2021-02-14

"宇宙戦争" H. G. Wells 著

原題 "The War of The Worlds"... それは、地球生物の世界と火星生物の世界の戦争であったとさ...
小説版に興味を持ったのは、映画版のナレーションに感じ入ったからである。トム・クルーズが主演したやつに。時代設定が違うにせよ、原作のフレーズがほぼそのままらしい。ナレーターは、ディスカバリーチャンネルの宇宙ドキュメンタリーでお馴染みの俳優モーガン・フリーマン。恋には、目で落ちるパターンと耳で落ちるパターンがあるらしいが、彼のささやきに、おいらはイチコロよ。
メディアの特質上、小説版の方が冗長気味で、翻訳者のセンスもあろうが、これはこれで違った味わいがあっていい...
尚、小田麻紀訳版(角川文庫)を手に取る。

「十九世紀末の時点で、いったいだれがあんなことを想像していただろう?この地球は、人間よりはるかにすぐれた頭脳をもつ生物によって監視されていたのだ。人間たちが日々の雑事にかまけているあいだ、やつらは入念に観察と研究をつづけていた。ちょうど、ひとつぶの水滴のなかでうごめき繁殖する微生物を、人間が顕微鏡でじっくりと観察するように。人間たちは、みずからの領土の安定にすっかり満足しきって、つまらない用事のためにこの惑星上で右往左往していた...」

人類は、天文学の発展とともに、地球外生命体の存在を夢見てきた。そもそも人類が存在しうるのは、隕石という砲弾によって地球というアクアリウムへ放たれた結果なのかもしれない。そして宇宙人は、生命体の観察だけでは飽き足らず、密かに遠隔操作で遺伝子注入の実験をやっているのかもしれない。人間が、劣等動物に対して遺伝子操作の実験を繰り返すように。混合種を作りながら、種の浄化という遠大な種の製造計画をもって。三次元空間の住民には多次元空間の住民が見えない。目の前にいたとしても...

しかしこれは、戦争と呼べるものであろうか。科学技術の差は歴然としている。それは、B29 に竹槍で対抗するようなもの。火星から打ち出された円筒の砲弾が毒矢のごとく地球の表面に突き刺さり、中から三脚の巨大戦闘マシンが... 後の SF モノで馴染みとなるトライポッドの出現である。こいつが放つビーム兵器のような熱腺に、人間どもは瞬時に捕獲される。彼らの狙いは、体内に流れる赤い血液。家畜にされれば、わずかながら生き長らえることができる。今まで、地球上で無視されてきた羊や牛たちの叫び声が...
彼らを極悪非道と呼ぶなら、人間はどうであろう。おこがましくて、慈悲の使徒などとはとても言えまい。土地開発のために多くの種を絶滅させ、同じ人類でさえ先住民を劣等種族として抹殺してきた。種が生きるとは、どういうことであろう。地球人は、存続のための絶え間ない闘争と解釈しているが、どうやら火星人も同じらしい。民の群れが空腹感に襲われると、所有権の尊重を放棄するばかりか、生きる権利さえ。もはや敵は、火星人か、地球人か。広大な宇宙では、知的生命体ってやつは悪魔の種に属すのやもしれん...
「アリは都会をつくり、日々をすごし、戦争をしたり革命を起こしたりする。だが、人間にじゃまだと思われたら、すぐに追いはらわれてしまう。それがおれたちさ。ただのアリなんだよ。ただの...」

