相変わらず難解なフーコー... この怖いもの見たさが、思考の暴走を加速させやがる...
「狂気の歴史」では、ルネサンスの輝かしい歴史の裏で、狂人たちの処遇にも変化が現れたことを物語ってくれた。それは、非人間性から非理性というやや柔らかい概念への移行である。精神病という病の認識が芽生え、光と影が人間性において融合を始めたのである。とはいえ、治療法をめぐっては、監禁されることに変わりはない。
「監獄の誕生」では、その生々しい監獄の設計図が描写される。犯罪者の精神鑑定という見方も、この頃登場したらしい。人類の歴史とは、人間という身分をめぐっての歴史である... とでもしておこうか...
監獄は国家権力の重要な機構の一つであり、それは裁判所や警察機構と協調して機能する。規格外の者をどう扱うか?非行や非理性をどうやって抑制するか?そこには、排除の方法論がある。しかしながら、監視、処罰、矯正といった手口は、一般社会にも根付いている。家庭、学校、企業、病院、軍隊など、あらゆる集団で管理社会が形成され、少し規格から外れると村八分にされる。最高権力者である国王もまた民衆に監視され、やがてギロチン行き。アリストテレス風に言えば、人はみな、生まれつき奴隷のようなものであろうか...
フーコーは、国家権力の在り方をイデオロギーの作用としてではなく、人間本性的な観点から論じる。権力とは、思想観念的なものではなく、ブルジョアジーという新たな階級が生じる中で自然に組み込まれたという。どんなに平等を叫んだところで、やはり階級は生じる。それは、人間の多様性が本性的なものだからであろう。能力の自由を妨げることはできない。問題は、むしろ権力と階級が固定されることの方にある。
かつて、国家権力が処刑の正当性を示すために見せしめを命じれば、民衆の見世物として定着した時代があった。陰謀によって処刑された者も少なくなかろう。自白を強要された者もいるだろう。犯罪の証拠に自白が有効であるのは、現在とて同じ。当時、「死刑囚の断末魔語録」という様式が実存したという。罪の悔み、判決の承諾、神へ詫びる姿など、死刑囚たちの懺悔の記録が処刑の残虐さに正当性を与える。
しかし、いつの時代も真相は闇に葬られる。少しでも疑いのある記述が暴露されれば、探偵文学が活況となり、様々な陰謀説が巻き起こる。三面記事が、極悪非道の人物に仕立て上げるかと思えば、権力との対決振りを英雄伝説に塗り替えることも。皮相的な道徳礼賛の下で面白おかしく書き立てれば、そこに民衆が群がる。はたして苛酷な処罰が、犯罪を抑制しているだろうか?モンテスキューは、過度な刑罰はむしろ法の網をくぐる狡猾さを身につける...といったことを語った。
刑法の役割とは何か?一つは国民の法益を守ることにある。犯罪防止はそのためのものであって、大岡裁きのように悪い奴を懲らしめるためのものではあるまい。けして復讐や賠償のためのものではないのだ。とはいえ、見せしめにしても、強制収監にしても、政治の技術として機能する。そこで、実践的な概念に量刑というものがある。ただし、時代感覚によって量刑に違いが生じるのは自然であろう。あまりに残酷な刑罰が日常化すると、突然虚しさに目覚め、人間性を取り戻したいという感覚に見舞われるかもしれない。
フーコーは、監獄の側から見た人間社会の在り方を問うている。本書は、いかに監視するか?いかに処罰するか?を主題にした国家権力論である。人間の多様性が本性的であるにもかかわらず、刑罰の方はというと、量刑、すなわち刑期で画一化され、究極の刑罰に死刑が位置づけられる。多様性に対して画一的に対処するとは、なんとも奇妙であるが、経済的な政治技術と言えよう。ただし、社会復帰のための矯正や訓育においては、精神鑑定と精神医学によって多様に対処することが求められるが、それも19世紀まで待たなければならない。
フーコーは、人間管理システムの最高モデルは「一望監視方式」にほかならないとしている。こうした画一的な処置を、社会全体の幸福量として計測するならば、功利主義的な発想に近い。実際、一望監視方式を考案したのは、功利主義の主唱者ジェレミ・ベンサムだそうな。
ところで、刑罰には時間の意義が含まれ、刑期は自由の量として換算される。保釈金は時間を買うための手段となる。その金額が、犯罪の重さだけでなく保有資産も考慮されるとなれば、ここにも経済原理が働く。すなわち、需要と供給の関係である。
一方で、終身刑は、死刑と同じく時間の概念を抹殺する。完全に望みが絶たれれば、労働や訓育に無関心となり、もっぱら脱獄と反抗の計画に向けられるという。そこで現在では、時間の概念を失わないように、仮釈放という方策が組み込まれる。確かに、時間は自由意志と直結する概念である。しかし、監獄制度は、希望をつなぐだけで機能するものでもあるまい。塀に囲まれた世界は、ある種の保護地域として機能する。実際、三食が保証された刑務所に戻りたいと、わざと軽犯罪を繰り返すケースもある。
「シャバを恐れてる。50年もムショ暮らしだ。ここしか知らない。ここでなら彼は有名人だが、外では違う。ただの老いた元服役囚だ。白い目で見られる。あの塀を見ろよ!最初は憎み、しだいに慣れ、長い月日の間に頼るようになる。施設慣れさ!終身刑は人を廃人にする刑罰だ。陰湿な方法で...」
...映画「ショーシャンクの空に」より
1. 身体刑の消滅
拷問は、罪人にけして楽な死を与えない。しかも、民衆の見世物となって娯楽化する。処刑台では... 胸、腕、腿、脹ら脛を灼熱したやっとこで懲らしめ... その傷口には、溶かした鉛、煮えたぎる油、焼けつく松脂がたっぷりと注がれ... 身体は四頭の馬に四裂きにされ、手足の関節がもぎ取られる... そこに聴罪司祭が問いかける。生きているか?... これが身体刑の日常だそうな。
なぜ、一人の死にこれほどの手間暇をかけるのか?人間どもは、よほど退屈なのだろう。伝統的な裁判では、残虐な処罰が道徳の下で正当化されてきた。恥さらしが目的化すれば、死体になってもなお晒し者となる。そして、残酷な日常が民衆を狂気させる。道徳の暴走とは、実に恐ろしい。本書は、数世紀に渡って理性の宗教がなしてきた数々を物語る。人類の野蛮さの刻印として。
「刑罰としての身体刑は、身体へのありとあらゆる処罰を包括しているわけではない。というのは、それは分化したかたちで苦痛を生み出すことであり、刑の犠牲の刻印のために、また処罰する権力の明示のために組織される祭式であって、自分の立てた原則を忘れ自己統御を失ってしまうような司法権力の激怒のすがたではないのである。身体刑の極端さには、権力の一つの経済策全体がもりこまれている。」
しかし、あまりに度が過ぎ、権力者の憎しみまでも正当化されれば、どちらが罪人なのか?見物人は疑問を持ち始める。18世紀から19世紀頃、身体刑が簡略化し、死刑の苦痛にも平等という概念が生じたという。
ただ、イギリスは身体刑の消滅に最も抵抗した国の一つだという。その理由は、イギリスの刑事裁判が陪審員の設置と、訴訟手続の公開と人身保護令状の尊重によって、模範的な役割を与えていたからだという。刑法の厳格さを減少させたくないという思惑があったようだ。尚、モンテスキューの「法の精神」によると... イギリスでは、拷問を認めず第三者の証言を重んじるが、フランスでは、証人を怯えさせることを法の原理とする... といったことが語られていた。人道的な法律という意味では、イギリスの方が進んでいる印象を与えるが、ここでは逆説的に語られるところに注目したい。
さて、死刑執行が見世物でなくなれば、司法と死刑囚との間で機密が生じる。密室において拷問が隠蔽されることも。警察権力の暴走は、民衆の暴走にもまして恐ろしい。そこで、法による厳正な規定が必要となる。法理論家たちは、罪の意識を目覚めさせることが動機となり、残酷さが少ないほど穏やかさは増し、人間らしさが増すと考えるようになる。刑罰は、身体に刻むのではなく、精神に刻むものであると。身体刑に対する反対運動が生じれば、国家権力は残忍者の代名詞となる。そして、国王たちもまた、自ら守ってきた残酷な伝統によって晒されることに...
2. 自白の両義性
犯罪訴訟の手続きにおいて、証拠と第三者の証言に信憑性があれば、原理的には自白は必要としないはず。しかし、現実の取り調べでは、自白を中心に展開される。ここには、奇妙な両義性が介在する。一つは、自白は他のいかなる証拠よりも説得力がある反面、嘘は自白にも他の証言にも内在するということ。二つは、自白は自発的であるべきだが、同時に強要されるということ。自由意志は、おそらく人間の本性的なものであろうし、自発的な懺悔ほど説得力のあるものはない。だが、自由意志の扱いをちょいと間違えると、自発性とは程遠いものとなる。それは、平等とて同じ。自由や平等といった癒し系の言葉は、心地よく響くだけに悪用されやすい。
さて、人間はどこまで拷問に耐えることができるだろうか?自白の強要など簡単なことかもしれない。そこで、ちょいと視点を変えて、監獄を社会復帰のための装置として眺めると、自白の扱いも変わってくる。刑罰や監禁制度は再犯防止として機能しているだろうか?それは再犯率が物語っている。刑罰が非行性を助長することもある。一度、加辱刑を受けたものは、晒し者とされることを恐れないかもしれない。刑罰が日常化すれば、脅しの効果も薄れるだろう。酔っ払い運転を撲滅するために処罰を強化しても、却って事故現場から逃げ去るという悪質が生じる。タクシーやバスの運転手が、前日の晩酌のために検査にひひっかかれば、職を失い、人生をも狂わせる。軽い酒気帯びから悪質の酔っ払いまで、一緒くたに社会的制裁を受けるとすれば、そこに量刑は機能しているのだろうか?刑罰が社会の価値観に適った程度で規定されなければ、罪に対して自発性を促すことは難しい。刑罰がその性質上、強制執行されるのは当然である。だが、そこには自由意志との和解によって成り立つ側面があることに留意したい。
3. 人間機械論
兵士は勇ましさの紋章のような存在で、18世紀後半には身体全体を服従させ、人間機械を形作ったという。農民の物腰を追放し、兵士の従順な態度を持ち込む。直立不動で胸をはり、しっかりとした足取りで行進する。そういう姿に、子供たちは憧れる。ある種の国家意識の高揚である。
「人間論(= 機械論)」として受け継がれる書物は、二つの領域から書かれたという。一つは、最初にデカルトが書き、医師や哲学者たちに継承され、解剖学や形而上学として花開いた領域。二つは、軍隊、学校、施設院における規則の総体として、矯正や反省をうながすための技術となった領域。前者では作用と説明が、後者では服従と効用が重視される。とはいえ、双方の領域には重なる点がある。服従させるとは、役立たせるということ、従順さを仕込むということ。すなわち、政治的な自動人形という権力モデルである。
軍隊的な規律や訓練が支配の一般方式になったのは、17世紀から18世紀だという。その代表格といえば、徹底した軍隊訓練に執心したフリードリヒ大王であろうか。それは禁欲苦行や修道院型の規律や訓練と違って、自分自身の身体統御を主要目的とし、名誉と誇りで支えられる仕組み。強制の形態でありながら、うまいこと奴隷制を免れるやり方で、身体が権力装置に組み込まれた積極的強制モデルである。モーリス・ド・サックス元帥の著書「我が夢想」には、こう書かれているという。
「細部に専念する人々は偏狭な人間だと見なされているが、しかし私には、この部分は根本的であると思われる。なぜなら、この部分が基礎であるからだし、また、その成分をもたなければ、どんな建造物をつくることも、どんな方式をうちたてることも不可能であるからだ。建築趣味をもつだけでは充分ではない。石の刻み方を心得ていなければならないのである。」
こうした細部に渡る合理的組織化は、古典主義時代に始まったものではない。政治分野は、立法、司法、行政、軍隊、警察、外交、経済、教育...と、多くの部門に分かれる。学問にしても、細部まで極めようと専門化が進み、いまや総合的な知識として眺めることが難しい。数学ひとつとっても、幾何学、代数学、微分学、解析学、確率論、集合論、情報理論など、それぞれが有機的な存在となっている。こうした分化構造を縦割り構造と言うのかは知らん。人間社会の合理性とは、人間を機械化しようという目論見なのかもしれん。
4. 一望監視方式
建築学的には「一望監視方式」という形象があるそうな。「パノプティコン」とかいうやつか。本書には、ベンサムの考案した図面が添付される。すぐに思いつくものは、一面を見通せる鉄塔から囚人をライフルで狙うといった監視システム。映画の見過ぎか?それはさておき、監視とは、いわば管理方法の一つであり、あらゆる共同生活に関係する事柄である。仕事におけるプロジェクトチームにも、家族構成にも。
事細かく監視を必要とする教育をするか、ある程度の自由裁量を認めても大丈夫なように教育をするか、どちらが人間らしいかは、ここでは議論しないでおこう。とりあえず、好みの問題としておこうか。権力者は、監視方式を画一化することを好む傾向があるようである。そんな規定を作るだけでも面倒であろうに。哲学的な共通観念を植え付ける方が、はるかに合理的であろうに。ただ、どんな方法を用いても、規格外の者は生じる。それが、人間の多様性というものであろうから。そして、政治における最も重要な事項は、教育ということになろうか。国民全体の意識が、目先の欲望や目先の風潮に向かうようでは国家の行く末も危うい。多種多様な価値観を育みながら、哲学的な共通観念を築くこと。つまり、真理において統一された多様な観念とすること。そして、監視は信頼において機能するということを付け加えておこう。警察権力や法律に無条件で従うのも、信頼の証である。では、政治家が率先して法の網をかいくぐろうとするのはなぜか?国家に信頼が置けないということか?俺が法律だ!とでもいうのか?いや、法の限界実験をやっているに違いない。
監視は長らく見世物とされてきた。円形競技場で奴隷たちの流す血などは、国家行事の娯楽であった。狂気を見世物とすれば、見物人までも狂気する。やがて、臭いものには蓋!という意識が広まる。しかし、どんなに人間の本性を覆い隠そうとも、タブー社会の中に投影され続けるだろう。
5. ナポレオン法典と拘禁制度
当時、監獄の歴史はナポレオン法典とともに創設されたと言われていたそうな。フーコーは、その歴史はもっと古いと語る。ただ、18世紀から19世紀に転換期が生じ、監獄は拘禁中心の刑罰制度へ移行したのも事実だという。監獄は、拷問のための待合所から、社会復帰のための拘束所へ。大航海時代から産業革命の潮流に乗って、主産業が農業から商業や工業へ移行する中、様々な商取引における法律が整備される。自由市場の暴走が、法の進化を促進するとは。それでも、資本家階級の台頭で、王族や貴族や聖職者といった特権地位を転覆させた功績は大きい。
さて、ナポレオン法典は民法典という印象があるが、刑事訴訟法や刑法、あるいは商法なども定められるという。五法典もあるとは知らなんだ。監禁制度に関しても規律と訓練が厳格に定められ、拘禁は単なる自由剥奪と混同してはならない、といったことが記載されるという。罪の重さによって、留置場、懲治監獄、中央監獄で収監場所が区別され、拘禁の仕方も区別され、労働と食事の在り方から就寝時間や起床時間などの囚人規定も定められているとか。改心の目的が明確に規定されていることは、注目すべきであろう。
監禁機構を行政の一部として取り込んだのが、拘禁制度ということらしい。19世紀になると、行政上の手続きとして、受刑者の精神報告も義務付けられたという。凶暴性や非行性に対する病理学的な見地が導入されると、狂気が精神病として認識されるようになり、やがて監獄の普遍的な方法が研究されていく。裏社会の研究は、社会学の本質の領域にあるのだろう。人間の本性は、むしろタブーの側にあるのかもしれん。
Contents
- 2013-09-22 "監獄の誕生" Michel Foucault 著
- 2013-09-15 "狂気の歴史" Michel Foucault 著
- 2013-09-08 "法の精神(上/中/下)" Charles-Louis de Montesquieu 著
- 2013-09-01 "政治学" アリストテレス 著
- 2013-08-25 "法律(上/下)" プラトン 著
- 2013-08-18 "国家(上/下)" プラトン 著
- 2013-08-11 "国富論(上/下)" Adam Smith 著
- 2013-08-04 "正義論" John Rawls 著
- 2013-07-28 "イノベーションのDNA" C. M. Christensen, J. Dyer, H. Gregersen 著
- 2013-07-21 "イノベーションのジレンマ" Clayton M. Christensen 著
2013-09-22
2013-09-15
"狂気の歴史" Michel Foucault 著
「パスカルによると... 人間が狂気じみているのは必然的であるので、狂気じみていないことも、別種の狂気の傾向からいうと、やはり狂気じみていることになるだろう。」
いきなり投げかけられる文面が、これだ。この手の難解な書には、ある種の麻薬効果があって、なぜか心地良い。そして、思考が勝手に暴走を始めるのだ。なぁ~に、いつものことよ...
ミシェル・フーコーは、別種の狂気についても歴史を書く必要があると語る。物語は古典主義時代に遡る。カトリック教の強烈な支配下で多様性が失われると、ギリシア、ローマ時代の自由意志を懐かしむ風潮が生じ、古典回帰の文化運動が巻き起こる。いわゆるルネサンスだ。フランスではやや遅れて17世紀頃、ドイツではもう少し遅れて18世紀頃波及。この17世紀から18世紀にかけて、非人間扱いされてきた狂人たちの処遇にも変化が現れたという。そこには、ルネサンスの光明の陰で、監禁や牢獄とともにタブーとされてきた暗黒の物語があったとさ。この状況に最も当てはまる人物といえば、マルキ・ド・サドであろう。サドの前では狂気ですら完全な見世物となる。狂気は、長らく怪物のように扱われてきた。
ところが、古典主義時代に「非理性」という概念が登場したという。この用語は、怪物より柔らかい印象を与える。精神病や臨床医学という認識が広まり始めたのも、この時代だそうな。狂気もまたルネサンスの潮流に乗って、自由意志としての人間性を取り戻そうとする。とはいえ、治療法をめぐっては、監禁されることに変わりはない。狂気を研究すれば、理性との結合や分離について考察することになる。理性との結合から生じる人類愛ってやつは、どこからくるのか?盲目的な残虐行為への反発からくるのか?過去の狂気を批判する者もまた、叙情的な憤慨を剥き出しにする。自己存在を堅守するために理想論を並べたところで、別種の狂気に憑かれる。真理の偉大さを語れるのは、ただ沈黙のみ、ということであろうか...
「理性の真の姿は、理性が否認する狂気をただちに出現させ、今度はこちらが、理性を消滅させる狂気のなかに姿をけすことにある。」
一般的に狂気に対抗できるものは、理性とされる。確かに、狂気と非理性は相性がよさそうである。では、理性と非理性を分けるものとはなんであろうか?人間性を知ろうとすれば、非人間性との境界を探求することになる。理性を知ろうとすれば、理性の限界を見極めることになる。道徳もまた、悪徳への皮肉から生じる。理性とは、自由意志によって構築されるものであって、受動的な動機から生じるものではあるまい。
一方で、自由意志は束縛への反発から生じる。天才たちの超人的な集中力や芸術的な創造力もまた、自然や宇宙による束縛への反発であろう。まるで狂気の沙汰よ!すると、非理性を安直に悪徳と同一視するわけにもいくまい。狂気は理性とも相性がよさそうである。ソクラテス流に言えば、無理性を自覚する者こそ理性者ということになろうか。
「狂人は人間存在として取り扱われない、というこの否定的事実は、きわめて肯定的な内容を持っているのであって、人間扱いしない無情なこの無関心は、現実には強迫観念という意味あいを含んでいる。」
しかしながら、狂人たちに人間失格の烙印が押されるのは、今も変わらない。狂気の代名詞は、気違い、錯乱、暗愚、間抜け、気のふれた、頭が変、低能、痴呆、阿呆、白痴、馬鹿...と事欠かない。現代社会で「きちがい」が禁止用語とされるのは、真理を覆い隠そうという魂胆か?差別する側が狂気しているのは明らかだが、言葉の揚げ足を取って差別用語だと叫ぶ側もまた荒れ狂う。有識者や有徳者と呼ばれる人たちは、いくらか理性を具えているのだろう。そんな正気な人たちでさえ、無情な言動を通して認知し合っているではないか。理性という陰謀が、感情的な正義の声に耳を傾け、静かに囁く真理の声を抹殺する。しかも、理性は心の奥底で非理性と対峙しながら、常に緊張状態にある。理性者たちが突如として怒鳴りまくるのは、緊張を和らげるためか?これが説教ってやつの正体か?彼らは、言葉で勝利してもなお憤慨する。ならば、狂気を受け入れる方が、よほど平穏でいられるであろうに...
ちなみに、おいらがディオゲネスを好むのは、プラトンに「狂えるソクラテス」と仇名されたからだ。狂気バンザイ!無理性バンザイ!無知性バンザイ!ついでに、酔っ払いバンザイ!アル中ハイマー病バンザイ!
ちと脱線するが... もともと脱線しているが...
一霊四魂という思想があると聞く。勇、親、愛、智によって構成される魂が、一つの霊によって統括されるという思想である。いずれの魂も孤立すれば、邪気となる資質を具えている。邪気が悪魔の手に落ちれば、たちまち邪悪な鬼と化す。血塗られた歴史の陰には、いつも邪鬼が住み着いていた。アダムとイブが禁断の果実を食して以来、人間は神の善意を解することができなくなり、お釈迦様ですら菩提樹の下で心を惑わせた。イエスは敬虔な使徒に裏切られ、シーザーは誠実な盟友にあやめられ、芸術を愛した皇帝ネロを暴政に狂わせ、ボルジア家を強欲の代名詞とさせ、建築家を夢見た内気なヒトラーをば悪魔へ変貌させた。人間の魂には、恐ろしき邪鬼の棲家がある。
なのに、芸術家の目覚めは精神を悟るに、いくら狂っても足りない。四魂の邪鬼を存分に解放させ、猛烈な狂気の中に調和を目論む。凡人には到底及ばない芸当だ。
しかし、能力を欠いていても夢を描くことはできる。そして、夢もまた狂気するのだ。偉大な夢を実現できたら、どんなに幸せであろう。せめて、過ちを夢に閉じ込められたら、どんなに楽であろう。そして、酔っ払った狂人の悲痛な叫びを聞くがいい... おいらはハーレムに収監されたいのだ!
1. 狂気の秩序と排他的領域
狂気とは、脱理性から生じる理性のようなものであろうか?カオスやエントロピーが真理だとすると、無秩序から生じる秩序があってもいい。宇宙空間を構成するものは、人工的な美でもなければ、形式的な美でもなく、自然の乱雑さがあるだけ。なのに、そこにも秩序らしきものが生じる。まさに人体がそれだ。この集合体は、単なる原子の集まりだけでは説明できない。自然の産物である人体に合目的があるとすれば、人体の中に形成される狂気にも恣意性があるのだろうか?
狂気が、暴走する理性への反発から生じるのかは知らん。ただ、理路整然とした構成美に対するアンチテーゼとすることはできそうである。常識だけでは思考は乏しい。理性だけでも精神は乏しい。あらゆる進化には、秩序を超越した秩序のようなものが必要なのだろう。人間が自由意志の持ち主であるならば、人間同士で摩擦が生じない、なんてことはありえない。ましてや集団化すれば、個人の冷静さなど無力化される。集団性が常に狂気する危険性を孕んでいるとすれば、社会から一線を画すのも一つの手かもしれない。戦争は明らかに狂気であり、平和ボケも別種の狂気である。グローバルな共通観念を押し付ければ、存在本能としての帰属意識を働かせ、社会嫌いや人間嫌いを助長させる。仮想的なつながりを煽れば、孤独愛好家を増殖させる。
まだ精神病患者が救われるのは、狂気を自覚できることであろう。いや、自覚した途端に死に追いやられるかもしれない。最も厄介なのは、歪んだ精神では狂気していることにも気づかないことであろう。理性と狂気は対立的に扱われるが、理性を自認する者が狂気を自覚できるだろうか?
人間が排他的論理を好むのは、自己が優位な領域にあると願っている証であろう。はたして、正気と狂気の境界はどこにあるのか?排他的領域は、精神病棟の鉄格子によって隔離される。もし、その境界が鉄格子だとしても、異常者を隔離するためのものか?純真な心を保護するためのものか?そして、自分はどちらの側にいるのか?真理を探求するには、隔離よりも調和の方に分がありそうだ。
未来への希望は、過去の悲劇との相殺によって、精神の平穏を保とうとするのだろうか?幸せな人ほど悲観論を語るのか?それとも、悲観的な出来事に馴らされてしまった結果なのか?極端な悲劇を体験をすると、笑顔を見せないばかりか喜怒哀楽までも失う。人は幸福過ぎても不幸過ぎても、やはり冷酷になるようである。精神分裂症が理性と狂気の分裂によって生じるとすれば、理性を知ることができるのは精神病棟の方かもしれん。
「宿命的に人間を無に帰していた、死というあの必然性の発見から、人々は、実在それじたいであるあの無を軽蔑のまなざしで観照する態度へ移ったのである。死というあの絶対的限界をまえにしての恐怖が、不断の皮肉のなかに内在化する。」
2. 慈善事業と信仰
富裕も貧乏も、幸福も不幸も、神のおぼしめしとするなら、慈善事業は成り立たない。激しい慈善事業の拒否は、ルターやカルヴァンにも認められるという。キリスト教が神に縋る消極的な信仰とされる所以である。慈善事業は、信仰的に行われるべきものではなく、法的に処理すべきものだという。基本的人権としての最低生活水準を、社会が規定すべきということであろう。慈善事業は一時的な支援に留まり、永続的な解決にはならない。宗教的な施しも貧困や悪徳を撲滅することはできない。ここに救済の難しさがある。
とはいえ、突如として発生する災害や災難に対して慈善事業はよく機能する。慈善はカトリックの信条とするところ。実際、キリスト教の多くの国々で、災害や戦争で孤児や難民が発生すると、その身元を引き受けようという意志を示し、感服させられる。他方、善意というものは、なかなかの曲者であることも否めない。拒否されると、せっかくの行為を!と反発を買い、悪意を拒絶すれば、見破られたか!と逆ギレされる。どっちに転んでも憤慨されるとなると、善意も悪意も有難迷惑な存在か。
多くの国で、道徳は宗教で教わるものという伝統がある。確かに、人間には信仰が必要である。だが、宗教に頼らなくても信仰は構築できるし、既存の宗教の胡散臭さを無条件で信じるよりは無宗教の方がましであろう。実際、宇宙論的立場から独自の信仰を構築している科学者も少なくない。感情論的なキリスト教を批判し、論理的に修正を加えながら独自なものにするキリスト教徒もいる。おいらは無神論者に極めて近いが、それでも宇宙論的な絶対的な存在のようなものがあると思っている。それを神と言うのかは知らんが、少なくとも宗教が呼ぶ神とは同列にしたくないだけだ。神が見ておられるから道徳を行うと言うのなら、神が見ていなければなんだってやるのか?人間の都合で神を具現化する方が、よっぽど神の冒涜であろうに。とはいえ、独自の神を構築すれば、これまた暴走を始める。結局、人間ってやつは、ご都合主義に染まるのよ。そして、みんな教祖様となって聖職者は貪欲な生殖者となりはてるのか...は知らん。
3. 臨床医学への意識
学問の傾向は、まずは現象を分類しながら、抽象化によって高められていく。対して人間の病状はというと、一人一人に特徴が現れ、治療法は個別に対応させる必要がある。そんなことは、心理学者よりも福祉現場で働く人たちの方がよく心得ていて、患者の癖や行動様式を事細かく記録する。人間観察では、抽象化よりも具現化に縋る方がよさそうである。学問と人間観察とでは、思考の方向が真逆にあるのか?いや、双方を調和させるべきであろう。精神性と論理性も、人間性と自然性も。ヘーゲルは、こう書いているという。
「ほんとうの心理的治療は、狂気が知性の点でも意志とその責任能力の点でも理性の抽象的な喪失でなくて、単なる精神の混乱であり、依然として現存する理性のなかにおける矛盾である。」
狂気の歴史とは、監獄の歴史でもある。監獄は、人道的とは反対で、人類愛的ではなく極めて政治的な手法である。だからといって、非人道性を非難するだけでは、社会秩序を維持することができない。道徳的治療では、労働こそが第一とされる。労働によって狂気に拘束力を与えるならば、それが最善となろう。だが、強制労働に頼れば、道徳を根付かせるどころか、むしろ反道徳を育てる。なのに、どういうわけか?有識者ほど狂人を拘束したがるようである。ボアシエ・ド・ソヴァージュは著書「組織的疾病分類学」の中で、こう書いているという。
「魂の病を治すことができるためには、哲学者でなければならない。実際、この病の起源は、病人が善と見做す、一つの事柄への激しい欲望にほかならないのだから、医師のなすべき義務は病人に、彼が熱望している事柄は表面的には善であっても実際には悪であるのを、明確な理由によって証拠だててやり、自分の誤りをさとるようにすることである。」
4. 自由の使い道
モンテスキューは著書「法の精神」の中で、ローマ人の自殺とイギリス人の自殺とを対照的に語っている。ローマ人の場合は、道徳と政治にかかわる行為で慎重な教育に基づく計画的な結末であるとし、イギリス人の場合は、一つの病気としして、こう述べている。
「イギリス人は、その決心をしなければならないどんな理由も他人には考えられないのに自殺する。彼らは幸福のさなかにおいても自殺する。」
また、法律でどんなに厳しく取り締まろうとも、やはり法の抜け道を探るもので、風土に根付いた意志を無視すれば、むしろ狡猾さを身につけることになる、といったことも語っている。本書にも似たようなことが語られる。
「イギリス人は商業国民を形づくっている。つねに投機に夢中になっている精神は、たえず恐怖と希望に左右される。商業の核心にある利己主義は、容易にねたみ深くなり、他のさまざまな能力に助けを呼びもとめる。」
こうした自由は、自然な自由とは程遠いものだと指摘している。それは、個人や組織の利害にまつわる自由で、人間精神と心情とにかかわる自由ではないという。現在でも、経済的に成功した国で自殺が増加傾向にある。それは、偽りの自由の代償であろうか?真の幸福の姿が見えなければ、自然に不幸に吸い寄せられる。そして、狂気を演じながら、本当に狂気するのだろうか?金持ちほど自由になれるとすれば、その社会は専制的となる。どんなに賢明な御仁であっても、自惚れが知性を曇らせ、理性をも失わせるのに、ほんの一瞬あれば事足りる。魂に加えられる激しい情念が、どんな理性的な人間をも、突如として凶暴で愚鈍な人間に変貌させる。人間は、常に恐怖心や不安感に苛まされる臆病な存在である。その重圧から解放された途端に、極端な本性を剥き出しにする。普段から自由を抑制された者ほど、その反動は大きくなるだろう。厳しい鍛錬の裏腹に、能力を人質にするのか?理性の自由独立は、非理性の場において解放されるというのか?ならば、狂気を崇拝する宗教があっても不思議はない。狂気は、愚かさの爆発でもある。そして、あらゆる受難の道を辿り、愚かさを崇拝するというのか?
「死が時間の側面における人間生命の限度であるように、狂気は動物性の側面におけるその限度であって、死がキリストの死によって神聖視されたのとまったく同様に、狂気は、そのもっとも動物的な面までも、やはり神聖視されたのである。」
いきなり投げかけられる文面が、これだ。この手の難解な書には、ある種の麻薬効果があって、なぜか心地良い。そして、思考が勝手に暴走を始めるのだ。なぁ~に、いつものことよ...
ミシェル・フーコーは、別種の狂気についても歴史を書く必要があると語る。物語は古典主義時代に遡る。カトリック教の強烈な支配下で多様性が失われると、ギリシア、ローマ時代の自由意志を懐かしむ風潮が生じ、古典回帰の文化運動が巻き起こる。いわゆるルネサンスだ。フランスではやや遅れて17世紀頃、ドイツではもう少し遅れて18世紀頃波及。この17世紀から18世紀にかけて、非人間扱いされてきた狂人たちの処遇にも変化が現れたという。そこには、ルネサンスの光明の陰で、監禁や牢獄とともにタブーとされてきた暗黒の物語があったとさ。この状況に最も当てはまる人物といえば、マルキ・ド・サドであろう。サドの前では狂気ですら完全な見世物となる。狂気は、長らく怪物のように扱われてきた。
ところが、古典主義時代に「非理性」という概念が登場したという。この用語は、怪物より柔らかい印象を与える。精神病や臨床医学という認識が広まり始めたのも、この時代だそうな。狂気もまたルネサンスの潮流に乗って、自由意志としての人間性を取り戻そうとする。とはいえ、治療法をめぐっては、監禁されることに変わりはない。狂気を研究すれば、理性との結合や分離について考察することになる。理性との結合から生じる人類愛ってやつは、どこからくるのか?盲目的な残虐行為への反発からくるのか?過去の狂気を批判する者もまた、叙情的な憤慨を剥き出しにする。自己存在を堅守するために理想論を並べたところで、別種の狂気に憑かれる。真理の偉大さを語れるのは、ただ沈黙のみ、ということであろうか...
「理性の真の姿は、理性が否認する狂気をただちに出現させ、今度はこちらが、理性を消滅させる狂気のなかに姿をけすことにある。」
一般的に狂気に対抗できるものは、理性とされる。確かに、狂気と非理性は相性がよさそうである。では、理性と非理性を分けるものとはなんであろうか?人間性を知ろうとすれば、非人間性との境界を探求することになる。理性を知ろうとすれば、理性の限界を見極めることになる。道徳もまた、悪徳への皮肉から生じる。理性とは、自由意志によって構築されるものであって、受動的な動機から生じるものではあるまい。
一方で、自由意志は束縛への反発から生じる。天才たちの超人的な集中力や芸術的な創造力もまた、自然や宇宙による束縛への反発であろう。まるで狂気の沙汰よ!すると、非理性を安直に悪徳と同一視するわけにもいくまい。狂気は理性とも相性がよさそうである。ソクラテス流に言えば、無理性を自覚する者こそ理性者ということになろうか。
「狂人は人間存在として取り扱われない、というこの否定的事実は、きわめて肯定的な内容を持っているのであって、人間扱いしない無情なこの無関心は、現実には強迫観念という意味あいを含んでいる。」
しかしながら、狂人たちに人間失格の烙印が押されるのは、今も変わらない。狂気の代名詞は、気違い、錯乱、暗愚、間抜け、気のふれた、頭が変、低能、痴呆、阿呆、白痴、馬鹿...と事欠かない。現代社会で「きちがい」が禁止用語とされるのは、真理を覆い隠そうという魂胆か?差別する側が狂気しているのは明らかだが、言葉の揚げ足を取って差別用語だと叫ぶ側もまた荒れ狂う。有識者や有徳者と呼ばれる人たちは、いくらか理性を具えているのだろう。そんな正気な人たちでさえ、無情な言動を通して認知し合っているではないか。理性という陰謀が、感情的な正義の声に耳を傾け、静かに囁く真理の声を抹殺する。しかも、理性は心の奥底で非理性と対峙しながら、常に緊張状態にある。理性者たちが突如として怒鳴りまくるのは、緊張を和らげるためか?これが説教ってやつの正体か?彼らは、言葉で勝利してもなお憤慨する。ならば、狂気を受け入れる方が、よほど平穏でいられるであろうに...
ちなみに、おいらがディオゲネスを好むのは、プラトンに「狂えるソクラテス」と仇名されたからだ。狂気バンザイ!無理性バンザイ!無知性バンザイ!ついでに、酔っ払いバンザイ!アル中ハイマー病バンザイ!
ちと脱線するが... もともと脱線しているが...
一霊四魂という思想があると聞く。勇、親、愛、智によって構成される魂が、一つの霊によって統括されるという思想である。いずれの魂も孤立すれば、邪気となる資質を具えている。邪気が悪魔の手に落ちれば、たちまち邪悪な鬼と化す。血塗られた歴史の陰には、いつも邪鬼が住み着いていた。アダムとイブが禁断の果実を食して以来、人間は神の善意を解することができなくなり、お釈迦様ですら菩提樹の下で心を惑わせた。イエスは敬虔な使徒に裏切られ、シーザーは誠実な盟友にあやめられ、芸術を愛した皇帝ネロを暴政に狂わせ、ボルジア家を強欲の代名詞とさせ、建築家を夢見た内気なヒトラーをば悪魔へ変貌させた。人間の魂には、恐ろしき邪鬼の棲家がある。
なのに、芸術家の目覚めは精神を悟るに、いくら狂っても足りない。四魂の邪鬼を存分に解放させ、猛烈な狂気の中に調和を目論む。凡人には到底及ばない芸当だ。
しかし、能力を欠いていても夢を描くことはできる。そして、夢もまた狂気するのだ。偉大な夢を実現できたら、どんなに幸せであろう。せめて、過ちを夢に閉じ込められたら、どんなに楽であろう。そして、酔っ払った狂人の悲痛な叫びを聞くがいい... おいらはハーレムに収監されたいのだ!
1. 狂気の秩序と排他的領域
狂気とは、脱理性から生じる理性のようなものであろうか?カオスやエントロピーが真理だとすると、無秩序から生じる秩序があってもいい。宇宙空間を構成するものは、人工的な美でもなければ、形式的な美でもなく、自然の乱雑さがあるだけ。なのに、そこにも秩序らしきものが生じる。まさに人体がそれだ。この集合体は、単なる原子の集まりだけでは説明できない。自然の産物である人体に合目的があるとすれば、人体の中に形成される狂気にも恣意性があるのだろうか?
狂気が、暴走する理性への反発から生じるのかは知らん。ただ、理路整然とした構成美に対するアンチテーゼとすることはできそうである。常識だけでは思考は乏しい。理性だけでも精神は乏しい。あらゆる進化には、秩序を超越した秩序のようなものが必要なのだろう。人間が自由意志の持ち主であるならば、人間同士で摩擦が生じない、なんてことはありえない。ましてや集団化すれば、個人の冷静さなど無力化される。集団性が常に狂気する危険性を孕んでいるとすれば、社会から一線を画すのも一つの手かもしれない。戦争は明らかに狂気であり、平和ボケも別種の狂気である。グローバルな共通観念を押し付ければ、存在本能としての帰属意識を働かせ、社会嫌いや人間嫌いを助長させる。仮想的なつながりを煽れば、孤独愛好家を増殖させる。
まだ精神病患者が救われるのは、狂気を自覚できることであろう。いや、自覚した途端に死に追いやられるかもしれない。最も厄介なのは、歪んだ精神では狂気していることにも気づかないことであろう。理性と狂気は対立的に扱われるが、理性を自認する者が狂気を自覚できるだろうか?
