2020-09-20

"素数の音楽" Marcus du Sautoy 著

数学は、音楽とすこぶる相性がいい...
耳で感じる音律の概念は、オクターブの整数比で構成される。一つのオクターブを均等に十二分割したものは「十二平均律」と呼ばれ、「ドレミ」も、これに看取られている。
十二音の組み合わせは、ざっと数えて 12! = 479,001,600 通り。
音楽家たちは、この組み合わせの中から、魂をくすぐるパターンを見い出そうとする。いわば音楽は、音響組織の数学的合理化なのである。その合理化運動の歴史は、紀元前540年頃のピュタゴラスに遡る。そう、「万物は数である」という信仰だ。弦の長さを半分にすると、1オクターブ高い音が生じて元の音と調和する。この性質に気づくと、一弦琴で和音を奏でることができ、整数比からちょいと外れると、たちまち不協和音となる。
どうやら音楽は、数学に看取られているようだ。空を見上げれば、太陽も、月も、惑星も、多くの天体運動が数学に看取られ、天空の音楽を奏でている。音響工学で馴染みのあるデジタル信号処理にしても、フーリエ変換ってやつが正弦波成分と余弦波成分の和で幅を利かせ、周波数スペクトルという概念を与えている。音響組織は、このスペクトルに看取られている。
では、数学の素とされる存在は、どんな音楽を奏でているだろうか。それは、人間の耳で聴きとることのできる音楽であろうか。数学者マーカス・デュ・ソートイは、そんな問い掛けをしてくる...
尚、冨永星訳版(新潮文庫)を手に取る。

ところで、素数の意義とはなんであろう。それより小さな数の積では表せない存在。つまり、あらゆる数は素数の積で表せるってことだ。それは、物理学でいうところの原子のような存在か。あらゆる分子構造は原子の組み合わせでできている。素数の配列は、いわば、原子の周期表のようなものか。素因数分解は多くの物理現象の解析で重要な役割を担い、インターネットの暗号システムも素数なしでは存在し得ない。
ここで、ざっと素なる数を三つ拾ってみよう。

  {3, 5, 7} = 357 マグナム = コルト・パイソン

本書は、素数のプログラムを Python で書きたいという気分にさせやがる。おかげで、無矛盾コードの証明で翻弄される羽目に。それは、1オクターブ低い声に酔いしれ、自らのピロートークに翻弄されるに等しい... Q.E.D.

1900年、ダフィット・ヒルベルトは、新たな世紀の始まりを記念してドラマチックな公演を行った。聴衆に向かって、23 にも及ぶ未解決問題を突きつけたのである。まるで、20世紀という時代は、数学ですべての問題が解決できる世紀だ!と宣言したような...
確かに、問題の多くは解決された。しかし、21世紀の今でも取り残された問題がある。例えば、第8問題。それは素数に関するもの。素数が無限に存在することは、ユークリッドの「原論」にエレガントな証明が記される。
しかしながら、どんな風に出現するのか?どんな風に分布しているのか?そこに法則性は?と問うと、まるで見当がつかない。もし、素数の在り方がデタラメな配列だとすれば、単なる雑音ということか。あるいは、最も美しいホワイトノイズということか。素数が美しくも、単純でもないとしたら。いや、最も素である存在がノイズであってはならない。いや、そう信じたい。ただそれだけのことかもしれん。プラトンが、精神の原型であるイデアに完全美を見ようとしたように...

「数学が無矛盾なのだから、神は存在する。それを証明できないのだから、悪魔も存在する。」
... アンドレ・ヴェイユ


1. 篩にかけられた素数
最初に素数を篩にかけたのは、エラトステネスと伝えられる。彼は、指定した数より小さい素数を見つけるための単純なアルゴリズムを編み出した。そう、プログラミング学習の教材でも見かける「エラトステネスの篩」ってやつだ。
では、大きな数の方向に対しての素数の見つけ方はどうであろう。そもそも無限に存在することが分かっているのに、見つける意味があるのか。自然数の最大値は何か?と問うているようなもの。
とはいえ、そこに法則性が発見できなければ、せめて、より大きな素数は何か?と追いかけてみたい。それが、人情というもの。現時点で、人類が編み出した合理的な方法は、GIMPS というプロジェクトに垣間見る。それは、分散型コンピューティングによって、より大きなメルセンヌ素数を探すという試みである。
ちなみに、メルセンヌ数は、こんな形をしている。

  2n - 1

この形が素数になる場合があって、その計算のためにインターネットを介して世界中のリソースを総動員するわけである。素数を直接追いかければ、このような人海戦術的な発想にもなろう。
今のところ、51番目のメルセンヌ素数が発見されている模様(2018年時点)。

  282,589,933 − 1

一方、素数に新たな風景を見た数学者がいた。ベルンハルト・リーマンは、ゼータ関数を通してその風景を見たとさ。なにかとエイプリルフールの話題とされる数学の難問たち、「リーマン予想」とて例外ではない。
しかし、こいつの証明も叶わないとなれば、人海戦術的な発想に引き戻される。現代数学では、証明においてもコンピュータが大きな役割を果たしている。四色問題しかり、ケプラー予想しかり。人間が苦手とする、しらみつぶし的な方法論によって...
しかしながら、リーマン予想が、そういった類いの問題とは到底思えない。なにしろ、無限に存在するものを相手取るのだから。チューリングマシンにだって苦手な分野がある。それでも、今巷を賑わしている AI(人工知能)ならどうであろう。機械学習より賢そうなディープラーニングならどうであろう。リーマン予想の証明には、人間の能力を超えた証明アルゴリズムが必要なのやもしれん...

2. 素数の風景とゼータ関数の風景
リーマンは、ゼータ関数をこう定義した。

  ζ(s) = 

n=1
 1 
 ns 

こんなやつが、素数とどう関係するというのか。無限級数といえば、巨匠オイラーによる収束や発散の考察を思い浮かべる。オイラーは、調和級数の発散と素数が無限に存在する現象との間に、なんらかの因果関係がありそうな予感を匂わせた。指数関数に虚数を混ぜると三角関数になるというあの有名な公式も見逃せない。
さらに、リーマンは、ゼータ関数に虚数を何の気なしに混ぜてみたところ、素数の新たな展望が開けたという。そして、こんな予想を立てる...

「ζ(s) の自明でないゼロ点 s は、直線 1/2 上に存在する。」

ちなみに、s が負の偶数であれば、ζ(s) = 0 となり、自明なゼロ点は、s = -2, -4, -6, ... となる。
リーマンが注目したのは非自明な方で、その点在ぶりが素数の点在ぶりに重なるというのである。オイラーが調和級数の中におぼろげに見た素数の風景を、リーマンは解を複素数で抽象化することによって、より明確な素数の風景をあぶり出したというわけか。
ここで重要なのは、ゼロ点の存在位置を直線 1/2 上に決定づけていることである。つまり、これを証明するためには、位置を決定づける法則や公式が必要だってことだ。
ハイゼンベルクの不確定性原理によると、量子の位置と運動は同時に決定づけることができないことになっている。
では、ゼロ点の場合はどうであろう。振る舞いは決定づけることができなくても、位置だけでも決定づけることができれば展望が開けそうである。リーマン予想を証明するということは、ゼロ点の存在位置を決定づけることであり、素数の存在位置も決定づけられるかもしれない。ゼータ関数のゼロ点の風景は、素数の風景の投影というわけか。
しかしながら、この風景がどんな音楽を奏でているのか、人類にそれを聴く資格があるのか、まだ予想がつかない。

ところで、実数部の直線上にゼロ点が点在するとは、何を意味しているのだろう。ゼロ点を境界面にしながら、誤差のような余計な存在が奇跡的に相殺しあうとでもいうのか。量子力学ってやつは、真空に仮想粒子なるものを登場させたり、物質の誕生には反物質なるものを登場させたりと、何もない所でも負のエネルギーを登場させては都合よく宇宙を膨張させてしまう。プラスの現象には、マイナスの現象を無理やり登場させて相殺してしまえば、エネルギー保存則に矛盾せず、うまいこと説明がつくという寸法よ。ゼロ点境界面でも、それと似たような現象が起こっているというのか。
ある振幅の音と、それとは真逆の振幅の音がぶつかれば、互いに消し合い、そこに沈黙が生まれる。素数が奏でる音楽とは、崇高な沈黙なのであろうか...

3. ラマヌジャンの見た風景
分割数は、素数ほどデタラメに分布しているようには見えない。
とはいえ、ラマヌジャンが導いた分割数の公式は、なんじゃこりゃ!平方根やら、πやら、虚数やらが三角関数と複雑に絡み合い、微分まで顔を出してやがる。
Dn ときたら、まるで湯上がり気分の王子様気取り...

  P(n) =   1 
 π√2 
 

1≤k≤N
√k (  

h mod k
ωh,k e-2πi(hn/k) ) Dn  + O(n-1/4)

  Dn  d 
 dn 
{ ( cosh (  π√(n - 1/24) 
 k 
√(2/3) )  - 1 )/ √(n - 1/24) }

しかも、分割数の増え方は、量子力学や統計力学で分配関数と呼ばれるものに相当し、量子系のエネルギー準位を代弁するような関数だという。
ちなみに、フィボナッチ数にも自然界と不思議な関係が見て取れる。ヒマワリや松ぼっくりの種子の成長、巻貝の螺旋形状、兎の繁殖モデル、等々。フィボナッチ数列は黄金比に収束し、黄金比をもつ相似形には自然美に通ずるものがある。
だからといって、分割数の公式の複雑さは、自然美とは掛け離れ、とても人間業とは思えない。すると、デタラメ度からいって素数の公式は、もっと複雑になるというのか。やはり人間を超えた能力でなければ...

ところで、ラマヌジャンが示した無限和は、素人目にも驚異的である。

  1 + 2 + 3 + … + n + … = -   1 
 12

自然数の総和が、マイナスの分数に収束するというのだから、当初、奇人変人として相手にされなかったのも頷ける。これを変形すると...

  1 +  1 
 2-1
 +   1 
 3-1
 + …   1 
 n-1
 + … = -   1 
 12

なんと、ゼータ関数に -1 を入れた時の答えだ。これを発見したラマヌジャンの経歴も驚異的である。なにしろ、ヒンドゥー教の事務員からの転身だ。これも突然変異がもたらした自然美の一つであろうか...

