2020-07-26

"変身・断食芸人" Franz Kafka 著

小雨ちらつく中、虚ろな気分で古本屋を散歩していると、なんとも異様な文面で始まる物語に出逢った。
「ある朝、なにやら胸騒ぐ夢がつづいて目覚めると、ベッドの中の自分が一匹のばかでかい毒虫に変わっていることに気がづいた...」

カフカの小説に触れるのは、これが初めて。初体験ってやつは、なんであれゾクゾクさせるものがある。主人公がどんな夢を見ていたのかは知らん。おぞましい姿に変身する夢でも見ていたのか。そして、それが現実になってしまったのか...
夢ってやつは、見ている間は妙にリアリティがある。ふと冷静になり、それがありえないシチュエーションであったとしても。夢を見ている間は、現実との見分けもできない。ならば、いま目の前にある現実が、夢ではないと言い切れるだろうか...
尚、本書には、「変身」と「断食芸人」の二篇が収録され、山下肇/山下萬里訳版(岩波文庫)を手に取る。

そういえば、今のおいらは、どんな夢を見るだろう...
心理学では、夢が精神状態を投影しているとも言われる。日頃のストレスとも関係がありそうだ。ひと昔前は、排泄物に囲まれた夢... 昆虫が身体中を這い回る夢.... そんな光景にうなされたこともあった。もっと昔になると狙撃者に狙われたり... 学生時代にはゴジラ級の怪獣に追いかけられたり... そして現在となると、ホットなお姉様方にイジられる。ん~... M な性分は変えられそうにない。
ただ、それが現実になるとは、これっぽっちも考えていない。所詮、夢は夢。どこか安心して眺めている自我の眼がある。夢を見ている間は、眠りが浅いと言われる。熟睡すれば外界との交渉を完全に断ってくれるが、中途半端な眠りは外界との関係をグチャグチャにする。眠りは生理学的には休養だが、心理学的には何を意味するのだろう。現実逃避か。永遠の眠りへの不安か。はたまた、熟睡は死への憧れか...
それにしても、どういうわけか?ホットなお姉様といいところになると、きまって目が覚めやがる。続きを見ようと二度寝すると、今度は熟睡し、朝方寝過ごして大慌て。最大目標であるハーレムの夢には、永遠に到達できそうにない。せっかくの夢の世界、どうせなら思いっきりエゴイズムを演出してもよさそうなものだけど。いや、まったく思い通りにならんから、リアリティがあるのやもしれん...

「変身」
変身物語の中の主人公は、外回りの営業マン。不規則で粗末な食事に、明けても暮れても、出張!出張!いつも違う人と接し、親しい人付き合いもできない。もう仕事にうんざり!... と、やるせないサラリーマンの愚痴のオンパレード。そして、目覚まし時計の音が苦痛になっていく...
そんな経験は誰にでもあろう。人間であることを放棄すれば、人間社会から課せられる義務から解放され、真の自由が獲得できるだろうか。自由なんてものは幻想だ... と言うなら、義務なんてものも幻想だ!と言いたい。バートランド・ラッセルは、こんなことを言った... 遠からず神経衰弱に陥る人の兆候の一つとして、自分の仕事がきわめて重要なものだという信念があげられる... と。
そして、不条理な夢が現実になった時、自己破滅型人間へと変身するのであった...

「断食芸人」
19世紀頃、断食興行というものがあったそうな。断食芸人はサーカスのような興行主と契約し、檻に入って、藁の上に座り、見世物となる。苦行層が静かに語る言葉には重みを感じるが、断食芸人の場合はどうであろう。自己宣伝屋か。山師か。人目に隠れて物を食べないよう見張り番までいる。早食い競争の逆パターンか。この、いとおしむべき殉難者を御照覧あれ...
時代とともに、断食芸の人気はすっかりガタ落ち。動物の檻と並ぶ断食芸人の檻には、観客が寄り付きもしない。誰も見ていないから、真の意味で断食行に集中できるってか。ふと見張り番が気づくと、断食芸人は藁に埋もれて息絶えている。最期の言葉は... 本当に美味いと思う食べ物が見つけられなかった... とさ。
断食芸人は、藁と一緒に葬られた。その檻には、なんでも美味そうに喰う豹が入れられた。観客は、生きる悦びに満ちた豹に群がる。
自由な風が吹く平穏無事な時代では苦行が見世物となり、抑圧に満ちた多事多難の時代では、自由が見世物になるってか...
「自由さえも、豹は全然恋しがっていないように見えた。必要なものは何でもあふれんばかりにそなえているこの高貴な肉体は、自由までも、つねに身につけているように思われた...」

2020-07-19

"贈与論 他二篇" Marcel Mauss 著

プレゼント... それは美しい心の表れであろうか。贈り物を頂くと、お返しをせねば... という気持ちにもなる。より良いものを、とばかりに。そして、お返しの、お返しの... 無限ループ。これがお付き合いというものか。それが世間体というものか。これからもよろしくお願いします!とな... よろしくってどういうことか。心のどこかで見返りを求めてはいないか。裏に潜む思惑。人の心は計り知れない。自分自身の心ですら...

1920年代、社会学者マルセル・モースは、贈与の心理学を通じて、交換から義務へ結びついていく経済原理を論じて魅せた。
副題に、「アルカイックな社会における交換の形態と理由」とある。未開人と呼ばれる民族の慣習に照らして現代人の原初的な心理を掘り起こす着眼は、後のレヴィ=ストロースの著作「構造人類学」にも通ずるものがある。実際、モースの影響を受けたらしい。
経済学には、価値の交換や物品の売買だけでは説明のつかない交換行為がある。原始的な物々交換だけでは説明のつかない心理状態がある。貨幣で換算される価値だけでは説明のつかない価値がある。もはや行動経済学の領域にあると思われるが、既にこの時代に...
尚、本書には「トラキア人における古代的な契約形態」と「ギフト、ギフト」の二篇が併収され、森山工訳版(岩波文庫)を手に取る。

"gift" という単語は、ゲルマン言語系の言葉で、元来「贈り物」「毒」という二つの意味があるそうな。ほぉ~... グルグル翻訳機にかけると、英語では「贈り物」、ドイツ語では「毒」と出る。ちなみに、タキトゥス著「ゲルマーニア」によると、アングロサクソン系もゲルマン種族と記される。
オランダ語では中性名詞と女性名詞があって、中性名詞は毒を指し、女性名詞は贈り物や持参財を指すという。別の言語系でも片方の意味が消滅している事例が多く、この言葉の意味がどのように派生してきたかは定かでないらしい。
とはいえ、この意味の両面性には、人の心の表と裏が透けて見える。そう、建前と本音ってやつが...

