2015-08-02

"無縁・公界・楽" 網野善彦 著

無縁(むえん)、公界(くがい)、楽(らく)とは、およそ結びつきそうにない概念であるが、本書は、こいつらを思想観念において見事に抽象化して見せる。いずれも仏教用語であることは想像に難くないが、もっと人間根源的なものがありそうである。
「無縁の原理は、未開、文明を問わず、世界の諸民族のすべてに共通して存在し、作用しつづけてきた、と私は考える。その意味で、これは人間の本質に深く関連しており、この原理そのものの現象形態、作用の仕方の変遷を辿ることによって、これまでいわれてきた世界史の基本法則とは、異なる次元で、人類史、世界史の基本法則をとらえることが可能となる。」

歴史学者網野善彦氏は、教鞭をとっていた頃、学生諸君の二つの質問に悩まされてきたことを懐かしそうに語ってくれる。一つは、いつ滅んでもおかしくないほど衰弱した天皇家が存続できたのはなぜか?二つは、平安末期から鎌倉という時代にのみ、優れた宗教家を輩出したのはなぜか?この二つの問いを考え続けた結果の一部を、一つの試論としてまとめたのが本書だという。だからといって、明快な答えが得られると期待してはいけない。どちらも素朴な疑問でありながら、誰一人として完全な解答を提示できない難題であろうから...
歴史研究では、政治の力関係や権力の側から分析するのが、ありふれた考え方としてあるようだ。どんな学問でも、華々しく目立つ側を追いかけたがるものである。本書は、あえて歴史の裏舞台、すなわち風俗や奴婢下人の側から考察を試みている。百姓という用語を一つとっても、一般的に農民と同一視されるが、実に多様な生活様式が存在したことを物語ってくれる。こうしたマイナーな視点を与えてくれる書は貴重であろうし、王道よりも邪道を行くアル中ハイマーにとって刺激的だ。
「実際、こうした非農業民の中で、最も数多く、農業民に十分比肩しうるだけの役割を日本の歴史の中で果したことの間違いない海民(漁民、塩業民、水上運輸に携わった人々、等々)について、現在、専門的に研究している狭義の歴史家が何人いるのか。五指にも満たない、と私は考えているが、農業民専門の歴史家の数と、この数ほどのひらきが、現実の農業民と海民との間に果たしてあるのだろうか。だれしも否ということは間違いない。にも拘らず、これが現実なのである。有主、有縁の世界と、無主、無縁の世界についても全く同様の関係がある。」
注目したいのは、江戸時代に流行った縁切寺、平安末期から戦国期にかけて出現した市(いち)、あるいは遍歴する職人や芸能民たちの慣習を、無縁という共通精神において説明してくれることである。さらに、古代西洋の聖域アジールと結びつけている点も見逃せない。こうした社会現象の共通した動機には、権力や所有の支配、あるいは主従関係から逃れようとしてきた人々の叫びがある。その根源を自由思想と未開人に求めるあたりは、古来、哲学者が口にしてきた人間の自然状態とも言うべきものを彷彿させる...

ところで、現世に絶望してもなお生きる道があるとすれば、それはどこにあろうか。真のアウトローの進むべき道、俗権力の及ばない冥府魔道、人生の目指すべき普遍の真理... こうした修行の旅路が「無縁」の原理として働き、人間としての尊厳を保ちうる。だが、縁切寺に駆け込んだところで、同じ境遇にある者たちの社会が待っており、集団生活のあるところに逃れられない掟が居座ってやがる。結局、公共の場、すなわち「公界」から逃れることはできないではないか。アリストテレスは言った... 人間は本性上ポリス的な人間である、と...
ならば、真の自由はどこにあるというのか。誰も手出しできないアンタッチャブルな聖域はいったいどこに。もはや、孤独と集団性の双方を凌駕するしかない。孔子は言った... 吾れ十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順がう、七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず、と...
聖人として完成することができれば、そこに聖なる喜び、すなわち「楽」があるとでも言うのか。そんな超人的な姿を、自分自身に描くことは到底無理な話よ。人生の旅路がニーチェの永劫回帰ごときものであるとすれば、微分学の原理に支配されていると言わざるを得ない。つまり、永遠に近づこうとすることは、永遠に到達できないことを意味する、と...
宗教と哲学は似ても似つかぬものだが、思考の発祥(発症)を辿ると同じに見えてくる。まず、どちらもどこか狂ってやがる。一方は救済を求め、一方は真理を求め、どちらも心地良いときた。違いは、見返りを求めるか求めないかであろうか。いや、人間ってやつは、ちっぽけな努力ですら報われようとするではないか。真理を探求する旅にしても、知性を求め、自己の居場所を求めているに過ぎない。無条件に信じられるかどうかなんて違いも、好みの問題でしかないのでは...
それでも一つ言えることは、根拠のない思想を押し付けられる行為が、いかに苦痛であるか!精神活動が受動的か能動的かの違いは大きい。精神の持ち主は誰しも、どこかに心の隙間を抱えており、幸福の押し売りはそこに入り込むので、自分が不幸だと思っている人ほど洗脳されやすい。いや、不幸を他のせいにしている人ほど。
いずれにせよ人間は信仰の対象を必要とするであろう。これからもずっと。心の拠り所となる何かを。世間では、信頼や信用などと呼ばれるやつか。そして、見返りを求めることから自己を解放しなければ、俗欲に幽閉され続けるであろう...

1. エンガチョと無縁の原理
エンガチョとは、方言かと思ったら、日本全国で見られる民俗風習だそうな。「エン」とは縁のことで、それは縁切りの呪い。両手の親指と人差指で鎖の輪をつくり、誰かに、縁切った!と言って鎖をきってもらうと、エンガチョから解放される。このガキの遊びに、穢れの感染を防ぐための特別な仕草が仕組まれている。生活に余裕が出てくると、除け者や嫌われ者といった意地悪な気持ちが混入し、子供心に深刻な影響を与えることもある。
一方で、仲間はずれの存在が魔力を持つと、これを反発心に変えて逞しく生きることを学び、自立という聖なる力を与える。鬼ごっごにも、社会組織を相手取った反発心を育む機構が組み込まれている。鬼をなすりつけるとは、まさに責任転嫁の原理!子供たちは、既に自由精神がなんであるかを本能的に察知し、それを社会に組み込む術を会得しているようだ。大人の方が子供から学ぶことが多いのも道理である。大人とは、脂ぎった知識を詰め込み過ぎて人間の本性を見失った姿とでもしておこうか。
自由精神は、無縁の原理と相性がよく、独立心を育み、自立、自律、自給自足を目指し、自力救済の精神を働かせる。それが個人レベルか、集団レベルかは別にして。
「自由と平和は、あくまでも原始以来のそれであり、その実体は時代とともに衰弱し、真の意味で自覚された自由と平和と平等の思想を自らの胎内から生み落とすとともに滅びていく。だからこそ、世俗の世界から、この自由と平和の世界に入ることはできても、その逆の道を戻ることは次第に困難、かつときには絶望的と思えるほどになっていくのである。」

2. 縁切寺と自由精神
江戸時代、女性には離婚権がなく、三行半の離縁状を書くのは夫の権利であった。とはいえ、事実上の離婚という形はあったようである。例えば、夫が妻の同意を得ずに質入れするとかで、妻が呆れて親元に帰って、そのまま数年放置すると、妻の離婚の意志は認められたようである。実家に帰らせてもらいます!とは、その名残であろうか。縁切寺への駆け込みもその一つで、積極的で最も有効な手段だったという。役人や主人などの第三者から、三行半を書くように説得されたりと。現在でも、ドメスティックバイオレンスの類いで、駆込寺のような場所を必要とする。三行半とは、女性がつきつけるものというイメージがあるが、やはり愛想をつかすのは女性の方であろうか...
さて、鎌倉松ヶ岡の東慶寺と、上野徳川の満徳寺が、縁切寺であったことは広く知られているそうな。離婚を望む女性が、草履や櫛など身につけたものを門内に投げ入れると、追手は手出しできなくなるという寺法に支えられていたという。東慶寺は尼寺で、比丘尼として三年間奉公すると、縁切りの効果が得られるというもの。将軍吉宗が公事方御定書を制定する以前、東慶寺や満徳寺だけでなく、かなりの尼寺が、こうした機能をもっていたと推定している学者もいるらしい。政治権力や法律では制圧できない人間の精神領域、すなわち救済の道というものが自然に出現するとは、人間社会には計り知れない柔軟な機能が具わっている、と言わねばなるまい。アングラ社会もまたその受け皿としての機能がある。抑圧には必ず反抗心が生じる。どこかに救世主が現れ、アジールのような避難場所を提供する。
実際、どんなに迫害を受けても、キリスト教もユダヤ教も生き長らえた。どんなに強力な権力者であっても、人間社会から自由精神を根絶することは不可能であったばかりか、むしろ専制権力の方が自由精神によって打倒されてきた。権力の及ばない社会が事実上存在することに、幕府も不愉快であったに違いない。しかし、完全に消し去ることができないとすれば、公認して監視下に置く方が支配しやすい。慈悲深い将軍様という評判を得ることもできよう。公認とは特権であり、そこに大名たちが癒着することも大いに考えられる。
実際、幕府の制度も緩和され、東慶寺の機能を認める方向へ転換していったようである。東慶寺も満徳寺も、徳川氏の手厚い保護を受け、どちらも由緒ある寺として知られる。慣習力の強さが、政治制度に事実上の柔軟性を持たせることはあるだろう。社会の補助機関として機能した事例には、寺子屋という教育施設もある。いずれも政治権力とは無関係に自発的に生じた成果だ。親は無くとも子は育つと言うが、政治は無くとも社会は育つということか...

3. 宗教法人と無縁所
禅昌寺は、防長五山の一つに数えられ、法幢山禅昌護国禅寺と言われる寺格の高い寺だそうな。加賀大乗寺の明峰和尚の法系を継ぐ慶屋定紹(けいおくじょうしょう)が開山し、慶屋を崇敬する守護大内義弘は荘園を寄進しようとしたが、慶屋はこれを辞退したという。田畑を持たず、ただ国中を遍歴し、托鉢、乞食を行いたいとの願いを、大内義弘は快く認めたという。以来、この寺は開山の教えを守り、田畑を持たず、寺僧たちが夏と秋の年二回、托鉢によって経済を支えるようになったとか。その後、意志を継いだ毛利元就が、その特権を保証する。ここにも、田畑の寄進を俗権力から受けない無縁の原理が働いている。
一方、若狭の正昭院が、鋳造師、猿楽、山伏などの職人や芸能民から零細な田畑の寄進を受けていることと相通じるとしている。托鉢僧もある種の芸能民で、職人や芸能とは切り離せない関係にあるという。中世、遍歴する職人の中に、関渡津泊(かんとしんぱく)の自由通行を認められ、津料などの交通免除の特権を与えられた人々が多く見出されるとか。要するに関所を自由に通れる特権の保証である。禅昌寺の托鉢僧だけでなく、その荷物までも通行の自由が保証されるとなれば、禅昌寺は俗世間から隔離された無縁所となる。
銭も米も、無縁所に駆け込めば税が免除されるとは、これいかに?寄進された田畑もまた無縁の土地となり、もちろんこの土地の売却益も無縁となり、買った者もうまいことやれば無縁所として引き継ぐことができ、誰からも干渉を受けない土地があちこちに出現する。子孫が土地を受け継ぎ、世襲的に権力の及ばない聖域、まさにアンタッチャブル!身も心も金も土地も洗浄されるってか?
現在でも宗教法人は課税対象にならない収入で賄われ、政治団体への寄付も同一視される。マネーロンダリングも、市場を通じて政治権力の及ばない無縁所を経由するとすれば、同じ原理か。なるほど、権力者は無縁所を禁止するよりも、利用する方がはるかに得というわけか。他の寺がたとえ無縁所であったという証拠がなくても、寺法が明示されていなくても、暗黙的にそうなる可能性はある。むしろ、無縁所や寺法を明確に規定せず、証拠を残さないようにするだろう。
また、弱者の弱みにつけこんで集金力を発揮するだけに、これが金融屋へ変貌する可能性がある。徳政令は、宗教屋がやる高利貸の擁護という見方もできるかもしれない。おまけに、所有が完全に保証され、徳政令も及ばないときた。宗教心に目覚めた偉大な坊主が数えるほどしか出現しない一方で、宗教心に憑かれて俗欲を増幅させる坊主は数知れず。坊主丸儲けの仕組みは、無縁という無限の縁深いところから発しているのかもしれん...

4. 歓進聖の意義と天皇家の存続
阿弥陀寺の清玉は、東大寺大仏殿を再興すべく歓進上人となった。三好三人衆が立て篭もると、松永久秀が東大寺を焼き討ち。その再興のために諸国の助縁を歓進する活動を始め、松永久秀も三好長逸も援助を約束した。この事業の援助には、毛利元就、武田信玄、徳川家康、そして、織田信長ですら名を連ねているという。歓進が聖なる活動であるがゆえに、大名間の遺恨関係をも無縁にできたということはあるかもしれない。とはいえ、歓進聖の特権を与えられたのは優れた坊主だけではあるまい。無縁の特権を持って遍歴する坊主には、裏社会との結びつきが臭う。
ところで、ここには天皇家と無縁の関係に通ずるものを感じる。本書には提示されないが... 平氏や源氏が武家の頭領とはいえ、血筋を辿れば公家に行き着く。武家が軍事行動をする度に天皇の勅命を欲するというのは、気分の問題もあろう。南北朝時代、足利家は後醍醐天皇を吉野(南朝)に追いやって、京(北朝)に光明天皇を擁立した。民衆を支配するのに天皇の威厳が必要とは思えないが、長い時間をかけて育まれてきた伝統の権威を滅ぼしたとあっては、後ろめたさがあるのか。天皇家と将軍家の違いには、権力者にとって精神的に計り知れない重みがあるようだ。伝統の力が正当性を与えるとすれば、慣習力、恐るべし!
ちなみに、比叡山を平然と焼き討ちにした信長が、もう少し長生きしていたらどうなっていたか?などと疑問を持った時、本能寺の変の黒幕は誰か?という陰謀説が未だに燻る。
それはさておき、現在ですら、皇室の人々を「様」付けで呼ぶ風潮がある。せめて、「さん」づけぐらいにして、気楽にさせてやってはどうかと思うが、当人たちはどう思っているのだろうか?もう少し自由に発言する場を与える方が、民主主義時代の天皇として意義があるように思える。永田町が政治利用しようと待ち構えている猛者たちの溜まり場であることは否めない。ならば、住まいを京へ戻すとか...

5. 自由都市と排他原理
中世には、惣(そう)と呼ばれる自治体や共同体が、点在したようである。本書は、この組織の基本構成を「老若 = 公界」という法則で語っている。昔々、長老が集団の掟や知恵袋として機能した。学ぶ機会が平等でない時代、長く生き、多くを経験した者の意見が重宝される。ここには、老者と若衆で組織される意思統一された組織があったことを物語っている。年功序列ではあるにしても。
意外にも、中世の自治組織には、世襲や血縁の贔屓などとの結びつきの弱い事例が、いくつもあるようだ。多数決の制度は無縁の原理に支えられていたという。民主主義の原理は、血縁や地元出身などで支持するような組織では機能しない。ましてや利益供与など。その意味で、真の自治体であったということらしい。
例えば、南伊勢の大湊は、南北朝時代には東国への海上交通の発着地として知られた要津で、戦国時代には会合衆によって運営された自治都市であったという。しかも、公界であったという見方をしている。役人が、すべての地域に目を行き届かせるのは不可能であろうから、特に僻地ではある程度の自治は認められよう。それでも、大湊が本格的な自治都市があったことは興味深い。
自由都市が経済の拠点になりやすいのも確かで、商人の町といえば堺である。宣教師ガスパル・ヴィレラは、本国に「耶蘇会士日本通信」という書簡を送っているという。キリスト教徒にとって堺の町より安全な場所はないと、特別な思いを報告しているとか。ルイス・フロイスは、東洋のベニスと呼んだ。この町が自由と平等を保ち得たのは、会合衆の富力、三好家、松永家など大名間の分裂抗争を利用した政略による。世渡り上手といえば、そうかもしれないが、本書は、その根底に公界、無縁の原理があると指摘している。もっというなら、自由精神の底力である。当初、信長にも屈しなかった町が、結局、秀吉、家康に屈して、彼らの庇護の下で、自由と平和を保つことになる。
だが、自由精神までも放棄したわけではあるまい。権力側もある程度の自治を容認し、互いに妥協を受け入れたと見るべきであろう。博多もまた秀吉の庇護の下で自由都市として生き長らえた。信長のように楽市楽座の特権を与えて、経済力を後ろ盾にした勢力拡大は、まさに自由の力を利用した政略である。
しかしながら、一旦、全国統一の目処が立つと、支配権力は反対方向に舵を切る。そして、堺の精神を代表する千利休は、秀吉によって死を与えられた。専制権力は、自由と平等を利用して民衆を飼いならし、不動の権力となった途端に支配欲の本性を剥き出しにする。現在とて、経済政策をうまくやって支持率を不動のものとすれば、すぐに本性をむき出しにする。鎖国政策を用いた徳川幕府ですら、長崎に特別な自治権を与えた。キリシタン迫害に幻滅し、長崎へ向かった人も少なくない。
ところで、自由精神から育まれた共同体といえども、やはり排他原理が働く。縄張り意識ってやつだ。組織の運営哲学が共有できなければ、自由や平等の精神が却って秩序を乱す。現在でも、うまく機能しているプロジェクトチームは、価値観や哲学を共有しながら、仲間内に合言葉が生まれるといった現象を見かける。優れた集団に属しているという自負心が、ある種の排他原理を働かせるのである。それは、イジメなどという劣悪な意思とは真逆な発想で、単に仲間が欲しいという思惑で無理やり集まった結果でもない。
キリスト教的な秘密主義にしても、俗界と距離を置く場所を提供しながら、そこに真の自由の場を求めたはず。ジェームズ・ヒルトンが記したシャングリ・ラのように、森鴎外が記した寒山拾得のように、俗人の目には晒してはならない神聖な領域が、自由都市には必要なのかもしれん...

2015-07-26

"経済学および課税の原理(上/下)" David Ricardo 著

リカードの比較優位論に感服したのは、十年ぐらい前であろうか。それは、経済学の相対性理論と言うべきものである。自由貿易の力学は、単純な国力の比較や経済的合理性だけでは説明できない。サミュエルソンは、この分野の教科書とも言うべき著作「経済学」の中で、女性弁護士とタイピストの喩え話で説明した。有能な人材が一人ですべての仕事を背負うことが、如何に不合理であるかを。ここに、なぜ性別が関係するのかは知らんよ...
さて、経済学の使命とは、なんであろう?人間社会は、すべての人口を養うための経済規模を必要とする。まずこれを大前提とするべきであろう。その上で、すべての生産を国や企業が独占的に賄うことが本当に合理的なのか?リカードは、生産効率性よりも労働分配を優先する立場を表明し、マルサスの人口論を考察しながら国際分業の意義を唱える。労働に価値を求め、経済規模に相当する労働人口とその収入源を確保する必要があるというわけだ。
ベンサムの功利主義風に言えば、最大多数の最大幸福を目指すために、労働価値の最大化を求める... といったところであろうか。ダーウィンの自然淘汰説風に言えば、地上で大量の生命を養うために、弱肉強食ではなく経済活動の多様性を選択する... といったところであろうか。
価値の相対性原理は、国際貿易にとどまらず、その着眼点は階級間における地代、利潤、賃金、さらに租税に及び、経済と課税の双方から価値と富の違いを考察している。そして、地主、資本家、労働者の三階級の分配比率を決定することこそ、経済学の使命としている。
「大地(アース)の生産物... つまり労働と機械と資本とを結合して使用することによって、地表からとり出されるすべての物は、社会の三階級の間で、すなわち土地の所有者と、その耕作に必要な資財つまり資本の所有者と、その勤労によって土地を耕作する労働者との間で分けられる。」
経済学は、伝統的に需要と供給の間で生じる貨幣価値の力学を問うてきた。だが、実のところ社会的合理性を問うには、課税の在り方のほうがずっと本質的なのかもしれない。ただし、商品価格の決定では、需要や供給の関係で決まるのではなく、生産費用で究極的には労働量で決まるとしており、生産側のコストに偏っている点で古臭い。この時代の経済理論だけあって、すべての人間行動が経済的合理性に従う、という考えが前提にあるのは否めない...

