2012-10-14

"美の構成学" 三井秀樹 著

美とは何か?こうした主観的概念への問いは、永遠に繰り返されるであろう。それは、精神そのものが得体の知れない抽象体であることの証であろうか。科学者は単純な理論を美しいと言う。数学者は単純な数式で世界を表せれば、それを美しいと言う。芸術家は本質的なものをうまく体現できた瞬間、新たな世界美に酔い痴れる。いずれも真理の探求とその苦悩から解放された結果であろうか。真理とはよほど心地良いものらしい。
何をするにしても、センスが良いというだけで惹きつけられるものがある。ファッションやインテリアばかりでなく、仕事スタイルやライフスタイル、そして思考のスタイルに。金持ち振りを見せびらかすのではなく、さり気なく演出されるしぐさや哲学に。これぞ美学というものであろうか。それにしても、芸術とは奇妙なものである。写生した絵画が芸術的な評価を受けても、実物には目もくれない。オーケストラの奏でる音はとても自然界ではありえないのに、高尚な趣味とされる。極めて人工的なものに目を奪われるのは、自然を征服したとでもいうのか?いや、永遠に満たされない虚しさを表明しているだけのことかもしれん。

人類は、古くから美しい形やプロポーションに憧れ、造形に対して調和の美を求めてきた。美の摂理は、伝統的な様式の踏襲と芸術家たちの直感に支えられてきた。どんなに複雑な形でも、対称性を示すだけでなんとなく和む。なにしろ、人体という入り組んだ形に対して、脚から頭までシンメトリーというだけで美人の概念が成り立つのだから。美に共感が生じるということは、そこになんらかの普遍的な感覚があるのだろう。構成学とは、まさに美の原理体系を学術的に模索しようとするものである。著者は、構成学という学問があまり認知されていないことを嘆く。電子工学や宇宙工学を学ぶためには、基礎である物理学の諸原理を学ばなければ話にならない。ところが、構成学を学ばなくてもグラフィックデザインやファッションデザインはできる。こうした背景が、構成学を魅力のない学問にしていると指摘している。確かに独学型のデザイナーは少なからずいる。国語教育から逸脱した小説家が大勢いるように。だからといって、基本を疎かにすることにはならない。独学ほど能動的な学び方はないだろう。学問には堅苦しい印象もあるが、実は、芸術と同じくらい自由とすこぶる相性がいい。おそらく構成学的な思考は古くからあり、独学的な歩みを遂げてきたのであろう。古代の建造物や美術品には、シンメトリーや黄金比やルート矩形といった数理的原理が多大に盛り込まれる。やはり、人間はユークリッド幾何学の純粋さに居心地の良さを感じるようだ。
しかし、学問として本格的に始まったのは、1919年ドイツの造形学校「バウハウス」からだそうな。そして、色の三要素、色彩対比、配色や単純な幾何学的形体を用いたリズムやコンポジションなどが盛んに研究されたという。ちょうど産業革命後、世界中に工業生産の波が押し寄せた時代と重なる。機械生産からは見出せない美的感覚の必要性から、構成学なるものが生じたという。その理念は、ネーミングからして後の構造主義に通ずるものを感じる。「構成」はドイツ語の「Gestaltung」、英語の「Construction」の翻訳というから、建築的発想を主眼にしているようだ。ちなみに、ガウディは自ら画家、音楽家、彫刻家、家具師、金物製造師、都市計画家になり、建築家のみが他の芸術を支配する空間を組織できるとした。バウハウスは、ガウディ精神が受け継がれるように映る。

人間の造形に対する美的感覚は、極めて複雑な形を相手にする。人は奇妙な曲線美や不条理な形に芸術を感じる。日本の伝統美では、茶碗にみる釉薬の流れや、滲み、かすれ、あるいは偶発的に生じるひび割れや墨流しのようなパターンまで、わび、さびの表象としてきた。まさに芸術は、理不尽さを見せつける。
一方で、数学には複雑な形を分析する手法にフラクタル理論がある。その基本概念は、自己相似形を用いて、鏡映、回転、平行移動、拡大縮小といった幾何学操作にある。フラクタル幾何学の父ブノワ・マンデルブロは、雲と山の風景をデジタル数値のみで写真のようなリアルな映像を再現して世間の度肝を抜いた。以降、フラクタル・パターンが各国で次々と発見される。フラクタル理論は、どんな複雑系も定量化できる可能性を示唆している。実際、この偉大な数学者は、あるインタビューで経済学者を名乗り、株式市場の分析をやってのけた。構成学にも、鏡映や回転といった幾何学操作によって造形の美を解析しようとしてきた歴史がある。
本書は、バウハウスの理念からフラクタル理論までの構成学の歩みを概観してくれる。構成学とは、人間の美的感覚に数理的秩序を結びつけ、さらに哲学までも結びつけようとする学問というわけか。改めて科学と芸術の相性の良さを感じるのであった...

1. デザイン運動のはじまり
ヴィクトリア朝の時代、大量生産による安価で粗悪な商品が溢れたという。19世紀、産業革命によって引き起こされた工業生産に対抗して、アーツ・アンド・クラフツ運動が起こる。ウィリアム・モリスは画家や工芸家に働きかけた。機械生産は人間性を疎外すると。職人ギルドの造形精神を取り戻せと。しかし、彼は過去の伝統的様式に囚われない。機械生産を否定しつつも革新的なデザイン精神を模索したころから、モリスは近代デザインの父と呼ばれるそうな。デザイン運動はヨーロッパ各地に飛び火する。パリではアール・ヌーボー様式、そのオーストリア版でウィーンで結成されたのがゼセッション、ドイツではユーゲント様式がそれぞれ展開される。この時代、美を工学的に研究する教育分野を必要とした。この頃、工業製品の品質向上と効率化を図るための標準化運動が発生し、やがて規格化運動へと発展する。20世紀初頭に設立されたドイツ工作連盟(DWB)のムテジウスやベーレンスが起こした標準化運動は、日本工業規格(JIS)の原型になっているという。

2. バウハウスとメディアラボ
バウハウスとメディアラボとは、まったく関係なさそうだが、実は血統を受け継いでいるそうな。1919年、国立バウハウスは、ワイマール共和政の元で、世界初の本格的なデザイン教育機関として創立。もっとも19世紀中頃から、イギリスをはじめヨーロッパ各地に、専門的な職能技術を教える学校や工芸学校は存在したらしい。だが、職能に特化したものではなく、美術、建築、工業、手工業、工芸など広範な造形活動に共通する原理や理論が扱われたのは初めてだったという。初代学長ワルター・グロピウスには、芸術と技術の統合の最終的な姿は建築であるという信念があったという。彼もDWBの一員。フォトモンタージュや多重露光による超現実的表現、あるいは、カメラを使わないフォトグラムや、現像途中で故意に光線を入れ画像の反転現象を起こすソラリゼーションなど、光による新たな表現法が登場する。そして、平面から立体への展開、様々なテクスチャの試みなどが、構成教育のカリキュラムに組み込まれていく。タイポグラフィやグラフィックデザインが登場したのもこの頃。こうした試みが今日のコンピュータグラフィックスの礎となる。
ところが、1933年バウハウスはナチス政権下で弾圧され、ドイツを追われた教授陣はアメリカに渡る。その一人モホリ・ナジは、1937年シカゴにニューバウハウス(アメリカンスクール・オブ・デザイン)を設立。1939年シカゴ・デザイン学校に改名し、1949年にイリノイ工科大学に併合。ナジの弟子ギオルギー・ケペッシュは、マサチューセッツ工科大学に招聘され、メデイアラボの前身、高等視覚研究所を設立。こうして、IITとMITが世界の工業デザイン、建築デザインの最先端をいく教育機関として君臨することになったという。ケペッシュは、視覚伝達の重要性を説き、科学と芸術の共生による視覚言語の研究を行ったという。その意志を継ぐMITメディアラボは、マルチメディアの基礎研究を行い、マンマシンインターフェースの概念を生み出すことになる。

3. 黄金比と造形美の原理
「形体は機能に従う(Form follows function)」という機能主義、あるいは実用主義は古くからある。技術業界には "Keep it simple, stupid!" という思想があり、技術屋は不必要な複雑性を嫌う。単純化思想はあらゆる構成的なものに用いられ、美の基本理念とされてきた。古代遺跡にも、ピラミッドや古墳など単純な幾何学的原理が見られる。構成学では、分割やプロポーション、そして、シンメトリー、リズム、バランス、ハーモニー、コンポジションなどの美的原理を理解することが重要だという。そして、造形の中でも、最も重要な原理は分割とプロポーションだとしている。
黄金比は、パルテノン神殿からルネサンス美術など基本尺度とされてきた。
尚、黄金比とは、a : b = b : (a + b) の関係、具体的には、1 : (1 + √5) / 2 となる。
1 : 1 のシンメトリーな関係は安定して動きのない状態をイメージさせ、むしろ威圧的な印象を与える。宗教的な儀式や祭壇の境界の配置などは、すべてシンメトリーであり、これが調和の原点とされてきた。だが、物体の本質は静止よりも運動にあり、動きや変化には黄金比の方が視覚的に心地良いとされる。静止とは相対的に定義できる状態であり、人類は絶対静止なるものをいまだ知らない。古代ギリシア文明は、ユークリッド幾何学をはじめ、黄金比、シンメトリー、ルート矩形など、数理性の研究に優れた功績を残した。ミロのビーナスでは、当時の理想的な女体像を見ることができる。黄金比やルート比は日常にも見られるという。クリスマスカード、手紙や色紙の縦横サイズ、文字のレイアウト、生け花の按配、インテリアやファッションなど。ルート比では、1 : √2 の関係がよく用いられるという。
では、黄金比はなぜ美しく見えるのか?等差数列や等比数列のパターンも悪くないが、グラデーションを実現するパターンにフィボナッチ数列がある。それは、前項と次項を足したものが、その次の項となるような数列で、最初は荒っぽいが徐々に黄金比に近づいていく。おいらは擬似乱数を作る時や、ちょっとした気まぐれなパターンデータを作るのに重宝している。20世紀、生物学者ダーシー・トムソンらが、巻貝の螺旋形、ひまわりの種、サボテンの刺など、動植物の美しく見える配列がフィボナッチ数列になっていることを発見したという。黄金比をもつ相似性には、自然美に通ずるものがあるらしい。人間も自然界の生物だから、そこに美を感じても不思議はないか。ハナミズキの木は、120度ごとに同じ葉が出ていて、3分の1の自己同型になっているという。ホトギスの葉も、中心軸から左右に出て180度ごとに同じ形が現れ、2分の1の自己同型になっているという。
一方、日本文化では、1 : 1, 1 : 2, 1 : 3 といった単純な整数比が美の原理とされる。畳や建築基準も 1 : 2 で構成される。千利休は茶の道を「数奇道」とした。その意味では、日本の伝統美は静止の美と言えるのかもしれない。
ところで、古今東西、美人のプロポーションの探求は止むことがない。プロポーションにも数理的な原理がある。その証拠に、男性諸君は八頭身美人に弱い。これが整数比である意味は、女性は静的で物静かな性格が好まれるということか?ちなみに、昨夜は静かで知的なボディラインを求めて、夜の社交場へ繰り出したはずが...

2012-10-07

"茶の本" 岡倉覚三 著

岡倉天心こと本名岡倉覚三。著書「茶の本」は新渡戸稲造の「武士道」や内村鑑三の「代表的日本人」と並んで、日本人が英語で書いて日本の文化と思想を欧米に紹介した作品として知られる。尚、本書は村岡博による翻訳版。いずれも別の日本人によって翻訳されるという風変わりな経緯がある。自ら英文で記したのは、西洋人の翻訳では真意が伝わらないと考えたからであろうか?欧米で評価され逆輸入される形は現在でも見かけるが、ある種の西洋コンプレックスの顕れであろう。時代は19世紀、欧米では西洋中心主義全盛の時代。天心は東洋文化に対する偏見への悔しさを滲ませる。
「インドの心霊性を無知といい、シナの謹直を愚鈍といい、日本の愛国心をば宿命論の結果といってあざけられていた。はなはだしきは、われわれは神経組織が無感覚なるため、傷や痛みに対して感じが薄いとまで言われていた。西洋の諸君、われわれを種にどんなことでも言ってお楽しみなさい。アジアは返礼いたします。」

これは茶の本ではない。天心が茶道にどこまで精通していたかは知らん。ただ、茶を通じて人生を語り、老荘と禅那を説き、さらに芸術観賞に至るのには感服せざるを得ない。そう、これは茶の哲学である。
「茶道は、美を見ださんがために美を隠す術であり、現わすことをはばかるようなものをほのめかす術である。」
茶道と言えば、堅苦しい礼儀作法や儀式を重んじる印象を与えるが、それだけではない。厳正でありながら、風雅な気質から喜怒哀楽や滑稽を重ね、侘び、寂びを交える世界である。天心は、茶室の建築様式、あるいは茶器などの美術品や華道といった多彩な詩趣との調和の中で、悟りを開こうとする。そして、茶室を「好き屋」、「空き家」、「数寄屋」や「すきや」などと言い換えて、語呂と戯れるかのようにその意義を語る。茶碗は人間享楽を煎じるところ、茶の湯は享楽の涙にあふれ、飲み干せばすぐに乾く、と言わんばかりに。なによりも、惚れ惚れするようなフレーズの数々に、言葉の力とやらを見せつけやがる。

真の美はただ不完全を心の中に完成する人によってのみ見ださせる。...
心は心と語る。無言のものに耳を傾け、見えないものを凝視する。...
われわれは万有の中に自分の姿を見るに過ぎないのである。...