人間が排他的論理を好むのは、自己が優位な領域にあると願っている証であろう。はたして、正気と狂気の境界はどこにあるのか?排他的領域は、精神病棟の鉄格子によって隔離される。もし、その境界が鉄格子だとしても、異常者を隔離するためのものか?純真な心を保護するためのものか?そして、自分はどちらの側にいるのか?真理を探求するには、隔離よりも調和の方に分がありそうだ。
未来への希望は、過去の悲劇との相殺によって、精神の平穏を保とうとするのだろうか?幸せな人ほど悲観論を語るのか?それとも、悲観的な出来事に馴らされてしまった結果なのか?極端な悲劇を体験をすると、笑顔を見せないばかりか喜怒哀楽までも失う。人は幸福過ぎても不幸過ぎても、やはり冷酷になるようである。精神分裂症が理性と狂気の分裂によって生じるとすれば、理性を知ることができるのは精神病棟の方かもしれん。
「宿命的に人間を無に帰していた、死というあの必然性の発見から、人々は、実在それじたいであるあの無を軽蔑のまなざしで観照する態度へ移ったのである。死というあの絶対的限界をまえにしての恐怖が、不断の皮肉のなかに内在化する。」
2. 慈善事業と信仰
富裕も貧乏も、幸福も不幸も、神のおぼしめしとするなら、慈善事業は成り立たない。激しい慈善事業の拒否は、ルターやカルヴァンにも認められるという。キリスト教が神に縋る消極的な信仰とされる所以である。慈善事業は、信仰的に行われるべきものではなく、法的に処理すべきものだという。基本的人権としての最低生活水準を、社会が規定すべきということであろう。慈善事業は一時的な支援に留まり、永続的な解決にはならない。宗教的な施しも貧困や悪徳を撲滅することはできない。ここに救済の難しさがある。
とはいえ、突如として発生する災害や災難に対して慈善事業はよく機能する。慈善はカトリックの信条とするところ。実際、キリスト教の多くの国々で、災害や戦争で孤児や難民が発生すると、その身元を引き受けようという意志を示し、感服させられる。他方、善意というものは、なかなかの曲者であることも否めない。拒否されると、せっかくの行為を!と反発を買い、悪意を拒絶すれば、見破られたか!と逆ギレされる。どっちに転んでも憤慨されるとなると、善意も悪意も有難迷惑な存在か。
多くの国で、道徳は宗教で教わるものという伝統がある。確かに、人間には信仰が必要である。だが、宗教に頼らなくても信仰は構築できるし、既存の宗教の胡散臭さを無条件で信じるよりは無宗教の方がましであろう。実際、宇宙論的立場から独自の信仰を構築している科学者も少なくない。感情論的なキリスト教を批判し、論理的に修正を加えながら独自なものにするキリスト教徒もいる。おいらは無神論者に極めて近いが、それでも宇宙論的な絶対的な存在のようなものがあると思っている。それを神と言うのかは知らんが、少なくとも宗教が呼ぶ神とは同列にしたくないだけだ。神が見ておられるから道徳を行うと言うのなら、神が見ていなければなんだってやるのか?人間の都合で神を具現化する方が、よっぽど神の冒涜であろうに。とはいえ、独自の神を構築すれば、これまた暴走を始める。結局、人間ってやつは、ご都合主義に染まるのよ。そして、みんな教祖様となって聖職者は貪欲な生殖者となりはてるのか...は知らん。
3. 臨床医学への意識
学問の傾向は、まずは現象を分類しながら、抽象化によって高められていく。対して人間の病状はというと、一人一人に特徴が現れ、治療法は個別に対応させる必要がある。そんなことは、心理学者よりも福祉現場で働く人たちの方がよく心得ていて、患者の癖や行動様式を事細かく記録する。人間観察では、抽象化よりも具現化に縋る方がよさそうである。学問と人間観察とでは、思考の方向が真逆にあるのか?いや、双方を調和させるべきであろう。精神性と論理性も、人間性と自然性も。ヘーゲルは、こう書いているという。
「ほんとうの心理的治療は、狂気が知性の点でも意志とその責任能力の点でも理性の抽象的な喪失でなくて、単なる精神の混乱であり、依然として現存する理性のなかにおける矛盾である。」
狂気の歴史とは、監獄の歴史でもある。監獄は、人道的とは反対で、人類愛的ではなく極めて政治的な手法である。だからといって、非人道性を非難するだけでは、社会秩序を維持することができない。道徳的治療では、労働こそが第一とされる。労働によって狂気に拘束力を与えるならば、それが最善となろう。だが、強制労働に頼れば、道徳を根付かせるどころか、むしろ反道徳を育てる。なのに、どういうわけか?有識者ほど狂人を拘束したがるようである。ボアシエ・ド・ソヴァージュは著書「組織的疾病分類学」の中で、こう書いているという。
「魂の病を治すことができるためには、哲学者でなければならない。実際、この病の起源は、病人が善と見做す、一つの事柄への激しい欲望にほかならないのだから、医師のなすべき義務は病人に、彼が熱望している事柄は表面的には善であっても実際には悪であるのを、明確な理由によって証拠だててやり、自分の誤りをさとるようにすることである。」
4. 自由の使い道
モンテスキューは著書「法の精神」の中で、ローマ人の自殺とイギリス人の自殺とを対照的に語っている。ローマ人の場合は、道徳と政治にかかわる行為で慎重な教育に基づく計画的な結末であるとし、イギリス人の場合は、一つの病気としして、こう述べている。
「イギリス人は、その決心をしなければならないどんな理由も他人には考えられないのに自殺する。彼らは幸福のさなかにおいても自殺する。」
また、法律でどんなに厳しく取り締まろうとも、やはり法の抜け道を探るもので、風土に根付いた意志を無視すれば、むしろ狡猾さを身につけることになる、といったことも語っている。本書にも似たようなことが語られる。
「イギリス人は商業国民を形づくっている。つねに投機に夢中になっている精神は、たえず恐怖と希望に左右される。商業の核心にある利己主義は、容易にねたみ深くなり、他のさまざまな能力に助けを呼びもとめる。」
こうした自由は、自然な自由とは程遠いものだと指摘している。それは、個人や組織の利害にまつわる自由で、人間精神と心情とにかかわる自由ではないという。現在でも、経済的に成功した国で自殺が増加傾向にある。それは、偽りの自由の代償であろうか?真の幸福の姿が見えなければ、自然に不幸に吸い寄せられる。そして、狂気を演じながら、本当に狂気するのだろうか?金持ちほど自由になれるとすれば、その社会は専制的となる。どんなに賢明な御仁であっても、自惚れが知性を曇らせ、理性をも失わせるのに、ほんの一瞬あれば事足りる。魂に加えられる激しい情念が、どんな理性的な人間をも、突如として凶暴で愚鈍な人間に変貌させる。人間は、常に恐怖心や不安感に苛まされる臆病な存在である。その重圧から解放された途端に、極端な本性を剥き出しにする。普段から自由を抑制された者ほど、その反動は大きくなるだろう。厳しい鍛錬の裏腹に、能力を人質にするのか?理性の自由独立は、非理性の場において解放されるというのか?ならば、狂気を崇拝する宗教があっても不思議はない。狂気は、愚かさの爆発でもある。そして、あらゆる受難の道を辿り、愚かさを崇拝するというのか?
「死が時間の側面における人間生命の限度であるように、狂気は動物性の側面におけるその限度であって、死がキリストの死によって神聖視されたのとまったく同様に、狂気は、そのもっとも動物的な面までも、やはり神聖視されたのである。」
2013-09-08
"法の精神(上/中/下)" Charles-Louis de Montesquieu 著
三権分立論で知られるモンテスキュー。その著書「法の精神」は、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言に多大な影響を与え、いまや近代政治の骨格となっている。しかし、それだけなら興味を持つことはなかっただろう。なにしろ説教じみた話は嫌いなのだ。
注目したいのは、様々な政体や法律が風土と深く関わることを論じ、社会学や歴史学の領域に踏み込んでいる点である。そこには、慣習法が成文法となりうるための自然条件が語られている。宗教との関係を論じるあたりは、カトリック教に特別な地位を認めず、諸民族の宗教から相対的な地位を与えたとして批判され、1751年禁書目録に加えられた。こうした背景が、酔っ払った反社会分子には一際輝いて映る。これは、法律について語った書ではない。人間にとって法律がいかに自然本性的なものであるかを語った書である。
また、もう一つ興味を惹くのが... モンテスキューの思想をいちはやく批判したのが、ルソーだそうな。ルソーと言えば、教育者としての印象が強く、避けてきた領域であるが、いつの日か、この批判的な立場にも触れてみたい!... という気分にさせてくれる。
「私が共和政体における徳と呼ぶものは、祖国への愛、すなわち平等への愛だということを注意しておかなければならない。それは、決して道徳的な徳でもなければ、キリスト教的な徳でもなく、政治的な徳である。」
モンテスキューが生まれたのは、1689年。太陽王ルイ14世による絶対君主制が旺盛で、フランス革命はなお百年先のこと。一方、イギリスでは名誉革命が権利章典を結実させ、自由主義的な立憲政治の基礎が固まろうとする頃。政教分離の思想が明確に現れ始めたのも、この時代であろうか。
分類するとすれば、フランスはカトリック国、イギリスはプロテスタント国となろう。モンテスキューは、カトリック教には君主政がよく適合し、プロテスタント教には共和政がよく順応するとしている。もしくは、制限政体にはキリスト教がよく適合し、専制政体にはマホメット教がよく適合するとしたり、輪廻の教義については極端な善悪をもたすとして、真の魂の不死とは別物のような言いようで、切腹文化に至ってはどんな些細な罪でも死で片付けてしまい、もはや法すら機能しないとしたり、フランス人らしい苦々しい気高さを感じないではない。人間精神の本性が自由意志にあるとすれば、キリスト教が自由と最も相性がよく、人間社会に最も適合するということらしい。
しかしながら、自由や平等という概念ほど多くの解釈を与え、人々を惑わせてきたものはない。ヨーロッパでは西洋中心主義やキリスト教優越主義の全盛の時代にあって、その脱皮を図った作品に位置づけられるとしても、この程度で禁書にされるとは...よほど病んでいた時代なのだろう。そして、雄弁術に右往左往する21世紀の民主政治の有り様を見て... やはり数百年後に、よほど病んでいた時代と評されるのだろう。
「知識は人々を穏和にする。理性は人間性を高める。他方、人間性を否認させるものは、ただ偏見だけである。」
さて、権力分立の原理は、古代ギリシアの政体に現れ、既にプラトンやアリストテレスによってその構想が述べられている。真の徳の持ち主によって政治がなされるならば、どんな政治体制であろうが問題はあるまい。だが、自分の徳に自信を持った時点で、理性は崩壊へ向かう。プラトンは、真の愛智者を無知を自覚する者とした。政治家の資質でよく槍玉に挙げられるのが、道徳的節度の欠如である。彼らは、こぞって政治には金が必要だと主張する。権力に大金が結びつくと、誰もが盲目になるということを知りながら。これが人間の本性だとすれば、道徳的な人間を前提にした政治は、非現実的ということになりはしないか。毒を以て毒を制す!の原理に縋るしかあるまい。
「極端に幸福な人間も、極端に不幸な人間も、同様に冷酷になりやすい。修道士と征服者とがその証拠である。優しさとあわれみとをもたらすのは、中庸および幸運と悪運との混合のみである。」
過度に拡大された権勢に様々な制限を設けない限り、無政府状態と大して変わらない。自分の事がよく見える天才は、ほんの一握りしか存在しないだろう。政治家が中庸の道を避ければ、政治不要説が拡がる。モンテスキューは、良心や道徳だけで人間社会を構築することに限界を感じたのかもしれない。彼が問題とするのは、義務を強制するのではなく積極的に義務を果たすように仕向けること、人々が自然に律するように動機づけること、そんな手段となりうる法律を探求することにある。
人はみな欲望を持ち、弱さを持つ。だからといって、恐怖心や強迫観念で行動を抑制しようとすれば、すぐに行き詰まる。人間は生まれながらにして、平等に自由が与えられるのかは知らん。それを仮定してみても、自由を野放しにすれば、他人の自由を迫害する。自由は尊大であるがゆえに自惚れやすく、一旦手に負えなくなると、逆に自由を失い、奴隷的な社会となる。人間には、隷属することすら、すぐに馴らされる性質がある。それでもなお礼儀正しくいられるのは、自尊心のおかげであろうか。公共的自由と個人的自由を混同してはなるまい。だからといって、平等を崇めても同じこと。能力差は自然に生じるもので、個人に得手不得手があるから社会が機能する。公共的平等も同じく公共的な徳と結びつくものであって、バラマキ的平等と混同してはなるまい。
ところで、固定観念から完全に解放された者など存在しうるだろうか?真の自由人になれないのは、思惟する生命体の宿命であろうか?ならば、自由人とは、自らの自由を自ら制限できる者としておこうか。そして、法律だけで裁いてはならない罪がある一方で、法律では裁けない悪がある、ということを心に留めておきたい...
「アリストテレスは、ある時にはプラトンに対するその妬みを、またある時にはアレクサンドロスに対するその情熱を満足させようと欲した。プラトンは、アテナイ人の専制に対して憤慨していた。マキャヴェリは、その崇拝の的であるヴァレンチノ公のことで頭が一杯であった。トーマス・モアは、自分で考えていたことよりも、自分が読んだことのあることを多く語っているが、ギリシアの都市の簡明さをもってすべての国を統治しようと望んだ。一群の著述家は、王冠が見えないいたるところに無秩序を見出していたのに、ハリントンには、イギリス共和国しか目に入らなかった。法律は、常に立法者の情熱と先入観に出会っている。法律は、あるときにはそこを通り抜けてその色に染まり、あるときにはそこにとどまってそれと一体化する。」
1. 政体と原理
アリストテレスは、正しき国制を王制、貴族制、国制で分類し、それぞれの逸脱した形態を僭主制、寡頭制、民主制で区別した。モンテスキューは、「共和政体、君主政体、専制政体」の三つに分類する。共和政体は、人民の全体や一部が権力を掌握する形で、民主制も貴族制もここに含まれる。君主政体は、統治者が一人ではあるが、しかし確固たる制定された法律によって統治される形。専制政体は、法律も規則もなく、万事がただ一人の意思と気まぐれによって引きずられる形。そして、君主政体を動かすバネが名誉で、民主政体を動かすバネが平等だという。
また、宗教的観点から「制限政体」と「専制政体」でも区別される。
さて、国事というものは、遅すぎても速すぎてもダメで、一定の動きで進むことが望ましいという。だが、民衆の動きは、いつも激しすぎたり、鈍すぎたりする。そこで、精神原理においては、人間本性的である羞恥心と嫉妬心を挙げ、これらに対抗するために自尊心を位置づけて、法律の在り方を論じている。しかしながら、これら三つの情念ほど荒れ狂うものはない。愛の濫用から生じる熱病のごとく。
「人間を治めるのは中庸であって過度ではない、と私はくり返し言いたい。」
民主政体では、いくつかの階級が自然に生じ、完全に平等とならないことが存続と繁栄をもたらすだろう。そこには、人間の多様性がもたらす原理がある。逆に言えば、階級の在り方が弱点となる。人間社会の多様性を認めるならば、他人が政体を押し付けていい、ということにはならないだろう。たとえ民主主義が人間社会にとって最善だとしても、多様な民主政体が生じていいはず。なのに、貧困国に欧米型の民主主義を押し付けるというやり方が相変わらず繰り返される。何もない所に形を見出すには、お手本があると助かる。だが、あまりにも道徳を崇めるがゆえに、風土によって育まれてきた価値観を見落としてしまう。政体を押し付けるということは、宗教を押し付けるのと同じことなのかもしれない。
また、政体の原理が健全であれば、悪しき法律も良き法律の効果を持ち、原理の力がすべてを導くという。政体の原理がひとたび腐敗を始めると、最良の法律もまた最悪の法律になると。確かに好転した共同体では、自然な秩序が生まれる。それは、会社の組織や仕事のチームにも言えることだ。国家が原理を少しも失っていない時には、良くない法律というものはほとんど存在しないという。ちょっとでも酷い法律が編み出されれば、国家が原理を失う兆候ということか。なるほど、法律の及ぼす効果が、国家の健康状態のバロメータにできそうだ。
「法律と習俗の間には、法律がよりいっそう公民の行動を規制するのに対し、習俗はよりいっそう人間の行動を規制するという区別がある。習俗と生活様式の間には、前者がよりいっそう内面的な振舞にかかわり、後者が外面的な振舞にかかわるという区別がある。」
2. 民主政治とソロン
民主政治を語る上で、アテナイに最初の民主政治をもたらした人物を無視するわけにはいくまい。ソロンは公民を四階級に分けたという。裁判役や役職を選ぶことのできるのは、生活にゆとりのある上位三階級。共和政体では、投票権を持つ者を区分することと投票の仕方が、基本的な法律になるという。まずもって公民会を構成すべき公民の数を決めることが大切である。そして、抽選による選出は民主政に相応しく、選択による選出は貴族政に相応しいとしている。しかし、抽選だけでは欠陥があり、無能者が選ばれる可能性が高い。そこで、ソロンは、文民的役職や軍職は選択によって任命し、元老院議員と裁判役は抽選で選ぶように定めたという。さらに抽選の欠陥を補うため立候補者の中からしか選ばれないこと、選ばれたとしても裁判役によって審査されること、しかも誰でも不適格者を提訴することができることを定めたという。本格的な民主政体だったようだ。2500年前にリコールの仕組みが配慮されているとは...
また、元老院や貴族団体が徒党を組む危険性を指摘し、投票が公開であることが共和政体の基本法律であるとしている。尚、キケロは、ローマ共和政の末期に投票を秘密にした法律が、没落の原因になったと指摘したそうな。ただ合点がいかないのは、人民の側は徒党を組む危険はないとしていることである。情熱をもって行動するからだそうだが、人間ってやつは何かと派閥やグループで集まり、その中で安住したがるもの。地元出身というだけで投票したり、有力者が推薦するだけで投票したり、挙句に利益供与のたかり屋となった後援会もどきが徒党と化す。こうした現象は、モンテスキューの時代には、まだ見られなかったのだろうか?
それはさておき、ソロンは、裁判機構においても巧みに権力の濫用を分散させているという。従来から寡頭的に存在するアレイオス・パゴス評議会や、貴族的な公職者の選出に対して、民主的な裁判所を設け、民衆に要職者を糾弾する権限を与えているようだ。民主政体では、人民が法律を作ることが基本となる。そのために多くの欠陥法が作られるだろうし、法律は常に実験に晒される。ローマやアテナイの共和政体が賢明だったのは、元老院の決定が一年間だけ法律の効力を持つこと、そして人民の意思によって永続的になったことだという。
歴史的には、有徳な君公が少ないというわけでもないらしい。むしろ人民が有徳であることが難しいという。確かに、隷属的な人間が有徳となることは難しいだろう。民主政体では、人民が元老院や役職者や裁判役から職務を略奪する時に消滅するが、君主政体では、個人が諸団体の特典あるいは諸都市の特権を奪う時に腐敗するという。その違いは、万人による専制政体か、一人による専制政体かぐらいであろうか。フランス革命時に生じた恐怖政治を予言していたわけでもなかろうが。正義が集団性の毒牙にかかると、これほど暴走しやすいものはない。徳が必要なのは、特に民主政体においてなのかもしれん。
「高官たちの偏見は、もとはといえば国民の偏見から始まった。無知蒙昧な時代には、たとえ最大の悪事を犯した場合ですら、人はそれについてなんの疑いももたないものであるが、光明の時代には、最大の善事をなした場合でも、人はなお心おののくものである。」
3. 連邦共和国と地方分権
共和国が小さな国家であるのは、その本性からきているという。大きな共和国では、共同の善が無数の考慮の犠牲にされ、例外に服し、偶然に依存することになると。小さな共和国では、公共の善はよりよく感じられ、よりよく知られ、公民により近くにあると。ここには、地方分権の意義が語られている。公共の善が濫用されやすいのは、大きな共同体ということか。古代ギリシアの栄華は、まさにポリスの連合体から生じた。
共和国は、小さければ外国の力によって滅び、大きければ内部の欠陥によって滅びる。おそらく、民主主義の機能しやすい規模というものがあるのだろう。モンテスキューの時代では、オランダ、ドイツ、スイス同盟が永遠の共和国とみなされていたそうな。すなわち、連邦共和国の形態である。ドイツとは神聖ローマ帝国のことだが、数々の自由都市と君公に服す小国とから成る混成国家。それは、オランダやスイスの連合より不完全だという。君主政体の精神は戦争と強大化で、共和政体の精神は平和と節度で、性格の違う両者が連合すると何かと弊害が起こりやすい。とりわけ、共和政そのものが民衆の共同体のような形態であるから、連合形態と相性がよさそうである。オランダ共和国では、他の州の同意なく勝手に他国と同盟を結ぶことができない。これは必然であり、ドイツにはそれが欠けているという。そもそも、連合する諸国家が同じ大きさだったり、同じような国力だったりすることは難しい。それでも、オランダ共和国では、投票権が各州に一票ずつで平等というところに意義があるとしている。古代ギリシアのポリス連合では、軍事的にはスパルタが、商業的にはアテナイが優位であった。
ところで、共和国が領土を侵さないとなれば、戦争を仕掛けるのは専制国だけということになりそうだが、それは本当だろうか?そして、共和国も君主国も、専制国と戦う羽目になるのか?だとしても、どちらが戦争を仕掛けたかとなると、互いに相手国のせいにする。法治国家であれば、民衆は自国の正義のためにしか戦争を容認しないだろう。少なくとも正義の名目がなければ。それでもなお戦争が起こるのは、民衆が専制国であることを自覚できないからか?なるほど、専制国であっても共和国を称す。
4. 三権分立の原理... 立法権、執行権、司法権
一つ...
「同一の人間あるいは同一の役職者団体において立法権力と執権権力とが結合されるとき、自由は全く存在しない。なぜなら、同一の君主または同一の元老院が暴君的な法律を作り、暴君的にそれを執行する恐れがありうるからである。」
二つ...
「裁判権力が立法権力や執行権力と分離されていなければ、自由はやはり存在しない。もしこの権力が立法権力と結合されれば、公民の生命と自由に関する権力は恣意的となろう。なぜなら、裁判役が立法者となるからである。もしこの権力が執行権力と結合されれば、裁判役は圧制者の力をもちうるであろう。」
三つ...
「もしも同一の人間、または、貴族もしくは人民の有力者の同一の団体が、これら三つの権力、すなわち、法を作る権力、公的な決定を執行する権力、犯罪や個人間の紛争を裁定する権力を行使するならば、すべては失われるであろう。」
5. 風土と法律
「悪しき立法者とは風土の難点を助長する者であり、良き立法者とはそれに対抗する者である」
法律が風俗と合わないために、法律の抜け道の方が慣習化されることが多々ある。現実に、同じ善意の行為であっても、社会によって評価が逆転し、裁かれることすらある。法律の偏重は民衆の心を偏重させるだろう。
さて、冷たい空気は身体の皮膚を収縮させ、より多くの血液を流そうとするため、寒い風土ではより多くの生気を持つ。そのために、北方民族は、勇敢で、勤勉で、自己の優越により多く意識を持つという。一方、暑い風土では臆病で、暑すぎる赤道近辺では怠惰になりがちだという。感受性においては、寒い地方では乏しく、温暖な地方においてより大きくなるという。オペラに対する感受性がイギリスやロシアよりもイタリアによく現われるのは、そのためだとしている。南方ほど道徳から遠ざかり、より激しい犯罪を増加させるんだとか。情熱を助長させて、美徳も悪徳も激情的になるんだとか。ほんまかいな?北方民族に勇気があるとすれば、戦争を好むのも、こちらの方ということか?しかし、古代ギリシアにしても、古代ローマにしても、地中海の温暖な地域に高度な文明を栄えさせ、北方まで勢力を伸ばした。後に北方民族に滅ぼされたとはいえ。
アジアに至っては、ヨーロッパのような安定した温暖地方がないとしている。インド人は、暑すぎるために本性的に勇気がないので、残虐で野蛮な習慣を持つと分析している。近年でも、嫁焼き!という慣習が指摘される。ノーベル賞経済学者アマルティア・センが問題提起した「喪われた女性たち」は国際的に反響を呼んだ。本書は、修道院制度が害悪を作り、暑さが度を越して修道僧で溢れ、瞑想に耽ることが怠惰へと向かわせるという。中国人には、よく整備された厳しい法律が機能する様子を語りながら、その反動かは知らんが、最も狡猾な人民を育てるとも言っている。日本人に至っては、どんな些細な罪も死で片付けられ、法律すら無力だとしている。切腹の慣習を指摘しているのだろうが、当時の西洋の価値観に照らせば、よほど異様な国に映ったと見える。ちょうど江戸時代にキリスト教徒が迫害され、その無節操さの批判も含まれているのだろう。
それはともかく、血液の流れ方は人間の気性に影響を与えるだろうし、気候とも関係するだろう。今でも、ラテン系は陽気で楽観的だとか言ったりする。そして、気候が極端だと怠惰になりやすいというのもあるかもしれない。暑すぎても、寒すぎても、ヤル気が出ん。着眼点は悪くないのだが...
6. 経済活動と法律
商業は破壊的な偏見を癒し、習俗が穏やかなところではどこでも商業が存在するという。確かに、商業活動は迷信的な慣習を解放してきた。一緒に商売をする二国民は、互いに助け合うのは必定。自然に生じる文化交流が、戦争リスクを軽減している。一方で、プラトンは商業活動が野蛮な習俗となることを嘆いた。商売に憑かれれば、人間行動や道徳観念までも取引の対象にされる。商業活動が横暴になると、それに対抗するかのように厳密な正義観念を生み、利益主義に陥らないようにという風潮が巻き起こる。尚、社会学者マックス・ウェーバーは、著書「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の中で、禁欲的な信仰心のあるところに資本主義が根付いたとした。なるほど、経済活動に対する規制が、道徳を具体化してきたということは言えるかもしれない。
「商業を花咲かせようと欲するすべての国では、現実的貨幣を用いるように、そして、これを観念的なものとしうるような操作を全く行わないように命ずる法律が、この悪習の根を絶つために極めてよい法律であろう。万物の共通の尺度であるものは、なににもまして、たえざる変化にさらされないようにすべきである。商売というものはそれ自体が極めて不確実であり、事物の本性に基づく不確実さに新たな不確実さを加えるのは大きな悪である。」
ところで、奢侈は資産の不平等に比例するという。富を分配する時、法律が各人に生存上必要なものしか与えないようにしなければならないという。それ以上を与えると、ある者は浪費し、ある者は蓄積し、ますます不平等を助長すると。これは基本的人権に関わる問題であるが、この最低水準を巡っては今なお論争が絶えない。生活保護を同じ受けるにしても、少しでも貯蓄して将来に備えるより、手持ちをすべて使い果たす方が厚遇されるとは、これいかに?予算がつけばすべて使わないと、次期には予算がつかないと恐れる官僚組織のように。
「一国が富めば、すべての人の心に大望を抱かせ、貧困になれば、すべての人の心に絶望を生じさせる。大望は労働によって刺激され、絶望は怠惰によって慰められる。」
誰でも一度は贅沢を夢見るだろう。少ししか儲けまいとあれほど欲していた者でさえ、やはり多く儲けたいと願う。経済が活発化すれば、国内に大企業が出現し、その大きさゆえに公共的な存在となる。君主政体においての公の事柄は、商人にとって胡散臭いものであるが、共和政体においての公の事柄は安全に見えるという。そして、大企業は君主政体には向かず、共和政体に向くとしている。専制国家については語るまでもないが、一つ付け加えるならば、隷属状態にある人々は取得よりも保持に努めるだろう。対して、自由人は保持よりも取得を優先する。自己の自由度を計測するには、何を取得しようとしているか?これを測ればいい。金に焦がれるか...地位に焦がれるか...知識に焦がれるか...教養に焦がれるか...すべてを諦めれば深刻な隷属状態に陥る。
また、商業を運命づけられた地域もあり、オランダがそうであり、マルセイユがそうであるという。そして、海岸の配置に加え、自然の恵みを補うために勤勉でなければならないという。一方で、肥沃な農業地に恵まれた地域では、それを維持しようと努めるために、質素な習俗が身につくという。尚、日本の鎖国政策への批判は手厳しいが、まったくだ。
「誰とも取引しないことに利点を見出すのは、自足しうる人民ではなくて、自分のところにはなにももたない人民である。」
同じ事が工業でも言えるだろう。天然資源に恵まれない地域でも、やはり勤勉でなければならない。大航海時代には、商業貿易が発展し、造船技術を進歩させ、貿易と付加価値の高い工業製品が結びついて国家財政を潤した。工業力が軍事力と結びついて世界制覇の野望を抱かせ、やがて、軍事力よりも経済力による世界制覇の時代へと移行していく。商業が盛んな国では銀行の役割が大きい。銀行は信用によって投資を拡大し、新たな価値基準を作る。流通と価値基準の双方を押さえるだけで、あらゆる商業活動を支配でき、生産者は隷属することになる。大商人は、金に物を言わせて貴族の称号を得て政治にも影響力を持ち、やがて工業者までもが商業者となっていく。本書は、銀行を奢侈のために機能させるのは、誤りであると指摘している。そして、アダム・スミス張りの貨幣を用いる理由と交換の意義が語られる。
「商業は、売買の場合には求めるものが最も多い国民の需要に比例して行われ、交換にあっては求めるものが最も少ない国民の需要の範囲内においてのみ行われる。そうでないと、後者は自分の勘定を清算することができなくなるであろう。」
7. 復讐と死刑制度
復讐心は、人間本性的な情念の一つで、最も理性を失う動機となろう。倍返しにしたいというのが人情であり、実際、残虐な皇帝たちはそうしてきた。
そこで、復讐行為に制限を与える法律を見かける。ローマの十二表法には復讐が規定された。怪我を負わせた者に対して、同じ程度の復讐が許されると。ハンムラビ法典には「目には目を歯には歯を」のような記述がある。江戸時代に仇討ちが合法化されたように、西洋にも決闘の法慣例があった。いずれも同等の報復まででチャラにし、報復が無限に及ぶのを禁じようとするものである。やがて、復讐と死刑制度は深く結びつき、合法的殺人と化す。被害者は、裁判官を復讐の代理人として見るだろう。
さて、ここで注目したいのは、二つの異なる法律をいかに比較するか、という問題を論じていることである。フランスでは偽証者に対する刑罰は死刑になるが、イギリスではそうではないという。だが、この点だけ比較して是非を問うても仕方がないと指摘している。関連する法についても議論すべきだと。
フランスでは犯罪人に対して拷問が行われるが、イギリスではそうではないという。さらに、フランスでは被告側から証人を出すことがないが、イギリスでは双方の立場からの証言を許すという。ここには違いがあるものの、双方において一貫性が見られる。
イギリスの場合は、犯罪人に対する拷問を認めないので、被告人から自白を引き出す望みは薄い。だから、双方から第三者の証言を必要とするため、死刑の恐怖によって証人を気おくれさせることはないという。フランスの場合は、法律によって証人を怯えさせることを原理とするため、検察側の証人しか聴聞しない。
確かに、どちらもそれなりに道理があるように思えるが、まったく性格の違う法律として規定されている。要するに、法律の是非を比較する場合、一つ一つの刑を比較しても意味がないということである。
しかし現在、死刑制度の是非だけが取り沙汰される。人道的か?だけを問えば、人が人の命を奪うことに抵抗のない者なんてごく少数派であろう。死刑制度の反対論者はひたすらこの点だけを主張する。だが、我が国における無期懲役刑は事実上、十数年で仮釈放が認められ、被害者の遺族の心中を察すると何とも言いがたい。はたして量刑は、死刑との境界で線形性が保たれているだろうか?近年、二十年を超える事例もあり、徐々に延びる傾向にあるようだ。死刑制度が廃止されれば、無期懲役刑の意味が相対的に重くなるのかもしれないが。いずれにせよ、法律とは理念とも言うべき総合的な観点から構築されるものであって、人道的な感情だけで一つの制度を規定できるものではないだろう。そして、一貫性のない法律が一つ紛れ込んだ時、すべての法体系に歪が生じる。
「不必要な法律が必要な法律を弱めるごとく、くぐり抜けるのが容易な法律も、立法を弱める。」
注目したいのは、様々な政体や法律が風土と深く関わることを論じ、社会学や歴史学の領域に踏み込んでいる点である。そこには、慣習法が成文法となりうるための自然条件が語られている。宗教との関係を論じるあたりは、カトリック教に特別な地位を認めず、諸民族の宗教から相対的な地位を与えたとして批判され、1751年禁書目録に加えられた。こうした背景が、酔っ払った反社会分子には一際輝いて映る。これは、法律について語った書ではない。人間にとって法律がいかに自然本性的なものであるかを語った書である。
また、もう一つ興味を惹くのが... モンテスキューの思想をいちはやく批判したのが、ルソーだそうな。ルソーと言えば、教育者としての印象が強く、避けてきた領域であるが、いつの日か、この批判的な立場にも触れてみたい!... という気分にさせてくれる。
「私が共和政体における徳と呼ぶものは、祖国への愛、すなわち平等への愛だということを注意しておかなければならない。それは、決して道徳的な徳でもなければ、キリスト教的な徳でもなく、政治的な徳である。」
モンテスキューが生まれたのは、1689年。太陽王ルイ14世による絶対君主制が旺盛で、フランス革命はなお百年先のこと。一方、イギリスでは名誉革命が権利章典を結実させ、自由主義的な立憲政治の基礎が固まろうとする頃。政教分離の思想が明確に現れ始めたのも、この時代であろうか。
分類するとすれば、フランスはカトリック国、イギリスはプロテスタント国となろう。モンテスキューは、カトリック教には君主政がよく適合し、プロテスタント教には共和政がよく順応するとしている。もしくは、制限政体にはキリスト教がよく適合し、専制政体にはマホメット教がよく適合するとしたり、輪廻の教義については極端な善悪をもたすとして、真の魂の不死とは別物のような言いようで、切腹文化に至ってはどんな些細な罪でも死で片付けてしまい、もはや法すら機能しないとしたり、フランス人らしい苦々しい気高さを感じないではない。人間精神の本性が自由意志にあるとすれば、キリスト教が自由と最も相性がよく、人間社会に最も適合するということらしい。
しかしながら、自由や平等という概念ほど多くの解釈を与え、人々を惑わせてきたものはない。ヨーロッパでは西洋中心主義やキリスト教優越主義の全盛の時代にあって、その脱皮を図った作品に位置づけられるとしても、この程度で禁書にされるとは...よほど病んでいた時代なのだろう。そして、雄弁術に右往左往する21世紀の民主政治の有り様を見て... やはり数百年後に、よほど病んでいた時代と評されるのだろう。
「知識は人々を穏和にする。理性は人間性を高める。他方、人間性を否認させるものは、ただ偏見だけである。」
さて、権力分立の原理は、古代ギリシアの政体に現れ、既にプラトンやアリストテレスによってその構想が述べられている。真の徳の持ち主によって政治がなされるならば、どんな政治体制であろうが問題はあるまい。だが、自分の徳に自信を持った時点で、理性は崩壊へ向かう。プラトンは、真の愛智者を無知を自覚する者とした。政治家の資質でよく槍玉に挙げられるのが、道徳的節度の欠如である。彼らは、こぞって政治には金が必要だと主張する。権力に大金が結びつくと、誰もが盲目になるということを知りながら。これが人間の本性だとすれば、道徳的な人間を前提にした政治は、非現実的ということになりはしないか。毒を以て毒を制す!の原理に縋るしかあるまい。
「極端に幸福な人間も、極端に不幸な人間も、同様に冷酷になりやすい。修道士と征服者とがその証拠である。優しさとあわれみとをもたらすのは、中庸および幸運と悪運との混合のみである。」
過度に拡大された権勢に様々な制限を設けない限り、無政府状態と大して変わらない。自分の事がよく見える天才は、ほんの一握りしか存在しないだろう。政治家が中庸の道を避ければ、政治不要説が拡がる。モンテスキューは、良心や道徳だけで人間社会を構築することに限界を感じたのかもしれない。彼が問題とするのは、義務を強制するのではなく積極的に義務を果たすように仕向けること、人々が自然に律するように動機づけること、そんな手段となりうる法律を探求することにある。
人はみな欲望を持ち、弱さを持つ。だからといって、恐怖心や強迫観念で行動を抑制しようとすれば、すぐに行き詰まる。人間は生まれながらにして、平等に自由が与えられるのかは知らん。それを仮定してみても、自由を野放しにすれば、他人の自由を迫害する。自由は尊大であるがゆえに自惚れやすく、一旦手に負えなくなると、逆に自由を失い、奴隷的な社会となる。人間には、隷属することすら、すぐに馴らされる性質がある。それでもなお礼儀正しくいられるのは、自尊心のおかげであろうか。公共的自由と個人的自由を混同してはなるまい。だからといって、平等を崇めても同じこと。能力差は自然に生じるもので、個人に得手不得手があるから社会が機能する。公共的平等も同じく公共的な徳と結びつくものであって、バラマキ的平等と混同してはなるまい。
ところで、固定観念から完全に解放された者など存在しうるだろうか?真の自由人になれないのは、思惟する生命体の宿命であろうか?ならば、自由人とは、自らの自由を自ら制限できる者としておこうか。そして、法律だけで裁いてはならない罪がある一方で、法律では裁けない悪がある、ということを心に留めておきたい...
「アリストテレスは、ある時にはプラトンに対するその妬みを、またある時にはアレクサンドロスに対するその情熱を満足させようと欲した。プラトンは、アテナイ人の専制に対して憤慨していた。マキャヴェリは、その崇拝の的であるヴァレンチノ公のことで頭が一杯であった。トーマス・モアは、自分で考えていたことよりも、自分が読んだことのあることを多く語っているが、ギリシアの都市の簡明さをもってすべての国を統治しようと望んだ。一群の著述家は、王冠が見えないいたるところに無秩序を見出していたのに、ハリントンには、イギリス共和国しか目に入らなかった。法律は、常に立法者の情熱と先入観に出会っている。法律は、あるときにはそこを通り抜けてその色に染まり、あるときにはそこにとどまってそれと一体化する。」
1. 政体と原理
アリストテレスは、正しき国制を王制、貴族制、国制で分類し、それぞれの逸脱した形態を僭主制、寡頭制、民主制で区別した。モンテスキューは、「共和政体、君主政体、専制政体」の三つに分類する。共和政体は、人民の全体や一部が権力を掌握する形で、民主制も貴族制もここに含まれる。君主政体は、統治者が一人ではあるが、しかし確固たる制定された法律によって統治される形。専制政体は、法律も規則もなく、万事がただ一人の意思と気まぐれによって引きずられる形。そして、君主政体を動かすバネが名誉で、民主政体を動かすバネが平等だという。
また、宗教的観点から「制限政体」と「専制政体」でも区別される。
さて、国事というものは、遅すぎても速すぎてもダメで、一定の動きで進むことが望ましいという。だが、民衆の動きは、いつも激しすぎたり、鈍すぎたりする。そこで、精神原理においては、人間本性的である羞恥心と嫉妬心を挙げ、これらに対抗するために自尊心を位置づけて、法律の在り方を論じている。しかしながら、これら三つの情念ほど荒れ狂うものはない。愛の濫用から生じる熱病のごとく。
「人間を治めるのは中庸であって過度ではない、と私はくり返し言いたい。」
民主政体では、いくつかの階級が自然に生じ、完全に平等とならないことが存続と繁栄をもたらすだろう。そこには、人間の多様性がもたらす原理がある。逆に言えば、階級の在り方が弱点となる。人間社会の多様性を認めるならば、他人が政体を押し付けていい、ということにはならないだろう。たとえ民主主義が人間社会にとって最善だとしても、多様な民主政体が生じていいはず。なのに、貧困国に欧米型の民主主義を押し付けるというやり方が相変わらず繰り返される。何もない所に形を見出すには、お手本があると助かる。だが、あまりにも道徳を崇めるがゆえに、風土によって育まれてきた価値観を見落としてしまう。政体を押し付けるということは、宗教を押し付けるのと同じことなのかもしれない。
また、政体の原理が健全であれば、悪しき法律も良き法律の効果を持ち、原理の力がすべてを導くという。政体の原理がひとたび腐敗を始めると、最良の法律もまた最悪の法律になると。確かに好転した共同体では、自然な秩序が生まれる。それは、会社の組織や仕事のチームにも言えることだ。国家が原理を少しも失っていない時には、良くない法律というものはほとんど存在しないという。ちょっとでも酷い法律が編み出されれば、国家が原理を失う兆候ということか。なるほど、法律の及ぼす効果が、国家の健康状態のバロメータにできそうだ。
「法律と習俗の間には、法律がよりいっそう公民の行動を規制するのに対し、習俗はよりいっそう人間の行動を規制するという区別がある。習俗と生活様式の間には、前者がよりいっそう内面的な振舞にかかわり、後者が外面的な振舞にかかわるという区別がある。」
2. 民主政治とソロン
民主政治を語る上で、アテナイに最初の民主政治をもたらした人物を無視するわけにはいくまい。ソロンは公民を四階級に分けたという。裁判役や役職を選ぶことのできるのは、生活にゆとりのある上位三階級。共和政体では、投票権を持つ者を区分することと投票の仕方が、基本的な法律になるという。まずもって公民会を構成すべき公民の数を決めることが大切である。そして、抽選による選出は民主政に相応しく、選択による選出は貴族政に相応しいとしている。しかし、抽選だけでは欠陥があり、無能者が選ばれる可能性が高い。そこで、ソロンは、文民的役職や軍職は選択によって任命し、元老院議員と裁判役は抽選で選ぶように定めたという。さらに抽選の欠陥を補うため立候補者の中からしか選ばれないこと、選ばれたとしても裁判役によって審査されること、しかも誰でも不適格者を提訴することができることを定めたという。本格的な民主政体だったようだ。2500年前にリコールの仕組みが配慮されているとは...
