2017-06-04

"英文快読術" 行方昭夫 著

グローバル化していく社会にあって、英語に無関心でいることは難しい。受験生は仕方ないとして、突然、海外赴任を命じられる事もある。具体的な動機が見つからなくても、せめて英語ぐらいは... と漠然と考えている人も少なくないだろう。欧米人並に操りたいと理想を膨らます人から、海外旅行で道を聞く程度まで、目標設定によって挫折感も違ってくる。日本の英語教育には、入試対策が巧妙化するだけで、中学二年生ぐらいから徐々に落ちこぼれていくという悲しい現実がある。大学は、非常識なほど難しい題材を扱い続ける。その難易度が格付けと言わんばかりに。英語教育が英語嫌いを助長するとは、なんとも皮肉である。

では、学校の教材や参考書が悪いのだろうか?本書は、そうではないと指摘している。日本語の達者なアメリカ人のエピソードでは、日本の学校教育のように要領よく教えれば、文法的に酷い間違いをするアメリカ人も減るだろう、と言ったとか。それで成果は?と問えば、一言もない。楽しんで参考書を読んだなんて記憶はまったくないし、一時的な入試対策では卒業とともに廃棄してしまった。手段ばかりに目を奪われ、本来の目的を見失っていた典型である。そして、最初から教材探しに翻弄する羽目に...
あのシドニーシェルダンのオーソン・ウェルズが演じるシリーズを購入したのは、二十年前になろうか。そぅ、ドリッピーだ!英会話学校へ通えば、外国人講師から broken english を勧められる。最初から完璧に喋ろうとしても言葉が出てくるはずもなく、もっと人生楽しもうぜ!ってな具合に。ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」を題材とした英会話講座に参加すれば、いい歳こいたオヤジが学生に混じって、いまさらアリスもないだろう!と恥ずかしい思いもしたが、実に楽しかった。習うより慣れろ!とは、プログラミング言語と同じ。
そんなおいらだって、そこそこ喋れるようになった時期がある。だが、使わないとやはり衰える。いまだに外国人の前ではジェスチャーが多く、失語症のような感覚に見舞われる。老齢化って言うな!英語で失敗し、恥をかくこと幾度と知れず。どうやら英文と戯れることを、またもや忘れかけているようだ。
本書は、英語再入門のための指南書である。具体的な活用事例として、小説の retold 版を紹介してくれるのがありがたい。著者行方昭夫氏には、サマセット・モーム小説の翻訳で魅せられた。小説と戯れるような感覚で英語長文に触れられれば... この感覚こそ、解読術ならぬ快読術!それは、速読術ならぬ速愛術のようなものか...

言語習得に、単語と熟語、文法、文章読解という三つの力を鍛えることは、いつの時代も変わらない。ただ、英語と日本語は物理的に周波数帯が違うわけで、巷を騒がしている「聞き流すだけで...」といった宣伝文句にも一理ある。
一方で、海外留学をすれば、すぐに身につくというものでもない。却って大量な英語に圧倒されて引き篭もってしまい、そのまま帰国するケースも珍しくない。結局はコミュニケーション能力が問われる。
いずれにせよ学習法は千差万別。自分にあった方法は、いくら遠回りをしても自分で見つけるしかあるまい。具体的な生活の場で会話を訓練すれば規則も自然に身につく、という考えもあろう。実際、英語圏の国では子供でもすらすらと喋っているし、日本人の子供だって立派に日本語を操る。
では、子供と大人とでは何が違うのか?少なくとも、いい大学に入りたい、いい職業に就きたい... などという脂ぎった動機は持ち合わせていないだろう。母親に相手にしてもらいたい、単に興味がある... といった純真な心から発しているように見える。大人どもは、知識でも、技術でも、なんでも手っ取り早く身につけたいと考える。他人の知識や経験を活用し、自分だけは損をしたくないと考える。労力最小の原理に取り憑かれているのだ。人間ってやつは、経験を積んでいくうちに、面倒くさがり屋になっていく動物のようである。
昔から、数ヶ月で英語がものになる!といった宣伝文句を見かける。だが本書は、あえて、じっくりと長文を味わおう!という視点から、英語学習の明るい面を強調してくれる。とはいえ、長文と戯れるのは、やはり骨が折れる。読書体力を養わねば... それは英語に限ったことではない。

1. 誤訳について
日本語と英語では系統があまりにも違うだけに、熟練した翻訳家であっても誤訳はつきもの。そもそも、日本語で会話していてもよく勘違いはするし、客観性を保つべき法律においてすら解釈をめぐってしばしば論争になる。それは、言語システムの特性と言ってもいいだろう。言葉が精神の投影だとすれば、精神を完全に解明されていない今、言語システムには曖昧さがつきまとい、その柔軟性が進化をもたらす。弁証法ってやつは、永遠に廃れることはあるまい。しかも、言語は時代によっても変化し、社会風習との結びつきが極めて強い。
ただ、真のグローバリゼーションな社会であれば、なにも英語にこだわることはあるまい。いまだ人類は、絶対的な言語システムを編み出せないでいるのだから。どんな言語にも長短はある。古代には、ギリシア語世界、アラビア語世界、中国語世界があった。禅の伝道者は、真の数学を追求したければラテン語から学べと説くだろう。ユークリッドは原論をギリシア語で書き、後にアラビア語からラテン語に翻訳された。ニュートンはプリンキピアをラテン語で書いた。太陽王ルイ14世の時代には、知識人はこぞってフランス語かぶれになった。現在、英語が主流となったのは、ナポレオン戦争や二つの大戦の結果だけがそうさせたのではあるまい。大航海時代の宣教師たちの下地があってこそ。
言語に群がる特性は、政治や経済の力関係だけでなく、学問分野や専門職業との深い結びつきがある。英語圏の国は意外と少なく、公用語であっても主要語になっていない国も多い。ヨーロッパ大陸では、ドイツ語、フランス語、スペイン語の方が実用的かもしれない。
そして、多様性という人間の特性を存分に発揮し、翻訳界はますます活況となろう。第一外国語だけでなく第二外国語を学ぶ意義は、言語の長所と短所を互いに認識させることにあるのだと思う。実際、原作者が翻訳版からヒントを得て、改訂版に反映させるというケースもよく見かける。逆に、翻訳が酷すぎるために絶版に追い込まれるケースもある。せっかくの原書を台無しにする罪は重い。解釈をめぐる批判は、人間の多様性を相手取るだけに一筋縄ではいかない。
ぶっちゃけた話、意図的に非難しようと思えば、どんな優れた訳書でも、あたかも間違いだらけのような印象を与えることはできるのだそうな。批判ってやつは、よほど良識をもってやらないと意地悪や難癖となる。ド素人から見れば、専門家レベルの誤訳指摘は五十歩百歩という気もしなくもないのだけど。ただ、日本語力の違いをまざまざと魅せつけ、むしろ日本語の勉強になって、おもろい!

2. オススメの参考書
意外にも、英文解釈のための参考書に、受験参考書をあげている。解説まで施され、一般に英文を正しく読もうとする大人にとって、この上なく優れた教材だという。確かに、高校までの語彙に限定され、専門知識も不要だし、問題作成に膨大なエネルギーが注がれていることは間違いない。しかし、アレルギーが...
当時、ひたすら受験のために要領をえようとしただけで、十分に活用したか?と問えば、そんなことは断じてない。本書で紹介される小説の抜粋は、長文の横に解説が施され、参考書の形式そのものだ。英語学習で最も不足しているのは、平易な英文をたくさん読むことだという。そして、具体的に、こういうものを薦めてくれる。

  • 原仙作著, 中原道喜補訂 「英文標準問題精講」
  • 芹沢栄「英文解釈法」
  • 朱牟田夏雄「英文をいかに読むか」

あれ?「英文標準問題精講」は見覚えがあるような...

3. 気軽に辞書を引こう!
当たり前のことだけど、日本語の小説を読む時ですらしばしば辞書を引く。今ではネット空間に辞書があるので、かなり気軽に引ける。
特に、用例を見よ!と、「ホレーショーの哲学」というものを紹介してくれる。シェークスピアの「ハムレット」にある台詞で...

"There are more things in heaven and earth, Horatio,/ Than are dreamt of in your philosophy."
「ホレーショー、天と地の間には、いわゆる哲学などでは夢にも考えぬことがあるものだ。」

"your philosophy" とすれば、普通は「君の哲学」と訳されるが、"your" を辞書で引けば、「(通例けなして)いわゆる、かの、例の」といった説明もあるという。
辞書にすべての事例を載せるのは不可能。辞書は万能ではないし、使いこなしてこそ価値がでる。英語だけでなく、日本語にも精通しなくては、いい翻訳は生まれない。そこで、役に立つ表現辞典を紹介してくれる。

  • 中村、谷田貝、両氏「英和翻訳表現辞典」

例えば、"reserved man" を「ひっ込み思案の人」と訳しているんだとか。なかなか洒落た辞書のようだ...

また、イディオムに注目せず、正しい英文快読はありえない!と強調している。"you know" とはよく使うフレーズで、「ご存知のとおり」といった意味。しかし、相手が知らないことを皮肉って、「なんじ知れ!」という命令形もよく使われるという。"you see" もよく使うが、これも同じようなものか。
そして、イディオムに重点を置いた辞書も紹介してくれる。

  • 「新クラウン英語熟語辞典」
  • 多田幸蔵「英語動詞句活用辞典」

興味深いところでは、"had better" が命令口調であることを知らずに、えらい目にあった人の事例を紹介してくれる。あるアメリカ人の老教授を案内していて、こう言って機嫌を損ねたという。
"You had better go there by taxi."

こう言えば感謝されたかもと...
"Perhaps it would be better to go by taxi."

こんな実践的な事例は、入試対策を前提とした教育では教わることもないか...

4. 自動詞と他動詞の区別
日本人の英語解釈で問題なのが、自動詞と他動詞の区別ができないことだと指摘している。英語圏の人々は、自動詞と他動詞の違いに敏感なことは分かる。日本人がこの感覚に疎いのは、自己主張の傾向が少ないということもあろう。日本語では主語を曖昧にする傾向がある。英語の方が論理的な言語ともされるし、時制を重視する点も、日本人の感覚になかなか合わないところがある。
例えば、ある日本語を学んだ英米人のエッセイには、「こわい」という語を習って、とても驚き、信じられなかったと書いているそうな。「とてもこわかった」と「それはこわい芝居よ」を英語で言えば、こうなる。

"I was very frightened." / "It was a very frightening drama."

"frightened" も "frightening" も、日本語では同じ「こわい」で済ますことに納得できないらしい。
さらに、興味深い事例として、ひと昔前の男性化粧品のテレビコマーシャルをあげている。

"For exciting young men."

字幕に「エキサイトする若いきみたちに」と入っていたとか。学生たちに、この宣伝文句の正しい日本語訳を求めると、たいてい「わくわくする青年のために」といった訳をするという。
そこで、女性をわくわくさせたければ、マンダムを使用しなさい!という宣伝ではないのか?と問う。そして、「女性をエキサイトさせるのに、自分がエキサイトしては駄目だ。客を笑わせる落語家は自分自身は笑わないものだよ」と説明すると、「女の子の心をときめかせる若い男性諸君に」という正解を示したとさ...

"You're irritating." 「君はぼくをいらつかせる。」

これには、95% の学生が「君はいらいらしている」と訳すという。ちなみに、ネット上の機械翻訳では、両方でてくるなぁ...

5. 長文を味わう!
本書は、味わい深い四つの作品から長文を抜粋してくれる。参考書風に単語や熟語の解説が施されるので、小説のように読めて、なかなか乙である。だが、ちょいと考えてみると、学生時代にやっていた訓練ではないか!大っ嫌いだったはずだが、こうも自然にやれるとは...
ただ、自分の翻訳が正しいかを検証するために、全訳が欲しい!と思っていたら、最後に付録されていた。それに気づかず、読みきれたのが幸せ...

  • "The Year of the Greylag Goose"「ハイイロガンの春夏秋冬」、動物行動学の創始者ローレンツ博士著
  • "At the River-Gates"「水門で」、児童文学者フィリパ・ピアスの短篇「幽霊を見た10の話」に収録
  • "Introduction to ISHI IN TWO WORLDS" 「イシの序文」、SF作家ル=グウィンが亡母の著書「イシ - 北米最後の野生インディアン」に寄せた序文。
  • "The Summing Up"、サマセット・モーム著

"The Year of the Greylag Goose"
ハイロガンのつがいは、普通、一生貞節な夫婦として添い遂げる。だが、劇的な状況が生じて中断することもある。突然、違った相手と熱烈になったり、不倫も。雄も雌も愛に狂う、まるで人間のような奴らだ。知性の面で動物は劣っているが、感情や情緒の面では... それは、脳の部位や構造によって裏付けられる。

"At the River-Gates"
第一次大戦に出征していった兄貴。塹壕の地獄からの声。兄貴が出征してから、水門を開きに行くのは父の仕事。ある日、嵐の夜、ずぶぬれで悪戦苦闘している父を助けたのは、戦地にいるはずの兄貴だった。そして翌日、兄貴の戦死の電報が... わしは今では老人じゃよ!と弟が懐かしそうに兄弟愛を語る。

"Introduction to ISHI IN TWO WORLDS"
イシの物語は、「ロビンソン・クルーソー」を逆にしたような物語。クルーソーの孤独は、海で嵐という自然の猛威によってもたらされたが、イシの孤独は同じ人間での卑劣な集団行為によるもの。イシは、白人から皆殺しにされた野生インディアンの最後の生き残りとして、家族の惨死を悲しみつつ、何年間も身を隠して暮らした。悲惨な暮らしに耐えられなくなって、白人の世界に迷い出た時、待っていたのは覚悟していた死ではなく、皮肉にも思いやりと友情であった。

"The Summing Up"... これは、一年ぐらい前に記事にしたので省略。

2017-05-28

"天才と名人 中村勘三郎と坂東三津五郎" 長谷部浩 著

江戸三座の流れを汲む中村座と守田座の家で生を受けたがために、互いに、十八代目中村勘三郎、十代目坂東三津五郎という名を背負った。片や天才坊やと呼ばれた歌舞伎界のサラブレット、片や重厚な脇役道の家柄を継承。光と影ほどの違いはあれど、十字架を背負うがごとく藝術の殉教者となったことに変わりはない。
二人は奇しくも同学年に生まれ、六十を前に逝く。人間五十年... と歌われるが、今の時代にしては早すぎる。弔辞で三津五郎さんは勘三郎さんに語りかける。
「肉体の藝術ってつらいね!」
化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり... 絵画や小説と違って、まさに肉体芸は儚い...