相対的感覚から絶対美なるものを見出し、空虚から実体を語り、不均衡から均衡を導き、そして人間の不完全性から自然美の完全性を求める。これが天心哲学の極意というものか。
「傑作というものはわれわれの心琴にかなでる一種の交響楽である。」
茶が芸術であるならば、絵画のように傑作も駄作もあるはず。その奥底には、自己に向かって微笑むような気高い奥義が秘められている。だからこそ、「茶気」という言葉は「茶目っ気」という俗語で受け継がれ、「茶化す」という余裕を与えるような言葉が生まれるのであろう。これこそが精神の奥行きであり、寛容さであり、人生に美と和楽を授けてくれる。
...などと褒めちぎれば、目の前の茶碗だって照れくさそうにしてやがる。もちろん今宵は、純米酒「天心」をやっている。茶碗に注いで。ちなみに、製造元溝上酒造は地元コース、河内貯水池へ向かう途上にある。

1. 茶道
「宋の詩人李仲光(りちゅうこう)は、世に最も悲しむべきことが三つあると嘆じた、すなわち誤れる教育のために立派な青年をそこなうもの、鑑賞の俗悪なために名画の価値を減ずるもの、手ぎわの悪いために立派なお茶を全く浪費するものこれである。」
茶が粗野な状態から理想の域に達するには、唐朝の時代精神を要したという。8世紀頃、仏教、道教、儒教が混在する時代、茶道の鼻祖とされる唐の陸羽(りくう)が「茶経」を書した。ここに、茶の湯に万有を支配するものと同一の調和と秩序が現れ、高雅な遊びの一つとして詩歌の域に達したという。15世紀、将軍足利義政が茶の湯を奨励し、禅の儀式にまで高められた。茶道は、神聖で背後に微妙な哲理が潜み、道教の仮りの姿であったという。
茶道の奥義は、「不完全なもの」を崇拝することにあるという。人生という不可解なものに照らしあわせる道とでも言おうか。単なる審美主義ではなく、倫理、宗教と合わせて、天人に関するすべての見解を表すもの。そして、清潔を厳しく説く衛生学、複雑な贅沢ではなく純粋な慰安を教える経済学、宇宙に対する比例感を定義する精神幾何学となり、東洋民主主義の真精神を表しているという。

2. 道教と禅道
茶の湯は禅の儀式の発達した形態であり、道教は審美的な理想の基礎を与え、禅はこれを実践的なものにしたという。
まず、道教に目を向けてみよう。
老子曰く、「物有り混成し、天地に先だって生ず。寂(せき)たり寥(りょう)たり。独立して改めず。周行して殆(あやう)からず。もって天下の母となすべし。吾れ其の名を知らず。これを字(あざな)して道という。強いてこれが名をなして大という。大を逝(せい)といい、逝を遠といい、遠を反という。」
天地より先に、カオス(混沌)が生じた。静かで無形で何事にも依存せず、あらゆるところを動き回る。これを母となすべきだが、名も知らない。とりあえず「道」とし、あえて「大」とで呼ぶか。大なるがゆえに果てしなく広がり、果てしなく遠く、はるか遠くに達して戻る。果てしなく先に何かを悟る。これが「道」というものか。まるでヘシオドスの「神統記」を思わせる一節だ。
一定や不変は、成長停止を表す言葉に過ぎないという。
屈原(くつげん)曰く、「聖人はよく世とともに推移す。」
「道」は経路を意味し、宇宙変遷の精神、すなわち新しい形を生み出そうとする永遠の成長というわけか。道教では、絶対的な宇宙観念は相対的だという。倫理学において、道教徒は法律道徳を罵倒したとか。彼らにとって、正邪善悪は単なる相対的な言葉でしかなく、定義は制限になるからである。無限宇宙に矛盾するというわけか。
「社会の慣習を守るためには、その国に対して個人を絶えず犠牲にすることを免れぬ。教育はその大迷想を続けんがために一種の無知を奨励する。人は真に徳行ある人たることを教えられずして行儀正しくせよと教えられる。われらは恐ろしく自己意識が強いから不道徳を行なう。おのれ自身が悪いと知っているから人を決して許さない。他人に真実を語ることを恐れているから良心をはぐくみ、おのれに真実を語るを恐れてうぬぼれを避難所にする。」
道教の考えでは、物事の釣り合いを保って己の地歩を失わず、他人に譲りながら、個人を考えるために全体を考えることを忘れてはならないという。これが、精神の相対性原理というものか。己を虚にし、他人を自由に受け入れれば、すべての立場で自由に行動できるのだろうか?全体は部分を支配できるのだろうか?生の術を極めるとは、虚の美徳を極めるということであろうか。
次に、禅に目を向けてみよう。
禅は、禅那からとった名で、その意味は静慮であるという。精進静慮によって、自性了解の極致に達することができると教える。静慮は、悟道に入ることのできる六波羅蜜の一つで、釈迦牟尼はその後年の教えで特に力説したとされるそうな。禅道もまた相対を崇拝し、真理は反対なものを会得することによってのみ達せられると考えるらしい。悪を知らずして、善を知ることができない。だからといって、悪行を実践するということにはならない。人には、追体験能力や先験的能力というものがある。
また、禅道は、個性主義を強く唱えているという。全体の調和における個精神の美徳である。精神の働きに関係しない一切のものは実存ではないとするあたりは、アリストテレスのモナド的な思考を感じさせる。禅は、しばしば正統の仏道の教えと相反したという。道教が儒教と相反したように。先験的洞察においては、言語はただ思想の妨害になるという。精神の抽象化は、言葉では限界があるということであろう。経験的思考が真理の妨げになると言っているのだろうか?なんとなくカントのア・プリオリな概念にも通ずる。禅の主張によれば、事物の相対性から大小の区別がなく、一原子の中にも大宇宙がある可能性があるとなる。ただ、相対性は単なる人間認識の産物だとすれば、無意識無想こそが真理ということになりはしないか。

3. 花道(華道)
花道が生まれたのは、15世紀頃で、茶道とほぼ同時期だという。始めて花を生けたのは仏教徒だったとか。千利休と同じ頃、織田有楽、古田織部、光悦、小堀遠州、片桐石州らが、競って新たな配合を作る。
だが、生花は、茶室にある他の美術品と同様、装飾の全配合の従属的なものであったという。花の宗匠が現れ、花を花だけのために崇拝するようなことが起こったのは、17世紀中旬。形式派と写実派の二大流派が生じる。池の坊を家元とする形式派は、絵画の狩野派に相当する古典的理想主義を狙っていたという。一方、写実派は、自然をモデルに、ただ美的調和を表現する助けとなるような修正を加えただけとか。
しかしながら、花の宗匠の生花よりも、茶人の生花の方が、ひそかに同情を持つと言っている。茶人の花は、適当に生ける芸術であって、人生と真に密接な関係を持っているから、心に訴えるものがあるという。そこで、形式派や写実派に対して、茶人の花こそ自然派と呼んでいる。
「どうして花はかくも美しく生まれて、しかもかくまで薄命なのだろう。虫でも刺すことができる。最も温順な動物でも追いつめられると戦うものである。...花は皆、破壊者に会ってはどうすることもできない。彼らが断末魔の苦しみに叫んだとても、その声はわれらの無情の耳へは決して達しない。」
人々は、花に癒されながら、花の叫びが聞こえない。なんと不条理な。真の愛とは、見返りを求めいないということであろうか。

4. 千利休(宗易)
日本で偉い茶人は、みんな禅を修めた人だという。
「宗教においては未来がわれらの背後にある。芸術においては現在が永遠である。」
芸術を真に観賞することは、ただ芸術から生きた力を生み出す者によってのみ可能だという。あらゆる状況において平静を保ち、談話は周囲の調和を決して乱さぬようにする。着物の格好や色彩、身体の均衡や歩行の様子、これすべてが芸術的人格の顕れであり、審美主義の禅だという。日本の有名な庭園は、すべて茶人によって設計されたという。人格と芸術の一体感、総合的な調和、これぞ日本式美徳ということであろうか。ちなみに、ガウディは建築家だけが総合的な芸術家になれるとし、自ら画家、音楽家、彫刻家、家具師、金物製造師、都市計画家となった。
また、自己を律する道を知らない者は、外観は幸福に努めても、絶えず悲惨な状態にあると指摘している。心の安定を心がけたところで、すぐに荒波に呑まれる。利休は、死刑執行の日でもなお、門人を最後の茶会に招いたとされる。その時、笑を浮かべて残した言葉がこれ。
「人生七十 力囲希咄 吾が這(こ)の宝剣 祖仏(そぶつ)共に殺す」
「力囲希咄」を利休がなんと読んだかは分からないが、「りきいきとつ」という読みは「茶話指月集」にならっているという。その意味も、茶人の間で問題になっていて諸説があるらしい。今泉雄作氏の説では、禅の喝のような一種の間投詞で、「ええんじゃないの」という意味があるんだとか。死に向かう覚悟か?あるいは気合のようなものであろうか?

2012-09-30

"饗宴" プラトン 著

お馴染みのソクラテスが登場する対話篇の一つだが、ここでは、ちと違った趣向(酒肴)が凝らされる。それは、多重間接談話という形式に、およそ哲学とは思えない筋書きである。又聞きの又聞きという語り話の中で、酒盛りには欠かせない酔っ払いが乱入し、対してソクラテスは飲んでも飲んでもけして酔わないという構図。しかも、この物語には、愛を題材にした「無知の知」の奥義が秘められる。その酔っ払いの能書きがこれ!
「理知の視力は、肉眼の視力がその減退期に入ると、ようやくその鋭さを増し始めるものだ」
知への愛求こそが、盲目から解放される唯一の方法というわけか。これを開眼というかは知らん。それにしても、知識とは奇妙なものよ。知れば知るほど分からなくなるのだから。それどころか、自分の無能ぶりを簡単に暴き、疎ましくもある。
さて、「酔っ払い + 愛」とくれば、夜の社交場の図式である。知的なボディラインを求めて繰り出すとしよう。そして、「酒にけして酔わない。君に酔っているだけさ!」という口癖を持つ酔っ払いの噂話を又聞きするのであった。

原題「シュンポシオン」とは、「共に飲む」ぐらいの意味だそうな。シンポジウムの語源でもある。なるほど、有識者どもの討論会が、千鳥足で迷走するのも道理というものか...
悲劇詩人アガトンの祝宴に招かれた識者たちは、ワインの盃を重ねながら、右廻りにエロス(愛)の讃美を語っていく。そして真打登場、ソクラテスは最高愛について語り始める。しかも、巫女ディオティマに聞いた愛の説を報告するという形で。ソクラテス自身は、無知を自覚する者というわけだ。
いつもの対話篇ならば、ここで終わるのだろうが、更に酔っ払いが乱入する。酒宴に招かれていないアルキビアデスは既に泥酔状態。このソクラテス敬愛者は、どうせ自分を愛してくれない!と絡み、ソクラテスの右に座る。すると、次はアルキビアデスが語る番。彼はソクラテスを妬みながらも、この人物を讃美する演説を始めた。プラトンは、ソクラテスを最高愛の具現者として、第三者に語らせている。酒はしばしば本音を吐く道具とされるが、この酔っ払いに正直者という役割を与えている。
おまけに、全体構成がややこしい!酒宴の様子をアポロドロスが、酒宴に列席したアリストデモスから話を聞き、ある友人に語るという設定。アポロドロスとアリストデモスもソクラテス敬愛者。敬愛者が、列席した敬愛者から、敬愛者が語った演説のことを聴き、それを友人に語って聴かせる。おそらく、この友人もソクラテス敬愛者であろう。ソクラテスが何を語ったかを教えてくれと熱心に頼んでいるのだから。まるで敬愛者たちの伝言ゲーム!つまり、二重、三重...の間接談話という構成。話がだんだん大きくなって、やがて無条件の信仰に達する。崇拝とはそういうものかもしれん。
ちなみに、アポロドロスは、ソクラテスの臨終に際し、弟子の中で最も烈しく泣き、弱気男と渾名されたそうな。尚、「ビブリオテーケー(ギリシャ神話)」の編纂者と時代が違うので別人。プラトンは、この激情家をもってソクラテスの愛を語らせていることになる。
遠近法というものは、事実関係を浄化させ、平凡なことも意義あるものに見せるところがある。人物を讃美するにしても、第三者に語らせる方が説得力を持つ。こうも構成がややこしいと、凝り過ぎに感じそうなものだが、不思議とそうでもない。むしろ複雑な間接談話が、崇高な文学作品に仕上げている。他の登場人物にしても、悲劇詩人や喜劇詩人、あるいはソフィストや医者といった当時の識者たちの風潮をよく表している。プラトン文学の中でも、技巧の結集された白眉ものか。

ところで、エロス(愛)をテーマにしているのはなぜか?ソクラテスといえば最高善を説く者、その背後に徳なるものの存在がちらつく。
まず、当時の社会的風潮を五人の識者の演説によって明らかにされる。古代ギリシアには、ヘシオドスやホメロスの宇宙観に立脚した倫理的なエロス観があったようだ。ヘシオドス著「神統記」は、カオス(混沌)から永久に揺るがないガイヤ(大地)とエロスが生じたとした。つまり、エロスは最古に属する神で、両親というものがない。最も勇敢とされる軍神アレスですらエロスの虜になれば、最勇敢者はエロスということになりそうなもの。これほど原型的で偉大な神なのに、有識者や教育者たちはエロスを教えることを避ける。確かに、エロスには赤面する行為をともなうし、性教育はタブー化されやすい。ただ、愛という情念は美しさから発する性質がある。なぜか?あらゆる知覚の中で美だけが特権を得ている。自然美、芸術美、数学の美、宇宙法則の美といったものが崇高とされる。一方で、美女に憑かれた途端に小悪魔の虜となり、美体(びたい)はたちまち媚態(びたい)へと変貌する。これほど、善悪の双方において人間精神に取り憑く情念も珍しい。人間どもが神々に直接触れるなど恐れ多いことだが、エロス神だけは向こうから近づいてくる。半神のごとく人間と神の間を行き来しながら、神々との仲介役を進んで演じてやがる。俗人の愛といえば、およそ家族愛、友人愛、隣人愛、恋愛といったものであろうか。こうした愛は個人の価値観で解釈され、愛情劇が愛憎劇となるのに大して手間はかからない。
そこで、プラトンはこの厄介な愛に対して最高愛の存在を唱える。天上の愛と万人向けの愛を区別し、肉体美から精神美へ、更にフィロソフィア(智慧の愛)にまで精神を高めよと。智慧の愛求をもって、霊魂浄化できるということらしい。そして、美のイデアは、愛のイデア、善のイデアへと昇華し、原型的な存在を直観できる境地に達するとでも言うのか?理論上の知識が実践上の知識とならなければ、不完全たるを免れない。よって、哲学は、生きる術(すべ)、すなわち生き方となるはず。しかし、これが至難の業!
ソクラテスは、最後の一人が酔い潰れるまで会話に付き合い、ただ一人乱れることなく立ち去る。なるほど、霊魂浄化された者とは、浴びるほどのアルコール濃度にも耐えうる肉体と精神を併せ持つというわけか。