2020-09-13

"代替医療解剖" Simon Singh & Edzard Ernst 著

著者サイモン・シンと翻訳者青木薫のコンビに触れるのは久しぶりで、「フェルマーの最終定理」、「暗号解読」、「宇宙創成」に続いて四冊目。共著者に名を連ねるエツァート・エルンストは、彼自身が代替医療に従事し、様々な治療法の有効性と安全性を検証してきた第一人者だそうな。
尚、「代替医療解剖」は、文庫版に際して「代替医療のトリック」から改題されている。「トリック」ってやると皮肉めいたものを予感させるが、「解剖」ってやると真実に寄り添う姿勢が感じられる。中身は、露骨なほどに皮肉が効いているけど。原題 "Trick or Treatment ?" らしく...

この物語は、二千年以上前、エーゲ海に浮かぶ島コスに生を受けたある人物の警句を指針にしているという。それは、医聖ヒポクラテスの言葉...
「科学と意見という二つのものがある。前者は知識を生み、後者は無知を生む。」

科学は、真実について客観的なコンセンサスを得るために、実験や観察を繰り返し、議論を交える。一度結論に達してもなお、見逃している点はないか、間違いがありはしないか、とほじくり返し、自分自身の主張にも疑いの目を向ける。その意味では、自虐的な一面を曝け出すことに...
意見ってやつは、多数派に流されやすい。名声や権威ある者の意見なら尚更。主流派に逆らえば、理不尽な攻撃を喰らう。それは、医学界に限ったことではない。大衆社会では、最も宣伝のうまい者の意見が猛威を振るう。それだけに健全な懐疑心を保つには、よほどの修行がいる。本書には、「科学的根拠にもとづく医療」という言葉がちりばめられる...

ところで、医学は科学であろうか。いや、科学だ。間違いなく。いや、おそらく。では、医学に寄り添う医療はどうであろう。科学にも限界がある。けして万能ではない。少なくとも人類の知識では...
医療の現場では、しばしば身体の病よりも精神の病の方が手ごわい。しばしば医師の言葉よりも看護師の言動の方が頼りになる。
代替医療は、より正確に書くと「補完代替医療」となる。通常医療を補完する治療法ならば、それほど目くじらを立てることもあるまい。
しかし現実には、完全に独立した形で施術されるケースがあまりに多い。医師の意見を無視して併用したり、完全に通常医療に取って代わったりと。しかも、代替医療業界は、いまやグローバル産業に成長した。本書は、代替医療を「主流派の医師の大半が受け入れていない治療法」と定義し、何百万もの患者が、あてにならない治療法に金を使っている状況に苦言を呈す...

とはいえ、主流派の医師にも問題はあろう。そもそも、なぜ代替医療に駆け込むのか。通常医療に不満を抱く患者も少なくない。言いつけを守らないと、まるで罪人扱い。権威的で... 強制的で... 他の病気になりそう... そんな医師も少なくない。セカンドオピニオンといっても、なかなか言いづらい空気がある。そして、もういい!他の病院に行く!ってなる。言いやすい医師ほど、セカンドオピニオンなんて用語はあまり必要あるまい。すすんで別の病院や優秀な専門医を紹介してくれる医師もいるし、セカンドオピニオンによって横の繋がりを歓迎する医師もいる。
病は気から... とも言うが、人間精神において、気休めの占める領域は意外と大きい。プラセボ効果だって侮れるものではない。
ちなみに、うちの婆ぁやときたらジェネリック薬に拒否反応を示す。その薬のせいか分からないが、一度気分が悪くなって、ジェネリックと聞いただけでアレルギーときた。入院すると、国が奨励しているらしく、ジェネリック薬を強制されるので、病院にいるとかえって精神を病むから頭が痛い。おいらの場合は逆に、なるべくジェネリックを選択するようにしている。安ければ...
医者にかかれば、なにかと薬漬けにされる昨今、やはり気分の問題は大きい。合理性には、精神的合理性と物理的合理性があり、あとは使い分けるだけのこと。結局は、自己満足ってことか。自己陶酔ほど心地よい精神状態もなかろうて。
また、病気ってやつは、医師が一方的に患者を治してあげるというものでもあるまい。医師と患者が協力して立ち向かっていくものであろう。そこで、本音で語り合える主治医に出会えることを願うが、それにはちょいと運がいる...

1. 主要な四つの代替医療
本書は、主要な代替医療として、鍼治療、ホメオパシー、カイロプラクティック、ハーブ療法の四つに焦点を合わせ、付録では、三十以上もの治療法について外観させてくれる。

鍼治療...
古代思想を受け継ぎ、生命力の源泉とされた気の流れに応じた治療法。気の流れは体内の決まった経路を通り、これに沿って点在する経穴、すなわち、ツボを刺激することによって、気の流れを妨げているものを取り除く。古代の入れ墨でも、この経路に沿って掘られたという説を聞いたことがある。古代医学の気の流れは、近代医学の血液の流れと重なる。実際、瀉血があらゆる病気の治療法として用いられた時代がある。古代ギリシアから中世ヨーロッパに至るまで。ただ、おいらは鍼が恐い!

ホメオパシー...
同質療法とも呼ばれ、「類が類を治療する」という原理を利用する治療法。病気の原因となる物質が治療にも役立つという考えは、体内で抗体を形成するプロセスとも重なる。

カイロプラクティック...
脊椎を手で調整(アジャスト)して、腰痛の治療を行う。脊椎に与えた刺激は、神経系統を介して身体全体に渡り、今では、喘息をはじめ、どんな病気にも有効だとする医者が多数いるという。イギリスでは、主に腰痛や頚部痛の治療法として医療システムに組み込まれているとか。

ハーブ療法...
植物や植物エキスを用いる治療法。各地域に生息する植物と結びつき、最も古い歴史を持つとされる。おいらには、治療法というより健康法というイメージが強いが、どんな病気や予防にも効くと過大宣伝されるケースも見かける。

これら四つの代替医療は、それぞれに原理はもっともらしく、まだ良心的な方であろう。本書は、いずれの治療法にも、「プラセボ」が大きな役割を果たしているとしている。
とはいえ、人間にとってこれが一番効果がありそうな気がする。深刻な病でない限り。人間は感情の動物だ。主治医の言葉にしても、治療法を理解した上で任せているというよりは、医師を信じて任せている。科学的根拠と言われても、無知者は信じるほかはない。
例えば、地球が丸い!地球は太陽の周りを回っている!なんて常識とされる知識も学校で教わっただけのことで、自分自身で確かめたわけではない。ほとんどの知識が、信じるか、信じないか、で成り立っている。少なくとも、この酔いどれ天の邪鬼の場合は...

付録に目を向けると、胡散臭いものが勢揃い。おいらがよく利用するものでは、リラクゼーション、リンパドレナージュ、リフレクソロジー(足つぼ)、マッサージ療法といったところ。もっとも医療という意識はない。単なる気分転換。仕事で膠着状態にある思考回路を揉みほぐしてやるために。その意味では、バーに行ったり、バーバー(理髪店)に行ったりするのと同じ感覚。いくらなんでも、マッサージ師に癌を治してくれ!などとは言えまい。
しかしながら、藁にもすがる思い... という患者も少なくない。科学的に証明されてからでは遅すぎるという深刻な患者が。だから、現時点で科学的に立証できていなくても、近い将来、立証されそうな予感のする代替医療に縋る。だからこそ、本音で語り合える主治医が必要なのだ。
ちなみに、本書でも挙げられるサプリメントや漢方薬だが、これらを嫌う医者は多い。いや、勧める医師を見かけたことがない。西洋医学の立場では、そうなるのだろう。自然治癒を信条とする医師なら見かけたことがある。本人が病気になっても、絶対に痛み止めを飲まないそうな。痛みを感じるのは治癒に向かっている証拠で、自然治癒こそが最高の治療法というわけである。さすがに患者には処方するらしいけど...
他人から見れば、詐欺にあっているようでも、本人にしてみれば、安心を買っているということがある。宗教もその類い。お布施を捧げたから、今の災厄で済んでいると信じている人も少なくない。お布施を捧げなかったら、もっと酷い災厄にあっているはずだと。それで慰められるなら、これも見返りの原理というものか...

2. 臨床試験における客観性の壁
臨床試験の現場に目を向けると、客観性の壁にぶち当たる。そもそも、一人の患者で、一つの薬を投与するかしないか、一つの治療法を施すかしないか、ということができない。となれば、ある程度似たような症状の患者を集めて、同じ条件で試験をし、多くのサンプルを集めるしかあるまい。
しかしながら、同じ条件というのが、なかなかの曲者!条件設定をするのは観察者であり、それによって得られた統計情報は解釈の余地を与える。ベンジャミン・ディズレーリは言った... 嘘には三種類ある。嘘と大嘘、そして統計である... と。
著名人あたりが、この薬が効きました!などと、ちょいと吹聴すれば、製薬会社はたちまち大儲け、ヘタをすれば政治利用される。もっとも本人は利用されているなどとは思いも寄らない。人間の性癖の一つに、自分が良い目に遭うと、他人に喋りたくて勧めたくなる、という衝動がある。布教の心理学とでも言おうか...
本書は、「ランダム化プラセボ対照二重盲検法」という用語を持ち出す。盲検法では、患者に薬や治療法を伝えすに試験をやることによって、患者側の意識バイアスを抑制する。さらに二重盲検法では、医師にも伝えず、観察者側の意識バイアスも抑制する。しかもランダムで。こうした多重条件下で、プラセボに対処している臨床試験の現場を紹介してくれる。