モースは、この心の二面性に、民族の集団性と原初的な慣習性を絡めて、「贈与 = 交換」という視点から論じる。ポリネシア、メラネシア、北アメリカ、ヒンドゥー世界など古今東西の贈与の風習を見て回り、その中でも、財産を蕩尽してしまう「ポトラッチ」という儀式に着目し、これを現代社会でいう義務という意識と重ねながら物語ってくれる。
確かに、集団社会では、慣習による強制めいた意識が働く。義務という意識も儀式のようなもの。個人と個人の間でも贈り物という交換行為は成立するものの、集団と集団の間によって、その行為は慣習に、さらに文化にまで高められる。
集団の中には、誰が誰にどんな贈り物をしたか、と眼を光らせている者もいる。贈り物を与える礼儀、受け取る礼儀、お返しをする礼儀... こうした行為は冠婚葬祭にも表れ、祝儀や香典にいくら包むかといった金額相場も生じる。町内の礼儀屋さんの相場どおりにやっていれば、無礼に当たらないという感覚も、集団性が編み出した心理学であり、ムラ社会ではより顕著となる。
地位の高い者が相手ともなると、贈り物の意味までも偏重させていく。より恩恵を受けるために... より立場を優位にするために... 贈り物にも格付けがなされ、まるで忠臣蔵の一場面。世間の眼が気になれば、礼儀正しい人に見られたい、誠実な人に見られたい。そして、贈り物は虚栄心を助長する。
事業で大成功を収めた経営者が、個人で慈善基金のための大規模な財団を設立したりするのも、儲けすぎたことへの後ろめたさのような心理が働くのかは知らんが、いずれにせよ余裕ある範疇での行為となる。いや、借金してまで貢物を捧げるケースも珍しくない。気前の良さを演じることが、ある種のステータスとなったり、神が相手ともなると、生贄を捧げたり。
一方で、真に心のこもった交換行為も多い。古くから互いの健闘を称えて兵士が武器を交換したり、近年ではスポーツ選手がユニホームやエールを交換したり。そして、贈り物という行為は、使命感や義務感にまで高められていく...

経済循環における交換原理には、自己優位性という心理学が働く。安く作って、高く売り、儲けを最大化するという目論見は、貨幣価値における自己優位性の模索である。だが、それだけではあるまい。むしろ、精神的な自己優位性こそが社会活動の原動力になっているように映る。
アリストテレスは、人間をポリス的動物と定義した。ポリス的というのは、共同体の一員であることを強烈に意識すること。共同体の一員というのは、人間は一人では生きてはゆけないということ。つまりは、集団に依存するということ。集団社会の中で生きていく上で、人間は見返りの原理を放棄することはできまい。仮に、そんな天使のような小悪魔に出逢えたら、この酔いどれ天の邪鬼は我が身を生贄に捧げたい...

それにしても、慣習の力は偉大である。なによりも人間を隷属させる力がある。疑問を感じさせず、義務と思い込ませる。迷った時には過去に縋ればいい。判例とはそうしたもの。慣習は、義務という感覚を生起させる。それは、世間からの批判を逃れるための呪術か...
この呪術に集団意識が結びつくと、これほど恐ろしい心理状態もあるまい。人は誰もが集団の中で自己優位性を保とうと必死に生きている。それは、自己存在というものを意識できる精神の持ち主の宿命であろうか。集団の中の居場所を強烈に意識させ、そこに競争原理を与え、ヒエラルキーを生じさせる。能力で優位性を見いだせなければ、肩書や名声に縋るって寸法よ。そして、これらの心理状態の多くに贈与の心理学が見て取れる。贈与には、義務と霊的な力が宿るらしい...

2020-07-12

"「いき」の構造 他二篇" 九鬼周造 著

粋(いき)な言葉をかけられると、なんとなくニヤけたり、なんとなく癒やされたり、なんとなくやる気が出たりする。粋な計らい、粋なルックス、粋なしぐさ... こうしたものが人生にアクセントを与えてくれる。然らば、粋に生きたいものである。理性屋どもの憤慨とは真逆なちょいワル感を漂わせ... 
ただ、ちょいワルといえば、ちと野暮ったい感がある。辞書を引けば、粋の対義語には、まさに野暮という語が当てられる。しかしながら、野暮もうまく振る舞えば、時には粋となる。然らば、粋も野暮も、その双方の極意を会得したいものである...
尚、本書には、いき(粋)を表題にした作品に加え、風流と情緒を表題にした「風流に関する一考察」と「情緒の系図」の二篇が併収される。

さて、「いき」、「風流」、「情緒」といった用語で表される美意識とは、日本民族固有のものであろうか。
例えば、「粋な」という語を機械翻訳にかけると、それらしい用語がフランス語に見つかる。"chic" ってやつが。この語は、英語でもドイツ語でもそのまま借用される。日本語でも「シックな」という表現をよく見かけ、辞書には... 粋な様、あかぬけた様子... とある。
元来、"chic" の語源には、二説あるそうな。
一説によると、"chicane" の略で裁判沙汰を縺れさせる「繊巧な詭計」の心得のような意味合いがあるとか。
他説によると、"schick" が原形となった「巧妙」という意味合いで、ドイツ語の "schucken" や "geschickt" がフランスに逆輸入され、次第に趣味についての "elegant" と似た意味合いに変化していったとか。
したがって、"chic" には「繊巧」や「卓越」といった意味合いがあり、対して、「いき」には、これに上品な美意識といった、やや限定された意味合いがあるらしい。"chic" の方が抽象度がやや高そうか。あるいは、「いき」は美意識にまで高めたということか...
西洋哲学には倫理用語に溢れ、その背景にキリスト教的教示を感じるが、九鬼哲学には、「いき」、「風流」、「情緒」の他にも「わび」や「さび」といったくすぐったい用語に溢れている。春風駘蕩たる趣を帯びた粋な哲学!とでもしておこうか...

とはいえ、言葉とは、気候や風土に強く影響されるもので、同じ社会の住人ですら個々で微妙なニュアンスの違いを見せるし、専門用語ですら専門家の間で用い方が微妙に違ったりする。言葉とは、精神投影の一手段であるからして、これを完全に一対一で翻訳するなんてほぼ不可能であろう。ましてや各国語間で...
したがって、翻訳語には経験と慣習が根付く。実際、西洋語を邦訳した用語には違和感あるものが溢れており、最初に翻訳語を提示した偉い学者の影響力も強い。言葉には解釈がつきもの。客観的な言葉は数学の記号にしか見当たらないし、数学にしても不完全性に見舞われている。言語という現象は、歴史を有する文化固有の自己開示にほかなるまい。
しかしながら、人間精神の根っこには存在問題がある。すべての意識は存在を意識することに始まり、この普遍性から枝分かれして存在意識に多様性をもたらす。単純な宇宙法則から、様々な形の天体や多様な星団のあり方が出現するように。この書には、言語における普遍性と多様性の共存という問題が暗示されているようにも映る。
それにしても、言葉遊びは楽しい。多様性に満ち満ち、実に愉快!精神描写の域(いき)では尚更。なによりも言葉の力を感じ、生きる活力を与えてくれる...
「生きた哲学とは、現実を理解し得るものでなければならぬ。現実をありのままに把握することで、会得するべき体験を論理的に言表することが、この書の追う課題である。」

1.「いき(粋)」について
「いき」とは、すなわち美意識である。この意識について、九鬼は三つの徴表を挙げている。
一つは、「媚態」。形容するなら、艶めかしさ、艶っぽさ、色気といった表現で、異性を意識した情念である。
二つは、「意気」すなわち「意気地」。形容するなら、生粋、伊達、気立て、侠骨といった表現で、自由な気骨が後ろ盾になった情念である。
三つは、「諦め」。形容するなら、開き直り、覚悟、やけっぱちといった表現で、運命論で後押しされた因果応報とも背中合わせな無関心の情念である。
これら三つの情念を自己消滅させるものに、空虚、倦怠、絶望、自己嫌悪といった情念を配置し、双方で綱引きを始める。無関心に美徳を求めながら、媚態を求め、しかも意気地な自由を生きる... この矛盾感ときたら。無関心な自律的遊戯とでも言おうか。積極性と消極性の狭間であえぐ控え目の美学とでも言おうか。派手なようで地味であり、粋でありながら野暮を演じきる。肯定も否定もせず、善と悪の双方と距離を置き、身勝手なようで優しさもちらつかす。媚態は、まさにチラリズムの象徴。上品と下品の微妙な関係を保ちつつも、品格や気質を備える。そしてついに、矛盾は調和へ昇華するというのか...
自己抑制、自己反発、そして自己否定... この生殺し感は、武士道の理想像にも通ずる。剣の達人が、抜かずの剣を会得するような。いや、抜かせない剣を会得するような。「いき(粋)」とは、中庸の哲学を体現することであったか...