火星人は、解剖学的にも明らかに地球的な生命体ではない。地球の濃密な大気の中では、ほとんど役に立たない大きな耳。大きな丸い胴体は、地球の重力では持ち上げるのも困難。手足の作りも、地球の環境には不向き。内蔵構造もすこぶる単純で、複雑な消化器官を持ち合わせていない。つまり、身体構造はきわめてシンプルで、頭がでかく、はらわたがない。
食事法もシンプルで、栄養を管のようなもので直接摂取する。回りくどく焼いたり煮たりと、料理なんぞしない。サプリがあれば、それで十分ってか。うん~... 実に、合理的だ!
眠りもしないらしい。鮫のように、泳ぎ続けていないと死んでしまうのかは知らんが。いや、眠らなくて済むなら、その方が幸せかもしれん。慢性的な不眠症や睡眠不足で悩まされるぐらいなら...
「注射による栄養摂取が、生理学的にみていかに有利であるかはいうまでもない。人間が食事や消化という行為に膨大な時間とエネルギーを浪費しているのを考えればわかることだ。人間の肉体の半分は、異質の食物を血液に変えるための腺、管、臓器によって占められている。消化過程と、それが神経系におよぼす反応は、人間の体力を消耗させ、その精神に影響を与える。肝臓が丈夫かどうか、胃腸が健康かどうかで、人間はしあわせにもみじめにもなる。だが、火星人は、臓器の状態によって気分や感情を左右されることはないのだ。」

しかし、人類は絶滅しなかった。地球人が試みた対抗策がすべて失敗に終わった後、地球上で最も謙虚な存在によって救われたのである。
生命体の構造は、環境に適合した合理的な特性を、進化の過程で獲得してきたわけだが、どうやら火星にはバクテリアのような微生物が存在しないらしい。だから、身体構造もシンプルというわけか。微生物も存在しない環境に、生命体が存在しうるかは知らんが...
人類の歴史は、感染症との戦いの歴史とも言えよう。ペスト、ハンセン病、梅毒、麻疹、天然痘、コレラ、チフス、結核、インフルエンザ、ポリオ、マラリア、エイズ、エボラ出血熱... そして、コロナウィルスである。
最初からワクチンは存在しないし、自力で体内に抗体を作る方が合理的である。中途半端なワクチン接種のために体内の免疫組織がバランスを欠き、新たな変異種を生んでしまう恐れもある。ウィルスは構造が単純なだけに進化も早く、ちょっとした刺激で突然変異することだってあるのだ。人類は、様々な病原体との戦いの中で、多様な抗体と複雑な消化器官を長い年月をかけて獲得してきた。環境が変われば、新たな器官を生み出し、不要な器官もでてくる。これが進化というものか。
あの大科学者は、こんな言葉を遺した... ものごとはできるかぎりシンプルにすべきだ。しかし、シンプルすぎてもいけない... と。自然淘汰の原理は、生命体を必要以上に複雑化しないものらしい。
「火星人が仲間の死体を埋葬しなかったり、見境なく殺戮をおこなったりしていたことは、彼らが腐敗現象について完全に無知であったことを物語っている。」

そして突然、火星人たちは地球上での活動を停止した。バクテリアに蝕まれ、死んでしまったとさ...
実に、あっけない幕切れ!恐竜の絶滅がどんなものだったかは知らんが、ひょっとしたら人類も...
「宇宙というよりひろい視野に立ってみた場合、火星人の侵略は、地球人にとって利益があったといえないこともない。それは、堕落のもっとも重要な原因となる未来に対するのんきな安心感を消し去ってくれただけでなく、人類の科学に多大なる貢献をし、さらに、人類共通の利益という概念をおおいに広めてくれた。それは同時に、広大な宇宙空間をへだてて先遣部隊の運命を見守っていた火星人に、教訓をあたえたのかもしれない...」

2021-02-07

"言語はなぜ哲学の問題になるのか" Ian Hacking 著

霧立ち込める朝、ぼんやりと古本屋を散歩していると、ぼそぼそと問い掛けてくるヤツがいる。日常、当たり前のように使っている「言語」。こいつの役割とは、なんであろう... その意義とは、なんであろう... と。
情報伝達のための媒体、意思疎通のための道具、いや、そんな外的な役割より、内的な意義の方が大きいような気がする。思考するための素材としての。記憶を活性化させるための。少なくとも、論理的に、思弁的に、自問するためには不可欠。真理を探求すれば、言葉の壁にぶち当たる。真理を探求する学問が、個性あふれる難解な記述になるのも致し方あるまい。つまりは、人間の言語能力の限界をつきつけることになる。
尚、伊藤邦武訳版(勁草書房)を手にとる。