1. 五人の演説
最初の演説者は、ファイドロス。プラトン著「パイドロス」では、高名な弁術家リュシアスの心服者として登場し、リュシアスの愛に関する演説に傾倒したとされる。エロスとは、最大福祉の源泉、全生涯の指針となるべきものと主張する。
二番目の演説者は、パゥサニヤス。プラトン著「プロタゴラス」では、アガトンの愛者とされるが、ここではソフィストの代表のような存在であろうか。愛の女神は二種類あると主張する。一つは天上の子、ウラノスの娘。二つは万人向けのもの、ゼウスとディオネの娘。天上の愛とは、精神的なもの、万人向けの愛とは、衝動的で肉欲的なもの。愛は、正しく行われた場合には美しく、正しからぬ場合には醜くなり奴隷根性を生じさせる。有徳の意に従うのは美しく、放縦に従うのは恥ずべきこととしている。
三番目の演説者は、医者エリュクシマコス。医術の面から説き起こす。
「医術とは、約言すれば、充足と排泄とに関して体内に起る愛的現象(エローティカ)の知識である」
飲食は健康のために善とも悪ともなりうる。実際、人体は善いものを吸収し、悪いものを排泄する。しかし、そうとも言い切れない。消化能力を超えて栄養を摂取すれば、脂肪が増え、悪玉コレステロールが蓄積される。となれば、精神の消化できない領域で知識を詰め込めば、悪知恵になるかもしれない。
四番目の演説者は、ギリシャ最大の喜劇詩人アリストファネス。ギリシャ神話から性の原始的本性に立ち返る。もともと人間の性には三つあったという。男性と女性、そして両性の結合。男性は太陽から、女性は地球から、両性は月から形状を成したという。だが、三つ目の性は罵詈の言葉として残される。ギリシャ語では太陽は男性を表し、月はオルフィック教的に、男女両性という考えがあるそうな。男と女が出会わなければ子孫も残せない。両輪が揃って完全を成すとなれば、人間は割符に過ぎないという。エロス神だけが、男女を合体させ、原型に戻そうとするわけか。失われた半身を求めるのは、もはや本能!これには逆らえまい。しかし、どんなに愛しあって合体しようとも、心が一つになることはけしてない。けしてだ!プラトンよ!この矛盾をどう説明するのか?
五番目の演説者は、悲劇詩人アガトン。伝統的神話に立ち返るが、ファイドロスの捕捉的な位置づけか。

2. ソクラテスの演説
人は、何かを所有していれば、それを求めたりはしないだろう。したがって、愛を獲得した者は、愛を求めたりしないはず。しかし、金持ちがさらに金持ちになりたいと欲求し、健康な人がさらに健康を欲求するのはなぜか?既に所有しているからといって、それを失わないとは限らない。結局、人間は永遠に所有したいと願うのではないか。そして、究極の永遠が、不死ということになろうか。子孫を残そうと願うのも、肉体の不死を継続したいがためかもしれない。
さて、ソクラテスには魂の不死という基本思想がある。そして、婦人ディオティマに愛について質問した時の話を始める。それによると、エロスは知恵と無知の中間にある神だという。善でもなければ、美でもないことを自認した神。正しき意見を抱いて、その根拠を示すことができないのは、知識でも無知でもないという。エロスは善悪の中間にあるらしい。
知恵のある者は、知恵を求めようとはしないだろう。また、無知者も知恵の存在を知らなければ、それを求めることはない。無知者が甚だ厄介なのは、この点にあるという。ただ、無知を知るとなれば話は変わってくる。知恵に欠乏を感じることができれば、愛智者になれるかもしれない。
では、愛は人間にどういう利益をもたらすのか?エロスは美を求める。ここで美の代わりに善をおくとしよう。善から何が得られるのか?と問えば、それは幸福であるという。幸福者が幸せでいられるのは、善きものを所有するからであると。
では、愛は万人にとって共通のものか?万人が共通なものを永遠に愛求するならば、どうして特定の人を愛し、他の人を愛していないなどと言うのか?人々は、愛の中から特定の種類のものだけを取り出し、総括的な名前を付けて、愛と呼んでいるに過ぎないという。愛という言葉は、なんとなく心を癒してくれる。しかし、愛の正体を知る者はおらず、個人が都合よく解釈しているに過ぎない。エロス的欲情によって、創造欲や独占欲を掻き立て、仕事の活力となるのも事実。英雄色を好む!とは、そういうことであろう。何人をも愛せよ!と唱える聖職者が誰とでも愛を育むとなれば、自ら生殖者へ変貌する。
しかしながら、最高善とは、最高美を観ることだとしている。美しき肉体から美しき活動へ導かれ、美しき学問へと進み、美そのものの学問にほかならぬ学問へ到達し、美の本質を認識するに至ると。美の本質を観るに至ってこそ、生き甲斐なるものが観えてくると。地上にも天上にもないものが、直観においてのみ存在を認識できると...

2012-09-23

"プロタゴラス ソフィストたち" プラトン 著

当代随一のソフィストと謳われるプロタゴラスにソクラテスが弁論で挑むという、プラトンの対話篇の一つ。この物語がソフィストへの批判書であることは、想像に易い。だが、プロタゴラス自体には一般のソフィストたちよりも圧倒的に高い格付けをし、敬意を払っている。それは、議論の終結を互いの讃辞で締めくくるところに表れる。しかも、再会を約束するという親愛ぶり。名士を持ち上げながら世情を風刺するという、お馴染みの構成か。
いや、一味違う!自己主張にとらわれず、ひたすら論理性を追求した挙句、両者とも自己矛盾に陥る。これが哲学論議の醍醐味というものか。なるほど、精神の学問はメタ学問というわけか。そりゃ、メタメタにもなろうよ。

プロタゴラスは、アプデラの生まれで、言論にかけての第一人者とされる人物。その有名な言葉がこれ。
「人間は万物の尺度である。あるものについてはあるということの、あらぬものについてはあらぬということの」
この言葉の解釈は様々であろうが、とりあえず...
宇宙にどんなに美しい真理が存在しようとも、人間の認識能力を超えた領域でそれを知ることはできない。そぅ、世界は普遍的な真理よりも認識によって構築されている。しかも、質ちが悪いことに、認識能力は個々に多様である。
...とでもしておこうか。
対して、ソクラテスの教義に「人間が悪を為すのは無知にほかならない」というのがある。知の探求によって認識能力を養い、精神が高みに登るという考え方では、両者は似ている。精神が高みに登るとは、徳や善を知るということであり、国家社会の一員として持つべき徳性を会得すること。この思想が、古代ギリシア哲学の根幹にある。
そこで、プラトンは問題を提起する。徳は教えられうるものか?徳が知識であるなら、教えられるはずだと。親が徳の持ち主であれば、子供も必然的に教育によって徳の持ち主になるだろう。だが、現実にそんな事例はごく希だ。その子が犯罪をする事例は簡単に見つかるけど。議題そのものは「メノン」と同じ。だが、興味深いのは両者とも自己批判をしているかのように映る物語性である。しかも、議論の盛り上がりに、大物ソフィストたちがついてこれない滑稽さを見せる。
まず、徳には、正義、節制、勇気、敬虔、知恵という5つの要素があるという前提が構築される。ただ、これらの要素は部分として分離できる性質なのか、総合として分離できない性質なのか、はっきりしない。徳性を成立させるために、プロタゴラスが戒律や分別から迫るのに対して、ソクラテスは技術と知識で凌駕しようとする。そして、両者は、知恵が最も重要であると位置づけ、他のすべての要素に知恵が介在することで合意する。確かに、すべての要素において正しい知識がなければ実践もできないだろう。
しかし、だ!ソクラテスは、徳は教えられないものと主張していたくせに、徳の最も重要な要素は知であるとことを自ら提起しながら、いつのまにか徳は教えられるものということを証明しようと必死になっている。プロタゴラスもまた、徳を教えられるものと主張していたくせに、反論しているうちに徳は知識以外のものであることを証明しようと躍起になっている。ついに、ソクラテスは、もしかしたら徳は教えられるかもしれない?ぐらいの感覚になり、プロタゴラスも、もしかしたら徳は教えられないかもしれない?ぐらいの感覚になる。そぅ、両者は自己矛盾という共通観念において共感するのであった。なんというオチか。哲学とは、精神とは、自己矛盾との、自我との、葛藤というわけか。なるほど、人生とは、自ら墓穴を掘ることであったか。

1. ソフィストたち
プロタゴラスは、国から国へと渡る途中、弁論で魅惑し、知識人を誘い連れまわっている。大勢の聴講者を募って、賢人ぶりを武装しようという魂胆か?現代でも、有識者や有徳者どもが多数派工作で持論を武装しようとする姿をよく見かける。おまけに、討論会では声の大きい者、自信満々に語る者が勝利する。もはや言論力は、論理性の戦いではなく心理戦と化す。なるほど、人間ってやつは多数決に弱いものらしい。寂しがり屋め!これが衆愚政治の正体かは知らん。
さて、偉大なソフィストがアテナイへやって来た大ニュースが伝わると、青年ヒッポクラテスは興奮してソクラテスの所へ駆け込んだ。この青年は、国家の要人になりたいという野心を持ち、プロタゴラスに弟子入りしたいと考えている。
ソクラテスは青年に問う。金銭を払ってまで、精神の教師がいったい何を教えてくれるというのか?画家は絵画の技術を教え、音楽家は音楽の技術を教え、医者は医術を教える。対して、言論に秀でた者は言論術を教える。学識とは、民衆を扇動する技術を会得することなのか?識者の側にいることで、優れた人物になれると信じこませる術を。
「君には、自分がいま、魂をどのような危険にさらそうとしているかがわかっているのかね?」
そういう術を使う人ほど、よくよく気をつけなければならないと指摘する。それによって招く妬み、そして、敵意や陰謀などは、けして小さなものではないことを。ソフィストとは、「魂の糧食となるものを商品として卸売りしたり、小売りしたりする者」と定義している。ただ、魂の糧食が有益なものか?有害なものか?あえて明らかにしない。その煮え切らない様に皮肉が満ちている。やはり、真理はモザイク画と相性がいい。

2. 人に何が教えられるというのか?
国家社会のための技術とは、国家社会の一員として優れた人物をつくることだという。いつの時代も政治塾は盛況のようだが、何を教えているのだろうか?チルドレン選挙戦略の一環か?人間社会では、何かと専門家に頼ろうとする傾向がある。専門知識に敬意を払うのは自然であろう。ただ、自ら思考することまで放棄してしまうのでは、意味が違う。知識は教えてもらうものという意識が強いのは、暗記教育の弊害であろうか?何々学校や資格教材が繁盛するのも、教官や教材が自動的に与えられる便利さがある。そう言うアル中ハイマーも、かつて英会話学校へ通っていたし、よくセミナーに参加したりする。人間ってやつは面倒臭がり屋なのだろう。
しかし、自分に適した教材を探すのも学ぶ過程の一つであり、独学の面白さには敵わないだろう。学ぼうとする意欲満々の人が学ぶ時間を省略するとは、これいかに?読書家が速読法に惹かれるのにも似たり。愛する人と一緒にいると、時間よ止まれ!などと願うくせに、愛する対象が本となると、わざわざ読書の時間を省こうとする。ちなみに、夜の社交場では速愛法なるものを実践する者がいると聞く。
また、教育そのものを崇めるのも危険であろう。一般的に、犯罪を防止する方法は教育にあると考えがちである。ほとんどの意識向上キャンペーンは、そういう考えからくる。地球温暖化、エイズ予防、酔っ払い運転など。おまけに、有徳者どもは、人々に徳性がなければ社会は成り立たないと主張する。教育によってすべてが解決できるならば、常識者がダイエットや禁煙に失敗することもないはず。教育者が道徳を破壊し、政治家が法律を無力化し、経済学者が経済危機を煽り、友愛者が愛を安っぽくしやがる。人間が持つ人間性ってやつは脆いものよ。あらゆる規範を人間性に頼るのは軽率であろう。善悪の知識を持っていたとしても、必ず悪を避け善を行うかは疑わしい。悪にも惹かれるものがある。暴力映画や戦争映画のあの盛況ぶり、あるいは異性的な魅力がちょいワルを演じたりする。悪にも程度を計りながら節制の原理が働く。
善悪を知っても、その程度が個人に委ねられるとすれば、教育に絶望する。なんとか救済できないものか?そこで、哲学は、都合よく最高善という概念を生み出した。最高善とは、幸福のことである。だが、幸せもまた個人の多様な価値観に委ねられる。人間ってやつは、わがままにできているものらしい。では、教育とはいったい何を教えるものなのか?人にいったい何が教えられるというのか?ひたすら思考を高めよ!と言うことぐらいしかできないのかもしれん。精進しろ!と助言することぐらいしか。

3. 討論会と中庸の原理
「言論の場に立ち向かう者は、対話を行う両者に対して、公平な聞き手でなければならないけれども、平等な聞き手であってはならないのだ」
公平に耳を傾けても人の尺度はそれぞれ。となると、個々の判断でより多くの価値を認めるべきということになろうか。討論は口論とも違う。討論は好意を持つ者同士で行うが、口論は敵対同士で行う。ほとんどの政治討論会が醜態を曝け出すのは、後者だからであろう。目的論と方法論で意見を戦わせれば、議論は迷走するしかあるまい。良策を編み出すという目的よりも、選挙戦の前哨戦が目的となれば、相手の意見を否定することが前提とされる。国会のオヤジどもを真似て、生徒会や児童会でヤジり合ったり、メールをしたりと困ったものよ。もはや政治討論は、R-18指定にするがよかろう。なるほど、討論会が深夜に放送されるのは、青少年への配慮か。
討論中に、優れた見解が聞ければ、幸せになれるに違いない。しかし、意見が合わないことを、心地よいもの、快いもの、そういう境地にするのは難しい。だいたい、どちらかがこれ以上やると揉めるからと、主張を取り下げるか、やめるかであろう。本物語で展開される討論会は、一つの理想像を提示している。目的が共通意識としてはっきりしていれば、こういう議論も成り立つのかもしれない。両者が興奮気味になる場面もあるけど、それはそれで人間味があっていい。
「言論の手綱を解きゆるめて、言論がもっと堂々と優雅な姿をわれわれにあらわすことができるようにしたまえ。またプロタゴラスのほうも、帆綱をすっかり伸ばしきって順風に満帆をゆだね、言論の海原遠くのがれて陸地を見失うことなかれ。ねがわくは両人ともに、中庸の道を進まれんことを。」

2012-09-16

"パイドロス" プラトン 著

プラトンは、膨大な著作を対話篇という形式で残した。実在する人物を登場させ、その人物を持ち上げながら世情を皮肉る。しかも、師ソクラテスが記述を残さなかったことをいいことに、この賢者に代弁させやがる。なるほど、哲学とは、人物をスパイシーに評し、酒の肴にする技であったか。
本書は、愛の語りを交えながら言論の技術に迫り、哲学の根源的な魅力を語ってくれる。そして、哲学者を愛知者、すなわち「知を愛し求める者」と定義している。今もなお、プラトンの言葉が力を持ち続けるのは、魂が不死であるという証しであろうか?あるいは、記憶媒体の存在が前提されるだけのことであろうか?いずれにせよ、近代社会においてさえ、巧妙な弁論法や修辞法がもてはやされることに変わりはない。

プラトンの基本的な思考は、形相(エイドス)から出発している。アリストテレスにも同じことが言えるが、形相に対する解釈が、ちと違う。プラトンは、あらゆる形相には万物の根源であるイデアなるものが存在すると考え、人間精神が本能的に善を欲するのも、善のイデアがあるからだとする。精神の鍛錬をすれば、その先天的な知識も想起できるというわけだ。対して、アリストテレスは、あらゆる形相を魂と分離できない形而上学的な存在と考え、精神は後天的で経験的なものとする。両者をカント風に言えば、純粋理性と実践理性の対立といったところであろうか。こうして見ると、この世のあらゆる論争は、プラトンとアリストテレスの哲学的論争に帰着するような気がする。宇宙論の歴史とは、プラトン対アリストテレスの代理戦争を繰り返してきただけのことか?もっと言うならば、二人の言行が記録として残されるだけのことであって、彼らもまた誰かの代理戦争をしていたのかもしれん。精神ってやつは、数千年前から、いや数億年前から、ほどんど進化していないのかもしれん。