2.「風流」について
風流とは、いかなる状態を言うのであろう。九鬼は、三つの要件を挙げている。
第一の要件は、離俗である。それは、社会的日常から離れ、世俗を断つこと。風流人になるには、心を正しくして俗を離れるべし!
この道は、世間から離脱するという消極性だけでは成立しない。個人の充実を求める積極性をともなって成立する。これが第二の要件である。
第三の要件は、自然回帰である。風流人とは、一方に自然美を、他方に人生美を纏っているものらしい。
そして、対極にある享楽をも飲み込む。芸術精神は、まさに享楽の一面。価値観の逆転や価値観の破壊は、自己破滅型の人間を要請するかのようでもある。風流人とは、自然的自在人のことを言うのであろう...
「風流とは自然美を基調とする耽美的体験を『風』と『流』の社会形態との関聯において積極的に生きる人間実存にほかならぬものであるが、そういういわば芸術面における積極性にはあらかじめ道徳面における消極的破壊性が不可欠条件として先行している。風流とはまず最初に離俗した自在人としての生活態度であって『風の流れ』の高邁不羈を性格としている。」

3.「情緒」について
本書は、主要な情緒に「驚、欲、恐、怒、恋、寂、嬉、悲、愛、憎」の十種を系図に描く。
その中で、第一に、生存や存在に関する「驚」と「欲」を配置している。第二に、自己保存に関する「恐」と「怒」を。第三に、種族保存に関する「恋」と、その裏面の「寂」を。第四に、充実不充実の指標としての主観的感情「嬉」と「悲」を、客観的感情の「愛」と「憎」を配置... といった具合。
そして、それぞれの情緒に「快」と「不快」の感情が絡めてカオス化する。
こうした図式化には西洋哲学の流れを感じるが、第一のものに「驚」としている点には議論の余地がありそうである。デカルト風に言えば、情緒の第一のものに「思惟」を配置することになろうか。思惟とは、認識である。アリストテレス風に言えば、知覚の第一に認識めいたもの、すなわち形相なるものを配置することになろうか。
人間は、なにか存在めいたものを認識することによって、なにかを感じ始め、情緒めいたものを彷彿させる。その意味では、「驚」は知覚の一種で、認識の第一歩とすることができよう。驚くといっても、なにも本当に驚くわけではない。あっ、なんかある... ぐらいのニュアンスでも...
一方、スピノザは「驚」を情緒として扱わなかったという。つまりは、情報の入力段階であって、認識に至っていないというのである。確かに、条件反射的に、無意識的に驚くことがある。情緒という現象は、無意識から呼び覚ますところもあり、「驚」の扱いも微妙か。
対して、「欲」には明らかに意識がありそうだ。いや、そうとも言えまい。無意識の領域は、本人の意識より遥かに広大無辺なのだ。自律神経ってやつは、意識の領域にあるのだろうか。すべての情緒が無意識の領域にもあるとすれば、やはり「驚」も情緒の一種ということになりそうである。
ん~... すべての情念は、「驚」を介して「欲」の派生型とすることもできそうな気もする。いずれにせよ、「愛」の情緒が幻想の領域にあることは断言できそうか...

2020-07-05

"「ガロ」掲載作品 水木しげる漫画大全集" 水木しげる 著

巨匠水木しげるの作品と言えば、「ゲゲゲの鬼太郎」や「河童の三平」や「悪魔くん」ということになろうが、おいらは読んだことがない。テレビでも見たことがない。巷の評判で、タイトルを耳にするぐらいなもの。
この漫画家に興味を持ったのは、朝ドラ「ゲゲゲの女房」を観てからである。朝ドラにしても、こんなものに夢中になる母親たちを馬鹿にしてきた。15分ずつ小出しするようなものの、どこが面白いのか?と...
ところがある日、ケーブルテレビで一晩ぶっ通しでイッキ見をやっていて、なんとなく吸い込まれてしまった。ゲーテ哲学を重ねながら、好きなことをとことんやる漫画家魂!こいつぁ、まさに技術屋魂を物語っているではないか。おいらはゲーテ好きなエンジニアなので、暗示にかかりやすい。
そして、衝動のままに総集編 DVD を八千円ほどで購入したものの、観たいシーンがことごとくカットされていた。商売戦略か!?さらに衝動のままに、完全版 DVD-BOX 全巻を三万円超えで買う羽目に...

水木しげるといえば、太平洋戦争で左腕を切断したことでも知られる。おまけに貧乏神に取り憑かれ、どん底を這いずり回り、それでも笑い飛ばしながら生きていく... これがドラマの魅力である。
しかし、だ。これを総集編で成功物語としてまとめ上げてしまえば、どうも薄っぺらだ。そりゃ、大成功して安堵できるシーンも欲しいが、そんなものは一瞬でいい。おいらは大の前戯派なのだ。それに現実はそう甘くはない。だからといって、成功者だけが幸せというわけではあるまい。むしろ、成功者の方が余計な苦労を背負い込んでいるような気がする。好きなことをやって生きていくことのもどかしさ... これこそが、このドラマに見る哲学である。こうした見方も、酔いどれ失敗者の僻みであろうか...
「戦争では、みんなえらい目にあいましたなぁ。仲間も大勢死にました。死んだ者たちは無念だったと思います。みんな生きたかったんですから。死んだ人間が一番かわいそうです。だけん、自分は生きている人間には同情せんのです。自分も貧乏はしとりますが、好きな漫画を書いて生きとるんですから、少しもかわいそうなことありません。自分をかわいそうがるのは、つまらんことですよ。」
... 第14週「旅立ちの青い空」より

さて、月間漫画雑誌「ガロ」は、テレビドラマでは「ゼタ」という名で登場し、どうやら大人向けの皮肉の効いた作品が集められているらしい。
そして、これまた衝動のままに本書を手にとってみたが、こんなすげぇヤツが... 1964年刊行開始というから東京オリンピックと重なる。世間が高度成長時代を謳歌しているのを横目に、貧乏神に取り憑かれた漫画家魂が滲み出ており、ドラマのシーンと重ねながら読むとより味わい深い。というより、ドラマの方が、この掲載作品から引用したような感がある。
台詞の一つ一つに風刺が効いていて、原始本能を目覚めさせようと仕掛けてきやがる。人間ってやつは実にくだらない存在だけど、それを認めた上でくだらないことに打ち込み、無為に過ごす。これが、人間の本来の姿なのやもしれん。だからこそ、ユーモアは必需品となろう...
「人間は無意味なことをして、酔生夢死するように作られているんだ。有意義なことをしようとするから人生が苦界になるんだな。無意味こそ最高だよ。神の声だよ...」

肩書社会を皮肉るかと思えば、ペットの猫の飼い主が逆に猫を養うために飼いならされる。ゆりかごから墓場まで、という社会保障車のセールスマンが安心を売りに来れば、所得倍増計画にちなんで、分身の術で苦労を一方に押し付けて自分は楽をするという人格倍増計画を仕掛ける。どっちが本物で、どっちが分身かって?そんなことはどうでもええ。周りの人間だって、都合のいい方を本物とするだけのことよ...