「... 芝居も踊りも持ち味が違い、二十代から八回も演じた『棒しばり』。はじめの頃は、『お前たちのようにバタバタやるもんじゃない、春風が吹くようにフワッとした感じでやるものだ』と、諸先輩から注意を受けましたが、お互いに若く、負けたくないという心から、なかなかそのようにできなかった。それが、お互いに四十を超えた七回目の上演のとき、『やっと先輩たちの言っていた境地の入口に立てた気がするね』と握手をし合ったことを忘れません。長年の経験を経て、お互いに負けたくないという意識から、君には僕がいる。僕には君がいるという幸せと感謝に生まれ変わった瞬間だったように思います。...」

個人的には、長年名乗ってきた、勘九郎さん!八十助さん!と呼ぶ方がしっくりくる。この業界は、出世魚のごとく名を変えていく。ぶり、はまち、元はいなだの出世魚... とも言うが、二人には原点となった舞台があったという。「納涼歌舞伎」がそれである。初心忘るべからず!との世阿弥の言葉を受け継いだものと言えよう...
二月、八月は、ニッパチといって、客が入らない月とも言われるそうな。大立者といわれる役者は八月に休み、格下の役者が怪談物や本水を使った涼しい演目を見せるのが通例だったとか。二人は、この慣例を逆手にとって自分たちが芯を取って実力を養い、人気を集める公演をとうとう手に入れたという。
立役にとって三十代後半は難しい年頃、若旦那やいい脇役ではそろそろ物足らなくなり、かといって、芯を勤めるにはまだ荷が重い。芸風が微妙に変化しつつある中、円熟の下地となったのが、納涼歌舞伎だったという。八十助さんの言葉を借りれば、「八月は歌舞伎がはじめてのお客様にも愉んでいただける演目を考える」のだそうな。気さくに言葉をかけてくれる勘九郎さんの姿が目に浮かぶ... 博多座の襲名披露に来て下さったお客様はいらっしゃいますか?今日はじめて歌舞伎を観られる方はいらっしゃいますか?... こっちだって応えずにはいられない... よっ中村屋!軽い笑いで緊張感をほぐしてくれるのも、地方公演の魅力。八十助さんにしても、あの優しそうな口調でテレビ視聴者に語りかけていたのを思い出す... どうぞお気軽に観に来てくださいね!だからこそ、おいらのようなド素人でも、日本人であるからには一度は歌舞伎というものを鑑賞してみたい、と足が向く。
にもかかわらず、観客の間では、その御召し物では歌舞伎を汚すざんす!などとセレブリティどもが火花を散らす。どうやら和服の流派の争いのようだ。おいらのような門外漢は、そんなやりとりを遠目で観察する。そもそも舞台芸の真髄は滑稽芸、いわば人間観察の投影の場。なるほど、観客の側も滑稽芸を演じずにはいられないというわけか。人生とは、狂言のようなもの。猿の面をかぶれば猿になりきり、武士の面をかぶれば武士になりきり、セレブリティの面をかぶればセレブかぶれにもなれる。あとは、幸運であれば流れに乗じ、不運であれば逆境を糧とし、いかに達者に振る舞うか。いや、いかに優越感に浸れるか。人生とは、まさに滑稽芸のようなものやもしれん...

1. 血統よりも藝統
勘九郎さんは、生まれた時から様々な藝統を受け継ぐべく立場にあったという。伯父初代吉右衛門の得意とした時代物の演目、母方の祖父六代目菊五郎が五代目菊五郎から引き継いだ世話物や踊り、さらに、父方の祖父三代目歌六が上方の出身だったために上方歌舞伎の血も父十七代目が継承していたとか。幅広い歌舞伎狂言の演目を、父十七代目を通して「家の藝」として受け継ぐ宿命を追っていた。
しかしながら、宿命とは権利でもあり、恵まれた家柄ということもできるわけで、これが誇りとなる。江戸時代、幕府から公認された芝居小屋は、中村座、市村座、森田座(のちの守田座)の三座だけ。劇場の座元には所有権と興行権を与えられ、座頭役者を上回る格式を備えていく。
ただ、明治八年の十三代目引退以来、勘三郎の名跡は系譜上のみ数えられただけで、事実上途絶えていたという。中村もしほが十七代目を襲名したことで、江戸最古の座元として十八代目の意識が課せられることに。
一方、八十助さんは坂東流の重責を担ってきた家に生まれた。七代目三津五郎が子に恵まれず、八代目、九代目と養子、義子が続く。八代目は学者肌で、著書のたくさんある知識人。戦後関西で起こった「武智歌舞伎」では、武智鉄二が理論面を、八代目が実践面を担ったという。
また、九代目は、菊五郎劇団を支える脇役として一生を全うしたという。八代目、九代目と渋い脇役の三津五郎が続いたために、十代目は主役を演じる役者になることが期待されたとか。
三津五郎家は踊りの家ともいわれ、坂東流の代表的な舞踏を継承している。「傀儡師」、「寒山拾得」、「喜撰」、「道成寺」、「流星」などがその代表的な演目。だが、八代目、九代目と脇役が続いたために、家の藝と呼べる芝居は数少ないそうな。おれは捨石になってもいい!という父の思いを、八十助さん自身の言葉で語ってくれる。
母の方は、守田座の座元の家という誇りと執念を持っていたという。というのも、七代目三津五郎は十二代目守田勘弥の長男として生まれたが、三津五郎家の養子に入ったという経緯があるそうな。伝統的な脇役の家柄からの脱皮を、息子に託したということか...
しかしながら、こうした重厚な家柄で育っても、やはり若い頃は、テレビドラマや商業演劇の誘惑に負けることはあろう。どんな天才でも、どんな名人でも、目先の欲望に惑わされない人間はいない。ましてや実力を具え、すぐにでも実現できそうな場面で...
「曇りなき天分が、欲によって乱されていると感じていた。人は愛されることを強く望みすぎてはいけない。それは役者にとっても同じことだ。勘九郎は前のめりに生きていた。それは天才がはじめてあじわった苦悩だったのだろう。」

2. コクーン歌舞伎と平成中村座
伝統芸能のジレンマは、古典に斬新な解釈を打ち出せるか?という問題を抱えている。歌舞伎役者の藝は、いわば神聖化された領域。この領域を再検討し、エンタテイメントとしての演劇を見直す試みが「コクーン歌舞伎」である。回り舞台が常設されていないなど劇場機構に問題があるものの、即興性の舞台は江戸の芝居小屋をイメージしていたようである。芸能は庶民あってのもの、時代に合うものを取り入れ、古典と融合させて新たな解釈を試みながら生き残ってきた。
「歌舞伎はひとつの題材をさまざまなかたちで書き替えていく歴史である。」
尚、串田和美の演出は、歌舞伎用語で「コクーンの型」とも、「串田の型」とも言われる。
勘九郎は敏腕プロデューサーであるばかりか、敬虔な藝術至上主義者の面が同居している。仮説劇場の試みが浅草に居を定めるのではなく、どこへでも歌舞伎専用劇場を用意できる魔法の絨毯となる。
「笑いは演劇にとってもっとも有効な武器である。鑑賞するための伝統藝能であることをいったん投げ捨てて、歌舞伎になじみのない観客を存分に楽しませようとする勘九郎の意図が詰め込まれた舞台だった。」
そして、「東海道四谷怪談」の成功は平成中村座のニューヨーク公演の布石となった。評論家ベン・ブラントレーの劇評がニューヨーク・タイムズ一面に綴られる...
「歌舞伎の伝統に忠実でありながら、それを少しひねったやり方で階級、犯罪、名誉、恥といったテーマを扱い、うねうねと曲がりくねって進むこの物語は、確かに教養マニア向けとういだけではすまない作品といえる...
しかし時間がたつうちに、舞台上の竹格子の後ろにひかえた演奏者たちがかき鳴らす、切迫したように振動し瞑想的に鳴り響く弦の音が役者たちの演技を強調し、彼らの信号的な身振りやしかめた表情の下に、複雑なものが感じられるようになってくる。オープニングで騒々しく始まった滑稽な茶番劇が、いつしか、ドストエフスキーの小説の罪と恐怖の感覚を呼び起こすような、重々しい心理風景に変わっていたのだ。」
勘九郎は、ドストエフスキーと比べられたよ!と鬼の首でも取ったように喜んだそうな。歌舞伎が、現代を生きる演劇として認めれた瞬間であった...
ちなみに、納涼歌舞伎で上演された野田秀樹版「研辰の討たれ」では、こんな台詞を言わせているそうな。
「四十七人もいれば、中には今頃悔やんでいる奴もおりますよ。」

3. 襲名の重み
十七代目勘三郎が残した名言に、こういうものがあるそうな。
「歌舞伎とは、襲名と追善と見つけたり」
実力と人気がともなうから襲名できるのだが、それだけでは足らない。継ぐべく名跡が背負う家の藝の継承者として立っていく決意が求められる。襲名披露の公演では、先人たちの業績を意識し、しかも自分の進むべき道を示すよう考慮される。
三津五郎襲名時には、不思議と人柄までも温厚になる、と語ってくれる。大きく見せようと演じれば、かえって小さくなる。何もせず、自然に大きく見せることだと。賢人には、地位が人をつくると見える。だが、愚人には、地位が人を堕落へいざなう。
「ここには伝承の正しい形が残っている。教える人間が誇りを持ち、教わる人間に尊敬がある。かといって、ひとたび伝えたならば、それを二度目以降は墨守せよとはいわない。自分の自由だ...」

4. 海老蔵襲名時の弁慶代役
海老蔵の父、十二代目市川團十郎は、十九で父の十一代目を亡くしているという。團十郎家は市川宗家といわれ、誇りを高く持ちつつも、親がいないばかりに、こうべを垂れ、苦難を生きてきたことから、人格者として知られるそうな。二代目松緑、六代目歌右衛門、十七代目勘三郎らの指導を受けながら、一人で十代目海老蔵、十二代目團十郎を襲名。
そして、ようやく息子の海老蔵襲名の機会が訪れた矢先、白血病で倒れる。襲名披露公演「勧進帳」での弁慶役は、團十郎。その代役を務めたのが、三津五郎である。まったく稽古なしの代役も驚きだが、円熟期にあることの証である。團十郎は、こんな言葉をよくつぶやいていたそうな。
「日本人として大切なことを伝えたい、それは必ずしも歌舞伎でなくては、とこだわっていた訳ではない。『たまたま自分はこのような少し特殊な環境に生まれ、自分ができるのは歌舞伎を通すこと。日本で培われてきた先人たちの知恵を今こそ見直すべきだ』と常々言っていた。」

5. 踊りの家、三津五郎家の自負
「芝居には、味とか、風(ふう)とか、言いあらわしにくいものが大切だと思います。でも、踊りの場合、それらは後からくるものだと思う。」
踊りは、まずもって身体に叩き込む。極めて人為的でありながら自然と戯れるような極意とは、春風駘蕩がごとし。名人はどんなに曲がった形になっても、お尻の穴から頭の上へ、一本の棒が通っているという。どんなに激しい踊りでも、重心がぶれない、心棒から外れない。まさに、コマとは独楽と書く!
「芝居には、ストーリーがあり、共感して泣けたりとか、感情が外に出てくるものですが、本当にいい踊りを見終わった後って動けない。すごいものを見て、椅子から動けなかったことが何度かありました。芝居を見る感動と、いい踊りを見た時の感動って、種類が違う気がします。」

6. 過激な古典主義者
歌舞伎界には、こんな言葉があるそうな。
「時代に世話あり、世話に時代あり。」
歌舞伎が伝統芸能であるからには、時代物となるは至極当然。だが、どんな時代にも風俗は存在し、義理や人情もあれば、怨みや妬みの類いもあり、愛憎劇も欠かせない。だから人間喜劇として伝えられる。現代の価値観だけで歌舞伎を観ても理解が難しい。歴史を理解するということは、その時代の価値観をも飲み込むこと。そして、現代演劇として成り立たせようと試みたのが、コクーン歌舞伎であり、平成中村座であった。
しかしながら、勘三郎襲名を境に、古典主義者としての一面を露わにしたという。演劇の中心に歌舞伎があるという古き時代を、もう一度取り戻そうと尽力し始めたと。襲名の重責がそうさせたのであろうか。歌舞伎によって現代演劇をも飲み込もうとしたのだろうか。過激すぎた古典主義者だからこそ、古典を超越した創造力に駆り立てられたのやもしれん...