本書は、アダム・スミスやマルサスを論駁の相手としながらも称える文面が目立ち、むしろ継承する立場に映る。当時、オランダは自由貿易を武器に資本蓄積の高度に進んだ最先進国。しかも、イギリス国債で大財産を所有していたという。七年戦争中、オランダは中立政策をとり、イギリスの戦時国債に応募できる立場にあり、イギリスへの投資ブームが巻き起こったという。この時代、オランダ人だった父エイブラハムは、イギリスを好きになり帰化したそうな。リカードが、自由競争主義に立脚しているのは、父の影響であろうか。
一方で、イングランド銀行への痛烈な批判が込められている。銀行はもはや不要機関とまでは言わないにしても、反社会分子のおいらにはそう聞こえてくる。当時、イングランド銀行は紙幣発行権などで政府預金から莫大な利潤を獲得していたという。貨幣の発行権は中央銀行にあるからこそ政府との距離が重要となるが、現在でも、政権が中央銀行への影響力を強めようとしている。
また、ナポレオン戦争とも重なり、フランス国債の償却にもデリケートに対応しなければならない。ところが、戦時中の大陸封鎖令の反動で、戦後、安価な穀物の流入によって農業恐慌に見舞われたという。地主階級は穀物の高値の維持と地代の確保に走ったとか。地主を重商主義の有害と同じだと断じている。重商主義者の思惑は、海外競争を禁止することによって国内市場で商品価格を引き上げることにあった。
こうした時代背景から比較優位論は、自由貿易論と 国際分業論の両面から構築されたようである。自由貿易によって利潤が上がるのは市場が拡大した結果ではなく、相対的な相互利潤の上昇としている。イギリス資本主義の下で世界工場を建設し、後進国を農業国として分業させる、などと言ってしまえば、ある種の植民地構想にも映る。
とはいえ、現在だって労働賃金の低い国が生産を担い、付加価値の高い部分を多国籍企業が独占するという構図がある。世界規模での分業体制という意味では、継承されてきたのは確かであろう...

ところで、ヨーロッパの伝統に「十分の一税」なるものがあるそうな。寄付金や喜捨金などの宗教的な慣習で、古くは主に耕作物に対する租税だったという。固定税率であれば経済状況に応じて有利にも不利にも転ぶが、施しの類いにそんな感覚は基本的にない。リカードは、階級間の分配率においても不変の価値尺度を求めている節があるが、経済原理に立脚すれば、必然的に相対的変動に辿り着くだろう。ただ、宗教法人や政治団体には、課税対象にならない収入で賄われる組織が実に多い。幸福の提供書が不幸では説得力がない。だから、ベンツを乗り回して幸福に見せるのか?なるほど、十一(といち)の原理というわけか。
... などと税に考察が及ぶと、愚痴が愚痴を呼ぶ。したがって、本記事がリカードの意図から逸脱していることは保証しよう...

1. 公平感と面倒感
人間社会には、生まれながらにして義務付けられる課税という奇跡的なシステムがある。無条件で徴収できる正当性は、国家体制や社会サービスを維持するため、ひいては家族や自分のためであろう。逆に言うと、基本的人権が保障されなければ、なんの正当性も持たないことになり、国家そのものの意義を失うであろう。課税対象が全国民に及ぶとなると、まずもって求められる観念は公平ということになる。これは民主主義の根源的な動機であり、社会的合理性と結びつく合法性、あるいは正義の観念もここに発する。
しかしながら、租税は公平ではなく、公平感に支えられている。つまり、気分よ!世間には常に、金持ちからふんだくれ!という感情論が燻る。政治家どもの不正行為にしても、庶民層の生活感との相対的関係から暴露される。なので、経済政策さえうまくやっていれば、少々の不正や少々酷い政策でも世論は黙ってくれる、という意識が強い。
一億総中流思想が蔓延した時代に慣習化された帳簿上の問題は、今の感覚ではスキャンダル沙汰になる。しかも、そこに後援会や政治団体が癒着し、見返りを求めれば、たかりの集団と化すは必定。ましてや世襲的に受け継がれてきた手法だけに、疑問すら感じない。この手の爆弾を抱えていない政治家は一人もいないだろう。公平感とは、いかにバレない程度にうまくやるかってことだ。
また、会計上の処理では、総合課税と分離課税とを区別する仕組みがある。分離課税は源泉徴収とは別枠なので、サラリー収入以外に所得のある人は少しばかり多目に課税されることになる。ただし、別所得があるからといって所得が多いとは限らないので、累進課税による公平感が保たれるかは別問題である。税率を少しばかり抑えるといった細やかな心遣いも見られるものの、銀行利息では分離課税が適用され、僅かな預貯金から絞りとってどうするの?と思ったりもする。それでも分離課税が有難いのは、確定申告が不要なこと。近年、確定申告不要制度が適用され、年金受給者は面倒な手続きから解放され、年寄りは助かるだろう。税務署の混雑が緩和されるのもありがたい。
生計の許容範囲において、精神的合理性と経済的合理性は常に天秤にかけられ、面倒!という動機は、経済的合理性よりも人間行動に大きく影響を与える。面倒なことは、国や行政機関がやることに間違いがあるはずがない!と信じることで簡単に打倒できる。納付が自動的になされるならば、還付も自動的にやってもらいたいものだが、こちらの方は申告が必要とはこれ如何に?公平感と面倒感は、どちらもボッタクリの原理から発しているというわけか。
かつて配当所得も総合課税の対象であったが、申告分離課税が選択できるようになり面倒な手続きから解放された。しかし、税的に有利になるかは別の話で、NISA非課税枠などと合わせて長期的な戦略が必要となる。価値観や生活様式が多様化すれば、収入源も複雑化し、公平感を保つのも一筋縄ではいかない。そして、ますます自己判断、自己管理が求められる。民主主義社会とは、面倒を助長するシステムなのかもしれん...

2. 労働価値と労働量
アダム・スミスは、価値に二つの意味を持たせたという。物の効用を示す使用価値と、財貨の購買力を示す交換価値である。ただし、使用価値を持つものが、まったく交換価値をもたらさない場合もあれば、交換価値をもたらすものが、まったく使用価値を持たない場合もある。スミスが生産に投下された労働に価値を求めたのは確かであろう。生産に寄与しない労働には価値がないということになる。
対して、リカードは主に二つの性質に意味を持たせている。希少性と労働量である。空気は大いに有用でありながら金にはならないが、環境汚染が進めば空気も希少価値を持ち、いずれ金になる時代が来るかもしれない。さらに、労働価値にも希少性を結びつけていると解釈できなくもない。つまり、専門性や特殊技術といったものである。
経済学は、伝統的に交換価値を崇めてきた。楽をして儲ける!最小努力で最大利益を得る!これが経済人の論理だ。貨幣換算できるから交換作用をもたらすわけで、貨幣換算できないものには意味がないというわけだ。リカードは、この風潮にちょっと待ったをかける。
「ある商品の価値、すなわちこの商品と交換される他のなんらかの商品の分量は、その生産に必要な相対的労働量に依存するのであって、その労働に対して支払われる対価の大小に依存するのではない。」
では、労働量とはなんであろうか?無駄な労働もあれば、社会に役立つ労働もあり、その評価は人の生き方に関わる。ましてや物理的な仕事量で計測できるものではなく、機械的な仕事をロボットにやらせれば人間は楽ができ、めでたしめでたし!というわけにもいかない。労働による対価が生計を支えていることに変わりはないのだから。
仕事を生き甲斐にできる人が、世間にどれだけいるというのか?労働価値説の類いは、アダム・スミスやリカード、そしてマルクスも唱えているが、ここに答えを見出せない限り、彼らは何を計測しようというのか?
しかしながら、労働量を雇用量と置き換えれば、重要な指標となろう。例えば、ワークシェアリングという手法で雇用を安定させる考え方は、これに近い。雇用量は、人口とも関わるデリケートな問題で、社会の安定や治安にも深く関わる。技術進歩で生産効率が高まればサービス業に移動し、医学の進歩で寿命が延びれば年齢分布が変化して福祉事業に移動し、産業の人口分布にも変化が見られる。経済的な統計情報がどこまで信用できるかは知らないが、GDPは国力の指標として世間に馴染んでいるし、格差指数、人権指数、平和度指数、幸福度数などで国別に順位をつけられると熱くなる有識者は少なくない。そして、あの国よりはマシよ!などと慰める。人間は、国際標準ってやつに弱い。自由や平等の量、正義や道徳の度合いで順位がつけられるとは到底思えないが、確かに面白い試みではある。
はたまた企業価値に目を向ければ、資産価値の評価で流動資産と固定資産とで区別され、無形資産なんて名目もある。固定資産は減価償却の手法で残存価値を決定するわけだが、事実上、使い物にならない資産もあれば、償却済みでも愛用され続ける資産もある。つまり、会計上の問題でしかない。投資家が重視するのは、目に見えて分かるキャッシュフローの方であろう。いずれにせよ、数値化の罠に嵌らないようにしたい。
実際、生産における限界費用や労働賃金が限りなくゼロになっても経済が成り立つという現象がある。フリー経済では、貨幣に依存しない価値の創出が見られる。労働量の概念はリカードの時代とは、だいぶ違うようだ...

3. 地主と地代
そもそも地代とは、どこから生じるのだろうか?ロビンソン物語のように、所有権の存在しない時代、ここは俺のものだ!と言って柵を作った者が編み出した概念か。そして、第三者が土地を使用したければ、地代を払え!ってか...
地代は、しばしば利子と混同されるという。確かに巷では、みかじめ料ってものがあると聞く。あるいは、土地の登記には時効の概念があり、使用者が事実上の所有者になりうるとすれば、所有権が減価償却されるようなものか。
本書は、土地の生産性の違いで、地代が生じるとしている。安価で生産性の高い土地で生産する方が有利であることは確かで、地代が利子の代わりを演じているようにも見える。途上国で穀物を生産すれば、賃金も安いし生産合理性が高い。本土の地主を優遇する税制は、労働賃金の高騰によって市場価値を歪めることになりそうだ。

2015-07-19

"ロビンソン・クルーソー(上/下)" Daniel Defoe 著

童心に返りたいという願いは、ガリヴァーの冒険物語(前々記事)を試してもダメ!アリスのファンタジー物語(前記事)に縋ってもダメ!いまや魂は根腐れを起こし、悪臭を放ってやがる。そして、ロビンソン物語でダメを押すことに...
とはいえ当初から、政治的、経済的、宗教的な意味合いが強いことは承知していた。多くの経済学系の書で扱われ、ロビンソンの人物像を経済人の特徴と重ねているのだから。実際、無人島から生まれる経済観念は、偉大な哲学者たちが唱えてきた「自然状態」から生起する人間学を物語っている。おまけに、ジャーナリストらしい社会風刺を効かせ、精神破綻者には却って心地良い。ロビンソン物語は、ダニエル・デフォー自身を経済人の原型になぞらえ、彼自身の倫理観、社会観を語った作品と言えよう。
尚、本書は平井正穂訳版(岩波文庫)であり、第一部「ロビンソン・クルーソーの生涯と冒険」、第二部「ロビンソン・クルーソーのその後の冒険」が収録される。さらに、第三部に「反省録」というものがあるそうな。ほとんど研究者しか読まない代物らしい。そこには、こう綴られるという。
「物語があってそこから教訓が作られるのではなくて、教訓があってそこから物語は作られてゆく...」

人間の知は、好奇心に支えられている。自分自身が素直に劣っていることを認められるからこそ、何でも問いかけられる。子供が最も素朴な哲学者と言われる所以だ。好奇心のないところに知識を詰め込んでも、思考の柔軟性が失われる。こうした原理に大人も子供もないはずだが、大人ってやつは実に脂ぎった社会の生息物で、虚栄心や羞恥心の塊と化す、ある種の変異体とでもしておこうか。報酬や名声といった見返りがなければ、何もできないのだから。それでもなお差し迫った危機に遭遇すると、緊迫感の中から好奇心を覚醒させることがある。好奇心と緊迫感は、冒険にはどちらも欠かすことのできない情念だ。最も大事なことは人生を楽しむこと、その過程において希望も絶望も欠かすことはできない。そして、放浪癖旺盛なロビンソンの人生訓がこれだ。
「それ自体として当然必死になって避けようとする災がある、もしそれに陥ったがさいご、命取りにもなりかねまじき災だ。ところが、じつはそれがまさしく救いの道であり、現在の苦難から抜けでる唯一の手段であることが、人生途上、いかに多いことか...」

どんなに飢えようとも、どんなに窮地に追い込まれようとも、けして人間としての誇りを忘れない... ということが如何に困難であるか。飢餓や蛮人の恐怖に晒されると、何をしでかすか分かったもんじゃない。異民族や異教徒を野蛮人やバルバロイなどと呼ぶ習性は、どこの社会にも歴史的に見て取れる。はたしてどちらが野蛮なのやら。恐怖心という盲目的な感情は、臆病どころか、敵対心を煽り、ますます攻撃性をます。あらゆる残虐行為は、恐怖心の慰めから発すると言ってもいい。
ロビンソンは、宗教に頼ることなく自然な信仰を発し、神なき孤独から神ある孤独へと導く。そして、神の意志に従うことで義務を生起させ、そこに慣習が生まれる。孤島の生活では時間は余るほどあり、ゆっくりと人生の意義を考えることができ、根気のいる仕事も徹底的にやれる。天文に通ずるもよし、聖書を究めるもよし。天の配剤とは、退屈病から発するものであったか。哲学とは、まさしく暇人の学問!そして、人生の意義を、自給自足、自立、自律に求めずにはいられない。これが自由精神の源泉であろうか。
また、日記をつけることにも、大きな意義を与える。過去の記録が自分を慰めるための手段となるならば、歴史を残すのも人類の慰めであろうか。こうしてブログを書くのも、自慰行為に過ぎない。
ロビンソンは、あらゆる仕事や経験、あるいは人間関係や人間的成長など、すべての貸し借りを対照的に記録していく。そして最後に、自分の人生はプラスであったかマイナスであったかを問い続け... 72歳にしてようやく放浪癖がおさまり、平和裡に生涯を閉じることの有難味を知ることができた... と締めくくる。なるほど、貸借対照表とは、人生における善悪の総決算、すなわち、神の審判を仰ぐための報告書であったか。帳簿の誤魔化しは自分自身を欺くことであり、なによりも人間的成長を妨げることになる。これが帳簿の意義というわけか。
では、人間社会で義務と呼ばれるものは、自然の義務に適っているだろうか?社会で常識とされるものは、自然の常識に適っているだろうか?はたまた宗教が唱える神は、宇宙論的な存在と言えるだろうか?近現代社会は、経済的合理主義を旺盛にしてきた。しかしそれは、人間的合理性に適っているだろうか?人間の不幸のほとんどは、自然が定めた境遇に満足できないことにあるのでは... 本物語は、こうした問題をつきつける。
「私にとっては神とか摂理とかいうものはまったく問題にはならなかった。そしてただ自然の理にしたがい、常識の命ずるがままに一個の動物として行動したにすぎなかった。それさえも、はたして常識といえるものであったかどうか怪しいものであった。」

1. デフォーの描く理想郷
ここには、普遍的な宗教観を共有した理想郷が描かれる。無人島には、やがて蛮人、スペイン人、イギリス人が次々に来訪し、人間社会が形成されていく。あまり信仰的でなかったロビンソンが信仰に目覚めていき、その統治下で、異教徒、カトリック、プロテスタントが共存するという構図。宗教の本来の姿は、寛容性と言わんばかりに...
実際、デフォーはカトリック的な高教会派(ハイチャーチ)に対する批判分子で、民権派として投獄された。さらに、メキシコやペルーにおけるスペイン人の残虐行為について、世間が何と言おうとも、ここのスペイン人たちは行儀よく控え目な連中と語り、あえてイギリス人に悪役を与えている。人間の横暴さは、民族に関係ないと言わんばかりに...
その一方で、この時代にあって西洋中心主義が強いことも確かで、その性格は第二部でより鮮明となる。改宗されたアメリカ大陸の蛮人は、馴染みやすい、いや扱い易いってか。対して、改宗されないシナ人を無知な奴隷、軽蔑すべき群集に過ぎず、そうした連中しか治める能力のない政府に隷属するとしている。後に、中国大陸が列強国の切り取り自由とされるのを、予感したような記述である。
さらに、植民地政策を批判しながら、植民地主義の正当性を唱えている。つまり、やり方次第ってか...

2. ロビンソン・クルーソーの生涯と冒険 (第一部)
三男坊で自由気ままなロビンソン。父親が法律家にしようとしたが、反発心旺盛で、おまけに、放浪癖に憑かれている。ロビンソンは船乗りになって海外へ渡航。そして、海賊船に襲われ、ムーア人の港サリー(モロックのサレ)に連行される。ムーア人の主人は、度々魚釣りにロビンソンをともない、隙を見てボートを盗んで、奴隷の少年ジューリと共に逃亡。黒人奴隷を買いにギニア方面へ向かっていたポルトガル帆船に出会い、助けられる。ロビンソンは、ジューリを船長に譲る。ブラジルに到着すると、船長から農園と製糖所の経営者を紹介してもらい、未開墾地を買い込んで農園経営を始める。
呪われた航海は、1659年のこと。農園経営を拡大するために奴隷を求めてアフリカを目指す。ところが、大暴風に見まわれ遭難。ブラジル北部のオリノコ河近辺に流され、浅瀬にのりあげ航行不能となる。船員たちは積んでいたボートに乗り移るが、大波で転覆し、ロビンソンだけが助かり陸地に漂着。座礁した船は沈まなかったので、船内の食糧や武器などを陸揚げする。
ロビンソンは、この島を「絶望の島」と呼ぶ。だが、不幸な境遇を悲しんでも仕方がない。神は臆病者が嫌いだ。猛獣に喰われるか、蛮人に殺されるか、それとも餓死するか、そんなことは知らんよ。今を生きるために運命なんぞにかかわっている暇はない。
まず、生活圏を確保するために柵をこしらえる。不毛な無人島であることを知れば、そんな必要もないが。人間ってやつは、外敵に対する恐怖心と緊張感によって、あらゆる知恵を絞り出そうとする。雨に濡れれば屋根を作り、洞窟などの自然の要害を探し、獲物を得るために生息の特徴を調査し、野生の動物を飼いならし、火を焚くための燃料を求めたり。何もないということは、究極の自由を謳歌する材料が整っているという見方もできる。あのお笑い芸人が口にする、生きてるだけで丸儲け!とは、こうした境遇を言うのであろうか。
ロビンソンは、良い点と悪い点を整理していく。借方と貸方の概念は損得勘定を基盤にしているが、なにも金勘定に囚われることもあるまい。
「どんな悲境にあってもそこには心を励ましてくれるなにかがあるということ、良いことと悪いこととの貸借勘定ではけっきょく貸し方のほうに歩があるということ、これである。」