ユークリッド原論は、人間の証明能力の限界をつきつけた。これ以上証明のしようがない純粋な法則として五つの公準を提示したのである。五つ目だけは疑問の余地を残しながら...
カントは、人間の認識能力の限界をつきつけた。経験的なものがまったく入り込む余地のない、最も純粋な認識として「ア・プリオリ」という用語を編み出したのである。
新たな境地を記述するのに、辞書を頼るのでは心許ない。新たな定義が必要になり、新たな言葉が必要になる。哲学するのに、言語は絶対に欠かせない。それで、真理のテクニックが精神のクリニックになるかは知らんが。希望へ導くか、絶望を悟るかは知らんが...
ただ、言語は自己陶酔と、すこぶる相性がいい。そして、自分探しの旅は、言葉探しの旅となる。

本書は、言語に注視するという観点から、近世以降の西洋哲学史を外観する。登場する哲学者は、ホッブズ、ロック、バークリー、フレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタイン、エイヤー、クワイン、チョムスキー、ファイヤーアーベント、ディヴィッドソンといった面々。
彼らを「観念の全盛期」「意味の全盛期」「文の全盛期」の三つに分類し、「意味の理論」に至る流れを物語ってくれる。観念の時代では、まだ言語は主題とはならず、その重要性も認識されず、ひたすら精神的言説に突っ走り、意味の時代になって、ようやく言語の意義が問われるようになり、文の時代になって、意味の理論が本格的に議論されるようになったとさ...
どんな学問にも反省の糧となる時代がある。近代哲学で自省の糧となったのは、デカルトやホッブズあたりであろうか。
それにしても、「観念」という言葉は手ごわい。その意味するものと言えば、ほとんど人の選り好みにも映る。それは、悟性の対象となるものすべて。思想や空想、感覚や知覚、心象や形相... なんでもあり。それでいて、哲学書の中に、この言葉についての定義は見当たらず、ただ「観念」の一言で片付けられる。この大層な用語は、まるで湯上がり気分の王子様気取り...

「言語」という知識が、先天的か、後天的かといえば、明らかに後者である。ただ、ア・プリオリな認識ではないにせよ、完全に経験的とも言えないような、どこか生得的で遺伝子に組み込まれていそうな。そう感じるのは、乳幼児期から幼児語を押し付けられ、物心つく前から言語に支配されてきたということであろう。人は言葉に癒やされ、言葉に励まされ、言葉に傷つき、言葉に怒る。言葉が猛威を振るうネット社会ともなると、誰もが言葉に振り回され、ますます政治屋たちは言語統制に躍起ときた。もはや、どちらが振り回されているのやら。人間の人間たる所以は、言語を編み出したことにあるのかもしれん。文明の文明たる所以も...
自分が口にする言葉は、誰もが自分自身で支配していると考えるだろうが、そうは問屋が卸さない。言語には常に解釈がつきまとい、解釈はしばしば誤謬へと導く。賢人の理性や判断力ですら、自らの言葉で混乱に陥れる。それで言語に支配される存在に成り下がるとすれば、結局は自己矛盾の呪縛からは逃れられない。
「言語帝国主義は、軍事的な帝国主義よりも巧妙に武装されている。」

