどれ天の邪鬼にとっての知識とは、そんなものよ。惑星という名は、そこの住人が惑わされ続けるからこそ、そう呼ぶに相応しい...
プトレマイオスは、すでに宇宙の中心が地球ではないことに気づいていた形跡がある。本人が自覚できず、けして認めない事柄であっても、心のずっとずっと奥底の無意識の領域で薄々認めているということが、人間にはよくある。そして、コペルニクスがやったことは、実はプトレマイオスの再表現ではなかったのか、と解すのはちと行き過ぎであろうか...
天動説に憑かれたプトレマイオスは、恒星連中の運動に明確な説明を与えたが、天空をさまよう連中を説明するのに苦慮した。順行したり、逆行したりする星々を。planet はギリシア語の PLANETES(さまよう者)を語源に持つ。彼が持ち出した離心円とエカントという概念は、さまよう連中の中心は地球から少しずれていることを主張しており、これは同心天球説の改良版と言っていい。
だからといって、大地が動いていることまでは認められない。宇宙の中心はあくまでも地球であり、さまよう連中が異常であり、アノマリなのである。
しかし、宇宙を創造した完全なる神が、アノマリな連中をこしらえるだろうか。やはり宇宙は運動論に矛盾しないように構成されている必要がある。そして、アノマリな観測データを救済しようとあらゆる仮説を試みる、これこそが科学の使命というものか。コペルニクスが天空モデルに託した「7つの要請」と「34個の円」には、そんなものを感じる...
1. 7つの要請
コペルニクスの地動説構想を初めて記した自筆原稿は残っていないそうな。多くの書簡からその構想を見つけることができ、その写本が次々と受け継がれる中で一つの小論(コメンタリオルス)として伝えられるらしい。コメンタリオルスには、天界運動モデルに7つの要請がなされる。
2. コペルニクスの34個の円
コメンタリオルスでは、天界運動モデルをこう結論づけている。
「かくして、水星は全部で7つの円でめぐっている。金星は5つ。地球は3つ。その周りを月が4つ。最後に、火星・木星・土星はそれぞれ5つ。したがって、以上の次第であるから、全部で34個の円で十分であり、それらによって宇宙の全構造および星々の輪舞全体が説明されることになる。」
34個の輪舞とは、こんな感じ...
・水星
[経度運動] 5つ : 1つの天球、2つの周転円、軌道半径を変えるトゥースィーの対円
[緯度運動] 2つ : 黄道面に対して軌道面が傾斜しているために見える輪舞
・金星
[経度運動] 3つ : 1つの天球、2つの周転円
[緯度運動] 2つ : 黄道面に対して軌道面が傾斜しているために見える輪舞
・地球
[経度運動] 3つ : 年周回転、日周回転、地軸の輪舞
・月
[経度運動] 3つ : 1つの天球、2つの周転円
[緯度運動] 1つ : 交点の移動
・火星、木星、土星
[経度運動] 3つ x3 : 1つの天球、2つの周転円
[緯度運動] 2つ x3 : 軌道面を振動させるトゥースィーの対円
ニコラウス・コペルニクス... 彼は、中世まで支配的だったアリストテレス=プトレマイオス流の地球中心説を真っ向から反対する宇宙論を唱えた。それは、地球の地位、ひいては地球に住む人間の地位を1ランク下げるものとなる。地球の不動から太陽の不動へ視点が移れば、次は太陽の不動に疑いの目が向けられる。彼の太陽中心説は、科学革命の引き金となった。
しかしながら、自転や公転の証拠がまだ発見されていない時代である。自転の証拠としてはフーコーの振り子が、公転の証拠としてはベッセルの年周視差やブラッドリーの光行差などが挙げられるが、いずれも18世紀以降のお話。これは16世紀の物語で、天文学はまだ自然哲学の域を脱していない。地球の地位を下げるとなれば、神に看取られた人間を崇める宗教だって黙っちゃいない。コペルニクス革命は、まさに思想革命であった。彼が健全な懐疑心を目覚めさせようという意図でやったかは知らんが...
尚、本書には、コペルニクスの主著「天球回転論」から第一巻と、太陽中心説の構想を記した未刊論文「コメンタリオルス」が掲載され、高橋憲一(みすず書房)訳版を手に取る。
トルニの人ニコラウス・コペルニクスの「天球回転論」全6巻
「好学なる読者よ。新たに生まれ、刊行されたばかりの本書において、古今の観測によって改良され、斬新かつ驚嘆すべき諸仮説によって用意された恒星運動ならびに惑星運動が手に入る。加えて、きわめて便利な天文表も手に入り、それによって、いかなる時における運動も全く容易に計算できるようになる。だから、買って、読んで、お楽しみあれ。」
幾何学ノ素養ナキ者、入ルベカラズ!