船の積荷には、ペン、紙、コンパス、製図器械、日時計、望遠鏡、海図、航海術の本、聖書など、これらがどう役に立つかは分からないが、少なくとも希望の材料となる。ロビンソンは、すっかり聖書研究者となった。途方もない時間の中で労力と辛抱が試され、その試行錯誤の末、到達できる境地というものがあるのだろう。
「理性が数学の本質であり根源である以上、すべてを理性によって規定し、事物をただひたすら合理的に判断してゆけば、どんな人間でもやがてはあらゆる機械技術の達人になれる。」
仕事をやっていれば、なにかしら不足しているものが見えてくる。話し相手がいなければ、動物や神が相手となる。自分を生かしてくれた神の思惑とは何か?これを問い、その有り難さに感謝の念が生まれる。狩猟で獲物に出会えれば大地に感謝し、穀物の栽培がうまくいけば天空に感謝する。信仰の源泉とは、自然や偶然に対する感謝からきているようだ。ただ、自然に対する感謝が神に対する感謝へと変貌した途端に、人間の願いは横暴となる。神を自然の代理人に仕立て上げ、おまけに万能者とするから、いくらでも都合のよい形に想像を膨らませる。
ここにあるものすべてが自分のものだ!自分は島の王だ!所有権とは、自信のない所有物に対して主張するものであろうか。他に所有権を主張する者がいなければ、そんな概念は不要だ。所有や権利ってやつは、自己満足に過ぎないというわけか。
そして、一年が過ぎる。雨季と乾季があることを知り、太陽の位置を定めて季節に応じた準備をする。大麦と米の穂を保存し、種まきの適当な時期を調べ、穀物の栽培にこぎつける。食糧の安定確保が、まずもっての課題である。刈入れ、貯蔵、運搬、脱穀、籾殻をとるための道具をこしらえ、パンの作り方を忍耐強く会得していく。経済状況が常に右肩上がりであれば、どんなに絶望しても、希望を持ち続けられる。

ここに住みついて18年にもなるが、人影を見たことがない。だがある日、人間の裸足の足跡を見つけ、愕然とする。あれほど孤独を嘆いていたのに、今度は恐怖に駆られるとは。慣習とは怖ろしいものである。
「恐怖心にかられると、人間はなんと馬鹿げたことを考えるものであろうか。一度恐怖心にかられると、万一に備えてかねてから理性が考えていた救いの手段はまったく用をなさなくなってしまうのだ。」
23年目のこと、海岸に焚火の灯りが見える。やはり人間がいた。望遠鏡で見ると、裸の蛮人たちが饗宴をやっている。ロビンソンは、人肉を料理するための火に違いないと殺意に憑かれる。未知の人種を見れば野蛮人と決めつけ、恐怖し、勝手に敵対心を抱く。それは、自分自身が野蛮である証拠だ。しかも、奇妙な暗示にかかっていることにも気づかない、おめでたい存在ときた。ロビンソンは、蛮人たちを撃退するが、同胞が欲しいとも考えている。蛮人の一人ぐらいなら奴隷にして、意のままに使いこなす自信もある。
ところが、今度は丸木舟が五隻もやってきた。敵は、20人から30人ってところか。蛮人たちは火を焚いて、野蛮な踊りを始めた。二人の男が引きずられ、早々一人が殺される。もう一人は、一目散にこちらへ向かって逃げ出した。蛮人たちが弓矢を射かけようとすると、発泡して撃退。ロビンソンは25年もの間、人の声を聞いておらず、感慨に耽り、彼にフライディと名づけた。金曜日に出会ったという意味。そして、言葉を教え、宗教を教え、フライディは忠実な従僕となる。彼から島の周辺情報を聞くと、二人で丸木舟を造って島から脱出を計画する。
そんな時、6隻の丸木舟がやって来た。蛮人たちは捕虜の肉を喰っている。二人はマスケット銃で奇襲して、撃退する。丸木舟にはスペイン人の捕虜の他に、なんとフライディの父親が捕まっていた。フライディは感慨深さに浸る。
こうなると、もはや無人島ではない。絶対的支配者ロビンソンの下に、プロテスタントに改心させた従僕のフライデイと異教徒の父、カトリックのスペイン人という社会構成。そう、プロテスタントを最高位に置いた理想郷というわけだ。彼らの情報から、本土で白人が囚われていることを知ると、フライディの父とスペイン人に命じて救出に向かわせる。

二人の帰りを待つロビンソンとフライディであったが、ちょうどイギリス船が近づく。イギリスの貿易路はかなり離れているはずだが、なぜこんな所に?フライディが密かに探ると、乗組員の叛乱にあって、船長ら三人が捕虜になっている。一人は航海士、一人は船客。そして、ロビンソンらをイギリスまで無料で乗船させることを条件に、君らを助けようと持ちかける。この事前取引は、いかにも経済人らしい。そして、船を乗っ取ることに成功し、叛乱者を投降させる。イギリス人の叛乱者たちは、このまま故国に連行すれば死刑になるは必定。しかも、大勢の捕虜を抱えたままの航海は危険。そこで、叛乱者たちを自由の身にし、スペイン人と共に孤島へ残していくことに。ロビンソンは、狩猟や穀物の栽培など、島での生活方法を伝授する。
ロビンソンがイギリスに帰国したのは、1687年のこと。既に父も母も亡く、他の家族も死に絶えていた。もう死んだものと思われていたので遺産もない。船長が船主たちに、命を救ってくれたことを感動的に語ってくれたおかげで、資金を提供してくれた。アフリカ沿岸沖で助けてくれたポルトガルの船長とも再会。ブラジルの農園管理者は既に亡く、収益は改宗者の施設や慈善事業にあてられていた。今度こそ故国に定住しようと決意するが、やはり放浪癖は治らない。孤島に残してきたスペイン人や悪党たちは、どうなったかと...

3. ロビンソン・クルーソーのその後の冒険 (第二部)
もう61歳、すべてに満ちた平和と幸福な生活を7年間ほど過ごす。唯一放浪癖を鎮めてくれるのは妻の存在だったが、妻に先立たれれば、心の拠り所を本性に求めるしかない。一度知った自由の味は、麻薬のごときもの。島の残酷な様子を夢で見れば、現実を見るまでは、心の中ではそれが真実となる。
ついに、フライディをともなって航海へ。カナダから故国へ向かうフランス商船が遭難しているのを発見すると、かつてポルトガル船に拾い上げられた境遇を思い出す。今度は、自分が助ける番だ!親切心の源泉は、お返しという本能的な義務感のようなものであろうか。だが、親切心が行き過ぎると、押し付けがましい宗教に変貌するから御用心。
救出した人々を無事退船させ、いよいよ西インド諸島へ向けて出航したのが、1694年。今度は、イギリス船が遭難しているのを発見。飢えきって、衰弱しきって、完全に自制力を失っている。死の断末魔の苦悶にあえぐ者あり、ほとんど錯乱状態にある。飢餓ほど人間を残酷なものにするものはないのかもしれない。そして、あの島に到着したのが、1695年。懐かしいスペイン人やフライディの父の姿を見る。

島に遺された連中は、その後の様子を語った...
老フライディとスペイン人の二人は、本土で仲間を助けだし、島に戻ると、悪党どもがいるのに驚愕する。イギリス人の悪党どもは、ロビンソンの命じた通り、手紙と指示書を託し、それをスペイン人に渡した。当座は、仲良く過ごす。リーダ格のスペイン人と老フライディが協力して、万事をうまく処理していた。
ところが、イギリス人たちは怠け者で、夕食の時間に戻ってくるという有り様。やがて喧嘩を始め、イギリス人の悪党どもは残忍な行為に及ぶ。悪党どもは、俺達が総督から島を譲り受けたと主張する。だから、他の者は土地を利用する権利がないと。家を建てるなどもってのほか、地代を払えというわけだ。互いに生きてはいけない境遇にあれば協力し、少しでも余裕ができれば紛争の種となる。人間の悲しい性よ。真面目に働く者が収穫を得る毎に、嫉妬が膨らみ、敵対心となる。悪党どもは、荒削りの船乗り気質をむき出しにする。子供は問うだろう、地球はみんなのものなのにどうして土地は地主のものなの?と...
人間は、なんでも自分のものと勘違いした時に横暴となる。所有権とは、人間社会が生み出した反自然的な概念であろうか。となれば、力づくで自分のものにするまでよ!
ある日、大勢の蛮人がやって来た。リーダ格のスペイン人は、気配を感じさせないように潜むことを命じる。この島の伝統は、ロビンソン以来、蛮人たちが自然に去っていくことで解決してきた。蛮人たちは、二つの集団で戦争をしていた。イギリス人の悪党どもは、捕虜を捕まえ、奴隷にする。ロビンソンがフライディにしたのとは逆に、知識を教えることなく、理性の原理で導くこともしない。再び島に危機が生じても、奴隷が味方になるわけもない。
ついに、その横暴さに我慢ならないスペイン人たちと乱闘になり、イギリス人たちを捕まえた。さあ、処分をどうするか?一人を見せしめに殺すという意見が多数だが、リーダ格のスペイン人はそれを許さない。猶予を与え、誓いをたてさせ、今度、農場や家や柵を荒らし、横暴な行為をすれば、即刻射殺することで同意。そして、彼らと縁を切り、追放した。
ある日、女性たちを捕虜にしたイギリス船が到来。彼女らを助け、妻にするために物色する。今度は妻という名の奴隷か。
やがて、この島に人間が住んでいることが、本土の蛮人たちの知るところとなり、50人の大勢で上陸してきた。鉄砲で応戦すれば、姿が見えない敵に対して、銃声だけで人が死んでいくのに、蛮人たちは混乱する。魔術か!蛮人は、すっかり意気喪失。老フライディが捕虜に交渉を持ちかけ解き放つ。危害を加えないと保証すれば、穀物やパンを提供すると約束して。蛮人たちは、丘の斜面にとどまるように命じると、その区画からけっして出ない、約束を忠実に守る連中であった。
生活方法を伝授し、小枝細工の作り方などを教えていくうちに、平穏な社会へと導かれ、すっかり改宗させていく。イギリス人の悪党どものリーダ格までも、勤勉で、働き者となっていく。仕事に生き甲斐を見つければ、つまらぬ粗暴に走ることもない。宗教的な教義よりもはるかに効果があるようだ。
... その話を聞いて、島の父と崇められるロビンソンは、ある種の共和国が完成したことを知ったのだった。

ロビンソンは、島の所有権を主張するつもりもなければ、住民を統制せず、自然のまま放置して立ち去る。だが、島の繁栄に安堵してもなお満足できず、再びブラジルへ航海する。その途中126隻もの丸木舟に遭遇し、フライディは蛮人の矢を浴びて死ぬ。
「生涯におけるある特定の境遇を自分独力で選びうるといわんばかりに、自らの判断力に自惚れることは、賢い人のとるべき道ではない。人間は目先のきく存在ではなく、眼前僅かの所までしか見ることをえない。情念は人間の最善の友ではなく、特定の感情が最悪の相談相手となることも多い。」
さらに、喜望峰を通って東インド諸島へ。まずは、マダガスカル島に寄港。当初、原住民は休戦協定を結び友好的だったが、ちょっとした挑発行為で戦闘に巻き込まれる。黄金が出るというデマに踊らされた夢想の輩が群がり、船員たちは悪鬼へと変貌。個々では理性的に振る舞うことができても、集団性が人間を悪魔とさせる。しかも、それに気づかない。異教徒、野蛮人と呼称するだけで、どんな残虐行為も正当化できるとは。ロビンソンは、この出来事を「マダガスカルの虐殺」と記す。
「オリヴァ・クロムウェルがアイルランドのドローエダを占拠して、男や女や子供を殺したことはすでに聞いていた。ティリー伯がマグデブルグ市を劫掠して男女あわせて二万二千人を殺戮したことも本で読んでいた。だが、この時まで、そういったことが果たして事実か思いもつかぬことであった。」
ペルシャ港へ寄港すると、マダガスカルの出来事で船員たちと口論となり、一人置き去りにされる。数人の貿易商と友好を温め、船を入手し、船員を雇い入れる。そして、スマトラ島からシャムへ行き、商品の一部と阿片やアラック酒と交換。阿片はシナで非常に高価で取引され、大儲けする方法を知る。さらに、フィリピン、モルッカ諸島を往来して大儲け。もはや麻薬行商人というわけだ。後の阿片戦争の火種がくすぶる。ヴァタビア、マラッカ海峡、ベンガル、このあたりは、オランダ、ポルトガル、イギリスの商船が入り混じり、現地の海賊船が絡む無法地帯。商船といえども武装しており、互いに海賊と罵り合う。ロビンソンの船は、コーチシナ人の船に拿捕され、台湾方面へ北上し、さらに中国大陸に上陸。大都市北京の様子は、ロンドンとパリを合わせても及ばない活気ぶりで、シナ人をキリスト教へ改宗させることの難しさを記す。

さらに、駱駝と馬の一行で内陸部へ進出し、韃靼(タタール)人とシナ人の間の緊迫した国境を越え、モンゴルを横断。シナ人が要塞化したナウムの街を蒙古人が襲撃した歴史を、案内人が説明する。モスクワ帝国のツァーリに隷属する最初の街アルグンに到着すると、やっとキリスト教圏に入ったことに安堵する。しかし、生贄を捧げる野蛮人よりも野蛮な行為を見る。ギリシア正教に属すキリスト教と称しているが、その実は迷信の威風を数多く留め、妖術や魔法と区別ができない。ロシア正教会の風刺だが、偶像崇拝が悪魔礼拝よりもましかは知らん。そして、エルベ河を渡って帰還。
「今まで経験したあらゆる旅よりももっと長途の旅に出る準備をしている。私は七十二年という、さまざまな波乱にみちた生涯をおくってきた。そして、隠退するということの価値も、平和裡に生涯を閉じるということの有難味も充分知ることができたつもりである。」

2015-07-12

"不思議の国のアリス" Lewis Carroll 著

童心に返る試みは、ガリヴァーの冒険物語で半ば失敗した(前記事)。今度は、アリスのファンタジー物語に縋る。この物語には、いつまで純粋な子供心を持ち続けることができるか?という問い掛けが秘められている。しかしながら、知識のなかった頃の自分をどうしても思い出せない。理性的に振る舞ったところで、心の中ではまったく違うことを思ってやがる。悪智慧や悪徳を知った今、もはやエントロピーの法則には逆らえない、ということか...

ルイス・キャロルこと、本名チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンは数学者としても知られ、多くの理工系の書で紹介される。数学の心はパズルのような遊び心から発する。そして、数学は哲学である。アリスの冒険物語は、まさに言葉遊びに潜む哲学の妙技を魅せつける。
ルイス・キャロルの作品は、言葉の音調を大切にしているために、原書を読まないと充分に楽しめないという評判がある。むかーし、これを題材にした英会話セミナーに参加したことがあり、なるほどと感じたものだ。
子供は大人の言葉遣いや仕草を真似しながら物事を覚え、音韻との戯れが洒落の世界へいざなう。さらに、本書は翻訳版ならではの言葉遊びを魅せつけ、駄洒落の世界へいざなう。
例えば... ずぶ濡れの身体を乾燥させるために熱気あふれる政治演説が始まると、無味乾燥!と吐き捨てたり、ネズミは返事の代わりにチューしたり、年寄りの先生をティーチャーだから茶々と呼んだり、ウサギをばらして憂さ晴らしやら、そして、難しい哲学問答には、時間の無駄!と一言で片付け、ガキの直感力を魅せつける。おまけに、ニヤニヤするネコはニャーニャーとは鳴かないらしいし、カエルそっくりの召使はケロッとしているらしいし、魚そっくりの召使はギョッと驚くかは知らん...
ちなみに、あるバーテンダーは「酒に落ちる」と書いて「お洒落!」などと能書きを垂れていたが、棒が一本足らんよ!
それはさておき、著名な作品の中には、翻訳版からヒントを得て、第二版で更に洗練された作品に仕上げる、といった現象を見かける。原作が素晴らしいからこそ、翻訳者が釣られるということもあろう。本書の場合は、原作者と翻訳者で生きた時代が違うものの、それでもコラボレーションの妙技を魅せつける。
尚、数多い翻訳版の中で、河合祥一郎訳版(角川文庫)を手にとる。

「不思議の国のアリス」は、学寮長リドルの次女アリスのために書き下ろした物語が原型になっているという。狂っていると噂される三月ウサギに会いに行く時、もう五月だからそれほど狂っていないかもと言い、時間に呪縛された帽子屋さんに今日は何日かと訊ねられると、四日と答えるところから、この物語は五月四日ということになる。実在するアリス・リドルが1852年5月4日生まれで、この物語は誕生日プレゼントというわけだ。ルイス・キャロルは、少女のまま大人になってくれるよう思いを込める。
「見るもの聞くもの奇々怪々... 鳥や獣とお喋りはずむ... 語り手疲れて、もう限度... おそるおそる口にしてみる、続きは今度!すると声を合わせて、今が今度!楽しげな声が禁じる、THE END...」
好奇心こそ冒険心の原動力!それでいて、アリスはいつも人の役に立ちたいと願っている。だが失敗する度に、おうちにいる方が、ずっとよかった!と後悔のくり返し。それでも懲りない子供心。
寝床では、夢物語を永遠に語らせようとする子供の目を振り払うのは難しい。では、大人になったらどうだろう?なぁーに、より具体的な仮想空間に脂ぎった欲望を結びつけるだけのことよ。その証拠に、夜の社交場では、もう一杯とねだるホットな女性の目を振り払うのは難しい...

・第一章 ウサギの穴に落ちて
お姉さんが本を読んでいる側で、アリスが退屈していると、白ウサギが、遅刻だぁ!とつぶやきながら目の前を駆け抜けていく。好奇心旺盛なアリスは、ウサギが巣穴に飛び込むところを見ると、それを追って飛び込み、深い穴を落下していった。着いた所には、細長い広間があって、ドアが並び、すべて鍵がかかっている。片っ端から開けてみようとするが、どれもダメ。途方に暮れるアリスは、テーブルの上に小さな金色の鍵を見つける。それが小さなドアの鍵とピッタリ。ドアの先はネズミの穴ぐらいの通路で、覗きこむと素敵な庭が見える。さらに、テーブルには小瓶が置いてあり、「わたしをお飲み」と書いてある。それを飲むと、身体がみるみるうちに縮み、通路が通れるほど小さくなった。しかし、鍵をテーブルの上に置いたままで、今度は鍵が手に届かない。すると、テーブルの下に小さなガラスの箱を見つける。中にはケーキが入っており、「わたしをお食べ」と書いてある。

・第二章 涙の池
ケーキを食べると、地面が見えなくなるほど足がのびていき、頭が天井にぶつかる。寝そべって片目で庭を覗くことぐらいしかできず、アリスは泣き出す。そして、大量の涙を流し、広間には池ができた。そこに、めかしこんだ白ウサギが戻ってくる。革手袋と大きな扇子を持って。アリスが話しかけると、ウサギは驚いて手袋と扇子を落として走り去った。広間が暑かったので扇子で扇いでいると、身体が小さくなっていく。今度こそ庭へ行けるかと思いきや、またしてもテーブルの上の鍵が届かない。飲んじまったジュースは胃袋の中!喰っちまったケーキは胃袋の中!今度は、涙の池に溺れそうなほど浸かっている。池にはネズミや鳥獣たちが池に落ちてきて、ごったがえしていた。アリスが岸にあがると、ぞろぞろと続いてくる。

・第三章 党大会レースと長い尾話(おはなし)
さしあたっての問題は、ずぶ濡れの身体を乾かすこと。みんな風邪をひきそう。偉そうなネズミは、熱気あふれる演説を始めた。
「ローマ法王にその義を認められたウィリアム征服王に、やがてイギリスの民も恭順の意を示した。イギリスの民は指導者がいなかったため、侵略や征服の憂き目に遭っていた。マーシア伯爵とノーサンブリア伯爵であるエドウィンとモーカーは、征服王を支持した。愛国的なカンタベリー大司教スティガンドさえそれを得策と見てとって、ウィリアムを迎えて王冠を授けた... ウィリアム王の行動は当初おだやかなものであったが、ノルマン兵たちの無礼さは...」
アリスは、ちっとも乾かない!無味乾燥!と吐き捨てる。ドードー鳥は、難しいことじゃ解決できない、単純な党大会レースが一番!と叫ぶ。それは、円のコースを描いてひたすら走るというもの。よーいドン!もなく、好きな時に走りだし、好きなときにやめる。レースというからには誰が勝ったのか?みんな勝ったのじゃ!党大会とは、勝手に喋りまくって、内容も堂々巡りというわけか。
騒ぎが収まると、みんなが輪になって座り、ネズミにもっと話を聞かせてくれと頼む。ネズミは、いまだに尾を引いている悲しい話を始める。アリスは、ネズミの長い尻尾に惚れ惚れし、どうして悲しい尾なのか?分からない。ネズミさんはネコとイヌが怖いんだとさ。アリスは、自分が可愛がっているネコの話を始めた。ネズミを捕まえるのが上手で、小鳥を食べちゃう!なんて言ったもんだから、鳥獣たちは逃げ出し、ひとりぼっちになった。