2017-05-21

"シンボリック・マネジャー" T. Deal & A. Kennedy 著

本棚を眺めていると、なんとなく懐かしい用語に目が留まる。こいつに出会ったのは、二十年くらい前になろうか...
80年代から90年代にかけて日本社会がバブルを謳歌していた頃、アメリカの産業はことごとく日本の製造業に脅かされ、日本に学べ!といった書が数多く出版された。しかしながら、ハーバード大学教授のテレンス・ディールとマッキンゼー社のアラン・ケネディは、こうした論調に苦言を呈す。日本の経営方式を真似ても、根本的な解決策になるとは思わないと。また、MBA分析、ポートフォリオ理論、費用曲線などを駆使する経営方式を弄しても、解決できるとは思わないと...
常に生き残ってきた企業には、近代経営学だけでは説明のつかない何かがある。同じ方法論を用いながらも、片やマンモス企業に成長すれば、片や早々に消え去る。企業とは、本来、人間による人間のための組織であるはず。そこには、きちんとした理念や価値観がある。巷では、社風と呼ばれるやつだ。本書は、より抽象度の高い「企業文化」という言葉を用いている。人が集まれば、集団の気質や個性が育まれ、それなりに理念や価値観なるものが生じてくるもので、その共通意識は文化となって現れる。健全な文化は集団の中で強い意志となり、企業体は精神的な総体となって強力となる。当時のアメリカにも、こうした企業精神を持つ偉大な企業が存在した。NCR, GE, IBM, P&G, 3M, Xerox など。その創設時の考えや方法を見直してみてはどうだろう、というのが本書の主旨である。
そして21世紀、経営陣の浅はかな行動によって危機的状況に追い込まれる企業の多い昨今、今度はこの書が日本企業に苦言を呈しているように映る...
「人が企業を動かしていることを忘れてはならない。そして、文化がいかにして人びとを結びつけ、日々の生活に意味と目的を与えているかについて、先人の教訓を学びなおさなければならない。」

なぜ働くのか?と聞けば、ほとんどの人が、お金を得るため、食うため、生活のため、と答えるだろう。だが、文化が非常に強く浸透した企業体では、心の奥底にある動機は、それだけにとどまらない。文化は強かろうが、弱かろうが、組織全体になんらかの影響を及ぼす。従業員たちの関心事は、どんな決定が下されるか?どんな人物が昇進するか?といったことから、好みの服装やスポーツや芸能にまで至り、互いの人間性にも少なからず影響を与え合う。それが、哲学的な意識や普遍的な価値観のレベルで影響し合うとしたら、どうであろう。仕事そのものが自己を高める手段となり、自己実現へと導くとしたら、どうであろう。「シンボリック・マネジャー」とは、そのような企業文化を体現する象徴的管理者のことを言う。本書は、組織の構造や戦略は、実体よりも象徴にあるという見方を示し、合理的管理者との対比から語ってくれる。
今日、MBAの取得などに躍起になる風潮がある。金儲けに直結する知識に群がるのは、いつの時代でも同じ。そもそも企業とは利潤を求める場所であり、こうした傾向が、経済的合理性という観点を与えてくれるのも確かだ。しかしながら、精神的合理性という観点からは、どうであろう。本書は、なにも合理的管理者を否定しようというのではなない。むしろ、企業の象徴的存在が別の役割を担おうというわけである。それは、独裁者のようなアクの強い管理者のことではなく、そうした頑固なタイプとは反対の人物。人間性を見抜き、育て、使い分ける手腕の持ち主。自ら英雄になろうとするよりも英雄を育てようとするタイプ。人を知るための忍耐力を人一倍具え、感受性が豊かでデリカシーに富むような、すなわち人間通の、人間観察の、人間の達人のような人間である。どうやら、カリスマ性だけでも勤まらないようである。野心家よりも淡々とした人物の方が相応しいのかもしれない。状況が変わって機能を必要としなくなれば、素早く身を引くような。管理者の立場に未練がないような。それだけ軽い存在だということを自分に言い聞かせているような。高尚な哲学者のような。
... などと書き並べれば、おいらにはまったく無縁の性格ではないか!と、二十年経った今も落ち込むのであった...

1. 文化は確実な投資物件!
社員が、互いに領分を侵すことなく、同じ方向に進めるのは、何の力によるものだろう。一つの答えは、不文律と相互理解、もう一つの可能性は、権限の分散だという。中央集権化した権限、形式化された手続き、厳格な階級制度などに強く依存することなく、自律と管理が調和した組織である。こうした傾向を文化と呼ぶからには、宗教めいたところも多分にある。ただし、盲信とはちと違う。信念にしても、理念にしても、どこか自発的な要素から発しており、しかも、自然に溶け込んでおり、強要的なものがまったく感じられない。
活気のあるチームでは、共有哲学を隠喩したような合言葉が生まれるのを、よく見かける。その合言葉が、目先の仕事、くだらない仕事を排除し、本当の意味で合理性をもたらす。そのような意識が組織全体に根付いていれば、危機的状況に陥っても少々無理がきくし、根付いていなければ、従業員は報酬額ばかりを口にしては、さっさと逃げ出すだろう。
どんな組織でも、重要な問題を解決し、利益に大きく貢献した英雄がもてはやされる。ただ、文化を根付かせ、本当の意味で持続的に貢献している真の英雄は、縁の下の力持ちの方かもしれない。しかも、そうした人物ほど表立って評価されないものである。
理念が隅々にまで行き届いた企業には、非公式でまったく形式張っていない伝達機構が存在するという。成文化されていないのが特徴で、柔軟性を持ちながらもルールは厳格だとか。共有された意識が厳格と言うべきであろうか。本書は、これを「文化のネットーワーク」と呼び、その役割分担を、語り役、聖職者、耳打ち役、スパイ、秘密結社、うわさ屋などの性格から解き明かそうとする。彼らは、悪知恵の働く連中から政治利用されやすい立場でもある。しかし、共有する哲学的意識を重視すると同時に、互いの自由意志を尊重するので、組織系統を越えた存在であろうとする。会社が理念から外れようとすれば、こうした連中が歯止めとなろう。シンボリック・マネジャーとは、文化のネットワークの成員を熟知し、彼らの活用法をよく心得ており、しかも真の英雄として暗躍し、言動そのものが経営理念を体現するような人物というわけか。ただし、企業文化を正式な声明書として記せば、聖書さながらのぎこちないものとなろう。文化の押し付けは、しばしば逆効果となることに留意したい...

2. ダミー定理と行動心理学
むかーし「ダミー定理」という用語を耳にした。それは、80対20の法則のように、真に活動を牽引しているのは少数派にあるという見方である。この定理によると、n人のグループにおいて、k人がダミーで、n に対する k の比率は 2/3 とされる。どんなグループでも、2/3 はダミーというわけだ。経済学者や統計学者は、こうした考えがお好きなようである。世の中にそんなに大勢のダミーが存在するのだろうか?自分でも意識できないような隠れた役割というものはないのだろうか?
しかしながら、こうした法則を持ち出さない限り、企業社会で高額の報酬を平然ともらっている連中が大勢いる事実を、説明できない。そして、有能な経営者がダミー定理を活用する事例が紹介される。例えば、三菱系の会長は、日本社会の終身雇用問題についてインタビューを受けた時のエピソードがある。中間管理職の職務遂行能力が低下してきたらどうするのか?終身雇用を建前としてどのように扱うのか?との問いに、会長は即座にこう答えたそうな。
「その問題については大いに研究しています。まず、彼の成績をあげるために何かうつ手はないかどうか、状況を調べます。しかし、彼の成績不振の原因がどうしても掴めない場合には、昇進させます。なぜなら、72.4 パーセントの確率で、昇進させるとたちまち成績があがるからです。」
組織内において、自分がダミー的な存在ではないか?という不安は、誰にでもあるだろう。昇進すれば、そのような不安を払拭でき、ダミー的な振る舞いを捨てるというわけだ。ある種の行動心理学である。
逆に、ピーターの法則というものも耳にする。人は能力の限界まで昇進し、そこでキャリアが行き詰まるという見方である。こちらの方が正論に見えるが、現実社会は実に多くのダミー的な存在によって成り立っている。そのダミー的な存在から真に評価すべき人物を知っているのは、管理者よりむしろサブカルチャーに身を置く連中であって、経営陣からはなかなか見えないものである。となれば、このような社会学の法則を利用するのも一つの手かもしれない。
ちなみに、ナポレオンは、ただの記章で価値のないレジオンドヌール勲章を復活させたことで、評論家たちの痛烈な非難を浴びた時に、こう反論したそうな。
「部下は、言葉ではなく、金ピカの飾りで導くものだ。」
実に皮肉に満ちた言葉ではあるが、見事に人間の本質を言い当てている。もちろん功績は認められるべきであって、認めることがさらなる偉大な動機となろうが、正当な評価がなされない組織では、むしろ文化を破壊することになろう...

3. IBMの餌づけエピソード
個性主義が行き過ぎても、はたまた画一的過ぎても、会社の活気は失われる。業界体質から、無法者を歓迎する会社もあれば、能力よりも秩序を重んじる会社もある。遊び心を奨励する会社があったり、野心や独立心を旺盛にさせる会社があったり、あるいは、少しでも集団意識から逸脱すると、けしからん!と叱られる会社があったり、企業風土というものは実に様々だ。GEで重役になれるような人物が、Xeroxでは失脚するということも、その逆もありうる。雁字搦めに規則で縛られたいM君もいれば、儀礼儀式にうるさく、官僚的な命令を下すことを好むS氏もいる。だからこそ、会社を選ぶ時は、看板や報酬に惑わされることなく、自分に合った企業風土を見つけたいものである。
ところで、アメリカ流のジョークには感服させられる。副社長の退任劇では、副社長のテーブルや椅子を彼の面前で火焙りにしたり、偉いぞ賞!でかした賞!あるいは、今週の殉教者賞など。IBM創始者の息子トーマス・ワトソン・ジュニアは、こう語ったそうな。
「餌づけされた鴨はもうどうこへも行こうとはしません。企業は野生の鴨を必要としていると確信します。IBMでは、彼らを餌づけしないように心がけています。」
すると、透かさず社員がこう返したという。
「野生の鴨でも隊列を組んで飛びます!」
この抗言は、たちまち教訓の一部に組み込まれたとさ...

4. 日本株式会社
日本企業の成功の大きな理由の一つは、国全体として、一つの非常に強い、緊密な文化を維持していることだと指摘している。個々の企業がそれぞれに強い文化を持つだけでなく、企業、銀行、政府との連繋をも含めた一つの文化を形成している。
例えば、ソニーが初めてニューヨーク支社を創設すると、これに続け!と日本電気や日立製作所などの営業マンたちが密かに集まって祝杯をあげた、などのエピソードはいまだに語り継がれる。ひと昔前、総合商社が世界各地の情報を集める重要な役割を担っていた。いわば産業界の諜報機関として。言い換えれば、政府系のシンクタンクは当てにならないってことだ。長い間、国家レベルの諜報機関が存在しないことは、我が国の弱点されてきた。外交能力の乏しい国家が経済大国にまでのし上がったのは、奇跡と言わざるをえない。
「日本株式会社とは実に企業文化の概念を全国規模に拡大したものである。」
しかしながら、成功してきた大企業でも、やはり官僚主義は蔓延する。時代にそぐわない惰性的な会計処理を見直すこともできなければ、粉飾決算として明るみになり、スキャンダル沙汰となる。社員全員で苦しみを分かち合おうってか?汚染水を川に垂れ流しするような行為に、従業員が反発しないようでは先行きは暗い。皮相的な儀礼や形式だけが継承され、企業精神ってやつはどこへやら?忘年会に欠席するヤツは査定するぞ!などと豪語する取締役がいる。集まることが団結力だと思っているようなマネジャーがいる。飲みニュケーションを優先させる空気の中で、サッカーの代表チームの試合を優先する人がいてもいいではないか。なによりも自発性、自主性が重んじられるべきであって、強迫しなければ参加を促せないとすれば、どこか間違っている。
一方で、アメリカでは、国家レベルで日本社会のように意識を一方向に向けることはできないだろう。それでも成功の陰には、個々の会社で効率的で、持続可能な文化が強い推進力として働いている。そうした意識傾向は、日本式だとか、アメリカ式だとかで区別できるものではなく、人間学の問題である。すべては、従業員にヤル気をおこさせることができるか、それを継続させることができるかにかかっている。個性や多様性が結束した時のパワーは、より計り知れないものとなろう...

2017-05-14

"失語症と言語学" Roman Jakobson 著

「失語症による損傷は、幼児の習得順序を逆に再現する。... 言語の障害のされ方はでたらめではなく、一定の法則に従っているということ、そして言語学の技術と方法論とを首尾一貫して適用していくことをしないかぎり、言語の退行現象の基底にある法則を見出すことはおそらくできないだろう。」

言語学者ロマーン・ヤーコブソンは、心理学、神経学、病理学などとも協調する学際的な立場をとり、精神科医との連携が欠かせないと強く主張する。彼が語尾を強める背景には、フロイト学派への牽制がある。当時のフロイト学派は、言葉が理解できなくなったり、話すことができなくなったりする症状を、まだ病理の方面からでしか捉えていなかったようである。進化への道と退化への道は、互いに逆ベクトルの関係にあると言えばもっともらしい。そして今、人類は進化の過程にあるのか、はたまた...

進化の過程を自然に体現する赤児という生き物は、驚異的な学習能力を発揮しやがる。言葉を覚えるというのは、かなり高度な努力が要求されるはず。なのに、おぎゃー!としか発っせないガキどもが、たった数ヶ月でクーイングから喃語へ進化し始め、やがて身振りとともに言葉もどきを発声するようになり、数年もすれば大人が理解できる言葉を操る。大人どもが外国語を習得するのに、十年かけても苦労が絶えないというのに...
幼児と大人の違いとは、なんであろう。まず知識ゼロからのスタートは、学び方に偏見がないということがあろう。金儲けのため... 地位を得るため... といった脂ぎった欲望を知る由もない。子供の純真な好奇心ほど旺盛なものはない。意味的な価値観を獲得する初期の段階では、余計な知識もなければ雑念もなく、なんでも素直に受け入れられる度量がある。
対して、大人どもときたら他人の論調を受け入れがたいところがあって、説明に困った時には、それは常識だ!と一言で片付ける。知識や技術に理解のない大人の見解は、こんな事に何の意味があるのか?こんなものが何の役に立つのか?といった類いで、芸術作品に対しても、作者はいったい何が言いたいのか?などと最低な感想をもらす。英語の学習法に対してはもっと顕著で、聴き流すだけ... といったキャッチフレーズにこぞって群らがる。インプットが少ない幼児が言葉遅れの傾向を示すのも確かで、日本語と英語の音声周波数帯が違うのも間違いなく、それなりに説得力のある文句ではある。ただ、与えられる情報量に処理能力がついていけなければ、却って害になる。鍵となるのは、音声周波数が言語脳と結びつくかどうかであって、言語脳が形成される前に単なる音として耳が慣らされてしまえば本末転倒。
結局、大人どもの意識には、楽して得をしたい!努力の見返りが欲しい!といった最小労力の原理が働くというだけのこと。そういえば、むかーし睡眠学習というメソッドがもてはやされた。大人はみな面倒臭さがり屋よ。おまけに、経験を積み、歳を重ねていくと、意識改革までも難しくなる。知識の見直しは、過去の否定になりかねない。大人どもは自己肯定を意識するあまり過去に縋り、餓鬼どもは前世の悪行をものともしないのである...