ちなみに、錬金術とは、こういうものを言うらしい...
「錬金術とは、金を得ることではなく、そのことによって金では得られない希望を得ることにあるんだ。この世の中に、これは価値だと声を大にして叫ぶに値することがあるかね、すべてがまやかしじゃないか。」

ちなみに、文明の利器とは、こういうものを言うらしい...
「欲しがらせるだけで、ガマンするのが文明なんだよ!」
品物を欲しがらせ、欲望を刺激し、それで神経をすりへらし... 野蛮で無知な人種をこうした世界に誘い込むのが文明人ってか。満員電車で通勤!これも文明。勤め先で時間に縛られる!これも文明。国中のどの土地にも税金がかかる!これも文明。近代宗教が神の存在を知らしめたわけではない。原始の時代にも神がいた。しかも純真な神が...
子供から大人まで競争社会に慣らされれば、原始の時代に憧れ、魔の東京ジャングルから抜け出そうとする。未来のトウキョウは、都市の再開発、再々開発、再々々... いつも工事ばかりで騒音と公害に満ちているとさ...
とはいえ、未来を覗くにも勇気がいる。覚悟がいる。なによりも責任がいる。結婚相手まで見せられた日にゃ... 夢は現実と乖離するほど価値を増す。高度な文明社会を生きる人間が、高度な人間かは知らんよ...
「人間にとって未知は必需品なのだ!」

中でも傑作といえば、こいつかなぁ... 「妖怪マスコミ」
それは、電気掃除機のように作家や漫画家を吸い込む妖怪だとさ。養分を吸い取られた漫画家は、肛門の穴から出てくる。中には奇怪な漫画家もいて、食べられているかのように見せて逆にマスコミから養分を吸い取り、まるまる太って十年ぐらいして排出されるのもいる。それでも懲りずに巨大マスコミは、アリクイがありを喰うように作家や漫画家を貪るとさ...

「新講談 宮本武蔵」も捨てがたい!いや、全部捨てがたい...
武士の品位が高貴なものかは知らんが、品位ってやつは人を軽蔑する快感に浸る癖をつけるらしい。勤労を尊ぶあまり娯楽を蔑視し、大切な青春すら失ってしまった悔恨が仏像を刻ませておる。五輪書なるものを書いたがために、大衆は剣一筋に生きた変人につくりあげてしまったとさ...

付録される随筆「漫画講座」もなかなか...
「親切なる漫画の書き方」と題しているところにも皮肉まじりな。おそらくここは真面目な体験談なんだろうけど...
漫画家の道とは、カラッポの頭とカラッポの財布をもって、誰もがうちのめされてきた道だそうな。才能は最初からあるわけではない。労せずして充実した頭なんぞありえない。不遇な時期でも、いや、不遇だからこそ、古今東西の名作を読破するくらいの心がけがいるという...
ちなみに、池上遼一がアシスタント時代を振り返って... 仕事場には「無為に過ごす」と張り紙されていたそうな...

2020-06-28

"劇画 ヒットラー" 水木しげる 著

おいらが漫画に目覚めたのは大学時代。定食屋に行けば、誰もが漫画で時間をつぶし、おいらだけが手持ち無沙汰ときた。絵と文字が一体となったハイブリッド構造に、どうもついていけない。しかも、友人たちは五分もあれば、一冊を読み切ってしまう。大人どもの間では、先進国で漫画を文化とするのは日本ぐらいなものだ... 子供の教育に悪い... などと低俗扱いする風潮もあったが、おいらの目には、むしろ高尚なメディアに映ったものである。
仕方なく絵だけでもと、読むというより眺めているうちに、こいつぁ、推理小説なみにおもろい!おいらは貧乏性だから、風景画、人物の表情、台詞のすべてを一体化させて、じっくり味わわないと気が済まない。なので、読む速さが思いっきり遅く、周りから、速く読め!ってせかされたりもした。
しかし、だ。人間ってやつは刺激を求めてやまないもので、読者はもっと深い、もっと凄い表現を求めるようになる。エロイムエッサイム、我は求め訴えたり!... この呪文のどこが低俗だというのか。劇画ともなれば、これはもう目で見る小説!
それは、漫画に限らず、芸術でも、学問でも... そして、あらゆるジャンルに哲学を見ようとする。一流のスポーツ選手が、一流のバーテンダーが、そして一流の漫画家が、一流の哲学を披露してくれることも珍しくない。おそらく、それが物事を究めるってことなんだろう...

さて、ここでは、人間味あふれた独裁者像を披露してくれる。人間味あふれた... というのは、人間の本質を暴いたという意味で、まさに人間そのものを描ききった作品と言えよう。どんな環境が、こんな人間に仕立てるのか。どんな過程を踏まえれば、こんな人間が出来上がるのか。全世界を熱狂の渦に巻き込み、史上稀な独裁者となったアドルフ・ヒトラーという人物。彼を怪物のように言う人もいるが、数千年の歴史を振り返れば、これが特異な事例とは言えまい。
尚、この作品は、1971年に発表されたものらしい。今でこそ映画や小説などで様々な角度からヒトラー像を思い描くことができるが、既にこの時代に...
取り巻き連中では、空軍だけでイギリスを屈服させてみせると豪語するお調子者ゲーリング、情報を文学で操る紳士づらゲッペルス、怪しい雰囲気を醸し出すオカルト・ヒムラー、いつも寄り添っては独裁者を心地よくさせる妖怪ボルマン、こうした連中に囲まれながらも、唯一まともそうに見える親友シュペーア... といった配置もなかなか。執筆の際に参照した文献も付録され、かなり深く調べた様子が伺える...

「蒼褪(あおざ)めたる馬あり、それに乗る者の名を死という...」

世界恐慌に始まる大失業時代。大衆ってやつは、どん底にあれば、なんでもいいから希望めいたものに群がる。ヒトラーがまず手をつけたことは、大規模な公共事業のオンパレード。つまり、大衆に無理やり仕事を与えることであった。アウトバーン、鉄道、運河などを次々に建設。古代エジプト王のピラミッド建設の如く。さらに、自動車税の撤廃で夢の自動車を庶民のものに。こうした経済政策は、ケインズ理論の最初の実践と評されることもあるが、超ハイパーインフレの中でやれることといえば、これぐらいしかなかったのかもしれん。荒療治を施すしか。
いずれにせよ、資本主義国家群があえぐ中で、あっさりと経済問題を解決して見せた。しかし、この公共事業には軍備拡張も含まれていた。第一次大戦敗戦後、ヴェルサイユ体制で屈辱を受けていた国民の誇りを取り戻し、急激に国粋主義へと傾倒させていく。ヒトラーの経済政策は、民族主義とセットになっていたとさ...
「われわれの運動は、新しい国民を作る新しい運動なのだ!」