また、元老院や貴族団体が徒党を組む危険性を指摘し、投票が公開であることが共和政体の基本法律であるとしている。尚、キケロは、ローマ共和政の末期に投票を秘密にした法律が、没落の原因になったと指摘したそうな。ただ合点がいかないのは、人民の側は徒党を組む危険はないとしていることである。情熱をもって行動するからだそうだが、人間ってやつは何かと派閥やグループで集まり、その中で安住したがるもの。地元出身というだけで投票したり、有力者が推薦するだけで投票したり、挙句に利益供与のたかり屋となった後援会もどきが徒党と化す。こうした現象は、モンテスキューの時代には、まだ見られなかったのだろうか?
それはさておき、ソロンは、裁判機構においても巧みに権力の濫用を分散させているという。従来から寡頭的に存在するアレイオス・パゴス評議会や、貴族的な公職者の選出に対して、民主的な裁判所を設け、民衆に要職者を糾弾する権限を与えているようだ。民主政体では、人民が法律を作ることが基本となる。そのために多くの欠陥法が作られるだろうし、法律は常に実験に晒される。ローマやアテナイの共和政体が賢明だったのは、元老院の決定が一年間だけ法律の効力を持つこと、そして人民の意思によって永続的になったことだという。
歴史的には、有徳な君公が少ないというわけでもないらしい。むしろ人民が有徳であることが難しいという。確かに、隷属的な人間が有徳となることは難しいだろう。民主政体では、人民が元老院や役職者や裁判役から職務を略奪する時に消滅するが、君主政体では、個人が諸団体の特典あるいは諸都市の特権を奪う時に腐敗するという。その違いは、万人による専制政体か、一人による専制政体かぐらいであろうか。フランス革命時に生じた恐怖政治を予言していたわけでもなかろうが。正義が集団性の毒牙にかかると、これほど暴走しやすいものはない。徳が必要なのは、特に民主政体においてなのかもしれん。
「高官たちの偏見は、もとはといえば国民の偏見から始まった。無知蒙昧な時代には、たとえ最大の悪事を犯した場合ですら、人はそれについてなんの疑いももたないものであるが、光明の時代には、最大の善事をなした場合でも、人はなお心おののくものである。」
3. 連邦共和国と地方分権
共和国が小さな国家であるのは、その本性からきているという。大きな共和国では、共同の善が無数の考慮の犠牲にされ、例外に服し、偶然に依存することになると。小さな共和国では、公共の善はよりよく感じられ、よりよく知られ、公民により近くにあると。ここには、地方分権の意義が語られている。公共の善が濫用されやすいのは、大きな共同体ということか。古代ギリシアの栄華は、まさにポリスの連合体から生じた。
共和国は、小さければ外国の力によって滅び、大きければ内部の欠陥によって滅びる。おそらく、民主主義の機能しやすい規模というものがあるのだろう。モンテスキューの時代では、オランダ、ドイツ、スイス同盟が永遠の共和国とみなされていたそうな。すなわち、連邦共和国の形態である。ドイツとは神聖ローマ帝国のことだが、数々の自由都市と君公に服す小国とから成る混成国家。それは、オランダやスイスの連合より不完全だという。君主政体の精神は戦争と強大化で、共和政体の精神は平和と節度で、性格の違う両者が連合すると何かと弊害が起こりやすい。とりわけ、共和政そのものが民衆の共同体のような形態であるから、連合形態と相性がよさそうである。オランダ共和国では、他の州の同意なく勝手に他国と同盟を結ぶことができない。これは必然であり、ドイツにはそれが欠けているという。そもそも、連合する諸国家が同じ大きさだったり、同じような国力だったりすることは難しい。それでも、オランダ共和国では、投票権が各州に一票ずつで平等というところに意義があるとしている。古代ギリシアのポリス連合では、軍事的にはスパルタが、商業的にはアテナイが優位であった。
ところで、共和国が領土を侵さないとなれば、戦争を仕掛けるのは専制国だけということになりそうだが、それは本当だろうか?そして、共和国も君主国も、専制国と戦う羽目になるのか?だとしても、どちらが戦争を仕掛けたかとなると、互いに相手国のせいにする。法治国家であれば、民衆は自国の正義のためにしか戦争を容認しないだろう。少なくとも正義の名目がなければ。それでもなお戦争が起こるのは、民衆が専制国であることを自覚できないからか?なるほど、専制国であっても共和国を称す。
4. 三権分立の原理... 立法権、執行権、司法権
一つ...
「同一の人間あるいは同一の役職者団体において立法権力と執権権力とが結合されるとき、自由は全く存在しない。なぜなら、同一の君主または同一の元老院が暴君的な法律を作り、暴君的にそれを執行する恐れがありうるからである。」
二つ...
「裁判権力が立法権力や執行権力と分離されていなければ、自由はやはり存在しない。もしこの権力が立法権力と結合されれば、公民の生命と自由に関する権力は恣意的となろう。なぜなら、裁判役が立法者となるからである。もしこの権力が執行権力と結合されれば、裁判役は圧制者の力をもちうるであろう。」
三つ...
「もしも同一の人間、または、貴族もしくは人民の有力者の同一の団体が、これら三つの権力、すなわち、法を作る権力、公的な決定を執行する権力、犯罪や個人間の紛争を裁定する権力を行使するならば、すべては失われるであろう。」
5. 風土と法律
「悪しき立法者とは風土の難点を助長する者であり、良き立法者とはそれに対抗する者である」
法律が風俗と合わないために、法律の抜け道の方が慣習化されることが多々ある。現実に、同じ善意の行為であっても、社会によって評価が逆転し、裁かれることすらある。法律の偏重は民衆の心を偏重させるだろう。
さて、冷たい空気は身体の皮膚を収縮させ、より多くの血液を流そうとするため、寒い風土ではより多くの生気を持つ。そのために、北方民族は、勇敢で、勤勉で、自己の優越により多く意識を持つという。一方、暑い風土では臆病で、暑すぎる赤道近辺では怠惰になりがちだという。感受性においては、寒い地方では乏しく、温暖な地方においてより大きくなるという。オペラに対する感受性がイギリスやロシアよりもイタリアによく現われるのは、そのためだとしている。南方ほど道徳から遠ざかり、より激しい犯罪を増加させるんだとか。情熱を助長させて、美徳も悪徳も激情的になるんだとか。ほんまかいな?北方民族に勇気があるとすれば、戦争を好むのも、こちらの方ということか?しかし、古代ギリシアにしても、古代ローマにしても、地中海の温暖な地域に高度な文明を栄えさせ、北方まで勢力を伸ばした。後に北方民族に滅ぼされたとはいえ。
アジアに至っては、ヨーロッパのような安定した温暖地方がないとしている。インド人は、暑すぎるために本性的に勇気がないので、残虐で野蛮な習慣を持つと分析している。近年でも、嫁焼き!という慣習が指摘される。ノーベル賞経済学者アマルティア・センが問題提起した「喪われた女性たち」は国際的に反響を呼んだ。本書は、修道院制度が害悪を作り、暑さが度を越して修道僧で溢れ、瞑想に耽ることが怠惰へと向かわせるという。中国人には、よく整備された厳しい法律が機能する様子を語りながら、その反動かは知らんが、最も狡猾な人民を育てるとも言っている。日本人に至っては、どんな些細な罪も死で片付けられ、法律すら無力だとしている。切腹の慣習を指摘しているのだろうが、当時の西洋の価値観に照らせば、よほど異様な国に映ったと見える。ちょうど江戸時代にキリスト教徒が迫害され、その無節操さの批判も含まれているのだろう。
それはともかく、血液の流れ方は人間の気性に影響を与えるだろうし、気候とも関係するだろう。今でも、ラテン系は陽気で楽観的だとか言ったりする。そして、気候が極端だと怠惰になりやすいというのもあるかもしれない。暑すぎても、寒すぎても、ヤル気が出ん。着眼点は悪くないのだが...
6. 経済活動と法律
商業は破壊的な偏見を癒し、習俗が穏やかなところではどこでも商業が存在するという。確かに、商業活動は迷信的な慣習を解放してきた。一緒に商売をする二国民は、互いに助け合うのは必定。自然に生じる文化交流が、戦争リスクを軽減している。一方で、プラトンは商業活動が野蛮な習俗となることを嘆いた。商売に憑かれれば、人間行動や道徳観念までも取引の対象にされる。商業活動が横暴になると、それに対抗するかのように厳密な正義観念を生み、利益主義に陥らないようにという風潮が巻き起こる。尚、社会学者マックス・ウェーバーは、著書「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の中で、禁欲的な信仰心のあるところに資本主義が根付いたとした。なるほど、経済活動に対する規制が、道徳を具体化してきたということは言えるかもしれない。
「商業を花咲かせようと欲するすべての国では、現実的貨幣を用いるように、そして、これを観念的なものとしうるような操作を全く行わないように命ずる法律が、この悪習の根を絶つために極めてよい法律であろう。万物の共通の尺度であるものは、なににもまして、たえざる変化にさらされないようにすべきである。商売というものはそれ自体が極めて不確実であり、事物の本性に基づく不確実さに新たな不確実さを加えるのは大きな悪である。」
ところで、奢侈は資産の不平等に比例するという。富を分配する時、法律が各人に生存上必要なものしか与えないようにしなければならないという。それ以上を与えると、ある者は浪費し、ある者は蓄積し、ますます不平等を助長すると。これは基本的人権に関わる問題であるが、この最低水準を巡っては今なお論争が絶えない。生活保護を同じ受けるにしても、少しでも貯蓄して将来に備えるより、手持ちをすべて使い果たす方が厚遇されるとは、これいかに?予算がつけばすべて使わないと、次期には予算がつかないと恐れる官僚組織のように。
「一国が富めば、すべての人の心に大望を抱かせ、貧困になれば、すべての人の心に絶望を生じさせる。大望は労働によって刺激され、絶望は怠惰によって慰められる。」
誰でも一度は贅沢を夢見るだろう。少ししか儲けまいとあれほど欲していた者でさえ、やはり多く儲けたいと願う。経済が活発化すれば、国内に大企業が出現し、その大きさゆえに公共的な存在となる。君主政体においての公の事柄は、商人にとって胡散臭いものであるが、共和政体においての公の事柄は安全に見えるという。そして、大企業は君主政体には向かず、共和政体に向くとしている。専制国家については語るまでもないが、一つ付け加えるならば、隷属状態にある人々は取得よりも保持に努めるだろう。対して、自由人は保持よりも取得を優先する。自己の自由度を計測するには、何を取得しようとしているか?これを測ればいい。金に焦がれるか...地位に焦がれるか...知識に焦がれるか...教養に焦がれるか...すべてを諦めれば深刻な隷属状態に陥る。
また、商業を運命づけられた地域もあり、オランダがそうであり、マルセイユがそうであるという。そして、海岸の配置に加え、自然の恵みを補うために勤勉でなければならないという。一方で、肥沃な農業地に恵まれた地域では、それを維持しようと努めるために、質素な習俗が身につくという。尚、日本の鎖国政策への批判は手厳しいが、まったくだ。
「誰とも取引しないことに利点を見出すのは、自足しうる人民ではなくて、自分のところにはなにももたない人民である。」
同じ事が工業でも言えるだろう。天然資源に恵まれない地域でも、やはり勤勉でなければならない。大航海時代には、商業貿易が発展し、造船技術を進歩させ、貿易と付加価値の高い工業製品が結びついて国家財政を潤した。工業力が軍事力と結びついて世界制覇の野望を抱かせ、やがて、軍事力よりも経済力による世界制覇の時代へと移行していく。商業が盛んな国では銀行の役割が大きい。銀行は信用によって投資を拡大し、新たな価値基準を作る。流通と価値基準の双方を押さえるだけで、あらゆる商業活動を支配でき、生産者は隷属することになる。大商人は、金に物を言わせて貴族の称号を得て政治にも影響力を持ち、やがて工業者までもが商業者となっていく。本書は、銀行を奢侈のために機能させるのは、誤りであると指摘している。そして、アダム・スミス張りの貨幣を用いる理由と交換の意義が語られる。
「商業は、売買の場合には求めるものが最も多い国民の需要に比例して行われ、交換にあっては求めるものが最も少ない国民の需要の範囲内においてのみ行われる。そうでないと、後者は自分の勘定を清算することができなくなるであろう。」
7. 復讐と死刑制度
復讐心は、人間本性的な情念の一つで、最も理性を失う動機となろう。倍返しにしたいというのが人情であり、実際、残虐な皇帝たちはそうしてきた。
そこで、復讐行為に制限を与える法律を見かける。ローマの十二表法には復讐が規定された。怪我を負わせた者に対して、同じ程度の復讐が許されると。ハンムラビ法典には「目には目を歯には歯を」のような記述がある。江戸時代に仇討ちが合法化されたように、西洋にも決闘の法慣例があった。いずれも同等の報復まででチャラにし、報復が無限に及ぶのを禁じようとするものである。やがて、復讐と死刑制度は深く結びつき、合法的殺人と化す。被害者は、裁判官を復讐の代理人として見るだろう。
さて、ここで注目したいのは、二つの異なる法律をいかに比較するか、という問題を論じていることである。フランスでは偽証者に対する刑罰は死刑になるが、イギリスではそうではないという。だが、この点だけ比較して是非を問うても仕方がないと指摘している。関連する法についても議論すべきだと。
フランスでは犯罪人に対して拷問が行われるが、イギリスではそうではないという。さらに、フランスでは被告側から証人を出すことがないが、イギリスでは双方の立場からの証言を許すという。ここには違いがあるものの、双方において一貫性が見られる。
イギリスの場合は、犯罪人に対する拷問を認めないので、被告人から自白を引き出す望みは薄い。だから、双方から第三者の証言を必要とするため、死刑の恐怖によって証人を気おくれさせることはないという。フランスの場合は、法律によって証人を怯えさせることを原理とするため、検察側の証人しか聴聞しない。
確かに、どちらもそれなりに道理があるように思えるが、まったく性格の違う法律として規定されている。要するに、法律の是非を比較する場合、一つ一つの刑を比較しても意味がないということである。
しかし現在、死刑制度の是非だけが取り沙汰される。人道的か?だけを問えば、人が人の命を奪うことに抵抗のない者なんてごく少数派であろう。死刑制度の反対論者はひたすらこの点だけを主張する。だが、我が国における無期懲役刑は事実上、十数年で仮釈放が認められ、被害者の遺族の心中を察すると何とも言いがたい。はたして量刑は、死刑との境界で線形性が保たれているだろうか?近年、二十年を超える事例もあり、徐々に延びる傾向にあるようだ。死刑制度が廃止されれば、無期懲役刑の意味が相対的に重くなるのかもしれないが。いずれにせよ、法律とは理念とも言うべき総合的な観点から構築されるものであって、人道的な感情だけで一つの制度を規定できるものではないだろう。そして、一貫性のない法律が一つ紛れ込んだ時、すべての法体系に歪が生じる。
「不必要な法律が必要な法律を弱めるごとく、くぐり抜けるのが容易な法律も、立法を弱める。」
2013-09-01
"政治学" アリストテレス 著
アリストテレスの「政治学」はいろんな翻訳版があって目移りするが、絶版中も多い。ちと高いが、西洋古典叢書版(牛田徳子訳)を試す...
プラトンが対話篇にこだわったのは、思考プロセスを重んじたからであろう。科学者の多くにプラトン贔屓が見られるのもうなずける。その分、文学的で冗長的ではあるのだけど。対して、アリストテレスの記述は、演繹的で、学術的にも洗練され、政治学者の多くはこちらの方を好むようである。世評のごとく学問の祖と呼ぶには、こちらの方が相応しいのかもしれん。いずれにせよ好みの問題と解しているが...
「政治学」は、プラトンの「国家」と「法律」を継承する国家論として成立し、プラトンの批判書にもなっている。プラトンがソクラテスを崇める立場ならば、アリストテレスはソロンを崇める立場といったところか。ちなみに、ソロンはアテナイに最初の民主制をもたらした政治家で、アレイオス・パゴスの審議会は寡頭制的に、公職者の選出は貴族制的に、裁判所は民主制的に...といった調和の特徴を持つ仕組みを構築した。この場合の調和とは、分権のイメージであろうか。
さて、プラトンとアリストテレスは両者とも四つの徳「思慮(知恵)、勇気、節制、正義」を基盤とするが、その扱いは若干異なる。プラトンが政治の場で正義を実践するための精神活動として節制を最も重視したのに対して、アリストテレスは四つの徳のバランスが崩れると、国家は逸脱した形態に変貌するとしている。そして、徳には、戦争のためのものと、仕事のためのものと、平和や閑暇のためのものがあるとし、戦争のためには勇気が、仕事のためには思慮が、その双方のためには、節制と正義がそれだという。最善の国にとって、戦争は平和のためにあり、仕事は閑暇のためにあると。これがアリストテレス流の中庸の原理というものか。四つの徳とは、調和によって輝くものであって、単独で崇めると暴走するものなのだろう。思慮の方向を間違うと悪知恵と化し、勇気を心得違いすると粗暴に振る舞い、過度の節制が卑屈にさせ、無責任な正義が集団的暴力を煽る。公共の場で正義の根拠が説明できなければ、無条件に信じる宗教と何が違うというのか...
「人間は自然によって国家的動物である。」
国家とはポリス、すなわち共同体のこと。言い換えれば、「人は一人では生きられない」とすることもできようが、学術的に記述すると重みを感じるものよ。
さて、政治とは、実践の手段であり、中間的な多数者を対象とする。ただし、最底辺の少数派への配慮を前提として。現実には、優れた者を対象とする必要はなく、劣った者を規制することになろうか。となると、本来自由を望む人間にとって、政治の存在感は必要最小限に留めたい。国家とは、自由の制限として成り立つ、という見方もできるかもしれない。そして、自由とは、主権に直結する概念となろう。
アリストテレスは、公共的立場を放棄した者を、けして自由人とは認めない。富裕層が支配することだけを知り、貧困層が服従することだけを知るのでは、共同体として機能しないからだ。他の動物のように単に群れて安住するだけでなく、積極的に生きようとするのが人間の本来の姿であるという。国家の目的とは、ソクラテスから受け継がれる「善く生きる」を実行するための手段というわけか。ただし、一旦徳を欠けば、人間は野蛮な本性を剥き出しにし、動物の中で最も厄介な存在となる。
また、平等の誤謬を指摘しながら、自由人を公共的平等を実践する者と定義している。ここでは、「正しき自由」という概念を用いて論じられるが、同時に「正しき平等」としても差し支えあるまい。人間社会において自由が平等に与えられることは自然であり、自然な自由とは正しい範囲で規定されるべきものとしている。
しかしながら、正しき...ってやつが曲者だ。これを具体的に規定することは至難の業。二千年以上経った今でも自由と平等の共存の仕方が分からず、両派とも民衆の機嫌取りに奔走する始末。善き者や有徳者になるためには、三つの原因「自然、習慣、理知」が必要だという。善く生きるための自然的資質を具え、善く生きるための習慣を身につけ、理知によって生きるということ。なるほど、目立ちたがり屋の政治屋どもとは逆の資質か。
ところで、「最善の生」とは、実践的な生ということになろうか。そして、生き方が正しいかどうかは結果で評価される。それゆえに、何事も結果ありきとなりがちで、結果を出した者の生き方に憧れ、それを真似る。だが、個人に備わる性質は多様性に満ちていて、同じ生き方などできるものではない。結局、自分の生き方は、自分で見つけるしかあるまい。猿真似では、あまりにも受動的すぎる。ならば、現在進行中の生き方、すなわちプロセスを大切にするしかないではないか。いずれにせよ、成功する者はごくわずか。ほとんどの人は失敗の言い訳を探しながら生きている。何かのせいにすれば気が楽になり、真似る人生も悪くない。人のせいにし、社会のせいにし、神のせいにし... それでもなお神は沈黙したまま。しかし、能動的に生きれば自分のせいになる。自爆テロの類いか。そして、自我の奥から自己に囁いてくる。もっといじめて!と...やはりM性でなけれ悟れない境地であろか...
1. 「政治学」と「ニコマコス倫理学」
「政治学」には、ちと気になる点がある。それは「ニコマコス倫理学」とだいぶ印象が違うことである。後者は、息子ニコマコスが編纂したとされるので、弟子たちの解釈も反映されているだろう。本記事は、ニコマコス側にバイアスをかけて解釈している?かもしれない。ここでは、その違いを二点ほど挙げてみよう。
一つは、「生まれつき奴隷」の解釈について...
アリストテレス批判でよく見かけるところである。本書では「自然による奴隷」と記述され、「法による奴隷」と区別される。法による奴隷とは、能動的に生きるのではなく、ひたすら世間体や掟に従って生きるような人間を言うのか?どうやらそのようである。自然的な能力を持たなければ、受動的に生きることになり、何かに隷属することになる。現代風に言えば、組織への依存性を高めるといったことであろうか。経営者の言いなりになって、文句ばかり垂れるのでは、隷属しているのと変わらない。ニコマコス的に解釈すれば、奴隷制や階級制の固定を容認した発言でもなさそうである。
ところが、生まれの卑しさを差別したり、男女関係においては腕力の強い男が自然に支配者になるとしたり、非ギリシア人が奴隷になるのは仕方がないとしたり、ややムカつく記述も目立つ。現代感覚で量れば、奴隷制を肯定したと言われても仕方がないかもしれない。実は本音を漏らしていたりして...
二つは、国制の在り方について...
「ニコマコス倫理学」では、君主制、貴族制、民主制の三つの形態があり、最善なのは君主制で最悪なのは民主制だとしていた。ただし、僭主制は君主制の逸脱した形態としながら。
「政治学」では、正しき国制に、王制、貴族制、国制があるとし、それぞれの逸脱した形態が、僭主制、寡頭制、民主制だとしている。国制を論じるのに、その種類の一つに国制があると混乱しそうだが、多数者支配を意味している。尚、貴族制とは、最優秀者たちによる支配であって、固定された階級による支配という意味ではない。つまり、単独支配、少数支配、多数支配という三つの型から論じられ、民主制は逸脱した側にあって、正しき国制ではないというわけだ。そして、優れた順に、王制、貴族制、国制とし、逸脱した中で最もマシなのが民主制で、最悪なのが僭主制だとしている。
師匠と弟子たちの発言において、こうした印象の違いは、どこからくるのだろうか?弟子が分かりやすく記述した結果であろうか?逆に、弟子の考えから発展させたのだろうか?あるいは翻訳者の違いだろうか?いや、おいらの解釈がいい加減なだけのことかもしれん。まぁ、大きく違うと言えばそうかもしれないし、大して違わないと言えばそうかもしれないが...
少なくとも、どんな正しき国制であっても、自己の利益を優先する者が権力に物を言わせると、似ても似つかぬ姿に変貌する。人間の実践できる政治は、逸脱した形態でしかないということか?アリストテレスはそうは言っていないが、それを暗示していると解するのは行き過ぎであろうか?とりあえず、理想が高ければリスクも大きく、最もリスクが低いのが民主制である、と解釈しておこうか。しかしながら、民衆が一方向に向かった時の力は果てしなく、集団の徳性が見失われた時、最もリスクを高める。アリストテレスは、どうせ人間どもに正しき国制なんて描けないのだから...と、弟子たちに本音を漏らしたのかもしれん。
2. アリストテレスの人生
アリストテレスがマケドニア人であったかは定かではないらしい。生まれは、エーゲ海北西部に面したカルキディケ半島のスタゲイラ。カルキディケ地方のギリシア小都市は、野心的なマケドニアに対抗するためにオリュントスを中心に連盟を結成し、戦争と和睦を繰り返していたという。そして、マケドニア王フィリッポス2世に滅ぼされる。アリストテレスの父ニコマコスはフィリッポス2世の父アミュンタス3世の待医であったと伝えられることからも、一目置かれた家系であったようだ。
一方、プラトンの学園アカデメイアは、外国人に広く門戸を開いていた。その自由闊達な学風に惹かれ、アリストテレスはアテナイへ赴く。彼の才能は師から一目置かれていたようである。だが、突然アテナイを去る。ちょうどプラトンの死去した時期。後継者争いでプラトンの親族派に追い出されたのか?あるいは、マケドニアがギリシア本土に勢力を伸ばしつつあり、親マケドニア派として居づらかったのか?理由は不明だそうな。その後、フィリッポス2世の要請でその息子、後のアレクサンドロス大王の家庭教師となる。ちなみに、ギリシア同盟軍を率いてペルシアへ侵攻しようとした矢先、フィリッポス2世は暗殺された。この事件にアレクサンドロスが関与したという面白おかしく書き立てた物語もあるが、真相は知らん。
それはさておき、本書にはアレクサンドロス大王の記述がまったく見当たらない。君主制を研究するには、おあつらえ向きのはずだが。どんなに偉大な人物であっても、君主の及ぶ政治力の限界を認めていたのだろうか?アリストテレスは、ひと目で見渡せる小規模のポリスを理想国家とし、非ギリシア人を差別して民族優越主義を露わにする。おそらく、マケドニア人もギリシア人に含めているのだろう。誰にでも優れた集団に属したいという願望があるだろうし、誰にでも優位に立ちたいという国粋主義的な性格が潜んでいるだろう。
しかし、教え子によって、想像だにしない世界規模の多民族国家が建設され、植民地支配では現地人を積極的に登用するなどの宥和政策が用いられた。なんとも皮肉である。おまけに、大王が死去すると、アテナイで反マケドニア派が決起し、アリストテレスは不敬罪で弾劾されることに。同僚テオプラストスとともに、母の故郷エウボイアのカルキスへ逃れ、そのまま病死。
プラトンとアレクサンドロス大王という二人の巨匠の庇護の下で、アリストテレスは名声を博したが、後ろ盾を失った途端に追放罪を喰らう。アリストテレスの人生は、師と弟子の確執、あるいは、真の学問が政治に翻弄される様といった、世俗でよく見かける構図を映し出しているかのようである。
3. プラトンの共有観念に対する批判
歴史を振り返れば、国家主権を唱える場合、まずもって前提されてきたのが領土の所有権である。そして、国家組織の下で、あらゆる所有権が私有財産とともに搾取されてきた。
さて、私有財産権をどこまで認めるか?あるいは、国家の所有物はすべて共有にすべきなのか?プラトンとアリストテレスの両者の主張は、このあたりに大きな違いを見せる。
プラトンが過激なのは、財産だけでなく子供や妻までも国家で共有すべきだとしたことである。これには、いくらプラトン贔屓のおいらでも目を覆った。民衆が私有財産に対して横暴になる様を嘆いてのことかもしれんが。善き国家モデルについては、プラトンは独裁制と民主制の混在型を提案している。最も賢者とされる師ソクラテスが国家の名の下で死刑に処せられるようでは、アテナイ型民主制に限界を感じるのも仕方があるまい。
対して、アリストテレスは国家が一つになることの危険性を指摘している。人間は本質的に多様であり、国家が一方向に進めば、もはや国家ではなくなるという。自由と平等を論じる上で最も気を使うところは、人間の多様性であろう。多様な価値観の否定は、個性を否定することになり、ひいては主権を脅かすことになる。だからといって、教育によって同質な人間を大量生産すれば、様々な弊害をもたらす。子供を国家のものとしてしまえば、ヒトラー・ユーゲントのような印象を与えかねない。人間の共有では、共有される側にも意志があることを忘れてはなるまい。
さらに、財産の共有は、もっと厄介なことになるかもしれない。共産主義的な配給では、一生懸命働く者がバカをみる。生産活動に対する能力と労力が報われないと、ヤル気も失せる。だからといって、すべてを私有財産とするわけにもいかない。アリストテレスは、公共財産と私有財産を区別すべきだとしている。
しかしながら、私有財産の範囲を法で規定することは非常にデリケートな問題で、経済学はこの問題に悩まされてきた。現在では、会社は誰ものか?という議論がお盛ん。クラウド社会ではデータは盗んだ奴のもの?休眠口座は金融屋のもの?
それはさておき、地球は誰のもの?と問えば、みんなのものと答える人が多数派であろう。ところが、ある一定の面積を規定すると、それは土地と呼ばれ、そこに所有権が生じる。道路は公共のものなのに、玄関先に鉢植えを並べて、その一郭に所有権を暗示する。人は皆、所有が絡むと血眼よ。共有の概念は、俺のものは俺のもの!お前のものも俺のもの!となる。たまーに女性は恐ろしいことを口にする。私はあなたのものよ!って。愛を金で買うのは責任逃れのためか?慰謝料もその類いか?ならば、いっそのことプラトン流に誰のものでもないとするしかないのか?
アリストテレスは、ソクラテスに対して誤謬が生じるのは「国家はできるだけ一つであらねばならぬ」という想定が、そもそも間違っていると批判している。師に対してなかなかの挑発的な発言ではあるが、まったくである。
4. 経済学のパラドックスと政治学のパラドックス
人間社会では、マクロ的な現象とミクロ的な現象とがしばしば正反対になる。そのこと自体は、今では常識とされる。経済学では、倹約のパラドックスや貯蓄のパラドックス、あるいは合成の誤謬などと呼ばれるやつだ。実際、個人や企業にとって好ましいことが、社会全体として好ましくない方向に作用することは珍しくない。プラトンとアリストテレスもまた、マクロとミクロの双方から国制を考察している。ただ、プラトンが、個人の様式に一致して国家の様式が決まるとしたのに対して、アリストテレスは、個人の善と公共の善は、種類は同じでも、同時に一致するとは限らないとしている。
さて、個人の悪魔性と集団の悪魔性とでは、どちらが厄介であろうか?どちらも暴走したら手が付けられない。ただ、一人であれば暗殺で事足りるか。いや、権力が暗殺者の手に落ちるだけよ。真の君主制であっても、一人の王が誠実なだけでは足りない。どんな優れた人物にも寿命があり、やがて世襲に染まる。そして、権力の狂気を是正するために、民衆の暴力革命に委ねれば、社会的リスクを高めることになる。そこで、大勢の政治参加があれば、誰かが暴走に気づくだろうし、修正の機会を若干増やすかもしれない。いや、集団化した狂気は少数派を抹殺するだけよ。実際、選挙では、意見が均等に割れると多数決が機能しないどころか、最悪な選択がなされることもある。独裁制と民主制の違いとは、この程度のものであろうか。
どんな国制であれ、その善し悪しは、多数派の慣習に委ねられることになりそうだ。人間は、自己存在をより強調したいという本能を持っている。ほとんどの欲望は自己愛で説明がつくだろう。より多くの財を求め、より多くの権力を求め、自己存在の優越を確認する。となれば、自己存在を否定できるような人物でなければ、真の君主にはなりえないということか?これを、政治学のパラドックスとしておこうか...
5. ポリス型地方分権
国家とは、人口構成、経済状況、宗教観、歴史など、様々要素が絡んで形成されるものだから、同じ民主制であっても形式が違うのは自然であろう。国制とは、真似してうまくいくものではあるまい。実際、ある地域でうまくいった政策だからといって、別の地域に導入してもうまくいかない。アリストテレスは、市民に共通観念を呼び覚ます素因として、国家のアイデンティティを重視している。政治において最も重要なのは、正義の実践であり、刑罰や税の徴収が正当化されるのは、正義観念においてのみである。共同体として結びつく力は、政治理念、経済活動、共同生活など、手段によっても変わってくるだろう。たった二人の夫婦ですら共通意識は簡単に崩壊する。たとえ神の前で誓ったとしても。関係が近いほど、結びつく力は鬱陶しいものになるらしい。ちなみに、古代ギリシアにはこんな格言があるそうな。
「愛することのすぎたる者は、また憎むことのすぎたる者なり」
それはさておき、国家にも経済と同様、目的に合った機能しやすい規模というものがあるのだろう。国内であっても地域によって多様性があるならば、それなりに政策を変えていく必要がある。地方自治体や地方分権の意義とは、そういうことであろう。中央集権の機能しやすい規模もあれば、経済活動の機能しやすい規模もあるだろうし、大きな国家ほど必然的に地方自治との組み合わせを模索することになろう。
その意味で、プラトンやアリストテレスが語る古代ギリシアのポリス型連合は、地方分権モデルとして参考にできそうである。アテナイとスパルタというだけで制度がまるっきり違うが、いざ国防となると、ペルシアの侵攻に対して全ギリシアが連合して立ち向かった。それは、けして隷属しない!けして主権を放棄しない!というポリスの合言葉においてのみ生じる力で、政治家どもの面子などとはまったく異次元のものである。ただ、スパルタのエフォロイ制については、並の人に重要な裁判を採決する至高の権威を与えていることを批判している。これには、現在の裁判員制度への批判に通ずるものがある。市民にどこまで権利を与えるかは、民主制が抱える永遠のテーマであろう。
6. 自給自足と人口論
本書は、機能しやすい共同体の規模を、自給自足の観点からも考察している。アリストテレスの人口論とでもしておこうか。生産性は人口が多いほど優位だが、同時に生産性がおぼつかなければ、飢餓が生じる。国防のための適当な領土というものがあり、市民を養い、国防軍を維持するだけの経済力が必要だとしている。
「人が多すぎる国がよい法治国になるのは難しい -- おそらく不可能かもしれない。とにかくみるところ、よく治められているという評判の国で人口に制限を設けていない国はない。」
当時の主産業は農業であるが、議論の対象はそれだけに留まらず、貨幣による交換術にまで及ぶ。それほど農業人口にこだわることもないといったニュアンスか。確かに、技術革新が進めば、付加価値の高い工業へと労働人口が移ってきた。現在、アメリカの農民はたった300万人ほどで、2億人分以上の食糧を賄っている。まさかアリストテレスの時代に、ここまでの比率を想像していたとは思えないが。
また、マネーサプライもどきの経済原理が論じられる。貨幣は物との交換から生じたにもかかわらず、本来の目的から逸脱し、貨幣そのものの交換に用いられ利子が生じたという。そして、利子は貨幣から生まれた貨幣であるため、利子は貨幣そのものを増殖させるという。ついでに、貨幣があらゆる価値の交換に関与するために、そこにサヤ取りの原理が生じるといったことも匂わせる。本書は、利子による財の獲得は自然に反するとし、自足のためには財の獲得が自然に適っていなければならないとしている。どんな富にも限界があるはずだが、人々は貨幣となると無限に増やそうとする。ちなみに、ソロンの言葉に、こういうものがあるそうな。
「人間には富のいかなる際限もはっきりと見定められない。」
プラトンが対話篇にこだわったのは、思考プロセスを重んじたからであろう。科学者の多くにプラトン贔屓が見られるのもうなずける。その分、文学的で冗長的ではあるのだけど。対して、アリストテレスの記述は、演繹的で、学術的にも洗練され、政治学者の多くはこちらの方を好むようである。世評のごとく学問の祖と呼ぶには、こちらの方が相応しいのかもしれん。いずれにせよ好みの問題と解しているが...
「政治学」は、プラトンの「国家」と「法律」を継承する国家論として成立し、プラトンの批判書にもなっている。プラトンがソクラテスを崇める立場ならば、アリストテレスはソロンを崇める立場といったところか。ちなみに、ソロンはアテナイに最初の民主制をもたらした政治家で、アレイオス・パゴスの審議会は寡頭制的に、公職者の選出は貴族制的に、裁判所は民主制的に...といった調和の特徴を持つ仕組みを構築した。この場合の調和とは、分権のイメージであろうか。
さて、プラトンとアリストテレスは両者とも四つの徳「思慮(知恵)、勇気、節制、正義」を基盤とするが、その扱いは若干異なる。プラトンが政治の場で正義を実践するための精神活動として節制を最も重視したのに対して、アリストテレスは四つの徳のバランスが崩れると、国家は逸脱した形態に変貌するとしている。そして、徳には、戦争のためのものと、仕事のためのものと、平和や閑暇のためのものがあるとし、戦争のためには勇気が、仕事のためには思慮が、その双方のためには、節制と正義がそれだという。最善の国にとって、戦争は平和のためにあり、仕事は閑暇のためにあると。これがアリストテレス流の中庸の原理というものか。四つの徳とは、調和によって輝くものであって、単独で崇めると暴走するものなのだろう。思慮の方向を間違うと悪知恵と化し、勇気を心得違いすると粗暴に振る舞い、過度の節制が卑屈にさせ、無責任な正義が集団的暴力を煽る。公共の場で正義の根拠が説明できなければ、無条件に信じる宗教と何が違うというのか...