3. 瀉血と四体液説
瀉血は、四体液説によく馴染んだ治療法である。四体液説では、人体に「血液、黄胆汁、黒胆汁、粘液」の四種類の体液が存在するとし、それぞれの性質と病理を関連づける。今日でも、四体液説のなごりを耳にする。あの人は、多血質でほがらかだとか、胆汁質でかんしゃくもちだとか、黒胆質で憂鬱症だとか、粘液質で無気力だとか。血気盛んという言い方も、その類いであろうか...
古代ギリシアの医師たちは、血液が体内を循環していることを知らず、病気になるのは血液がよどむためだと信じていたという。そこで、よどんだ血を取り除くことを主張し、病気に応じて方法論まで提示したとか。肝臓の病気には右手の血管を切り、脾臓の病気には左手の血管を切るといった具合に。
中世には、瀉血を受けられるほど裕福な患者は、修道士にその処理してもらったとか。1163年、ローマ教皇アレクサンデル三世は、修道士がこの血なまぐさい処置に携わることを禁止し、代わりに床屋が瀉血をやるようになったという。瀉血用の医療器具も進歩し、医療用ヒルまでも用いられる。ヒルは高額で売買され、市場を賑わしたとさ...
そういえば、理髪店の看板が赤白の縞模様で螺旋状に回転するのは、外科医の役割を果たしていた名残りとも言われるが、瀉血をやっていたことと関係があるらしい。赤は血液、白は止血のための包帯、円柱のてっぺんにある球は、真鍮製のヒル盥、そして、円筒自体は血液の循環を促すために患者に握らせた棒の象徴だとか...
ちなみに、アメリカ合衆国の建国の父とも言われるジョージ・ワシントンが瀉血で亡くなったとは知らなんだ。もともと持病があったようだけど。最初は風邪らしき症状で瀉血をし、さらに苦しみがるので瀉血を繰り返し、1リットルもの血を抜いたとか。偉大な人物の死は、伝統的に崇められてきた治療法に対して、医師たちが疑問を呈すきっかけになったとさ...
歴史は皮肉なもので、医者にかかれる裕福な人よりも、医者にかかれない人の方が死亡率が低い時代があったようである。瀉血が人口制限に一役買っていたのかは知らんが、ヴォルテールはこう書いたという...
「医師というのは、ろくに知りもしない薬を処方し、薬よりもいっそうよく知らない病気の治療にあたり、患者である人間については何も知らない連中である。」

4. 英皇太子に捧ぐ...
ところで、表紙の扉を開くと、いきなり意味ありげなフレーズが飛び込んでくる。「チャールズ皇太子に捧ぐ」と...
いち早く代替医療に関心を寄せた英皇太子は、通常医療との協力を奨励して「統合医療財団」を設立したという。科学ジャーナリストとして知られるサイモン・シンは、科学的根拠の示されない治療法に対して懐疑的な立場。実際、代替医療と呼ばれるあらゆる治療法に、多くの医師が疑いの目を向けている。
2008年、サイモン・シンは英国カイロプラクティック協会に名誉毀損で訴えられた。そう、本書が扱う四つの代替医療の一つだ。批判の矛先は、WHO や MHRA(英国の医薬品・医療製品規制庁)にも向けられる。翻訳者が改題したのも、こうした背景があったからであろうか...
ちなみに、イギリスでは、こうしたケースで名誉毀損で訴えられると、まず勝ち目がないという事情があったそうな。今は知らんが。国際的な団体や企業が事実上の口封じのために、イギリスを裁判地に選ぶことがよくあったとか。今は知らんが。国際司法界で噂される「名誉毀損ツーリズム(Libel Tourism)」ってやつか。自分に有利な判決が下される見通しのある外国の裁判所を探し回っては、そこに提訴するって寸法よ。
案の定、サイモン・シンは裁判に負け、裁判費用の負担ばかりか、多大な時間とエネルギーまでも奪われたという。しかし、科学者やジャーナリストたちが立ち上がり、これにコメディアンや芸能人なども加わって、カイロプラクティックを誇大宣伝するウェブサイトの摘発キャンペーンを展開。カイロプラクティック協会は、会員にサイトを閉鎖するよう通達したメールまでもリークされ、2010年に訴訟を取り下げたとさ...

2020-09-06

"リア王" William Shakespeare 著

かの四大悲劇を、ハムレットの復讐劇、マクベスの野望劇、オセローの嫉妬劇と渡り歩けば、トリは老王の狂乱劇ときた。やはり歳は、トリたくないもんだ。
シェイクスピアに魅せられると、人生ってやつがいかに悲劇の連続であるか、そして、道化を伴わず生きてゆくことの難しさ、そんなことを再認識させられる。老いてゆくには、苦難を笑う奥義を会得せねば...
尚、福田恆存訳版(新潮文庫)を手に取る。
「年寄りになるのは、智慧を貯めてから後の事にして貰いたいものだね。」

四大悲劇の魅力といえば、なんといっても道化が登場するところ。真理を語らせるには、この世から距離を置くものの言葉が説得力を持つ。人間が語ったところで、言葉を安っぽくさせるのがオチよ。
ハムレットとマクベスは、この世のものとは思えぬ存在に操られ、オセローは現世を生きる安っぽい存在にしてやられた。道化は至るところで姿を変え、もはや、この世のものやら、あの世のものやら。
そして、道化の最高峰の作品が、この「リア王」。ここでは、現世を生きる道化役が堂々と道化を名乗る... この身はリアではない。こんな惨めな人間が俺であるはずがない。お前は誰だ。俺をよく知る者か。おいらはアホウ。爺様の影法師さ!... と。
人生なんてもんは、道化を演じながら生きているぐらいなものかもしれん。猿の仮面をかぶれば猿に、武士の仮面をかぶれば武士に、エリートの仮面をかぶればエリートに、サラリーマンの仮面をかぶればサラリーマンになりきる。あとは、幸運であれば素直に波に乗り、不運であれば生きる糧とし、いかに達者を演じてゆくか。
そして気づく。自我を救う唯一の道が、狂気であることを。悲劇とは、まさに劇薬。それは滑稽劇のことを言う...
「然り、その通り、お前さん、結構いい道化になれるぜ。」

さて、この滑稽劇の筋書きを綴ろうとすると、道化のヤツが熱くさせやがる。こいつは、シェイクスピアの分身か...
まず、ブリテン王リアは、二人の客、フランス王とバーガンディ公爵を招いて宣言する。三人の娘に領土を譲って引退し、最も孝心の厚い娘に最大の恩恵を与えると。老リアは、長女ゴネリルと次女リーガンのえげつない甘言を大いに喜ぶが、末娘コーディーリアの実直な言葉に激怒する。「愛情は舌よりも重い」とコーディーリアが沈黙すると、「無から生じるものは無だけだぞ!」とリアは言い放ち、勘当したのだった。フランス王とバーガンディ公爵は、コーディーリアを嫁に迎えようと競っていたが、勘当の身となれば持参金もなく、バーガンディ公爵は辞退し、フランス王はそれでも連れ帰る。
そして、王の権力と財産のすべてが二人の姉に渡った時、老王はますます老いていったとさ...
道化が歌う...

「親爺ぼろ着りゃ、子は見て見ぬ振り
親爺財布持ちゃ、子は猫かぶり
運の女神は、名うての女郎
銭の無いのにゃ、何で戸を開けよう」

長女ゴネリルがやってくると、道化が愚痴をこぼす...
「こいつは驚いた、お前さんと娘共とは一体どういう血の繋がりがあるのかね、あの連中は俺が本当を言うと鞭をくれる、お前さんの方は嘘をつくと鞭だという、そうかと思えば、時には、黙っているからといって打たれる事もあるがね。つくづく思うよ、何になるにしても、道化だけはなるものではないね、といって、お前さんになるのも御免だよ、おっさん、お前さんという人は自分の智慧を両端から削って行って、中身が何も残らなくしてしまった人だね。それ、そこに、削り落しの一かけらがやってくる。」

老王は娘たちに放り出され、道化とともに荒野をさまよう。
「墓の中にいたほうが、まだしも楽であろう... 人間、外から附けた物を剥がしてしまえば、皆、貴様と同じ哀れな二足獣に過ぎぬ。」

ここで重要な役割を演じるのが、忠臣ケント伯爵。彼はコーディーリアをかばって共に追放されるが、風貌を変えて別人を装い、老リアに再び仕える。だが、老いぼれには、ケントの忠節さえも救いにならないと見える。そして、リアの家来というだけで足枷を嵌められると、道化の解説付きという親切ぶり...
「は、は、は!ひどい脚絆があったものだ。生き物を繋ぐには急所があって、馬は頭、犬や熊は首、猿は腰、人間ならば脚と相場が決っている。殊にあちこちほっつき歩いて脚を使い過ぎると、必ず木製の靴下を穿かされるものさ。」

おまけに、リア王親子を投影するかのように、グロスター伯爵親子の滑稽劇を物語るという二重仕立て...
グロスター伯爵の庶子エドマンドは、父を奸計に陥れてグロスター伯爵の嫡子エドガーを勘当させ、領地を相続する。エドマンドは、次女リーガンの夫コンウォール公爵の目に留まり、召し抱えられる。グロスターは、リアの身を他人事とは思えず補助したために、リーガンの命で両目を抉られる。
そして、放り出されたグロスターは、自ら勘当したエドガーと、なんの因果か再会することに。愚かな盲目の父と、父の生贄になった乞食とは、妙に気が合うらしい。
「誰が言えよう、俺も今がどん底だ、などと... どん底などであるものか、自分から、これがどん底だ、と言っていられる間は。」
エドガーは、ドーヴァーの崖に父を連れ、その自然の景色を描写して聞かせる。盲目の絶望を弄ぶかのように。
父グロスターの思いは、この場で飛び降りて、死なせてくれ!といったところ。そこに、狂った老リアが合流する。
「今は末世だ、気違いが目くらの手を引く。」

老リアは愚かだ。そして、狂った。狂ったがために、王位という虚飾の中に人間存在の虚飾を見た。狂気とは、愚かの進化形か。
グロスター伯も愚かだ。そして、盲目にされた。盲目になったがために、真の人間存在を見た。盲目もまた、愚かの進化形か。
神は、狂人にしかまともな世界を与えんのか。盲人にしか真理を見せんのか...
「人間が虫けらの様に思われて来た... いわば気まぐれな悪戯児の目に留まった夏の虫、それこそ、神々の目に映じた吾らの姿であろう、神々はただ天上の退屈凌ぎに、人を殺してみるだけの事だ。」

ところで、この物語で踊らされているのは、男か、女か。実行犯は、ことごとく男ども。父を放り出すのが娘たちの夫ならば、グロスター伯爵の目をえぐるのも次女の夫。老リアが孤立した知らせを受けてフランス軍をドーヴァーへ派遣するのも、フランス王妃となった末娘の進言。男性社会などと息巻いている男どもをからかうかのように...
結局、フランス軍はエドマンド率いるブリテン軍に敗れ、リアとコーディーリアは捕らえられる。ゴネリルとリーガンは、夫そっちのけでエドマンドの男っぷりに惹かれる。ゴネリルは、あの人の事で妹に負ける位なら... と、リーガンを毒殺。わたくしが法よ...
そして、ゴネリルも自ら胸を刺して命を絶つ。こんなえげつない女がなんで自ら。女心は男には永遠に分からんだろう。エドマンドは二人の姉と誓い合った男。死者二人と婚礼を挙げりゃいい... とでも。
ゴネリルとリーガンの遺体が揃って運び入れられると、そこに、コーディーリアの遺体を抱いた老リアが入ってくる。コーディーリアは、獄中で絞め殺されたのだった。ついに老いぼれは、絶望のうちに死ぬ。
こうして、老リアと三人の娘は、死者となって再会したとさ...