ところで、失語症の対極に、お喋り症候群とも言える病がある。お笑い芸人なら、口から生まれた!などと冗談も通じよう。会話が達者ならば、それはむしろ才能だ。しかしながら、独りぼっちでグラスに向かって話しかけているとしたら... 氷を人差し指で回しながら、君って冷たいね!ってな具合に... アル中ハイマー病患者にとっては、こちらの方が由々しき問題だ!独り言の意義とは、なんであろう。言葉を発することが精神安定剤となることがある。知識を膨らませるために、話し手と聞き手の共同作業を独りで演じきれるとしたら、高度な精神状態とも言えよう。
孤独と相性のいい芸術は、いわば独り善がりの世界。最上の思考は孤独のうちになされ、最低の思考は騒動のうちになされる... とは、トーマス・エジソンの言葉だ。まさに哲学は自問自答を根幹に置き、自己否定に陥ってもなお心が平穏であることを要請してくる。それは自立への意志であり、自由への意志である。
言葉を武器とする小説家のような人種は、最初から精神病棟の入り口に立たされているようなもの。失語症が言葉や文脈の関係を断ち切ることによって生じるとすれば、これまた関係性からの自立、すなわち、依存症からの脱却とも言える。自立や自由への思いが強い人ほど、危険性が高いということか。自立と孤独とを混同してはならなるまい。
「自律には価値があるが、孤立は常に有害である。」
人間が精神的ダメージを受けやすい状況は、概して恐怖心との関連性が強い。精神を活性化させるには、ヨガ、瞑想、禅、茶道、華道といった外来的方法もあるが、自我が無意識に自己解決を試みるとしたら、どんな方法をとるだろうか。失語症も、独り言も、自我が試みるマインドフルネスの一種であろうか。無意識というからには自己の制御不能な領域から発するわけで、すでに自我は別の人格へ移行しているのかもしれない。
したがって、本ブログが「アル中ハイマーの独り言」と題しているからには、けして本心ではない!と語尾を強めて言い訳しておこう...

1. 恐るべしガキ!恐るべし模倣者!
周りに人がいようが、いまいが、赤子は泣く。人に振り向いてもらいたいという欲求は、泣けば相手をしてくれるという経験を重ねていくうちに後から目覚めていく。周囲との関係から存在を意識するようになると、やがて自分の居場所というものを追求するようになり、言葉は自己存在との関係から発達していく。乳幼児は喃語の時期に、多種多様な音を発する。舌打音、口蓋化子音、円唇化子音、半閉鎖音、歯擦音、口蓋垂音など。だが、単語を習得する段階になると、これらの音をほとんど消失してしまう。
ここで興味深いのは、言語習得の努力によって、軟口蓋音、歯擦音、流音などを意味論的な価値と結びつけて、再度、獲得しなおすという指摘である。つまり、知識の獲得によって、音声的豊饒から音声的制限へ移行するというのである。
言語機能の発達によって、感嘆詞や擬音語は主役の座からおろされる。幼児語が自己の中で再認識された時、音素の意味論的な傾向が言語記号と結びつき、音素の選択肢が制限される。無意識的な自由から意識的な制限への移行... とでも言おうか。知識がなければ、理性も知性も育まれない。理性や知性を獲得すれば、自ら自由を制限する力を持つようになる。言語習得の法則も、これに従うらしい。子供には、まず喋ることを教え、次に黙ることを教えよ... とは誰の言葉であったか。
幼児の学び方は、単純明快!それは大人たちの物真似から始まる。そもそも人間の創造性とは、何らかの影響によってもたらされる結果であって、いわば模倣を原理としている。ダ・ヴィンチにしても、ミケランジェロにしても、ラファエロにしても、修行時代、多くの模写に励んだ結果、自然に独創性が生じるのを待った。完全な無から創造できるのは、神ぐらいなものか。幼児の模倣は、知識を無意識に借用しつつ創造するのであって、猿真似とはちと違うようである。模倣を超越した次元で、原型から創造的逸脱を要求するような。そこに模倣の対象を選ぼうとする意志はない。書を選び、師を選び、弟子入りしたり、帰依したりするのは大人の意志だ。知識を都合よく選択によって狭め、常識と非常識を篩いにかけ、偏狭にあるのはむしろ大人の方か...
「一言にして言えば、幼児は自ら模倣されつつある模倣者なのである。」

2. 言語の対称性と非可逆性
物理学では対称性の理論が重宝される。しかも、完全な法則ではなく、対称性の破れってやつがつきまとう。人間もまた、物理学の法則に従っているのかは知らんが、だいたいにおいて対立的な関係を好み、しかも、どこか適度の自由を求めている。体系が不完全であるがゆえに進化の余地を残し、自由度と柔軟性によって秩序と無秩序までも調和させるのである。言語体系の変遷は、国語の法則などで強制できるものではない。不完全な人間にとって、完全な法則よりも法則たらんとすることが、心の休まる存在となろう...
幼児の場合、最初に鼻音と口腔音の対立が生じるという。やがて言語の最小体系に、母音と子音の対立が現れる。相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体にとって、物事は区別によって認識され、二項対立によって構築されていく。それは極めて離散的な、デジタルな世界であり、シャノンの情報理論にも通ずる。自己存在を心地よいものとするには、自己優位説を唱えるのが手っ取り早く、人間が差別好きというのも頷けよう。
また、世界のあらゆる言語にある共時態には、非可逆連帯関係の法則が見出せるという。例えば、幼児の音韻体系では、軟口蓋と硬口蓋子音の習得は、唇音と歯音の習得を前提にするケースがあるとか。タタール語では、軟・硬口蓋子音を欠き、多くの言語でも軟口蓋や硬口蓋鼻音を欠くケースがあり、その場合でも唇音と歯音を欠くとか。世界諸言語で、軟・硬口蓋子音の存在には唇音と歯音が同時に存在するが、その逆は成り立たないそうな。摩擦音の習得にも閉鎖音を前提にするという。摩擦音が完全に欠けた言語は存在しても、閉鎖音のない言語は存在しないのだそうな。
ちと話は違うが、日本語でも反対語が見当たらないことがある。慣習的に反対語を必要としなかったのか。そんな時は否定文を用いればいい。論理学には、いざという時に全否定という裏ワザもある。言語体系が完全であれば、言い訳の隙も与えず、精神病から逃れる道も閉ざされよう。非可逆の法則は、人間にとって拠り所になっているのやもしれん...

3. 母音と子音
人間の身体は、息を吐く物理的構造に鼻と口の二本の管を具える。かくして最初に、塞いだ管と開いた管の対立が生じたという。口腔閉鎖音や鼻閉鎖音など。次に、一本の管と二本の管の対立が生じる。母音と子音がそれで、前者は鼻の管を塞ぎ、後者は鼻の管を開く。母音はそのままでも、子音は複雑に分化していく。多くの共存を望むならば、選択肢を増やして分岐を多様化させるのは、ダーウィンの法則がごとし。
ところで、日本語の特徴は、母音を強く発し、鼻の管を塞いだ音が強調される傾向にある。言葉を学ぶ時は書くことを基調とし、文字がそのまま発生記号の役割を持つ。
対して、英語の特徴は、子音を強調する傾向があり、おのずと発声周波数帯が違ってくる。それは、言葉を学ぶ時に喋ることを基調としているからであろう。
日本語の五十音に対してアルファベットは26文字と少ないが、発音記号を含めれば音素的にはむしろ多彩である。西洋人の中には、言葉は喋れても文字が書けないという人が意外に多いと聞く。日本人は、だいたいどちらもできる。こうした違いは、コミュニケーションの仕方にも現れる。日本人は発音に無頓着なところがあり、よく外国人から、口の動きがはっきりせず、もごもごしていると指摘される。それは、英語の L と R が区別できないことにも現れている。日本語には、音素的にカタカタで柔軟に対応できる仕組みがあるとはいえ、厳密な発声法は表記できないのである。
さて、幼児の言語習得では、最初の母音対立は、最初の子音対立より後だという。それゆえ、子音が既に弁別的機能を満たしているにもかかわらず、他方で、一つの母音が子音の変種のような素材でしかないような段階があるとか。
また、音素的価値と記号的価値はどちらが原始的かは、失語症にも現れるようである。精神科医の観察から、言語障害では、第一に鼻母音が消失傾向にあり、同時に流音の対立も消失しやすいという。第二次母音は第一次母音より消失しやすく、摩擦音や半閉鎖音は閉鎖音へ変わり、軟口蓋子音は口腔前方子音より先に失われるという。そして、唇音と母音の A が、破壊に対抗する最後の音素だそうな。
老人が口から名詞がとっさに出てこなくて、あれ、これ、それ、などと代名詞に頼ろうとするのも、外国人との会話で、大袈裟なジェスチャーに頼るのも、とっさに言葉が出ずに、えー、んー、などと発声してリズムをとるのも、ある種の失語症に見えてくる...

4. 失語症タイプを区別する二分法
病理学的には、言葉が理解できない感覚性失語症と、言葉は理解できるが話すことができない運動性失語症とに分類されるが、ここでは、言語学的に六つの失語症タイプを紹介してくれる。言葉が理解できなければ黙るしかなく、理解できても口から言葉が出てこなければ、やはり黙るしかない。結局、同じことと言えばそうなのだが、治療法となるとやはり複雑である。ヤーコブソンは、失語症タイプの基礎に三つの二分法を置く。

第一の二分法... 符号化障害 対 解読障害
符号化障害では、構成要素が正常でも文脈で障害を起こし、逆に解読障害では、文脈が正常でも構成要素に障害を起こすという。前者は、結合や近接性における障害で、後者は選択や類同性における障害であると。
文脈が組み立てられなければ、統辞的な関係が崩壊し、支離滅裂となる。一方で、単語が貧困化すれば、選択の余地をなくし、文体までも貧素になる。ただ、二重否定のような構文は、正常者であっても理解が難しいし、難解な哲学書が誰でも理解ができるとは思えないし、誰でもどこか符号化障害や解読障害のようなものを抱えているのであろう...

第二の二分法... 制約 対 崩解
第一の二分法から薄められた型があるという。符号化障害の中の動的失語タイプと、解読障害の中の意味性失語タイプである。符号化障害にともない、視覚像をもった夢が抑制されるという症状もあるそうな。符号信号から視覚信号へ変換される際の崩解という見方もできそうか。
正常な言語では語類と統辞機能との間に区別があるが、意味性失語症ではこの二重性が失われるという。操る語が制約されると、言いたいことが制約され、精神までも制約を受ける。単語がある文脈に固定されて、言葉がやけに形式的になるのも、ある種の制約と言えよう。制約と崩解は、対立関係というよりは表裏一体に見えてくる。動的失語は静的文脈に支配され、自ら自由を束縛にかかる。意味性失語は統辞規則を単純化し、自己を窮屈にする。そうなると、義務的規則も考えものだ。礼儀作法で多用される決まり文句や書式の慣習化は、便利でありながら思考を低下させかねない...

第三のニ分法... 連続(継時性) 対 共起(同時性)
言語系が破壊されれば、単語と単語、文と文における、連続性か、同時性か、のどちらかが障害されているのだろう。もっと言うなら、精神病のほとんどは、なんらかの時間的関係性を失った状態なのだろう。自己防衛本能が、都合の悪い関係性を自動的に断ち切ってくれることは、ありがたいことではあるが...
中でも興味深い病状に、求心性失語と健忘性失語を紹介してくれる。求心性失語は、同時的結合における符号化障害で、健忘性失語は、継起的選択における解読障害だという。前者は、言語の音連続における共起的構成要素の配列のみが関与する近接性障害で、後者は、純粋な類同性に基づいた文法的連続体のみが関与する類同性障害であるとか。求心性失語は弁別素性の近接性における障害で、健忘症失語は語配列の類同姓における障害ということらしい。
同音異義語や類音異義語を弁別するには、文脈から判断しなければならず、これらを多用するのにも高度な技術が要求される。音素的に調和する詩文的な技巧にも、連続性と同時性が多分に関与する。文面に語呂合わせが出現するのは、高度な精神状態の表れであろうか。となると、音律的な駄洒落も高度な技術の一つと言えよう。酒に酔うと駄洒落がでやすくなるのも、この手の障害であろうか。ちなみに、あるバーテンダーは「酒に落ちる」と書いて「お洒落!」などと能書きを垂れていたが、棒が一本足らんよ!

2017-05-07

"家飲み&外飲みがもっと楽しくなるカクテルの話" 佐藤喜代八 監修

音楽鑑賞にアルコール成分が欠かせないように、アルコールをやる時には、BGM が絶対に欠かせない。どちらが主役かって?どちらでもいいではないか。トスカニーニが軽快なコスモポリタンを引き立てれば、フルトヴェングラーが濃厚なアブジンスキーを演出してやがる。それはアプロディテ的な女神の誘いか、それともファウスト的な悪魔の囁きか。マスターに「コスモポリタンのフローズンって作れないの?」と挑発すると、これがフローズン版の別名「コスモポリちゃんです!」とすぐに応じてくる。客の方はというと、既に「アブちゃん好きー」状態でチャイコフスキーとの区別もつかないときた。さらに、スピリタスで追い打ちをかければ、96% の人格が崩壊する。これは、天国への道か?地獄への道か?どちらの道を行こうが、本人が気づかなければ、しらふでも同じことではないか...

バーには、大人のこだわりが満ち満ちている。バックバーは、バーテンダーの鏡!と言われ、ボトル群の背景がバーテンダーの後ろ盾となって、君に酒の味が分かるのかい?と挑戦状を叩きつけてくる。店の雰囲気はオーセンティックに演出され、生け花やお香といったささやかな演出もあり。そうなると、客だって勝負せずにはいられない。必死に予備知識を身につけてスマートにオーダーしようと。ホットな女性を連れていれば尚更だ... などと息巻いていたのは、二十年くらい前であろうか。くつろぐための場所で、なぜこうも緊張感を煽るのか。
しかし今では、オーダーせずとも、「これ飲んでみて下さい!」と勝手に出され、注文の仕方がまったく分からなくなっちまった。ある種の自動化システム!人間ってやつは、贅沢に慣らされると思考が停止する。いや、カウンターでは余計なことを考えず、人生について考えよ!と導いているに違いない...