「言語」という言葉の定義となると、なかなか厄介!
ましてや、自然言語や数学の方程式やプログラミング言語のような記号で記述できるものばかりではあるまい。印象に残った風景、感動した音色や味覚、和んだ香りや肌触りといった五感で得た情報、おまけに第六感までも絡み、脳に記憶される知識のすべてが言語的に感じられる。人間精神そのものが、言語的な存在と言ってもいい。
そして、しばしば疑問に思う。同じ用語でも、会話の相手と同じイメージを描きながら喋っているだろうか?と。客観性の強い専門用語ですら、専門家の間で微妙にニュアンスが違うと見える。所属するグループの間でも用語の使い方が違ったり、きわめて組織文化に影響されやすい。
仕事の場で、初対面の会議で用語の定義を確認しようと心掛ける人は、それだけで信頼に値する。そうかと思えば、用語の意味も知らんのか!そんなことは常識だ!などと相手を馬鹿にする人もいるけど...
そもそも、脳の構造からして無数の電子の集合体である。そんな物体同士が、完全な意思疎通など不可能に思えてならない。それでいて会話が成り立っているのだから、人間のコミュニケーション能力、恐るべし!いや、成り立っていると思い込んでいるだけのことかもしれん。主張するという行為も、自己満足に浸っているだけのことかもしれん...
尚、カントの友人で、後に批判者となったヨハン・ゲオルク・ハーマンは、カントの著作を論評して、こんなことを書いたという。
「言語こそが、理性の最初にして最後の道具であり、また基準であって、それは伝統と使用という信用意外のものを、何も持たないのである。」

2021-01-31

人格操作社会... パーソナルコントロール

あの高橋留美子の偉大なアニメに、こんなエピソードがある...
パーソナルコントローラとは、取り憑いた人の性格を思いのままに操ることのできる代物。バッジになりすまし、さりげなく胸に張り付き、人格の 90% を支配して深層心理に働きかける。知らず知らずに忍び寄る悪魔のささやき。だが、そんな便利な道具も意地悪な持ち主の性格が受け継がれ、もはや操っているのやら、操られているのやら...

いつの時代でも、為政者にとって最も都合の良いことは、情報をコントロールできること。それは、ゲッペルス文学博士が証明して見せた。扇動者にとって、思考しない者が思考しているつもりで同意している状態ほど都合のよいものはない。
しかしながら、ネット社会では多くの為政者が嘆く。どんなに情報をコントロールしようとも、デマがすぐに拡散してしまうと。民衆も負けじと警戒する。為政者がインターネットを利用し、より簡単に情報操作ができるようになったと。どちらも事実を含んでいるだけに、どちらも被害妄想に取り憑かれる。

「真実が靴をはく間に、嘘は地球を半周する。」... マーク・トウェイン

情報を牛耳るための効果的な方法に、文字情報の独占がある。日本では武士の時代から識字率が高かったとされる。識字率が高いということは、情報も伝わりやすい。伝言板や回覧板の類いには古い歴史があり、政治的にも利用されてきた。鎖国のような政策下では画一的な情報が蔓延し、風通しの悪い社会では情報通ほど厄介となる。
識字率が高いために、目に見えない言論統制に翻弄され、分析力や判断力を麻痺させるばかりか、放棄してしまう。自分で考えて行動するという習慣が根付かないのは、そのせいかは知らんが、識字率の高さを誇ってばかりはいられまい。
思い込みは一見頑固なようだが、実は移ろいやすく、操作されやすい。危機的な状況ともなると社会不安が伝搬し、人を批判するだけの正義中毒症を蔓延させる。ポピュリズムを煽り、あちこちで炎上騒ぎ。正義ってやつは、よほどストレス解消に効くらしい。
もはや、情報を操っているのやら、情報に操られているのやら...