「人間がものを知る働きは、人呼んで形相(エイドス)というものに即して行われなければならない、すなわち、雑多な感覚から出発して、純粋思考の働きによって総括された単一なるものへと進み行くことによって、行われなければならない」
ここでは、形あるもの、色あるもの、重さあるもの、こうした特徴は「固体にまつわる属性」とし、美しきもの、智なるもの、善なるもの、こうした特徴は「神にまつわる属性」として区別している。前者は視覚や嗅覚などの五感から生じ、人間の認識はまずここから始まる。そして、後者によって認識を補正しながら、精神の高みに登るといったところであろうか。ちなみに、後者を第六感と言うかは知らん。ここで言う神とは、宗教的な存在ではなく、宇宙論的な存在と言うべきであろう。それは、プラトン思想の根底に、天文学と幾何学に基づいた自然法則の崇拝があるからである。
ところで、愛とか恋とかいうやつは、どちらの属性に分類されるのだろうか?本書は、神にまつわる属性としている。しかし、原始的な情念には美に惹かれる心がある。あらゆる知覚の中で、美だけが特権を得ているのはなぜか?自然の美、芸術の美、数学の美などが崇高とされる一方で、美女や小悪魔に憑かれた途端に、美体(びたい)はたちまち媚態(びたい)へと変貌する。認識能力が美という視覚から発する(ハッスル)のであれば、一度は美女と恋に落ちなければなるまい。快楽が想起の前兆ならば、ハッスル系の店も体験せねばなるまい。肉体への愛は、固体への愛に他ならないとしてもだ。そして、固体も崇拝するに価すると悟れるかもしれないではないか。知性や徳性といった得体の知れないものを愛するより、女体という確実な個体を愛したい。そして、愛を金で買う!これが最も有意義な金の使い方というわけさ。
...男性諸君の影の代弁者より。

1. 恋(エロース)について
紀元前5世紀頃、リュシアスという高名な弁術家がいたそうな。パイドロスは、リュシアスに心服する者として登場する。リュシアスは、こう述べたという。
「自分を恋している者よりも恋していない者にこそむしろ身をまかせるべきである」
この論旨をめぐって、ソクラテスとパイドロスの対話が始まる。よく、恋は盲目にさせると言われる。恋する者が意見すれば、どうしても贔屓目で見てしまう。となれば、恋の虜になっていない者の意見に耳を傾ける方が有益だという考えは、もっともらしい。
しかし、ちょっと待て!ソクラテスは、恋とはなんぞや?と問う。恋とは、人を勇気づけるものなのか?臆病にさせるものなのか?とんと分からん。恋こがれる者が、命の危険を顧みず犠牲心を発揮するかと思えば、いざ会話をする段になると、はにかんで見せる。恋には打算がある。けして自分自身をなおざりにすることを許さない。愛する者が幸せになるだけでは満足できず、自分が介在できなければ不幸になることすら望む。恋とは、自己愛を膨らませた状態なのか?実際、恋に落ちた人も、自ら正気ではなく、病気であることを認める。
さて、恋とは、一つの欲望であることは明らかであろう。だが、恋をしていない者であっても、美しいものに対して、やはり欲望を持つ。欲望には自己を支配する二つの力があるという。一つは生まれつき具わる快楽への欲望、二つは最善を目指す後天的な分別の心。自己の中で、常にこの二つが互いに相争い、どちらかが勝利する。理性の声によって善へ導かれるならば、それは節制と呼ばれ、盲目的な快楽へと惹かれれば、それは放縦と呼ばれる。快楽の奴隷となった者が、恋の相手を自分にとって快いものに仕立てあげるのは必定。自己が病んでいれば、自分に逆らわないものが快く、自分より優れたものが厭わしくなる。だから、恋する者は相手を劣った存在に仕立てたいという。より無知に、より臆病に、より無能に、より愚鈍に。恋する者は、相手が精神の欠点を持つことに喜びを感じ、必然的に嫉妬深くならざるをえないということか。確かに、賢い相手は疲れるところがある。ソクラテスがいくら賢者であっても、これだけ議論を持ちかけられれば鬱陶しくもなる。できることなら、物静かな愛人を側に置きたい。それが廃人に導かれると分かっていても。なるほど、小悪魔の正体とは、沈黙に癒されたいという願望であったか。
また、自分の恋人には、父母もなく、身内もなく、友もいないことを望むという。交際の邪魔になるからと。そして、、恋の虜になった者は、不実な、怒りっぽい、嫉妬深い、厭わしい人間に、自ら仕立て上げることになるという。
なるほど、恋とは、人を狂気させるものらしい。だが、狂気が悪いと無条件に言えようか?人間の最も偉大なものは、狂気から生まれてきた。芸術にせよ、科学にせよ、天才には神がかった行動が宿る。正気からは凡庸しか生まれない。
では、恋という狂気は、善か?悪か?自己を動かす者のみが自己を見捨てることがないという。狂気が神から授かったものであれば、それは善であると。魂が不死であるなら、精神の活動を止めることはできず、永遠に高みへ登ろうとするのであろう。固体は精神から離脱し、やがて腐敗し死滅していく。快楽の虜も精神を失い、やがて自滅するだろう。恋とは、すでに奴隷根性の染み付いた状態なのかもしれん。自ら恋の奴隷となり、相手に奴隷を演じさせる。そして、互いに演じることに疲れたら破局を迎える。これが所有の原理というものかは知らん。

2. 弁論術について
弁論術は、紀元前5世紀頃シケリア(シシリー)において、テイシアスたち弁論家によって法廷弁論のテクニックという形で始められたとされるそうな。やがて、ソフィストたちの教育と結びつき、法廷論から政治演説にまで応用されるようになる。言論の自由と法の下での平等を建て前とするアテナイでは、世論を動かす方法論として花形的な存在だったという。そして、弁論術の教師が登場すると、模範例を暗記させる教授法が盛んになる。目的から逸脱した弁論のための弁論、文章のための文章、そういったものに関心を集める。リュシアスは、こうした風潮で活躍した弁術家の一人で、ソフィストとは一線を画す純粋な弁術家に属すそうな。プラトンもこの人物に一目置いていた節がある。本書は、当時の有識者に対する批判書であることは間違いないだろう。
21世紀の今ですら、真理を顧みず、ひたすら多数の賛同を得ることに注力する。そこには、知性が暗記力で決まる社会がある。言論術が身の保全と立身を図る技術となれば、政治屋どもが血眼になる。しかも、自分で定義もできないくせに、幸福やら友愛やらを口にする。なるほど、弁論術とは、おべっか術であったか。
本書は、議論をするには、まず対象の本質を見極める必要があると説く。少なくとも、議論の参加者は前提の認識を合わせる必要があろう。だが、多くの場面で、自分が問題の本質を知らないということに気づかない。それを知っているものと決め込んで考察を始めるから、議論は迷走する。
弁論術は、最終的に真実の追求でなければならないとしている。それは、真実というイデアを想起することであると。思惟することが自己との対話であるとすれば、自問自答によって純粋思惟へと導いてくれるだろう。弁論術とは、問答能力とすることができるかもしれない。その試行では、直観性と言語性を駆使することになろうか。
一方で、言葉の力というものがある。言葉が魂と結びついた時、これほど力を発揮するものはない。言葉は、精神の本性を理解する手段となろう。歴史を振り返れば、聴衆を動かす力も言葉であった。演説の天才と評されるヒトラーは、聴衆が自発的に静まり、何か言葉を発するのを期待するまで、喋るのを待った。弁論術が、劇場化するのはやむを得ないのか?言葉は、小さな事を大きく、大きな事を小さく見せることもできれば、真新しい事を古く、古い事を真新しく見せることもできる。そして、無言ですら何かを物語る。言葉は長すぎても短すぎても説得力を失い、また用いるタイミングも重要だ。聞き手が、耳を傾ける度量を具えない限り、どんなに立派な言葉も陳腐となる。また、真理を語ればいいというものでもない。真実が必ずしも真実らしく見えるとは限らないし、嘘の方が真実らしく見えることもある。法廷では、何が真実かを気にかける者なんか、いやしない。重要なのは、真実ではなく、真実らしく見せること。しかも、完璧に証明する必要はない。証明を仄めかすぐらいで、聴衆は勝手に解釈する。社会風潮に逆らわず、多数派に真実だと思い込ませる。これが、弁論術の実践というやつだ。言論の技術だけを問題にするならば、いかに聴衆を誘導するか、ということに傾注すればいい。そして、弁論術とは、精神に優れた者の技というよりは、心理学に精通した者の技ということになろう。それにしても、本質的な目的を忘れ、手段にばかり眼が奪われると、こうも浅ましくなるものか。
しかしながら、言葉というものは最も神の意にかなうようにできているという。幾何学や天文学に見られる神の言葉に耳を傾け、真実の計算なくしては、建築物も成り立たない。そして、言論の技術とは、神の言葉を想起することだとしている。なるほど、宇宙は数学という言語で語られる。プラトンは、真実を知る者のみが知り得る不滅の言葉なるものが存在することを仄めかしている。
「それを学ぶ人の魂の中に知識とともに書きこまれる言葉、自分をまもるだけの力をもち、他方、語るべき人々には語り、黙すべき人々には口をつぐむすべを知っているような言葉だ。」

2012-09-09

"メノン" プラトン 著

メノンは問う、「徳とは、教えることのできるものであるか?それとも、訓練によって身につけられるものであるか?それともまた、訓練しても学んでも得られるものではなく、生まれつきの素質であるか?」
ソクラテスは答える、「人間は、自分が知っているものも知らないものも、これを探求することはできない。」

知らなければ、何を探求していいかも分からない。知っていれば、探求する必要もない。要するに、人間は認識能力を超えた領域で思考することはできないというわけか。
しかし、だ!現実に疑問に思っているということは、答えが見つからないにしても、なんらかの認識が働いていることにならないか。この矛盾に、プラトンはどう答えてくれるのか?
もともと人間は、あらゆる知識を持っているという。輪廻を繰り返すうちに、ちょいと重要な事を忘れるだけのことよ、と。それ故に、自問自答を繰り返し、鍛錬によって想起することができるという。知性や徳性とは、想起に他ならないと。魂は不死であり、常に日々学んでいるというわけか。肝心な知識は、DNAにでも記憶されているというのか?
「探求し学ぶということは、魂が生前に得た知識を想起することである。」
これが、プラトン流の想起説というやつか。宗教は、矛盾を毛嫌いし、無理やり辻褄を合わせる。哲学は、矛盾を自然の姿として受け入れ、答えのない世界で心地よく戯れる。ただし、矛盾に対して寛容になることは難しい。

ソクラテスの教義に「徳は知である」というのがある。悪徳を為すのは無知のせいだとする考え。徳が知識であるならば、教えられることができるはず。そして、最高の教育を受けた政治家によって社会を徳へ導くことができるとし、ここに「善く生きる」という政治哲学が結び付く。
しかし、プラトンはそれだけでは説明できないとし、登場人物ソクラテスに代弁させ、巧みに哲学のパラドックスへ誘なう。そぅ、「徳とは、そもそも何であるか?」と根源的な問いに置き換えるのは哲学の常套手段。哲学論議ってやつは、呪文でもかけるように魔法をかけ、行き詰まらせて、途方に暮れさせやがる。
ところで、知らなかったというのは、過失であろうか?アリストテレスもまた無知を罪だとした。熟慮してやった者が、知らなかったと言い訳するはずがないと。
「魂が積極的に心がけたり、受動的に耐えたりするはたらきはすべて、知が導くときは幸福を結果し、無知が導くときは反対の結果になる」
しかし、熟慮したからといって、正しい選択をするとは限らない。どんなに優れた知識を会得しても、やはり判断を誤る。知識とは不思議なもので、深く知るほど分からなくなる。知識は無限なのだ。このあたりは、プラトンもアリストテレスも徳の限界を感じたことだろう。
人は、ちょいワルというものに憧れるところがある。やってはいけないとなると、余計に衝動に駆られ、つい魔が差す。身体に悪いと分かっていても煙草を吸う。身を滅ぼすと分かっていても博奕中毒になる。禁断な恋ほど燃え、灰と化す。善にも程度というものがあろうが、最高善に背いてまで悪を為すことはないのかもしれない。ただし、最高善にも個人差がある。

プラトンは、想起する過程を、メノンに幾何学の問題を解かせることによって実践してみせる。例えば、正方形の面積は、辺を掛け合わせることで求められる。面積を2倍にしたければ、感覚的に辺を2倍にしたくなる。だが、辺を2倍、2倍...していくと、面積は4倍、16倍...と増える。面積を2倍にしたければ、対角線という知識が必要になる。そして、辺を掛けることと対角線という知識だけで、様々な面積の図形を知ることができる。これは、教えられた結果ではなく、メノンが自力で思考した結果である。要所は師の質問によって誘導されるにせよ。ここには、一から多が生成されるという概念がある。実際、幾何学のあらゆる定理は、根源的な公準や公理から組み立てられる。これが、万物の根源であるイデアを想起させるのか?
また、あらゆるものに名前がある以上、それは形を成しているという。そして、形は立体の限界であるとしている。あらゆる物体はプラトン立体に集約できるとでも言いたげな。
なるほど、この物語はプラトン思想の中心テーゼを匂わせているわけか。徳もまた、精神の本質なるイデアのようなものを想起させるのだろうか?徳とは、ある時は教えられるものかもしれない。だが、ある時は教えられないものであろう。そして、学ぶとは、他人から教えられるものではなく、自ら学ぶ能動的な行為ということになる。知らないことが知への渇望となり、これが無知の克服というわけか。徳とは、まさに精神修行の真っ只中にあるのだろう。すなわち、思考の永続的な状態とすることができるかもしれん。
さて、最初の問いに立ち返る。「徳は誰が教えうるであろうか?」ソフィストたちは?政治家たちは?自称教育者とは、あらゆることを学んだと宣言し、教える資格を持つと自認する輩ではないか...徳には、まず人々を正しく支配する能力を有し、そして、勇気、節制、智慧、度量の大きさなどが具わっているのではないか...と議論が盛り上がる。
ちょうどそこに、アニュトスが訪れる。彼の父アンテミオンは、富も才知も兼ね備えた人物で、人を見下すことなく、尊大で嫌味なところもなく、慎み深く礼儀正しいという評判である。そして、息子アニュトスを立派に教育したとなれば、絶好の観察対象となる。ちなみに、アニュトスは、ソクラテスを告発したメレトスの後ろ盾になった人物。その思想は、頑固な保守派で、徹底したソフィスト嫌いとされる。案の定、アニュトスはソフィストたちを蔑む。ソフィストがダメなら、他に誰がいるというのか?そして、徳は教えられるものではないという結論に達する。つまり、アテナイ人には徳が教えられないと。これにアニュトスは怒る。
人間ってやつは、自分の知っていることで、すべてを解決したがるもの。しかも、現実から目を背け、真実を幻想にしてしまう。知っていることは知っている。知らないことは知らない。これが学ぶということであろうか。しかし、これが難しい。そもそも、知っているかどうかが分からない。知った気でいるぐらいが幸せというものか。では、幸せを求める者の精神は、いつか何かに到達することができるだろうか?何かを悟ることができるだろうか?徳が教えられるものでない以上、もはや知識ではない。努力しても、探求しても、徳が具わるかも分からない。それは神のみぞ知る!結局、人間は神の存在に頼らないと、思考を迷走させる運命にあるというのか?永続的な思考というものは知識ではないかもしれないが、知識に劣らず有益であることに変わりはあるまい。