天空を眺めれば、四角い天体なんぞとんと見かけない。すべてが球形で円運動をしているとすれば、おそらく宇宙も球形だろう... ぐらいの想像はやる。人間が空想する世界は、真円や真球が収まりがよく、角が立たない事が心を落ち着かせると見える。
ただどんな形にせよ、宇宙が形をもっているということは、その空間は有限であることを告げている。そして、中心点はどこか?という議論になるが、母なる大地が運動しているなんて考えたくもない。地震で揺れるだけで恐れおののく人間にとっては、平らでどっしりとした存在であってほしい。想像の域とはいえ、古代人たちは大地が丸いというだけでもよく受け入れたものである。
神の支配に宇宙法則を重ねて見るは、まさに宗教原理。プラトンは、宇宙が数学に支配されているという思想を持っていたと伝えられる。一様円運動の原理を初めて唱えたのは、ピュタゴラス学派だという説もある。プラトンはアカデメイアの門下生に問うた... どのような秩序立った一様円運動を仮定すれば、惑星運動の現象は救われうるだろうか... と。これに一つの答えを与えたのが、エウドクソスの同心天球説である。以来、ヒッパルコスの周転円説などを経て、プトレマイオスの体系が構築された。
そして今、天動説と地動説では、どちらが優れているかと問えば、地動説だと断言できる。なぜなら、小学校で習ったから。自分で確かめたわけでもなければ、確かめる術すら知らず、偉い人が言うことだから間違いないだろう... ぐらいなもの。酔いどれ天の邪鬼にとっての知識とは、そんなものよ。惑星という名は、そこの住人が惑わされ続けるからこそ、そう呼ぶに相応しい...
プトレマイオスは、すでに宇宙の中心が地球ではないことに気づいていた形跡がある。本人が自覚できず、けして認めない事柄であっても、心のずっとずっと奥底の無意識の領域で薄々認めているということが、人間にはよくある。そして、コペルニクスがやったことは、実はプトレマイオスの再表現ではなかったのか、と解すのはちと行き過ぎであろうか...
天動説に憑かれたプトレマイオスは、恒星連中の運動に明確な説明を与えたが、天空をさまよう連中を説明するのに苦慮した。順行したり、逆行したりする星々を。planet はギリシア語の PLANETES(さまよう者)を語源に持つ。彼が持ち出した離心円とエカントという概念は、さまよう連中の中心は地球から少しずれていることを主張しており、これは同心天球説の改良版と言っていい。
だからといって、大地が動いていることまでは認められない。宇宙の中心はあくまでも地球であり、さまよう連中が異常であり、アノマリなのである。
しかし、宇宙を創造した完全なる神が、アノマリな連中をこしらえるだろうか。やはり宇宙は運動論に矛盾しないように構成されている必要がある。そして、アノマリな観測データを救済しようとあらゆる仮説を試みる、これこそが科学の使命というものか。コペルニクスが天空モデルに託した「7つの要請」と「34個の円」には、そんなものを感じる...
1. 7つの要請
コペルニクスの地動説構想を初めて記した自筆原稿は残っていないそうな。多くの書簡からその構想を見つけることができ、その写本が次々と受け継がれる中で一つの小論(コメンタリオルス)として伝えられるらしい。コメンタリオルスには、天界運動モデルに7つの要請がなされる。
- 要請1. あらゆる天球ないし球の単一の中心は存在しないこと。
- 要請2. 地球の中心は宇宙の中心ではなく、重さと月の天球の中心にすぎないこと。
- 要請3. すべての天球は、あたかもすべてのものの真中に存在するかのような太陽の周りをめぐり、それゆえ、宇宙の中心は太陽の近くに存在すること。
- 要請4. [太陽・地球の距離]対[天空の高さ]の比は、[地球半径]対[太陽の距離]の比よりも小さく、したがって、天球の頂きに比べれば、感覚不可能なほど小さい。
- 要請5. 天空に現れる運動は何であれ、それは天空の側にではなく地球の側に由来すること。したがって、近隣の諸元素とともに地球全体は、その両極を不変にしたまま、日周回転で回転しており、天空と究極天は不動のままである。
- 要請6. 太陽に関する諸運動として我々に現象するものは何であれ、それは太陽が機因となっているのではなく、地球および我々の天球(我々はあたかも或る他の1つの星によるかのように、太陽の周りをそれによって回転している)が機因となっていること。かくして地球は複数の運動によって運ばれていること。
- 要請7. 諸惑星において逆行と順行が現われるのは、諸惑星の側にではなく、むしろ地球の側に由来していること。したがって、天界における数多くの変則的な現象に対しては、地球の1つの運動で十分である。
2. コペルニクスの34個の円
コメンタリオルスでは、天界運動モデルをこう結論づけている。
「かくして、水星は全部で7つの円でめぐっている。金星は5つ。地球は3つ。その周りを月が4つ。最後に、火星・木星・土星はそれぞれ5つ。したがって、以上の次第であるから、全部で34個の円で十分であり、それらによって宇宙の全構造および星々の輪舞全体が説明されることになる。」
34個の輪舞とは、こんな感じ...
・水星
[経度運動] 5つ : 1つの天球、2つの周転円、軌道半径を変えるトゥースィーの対円
[緯度運動] 2つ : 黄道面に対して軌道面が傾斜しているために見える輪舞
・金星
[経度運動] 3つ : 1つの天球、2つの周転円
[緯度運動] 2つ : 黄道面に対して軌道面が傾斜しているために見える輪舞
・地球
[経度運動] 3つ : 年周回転、日周回転、地軸の輪舞
・月
[経度運動] 3つ : 1つの天球、2つの周転円
[緯度運動] 1つ : 交点の移動
・火星、木星、土星
[経度運動] 3つ x3 : 1つの天球、2つの周転円
[緯度運動] 2つ x3 : 軌道面を振動させるトゥースィーの対円
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