「全員が誤っているときには、全員が正しいことになる。」... ピエール・ド・ラ・ショッセ

口は災いの元... というが、昔から、露出度が高く、目立ちたがり屋ほど胡散臭く見られる。情報インテリジェンスには、目立たぬように行動するという基本的な態度があり、優秀な諜報工作員ほど凡庸を装っているものだ。
しかし、政治屋や報道屋ときたら、見た目が勝負!分かりやすいメッセージを発信し続ける者ほど人気を集める。だから、やってます感を演出しようと躍起だ。企業戦術においても、プレゼンをスマートにやれば、そこに人は群がる。うまくアピールした者の勝ち!それは、情報社会の掟。伝達法や話し方といった類いの HowTo 本は、ますます大盛況ときた。
とはいえ、見知らぬ人を評価するのに、見た目以外で何ができよう。現代社会では、誰もが情報操作の餌食にされることを覚悟せねば... いや、人格までも操作されていることを...
ますます高度化していく情報化社会にあって、健全な懐疑心を保つには、よほどの修行が要ると見える...

「もしもすべての誤りに門戸を閉ざすならば、真実もまた締め出されてしまうことになる。」... ラビンドラナート・タゴール

2021-01-24

血は水よりも濃い... 政治 vs. 宗教

血は水よりも濃い... と言うが、繋がりが断ち切れなければ、憎さも倍増する。人間の本質が自由精神にあるとすれば、政治の第一の目的は、まずもって個人の自由と安全を保障することになる。だが自由は、しばしば集団暴走の火種となり、社会の安全と相い反するところがある。それゆえ、個々を屈服させることが政治の手段となる。
ただ、手段ってやつは、そのまま方法論となるばかりか、これに固執すると、目的化してしまう性質がある。手っ取り早く集団の意思を操作する方法は、思想観念を叩き込むこと。その意味で、政治と宗教は原理的にすこぶる似ている。どちらも民衆の精神を支配しようというのだから。目的が同じならば、互いに手を結びやすい。まさに血を分けた兄弟!
なるほど、政教分離をやらなけば危険だというのも一理ある。

西洋史は、宗教と政治の精神的支柱をめぐっての争いの歴史とも言えよう。古代エジプトの王ですら神託には逆らえなかったし、キリスト教世界における皇帝と教皇の力関係の逆転は、聖職叙任権をめぐるいざこざに見て取れる。こうした信仰原理には、「人間は神がこしらえたもの」という大前提がある。どんなに図々しい皇帝でも、神を無視するのは、なんとなく後ろめたいところがあると見える。つまりは、気分の問題か...
ならば、こう問わずにはいられない... なぜ万能な神がこんな不完全な存在をこしらえたのか?それは、単なる気まぐれか?それとも、完全な存在の有り難さを知らしめるためか?... と。すべてが完全ならば、不完全を認識する必要もなければ、完全という概念も無用。だから、滅びゆく運命にある存在も必要だというのか...
神は、単純な宇宙法則をこしらえておきながら、それによって生じるカオスな現象にまで責任を負う気はないと見える。いや逆に、「神は人間がこしらえたもの」とすればどうであろう。その方が筋が通る。少なくとも聖書は人間がこしらえた。神の意志が、これを書かせたと主張する者もいるが、絶対なる完全者の意志を不完全者が汲み取ることができるなんて、なんとおこがましいことか。これこそ神の冒涜!

現代社会は仮想化社会と言われるが、すでに仮想化は、神の偶像化によって成熟している。お釈迦様が気の毒なのは仏像として拝まれることだ。偉大な釈迦がそんなことを望むはずがない。ナザレの御仁も再臨すれば、キリスト教なんぞ知らん!と突き放すかもしれない。偉大な魂の持ち主であったからこそ黙って十字架に晒されたのであろうし。
いまや世界中で偶像崇拝が蔓延る。偶像を完全に放棄しているのは、科学と呼ばれる宗教ぐらいなものか。いや、仮説という偶像をまとえば同じこと。科学に宗教を説得する力はないし、政治にいたっては銅像になりたがる輩が蔓延る。望み通り生き埋めにしたら...

2021-01-17

森を見て木を見ず... 自我を見失い...