2012-09-02

"ニコマコス倫理学(上/下)" アリストテレス 著

アリストテレスが人生の究極の目的を探求したのは、ソクラテスの「善く生きる」という思想から受け継がれるもので、この点においてプラトンとなんら対立するところはない。そして、現在においても、政治哲学の骨格となっている、はず...
尚、「ニコマコス倫理学」は、息子ニコマコスが編纂したとされる書で、厳密にはアリストテレスの著作ではない。

議論では、善とは?幸福とは?徳とは?思量とは?選択とは?そして正義とは?と思考を掘り下げながら、アリストテレスの二つの哲学原理を顕にする。それは「中庸の原理」「卓越性の追求」である。
中庸とは、両極端を悪とする考えである。精神を探求するにしても、ほどほどでなければ精神病へ追い込むことになる。真理は、ほどほどに見えるぐらいが幸せというものか。人間を極めるとは、人間を失うことなのかもしれん。
一方、卓越性とは、徹底的に思量することである。俗世間では、考え過ぎは良くないと意見する人がいる。だが、考え過ぎるぐらいでなければ卓説性は得られまい。芸術の境地とは、そういうことであろう。そもそも考え過ぎと思う時点で思考の頂点に到達したと自負するようなもの、神にでもなった気でいることになりはしないか?中庸を知るためにも、両極端を知る必要がある。
そうなると、中庸と卓越性とは、なんとも矛盾する思考にも思えるが、まったく違和感はない。深く思考を試みても、結論が見つからなければ、保留しておけばいい。どうせ結論なんてないんだから。そのぐらいの覚悟がなければ、匠の世界は成り立つまい。すなわち、人生とは思考の限界実験である。最も危険なのは、思考停止に陥ること。知ることについては貪欲を求め、知ったことについては調和を求める。なるほど、矛盾とは心地良いものと、そうでないものがあるらしい。心地よい矛盾ほど、より真理に近いということになろうか。自然界に矛盾という原理が存在しなければ、哲学は成り立たないだろうし、精神も成り立たないのだろう。自己が第二の自己を求めて永遠に苛むのは、精神を獲得した知的生命体の宿命であろうか?
さらに、三つ目の思考原理として「持続性」を付け加えておこう。善を持続することは難しい。だが、悪を持続することも難しい。快楽に耽ることが悪とはいえ、永遠に続けば享楽地獄となる。それは、精神的、肉体的疲労からくるものであろうか?怠惰に浸っても、すぐに退屈病に襲われる。苦痛は、避けても、避けても、やはり苦痛ならぬものが苦痛となる。愛にせよ、憎にせよ、休息にせよ、人間にとって執念とは最も縁遠きものかもしれん。人生とは挫折の繰り返しよ。天才の能力とは、持続力であろうか。いや、永遠に愛する自信はあるぜ!ただ、ちょいと対象が変わるだけのことよ。

最上なのは、みずからすべてをさとるひと、また、よき言葉に従うひとも立派なもの。だが、みずからもさとらず、他に聞くもこころにとどめないのは、せんなきやから。
...ヘシオドス著「仕事と日々」より。

「人間は本性上市民社会的(ポリティコン)なものにできている」
アリストテレスは、善の活動の中でも政治におけるものを最高善に位置づけている。そして、政治的な善とは、民衆の幸福を目的とすることで、自足的でなければならないとしている。自足とは、個人にとって充分という意味ではなく、全市民をも考慮した上で充分ということ。では、幸福とは何か?そこに共通解が見つからないことが、いまだに政治をややこしくしている。幸福を欲望の権利と同一視して、多数決で決定するならば、社会的弱者を虐げることになる。少なくとも、快楽や地位や富に存するものではなさそうだ。
「最高善が幸福であることは万人の容認せざるをえないところ。だが、幸福の何たるかについては異論がある。」
アリストテレスは、卓越性を知性的卓越性と倫理的卓越性に区分し、倫理的卓越性の高まりを求める。倫理的卓越性とは、その名を徳と言う。そして、徳とは、中庸であるとしている。
しかし、アリストテレスは奴隷制度を肯定した人物として、よく批判される。「生まれつき奴隷」を唱えやがったと。だが、本書を読む限りその印象はない。奴隷とは人が人を所有することになるが、所有の概念は個人によって生じるのではなく、社会との関係から生じるとしている。社会との関係とは、君主によって決定づけられるものなのか?そのようにも解釈できるが、ちと違う。君主と僭主は同じ単独支配だが、似ても似つかぬものとしている。君主は自己の利益を考慮せず万人の利益を考慮するが、僭主はまったく反対のことをすると。君主には最高善が前提されるわけか。君主が神のような人物であれば、奴隷であっても不都合はないのかもしれない。だが、歴史に登場したあらゆる君主は、残念ながら僭主であった。それとも古代ポリス時代には真の君主がいたというのか?
尚、国政の形態には、君主制、貴族制、立憲民主制または共和制の三つがあるという。最善なのは君主制で最悪なのは民主制だとし、僭主制は君主制の逸脱形態としている。現実に、社会的な力関係が生じるのは避けられない。組織構造には必ず上下関係があるし、取引関係も顧客に従わなければ成り立たない。あるいは、人生経験や能力の違いから人を敬う気持ちが自然に発する。現在ですら、労働者は企業の半奴隷となって働き、下請業者は半強制労働を強いられる。会議の休憩中、大会社の連中が連休に何をするか雑談している時、こちらは工程の遅れを取り戻す思案をしているものよ。どんな人間だって何かに依存しなければ生きてはいけないし、依存するものに対して奴隷となって生きるしかあるまい。もしかして、アリストテレスは差別制度を容認したのではなく、人間の社会的性質を述べただけなのか?結局、本書は最高善の探求を政治家に求めて終わっている。「より善き人間たらしめようと欲すること」、そうした人間が政治をやるべきだと。「ニコマコス倫理学」は、アリストテレス著「政治学」の前段に位置づけられているわけか。この古典にも挑戦してみる必要がありそうだ。プラトン著「国家」と合わせて...はぁ~道は遠い...

1. 幸福とは
幸福が、卓越性や学習や訓練によって生じるとしても、やはり神的なものに属するところがあると認めている。美しく生まれるのも、健康な身体であるのも、何らかの恵があるからであろう。動物に生まれるのも、植物に生まれるのも、人間に生まれるのも、やはり神の仕業であろうか?人間に生まれることが、本当に幸せなのかは知らんが。
さて、幸福とはいかなるものか?ソロンの言葉に「その最後を見とどける」というのがあるそうな。人生を評するには死後でなければ語れない。だが、死者は語れない。人生とは自己評価もできないものなのか?なるほど、人は死に顔を曝しながら、生き残った者に愚痴られる運命にあるのよ。生き残った者が死者にまで価値観を押し付け、幸せそうな顔をして死んでいったなどと後付けで評す。なんと身勝手な、そして不幸のレッテルを貼るがいい。少なくとも、生きている間は生きている者同士で付き合いたい、死んだら死んだ者同士で付き合い、生きている者に眠りを邪魔されたくないものだ。
人生とは、大半が自己満足の世界なのであろう。そして、その瞬間、瞬間で味わい、自己評価するしかあるまい。とても他人が評価できるものとは思えない。幸福とは、生きているその瞬間の精神活動ということができそうか。幸福な人は、卓越的に活動し、外的な環境に恵まれ、しかも、それが生涯に渡って続く、ということはできるかもしれない。そして、相応しい死に方をするというのを付け加えておこうか。

2. 徳とは
徳とは、卓越性だという。そして、知性的卓越性と倫理的卓越性を区分し、前者を経験的で後天的なもの、後者を習慣づけによって生じるとしている。ちなみに、「倫理的」(エーティケー = エートス的)という言葉は、「習慣」(エトス)から転化したものだそうな。倫理とは、習慣すなわち生き方、そして最も重要な徳とは、人の生き方ということになろうか。
「倫理的な卓越性ないしは徳は本性的に与えられているものではない。それは行為を習慣化することによって生れる」
そもそもの政治の起こりとは、「慣習 = 倫理的卓越性 = 徳」という図式から生じたのかもしれない。いくら政治で成文法を整えたとしても、それが慣習とならなければ、法律として機能しない。しかし、政治家は、条文の解釈をめぐって、いつも法律の眼を掻い潜る。これが「政治家の原理」だとすれば、「政治の原理」と似ても似つかぬものということになる。なるほど、政治家は法律の限界実験をしているのか。
この時代、卓越性というものについて最も勉強したのは政治家だという。市民は、その善き人の卓越性に耳を傾け法律に従い、人間たらしめることにあったと。だが、今ではその面影もない。ユーロ危機がギリシャに端を発したのは民主政治が衆愚政治と化した結果であろうか?

3. 中庸とは
倫理的卓越性とは、情念や能力などではなく、中庸を極めた状態だとしている。物事には調和と適合というものがある。中庸とは、それを悟った自然体とでも言おうか。恐怖と平然に関しては勇敢が中庸、快楽と苦痛に関しては節制が中庸だという。財貨の贈与と取得に関しては、寛厚が中庸で、過超と不足は放漫とケチだという。名誉と不名誉に関しては、矜持が中庸で、過超と不足は倨傲と卑屈だという。中庸は穏和であり、その対極は怒りんぼと意気地なしだという。
「両極端は中に対しても、また相互の間においても反対的である」
ただし、中庸を、無感覚と解するのでは違う。プラトンは、まさに悦びを感ずべきことがらに悦びを感じ、苦痛を感ずべきことに苦痛を感じることが必要であると説いた。これが、教育というものであろうか。徳にとって、快楽も苦痛も知る必要があるのだろう。となると、SもMも知らなければ、真の快楽も分からないというのか?この実験は、癖になりそうで怖い!

4. 正義とは
正義とは、どのような中庸の状態であろうか?正義は、適法的で均等的だとしているが、必ずしも善ということにはならない。このあたりに最大多数の幸福と多数決の問題にぶつかるのだろう。実践的には、運不運に左右される事柄に対する是正という意味での善ということのようだ。法は、理性を実践的な方法で導く手段ではあるが、多少の補正をしているに過ぎないのだろう。せいぜい、不均等を是正すること、いや、是正しようと努めているぐらいか。必ずしも、政治的正義とあらゆる善が一致するわけではない。政治では、最善策よりもそこそこ良策の方が機能する。歴史には、法は徳よりも優先された事例がある。諸葛亮の「泣いて馬謖を斬る」とは、まさに軍律の遵守を優先した結果である。人材の少ない蜀の国にあって、あえて愛弟子を処刑した。権力者だからこそ庶民に模範を示し、自己の徳を犠牲にした。それが理不尽であっても。このあたりが法の限界であろうか。
過多をむさぼることが悪徳だとしても、必ずしも不正義にはならない。だが、非難が巻き起これば、邪悪も不正義となりうる。法が裁かなくても、社会の眼が裁くことはよくある。こうした社会機能が法を補っているのだろう。しかし、民衆はよく暴走する。
「ひとびとは、不正をはたらくということは自分の勝手になることだ、だから正しい人間たることも容易なことだと思っている。」
そもそも、徳全般に対する正義なんてものは、存在しないのかもしれない。正義が実践において生じるならば、その限界は法の限界に近いところにありそうだ。
「法律は政治学の作品のごときものである。」
いや国家の作品、いや国民性のバロメータと言った方がいいかもしれない。
また、実践的な正義として、配分的正義と矯正的正義を議論している。配分的正義は、「幾何学的比例」という見慣れない言葉を用いている。三角形の底辺と高さのような、二つの要素の比例関係から全体の比例関係が生じるような関係で、現代風に言えば等比級数的というイメージであろう。現実に、所得税が累進課税であるのは、この原理からきている。対して、矯正的正義は、「算術的比例」に基づくという。矯正的とは、罪人を罰するための量刑などがこれにあたる。ただ、現在の量刑が比例的かどうかは知らん。無期懲役刑をくらっても、十年もすれば仮釈放で出てくるとは、これいかに?あるいは、死刑が随分と軽んじられているのか?アリストテレスの時代は、裁判官の裁量で比例関係を保つことができたのであろうか?

5. 愛(フィリア)とは
愛は、卓越性と切り離せないという。一般的に、愛は善とされる。おそらく愛も徳から生じるのであろう。互いに親愛であれば、正義など無用であろうか。ただ、愛と憎は背中合わせにあり、これほど両極端を行き来する情念も珍しい。愛することは難しい。いや、そんなことはない。夜の社交場では速愛法なるものを実践している、者がいると聞く。教祖様にいたっては誰とでも愛し合い、合体してまで身も心も蝕む。愛の価値を下げやがるのは友愛型人間ってやつか。
さて、愛にも三種類あるという。善きもの、快適なもの、有用なもの、に対する愛。しかしながら、善のための愛が最高だという。愛は、最も永続するものに価値があるのだろう。家族愛や郷土愛のような無条件に生じる愛もある。では、恋愛は永続するだろうか?そりゃ、するさ。ただ相手が変わるだけのことよ。愛のためなら(小)悪魔も必要さ。現実に、愛の関係には優劣がある。金銭的に服従したり、生活的に依存したりと。あなたなしでは生きられない!なんて、うまい事を言う。優劣関係にすれば、だいたい逆転するけど。力関係による愛、政治力による愛、慣習による愛、いずれも生活目的を結びつけるだけで、幻想ではないのか?人間は人間を利用しながら生きている。これも愛か?では、卓越性に即した愛とは?卓越した愛は永続的だという。永続する愛といえば自己愛が基本であろう。自分を愛せずして、どうして人を愛せる。だが、アリストテレスは、愛の最高位は国家共同体に対する愛だという。親友や家族よりも優先されるとも解釈できる。ちと危険か。
「ひとは自愛的でなくてはならない。だが世人の多くがそうであるごとき意味においては自愛的たるべきでない。」
んー...難しい言い回しだ。人類の歴史では、政治を優先するあまりに愛国心を煽った例が実に多い。戦争の原因のほとんどは愛国心から生じてきた。アリストテレスは、紛争もまた「一方的優位性の上に立つ愛」だとしている。憎しみも愛の裏返しとなれば、博愛主義者も喜ぶだろう。
好意もまた、愛の類いのように思われる。相手が気づかない場合もある。だが、好意は愛ではないという。好意には切実さが欠けていて、欲求が含まれていないからだそうな。愛は行動を伴い、好意は眺めるだけというわけか。憧れも好意に含まれるのであろう。見守るだけの方がはるかに災いを避けられそうだけど。
「愛においては、愛されるよりも愛することが本質的である。」
愛は、報われないと苦痛になる。愛が深まると、相手の価値観を否定することになるとは。真の愛とは、見返りを求めいないということか。すこし愛して、ながーく愛して!というのが、真理かもしれん。これも中庸の原理であろうか。孫に囲まれ、愛する者に見守られて死にたいというのが普通の感覚であろうが、所詮、自己愛の強調でしかない。孤独死を受け入れ、共同墓地に入るのを覚悟する、そんな覚悟を自然に受け入れられる人こそ、強靭な理性の持ち主なのかもしれん。死して屍拾う者なし!