・第四章 ウサギのお使い、小さなビル
そこに、やって来た白ウサギが何やらつぶやいている。死刑にされちゃう!裁判官は、ウサギをばらして憂さ晴らしってか。ウサギの探しものは革手袋と扇子。アリスはお手伝いさんと間違えられ、ウサギの家からそれを取ってくるよう命じられる。
アリスは、家の中に小瓶があるのを見つけると飲んでしまう。すると、身体がみるみるうちに大きくなり、天井に達して身動きができなくなる。ウサギが家に戻ってくるとドアが開かない。馬鹿でかいアリスが家の中にいるとは知らず、トカゲのビルを使って追い払おうとするが、うまくいかない。ついに家を焼き払おうという声が。外から投げ入れられた小石がケーキに変わり、それを食べると身体が小さくなった。アリスは、やっと家から出られ、森へと逃げていった。
森では巨大なイヌと出会い、じゃれてくるものの、押し潰されそうになる。さしあたっての問題は、身体の大きさを元に戻すこと。何かを食べたり、飲んだり、しなくっちゃ!しかし、何を?ちょうど、キノコの上に座ってキセルを吹かす青虫と目が合う。

・第五章 青虫が教えてくれたこと
青虫は訊ねた。あんた誰?
「よく分からないんですけど、今のところは... 少なくとも今朝起きたときは自分が誰だか分かっていたんですが、それから何度も変わってしまったみたいで... その自分が分からないんです。わたし、自分じゃなくなっているんです。」
このフレーズは、大人が語ると、高度な哲学をやっているように映るだろう。見かけの大きさが変わっているだけで、急に大人になったり子供になったりしているわけではない。もちろん精神が成長しているわけでもない。歳相応に、ちゃんとしろ!と説教されたところで、そう変われるものではない。
青虫は訊ねる。どのくらいの大きさに戻りたいのかね?つまり、どのくらい大きな人間に、どのくらい精神を成熟させたいのか?とも解釈できる。世間には、もう少し背がほしいやら、もう少し美しくなりたいやら、もう少し賢くなりたいやら、で溢れている。そして今、自分にあんた誰?って問うてみても、よく分からんよ!
青虫はキノコの効用を教える。一方をかじれば大きくなり、もう一方をかじれば小さくなると。一方とは、どっち?なかなかの難問だ。人生とは、まさに試行錯誤の中にある。少しかじると、顎が足に押し付けられるほど身体が縮み、もう一方をかじると、肩が見えなくなるほど首がひょろひょろと長くなる。そして、ハトにヘビと間違えられる。ヘビじゃない、女の子です!と言っても、ハトは信じない。ハトは訊ねる。卵を食べるか?やっぱり食べるじゃないか。それとも、女っていうのはヘビみたいなものか?
アリスはキノコの両端をかじりながら、なんとか大きさを調整し、一件落着!そして、森の中を歩いていると小さな家を見つけ、住人を驚かさないように小さくなる側のキノコをかじって家に近づく。

・第六章 ブタとコショウ
そこは、魚そっくりの召使とカエルそっくりの召使のいる公爵夫人の家。アリスを見ると、魚そっくりの召使はギョと驚き、カエルそっくりの召使はケロッとしていたかは知らんよ。家の中では、公爵夫人が赤ん坊をあやし、料理人はスープをかき混ぜている。部屋中にコショウが漂い、公爵夫人はくしゃみをし、赤ん坊はその度に泣き出す始末。くしゃみをしないのは料理人とネコだけ。料理人は手当たり次第に、公爵夫人と赤ん坊に物を投げつける。なんと騒がしい家だろう。公爵夫人は言う。
「みんながよけいなおせっかいを焼かなければ、世界は今よりずっと速くまわることになるだろうよ。」
公爵夫人はチェシャーネコと呼ぶ。cheshire... 意味もなくニヤニヤ笑うということらしい。ニャーニャーと鳴いてうるさいよりましってか。ブーブー泣く赤ん坊をブタと呼ぶ。ブーブーと文句を垂れるのはブタどもってか。そして、アリスが赤ん坊をあやそうとすると、見る見るうちにブタの姿に変わり、森の奥へ走り去った。
ネコはニヤニヤしながら、アリスにどこへ行きたいか?訊ねる。アリスはどこかへ着ければいいと答える。目的なしの好奇心ほど教訓めいたものはあるまい。
ネコは、あっちは帽子屋が住み、こっちは三月ウサギが住み、どっちも狂っていると教える。アリスは、狂っている人のところへは行きたくないと言うと、ここじゃみんなが狂っていると答える。俺も、君も。アリスは自分は狂っていないと反論するが、狂ってなきゃ、こんな所には来ねぇよ。では、ネコのあなたは、なぜ狂っていると分かるのか?まずイヌは狂っていない、怒ると唸り、嬉しいと尻尾をふるから。ところが、俺は嬉しいと唸り、怒ると尻尾を振る。喜怒哀楽が逆転するのは、まさに大人の世界。本音と建前をうまく使い分けなければ、生きてはいけない。
アリスは帽子屋さんは見たことがあるので、三月ウサギの所へ行く。五月だから、それほど狂っていないかもしれないと。ネコは、急に姿を出したり、消えたりする特技を持っている。アリスは驚かさないで!と頼むと、ニヤニヤ笑いだけを残す。ニヤニヤ笑いなしのネコは見たことがあるけど、ネコなしのニヤニヤ笑いってのは初めて!実体がなく、抽象論で煙に巻くのが哲学の常套手段ってか。

・第七章 おかしなお茶会
三月ウサギの家では、大きなテーブルを囲んで、ウサギと帽子屋がお茶会をしている。二人の間にはヤマネが眠っていて、クッション代わりにされている。そして、謎かけが始まる...
席は空いてないよ!たっぷり空いているじゃないの!ワインをどうぞ!でも、お茶しか見当たらない。ないものを勧めるなんて失礼!いや、招かれもしないのに座る方が失礼!
さて、謎かけは...「大ガラスとかけて書きもの机と解く、その心は?」
答えられるなら、思ったことを言ってくれなきゃ!言ってるわよ!少なくとも、言ったことを思ったんだもん、同じことでしょ!ちっとも同じじゃない。食べるものが見えると、見えるものを食べるが同じか?手に入れたものが好きと、好きなものを手に入れるが同じか?眠るとき息をすると、息をするとき眠るが同じか?結局、謎かけの答えは???
これは... 人間は死ぬ、ソクラテスは人間である、ゆえにソクラテスは死ぬ... の類いであろうか。三段論法批判と解するのは行き過ぎであろうか?哲学問答などと大袈裟に吹聴したところで、駄々っ子と大して変わらない。ヤマネが熟睡するのも道理である。
ところで、三月ウサギは、三月に時間さんと喧嘩したという。ハートの女王陛下が催したコンサートで、歌の調子が外れて、時間を殺害しておる!首をはねよ!と命じられた。時間さんは、何をお願いしても聞いてくれない。だから、いつまでも6時のままで、お茶しか用意されないとさ。つまり、三月から時間に幽閉されたウサギというわけだ。時間ってなんだろう?時間さんに話しかけたことすらない!アリスは時間の無駄と吐き捨て、その場を去る。ガキの直感、恐るべし!
次に、一本の木にドアがついているのを見つけ、入ってみると、あの細長い広間に出た。今度こそうまくやろう!小さな金色の鍵をとって、庭に続くドアの鍵を開けた。そして、キノコをかじって背丈を小さくし、通路をくぐり抜けると、やっと美しい庭へ到達した。

・第八章 女王陛下のクロッケー場
トランプの四隅に手足のついた庭師たちが、相談している。赤い薔薇を植えなければならないところを、間違って白い薔薇を植えたもんだから、女王陛下に見つかると首が飛ぶって。そこに、ハートのマークのついた兵隊、廷臣、賓客、そしてジャックとキングの行列が通りかかる。いつも、首をはねよ!と命じる女王陛下。アリスは庭師を匿って植木鉢に隠す。アリスは、クロッケーに参加するよう命じられる。そこに白ウサギが近寄ってきて、公爵夫人が死刑宣告を受けたと耳打ちする。公爵夫人は女王陛下をひっぱたいたという。アリスは愉快に笑う。
そこには、ヘンテコなクロッケー場。ボールはハリネズミ、クラブはフラミンゴ、ボールをくぐらせるアーチはトランプの兵隊が身体を弓なりに反らしている。競技者は自分の順番など待ったりせず、一斉にプレーをやるもんだから、あちこちでハリネズミを奪い合う。一分ごとに、女王陛下は、この者の首をはねよ!と声を張り上げる始末。
アリスは不安になって逃げ道を探していると、空中にチェシャーネコのニヤニヤ笑いが浮かび上がる。会話していると、興味深そうに王様が近づいてきた。無礼なネコの態度に、わしをそんな目で見るな!と命じると、アリスは、ネコにも王様を見る権利あり!と答える。女王陛下は、ネコの首をはねよ!と命じる。しかし、胴体が見当たらず、処刑人は首のはねようがない。女王陛下は即刻実行できなければ、ここにいる全員の首をはねよ!と命じる。王様とて例外ではない。みんながアリスに助けを求めると、公爵夫人のネコだから、まず公爵夫人に聞かなければならないと助言する。

・第九章 海ガメもどきの話
公爵夫人はアリスとの再会を喜ぶ。このお婆ちゃんは教訓好きの性癖がある。すっかり死刑宣告されたおかげで、クロッケーの試合は落ち着きを見せる。その教訓は、愛こそが世界を動かす!だとさ。教訓は盲目に崇められるものの、アリスにだって考える権利がある!と反論する。女王陛下が試合そっちのけでアリスと、その場を去ると、王様が全員釈放!と小声で伝えて、めでたしめでたし!
女王陛下は、海ガメもどきの話を始める。そして、グリフォンにアリスを海ガメもどきのところへ案内し、やつの話を聞かせろ!と命じる。グリフォンは言う。傑作だよ!つもりになっているだけだよ!首をはねよ!と命じても、誰も処刑されない。何も悲しむことなんかないとさ。海ガメもどきにしても、実は、海ガメになったつもりでいるのか。女王も、王様も、偉くなったつもりでいるだけか。アリスは、生まれてこのかた命令されたことがないので、命令というものが分からない。
海ガメもどきは言う。実は本物の海ガメで海の学校に通っていたと。先生はティーチャーだからティーとお茶で茶々と呼ばれる。授業料の明細には、フランス語、音楽、センタク授業... 特別料金とある。アリスは、洗濯と選択を混同する。それから算数は、めでたし算、かぜひき算、かびかびぶっかけ算、わりぃわりぃ算。カビと美化ではえらい違い。他には、古代おせっかい史と現代おせっかい史、チンプン漢文など、へんてこな時間が振られる。無断な時間を割くから時間割ってか。

・第十章 ロブスターのおどり
海ガメもどきは、素敵なロブスターの踊りを実演してみせた。何かと教訓めいたことを言ったり、歌を暗唱させたり、踊りの形式を覚えさせたりするのがお好きなこと。しかし、子供の好奇心ってやつは、なにかと強制しようとする大人の思惑に対して反発しようとする。
ちなみに、タラ(大口魚)は、たらふく食うから、そう呼ぶのだそうな。
この楽しい一時に、裁判の始まりが告げられる。

・第十一章 タルトを盗んだのは誰?
ハートのジャックが、女王陛下のタルトを盗んだ容疑で引き出される。裁判官は王様で、それに12匹の陪審員の動物たち。あの白ウサギが罪状を読み上げる。最初の証人は帽子屋、続いて料理人、三人目にアリス。

・第十二章 アリスの証言
アリスの名が呼ばれると、身体はすっかり大きくなっていたので、立ち上がッタ時にスカートのすそで陪審員席をひっくり返す。
白ウサギは、まだ証言があります!と囚人の書いたと思われる詩を提出。だが、ジャックは否定し、陪審員も筆跡が違うと証言する。王様は、名前がないことが怪しく、いっそう不利な証拠だとし、せめて名前を書けばよかったと言い出す始末。女王陛下の命令は、例のごとく、首をはねよ!アリスは、詩の内容はどうでもいいの?と弁護する。王様は詩を読み上げるよう命じるが、まったくチンプンカンプン。にもかかわらず、確固たる証拠だと決めつける。意味がないことは結構、手間が省けるんだってさ。判決が出ると、すっかり元の身体の大きさに戻ったアリスはついに口にする。あなたたちみんな、ただのトランプじゃないの!すると、トランプが空中に舞い上がり、アリスに一斉に飛びかかる。
もがいているうちに、目がさめる。アリスは川べりで姉の膝枕で寝ていた。姉は、妹のヘンテコな冒険話をすっかり聞いて思いに耽っていると、夢を見る。夢には妹が登場。今、不思議の国にいることを知っている。そして、目がさめると、つまらない現実に帰ることも知っている。姉は、自分の子供時分を思い出しながら、妹がどんな大人になるかを想像する。はたして無邪気で素敵な心をいつまで持ち続けられるであろうか、と...

2015-07-05

"ガリヴァー旅行記" Jonathan Swift 著

ガリヴァーの冒険物語に初めて触れたのは、おいらが愛らしいという評判だった年少の頃。絵本の映像が瞼の内側にかすかに蘇る。たまには童心に返りたい!と思ったのだが...
尚、翻訳版がいろいろある中で、平井正穂訳版(岩波文庫)を手に取る。

こいつを文学作品として読むのは初めて。子供心をくすぐるのは、小人国リリパット、大人国ブロブディンナグ、空飛ぶ島ラピュータ、馬人国フウイヌムの四つの国を訪れるという設定だけで、実のところ大人向けの風刺小説であった。まさか!これほど政治色が強いとは... ちなみに、ラピュータは宮﨑駿映画「天空の城ラピュタ」の題材となった。
"Gulliver" とは、騙されやすい愚か者といった意味である。この好奇心旺盛な愚か者は、人間社会の代表者のごとく別世界を訪れ、故国がいかに優れているかを吹聴して回る。しかし、国王たちの率直な質問に答えていくうちに、最も愚かな社会は自分の住む故国の方であることに気づいていく。
社会嫌い、人間嫌いへ誘なうような、それでいて心地良い。子供が素直に面白がる一方でこのような思いに駆られるのは、魂が邪心の塊となった証であろう。腐敗した大人心を純粋な子供心に訴えるのは、果てしなく難しい...

ジョナサン・スウィフトは、自分自身を船医レミュエル・ガリヴァーという旅行者に仕立て、旅行記を執筆した。非国教会派ジャーナリストのダニエル・デフォーの「ロビンソン・クルーソー」が好評だったことも影響があったようである。本物語が、少年少女に人気を博すとは想像だにしなかったことだろう。どんな境遇にあれば、これほど複雑で捻くれた作品が書けるのか。スウィフトは、生まれた時すでに父は亡く、母も彼をダブリンに置き去りでイングランドへ帰り、孤児同様に伯父の家で養育されたそうな。そんな境遇から終生自分の出生を呪い、女性への愛憎という二重の屈折した感情を持ったという。
不本意ながら得た聖職者の地位も、皮肉な運命であろうか。イングランド国や国王を称賛しながらも、国教会批判、啓蒙思想批判、産業革命批判、近代科学批判、哲学批判、そして女性蔑視が巧みに盛り込まれる。これぞ皮肉屋の真骨頂!アイルランド貧民の逆襲とでもしておこうか...

まず、二つの小人国の間に配置される巨人の態度は、中立的な国際機関の必要性を唱えているのか?逆に、大人国にあって小人と罵る様子は、図体ばかりデカく、精神が成長できないことの皮肉か?はたまた、空飛ぶ島における啓蒙的科学技術は、伝統的農業を荒廃させた風潮への批判か?仕舞いには、馬人の美徳に啓蒙され、人間である妻子の汚臭に耐えられず、飼っている馬の臭いに安らぎを感じようとは。もはや風刺の枠を超越し、人間そのものに戦慄すべき呪詛へと導かずにはいられない。スウィフト自身、様々な論文や詩を書きながら、この物語が運命づけるように狂人となって死んでいく。墓碑には「激しい怒りももはやその心を引き裂くことできぬ」と刻まれ、遺産は遺志によって狂人のための病院設立の費用にあてられたという。物書きを飯の種とする著述家は、言葉によって精神をえぐり、自我をえぐり、ついに狂気へ向かう衝動に魅せられるのであろうか...

・第一篇 リリパット国渡航記
航海中に難破し、ただ一人島に流れ着く。目が覚めると、両手両足と髪の毛が地面に縛り付けられ、身動き一つできない。身の丈が6インチにも満たない連中が、ぞろぞろと身体をよじ登ってくる。そこは、リリパットという小人の国だった。国民は数学の才に長け、機械工学にかけては達人の域に達し、この巨体を葡萄酒で眠らせた隙に車輪つき運搬技術で運ぶ。逃げられないと観念したガリヴァーは、剣と拳銃の押収に従い、法に従って署名捺印。穏やかな人柄が好評を博し、歓待される。
さて、リリパット国は、皇帝と首相が共存する政治体制で、二つの大きな災厄に直面しているという。一つは国内の激しい党派争い、二つは外敵による侵攻の脅威。
トラメクサン党とスラメクサン党は互いに旗幟を鮮明にするために、一方は高い踵の靴を履き、他方は低い踵の靴を履く。ハイヒール党とローヒール党は、イギリス議会のトーリー党(王権派)とホイッグ党(民権派)の風刺で、宗教的には国教会内の高教会派(ハイ・チャーチ)と低教会派(ロー・チャーチ)のこと。外敵とは、ブレフスキュ国。それはフランスのことで、ヨーロッパ中に飛び火したスペイン継承戦争と重ねている。
戦争の理由というのが... 卵を食べる時、大きな方の殻を割って食べるのが昔からの慣習であった。ところが、皇帝の祖父が子供の時分、習慣通りに割ろうとした時、うっかり指を切ってしまった。そこで勅命が発せられた。今後、小さな端から割るべし!背いた者は重い処罰を与えると。これに国民は反発し、ある皇帝は命を失い、またある皇帝は王冠を失うという有り様。叛乱者は、ブレフスキュ国の援助を受けて亡命するのが常であった。卵を大きな端から割る!と大声で叫びながら亡命する連中と、それを抹殺してやる!と叫ぶ連中の罵り合い。国民は、簡単で分かりやすいキャッチフレーズでいきり立ち、戦争は、実にくだらない揉め事で国民の命を犠牲にする。大きな方の端を割る人々にローマカトリック教徒を、小さな方を割る人々にプロテスタント教徒を重ねる展開は、教義の問題を揶揄する聖職者スウィフトの本領発揮。イースター・エッグ、すなわち復活祭と絡めた風刺である。
ガリヴァーはブレフスキュ艦隊の侵入を防ぐために、海上に流すか軍艦どうしを衝突させ、海峡を歩き回って軍艦を拿捕する。また、宮殿が火事に見舞われると、巨人の放尿で3分間で鎮火するという活躍を見せる。しかし、ブレフスキュ艦隊をやっつけたことに、お株を奪われた海軍提督が陸軍大臣らと図って陰謀を画策。火事で放尿した下品ぶりに皇妃は激怒し、拿捕した敵の兵士の命を助けた罪を問い、ガリヴァーを叛乱罪で糾弾する。だが皇帝は、温情のために眼を潰すだけの軽い罰にしようとする。失明ならば慈悲深い刑というわけだが、冗談じゃない。ブレフスキュ国へ脱出し、歓待を受ける。
両国間に巨人ガリヴァーを配置しているのは、中立を促す大国の役割、あるいは国際連合のような国際機関の必要性を暗示していると解するのは、行き過ぎであろうか...