「人間は自然によって国家的動物である。」
国家とはポリス、すなわち共同体のこと。言い換えれば、「人は一人では生きられない」とすることもできようが、学術的に記述すると重みを感じるものよ。
さて、政治とは、実践の手段であり、中間的な多数者を対象とする。ただし、最底辺の少数派への配慮を前提として。現実には、優れた者を対象とする必要はなく、劣った者を規制することになろうか。となると、本来自由を望む人間にとって、政治の存在感は必要最小限に留めたい。国家とは、自由の制限として成り立つ、という見方もできるかもしれない。そして、自由とは、主権に直結する概念となろう。
アリストテレスは、公共的立場を放棄した者を、けして自由人とは認めない。富裕層が支配することだけを知り、貧困層が服従することだけを知るのでは、共同体として機能しないからだ。他の動物のように単に群れて安住するだけでなく、積極的に生きようとするのが人間の本来の姿であるという。国家の目的とは、ソクラテスから受け継がれる「善く生きる」を実行するための手段というわけか。ただし、一旦徳を欠けば、人間は野蛮な本性を剥き出しにし、動物の中で最も厄介な存在となる。
また、平等の誤謬を指摘しながら、自由人を公共的平等を実践する者と定義している。ここでは、「正しき自由」という概念を用いて論じられるが、同時に「正しき平等」としても差し支えあるまい。人間社会において自由が平等に与えられることは自然であり、自然な自由とは正しい範囲で規定されるべきものとしている。
しかしながら、正しき...ってやつが曲者だ。これを具体的に規定することは至難の業。二千年以上経った今でも自由と平等の共存の仕方が分からず、両派とも民衆の機嫌取りに奔走する始末。善き者や有徳者になるためには、三つの原因「自然、習慣、理知」が必要だという。善く生きるための自然的資質を具え、善く生きるための習慣を身につけ、理知によって生きるということ。なるほど、目立ちたがり屋の政治屋どもとは逆の資質か。
ところで、「最善の生」とは、実践的な生ということになろうか。そして、生き方が正しいかどうかは結果で評価される。それゆえに、何事も結果ありきとなりがちで、結果を出した者の生き方に憧れ、それを真似る。だが、個人に備わる性質は多様性に満ちていて、同じ生き方などできるものではない。結局、自分の生き方は、自分で見つけるしかあるまい。猿真似では、あまりにも受動的すぎる。ならば、現在進行中の生き方、すなわちプロセスを大切にするしかないではないか。いずれにせよ、成功する者はごくわずか。ほとんどの人は失敗の言い訳を探しながら生きている。何かのせいにすれば気が楽になり、真似る人生も悪くない。人のせいにし、社会のせいにし、神のせいにし... それでもなお神は沈黙したまま。しかし、能動的に生きれば自分のせいになる。自爆テロの類いか。そして、自我の奥から自己に囁いてくる。もっといじめて!と...やはりM性でなけれ悟れない境地であろか...
1. 「政治学」と「ニコマコス倫理学」
「政治学」には、ちと気になる点がある。それは「ニコマコス倫理学」とだいぶ印象が違うことである。後者は、息子ニコマコスが編纂したとされるので、弟子たちの解釈も反映されているだろう。本記事は、ニコマコス側にバイアスをかけて解釈している?かもしれない。ここでは、その違いを二点ほど挙げてみよう。
一つは、「生まれつき奴隷」の解釈について...
アリストテレス批判でよく見かけるところである。本書では「自然による奴隷」と記述され、「法による奴隷」と区別される。法による奴隷とは、能動的に生きるのではなく、ひたすら世間体や掟に従って生きるような人間を言うのか?どうやらそのようである。自然的な能力を持たなければ、受動的に生きることになり、何かに隷属することになる。現代風に言えば、組織への依存性を高めるといったことであろうか。経営者の言いなりになって、文句ばかり垂れるのでは、隷属しているのと変わらない。ニコマコス的に解釈すれば、奴隷制や階級制の固定を容認した発言でもなさそうである。
ところが、生まれの卑しさを差別したり、男女関係においては腕力の強い男が自然に支配者になるとしたり、非ギリシア人が奴隷になるのは仕方がないとしたり、ややムカつく記述も目立つ。現代感覚で量れば、奴隷制を肯定したと言われても仕方がないかもしれない。実は本音を漏らしていたりして...
二つは、国制の在り方について...
「ニコマコス倫理学」では、君主制、貴族制、民主制の三つの形態があり、最善なのは君主制で最悪なのは民主制だとしていた。ただし、僭主制は君主制の逸脱した形態としながら。
「政治学」では、正しき国制に、王制、貴族制、国制があるとし、それぞれの逸脱した形態が、僭主制、寡頭制、民主制だとしている。国制を論じるのに、その種類の一つに国制があると混乱しそうだが、多数者支配を意味している。尚、貴族制とは、最優秀者たちによる支配であって、固定された階級による支配という意味ではない。つまり、単独支配、少数支配、多数支配という三つの型から論じられ、民主制は逸脱した側にあって、正しき国制ではないというわけだ。そして、優れた順に、王制、貴族制、国制とし、逸脱した中で最もマシなのが民主制で、最悪なのが僭主制だとしている。
師匠と弟子たちの発言において、こうした印象の違いは、どこからくるのだろうか?弟子が分かりやすく記述した結果であろうか?逆に、弟子の考えから発展させたのだろうか?あるいは翻訳者の違いだろうか?いや、おいらの解釈がいい加減なだけのことかもしれん。まぁ、大きく違うと言えばそうかもしれないし、大して違わないと言えばそうかもしれないが...
少なくとも、どんな正しき国制であっても、自己の利益を優先する者が権力に物を言わせると、似ても似つかぬ姿に変貌する。人間の実践できる政治は、逸脱した形態でしかないということか?アリストテレスはそうは言っていないが、それを暗示していると解するのは行き過ぎであろうか?とりあえず、理想が高ければリスクも大きく、最もリスクが低いのが民主制である、と解釈しておこうか。しかしながら、民衆が一方向に向かった時の力は果てしなく、集団の徳性が見失われた時、最もリスクを高める。アリストテレスは、どうせ人間どもに正しき国制なんて描けないのだから...と、弟子たちに本音を漏らしたのかもしれん。
2. アリストテレスの人生
アリストテレスがマケドニア人であったかは定かではないらしい。生まれは、エーゲ海北西部に面したカルキディケ半島のスタゲイラ。カルキディケ地方のギリシア小都市は、野心的なマケドニアに対抗するためにオリュントスを中心に連盟を結成し、戦争と和睦を繰り返していたという。そして、マケドニア王フィリッポス2世に滅ぼされる。アリストテレスの父ニコマコスはフィリッポス2世の父アミュンタス3世の待医であったと伝えられることからも、一目置かれた家系であったようだ。
一方、プラトンの学園アカデメイアは、外国人に広く門戸を開いていた。その自由闊達な学風に惹かれ、アリストテレスはアテナイへ赴く。彼の才能は師から一目置かれていたようである。だが、突然アテナイを去る。ちょうどプラトンの死去した時期。後継者争いでプラトンの親族派に追い出されたのか?あるいは、マケドニアがギリシア本土に勢力を伸ばしつつあり、親マケドニア派として居づらかったのか?理由は不明だそうな。その後、フィリッポス2世の要請でその息子、後のアレクサンドロス大王の家庭教師となる。ちなみに、ギリシア同盟軍を率いてペルシアへ侵攻しようとした矢先、フィリッポス2世は暗殺された。この事件にアレクサンドロスが関与したという面白おかしく書き立てた物語もあるが、真相は知らん。
それはさておき、本書にはアレクサンドロス大王の記述がまったく見当たらない。君主制を研究するには、おあつらえ向きのはずだが。どんなに偉大な人物であっても、君主の及ぶ政治力の限界を認めていたのだろうか?アリストテレスは、ひと目で見渡せる小規模のポリスを理想国家とし、非ギリシア人を差別して民族優越主義を露わにする。おそらく、マケドニア人もギリシア人に含めているのだろう。誰にでも優れた集団に属したいという願望があるだろうし、誰にでも優位に立ちたいという国粋主義的な性格が潜んでいるだろう。
しかし、教え子によって、想像だにしない世界規模の多民族国家が建設され、植民地支配では現地人を積極的に登用するなどの宥和政策が用いられた。なんとも皮肉である。おまけに、大王が死去すると、アテナイで反マケドニア派が決起し、アリストテレスは不敬罪で弾劾されることに。同僚テオプラストスとともに、母の故郷エウボイアのカルキスへ逃れ、そのまま病死。
プラトンとアレクサンドロス大王という二人の巨匠の庇護の下で、アリストテレスは名声を博したが、後ろ盾を失った途端に追放罪を喰らう。アリストテレスの人生は、師と弟子の確執、あるいは、真の学問が政治に翻弄される様といった、世俗でよく見かける構図を映し出しているかのようである。
3. プラトンの共有観念に対する批判
歴史を振り返れば、国家主権を唱える場合、まずもって前提されてきたのが領土の所有権である。そして、国家組織の下で、あらゆる所有権が私有財産とともに搾取されてきた。
さて、私有財産権をどこまで認めるか?あるいは、国家の所有物はすべて共有にすべきなのか?プラトンとアリストテレスの両者の主張は、このあたりに大きな違いを見せる。
プラトンが過激なのは、財産だけでなく子供や妻までも国家で共有すべきだとしたことである。これには、いくらプラトン贔屓のおいらでも目を覆った。民衆が私有財産に対して横暴になる様を嘆いてのことかもしれんが。善き国家モデルについては、プラトンは独裁制と民主制の混在型を提案している。最も賢者とされる師ソクラテスが国家の名の下で死刑に処せられるようでは、アテナイ型民主制に限界を感じるのも仕方があるまい。
対して、アリストテレスは国家が一つになることの危険性を指摘している。人間は本質的に多様であり、国家が一方向に進めば、もはや国家ではなくなるという。自由と平等を論じる上で最も気を使うところは、人間の多様性であろう。多様な価値観の否定は、個性を否定することになり、ひいては主権を脅かすことになる。だからといって、教育によって同質な人間を大量生産すれば、様々な弊害をもたらす。子供を国家のものとしてしまえば、ヒトラー・ユーゲントのような印象を与えかねない。人間の共有では、共有される側にも意志があることを忘れてはなるまい。
さらに、財産の共有は、もっと厄介なことになるかもしれない。共産主義的な配給では、一生懸命働く者がバカをみる。生産活動に対する能力と労力が報われないと、ヤル気も失せる。だからといって、すべてを私有財産とするわけにもいかない。アリストテレスは、公共財産と私有財産を区別すべきだとしている。
しかしながら、私有財産の範囲を法で規定することは非常にデリケートな問題で、経済学はこの問題に悩まされてきた。現在では、会社は誰ものか?という議論がお盛ん。クラウド社会ではデータは盗んだ奴のもの?休眠口座は金融屋のもの?
それはさておき、地球は誰のもの?と問えば、みんなのものと答える人が多数派であろう。ところが、ある一定の面積を規定すると、それは土地と呼ばれ、そこに所有権が生じる。道路は公共のものなのに、玄関先に鉢植えを並べて、その一郭に所有権を暗示する。人は皆、所有が絡むと血眼よ。共有の概念は、俺のものは俺のもの!お前のものも俺のもの!となる。たまーに女性は恐ろしいことを口にする。私はあなたのものよ!って。愛を金で買うのは責任逃れのためか?慰謝料もその類いか?ならば、いっそのことプラトン流に誰のものでもないとするしかないのか?
アリストテレスは、ソクラテスに対して誤謬が生じるのは「国家はできるだけ一つであらねばならぬ」という想定が、そもそも間違っていると批判している。師に対してなかなかの挑発的な発言ではあるが、まったくである。
4. 経済学のパラドックスと政治学のパラドックス
人間社会では、マクロ的な現象とミクロ的な現象とがしばしば正反対になる。そのこと自体は、今では常識とされる。経済学では、倹約のパラドックスや貯蓄のパラドックス、あるいは合成の誤謬などと呼ばれるやつだ。実際、個人や企業にとって好ましいことが、社会全体として好ましくない方向に作用することは珍しくない。プラトンとアリストテレスもまた、マクロとミクロの双方から国制を考察している。ただ、プラトンが、個人の様式に一致して国家の様式が決まるとしたのに対して、アリストテレスは、個人の善と公共の善は、種類は同じでも、同時に一致するとは限らないとしている。
さて、個人の悪魔性と集団の悪魔性とでは、どちらが厄介であろうか?どちらも暴走したら手が付けられない。ただ、一人であれば暗殺で事足りるか。いや、権力が暗殺者の手に落ちるだけよ。真の君主制であっても、一人の王が誠実なだけでは足りない。どんな優れた人物にも寿命があり、やがて世襲に染まる。そして、権力の狂気を是正するために、民衆の暴力革命に委ねれば、社会的リスクを高めることになる。そこで、大勢の政治参加があれば、誰かが暴走に気づくだろうし、修正の機会を若干増やすかもしれない。いや、集団化した狂気は少数派を抹殺するだけよ。実際、選挙では、意見が均等に割れると多数決が機能しないどころか、最悪な選択がなされることもある。独裁制と民主制の違いとは、この程度のものであろうか。
どんな国制であれ、その善し悪しは、多数派の慣習に委ねられることになりそうだ。人間は、自己存在をより強調したいという本能を持っている。ほとんどの欲望は自己愛で説明がつくだろう。より多くの財を求め、より多くの権力を求め、自己存在の優越を確認する。となれば、自己存在を否定できるような人物でなければ、真の君主にはなりえないということか?これを、政治学のパラドックスとしておこうか...
5. ポリス型地方分権
国家とは、人口構成、経済状況、宗教観、歴史など、様々要素が絡んで形成されるものだから、同じ民主制であっても形式が違うのは自然であろう。国制とは、真似してうまくいくものではあるまい。実際、ある地域でうまくいった政策だからといって、別の地域に導入してもうまくいかない。アリストテレスは、市民に共通観念を呼び覚ます素因として、国家のアイデンティティを重視している。政治において最も重要なのは、正義の実践であり、刑罰や税の徴収が正当化されるのは、正義観念においてのみである。共同体として結びつく力は、政治理念、経済活動、共同生活など、手段によっても変わってくるだろう。たった二人の夫婦ですら共通意識は簡単に崩壊する。たとえ神の前で誓ったとしても。関係が近いほど、結びつく力は鬱陶しいものになるらしい。ちなみに、古代ギリシアにはこんな格言があるそうな。
「愛することのすぎたる者は、また憎むことのすぎたる者なり」
それはさておき、国家にも経済と同様、目的に合った機能しやすい規模というものがあるのだろう。国内であっても地域によって多様性があるならば、それなりに政策を変えていく必要がある。地方自治体や地方分権の意義とは、そういうことであろう。中央集権の機能しやすい規模もあれば、経済活動の機能しやすい規模もあるだろうし、大きな国家ほど必然的に地方自治との組み合わせを模索することになろう。
その意味で、プラトンやアリストテレスが語る古代ギリシアのポリス型連合は、地方分権モデルとして参考にできそうである。アテナイとスパルタというだけで制度がまるっきり違うが、いざ国防となると、ペルシアの侵攻に対して全ギリシアが連合して立ち向かった。それは、けして隷属しない!けして主権を放棄しない!というポリスの合言葉においてのみ生じる力で、政治家どもの面子などとはまったく異次元のものである。ただ、スパルタのエフォロイ制については、並の人に重要な裁判を採決する至高の権威を与えていることを批判している。これには、現在の裁判員制度への批判に通ずるものがある。市民にどこまで権利を与えるかは、民主制が抱える永遠のテーマであろう。
6. 自給自足と人口論
本書は、機能しやすい共同体の規模を、自給自足の観点からも考察している。アリストテレスの人口論とでもしておこうか。生産性は人口が多いほど優位だが、同時に生産性がおぼつかなければ、飢餓が生じる。国防のための適当な領土というものがあり、市民を養い、国防軍を維持するだけの経済力が必要だとしている。
「人が多すぎる国がよい法治国になるのは難しい -- おそらく不可能かもしれない。とにかくみるところ、よく治められているという評判の国で人口に制限を設けていない国はない。」
当時の主産業は農業であるが、議論の対象はそれだけに留まらず、貨幣による交換術にまで及ぶ。それほど農業人口にこだわることもないといったニュアンスか。確かに、技術革新が進めば、付加価値の高い工業へと労働人口が移ってきた。現在、アメリカの農民はたった300万人ほどで、2億人分以上の食糧を賄っている。まさかアリストテレスの時代に、ここまでの比率を想像していたとは思えないが。
また、マネーサプライもどきの経済原理が論じられる。貨幣は物との交換から生じたにもかかわらず、本来の目的から逸脱し、貨幣そのものの交換に用いられ利子が生じたという。そして、利子は貨幣から生まれた貨幣であるため、利子は貨幣そのものを増殖させるという。ついでに、貨幣があらゆる価値の交換に関与するために、そこにサヤ取りの原理が生じるといったことも匂わせる。本書は、利子による財の獲得は自然に反するとし、自足のためには財の獲得が自然に適っていなければならないとしている。どんな富にも限界があるはずだが、人々は貨幣となると無限に増やそうとする。ちなみに、ソロンの言葉に、こういうものがあるそうな。
「人間には富のいかなる際限もはっきりと見定められない。」
2013-08-25
"法律(上/下)" プラトン 著
著作「国家」では、国の在り方についての理念が論じられた。ここでは、法や制度についての立法の在り方が論じられる。理論を裏付けるものは実践である。人間精神や人間社会ってやつは、試行実験によってのみ育まれるであろう。まずは具体的に行動を起こすことだ。真理への道は険しく、たとえ永遠に到達できないと認めつつも...
著作「法律」は、「第七書簡」、「第八書簡」と並んで、最晩年の作品と推測されるそうな。プラトンは、これを未定稿のまま残し、書きながら死んでいったという。いつも気の抜けない彼の対話篇だが、この作品に関しては時折あくびの出る場面がある。理念を語る時はその抽象論争が読み物として面白いが、法律の条文を語るとなるとやや退屈気味。対話というより儀式じみた国会討論に近いような。歳をとると形式じみたり、理屈っぽくなるのかは知らんが、なんとなく説教じみて聞こえる。法を実践的に記述するということは、犯罪の種類を具体的に記述することになり、当然ながら罰則にまで踏み込むことになる。そんなものは、当事者でもない限り退屈するものよ。そして、いかにもダーティハリーが吐きそうな台詞をつぶやくのであった。ドスの利いた声で... 法律なんてものは、都合が悪くなった奴が利用するためにあるのさ!
プラトンはあくまで対話篇にこだわる。それは、哲学問答こそが真理へ導く手段として、最も近道だと考えたからであろう。だが、論議が精神に及ぶと、芸術的あるいは直感的にならざるをえない。
さて、最も人間味のある感情とやらを、論理で記述することは可能であろうか?それは主観を客観で記述することを意味し、ひいては、人類の普遍的な価値観とはいかなるものかを問うことになろう。集団生活を営むには、共通観念のようなものが必要である。それは誰もが納得できるもので、古くは掟と呼ばれた。共同社会の秩序は、生命、身体、財産の保護が前提され、掟はこれらの権利を保証するとともに、掟を破った者への処罰によって実践されてきた。だが、そこに感情が癒着すると、偏見に満ちた魔女狩りの類いが生じ、法廷はたちまち集団リンチの場と化す。多数決の原理とは脆いもので、冷静な眼を持つ者が圧倒的多数でなければ簡単に崩壊する。
そして、いつの時代も、立法者や法の番人には、いかなる人物がその任に就くべきか?が問われてきた。古くは、より経験を積んだ長老がその役割を演じ、今では、学問に精進した、より知性や理性の認められた者が選ばれることになっている。ちなみに、ギリシャ語では、法律をノモス、知性をヌゥスと呼ぶそうな。音律が近いのは偶然ではあるまい。
法律は論理的弱点を慢性的に抱えているため、条文の解釈では裁判官にある程度の自由裁量を認めざるを得ない。しかし、立法とその解釈の双方において、暴走を抑止する手段を人格だけに頼ることができようか。法律には、犯罪を規定するだけでは不十分で、権力を制限する作用が求められる。人間が主観の奴隷であり続けるならば、社会における客観性の実践では、第三者の眼に頼るぐらいであろうか。
本書が、法に携わる立場を、立法者、司る者、執行する者で論じられるあたりは、三権分立らしき構想を垣間見ることができる。とはいえ、警察力のような強制や脅迫を導入したところで、それらの職務が能動的な動機によらなければ作用しないだろう。そこで、プラトンはまずもって、「己に克つ!」という動機を掲げる。そして、法律の目的は、善き国家建設のための四つの徳「思慮(知恵)、勇気、節制、正義」を実践することにあるとしている。多数の不正者が結束し、少数の正しい者を暴力的に隷属させるとしたら、その国家は己に負けた悪しき国家ということになる。プラトンの主張する政治の術とは、民衆一人一人を高めようとする施策ということになろうか。それでも、国粋主義的な発言も目立つが、そのあたりは時代感覚の違いとして眺めている。
ところで、この対話篇には珍しくソクラテスが登場しない。何の文献か忘れたが、ソクラテスが記述を残さなかったのは言葉の持つ暴走性に気づいていたから、という説を読んだことがある。後世、欠席裁判を強いられるのを嫌ったのかもしれない。だが、実践を追求するには、理想観念だけでは足りない。実際、師ソクラテスは正義の下で死刑判決を喰らった。国家の狂気を阻むものがあるとすれば、それは何であろうか?知性や理性といった個人の能力よりも、揺るぎのない掟に縋るしかないということか?泣いて馬謖を斬る!とはそういうことであろう。理念から実践への飛躍によって、ついに師からの脱却を宣言したのか?
しかしながら、実践にもすぐさま限界が訪れる。細かく長ったらしく規定したところで、法の網をかいくぐる輩は後を絶たない。政治家どもが極めて黒っぽい灰色の領域を徘徊するのは、法律の限界実験でもしているのだろう。そして、法律書はますます膨大となり、理性を失った歴史を刻んでいく。
では、最後の砦となりうるものとは何であろうか?数学を愛したプラトンもまた、神を持ち出さずにはいられない。人間のこしらえるものが完全であるはずがないのだから、常に検証を怠らず、時代に適合した修正を加えていかなければならないと唱えている。しかし、法律がゼウスをはじめとする神々の手によって導かれると言ってしまえば、それを宗教レベルにまで崇める輩が現れ、人間には修正することすらできない!ということになる。ただ救いは、プラトンの言う神々とは、宗教が唱える神とかなり印象が違うところである。少なくとも一神教ではないので、他の神々を否定するようなことはしない。神の定義は、人類の歴史の中で解釈を歪められてきた。ヘシオドスは、人間を神からの距離で五つの種族で分類した。黄金の種族、銀の種族、青銅の種族、英雄の種族、鉄の種族と。ヘシオドス時代以降の人間どもは、最も神から遠い鉄の種族とされる。そんな種族に神の姿が見えるはずもないし、神の存在や考えを勝手に規定すること自体が身の程知らずということになる。そこで、「神々」を「真理の数々」あるいは「多様な真理」と置き換えて読むと、見事な宇宙論が映し出される。そう、真理の探求を怠るな... 法の支配が真理の支配となるまで... と。
1. 望ましい国制とは
物語は、クレテ島のある地域にペロボネソス地方から入植者を集めて国家を建設するとしたら... という議論から始まる。そして、国家建設の過程をシミュレーションすると、最も重要なのはいかに法を定めるか... という展開になる。プラトンは「国家」で、国の在り様を四つに分類し、クレテとスパルタのものを最も高貴とし、次いで民主制、寡占制、独裁制の順に評した。その見解は、登場人物に顕れている。アテナイからの客人に、クレテ人のクレイニアスとラケダイモン(スパルタ)人のメギロスを招くという構成。
スパルタは、民主制を基本としながら君主的な面を持ち合わせていて、終身の王制が健在でありながら、王の権力までも支配する法律があるという。王が率先して法律に従わなければ、民衆から慕われないという風習があるようだ。
「法律が支配者の主人になり、支配者が法律の下僕となっているような国家」
映画「300(スリーハンドレッド)」によると、国王の自由に動かせる軍隊が、親衛隊の300人のみと法で制限されている。長老会と民会という二段階の決定機関に、監督権と司法権を有するエフォロイが選出されるといった分権制も確立されている。
一方、クレテは、祭祀が洞穴や山頂など野外で行われ、民衆の中に掟が慣習として浸透している。古代ギリシアでありがちな、アクロポリスといった神殿を中心に崇めるのではなく、法律は誰もが目にできる公共広場に刻まれ、法を慣習として根付かせようという風潮があるようだ。
プラトンは、国王までも支配する絶対的な法の存在と、法を尊重する慣習の面から、両国の国家モデルを持ち出す。尚、クレテとスパルタの二つの国制は、ドーリア人の共通の伝統の上に立ち、兄弟の法を持つとされ、当時は評判の良いものとされていたそうな。
しかしながら、戦争に重点を置き過ぎるために、共同食事や体育制度を偏重させていると批判している。勇気の徳は必要だが、それを崇め過ぎるのも危険だとわけか。
「戦争に関する事柄を目的として平和の事柄を立法するより、むしろ平和を目的として、戦争に関する事柄を立法するのでないかぎりは...」
そして、国家モデルの議論は、民主制と独裁制の混合制に及ぶ。それは、アテナイの民主制が過度の自由であることと、ペルシアの独裁制が過度の僭主であることへの批判から始まり、土地所有や共同生活の風習はスパルタのものから、官職などの選出方法はアテナイのものから借用するといった形で展開し、更に、アテナイの裁判制度から三段階の審議法を導入していく。
「国全体が均質で釣り合いがとれているということは、徳にとって、極端よりもはるかに勝っている。」
おそらく、真の君主による独裁制であれば、限りなく民主制に近い状況になるのだろう。君主の下では多種多様な民衆の価値観が尊重されるだろうし、そんな君主を選択できる民衆も節度を持った自由を実践するだろうから。支配する側も支配される側も、共に意識を高めなければならないというわけか。そりゃ、社会が悪い!政治が悪い!あいつが悪い!などと何もかも他人のせいにすれば楽よ。
2. 法律の役割と教育の位置づけ
「総じて、不正を憎んで正義を愛するようにする、あるいは少なくとも正義を憎まないようにする何らかの手だてがあるなら、そのようにやってもよい。」
誰もが正義を愛するならば、法律なんて必要ないのかもしれない。だが、正義観念が多様だから困ったことになる。法律が間違っている、あるいは弱点を抱えていると分かっていても、それを執行することが正義だとするならば、少なくとも正義を憎まないように配慮する必要がある。まさにそれが法律のなすべき仕事だという。
恐怖心を与えて破廉恥や不正や快楽と戦わせるという意識は受動的ではあるが、現実に法律はそういう効果を持っている。人間は誰しも、ちょっと悪人なのだろう。そして、法律の閾値を越えた悪人も少数ながらいる。そして、法律は犯罪や罰則を規定することが中心になる。同じ罪でも、故意か過失かで大きな違いが生じる。偶然殺人を犯した者を、計画殺人と同じには扱えない。動機までも盛り込めば、法律は大量の退屈品となろう。
本書も、法律が長ったらしくなっても驚くにあたらないという。とはいえ、いくら法で厳しく規定したところで、いくら立派な条文で記述したところで、それが慣習とならなければ、精神の内に正義の観念は生じないだろう。成文法が慣習法となりうるか?という議論は現在でも盛んに行われる。そもそも、言葉にできない慣習とういうものがある。わざわざ条文にするまでもない常識というやつが。だが、常識から酷く逸脱する事例が現れれば、記述を必要とする。常識なんてものは時代とともに変化するもので、条文は無限化するようにできているのか?
「何ら不正を行なわない人間はたしかに尊敬に値するが、不正を行なう者に不正行為を許さない者は、前者よりも倍以上に尊敬に値する。」
そこで、意識改革の手段として、法律で規定する教育の在り方にも及ぶ。義務教育の意義のようなものが。教材に対しての批判も展開されるが、いつの時代も教育者が制作するものは奇妙なものが多いということのようだ。養育と教育は、法律で厳しく規制するよりも、称賛や非難によって導くことが肝要で、勧告による方が適当であるとしている。しかしながら、道徳は教えられるものなのか?と問うたのはプラトン自身ではなかったか...
3. 平等と公平
古代ギリシアには「平等は友情を生む」という諺があるそうな。だが、平等には二種類あり、その二つはまったく正反対の性格を持つという。そして、栄誉や財産を簡単に人数割りするのは簡単に導入できるが、尺度や重みといった評価がなければ、真の平等は実践できないとしている。個人に備わった能力、善悪の価値の違いがあることを、評価せねば。不当な格差があるならば、不当な平等もあることを、指摘している。幸運を必要とする平等は、できるだけ避けるべし。二つの平等は、均衡させる必要があると... そうなると、法律でできることと言えば、最低基準を規定することぐらいか。
また、経済の観点から世襲の弊害を論じているあたりは、なかなか!よほどの修行を積まないと、既得権益に固執する意識を排除することはできまい。世襲化や官僚化が人間社会の本質であるならば、イデアなどという原型を保つこともできまい。そこで、財産階級を四つに定め、土地の分配や所有財産の制限と、それぞれの階級に責任を分配している。しかも、階級が固定化されることは平等に反するとし、その防御装置として税制、すなわち所得税の配分や相続税が検討される。階級毎に、土地の分配や所有財産の制限を設け、責任の重さを課し、能力によって階級間を自然移動できる仕掛けが必要というわけである。平等と公平は似て非なるもの。結果的に、個人の財産は公共財産とされるわけだが、共産主義的な搾取とはまったく異質である。
さらに、男女平等の教育改革が唱えられる。こちらは、現代感覚からすると、ちと抵抗があるが。女性が自分の家庭の幸せしか顧みないことを嘆き、国家のことを考えさせるために教育が必要であるとしている。だが、社会的地位までも平等にせよという意味ではなさそうである。男だけを法律で監視し女には欲求を剥き出しにさせているために、息子の命を尊び過ぎ、侵略に対しては国の誇りを放棄して、隷属することを望むという。そして、男女の区別なく、馬術や武術の訓練をするべきだとしている。おまけに、政治指導者ともなると妻を共有し、すべてを国家に捧げよ!とまで言っている。それこそ徳の偏重であろうに...
4. 神学論と「夜明けの会議」
第10巻には神学論が展開され、歴史的にも貴重なものらしい。不敬罪の刑罰が規定されるが、まさに師ソクラテスが不敬罪に問われた。その悔しが滲み出ている。
人に仕えたことのない者は、称賛に値する主人にはなれないという。そして、立派に支配することよりも立派に仕えることを誇りにすべきであって、法律に仕えることは神々への奉仕のつもりで仕えよと。ただ、仕えるべき主人もいれば、仕えるべきでない主人もいることを付け加えておこう。
また、無神論の誤った考え方を三つ挙げている。一つは、神々が存在しないと考えること。二つは、神々は存在するが人間には無関心であると考えること。三つは、犠牲や祈願によって神々の機嫌がとれると考えること。プラトンは、こうした考え方を反駁する上で、魂が物質より先んずる存在であるとしている。魂を自然物とし、自然に適った産物こそが優越するというわけか。そして、神々が人間に無関心でないことを論じ、その配慮は全宇宙にまで及ぶとしている。そもそもの本書の目的は、この不敬罪に対する法律を、主目的に位置づけているようだ。
しかし、唯物論的な自然主義のような考え方が、科学的思考を発展させてきたのも確かだし、魂が自然物かどうかは別にして、その魂がこしらえる法律は、どう見たって人工物にしか見えんよ。人間もまた自然物と言えば、そうなんだけど。神が自然物なら悪魔も自然物ってか?百歩譲って善のイデアが魂の自然の姿だとして、魂が善のイデアに回帰しなければ、法律をこしらえることもできないというのか?あるいは、学問によって善のイデアへ導かれた者だけが、立法者たる資格があるとでもいうのか?ついでに、能動的な節制者こそが、自然の魂の持ち主とでもいうのか?んー...そうかもしれん。
では、そんな立法者の資格を持つ者は、この世にどれだけいるというのか?私がこの世を良くしてあげよう!といった類いの人間ではなさそうだが。おいらのような無神論者であっても、絶対的な存在のようなものが、なんとなくあるような気がする。神と呼ぶよりは、真理や宇宙法則と言った方がよさそうである。神の存在を人間の都合に合わせようとするから、擬人化してしまう。信じる者は救われる!なんてやるから思考を停止させる。能動的な動機によって自ら善へ到達することを、神と呼ぶかは知らんが、プラトンはそう言っているように映る。
本書の最終的なテーマは、立法が神聖なものとなりうるか?ということを問うているのだろう。この立法する神的な会議、すなわち、最高の役人たちからなる会議を、「夜明け前の会議」と呼んで締めくくる。ただし、この世に夜明けが来るのかは知らん。
著作「法律」は、「第七書簡」、「第八書簡」と並んで、最晩年の作品と推測されるそうな。プラトンは、これを未定稿のまま残し、書きながら死んでいったという。いつも気の抜けない彼の対話篇だが、この作品に関しては時折あくびの出る場面がある。理念を語る時はその抽象論争が読み物として面白いが、法律の条文を語るとなるとやや退屈気味。対話というより儀式じみた国会討論に近いような。歳をとると形式じみたり、理屈っぽくなるのかは知らんが、なんとなく説教じみて聞こえる。法を実践的に記述するということは、犯罪の種類を具体的に記述することになり、当然ながら罰則にまで踏み込むことになる。そんなものは、当事者でもない限り退屈するものよ。そして、いかにもダーティハリーが吐きそうな台詞をつぶやくのであった。ドスの利いた声で... 法律なんてものは、都合が悪くなった奴が利用するためにあるのさ!
プラトンはあくまで対話篇にこだわる。それは、哲学問答こそが真理へ導く手段として、最も近道だと考えたからであろう。だが、論議が精神に及ぶと、芸術的あるいは直感的にならざるをえない。
さて、最も人間味のある感情とやらを、論理で記述することは可能であろうか?それは主観を客観で記述することを意味し、ひいては、人類の普遍的な価値観とはいかなるものかを問うことになろう。集団生活を営むには、共通観念のようなものが必要である。それは誰もが納得できるもので、古くは掟と呼ばれた。共同社会の秩序は、生命、身体、財産の保護が前提され、掟はこれらの権利を保証するとともに、掟を破った者への処罰によって実践されてきた。だが、そこに感情が癒着すると、偏見に満ちた魔女狩りの類いが生じ、法廷はたちまち集団リンチの場と化す。多数決の原理とは脆いもので、冷静な眼を持つ者が圧倒的多数でなければ簡単に崩壊する。
そして、いつの時代も、立法者や法の番人には、いかなる人物がその任に就くべきか?が問われてきた。古くは、より経験を積んだ長老がその役割を演じ、今では、学問に精進した、より知性や理性の認められた者が選ばれることになっている。ちなみに、ギリシャ語では、法律をノモス、知性をヌゥスと呼ぶそうな。音律が近いのは偶然ではあるまい。
法律は論理的弱点を慢性的に抱えているため、条文の解釈では裁判官にある程度の自由裁量を認めざるを得ない。しかし、立法とその解釈の双方において、暴走を抑止する手段を人格だけに頼ることができようか。法律には、犯罪を規定するだけでは不十分で、権力を制限する作用が求められる。人間が主観の奴隷であり続けるならば、社会における客観性の実践では、第三者の眼に頼るぐらいであろうか。
本書が、法に携わる立場を、立法者、司る者、執行する者で論じられるあたりは、三権分立らしき構想を垣間見ることができる。とはいえ、警察力のような強制や脅迫を導入したところで、それらの職務が能動的な動機によらなければ作用しないだろう。そこで、プラトンはまずもって、「己に克つ!」という動機を掲げる。そして、法律の目的は、善き国家建設のための四つの徳「思慮(知恵)、勇気、節制、正義」を実践することにあるとしている。多数の不正者が結束し、少数の正しい者を暴力的に隷属させるとしたら、その国家は己に負けた悪しき国家ということになる。プラトンの主張する政治の術とは、民衆一人一人を高めようとする施策ということになろうか。それでも、国粋主義的な発言も目立つが、そのあたりは時代感覚の違いとして眺めている。
ところで、この対話篇には珍しくソクラテスが登場しない。何の文献か忘れたが、ソクラテスが記述を残さなかったのは言葉の持つ暴走性に気づいていたから、という説を読んだことがある。後世、欠席裁判を強いられるのを嫌ったのかもしれない。だが、実践を追求するには、理想観念だけでは足りない。実際、師ソクラテスは正義の下で死刑判決を喰らった。国家の狂気を阻むものがあるとすれば、それは何であろうか?知性や理性といった個人の能力よりも、揺るぎのない掟に縋るしかないということか?泣いて馬謖を斬る!とはそういうことであろう。理念から実践への飛躍によって、ついに師からの脱却を宣言したのか?
しかしながら、実践にもすぐさま限界が訪れる。細かく長ったらしく規定したところで、法の網をかいくぐる輩は後を絶たない。政治家どもが極めて黒っぽい灰色の領域を徘徊するのは、法律の限界実験でもしているのだろう。そして、法律書はますます膨大となり、理性を失った歴史を刻んでいく。
では、最後の砦となりうるものとは何であろうか?数学を愛したプラトンもまた、神を持ち出さずにはいられない。人間のこしらえるものが完全であるはずがないのだから、常に検証を怠らず、時代に適合した修正を加えていかなければならないと唱えている。しかし、法律がゼウスをはじめとする神々の手によって導かれると言ってしまえば、それを宗教レベルにまで崇める輩が現れ、人間には修正することすらできない!ということになる。ただ救いは、プラトンの言う神々とは、宗教が唱える神とかなり印象が違うところである。少なくとも一神教ではないので、他の神々を否定するようなことはしない。神の定義は、人類の歴史の中で解釈を歪められてきた。ヘシオドスは、人間を神からの距離で五つの種族で分類した。黄金の種族、銀の種族、青銅の種族、英雄の種族、鉄の種族と。ヘシオドス時代以降の人間どもは、最も神から遠い鉄の種族とされる。そんな種族に神の姿が見えるはずもないし、神の存在や考えを勝手に規定すること自体が身の程知らずということになる。そこで、「神々」を「真理の数々」あるいは「多様な真理」と置き換えて読むと、見事な宇宙論が映し出される。そう、真理の探求を怠るな... 法の支配が真理の支配となるまで... と。
1. 望ましい国制とは
物語は、クレテ島のある地域にペロボネソス地方から入植者を集めて国家を建設するとしたら... という議論から始まる。そして、国家建設の過程をシミュレーションすると、最も重要なのはいかに法を定めるか... という展開になる。プラトンは「国家」で、国の在り様を四つに分類し、クレテとスパルタのものを最も高貴とし、次いで民主制、寡占制、独裁制の順に評した。その見解は、登場人物に顕れている。アテナイからの客人に、クレテ人のクレイニアスとラケダイモン(スパルタ)人のメギロスを招くという構成。
スパルタは、民主制を基本としながら君主的な面を持ち合わせていて、終身の王制が健在でありながら、王の権力までも支配する法律があるという。王が率先して法律に従わなければ、民衆から慕われないという風習があるようだ。
「法律が支配者の主人になり、支配者が法律の下僕となっているような国家」
映画「300(スリーハンドレッド)」によると、国王の自由に動かせる軍隊が、親衛隊の300人のみと法で制限されている。長老会と民会という二段階の決定機関に、監督権と司法権を有するエフォロイが選出されるといった分権制も確立されている。
一方、クレテは、祭祀が洞穴や山頂など野外で行われ、民衆の中に掟が慣習として浸透している。古代ギリシアでありがちな、アクロポリスといった神殿を中心に崇めるのではなく、法律は誰もが目にできる公共広場に刻まれ、法を慣習として根付かせようという風潮があるようだ。
プラトンは、国王までも支配する絶対的な法の存在と、法を尊重する慣習の面から、両国の国家モデルを持ち出す。尚、クレテとスパルタの二つの国制は、ドーリア人の共通の伝統の上に立ち、兄弟の法を持つとされ、当時は評判の良いものとされていたそうな。
しかしながら、戦争に重点を置き過ぎるために、共同食事や体育制度を偏重させていると批判している。勇気の徳は必要だが、それを崇め過ぎるのも危険だとわけか。
「戦争に関する事柄を目的として平和の事柄を立法するより、むしろ平和を目的として、戦争に関する事柄を立法するのでないかぎりは...」
そして、国家モデルの議論は、民主制と独裁制の混合制に及ぶ。それは、アテナイの民主制が過度の自由であることと、ペルシアの独裁制が過度の僭主であることへの批判から始まり、土地所有や共同生活の風習はスパルタのものから、官職などの選出方法はアテナイのものから借用するといった形で展開し、更に、アテナイの裁判制度から三段階の審議法を導入していく。
「国全体が均質で釣り合いがとれているということは、徳にとって、極端よりもはるかに勝っている。」
おそらく、真の君主による独裁制であれば、限りなく民主制に近い状況になるのだろう。君主の下では多種多様な民衆の価値観が尊重されるだろうし、そんな君主を選択できる民衆も節度を持った自由を実践するだろうから。支配する側も支配される側も、共に意識を高めなければならないというわけか。そりゃ、社会が悪い!政治が悪い!あいつが悪い!などと何もかも他人のせいにすれば楽よ。
2. 法律の役割と教育の位置づけ
「総じて、不正を憎んで正義を愛するようにする、あるいは少なくとも正義を憎まないようにする何らかの手だてがあるなら、そのようにやってもよい。」
誰もが正義を愛するならば、法律なんて必要ないのかもしれない。だが、正義観念が多様だから困ったことになる。法律が間違っている、あるいは弱点を抱えていると分かっていても、それを執行することが正義だとするならば、少なくとも正義を憎まないように配慮する必要がある。まさにそれが法律のなすべき仕事だという。
恐怖心を与えて破廉恥や不正や快楽と戦わせるという意識は受動的ではあるが、現実に法律はそういう効果を持っている。人間は誰しも、ちょっと悪人なのだろう。そして、法律の閾値を越えた悪人も少数ながらいる。そして、法律は犯罪や罰則を規定することが中心になる。同じ罪でも、故意か過失かで大きな違いが生じる。偶然殺人を犯した者を、計画殺人と同じには扱えない。動機までも盛り込めば、法律は大量の退屈品となろう。
本書も、法律が長ったらしくなっても驚くにあたらないという。とはいえ、いくら法で厳しく規定したところで、いくら立派な条文で記述したところで、それが慣習とならなければ、精神の内に正義の観念は生じないだろう。成文法が慣習法となりうるか?という議論は現在でも盛んに行われる。そもそも、言葉にできない慣習とういうものがある。わざわざ条文にするまでもない常識というやつが。だが、常識から酷く逸脱する事例が現れれば、記述を必要とする。常識なんてものは時代とともに変化するもので、条文は無限化するようにできているのか?