2012-08-26

"音楽嗜好症" Oliver Sacks 著

三冊連続!オリヴァー・サックスに嵌ってもうた。ここでは音楽に憑かれた人たちのお話。同じ脳神経障害でも、こちらの方がはるかに本質的かもしれん。サックス博士は言う。音楽は、神経学や生理学の新しい教科書を手にした時、索引で真っ先に調べる項目の一つだと。音楽は、聴覚だけで感知できるものでもなければ、脳で解釈するだけのものでもない。身体全体で感じ取るもの。人は皆、心の中で独自の拍子やリズムなるものを奏でているのだろう。心臓の鼓動とともに...

生きる上で最も大切なものは、やはりリズムであろう。道を歩けば何気なく歩幅やテンポが生じ、思考に耽れば自然に身体が揺れ、日常の繰り返しが精神に秩序をもたらす。仕事においては、検討から成果が出るまでの周期、あるいは達成感を得るタイミング、こうしたものが意欲を持続させる。音楽に特定のものを表す力などないのだが、完全に抽象的でありながら、具象的な心象イメージを作る手助けをしてくれる。哀歌に心を動かされたり、胸をえぐるような悲愴をもたらすかと思えば、気分を高揚させたり、はたまた忘我の境をさまよったりと、奇妙な力までも持ち合わせる。音楽は物理的には音素の羅列でしかなく、ノイズと区別がないはず。なのに、一旦、主情的に反応すると芸術へと昇華させる。人は音楽に合わせて拍子をとり、メロディーの奏でる物語に思考や感情を重ねる。誰にでも人生のテーマソングのような存在があろう。自己存在の後ろ盾になってくれるような...
一般的に、音楽は心や生活を豊かにするものとされる。だが、音楽に祝福されず、神の恵みが悪魔の呪いと化す人たちがいる。ナポリ民謡を聴くと痙攣と意識喪失を伴う発作に襲われたり、エンジン音や摩擦音を引き金に日夜音楽幻聴が鳴り続けたり、生命維持装置のように音楽なしでは生きられないなど、音楽に人生を乗っ取られた人たちが...
音楽の夢や幻聴は、他の夢や幻覚と違って正確だという。記憶喪失や認知症の破壊力にも耐えうるほどの力があると。脳の損傷や障害によって他の能力は失われても、音楽の能力だけは保たれる症例も珍しくないようだ。大脳皮質には、音楽にまつわる知性と感性を助長する特定の部位があるのは間違いなかろう。実際、そこが損傷を受けて失音楽症になることがあると聞く。
しかし、音楽に対する感情反応は、皮質だけでなく皮質下や脳全体に広がるという。アルツハイマー病のような瀰漫性皮質疾患にかかっても、音楽を感じ、楽しむことができるのだそうな。音楽と精神が深く結びつくとなれば、あらゆる病に対して音楽療法なるものが効果を発揮する可能性がある。音楽の知識がなくても、音楽好きでなくても、深いレベルで反応するかもしれない。人類の音楽を嗜好する性向は、潜在的な自律システムとして働く普遍的な機能なのかもしれん。
ショーペンハウアーは、こう書いているという。
「とてもわかりやすく、それでいて何とも不可解な、言いようのない音楽の深みは、音楽が私たちの最も内側にある感情をすべて再現しているのに、リアリティがまったくなく、痛みからはかけ離れている...という事実に起因する。音楽は人生とそこで起こる出来事の真髄のみを表現し、決してそれ自体を表現するのではない」

昨年(2011年)の秋頃だろうか、英国の研究所が世界で最もリラックスできる音楽を発表したと報じられた。Marconi Union の「Weightless」という曲。曲の底に流れるベース音がリラックスさせ、トランス効果があり、深い静寂をもたらすとのこと。血圧の低下や、ストレスホルモンであるコルチゾールの低下も認められるそうな。実際に聴いてみると退屈しそうで、作業のためのBGMにするにはいまいち。無意識の領域で作用させるから、真の意味でリラックスさせるのかもしれないけど。
脳への刺激を物理学的に説明することは、ある程度は可能であろう。だが、それだけだろうか?やはりアル中ハイマー病患者には、モーツァルトやショパンの方が心地良い。そして、瞑想に耽け、思考が迷走するのさ。

聞こえる旋律は甘美だが、聞こえない旋律はもっと甘美だ。
... ジョン・キーツ「ギリシャの壺のオード」

1. 音楽と心象イメージ
サックス博士の患者で音楽幻聴のある人の大半は難聴を抱えているという。聴覚に対する欲求がそうさせるのだろうか?音楽には、耳から入る外部的なものだけでなく、頭の中で奏でられる内面的なものもある。失音楽症は俗に言う音痴という形で現れるが、それでも頭の中では完璧なメロディーが流れるものらしい。音楽家ともなれば、オーケストラをまるごと頭に抱えたり、楽器を使わず頭の中だけで作曲したりする。ベートーヴェンは、まったく耳が聞こえなかったにもかかわらず、音楽家として更に高みに昇った。余計な外部音が聞こえないだけに、内面で理想化された純粋な曲が聞こえるのだろうか?
音楽の心象は視覚的なものと同じくらい多様で、おまけに情景を刻むところがある。何十年も思い出すことのない音楽が、突然、湧いてくるかと思えば、学生時代によく聴いた曲がラジオから流れるだけでノスタルジーに浸れる。音楽には、倦怠感を緩和したり、運動をリズミカルにしたり、疲労を軽減する効果がある。
その一方で、耳にしつこく残り、病的にまとわりつき、メロディーが拷問となるケースがあるという。短くはっきりした楽節や旋律が何時間も何日間も続き、心の平穏や睡眠までも阻害する。耳栓をしても無駄だ。脳の虫として住み着き占拠するのだから。チャイコフスキーも、子供の頃「この音楽!僕の頭のなかにあるんだ。こんなのいらないよ!」と叫んだと伝えられるそうな。映画やテレビ番組のコマーシャルソングが引き金になることも珍しくないという。それも偶然ではあるまい。コマーシャルは聞き手を釣るために、耳に残るように仕掛けてくるものだから。
また、音楽や詩のリズムには暗記力を刺激する効果がある。あらゆる民俗文化において、文字体系や物事を覚える時に役立つ歌や詩がある。古代人が、ホメロスの大叙事詩を長々と暗唱できたのは、そこにリズムと韻があるからであろう。記憶力が音楽を発達させたのか、音楽が記憶力を発達させたのかは知らんが。

2. 音楽夢
偉大な作曲家の多くは、音楽の夢について語り、しばしば夢の中でインスピレーションを受けているという。ヘンデル、モーツァルト、ショパン、ブラームス、ベルリオーズなど。夢の中まで攻め続ける、一種の職業病か。ポール・マッカトニーは曲ができるまでの過程を、目覚めると頭の中で美しい音楽が流れていたと語ったという。音楽夢の記憶は、はっきり残るという説があるらしい。アーヴィン・J・マッセイは、こう書いているという。
「夢のなかの音楽は、崩壊することも、混乱することも、支離滅裂になることもなく、夢のほかの要素のように目覚めたとたん消えることもない」
数学や科学の理論、小説や絵の構想なども、夢の中で思いつくことがあろう。アル中ハイマーにだって、技術問題の解決が、夢の中で突然浮かぶことがよくある。しかし、目が覚めるとすっかり消えていて、思い出そうとして二度寝すると、今度はすっかり熟睡してしまう始末よ。
そういえば、音楽の夢は、目覚めてもしっかりとハミングできていて、たいてい懐かしい気分になる。音楽の場合、他の心象イメージと違って、要素の羅列がシーケンシャルで時間的連続性を保つ必要がある。だから、心の中のリズムやテンポが情報の欠落を補完できるのかもしれない。音楽は眠らない!そして精神は眠らない!ついでに魂は不死!なんてどこぞの論法を無理やりこじつけておくか。

3. 絶対音感と進化論
人は視覚となると、青や赤といった色素を反射的に言い当てることができるのに、聴覚となると、ソのシャープといった音素を言い当てることができない。光波も音波も、同じ波長という物理量なのに。絶対音感が万人の能力にならないのはなぜだろうか?音素の方が、精神の曖昧さに適合するのだろうか?
絶対音感は音楽家によく見られる。精度は様々だが、70以上の音を特定できるそうな。もちろん、絶対音感がないからといって音楽的才能が劣っているわけではない。音楽的才能に恵まれながら、音楽に無関心な人も大勢いる。音楽に敏感過ぎるために、ある種の防衛本能が働くのかもしれない。自閉症患者は、音楽的な感動が少なくても、絶対音感を持つ人が比較的多いと聞く。日常の物音が、すべて音階に変換されたら気になってしょうがないだろう。鼻をかむ音は、ソのシャープとか、耳鳴りは、ファのフラットとか。周波数で言い当てる人もいると聞く。演奏中の音楽家は、楽器の調律がちょっとでも狂っていたら、たいてい苛立ちや不安になるという。繊細な認識能力の持ち主ほど、自閉症になりやすく精神病を患いやすいのかもしれない。
また、興味深い相関関係に、絶対音感と言語的背景があるという。ダイアナ・ドイチェたちの論文(2006年)には、こう書かれているという。
「ヴェトナム語と北京語を母語として話す人たちは、単語のリストを読むときに非常に正確な絶対音感を示す」
絶対音感のある人は、音高差を正確に知覚できるだけでなく、音階や音符のラベルをつけて並べられるという。記号を羅列するという意味では、言語感覚と似ているのかもしれない。スティーヴン・ミズンは、構成言語と構文規則が発達したことで、膨大な意味を表現することができるようになり、大部分の人間が絶対音感を必要としなくなった、という仮説を立てているそうな。言語の発達によって、音高による絶対的な模倣能力が必要なくなったということか。では、仮想的にビジュアル化していく社会では、視覚も曖昧になっていくのか?現実社会が仮想化いう空虚を求めるのも、精神の曖昧さによく調和するからか?そして、あらゆる知覚が精神の曖昧さに吸収されていくのか?これが抽象化の正体かもしれん。

4. 音楽サヴァン
2000曲以上のオペラを、ほぼ完璧に記憶する知的障害者の事例が紹介される。彼はオペラ歌手を父に持つ。音楽の才能は、バッハ一族の七世代のように遺伝すると言われるが、その典型であろうか。サヴァンの能力で高まるのは例外なく具象的な力で、弱いのは抽象的な力で大抵は言語能力だという。
ほとんど先天性のものだが、似たような症状が人生の後半に現れることもある。脳損傷、脳卒中、腫瘍、前頭側頭認知症などの後に。特に左側頭葉の損傷と関係があるとされる。左側頭葉が、右脳半球の機能に対して抑圧や抑制を解放した結果、計算能力や論理的思考が超人的に高められると聞く。理性や知性が、感性にとって邪魔になることもあろう。理性が強すぎれば融通がきかなくなり、知性が強すぎれば頭でっかちになる。子供の創造力を、大人の権威主義が邪魔をするように。才能豊かな子は、そんな障壁すら簡単に乗り越える。抑えられない衝動とは、気概のある才能の裏返しであろうか。

5. ウィリアムズ症候群
ウィリアムズ症候群は、認知障害で、知能の強さと弱さが奇妙に入り混じっているという。ほとんどがIQ60未満だそうな。見た目の特徴は、大きな口、上を向いた鼻、小さい顎、丸くて好奇心に輝く目。性格の特徴は、異常なほどの社交性を示し、並外れて饒舌で、興奮気味で話し好き、親しげで懐っこい、そして、なによりも音楽好きだという。よちよち歩きの幼児ですら音楽に極めて敏感だそうな。IQが低いにもかかわらず、豊富な語彙と著しい言語運用力を持ち、コミュニケーション能力が高い。その一方で、単純な幾何学図形を描くことができない。動物について奇抜な説明ができるのに、その絵を描くと幼稚になる。人を傷つけることもいろいろと喋るというから、一種の精神遅滞であろうか?自閉症の反対パターンという見方もできそうだ。
しかし、音楽となると、三カ国語や四カ国語の歌詞を憶えたり、驚異的な音楽能力を発揮する人もいるという。ただ、音楽サヴァンとは少々違っていて、生まれつきではなく経験的に開花される能力ということらしい。複雑な音楽を学んで覚えられることでは、とても精神遅滞とは思えない。重度の知的障害者が、突然、音楽の才能と流暢な発話力を開花した例もあるという。音楽療法によって脳を活性化させる場所がちょいと違うだけで、何かに目覚める可能性があるということか。開眼や悟りを解剖学的に説明すると、そういうことであろうか。自我の進化論的な突然変異を信じるならば、日々の形式的な生活からは生じない現象であろう。自我を破壊するような刺激でもなければ...