・第二篇 ブロブディンナグ国渡航記
水を補給するためにボートが陸地へ出され、これに同乗するが、一人取り残される。そこは、あらゆる物が巨大な大人族の国であった。リリパット国とは反対に、今度はガリヴァーの方が小人となり、農夫に捉えられ、箱に入れられて見世物とされる。噂が広まると宮廷に招かれ、王妃が買い取る。国王は誰にも劣らない学殖豊かな人物で、歯を徹底的に調べ、肉食動物であることを確認する。はたして、この小人の存在をどう説明するか?学者たちが議論が尽くし、その結論は、レルプラム・スキャルキャス(自然の戯れ)、つまり、できそこない、奇形人間の類い。スコラ学派あたりへの風刺か...
「すべての難問を処理することの驚嘆すべき解決策を考え出したのは、アリストテレスの追随者たちが自分の無知をごまかそうとして笑止千万に用いた、神秘的原因(オカルト・コーズ)というあの例の昔なじみの言い逃れを軽蔑した近代科学の教授諸君だった。これこそ、人間知識の発展に対する筆舌につくし難い貢献といわなければならない。」
王妃はガリヴァーを寵愛し、食事時も傍から離さない。その一方で、王妃つきの侏儒(こびと)たちがいる。とはいえ、彼らは30フィート近くもあり、ガリヴァーを自分よりも小人として見下す。
小人と蔑んで罵り合う態度は、現在にも見られる。巨人国が小人国を笑うように、逆にこちらも失笑を禁じえない。人間ってやつは、自分を馬鹿にしている愚かな自分には気づかないものらしい。
「われわれ人間の偉大さなんてものも、ここにいるまるで虫けらみたいな小さな連中にさえ真似をされるのだから、考えてみればつまらないものだ... しかも、この連中は名誉を表わす肩書きや栄爵制度ももち、小さな巣や隠れ穴をせっせと造って、家だとか都市だとか称している。衣装や設備に粋をこらしているかと思うと、恋もする、戦争もする、詐欺も働く、裏切りもする、というではないか。」
王妃つきの女官たちは、虫けらのように礼儀もへったくれもない、傍若無人として描かれる。乳首に跨がらせて悪戯をするなど、清楚なおいらは思わず赤面してしまう。あまりにも酷い有り様に読者の許しをえて省略させていただくと、痛烈に皮肉をこめる。オヤジたちの現代風女性への偏見は、いつの時代にも見られるものだが...
次に、議会制度、裁判制度、教育制度などイギリスの政体が優れていることを説明すると、国王は軽蔑の念を示す。要するに、陰謀、叛乱、殺人、虐殺、革命、追放への対処法ばかりではないか。こういったものこそ、貪欲、党派心、偽善、背信、残酷、憤怒、狂気、憎悪、嫉妬、情欲、悪意、野心が生んだ最悪の事態ではないか。人間社会は、腐敗作用の相殺によって成り立っていると言わざるをえない。
「国家に対して有害な意見をもっている人間に、その意見を変えろというのもおかしいし、腹の中にしまっておけと言わないのもおかしい。どこの国の政府であれ、前者を強制するのはまさに圧制だし、後者を強制しないのは、その政府が弱体である証拠だ。」
さらに、火薬の製法を伝授しようとすると、究極の殺戮兵器に国王は慄然とする。どうして非人間的な道具が必要なのか、呆れるほかはないと。しかしながら、この国でも長い間、全人類が免れえないあの病癖、貴族の権力欲、人民の自由欲、王の絶対的支配欲という三大欲望に悩まされてきた、と本音をもらす。

・第三篇 ラピュータ、バルニバービ、ラグナグ、グラブダブドリッブおよび日本への渡航記
航海中、日本の海賊船に連行される。中に一人のオランダ人、同じプロテスタントだが、殺したがっている。だが、日本人の船長は殺さないと約束する。同じ信仰よりも異教徒の方が慈悲深いとは...
ガリヴァーは、オランダ人の仕打ちで小さな丸木舟に一人おっぽり出される。無人島に漂着すると、巨大な空飛ぶ島ラピュータに遭遇。魚釣りをしている人影が見え、ハンカチを振って大声で叫ぶと、先端に座席が固定された鎖が降ろされ、引き上げられた。
ここの住民は奇妙な性癖があり、財力のある連中は「叩き役」というのを一人雇っているという。その役割は、会話の最中に、喋る側の口を叩いたり、聞く側の耳を叩いたり。どうやら深い瞑想癖があるらしい。階段を登っている途中でも瞑想に耽るものだから、叩き役のおかげで、やっと危険が回避できるという有り様。宮廷には地球儀や天球儀など、数学用器具が所狭しと並べられている。自我に篭もる自然哲学者への皮肉であろうか。
尚、Laputa(ラピュータ)とは、Lap は高い、untuh は統治者という意味で、Lapuntuh が訛った言葉というのが原住民の説。だが、ガリヴァーはこの説に懐疑的で、Lap outed ではないかと考えている。Lap は海面に反射する太陽光線の輝き、outed は翼と解するのが妥当だという。いずれにせよ解釈を押し付けるつもりはなく、読者に委ねると言っているが... 啓蒙思想への皮肉であろうか。
ラピュータ人の表現法は、もっぱら数学と音楽に依存しており、モノや美しさなどは幾何学用語で表現される。菱形、円形、平行四辺形、楕円形など。おかげで住居はどれも傾いている。紙面上で定規とコンパスを用いるやり方は巧みだが、実用数学を軽視した結果生じる欠陥だという。
また、女性たちは陽気そのもので、亭主を馬鹿にし、他からやって来る男たちに血道をあげる。陸地から大勢の男どもが納税のために島にやってくるので、大胆な痴態で大っぴらに戯れる。空中の空想家よりも、陸上の実践派の男に惹かれるという寸法よ。ガリヴァーにも女どもが群がり、まるでハーレム気分... ユートピアを唱える王立協会への皮肉であろうか。
さて、この島の運命を握っているのは、一個の巨大な天然磁石。「天文学者の洞穴」と呼ばれる場所から底部に厚い鉱石(アダマント)の層があり、巨大磁石が支えられている。そして、バルニバービ国には磁鉄鉱が豊富で、その反発力で国王の統治する領土内を自在に移動できるという仕掛け。したがって、ラピュータは領土外に出られない。
地域で叛乱や内乱が起こると、鎮圧する方法は二つあるという。一つは、上空に留まって日光や雨を遮り、飢饉と病気で罰を課す。二つは、それでも収まらない時、頭上めがけて島を降下させ、全滅させる。実際は、最後の手段に及ぶことはない。住民の反感を買って領土が滅茶苦茶になるだけだし、ラピュータの損傷も懸念され、割れたりすれば再び空を飛ぶことも叶わない... まるで核の抑止力。

ガリヴァーは、ラピュータ島を去り、バルニバービ国の首都ラガードへ。豊かな田園風景が目に入り、貴族に歓待される。そこは、みっともない時代遅れの農場経営とされ、国中で悪い手本として軽蔑されている。しかし、他の領地は荒れ果てている。国民は上京しては皆、ラピュータかぶれになって帰ってくる。学問、言語、技術が啓蒙され、再開発プロジェクトによって首都ラガードに企画研究所が設立される。そのために伝統的な農業は廃れ、国土は見渡す限り荒廃してしまったという.。ちなみに、大研究所で「万能科学者」とされる人物は、物理学者ボイルを指しているという説があるらしい。企画研究所は、英国王立学士院を指すようだ。
いつの時代でも、手っ取り早い方法論に人々は群がる。現在でも、How-to 本が氾濫している。この科学者の宣伝文句は、どこぞで見かけたような...
「技術や学問を身につける従来の方法がどんなに骨の折れるものか、誰でも知っている。ところが、わたしが考案したこの方法によれば、どんな無知な人間でも、安い費用であまり骨も折らずに、立派に哲学や詩や政治や法律や数学や神学に関する書物が書ける、特殊な才能や勉強の助けなしに充分立派に書ける。」
政治に関する企画者たちを集めた研究施設もある。寵臣を選ぶための方策では、まったく理想主義、いや夢想家。福祉やら平等やらと、まったく政治家の好きそうな単語を並べるだけ。人間社会には病魔と腐敗がつきもので、権力への癒着、陰謀の類いは高貴な国会議員に蔓延する。そこで、ガリヴァーは正当性を監視する機関の必要性を指摘し、長く滞在したことのあるトリブニア国のことを話す。土地の者はラングデンと呼ぶ。尚、Tribnia のスペルを変えると Britain。Langden のスペルを変えると England。
やがて、ガリヴァーは帰国を考える。ラグナグ島は日本の東にあり、日本の皇帝と同盟を結んでいることを知る。日本へ行けばヨーロッパへの船便が期待できるが、ラグナグ島への船便が当分ない。
その間、グラブダブドリッブという近くの小島を観光。グラブダブドリッブとは、妖術師や魔法使いの島という意味だという。族長に面会すると、アレキサンダー大王やシーザーなどの偉人たちを蘇らせる。族長の祖先ユニウス、ソクラテス、エパミノンダス、小カトー、トマス・モアと彼自身の6人は、冥界で六頭政治を行い、全歴史を見渡しているという。アリストテレスが現れると、知識の多くは推測の域にあって、自然哲学者とて多々誤ることを認める。過去の偉人たちには、素直に誤ちを認められるだけの器量が残っている。いかに近代史が歪曲されているか。歴史家どもの筆にかかると、臆病者が絶大な戦功をたて、愚か者が賢明無比な策を用い、おべんちゃらが誠実になり、祖国を売った者が美徳で迎えられ、無神論者が敬虔な信仰者を演じ、密告者が真実を持っていたことになるとさ。
ようやく、ラグナグ国行きの船便を見つける。ラグナグ人は礼儀正しく寛容な民族で、「ストラルドブラグ(不死人間)」のことを教えてくれる。ガリヴァーは、もし不死が与えられたら、どんな風に人生を計画するだろうかと夢想する。凡人の感覚では、命に期限がなければ計画する必要もなさそうに思える。いや、不死と不老は違う。凡人が欲するのは不老長寿であり、老衰と永遠に戦うのはむしろ地獄となろう。高齢者はいずれ法的に死者同様に扱われ、世間から厄介払いされる。ならば、死は救済措置となろう。
やっと、ラグナグを後にし日本へ。ラグナグ王との誼みに免じて、オランダ人に課せられる儀式「踏絵」を免除してほしいと願い出る。そんな懸念を示した外人はお前が初めてだと、怪訝そうに言われる... キリシタン迫害をチクリ!

・第四篇 フウイヌム国渡航記
今度は船長となるが、雇った船員が海賊であったために船は乗っ取られ、未知の国に置き去りにされる。そこで、奇妙な動物と遭遇。身体は毛深く、顔は平ぺったく鼻はぺちゃんこ、唇は厚く口が大きい、賤しい知能の持ち主。短剣で立ち向かうと、大声で叫んで仲間が集まり、数匹が木に登って糞尿を浴びせかけてきた。そこに二頭の馬が近づいてくると、彼らは一斉に逃げ出す。
二頭はまるで人間のように協議している様子で、ガリヴァーに触って観察を始める。その起居動作は合理的で整然としているばかりか、犀利で聡明である。魔法使いに動物にされた人間か?もし、そうなら言葉が解せるはずだと話しかけてみる。こちらの言葉は解せないが、なにやら言語を操っている様子。その会話から、「ヤフー」という言葉を聞き取り、鸚鵡返しに発音すると驚く。馬は別の言葉を教えようと「フウイヌム」と発音する。そして、家に連れられると、なんと馬が家事をやっている。家畜をこれほどまでに教化できる人間がいるのか?いや、フウイヌムという馬の姿をした高度な知的動物であった。対して、毛深く何でも食べる野蛮な種族をヤフーと呼んでいるが、人間の成れの果てか?尚、Yahoo! との関係は知らん。
ガリヴァーの姿はヤフーに近い。違いとえいば、毛深くないことと、衣服を着ていることぐらい。フウイヌムには衣服の概念がないので、身体と衣服の関係がどういう構造になっているか分からない。また、フウイヌムの言語には、嘘とか虚偽といった言葉がないので、醜態を表す時はヤフーの行動になぞらえる。
ガリヴァーは、いつも品を保つために服を着ているが、寝所では服を脱ぐ。ある日、召使は服を脱いでいる姿を目撃し、ヤフーの姿に似ていることを報告する。ガリヴァーは、自分はヤフーでないことを示すために、故国の優れた政治制度について説明する。だが、フウイヌムには、権力、政府、戦争、法律、処罰といったものを表す適当な言葉がない。つまり、悪徳による支配によって、どうして社会が成り立つのか?を説明する術がないってことだ。
長期に渡る戦争で多くのヤフーが死ぬことになるが、戦争を仕掛ける原因は何か?と主人は訊ねた。領土や人民を支配するだけでは物足りないという動機、あるいは君主の野望、時には悪政を糾弾する民衆の不満をそらすために。敵が弱いというだけでなく、敵があまりにも強すぎるという理由もあれば、同盟に従うという理由もある。大義名分や正義なんてものは、いかようにも解することができるのが、人間社会というもの... などと説明したところで、フウイヌムに戦争というものを理解させることはできない。そもそも同じ人間仲間を傷つける動機が、理解できないのだ。
「理性の所有者だと称している者がこれほどの残虐行為を犯しうるとすれば、その理性の力は完全に腐敗堕落しきっていて、単なる獣性よりもさらに恐るべきものとなっているではないか、と疑わざるをえない。」
あらゆる人間を守るために考案された法律が、時には特定の人間を滅ぼす結果となる。嘘や欺瞞の概念のないところに、弁護士の存在意義をどう説明するのか?いかなる人間であれ、法廷で自分を弁護することは法律違反とされる。では、第三者がなぜ真相を知りえるのか?しかも、金を払って雇うとは?実際、弁護料の差異で弁護技術が加減され、判決が左右される。
「弁護士なんてものは、その商売から一歩でもはずれると、あらゆる点で殆ど例外なしに無知で愚かな連中だ。他人との交際も拙劣極まりなく、あらゆる学問や知識を必死になって目の敵にしている。専門の職業の場合もそうだが、それ以外の場合でも、何かの話題について論じ出すと、人間に関わっている普遍的な理性を言語道断なほど蹂躙する欠陥がある。」
説明をすればするほど、ますます人間とヤフーが一致してくる。主人は、ヤフーの特質を語り始める...
隣の地域のヤフーに対して虎視眈々と機会を狙い、殺そうとする。お前の言う戦争ってやつだ。その策略が失敗すると、あるいは外敵が見当たらないと、今度は仲間内で諍いを始める。お前の言う内乱っやつだ。この国には、いろんな場所で光彩を発する「輝く石」が出る。ヤフーはこれに目がなく、朝から晩まで掘り当てようと必死。しかも激烈に争う。お前の言う所有権ってやつだ。おまけに、第三者がこれ幸いとばかりに介入してくる。お前の言う、訴訟ってやつだ。ヤフーは実に狡賢く、陰険で復讐心が旺盛、身体は頑丈なくせに心は臆病ときた。したがって、傲慢、卑屈、残酷になるというわけだ。なるほど、人間ってやつか!
ある日、ガリヴァーが川で水浴びのために素っ裸になると、雌のヤフーが情欲に燃え、抱きついてきた。ヤフーが性交を求めてきたのだから、自分がヤフーであることを否定できないではないか...

フウイヌム国の総会で議題とされたのは、最も醜い賤しいヤフーを地上から抹殺すべきか否か。抹殺論者は、他の国でヤフーが理性者を偽ってフウイヌムを隷属していると主張する。主人は、総会で決定された勧告を実行するよう迫られる。理性ある動物が集団的な決定に強制されるとは、いかんともしがたい。主人は苦悩し、船を造って帰国させた。ガリヴァーは、フウイヌムから追放された哀れなヤフーというわけか。
ニュー・ホランドに到着すると土着民の矢を受けて負傷し、ポルトガル船に連行される。そして、洞察力の優れた船長ペドロ・デ・メンデスの手厚い歓待を受ける。船長の人間性によって、ようやく賤しいヤフーと人間の類似性から解放された。
しかしながら、フウイヌムの美徳に魅了された自分が、いかに啓蒙されているかを感じる。声や話し方、歩き方や身振りまでそっくりで、友人から馬みたいと馬鹿にされる。
「理性の命ずるままに生きているフウイヌムたちは、いくら立派な性質をもっているからといって、それを自慢してはいなかった。それは、私が自分に手足があるからといって何もそれを自慢にしないのと同じである。もちろん、手足がなければそれこそみじめなものに違いないが、それがあるからとって威張りくさる奴がいたら、気違い沙汰という他はなかろう。」

2015-06-28

"孤独な散歩者の夢想" Jean-Jacques Rousseau 著

自己弁明の書「告白」の余韻が残る中、ついでに自己愛惜の書にも触れてみる...
ルソーは、ディドロ、ダランベール、ヴォルテールら啓蒙思想の主流派と対立し、教育論「エミール」が禁書に指定され、スイスへ亡命。そして、かつての友人らの批判と、公衆からの迫害に反論し、自伝書「告白」を執筆した。病的なほどの自己弁明のために朗読会を催して失敗するなど、晩年のルソーはかなりまいっていたようである。
「こうしてわたしは地上でたったひとりになってしまった。もう兄弟も、隣人も、友人もいない。自分自身のほかにはともに語る相手もいない。だれよりも人と親しみやすい、人なつこい人間でありながら、万人一致の申合せで人間仲間から追い出されてしまった。」
ルソーは思い出を考察し、自己の性格を改めて確認しようと試みる。「夢想」は、「告白」に続く付録であると語り、異常な興奮と激情のうちに綴られる。この書には、かつてのような周到な計画が見られない。そして、完成を見ることなく、パリ郊外エルムノンヴィルで世を去る。
尚、翻訳版がいろいろある中で、今野一雄訳版(岩波文庫)を手にとる。

世間では、不信心者、無神論者、気違い、過激派など、まるで怪物のような言われよう。「永久平和論」の編者が不和を鼓吹し、「サヴォワの助任司祭の信仰告白」の作者が不信心者で、「新エロイーズ」の著者が狼で、「エミール」の論者が過激派というのか。必死に反論したところで、罵詈、誹謗、嘲笑、汚辱の雨は強まるばかり。個人は死んでも集団は滅びず、憎悪の情念は長く伝えられ、悪霊とともに不滅だ。
ならば対抗策はただ一つ、俗世間から距離を置くこと。 寒山拾得のごとく。忙殺の日々に、自己と語り合う時間などなかなか訪れるものではない。死までにそのような機会が訪れるのは、幸せなのかもしれない。不遇な運命がそうさせるのか。強い感受性がそうさせるのか。おまけに、孤独の試練が憐憫のある人物像に仕立て上げる。はたしてルソーは、自己を不動の境地へ導けたのだろうか?あのデルフォイの信託、汝自らを知れ!これほどの難題があろうか。孤独とは、完全な自己中心の世界。究極の自己満足の世界へようこそ!