最後に、ちと脱線するが... いや、筋書きだって結構脱線してるけど...
「リア王」をモチーフにした黒澤映画「乱」について、ちょっぴり触れてみたい。設定を日本の戦国時代に移し替え、王女三姉妹の代わりに武将三兄弟を登場させた物語である。そして、シェイクスピアが乗り移ったような台詞を道化に吐かせる。
「こいつはめでたい!狂った今の世で気が狂うなら気は確かだ!」
"In a mad world, only the mad are sane!"

本書の中にも、これに近い台詞を見つけることができなくはないが、これといって特定することは難しい。原文を読んだわけではないので何とも言えないが、むしろ、あちこちに散りばめられた道化の台詞を一言で表現すると、こうなりそうな。あの世で、シェイクスピアが黒澤明に座布団一枚!なんて言ってそうな。もしかしたら、シェイクスピアが他の場所で似たような言葉を漏らしたのかもしれないが、いや、乗り移ったような...
それにしても、道化の台詞を追っかけるだけで哲学できちまうんだから、おいらはイチコロよ...

「何と王様、狂うたか、アホウを相手に、いない - いない - ばあ」

「智慧の無い奴は、狂わぬうちに...」

「頭を突込む家を持つためには、まずその前に頭を持つ事だ。」

「逃げたヤクザは、アホウになるが、アホウは決して、ヤクザにゃならぬ...」

2020-08-30

"オセロー" William Shakespeare 著

シェイクスピアの四大悲劇に数えられる二つ、ハムレットの復讐劇とマクベスの野望劇に酔いしれれば、残りの二つに向かう衝動も抑えられそうにない。目の前で狂ったリア王が道化と一緒に手招きしてやがるし、おいらは暗示にかかりやすい...
ただ、このオセロー物語だけは、筋書きを知らない。それに、ちと異質な感もある。他の三つの物語は、国家を揺るがす大事。比してこの物語は、一人の将軍の家庭内のいざこざ。スケールが違う。それでも酔いしれてしまうのだから、ここでも人間の本性を暴いてくれるからであろう。ヘタな心理学の教科書より、ずっとイケてる...
尚、福田恆存訳版(新潮文庫)を手に取る。

ざっと、あらすじを書いてしまうと、単なる嫉妬劇で片付けてしまいそうになる。
例えば、こんな感じ...
ヴェニス公は、トルコ艦隊の動きを牽制するために、サイプラス島にムーア人の勇敢な将軍オセローを赴任させる。その際、恋に落ちたデズデモーナを父の反対を押し切って連れて行き、妻とする。オセローから副官に任命されなかったことを根に持つ旗手イアーゴーは、策謀をめぐらせ、副官キャシオーを失職させた上にデズデモーナとキャシオーの不義をでっちあげる。イアーゴーを信頼しきっているオセローは、武将らしく誠実で高潔であるがゆえに二人が許せず、キャシオーをイアーゴーに殺すよう命じ、妻は自らの手で扼殺してしまう。だが、イアーゴーの妻エミリアの告白で、すべてがイアーゴーの奸計であったことを知り、オセローは絶望する。そして、ハムレットと同じ運命をたどったとさ...

こんな嫉妬劇でも、心理描写や凝った手口は、推理小説ばり。これぞシェイクスピアの真骨頂と言うべきか。動機が単純な分、設定が複雑になるのかは知らんが、前戯派にはたまらん...
「ああ、人間というやつは!わざわざ自分の敵を口の中へ流しこんでまで、おのれの性根を狂わせようとする...」

1. ムーア人という設定
まず、主人公をムーア人としていることが、背景を複雑にさせる。ムーアというのは、七世紀、北アフリカのモリタニア地方を征服したアラブ人が、イスラム教に改宗させた原住民のことをヨーロッパで呼称されたそうな。八世紀には、その混血人種がジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島へ侵入。その侵略者をスペインやポルトガルでムーア人と呼ぶようになり、後に、北アフリカのイスラム教徒全般をムーア人と呼ぶようになったとか。
そういえば、西洋文学にムーア人が登場するのを見かける。ロビンソン物語にも。美術作品にも、ムーア人を題材とする絵画を見かける。ルーベンス工房にも。
オセローはムーアの黒人。だが、そのイメージとなると、黒人奴隷とは結びつかない。なによりもヴェニス公が、この人物に敬意を払っており、よほどの武将であったと見える。三国志で言えば、関羽のような...
とはいえ、人種的な問題を抱えていないわけではない。人間ってやつは、差別好きな動物である。考え方が違い、感覚が違い、住む世界が違うとなれば、それだけで排斥的になったり、攻撃的になったりする。しかも、短所を並び立てては誇張し、イメージを植え付けたりする。これは、いわば人間の性癖である。ましてやイアーゴーは、憎悪に燃えている。同輩が副官になったことの嫉妬も露わにし...
「おれはムーアが憎い。... ムーアは万事おおまかで、こまかいことに気を使わない、他人を見る目も、うわべさえ誠実そうにしていれば、それだけのものと思い込んでいる。... 全く驢馬よろしくだ。」
オセローにしても、人種的劣等感をまったく見せないわけではない。
「おそらく黒人だからであろう、優男のみやびな物腰をもたぬからであろう、あるいは歳も峠を越したため... というほどでもないが、そんなことから、あれの心はおれを去ってしまった...」
絶望すれば、愚痴もこぼれる。オセロー物語は、人種意識よりも、人間が根本的に抱える差別意識を浮き彫りにしている。
ちなみに、オセロゲームの名前の由来にもなっているらしい。緑の平原が広がるイギリスを舞台に、黒人将軍と白人妻をモチーフにしているとか。
しかし、寝返ったり、挟まれたりする場面はあまり見当たらない。イアーゴーがオセローを騙すのは最初から意図があってのことで、信じるかどうは勝手次第。あとは、オセローが妻に裏切られたと思い込むことぐらいであろうか。エミリアの告白も夫を裏切ったわけではなく、正直なだけのこと。
全般的に一人相撲感が強く、オセロゲームとのつながりが、いまいちピンとこない...

2. 嫉妬の布石
最初の布石は、デズデモーナの父ブラバンショーが吐き捨てる。
「その女に気をつけるがよいぞ、ムーア殿、目があるならばな。父親をたばかりおおせた女だ、やがて亭主もな。」
イアーゴーとキャシオーの会話によると、デズデモーナはよっぽどの女らしい。
「あれこそ好き者のジュピター神が決して見のがしっこない女人だぜ... あの目がすごい!艶にして挑むがごとしだ。人を誘い込むような目をしている。しかも、貞潔ですがすがしい。それに、あの声、聞く者を思わず恋に駆り立てる鐘の音とでも言いたくなるではないか...」
イアーゴーは、男心を焚き付けておいて、酒で失態を演じさせる。これで、キャシオーは副官を失職することに。キャシオーは復職をオセローに嘆願するために、デズデモーナにとりなしてもらう。そのセッティングにも、イアーゴーが一枚噛む。そして、キャシオーとデズデモーナの仲が怪しいと、オセローに吹き込むのである。
ところで、オセローは、正義と名誉のために不義を許せず、デズデモーナの首を締めたということになっている。涙を流しながら...
しかし、それほどいい女なら、嫉妬しないわけがない。恋とは、所有欲であり、独占欲である。恋は不安を掻き立てる。人は誰しも、異性のしぐさに惹かれることがある。それが恋人以外であっても。それを感じなくなったら色気も失せる。夫婦で恋愛を続けたければ、そんな刺激も必要であろう。さすが、シェイクスピア!妻が裏切ったと信じ込ませるだけの布石を随所に打っている。
そして決定的な布石が、おまじないのかかったハンカチーフ...