かつて錬金術師たちは、蒸留してできる強いエキスを、ゲール語で Uisge-beatha(ウィシュケ・ベーハ)と呼び、これが訛ってウィスキーと呼ばれるようになったと伝えられる。そう、「生命の水」って意味だ。こいつを飲み干すことによって幸せになれるなら、まさに魔術!
はたまた、ワインから蒸留の過程を経て、これにキリスト教が結びつくと、ラテン語で spirit と呼ばれた。そう、「聖霊」って意味だ。蒸留技術とは、実に恐ろしい。腐った液体を昇華させ、聖者の血とさせるのだから。蒸留崇拝はジン、ウォッカ、テキーラ、ラムへと受け継がれ、いまや世界四大スピリッツとして君臨している。
さらに恐ろしいことに、アルコール濃度に比例して口元の筋肉までも操られ、真実の血清と化す。俗に言うレディキラー・カクテルってやつを企てたところで、自白させられるのはこっちの方だ。そして、マダムキラーはマダムにやられる。
パンチの強いレディたちにも御用心!ピンクレディ、ホワイトレディ、パッシモレディが妖精のごとく色鮮やかに誘惑してきても、半分以上はドライジンだ。ローズカクテルにも、棘があると分かっちゃいるが、つい手が出る。血塗られた女ブラディメアリーときたら、トマト風味が優しく、心地よい眠りへといざなう。身ぐるみ剥がされぬように...
いくら飲みやすく、柔らかく、ブレンド、ビルド、ステア、シェークと技を駆使したところで、脳内に分泌されるアルコール成分は足し算とはならない。掛け算か、いやもっと強烈な冪演算か、いずれにせよ廃人への道をまっしぐら。
そして、女性に向かって、君に酔ってんだよ!とピロートークを仕掛けても、心の中では、氷に向かって話しかける。君って冷たいね!と。ウィリアム・ジェームズという人は、うまいことを言う... 人生は生きるに値するか?それはひとえに肝臓にかかっている... と。

1. カクテルの定義
カクテルの定義は、「ベースに何らかの材料をまぜたミックス・ドリンク」だそうな。そして、ソーダー割りも、水割りも、カクテルの一種だという。チューハイとサワーの違いもよく分からんが、焼酎を炭酸で割れば、これもカクテルの一種ということになる。ノンアルコールも何かを混ぜれば、これもカクテルか。風邪っぽい時に卵酒を飲んだりするが、これもカクテルか。
この定義からすると、カクテルという用語はともかく、その始まりはかなり古いことになる。古代ギリシャ・ローマでは、ワインは濃縮して保存したために、飲む時には水で割る習慣があったという。古代エジプトでは、水で薄めるだけでなく、ビールにハチミツやナツメヤシなどを加えて新たな風味を加えたという。中国の唐では、ワインに馬の乳を混ぜて発酵させた乳酸飲料が飲まれたという。中世ヨーロッパでは、ワインにスパイス、砂糖、シナモンなどを混ぜて飲んだとか。
製氷機が誕生したのは1870年頃、ミュンヘン工業大学のカール・フォン・リンデ教授によって発明されたと伝えられる。バーで氷が利用できるようになったのは19世紀頃で、冷たい飲み物としての本格的なカクテルは、それからということになる。
また、コロンブスが発見したのは新大陸だけじゃない。新大陸から持ち込まれたものは、トウモロコシ、ジャガイモ、サツマイモ、トマト、カカオ、煙草、ブドウ(ラプスカ系)、パイナップル、バニラ、トウガラシなどで、酒の飲み方に大きく影響を与えた品々である。
ところで、ノンアルコールでもバーで飲めば、不思議と酔えるらしい。いや、何か盛られているに違いない。その証拠に、毒を盛ってくれ!とバーテンダーに目で訴えている旦那を見かけた...

2. カクテルという名の由来
cocktail とは、雄鶏の尻尾という意味。本書は、この由来について四つの説を紹介してくれる。いずれもアメリカ大陸で生まれた説か。

「樹の枝説」
場所は、メキシコのカンペチェという港町。イギリスの船員たちが酒場で飲まされたのは、ラムやブランデーにいろいろなものを混ぜた飲み物だったという。当時のイギリスでは、酒はストレートで飲むのが当たり前だったとか。そこで、カウンターの中で木製のスティックで混ぜている少年に、それは何?と船員が聞くと、少年はスティックのことを聞かれたと勘違いして、スペイン語で「コーラ・デ・ガジョ(雄鶏の尻尾)」と答えたという。木の皮を剥いでつくったスティックが雄鶏の尻尾に似ていたとさ...

「鶏尾説」
独立戦争の頃、酒場の女店主が反独立軍の大地主宅に侵入し、自慢の雄鶏を盗みだしたという。雄鶏を調理して、オリジナルのさまざまな酒をまぜてつくって、ふるまい、美しい尾は酒の瓶にさして飾ったとか。これが、女店主のオリジナルドリンクとなったとさ...

「コクチェ説」
ニューオリンズにあるフランス人店主の薬局で、薬草酒とコニャックをまぜたコクチェが売られていたという。やがて、コクチェが「複数の酒をまぜたもの」の総称となり、アメリカ風に訛ったという。もとはフランス人がつくった薬草酒だとさ...

「闘鶏説」
自慢の闘鶏を盗まれた田舎町の旅館の店主。父を気遣った美しい娘は、闘鶏を見つけたものと結婚すると発表したという。眉目秀麗な兵士が闘鶏を持って現れた祝いに、自宅にある酒をまぜてふるまったとか。その闘鶏の美しい尾を称えた祝酒だったとさ...

3. 禁酒法とタイアップ
悪法と呼ばれた禁酒法は、なぜ成立したのか?プロテスタントの牧師や女性信者は、反移民、反カトリック運動として禁酒運動をやったという。ヨーロッパ系移民が、酔っ払っては暴力や犯罪を起こしていたとか。酒好きのアイルランド系移民にカトリック教徒が多いことも影響したようである。そして、1920年の選挙で女性参政権が認められ、賛成派多数で成立。
しかしながら、道徳によって厳しく処罰するほど、人間ってやつは、より巧妙な手口を編み出す。必要悪を完全に禁止すれば、アングラ界が活況となるは必定。麻薬のごとくマフィアの主力ビジネスとなり、取締官との癒着、買収が横行。地下へもぐった酒場では所場代や用心棒代を請求。おまけに粗悪な密造酒が出回り、美味く飲むための技術が進化し、腕のいいバーテンダーが引っ張り凧となる。合法的に飲むには、禁酒法施行前に大量に買い込んだ酒を飲むか、処方された薬として飲むか、国外へ行くか。そして、アメリカの禁酒法時代にバーテンダーの輪が世界に広がったとさ...

4. 世界最古のアルコール
世界最古のアルコールは、ブドウを発酵させて醸造されたという。つまり、ワインだ。誕生の歴史は明らかではないそうだが、紀元前二千年頃に成立した最古の文献「ギルガメッシュ叙事詩」の粘土板には、こう彫られているという。
「ノアは船大工たちに牛や羊を殺して与え、赤葡萄ジュース、酒、油、白葡萄酒を飲ませて、方舟をつくらせた...」
また、紀元前四千年のメソポタミア文明初期の遺跡から、ブドウを搾る石臼が発見されているという。ただし、古代のワインは、神に捧げる供え物という意味が強かったようである。
やがて、「パンはわが肉、ワインはわが血」というキリストの言葉がヨーロッパ各地に広まり、王侯貴族や修道院が、神の気を引こうと競ってワインの品質を向上させてきた。さらに植民地時代に、宣教師の派遣で、アメリカ、アフリカ、オーストラリアなどにもワイン作りが広まった。

5. ラムと奴隷制度
ラムの歴史には、悲しい奴隷制度の影がつきまとう。ラムの故郷はカリブ海の西インド諸島で、その誕生はサトウキビが持ち込まれたことがきっかけだったという。ラム誕生には、スペイン探検家が蒸留技術を西インド諸島に伝えたという説と、蒸留技術を持ったイギリス移民がつくり始めたという説の二つがあるとか。
現地人の「酔って興奮した(ランバリオン)」という状態を表す言葉が語源になったというのが通説だそうな。ヨーロッパ、西インド諸島、アフリカという大西洋における三角貿易の発展は、奴隷制度の産物ということもできよう。
尚、行付けのバーでは、ラムの良さを教えてもらい、よくストレートで頂いている。おらいはラムちゃんの奴隷だっちゃ...

6. テキーラの厳しい基準
このメキシコの酒は、偶然の産物のようである。18世紀のスペイン統治時代、ハリスコ州テキーラ村に近いアマチタリヤ山で大きな山火事があったという。焼け跡には、たくさんのマゲイ(竜舌蘭の一種)が黒焦げて、甘い香りを漂わせていたとか。村人が何気なく潰して舐めてみると、甘くて美味しいことから、やがて蒸留して誕生したと言われる。
1902年、植物学者ウェーバーが最適な竜舌蘭の品種を特定し、「アガベ・アスール・テキラーナ」と命名したという。メキシコには竜舌蘭が約400種類も生育しているが、テキーラ村を中心とする特定地域で栽培される、この品種を使った蒸留酒だけが「テキーラ」と名乗ることができるそうな。公認生産番号が与えられ、製造方法もハリスコ州の政府機関に厳重に管理されているという。

2017-04-30

"ディケンズ短篇集" Charles Dickens 著

明るい作風をイメージしてしまうチャールズ・ディケンズ。だが、この短篇集では違った酒肴(趣向)を魅せつける。なんとも薄気味悪い復讐劇に幽霊劇、おまけに狂人的で自虐的なモノローグ。そこに、さりげないユーモアが混入されると、涙を誘う人間悲劇も皮肉めいた人間喜劇へと変貌し、生きる勇気のようなものを与えてくれる。

パスカルが言ったように、やはり人間は狂うものらしい。それを自覚できるかどうかが運命の分かれ目。真理を追求し、ついに自分自身が狂人だと知った時、人は何でもやれるし、殺人鬼にもなれるというのか。実直で率直であるがゆえに、死者の霊魂に耳を澄ますことができるというのか。世間では誠実と呼ばれ、善人と呼ばれる連中よりも、ずっと素直な情愛に富むがゆえに、心が傷つきやすいというのか。そうかもしれん。
そもそも人間の魂ってやつは、虚栄心の塊、嫉妬心の塊でしかない。歳を重ね、経験を十分に積み、何もかも分かったつもりで説教を垂れたところで、誰も耳を貸そうとはしない。
そして、人間の本来の姿が孤独であることを知れば、なお狂う。正義や道徳を憂さ晴らしの道具とし、正義の鬼となって、道徳の鬼となって、社会を呪うのだ。狂人の自由は、道理に合わないほど脆い。自由が果敢(はか)ないとなれば、この世を墓(はか)場にするしかない。自由の砦を死守せよ!この短篇集は、ディケンズの聖戦であったか...

尚、本書には、「墓掘り男をさらった鬼の話」、「旅商人の話」、「奇妙な依頼人の話」、「狂人の手記」、「グロッグツヴィッヒの男爵」、「チャールズ二世の時代に獄中で発見された告白書」、「ある自虐者の物語」、「追いつめられて」、「子守り女の話」、「信号手」、「ジョージ・シルヴァーマンの釈明」の十一篇が収録される。

1. 墓掘り男をさらった鬼の話
とかく葬儀屋というのは、仕事に反して陽気な人種のようだ。死の象徴に四六時中囲まれている男は、なにかと嫉妬深く、いつも陰険なしかめっ面をしてやがる。クリスマスイブだというのに朝まで墓掘りのお仕事。彼にとって墓地は聖地。明るく歌いながら通りかかる子供には、待ち伏せして薄気味悪い笑みを浮かべ、説教を垂れると泣いて逃げ出す。クリスマスイブに棺桶のプレゼント!イッヒヒヒ...
そして、一人でジンをやっていると、鬼たちが群れてくる。荒れ狂う風とともに、恐れおののく墓掘り男。そこに鬼の王様が現れ、声をかけてきた。今夜はやけに冷えるねぇ... 暖かい飲み物を... 鬼どもは火焔酒をやってはお祭り騒ぎ。鬼の王様は墓掘り男に、お蔵の中から二、三の映し絵を見せた。幸せそうな家族団欒の中、幼い子が死んでいく映像。苦労をともにしてきた老夫婦の傍ら、妻も安らぎの地へ追っていく映像。... これらをどう思うかね?と訊ねると、綺麗ですね!ぐらいしか感想が言えない情けない野郎。呆れた鬼の王様は、次から次へ教訓めいた映像を見せ続ける。子供を脅し、説教を垂れて弄ぶ墓掘り男は、今度は、鬼に説教され弄ばれるという寸法よ。
ついに男はなにやら学んだようである。... 働き詰めなのに僅かな食い扶持しか稼げない人でも幸せに暮らせる。無学な人でも自然な慈愛溢れる顔が慰めや喜びとなる。愛情深い環境にあれば貧乏でも明るく生きることができる。そのような心境は、幸福と満足と安らぎによってもたらされることを...
他人の幸福を見ては、ぶつくさ言う自分が最も情けないことを悟ると、鬼どもはいつのまにか目の前から去っていた。敵意と不機嫌に憑かれるほど、鬼に取り憑かれるというお話であった。

2. 旅商人の話
退屈な文面の続く中、最後の1ページに遭遇した瞬間、慌てて最初から読み返す羽目に。キーフレーズはこれだ。
「たしかに風変わりで薄気味悪い家具ではあった。でも、椅子と老人が似ているなどと考える人間がいたとしたら、じつに驚くほど独創的で活溌な想像力の持主に違いない。」
さて、旅商人が宿屋に着くと、オーナーの未亡人にイチコロ!だが、強力なライバルがいた。背が高く感じのいい男でやはり未亡人を狙っていて、未亡人の方もまんざらではない。敵わないと見るや、ヤケ酒を煽って眠る。
目を覚ますと、椅子が老人に変身して未亡人の父親だと名乗る。パンチ酒を五杯も飲めば、椅子が老人に見えてきたり、壁と語り始めるなんて、まぁ、よくある話。バーに行けば、一人で氷と会話している素敵な女性を見かけるし。もちろん会話に割って入るなんて野暮なことはしない。
おまけに、このお爺ちゃんときたら、若い頃はプレイボーイで女をブイブイいわせた!などと武勇伝を語りはじめる。そして、ライバルの男は既婚者だから、未亡人にアタックしろ!とけしかけるのだった。父親のプレイボーイ振りの報いで、娘がプレイボーイにものにされようとしているのを、霊魂になって阻止しようってか。おかげで、旅商人は未亡人と結ばれたとさ。なんとも退屈な展開である。
ところが、だ。この椅子と老人の話は、どこまで信憑性があるのか?この謎が最後の1ページに集約される。この物語の語り手は泊まり合わせた旅商人で、主人公の旅商人とは別人。しかも、伯父さんから又聞きしたと言ってやがる。二重の、いや三重の間接物語となっているところに、主人公をけしかけた黒幕がどこかに隠れていそうな、なんとも歯切れの悪さが興味をそそる。いや、黒幕は主人公自身かもしれん。実に前置きのながーいお話ではあったが、おいらは前戯が大好きだ!