「何ら不正を行なわない人間はたしかに尊敬に値するが、不正を行なう者に不正行為を許さない者は、前者よりも倍以上に尊敬に値する。」
そこで、意識改革の手段として、法律で規定する教育の在り方にも及ぶ。義務教育の意義のようなものが。教材に対しての批判も展開されるが、いつの時代も教育者が制作するものは奇妙なものが多いということのようだ。養育と教育は、法律で厳しく規制するよりも、称賛や非難によって導くことが肝要で、勧告による方が適当であるとしている。しかしながら、道徳は教えられるものなのか?と問うたのはプラトン自身ではなかったか...
3. 平等と公平
古代ギリシアには「平等は友情を生む」という諺があるそうな。だが、平等には二種類あり、その二つはまったく正反対の性格を持つという。そして、栄誉や財産を簡単に人数割りするのは簡単に導入できるが、尺度や重みといった評価がなければ、真の平等は実践できないとしている。個人に備わった能力、善悪の価値の違いがあることを、評価せねば。不当な格差があるならば、不当な平等もあることを、指摘している。幸運を必要とする平等は、できるだけ避けるべし。二つの平等は、均衡させる必要があると... そうなると、法律でできることと言えば、最低基準を規定することぐらいか。
また、経済の観点から世襲の弊害を論じているあたりは、なかなか!よほどの修行を積まないと、既得権益に固執する意識を排除することはできまい。世襲化や官僚化が人間社会の本質であるならば、イデアなどという原型を保つこともできまい。そこで、財産階級を四つに定め、土地の分配や所有財産の制限と、それぞれの階級に責任を分配している。しかも、階級が固定化されることは平等に反するとし、その防御装置として税制、すなわち所得税の配分や相続税が検討される。階級毎に、土地の分配や所有財産の制限を設け、責任の重さを課し、能力によって階級間を自然移動できる仕掛けが必要というわけである。平等と公平は似て非なるもの。結果的に、個人の財産は公共財産とされるわけだが、共産主義的な搾取とはまったく異質である。
さらに、男女平等の教育改革が唱えられる。こちらは、現代感覚からすると、ちと抵抗があるが。女性が自分の家庭の幸せしか顧みないことを嘆き、国家のことを考えさせるために教育が必要であるとしている。だが、社会的地位までも平等にせよという意味ではなさそうである。男だけを法律で監視し女には欲求を剥き出しにさせているために、息子の命を尊び過ぎ、侵略に対しては国の誇りを放棄して、隷属することを望むという。そして、男女の区別なく、馬術や武術の訓練をするべきだとしている。おまけに、政治指導者ともなると妻を共有し、すべてを国家に捧げよ!とまで言っている。それこそ徳の偏重であろうに...
4. 神学論と「夜明けの会議」
第10巻には神学論が展開され、歴史的にも貴重なものらしい。不敬罪の刑罰が規定されるが、まさに師ソクラテスが不敬罪に問われた。その悔しが滲み出ている。
人に仕えたことのない者は、称賛に値する主人にはなれないという。そして、立派に支配することよりも立派に仕えることを誇りにすべきであって、法律に仕えることは神々への奉仕のつもりで仕えよと。ただ、仕えるべき主人もいれば、仕えるべきでない主人もいることを付け加えておこう。
また、無神論の誤った考え方を三つ挙げている。一つは、神々が存在しないと考えること。二つは、神々は存在するが人間には無関心であると考えること。三つは、犠牲や祈願によって神々の機嫌がとれると考えること。プラトンは、こうした考え方を反駁する上で、魂が物質より先んずる存在であるとしている。魂を自然物とし、自然に適った産物こそが優越するというわけか。そして、神々が人間に無関心でないことを論じ、その配慮は全宇宙にまで及ぶとしている。そもそもの本書の目的は、この不敬罪に対する法律を、主目的に位置づけているようだ。
しかし、唯物論的な自然主義のような考え方が、科学的思考を発展させてきたのも確かだし、魂が自然物かどうかは別にして、その魂がこしらえる法律は、どう見たって人工物にしか見えんよ。人間もまた自然物と言えば、そうなんだけど。神が自然物なら悪魔も自然物ってか?百歩譲って善のイデアが魂の自然の姿だとして、魂が善のイデアに回帰しなければ、法律をこしらえることもできないというのか?あるいは、学問によって善のイデアへ導かれた者だけが、立法者たる資格があるとでもいうのか?ついでに、能動的な節制者こそが、自然の魂の持ち主とでもいうのか?んー...そうかもしれん。
では、そんな立法者の資格を持つ者は、この世にどれだけいるというのか?私がこの世を良くしてあげよう!といった類いの人間ではなさそうだが。おいらのような無神論者であっても、絶対的な存在のようなものが、なんとなくあるような気がする。神と呼ぶよりは、真理や宇宙法則と言った方がよさそうである。神の存在を人間の都合に合わせようとするから、擬人化してしまう。信じる者は救われる!なんてやるから思考を停止させる。能動的な動機によって自ら善へ到達することを、神と呼ぶかは知らんが、プラトンはそう言っているように映る。
本書の最終的なテーマは、立法が神聖なものとなりうるか?ということを問うているのだろう。この立法する神的な会議、すなわち、最高の役人たちからなる会議を、「夜明け前の会議」と呼んで締めくくる。ただし、この世に夜明けが来るのかは知らん。
2013-08-18
"国家(上/下)" プラトン 著
プラトンの対話篇を読んでいると、いつも思うことがある。それは、独創的な記述とはどういうものか?といったことである。自ら編み出した思考プロセスだと自信を持っていても、古典を読む度に似たような思考に出会う。一瞬がっかりさせられるものの、その出会いが妙に心地良く、たまらない...
あらゆる学問において、偉大な哲学書群を基に分析を進めながら、いかにも進化を遂げているかのように見せる。しかし、いくら体系化やら形式化やらを強調したところで、数学のそれとは比べものにならない。むしろ、分かりやすく整理されている、うまくまとめられている、と言った方がよさそうか。なるほど、学術とは、学問の見栄えの術というわけか。
その点、プラトンは極めて文学的で物語風であるために、冗長的ではあるけれども、見事なほど思考プロセスを体現してくれる。そう、考え方ってやつだ。精神の動きを記述するという意味で、現代の書にこれほどのものを見出すことができようか。なんといっても哲学論議の醍醐味は、対話の論理的展開にある。言葉の論理に、徐々に追い詰められ、仕舞いには口が封じられ、いつの間にか最初の立場と反対のことを主張していたりする。隙のない論理から導かれる結論であれば、たとえ自己否定に陥っても、心地よくなれるという寸法よ。真理とは、自我を泥酔させ、自ら身を滅ぼす純米酒のごときものであろうか。自虐的楽観主義でもなけば、哲学なんてやってられんよ。
今日、独創的な着想を編み出した者よりも、それを利用して経済的に成功した者がもてはやされる。かつて発明こそが花形であったが、いまや商業戦略の裏方に回る。ただ、過程より結果が評価されるのは、昔から変わらない。人々は長期的な視野よりも目先の成果を求め、そうした成功事例に群がる。人間ってやつは、よほど面倒臭がり屋らしい。論文や報告書の類いでは、簡潔な結果説明が体系化や形式化と呼ばれ、高等な学術に位置づけられる。しかし、ヒューリスティックな方法で苦し紛れに編み出した記述を、真理と混同してしまうのでは本末転倒。いつの時代にも、惚れ惚れするような思考プロセスを残し、人柱となってきた研究者たちがいる。科学者や数学者たちは、こういう存在の大切さを知っているのだろう。彼らの中にプラトン贔屓が多いのもうなずける。それは、ガリレオの対話篇などに脈々と受け継がれる。
ところで、人間の本来の姿とは、どういうものであろうか?デカルト風に言えば、思惟することにありそうか。だとすると、知識の抽象度を高めることは、本質により近いものを思考するための布石となろう。利便性によって余計な作業を機械化し、自動化することで、人間のやるべき事に傾注することができる。ネット社会ともなれば、情報検索の利便性が思考の手助けをしてくれる。どんな学問であれ、大概の専門用語の解説が検索にひっかかり、学問分野の隔たりを狭めてくれる。
その一方で、回りくどい解説を嫌い、分かりやすさを崇める傾向がある。おまけに、自ら思考するよりも、誰かが思考した結果を検索する方がずっと効率的だ。すると人物評価の基準も変わってくる。とろとろ思考する人よりも、さっさと検索する人の方が価値が高いことに。猿真似をし、それを加工し、編集することの方がずっと優位に立てる社会とは、これいかに?思惟するという地位は、仮想の空間において下層へ追いやられていく。
もし、人間が本来の姿を見失おうとしているとしたら、人間精神は本当に進化しているのだろうか?ある学術研究によると人類の進化は五千年前にとっくに終焉したという見解もあるが、あながち嘘とは言いきれまい。実際、あらゆる精神思考は、プラトンやアリストテレスの時代に遡れば、大方説明がつきそうだし、多少の修正を加えるにしても、少なくとも思考の材料は大方揃っている。それは、どういう時代かと言えば... 記述が残されるようになった時代というだけのことかもしれん。ソクラテスが記述を残さなかったのは、言葉の持つ暴走性に気づいたからだという説がある。言葉が永遠に残されれば、後世の人々によって都合よく解釈され、欠席裁判を強いられる。プラトンが記述にこだわったのは、師匠への挑戦であったのか?思考プロセスを残せば、誤謬を犯すことはあるまいと。しかし、だ!記述を残してもなお、愚かな歴史は繰り返される。この有様をどう説明するのか?プラトン君!
1. ポリーテイア(国家)
ポリーテイアとは、ポリスの在り方、組織、制度、政体といった意味だそうな。プラトンは哲学者を愛智者とした。ひたすら知を愛し、自問に耽ること、これこそが真の幸福に導く道であると。しかし、師ソクラテスが国家の名において処刑されると、安穏と哲学をやっていればいいというものではないことを悟る。師の説いた「善く生きる」という正義の徳の実現には、人間の魂の在り方だけでは足らぬというのか?
狂気した国家の下では個人の幸福すら望めないとなれば、国家の原理を問わねばなるまい。ただ、善を語れば、悪を語るのは必定。民主制の在り方を問うには、自然発生的に生じる独裁制、すなわち独裁者としての人間の資質を問うことになる。どんなに優れた君主であれ、金と権力の前では盲目となるか、あるいは、君主であり続けても寿命には逆らえず、いずれ世襲制に染まる。善のイデアから生じるあらゆるものが、官僚化するのか、悪魔化するのかは知らんが、ひたすら知を愛し、自問して精神を検証し続けなければ原型を保つことすらできない。
そこで、プラトンは、国家の持つべき性質に「知恵、勇気、節制、正義」の四つの徳を導く。これらの徳が善のイデアから導かれるという思考プロセスは今更ではあるが。本書で注目したいのは、精神の動機では特に節制を重視し、正義を実践することが最高位に置かれることである。節制をわきまえた国家こそが真の繁栄をもたらすとするあたりは、プラトン流の中庸の原理とでも言おうか。そして、正義こそが人間を幸福にするものと結論づけている。正義をなすには、誰もが納得できる論理的説得が必要であり、法の原理はすべてここに帰着する。また節制は、法の罰則や警察の監視といった政治的強制から生じるものではなく、あくまでも能動的に生じるもの。ただし、過度な節制が卑屈となりやすいことを付け加えておこうか。
プラトンは、統治者に真理を探求する哲学者を据えることを提案している。したがって、本書は国家論というよりは、哲人統治論、あるいは論理的正義論とした方がよさそうか。だが、既に弁論術が盛んで大衆を動かす技術として君臨する時代、権力欲しさに論理武装して哲人になりすます者もいれば、正義が巧みな大演説によって評価される。ましてや、狂気した民主国家ではヒトラーだって選出された。節制という徳は、目立ちたがり屋と相反する資質でもある。名誉を、大勢の人から支持されたいと焦がれることだと勘違いするような人物では無理な話か。プラトンも、社会風潮の力の大きさを認めているし、そんな環境下で真の哲学的資質が育ちにくいことも認めている。それでも、哲人統治は不可能ではないとし、具体的な教育プランまでも提示してくれる。国家建設の根幹は国民性を問うことにあり、その要は教育にあるというわけだ。しかし、人間に何か教えることができるのか?と疑問を投げかけたのはプラトン自身ではないか。まぁ、その問答はメノン君に任せるとして、ここでは一つ付け加えておこう。当時、プラトンの「国家」を読んだのは、一部の有識者や政治的指導者に限られていたことだろう。こうして一介の酔っ払いが読んでいるということは、学問の庶民化が進んでいることを意味している。プラトンは、民主制を機能させる上で国民全体が政治的意識を持たなければならないと説いているのだから、現代社会にその意志が受け継がれていると解釈できなくもない... とすれば、ちと強引であろうか...
2. 正義の実践
神は正義の人を見ておられる、というのは本当だろうか?実際、善き人に不運をもたらし、悪しき人に幸運をもたらす。実は、神は誰も見ていないということはないだろうか?自分でこしらえておきながら、失敗作には興味がない芸術家のように。人間の正義もさることながら、神の正義もあてにはできんようだ。
さて、政治の実践には、誰の利益になるか?という思惑が常に入り込む。国益のため!とは、政治屋のお好きな台詞だ。政治の実践が正義によって成り立つとすれば、正義もまたそれを実践する者の思惑によって成り立つことになる。しかも具体的に定義できなければ、実践の場では役に立たない。正義の実践は、妥協の中で模索され、不正が合法的に行われる。だから、個人の正義を発揮して脱税行為に及ぶのかは知らん。
どんな政治体制においても、優遇される人がいるということは、冷遇、酷遇される人がいるということを意味する。単純に愛智者を正義の人とすることも危険だ。悪行には悪知恵が入り込むのだから。法律家が法廷向きの正義の主張の仕方を教え、説得術や弁論術の教師も大盛況となれば、人間が不正よりも正義を選択するなど、どこに保証があるのか?法廷で勝利を重ねる弁護士の報酬が上がるとなると、どういう職業に就けば、不正を非難できる立場になれるというのか?正義の人が名誉を受けるということは、社会に正義の人が少ないということか?法の下では正義がなされるのは当然だ!と人々は考える。だが、人の判断も間違えば、法の判断も間違える。正義は必ずしも善から生じるものではない。
また、正義の人は節度ある発言しかしないものらしい。
「もし正義とは何かをほんとうに知りたいのなら、質問するほうにばかりまわって、人が答えたことをひっくり返しては得意になるというようなことは、やめるがいい。」
一見正しそうな発言を集団が後押しすると、本当に正しい意見を抹殺し議論の柔軟性を失う恐れがある。賛成と叫ぶだけでも、そこそこの配慮が必要であろう。余計なことを喋るぐらいなら沈黙することか。こんなブログなんぞで、勝手気ままに発言すること自体が、無理性の上に、正義の欠片もない証であろうか...
3. 国の在り様
国制には、四つの種類があるという。まず、最も賞賛されるクレタやスパルタ風の国制、次に賞賛される寡頭制いわば貴族制。だが、いずれも多くの悪を孕んでいるとしている。これらを修正して、次に生じるのが民主制、さらに国家病として最悪なのが僭主独裁制であるとしている。他にも、世襲王権制や金で買われる王制などがあるが、いずれも四つの形態の中間に位置づけている。そして、人間の性格の種類も、ちょうど国制の種類と同じ数だけあるという。国制の在り方も、住人の性格によって生じるのが自然というわけか。
今日、民主制が崇められる傾向にあり、独裁制で慣れた住人に無理やり押し付けて、却って治安を悪化させる事例も多い。民主制を機能させる上でも市民性が鍵であることを、この時代にあって既に指摘されているのには驚かされる。人間には多種多様な性格と価値観が生じ、なによりも自由を求める性質があるように思える。となれば、人間社会には民主制が最も相性が良さそうに映る。だが、独裁制であっても、真の君主による統治であれば、おそらく民主制に近い体制になるだろう。君主であれば発言の自由を尊重するだろうから。もちろん、市民の側にも自由の概念を充分に理解した意識が求められる。そうした君主の時代が、プラトン以前の記録のない時代に存在したのだろうか?しかし、どんな君主にも寿命があり、継承されるうちに原型を留めることはできない。おそらく、どんな官僚的組織も、発足当初は美しく、希望に満ちた組織であったに違いない。既得権益の原理といったものは、欲望の基本原理としてある。
プラトンは、欲望の原理を権力欲と金銭欲に分け、国家の厄介事はこれらの欲が同時に結びついた時に生じるとしている。だから、支配階級に権力を与えて金銭を封じ、生産業者や商人に富を求める欲を認め、けして権力を与えてはならないと。ただし、過激な発言も目立つ。国家の下で財産を共有すべし!とするだけではなく、子供や妻までも共有すべし!と。プラトンの財産共有制は、多様性を否定しているではないか?共産主義的搾取を印象づける。おそらく偏重した所有意識が民衆を惑わすと考えたのだろうけど、そりゃ、弟子のアリストテレスに思いっきり批判されるわ。
それはさておき、民主制にも多くの弱点が含まれる。多種多様の価値観を認めるが故に、正義の判定基準として手っ取り早い多数決という手段が用いられるが、こいつが善にも悪にも作用する。したがって、国家建設の根幹は、絶対的多数として君臨する国民性を磨くことにほかならないというわけか。アイスキュロスの言葉を借りれば、こういうことだという。
「善き人と思われることではなく、善き人であることを望む。」
言うは易く、行うは難し!そりゃ、美、正、善といったものが具体的に定義できれば苦労せんよ。
4. 経済理論と教育理論
文明社会は交換の法則によってもたらされるという。互いの利益を尊重し、助け合いによって成り立つと。分相応以上に贅沢が満喫できるのも、交換社会の賜物である。そして、国家建設に役に立つ者とそうでない者を分類しながら、農業にせよ、手芸にせよ、仕事のために知恵と能力を持ちながらも、国家のことを気づかう人間でなければならないと説いている。人間は自分の愛するものを自然に気づかう。その精神が、国家に向けられた時、共同体が強固なものになると。国家に最善を気づかうとは、どうやら他人を思いやることらしい。奇妙な思考に憑かれて、偏重したナショナリズムに邁進しないよう注意したい。
また、富は、理をわきまえる者にとって最大の効用を持つとしている。
「人物が立派でも、貧乏していたら、老年はあまりらくではないし、また、人物が立派でなければ、金持ちになったからとて、安心自足することはけっしてないだろう。」
さて、ここで面白いことに気づく...
まず、「国家に役立つ」というところを「生産に役立つ」と置き換えたらどうだろう。なんと、アダム・スミスの「国富論」ではないか。
また、私有財産の議論は興味深い。金儲けをする人たちが優遇される社会ではなく、私有財産という概念を否定するあたりは、国家建設ではなによりも主権が優先されるということを語っているようにも思える。支配者たちは、金銀財宝、土地や大邸宅を所有し、およそ世間で幸福とされる条件を満たしている。にもかかわらず、国家の仕事となると見張り役として座っているだけで、国に喰わせてもらう立場ではないかと嘆いている。政治のできることと言えば、国全体ができるだけ幸福になるように仕向けるぐらいなものだとしている。これは、功利主義の掲げる「最大多数の最大幸福」の原理ではないか。
さらに、国家には様々な仕事があり、それらを三つの種族に区別している。金儲けを仕事とする種族、国家建設の補助役となる種族、守護者の種族。いわば、経済人、公務員、政府といったところか。彼らが本来の仕事に専念することこそ、正義にほかならいという。しかしながら、どんな種族にも欲望的部分と理知的部分が共存し、いかに一つの国としてまとめるかが問われる。理知的部分を担う仕事が、欲望的部分を担う仕事を監督指導するような社会システムを事例として挙げ、監督指導としての政府の役割が論じられている。ケインズは自由経済に対する政府介入の必要性を唱えたが、まさにそれではないか。
またさらに、国家の在り方を教育循環と結びつけている。
「国家のあり方というものは、いったんうまく動きはじめると、いわば循環的に成長しつづけて行くものだ。」
それは、教育と養育が維持されるからであって、自然的素質を国内に作り出し、優れた自然的素質が更なる教育と養育を高めていくからだとしている。教育を高めるとは、いわば教育への投資による経済循環を促進すること。ちっぽけな善が自己増殖して社会風潮を覆う可能性を示せば、資本の自己増殖の原理を教育論で語っているようにも映る。ただし、一旦逆に作用をはじめると、怠惰の自然増殖にもなることを付け加えておこう。
...こうした原理を、農夫の生活風景や結婚などの庶民的な生活を題材にしながら語られる様子は、ミクロ経済学的な視点で国家を論じている。プラトンは国家の基本原理を通じて、スミスやベンサムよりも二千年も先駆け、しかも経済理論を教育理論に置き換えて語っている、と解釈するのは行き過ぎであろうか...
5. 太陽、線分、洞窟の比喩
プラトンの太陽、線分、洞窟を用いた比喩は、歴史的に貴重な記述だそうな。ただ、あまりにも数学的なので、アリストテレスあたりが、数学のやりすぎ!と言いたくなるのも分かる。プラトン哲学には「万物の根源(アルケー)は数である」というピュタゴラスの思想が継承されている。
さて、非常に理解の難しいところではあるが、アル中ハイマー流に好き勝手に記述してみよう。
...
進化論的に言えば、あらゆる感覚器官は光合成のような化学反応を基本とし、太陽のもたらす光を拠り所にして発達してきた。何事も知るという行為には、まず見るということがある。美的感覚の多くは、視覚からの情報によってもたらされるが、視覚が適用できない場合は、他の感覚機能が研ぎ澄まされる。そして、知らぬ者を「盲人」と言ったり、希望の代名詞に「光がさす」と言ったりする。伝統的な宗教が光を重要な概念に位置づけてきたのも道理である。
プラトンは、見ることによって知られる可視界に対して、思惟によって知られる可知界が形成されるとしている。そして、光の直線性を線分で表現し、思惟する種族を別の線分で区別する。だが、それぞれの思惟する方向性は、一つの線分上に閉ざされている。三角形のような三つの線分は、本来の思考に対して角度を持つわけで、視点がずれているとでも言っているのか?おまけに、平行線などという永遠に思考が交わらないものもある。それはさておき、知性的思惟を直接知、悟性的思惟を間接知とし、それぞれを線分に割り当てると、平行線原理によって、自己の思惟を投影することもできる。なるほど、精神空間が幾何学空間にあるというのは本当かもしれない。それがユークリッド空間かは知らんが...
また、洞窟のような暗闇においては、人々は光明のある方向へ群がるという。太陽の光が照らせば、その方向は眩しくて見えないが、影の方向ならば、はっきりと形を見ることができる。だから、目が眩んで見定められないものよりも、目の前で見えるものを信じるというのか?つまり、群衆の中にあっては、真理と逆方向を見ているとでも?眩しい光ほど見定めるのは苦痛だし、真理を見定めることの難しさがここにあるというわけか。
さらに、目の混乱には二通りあるという。光から闇へ移された時に起こる混乱と、闇から光へ移された時に起こる混乱とが。魂にもこれとまったく同じことが起こり、見定めることができず、まごまごしている魂を見ても笑うな!と励ましてくれる。無知から知を得たとしても、新たな無知が見える。思惟するとは、無知と知を永遠に繰り返すことかもしれん。
しかしながら、人間には、自分よりも知らない者を馬鹿にする性質がある。障害者の身体の不自由さには寛容でいられるのに、政治屋どもの精神の不自由さにムカつくのはなぜか?それは、障害者が自分の欠陥を認めているのに対して、政治屋が自分の欠陥を認めないばかりか、人を蔑むからであろう。人が盲目であることを自覚することは極めて難しい。それは、自己存在を否定することにもなるのだから。視力のいい精神の持ち主とは、自己存在を否定してもなお、居心地のよい場所を知っているというのか?そうかもしれん...
6. げせない詩人批判
本書には、プラトンらしくない点が一つある。国家から詩人を追放しようと言わんばかりの意地悪な論調は、どうもげせない。詩人というのは、ホメロス風の吟遊詩人のことを指しているようだが、芸術に対して無理解というわけではなさそうである。実際、音楽や芸術や体育といったものを尊重している記述がある。音楽や芸術のしかるべき教育を受けた者は、欠陥のあるものや、美しくないものや、自然に生じていないものを、鋭敏かつ正当に感知でき、理に適っているかを見極めることができるとしている。なによりも哲学が文学的であり、この対話篇が見事な芸術作品として仕上がっているではないか。
となると、当時の吟遊詩人の社会的役割を想像せずにはいられない。おそらく哲学はあまり重視されず、叙事詩や抒情詩の方が圧倒的に影響力があったのだろう。詩人が、国制や国法が神々によって制定されたと唄えば、人間がそれを修正することは身の程知らずということになる。そんな迷信が民衆を惑わすとしたら。当時の吟遊詩人が、ホメロスの作風から酷く逸脱していったということであろうか?だとすると、数学を愛したプラトンの論調は納得できる。この解釈も、ちと強引であろうか...
あらゆる学問において、偉大な哲学書群を基に分析を進めながら、いかにも進化を遂げているかのように見せる。しかし、いくら体系化やら形式化やらを強調したところで、数学のそれとは比べものにならない。むしろ、分かりやすく整理されている、うまくまとめられている、と言った方がよさそうか。なるほど、学術とは、学問の見栄えの術というわけか。
その点、プラトンは極めて文学的で物語風であるために、冗長的ではあるけれども、見事なほど思考プロセスを体現してくれる。そう、考え方ってやつだ。精神の動きを記述するという意味で、現代の書にこれほどのものを見出すことができようか。なんといっても哲学論議の醍醐味は、対話の論理的展開にある。言葉の論理に、徐々に追い詰められ、仕舞いには口が封じられ、いつの間にか最初の立場と反対のことを主張していたりする。隙のない論理から導かれる結論であれば、たとえ自己否定に陥っても、心地よくなれるという寸法よ。真理とは、自我を泥酔させ、自ら身を滅ぼす純米酒のごときものであろうか。自虐的楽観主義でもなけば、哲学なんてやってられんよ。
今日、独創的な着想を編み出した者よりも、それを利用して経済的に成功した者がもてはやされる。かつて発明こそが花形であったが、いまや商業戦略の裏方に回る。ただ、過程より結果が評価されるのは、昔から変わらない。人々は長期的な視野よりも目先の成果を求め、そうした成功事例に群がる。人間ってやつは、よほど面倒臭がり屋らしい。論文や報告書の類いでは、簡潔な結果説明が体系化や形式化と呼ばれ、高等な学術に位置づけられる。しかし、ヒューリスティックな方法で苦し紛れに編み出した記述を、真理と混同してしまうのでは本末転倒。いつの時代にも、惚れ惚れするような思考プロセスを残し、人柱となってきた研究者たちがいる。科学者や数学者たちは、こういう存在の大切さを知っているのだろう。彼らの中にプラトン贔屓が多いのもうなずける。それは、ガリレオの対話篇などに脈々と受け継がれる。
ところで、人間の本来の姿とは、どういうものであろうか?デカルト風に言えば、思惟することにありそうか。だとすると、知識の抽象度を高めることは、本質により近いものを思考するための布石となろう。利便性によって余計な作業を機械化し、自動化することで、人間のやるべき事に傾注することができる。ネット社会ともなれば、情報検索の利便性が思考の手助けをしてくれる。どんな学問であれ、大概の専門用語の解説が検索にひっかかり、学問分野の隔たりを狭めてくれる。
その一方で、回りくどい解説を嫌い、分かりやすさを崇める傾向がある。おまけに、自ら思考するよりも、誰かが思考した結果を検索する方がずっと効率的だ。すると人物評価の基準も変わってくる。とろとろ思考する人よりも、さっさと検索する人の方が価値が高いことに。猿真似をし、それを加工し、編集することの方がずっと優位に立てる社会とは、これいかに?思惟するという地位は、仮想の空間において下層へ追いやられていく。
もし、人間が本来の姿を見失おうとしているとしたら、人間精神は本当に進化しているのだろうか?ある学術研究によると人類の進化は五千年前にとっくに終焉したという見解もあるが、あながち嘘とは言いきれまい。実際、あらゆる精神思考は、プラトンやアリストテレスの時代に遡れば、大方説明がつきそうだし、多少の修正を加えるにしても、少なくとも思考の材料は大方揃っている。それは、どういう時代かと言えば... 記述が残されるようになった時代というだけのことかもしれん。ソクラテスが記述を残さなかったのは、言葉の持つ暴走性に気づいたからだという説がある。言葉が永遠に残されれば、後世の人々によって都合よく解釈され、欠席裁判を強いられる。プラトンが記述にこだわったのは、師匠への挑戦であったのか?思考プロセスを残せば、誤謬を犯すことはあるまいと。しかし、だ!記述を残してもなお、愚かな歴史は繰り返される。この有様をどう説明するのか?プラトン君!
1. ポリーテイア(国家)
ポリーテイアとは、ポリスの在り方、組織、制度、政体といった意味だそうな。プラトンは哲学者を愛智者とした。ひたすら知を愛し、自問に耽ること、これこそが真の幸福に導く道であると。しかし、師ソクラテスが国家の名において処刑されると、安穏と哲学をやっていればいいというものではないことを悟る。師の説いた「善く生きる」という正義の徳の実現には、人間の魂の在り方だけでは足らぬというのか?
狂気した国家の下では個人の幸福すら望めないとなれば、国家の原理を問わねばなるまい。ただ、善を語れば、悪を語るのは必定。民主制の在り方を問うには、自然発生的に生じる独裁制、すなわち独裁者としての人間の資質を問うことになる。どんなに優れた君主であれ、金と権力の前では盲目となるか、あるいは、君主であり続けても寿命には逆らえず、いずれ世襲制に染まる。善のイデアから生じるあらゆるものが、官僚化するのか、悪魔化するのかは知らんが、ひたすら知を愛し、自問して精神を検証し続けなければ原型を保つことすらできない。
そこで、プラトンは、国家の持つべき性質に「知恵、勇気、節制、正義」の四つの徳を導く。これらの徳が善のイデアから導かれるという思考プロセスは今更ではあるが。本書で注目したいのは、精神の動機では特に節制を重視し、正義を実践することが最高位に置かれることである。節制をわきまえた国家こそが真の繁栄をもたらすとするあたりは、プラトン流の中庸の原理とでも言おうか。そして、正義こそが人間を幸福にするものと結論づけている。正義をなすには、誰もが納得できる論理的説得が必要であり、法の原理はすべてここに帰着する。また節制は、法の罰則や警察の監視といった政治的強制から生じるものではなく、あくまでも能動的に生じるもの。ただし、過度な節制が卑屈となりやすいことを付け加えておこうか。
プラトンは、統治者に真理を探求する哲学者を据えることを提案している。したがって、本書は国家論というよりは、哲人統治論、あるいは論理的正義論とした方がよさそうか。だが、既に弁論術が盛んで大衆を動かす技術として君臨する時代、権力欲しさに論理武装して哲人になりすます者もいれば、正義が巧みな大演説によって評価される。ましてや、狂気した民主国家ではヒトラーだって選出された。節制という徳は、目立ちたがり屋と相反する資質でもある。名誉を、大勢の人から支持されたいと焦がれることだと勘違いするような人物では無理な話か。プラトンも、社会風潮の力の大きさを認めているし、そんな環境下で真の哲学的資質が育ちにくいことも認めている。それでも、哲人統治は不可能ではないとし、具体的な教育プランまでも提示してくれる。国家建設の根幹は国民性を問うことにあり、その要は教育にあるというわけだ。しかし、人間に何か教えることができるのか?と疑問を投げかけたのはプラトン自身ではないか。まぁ、その問答はメノン君に任せるとして、ここでは一つ付け加えておこう。当時、プラトンの「国家」を読んだのは、一部の有識者や政治的指導者に限られていたことだろう。こうして一介の酔っ払いが読んでいるということは、学問の庶民化が進んでいることを意味している。プラトンは、民主制を機能させる上で国民全体が政治的意識を持たなければならないと説いているのだから、現代社会にその意志が受け継がれていると解釈できなくもない... とすれば、ちと強引であろうか...
2. 正義の実践
神は正義の人を見ておられる、というのは本当だろうか?実際、善き人に不運をもたらし、悪しき人に幸運をもたらす。実は、神は誰も見ていないということはないだろうか?自分でこしらえておきながら、失敗作には興味がない芸術家のように。人間の正義もさることながら、神の正義もあてにはできんようだ。
さて、政治の実践には、誰の利益になるか?という思惑が常に入り込む。国益のため!とは、政治屋のお好きな台詞だ。政治の実践が正義によって成り立つとすれば、正義もまたそれを実践する者の思惑によって成り立つことになる。しかも具体的に定義できなければ、実践の場では役に立たない。正義の実践は、妥協の中で模索され、不正が合法的に行われる。だから、個人の正義を発揮して脱税行為に及ぶのかは知らん。
どんな政治体制においても、優遇される人がいるということは、冷遇、酷遇される人がいるということを意味する。単純に愛智者を正義の人とすることも危険だ。悪行には悪知恵が入り込むのだから。法律家が法廷向きの正義の主張の仕方を教え、説得術や弁論術の教師も大盛況となれば、人間が不正よりも正義を選択するなど、どこに保証があるのか?法廷で勝利を重ねる弁護士の報酬が上がるとなると、どういう職業に就けば、不正を非難できる立場になれるというのか?正義の人が名誉を受けるということは、社会に正義の人が少ないということか?法の下では正義がなされるのは当然だ!と人々は考える。だが、人の判断も間違えば、法の判断も間違える。正義は必ずしも善から生じるものではない。
また、正義の人は節度ある発言しかしないものらしい。
「もし正義とは何かをほんとうに知りたいのなら、質問するほうにばかりまわって、人が答えたことをひっくり返しては得意になるというようなことは、やめるがいい。」
一見正しそうな発言を集団が後押しすると、本当に正しい意見を抹殺し議論の柔軟性を失う恐れがある。賛成と叫ぶだけでも、そこそこの配慮が必要であろう。余計なことを喋るぐらいなら沈黙することか。こんなブログなんぞで、勝手気ままに発言すること自体が、無理性の上に、正義の欠片もない証であろうか...
3. 国の在り様
国制には、四つの種類があるという。まず、最も賞賛されるクレタやスパルタ風の国制、次に賞賛される寡頭制いわば貴族制。だが、いずれも多くの悪を孕んでいるとしている。これらを修正して、次に生じるのが民主制、さらに国家病として最悪なのが僭主独裁制であるとしている。他にも、世襲王権制や金で買われる王制などがあるが、いずれも四つの形態の中間に位置づけている。そして、人間の性格の種類も、ちょうど国制の種類と同じ数だけあるという。国制の在り方も、住人の性格によって生じるのが自然というわけか。
今日、民主制が崇められる傾向にあり、独裁制で慣れた住人に無理やり押し付けて、却って治安を悪化させる事例も多い。民主制を機能させる上でも市民性が鍵であることを、この時代にあって既に指摘されているのには驚かされる。人間には多種多様な性格と価値観が生じ、なによりも自由を求める性質があるように思える。となれば、人間社会には民主制が最も相性が良さそうに映る。だが、独裁制であっても、真の君主による統治であれば、おそらく民主制に近い体制になるだろう。君主であれば発言の自由を尊重するだろうから。もちろん、市民の側にも自由の概念を充分に理解した意識が求められる。そうした君主の時代が、プラトン以前の記録のない時代に存在したのだろうか?しかし、どんな君主にも寿命があり、継承されるうちに原型を留めることはできない。おそらく、どんな官僚的組織も、発足当初は美しく、希望に満ちた組織であったに違いない。既得権益の原理といったものは、欲望の基本原理としてある。
プラトンは、欲望の原理を権力欲と金銭欲に分け、国家の厄介事はこれらの欲が同時に結びついた時に生じるとしている。だから、支配階級に権力を与えて金銭を封じ、生産業者や商人に富を求める欲を認め、けして権力を与えてはならないと。ただし、過激な発言も目立つ。国家の下で財産を共有すべし!とするだけではなく、子供や妻までも共有すべし!と。プラトンの財産共有制は、多様性を否定しているではないか?共産主義的搾取を印象づける。おそらく偏重した所有意識が民衆を惑わすと考えたのだろうけど、そりゃ、弟子のアリストテレスに思いっきり批判されるわ。
それはさておき、民主制にも多くの弱点が含まれる。多種多様の価値観を認めるが故に、正義の判定基準として手っ取り早い多数決という手段が用いられるが、こいつが善にも悪にも作用する。したがって、国家建設の根幹は、絶対的多数として君臨する国民性を磨くことにほかならないというわけか。アイスキュロスの言葉を借りれば、こういうことだという。
「善き人と思われることではなく、善き人であることを望む。」
言うは易く、行うは難し!そりゃ、美、正、善といったものが具体的に定義できれば苦労せんよ。
4. 経済理論と教育理論
文明社会は交換の法則によってもたらされるという。互いの利益を尊重し、助け合いによって成り立つと。分相応以上に贅沢が満喫できるのも、交換社会の賜物である。そして、国家建設に役に立つ者とそうでない者を分類しながら、農業にせよ、手芸にせよ、仕事のために知恵と能力を持ちながらも、国家のことを気づかう人間でなければならないと説いている。人間は自分の愛するものを自然に気づかう。その精神が、国家に向けられた時、共同体が強固なものになると。国家に最善を気づかうとは、どうやら他人を思いやることらしい。奇妙な思考に憑かれて、偏重したナショナリズムに邁進しないよう注意したい。
また、富は、理をわきまえる者にとって最大の効用を持つとしている。
「人物が立派でも、貧乏していたら、老年はあまりらくではないし、また、人物が立派でなければ、金持ちになったからとて、安心自足することはけっしてないだろう。」
さて、ここで面白いことに気づく...