3. 証拠物件ハンカチーフ
オセローがデズデモーナに初めてプレゼントしたハンカチーフには、魔法がかかっているという。その所以を、夫婦愛を育む場面で言って聞かせる。それは、オセローの母親がエジプトの魔法使いから貰ったものだとか。魔法使いの予言によると...
「これが手にあるうちは、人にもかわいがられ、夫の愛をおのれひとりに縛りつけておくことが出来よう、が、一度それを失うか、あるいは人に与えでもしようものなら、夫の目には嫌気の影がさし、その心は次々にあだな想いを漁り求めることになろう...」
おまけに、デズデモーナとイアーゴーの妻エミリアが道化を交えて、夫について愚痴をこぼす場面がある。井戸端会議で見かける、うちに旦那は... てな具合に。妻同士、お仲がよろしいようで...
「妻が堕落するのは夫のせい... 自分では仕事の怠け放題... 私たちの財産を、どこかよその女猫に注ぎこんだり、急に訳のわからない嫉きもちを嫉きだして、私たちを閉じ込めて人前に出すまいとする。... 女がいくらおとなしいからといって、時には仕返しもしてやりたくなる... 世間の亭主たちに教えてやるとよろしいのです、女房だって感じ方は同じだということを...」
最初のプレゼントの話題になれば、まるでのろけ話、エミリアも夫にあてつけて愚痴ったことだろう。私もこんなの欲しいわ... てな具合に。イアーゴーはハンカチーフのいきさつを知っていたようである。
そして、そのハンカチーフをちょっいと借りてこい、とエミリアをしつこくけしかける。イアーゴーは、オセローにキャシオーとデズデモーナの仲が怪しいことを告げていたが、オセローは真に受けない。
「見そこなうな、イアーゴー、おれはまずこの目で見る。見てから疑う、疑った以上、証拠を掴む、あとは証拠次第だ、いずれにせよ、道は一つ、ただちに愛を捨てるか、嫉妬を捨てるか!」
そんなとき偶然!エミリアは、デズデモーナが落としたハンカチーフを拾い、夫に見せてしまう。これで、証拠物件が成立!イアーゴーは、こっそりハンカチーフをキャシオーの部屋に置いたのだった。
あとは証拠次第だ!ただちに愛を捨てるか... なんて格好良くきめちゃったから後に引けない。男ってやつは、実にくだらないプライドにこだわり、実につまらない意地を張るものである。オセローは、妻を愛の生贄に捧げるのだった。
エミリアはオセローを責め立てる。あなたこそ悪魔!奥様は天使になられた。人殺し!間抜け!頓馬!でく同然の分からず屋... と。エミリアは、告白したその場でイアーゴーに刺し殺される。
すると、オセローはイアーゴーを憎み、二人の対決ということになりそうだが、そんな雰囲気はない。人間ってやつは、絶望的な人間不信に襲われると、相手を責めるより自暴自棄の方が優勢になるらしい。そして、自らも愛の生贄に...

2020-08-23

"マクベス" William Shakespeare 著

シェイクスピア戯曲の四代悲劇に数えられる「マクベス」。こいつを知ったのは、黒澤映画「蜘蛛巣城」に出会ったおかげ。設定を日本の戦国時代に替えてはいるものの、まさに生き写しのような作品だ。黒澤映画の中で最も印象深く、終始怪しげな「蜘蛛手の森」の影が、本物語のキーワードの一つ「バーナムの森」と重なる。ただ、もう一つのキーワードの方は、この設定に投影するには、ちと難しいか...
尚、福田恆存訳版(新潮文庫)を手に取る。

さて、マクベス物語には、キーとなるお呪いが二つある。実は、三つあるのだけど、それは後ほど...
一つは、「バーナムの森が攻めてこない限り、お前は滅びはしない。」
二つは、「女の生み落とした人間の中に、お前に歯向かう者はいない。」
いずれも魔女の予言である。普通なら、森の木々が一斉蜂起するなんて考えられないし、また、人間は生物学的に女が産むものと決まっている。実に当たり前なことを、この世のものとは思えない存在が静かに語ると、不思議な力を持つ。有識者どもがまともなことを声高に叫んだところで、言葉を安っぽくさせるのがオチよ。
シェイクスピアの魅力は、なんといっても道化役の用い方であろう。怪しげな存在が語るからこそ、人は惑わされる。邪悪な人間性を見事に演じる道化に、まんまと乗せられた人間どもが、自らの意思で滑稽を演じてしまうという寸法よ...

マクベス物語は、ハムレット物語と対象的に論じられるのをよく見かける。しかし、天の邪鬼なおいらの眼には進化版に映る...
ハムレット物語は、城に出現した父王の亡霊が謀略によって殺害されたことを息子に告げることに始まる。主人公は亡霊の言葉を一人で背負い込み、生か、死か、と苦悩し続け、周囲の人までも死に至らしめ、しまいには復讐を遂げた主人公自身を死に至らしめる。親友に未練がましい言葉を遺して... 見事な独りよがりぶり。
となると、道化役は、亡霊か、主人公か...
物の怪の登場の仕方では、マクベス物語が上手。いきなり三人の魔女がハモってやがる... きれいは穢い、穢いはきれい... と。主人公は、魔女の語る二つのお呪いを後ろ盾に、絶対的勝者となる宿命を信じ、王座を奪った残虐行為を正当化する。
ここで、凄いのは魔女ではない。むろん主人公でもない。夫人だ。幻想世界の魔女を現実世界に引っ張り出し、夫をけしかける。この際、神のお告げか、悪魔のお告げか、そんなことはどうでもいい。狼狽える夫は、わざわざ森へ出かけて魔女の言葉を確認しに行くが、それを横目に夫人は沈着冷静な策謀家ときた。国王は誰が殺したかって?そんなことは、居ない者のせいにすればいいのよ... 夫人の台詞を聞いていると、どっちが主犯なんだか分かりゃしない。
「あいつらの短剣は、あそこに出しておいた、見つからぬはずがない。あのときの寝顔が死んだ父に似てさえいなかったら、自分でやってしまったのだけれど...」
内助の功というが、女は恐ろしい。実に恐ろしい。骨までしゃぶる。男性社会などと、あぐらをかいている場合ではない。
となると、主人公を操ったのは、魔女か、夫人か...

確かに心理面において、ハムレット物語とマクベス物語は対照的に見える。
ハムレットは、父の仇を討つという使命感に掻き立てられるが、マクベスには、魔女の言葉に従うか、どうかの自由がある。義務を負うかどうかの違いは、大きいかもしれない。しかし、義務とはなんであろう。運命めいたものに翻弄される自己催眠の類いか...
単に権力を欲しただけという意味では、マクベスの方が純真である。いや、幼稚か。君主を殺害した後ろめたさのようなものに苛み、自己の殻に閉じこもっていく。マクベスの抱える精神的問題は、まさに現代病だ。だからといって、現代人が進化しているかは知らん...
物語の性格においても、大義名分上の王権奪回と、欲望に憑かれた王権略奪の違いは大きい。それは、憎悪と嫉妬という対照的な情念に看取られている。ハムレットは憎しみに怒り、マクベスは妬みに怯える。
ハムレットの場合は、憎しみのあまり自己矛盾に陥り、周囲の人までも巻き沿いにした挙げ句に自己完結しておしまい。
マクベスの場合は、妬みのあまり周りが敵に見え、ことごとく手にかけた挙げ句に恨みを買った男に敗れておしまい。
ここで注目したいのが、三つ目のお呪いである。
「子孫が王になる、自分がならんでもな。」
これは、ライバル将軍バンクォーに告げた魔女の予言で、マクベスと一緒に聞いている。バンクォーは生まれつき気品を備え、分別があり、人望も厚い。マクベスは、このライバルの気質が恐ろしく、夜も眠れない。そこで、親子ともども暗殺を謀るが、息子は取り逃がしてしまう。奸計が行われている間、酒宴が催され、バンクォーの座には突然亡霊が現れる。部下に命じた殺害が遂げられた瞬間に。そして、亡霊に向かって叫ぶのである。お前の息子のために、俺の手を汚し、慈悲深い王ダンカンを殺させたというのか...
ハムレットは、徹底的に自己矛盾に苛むものの、自己を見失うまでには至っていないが、マクベスは、それを自己破滅型人間に進化させたかに見える。ラ・ロシュフーコーは... 嫉妬は憎悪よりも、和解がより困難である... と言ったが、まったくである。

ところで、シェイクスピアは、トンチ屋か...
物語を最高に盛り上げる場面は、二つのお呪いをものの見事に覆すところである。
「バーナムの森...」に対しては、敵兵たちが枝木を一本ずつ身にまとって行進すれば、あたかも森が攻めてきたように見える。
「女の生み落とした...」に対しては、月たらずで母胎からひきずり出された男マクダフによって野望が砕かれる。つまり、帝王切開で生まれ出た男に。
尚、マクダフは、王ダンカンの長男の亡命先に走ったために、マクベスに妻子を殺されたのだった。
血は血を呼ぶというが、まさにそんな物語である...

2020-08-16

"ハムレット" William Shakespeare 著

恥ずかしいことかもしれんが、おいらはシェイクスピアをまともに読んだことがない。劇場には何度か足を運んでいるものの。
ただ、あまたの作品を遺しながら、これほど筋書きを知っている作家も珍しい。「ヴェニスの商人」、「マクベス」、「リア王」等々、そして、この「ハムレット」... 数々の名言を吐かせた作品の群れに大きな影を感じずにはいられない。
ゲーテは、カントの作品をこう評した... たとえ君が彼の著書を読んだことがないにしても、彼は君にも影響を与えている... と。シェイクスピアという作家は、まさにそんな存在である。知っていれば、いまさら感がつきまとい、歳を重ねれば、手を出すのにも勇気がいる。とはいえ、気まぐれってやつは偉大だ!くだらんこだわりを一掃してくれるのだから...
尚、福田恆存訳版(新潮文庫)を手に取る。

ハムレット物語の展開は既に知っている。
デンマークの王子ハムレットは、父王の亡霊から叔父クローディアスの謀略で殺された事を告げられ、復讐を誓う。さっさと行動に移せばいいものを、狂気を装って周りを欺き、懐疑心に憂悶し、恋心に苦悩するなど、まどろっこしい展開。格式高い国家が醜態を演じているさなか、周辺国との血なまぐさい背景までもちらつかせ...
おまけに、主要人物がことごとく死んでいく。王権を奪い、王妃である母を穢した現王クローディアスはもとより、母の寝室で王と間違えて宰相ポローニアスをやっちまうばかりか、その因果で宰相の息子レイアーティーズを決闘で死に至らしめ、なんの因果か母ガートルードも毒を飲み、叶わぬ恋かは知らんが宰相の娘オフィーリアまでも狂い死に、しまいには復讐を遂げたハムレット自身が毒刃に倒れる。親友ホレイショーに、この武勇伝を語り継ぐよう言い残して...
「しばし平和の眠りから遠ざかり、生きながらえて、この世の苦しみにも堪え、せめてこのハムレットの物語を...」