3. 奇妙な依頼人の話
舞台は、債務者監獄のマーシャルシー監獄。債務者監獄とは、1868年までイギリスの法制度の下で現存した施設だそうな。個人から借金して返済できない時、債権者の告発によって一般犯罪者とは別の特別な監獄に収監されたという。
主人公は物心ついた頃から、飢えと渇き、寒さと貧困の記憶しかなく、両親も不幸のうちに死んだ。債務者監獄に入れられた者の家族の悲劇は、なおも続く。仇敵は、親を債務者監獄に放り込んだ親戚の奴ら。玄関払いを喰らわせた奴ら。手助けの言葉は気前よく用いられる分、残酷な響きとなる。やがて裕福になり、恐ろしい復讐のチャンスが到来。悪魔の導きか。奇妙な依頼人の飽くなき執念は、訴訟の勝利だけでは収まらず、相手の破滅によって百倍にも強まる。
「法律の機構を総動員し、知恵の生み出し得る限り、辣腕の及び得る限りの策をめぐらし、公正不正の手段を尽し、最高の切れ者法律家の手練手管をうしろだてにして、法の公然たる圧力を働かせるのだ。あの男を苦しめ、じりじりと死なせてやりたいのだ。やつを破産させ、動産不動産を全部売り払わせ、家から追い出し、老残の身を乞食として引きまわし、監獄の中で死なせてやるのだ。」
尚、ディケンズの父は、気のいい呑気者で、経済観念や責任感を欠き、借金のために債務者監獄に放り込まれたそうな。まだ義務教育制度のない時代、ディケンズは12歳で小学校をやめさせられ、工場で働いたという。この物語は、債務者監獄が人の心を徹底的に打ちのめす悪魔のごとく、凄まじい復讐劇として描かれる。

4. 狂人の手記
今まで恐れていた「狂気」という名が好きになりそう。精神病バンザイ!
周りのみんなを気違いと思い、奴らが敵わないほど頭が良いと自画自賛。天才もまた一種の狂気。この狂気を子孫末代まで伝える暗い運命を背負った子を産むかもしれない、と思うと妻を殺そうと決意する。
さて、どうやって殺すか?毒殺、溺死、火事... 邸宅が炎につつまれて黒焦げになるのも絶景!犯人逮捕に莫大な懸賞金がかけられ、無実の人間が絞首台にぶらんと風に揺られる、と考えただけで愉快!
ある夜、眠っている妻の前で剃刀を持って耳元で囁いていると、悲鳴をあげて目を覚ました。妻にじっと見つめられると、金縛りになる。妻が大声で助けを呼ぶと、家中の人が目をさまして部屋へ集まってきた。そして医者を呼ぶと、奥さんは気が狂いました!と狂人の俺に言うのさ。奥さんを監禁して見張りをつけなければならないと。この俺が見張りだとさ。目的を果たし、妻は翌日死んだ。葬式で、白いハンカチの陰で涙が出るほど笑った。狂暴な喜びと有頂天を隠すために、歯を食いしばり、足で地団駄を踏んで、手に爪を立ててこらえるも...
「おれは憶えている... もっともこれはおれが憶えていることができる最後の情景の一つなのだ。なにしろ、いまここでは夢と現実がごっちゃになってしまって、やる仕事がどっさりあるうえに、いつも急がされているので、その二つをごっちゃになっている混沌から切り離している暇がないからだ... おれは憶えている、おれがどのようにしてとうとうそれをばらしてしまったかを。あっはっは!」

5. グロッグツヴィッヒの男爵
グロッグツヴィッヒの男爵の名は、フォン・コエルトヴェトウト。古城に住み、魅力的で若く、是非一度逢ってみたい人物だというから、人物紹介物語とでもしておこうか。しかし、血気盛んな男爵は子供を多く授かったために財産が尽き、借金を抱えてしまう。社交界で見栄を張って生きていかねばならぬ身の上では、チャラにするなら死ぬしかない、と自殺を覚悟する。
尚、Grogzwig(グロッグツヴィッヒ)は、grog(グロッグ酒 = ラムの水割り)と、swig(がぶ飲み)を合わせた名。Koëldwethout(コエルトヴェトウト)は、cold-without のもじりを思わせる。それは砂糖を入れないジンの水割りでのことで、warm-without で砂糖を入れないお湯割りとなる。また、フォン・シュヴィーレンハウゼン(Swillenhausen)男爵という人物も登場し、swill(鯨飲)の家という意味になる。
なぁーんだ。大酒飲みたちの駄洒落物語であったか。酒は百薬の長と言うが、自殺の決意までまろやかにしてくれるとは。命の重みをアルコール度数で相殺するなら、人生なんてまさにスピリタス!
「それでもまだ、みだりにこの世から引退したくなるようなら、まず最初に大きなパイプを一服やり、そして酒壜一本まるまる空にして、グロッグツヴィッヒの男爵のあっぱれなお手本から学んでみたらどうかな。」

6. チャールズ二世の時代に獄中で発見された告白書
獄中の最後を語る独白。生涯の最後の夜だから、包み隠さず赤裸の真実を綴ることができるというもの。無論、勇敢な人間でもなければ、子供の頃から疑い深いムッツリした性格であった。いつも出来のいい兄と比べられ、しかも同じ姉妹と結婚し、絶えず劣等感に苛んできた。兄は先に逝ってしまい、心を見透かしたような目で見る兄嫁も息子を残して死去。その息子も兄嫁と同じような目で見やがる。おまけに、姉の息子を可愛がる妻にいたたまれない。ついに胸中に悪魔を抱き、兄の子供を殺してしまった。そして、明日死ぬ運命にあると、恐怖心の表白を綴る。

7. ある自虐者の物語
幼き日は、祖母と過ごした。いや、そう名乗る人と過ごした。やがて孤児と思い知らされる。皆の優越感と傲慢な憐れみで優しくされ、破廉恥な芝居にも見えてくる。これが馬鹿でない最初の不幸。親切、保護、その他もろもろの美名の下で自己満足に浸る慈善家。彼らは気の毒な子供を見つけては、見返りの奴隷とする。人の不幸をだしにして憐憫、同情などという方法で、自尊心や優越感を誇示するわけだ。
主人公は美貌にも恵まれた才女で、孤児のコンプレックスを反骨精神に生きてきた女性。見下した親切心に失望が加わると自立心を養ってきた。道徳的タブーに凝り固まった世間の無知と偽善には、条件反射的な道徳批判で対抗し、同情は蔑視の裏返しとして断じて拒む。
しかしながら、才ある人間はとかく誤解されやすい。ましてや気の強そうな女性ともなると、狡猾かつ滑稽な皮肉屋に見られる。「狂人の手記」のごとく、最初から狂気を自覚し、世間からもそう思われる方が、まだしも楽であろうに...
道徳的な人間にせよ、非道徳的な人間にせよ、自動的に身に付けた価値観に支配されるのは同じ。それに気づくから不幸なのかもしれん。ただ、彼女もまた自虐の法則に自動的に従っているだけではないか...
「私は馬鹿でないという不運に生まれついている。まだほんとに小さい頃から、まわりの人たちが私に隠しおおせたと思っていることを見破ってしまった。いつも真実を見破るのではなくて、いつも騙されていることができたなら、私も大多数の馬鹿者と同じように平穏な人生を送ることができたであろうに...」

8. 追いつめられて
ある生命保険会社の総支配人の告白。
「生命保険会社というのは、人間の中でも最も狡猾、残忍な連中にいつ何時乗じられるかわからないということ、これだけ言っておけば十分だろう。」
保険金を支払うには、まずもって客観的に判断する材料が求められる。それは、まずもって人の言い分を疑ってかかること。会社の資産を守るために保険金支払いの義務から免れたいと考える。裁判沙汰に追いつめられても。主観性の入り込む余地のない事細かな契約書は、いわば、自分の身を守るため。それゆえ、小さな文字で、これでもか!これでもか!と読み手が嫌になるほどに注意書きを羅列する。まるで暗号解読。
対して、生命保険に入ろうという人は、今の生活よりも楽になりたいと考えて保険に入るぐらいだから、困窮しているわけではない。そこそこ余裕のある人間でなければ、保険金も払えない。現在の生活水準を保つばかりでは飽き足らず、あわよくば裕福になりたいと。
したがって、ここにはグロテスクな人間模様が露わになる。人間の容貌を読破するのは事だ。人間を支えている希望や目的を失った時、人はどんな正体を見せるであろうか...
「態度と結びつけて考察した場合の人間の容貌、これにまさる真理というものはこの世にない。永遠の知恵が各人一人一人に命じて、それぞれ固有の文字を使ってそれぞれ固有の一ページを寄稿させた本、これが人間の容貌である。」
尚、この物語のモデルは、実在した毒殺魔トマス・グリフィス・ウェインライトという人物だそうな。彼は良家の出で、インテリで文才画才にも恵まれ、社交界の寵児だったという。贅沢な生活がたたれば、祖父を毒殺して遺産をせしめる。その後も、妻の妹など何人もの女性に保険をかけて毒殺。仕舞には金目的では飽き足らず、快楽のために殺人を犯したとか。ある女は足首が太くて目障りだった、という証言もあるとか。そして、終身刑を宣告され、流刑の地タスマニアで死んだという。

9. 子守り女の話
少年時代の思い出話。おばあちゃんが怪奇物語を語ってくれれば、幼児期の思い出がいつまでもこびりつく。神話や童話も同じようなもので、それが教訓となって蘇る。殺人鬼大尉というサイコパスに、わが身を悪魔に売り渡した船大工が登場すれば、少年にはトラウマとなる。とはいえ、子守り女の話芸が見事だからこその物語。子供ってやつは何でも信じられるし、脅すのに筋書きなんてなんでもありだ。とはいえ、大人も大きな子供に過ぎない...

10. 信号手
信号手は、列車の安全確保のために常に正確と緊張が要求される。信号燈の手入れをし、時々ハンドルを動かすだけで、労働と呼べるほどの労働ではない。労働といえば、身体を動かすことが主流だった時代、プロレタリアートの象徴はやはりブルーカラーか。
しかしながら、いつベルで呼び出されるか分からず、常に耳をすまし、見かけほどのんびりでもなければ、けして気が休まることがない。通過列車に旗を振り、念入りに機関手に口頭で何かを伝える。少しでも怠れば、大事故になりかねない。
そこに、幽霊の声が....おうい!そこの下の人!気をつけろ!気をつけろ!その十時間も経たぬうちに、歴史的な大事故が発生。偶然か。幻か。そして、またもや危険信号燈のところで幽霊の声。すると、またも死人が... これが何度か続き、妄想に憑かれる。
さて、予兆ともいえる声は、いったい誰の声か?信号手の心の声か?実はいつも無意識に予兆が聞こえていて、事故が発生した時だけ、自意識として明確に浮かび上がってくるということはないだろうか。人間の危険予知能力とは、案外そんなものかもしれない。超自然現象をどう説明するか?これを幻覚として片付けてしまえば、合理的な解釈はできない。まずは、グロッグツヴィッヒの男爵を見習って、酒を飲んでから幻聴に耳を傾けるとしよう...
尚、この物語は、「世界階段名作集」のようなアンソロジーにもよく選ばれる有名な作品だそうな。ちなみに、1865年、この物語が書かれる前の年の6月9日、ディケンズは愛人とのフランス旅行からの帰途、ロンドン行の列車が大事故を起こし、多数の死傷者を出したという。二人とも怪我はなかったようだが、精神的後遺症からは抜けられなかったとか。そして、5年後の1870年6月9日、ディケンズは亡くなった...