人間ってやつは、人種に限らず差別が大好きときた。人間社会という巨大な集団の中でしか生きられない個人は、自己の存在位置を確認しながら生きている。自己の優位性を保とうと必死に生きている。自己の存在価値を大きく見せようともがきながら生きている。虚栄心のない人間なんて、この世にいるだろうか。
誇りを失った国民に民族優越説を唱えれば、心地よく響く。集団的な不安を煽り、共通の敵をでっちあげ、恐怖下で批判者に黙認させ、卑屈さをも利用する。
こうしたやり方は、政治に限らずあらゆる商業戦略で有効だ。それは、人間の深層心理に訴えるからである。
そして、政治戦略では、この心理学に正義という観念を結びつける。国粋主義と民族主義は、すこぶる相性がいい。宗教心ってやつは、同士に対しては自愛の念にあふれても、異教徒に対しては容赦しない。いやむしろ、神の御名において残虐行為ですら愉快にやる。集団心理に正義が後ろ盾になると実に恐ろしい。全権委任法なんて、どう見てもおかしな法律を、なぜ大衆が許したのか?そこには巧みな心理学が働いていたとさ...
「民衆の中から出てきた独裁者のみが国家を救うのだ!」

言い換えれば、国民経済がどん底でなければ... 大敗北で国民の誇りがズタボロにされていなければ...こんな狂人は、ただの狂人で片付けられていたのかもしれない。まさに大衆がつくりあげた巨像(虚像)というわけか。ファシズムってやつは、ファッショナブルと同じ語源を持ち、大衆とすこぶる相性がいいと見える。21世紀の今でも、ヒトラー信奉者は少なくない。このような独裁者の出現は、自由主義や民主主義において、いかに平時の備えが大事であるかを突きつけている。平時でこそ、このような集団暴走を抑止するための法の整備が重要であることを...

では、ヒトラー個人に目を向けるとどうであろう。自ら芸術的音楽家と名乗るも落第。芸術的建築家と名乗るも同じこと。劣等感を人のせいにし、大学のせいにし、社会のせいにし、これを克服するには人々を支配しなければならないと、政治家になることを決意する。
しかも、ただの政治家ではない。芸術的政治家を名乗り、千年王国という国家ビジョンを打ち立てる。癇癪、女性コンプレックス、暴力的思考、こうした性癖の持ち主が正義に取り憑かれると、もう手がつけられない。自我を肥大化させ、誇大妄想に取り憑かれていったとさ...
「神の摂理によって選ばれた天才は、たとえ始めは理解されず、その価値を認められなくとも、やがて偉大な国民を導いてさまざまな困難を克服し、さらに大いなる偉大性をかく得させるだろう!」

一方、大衆は、経済政策で大成功を収めれば、その功績を讃えて多少のことには目をつぶる。いや、残虐行為ですら見ないようにする。そんな集団心理を見透かしたかのように、ポピュリズム政治を利用する。大衆を操る演説の極意は、最先端のプレゼンテーション技術にも通じる。まさに集団心理学の実践と言えよう。
人間ってやつは、絶大な権力を握れば、神にでもなった気分になる。成功すれば手がつけられないのはもとより、追い詰められると今度は独善的な行動に突っ走る。ロケットやら、列車砲やら、重戦車やら、大型兵器に幻想を抱き、まったく合理性に欠いた戦略を正当化し、逆らう者は片っ端から抹殺。現在でも、気に入らない者を公開処刑や拷問に晒すケースは珍しくない。これが独裁心理学ってやつか。
そして終いには、焦土作戦!独善的な人間ほど道連れがないと寂しいものらしい。千年王国という幻想は、一度既存物を破壊し尽くし、すべてをチャラにした上でしか構築できないということか...
「もしも人生が幻滅しかもたらさないとすれば、人生なんぞ生きるに価しない。死はむしろ救いだ!」

2020-06-21

"超越論的方法論の理念 第六デカルト的省察" E. Husserl & E. Fink 著

哲学の書に触れれば、「超越論」という用語を見かける。認識論に発する語のようだ。哲学とは、認識論の構築にほかならず、認識論なくして哲学は成り立たない。カントは、如何にして先天的な認識が可能であるかを問い、認識能力の果てにアプリオリという概念を見い出した。時間と空間の二つだけが、これに属す真に純粋な認識としたのである。それは、自己存在と直結するもので、その原因を追求しようものなら人間の能力を超越することになる。ニーチェが唱えた永劫回帰もまた、超人的な能力を要請してくる。
こうして哲学者たちは、超越的な方法を模索しながら、理性の原理をどう導くか、といったことを問うてきた。認識能力の限界に挑めば、言語能力の限界にぶち当たり、あらゆる哲学用語が迷走を始める。彼らは、いったい何を超越しようというのか。自己を克服し、自我を超越すれば、それで人間性を救えるというのか。そもそも苦悩とは、自己を認識し、自我を目覚めさせることに発する。無我ほど心地よい境地はあるまいに...

ここでの超越論は、フッサールの名を目にすれば、それが現象学におけるものであることは想像に易い。70歳のエトムント・フッサールは晩年の力を振り絞り、今一度、改訂出版に挑んだという。46歳年下のオイゲン・フィンクを共著者に従えて...
フッサールのデカルト的省察は、「第一省察」から改訂を重ね、フィンクの「第六省察」で完成を見たのかは知らんが、フィンクは単なる伝言役などではなく、批判的な問題提起も加えている。
ちなみに、フッサールは、ハイデガーに「君と私が現象学なのだ」としばしば語ったそうな。ハイデガーもまた彼の弟子となるが、のちに仮借ない批判を展開した。アリストテレスが師プラトンに反論したように。哲学者という人種は、何よりも真理を友とするらしい...

さて、現象といえば、観察能力を問うことになるが、物事を正しく観ることの難しさは科学が教えている。ニュートンは大作「プリンキピア」の中で「我、仮説を立てず」と宣言したが、人間の思考過程において仮説を排除することは可能であろうか。客観とは、主観の試行錯誤の末に見えてくるもの。仮説とは、その試行錯誤そのもの。主観を存分に解放しなければ、純粋な思考は見えてこない。脂ぎった思考を削ぎ落とし、その先に見えてくるものとは。徹底的に自己を追求し、究極の自我を探し求め、その先に見えてくるものとは...
そして、ついに裏返ってしまう。利己主義とは真逆の自己主義、しかも、利他主義や愛他主義とも違う何か、それが純粋客観というやつか...

本書には、馴染みのない二つの用語がちりばめられる。
まず、「エポケー」ってなんだ?古代ギリシアの懐疑論者たちが、独断的判断を批判する語として用いたらしい。存在するという現象は、自己の主観がその存在を信じているだけのことであって、まずは判断するな!と。
次に、「現象学的還元」ってなんだ?論理的に分析し、その裏付けがあって初めてその存在を認めよ!と。分析するということは、既にその存在を仮定している。それは仮の存在認識であって、いわば、仮説である。
そして、こいつらが、省察とどう結びつくというのか。省察とは、経験に対する態度であり、つまりは自己分析。自己、すなわち自我ってやつは、反省の果てに見えてくるものというわけか。
そして、ついに裏返ってしまう。主観の客観化、すなわち、自我の客観化とは、省察を超越した境地を言うのであろうか。この酔いどれ天の邪鬼には、現象学がまるで主体を放棄した幽体離脱論に見えてくるのであった...