まず、「国家に役立つ」というところを「生産に役立つ」と置き換えたらどうだろう。なんと、アダム・スミスの「国富論」ではないか。
また、私有財産の議論は興味深い。金儲けをする人たちが優遇される社会ではなく、私有財産という概念を否定するあたりは、国家建設ではなによりも主権が優先されるということを語っているようにも思える。支配者たちは、金銀財宝、土地や大邸宅を所有し、およそ世間で幸福とされる条件を満たしている。にもかかわらず、国家の仕事となると見張り役として座っているだけで、国に喰わせてもらう立場ではないかと嘆いている。政治のできることと言えば、国全体ができるだけ幸福になるように仕向けるぐらいなものだとしている。これは、功利主義の掲げる「最大多数の最大幸福」の原理ではないか。
さらに、国家には様々な仕事があり、それらを三つの種族に区別している。金儲けを仕事とする種族、国家建設の補助役となる種族、守護者の種族。いわば、経済人、公務員、政府といったところか。彼らが本来の仕事に専念することこそ、正義にほかならいという。しかしながら、どんな種族にも欲望的部分と理知的部分が共存し、いかに一つの国としてまとめるかが問われる。理知的部分を担う仕事が、欲望的部分を担う仕事を監督指導するような社会システムを事例として挙げ、監督指導としての政府の役割が論じられている。ケインズは自由経済に対する政府介入の必要性を唱えたが、まさにそれではないか。
またさらに、国家の在り方を教育循環と結びつけている。
「国家のあり方というものは、いったんうまく動きはじめると、いわば循環的に成長しつづけて行くものだ。」
それは、教育と養育が維持されるからであって、自然的素質を国内に作り出し、優れた自然的素質が更なる教育と養育を高めていくからだとしている。教育を高めるとは、いわば教育への投資による経済循環を促進すること。ちっぽけな善が自己増殖して社会風潮を覆う可能性を示せば、資本の自己増殖の原理を教育論で語っているようにも映る。ただし、一旦逆に作用をはじめると、怠惰の自然増殖にもなることを付け加えておこう。
...こうした原理を、農夫の生活風景や結婚などの庶民的な生活を題材にしながら語られる様子は、ミクロ経済学的な視点で国家を論じている。プラトンは国家の基本原理を通じて、スミスやベンサムよりも二千年も先駆け、しかも経済理論を教育理論に置き換えて語っている、と解釈するのは行き過ぎであろうか...
5. 太陽、線分、洞窟の比喩
プラトンの太陽、線分、洞窟を用いた比喩は、歴史的に貴重な記述だそうな。ただ、あまりにも数学的なので、アリストテレスあたりが、数学のやりすぎ!と言いたくなるのも分かる。プラトン哲学には「万物の根源(アルケー)は数である」というピュタゴラスの思想が継承されている。
さて、非常に理解の難しいところではあるが、アル中ハイマー流に好き勝手に記述してみよう。
...
進化論的に言えば、あらゆる感覚器官は光合成のような化学反応を基本とし、太陽のもたらす光を拠り所にして発達してきた。何事も知るという行為には、まず見るということがある。美的感覚の多くは、視覚からの情報によってもたらされるが、視覚が適用できない場合は、他の感覚機能が研ぎ澄まされる。そして、知らぬ者を「盲人」と言ったり、希望の代名詞に「光がさす」と言ったりする。伝統的な宗教が光を重要な概念に位置づけてきたのも道理である。
プラトンは、見ることによって知られる可視界に対して、思惟によって知られる可知界が形成されるとしている。そして、光の直線性を線分で表現し、思惟する種族を別の線分で区別する。だが、それぞれの思惟する方向性は、一つの線分上に閉ざされている。三角形のような三つの線分は、本来の思考に対して角度を持つわけで、視点がずれているとでも言っているのか?おまけに、平行線などという永遠に思考が交わらないものもある。それはさておき、知性的思惟を直接知、悟性的思惟を間接知とし、それぞれを線分に割り当てると、平行線原理によって、自己の思惟を投影することもできる。なるほど、精神空間が幾何学空間にあるというのは本当かもしれない。それがユークリッド空間かは知らんが...
また、洞窟のような暗闇においては、人々は光明のある方向へ群がるという。太陽の光が照らせば、その方向は眩しくて見えないが、影の方向ならば、はっきりと形を見ることができる。だから、目が眩んで見定められないものよりも、目の前で見えるものを信じるというのか?つまり、群衆の中にあっては、真理と逆方向を見ているとでも?眩しい光ほど見定めるのは苦痛だし、真理を見定めることの難しさがここにあるというわけか。
さらに、目の混乱には二通りあるという。光から闇へ移された時に起こる混乱と、闇から光へ移された時に起こる混乱とが。魂にもこれとまったく同じことが起こり、見定めることができず、まごまごしている魂を見ても笑うな!と励ましてくれる。無知から知を得たとしても、新たな無知が見える。思惟するとは、無知と知を永遠に繰り返すことかもしれん。
しかしながら、人間には、自分よりも知らない者を馬鹿にする性質がある。障害者の身体の不自由さには寛容でいられるのに、政治屋どもの精神の不自由さにムカつくのはなぜか?それは、障害者が自分の欠陥を認めているのに対して、政治屋が自分の欠陥を認めないばかりか、人を蔑むからであろう。人が盲目であることを自覚することは極めて難しい。それは、自己存在を否定することにもなるのだから。視力のいい精神の持ち主とは、自己存在を否定してもなお、居心地のよい場所を知っているというのか?そうかもしれん...
6. げせない詩人批判
本書には、プラトンらしくない点が一つある。国家から詩人を追放しようと言わんばかりの意地悪な論調は、どうもげせない。詩人というのは、ホメロス風の吟遊詩人のことを指しているようだが、芸術に対して無理解というわけではなさそうである。実際、音楽や芸術や体育といったものを尊重している記述がある。音楽や芸術のしかるべき教育を受けた者は、欠陥のあるものや、美しくないものや、自然に生じていないものを、鋭敏かつ正当に感知でき、理に適っているかを見極めることができるとしている。なによりも哲学が文学的であり、この対話篇が見事な芸術作品として仕上がっているではないか。
となると、当時の吟遊詩人の社会的役割を想像せずにはいられない。おそらく哲学はあまり重視されず、叙事詩や抒情詩の方が圧倒的に影響力があったのだろう。詩人が、国制や国法が神々によって制定されたと唄えば、人間がそれを修正することは身の程知らずということになる。そんな迷信が民衆を惑わすとしたら。当時の吟遊詩人が、ホメロスの作風から酷く逸脱していったということであろうか?だとすると、数学を愛したプラトンの論調は納得できる。この解釈も、ちと強引であろうか...
2013-08-11
"国富論(上/下)" Adam Smith 著
正直言って、経済学は最も嫌いな学問に属す。しかし、独立するからには無視できない。株式会社というものを理解するには株式市場に参加するのが手っ取り早いと考えたりもしたが、学問の本線ではなさそうである。結局、値動きに惑わされ、夜な夜なファンダメンタルズに執着する始末。人間が金の前で盲目になるというのは本当らしい。十年以上経験して、ようやく長期投資が安定軌道に乗り、ストレスがなくなった。いや、鈍感になったのかもしれん。本当に必要なのは会計学や簿記の方であるが...
経済学に触れるなら、いつかはアダム・スミスという意識がどこかにある。正式名「国の豊かさの本質と原因についての研究」には、ユークリッドの「原論」やニュートンの「プリンキピア」と同じ香りがする、と言えばちと大袈裟か。スミス自身は経済学の父と呼ばれるものの、道徳哲学者として名声を博していたようである。
さて、「国富論」には多くの翻訳版があって、どれを選ぶかが悩ましい。立ち読みしていると、山岡洋一訳(日本経済新聞社出版社)の冒頭説明になんとなく惹かれる。
「既訳のある古典を翻訳する際には、既訳を参照し継承するのが翻訳者の使命である。」
そこには、竹内健二訳(改造文庫,1931 - 33年, 東京大学出版会,1969年)、気賀勘重訳(岩波文庫, 1926年)、大内兵衛訳(岩波文庫, 1940 - 44年)に学ぶ点が多い、とある。そして、原語と訳語を一対一で対応させていないという。アダム・スミスが用語を多様な意味で使っていることは、広く知られているそうな。一つの用語を多義的に用いたり、一つの概念をいくつもの同義語で表したりするのは、哲学書にありがちな趣向(酒肴)である。真理を探求すれば、言語の限界に挑むことになる。「国富論」もその例に漏れない。
また、歴史書としもなかなか。イングランドやオランダなど国力算出では、ウィリアム・ペティの「政治算術」を彷彿させる。金融業や手形の発達過程を考察するところは見物で、過剰な紙幣流通がリスクを高めることが既に指摘される。七年戦争で軍需景気に見舞われると、商業利益率が上昇し、企業家たちは無理してでも事業を拡大しようという誘惑に駆られる。特に、イングランド銀行とスコットランド銀行が手形を乱発し、逆振出の手口が横行する様子は、マネーサプライが増殖する仕掛けに通ずるものがある。尚、期待していた「神の見えざる手」という用語が見当たらない...
一般的に経済学の歴史は、たかだか二百年余りとされる。しかし、経済循環、すなわち交換に関する法則は、貨幣が発明された時代から模索されてきたはず。古代の記録には、高利貸しの存在や、都市国家の財政破綻を企てる貨幣偽造などの記述が残される。貨幣の発明以来、価値評価は仮想化へと邁進してきた。個人の能力は賃金で査定され、債権は現物価値を代替し、利息は将来価値を表し、あらゆる価値が貨幣換算される。人の命ですら。おまけに、電子マネーの登場で貨幣自体が曖昧な存在となった。実体価値と仮想価値の間に価格差が生じるということは、そこに金儲けの機会が訪れることを意味し、ここにサヤ取りの原理が生じる。
18世紀になって、経済学がようやく学問の地位を獲得したのは、歴史の偶然であろうか?大航海時代に発見された航路を武器に植民地貿易が盛んになると、商人の政治的圧力が増していく。商人が各国を往来するようになれば、どの地域でどんな品目の生産が有利であるかを知ることができる。情報力が国富にとって重要な位置づけとなり、商人活動が国の諜報機関として機能する。総合商社のような形態が生じたのも、この頃であろうか。ちなみに、総合商社の情報力が日本の高度成長時代を支えてきた。今は知らんが...
重商主義が旺盛な時代、商人の利益が最優先され、そこに宗教道徳が強く結びつくと、保護貿易どころか流通で不利とされる品目が全面禁止されたり、金利が厳しく制限される。その結果、密輸業者や闇金融が繁盛する。政府が介入すると様々な価格が歪められるのは、今も同じか。
「国王や閣僚が民間人の家計を監視し、贅沢禁止法や贅沢品輸入の禁止によって民間人の支出を抑制しようとするのは、まったく不適切だし厚顔無恥である。国王と閣僚はつねに例外なく、社会のなかで最大の浪費家である。」
政府が経済に強く関与する時代、スミスは長期的な安定価値を見出す方法として自由貿易を唱える。価値は自然の秩序によって創出されるもので、人間の道徳観や宗教観などで決定できるものではないと。そして、国富とは、金銀や貨幣の収集量で決まるものではなく、あくまでも労働生産にあることを強調し、生産に役立つ労働者数とそうでない労働者数の比率から持論を展開する。
「どの国でも、その国の国民が年間に行う労働こそが、生活の必需品として、生活を豊かにする利便品として、国民が年間に消費するもののすべてを生み出す源泉である。」
労働に価値を求めるあたりは、マルクスに影響を与えることになる。
また、政策では、消費者の利益が無視され、生産者の利益ばかりが優先されると批判し、政府の役割についても論じている。それは、国防や司法の観点から主権と公平を唱え、公共事業の在り方では教育に主眼を置き、市場を通じて供給できない公共財の供給のみに専念すべきであるというもの。これが税金を搾取する正当性というものか。
さて、国富論が自由放任主義の礎になっているのは確か。経済人がよく口にする人間の行動原理に、利益の最大化や最大効用を求めるといったものがあるが、それは本当だろうか?そこそこ幸せであればいい!というのが多くの人々の本音ではあるまいか?実際、スミスも国富のために生産効率や資本投下効率を最大限高めることを唱えている。だが、ここで主張する自由放任と、現在の金融屋たちが主張する自由放任では、かなり乖離があるように映る。そもそも金融屋とは、価値の乖離を煽るのがお好きな人種か。金融工学にしても、価値の真理を探求すると称しながらサヤ取りの研究にご執心のようだし、ノーベル賞級の経済学者たちが国際的金融危機を招くようでは、学問になりきれていないと批判されても仕方があるまい。あの世でスミスは、経済学者と呼ばれることに抵抗を感じているに違いない。
ところで、市場が不完全であることは明らかだが、これほど簡単に経済危機を引き起こすものであろうか?人間の多様な価値観の集合体とは、ここまで信用ならぬものであろうか?あるいは、市場参加者が経済人の価値観に偏っているからであろうか?
スミスの時代、貿易商人は政府の後ろ盾によって資本を右から左に移動させるだけで膨大な差益を獲得した。では、現在は?金融屋たちは価値評価が不可能なほど複雑なデリバティブ商品を編み出し、合法的にサヤ取りを仕掛ける。一方で、金融屋の投機行為が経済を破壊するとはいえ、公的資金の注入による回復力は恐ろしく速い。なるほど、金融屋の無責任性向と政府の搾取性向を観察すれば、国家の経済力を計測できるという寸法か。これを国富と言うかは知らんが...
人間社会の秩序は、経済人と政治屋の欲望の相殺によって維持されるものであろうか?スミスの唱える「自然価格の原理」は、そんなものではなさそうである。ちなみに、ケインズは「一般理論」の冒頭で、それを読むのは経済学の専門家であろうが、是非大衆にも読んでもらい議論に参加してもらいたい...といった趣旨を語っていた。市場原理に人間の普遍的価値観を求めるならば、様々な価値観の持ち主が市場に参入する必要があろう。しかしながら、証券取引所が怪物の棲家に映る人も少なくないようだ。理性者には禁断の領域であろうか?実は、市場の根本的な矛盾はこのあたりにあるのではなかろうか。いや、人は皆、金の前では盲目になるだけのことよ。
1. 分業と資本蓄積
スミスが国富論で分業の概念を持ちだしたのは、有名だそうな。未開の社会では、分業はなく、交換はめったに行われず、自分の必要とするものを自分で獲得するという。近代社会では、生産において専門の細分化を促進し、社会の総生産の下で役割分担がなされる。ただ、他の生産に対して依存度を高め、自立性を失う弱点を浮き彫りにさせる。本当に社会は高度化しているのだろうか?実際には、精神的自立と生産的依存の双方が求められるのだろう。
さて、分業は市場の大きさによって制約されるという。貨幣の役割は、商品交換を円滑にして市場を拡大させることであり、生産性を高めることにある。だが、分業が交換を前提とすれば、交換比率、すなわち価格決定の問題が生じる。かつて、労働力こそ生産性であったが、生産に資本が使用されるようになると、労働者も資本の一部に成り下がる。おまけに、土地がすべて私有財産になると、地主に地代を支払う仕組みができ、自己資本を投じる企業家に利益をもたらす。労働者はますます生産のための部品となり、単純労働がロボットに置き換われば、生産に寄与する機会までも失われていく。
生産競争が激化すると、企業努力によって分業効率を高め、やがて独占が生じるという懸念がある。しかし、スミスは、生産は増大の一途を辿るわけではなく、需要の制約が市場の拡大を自然に抑制すると反論している。費用が安くなれば、商品が安くなり、消費者にとってありがたい事だから、OKってか。だとしても、低価格競争が激化すれば、労働賃金も下がり、市場の制約によってパイの争奪戦となろう。その挙句に、やはり独占が生じることになるのだけど...
分業の概念で最も注目したいのは、資本蓄積との関係を論じているところである。分業社会では、個人の欲望の大部分は、生産物と交換することによって入手するという。生産がもたれ合いで行われるとすれば、互いの生産計画が重要となる。生産財が予定どおりに仕入れることができなければ、計画が破綻し、生産効率はむしろ低下するだろう。労働生産物が完成するまで交換できないのであれば、絶えず交換できる資材を蓄積しておかなければ日々の生活が成り立たない。なるほど、資本蓄積が進んで、はじめて分業が可能になるというわけか。
2. 生産的労働と非生産的労働
生産的労働という概念は、生産過程において生じるものだが、資本蓄積によって生じるということは言えるかもしれない。では、非生産的労働とは、資本と交換されないものを言うのか?賃金労働者が自己の価値を補填するだけでなく、新たな価値を生み出さない限り、非生産的ということか?命令に従うだけなら奴隷と同じで、そんな労働は消費と同じということか?生産性に対して能動的か受動的か、という見方はできるかもしれない。それでも、非生産的労働が不要ということにならない。消費があるから生産があるのであって、いわば両輪を成しているのだから。スミスが問題視しているのは、その割合である。
また、貯蓄率の上昇が経済成長率を高めるとしている。しかし、あまりにも貯蓄率が高いと、どうだろうか?貯蓄は生産性に向かって、すなわち資本投下されてはじめて意味がある。まさに今、日本経済の閉塞感の要因となっている。資金過剰に陥るのでは、むしろ弊害となろう。生産的な使い道が分からず、無理やり資金を使えば、それこそ浪費の山。貯蓄率、成長率、利潤率、利率、人口など経済的要素が過剰になると、ろくな事にはならないようである。それは、土地や地球資源が限られ、自然環境の修復能力に限りがある、というのが根本にあるからであろうか?一方で、人間の富に対する欲望に限りがないというのは、自然学的にもアンバランスに映る。
3. 農業と工業の優位性
資本投下は、農業、工業、国内商業、国際貿易の順にあるべきだとし、これが豊かさへの自然の道筋だという。実際には、逆順の事例がわんさとあるが...
農業人口の多い国では、鷹揚さ、率直さ、人付き合いの良さが、自然に国民性の一部にあり、商工業人口の多い国では、偏狭さ、計算高さ、利己心、人付き合いを嫌う性格が、自然に国民性の一部にあるという。ただ、人付き合いの良さが、逆に異端的な着想を毛嫌いし、村八分にする冷徹な面も露わにする。対して、余計な人付き合いの排除が、くだらない感情論を排除しようという考えにもなる。どちらも一長一短で、どちらが健全とも言えないし、好みの問題でもあろう。こうした性格の違いが、都市部と農村部の対立として見られる。重農主義が倹約と節約を本分とし、その精神は消費や贅沢と相反する。自由と平等のどちらを優先するかと言えば、重商主義は自由を、重農主義は平等を選択する傾向にあろうか。
それはさておき、せっかく資本による生産効率が国富につながるとしながら、工業生産よりも農業生産の方が優位だとするのは合点がいかない。確かに、人間が生きるための根幹に食糧がある。そこで、農業を産業基盤に持ちながら、工業が発展することが望ましいとしている点は、妙に説得力がある。ただその要因で、農業では労働者だけでなく家畜も労働に寄与し、自然までも働くとしているのも奇妙で、宗教的ですらある。なによりも天候は気まぐれだし、自然災害に弱い。家畜や土地を労働資本に含めるならば、工業においても機械設備や生産技術も労働資本に含めるべきであろう。帝国主義が発達する背景では国力を軍事力で換算し、工業力こそが国力という見方がなされたであろうに。付加価値の高さでは、工業製品が圧倒してきたはず。
では、農業の生産効率が工業と同等であれば、どうだろうか?それこそ食糧を基盤にする農業に優位性があるかもしれない。ただ、人間の喰う量には限りがあるが、贅沢品に求める付加価値には限りがない。人間は仮想空間にまで利便性を追い求める。ならば、食糧を仮想空間に置けばどうだろうか?食った気になれれば、無限の幸福を感じることができるかもしれない。やはり、幸福とは幻想であったか。経済学が実体から目を背け、仮想価値に邁進するのも道理というものか...
4. 金融業の発達と手形の乱発
銀行が過剰な貨幣発行を抑制すると、事業者は望むだけの信用供与ができなくなり、手形の振出しと逆振出しという巧みな方法を編み出したという。
例えば...
エディンバラの商人AがロンドンのBを支払人とし、期間二ヶ月の手形を振り出す。BはAに何の債務もない。それでも、Aの手形を引き受けることに同意し、支払い期日前にAを支払人として同じ金額に利子と手数料を上乗せして、同じく期間二ヶ月の手形を振り出すことを条件にする。Bは最初の二ヶ月期間が終わる前にAを支払い人とし、やはり期間二ヶ月の手形を振り出す。AはBを支払人にした手形を満期二ヶ月前にエディンバラの銀行にもっていき、割り引いてスコットランドの銀行紙幣を受け取る。BはAを支払人にした手形を満期二ヶ月前にイングランド銀行にもっていき、割り引いてスコットランドの銀行紙幣を受け取る。
... こうして、次から次に満期前に手形を乱発することによって利子と手数料を上乗せしていき、増殖させるという仕掛け。まさに流通マジック!だが、ここには乗数理論の原理が含まれている。
危険度を察知した銀行家たちは自己防衛に走るのは当然で、信用ある大銀行ですら貸し渋るようになる。互いに喧騒と窮迫。スコットランド銀行は破綻し、その窮状を解消することを目的に掲げた銀行が設立されたという。いつのまにか、ぐるぐる回った融通手形が互いの依存リスクを高め、次々に銀行群を巻き込んでいく様子は、リーマンショックで演じた投資銀行家たちの姿と重なる。金融危機は、まさに信用崩壊によってもたらされてきた。
「銀行家がある金額以下の額面で銀行券や持参人払い手形を発行することを禁止され、発行した銀行券について提示されしだい、ただちに無条件に支払いを行うよう義務づけられていれば、銀行業務のその他の面で完全な自由が認められていても、公共の安全を損なうことはない。」
イングランド銀行は、ヨーロッパ最大の紙幣発行銀行という歴史的な役割を担っていることにも言及される。そして、銀行の役割は、資本を収集することではなく、資本を生産性に向かわせることにあると指摘している。かつては、企業家たちが発端になっていたことを、現在では、金融屋自ら複雑な金融商品を開発して価値を欺瞞する。金融業界は、本来の責務である価値評価の技術を発達させるのではなく、価値を欺瞞する巧妙な技術を発達させている。
5. 銀行の役割と自由放任主義
国内取引は、事業者間の取引と事業者と消費者間の取引に分けられるとしている。それぞれ、卸売りと小売りとされるところか。小売りは、少額の通貨が使われるので回転が速く、消費者は現金で支払うので事業者は現金を用意しておく必要がない。当面、支払い用に保有しておかなければならない事業者の現金は、商品の仕入れ先である他の事業者との取引に使われる。したがって、銀行の役割は卸売り取引で大きくなるという。ますます銀行の信用力が重要視されるわけだ。分業が進み、価値の交換が盛んになれば、銀行業務は拡大していく。そこで、当時イングランドとスコットランドで銀行が急増していることに警鐘をならす人が多かったようだ。本書は、その批判に対して、公共の安全が危うくなるどころか、資本が強化されると反論している。
「自由競争によって、どの銀行も競争相手に顧客を奪われないように、顧客を大切にしなければならなくなる。一般的にいって、ある種の事業、ある部門の労働が社会に利益をもたらすものであれば、競争が自由に行われ、広範囲に行われるほど、社会にとっての利益が大きくなる。」
このあたりは、自由放任主義の源流がよく表れている。確かに、情報や評価の透明性が正常に機能すれば、スミスの言うように公共の安全を損なうことはないかもしれない。だが、正確性を検証する前に集団行動が生じ、業界ごと風潮に流される危険性がある。人間の欠点は、集団によって相殺される場合もあれば、、相乗効果によって増幅される場合もある。しかも、集団性が一旦暴走を始めると、悪魔と化す。誰かが目の前で儲けていると、乗り遅れまいという心理が働く。これが嫉妬の原理からくるのかは知らん。
しかし、本書がこうした欠点を露呈するのも、今までに金融危機を経験してきたからであって、少なくとも信用力に着目している点は評価すべきであろう。ただし、現在の信用取引は人質取引であって、真の意味で信用が機能しているのかは疑問だが...
6. 国家の経費と教育
主権の経費には、防衛費、司法費、公共施設と公共機関の経費、そして、主権者の権威を支えるための経費があるという。
「主権者の第一の義務は他国の暴力と侵略から自国を守ることであり、この義務を果たすには軍事力が不可欠である。」
防衛の原則は、自衛権と人権との関係から生じる。軍事力は工業や技術と関係が深く、近年まで国力は軍事力で計測されてきた。
「主権者の第二の義務は、社会の他の構成員による不正と抑圧から、社会のすべての構成員を可能な限り守る義務、つまり、厳正な司法制度を確立する義務。」
個人の財産を守る権利を執行するのが司法だとすると、財産がなければ司法制度も必要ないか。搾取国家では事実上、司法も機能しないだろう。いや、身体や名誉を傷つける行為から守る必要はある。名誉や身体も財産であるからして。自衛、司法、公共、権威のいずれの費用も、正義の下で機能しなければ、税を搾取する正当な理由は見当たらない。
さて、経費の議論で注目したいのは、第三の義務とされる公共サービスでは、特に教育機関が強調される点である。いつの時代でも、教育レベルの高い国に知識人や能力者が世界中から集まり、国を栄えさせてきた。おそらく、皮相的な企業誘致よりも、こちらの方が本質的であろう。技術力のある国には、優れた教育機関があり、知識の宝庫があり、そこに優秀な起業家の卵が集まる。プラトンのアカデメイアしかり、イギリスのケンブリッジやオックスフォードしかり、現在はアメリカの大学群が注目される。平均年収の観点からMBA取得が注目され、スタンフォード、ハーバード、ウォートンといった名をよく耳にする。外国人が集まるということは、魅力ある教育がなされている証であろう。だが同時に、外国人ばかりを育てるという懸念があるかもしれない。それでも、母校に親しみや恩を感じるだろうから、国に対する印象もよくなるだろうし、なによりも国内への刺激が大きい。そして、国家の枠組みが曖昧になっていく。国益は、なにも軍事力や経済力だけで決まるものではあるまい。もっと多彩な能力によって決まるはず。とりあえず、一つの要因に寛容力を挙げておこうか。政府の脂ぎった思惑があまり入り込まない方が、国益になりやすいようである。これがスミスの言う自然性の原理なのかは分からんが...
経済学に触れるなら、いつかはアダム・スミスという意識がどこかにある。正式名「国の豊かさの本質と原因についての研究」には、ユークリッドの「原論」やニュートンの「プリンキピア」と同じ香りがする、と言えばちと大袈裟か。スミス自身は経済学の父と呼ばれるものの、道徳哲学者として名声を博していたようである。
さて、「国富論」には多くの翻訳版があって、どれを選ぶかが悩ましい。立ち読みしていると、山岡洋一訳(日本経済新聞社出版社)の冒頭説明になんとなく惹かれる。
「既訳のある古典を翻訳する際には、既訳を参照し継承するのが翻訳者の使命である。」
そこには、竹内健二訳(改造文庫,1931 - 33年, 東京大学出版会,1969年)、気賀勘重訳(岩波文庫, 1926年)、大内兵衛訳(岩波文庫, 1940 - 44年)に学ぶ点が多い、とある。そして、原語と訳語を一対一で対応させていないという。アダム・スミスが用語を多様な意味で使っていることは、広く知られているそうな。一つの用語を多義的に用いたり、一つの概念をいくつもの同義語で表したりするのは、哲学書にありがちな趣向(酒肴)である。真理を探求すれば、言語の限界に挑むことになる。「国富論」もその例に漏れない。
また、歴史書としもなかなか。イングランドやオランダなど国力算出では、ウィリアム・ペティの「政治算術」を彷彿させる。金融業や手形の発達過程を考察するところは見物で、過剰な紙幣流通がリスクを高めることが既に指摘される。七年戦争で軍需景気に見舞われると、商業利益率が上昇し、企業家たちは無理してでも事業を拡大しようという誘惑に駆られる。特に、イングランド銀行とスコットランド銀行が手形を乱発し、逆振出の手口が横行する様子は、マネーサプライが増殖する仕掛けに通ずるものがある。尚、期待していた「神の見えざる手」という用語が見当たらない...
一般的に経済学の歴史は、たかだか二百年余りとされる。しかし、経済循環、すなわち交換に関する法則は、貨幣が発明された時代から模索されてきたはず。古代の記録には、高利貸しの存在や、都市国家の財政破綻を企てる貨幣偽造などの記述が残される。貨幣の発明以来、価値評価は仮想化へと邁進してきた。個人の能力は賃金で査定され、債権は現物価値を代替し、利息は将来価値を表し、あらゆる価値が貨幣換算される。人の命ですら。おまけに、電子マネーの登場で貨幣自体が曖昧な存在となった。実体価値と仮想価値の間に価格差が生じるということは、そこに金儲けの機会が訪れることを意味し、ここにサヤ取りの原理が生じる。
18世紀になって、経済学がようやく学問の地位を獲得したのは、歴史の偶然であろうか?大航海時代に発見された航路を武器に植民地貿易が盛んになると、商人の政治的圧力が増していく。商人が各国を往来するようになれば、どの地域でどんな品目の生産が有利であるかを知ることができる。情報力が国富にとって重要な位置づけとなり、商人活動が国の諜報機関として機能する。総合商社のような形態が生じたのも、この頃であろうか。ちなみに、総合商社の情報力が日本の高度成長時代を支えてきた。今は知らんが...
重商主義が旺盛な時代、商人の利益が最優先され、そこに宗教道徳が強く結びつくと、保護貿易どころか流通で不利とされる品目が全面禁止されたり、金利が厳しく制限される。その結果、密輸業者や闇金融が繁盛する。政府が介入すると様々な価格が歪められるのは、今も同じか。
「国王や閣僚が民間人の家計を監視し、贅沢禁止法や贅沢品輸入の禁止によって民間人の支出を抑制しようとするのは、まったく不適切だし厚顔無恥である。国王と閣僚はつねに例外なく、社会のなかで最大の浪費家である。」
政府が経済に強く関与する時代、スミスは長期的な安定価値を見出す方法として自由貿易を唱える。価値は自然の秩序によって創出されるもので、人間の道徳観や宗教観などで決定できるものではないと。そして、国富とは、金銀や貨幣の収集量で決まるものではなく、あくまでも労働生産にあることを強調し、生産に役立つ労働者数とそうでない労働者数の比率から持論を展開する。
「どの国でも、その国の国民が年間に行う労働こそが、生活の必需品として、生活を豊かにする利便品として、国民が年間に消費するもののすべてを生み出す源泉である。」
労働に価値を求めるあたりは、マルクスに影響を与えることになる。
また、政策では、消費者の利益が無視され、生産者の利益ばかりが優先されると批判し、政府の役割についても論じている。それは、国防や司法の観点から主権と公平を唱え、公共事業の在り方では教育に主眼を置き、市場を通じて供給できない公共財の供給のみに専念すべきであるというもの。これが税金を搾取する正当性というものか。
さて、国富論が自由放任主義の礎になっているのは確か。経済人がよく口にする人間の行動原理に、利益の最大化や最大効用を求めるといったものがあるが、それは本当だろうか?そこそこ幸せであればいい!というのが多くの人々の本音ではあるまいか?実際、スミスも国富のために生産効率や資本投下効率を最大限高めることを唱えている。だが、ここで主張する自由放任と、現在の金融屋たちが主張する自由放任では、かなり乖離があるように映る。そもそも金融屋とは、価値の乖離を煽るのがお好きな人種か。金融工学にしても、価値の真理を探求すると称しながらサヤ取りの研究にご執心のようだし、ノーベル賞級の経済学者たちが国際的金融危機を招くようでは、学問になりきれていないと批判されても仕方があるまい。あの世でスミスは、経済学者と呼ばれることに抵抗を感じているに違いない。
ところで、市場が不完全であることは明らかだが、これほど簡単に経済危機を引き起こすものであろうか?人間の多様な価値観の集合体とは、ここまで信用ならぬものであろうか?あるいは、市場参加者が経済人の価値観に偏っているからであろうか?
スミスの時代、貿易商人は政府の後ろ盾によって資本を右から左に移動させるだけで膨大な差益を獲得した。では、現在は?金融屋たちは価値評価が不可能なほど複雑なデリバティブ商品を編み出し、合法的にサヤ取りを仕掛ける。一方で、金融屋の投機行為が経済を破壊するとはいえ、公的資金の注入による回復力は恐ろしく速い。なるほど、金融屋の無責任性向と政府の搾取性向を観察すれば、国家の経済力を計測できるという寸法か。これを国富と言うかは知らんが...
人間社会の秩序は、経済人と政治屋の欲望の相殺によって維持されるものであろうか?スミスの唱える「自然価格の原理」は、そんなものではなさそうである。ちなみに、ケインズは「一般理論」の冒頭で、それを読むのは経済学の専門家であろうが、是非大衆にも読んでもらい議論に参加してもらいたい...といった趣旨を語っていた。市場原理に人間の普遍的価値観を求めるならば、様々な価値観の持ち主が市場に参入する必要があろう。しかしながら、証券取引所が怪物の棲家に映る人も少なくないようだ。理性者には禁断の領域であろうか?実は、市場の根本的な矛盾はこのあたりにあるのではなかろうか。いや、人は皆、金の前では盲目になるだけのことよ。
1. 分業と資本蓄積
スミスが国富論で分業の概念を持ちだしたのは、有名だそうな。未開の社会では、分業はなく、交換はめったに行われず、自分の必要とするものを自分で獲得するという。近代社会では、生産において専門の細分化を促進し、社会の総生産の下で役割分担がなされる。ただ、他の生産に対して依存度を高め、自立性を失う弱点を浮き彫りにさせる。本当に社会は高度化しているのだろうか?実際には、精神的自立と生産的依存の双方が求められるのだろう。
さて、分業は市場の大きさによって制約されるという。貨幣の役割は、商品交換を円滑にして市場を拡大させることであり、生産性を高めることにある。だが、分業が交換を前提とすれば、交換比率、すなわち価格決定の問題が生じる。かつて、労働力こそ生産性であったが、生産に資本が使用されるようになると、労働者も資本の一部に成り下がる。おまけに、土地がすべて私有財産になると、地主に地代を支払う仕組みができ、自己資本を投じる企業家に利益をもたらす。労働者はますます生産のための部品となり、単純労働がロボットに置き換われば、生産に寄与する機会までも失われていく。
生産競争が激化すると、企業努力によって分業効率を高め、やがて独占が生じるという懸念がある。しかし、スミスは、生産は増大の一途を辿るわけではなく、需要の制約が市場の拡大を自然に抑制すると反論している。費用が安くなれば、商品が安くなり、消費者にとってありがたい事だから、OKってか。だとしても、低価格競争が激化すれば、労働賃金も下がり、市場の制約によってパイの争奪戦となろう。その挙句に、やはり独占が生じることになるのだけど...
分業の概念で最も注目したいのは、資本蓄積との関係を論じているところである。分業社会では、個人の欲望の大部分は、生産物と交換することによって入手するという。生産がもたれ合いで行われるとすれば、互いの生産計画が重要となる。生産財が予定どおりに仕入れることができなければ、計画が破綻し、生産効率はむしろ低下するだろう。労働生産物が完成するまで交換できないのであれば、絶えず交換できる資材を蓄積しておかなければ日々の生活が成り立たない。なるほど、資本蓄積が進んで、はじめて分業が可能になるというわけか。
2. 生産的労働と非生産的労働
生産的労働という概念は、生産過程において生じるものだが、資本蓄積によって生じるということは言えるかもしれない。では、非生産的労働とは、資本と交換されないものを言うのか?賃金労働者が自己の価値を補填するだけでなく、新たな価値を生み出さない限り、非生産的ということか?命令に従うだけなら奴隷と同じで、そんな労働は消費と同じということか?生産性に対して能動的か受動的か、という見方はできるかもしれない。それでも、非生産的労働が不要ということにならない。消費があるから生産があるのであって、いわば両輪を成しているのだから。スミスが問題視しているのは、その割合である。
また、貯蓄率の上昇が経済成長率を高めるとしている。しかし、あまりにも貯蓄率が高いと、どうだろうか?貯蓄は生産性に向かって、すなわち資本投下されてはじめて意味がある。まさに今、日本経済の閉塞感の要因となっている。資金過剰に陥るのでは、むしろ弊害となろう。生産的な使い道が分からず、無理やり資金を使えば、それこそ浪費の山。貯蓄率、成長率、利潤率、利率、人口など経済的要素が過剰になると、ろくな事にはならないようである。それは、土地や地球資源が限られ、自然環境の修復能力に限りがある、というのが根本にあるからであろうか?一方で、人間の富に対する欲望に限りがないというのは、自然学的にもアンバランスに映る。
3. 農業と工業の優位性
資本投下は、農業、工業、国内商業、国際貿易の順にあるべきだとし、これが豊かさへの自然の道筋だという。実際には、逆順の事例がわんさとあるが...
農業人口の多い国では、鷹揚さ、率直さ、人付き合いの良さが、自然に国民性の一部にあり、商工業人口の多い国では、偏狭さ、計算高さ、利己心、人付き合いを嫌う性格が、自然に国民性の一部にあるという。ただ、人付き合いの良さが、逆に異端的な着想を毛嫌いし、村八分にする冷徹な面も露わにする。対して、余計な人付き合いの排除が、くだらない感情論を排除しようという考えにもなる。どちらも一長一短で、どちらが健全とも言えないし、好みの問題でもあろう。こうした性格の違いが、都市部と農村部の対立として見られる。重農主義が倹約と節約を本分とし、その精神は消費や贅沢と相反する。自由と平等のどちらを優先するかと言えば、重商主義は自由を、重農主義は平等を選択する傾向にあろうか。
それはさておき、せっかく資本による生産効率が国富につながるとしながら、工業生産よりも農業生産の方が優位だとするのは合点がいかない。確かに、人間が生きるための根幹に食糧がある。そこで、農業を産業基盤に持ちながら、工業が発展することが望ましいとしている点は、妙に説得力がある。ただその要因で、農業では労働者だけでなく家畜も労働に寄与し、自然までも働くとしているのも奇妙で、宗教的ですらある。なによりも天候は気まぐれだし、自然災害に弱い。家畜や土地を労働資本に含めるならば、工業においても機械設備や生産技術も労働資本に含めるべきであろう。帝国主義が発達する背景では国力を軍事力で換算し、工業力こそが国力という見方がなされたであろうに。付加価値の高さでは、工業製品が圧倒してきたはず。
では、農業の生産効率が工業と同等であれば、どうだろうか?それこそ食糧を基盤にする農業に優位性があるかもしれない。ただ、人間の喰う量には限りがあるが、贅沢品に求める付加価値には限りがない。人間は仮想空間にまで利便性を追い求める。ならば、食糧を仮想空間に置けばどうだろうか?食った気になれれば、無限の幸福を感じることができるかもしれない。やはり、幸福とは幻想であったか。経済学が実体から目を背け、仮想価値に邁進するのも道理というものか...