四大悲劇の中でも名高いハムレット物語。しかし、これは本当に悲劇であろうか。劇場で観るのと本で読むのとでは、まるで光景が違う。だから愉快!
ハムレットという人物像を一人眺めてみても、その独りよがりぶりときたら、まるで一貫性がない。無邪気で打算的、情熱的で冷静、慎重で軽率、意地悪で高貴な王子。この作家の気まぐれには、まったくまいる。だから愉快!
シェイクスピアほどの有名な作品ともなると、その解釈では学術的なものが優勢となりがちだが、深読みしてもきりがない。いまや、ハムレットは本当にオフィーリアを愛していたのか... なんてどうでもええ。レイアーティーズは本当にハムレットを憎んでいたのか... そんなこともどうでもええ。そもそも、父と名乗った亡霊が告げた言葉は真実だったのか?ハーデースが人間どもの二重人格性をからかっていただけ... ということはないのか。
そして、最も気に入っている幕が、二人の道化が登場する場面。二人は墓を掘りながら鼻歌まじりに、こんなことをつぶやく... 身分が低けりゃ、キリスト教の葬儀もやってもらえねぇ... 石屋や大工よりも頑丈なものをこしらえる商売は、首吊台をつくるヤツよ... 首吊台は教会よりもしっかりしてらぁ... と。
死人が何を語ろうが知ったこっちゃないが、死人に舌を与えると、ますます愉快!その分、生きている輩には沈黙を与えよう。所詮、人間なんてものは、墓穴を掘りながら生きている存在なのやもしれん。所詮、人間なんてものは、道化を演じながら生きている存在なのやもしれん。そうした人間の本性を、シェイクスピアという作家が最も自然に滑稽に描いて魅せた。ただそれだけのことやもしれん...
「人間は自分を肥らせるために、ほかの動物どもを肥らせて、それで肥った我が身を蛆虫どもに提供するというわけだ。肥った王様も痩せた乞食も、それぞれ、おなじ献立の二つの料理... それで万事おしまいだ。王様を食った蛆虫を餌にして魚を釣って、その餌を食った魚をたべてと、そういう男もいるわけだ。」

シェイクスピア戯曲の魅力は、作品が自由でいるということであろう。自由でいるということは、解釈の余地が広いということ。そして、ハムレットの支離滅裂感こそ、人間味というものであろう。翻訳者の言葉にも、グッとくる...
「どの作品の場合でもそうであろうが、翻訳には創作の喜びがある。自分が書きたくても書けぬような作品を、翻訳という仕事を通じて書くということである。それは外国語を自国語に直すということであると同時に、他人の言葉を自分の言葉に直すということでもある。そういう創作の喜びは、また鑑賞の喜びでもある。」
いま、「翻訳」という言葉を「読書」に置き換え、甘いピート香の利いたグレンリベットをやりながら鑑賞の喜びを味わっている...

1. ハムレットの名と狂気のイメージ
ハムレット物語の源流を求めると、シェイクスピアと同時代を生きた書き手にトマス・キッドという人がおったそうな。この人物は、すでに復讐劇の元締的存在だったらしく、「スペイン悲劇」という物語を書いているという。さらに遡ると、12世紀末、デンマーク人サクソーが、「デンマーク国民史」という本を書いており、その第三巻に「アムレス」という人物が登場するという。アムレスもまた狂気を装い、悪罵の限りを尽くし母親を罵る場面があるとか。尻軽の淫売め!と。"Get thee to a nunnery!" の原型であろうか...
シェイクスピアとの関係を別にすれば、「ハムレット」という名の源流は、民間伝承や民俗詩にも見つけられるそうな。アイルランド系では「アムロオジ」という名が現れ、13世紀の散文物語「エダ」の中の詩にも出てくるという。それは「アンレ」と「オジ」の合成語で、前者はスカンジナビア地方の一般男性名、後者は戦闘的、狂的という意味だとか。
どうやら、「ハムレット」という名は、狂気を掻き立てるものがあるらしい。人間ってやつは、狂気に身を委ねなければ、行動することも難しい。シェイクスピアは、そんなことを主人公の名を通して暗示したのであろうか...

2, To be or not to be, that is the question...
ハムレット物語に触れたからには、この名セリフを避けるわけにはいくまい。やはり名言には、自由でいて欲しい。解釈の余地を残しておいて欲しい。だからこそ寓意となる。本書の翻訳は、こんな感じ...
「生か、死か、それが疑問だ、どちらが男らしい生き方か、じっと身を伏せ、不法な運命の矢弾を堪え忍ぶのと、それとも剣をとって、押し寄せる苦難に立ち向い、とどめを刺すまであとには引かぬのと、一体どちらが...」
ハムレットは、どうやって死を覚悟したのか。死は眠りに過ぎない。眠りに落ちれば一切が消えてなくなる。無に帰するだけのこと。いっそう死んでしまった方が楽になれるやも。いや、眠っても夢を見る。これがまた妙にリアリティときた。現世を生きる者は、死後の世界を知らない。死後の世界でも夢を見るのだろうか。なぁーに、心配はいらない。どうせ嫌な夢、見たくもない!惨めな人生ほど、なさけない夢がつきまとう。ならば、皇帝ネロにでも魂を売るさ。
そして、おいらの天の邪鬼な性分は、こんなセリフの方に目を向けさせるのであった...
「個人のばあいにもよくあること、もって生れた弱点というやつが、もっともこれは当人の罪ではない、誰も自分の意思で生れてきたわけではないからな、ただ、性分で、それがどうしても制しきれず、理性の垣根を越えてのさぼりだす。いや、その反対に、ちょっとした魅力も度をすごすと、事なかれ主義の世間のしきたりにはねかえされる。自然の戯れにもせよ、運のせいにもせよ、つまり、それが弱点をもって生れた人間の宿命なのだが、そうなると、たとえほかにどれほど貴い美徳があろうと、それがどれほどひとに喜びを与えようと、ついにはすべて無に帰してしまうのだ。」

2020-08-09

"決定版 快読シェイクスピア" 河合隼雄 & 松岡和子 著

シェイクスピアを初めて体験したのは、おいらが美少年と呼ばれていた学生時代。貧乏大学生の演劇に嵌っていた記憶がかすかに蘇る。いずれまた挑戦してみたい!
そう考え、考え... もう何十年が過ぎたであろう。いかんせん劇場で観たものを、小説で読むには勇気がいる。もう分かり切ったシナリオじゃないかぁ... と、頭のどこかで邪魔をしやがる。
しかしながら、十年も経てば人は変わる。もうまったくの別人だ。別人ならば、新たな境地を発掘できるやもしれん。歳をとることは、なにも寂しいことばかりではあるまい...
そんなことをぼんやりと考えながら本屋で立ち読みしていると、シェイクスピア戯曲の目録のような書に出逢った。ここでは、ユング派の心理学者とシェイクスピア専門の翻訳家が繰り広げる座談会を、演劇のように鑑賞させてくれる...

さて、「快読シェイクスピア」という題目には、原版から増補版を経て、決定版へと至る流れがあるらしい。もとは「ロミオとジュリエット」、「間違いの喜劇」、「夏の夜の夢」、「十二夜」、「ハムレット」、「リチャード三世」の六作品に始まり、増補版で「リア王」、「マクベス」、「ウィンザーの陽気な女房たち」、「お気に召すまま」の四作品が加わり、さらに決定版で「タイタス・アンドロニカス」が収録される。
となると、さらにさらに期待したいところだけど、河合隼雄氏は他界されているし、松岡和子氏もご高齢とお見受けする。この酔いどれ読者ときたら、誠に身勝手なものでますます貪欲に... この系譜を受け継ぐ座談会の出現を期待したい。いや、他人に期待する前に、再読が先決だ。そうすれば、あの有名な台詞の群れも違った光景を魅せてくれるやもしれん...

ハムレットは気高く生きようと自らに問うた。このままでいいのか、いけないのか... と。
"To be or not to be, that is the question."

ヘンリー四世には、老人の愚痴まで聞かされる。やれやれ、われわれ老人というのは、どうしてこう嘘をつくという悪癖から脱けられないんだ... と。
"Lord, Lord, how subject we old men are to this vice of lying!"

リア王ともなると、道化を伴わないと老いることも難しい。そして、道化に粋な台詞を吐かせた。おっと、この台詞は黒澤映画の方であろうか。そこは、シェイクスピアっぽいということで。狂ったこの世で狂うなら気は確かだ... と。
"In a mad world, only the mad are sane!"

1. 生き方なんてものは十人十色!
シェイクスピアの世界には、たった十数年で駆け抜ける人生もあれば、八十年かけてじっくりと熟成させる人生もある。十代を全力疾走したロミオとジュリエット... 濃密な三十年を生きたハムレット... このような生き様を魅せつけられると、自分の人生がなんとも虚しく感じられる。そうかと思えば、八十近く惰性的に王として生き、最後の一年で我が生涯に目覚めたリア王... このような生き様には、人生まだまだと未練がましくもなる。なぁーに、未練は男の甲斐性よ...
ランカスターとヨークの両家が王位継承で争った薔薇戦争の時代を生きたリチャード三世に至っては、王位に就いたのはたった三年。その短い期間に、悪党宣言たる独白に始まり、見事なほど完璧な悪役を演じきる。邪魔なヤツはどんどん殺し、欲しい物はなんでも手に入れる... まるで人間の本性を剥き出しにしたような人生。アドラー心理学そのままに... ここまで徹底できる人間は、そうはいない。
孔子の言葉に... 十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順がふ、七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず... というのあるが、もはや何年で人生を完結させるかなんてどうでもいい。最後の三日で人生を充実させ、覚醒させる人もいるだろうし...