人はみな、自己を救済できる領域を確保しながら生きている。魂の最後の砦が孤独ってやつか。不幸な思い出には、存分に言い訳し、曲げて解釈することができる。妄想の完全解放だ。人間ってやつは、自己中心的な性質を持っている。そうでなければ、自己存在の意義も薄れるだろう。それを抑制しようとするから、理性のような観念が薄っすらと浮かび上がる。おそらく自己中心的な性質を完全に排除すれば、善悪の区別もできなくなるだろう。集団生活で忌み嫌われる孤独ってやつが、真の安らぎをもたらしてくれる。孤独を恐れる者ほど、激情を爆発させやすい。ルソーは、ようやくその事に気づいたのか。幸福でありたいと願う者を、他の者が本当に不幸にすることはできまい。無我の境地を誰に妨げることができよう。
アテナイの賢人ソロンは老年になって、しばしばこんな句を唱えたという。
「わたしはたえず学びつつ老いていく。」

1. 自尊心について
ルソーは、もともと自尊心が弱く、社交界や文筆界を生きていくうちに次第に強くなったという。「人間不平等起源論」では、自己愛と自尊心を区別し、自己愛は自己存在との関係から自然に生じる観念で、自尊心こそ人間社会が生み出した悪徳の元凶だとしていた。本書でも、人を常に不幸にするものは自尊心だとしている。自尊心によって語られる理性は騒がしく、攻撃的で寛容性など微塵もないと。憎悪と敵意は愚かな自尊心によって生じると。
「自己に対する尊敬は誇りをもつ魂の最大の動因である。自尊心はいろんな幻想を描いてみせ、姿を変えておのれを自己に対する尊敬ととりちがえさせる。しかし、やがてそのごまかしが明らかとなり、自尊心が隠れていられなくなれば、もうそれを恐れることはないので、その息の根をとめるのはむずかしいが、少なくともそれは容易に押さえられる。」

2. 真実を語る義務
「告白」を書いたときほど、自分が生まれつき嘘に対して嫌悪を抱いているかを感じたことはないという。社交界の人物を実名で綴れば暴露本と化し、ヤジ馬どもが群がる。哲学書というより、芸能雑誌の類いか。真実ならば何を語ってもいいというのか?正義は、むしろ沈黙の方にあるのでは?ルソーも悩んだことだろう。その結果、臆病な性格を押し殺し、却って攻撃的になろうとは...
現在でも、普通の人は隠し事など持つはずがない!などと発言する有識者どもがいる。彼らはマスコミ天国でも唱えているのか?きっとそういう御仁は、自宅の映像をネットに公開されても、怒ったりはしないだろう。人生とは、恥の中を生きるようなもの。すべての基準は、理性に委ねられる。真偽と善悪をどう結びつけるか。偉大な文学作品とて、嘘で固められているではないか。馬鹿正直というものもある。誤謬と無知とでは、どちらが悪か?罪になる嘘があれば、罪にならない嘘がある。語るべき真実があれば、沈黙すべき真実がある。人間とは、おめでたい存在だ。自己欺瞞にも気づかないのだから。道徳本能など当てにできるか!公平無私など糞食らえ!
... などとルソーが思ったかは知らんよ。

3. 老年の意義
知らぬが仏という苦々しい経験がある。知らぬ方が望ましいという知識が確かにある。逆境は偉大な教師だが、あまりにも授業料が高い。しかも、老年で悟るには辛い。自我を研究しても、知った時にはもう遅い。だからといって、未成熟なままで、告白などという遠大な計画に挑んでも、精神を歪ませるだけ。人生とは、後悔で締めくくられるものなのかもしれん。いや、懺悔か。人間とは、知識と誤謬の狭間を彷徨う存在でしかないのかもしれん。
せめて平穏を取り戻し、死へ向かう心の準備を整えたい。これが老年の意義であろうか。社会の喧騒は、静かな瞑想など与えてくれない。欲望の騒がしい魂では、自己陶酔に浸ることもできない。詭弁の巧みな連中に、いつまで翻弄されているのか。雄弁者どもの哲学は、他人のための哲学。だから、熱心に布教しようとする。しかしながら、自我が飢えているのは、自分のための哲学だ。哲学するに、自己疑念や自己不信との全面戦争は避けられない。ルソーは、自らを励ます。
「形而上学的な小細工に、いつまでも惑わされるな!」
自分を賢いと思ったところで、実は虚しい妄想に支配されたお人好し、夢想に耽るだけの犠牲者、殉教者。自己回想では、知性や理性は無力となり、健全な懐疑心と啓発された利己心こそが試される。

4. 孤島を求めて
この領域だけ、本書全体のオアシスのような存在だ。孤独な旅行者を演出するには絶好の光景。無人島なら、なおいい...
ルソーは、休息で訪れたビエーヌ湖上のサン・ピエール島の追憶を語る。これほど深い愛惜の念に浸れる場所は他にないらしく、スイスでもあまり知られていないそうな。島には一棟の家があるだけで、管理人が家族らと住んでいる。孤独な牢獄においてさえ快い夢想が訪れ、神にでもなったかのような自己充足に浸る。抽象的で単調な夢想を味わうばかりか、魅惑的な映像までも瞼の内側に映し出す。凡庸な、いや凡庸未満の酔いどれは自由が欲しい!と大声で叫ぶが、想像力に富んだ天才は自由を静かに謳歌できるものらしい...
「現実に官能を刺激するすべてのものを寄せ集めて思いのままに空想を楽しむことができる夢想者にとっては、たしかにすばらしい機会だったのだ。長あいだの快い夢想からさめ、緑の草、花や小鳥に取り巻かれている自分を見、清く澄んだひろい湖水を縁どる幻のような岸べに遠く目を漂わせて、そうした愛すべきもののいっさいを自分の創作に同化させるのだった。」

5. 義務の重荷
「告白」では、5人の子供をことごとく孤児院に入れたことを弁明した。呑込みの悪い子には癇癪を起こす性癖があり、教育者たる資格はないと。このことが、世間から親の責任を放棄したと非難される。
だが、ルソーは、「エロイーズ」や「エミール」が子供嫌いの作品か?と世に問う。そして、義務と激情が衝突すると、義務が勝利することは稀だったと反省する。憤慨した自尊心は、不服な理性と一緒になり、嫌悪と抵抗を感じるだけであったと。魂を高揚させる逆境があれば、それを圧殺してしまう逆境がある。魂のうちに少しでも悪質な酵母があれば、逆境はそれを激しく発酵させて狂躁病に陥れる。ルソーを苦しめていたのは、これだという。
本当に、それだけであろうか?自己の魂が純粋な良心だけに支配されている、などと思い込むこと事態が危険である。人は誰でも傲慢な心を持っている。自分の道徳観や倫理観に自信を持つと、ろくなことはない。彼は、自由で、無名で、孤独であったなら、善いことばかりしていただろうと言っているが、これこそ傲慢ではないのか?人より劣っていることが許せないのか。子供じみた純粋さが悪いとは思わない。しかし、大人ってやつは、知恵を蓄えていくうちに狡猾になるばかりか、それすら気づかないもの。
さらに、あまりにも純粋な心の持ち主であるために、集団生活に向かず、義務の重荷に耐えられないという。不羈独立を好む天性は屈従を極端に嫌い、自由に行動する時には善良だが、束縛を感じる時には反抗的になると。
ルソーは世間を嘆く。活動的で騒々しく、野心に満ち、他人が自由であることを妬み、自分ですら自由を欲せず、ただ自分の意志を実行できさえすればいいという者で溢れていると。そして、自分自身を純粋な気まぐれの実行者であるとし、これを弁明しようとは思わないどころか、極めて道理に適っているという。
しかし、最も嫉妬と憎悪を抱いているのはルソー自身に映る。いや、彼自身もそれを悟っているのだろう。自由人は不自由人に妬まれるもの。特に、文筆の世界ではそうなのだろう。実際、言論の自由を訴える連中が自由な発言を迫害する。迫害も自由というわけか。自由人とは、なんと儚いことか...
「自分の性向に従うということ、気の向いたときに善行の楽しさを味わうということは徳とは言えないので、徳というものは義務が命じたときに自分の性向にうちかって、命じられたことを行うことにあり、これこそわたしが世間一般のだれよりもできなかったことなのである。」

2015-06-21

"告白(上/中/下)" Jean-Jacques Rousseau 著

「わたしはかつて例のなかった、そして今後も模倣する者はないと思う、仕事をくわだてる。自分とおなじ人間仲間に、ひとりの人間をその自然のままの真実において見せてやりたい。そして、その人間というのは、わたしである。」

古来、著述家たちは自叙伝の類いに挑戦してきた。ローマ帝国時代には、アウレリウスの「自省録」やアウグスティヌスの「告白」、ルネサンス期には彫刻家チェッリーニの「自伝」など、枚挙に遑がない。紀元前に遡ると、司馬遷の「史記」の末尾に「太史公自序」というのが添えられるそうな。
しかしながら、自分自身を冷静に綴ることは不可能なほど難しい。人生とは、臆病を隠しながら恥の中を生きるようなもの。どんな醜態にもやはり弁明はつきもので、美化、正当化の誘惑からは逃れられない。
そこで、ルソーは「かつて例のなかった... 」と豪語する。ちと大袈裟に映るが、文学界の評価はそうでもないらしい。恥も外聞も捨て、すべてを曝け出す近代的告白では、ルソーが開祖という評価もあるようだ。ゲーテ、トルストイ、ミル、ジッドにも優れた自叙伝文学があり、これらすべてルソーの影響下にあるとか。トルストイは、こう語ったという。「ルソーと福音書はわたしの一生に、大きく有益な影響をあたえた二つのもの。」
そもそも幸福な人間に哲学書や小説など書けやしまい。ましてや自叙伝となると。自分の不幸を舐めるように愛し、絶望感に浸る自我に溺れ、仕舞いには精神を破綻させることも厭わない。自我という空間に第三者の自我が現れ、検閲官となって自己を審判にかける。自叙伝とは、ある種の人体実験ある。精神分析学にとって意義がありそうな。この偉大な人物といえども、自我の責任追及に憂鬱症を重くさせていく。それでもなお衝動に駆られるのはなぜか?真理とやらは、それほど心地良いものなのか?いや、人生の未練を断ち切れないだけのことかもしれん...
尚、桑原武夫訳版(岩波文庫)を手にとる。

ルソーは、「マルゼルブへの手紙」(前記事「エミール」に付録)で陰謀説を綴り、「告白」の執筆を決意する。ルソーが引き篭もると、ヴォルテール、ダランベール、ディドロらが彼の心境を代弁する。ルソーにはそれが悪意に映る。ディドロ、お前もか!多少の皮肉や嫉妬もあろうが、本当に陰謀と呼べるほどのものなのか?単なる被害妄想では?自意識過剰の裏返しでは?
とはいえ、「エミール」の黙殺については陰謀説を否定できない。実際、禁書にされた。「人間不平等起源論」は反響があったものの、出版を妨げるものはなかったという。フランス政府が公刊を認めた「社会契約論」の大胆な議論にしても、「エミール」の中にことごとく現れる。なのに、なぜ「エミール」だけが?狙われたのは、ルソーという人間にあったと回想している。
だからといって、この告白で名誉を回復することはできまい。なにしろ、女友達を必要とする性癖や、夫人たちと愛人関係を結ぶマダムキラーぶりを披露しているのだから。ルソー自身、気違いじみた恋をする中年の色男と称している。社交界の色事が実名で記されれば、暴露本と化すは必定。おまけに、理解の遅い子供に癇癪を起こす性癖があることを告白し、自分の子供を教育する資格すらないと弁明しながら、5人の子供をことごとく孤児院へ入れる。
また、社交界の礼儀作法に気後れすれば、取るに足らない態度で大胆に振る舞い、我流を通すことで高貴に見せることができると、羞恥心を克服するテクニックを語る。論理的な物言いで攻撃するのも、社交界で威厳を保つテクニックというわけだ。
いくら「告白」が真実を語る使命を帯びているとはいえ、男として、父として無責任ぶりをぶちまければ、道徳家たちの猛烈な攻撃を受ける。自我が刻々と変化する様、多様性や寛容性との矛盾、まるで支離滅裂な精神分裂症の描写。彼がどんな使命に駆られたかは知らん。恥を歴史とともに残すことが、著名人の使命とでも言うのか...

一方で、ルソー自身は臆病な人間と評している。なによりも束縛を嫌い、強すぎる自由への欲望が無力感にさせると。人は誰しも臆病、だからこそ精神肉体ともに強くなろうと努力する。また、自由への渇望は自然学者に必要な資質である。そして、利己心を生み出すだけの皮相的な秩序にうんざりし、「社会契約論」ならぬ「社会険悪論」を展開する。孤独を愛したところで、今度は「自己険悪論」がつきまとい、見事なほど人間臭さを滲み出す。臭すぎるほどに...
これでルソーという人物が好きになるかは別だが、ただ一つ感服できるものがある。それは、自分自身の欠点を惜しみなく曝け出し、正面から対峙する勇気だ。人間の最も醜い情念は、虚栄心、嫉妬心、羞恥心の類いであろうか。ルソーはこれらの情念と葛藤し、ひいては自尊心に全面戦争を仕掛ける。美徳や道徳を教えることは簡単だが、問題は人間の醜い部分をどうやって教えるか?有識者や有徳者どもは、けしからん!といつも憤慨し、すぐに禁止用語やタブーに逃れる。本当の教育者とは、馬鹿を曝け出し、素直に醜い部分を曝け出せる者を言うのかもしれん。やっちまったことを、なかったことにはできない。覆水盆に返らず。喰ったラーメンは胃袋の中。エントロピーは神のごとく振る舞う。... 間違えない人間はいない。大切なのは、その後どうするか。後悔なんてものは、何もしないで嘆いている奴の言い訳でしかない!... ということか。

1. 青年期
1712年、ルソーは病弱な子として生まれ、母親は産んですぐに亡くなる。父親は、卑劣な軍人との喧嘩でジュネーブから逃亡し、ルソーは叔父に後見され、ランベルシェ牧師に預けられる。彫刻師に弟子入りするが、抑圧を感じて出奔。子供の身で、郷里、親戚、生計の元をいっさい捨てて。
そして、ある夫人からトリノに改宗者のための救済院があると勧められ、一旦そこに落ち着く。教化しようという企みは滑稽なほどで、カトリック教に対する嫌悪さえ抱いたという。その様子は、「エミール」の中の「サヴォワの助任司祭の信仰告白」で語った内容とほぼ同じ。
「新教徒は一般にカトリック信者よりよく教育されている。これは多分こうだと思う。一方の教義は議論を要求し、他方のは服従を求めるから。カトリック信者はあたえられる決定を、そのまま受け入れなければならぬ。新教信者は自分で決定することをまなばねばならない。」
改宗させるためには、前の宗教よりも優れた論理的争点を見出す必要がある。そして、聖典を読み尽くす。道理の感じられないところに罰則を用いれば、嫌悪感しか持てない。したがって、論理的な宗教議論を持ち込めば、概して無宗教者を創出することになる。そこに救いの僧侶との出会い。サヴォワの助任司祭のモデルは、ゲーム師とガチエ師という二人の尊敬する僧侶を結びつけたものだという。
「ごく小さな義務をかかさず果たして行くには、英雄的な行為をするに劣らぬ力がいる。名誉や幸福をうるにも、そのほうが役に立つ。そして、ときたま世間をあっといわせるより、いつも人に敬愛されているほうがどのくらいまさっているかもしれない、そういうことを悟らせてくれた。」
社交界デビューを果たすと、空想と官能の生活、享楽と欲望、そして大人という人種を知る。
「庶民階級のあいだでは、偉大な感情などというものは時たましかあらわれないが、自然の感情が率直にものをいうことが多い。上流の身分ではそういう声はまったくおし殺され、感情の仮面の下にいつも利害か虚栄心がものを言っているだけだ。」
そういうルソー自身が、社交界の夫人たちに溺れていく。中でも、最も大きな存在はヴァランス夫人。幼い頃から、坊や!ママン!(母さん)と呼び合う仲で後に愛人となる。母親を知らないルソーは、母性愛に飢えていたのか。定住せず、放浪生活を続け、ママンの住むシャンベリを度々訪れる。ニヨンに住む父親にも会いに行くが、再婚し、親の愛情は既に冷めている。放浪と不安定な生活のうちに成人した境遇から、「エミール」という理想像を描いたのだろうか...
1731年、ようやく国王に奉仕する土地測量の事業に雇われ、ママンの家に落ち着く。1740年から一年間、リヨンのマブリ家(哲学者コンディヤックの兄の家)に滞在し、家庭教師を務める。ルソーは、生徒の呑込みが悪いと悪魔になるという。すぐに癇癪を起こし、教育者に向かないタイプであると。それでも「エミール」を書いたのは、自省録のつもりであろうか...

2. 教育論とプラトン批判
合理的な健全な教育を受けた子供が、この世にあるとしたら、それはルソー少年だと豪語している。平民出身だが、風変わりな風習を持つ家庭に生まれ、正しい品行や名誉の手本を受けたと。父親は享楽家だったが、正しい心の持ち主で信仰心は厚かったという。宗教はあまり早く教えると危険とされるが、ジャン=ジャック・ルソーのような子供がいれば、七歳で神の話をしても何の危険もないことを保証すると言っている。
しかし、父親の側に立つと態度が一変する。義務の中で最も快い親の勤めを容赦なく踏みにじる堕落した心の持ち主であると。実際、子供5人を産ませては、すぐ孤児院に入れた。泣いて拒む妻を押し切って。冷酷無情な人間が自分の子を育てるよりも、教育を社会福祉に託す方がまっとうな人間になれると信じていた。だから、国家の一員として育てる道を選んだというのである。その弁明にプラトン批判を展開している。確かに、プラトン著「国家」には、子供は国家のために存在するといった文面を見つけることができ、国家教育の重要性を唱えている。現在でも、子供は社会で育てるべきだと主張する有識者たちがいる。だからといって、親が子供を育てる義務を放棄していいということにはならない。生活苦であったわけでもない。
「約束したのは告白であって、自己正当化ではない。だからこの話はこのへんで止める。わたしはただ真実をのべるべきであって、公平であるべきは読者のほうなのだ。それ以上のことを読者にもとめまい。」

3. 女道と独学道
父親失格の一方で、学問への情熱を語っている。
「かりそめにも学問が本当にすきな人であれば、それと取り組んでまず感じるのは、多くの学問がたがいにひきつけあい、助けあい、照らしあい、そして一つの学問は他の学問なしではすまされぬ、という相互の関連性である。もちろん、人間の精神はあらゆる学問をきわめることはできず、つねになにか一つを専門に選ばなければならないが、他の学問についてもなんらかの理解がなければ、往々にして専門の分野にも暗くなる。」
やはり独学は楽しい。自分のペースで好きなように寄り道できる。愛人と学べるなら最高!目的はただ一つ、自由を謳歌することだ。ましてや知性や理性を会得しようなどという野心はない。馬鹿は死んでも治らんよ。この道が天国行きか、地獄行きかも知らん。そして、世間知らずで終わるだろう。知りたくもないが。独学の苦労は、ルソーの時代とは比べ物にならないだろう。情報化社会では、食欲旺盛なだけ知識が手軽に入手できる。快楽人として、享楽人として、欲情と好奇心を存分に解放できる道はますます開けている。もちろん女性への欲情も修行のうちだ。
... などと綴れば、人道にも劣るというルソー批判は、おいら自身に向けられる。そういえば、恋愛すると頭が悪くなる、と夜の社交場のお嬢がもらしていた...

4. 音楽論
1742年、パリで音楽を学び、新たな記譜法を提案している。最大の長所は、移調と音部記号をやめてしまうことだという。曲のはじめにある頭文字の一つを変えさえすれば、同じ楽譜を何調にでも記譜できるという発想である。この方法論に批判的な連中を「パリのヘボな音楽家たち」と呼び、アカデミーに「現代音楽論」という著作で考えを世に問うた。この抽象化の発想は、数学的、プログラミング的ですらある。しかし、ラモーが明確な弱点を指摘した。これには反論の余地がないという。
「あなたの記号は、音の長短を簡単明快に決定していること、また音程を明瞭にあらわして、単音程をいつも複音程の中で示していることなど、すべて普通の音符ではできない点で、大変すぐれています。しかしこの記号は、頭の働きを要求する点がいけない。頭はいつも演奏の速度についてゆけるとはかぎりませんから。」
数字を拾い読みしなければならない記譜法は、ちらっと見るだけでは役に立たないというわけか。楽譜というものは、感覚的に相対的に眺めるところがある。

5. 逃亡生活
「沈黙と忍耐の二年後に、わたしは決心をひるがえして、ふたたびペンをとる。読者よ、わたしをしてやむなくそこにいたらしめた理由について、批判はひかえていただきたい。読んだあとでこそ批判はゆるされる。」
知人はかなりたくさんいるが、特別な友人はディドロとグリムの二人だけという。社交界で活躍する二人への嫉妬が、被害妄想を膨らませたのか?それとも、疑心暗鬼か?あるいは、病がそうさせたのか?
「不幸な者が勇気を出すと、卑屈な人間はおこるが、高潔な人は喜ぶものである。」
病で苦しんでいる時は、不機嫌になりやすい。ルソーほどの人物とて例外ではない。40歳を過ぎて持病の尿閉症が激しくなり、早死を覚悟した様子が語られる。それでも、66歳まで生きているが...
1762年、フランスへの愛着を持ちながら、この地を去らねばならない。不平等論がジュネーブ議会で反感を買い、エミールがパリの神学界で猛烈に批判を受ける。平穏に暮らすことを許されないという点では、フランスもジュネーブも同じ。不信心者、無神論者、気違い、過激派と呼ばれ、逮捕状は全ヨーロッパへ及ぶ。プロイセンに行けば、少なくとも宗教的に迫害されることはないが、フリードリヒが嫌いらしい。もともとカルヴァン派であったが、カトリックへ改宗したという事実もある。それでも心変わりしてフリードリヒ大王に敬意を払い、プロイセンへ。しかし、プロテスタントの僧侶たちは、支配欲のために宗教改革の全原則を忘却しきっている、と非難する。
当時、パリにいたデイヴィッド・ヒュームはイギリスに来るのがよいと勧める。だが、ルソーは生まれつきイギリス嫌いだという。やはり偏見が多いのはルソーの方では...