2012-08-19

"火星の人類学者" Oliver Sacks 著

惚れっぽい酔っ払いは、オリヴァー・サックスに嵌りつつあるか...
「妻を帽子とまちがえた男」では、脳や神経の障害によってもたらされる自我の喪失について綴られた。ここでは、自我の獲得や再構築について綴られる。
「一般的な指針とか制約、助言というものはあります。だが、具体的なことは自分で見つけなければならないんですよ」
障害者たちは自己の欠陥を率直に認め、それを自己の一部とし、自我やアイデンティティというものを見事に作り上げ、創造力を魅せつける。確かに、発達障害や疾病の破壊力は恐ろしい。だが、潜在能力を呼び起こすこともある。何かに目覚めたり、開眼したりするのも、ある種の突然変異であろうか?進化論的観点から、人間の多様性は人間の想像力をはるかに超越していると言わざるを得ない。彼らは皆一様に言う。たとえ病気が治せるとしても、治したいとは思わないと。ただ、障害を神からの贈り物とできるのは、ごく稀なケースであろう。盲人が手術を受けて視力を獲得しても、ほとんどのケースで空間認識ができず精神危機に陥ると聞く。そして、神からの贈り物は呪いと化し、ほどなく亡くなる。自分の存在を否定するような境地を乗り越えてこそ、見えてくる境地があるのだろう。無に転じて有を知るとでも言おうか。生き方を知るとは、そういうことかもしれん。
明らかに普通と違えば、開き直るしかないのかもしれない。しかし、自己の欠陥を認めることは最も難しい。認めたとしても、社会や運命のせいにする。おそらく潜在的には、自分のことは自分が一番よく知っているのだろう。だが、自我はけして悪性を認めようとはしない。それは、自己存在を否定することになるからであろう。欠陥を第三者に指摘されると、不快になったり攻撃的になったりするのは、ある種の防衛本能が働いているからであろう。自己の欠陥に対して、自我に少しでも素直さがあれば、新たな境地が開けるのかもしれない。それが精神の開眼というものかは知らん。

その人物がどんな病気であるかと問うのではなく、その病気にどんな人たちがかかっているかを問うがよい。... ウィリアム・オスラー

副題には「脳神経科医と7人の奇妙な患者」とある。彼らは皆、自閉症的な資質を抱えることになる。無理に矯正しようとすれば、さらに自我の殻に閉じこもる。だが、自閉症的な資質は、誰にでも潜在的にあるのではないだろうか。少しでも個性があるならば。これだけ世間が騒がしいと、人間が鬱陶しい、社会が鬱陶しいと思うこともあろう。安易につながりを煽れば、却って孤独愛好家を増殖させる。そうした傾向が一旦、病気と見なされると、世間から特別な眼で見られ、人生が萎縮してしまう。人は誰しも自分の居場所を求めて生きている。ただそれだけのことよ。彼らほど自己存在という問題と正面から立ち向かう人間はいないのかもしれない。
一方で、障害というマイナスをプラスに転じる驚異的な補完作用が働くことがある。自閉症のために緻密な集中力を発揮したり、知的障害のために純真な芸術心を発揮したりと。集中力や芸術心は孤独の空間から生じるもので、自閉症と言われた天才も少なくない。芸術とは、本質的に個人的なヴィジョンである。おそらく自閉症的資質と芸術心は相性がいいのだろう。
普通の人にだって能力に偏りがあり、どこかおかしな性癖がある。はたして、正気と狂気の境界はどこにあるのか?それが精神病棟の鉄格子だとしても...異常者を隔離するためのものか?それとも、純真な心を保護するためのものか?そして、自分はどちらの側にいるのか?...やはり、最も厄介な病は自覚できないことであろうか。
五感に異常をきたし、知覚に変化が生じた時、自分という存在はどうなるのだろうか?自己存在とは、脳の中にだけ構築される幻想でしかないのかもしれん。自己とは、それほど危うい状況に常にある。健康や普通なんて言葉は、単なる抽象概念に過ぎない。そういう言葉を編み出して、多数派に属して安住したいだけのことかもしれん。

宇宙は、われわれが想像するよりも奇妙どころか、想像も及ばないほど奇妙である。... J・B・S・ホールデン

特に注目したい事例は、タイトルにもなっている「火星の人類学者」と称する女性動物学者である。彼女には人の感情がまったく分からないという。地球に住む人類が、異種の生物に見えるというわけだ。その分、純真な心が深い。そして、感情を知識によって克服してきた様子を語ってくれる。感性と知性とは、調和と協調によって成り立つものだと思ってきたが、感性というものは知性で補えるものなのか?チューリングマシンによる感情の代替も可能ということか?サヴァン症候群では、左脳が障害を受けて右脳がその埋め合わせをした結果、計算能力や論理思考が超人的に高められると聞く。盲人は、視覚を補うために聴覚や触覚を研ぎ澄ます。生命体の補完作用とは恐るべきものがある。となれば、感性を知性で補い、主観を客観で補い、またその逆もありうるのかもしれん。
そして、これが本当に感情の抜けた人間の言葉なのか?
「わたしは宇宙には善に向かう究極的な秩序の力があると信じています...ブッダやイエスといった人格的な神ではなくて、無秩序から生まれる秩序といったものです。人格的な来世の存在はないとしても、エネルギーの痕跡が宇宙に残ると考えたいのです...たいていひとは、遺伝子を残しますけれど...わたしは、思想や書いたものを残せます...図書館には不死が存在すると読んだことがあります...自分とともに、わたしの考えも消えてしまうとは思いたくない...なにかを成し遂げたい...権力や大金には興味はありません。なにかを残したいのです。貢献をしたい...自分の人生に意味があったと納得したい。いま、わたしは自分の存在の根本的なことをお話ししているのです。」

1. 脳神経科医と7人の奇妙な患者
まず一人目は、交通事故で全色覚異常に見舞われ、白黒の世界に幽閉された画家。画家にとって色彩は命である。その世界はモノクロ映像とも違うらしい。視力は鷲なみに鋭く、異常にコントラストが強く、一ブロック先を這っている毛虫が見えるという。濃淡は大雑把で、目を閉じても頭の中でトマトが真っ黒!白黒画像であっても輪郭がぼけるから、背景に溶け込んで微妙な陰翳の愉悦が味わえる。だが、食べ物や女性の肉体までも不気味な鉛色に見えれば、食欲や性欲も萎える。不快な気分が続いたせいか?やがて色の記憶や知識までも失われ、色の概念そのものが失われる。ある日、真っ黒な太陽が昇るのを見て衝撃を受け、特別な才能を見出す。彼は巨大な核爆弾のようだと語る。そして、白黒の世界を描き始めた。彼の色彩健忘症を知らない人たちは、芸術家として白と黒の新たな段階に入ったと評す。
二人目は、脳腫瘍のために視覚と記憶力を失った青年グレッグ。「最後のヒッピー」と題される彼は、その場の会話が覚えられなくても、昔の記憶だけはしっかりと残っている。60年代に幽閉されたかのように。ヒッピーは60年代後半に若者の間で広まった社会現象で、多くのロックバンドが参加した。彼は、グレイトフル・デッドのコンサートに連れられ、今日のことは決して忘れないよ!と人生最高の日を喜ぶ。だが、翌日にはすっかり忘れている。何かを悟ったような陽気な姿は、診療所の暗い雰囲気を吹き飛ばす人気者。精神的豊かさで盲人を開眼させたのか?「もし盲目なら、真っ先にぼく自身が気づくはずじゃないか」
三人目は、跳ね上がったり、何かに触れずにはいられない奇妙なチックを起こすトゥレット症候群の外科医ベネット。しかし、手術中は病状がすっかり姿を消す。障害者の目から見る彼の往診は、患者たちに優しく評判がいい。仲間内からも優秀な外科医として信頼される。そして、自動車の運転や自家用機を操縦し、「世界でただひとりのトゥレット症候群の空飛ぶ外科医」と自慢げに話す。
四人目は、婚約者の説得で手術を受け、40年ぶりに視力を取り戻したヴァージル。だが、行動様式は盲人からは離れられない。やがて溢れる視覚情報を処理できなくて、昏睡状態から危篤状態となり、ついには完全に失明してしまう。手術前は光の認識はできたが、それまでも奪われた。周囲を認識するということは自己の存在を確認していることにもなろうが、過剰な認識負担が続くと自己のアイデンティティまでも変貌させる。しかし、再び盲人になったことで安住の地を取り戻す。外面の情報を必要としないということは、内面が十分に豊かだという証しであろうか。
五人目は、驚異的な記憶力で故郷の村を描き続ける画家フランコ・マニャーニ。それは、イタリアのトスカーナ州にあるポンティトという小さな村で、戦時中ナチスに略奪された。自由の国に夢を抱きつつサンフランシスコに腰を落ち着けるが、奇病にかかり、高熱で痩せ衰え、錯乱状態になる。その後遺症か?日々、異常に鮮明なポンティトの夢を見続ける。そして、死の村の荒廃前の様子を描き続けるのだった。初老になったフランコは帰郷を決意する。だが、荒廃の現実と思い出とのギャップに衝撃を受ける。その後、何度も招待を受けるが帰郷せず、狂ったように描き続ける。もういちど母さんに、ポンティトをつくってあげると。
六人目は、風景や建物の細部までを記憶し、見事に絵に再現する自閉症の少年スティーヴン・ウィルトシャー。典型的な自閉症のうち、50%は唖者で一度も言葉を発せず、95%は非常に限られた人生しか送れないという。だが、芸術のおかげで熱心に支援する人々が集まり、幸運な例外となる。彼は、知的障害があるが視覚的なこだわりと才能を持つ、いわゆるイディオ・サバン。サックス博士は、スティーヴンの本心を覗くためにロシア旅行やアリゾナ旅行に同行するが...自閉症の個人を真の意味で理解しようとすれば、その全生涯と付き合わなければ足りないということか。
最後は、アスペルガー型自閉症の女性動物学者テンプル・グランディン。恋という言葉の概念は知っていても、そんな気持ちを抱いたことがないという。夜空の星を見上げると、荘厳な気持ちになるはずだということは知っていても、そうはならないと。複雑な感情や騙し合いとなるとまったくのお手上げ。その代わり動物の心が手に取るように分かるという。家畜は自閉症の人と同じ種類の物音に怯えるという。彼女は家畜の処理に関する理論を展開する。専門は、農場、飼養場、家畜用囲い、食肉プラントの設計など、様々な種類の動物管理システム。彼女は、人の感情が理解できないことを知識で補ってきたと説明する。やがて各地で講演活動をこなし、ユーモラスな余談を交えたり、当意即妙の話題を加えたりできるようになる。そして、40代になって友情が何たるかを分かるようになってきたようだと。

2. 思い出と記憶は別物か?
過去の記憶が脳に貯えられるというイメージには、偉人たちの間でも多少ニュアンスの違いがあるようだ。
「フロイトが好んだ心のイメージは、何層にもわたって過去が埋もれている(だが、いつ古い地層が意識の上にまで上昇してくるかわからない)考古学調査の現場だった。プルーストの人生のイメージは『瞬間の集積』だった。『その後に起こったすべてのことと無関係』で、心のなかの食料庫にしまわれたジャムの壜のような『密封された』思い出である(記憶について考えた偉人はプルーストだけではない。記憶の不思議さを考えながら、結局、記憶とは『何なのか』わからずじまいになった思想家は、少なくともアウグスティヌスにまでさかのぼる)。」
フレデリック・バートレットは著書「想起の心理学」の中で、こう書いているという。
「思い出すということは、生命のない固定された無数の断片的な痕跡を再活性化することではない。それは想像的な再構築、あるいは構築であって、過去の反応や経験の活動的な総体に対する自分の姿勢をもとに、ふつうはイメージや言葉というかたちで現われる際立った細部をつくりあげていくことだ。したがって、どれほど機械的な反復であっても、ほんとうに正確であるはずはないし、たいして重要でもない。」
記憶とは、自己存在の確認、自己の再構築を図っているということか。現在に不安を感じれば、過去に頼るしかない。思い出というものは、微妙な修正を加えながら、加工され、蓄積され、聖なるものに昇華する。そして、老人は、昔は良かった!と懐かしみ、現在を嘆く。現実逃避するかのように。これがノスタルジーの正体か?その逆パターンが、デジャヴってやつか?思い出に一種の理想像を重なるところがある。正確な記憶なんぞどうでもええ。理想像には、精神を癒す何かがある。思い出とは、理想に崇められた永遠空間に残る記憶ということになろうか。

3. 自閉症と社交性
視覚的、音楽的、言語的に、個々の部分を不思議なほどよく覚えているのは、イディオ・サヴァンの特徴だという。些細なことも重大なことも差別なく、前景も背景も区別しないと。個々の部分から普遍化するとか、因果関係や時間的関係をまとめるとか、自己の中に取り込むということはほとんどせず、情景から脈絡を読んだりもしないらしい。通常、記憶する時、目的や印象を場面と時間に関連づけながら、物語や筋を組み立てたりして覚えるものであろう。主観的で抽象的思考が介在するはずだが、彼らには客観的視点が優れているということか?個々の重要性を抽出したり、意味付けができないとなれば、驚異的な能力を発揮しても、それを社会的に活かすことはできない。自閉症患者は、音楽的な感動が少なくても、絶対音感を持つ人が比較的多いそうな。
ところで、社会にひたすら仲間を求めるのと、自ら孤独の殻に入るのとでは、どちら精神的に豊かなのだろうか?しかしながら、自閉症は障害者というレッテルを貼られ、その反対は社交的という好意的な言葉が当てられる。自閉症の人々は、嘘をつくことに苦痛を伴うという。そして、人間関係や社会的な概念に比べ、幾何学的概念や用語の把握に優れているという。ある自閉症の少年の言葉は印象的だ。母親が亡くなった時、こう答えたという。
「ああ、だいじょうぶです。ぼくは自閉症だから、愛するひとを失っても、ふつうのひとほど傷つかないんですよ」
自分に嘘がつけない、誤魔化せないというのは、芸術家や職人には絶対に欠かせない気質であろう。嘘も方便と言うが、それは社会的関係において成り立つ思考である。自分に嘘をつく必要がなくなれば、それだけで精神が解放されるのかもしれない。何もかも精神的に周囲に依存し、無理やり仲間という偶像を作り上げる社交性にも、障害が認められそうな気がする。

4. 感情を失った裁判官
ある神経学の論文に紹介される元判事の症例は興味深い。その判事は、砲弾の破片が頭にあたって前頭葉が傷ついたために、感情というものをまったく喪失したという。感情がなければ、偏見も生じないわけだから、公正な判断ができそうなもの。判事として特別な資質ではないのか?しかし、その判事は思案した挙句、辞職したという。関係者の動機に共感することができないし、正義とは単なる論理ではなく感情にもかかわるものだからと。法律は客観性に支配されると言われるが、その運営となるとそれだけではない。余計な感情論を排除できるからこそ、権威を放棄できるのかもしれん。

2012-08-12

"妻を帽子とまちがえた男" Oliver Sacks 著

自然科学者とちがって医者が問題にするのは、一個の生命体、すなわち、逆境のなかで自己のアイデンティティを守りぬこうとする個人としての人間である。...アイヴィ・マッケンジー

オリヴァー・サックスといえば、映画「レナードの朝」の原作者。本書は、脳神経科医サックス博士の不思議な臨床体験を綴ったエッセイ集で、妻の頭を帽子と間違えてかぼうろうとする音楽家、左という概念を失い顔の右側しか化粧できない老女、大統領演説の真意を見ぬいて大笑いする失語症患者、会話が覚えられず擬似物語を喋り続けるコルサコフ症候群の男、他人の真似ばかりして自分の人格を失ったトゥレット病患者、音楽癲癇によって懐かしい歌が聞こえ続ける老婦人、詩人の才能にあふれた純真な知的障害者...など24篇が収録される。
さて、臨床という概念がいつ始まったかは知らんが、医学の父ヒポクラテスには既に病歴という見方があったという。病気とは、幸せな結末か致命的な結末かのいずれかに終わるもので、病歴とは、まさに患者の物語となろう。生身の人間と向い合い、悩み、苦しみ、戦うからこそ、人間としての主体が見えてくる。それを綴ってこそ医者というわけか。
しかし、人間味あふれる臨床話を書く慣習は19世紀に頂点に達し、その後、神経科学の発達にともない衰えてきたという。実際、血液検査のデータを見、コンピュータと睨めっこしながら、診察するお医者さんを見かける。サックス博士は、患者との語りという原点回帰を試みる。あえて名づけるなら「アイデンティティの神経学」だそうな。そして、医者と患者は互いに対等で協力関係にあり、医者が患者を治してあげるという類いのものではないという。