銀行が過剰な貨幣発行を抑制すると、事業者は望むだけの信用供与ができなくなり、手形の振出しと逆振出しという巧みな方法を編み出したという。
例えば...
エディンバラの商人AがロンドンのBを支払人とし、期間二ヶ月の手形を振り出す。BはAに何の債務もない。それでも、Aの手形を引き受けることに同意し、支払い期日前にAを支払人として同じ金額に利子と手数料を上乗せして、同じく期間二ヶ月の手形を振り出すことを条件にする。Bは最初の二ヶ月期間が終わる前にAを支払い人とし、やはり期間二ヶ月の手形を振り出す。AはBを支払人にした手形を満期二ヶ月前にエディンバラの銀行にもっていき、割り引いてスコットランドの銀行紙幣を受け取る。BはAを支払人にした手形を満期二ヶ月前にイングランド銀行にもっていき、割り引いてスコットランドの銀行紙幣を受け取る。
... こうして、次から次に満期前に手形を乱発することによって利子と手数料を上乗せしていき、増殖させるという仕掛け。まさに流通マジック!だが、ここには乗数理論の原理が含まれている。
危険度を察知した銀行家たちは自己防衛に走るのは当然で、信用ある大銀行ですら貸し渋るようになる。互いに喧騒と窮迫。スコットランド銀行は破綻し、その窮状を解消することを目的に掲げた銀行が設立されたという。いつのまにか、ぐるぐる回った融通手形が互いの依存リスクを高め、次々に銀行群を巻き込んでいく様子は、リーマンショックで演じた投資銀行家たちの姿と重なる。金融危機は、まさに信用崩壊によってもたらされてきた。
「銀行家がある金額以下の額面で銀行券や持参人払い手形を発行することを禁止され、発行した銀行券について提示されしだい、ただちに無条件に支払いを行うよう義務づけられていれば、銀行業務のその他の面で完全な自由が認められていても、公共の安全を損なうことはない。」
イングランド銀行は、ヨーロッパ最大の紙幣発行銀行という歴史的な役割を担っていることにも言及される。そして、銀行の役割は、資本を収集することではなく、資本を生産性に向かわせることにあると指摘している。かつては、企業家たちが発端になっていたことを、現在では、金融屋自ら複雑な金融商品を開発して価値を欺瞞する。金融業界は、本来の責務である価値評価の技術を発達させるのではなく、価値を欺瞞する巧妙な技術を発達させている。
5. 銀行の役割と自由放任主義
国内取引は、事業者間の取引と事業者と消費者間の取引に分けられるとしている。それぞれ、卸売りと小売りとされるところか。小売りは、少額の通貨が使われるので回転が速く、消費者は現金で支払うので事業者は現金を用意しておく必要がない。当面、支払い用に保有しておかなければならない事業者の現金は、商品の仕入れ先である他の事業者との取引に使われる。したがって、銀行の役割は卸売り取引で大きくなるという。ますます銀行の信用力が重要視されるわけだ。分業が進み、価値の交換が盛んになれば、銀行業務は拡大していく。そこで、当時イングランドとスコットランドで銀行が急増していることに警鐘をならす人が多かったようだ。本書は、その批判に対して、公共の安全が危うくなるどころか、資本が強化されると反論している。
「自由競争によって、どの銀行も競争相手に顧客を奪われないように、顧客を大切にしなければならなくなる。一般的にいって、ある種の事業、ある部門の労働が社会に利益をもたらすものであれば、競争が自由に行われ、広範囲に行われるほど、社会にとっての利益が大きくなる。」
このあたりは、自由放任主義の源流がよく表れている。確かに、情報や評価の透明性が正常に機能すれば、スミスの言うように公共の安全を損なうことはないかもしれない。だが、正確性を検証する前に集団行動が生じ、業界ごと風潮に流される危険性がある。人間の欠点は、集団によって相殺される場合もあれば、、相乗効果によって増幅される場合もある。しかも、集団性が一旦暴走を始めると、悪魔と化す。誰かが目の前で儲けていると、乗り遅れまいという心理が働く。これが嫉妬の原理からくるのかは知らん。
しかし、本書がこうした欠点を露呈するのも、今までに金融危機を経験してきたからであって、少なくとも信用力に着目している点は評価すべきであろう。ただし、現在の信用取引は人質取引であって、真の意味で信用が機能しているのかは疑問だが...
6. 国家の経費と教育
主権の経費には、防衛費、司法費、公共施設と公共機関の経費、そして、主権者の権威を支えるための経費があるという。
「主権者の第一の義務は他国の暴力と侵略から自国を守ることであり、この義務を果たすには軍事力が不可欠である。」
防衛の原則は、自衛権と人権との関係から生じる。軍事力は工業や技術と関係が深く、近年まで国力は軍事力で計測されてきた。
「主権者の第二の義務は、社会の他の構成員による不正と抑圧から、社会のすべての構成員を可能な限り守る義務、つまり、厳正な司法制度を確立する義務。」
個人の財産を守る権利を執行するのが司法だとすると、財産がなければ司法制度も必要ないか。搾取国家では事実上、司法も機能しないだろう。いや、身体や名誉を傷つける行為から守る必要はある。名誉や身体も財産であるからして。自衛、司法、公共、権威のいずれの費用も、正義の下で機能しなければ、税を搾取する正当な理由は見当たらない。
さて、経費の議論で注目したいのは、第三の義務とされる公共サービスでは、特に教育機関が強調される点である。いつの時代でも、教育レベルの高い国に知識人や能力者が世界中から集まり、国を栄えさせてきた。おそらく、皮相的な企業誘致よりも、こちらの方が本質的であろう。技術力のある国には、優れた教育機関があり、知識の宝庫があり、そこに優秀な起業家の卵が集まる。プラトンのアカデメイアしかり、イギリスのケンブリッジやオックスフォードしかり、現在はアメリカの大学群が注目される。平均年収の観点からMBA取得が注目され、スタンフォード、ハーバード、ウォートンといった名をよく耳にする。外国人が集まるということは、魅力ある教育がなされている証であろう。だが同時に、外国人ばかりを育てるという懸念があるかもしれない。それでも、母校に親しみや恩を感じるだろうから、国に対する印象もよくなるだろうし、なによりも国内への刺激が大きい。そして、国家の枠組みが曖昧になっていく。国益は、なにも軍事力や経済力だけで決まるものではあるまい。もっと多彩な能力によって決まるはず。とりあえず、一つの要因に寛容力を挙げておこうか。政府の脂ぎった思惑があまり入り込まない方が、国益になりやすいようである。これがスミスの言う自然性の原理なのかは分からんが...
2013-08-04
"正義論" John Rawls 著
なんとも照れ臭くなるような題材ではあるが、あのサンデル教授が褒めちぎるものだから。800ページの分厚さは、なかなかの白熱ぶり。確かにうまく整理されているが、これを体系化と言うかは知らん。もっともジョン・ロールズ自身は、ここに示す見解に独創性がないことを認めている。謙遜もあろうが...
「ロック、ルソー、カントに代表される社会契約の伝統的理論を一般化し、抽象度の程度を高めること、私が企ててきたのはこれである。」
それにしても、この値段に目を疑う。7,875円?!正義とは高くつくものらしい。
ロールズは、カントやアリストテレスの伝統哲学から、正義観念の一般化と普遍化を試み、「公正としての正義」を提唱する。それは、原初状態に立ち返った自然権的価値観、すなわち、人間のあるべき姿から派生する権威的道徳性を探求するものである。
「正義は、社会の諸制度がまずもって発揮すべき効能である。」
注目したいのは、功利主義とカント道徳が矛盾しない事を指摘し、特にカントの解釈で共感できる点が多いところである。
社会全体がまとまって整合的な見解に収まった時、はじめて正義の構想は正当化されるであろう。多数決の原理を民主主義の象徴のように崇める風潮もあるが、「最大多数の最大幸福」を唱えたところで、たとえ一人でも目の前で飢えている人を放置するような社会がまともだとは思えない。すべての人が衝動的な欲望に駆られるわけではあるまい。快楽を善とする快楽主義のある一方で、善を幸福とする幸福主義もあろうし、合理性において善を欲求する効用原理もあろう。確かに、社会全体の福祉集計量が増加することは望ましい。だが、貧困救済のために、より貧困層を犠牲にするのでは、GDPで定義されるような経済モデルは意義を失う。マクロ経済学で扱われる効用原理は、言うなれば利得の総和を最大化しようとする目論見であり、平均値の底上げでしかない。現実に、目の前で災難に遭っている人を平気で見捨てる社会がある。正義の最も単純なモデルは、おそらくこのあたりから生じるのであろう。
カント曰く、「正義の諸原理は、道徳原理を公共的憲章として掲げる倫理上の共和国にほかならない。」
ところで、正義なんて言葉を聞かされると、こそばゆい!そう感じるのは、精神が腐っている証であろうか。正義は、善や倫理の概念と似て非なるもの。ここが曲者とされるところであろう。善や倫理は思想や哲学に属すもので、いわば精神の宇宙にある。一方、正義は善や倫理を実践する場に登場する。精神の宇宙は、理性や知性によって支えられ、理想郷を夢想することだってできる。だが、実践の場では妥協を模索することになり、理性や知性の限界を述べることに他ならない。言うまでもなく、人間の理性や知性は不完全であり続け、ソクラテス流の無知との対峙が宿命づけられる。正義が良心と結びつけば、善や倫理と相性よく映る。しかしながら、良心ってやつは自己愛とすこぶる相性がいい。正義が自己肯定を強烈に主張すれば、自分自身までも欺瞞し、悪魔の手先となる。そう、正義の暴走は、弾圧や迫害の類いと同じぐらい恐ろしいのだ。正義が善や倫理を実践するための道具であるからには、悪用されることもある。歴史を紐解けば、侵略戦争ですら正義の下で正当化されてきた。講和を唱えようものなら非国民とされる時代もあった。政治の世界では、純粋な観念の持ち主が決定的な役割を演じることは稀である。思想観念がはるかに劣っていても、巧妙に振舞うことの得意な人物、すなわち黒幕のような人物が決定的な仕事をしてきた。歴史の事象は理性と責任から生じるのではなく、いかがわしい性格や不十分な悟性によって運営されてきた。どんなに優れた政策で、それを認めたとしても、政治家自身が関与できなければ抵抗勢力に成り下がる。政治は、しばしば嫉妬を体現する場と化し、正義は政治家の面子に取って代わる。
さらに、正義の実践は多数決の原理と相性がいい。善や倫理は個人の価値観に支配され、多様化しているというのに。そこで、社会秩序を実践する場において、一般的な原理が必要となる。正義観念が普遍性によって構築されるならば、ロールズの言うように安定した共通価値観を編み出すことができるだろう。すなわち、人類愛という抽象レベルにおいて。だが、人間は多数派に属することで安住したいという性向がある。おそらく人間の普遍性なるものを具体的に提示できる者は、ほんの一握りの天才だけであろう。庶民化した正義は、しばしば集団性の悪魔の餌食とされる。冤罪で報道屋に袋叩きにされる事例は後を絶たず、ネット社会では相変わらず炎上騒ぎが盛んで、被害者の側が退場させられる始末。こうした社会現象はソフィストの時代から変わらず、多数派工作を企てる巧みな手法が開発されてきた。現在でも、義務や責任をそっちのけで、権利主張の技法ばかりが取り沙汰される。正義の発達が手段に目を奪われれば、本質的な精神観念が疎かになる。なるほど、煩悩を知らねば、悟りは得られまい。自由とは制約において成り立つ概念であり、平等とは格差において成り立つ概念である。いずれも中庸の原理において機能する。
...などと言ってしまえば、孔子やアリストテレスの時代にまで引き戻される。おっと、いつのまにか人間退化論を語っている。自己存在に罪を認めるような人でなければ、理性なんてものは獲得できないのかもしれん。どうりで無理性な酔っ払いには、正義はこそばゆい!
1. 原初状態と正義の二原理
人間社会の原初状態という考え方は古くからある。すなわち、人間は生まれながらにして善か悪かという議論にまで遡る。プラトンは、善のイデアという純粋理性的な精神の原型から、正義こそが幸福に至るものだとの考えを示した。アリストテレスは、正義に関する共通の理解を分かち合うことによってポリスが形成されるとした。そして、社会正義の立場から最善を選択するという考え方は功利主義に受け継がれ、ジェレミ・ベンサムは「諸利害を人為的に一致させること」と考え、アダム・スミスは「神の見えざる手」の仕業とした。
ロールズは、伝統的な功利主義が、あまりに市場原理と強く結びついたために、真の功利主義が見失われたと指摘している。確かに、功利主義的に論じられる社会原理は、あまりにも効用関数に頼りすぎている感がある。本来、原初状態における選好では普遍的な原理が働き、それが正義へ昇華されるということらしい。言うまでもなく、公正としての正義の場ではエゴイズムは拒絶される。「公正としての正義」における共通の理解が、立憲デモクラシーの基底ということになろうか。啓発する人々の集まりによってポリスが形成された時、はじめて民主主義が機能するということになろうか。
ロールズは、正義の二原理「最大限の平等な自由という原理」と「公正な機会均等の原理と格差原理」を提唱する。
平等な自由とは、競合する自由において正義に優先順位があるということで、弱肉強食を容認するわけではない。だが現実には、権利の要求が乱雑し、公正に査定することは不可能に見える。しかも、選挙の道具とされる。
格差原理とは、能力主義に通じるもので格差を否定するわけではなく、とんでもない高収入を得られる人々が存在しうるのは、最下層の人々にも恩恵がある場合に限られるということ。しかしながら、機会均等という用語もまた選挙の道具とされる。
そう、正義は選挙の道具とされる運命にあり、大声で叫んだ者の勝ちというわけだ。結局、政治ってやつは、善の増強よりも、不正義の抑制として企てられることになる。もはや毒を以て毒を制すの原理に縋るしかないのか?一旦脂ぎった欲望を知ってしまうと、大人たちはこうも浅ましくなるものなのか?大人たちが、子供心を取り戻すことこそ、不可能である。これはモンスター化の法則と言って、カオス理論の骨格をなしている... と誰に聞いたかは記憶にない。
2. カント的解釈
ロールズは、カントを解釈するというよりも、「公正としての正義」の観点から解釈を試みる立場を表明している。そして、この観点に立ってこそ、カントの深遠な二元論が見えてくるという。それは、必然性と偶然性、形式と実質、理性と欲求、本体と現象である。一般性や普遍性は崇められる傾向にあるが、実はこうした議論は思考を深化させるのではなく、むしろ薄弱な道徳論を構築することになるという。そして、カントの学説を一般性や普遍性といった観念に限定して論じることが、つまらぬものにしていると指摘している。
「カントの主な達成目標は、自由とは私たちが自分自身に与える法に従って行為することであるというルソーの着想を深化、正当化するところにある。そして、そこから導き出されたのは、厳格な命令の道徳ではなく、相互尊重と自己肯定感の倫理である。」
カントの道徳原理は、理性的、合理的選択の対象から始まっているという。その意味では、ある種の功利主義的な考えという解釈も成り立ちそうか。カントの自律の観念には、相互に利害関係を持たない公平無私という動機付けが想定されている。道徳立法が合意されるのも、この自律から発したものであろう。確かに、道徳原理が法となりうるには、その原理が公共的でなければならない。本来的に、人間には正しく行為したいという欲求があるのかもしれない。正しく行為できないのは、他人の行為に対する嫉妬からくるのかは知らんが。
ロールズは、選択の自由を持ちながら理性的に振る舞うことができるのは、それが精神の持ち主だからであり、人間特有の性質だとしている。不正行為を恥じるのは、なにも世間体に対してだけでなく、自然的本性を損なうからという思いもあろう。人間には、本性的に自己実現性というものを持っているように思える。あるいは、自然に獲得していくのかは分からんが。罪悪感もまた、法に対して生じるだけではないだろう。自尊心を傷つけるとは、そういうことかもしれない。神が見ておられるから不正ができない、という動機付けもあるが、本来的な道徳心は第三者に縋ることではあるまい。精神が能動的に働かなければ、違う神を信じるというだけで憎しみ合うことになろう。
3. アリストテレス的原理
アリストテレスによると、人間は包括的な原理に従うという高階の欲求を有し、より包括的で長期的な思案を選好する、ことになる。自ら実現する能力は先天的か、もしくは訓練によるものだが、獲得した能力の行使を楽しむ傾向がある。楽しみは、実現されるほど、より高みに昇ろうとするだろう。そして、究極の人間目的へと昇華させるのかは知らんが、これが学問の意義ではあろう。そもそも学問は、高収入を得るためだとか、高い地位を得るためだとか、そうした脂ぎった欲望で行うものではあるまい。最初の動機はそうだとしてもだ。一方で、大人になると読書すらやらなくなるという嘆きを耳にする。挙句に、政治学では政治的な駆け引きばかりを学ぶと。
「合理的な個人はつねに、自らの計画が最終的にどのような結果になろうとも、自分を決して非難する必要がないように行為すべきである。」
そう心掛けていても、やはり自己批判をせずにはいられない。だから、人生は面白いのかもしれん。行動が完璧であれば、退屈病に蝕まれノイローゼになるだろう。すると、理性者は自然に精神病を抱えているということか?自然本性的な存在とは、精神病患者のことか?
アリストテレス曰く、「人は知ることを欲する。」
思考がシンプルな方向に向かうとは限らない。将棋のようなゲームを好むのは、それが複雑で奥深いからである。科学や数学では単純な思考が崇高とされるが、実は、複雑なものを法則性に当てはめようとする思考過程そのものを崇めている、ということはないだろうか?だって、学者たちは見るからに単純というものにあまり興味を示さないではないか。実は、人間は複雑系を求めているということはないだろうか?実は、退屈しのぎこそ真理ということはないだろうか?そして、正義の構築もまた退屈病の餌食にされているということはないだろうか?少なくとも、真理の探求が退屈病の処方薬となることは間違いなさそうである。
ついでに、合理的な人生設計は、善の原理に収束するというのは本当だろうか?アリストテレスから二千年以上にもなるのに、いまだ善なるものが見えてこないのはどういうわけか?実は、人間の価値観はとうに限界に達し、無知であることが人間の普遍性ということはないだろうか?仮に無知から解放されれば、朝っぱらから酒をやる人間失格な生活も改められるだろうか?「正義論」を読むだけでは改められそうにない。
4. 快楽主義的正義
快楽に真理が結びつくと、強烈な武器になる可能性があるらしい。アリストテレスは、こう述べたという。
「善い人は、必要ならば友だちのために命を捨てる。なぜなら、長期間の穏やかな喜びよりも短期間の強烈な快楽のほうを、また多年にわたる退屈な暮らしよりも一年で終了する気高い生活のほうを選好するからである。」
快楽主義もちょいと視点を変えるだけで、随分と様変わりするものである。快楽主義から人間目的という観点で自我の統一性を見出すことはできるかもしれない。真理の探求そのものが、快楽となるであろうから。
アリストテレス的原理に従えば、秩序だった社会に参加することが、卓越した善をもたらすという。人間は本質的に卓越性を求めるというのだ。悪徳をなすのは、卓越性への嫉妬で、自己肯定性からくる社会への反発であると。自分が社会の中心になれるという条件下では、どんな悪徳者でも喜んで善をなすというのか?逆に言えば、自分が主役になれなければ、どんな善も破壊するというのか?悪魔ってやつは、神への嫉妬から生じるとでもいうのか?そうかもしれん。
さっそく、快楽に酔うハーレム主義者は、悪魔を目の前から葬り去ろうと、あぶく銭を一晩でゴージャスに使い果たした。これぞ快楽主義的正義というものか?そして、翌日から地獄を見ることに。んー... 正義ってやつは手強い!
「ロック、ルソー、カントに代表される社会契約の伝統的理論を一般化し、抽象度の程度を高めること、私が企ててきたのはこれである。」
それにしても、この値段に目を疑う。7,875円?!正義とは高くつくものらしい。
ロールズは、カントやアリストテレスの伝統哲学から、正義観念の一般化と普遍化を試み、「公正としての正義」を提唱する。それは、原初状態に立ち返った自然権的価値観、すなわち、人間のあるべき姿から派生する権威的道徳性を探求するものである。
「正義は、社会の諸制度がまずもって発揮すべき効能である。」
注目したいのは、功利主義とカント道徳が矛盾しない事を指摘し、特にカントの解釈で共感できる点が多いところである。
社会全体がまとまって整合的な見解に収まった時、はじめて正義の構想は正当化されるであろう。多数決の原理を民主主義の象徴のように崇める風潮もあるが、「最大多数の最大幸福」を唱えたところで、たとえ一人でも目の前で飢えている人を放置するような社会がまともだとは思えない。すべての人が衝動的な欲望に駆られるわけではあるまい。快楽を善とする快楽主義のある一方で、善を幸福とする幸福主義もあろうし、合理性において善を欲求する効用原理もあろう。確かに、社会全体の福祉集計量が増加することは望ましい。だが、貧困救済のために、より貧困層を犠牲にするのでは、GDPで定義されるような経済モデルは意義を失う。マクロ経済学で扱われる効用原理は、言うなれば利得の総和を最大化しようとする目論見であり、平均値の底上げでしかない。現実に、目の前で災難に遭っている人を平気で見捨てる社会がある。正義の最も単純なモデルは、おそらくこのあたりから生じるのであろう。
カント曰く、「正義の諸原理は、道徳原理を公共的憲章として掲げる倫理上の共和国にほかならない。」
ところで、正義なんて言葉を聞かされると、こそばゆい!そう感じるのは、精神が腐っている証であろうか。正義は、善や倫理の概念と似て非なるもの。ここが曲者とされるところであろう。善や倫理は思想や哲学に属すもので、いわば精神の宇宙にある。一方、正義は善や倫理を実践する場に登場する。精神の宇宙は、理性や知性によって支えられ、理想郷を夢想することだってできる。だが、実践の場では妥協を模索することになり、理性や知性の限界を述べることに他ならない。言うまでもなく、人間の理性や知性は不完全であり続け、ソクラテス流の無知との対峙が宿命づけられる。正義が良心と結びつけば、善や倫理と相性よく映る。しかしながら、良心ってやつは自己愛とすこぶる相性がいい。正義が自己肯定を強烈に主張すれば、自分自身までも欺瞞し、悪魔の手先となる。そう、正義の暴走は、弾圧や迫害の類いと同じぐらい恐ろしいのだ。正義が善や倫理を実践するための道具であるからには、悪用されることもある。歴史を紐解けば、侵略戦争ですら正義の下で正当化されてきた。講和を唱えようものなら非国民とされる時代もあった。政治の世界では、純粋な観念の持ち主が決定的な役割を演じることは稀である。思想観念がはるかに劣っていても、巧妙に振舞うことの得意な人物、すなわち黒幕のような人物が決定的な仕事をしてきた。歴史の事象は理性と責任から生じるのではなく、いかがわしい性格や不十分な悟性によって運営されてきた。どんなに優れた政策で、それを認めたとしても、政治家自身が関与できなければ抵抗勢力に成り下がる。政治は、しばしば嫉妬を体現する場と化し、正義は政治家の面子に取って代わる。
さらに、正義の実践は多数決の原理と相性がいい。善や倫理は個人の価値観に支配され、多様化しているというのに。そこで、社会秩序を実践する場において、一般的な原理が必要となる。正義観念が普遍性によって構築されるならば、ロールズの言うように安定した共通価値観を編み出すことができるだろう。すなわち、人類愛という抽象レベルにおいて。だが、人間は多数派に属することで安住したいという性向がある。おそらく人間の普遍性なるものを具体的に提示できる者は、ほんの一握りの天才だけであろう。庶民化した正義は、しばしば集団性の悪魔の餌食とされる。冤罪で報道屋に袋叩きにされる事例は後を絶たず、ネット社会では相変わらず炎上騒ぎが盛んで、被害者の側が退場させられる始末。こうした社会現象はソフィストの時代から変わらず、多数派工作を企てる巧みな手法が開発されてきた。現在でも、義務や責任をそっちのけで、権利主張の技法ばかりが取り沙汰される。正義の発達が手段に目を奪われれば、本質的な精神観念が疎かになる。なるほど、煩悩を知らねば、悟りは得られまい。自由とは制約において成り立つ概念であり、平等とは格差において成り立つ概念である。いずれも中庸の原理において機能する。
...などと言ってしまえば、孔子やアリストテレスの時代にまで引き戻される。おっと、いつのまにか人間退化論を語っている。自己存在に罪を認めるような人でなければ、理性なんてものは獲得できないのかもしれん。どうりで無理性な酔っ払いには、正義はこそばゆい!
1. 原初状態と正義の二原理
人間社会の原初状態という考え方は古くからある。すなわち、人間は生まれながらにして善か悪かという議論にまで遡る。プラトンは、善のイデアという純粋理性的な精神の原型から、正義こそが幸福に至るものだとの考えを示した。アリストテレスは、正義に関する共通の理解を分かち合うことによってポリスが形成されるとした。そして、社会正義の立場から最善を選択するという考え方は功利主義に受け継がれ、ジェレミ・ベンサムは「諸利害を人為的に一致させること」と考え、アダム・スミスは「神の見えざる手」の仕業とした。
ロールズは、伝統的な功利主義が、あまりに市場原理と強く結びついたために、真の功利主義が見失われたと指摘している。確かに、功利主義的に論じられる社会原理は、あまりにも効用関数に頼りすぎている感がある。本来、原初状態における選好では普遍的な原理が働き、それが正義へ昇華されるということらしい。言うまでもなく、公正としての正義の場ではエゴイズムは拒絶される。「公正としての正義」における共通の理解が、立憲デモクラシーの基底ということになろうか。啓発する人々の集まりによってポリスが形成された時、はじめて民主主義が機能するということになろうか。
ロールズは、正義の二原理「最大限の平等な自由という原理」と「公正な機会均等の原理と格差原理」を提唱する。
平等な自由とは、競合する自由において正義に優先順位があるということで、弱肉強食を容認するわけではない。だが現実には、権利の要求が乱雑し、公正に査定することは不可能に見える。しかも、選挙の道具とされる。
格差原理とは、能力主義に通じるもので格差を否定するわけではなく、とんでもない高収入を得られる人々が存在しうるのは、最下層の人々にも恩恵がある場合に限られるということ。しかしながら、機会均等という用語もまた選挙の道具とされる。
そう、正義は選挙の道具とされる運命にあり、大声で叫んだ者の勝ちというわけだ。結局、政治ってやつは、善の増強よりも、不正義の抑制として企てられることになる。もはや毒を以て毒を制すの原理に縋るしかないのか?一旦脂ぎった欲望を知ってしまうと、大人たちはこうも浅ましくなるものなのか?大人たちが、子供心を取り戻すことこそ、不可能である。これはモンスター化の法則と言って、カオス理論の骨格をなしている... と誰に聞いたかは記憶にない。
2. カント的解釈
ロールズは、カントを解釈するというよりも、「公正としての正義」の観点から解釈を試みる立場を表明している。そして、この観点に立ってこそ、カントの深遠な二元論が見えてくるという。それは、必然性と偶然性、形式と実質、理性と欲求、本体と現象である。一般性や普遍性は崇められる傾向にあるが、実はこうした議論は思考を深化させるのではなく、むしろ薄弱な道徳論を構築することになるという。そして、カントの学説を一般性や普遍性といった観念に限定して論じることが、つまらぬものにしていると指摘している。
「カントの主な達成目標は、自由とは私たちが自分自身に与える法に従って行為することであるというルソーの着想を深化、正当化するところにある。そして、そこから導き出されたのは、厳格な命令の道徳ではなく、相互尊重と自己肯定感の倫理である。」
カントの道徳原理は、理性的、合理的選択の対象から始まっているという。その意味では、ある種の功利主義的な考えという解釈も成り立ちそうか。カントの自律の観念には、相互に利害関係を持たない公平無私という動機付けが想定されている。道徳立法が合意されるのも、この自律から発したものであろう。確かに、道徳原理が法となりうるには、その原理が公共的でなければならない。本来的に、人間には正しく行為したいという欲求があるのかもしれない。正しく行為できないのは、他人の行為に対する嫉妬からくるのかは知らんが。
ロールズは、選択の自由を持ちながら理性的に振る舞うことができるのは、それが精神の持ち主だからであり、人間特有の性質だとしている。不正行為を恥じるのは、なにも世間体に対してだけでなく、自然的本性を損なうからという思いもあろう。人間には、本性的に自己実現性というものを持っているように思える。あるいは、自然に獲得していくのかは分からんが。罪悪感もまた、法に対して生じるだけではないだろう。自尊心を傷つけるとは、そういうことかもしれない。神が見ておられるから不正ができない、という動機付けもあるが、本来的な道徳心は第三者に縋ることではあるまい。精神が能動的に働かなければ、違う神を信じるというだけで憎しみ合うことになろう。
3. アリストテレス的原理
アリストテレスによると、人間は包括的な原理に従うという高階の欲求を有し、より包括的で長期的な思案を選好する、ことになる。自ら実現する能力は先天的か、もしくは訓練によるものだが、獲得した能力の行使を楽しむ傾向がある。楽しみは、実現されるほど、より高みに昇ろうとするだろう。そして、究極の人間目的へと昇華させるのかは知らんが、これが学問の意義ではあろう。そもそも学問は、高収入を得るためだとか、高い地位を得るためだとか、そうした脂ぎった欲望で行うものではあるまい。最初の動機はそうだとしてもだ。一方で、大人になると読書すらやらなくなるという嘆きを耳にする。挙句に、政治学では政治的な駆け引きばかりを学ぶと。
「合理的な個人はつねに、自らの計画が最終的にどのような結果になろうとも、自分を決して非難する必要がないように行為すべきである。」
そう心掛けていても、やはり自己批判をせずにはいられない。だから、人生は面白いのかもしれん。行動が完璧であれば、退屈病に蝕まれノイローゼになるだろう。すると、理性者は自然に精神病を抱えているということか?自然本性的な存在とは、精神病患者のことか?
アリストテレス曰く、「人は知ることを欲する。」
思考がシンプルな方向に向かうとは限らない。将棋のようなゲームを好むのは、それが複雑で奥深いからである。科学や数学では単純な思考が崇高とされるが、実は、複雑なものを法則性に当てはめようとする思考過程そのものを崇めている、ということはないだろうか?だって、学者たちは見るからに単純というものにあまり興味を示さないではないか。実は、人間は複雑系を求めているということはないだろうか?実は、退屈しのぎこそ真理ということはないだろうか?そして、正義の構築もまた退屈病の餌食にされているということはないだろうか?少なくとも、真理の探求が退屈病の処方薬となることは間違いなさそうである。
ついでに、合理的な人生設計は、善の原理に収束するというのは本当だろうか?アリストテレスから二千年以上にもなるのに、いまだ善なるものが見えてこないのはどういうわけか?実は、人間の価値観はとうに限界に達し、無知であることが人間の普遍性ということはないだろうか?仮に無知から解放されれば、朝っぱらから酒をやる人間失格な生活も改められるだろうか?「正義論」を読むだけでは改められそうにない。
4. 快楽主義的正義
快楽に真理が結びつくと、強烈な武器になる可能性があるらしい。アリストテレスは、こう述べたという。
「善い人は、必要ならば友だちのために命を捨てる。なぜなら、長期間の穏やかな喜びよりも短期間の強烈な快楽のほうを、また多年にわたる退屈な暮らしよりも一年で終了する気高い生活のほうを選好するからである。」
快楽主義もちょいと視点を変えるだけで、随分と様変わりするものである。快楽主義から人間目的という観点で自我の統一性を見出すことはできるかもしれない。真理の探求そのものが、快楽となるであろうから。
アリストテレス的原理に従えば、秩序だった社会に参加することが、卓越した善をもたらすという。人間は本質的に卓越性を求めるというのだ。悪徳をなすのは、卓越性への嫉妬で、自己肯定性からくる社会への反発であると。自分が社会の中心になれるという条件下では、どんな悪徳者でも喜んで善をなすというのか?逆に言えば、自分が主役になれなければ、どんな善も破壊するというのか?悪魔ってやつは、神への嫉妬から生じるとでもいうのか?そうかもしれん。
さっそく、快楽に酔うハーレム主義者は、悪魔を目の前から葬り去ろうと、あぶく銭を一晩でゴージャスに使い果たした。これぞ快楽主義的正義というものか?そして、翌日から地獄を見ることに。んー... 正義ってやつは手強い!
2013-07-28
"イノベーションのDNA" C. M. Christensen, J. Dyer, H. Gregersen 著
クレイトン・クリステンセン教授に感銘を受けたので、もう一冊。前記事「イノベーションのジレンマ」では、持続的イノベーションと破壊的イノベーションを区別し、破壊的発想にこそ真の変革の可能性を匂わせてくれた。だが、一般的に、変革、改革、改善と呼ばれる類いのものは、持続的発想からくるものであろう。破壊的発想となると天才的な思考を予感させる。進化論風に言えば、離散的な突然変異にこそ真の進化の道があるとでもしておこうか。凡人には、いや凡庸未満の酔っ払いには、過去を引き摺りながら生きるしかないように思える。
ところが、本書の研究成果は、そんな凡庸未満にも一筋の光を与えてくれる。イノベータはよく右脳型とか生まれつき才能を持つと言われるが、そんな考えをバッサリと斬り捨て、創造性においては生まれよりも育ちや経験が優先されるという立場を表明する。そして、イノベーションの能力は、方法さえ分かれば誰にでも体系化して習得できるものとし、けして個人プレーで成就できるものではないという。ここに紹介されるイノベータたちは、自己の能力不足を冷静に分析し、それを補う人材を幅広く集め、ワクワクするような挑戦的なプロセスを組み込み、そしてなによりも、チームに哲学的な共通意識を植えつけて実行力のあるチームを仕立てあげる。発想力と実行力は別次元にあるというわけだ。
「革新的なアイデアを生み出す能力は、知性だけでなく、行動によっても決まる。」
彼らは概して自問することに長けており、その意味で哲学者である。天才と凡人を分けるものとは、ちょっとした努力の違い、ちょっとした発想の違い、ちょっとした視点の違い、そして、その慣習的行動の積み重ねが結果を大きく変えるだけのことかもしれん。離散的な突然変異にしても、長年に渡って蓄積されたエネルギーがある閾値を超えて爆発した結果なのだろう...
本書は、破壊的イノベーションで必要な5つのスキルを提示してくれる。それは、発見力に欠かせない「質問力」、「観察力」、「ネットワーク力」、「実験力」と、これらを結びつける「関連づけ思考」である。また、イノベータにも得意技があり、スタートアップ起業家、企業内起業家、製品イノベータ、プロセスイノベータの4つに分類している。これだけ複雑で多様な能力を必要とすれば、やはりチーム力が物を言う。ただし、ここで言うチームとは、同一思考の集団ではなく、多様な価値観の融合した集合体を意味する。ちなみに、著述家フランス・ヨハンソンは、価値観の交流による創造的な現象を「メディチ現象」と名付けた。いわゆる、メディチ・インパクトというやつで、ルネサンス期、メディチ家が科学者、哲学者、彫刻家、詩人、画家、建築家など幅広く人材をフィレンツェに結集させたことから、なぞらえた名である。
しかし残念ながら、凡人には創造的で独創的な人材の見分けができない。それどころか、異端と見なし葬ってしまう。そういう才能を嗅ぎつける能力もまた、創造的で独創的でなければなるまい。類は友を呼ぶと言うが、独創的な人の周りに独創的な人が集まるものであろう。なのに、お偉いさんはよく部下の愚痴をこぼす。枠に囚われない考え方をしろと。だが、囚われない考え方!これこそが知りたいことなのだ。笑われるぐらいでないと、斬新なアイデアは期待できない。そこにヒントが隠され、周りの人々によって優れたアイデアに育てられる可能性だってある。一つの斬新なアイデアに出会うためには、その10倍以上のバカバカしいアイデアを相手にすることになる。にもかかわらず、価値観から逸脱した提案は馬鹿にされてお仕舞い。創造性や独創性を求めるお偉いさんほど、この呪縛に嵌る。過去の栄光を振りかざすだけでは建設的な思考は生まれない。緊張感を煽っても思考の柔軟性を抑圧するだけ。破壊的イノベーションを必要とする場面では、実績や自己存在を一旦否定してみるような試みが必要である。
... などと言えば、凡庸未満の酔っ払いには過去の栄光などというものがないので、相性が良さそうに映る。いや、相性がいいのはイノベーションではなく、自己破壊の方よ。
1. 関連づける力と思考の試行センス
イノベータたちは、新たなものをゼロから創出するわけではない。コンピュータ技術にとらわれ過ぎてもいけない。最新技術に頼り過ぎてもいけない。メディアに流されてもいけない。もちろん、過去にとらわれすぎてもいけないが、現代人が古代人を凌駕したわけでもない。利便性が根源的な人間の欲望を満たしているわけでもない。異質なアイデアは、多種多様な存在を認めた上で、関連づけという思考実験から生じるものかもしれない。アインシュタインは、創造的思考を「組み合わせ遊び」と呼んだそうな。巷で騒がれるイノベータといえばスティーブ・ジョブズ氏、彼は「創造とは結びつけること」だと語ったという。
「創造的な人はどうやってそれをやったのかと聞かれると、ちょっとうしろめたい気持ちになる。実は何をやったわけでもなく、ただ何かに目を留めただけなのだ。...さまざまな経験を結びつけて、新しいものを生み出すことができたのだ。」
まったく無関係に見えるものを、ちょっと違う視点から繋げてみる。こういう思考は簡単そうで難しい。イノベータたちは、思考の試行センスが優れているようだ...