2. 恐ろしい思秋期!
思春期を象徴するロミオとジュリエット物語は、汚れちまった大人どもにはあまりに酷!ロマンスには嘘がつきもの。秘密がなければ、ときめきもしない。しかも、純真だから死物狂い。ネガティブな欲望を人のせいにしながら生きてゆければ楽になれるのに、自己批判の方がまだしも行儀がいい。思春期とは、自分を殺すか、生かすかを問う時代だ。
とはいえ、下半身抜きでは恋愛物語も色褪せる。たいていの人はそこで死ねないから、もう少し長く脂ぎった人生を送ることができる。大人の知恵はたいていどこぞの本に書かれているが、子供の知恵は計り知れず。大人の誰もが、そんな時期を経験してきたはずなのに、汚れちまったらすべての記憶はチャラ。愛という言葉を安っぽくさせるのも、惰性的に生きてきた成果だ。結婚を背負わなければ、純真な恋愛物語が完結できるというのに、結婚できる年齢となった途端に愛人呼ばわれ、世間から悪役キャラを背負わされる。そりゃ、おいらだって大人になることに幻滅するよ...
「見ろ、これがお前たちの憎悪に下された天罰だ。天は、お前たちの歓びを愛によって殺すという手立てを取った。」
"See what a scourge is laid upon your hate, That heaven finds means to kill your joys with love;"

3. 爽快な認識の喜劇!
「間違いの喜劇」には、二組の双子が登場する。離れ離れになった双子の兄弟と、その兄弟に仕える双子の召使いが巻き起こす騒動は、圧巻!
ちなみに、ドルーピー物語にも「双児騒動」ってやつがあって、なんとなく重なる。
双子に似たような名前をつけるケースは世界各地で見られ、名前を並べただけでひょっとしたら双子かと思わせるケースがある。逆に、あまりにも見かけが似ているから、区別できるようにと全然違う名前をつけるケースも。
名前ってやつは、人格にも大きな影響を及ぼす。あまりにも立派な名前を与えると、名前負けすることも。ちなみに、おいらの場合、珍しい名前のおかげで、すっかり天の邪鬼になっちまった。
それはさておき、物語の方はというと... わざわざまったく同じ名前にすることはねぇだろう。シェイクスピアのファルス論には、まったくまいっちまう...
「『間違いの喜劇』は、認識の喜劇でもある。兄を探しにきたはずが一時自分を見失うことになったシラクサの主従だが、ここに至って兄を見出すと同時に再び自分をも見出す。混乱と抱腹絶倒のあとだけに、感動の深さと至福感はひとしおだ。」

4. ご都合主義大王!?
松岡氏は、シェイクスピアを「ご都合主義大王」と呼ぶ。滑稽を演じれば、自然の流れに反するところも出てくるし、それが逆に自然だったりする。
また、独善的であるからこそ、芸術は芸術たりうる。そうでなければ個性も発揮できないし、面白味も欠ける。
人間ってやつは、本性的に自然に反する存在なのだろう。しかも、それを自覚しているから、「自然」の対義語に「人工」という語を編み出した。恋愛が自然な状態かどうかは知らん。ただ、恋に理屈をつけると、理に落ちて、それだけのことになってしまう。人生自体が理に落ちることはない。現代人は、なんでもかんでも理屈で説明しようとしすぎる感がある。河合氏はこう指摘する。
「ご都合主義といって非難するのはむしろ、近代人の病ですね。」

5. 王子と太陽...
同音の son と sun は、シェイクスピア劇ではしばしば意味を重ねるという。例えば、こんな感じ...

"Now is the winter of our discontent. Made glorious summer by this son of York."

この台詞は、「リチャード三世」で登場する独白。王の息子は、太陽王たる王子というわけか。人は歳を重ねていくと、駄洒落好きになっていくのかは知らんが、おいらも駄洒落や語呂あわせが大好きときた。
son に sun すなわち光を当てれば、そこに影ができるのは自然法則。古代ギリシアの自然哲学者たちは、日時計の原理となる影ができる図形に憑かれた。ユークリッド原論にも登場するあれ、そう、グノーモーンってやつだ。こいつには直角三角形の偉大さが暗示されている。人類初の距離の測定方法となる三角法やピュタゴラスの定理などが、それだ。影の幾何学とでもしておこうか。
古代の記録には、日食を不吉とする記述を見かける。皆既日食ともなると、まるで天変地異。突然、戦闘中に大きな影が現れると、大軍も逃げ出してしまい、たちまち形勢逆転。現代人はドラマチックな天体ショーとして見物しているけど、それでも人間は影に怯えて生きているところがある。
自ら影法師を演じているうちに、自分の影を背負うようになろうとは。リチャード三世にしても、リア王にしても、自分自身を生きたのか、影法師を生きたのか。人生なんてものは、自我の本性を探りながら、自我の影法師を演じて生きてるようなものやもしれん...
「リチャードは、善悪でいえば悪の側に立って、人間を見下して笑う立場だったのに、王位についたとたんに今度は笑われるキャラクターに転換させられているんです、シェイクスピアに。...(略)... 恐怖と畏怖の的であった人間を、あえて笑いの対象にしてしまう。一気に落ちていく斜度を実にうまく表現している...」

6. brother and sister...
英文を翻訳する時、brother や sister という単語に出くわすと、兄か弟か、姉か妹か、いつも悩ましい。翻訳の達人でも、これらの用語を邦訳するのは難しいらしい。はっきり区別したければ、older brother や younger sister とやればいいのだろうけど、西洋人はそうした必要性を感じないようだ。日本語では、兄が弟かを特定しなければ、おかしな文章になる。ましてや演劇の台詞で、兄さん!と呼びかけるところを、兄弟!では不自然だ。日本人は、たいてい曖昧な表現を好むけど、上下関係となると目くじらを立てるようである。肩書、名声、序列、年齢といったものに。この方面では、西洋の方が平等主義の意識が強いのかもしれない。その分、男性名詞と女性名詞で区別するようだけど。文法における性の扱いでは、男性、女性、中性で区別する言語系は多い。だからといって、それがそのまま差別意識になるとも思えんが...

7. 自立は裏切りによって成立するか?
リア王物語論を見ていると、裏切りによって自立できることを暗示しているのだろうか。たいていの場合、人は裏切られると相手を憎む。だから狂うと楽になれる。ならば裏切られたと思った時、それは相手を恨む前に人間関係を根本から見直すタイミングだとすればどうであろう。まさに自立のチャンス!シェイクスピアは、ネガティブ思考から解放される方法論までも提示しているような...
「裏切りによってしか自立できないというのは、人間の不幸なセオリーのようなもので、歴史上の人物でも、このときだけは裏切ってるって人がたくさんいますよ。」

2020-08-02

"絶望名人カフカの人生論" Franz Kafka 著

「将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。将来にむかってつまずくこと、これはできます。いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。」

翻訳者頭木弘樹が「絶望名人」と呼称する文豪カフカ。彼の日記や手紙には、自虐の言葉で埋め尽くされているという。
名言といえば、この世には実に多くのポジティブな言葉が溢れている。確かに、ポジティブな言葉には人を励ます力がある。
しかし、そんな言葉だけで人生を彩るには心許ない。ネガティブな本音の言葉に癒やされることもある。元気で明るいだけの言葉は、どこか嘘っぽい。本当に辛い時に、頑張れ!と声をかけられても、それはむしろ拷問である。絶望している時には、やはり絶望の言葉が必要だ!

カフカの人生は、なにもかも失敗の連続。現代風に言えば、負け組ということになろうが、そんな表現では足りない。虚弱体質に、食が細く、不眠症。自信家で逞しい父親に対するコンプレックスのために、自らを歪めていく。学校では劣等生のレッテルを貼られ、教師や同級生から馬鹿にされてきた。人付き合いが苦手で、サラリーマンの仕事がイヤでイヤでたまらない。ひたすら書くことに救いを求めて小説家を自称するも、すべての作品が未完に終わり、生計を立てることもできない。結婚願望は人一倍強いものの、生涯独身を通す。一人の女性に憧れて求婚し、二度婚約するも、自ら二度破棄。結婚し、子供をつくって遺伝子を残すことへの罪悪感。自分にそんな資格があるのかと、ひたすら問い続け...
「誰でも、ありのままの相手を愛することはできる。しかし、ありのままの相手といっしょに生活することはできない。」

頑張りたくても頑張れない。働きたくても働けない。すべて自ら招いた心の病であることを告白する。すべて自分が悪い。究極の自己否定節。究極の自己破滅型人間。
しかしながら、こうした心理状態は多かれ少なかれ誰でも経験しているし、まさに現代人が抱える病がそれだ。ニートやひきこもりの心理学を体現するような、まさに現代病の先駆者とでも言おうか...
それでも、自殺には至っていない。自殺願望を匂わせつつも。いや、自己の破滅を謳歌しているような気配すらある。骨折や病気になったことを喜び、社会的地位から追い落とされることを快感とし、究極の M か...
「ずいぶん遠くまで歩きました... それでも孤独さが足りない... それでもさびしが足りない...」

カフカの言葉は、悲惨ではあるけれど、どこか余裕を感じないではない。自分が不幸なのは自分自身のせいだと自覚できるということは、自己を冷静に見つめている証拠。なんとなくニヤけてしまいそうな真実を浮き彫りにし、もはや、ポジティブやネガティブなどと区別することもバカバカしい...
巨匠ゲーテは、真実を実り多きものとしたが、文豪カフカは、真実につまずかされる。これでもか、これでもか... と。人間には、他人の不幸を見て慰められるという情けない一面がある。あの人よりはまし!... と。カフカの場合、人間が本能的に持っている滑稽な側面をあえて曝け出しているようにも映る。そんな余裕があったとも思えんが...
重いのは責任ではなく自分自身... 死なないためにだけ生きる虚しさ... 自殺したい気持ちを払いのけるためだけに費やしてきた人生...などとネガティブ思考のオンパレード。その行間からポジティブ思考への強い憧れが滲み出る。自分を信じるだけで、自分を磨こうとはしない。あえて自分にハンデを与え、失敗した時に自尊心を傷つけないようにするってか。才能があると信じて才能を伸ばす努力をしないのは、失敗した時に努力しなかったからだと言い訳できるってか。論理的に理由を説明しようとするのは、他人を納得させることができれば、自分をも納得させられるってか。
人は目の前の真実から目を背け、自分に言い訳をしながら生きている。それだけ、真実を見るには勇気がいるってことだ。自ら心の病を受け入れ、それを曝け出せるような人は、そうはいない。その意味で、自分の弱さを素直に認めて正面から向き合ったカフカは、真の勇者だったのやもしれん。
生前カフカは、ついに小説家として成功するこはなかった。病床では、未完の原稿をすべて焼却するよう友人マックス・ブロートに遺言する。しかし、ブロートはカフカの作品を世間に紹介した。まさか、あの世でこの友人を恨んではいまい。ブロートは、カフカへの手紙にこう書いたという。
「君は君の不幸の中で幸福なのだ。」