木を見て森を見ず... というが、どれほどの木が集まれば森になるのだろう。どれほどの家が集まれば町になるのだろう。どれほどの人が集まれば社会になるのだろう...
人間の洞察には、常に上辺と深さの対立がある。目の前に立ちはだかる木々は、森という総体を覆い隠す。人は、本当の森が、見えぬ木々によって構成されていることを知っている。それは、言葉によって知っているだけだろうか。
人間認識ってやつは奇妙なもので、なんとなく集合体に属すというだけで、自己存在を確認させ、根拠のない安心感を与える。森の中心がどこにあるかも分からずに。ならば、自己を中心に置いて観察してみるしかあるまい。
しかしながら、俗世間では、個人主義と利己主義が混同される。英語で言うところの individualism という用語は、自己を大切にし、自我と向き合う... といった積極的な意味合いがある。これを村社会では、利己主義と翻訳しては負のイメージを植え付ける。不協和音の権化のごとく。自己観察もままならず他人を考察したところで、どうなるものでもあるまい。いや、自我が見えないから、人の目を気にし、人の行動が気になってしょうがないのかもしれん...

自我と向き合い、人生の大局観を覗き見するには、よほどの修行が要ると見える。真理を見るには、眼を閉じる方がよさそうだ。深い森の中で眼を閉じ、小鳥のさえずりに耳を澄まし、草木の匂いをかぎ、水の流れる音を肌で感じる。どうやら真理とは、癒やされるものらしい。
偉大な開祖たちが使徒に先立って隠遁したのは、気まぐれではなさそうだ。仏陀は森に入った。ムハンマドは天幕に引き篭もった。キリストは四十日間も荒野をさまよった。彼らは、わざわざ苦悩を求めたのだろうか、それとも、真の癒やしを欲したのだろうか。彼らの行動に、広大にして深遠な自我への沈潜を垣間見る...

しかしながら、凡庸人が眼を閉じるのは危険だ。抽象概念に振り回され、目の前の現実すら見えなくなる。まさに、森を見て木を見ず...
人間は、本当に真理を重要視しているのだろうか。真理っぽく見えるものに焦がれているだけでは...
現実主義とは、現実を直視することではなく、現実っぽく見えることに希望を抱いているだけでは...
人間社会で生きるには、真の人間である必要はない。人間らしく振る舞うことができれば、それで十分。実際、人間性を失った人間がわんさといるし、そんなものを自分自身に問うてみてもようわからん。
物理構造を鑑みても、人間なんてものは原子の集合体でしかないし、自由意志だって自由電子に振り回されているだけのことかもしれん。感情と呼ばれる心理現象にしても、ぜんまい仕掛けのオートマトンに過ぎないのかもしれん。近い将来、AI の方が人間らしく見える日が来るやも...

2021-01-10

「数える」という本能めいた行為... 万物は数なり!

人間は、精神的な緊張を別の単純行為で和らげることができる。この特性を利用しない手はない。
例えば、電話中に落書きをしたり、プレゼン中に手のひらでビー玉をコロコロさせたりすると、言葉が出やすい。
おいらの場合、思考中に歩き回る癖があり、ベランダをうろうろしたり、散歩したりして、思考のリズムをつくる。思考を促すために、大音量の BGM も欠かせない。一旦集中してしまえば、ほとんど耳には届かなくなる。
こうした単純動作へのこだわりが、脳内 cpu にクロックを安定供給し、自己肯定感を高める。
おまけに、おいらは閉塞感の漂うオフィス空間が大の苦手ときた。十年以上前は煙草も頼りになる相棒だったが、今ではお香を焚く。近年では介護モードも加わり、日々の炊事やお掃除が妙に思考のリズムと合う。風呂掃除だけはリズムがとれなくてストレスを増幅させるのだけど...
物理的合理性は計測しやすいが、精神的合理性は十人十色。そして、余暇や堕落も、回り道や寄り道も、人生に意味を与えてくれる...