2. 質問力と馬鹿になる覚悟
質問という行為には、遠慮という考えが働きやすい。特に日本文化でありがち。レベルの低い質問は自己の能力を露呈することになり、恥と考える。だが、向上心とは、恥をかくところから始まる。素朴な質問に対処するのは面倒で鬱陶しい。だが、説明を疎かにすると本質を理解していないことを露呈する。子供が最も素朴な哲学者と言われる所以だ。無難な質問よりも型破りな質問こそが、互いの向上心を刺激しあう。
しかし、質問という行為がデリケートであることも確かで、用い方を間違えると揉め事へ発展する。質問が建設的な方向に向かわせるとすれば、それが質問力というやつか。実際、解答よりも問題を提起することの方が重要であることが多い。ピーター・ドラッカーはこう言った。
「正しい答えを見つけることではなく、正しい質問を探すことこそが、重要かつ至難の問題だ。誤った質問に対する正しい答えほど...危険とまではいわないが...無駄なものはない。」
イノベータにとって質問することは、知的トレーニングなどではなく、息をするように自然なことだという。そして、いつでも 5W1H をたたみかけるという。彼らには、常識を常識とする考えが、あまりないようだ。
ところで、議論の最中、メンバーたちは本当にこの仕事を理解しているのだろうか?と思うことがある。そんな時、チームに馬鹿を演じられる奴が一人いると助かる。冗談まじりの質問が、その場の雰囲気を和ませるばかりか、意思疎通を再認識させる役割を自然に演じてくれる。暗黙に能力を認められた人物の為せる業で、チームの潤滑油のような存在となる。そういう人物が見当たらない時は、マネージャ自身がバカバカしい質問をしてみるのもいい。質問力とは、馬鹿になる覚悟をすることであろうか。ブレークスルーの本質は、疑問を適切な質問で再構築することにあるのだろう。
「答えは頭で考えるものではない。...適切な質問を探すことによって...答えのベールをはぐのだ」
3. 観察力と理解力
イノベータのほとんどが熱心な観察者で、観察行為は感覚器官を駆使して行われるという。よく観察しなければ、疑問もわいてこない。「用事を片付ける」、これが観察なのだそうな。つまり、片付けるべき用事を理解するということ。どんな用事にも、機能的、社会的、感情的側面がある。用事をコンピュータに処理させるなら、コンピュータの得て不得手を理解することになる。これが観察というわけである。もっと言うなら、用事を片付けるとは、欲望を理解することであり、人間の本質を理解することになろうか...
4. ネットワーク力と寛容性
個人で思考しても限界がある。イノベータたちは、人々との出会いを精力的に求めるという。業界などの枠組みにとらわれることなく、分野にこだわらないネットワークを。ネットワーキングを得意とする人とは、アイデアネットワーカーであり、資源ネットワーカーではないという。イノベータは、資源や出世のためにネットワーキングすることがあまりないらしい。新しいアイデアや洞察を引き出すために、いろいろな考えや視点を持つ人と話すそうな。
現代社会にはSNSなど繋がる手段が溢れている。だが、得てして知識だけで繋がるような資源ネットワークは、似たような考え方が集まり、むしろ思考を偏重させる。専門家どうしで集まっても、却って視野を狭めるかもしれない。アイデアネットワークでは、寛容性の高い能力を求める。イノベータたちは、思考の柔軟性に敏感に反応する。知らない人に近づけないのは、自分に自信がないからだという。
しかし、それだけだろうか?どんなに興味のある思考の持ち主でも、やはり人間的に合わないこともあろう。こちらが好んでも断られることもある。やはり凡人との違いは、多様性に対する寛容性の違いであろうか。自信は傲慢とも相性がよく、それよりも柔軟性や寛容性の方が本質的に思える。しかも、凡人の最も苦手とする資質だ。ついでに、凡人は寛容さと優しさを混同する。
ネットワーキングは、異なる社会的ネットワークに属する人たちとの対話を生み出す時、画期的なアイデアを誘発するという。そして、様々な産業、企業、国、民族、年齢集団などに属する人たちと対話することを奨励している。また、TED(Technology Entertainment Design) のようなアイデア会議への参加を呼びかける。だが、政治や宗教的な思惑は勘弁願いたい...
5. 実験力と失敗力
「失敗などしていない...うまくいかないやり方を一万通り見つけただけだ」...トーマス・エジソン
質問、観察、ネットワーキングは、過去と現在についての考察を与えてくれる。だが、将来の考察について手がかりを得るには、実験に勝るものはないという。仮説を実証するには試してみるのが一番。あらゆる新規事業は試行錯誤の繰り返し。インターネットがビジネスチャンスをもたらしたのは、過去の実験者たちによる財産である。失敗から学ぶことができれば、それは失敗ではなくなる。失敗を放置するから、永遠に失敗の痕跡に憑かれる。そもそも、人間社会そのものが、試行実験の場に過ぎない。政治システムにしても、経済システムにしても、社会的システムにしても。そして、失敗すれば、反対派の餌食にされるだけのことよ。
「新しい経験をすることは、望ましい学習成果に直接結びつかなければ、時間の無駄だと感じる企業幹部が多い。」
実行志向型の幹部は、目の前の問題を効率よく解決することに重点を置くため、課題と直接関係のない行動を時間の無駄と考えるという。対して、発見志向型の幹部は、新しい経験に挑むのは双方向的学習であって、実践に役立たないかもしれないことを承知しているという。研究分野は、ほとんど実を結ぶものではなく、それだけに、地道、根気、こだわり、といった資質が求められる。ちなみに、むかーし、おいらがある研究所に配属された時、上司から研究部門は、発想力よりも根気の方がはるかに重要だと助言されたものだ。あらゆる分野において、ほとんど日の目を見ることなく、人柱となってきた研究者が大勢いる。だからといって、研究を疎かにすれば未来が細る。やはりイノベーションには、ギャンブル的な性格がある。優れたイノベータが三流経営者と評されることも珍しくない。そこで、賢明なリスクのとり方を検討することになる。適切な構造をもった少数精鋭のプロジェクトチームを数多く用いたりと。スマートリスクこそが、失敗力ということになろうか...
ところが、本書の研究成果は、そんな凡庸未満にも一筋の光を与えてくれる。イノベータはよく右脳型とか生まれつき才能を持つと言われるが、そんな考えをバッサリと斬り捨て、創造性においては生まれよりも育ちや経験が優先されるという立場を表明する。そして、イノベーションの能力は、方法さえ分かれば誰にでも体系化して習得できるものとし、けして個人プレーで成就できるものではないという。ここに紹介されるイノベータたちは、自己の能力不足を冷静に分析し、それを補う人材を幅広く集め、ワクワクするような挑戦的なプロセスを組み込み、そしてなによりも、チームに哲学的な共通意識を植えつけて実行力のあるチームを仕立てあげる。発想力と実行力は別次元にあるというわけだ。
「革新的なアイデアを生み出す能力は、知性だけでなく、行動によっても決まる。」
彼らは概して自問することに長けており、その意味で哲学者である。天才と凡人を分けるものとは、ちょっとした努力の違い、ちょっとした発想の違い、ちょっとした視点の違い、そして、その慣習的行動の積み重ねが結果を大きく変えるだけのことかもしれん。離散的な突然変異にしても、長年に渡って蓄積されたエネルギーがある閾値を超えて爆発した結果なのだろう...
本書は、破壊的イノベーションで必要な5つのスキルを提示してくれる。それは、発見力に欠かせない「質問力」、「観察力」、「ネットワーク力」、「実験力」と、これらを結びつける「関連づけ思考」である。また、イノベータにも得意技があり、スタートアップ起業家、企業内起業家、製品イノベータ、プロセスイノベータの4つに分類している。これだけ複雑で多様な能力を必要とすれば、やはりチーム力が物を言う。ただし、ここで言うチームとは、同一思考の集団ではなく、多様な価値観の融合した集合体を意味する。ちなみに、著述家フランス・ヨハンソンは、価値観の交流による創造的な現象を「メディチ現象」と名付けた。いわゆる、メディチ・インパクトというやつで、ルネサンス期、メディチ家が科学者、哲学者、彫刻家、詩人、画家、建築家など幅広く人材をフィレンツェに結集させたことから、なぞらえた名である。
しかし残念ながら、凡人には創造的で独創的な人材の見分けができない。それどころか、異端と見なし葬ってしまう。そういう才能を嗅ぎつける能力もまた、創造的で独創的でなければなるまい。類は友を呼ぶと言うが、独創的な人の周りに独創的な人が集まるものであろう。なのに、お偉いさんはよく部下の愚痴をこぼす。枠に囚われない考え方をしろと。だが、囚われない考え方!これこそが知りたいことなのだ。笑われるぐらいでないと、斬新なアイデアは期待できない。そこにヒントが隠され、周りの人々によって優れたアイデアに育てられる可能性だってある。一つの斬新なアイデアに出会うためには、その10倍以上のバカバカしいアイデアを相手にすることになる。にもかかわらず、価値観から逸脱した提案は馬鹿にされてお仕舞い。創造性や独創性を求めるお偉いさんほど、この呪縛に嵌る。過去の栄光を振りかざすだけでは建設的な思考は生まれない。緊張感を煽っても思考の柔軟性を抑圧するだけ。破壊的イノベーションを必要とする場面では、実績や自己存在を一旦否定してみるような試みが必要である。
... などと言えば、凡庸未満の酔っ払いには過去の栄光などというものがないので、相性が良さそうに映る。いや、相性がいいのはイノベーションではなく、自己破壊の方よ。
1. 関連づける力と思考の試行センス
イノベータたちは、新たなものをゼロから創出するわけではない。コンピュータ技術にとらわれ過ぎてもいけない。最新技術に頼り過ぎてもいけない。メディアに流されてもいけない。もちろん、過去にとらわれすぎてもいけないが、現代人が古代人を凌駕したわけでもない。利便性が根源的な人間の欲望を満たしているわけでもない。異質なアイデアは、多種多様な存在を認めた上で、関連づけという思考実験から生じるものかもしれない。アインシュタインは、創造的思考を「組み合わせ遊び」と呼んだそうな。巷で騒がれるイノベータといえばスティーブ・ジョブズ氏、彼は「創造とは結びつけること」だと語ったという。
「創造的な人はどうやってそれをやったのかと聞かれると、ちょっとうしろめたい気持ちになる。実は何をやったわけでもなく、ただ何かに目を留めただけなのだ。...さまざまな経験を結びつけて、新しいものを生み出すことができたのだ。」
まったく無関係に見えるものを、ちょっと違う視点から繋げてみる。こういう思考は簡単そうで難しい。イノベータたちは、思考の試行センスが優れているようだ...
2. 質問力と馬鹿になる覚悟
質問という行為には、遠慮という考えが働きやすい。特に日本文化でありがち。レベルの低い質問は自己の能力を露呈することになり、恥と考える。だが、向上心とは、恥をかくところから始まる。素朴な質問に対処するのは面倒で鬱陶しい。だが、説明を疎かにすると本質を理解していないことを露呈する。子供が最も素朴な哲学者と言われる所以だ。無難な質問よりも型破りな質問こそが、互いの向上心を刺激しあう。
しかし、質問という行為がデリケートであることも確かで、用い方を間違えると揉め事へ発展する。質問が建設的な方向に向かわせるとすれば、それが質問力というやつか。実際、解答よりも問題を提起することの方が重要であることが多い。ピーター・ドラッカーはこう言った。
「正しい答えを見つけることではなく、正しい質問を探すことこそが、重要かつ至難の問題だ。誤った質問に対する正しい答えほど...危険とまではいわないが...無駄なものはない。」
イノベータにとって質問することは、知的トレーニングなどではなく、息をするように自然なことだという。そして、いつでも 5W1H をたたみかけるという。彼らには、常識を常識とする考えが、あまりないようだ。
ところで、議論の最中、メンバーたちは本当にこの仕事を理解しているのだろうか?と思うことがある。そんな時、チームに馬鹿を演じられる奴が一人いると助かる。冗談まじりの質問が、その場の雰囲気を和ませるばかりか、意思疎通を再認識させる役割を自然に演じてくれる。暗黙に能力を認められた人物の為せる業で、チームの潤滑油のような存在となる。そういう人物が見当たらない時は、マネージャ自身がバカバカしい質問をしてみるのもいい。質問力とは、馬鹿になる覚悟をすることであろうか。ブレークスルーの本質は、疑問を適切な質問で再構築することにあるのだろう。
「答えは頭で考えるものではない。...適切な質問を探すことによって...答えのベールをはぐのだ」
3. 観察力と理解力
イノベータのほとんどが熱心な観察者で、観察行為は感覚器官を駆使して行われるという。よく観察しなければ、疑問もわいてこない。「用事を片付ける」、これが観察なのだそうな。つまり、片付けるべき用事を理解するということ。どんな用事にも、機能的、社会的、感情的側面がある。用事をコンピュータに処理させるなら、コンピュータの得て不得手を理解することになる。これが観察というわけである。もっと言うなら、用事を片付けるとは、欲望を理解することであり、人間の本質を理解することになろうか...
4. ネットワーク力と寛容性
個人で思考しても限界がある。イノベータたちは、人々との出会いを精力的に求めるという。業界などの枠組みにとらわれることなく、分野にこだわらないネットワークを。ネットワーキングを得意とする人とは、アイデアネットワーカーであり、資源ネットワーカーではないという。イノベータは、資源や出世のためにネットワーキングすることがあまりないらしい。新しいアイデアや洞察を引き出すために、いろいろな考えや視点を持つ人と話すそうな。
現代社会にはSNSなど繋がる手段が溢れている。だが、得てして知識だけで繋がるような資源ネットワークは、似たような考え方が集まり、むしろ思考を偏重させる。専門家どうしで集まっても、却って視野を狭めるかもしれない。アイデアネットワークでは、寛容性の高い能力を求める。イノベータたちは、思考の柔軟性に敏感に反応する。知らない人に近づけないのは、自分に自信がないからだという。
しかし、それだけだろうか?どんなに興味のある思考の持ち主でも、やはり人間的に合わないこともあろう。こちらが好んでも断られることもある。やはり凡人との違いは、多様性に対する寛容性の違いであろうか。自信は傲慢とも相性がよく、それよりも柔軟性や寛容性の方が本質的に思える。しかも、凡人の最も苦手とする資質だ。ついでに、凡人は寛容さと優しさを混同する。
ネットワーキングは、異なる社会的ネットワークに属する人たちとの対話を生み出す時、画期的なアイデアを誘発するという。そして、様々な産業、企業、国、民族、年齢集団などに属する人たちと対話することを奨励している。また、TED(Technology Entertainment Design) のようなアイデア会議への参加を呼びかける。だが、政治や宗教的な思惑は勘弁願いたい...
5. 実験力と失敗力
「失敗などしていない...うまくいかないやり方を一万通り見つけただけだ」...トーマス・エジソン
質問、観察、ネットワーキングは、過去と現在についての考察を与えてくれる。だが、将来の考察について手がかりを得るには、実験に勝るものはないという。仮説を実証するには試してみるのが一番。あらゆる新規事業は試行錯誤の繰り返し。インターネットがビジネスチャンスをもたらしたのは、過去の実験者たちによる財産である。失敗から学ぶことができれば、それは失敗ではなくなる。失敗を放置するから、永遠に失敗の痕跡に憑かれる。そもそも、人間社会そのものが、試行実験の場に過ぎない。政治システムにしても、経済システムにしても、社会的システムにしても。そして、失敗すれば、反対派の餌食にされるだけのことよ。
「新しい経験をすることは、望ましい学習成果に直接結びつかなければ、時間の無駄だと感じる企業幹部が多い。」
実行志向型の幹部は、目の前の問題を効率よく解決することに重点を置くため、課題と直接関係のない行動を時間の無駄と考えるという。対して、発見志向型の幹部は、新しい経験に挑むのは双方向的学習であって、実践に役立たないかもしれないことを承知しているという。研究分野は、ほとんど実を結ぶものではなく、それだけに、地道、根気、こだわり、といった資質が求められる。ちなみに、むかーし、おいらがある研究所に配属された時、上司から研究部門は、発想力よりも根気の方がはるかに重要だと助言されたものだ。あらゆる分野において、ほとんど日の目を見ることなく、人柱となってきた研究者が大勢いる。だからといって、研究を疎かにすれば未来が細る。やはりイノベーションには、ギャンブル的な性格がある。優れたイノベータが三流経営者と評されることも珍しくない。そこで、賢明なリスクのとり方を検討することになる。適切な構造をもった少数精鋭のプロジェクトチームを数多く用いたりと。スマートリスクこそが、失敗力ということになろうか...
2013-07-21
"イノベーションのジレンマ" Clayton M. Christensen 著
「自宅で読めるハーバードビジネススクールの精髄!」
惚れっぽい酔っ払いは、この宣伝文句にイチコロよ。破壊的技術によって市場に激変が生じると、業界をリードしてきた優良企業はなぜ失敗をするのか?これは、その法則を探求する物語である。
大企業の失敗原因でよく耳にする指摘と言えば、慢心、官僚主義、血族経営の疲弊、長期計画の欠乏、近視眼的な投資、能力や資源の配分ミス、あるいは不運などであろう。確かに、そういう企業もある。しかし、ここではエクセレントカンパニーやビジョナリーカンパニーと呼ばれた企業が対象である。そして、経営陣が正しく振る舞うがために、あるいは、輝かしい成功を収めてきたがゆえに、陥る罠があるという。やはり、その根幹にあるものは技術的な問題であり、イノベーションの問題であったか。尚、ここで言う技術とは、エンジニアリングや製造プロセスに留まらず、マーケティング、投資、マネジメントなど、あらゆるプロセスを統括するものであり、そしてイノベーションとは、これらの革新を意味する。
日本社会の閉塞感は未だ出口が見えず、失われた10年は、いまや20年と囁かれる。多くの日本企業は、高度成長とともに最下層から最上層まで上り詰め、行き場を失っている。かつて、アメリカ経済を牛耳ってきた自動車産業のように。社員たちが業界をリードしてきた大企業に見切りをつけ、ベンチャー的な事業を設立して市場の最下層からやり直そうとする動きもあるにはある。
だが、一般的には、安全志向の強すぎる国民性が指摘される。アメリカの強みは次々に新企業や新産業が出現することにあるが、日本では出現しにくい体質的な問題があるのだろう。企業の伝統にしがみつき、業界体質にしがみつき、官僚体質が蔓延し、技術者たちの移動もあまりない。金融業が新企業や新産業に投資することも少ない。
はたまた、世界人口で2%にも満たない日本人が総額保険料の20%近い保険料を支払い、保険好き!と外国人から皮肉られる始末。欧州では年収500万円程度でも、別荘を持って有意義に生きている人たちがいるというのに、日本では年収1千万円の家庭に子ども手当を与えることが真面目に検討される。年収900万円の所得制限で高校授業料の無償化を訴えたところで、義務教育でもないのに大義名分が見当たらない。日本経済は本当に疲弊しているのか?お金の使い方を知らないだけではないのか?自己投資のやり方が分からないだけではないのか?
ところが、だ。ここに紹介される失敗事例は、そんな愚痴など軽くあしらう。競争感覚を研ぎ澄まし、顧客の意見に注意深く耳を傾け、新技術に積極的に投資し、それでもなお、市場の優位性を失うというのだから。識者たちは、よく時代の変化に対応できないと主張する。だが、ここでは、市場の変化が速かろうが遅かろうが、最先端の電子技術に基づこうが旧式の機械技術に基づこうが、製造業であろうがサービス業であろうが、同様に起こる現象だとしている。やはり、閉塞感を打破するものは、破壊的モデルに縋るしかないのかもしれない。この書は、破壊と創造の原理が存分に味わえる一冊...とでも言っておこうか。ただし、ウォール害(街)式破壊は勘弁したい。
注目したいのは、「バリューネットワーク」と「資源依存理論」という二つの観点から迫っていることである。バリューネットワークは、リチャード・S・ローゼンブルームと著者クレイトン・M・クリステンセンが導入した概念だそうな。大雑把に言えば、価値観の共有ネットワークで、共通するニーズを持つ顧客層と、そのニーズを提供する企業群によって構成される集合体である。この集合体は、自社や既存顧客はもちろん、サプライヤ、流通事業者なども含め、生存価値を認め合う生態系として生息する。そして、彼らの共通価値観が信仰レベルにまで到達すると、破壊的イノベーションに対して無力となる。なにしろ、破壊的イノベーションってやつは、新たな価値観を吹き込むのだから。
また、資源依存理論は、組織の存続に欠かせない人材や資材や資金や組織能力への依存、あるいは、他社や顧客への依存といったあらゆる依存性から分析する立場である。成功してきた企業は、従来の顧客層を捨ててまでのリスクを負うことはできないので、過去の依存性と共存しながら新たな価値観に対処する必要がある。
したがって、本書は優良企業の足場を形成してきたバリューネットワークと資源依存性こそが妨げとなって、業界をリードしてきた地位までも奪われてしまうと論じている。既存組織が大規模なほど改革は難しく、特に破壊的な創造においては無から有を生む方がはるかに容易い。共通価値観によって集合体を形成するのは、自己存在の主張であり、ある種の防衛本能が働いている。人間ってやつは、権益を一度手にすると、それを頑なに守ろうとするために、思考までも硬直化させ、ある種の宗教原理が働く。自分の生活圏や枠組み、そこから少しでもはみ出そうものなら、すべてが失われるんじゃないか?そんな不安に駆られる。
新たな価値観を分析するには、一旦、既存の価値観を否定してみる必要もあろう。つまり、一旦、自己存在を否定してみることである。ただ、新たな価値観が必ずしも正しいとは限らない。価値観のネットワークは、ソーシャルネットワークにも見られる現象で、仮想的な生態系だけに破壊も容易い。この存在否定の概念こそが、イノベーションのジレンマに対抗する方策ということになろうか。
...などと解釈してみたものの、そんな勇気は持てそうにない。
1. 会社は誰のものか?
イノベーションには大きく二つのものがあるという。「持続的イノベーション」と「破壊的イノベーション」である。持続的イノベーションとは、現存製品に対して改良、改善によって進化していく変革。一般的に目が行きがちなのは、こちらの方であろう。対して、破壊的イノベーションとは、突如として出現する技術によって市場バランスを崩壊させるほどインパクトのある変革である。いわば、前者は連続的変化で、後者は離散的変化である。
連続的であれば予測可能であり、巧みな市場調査が功を奏すだろう。顧客アンケートといった手法もそれなりに機能するはずである。成功してきた企業には、顧客の言葉によく耳を傾けよ!という至極まっとうな思考が働く。お客様は神様です!という企業精神は、老舗から培われてきたもの。そして、技術や製品は、顧客の感覚とともに進化を遂げることになる。経営陣は自らの自由采配によって事業戦略を練ることができると考えがちだが、実はそれは提案でしかなく、顧客や投資家の承認の上で投資行動や資源配分を決定することになる。
しかし、こうした振る舞いは、持続的イノベーションにおいて効果を発揮するものであり、破壊的イノベーションにおいては、むしろ妨げになるという。破壊的イノベーションでは、顧客にも想像できない技術によって市場が形成され、そもそも市場調査が通用しない。既存の市場を侵食し、ひょっとしたら業界ごと頓死させることだってありうる。そこで、破壊的技術の前では、まったく別の価値観を持つ顧客層を開拓する必要があるという。従来の顧客層と企業の間には、長年培われてきた事業戦略によって飼い馴らされてきたところがある。企業が顧客を飼い馴らすのか、顧客が企業を飼い馴らすのか。
市場の激変期においては、企業にも顧客にも価値の多様化を認める必要があり、ますます複雑な事業戦略が求められるだろう。要するに、破壊的イノベーションの局面では、経営陣だけが開拓精神を持っても機能せず、顧客層までも囲い込んで共に開拓精神を持たなければ、企業は成長できないということである。破壊的イノベーションでは、企業側にも顧客側にもワクワクするような空気が欠かせない。会社は誰のものか?と問えば、お客様のもの!というのはそれなりに真理を含んでいるだろう。ただし、売り手にも客を選べるという余地を残しておきたい。
2. 破壊的技術か?持続的技術か?
持続的技術において、率先して技術開発をしてきた企業が、出遅れた企業よりも明らかに優位に立つという事実はないという。実際、二番煎じ、三番煎じが成功したという事例が多い。
一方、破壊的技術においては、先んずる技術力が圧倒的な優位性を持つという。破壊的な価値をもたらすとは、競争相手の予測不能な領域で勝負ができるということである。とはいえ、破壊的イノベーションは、だいたい小さな市場から始まるので、大企業にとって採算がとれない。よって、市場規模に適応した組織を作り、リスクを抑える必要がある。斬新的な取り組みでは、従来の企業精神から逸脱するような、あるいは、ブランドイメージを捨てるような、独立組織を作るのが手っ取り早い。ただ、破壊的イノベーションを企てられる能力の持ち主は、ごくわずかな人たちであろう。一般的に、改革と呼ばれる殆どの施策は、持続的イノベーションに属す。実際、新技術が模倣なのか発明なのか、設計者自身ですら判断することが難しく、特許紛争では、真の発明元が誰かも分からないまま、政治的にうまく振る舞った者が勝利する。
また、持続的と破壊的のどちらを選択するかは、企業の能力にかかわる問題で、ほとんどのケースで選択の余地がない。あるいは、持続的技術なのか破壊的技術なのかを区別することも難しい。
例えば、電気自動車は破壊的技術と言えるだろうか?自動車はそれ自体が凶器となる代物で、最も重要な機能は安全性にある。電気かガソリンかという動力源の違いで、基本的意義までも変えることはできまい。それに、人や企業の立場によっても解釈が変わってくる。エンジン設計者から見れば破壊的技術かもしれないが、組立工員から見れば持続的技術かもしれない。エコ意識の強いユーザから見れば経済的破壊かもしれないが、走り屋から見れば破壊的と言うには物足りないだろう。
では、携帯業界を賑わすスマートフォンは破壊的技術であろうか?市場への投入タイミングと一気に資源を集中させる韓国メーカの勢いを見ると、市場に与えたインパクトは大きい。製造技術としては持続的であっても、マーケティング戦略では、やはり破壊的と言わざるを得ない。
一方で、日本の家電メーカが得意とする液晶技術はどうだろうか?製造技術としては破壊的かもしれないが、マーケティング戦略では、いまいちインパクトに欠け、持続的技術に留まっている。
必ず、良い製品が、良い技術が、良い仕様が、良い規格が、市場を制するわけではないことを、過去にも実証されている。1990年代、ビル・ゲイツが勝利したのは、MicrosoftのOSが他社より優れていたわけではあるまい。GUI環境を先駆けたのは、Macintoshであって、技術者の間ではこちらの方がお洒落とされた。かつて一世風靡したウォークマンにしても、オーディオ機器の携帯化と言えば、なにも破壊的技術には見えないが、市場破壊を企てるには十分なインパクトがあった。もはや、技術力は総合的な観点に立たなければ評価できない。人や企業によってイノベーションに対する見方が多様であれば、事業戦略も多様化するだろうし、そこに解があるのかも分からない。そして、技術における成功と失敗の基準も多様化することになろうか...
3. 品質の観点から見た破壊的イノベーションの威力
いつの時代でも、品質は製品やサービスにとって本質的な意味がある。しかし、破壊的イノベーションでは、市場が未開拓であるがために、どうしても品質が疎かになりがちである。使いこなすユーザでさえ、当初の粗悪な品質に愚痴を垂れることが多い。それでも、破壊的イノベーションに威力があるのは、新たな価値観の可能性を示し、ユーザをワクワクさせることにある。初期ユーザが人柱となって、新たな価値観の伝道師となるわけだ。
対して、成功してきた企業の強みは、長年培われてきた品質管理の技術にある。抱えた顧客も品質には特にうるさい。おまけに、大企業ほど品質で叩かれ、マスコミの餌食とされる。
いくら破壊的な価値観を吹き込んでも、人はすぐに慣れ、すぐに飽き、すぐに退屈病に襲われる。いずれ新興企業も、市場の成長とともに品質向上に力を入れる必要に迫られるだろう。そして、新興企業の看板を降ろし、成功した企業の仲間入り。破壊的に登場した彼らもまた、破壊的に登場する新興モノと競争する運命にある。過去の成功者は、いつでも今日の失敗者となりうる。だが、ずーっと失敗者であり続ければ、いらぬ心配よ。安心してアルコールで自己破壊を続けることができれば、それが幸せというものであろうか...
惚れっぽい酔っ払いは、この宣伝文句にイチコロよ。破壊的技術によって市場に激変が生じると、業界をリードしてきた優良企業はなぜ失敗をするのか?これは、その法則を探求する物語である。
大企業の失敗原因でよく耳にする指摘と言えば、慢心、官僚主義、血族経営の疲弊、長期計画の欠乏、近視眼的な投資、能力や資源の配分ミス、あるいは不運などであろう。確かに、そういう企業もある。しかし、ここではエクセレントカンパニーやビジョナリーカンパニーと呼ばれた企業が対象である。そして、経営陣が正しく振る舞うがために、あるいは、輝かしい成功を収めてきたがゆえに、陥る罠があるという。やはり、その根幹にあるものは技術的な問題であり、イノベーションの問題であったか。尚、ここで言う技術とは、エンジニアリングや製造プロセスに留まらず、マーケティング、投資、マネジメントなど、あらゆるプロセスを統括するものであり、そしてイノベーションとは、これらの革新を意味する。
日本社会の閉塞感は未だ出口が見えず、失われた10年は、いまや20年と囁かれる。多くの日本企業は、高度成長とともに最下層から最上層まで上り詰め、行き場を失っている。かつて、アメリカ経済を牛耳ってきた自動車産業のように。社員たちが業界をリードしてきた大企業に見切りをつけ、ベンチャー的な事業を設立して市場の最下層からやり直そうとする動きもあるにはある。
だが、一般的には、安全志向の強すぎる国民性が指摘される。アメリカの強みは次々に新企業や新産業が出現することにあるが、日本では出現しにくい体質的な問題があるのだろう。企業の伝統にしがみつき、業界体質にしがみつき、官僚体質が蔓延し、技術者たちの移動もあまりない。金融業が新企業や新産業に投資することも少ない。
はたまた、世界人口で2%にも満たない日本人が総額保険料の20%近い保険料を支払い、保険好き!と外国人から皮肉られる始末。欧州では年収500万円程度でも、別荘を持って有意義に生きている人たちがいるというのに、日本では年収1千万円の家庭に子ども手当を与えることが真面目に検討される。年収900万円の所得制限で高校授業料の無償化を訴えたところで、義務教育でもないのに大義名分が見当たらない。日本経済は本当に疲弊しているのか?お金の使い方を知らないだけではないのか?自己投資のやり方が分からないだけではないのか?
ところが、だ。ここに紹介される失敗事例は、そんな愚痴など軽くあしらう。競争感覚を研ぎ澄まし、顧客の意見に注意深く耳を傾け、新技術に積極的に投資し、それでもなお、市場の優位性を失うというのだから。識者たちは、よく時代の変化に対応できないと主張する。だが、ここでは、市場の変化が速かろうが遅かろうが、最先端の電子技術に基づこうが旧式の機械技術に基づこうが、製造業であろうがサービス業であろうが、同様に起こる現象だとしている。やはり、閉塞感を打破するものは、破壊的モデルに縋るしかないのかもしれない。この書は、破壊と創造の原理が存分に味わえる一冊...とでも言っておこうか。ただし、ウォール害(街)式破壊は勘弁したい。
注目したいのは、「バリューネットワーク」と「資源依存理論」という二つの観点から迫っていることである。バリューネットワークは、リチャード・S・ローゼンブルームと著者クレイトン・M・クリステンセンが導入した概念だそうな。大雑把に言えば、価値観の共有ネットワークで、共通するニーズを持つ顧客層と、そのニーズを提供する企業群によって構成される集合体である。この集合体は、自社や既存顧客はもちろん、サプライヤ、流通事業者なども含め、生存価値を認め合う生態系として生息する。そして、彼らの共通価値観が信仰レベルにまで到達すると、破壊的イノベーションに対して無力となる。なにしろ、破壊的イノベーションってやつは、新たな価値観を吹き込むのだから。
また、資源依存理論は、組織の存続に欠かせない人材や資材や資金や組織能力への依存、あるいは、他社や顧客への依存といったあらゆる依存性から分析する立場である。成功してきた企業は、従来の顧客層を捨ててまでのリスクを負うことはできないので、過去の依存性と共存しながら新たな価値観に対処する必要がある。
したがって、本書は優良企業の足場を形成してきたバリューネットワークと資源依存性こそが妨げとなって、業界をリードしてきた地位までも奪われてしまうと論じている。既存組織が大規模なほど改革は難しく、特に破壊的な創造においては無から有を生む方がはるかに容易い。共通価値観によって集合体を形成するのは、自己存在の主張であり、ある種の防衛本能が働いている。人間ってやつは、権益を一度手にすると、それを頑なに守ろうとするために、思考までも硬直化させ、ある種の宗教原理が働く。自分の生活圏や枠組み、そこから少しでもはみ出そうものなら、すべてが失われるんじゃないか?そんな不安に駆られる。
新たな価値観を分析するには、一旦、既存の価値観を否定してみる必要もあろう。つまり、一旦、自己存在を否定してみることである。ただ、新たな価値観が必ずしも正しいとは限らない。価値観のネットワークは、ソーシャルネットワークにも見られる現象で、仮想的な生態系だけに破壊も容易い。この存在否定の概念こそが、イノベーションのジレンマに対抗する方策ということになろうか。
...などと解釈してみたものの、そんな勇気は持てそうにない。
1. 会社は誰のものか?
イノベーションには大きく二つのものがあるという。「持続的イノベーション」と「破壊的イノベーション」である。持続的イノベーションとは、現存製品に対して改良、改善によって進化していく変革。一般的に目が行きがちなのは、こちらの方であろう。対して、破壊的イノベーションとは、突如として出現する技術によって市場バランスを崩壊させるほどインパクトのある変革である。いわば、前者は連続的変化で、後者は離散的変化である。
連続的であれば予測可能であり、巧みな市場調査が功を奏すだろう。顧客アンケートといった手法もそれなりに機能するはずである。成功してきた企業には、顧客の言葉によく耳を傾けよ!という至極まっとうな思考が働く。お客様は神様です!という企業精神は、老舗から培われてきたもの。そして、技術や製品は、顧客の感覚とともに進化を遂げることになる。経営陣は自らの自由采配によって事業戦略を練ることができると考えがちだが、実はそれは提案でしかなく、顧客や投資家の承認の上で投資行動や資源配分を決定することになる。
しかし、こうした振る舞いは、持続的イノベーションにおいて効果を発揮するものであり、破壊的イノベーションにおいては、むしろ妨げになるという。破壊的イノベーションでは、顧客にも想像できない技術によって市場が形成され、そもそも市場調査が通用しない。既存の市場を侵食し、ひょっとしたら業界ごと頓死させることだってありうる。そこで、破壊的技術の前では、まったく別の価値観を持つ顧客層を開拓する必要があるという。従来の顧客層と企業の間には、長年培われてきた事業戦略によって飼い馴らされてきたところがある。企業が顧客を飼い馴らすのか、顧客が企業を飼い馴らすのか。
市場の激変期においては、企業にも顧客にも価値の多様化を認める必要があり、ますます複雑な事業戦略が求められるだろう。要するに、破壊的イノベーションの局面では、経営陣だけが開拓精神を持っても機能せず、顧客層までも囲い込んで共に開拓精神を持たなければ、企業は成長できないということである。破壊的イノベーションでは、企業側にも顧客側にもワクワクするような空気が欠かせない。会社は誰のものか?と問えば、お客様のもの!というのはそれなりに真理を含んでいるだろう。ただし、売り手にも客を選べるという余地を残しておきたい。
2. 破壊的技術か?持続的技術か?
持続的技術において、率先して技術開発をしてきた企業が、出遅れた企業よりも明らかに優位に立つという事実はないという。実際、二番煎じ、三番煎じが成功したという事例が多い。
一方、破壊的技術においては、先んずる技術力が圧倒的な優位性を持つという。破壊的な価値をもたらすとは、競争相手の予測不能な領域で勝負ができるということである。とはいえ、破壊的イノベーションは、だいたい小さな市場から始まるので、大企業にとって採算がとれない。よって、市場規模に適応した組織を作り、リスクを抑える必要がある。斬新的な取り組みでは、従来の企業精神から逸脱するような、あるいは、ブランドイメージを捨てるような、独立組織を作るのが手っ取り早い。ただ、破壊的イノベーションを企てられる能力の持ち主は、ごくわずかな人たちであろう。一般的に、改革と呼ばれる殆どの施策は、持続的イノベーションに属す。実際、新技術が模倣なのか発明なのか、設計者自身ですら判断することが難しく、特許紛争では、真の発明元が誰かも分からないまま、政治的にうまく振る舞った者が勝利する。
また、持続的と破壊的のどちらを選択するかは、企業の能力にかかわる問題で、ほとんどのケースで選択の余地がない。あるいは、持続的技術なのか破壊的技術なのかを区別することも難しい。
例えば、電気自動車は破壊的技術と言えるだろうか?自動車はそれ自体が凶器となる代物で、最も重要な機能は安全性にある。電気かガソリンかという動力源の違いで、基本的意義までも変えることはできまい。それに、人や企業の立場によっても解釈が変わってくる。エンジン設計者から見れば破壊的技術かもしれないが、組立工員から見れば持続的技術かもしれない。エコ意識の強いユーザから見れば経済的破壊かもしれないが、走り屋から見れば破壊的と言うには物足りないだろう。
では、携帯業界を賑わすスマートフォンは破壊的技術であろうか?市場への投入タイミングと一気に資源を集中させる韓国メーカの勢いを見ると、市場に与えたインパクトは大きい。製造技術としては持続的であっても、マーケティング戦略では、やはり破壊的と言わざるを得ない。
一方で、日本の家電メーカが得意とする液晶技術はどうだろうか?製造技術としては破壊的かもしれないが、マーケティング戦略では、いまいちインパクトに欠け、持続的技術に留まっている。
必ず、良い製品が、良い技術が、良い仕様が、良い規格が、市場を制するわけではないことを、過去にも実証されている。1990年代、ビル・ゲイツが勝利したのは、MicrosoftのOSが他社より優れていたわけではあるまい。GUI環境を先駆けたのは、Macintoshであって、技術者の間ではこちらの方がお洒落とされた。かつて一世風靡したウォークマンにしても、オーディオ機器の携帯化と言えば、なにも破壊的技術には見えないが、市場破壊を企てるには十分なインパクトがあった。もはや、技術力は総合的な観点に立たなければ評価できない。人や企業によってイノベーションに対する見方が多様であれば、事業戦略も多様化するだろうし、そこに解があるのかも分からない。そして、技術における成功と失敗の基準も多様化することになろうか...
3. 品質の観点から見た破壊的イノベーションの威力
いつの時代でも、品質は製品やサービスにとって本質的な意味がある。しかし、破壊的イノベーションでは、市場が未開拓であるがために、どうしても品質が疎かになりがちである。使いこなすユーザでさえ、当初の粗悪な品質に愚痴を垂れることが多い。それでも、破壊的イノベーションに威力があるのは、新たな価値観の可能性を示し、ユーザをワクワクさせることにある。初期ユーザが人柱となって、新たな価値観の伝道師となるわけだ。
対して、成功してきた企業の強みは、長年培われてきた品質管理の技術にある。抱えた顧客も品質には特にうるさい。おまけに、大企業ほど品質で叩かれ、マスコミの餌食とされる。
いくら破壊的な価値観を吹き込んでも、人はすぐに慣れ、すぐに飽き、すぐに退屈病に襲われる。いずれ新興企業も、市場の成長とともに品質向上に力を入れる必要に迫られるだろう。そして、新興企業の看板を降ろし、成功した企業の仲間入り。破壊的に登場した彼らもまた、破壊的に登場する新興モノと競争する運命にある。過去の成功者は、いつでも今日の失敗者となりうる。だが、ずーっと失敗者であり続ければ、いらぬ心配よ。安心してアルコールで自己破壊を続けることができれば、それが幸せというものであろうか...
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