2020-07-26

"変身・断食芸人" Franz Kafka 著

小雨ちらつく中、虚ろな気分で古本屋を散歩していると、なんとも異様な文面で始まる物語に出逢った。
「ある朝、なにやら胸騒ぐ夢がつづいて目覚めると、ベッドの中の自分が一匹のばかでかい毒虫に変わっていることに気がづいた...」

カフカの小説に触れるのは、これが初めて。初体験ってやつは、なんであれゾクゾクさせるものがある。主人公がどんな夢を見ていたのかは知らん。おぞましい姿に変身する夢でも見ていたのか。そして、それが現実になってしまったのか...
夢ってやつは、見ている間は妙にリアリティがある。ふと冷静になり、それがありえないシチュエーションであったとしても。夢を見ている間は、現実との見分けもできない。ならば、いま目の前にある現実が、夢ではないと言い切れるだろうか...
尚、本書には、「変身」と「断食芸人」の二篇が収録され、山下肇/山下萬里訳版(岩波文庫)を手に取る。

そういえば、今のおいらは、どんな夢を見るだろう...
心理学では、夢が精神状態を投影しているとも言われる。日頃のストレスとも関係がありそうだ。ひと昔前は、排泄物に囲まれた夢... 昆虫が身体中を這い回る夢.... そんな光景にうなされたこともあった。もっと昔になると狙撃者に狙われたり... 学生時代にはゴジラ級の怪獣に追いかけられたり... そして現在となると、ホットなお姉様方にイジられる。ん~... M な性分は変えられそうにない。
ただ、それが現実になるとは、これっぽっちも考えていない。所詮、夢は夢。どこか安心して眺めている自我の眼がある。夢を見ている間は、眠りが浅いと言われる。熟睡すれば外界との交渉を完全に断ってくれるが、中途半端な眠りは外界との関係をグチャグチャにする。眠りは生理学的には休養だが、心理学的には何を意味するのだろう。現実逃避か。永遠の眠りへの不安か。はたまた、熟睡は死への憧れか...
それにしても、どういうわけか?ホットなお姉様といいところになると、きまって目が覚めやがる。続きを見ようと二度寝すると、今度は熟睡し、朝方寝過ごして大慌て。最大目標であるハーレムの夢には、永遠に到達できそうにない。せっかくの夢の世界、どうせなら思いっきりエゴイズムを演出してもよさそうなものだけど。いや、まったく思い通りにならんから、リアリティがあるのやもしれん...

「変身」
変身物語の中の主人公は、外回りの営業マン。不規則で粗末な食事に、明けても暮れても、出張!出張!いつも違う人と接し、親しい人付き合いもできない。もう仕事にうんざり!... と、やるせないサラリーマンの愚痴のオンパレード。そして、目覚まし時計の音が苦痛になっていく...
そんな経験は誰にでもあろう。人間であることを放棄すれば、人間社会から課せられる義務から解放され、真の自由が獲得できるだろうか。自由なんてものは幻想だ... と言うなら、義務なんてものも幻想だ!と言いたい。バートランド・ラッセルは、こんなことを言った... 遠からず神経衰弱に陥る人の兆候の一つとして、自分の仕事がきわめて重要なものだという信念があげられる... と。
そして、不条理な夢が現実になった時、自己破滅型人間へと変身するのであった...

「断食芸人」
19世紀頃、断食興行というものがあったそうな。断食芸人はサーカスのような興行主と契約し、檻に入って、藁の上に座り、見世物となる。苦行層が静かに語る言葉には重みを感じるが、断食芸人の場合はどうであろう。自己宣伝屋か。山師か。人目に隠れて物を食べないよう見張り番までいる。早食い競争の逆パターンか。この、いとおしむべき殉難者を御照覧あれ...
時代とともに、断食芸の人気はすっかりガタ落ち。動物の檻と並ぶ断食芸人の檻には、観客が寄り付きもしない。誰も見ていないから、真の意味で断食行に集中できるってか。ふと見張り番が気づくと、断食芸人は藁に埋もれて息絶えている。最期の言葉は... 本当に美味いと思う食べ物が見つけられなかった... とさ。
断食芸人は、藁と一緒に葬られた。その檻には、なんでも美味そうに喰う豹が入れられた。観客は、生きる悦びに満ちた豹に群がる。
自由な風が吹く平穏無事な時代では苦行が見世物となり、抑圧に満ちた多事多難の時代では、自由が見世物になるってか...
「自由さえも、豹は全然恋しがっていないように見えた。必要なものは何でもあふれんばかりにそなえているこの高貴な肉体は、自由までも、つねに身につけているように思われた...」

2020-07-19

"贈与論 他二篇" Marcel Mauss 著

プレゼント... それは美しい心の表れであろうか。贈り物を頂くと、お返しをせねば... という気持ちにもなる。より良いものを、とばかりに。そして、お返しの、お返しの... 無限ループ。これがお付き合いというものか。それが世間体というものか。これからもよろしくお願いします!とな... よろしくってどういうことか。心のどこかで見返りを求めてはいないか。裏に潜む思惑。人の心は計り知れない。自分自身の心ですら...

1920年代、社会学者マルセル・モースは、贈与の心理学を通じて、交換から義務へ結びついていく経済原理を論じて魅せた。
副題に、「アルカイックな社会における交換の形態と理由」とある。未開人と呼ばれる民族の慣習に照らして現代人の原初的な心理を掘り起こす着眼は、後のレヴィ=ストロースの著作「構造人類学」にも通ずるものがある。実際、モースの影響を受けたらしい。
経済学には、価値の交換や物品の売買だけでは説明のつかない交換行為がある。原始的な物々交換だけでは説明のつかない心理状態がある。貨幣で換算される価値だけでは説明のつかない価値がある。もはや行動経済学の領域にあると思われるが、既にこの時代に...
尚、本書には「トラキア人における古代的な契約形態」と「ギフト、ギフト」の二篇が併収され、森山工訳版(岩波文庫)を手に取る。

"gift" という単語は、ゲルマン言語系の言葉で、元来「贈り物」「毒」という二つの意味があるそうな。ほぉ~... グルグル翻訳機にかけると、英語では「贈り物」、ドイツ語では「毒」と出る。ちなみに、タキトゥス著「ゲルマーニア」によると、アングロサクソン系もゲルマン種族と記される。
オランダ語では中性名詞と女性名詞があって、中性名詞は毒を指し、女性名詞は贈り物や持参財を指すという。別の言語系でも片方の意味が消滅している事例が多く、この言葉の意味がどのように派生してきたかは定かでないらしい。
とはいえ、この意味の両面性には、人の心の表と裏が透けて見える。そう、建前と本音ってやつが...

モースは、この心の二面性に、民族の集団性と原初的な慣習性を絡めて、「贈与 = 交換」という視点から論じる。ポリネシア、メラネシア、北アメリカ、ヒンドゥー世界など古今東西の贈与の風習を見て回り、その中でも、財産を蕩尽してしまう「ポトラッチ」という儀式に着目し、これを現代社会でいう義務という意識と重ねながら物語ってくれる。
確かに、集団社会では、慣習による強制めいた意識が働く。義務という意識も儀式のようなもの。個人と個人の間でも贈り物という交換行為は成立するものの、集団と集団の間によって、その行為は慣習に、さらに文化にまで高められる。
集団の中には、誰が誰にどんな贈り物をしたか、と眼を光らせている者もいる。贈り物を与える礼儀、受け取る礼儀、お返しをする礼儀... こうした行為は冠婚葬祭にも表れ、祝儀や香典にいくら包むかといった金額相場も生じる。町内の礼儀屋さんの相場どおりにやっていれば、無礼に当たらないという感覚も、集団性が編み出した心理学であり、ムラ社会ではより顕著となる。
地位の高い者が相手ともなると、贈り物の意味までも偏重させていく。より恩恵を受けるために... より立場を優位にするために... 贈り物にも格付けがなされ、まるで忠臣蔵の一場面。世間の眼が気になれば、礼儀正しい人に見られたい、誠実な人に見られたい。そして、贈り物は虚栄心を助長する。
事業で大成功を収めた経営者が、個人で慈善基金のための大規模な財団を設立したりするのも、儲けすぎたことへの後ろめたさのような心理が働くのかは知らんが、いずれにせよ余裕ある範疇での行為となる。いや、借金してまで貢物を捧げるケースも珍しくない。気前の良さを演じることが、ある種のステータスとなったり、神が相手ともなると、生贄を捧げたり。
一方で、真に心のこもった交換行為も多い。古くから互いの健闘を称えて兵士が武器を交換したり、近年ではスポーツ選手がユニホームやエールを交換したり。そして、贈り物という行為は、使命感や義務感にまで高められていく...

経済循環における交換原理には、自己優位性という心理学が働く。安く作って、高く売り、儲けを最大化するという目論見は、貨幣価値における自己優位性の模索である。だが、それだけではあるまい。むしろ、精神的な自己優位性こそが社会活動の原動力になっているように映る。
アリストテレスは、人間をポリス的動物と定義した。ポリス的というのは、共同体の一員であることを強烈に意識すること。共同体の一員というのは、人間は一人では生きてはゆけないということ。つまりは、集団に依存するということ。集団社会の中で生きていく上で、人間は見返りの原理を放棄することはできまい。仮に、そんな天使のような小悪魔に出逢えたら、この酔いどれ天の邪鬼は我が身を生贄に捧げたい...

それにしても、慣習の力は偉大である。なによりも人間を隷属させる力がある。疑問を感じさせず、義務と思い込ませる。迷った時には過去に縋ればいい。判例とはそうしたもの。慣習は、義務という感覚を生起させる。それは、世間からの批判を逃れるための呪術か...
この呪術に集団意識が結びつくと、これほど恐ろしい心理状態もあるまい。人は誰もが集団の中で自己優位性を保とうと必死に生きている。それは、自己存在というものを意識できる精神の持ち主の宿命であろうか。集団の中の居場所を強烈に意識させ、そこに競争原理を与え、ヒエラルキーを生じさせる。能力で優位性を見いだせなければ、肩書や名声に縋るって寸法よ。そして、これらの心理状態の多くに贈与の心理学が見て取れる。贈与には、義務と霊的な力が宿るらしい...