そんな多種多様な単純動作の中でも、特別な存在がある。普遍的と言うべきか。「数を数える」という行為が、それだ。
数には、なにやら心を落ち着かせるものがある。精神病患者や知的障害者などは、心が落ち着かない時に数を数え始めると聞く。ある種の儀式のように。サヴァン症候群のような突飛な能力の持ち主ともなると、数字が風景に見えるらしい。おいらも、デスクトップ上のスキャンカウンタをなんとなく見入ったりする。まさに、万物は数なり!
ちなみに、おいらが美少年と呼ばれた小学校低学年の時代、さんすうが大の苦手であった。放課後、一人残されては計算をやらされる。数ってやつがまったくイメージできず、机の下に手を隠して指を折って数える。すると叱られた。堂々とやれ!って。ごもっとも!当時の女の先生が鬼にも、天使にも見えたものである。やがて数の概念が理解空間と結びつきはじめると、いつの間にか、数の虜に。鶴亀算があまりにもすんなり数える概念と結びつき、こいつが方程式ってやつだと理解するのに大して手間はかからなかった。
しかしながら、大学の初等教育で再び奈落の底へ。高校までの数学がいかに算数であったかを思い知らされる。抽象化の概念は、指では数えられんよ。そして、数学の落ちこぼれになっちまったとさ...

「数」という概念と「数える」という行為は、ともに抽象化の道を歩んできた。数える行為を合理化するために記号を発明すれば、記号の関係性を求めて関数を編み出す。やがて、同じ性質を持つ数の集まりをひと括りにし、性質そのものの関係を探るようになった。「数」という概念は記号で抽象化され、「数える」という行為は関係性を結びつける関数に抽象化されてきたのである。
さらに、無限までも数えてやろう!という欲望に及ぶと、数の大小という関係は、濃度という概念へ飛躍する。アレフってやつだ。「数える」というからには整数論の領域にあるはずだが、まったく数に見えないのに整数とはこれいかに?有限界を生きる知的生命体が無限界に口を出すと、まったく悪魔じみている。とはいえ、すべては「一対一の対応」という手続きの元で引き出された知識である...

「数える」という行為は、進化論とも関係がありそうだ。原始の時代、人類は指を折って数え始め、数の概念はまずもって両手合わせて十本の指に乗っ取られた。人間の思考が十進法に憑かれるのも、その名残りか。女性の妊娠期間が約十ヶ月なのは、単なる偶然か。記念日や儀式に追い回されるのも、カレンダーの呪いか。ある原始民族では、手足合わせて二十進法を用いたという説もある。
しかし、だ。数の学問において、十進法ほど厄介な道具はない。コンピュータは二進法とすこぶる相性がよく、計算機工学では、8 進法や 16 進法が用いられる。つまり、2 の冪乗数があらゆる計算において優れているってことだ。情報理論の父と呼ばれるシャノンは、2 を底とする対数関数に情報の本質があることを見抜いた。ラプラスも、こんなことをつぶやいたとか。「ライプニッツは二進法の算術に『創造』」の形象を見た... 『一』は神を表し、『零』は空を表す...」と...
そして今日、デジタル社会では、0 と 1 があれば事足りる。なのに、人類が十本の関節を持つ指を授かったがために、十の数が崇められる。こんな自然に反するものを、誰が授けたかは知らんが...
ただ人類はどんなことでも、いかようにも解釈できる性癖も授かった。その見返りかは知らんが、幸福の原理として君臨している。
ピュタゴラス教団は、四元素とされた火、水、空気、土を底辺とする三角数 4 + 3 + 2 + 1 = 10 をテトラクテュスと呼んで崇めた。正三角形の頂点が神に通ずるとでも考えたか。
ただ、数学者がどんなに巧みな概念でねじ伏せようとも、計算ではスーパーのレジのおばさんの方が位取りで一枚上手ときた。
ちなみに、鏡の向こうから「十の時が流れる」という名を持つ野郎が、顔を赤らめてこちらを見つめてやがる。どうやら数に酔ったらしい。あヤツはテトラクテュスの申し子か?いや、君に酔っるだけだよ...