「現象学的還元は... きわめて動的な構造をもつ反省的エポケーにおいて形成される、すなわち、徹底した自己省察をつうじて変容しつつ、人間は自己自身と世界内での自己の自然的に人間的な存在とを超越論的観視者を生み出すことによってのりこえるのであり、そして、この超越論的観視者自身は世界信憑(Weltglauben)に関与せずに、つまり世界を経験する人間的自我の存在定立に関与せずに、むしろ世界信憑を注視し、しかも世界信憑的な生の世界性格、すなわち人間世の背後にまで問い通り、次ぎにこの生を人間統覚によって覆い隠された超越論的構成的な世界経験へと還元する。」

なんじゃ、こりゃ!狂ったかフッサール...
「世界信憑」ってなんだ?純粋客観の類いか。あるいは、究極の幽体離脱か。哲学ってやつは、触れれば触れるほど頭が混乱してくる。バラバラな草稿の群れ...ここに、一貫性はあるのか?
しかしながら、この言葉の渦は、心地よい混乱である。真理ってやつは、分かりにくいぐらいでいい。すこし混乱して、なが~く混乱して... 退屈病患者の処方箋にいい。真理を覗くことによって自己否定に陥り、それでもなお、愉快でいられるとしたら、真理の力は偉大となろう。
フッサールによると、「哲学する」とは「現象学する」ということらしい。精神の正体ですらまともに説明できないのに、自己把握なんてとんでもない。結局、人間なんてものは、都合よく言語を編み出し、自由気ままに言葉遊びをする、ただそれだけのことやもしれん。言語という手段をもって、自我を肥大化させるだけの。
そして、ついに裏返ってしまう。ネガティブ思考からポジティブ思考へ。だから、もっと混乱させて。おいら、M だし...
「現象学的営為は観念論でも実在論でもなければ、その他なんらかの立場をとる教説でもなく、あらゆる人間的教説よりも崇高な絶対者の自己把握なのである。」

2020-06-14

"現象学と人間性の危機" E. Husserl & A. Tymieniecka 著

「現象学」といっても、捉え方は様々。それだけ抽象度が高いということだろう。哲学用語とは、そうしたもの。真理ってやつには、様々な解釈を与える余地がある。真理ってやつには、いつまでも自由でいて欲しい。そもそも、真理なんてものが本当に存在するかも知らんし、人間が退屈病を紛らわせるために編み出した概念やもしれん...
この用語を文字通りに捉えれば、見たまんまといった皮相的な見解に陥り、物事の本質を捉えるという主旨に反する。だからといって深読みすれば、今度は客観性を見失う。人間が思考するということは、そこに主観性が介在することを意味する。主観には思考の深さを牽引する役割があり、客観には思考を整理して感性と知性を均衡させる役割がある。この両面を凌駕することは至難の業。だから面白い!
「哲学にはただ、普遍的で批判的な態度をとることの出来る能力がありさえすればよい...」

尚、本書には、エトムント・フッサール著「西欧的人間性の危機と哲学」と、その助手アンナ=テレサ・ティミエニエツカ著「現象学と現代西欧思潮」の二つの論文が掲載される。

客観性によって担保される学問といえば、数学であろう。どんな学問分野であれ、客観性を重視する立場であることに違いはないが、客観性の水準となると数学は他を寄せつけない。そのために、しばしば無味乾燥な学問と揶揄される。
フッサールが生きた時代は、現代数学の父と呼ばれるヒルベルトが 23 もの未解決問題を提示した時期と重なる。それは、あらゆる物理現象は科学で説明できると豪語された時代。ヘーゲルは、すでに精神現象を弁証法的に捉えていたが、さらに科学や数学で裏付けられれば強固な理論となる。フッサールは、より科学的に、より数学的に基礎づけようとしたようである。
しかしながら、科学界は、あらゆる物質の根本をなす量子系の中に不確定な特性があることを認め、数学界は、自然数の理論の中に不完全な性質があることを証明してしまった。これに呼応するかのように、フッサールは人間性の危機を唱えているように映る。彼は、現象学をもって、近代科学から人間性を救おうとしたのであろうか...
「精神科学の研究者は自然主義に目をくらまされて、普遍的で純粋な精神科学の問いを立てて、精神の無制約的普遍性に従い、種々の原理や法則を追求する純粋精神の本質論を問うということを、全く放棄してしまった...」

とはいえ、一つの学問分野に、人類を救え!などとふっかけるのもどうであろう。フッサールは、学問の超党派でも目論んだのであろうか。科学を中心に据えながら。
確かに、科学には、その精神を根本から支える信条に、古代から受け継がれる観察の哲学がある。まずは観ること。それは、先入観や形而上学的な判断を排除する立場であり、21世紀の科学者とて、その野望は捨てきれない。現象を正しく観ることの難しさを、客観性の水準の高い学問ほどよく理解していると見える。現象は、正しく観察しなければ、適格な判断ができない。それは、宇宙がその住人に課した永遠のテーマにも思える。それで、単なる物質を知的生命体へと進化させようというのか。神の思惑は、まったく読めん...
「現象学は、現象の構造の直接的な分析にひたすら専念することによって、説明上の仮説を立てることを不用にし、多くの分野で古い方法が自称していた以上に、複雑なことを解明したのである。(略)現象学的アプローチは自己解明的であり、従って、直接的な洞察による明証性によって、仮説因果的アプローチは除去されるのである。」

尚、本書には、現象学の理念めいたものも語られるが、著作「超越論的方法論の理念」で詳しく扱っているので、次回触れるとしよう...

2020-06-07

"戦争という見世物 - 日清戦争祝捷大会潜入記" 木下直之 著

「美術という見世物」(前記事)の続編、浅草の油絵茶屋から上野公園の日清戦争祝捷大会へ所を移し...
油絵茶屋の時代では、西洋かぶれしてゆく専門家や評論家を皮肉り、画一的な評価基準の下で埋もれていった職人たちの技術を掘り起こしてくれた。ここでは、なにもかもが戦争に彩られていく熱狂ぶりを見物させてくれる。平成の時代を生きる美術史家が、明治時代の写真画報を眺めながら歴史を回想していると、いつのまにか居眠りをし、目が覚めると、そこは明治27年(1894)の東京だったとさ...
なぜか?ここにタイムスリップ感はない。平和ボケの時代も、戦争に驀進する時代も、大して変わらんということか。どちらも両極端な時代、集団社会で中庸を生きることは難しいと見える...

上野公園には、美術館や博物館や動物園など多くの文化施設がある。ほとりには不忍池があり、大都会の憩いの場として「上野の森」とも呼ばれる。2009年に「アイアイのすむ森」が建設され、マダガスカル島の希少動物やワオキツネザルなども鑑賞できる。
ただ、もともと日本の文化に「公園」という概念はなかったらしく、美術館や博物館や動物園といった施設も、近代化の波に乗って到来したようである。珍しいものを集めるという純真な収集家の動機に、国家の脂ぎった思惑が絡むと、所有の概念を剥き出しにする。クラウゼヴィッツ風に言えば、戦争は極めて政治的な行動。だが、侵略となると、文化の征服、価値観の征服と化す。それは正義の旗の下で正当化され、正義もまた極めて政治的な行動と化す。
そのために戦利品を展示する公の場が設けられ、国民の誇りを鼓舞する。他国の文化品を並び立て、国内では見られない珍しい動物を収集し、それで征服感を満喫できるのかは知らんが、文明開化から受け継がれる高揚感は「勝てば官軍」思想から抜けきれないと見える。
美術館や博物館や動物園の発祥には、そうした意味も含まれていたのかもしれない。ナチスの高官たちは、ヨーロッパ中の美術品を漁りまくった。大英博物館も、暗い植民地の時代には戦利品の展示場となったが、同時に、人類の遺産を保護する役割も果たしてきた。サミュエル・ハンティントンではないが、文明とは衝突するものらしい...