6. 自己評論
ルソー自身を、隠遁と田舎暮らしに向いた人間だとしている。そして、トゥーレーヌ州のことを思い浮かべ、美しい詩を紹介してくれる。

"La terra molle lieta e dilettosa. Simile a se l'habitator produce."
(土地は愛すべく、こころよく、ゆたかで、住民はその土地に似せてつくられている)

トルクァート・タッソの「解放されたエルサレム」の中にある詩句で、実際トゥーレーヌ州のことを歌ったものだそうな。本書には、このような素晴らしい文学的要素が存分に鏤められている。一方で、よくも照れずに、こんな自己評論が書けるものだ。読まされる側が照れる。
「わたしの過失や弱点にもかかわらず、またどんな束縛にも耐えられぬ性質にもかかわらず、そのかなたに、正しく善良で、悪意も憎しみも嫉妬心もなく、みずからのあやまちをみとめるにやぶさかでないばかりか、他人のあやまちもすぐに忘れる一人の人間を、ひとはいつでも見出すだろうと確信する。自分の幸福のすべてをひとを愛するやさしい信念のうちに求め、万事誠実をむねとする一人の人間がここにいる。この誠実は、軽はずみであきれるほど無私無欲なのだ。」
ヒュームは、百科全書派のルソーに対する非難を鵜呑みにしたわけではあるまい。だから、イギリスへ迎えようとしたのだろう。真偽を確かめようとしたのかもしれないが。ルソーが、こうしたヒュームの態度を怪しげに思ったのは確かなようである。というより、近づいてくる者すべてが怪しく見えたのかもしれない。
「頭の上の天井には眼があり、まわりの壁には耳がある。いじわるで油断もスキもないスパイや見張りにかこまれている。」
やがて、ヒュームもまた敵の一派と見なし、裏切り者と呼ぶ。そして、死期を悟り、偽名でフランスへ戻る。なんだかんだ言って、やはりフランス贔屓か。イギリス滞在中でもそうだが、召使とのトラブルが絶えなかったようだ。門番が病死した時、毒殺の容疑をかけられるのを恐れて、解剖を要求したという逸話もあるとか。友人が大病になった時、毒を盛られたと疑われるのを極端に恐れていたという逸話もあるとか。
本書には、かなり精神がまいっていた文面が読み取れる。同時に「告白」の完成に異様な執念を感じる。執筆だけでは不十分で、朗読会を開催している。出版できないかもしれないので。だが、圧迫を招いて墓穴を掘ったという。この言葉が、愛に飢えた老男の遠吠えのように聞こえる...
「真理のために受難するということほど偉大で美しいことを知らない。わたしは、殉教者の栄光がうらやましい。」

2015-06-14

"エミール(上/中/下)" Jean-Jacques Rousseau 著

おいらは、教育論ってやつが嫌いだ!説教じみていて、こそばゆい。素直に耳を傾けられないのは、心が歪んでいる証であろう。しかしながら、こいつが禁書に指定されたというだけで、天の邪鬼には読む理由となる。
本書には「マルゼルブへの手紙」が付録され、ルソーは憂鬱症で精神破綻を起こしていた頃の心境を告白しながら、自らスケッチ風の自画像を描いている。惚れっぽい酔いどれは、彼の自伝書「告白」へ向かう衝動を抑えられそうにない...
尚、今野一雄訳版(岩波文庫)を手にとる。

プラトンは、徳は教えられるものなのか?と問うた。徳が知識で説明できるならば教えられるだろうし、徳の持ち主に弟子入りすれば教育によって導けるはず。だが、有徳者や有識者と呼ばれる者の子供ですら犯罪をやる。どんなに優れた教育を大勢に受けさせても、同じ人間性が形成されるわけではない。人間の個性とは、それほど多様性に富んだ手強い存在だ。
教育の場では理論よりも実践が重んじられ、理想像を語り尽くしてもなんの解決にならないどころか、却って有害になることもある。そもそも教育とは、大人が子供を教えるといった類いのものなのか。偏差値といった成績の数値化によって得意科目がなんであるか、などと子供に暗示をかけているだけということもあろう。好きな先生と嫌いな先生というだけで、興味のある分野が変わるということもあろう。むしろ大人の方が、子供から学ぶことが多いのではないか。教育の場は、医療の場と似ている。神経学者オリバー・サックスはこう語った... 病とは、医師が患者を治してあげるといったものではない... と。
教育に限らず、先生と呼ばれる分野は、どうしても権威主義に陥りやすい。義務教育で無理強いされた文学作品にずっと拒否反応を示し、ようやく読めるようになったのは悲しいかな三十路を過ぎてから。おそらく作家の名を知らなければ手軽に本屋で立ち読みをし、もっと早く文豪に出会うことができたであろうに。
しかしながら、子供には大人の権威を必要とする時期がある。まず、神学や哲学をいつ導入するかという問題がある。特に宗教を教えるタイミングは難しく、むしろ好奇心が自然に生じることを期待した方がいい。救いを得るために神を信じなさい!これほど筋の通らない教理があろうか。だから、大人になっても子供じみた神の他に、神というものを想像できない。数理学者レイモンド・スマリヤンはこう語った... 私は子供の頃、まったく宗教的な教育を受けなかった。そのことを神に感謝したい!... と。
宗教は盲目的に神の権威を教えるだけに、自分で思考する力を放棄させかねない。そして、神の代弁者を狂信する。哲学は論理学と相性がいいだけに、巧みな言い訳をする術を会得しかねない。そして、屁理屈屋となる。真理探求者の資質は、建設的な懐疑心と啓発された利己心に支えられている。だが、懐疑心も利己心も、一旦暴走を始めると手に負えない。
大人たちは、子供の気持ちが理解できると思い込んでいる。それもそのはず、自分自身にも子供の時期があったのだから。だが、知識が精神を歪ませ、もはや知識を知らない頃の自分を思い出せない。十代と五十代では、もはや人格が違う。金銭や地位で人間の価値が評価される社会に慣らされれば、それ以外の価値が何の役に立つのか!と大人たちはもっともらしい事を言う。いくら自然的な良心に訴えたところで、巧みに利用する法律の方が遥かに絶大な力を持つ事は、誰でも心得ている。真に有用を体得した人間が、どれだけいるというのか?知識ってやつは、受容できる心構えがあって初めて有用となる。受け入れる度量のない子供に道徳観や倫理観を押し付けることは、人間が人間でなくなることを期待するようなものだ。そして迷信、偏見、誤謬へ導き、自分を賢いと信じ、人を見下すような権威主義に陥り、人権はとるに足らないものとなる。大人だって大きな子供でしかない。R-18 指定すべきは、大人たちが声高に唱える理性や知性の方かもしれん...

ところで、おいらには恩師と呼べる先生が二人いる。
一人は、小学校一、二年生と五、六年生の時に担任だった女性教師。一年生の時は何度ビンタを食らったことか。ちょっとでもズルをしたり、誤魔化そうとするだけで猛烈に叱られ、当時、恐怖心しかなかったような気がする。おまけに、母親と同年代で妙に気が合ってやがる。今時こんな教育をしたら、体罰問題で失職するだろう。ところが、上級生になると、優しく諭す態度に変貌していた。諭すというより暗示すると言った方がいい。鬼から穏やかに間違いを匂わされると、余計に応える。やがて妙に通じ合い、ある日、優しくなったのはなぜですか?と尋ねたことがある。すると、子供の教育は小学校低学年までが勝負!と熱心に教育論を語ってくれた。あまり幼い子を叩くと、それこそ虐待になる。間違いを犯した時に徹底的に叱る!そのようなことのできる時期は、意外と短いのかもしれん。教師に自尊心があれば、子供にも自尊心があるということだ。
もう一人は、中学校三年生の時に担任だった理科の男性教師。やたらと「節度」という言葉を口にしていた。哲学的に重々しく語るわけではなく、はしゃぎ過ぎたり、天狗になったりなど、子供っぽい態度を具体的に注意する。当時は大して気にもかけなかった言葉だが、もしかしたら哲学用語の「中庸」という意味で使っていたのかもしれない、と思うようになったのは大学生の頃。ちなみに、中庸の原理を唱えない偉大な哲学者を、おいらは知らない。
さて、積極的に学ぶという意志を起こさせるにはどうすればいいか?教育とは、これに尽きるような気がする。教師は、そのきっかけをつくることだけに専念すればいいのでは。自発的な好奇心こそが自由精神の源、弟子には常に積極的に学んでいるという意識を植え付けたい。専門的で高度な知識を学びたければ、書籍という良い教師がある。酒の味を知らぬ者が、プラトンの「饗宴」を読んだところで得られるものはあるまい...

1. ルソーの批判対象
本書は、エミールという平凡な人物の誕生から結婚まで、自然という偉大な教師に従って、いかに導くかを提示した物語である。そして、子供の発達状況に応じた教育をすべきだというテーゼを持ち込む。哲学者と教育者の違いは、哲学者はいつも正論を語ろうとするが、教育者は必要な時に少しずつ語る、といったところであろうか。お喋りでは、教育者は勤まらない。エミールの教育法が段階的に、しかも具体的に提示されるだけに、自分の子をすっかりこの通りに育てようとする親もいると聞く。だが、それはルソーの本意ではあるまい。教育哲学が教育論の奴隷になっては本末転倒、そこまで期待しては宗教教育となんら変わりはない。
「ああ、徳よ、素朴な者の崇高な学問、これを知るにはそれほどの労苦と道具が必要なのだろうか。その法則はすべての人の心のうちにきざみこまれているのではないか。だから、それを学ぶには、自分をかえりみ、情念をしずめて、良心の声にかたむけるだけでいいのではあるまいか。これこそほんとうの哲学だ。わたしたち平凡な人間はこういうことで満足することにしよう。」
ルソーは、人間は生まれつき善で、人間社会こそが人間を堕落させるとし、自然礼賛と人為排斥の教育論を展開する。そして、ロックやホッブスの自然状態を教育の場に持ち込むことを批判している。子供の感情的な情念に訴えるには、論理学的過ぎるきらいがあるのは否めない。
あるいは、女性にも男性の仕事や訓練をさせよとしたプラトンの国家論を批判している。女性にしかできない授乳や妊娠という仕事があり、自然的な平等主義に対して人為的な平等主義を否定している。
確かにプラトンやロックを批判しているが、結局は同じ哲学に帰するように映る。
また、ルソーは、法が自然的な存在であると主張したモンテスキュー思想を批判したことでも知られる。「法の精神」も同様に、教会や司祭の権威が自然的でないと批判したがために、禁書目録に加えられた。
いずれも、ルソーの批判対象はどうも腑に落ちない。愛情表現の裏返しとして、わざと悪く言う人はいる。称賛しているからこそ批判対象にもできる、という見方もできるかもしれない。そもそも精神を完璧に語れる者などいるはずもなく、どんなに偉大な哲学書でも、言葉の揚げ足を取ろうと思えばいくらでもできる。ルソーの性格までは知らんが、もしかして皮肉屋か?皮肉や愚痴ほど本音が出やすいものはあるまい。ちなみに、おいらは愚痴屋である。チームには、常に愚痴の言える空気を漂わせておきたい。しかも笑って言えるうちに...

2. 教育の矛盾
「世間の教育は二つの相反する目的を追求して、どちらの目的にも達することができないのだ。それは、いつも他人のことを考えているように見せかけながら、自分のことのほかにはけっして考えない二重の人間をつくるほかに能がない。ところが、そういう見せかけは、すべての人に共通のものだから、だれもだませない。すべてはむだな心づかいということになる。」
ルソーは、公共教育と家庭教育の双方の思惑から矛盾を生み出し、中途半端な教育を生み出し、人間形成もまた中途半端に終わると指摘している。ただ、教育にもいろいろな形があり、教師や教科書によって教えられるものとは限るまい。思慮分別や判断力ってやつは、極めて経験的で、学習的で、反面教師という形で実践されることもある。自然的な教育を掲げたところで、いつの時代も人間は自然を解せないでいる。そりゃ、公共教育で自然的な最低基準を示すことができれば、それに越したことはないが...
また、社会が知恵と称するものは、卑屈な偏見に過ぎないと指摘している。習慣というものは、屈従と拘束に過ぎないと。確かに、社会人は奴隷状態を生き、その中で死んでいく存在でしかない。むしろ教育論の対象は、純真な子供心を思い出させる大人の側にあるのかもしれん。まず、第一の義務は自分に対する義務、それは自分を欺かないことであろうか...
「人間の運命はいつも苦しんでいることにある。自分をまもろうとする心づかいにも苦労がともなう。子どものころ肉体的な苦しみしか知らなかった人は幸せだ。肉体の苦しみはほかの苦しみにくらべればはるかに残酷でも、そのために生きることを断念するようなことはめったにない。痛風を苦にして自殺する人はいない。絶望に追い込むのは心の苦しみ以外にはないといっていい。わたしたちは子どもの状態をあわれむが、あわれむべきはむしろわたしたちの状態だ。わたしたちのもっとも大きな苦しみの原因はわたしたち自身のうちにある。」

3. 言葉の欺瞞
言葉は人を欺く。語彙の数よりも観念の幅の方が重要か。言葉を知れば泣く必要がなくなり、これは自然の進歩である。だが、泣く行為が喋る行為に代替されるだけで、精神が成長しているとは言えまい。そして、泣くという抽象的な行為よりも、喋るという具体的で合理的な行為を知った結果、苛立った相手を叩いたり、殴ったりするよりも、より高度な言葉で陰湿に攻撃する方がダメージは大きい、ということを知るに至る。自分に欠けているものを探すのは、自然の欲望であろう。そして、知識の源となる言葉を求め、精神の成長を図ろうとする。問題は、何が欠けているかを見失うことだ。酔いどれには、人間らしい生き方が一向に見えてこない。やはり惨めな存在か。人間が創りだしたものは、愚劣と矛盾だらけ。歳を重ねるごとに命を惜しみ、ますます自己保存に執着する。人間五十年と言うが、五十を過ぎてもまだ生きたとは言えないとしたら、実際に死ぬことは辛い。執着するものすべては人間が創りだしたものだ。人生の長さほど不確定なものはない。子供の学ぶ貴重な時間を奪っているのは大人の方かもしれん...
「子供の語彙はできるだけ少なくするがいい。観念よりも多くの言葉を知っているというのは、考えられることよりも多くのことが喋られるというのは、非常に大きな不都合である。都会の人に比べて一般に農民がいっそう正しい精神の持ち主である理由の一つは、彼らの語彙が限られていることにあると思う。」
大人は子供に嘘をついてはならないと説教を垂れる。だが、現実を嘘で塗りたぐっているのは大人どもだ。本音と建前は、教育なんぞで学ぶものではなく、自力で獲得するもの。つまり、大人を反面教師にした結果である。イジメは悪いことだと教えても、メディアが集中砲火を浴びせかければ、なんの説得力もない。国会という最高権威の会議でヤジが飛び交えば、生徒会でも真似をする。しかも正義漢ぶって。大人は子供に義務を押し付けるが、大人自身が義務から逃避している。高度な道徳の持ち主とされる政治家ですら、説明責任を果たせないでいる。大人たちは子供を導くために、競争心、嫉妬心、自尊心、羞恥心、虚栄心、恐怖心といったものを利用するが、これらは同時に精神を腐敗させる情念である。人間の精神力は、自然の事象に対してじっと耐えることができても、人間の悪意に対しては我慢できないものだ。尚、この言葉は、ジャンク長文を書き続けるアル中ハイマーには実に耳が痛い!
「一般的にいって、わずかなことしか知らない人は多くのことを語り、多くのことを知っている人はわずかなことしか語らない。無知な人間は自分が知っていることをなんでも重要なことだと思い、だれにでもそれを話す、これはわかりきったことだ。」

4. 幸福論
同情は快い。悩んでいる人の位置に自分を置き、しかもその人のように自分は苦しんでいないことを確認できるのだから。羨望の念は苦い。幸福な人を見ることは、自分の不幸を確認することだから。すべては人と人の関係から生じる情念に支配されている。ならば、本当の幸福は孤独の方にあるのでは。だが、真の孤独を味わえるのは、恋愛や友情を謳歌した者であろう。人間関係を謳歌できる者もまた、孤独を知らねばなるまい。結局、同時に知ることになるとすれば、孤独もまた人間関係の中にある。双方を味わうことでしか知り得ないのは、相対的な認識能力しか持ちえない者の宿命か。
ルソーは、幸福に関する三つの格率を提示している。

第一の格率「人間の心は自分よりも幸福な人の地位に自分をおいて考えることはできない。自分よりもあわれな人の地位に自分をおいて考えることができるだけである。」

第二の格率「人はただ自分もまぬがれないと考えている他人の不幸だけをあわれむ。不幸を知っていればこそ不幸なかたをお助けしたいと思う。」

第三の格率「他人の不幸にたいして感じる同情は、その不幸の大小ではなく、その不幸に悩んでいる人が感じていると思われる感情に左右される。」

5. サヴォワの助任司祭の信仰告白
第四篇には「サヴォワの助任司祭の信仰告白」と題する章があり、ルソー研究には欠かせないものだそうな。どうやら彼自身の体験談のようである...
30年前、イタリアのある町で窮乏に陥った青年が、馬鹿げたことをしでかして逃亡者になったとさ。もともとはカルヴァン派であったが、パンにありつくためにカトリックに鞍替えし、改宗者のための救護院に入る。そして、議論によって導く教育を強制され、経験のない者を盲目という教理によって閉じ込められる。少しでも疑念を抱けば断罪され、盲目の中で共犯者が大量生産される。
「宗教は利害をかくす仮面にすぎず、神聖な儀式は偽善をかくすものになっているにすぎないと青年は見ていた。微妙なむなしい議論のうちに天国と地獄がことばあそびの褒美になっているのをみていた。」
そんな中、一人の誠実な聖職者が逃亡を手助けしてくれたという。サヴォワ生まれの貧しい助任司祭で、彼もまた若い頃の過ちのために国外へ逃亡した経験がある。聖職者は、恩恵を売りつけたり、説教することもなく、いつも青年の能力に応じて物事を語ったという。
「知力の低下がある程度に達すると魂は生命を奪われる。そして内面の声は食うことだけを考えている者にはどうしても聞こえない。不幸な青年があと一歩で精神的に破滅しようとしているのを救ってやるために、聖職者はまず青年に自尊心と自分自身にたいする尊敬の念をめざめさせようとした。」
人間は、単純な存在か、複合的な存在かは知らん。ただ、神秘があるだけといえば、そうかもしれん。真理という得たいの知れないものを、存在するかどうかも分からないものを、探求することで心地良さを感じるのだから。だが、虚偽で固められた哲学の信仰は、盲目に崇める宗教となんら変わりはない。知識は自ら知性へ導くものであるはずが、いつの間にか議論によって相手を説き伏せようとする道具に成り下がる。神を信じる人々の中から無神論者が生じ、無神論者の中から神を信じる者が現れるのも道理であろう。深い無知の状態こそが人間状態というものであろうか。哲学をやること自体が、堕落への道なのかもしれん。人は混沌の中を生き、裕福でもなお自殺しよる。動物たちが幸福そうに見え、精神を獲得した王者が惨めだとはこれいかに?人間と動物の違いは、人為的な奴隷か、自然的な奴隷かの違いか。人間は自然よりも下等な人間社会の奴隷に成り下がる。
では、人間社会で持ち上げられる義務とは何か?盲目的に秩序を維持することか?自然の秩序を都合よく解釈しては社会の秩序に置き換える。社会風刺の映画や小説の活況ぶりが、それを示している。善人が幸福になり、悪人が不幸になる社会ならば、皮肉や風刺といった文化は生じないだろう。正義は、いつも政治の手段に成り下がる。
「神というものはないなら、悪人だけが正しい推論をしているのであって、善人は愚か者にすぎない。」
おそらく神は聡明なのだろう。ただし、どんな風に聡明なのかは知る由もない。おそらく神は正しいのだろう。ただし、どんな風に正しいかは知る由もない。大人になればなるほど、良心を誤魔化す術を会得し、しかも道徳的な判断と大層な看板を掲げる。人間は生まれつき善だとしても、どうせ堕落するならば、生まれつき悪だとしても結果は同じなのでは?ルソー先生!いや、生まれつき悪だとすれば、逆に善へ変貌するかもしれない。いやいや、この方面でエントロピーの法則は絶大のようだ...