精神病の根幹にあるのは、やはり自己存在との葛藤であろうか。病とうまく付き合って眠った潜在能力を引き出すケースが稀にあるにせよ、たいていの場合は自己を喪失するのであろう。無の境地を探求すれば、精神病との境界をさまようことになる。そもそも精神病を患わない人なんているのだろうか?いるかもしれない。精神がなければ精神病にもならずに済むだろう。
「病気こそは、人間の条件のうちの最たるものといえるだろう。なぜならば、動物でも疾病にはかかるけれど、病気におちいるのは人間だけなのだから」
一般的に、抽象化や分類化といった思考は高度なものと考えられている。大局を捉え人生の骨格を組み立てるためには役立つ思考で、学問を高みに登らせるためにも必然的な方法である。物事をできるだけ抽象的に語り、様々な解釈を思わせれば、 なんとなく高尚なものを感じる。これが哲学の極意というものよ。一方で、抽象論がいったい何を解決してくれるというのか?という疑問がある。具体的な方策は、問題に直面した者自ら導くしかあるまい。
ここに登場する患者たちは、現実逃避あるいは現実を見失った結果、抽象的な精神空間に幽閉された人々である。現実世界を見失えば、自己や自我をどうやって確認すればいいのか?実体のない空間で理性的自我と本能的自我とが葛藤を続け、無関心病に陥り、究極のエゴに苛み、やがてキェルケゴール風の「静かなる絶望」が訪れる。いくら抽象論で思考を進化させたところで、結局は現実を生きるしかない。医学とは、安らぎとともに幻想から現実に引き戻す手助けをする術とすることができそうか。
しかし、精神病患者とは、現実世界を見失った人たちだけであろうか?政界や財界には、権力欲や物欲に狂い、現実主義に憑かれた人々がわんさと居る。喪失も問題だが、過剰なのも問題か。他人の欠陥を強調する行為は、自分を慰めているのだろうか?最も危険な病は自覚症状がないことかもしれない。そうなると、精神的に危険でない人はいないことになりそうだ。狂ったこの世で狂うなら気は確かだ!...とは、そういうことかもしれん。

この手の書を避けてきたところがあるが、いつの間にか抵抗感がなくなっている。我が家にも重度の知的障害者がいる。せめて言葉が分かるとありがたいと思うこともあるが、症状が軽いと逆に往生することもあると聞く。中途半端に物事が分かるだけに、運転免許をとりに行くと言い出したり、なぜ結婚できないのかと駄々をこねたり、あるいは危険な行為に及ぶこともあるそうな。うちの場合はおとなしいだけで、そんなこと考えたこともないし、本人にはそういう概念すらないだろう。ひとことで知的障害者と言っても、症状は多種多様で症候群などという病名で一括りにできるものではない。この点、心理学者よりも障害者施設などで働く現場の人たちの方が、はるかに心得ているように思える。障害者一人一人を主体と捉え個別に対処しているのには感心させられる。
知的障害者は自閉症になるケースが多い。コミュニケーション能力が欠けると、自分の殻に籠もりがちとなる。無理に矯正しようとすれば、癇癪を起こしたりと、障害の上に精神不安に追い込むことになる。幼稚な感じがするだけに子供扱いしてしまいがちだが、専門家からは年齢なりに人格を尊重しなければならないと指摘されたことがある。馬鹿にできない能力もある。ジグソーパズルを組み立てるのが速く、1000ピースでも簡単に完成させやがる。おいらは夜景が好きだから、そうした風景画に誘導すると、暗い色ばかりで難しいはずだが、一旦始めると執着心は半端でない。
また、カレンダーや電卓が好きで、数字を眺めると落ち着きを見せる。発声はできるが、言葉がまったく分からず、自己主張するという行為に馴れない。だが、施設で他人と接する機会が増えると、あー、うー、となんとか自己主張するようになり、表情も豊かになった。反応は極めて純真で、素直に笑い、素直に怒る。機嫌が悪い時にでる鼻歌は、いつも決まっていて分かりやすい。それだけに頭にくることもあるが、こちら側の思惑のくだらなさに気付かされることも多い。人間観察にこれほど貴重な存在はないだろう。本書にも、どちらが矯正されるべきか考えさせられる事例が紹介される。

1. 左脳と右脳
脳神経学は、脳の左半球のある部分が損傷することによって失語症が起こることに気づいたことから始まったという。当初、高度な能力はほとんど左半球で生じる現象だったので、右半球は原始的と言われ、右半球の研究はなおざりにされてきたという。実際、右半球の現象は内側からも外側からも分かりにくく、研究が難しいのだそうな。
今でも、左脳は論理的思考をつかさどり、右脳は感覚的思考をつかさどると言われる。議論をしていても、論理と感覚では前者の方が説得力があるし、論理的思考に優れた人は賢く映る。だが、芸術的才能は感覚的なものが強く、左脳と右脳で優劣関係があるのも疑問だ。サヴァン症候群では、左脳が損傷を受けて右脳がその埋め合わせをした結果、計算能力が超人的に高められると聞く。左脳と右脳が連係するからこそ、うまいこと補完機能が働くのだろう。いくら優れた論理的知識を身につけたところで、やはり判断を誤る。結局、直観に頼って生きるしかないではないか。知識を知性に昇華させ、直感を直観に昇華させるには、理論と実践、論理と感覚、空想と現実、そして左脳と右脳を調和させることであろうか。

2. 六番目の感覚
五感は普通の人なら誰にでも認識できるだろうが、六番目の感覚となるとそうはいかない。それは第六感などではない。1890年、シェリントンが「人間にそなわるかくれた感覚」と呼んだものは、身体の可動部である筋肉、腱、関節から伝えられる連続的な感覚の流れのこと。彼は、これを外界感覚と内界感覚から区別するために「固有感覚」と名付けたそうな。身体の位置、緊張、動きは、この六番目の感覚によって絶えず感知され、無意識のうちに自動的に修正されるという。これは、自分が自分であるということ、すなわち自己のアイデンティティには欠かせない感覚だという。固有感覚があるからこそ、自己固有が認識できるというわけか。
ここでは、27歳の女性が突然この固有感覚を失った事例を紹介してくれる。起きても姿勢が保てず、顔は奇妙に無表情でたるんだ感じ、顎が垂れ下がり、口があいたまま。彼女は、身体がなくなった感じを訴える。リハビリをしているうちに、やがて固有感覚を視覚で補うことを覚えていく。鏡を見ながらポーズをとったり、姿勢の矯正などを意識的に訓練していくうちに、視覚反射が無意識に協調するようになる。感覚器官の麻痺を、別の感覚器官で代替するという人間の本能には、驚異的なものがある。ただ、見た目は身体障害者に見えないので、バスに乗る時のぎこちない動作に罵声を浴びたりする。自己存在との戦いを乗り越えても、社会との戦いが待っているとは...
また、身体感覚を失う事例で、心房細動で大きな塞栓が飛んだために、左半身不随になった患者を紹介してくれる。患者の話では、夜中に目をさますとベッドに並んで、死んだ、冷たい、毛深い足が一本いつもあるという。我慢できず右足で蹴飛ばすと、身体ごとベッドから落ちる。不随になった部分が、その存在すら認識できなくなるのだとか。これも、自己の一部を失った現象であろうか。
心頭滅却すれば火もまた涼し...と言うが、無念無想の境地に達すれば、六番目の感覚を自由に操り、どんな肉体的苦痛にも耐えられるのかは知らん。そして、本当に焼死するのか?

3. ファントム(幻影肢)
ファントムとは、身体の一部、通常四肢(両手両足)の一つがなくなったのに、何ヶ月もの間それが絶えず見える現象だという。幽霊のような怪しげで現実離れしているので、感覚的ゴーストとも言うらしい。危険なほど現実そっくりに見えたり、激痛をともなうこともあるという。身体イメージの障害というやつか。その要因は、中枢性要因と末梢性要因の二つが考えられるという。中枢性要因とは、感覚皮質、特に頭頂葉の感覚皮質が刺激されたり損なわれたりすること。末梢性要因とは、神経断端、断端神経腫、神経損傷、神経ブロック、神経の異常刺激、脊髄の感覚路や神経根の障害のこと。
映画「西部戦線異常なし」では、片足を切断した兵士が、失ったはずの足が酷く痛いと訴えるシーンがある。身体の実体が認識できなくなるのとは逆に、失ったはずの身体が幻想となってつきまとう場合もあるわけか。

4. 記憶喪失
記憶喪失に、ちょっぴり憧れるところがある。謎めいた過去に都合の良い夢を重ねるからであろう。実はすごい美女と結ばれ、大金持ちの御曹司ではないかと想像したり。そして、今の俺は俺じゃない!と心の中で叫ぶのだ。人間というものは、現実世界では悲観的でも、非現実世界では楽観的になれるのかもしれん。しかし、実際に記憶喪失になり、現実の過去が耐えられないほどの悪夢となれば、気が狂うかもしれない。実は身の毛もよだつ殺人者だとすれば、スーパーエゴによる自責に苛むことになろう。
ここでは、会話が数行しか覚えられないコルサコフ症候群の事例を紹介してくれる。記憶がなければ、自己の一貫性が保てない。いつも存在不安に苛まされ、陽気に振るまい、自己の物語を喋り続ける。だが、すぐに辻褄が合わなくなり、空想という名の蟻地獄へ落ちていく。記憶喪失とは、まさに自己喪失というわけか。

記憶をすこしでも失ってみたらわかるはずだ。記憶こそがわれわれの人生をつくりあげるものだということが。記憶というものがなかったら、人生はまったく存在しない...記憶があってはじめて、人格の統一が保てるのだし、われわれの理性、感情、行為もはじめて存在しうるのだ。記憶がなければ、われわれは無にひとしい...わたしが最後にたどり着くところ、それはいっさいの記憶の喪失だ。これによってわたしの全生涯が消し去られる。...ルイス・ブニュエル

5. 失語症患者と音感失認症の言葉を見抜く能力
感覚失語、あるいは全失語で言葉が理解できなくても、ほとんどの患者で話しかけらていることは分かるという。発話は、単語のみで成り立つのではなく、主題や内容だけで成り立つわけでもない。発話には、その人の存在を意味し、言葉を凌ぐ力をもった表情がつくという。
失語症患者は、表情、しぐさ、態度にあらわれる嘘や不自然さにとても敏感だという。盲目な失語症患者は、声の調子、リズム、拍子、音楽性、微妙な抑揚、音調の変化、イントネーションなどを聞き分けるのだそうな。
そこで、失語症病棟からどっと笑い声がするエピソードを紹介してくれる。元俳優の大統領のテレビ演説を見ながら。芝居がかった仕草、オーバーなジェスチャーに不自然な調子、患者たちには言葉の偽りがお笑い番組にでも見えるのか。なるほど、近年バラエティー番組に政治家どもが多く出演するようになったのも、やはりお笑いか。
では逆に、言葉は理解できるが、音感失認症ではどうだろうか?音感失認症は右側頭葉の障害によって起こり、声から喜怒哀楽や表情が読み取れないという。そこで、音感失認症だが、言語能力の高い英語教師の女性は、同じ大統領演説をこう評したという。文章がまるでダメ、言葉づかいが不適当、頭がおかしくなったか隠し事があるかだろうと。
失語症患者も音感失認症患者も自分の障害を自覚しているだけに、注意深く演説を読み取ろうとする。発話にはフィーリングトーン、情感的調子というものがあり、言葉にも人格が現れるらしい。そうなると、正常だと思っている人ほど微妙な言葉の表情が読み取れず、欺瞞されやすいということか?有識者と自称する者ほど、言葉が見えていないということか?そうかもしれん。

6. 知的障害者の純真さ
詩人的才能にあふれた少女の言葉は感動もの。いつも側にいた祖母が死ぬと彼女は泣く。だが、泣いているのは祖母のためではなく、自分のためだと語る。
「おばあさんは私の一部だった。私のなかのどこかが、おばあさんといっしょに死んでしまったの...いまは冬で、私は死んだような気がするけど、きっとまた春はめぐってくるわ」
祖母が死んだ後、少女は断固とした態度をとるようになったという。授業を拒み、作業も拒む。守ってくれた祖母を失ったことで、自立心が高まったのだろうか?
「なんの役にも立ちません。あんなことやったって、人間としての統一は生まれません...私は、生きている絨毯のようなものです。絨毯にあるような模様、デザインが必要なのです。デザインがなければバラバラで、それっきりです。...意味のあることが必要なんです...」
見事な比喩で真理をついている。デザインのない絨毯が存在するだろうか?逆に絨毯がなく、デザインだけで存在しうるだろうか?少女は、自分の能力という現実を頼りに生きるしかないことを知っている。不器用であらゆる能力が劣っていても、穏やかで成熟した感情をもち、充実した生き方を知っている。人生を楽しむということを具体的に知っているのは、彼女らの方かもしれん。

7. 超人的な計算能力
超人的な計算能力を持つ双子の診断は、自閉症、精神病、重度の精神遅滞など様々。双子は、何万年前でも何万年未来でも日付を言えば、瞬時に曜日が当てられる。また、300桁の数字がやすやすと記憶できる。数字を視覚的に捉える能力があるらしい。しかし、初歩的な計算はできない。掛け算とわり算の意味も分からない。マッチ箱を落として中身が散乱すると、二人は瞬時に111と答えた。それから37と。数えてみると、マッチが111本あったという。双子は、111という数字が見えると答えたそうな。37は何か?37 + 37 + 37 = 111、なんと素数で分解してやがる。
カレンダー計算の方はモジュロ計算(mod 7)で算出できる。理屈は単純な巡回計算だけど、それで説明がつくのか?素数の方はどうか?双子は素数を言い合って遊び、12桁の素数でも5分ほどで答え、一時間で20桁の素数まで達した。「エラトステネスの篩」なんてアルゴリズムを知っているわけでもなかろう。幾何学の合同の概念を使っているのではないか?という推測もある。数字が見えるとは、図形が見えるということか?純真な心の持ち主にしか見えない数字の風景というものがあるのだろうか?ダニエル・タメット氏のように。
確かに、ユークリッドの「原論」には無理数を幾何学で表現する苦悩が見られる。万物は数である!というのは真理かもしれない。いや、人間の脳は複雑な電磁波に支配される量子で構築される。双子の脳は量子コンピュータとして働いているのか?
しかし、精神異常を矯正しようとして失敗する。双子は合言葉のように数字で会話するが、それが原因だとして引き離される。そして、超人的な能力までも失われ、凡庸以下の能力にされてしまう。幸せの押し売りほど恐ろしい虐待はないのかもしれん。