さて、このタイムトラベルは、著者が「栽松碑」という石碑の存在に気づいたことに始まる。初代台湾総督となった樺山資紀海軍大将は、戦死病没者の慰霊祭を行い、彼らの功績を讃え、不忍池畔に松を植えたそうな。
しかし、肝心の松の木が見当たらない。歴史資料を探っていくうちに、いくつかの挿絵を見つける。「征清捕獲品陳列之図」には、群がる見物人の背丈を凌駕する二つの大きな錨が石碑の両側に立ち、その背景に不忍池が茫洋と広がる。著者は、戦死病没者を悼んで松を植えた場所で、捕獲品や戦利品が一般公開された様子に違和感を抱くのだった。
捕獲品の陳列は、人心を奮起させるらしい。相手国の国旗を焼くパフォーマンスは敵の象徴を破壊する行為であり、現在でもなお健在ときた。日清戦争、日露戦争と勝利を重ねていく中で、敵国から奪った戦利品が国民に戦意高揚をもたらす効果が認識され、こうした陳列所は各地に設けられていったという。その最たる場所が、聖地となる靖国神社の遊就館だったとか。
そして、国民皆兵の国家建設を進める日本が経験した最初の対外戦争が、いかに国民の心を一つにしたか、その国民がいかに敵国を蔑み笑ったか、しかも、それを新聞がいかに煽ったか、そして今、それがいかに忘れ去られてしまったか、これを問う旅へといざなう...

ここは東京市祝捷大会。「捷」は今ではあまり見かけない字だが「勝」と同義で、つまり、日清戦争の勝利を祝う集会である。明治維新以来、朝鮮と台湾の利権をめぐって清国と睨み合い、ついに衝突。東京23区が東京市だった時代、広島に大本営が置かれ、天皇は東京を離れて駐在した。平壌を陥落させ、黄海海戦で大勝利し、元寇以来の神風思想を高潮させていく。
著者は、連勝連勝で沸き立った大衆に混じって、見せ物小屋と化した上野公園を見物して回る。入り口には平壌の玄武門がハリボテで建てられ、記念碑には撃沈した敵の戦艦の錨が飾られる。川上音二郎一座による野外劇や少年剣士らによる野試合、戦地から届いた分捕品の展示、日本赤十字による野戦病院の再現など、公園各所で催しが行われた。時が経つにつれ会場は興奮のるつぼと化し、クライマックスは日暮れに行われた不忍池海戦。池を黄海に見立て、清国軍艦の模型を浮かべて焼き討ちし、気勢をあげる。締めくくりは、数万の市民が万歳三唱!
万歳三唱の伝統がいつ始まったかは知らんが、明治維新あたりからの儀礼のようで、「万歳三唱令」という偽文書がそれなりに説得力をもったのもうなずける。大本営に擦り寄る新聞が煽動する様子も、現代の報道屋にしっかりと受け継がれているようだし。それは、やがて訪れる、戦争反対を唱えようものなら非国民と罵られる時代を予感させる...
「明治の日本人が何を考えていたかを知ることは難しい。三日間の旅でもほんのひと握りの人としか言葉を交わしていない。上野の山を埋め尽くした彼らは別世界の住人だと思うこともあれば、いや現代人と変わらないと思うこともあった。これからのちに不忍池海戦が再現されるとは思わないが、何かのはずみで、東京市祝捷大会は別の姿で催されるかもしれない。栽松碑のような不忍池畔に残されたわずかな痕跡は予兆であるかもしれない。」

2020-05-31

"美術という見世物 - 油絵茶屋の時代" 木下直之 著

現代感覚から外れ、価値観体系からも外れ、世間から置き去りにされつつも、今尚ここに存在し、何事かとつぶやき続ける人たちがいる。文壇にも、ネット社会にも、オワコンと揶揄される域に...
古典の中にも、何千年も生き長らえるコンテンツが数多ある。どこにいてもコメントの嵐が吹き荒れる社会にあっては、こうした物静かに語ってくれるものに癒やされる。もはや、どちらが揶揄されているのやら...

木下直之氏は「近代」という用語に苦言をもらす。意味もよう分からん!と。この美術史家の攻撃対象は、近代美術館である。「近代」を名乗って一番大きな顔をしているのが、文学館でも音楽館でもなく、美術館であると...
そういえば、「近代美術館」と称する施設をあちこちに見かける。「近代」という用語がもてはやされたのは明治維新から間もない頃、急速な工業化とともに庶民も西洋かぶれしていく。漱石の「坊っちゃん」に登場する赤シャツも、その象徴のような存在。いわば、近代化が西洋化の代名詞とされた時代である。
その近代化の波に乗った庶民文化の一つに、油絵茶屋というものがあったそうな。西洋風のお茶をしながら、美術品を嗜む見世物小屋である。見世物というからには、それを大袈裟に演出するナレーション付き。芝居絵や浮世絵などを西洋伝来の油絵で描き、芸達者な口上とともにコーヒーや紅茶をやるのが、近代的なお洒落というわけである。無声映画の時代には、活動弁士という職業があったと聞くが、その類いであろうか。
やがて、けたたましい口上は姿を消し、静粛な空間の中に作品が閉じ込められていく。政治的な制度化にともない、「近代美術」という篩にかけられ、選ばれし作品だけが美術館の中で生き残っていく...
「それはまた、美術という言葉でくくるために、美術と呼んでもよかったかもしれないものを切り捨ててきた歴史でもある。」

アカデミズムな評価ってやつは、杓子定規なところがあって、趣向を凝らした技術を埋もれさせることがある。権威的であるが故に、遊び心を見落とすばかりか、見下しがち。基準から外れたアウトローたちは、その時点で消される運命にある。いつの時代も...
芸術は自由精神によって支えられ、遊び心のない自由ほど味気ないものはない。見世物小屋で技を競い合った連中は、実に多彩だったようである。油画師や彫刻師のほかに、曲芸師、軽業師、足芸師がいて、籠細工師、貝細工師、紙細工師、瀬戸物細工師、ギヤマン細工師、生人形師までも勢揃い。技を競うということは、自由を謳歌するということか。
本書は、こうした文化史の中に埋もれてしまった技を、美術の観点から再発掘してくれる。そのために、人間の本性を曝け出してしまう。見事なほど滑稽に。芸術とは、もともと滑稽に発するのやもしれん。社会への反抗心や体制への批判を、間接的にやんわり表現しようとすれば、皮肉っぽくもなろう。芸術と皮肉は、すこぶる相性がよいと見える。これが批判哲学の心得というものか...