6. マルゼルブへの手紙
マルゼルブという人物は、名門の出で、図書局長官の職にあり、進歩的な思想家に好意を寄せていたという。「エミール」の出版にも便宜をはかったとか。
ルソーは憂鬱症だったとも言われている。引き篭もると、その態度がキザと見られ、哲人気取りの犠牲になって惨めな状態にあると評判されたという。その反論が手紙に綴られ、特に友人たちが言いふらしていることを残念に思っている様子がうかがえる。これは、ある種の精神破綻であろうか。哲学者なら誰でも孤独愛好家となる資質を持っているだろう。それは虚栄心との戦い、自己嫌悪との戦いである。一度名声を獲得すると、不幸な人間と思われることが、それほど辛いのか?それほど悔しいのか?ルソーほどの人物でも、尊敬を得たいという願望は心の底のどこかに残っているようだ。そんなことが虚しいことだと自己を説得したところで、完全に捨て去るにはよほどの精神修行が必要であろう。
引き篭もりの原因は、手の付けられないほと強い自由な精神にあると告白する。地位や財産や名声までも無意味とする精神にあると。自由な精神は、傲慢な心からきているのではなく、むしろ怠惰な性質からきていると。社会生活のほんのちょっとした義務にさえ耐えられないと。評判に惑わされている自分自身が情けないのかもしれん...
また、ルソーは、エミールの本文中で読書家を批判している。
「書物の悪用は学問を殺す。人々は、読んだことは知っているのだと思い、自分はそれを学ぶ必要はないと思い込んでいる。あまりたくさん読むことは、なまいきな無学者をつくるのに役立つにすぎない。文学が栄えたすべての時代のなかで、現代ほど書物が読まれていた時代はないし、現代ほど人々がものを知らなかった時代もない。」
彼自身が、日々読書を重ねてきた。読書を嫌悪するのは、真の読書家の宿命であろうか。そして、社会嫌いになり、人間嫌いになり、自己嫌悪に陥るのは、哲学者の宿命であろうか。それでもなお、その衝動が抑えられないのは、真理に身を捧げることがいかに心地良いものかを物語っている。宗教は、精神を病んだ人の心の隙間に巧みに忍び寄る。真理は、健全な精神の持ち主までも虜にする。やはり人間は、慢性的に依存症を抱えているようだ...

2015-06-07

"人間復興の経済" Ernst Friedrich Schumacher 著

「自明の理はいとも容易に忘れられる。既存の経済秩序も、それを再建するために進められる多すぎるほどの企ても、自明の理を無視すれば倒壊する。つまり、一般民衆は魂を持っているので、物質的な富がどんなに増えても、彼らの自尊心を侮辱し、自由を傷つけるような所業を償えるものではないという真理を無視すれば、失敗に帰するのである。経済の組織を正当に評価するには、放縦な人間の本性から繰り返される暴動によって、産業が麻痺しないように、純経済的でない判断の基準をも満足させる必要があるという事実を認容しなければならない。」
... R. H. トーニー

原題 "Small is Beautiful." には、「あたかも人間を重視するかのような経済学の研究」という皮肉な副題がつけられる。経済学者エルンスト・フリードリッヒ・シューマッハーは、手段に邁進する生産経済を批判する。経済学の問題は、哲学に帰するはずだと。実際、現代の経済政策は、消費を煽ることを基調としている。これは、巨大主義と物質主義のはびこる近代社会への挑戦であろうか...
「ケインジアンのご信託はしごく明白である。御用心!道徳的な配慮は全然無関係であるだけでなく、実際には障害である。不公正は有益であっても、公正は有益ではないのだから、公正の時代はまだきていない。天国への道は悪しき意図によって舗装されている。」

本書は、特に資源エネルギーの破壊的消費を問題視している。実際、エネルギー問題は常に環境問題と結びつき、これを安全に解決できる手段を、人類はいまだ見出せないでいる。科学や技術は、発明したのではなく、法則を発見したに過ぎないというわけか。地球は誰のものか?と子供が問えば、それはみんなのもの!と大人は答える。だが、天然資源で儲けているのは、一部の大人どもだ。土地も、化石燃料も、すべて所得や資本で計算される。自然資源を浪費する自滅的な活動を、自然界は不合理と呼び、経済界は合理的と呼ぶ。マルクスでさえ有用な資本をすべて労働と結びつけ、あらゆる資本を人間の価値として捉えた。人間が生きるということは、食料資源やエネルギー資源を消費することを意味する。そもそも、自然に対して多大なリスクをかけなければ、これだけの人口を支えることは不可能である。
しかしながら、経済体制と社会制度の維持といった側面からしか人口論は語られない。少子化問題ですら、大人たち自身の老後の面倒を見てもらうために、たくさん子供をつくりましょう!という有り様。どんな自然の生物にも数の限界というものがあり、過度になれば自己消滅してきた。人類が自然と折り合いをつけるならば、地球上の適切な人口というものがありそうなものだが...

「文明人はほとんどいつも、一時的に環境の主人になることができた。一番やっかいな問題は、一時的に主人であるにすぎないのに、永久にそうだという幻想を抱くことである。自然の法則を十分理解できないのに、自分自身を世界の主人であると考える。」
... トム・デールとパーノン・ギル・カーターの著作「地表と文明」より

1. 平和論
「平和のもっとも健全な基礎は全世界的な繁栄であるというのが、近代の支配的な信仰である。富めるものは常に貧しいものよりいっそう平和的であるという歴史上の証拠を探し求めても無駄であろう。しかも彼らは貧しい者に対して安全だと感ずることは決してなく、彼らの侵略性はこうした不安に根ざしている。」
富めるものが、戦争に行く理由がどこにあろう。すべての人々が豊かになれば、事情は変わるかもしれない。だが人間は、決定的な悲しい性(さが)の持ち主である。自意識過剰な上に嫉妬深く、ライバルを蹴落とさずにはいられない。自分が幸せに生きるだけでは満足できず、困窮に瀕すれば内乱に没頭し、少し余裕ができれば戦争をやりたがる。
富とは、相対的な価値でしかない。無限に求める者がいる一方で、国が豊かになり、GDPが高くなっても自殺者は減らない。はたして、全世界が繁栄することは可能なのか?自己抑制の物質主義は実現可能なのか?そして、それは平和への道なのか?泥酔者のおいらにはとんと分からん。ドロシー・L・セイヤーズは、「戦争は一つの審判」とし、こう語ったという。
「宇宙を支配する法とあまりにもひどく矛盾する思想によって社会生活が冒されているとき、そのような生活は突然戦争に襲われるものだ。戦争を不条理な災厄と決して考えるな。戦争は、思想と生活様式が耐えがたい状況をもたらすときに起こるものである。」
ここでいう戦争には、金融危機やデフォルトの類いも含めておこう...

2. 中道の経済学
ガンジーは、こう言ったという。
「地球はすべての人間の必要を満たすのに十分なものを提供するが、すべての人間の貪欲を満たすほどのものは提供しない。」
今日、草食系人種が経済社会に閉塞感をもたらすという意見を耳にする。だが、みんながみんな肉食系となって自然資本を浪費すれば、人口を維持することも難しい。若年層の失業問題を抱えている中で、自発的に仕事を放棄する者も必要であろう。ダーウィンの自然淘汰説は、なにも弱肉強食を正当化したわけではあるまい。地上に豊富な生命を溢れさせ、共存するには、生命体が多様性に富んでいる必要がある、というのが真の意図だと思う。市場は個人主義と無責任を制度化したものかは知らんが、アダム・スミスは完全な自由放任主義を支持したわけではあるまい。
今日、成功と呼ばれるものは、本当に成功しているのだろうか?世間では、勝ち組と負け組で区別されるが、それは合理的な分別であろうか?自己を優越したいがために、そのような枠組みをこしらえるだけではないのか。真の成功者は、自ら優越する立場を必要とはしないだろう。そんな感覚すら持ち合わせないのかもしれない。貪欲と嫉妬に駆り立てられる者は、物事を立体的に、総合的に捉える力を失い、成功の概念までも見失うだろう。
「物質主義者は主として財に関心を持つのに対して、仏教徒は主として解脱に関心を持つ。しかし、仏教は中道主義であり、このため物質的福祉に決して敵対するわけではない。解脱の道に立ちはだかるのは富ではなく、富への執着であり、愉快な事柄を愉しむことではなく、それを渇望することである。したがって、仏教経済学の基調は簡素化と非暴力である。」

3. 技術の節度
アインシュタインは、こう言ったという。
「ほとんどすべての科学者は経済的に完全に依存しており、社会的責任感を持っている科学者は非常に少ないので、彼らは研究の方向を決定することはできない。」
ほとんどの人は、世論に基づいて仕事をしている。世論に依拠する政治家は、経済主義の拘束から解放されない。逆に言えば、どんなに野心的でスキャンダラスな人物であっても、おまけに危険な思想の持ち主であっても、経済政策さえうまくやれば黙認される。それを監視すべく世論もまた、最も危険な集団性の問題を抱えている。巨大化と官僚化の原理に、権威主義が絡むと、ろくなことはない。人間社会は一旦悪循環を始めると破滅までいくものらしい。
さて今日、技術思想を支えているムーアの法則には、本当に限界がないのだろうか?トランジスタの集積化にもそろそろ息切れを感じなくはないが、度々直面する問題を新技術が解決してきた。そして、量子コンピュータが更なる加速をもたらすであろうか?
そもそも、人間は電子を完全に制御できているわけではない。電流や電圧はあくまでも統計的な物理量であって、個々の電子を制御しているわけではなく、極めて確率論的だということだ。ある条件下で多数決的にスイッチング制御するという意味では、民主主義的ですらある。
したがって、明確な条件下でなければ論理的な機能を果たせず、曖昧な条件が少しでも紛れ込むと簡単に暴走を始める。人間自体が量子で構成された存在なのに、はたして量子を個々に制御できるのか?という自己矛盾を孕んでいるわけで、ごく少数派でマクスウェルの悪魔君に支配されているだけのことかもしれん...
「自然はつねに、いつどこで止まるべきかを知っている。自然の成長より大きな神秘は、自然的成長の停止の神秘である。すべての自然的事象には、規模、速度あるいは激しさにも尺度というものがある。その結果、自然の体系(人間はその一部であるが)は自己均衡、自己調整、自己浄化の傾向を持っている。技術にはそれがない。いや、技術の特殊化によって支配された人間にはそれがないと言うべきかもしれない。」

4. 沈黙思考
「思慮分別の真髄は、善いことをなすのには現実に関する知識が前提となるというものである。物事とその状況がいかなるものであるのかを知るものだけが、善いことをなしうる。思慮分別の真髄は、いわゆる善意ないし十分な考えだけでは決して満たされはしない。」
客観性は、人間の利己心を一次的に抑制する「沈黙思考」による以外には成就できないという。しかしながら、完全な思慮分別を獲得することは不可能であろう。大声で主張する者が優位な立場になれるのが人間社会というもの。沈黙が真の力となった時、人間社会が成熟した証ということかもしれん...
「正義は真理にかかわり、堅忍不抜は善にかかわり、克己は美にかかわる。そして思慮分別はこれら三つのすべてにかかわる。」

5. 知性論
教育が専門化によって没落するという考えは、誤解だという。専門化そのものを誤りとすれば、深遠な学問はありえない。間違っているのは、専門化ではなく、問題に対する理解の深さが欠けていることだという。つまり、形而上学的な観点が欠けていると。
今日では、政治も、経済も、科学も、技術も、あらゆる分野で手段を講ずることに没頭する。哲学的な問題はすべて解決済みと言わんばかりに。知識が豊富だからとって、知性が磨かれるわけではない。むしろ知識は、人を馬鹿にするための道具となるばかりか、危険な存在にも十分になりうる。実際、有識者たちですらいつも憤慨しているではないか。知識が豊富でも精神は平静ではいられない。有識者がこの有り様では、利己心に憑かれたおいらには、知性や理性なんぞ永遠に無縁だし、道徳なんてものは自己を欺くためのまやかしであり続けるだろう。
「知ることは悲しいことである。それをもっともよく知るものは、宿命的な真実を深く悲しまなければならぬ。知識になる木は人生の木ではない。」

6. 貧困問題
「ガンジーが言ったように、世界の貧困は大量生産によってではなく、大衆による生産によってのみ救われる。」
社会が豊かになってもなお、大量失業と都市への大量移住に歯止めがきかない。有識者たちは、社会福祉が充実していないからだと主張するが、支援殺しにしてはいないか?堕落へ導いてはいないか?豊かな者はいっそう豊かになり、貧しい者はいっそう貧しくなる。こうした状況は規模こそ違えど貧困国とて同じようで、貧困国への援助は、官僚化や腐敗化の餌となっている。貧困国における開発の問題は、経済学の問題というより、むしろ教育や政治の問題であるとの意見をよく耳にする。本書も、その例に漏れない。知識も、技術も、受け入れる度量と心構えがいる。最新技術を導入したところで、効果は上がらないし、むしろ中間的な技術が必要だと主張している。
「すべての思考の出発点は貧困であり、人間をみじめにし、堕落させ、はずかしめる貧困の度合である。この貧困の度合がどこまで及んでいるのかを認識し、理解するのが、われわれの最初の仕事である。ここでもまた、野蛮な物質主義の哲学は、物質的機会だけをみて、非物質的要素を看過しがちである。貧困の原因の中で、物質的要素つまり自然の富の不足、資本の不足あるいは社会資本の不足などはまったく二次的なものである。極貧の第一の原因は非物質的なものであり、教育、組織そして訓練の欠如の中にある。」

2015-05-31

"富の理論の数学的原理に関する研究" Antoine Augustin Cournot 著

本書は、数理経済学を最初に確立した書とされるそうな。経済学が抱える根幹的な問題は、いかに正当な価値を与えるか、これに尽きるだろう。客観的判断を求めるために、あらゆる学問分野で数学という道具が威力を発揮してきた。経済学の発展においても数学者の貢献は大きく、マーシャルやケインズもまた数学から発している。その先駆けが、著者アントワーヌ・オーギュスタン・クールノーあたりになるようである。ワルラスの一般均衡理論にも多大な影響を与えたとか。ただ道具なだけに、ちょいと扱いを間違うと、誤謬を犯しやすいことにも留意しておこう...

時代は19世紀、アダム・スミスの次を担う世代。「国富論」という表題からも、政治の一分野としての印象が強い。本書にも、その余韻が残っており、政治経済学という用語を見かける。ただ、数学的な考察はスミス以前から見られる。17世紀、ジョン・グラントやウィリアム・ペティに発する「政治算術」は、既にマクロ的な視点を与えていた。
クールノーは、数理モデルを導入しながら、生産社会の仕組みを解明しようとする。つまり、生産者側の立場から、価値判断や価格設定を数式化しようというわけだ。現在では、価格は需要との関係から決定される、というのが常識とされる。真の経済活動に目が向けられ、いよいよ政治の思惑から脱皮したミクロ経済学の本格的始動を予感させてくれる。
注目したいのは、需要曲線や供給曲線らしきものの関係から均衡が考察され、限界効用らしき概念が導入されていることである。そう、近代経済学の根幹をなしている法則が、既にこの時代に見られるのだ。その前提となる活動の動機に、「利益の最大化」を求めることを宣言している。それは、あくまでも前提条件であって、ここから始めないと何も始まらない!と表明しているに過ぎない。複雑系を考察するには、なんらかの条件を仮定し、単純なモデルから始めることになろう。
しかしながら、後世の経済学者は、この前提条件を鵜呑みにし、長らく絶対条件としてきた。合理的な行動の代名詞として...
古典に触れてみると、最新理論においてさえ首をかしげたくなることがよくある。人間ってやつは、記憶や知識を辿りながら、連続性の中でしか認識することができない。現在という瞬間現象だけで未来予測ができるほど賢くはないのだ。おまけに、時間の矢に幽閉される存在ときた。エントロピーは、まさに神のごとく振る舞ってやがる。現代理論をそのまま鵜呑みにしては、大昔の二の舞を喰らうことになろう。
古典なんてものは、読まないより読んだ方がいい、ぐらいのものかもしれない。確かに、クルーノー理論には古めかしいところがある。しかし、だ。いかに近代理論が構築されてきたか、その思考過程を観察して根本哲学を知ること、これこそが古典を読む意義なのだと思う...

クルーノーは、独占形態から生産者による中間的な不完全競争を論じ、ついには無制限の自由競争へ移行する段階を考察する。その中で分配と所得の問題を検討する。自由競争の形態を独占状態から出発するところに、ロックやルソーが政治学的に唱えた自然状態と比べ、やや違和感があるものの、価格上昇にともなう社会所得の上昇の必要性を唱え、経済循環による資本の自然増殖を予感させるような記述も見られる。そして、需要関数と販売関数を連続関数で規定し、多項式による変動関数的な発想で積分的思考を要請してくる。多項式とはいえ、すべての条件が加味されるわけもなく、抽象的な記述にならざるを得ないのだけど。
一方で現在では、瞬間的な儲けを最大にしようと目論むあまり、微分的思考がもてはやされ、証券アナリストは市場を煽る占い師のごとく振舞う。株価を予測することが、いや煽ることが、経済学の役割ではあるまいに...
また、デュオポリー的な観点は、問題提起として取っ付き易い。すなわち、二つの市場の絡み合いと、二者による独占論である。投資の意義については語られないが、為替変動に対する銀行取引の相殺によって、力学的に経済安定に向かうといった考察は興味深い。生産費用の正当性は、パートナーシップとの相補関係と健全な競争原理にかかっている。官僚化した市場は不用となるばかりか、他の市場にも影響を与え、公害を撒き散らす。市場に対する政治の関わり方において、租税の影響や公平性についても言及される。政治がいかに市場を歪めているか、と。
そして、これらを統合すると... 利益の最大化を求める動機から独占市場が形成され、一旦は限られた生産者によって寡占状態となるが、やがて訪れる価値の多様化から真の自由競争が見えてくる... などと解するのは行き過ぎであろうか。
今日の経済社会は、物質的欲望の価値評価を主眼に置き、すべての価値は貨幣で換算される。しかし実際は、価値観の多様化が進む中でフリー市場やボランティア労働が増殖し、インフレやデフレなどの単純な相関関係だけで経済状況を計ることはできない。アングラ経済が実質GDPの底上げをしているのも事実だ。経済学とは、人間社会を考察する一分野であり、労働や商業活動、あるいは教育や人口変動などの無限の要素から、総合的な分配に目を向ける必要があろう。それは、古代から変わりはしないだろう...