11. ジョージ・シルヴァーマンの釈明
「ある自虐者の物語」は、孤独で内気でありながら攻撃的な性格を持つ女性の独白劇であった。この物語は、その男性版でありながら、性格は極めて忍従的で受動的という対称性を担っている。
主人公は貧乏な家で生まれ、地下室に閉じこもって暮らす。母親からも世故いガキと呼ばれ、偏狭な性格になったと告白。世故に長けた者の世故い人生とはいかなるものか。それは、地下室への階段が急だったことが物語っている。両親は二人とも地下室で寝たきりになり、笑い、唄って、死んでいった。
やがて、そんな地下室にも変化が訪れる。世間の変化が、こんな低いところまで舞い降りてきたのか。世故いガキは牧師に拾われ、大学にまで行かせてもらう。だが、気難し屋で不愛想なムッツリ屋の性格は変わりようがない。こんな性格にしたのは、地下室のせいか?貧乏のせいか?救いを哲学に求めたところで自問という拷問に晒され、内気で自己主張できないがゆえに自我を破滅させていく...
とはいえ、墓場に片足を突っ込みながら、すごく世故に長けている。なにしろ皮肉な独白劇を披露しているのだから。そして、この一文に宗教的道徳観への反骨精神を感じる。相手は英国国教会ということになろうか...
「ずきずき痛む心と疲れきった精神を引きずって、この修羅場から退却した。こういった偏狭な人間たちを神の威厳と英知の解釈者と見なしてしまうほど、ぼくが弱い人間だったからではなく、ぼくの中のまったく世故にたけた心がわずかでも頭をもたげかかるのを抑えようとしたやさき、そして懸命の努力によって、成功したと精一杯思い込んでいたやさき、事実を歪めて述べられ、また意味を取り違えられてしまったのは、ぼくのよくよく不運であるかのように感じるほど、ぼくが弱い人間だったからだ。」

2017-04-23

"ラ・ロシュフコー箴言集" La Rochefoucauld 著

フィーヌ・ブルゴーニュにほどよく酔い痴れ、ノスタルジアに浸って本棚を眺めていると、懐かしい金句の群れが押し寄せてきた。こやつに出会ったのは、三十年くらい前であろうか。おいらが好青年と呼ばれていた頃、純真な心を癒やしながらも、天の邪鬼精神を目覚めさせたのであった...
「われわれの美徳は、ほとんどの場合、偽装した悪徳に過ぎない。」

「箴言集」は、ルソーやサルトルらの反発を買い、後世、高名な作家たちから槍玉に挙げられてきたアクの強い作品である。ラ・ロシュフコーは、フランス貴族の中でも屈指の名門の出だそうな。ルイ13世やルイ14世が権威を誇り、革命にはまだ間のある時代、上流社会には見栄っ張りの浪費家が溢れ、ラ・ロシュフコー家も例外ではなかったようである。
紳士の格言では、社交術や会話術を交えながら皮肉たっぷりに問い詰め、恋愛をめぐる辛辣な警句では、ご婦人方がサロンでお喋りしている光景が目に浮かぶ。ここには自己完結した文句が無作為に羅列され、どこからでも拾い読みができる。それでいて、一つの体系を成しているように映るのは、隅々に渡って自己愛の原理が働いているからであろう。主題には、哲学でお馴染みの節制、謙虚、義務、正義、幸福などが挙げられるものの、それぞれが自己愛を中心に絶えず循環し、さらに、嫉妬症、妄想症、説教癖、狂言癖、老人病といった性癖を随所に絡ませる。あらゆる所に否定の通奏低音が響き渡り、いわば、自己愛の肖像とも言うべき作品なのだ。
尚、本書には「考察」という作品が付録されるが、考察というより、人間観察と言った方がいい。「考察」は著者自身は公刊しなかったそうだが、参考までに併せて訳出したという(二宮フサ訳、岩波文庫版)。なるほど、人間観察というより、ラ・ロシュフコー観察ってわけか...
「話すための技術が沢山あるとすれば、黙するにもそれに劣らぬだけの技術がある。世には雄弁な沈黙があり、これは時に賛同したり否認するのに役立つ。からかう沈黙もある。敬意に満ちた沈黙もある。」

パスカルは、神なき人間は悲惨だと語ったが、はたしてそうだろうか。確かに、縋るものがなければ、絶望の淵に沈んでいく。虚偽的な正義、打算的な虚栄心、自己満足的な憐憫、気まぐれな情念... こうしたものが人間の本性であり続ける限り、そこから逃れることは叶うまい。
ならば逆に、悲観的な人間観を心の拠り所にする術はないだろうか。人間の行動パターンなんてものは、ほとんど自己存在、ひいては自己愛で説明がつく。自我にとって自己愛ほど手に余る存在はない。誉められたい... 認められたい... だから人は努力する。自己の中に得意なことを見出し、強調し、集団の中で優位に立とうと。ちょっと不幸そうに見える人には幸せの押し売りどもが群がり、本当に不幸な人には誰一人目もくれない。人間ほど差別好きな動物はいない。なによりも自分自身を差別化しようとする。自分自身に本当に自信があれば、他人を蔑んだりはしないはずだが、自己確認のために劣位な存在を欲してやまない。見返りばかりを求める心の高利貸しが、支離滅裂な自負心を旺盛にさせて自己を慰めれば、まるで自慰行為の塊!人はみな、ネガティブキャンペーン好きよ...
「自己愛こそはあらゆる阿諛追従の徒の中の最たるものである。」

かと思えば、自分の真の姿を知りたいのは自分自身のはずなのに、他人から暴かれることには恐れおののく。何事も愛が結びつくと狂気沙汰となるものだが、自己に取り憑いた時は厄介極まりない。自己を偶像のごとく崇拝しちまう。人はみな偶像崇拝者よ。
愛ほど、ひた隠しにすることもなければ、装ったりすることもない。おまけに、絶えず掻き立てなければ持続できず、自己を蝕むだけでは飽き足らず、相手の安らぎまでも餌食にする。案外、人は自分の欠点をよく知っているものだが、欠点を欺くという欠点を纏っているがために、いっそう欠点を増幅させる。
嫉妬もまた他人の幸福に我慢ならない狂気の類い。幸も不幸も、その人の感受性で程度が決まり、情念の暴虐に跪く。自己が最もうんざりする存在であることを承知するには、非情な勇気がいる。己れの傲慢さには、己れの傲慢さを対抗させるしかない。ありとあらゆる行為が自己弁明を装った自作自演と化し、もはや敵は己れ自身!
こんなものに無防備で立ち向かえば、悲観論に陥るは必定。哲学は過去と未来の不幸を克服してくれるが、現在の不幸は哲学をいとも簡単に凌駕する。それでもなお... 自己否定に陥ってもなお... 愉快でいられるとすれば、真理の力は偉大となろう。箴言とは、自分自身をおちょくってもなお、愉快になれる境地を言うのかもしれん...
「人間の心をあばいて見せる箴言がこれほど物議をかもすのは、人々がその中で自分自身があばかれることを恐れるからである。」

では、気に入ったところを少しばかり拾ってみよう... すると、どうも捻くれたものばかりを選んでしまう。それも、おいらの精神が歪んでいる証であろう...
「人は自分について何も語らずにいるよりは、むしろ自分で自分の悪口を言うことを好む。」

1. 欠点の告白
「われわれが小さな欠点を告白するのは、大きな欠点は無いと信じさせるために過ぎない。」

「もしわれわれに全く欠点がなければ、他人のあらさがしをこれほど楽しむはずはあるまい。」

「もし自分に傲慢さが少しもなければ、他人の傲慢を責めはしないだろう。」

「われわれは実際に持っているのと正反対の欠点で自分に箔をつけようとする。気弱であれば、自分は頑固だと自慢するのである。」

「断じて媚は売らないと標榜するのも一種の媚である。」

2. 助言の良識
「およそ忠告ほど人が気前よく与えるものはない。」

「自分と同じ意見の人以外は、ほとんど誰のことも良識のある人とは思わない。」

「助言の求め方与え方ほど率直でないものはない。助言を求める側は、友の意見に神妙な敬意を抱いているように見えるが、実は相手に自分の意見を認めさせ、自分の行動の保証人にすることしか考えていない。そして助言する側は、自分に示された信頼に、熱のこもった無欲な真剣さで報いるが、実はほとんどの場合、与える助言の中に、自分自身の利益か名声しか求めていないのである。」

3. 正義と義務
「真実は、見せかけの真実が流す害に見合うだけの益を、世の中にもたらさない。」

「正義とは自分の所有するものを奪われるのではないかという強い危惧にほかならない。」

「あらゆる立場でどの人も、みんなにこう思われたいと思う通りに自分を見せようとして、顔や外見を粧っている。だから社会は見かけだけでしか成り立っていない。」

「生まれつきの残忍性は、自己愛が作るほど多くの残忍な人間は作らない。」

「人から受ける強制は、多くの場合、自分自身に加える強制よりも辛くない。」

「われわれは死すべき人間としてすべてを恐れ、あたかも不死であるかの如くすべてを欲する。」

「怠惰と臆病がわれわれを義務に繋ぎとめているだけなのに、もっぱらわれわれの道義心が義務遵奉の名誉を独り占めにする。」

「金に目もくれない人はかなりいるが、金の与え方を心得ている人はほとんどいない。」

「どれほど多くの人間が、罪のない人間の血と生命を食らって生きていることか。ある者は虎の如く常に獰猛かつ残忍に、ある者は獅子の如くいささか鷹揚らしき外見を保ちながら、ある者は熊の如く粗野で貪欲に、ある者は狼の如く強奪と非情に徹し、ある者は狐の如く奸智に生き瞞着を生業としてる!犬に類する人間もなんと多いことだろう!彼らは自分の種を滅亡させる。自分の飼い主の快楽のために狩りをする。...」

4. 美徳と嫉妬
「人が節度を美徳のひとつにまつりあげたのは、偉人の野心に歯止めをかけ、凡人の不運と無能を慰めるためである。」

「美徳の虚偽性を証明する箴言を、とかく正しく判断できないのは、あまりにも安易に自分の中の美徳は本物だと信じているからである。」

「凡人は、概して、自分の能力を超えることをすべて断罪する。」

「嫉妬はあらゆる不幸の中で最も辛く、しかもその元凶である人に最も気の毒がられない不幸である。」

「謙遜は、誉め言葉を固辞するように見えるが、実はもっと上手に誉めてもらいたいという欲望に過ぎない。」

「人はえてして少しも相手の邪魔にならないつもりでいる時に邪魔になる。」

「ティベリウスやネロの罪悪のほうがわれわれを悪徳から遠ざけ、最高の偉人の立派な手本は、それほどわれわれを美徳に近づけない、と言えるかもしれない。アレクサンドロスの武勇はなんと多くの空威張り屋を作ったことか!カエサルの栄光はなんと多くの祖国への謀反に口実を与えたか!ローマとスパルタはなんと多くの狂暴な徳を称えたか!ディオゲネスはなんと多くの図々しい哲学者を、キケロはお喋りを、ポンポニウス・アティクスは優柔な怠け者を、マリウスとスラは復讐魔を、ルクルスは道楽者を、アルキビアデスとアントニウスは放蕩者を、カトーは頑固者を、作り出したことだろう!これらの偉大な原型はすべて無数の劣悪な模型を産んだのである。美徳は悪徳の国境である。」

5. 幸福の法則
「われわれは、どちらかといえば、幸福になるためよりも幸福だと人に思わせるために、四苦八苦している。」

「幸福な人々はめったに自分の非を改めない。そして運が彼らの悪行を支えているに過ぎない時でも、きまって自分が正しいのだと信じている。」

「この世で最も仕合せな人は、僅かな物で満足できる人だから、その意味では、幸福にするために無限の富の集積が必要な王侯や野心家は、最もみじめな人たちである。」

「賢者を幸福にするにはほとんど何も要らないが、愚者を満足させることは何を以てしてもできない。ほとんどすべての人間がみじめなのはそのためである。」

「運も健康と同じように管理する必要がある。好調な時は充分に楽しみ、不調な時は気長にかまえ、そしてよくよくの場合でない限り決して荒療治はしないことである。」

6. 老人病と虚栄術
「老人たる術を心得ている人はめったにいない。」

「年寄りは、悪い手本を示すことができなくなった腹いせに、良い教訓を垂れたがる。」

「本来の自然な顔をやめて成り上がった位や顕職の顔をなぞるだけでは飽き足りない人もいる。憧れている顕職や位の顔を、ひと足先に作っている人さえいる。なんと多くの大将が元帥に見られようと懸命になっていることか!なんと多くの法曹家が大法官の風を空しく練習し続けていることか!そしてなんと多くの町人女が公爵夫人の顔を作っていることか!」

2017-04-16

"物象化論の構図" 廣松渉 著

「物象化論の構図」と題して、ここではマルクスの物象化論を主眼に置いている。というのも、「物象化」という用語が、マルクスの唱えた「疎外」に対置する形で現れたという経緯がある。プラトンやアリストテレスの時代から「形象」や「形相」という語が用いられてきた。精神という得体の知れないものを、どうやって具象化するか?どうやって具体的な主体として説明できるか?魂と物体の関係をめぐる論争は、幽体離脱か?はたまた、霊魂融合か?いまだ決着を見ない。精神ってやつは、自己の内で確実に認識できる。にもかかわらず、客観的に説明できない実体が存在すれば、真理を探求する自然哲学にとって由々しき問題だ。
プラトンは、観念を独立した実存と捉え、精神の完全な原型である「イデア」なるものを唱えた。だが、実体からの派生は、もはや原型の面影を微塵も残さず、不完全極まりない。
対して、アリストテレスは、観念を物質と分離不能なモナド的内在として「エイドス」なるものを唱えた。だが、脳や心臓の構造までは説明できても、魂の構造までは説明できず、不死を唱えて慰めるが精一杯。
プラトン対アリストテレスの論争は、後世、偉大な哲学者たちによって微妙に言葉を変えながら引き継がれてきた。いや、プラトンとアリストテレスもまた、ソクラテス以前の哲学者たちの代理戦争を繰り返していたのやもしれん。つまり、人類は未だ己の正体すら知らないってことだ。

目に見えて分かる実体は心を落ち着かせる性質がある。一方、最も身近に得体の知れないものがあると、大きな不安に襲われる。大概の人は、精神が投影する自我ってやつを、無駄な存在とは考えたくないだろう。何か意味あるものだと信じたい。抽象的な存在はすべて、肩書、権力、金銭といった確実に目に見える形で具象化し、神という存在ですら偶像崇拝に縋る。そして、自己存在に「価値」という概念が結びついてきた。それは、精神の持ち主の性癖であろうか...
「存在が意識を決定する。存在が無意識をすら決定する。」

さて、物の形として価値を評価する典型に、経済循環というシステムがある。本来、価値とは、如何に社会にとって役立つか、如何に個人にとって心の拠り所となるか... さらに人間そのものに迫って、如何によく生きるか... といった問いに発し、そこにはソクラテス哲学が組み込まれている。
しかしながら、商品価値という概念が生まれると、交換価値が優勢となり、モノより交換手段に目が奪われる。政策立案では、なんでもいいから貨幣を循環させさえすればいいという思惑に憑かれ、命の価値までも貨幣換算される。
マルクスの物象化が、当時の資本主義を基調とした生産社会への批判から生まれたのは確かであろう。労働価値説が、マルクス以外にも様々な形で現れた時代である。大量生産の合理的なシステムが自己疎外を招き、人間とは何か?といった根本的な問い掛けへと回帰させ、自己実現への道を開こうとする。人間本性の自由を担保できなければ、どんな制度を持ち込んだところで官僚腐敗化するは必定。
廣松渉は、マルクスは既に疎外論から脱皮して物象化論の段階にあったと解き、これを「疎外論の止揚」と表現している。止揚とは、「アウフヘーベン」。そう、ヘーゲル哲学の基本概念だ。おいらはヘーゲル弁証法を哲学論というより、慣習的方法論と捉えている。ソクラテスは矛盾を克服すべき障害と捉えたが、ヘーゲルは矛盾と向き合うことによってのみ真理に近づけると考えた。批判哲学の原理は自己の哲学をも批判する立場をとるのであって、酔いどれ天の邪鬼流に言えば、健全な懐疑心と啓発された利己心が自立や自律をもたらす、とでもしておこうか...