油絵茶屋の時代というのは、近代化の波が大衆性や娯楽性と相俟って愛国主義を旺盛にさせていき、やがて訪れる国粋主義の時代を予感させる。それは、美術家たちがリアリズムやパノラマへ心酔していく様子に見て取れる。リアリズムを追求すれば、歴史を正確に描きだせそうなものだが、本書は、それは逆であろうと苦言をもらす。リアリズムに徹するほど、現実がたくさんの小さな事実に分裂してしまい、歴史の全体像はかえって崩れてしまう、と。特に戦争を描く時は、リアリズムを抑えなければならない、と。小さな事実を集めて大きな嘘をつくのでは、本末転倒。
「文字通りに観客を画中に入れてしまおうというパノラマの工夫は、リアリズムを愚直に追求していったひとつの到達点であった。大袈裟にいってしまえば、想像力の放棄はリアリズムの宿命である。」

大衆は、分かりやすいもの、見たまんまのもの、身近に感じられるものに群がり、テンポのいい口上に引き込まれやすい。それは、ある種のプレゼンテーション技術である。これらが集団性と結びついて熱狂的に受け入れられた時、奇妙な愛国主義を旺盛にさせることは、ゲッペルス文学博士が見事なほどに実践して見せた。
こうした傾向は、現在の高度化した情報社会とて同じこと。いや、より旺盛にさせているやもしれん。大衆は、より刺激を欲し、迫力ある映像を求める。真実よりも、分かりやすく真実っぽいものを求める。長文や難解な文章は昔から敬遠されてきたし、カントの三大批判書のようなものが大衆化することは永遠にあるまい。
そして、見えなかったものが見えるようになった分、見えていたものが見えなくなる。視界が相殺されれば、同じこと。大衆は、自分で思考することがよほど面倒くさいと見える。そして、この文面が現代社会への苦言にも映る...
「私は先に、床の間に掛けた山水画の効能についてふれた。それは縦に切り取られた小さな風景のはずだが、静かにそれを眺めるだけで画中に遊べるのだとしたら、そこでは、何よりもまず観客の想像力が要求される。もちろん無意識のうちにである。ところが、パノラマは逆に、想像力の放棄、一種の判断停止を観客に強いるはずだ。視野を限定しない画面は、観客の視覚を麻痺させてしまうからだ。それは、日常生活において、睡眠以外の時間はいつも目を開けたままなのに、ほとんど何も見ていないことに似ている。見るためには自覚が必要で、そのためには額縁のような枠が必要なのである。」

ところで、「生人形」に関する言及が、妙に目につく。こいつの読みは「いきにんぎょう」とするのが一般的なようだが、あえて「なまにんぎょう」としている。この方が、なまなましさが伝わるってか。確かに、インパクト大!奇妙なリアリズムをさらけ出し、まさに滑稽なほどに。松本喜三郎の「貴族男子像」あたりを見せられた日にゃ...

2020-05-24

"解析入門30講" 志賀浩二 著

数学の落ちこぼれを癒やしてくれる数学の書とは、こういうものをいうのであろうか。「数学30講シリーズ」は、群論に続いて二冊目。群論という巨大な要塞も三十にも分解しちまうと、軽やかな調べのように流れていく...

ここでは、微分と積分にまつわる物語。この二本を柱とする解析学の世界に一歩足を踏み入れると、底しれぬ数学の深海へ引き摺り込まれる。測度論、直交関数論、ポテンシャル論、変分法、調和解析... 等々解析学という名で包括される分野は計り知れず、集合論、確率論、整数論、幾何学などの研究にも解析的な方法が用いられる。この学問分野をどのように捉え、どのように接するかは、その広大さからして十人十色。おいらの目には、近似法の具体的な手段を提供してくれるツール群に映る。電子工学や通信工学では、多項式や微分方程式の類いによく遭遇するが、その解決策として...
フーリエ変換にしても、テイラー展開にしても、マクローリン展開にしても... コンピュータの物理構造は、冪級数と三角関数に看取られているようで、その背後にオイラーの影を感じずにはいられない。
ちなみに、おいらには、数学は哲学である... との信条がある。なぁーに、落ちこぼれの遠吠えよ...

さて、本書で注目したいのは、斉次多項式と C- 級関数の存在感を示してくれることである。前者では、解の全体がベクトル空間を形成することで群論に通ずるものを匂わせ、後者では、何回でも繰り返し微分することで循環性の威力を魅せつける。
ここで鍵となる数学の性質は、「連続性」ってやつだ。数直線上を埋め尽くすには有理数だけでは不十分だが、人間社会に登場する無理数は有理数で限りなく近似できる。近似では、循環小数という有理数の性質も非常に役立つし、ピュタゴラス教団が無理数の存在を隠蔽したのも分からなくはない。だが、彼らが崇める図形、すなわち、正方形の対角線や真円の弧に出現すれば隠しおおせるものではない。無理数は連続性を補完する存在なのか、それとも、有理数が特異な存在なのか...

そんなことはさておき、関数が連続とはどういうことであろう。その定義では、あの忌々しいε-δ論法風の記法が示されるが、なんの抵抗感もなく、すんなり頭に入ってくる。

「f(x) が a で連続
⇔ どんな正数 ε をとっても、ある正数 δ で、
  |x - a| < δ ⇒ |f(x) - f(a)| < ε
を成り立たせるものが存在する。」

それは、微分可能か?積分可能か?最大値と最小値の存在は?といった問いに対する一つの答え。最大値と最小値の存在保証が叶えば、平均値の定理が輝きを放つ。
しかしながら、連続関数であっても微分不可能な奴らがいる。株価のランダムウォークを思わせるワイエルシュトラス関数、直角にくねるペアノ曲線やヒルベルト曲線、あるいは、フラクタルな世界にも病的な奴らが多くいやがる。この酔いどれ天の邪鬼には、連続性には程度というものがあるように見えてならない。無限という概念に、濃度(アレフ)という格付けめいたものがあるように...

そして、微分可能と積分可能とでは、必ずしも一致した見解ではなくなる。何事も現象を客観的に観察しようとすれば、より近づいて観る眼と、ちょいと遠くから眺める眼の両方が要請される。微分は、対象となる点に限りなく近づく視点。積分は、その点から距離を置く大域的な視点。
本書は、微分の視点に「一様収束」、積分の視点に「一様連続性」という用語を使い、それは妥協を模索した表現にも映る。
区間を指定するリーマン積分は、連続性が前提される。最初に定式化した人物の名に因んでいるだけで、最も馴染みのある形式である。
一方、抽象化の一歩進んだルベーグ積分は、非連続性を内包している。では、非連続性はどの程度まで許容できるのか。非連続部を加法的に連結すれば、いくらでも積分範囲を広げられるし、これを近似しようと思えば、いくらでも矩形で細分化すればいい。アルキメデス風の取り尽くし的な発想だ。
微分の場合は、より厳密性が要求されるが、積分の場合は、大雑把な傾向を観察するだけでもかなりの情報が得られ、大胆な加法が用いられる。それで用途に耐えうるかどうかは、当事者の眼に委ねられる。実際に物理現象を分析する際、微分における初期値の決定と積分における範囲の決定は、いつも悩ましい。そして、最終的な解決法は... 数学屋さんへボトルの差し入れよ。

そもそも、物理現象と微積分との相性の良さは、ニュートン力学の基本法則が微分方程式で記述されることにある。

 ma = m   d2x

 dt2 
 = f

それは、時間 t に幽閉された世界。とはいえ、時には、時間が不連続であることが心を癒やしてくれる。時には、記憶の曖昧さが幸せにしてくれる。しかも、時間や記憶の連続性は、アルコール濃度に比例して分解できるときた。
コーシー・アダマールの定理で収束半径を厳密に求めるのもいいが、境界線は少しばかりガウス関数でぼかした方がいい。不定積分を求めるにしても、有理数を部分分数に分解しておけば、なにかといいことがありそうな。
なにごとも近似で誤魔化す酔いどれ人生!なるほど、解析学とは、人生を測量するツールであったか...