1. 資本論と唯物史観
廣松渉は、「唯物史観こそがマルクス哲学の基軸である。」と表明する。もちろん完成した体系ではない。ただ、しばしばマルクス主義者が主張する頑固なドグマの体系でもなければ、イデオロギーやユートピアを唱えたものでもないようである。硬直化した解釈の下では宗教と同じことで、ならばマルクス教と呼べばいい。マルクスはこう書いているという。
「哲学の実践はそれ自身理論的である。個々の実存をその本質において、あれこれの特殊な現実を理念において量ること、これが批判である。」
ところで、マルクスの大作に「資本論」ってやつがある。いつかは読破してみたいと考え、もう二十年が過ぎた。お茶を濁そうと、序文に位置づけられる「経済学批判」を手にとってみると、カントの批判哲学を継承したようなイデオロギー色を感じないものであった。それどころか、経済活動の同質化による精神的弊害を指摘し、より高尚な自由主義を唱えているように映り、「資本論」に少しばかり近づけそうな予感がした。次に、マルクスとエンゲルスの共著「共産党宣言」を手にとってみると、理想像を具現化した途端に幻滅し、再び「資本論」を遠ざけることに。「共産党宣言」が1848年、「資本論」が1867年から1894年と時間の隔たりも大きく、考えも変わったのやもしれん。人生において、思想に一貫性を保つことは不可能なほど難しい。
本書は、元来マルクス哲学は近代イデオロギーの地平を超克し、ロシア・マルクス主義流の科学主義的マルクス主義や、西欧マルクス主義流の人間主義的マルクス主義を批判する立場にあるとしている。しかも、第二インターナショナルのカウツキーあたりからマルクス主義の教義体系が持ち込まれたと。
「人々が、もし、理論体系、叙述された文章内容を自存化させ、それが自己完結的に、その内部で、いわゆる "革命の必然性の論証" をおこなうことができ、一定の当為を論理必然的に論証・導出できると考えるとすれば、それは『著述』というものに対する一種の『物神崇拝』フェティシズムに陥っていることの一表白であります。」

2. 疎外論から物象化論へ
自己疎外から解放させてくれる一つの方法に、社会との関わり方がある。実体として捉えようとするから無理があるのであって、関係として捉えてみてはどうであろう。相対的な認識能力しか発揮できない知的生命体にとって、絶対的な実体を認識することなどできはしない。だから、自己を見つめるために、他の人との相対的な関係から見つめる... などと鑑みると、マルクスの物象化は、実体主義から関係主義への転換という解釈も成り立ちそうである。マルクスの唯物史観は、物質と人間の関係、人間と人間の関係、さらには歴史と人間の関係から生じたようである。それもプロレタリアート側の意識から。彼のイデオロギー的な物言いは、著作「ルイ・ボナパルトとブリュメール18日」にも垣間見ることができる。
一般的に、社会的価値が個人的価値よりも優先される。アリストテレスは、人間はポリス的動物だとした。マルクスとエンゲルスは、資本主義の生産関係に代わるべく社会編成を提示し、物象化された実現条件を示した。そう、共産主義ってやつだ。何か新しいものを提示しようとすれば、新しい語をもって説得力を与えるのが常套手段。案の定、マルクス主義はイデオロギー色に染まった政治団体によって利用されてきた。マルクス主義を貶めてきたのは、マルクス主義者たち自身かもしれない。
マルクス・レーニン主義とも称されるが、マルクスとレーニンは本当に同じものを目指していたのか?マルクスは、本当に資本主義を否定したのか?あるいは、資本主義の改善を求めたのか?はたまた、真の共産主義は未だ物象化に至っておらず、マルクスをもってしても、その物象化に失敗したのか?
そうなると、「物象化」という用語もなかなか手強い。本書では、具体化や具現化というより、普遍性に近い意味で使われている。少なくとも「資本論」は、イデオロギーや経済システムを超越した難解な哲学書として君臨している。本書のおかげで、再び「資本論」へ近づけそうな気がする。いや、気のせいか?酔いどれ天の邪鬼ごときに読解できるとは到底思えないが、この大作に一度手をつければ、一ヶ月は集中することになりそう。そんな余裕が、今のおいらにあるのか?仕事が忙しいとは、権威をまとった、実にうまい言い訳である...

2017-04-09

"省察" René Descartes 著

デカルト哲学の第一原理は、「方法序説」のあの有名な命題でほぼ言い尽くされている... 我思う、ゆえに我あり... と。「省察」では、より精緻な表現が用いられる... 私は実体である... と。この原理を根本から支える主張に心身分離論がある。精神は肉体とともに腐敗していく存在ではなく、独立した崇高な存在であり、それ故、死はけして恐れるものではないと。
しかし、こうした思考は、なにもデカルトに始まったことではない。そもそも哲学の課題には、大きく二つあるだろう。一つは、真理とはいかなるものか、いかに真の知識を得るか。もう一つは、現実世界をいかに生きるか、いかに生きるべきか。要するに、哲学の根本原理は、知識と道徳の融和にある。知識を蓄えるだけでは知性に達し得ない。道徳を学ぶだけでは理性は得られない。ここには、精神の不死を唱えたソクラテス精神「よく生きる」が脈々と受け継がれている...

デカルトの思考法は、きわめて数学的である。ユークリッドが「原論」の中で公理と公準の形で、これ以上証明のしようがない純粋な命題の存在を明らかにしたように、神の実存性とその無限性を、人間の直観の偉大さによって示そうとする。
デカルトの形而上学は、自然学と結びついて地球の構造や磁力、水や大気や熱などを論じ、機械論的宇宙論の様相を呈す。動物をも機械とみなせば、人間はどうであろう。身体が機械的であっても、精神は別物だというのか。理性的言語の使用は、精神の持ち主にだけ与えられた高貴な能力だというのか。デカルトは、情報伝達だけの言語ならば動物にもあるが、哲学を構築することのできる言語となれば人間だけの才だと主張している。
では、その崇高な言語を操る精神の存在をどう説明できるというのか?人間は思惟する存在であり、この思惟するという崇高な性質を説明するためには... そもそも崇高なのかも分からんが... 人間を超越した存在を仮定しなければならない、というわけである。相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体が、自らの有限性を証明しようとすれば、その対極にある無限性を持ち出さなければ説明できない、といった具合に。そして、神の存在証明を目論むと、詭弁論にならざるをえない。
「神を存在するものとしてでなければ考えることができないのは、山を谷なしに考えることができないのと同じであるが、しかし、山を谷とともに考えるからといって、そこからただちに、ある山が世界のうちに存在する、という帰結ができてこないことも確かである。」

百歩譲って神が存在するとしよう。それでも、神は人に考えを強制しないが、人間は人に考えを強制しようと止まない。それは聖書の解釈をめぐって顕著だ。不完全で有限な存在が見識が狭いのは道理であり、人間の想像する神が、これまた不完全であることも道理である。無知者は無知を自覚できない、あるいは、すべての誤謬は無知に発する、といった無知の原理は、プラトンによると既にソクラテスによって提示されている。知らぬが仏と言うが、鈍感でなければ幸福にはなれない。
したがって、精神を研ぎ澄ます自然哲学者が、神の存在を認識できたとしても、幸福者にはなれないだろう。そもそも彼らの目的は、幸福ではないのかもしれない。
では、真理を探求する目的とは何か?人間の創造は宇宙法則の延長上にあり、あらゆる存在意識はおそらくそこに発している。すべての存在を論理的に説明しようとすれば、一旦存在を疑ってみることになり、自己存在をも疑ってかかることになろう。
しかしながら、自己存在と自己否定は精神の内で共存が極めて難しい。思惟した結果が自己否定に辿り着こうものなら、自己を欺かずにはいられず、さらに愛が絡むと、もう手に負えない。純粋な愛情劇がドロドロの愛憎劇へ変貌するのに、大して手間はかからないのだ。自己否定を承知してもなお精神が平穏でいられるならば、真理の力は偉大となろう。その境地こそが、彼らにとっての幸福というものであろうか。少なくとも自然哲学者の唱える神は、宗教家の唱える神とはまったく異質のように映る...

ところで、精神には、二つのことがある。一つは思惟すること。いま一つは、肉体と結びついて、物体を主導したり、物質に隷属したりすること。形而上学では思惟することに主眼を置くが、精神の実体は、能動的であると同時に受動的であり、情念の関与は避けられない。人間の精神は、客観性よりも主観性に支配されることが圧倒的に多い。主体や主観は、肉欲や物欲とすこぶる相性がよく、なによりも自己存在の根源的意識となっている。そもそも思惟するという行為が、極めて主観的である。デカルトをもってしても、形而上学の次元では心身分離論を唱えても、現実世界の次元では心身合一論を唱えざるを得ないか。実際、彼は「情念論」も書しており、スピノザ哲学にも通ずるものを感じる。
「省察」には文字通り反省の意味も含まれるが、意地悪く言えば、モナドロジーへの鞍替えか?いや、心身分離論と心身合一論の矛盾はデカルト哲学の弱点ではあろうが、むしろ自然哲学が抱える矛盾と捉えるべきであろう。
人間には性癖がある。認めたものが感情論に支配されていることに薄々気づきながら、絶対に認めようとはしない。社会常識とされることも、しばしば狂気じみている。そんな性癖でもなければ、戦争のような人間が人間を抹殺にかかるという現象を、とても説明できそうにない。正義という動機がいかに脆弱なものであるか。それは歴史が散々示してきたというのに、いまだに社会全体が正義の言葉に踊らされる。人の欠点がはっきり見えるということは、自分自身にも似たような欠点があることを意味する。自分自身の本性と向き合わずして、何が哲学よ!
デカルトの唱える方法論は、自ら「普遍的な懐疑の効用」と呼び、先入観から解放させてくれるという。それは、蓋然論者の独断や懐疑論者の不可知論を退けることが前提される。無思慮と軽率さに見舞われる盲信に対して、熟慮した懐疑心で対抗するしかないというわけである。誤謬の原因は、有限な悟性の明晰判明な認識を超えて自由意志を働かせることにあるという。これを避けるために、意志を悟性と同じく有限界に押しとどめよ!と。有限界にとどまる人間が無限界の存在を語ろうとすると、恐ろしい虚無感に襲われる。はたして、健全な懐疑心と啓発された利己心が、自立と自律をもたらし、自己精神の存在を確実に発見させてくれるだろうか...

2017-04-01

今年は2017年... トリ返しがつかない上に、酉年なんて申します...

今日、四月一日...
朝っぱらから場末の角打ちで一杯ひっかけていると、角の隅っこで酉年のお人が何やらつぶやいている。

2017年は、酉年!
とは申しましても、鳥のごとく大空へはばたくことも叶わず、コケコケコッコと騒ぐが精一杯!人生に説得力なければ、言葉に信憑性ともなわず、いくつになっても、まったくヒヨコのままのチキン野郎でして...

ところで、人間の身体って、すべて金でできてるって言われまんなぁ。
頭は頭金、眼は元金、借金の肩に手つけを払って、耳は揃えて返しまひょ。足はお姉ちゃんの足代、鼻は芸者遊びで花代、そして、指は高い高い指名料とくれば、へそくりでもしてお腹を温めなはれ。宮仕えは首にでもなったら、ワヤ!おまけに、酉年には借金とりに追われ、首が回りまへん。ベンジャミン・フランクリンという人は、うまいこと言いなはる...
「お金と人間は持ちつ持たれつ。人間は贋金をつくり、金は贋の人間をつくる。」

シメを飾るは真打ちでして、これを「とりを務める」なんて申します。人生のとりを飾るは、トリカブトでっか。夫婦喧嘩もほどほどに。終わりよければすべてよしと申しまして、人生をどう完結させるか苦心する次第。ただ、とり返しのつかない上に、これを世間では酉年と申します。神も仏も無情でんなぁ。バーナード・ショーという皮肉屋がうまいこと言ってましたわ...
「人が死んでも人生は滑稽であり続け、人が笑っても人生は深刻であり続ける。」

現世に幻滅しつつも、一月一日ともなれば、新年明けましておめでとう!なんて皆々合言葉を交わしよる。せめて年明けぐらいは夢を見ていたい!というのが本音でありましょう。
一方、四月一日は、世間ではエイプリルフールなんて申しまして、堂々と冗談の言える日ということになっておりますが、実は、本音が存分にぶちまけられる日のようでんなぁ。ただし、嫁さんへの本音は、保険金を惜しまず掛けてからにしときなはれ。コミュニケーションには言葉のキャッチボールが大切なんて申しますが、すぐさま言葉のドッジボールと化し、やがて言葉のビーンボールが頭をかすめよる。
ちなみに、完璧な仕事料の相場は、300万ドルと聞きましたわ。ゴルゴ13... 奴を狙撃しろ!

ジョージ・ムーアという人は、うまいこと言いなはる...
「現実は夢を壊すことがある。だったら、夢が現実をぶち壊したっていいではないか。」