2021-01-03

自己責任から逃れる術... 幽体離脱!

おいらの物事を理解したかどうかの判定基準に、図形的なイメージが湧くかどうかという感覚がある。ユークリッド空間における脳内マッピングとでも言おうか。
子供の頃からそうなのだが、いくら記号や文字を操作しても、上っ面しか舐めていないような気がする。頭の中に浮かぶ自己鏡像との葛藤とでも言おうか。
サヴァン症候群のダニエル・タメット氏は「数字が風景に見える」と共感覚能力について語ってくれたが、理解空間にもそのようなものがあるような気がする。まるで精神空間を投影するような感覚...

しかしながら、記憶空間となると様相がまるで変わる。あれをやらなければ!と思って、いざやろうとすると、別の自分が既に仕事を終わらせている、といったこともしばしば。記憶がない!ということが、いかに幸せであるか。
一方で、その逆は皆無ときた。もうやったはずだ!と思って、いざ成果物を覗こうとすると、まるで終えてない。記憶を楽観視することが、いかに危険であるか。
理解空間でせっかく会得したことも、記憶空間ではチャラ。そして、しょっぱなからやり直し。こんなことを何度繰り返してきたことか。まるで自我空間を失っていく感覚...

自我を覗くために、夢を観察してみるのもいい。夢ってやつは実に奇妙な現象で、むかーしの知人が登場したり、これに現在進行中の仕事関係の人が入り混じったり、絶対ありえないシチュエーションにもかかわらず、見ている間は妙にリアリティがある。夢なんぞを本気で相手にしているのだから、現実のまやかしモノを信じてしまうのも仕方あるまい。バカバカしいほど単純な情報でも...

腹を抱えて大笑いし、自分の声で目が覚めることもある。振り返っても、何がおかしかったのか思い出せず、余韻だけが残り、奇妙な笑みを浮かべて周りから気持ち悪がられる始末。
そういえば大学時代、夢の中の自我を解析しようと実験をよくやったものだ。講義中に眠くなった自己に話しかけ続ける。すると金縛りになって、友人から大笑いされる。朝方、目を覚ましそうな時に実験をやると、よく金縛りになる。頭元に霊が現れるような感覚に、最初は怖さを感じるものの、慣れてくると、これが病みつき。金縛りこそ潜在意識そのものだと考え、こいつを完全にコントロールしてやろうと意気込んだものである。
そして、楽しんでいるうちに力が完全に抜けきって、もう金縛りになることもなくなった。どうやらストレスを感じないと、金縛りにはなれないらしい。遊びを一つ失ったのは実に寂しい!
今では、主治医に処方してもらう睡眠薬で、眠くなった状態でどこまで意識を持ち続けられるか、という実験をやる。目覚めの金縛りに出会えないとしたら、今度は、絶えず眠りにつこうとする自我を観察しようというわけよ。そして、睡魔と限界まで戦う快感に、遊びを一つ覚えちまった。金縛りにしても、睡魔にしても、まるで幽体離脱していくような感覚...

自我を覗くのは難しい。なによりも勇気がいる。自分自身のバカさ加減には、もううんざり。ひょっとしたら自分は天才じゃないか!と思う瞬間が、年に一度や二度あるものの、なんでこんなことも分からないんだ!なんでこんなことも気づかないんだ!と自分に怒鳴るのは、ほぼ毎日ときた。
おいらにだって、一歩引いて自己を眺めようとするメタ認知的な意識があるにはある。しかしながら、自己の思考空間には無意識の領域が果てしなく広がり、この広大無辺な領域に本性が内包されているとすれば、自己を知ることに対して絶望的と言わざるを得ない。メタ認識で、自己認識はメタメタよ。
それでも、自己を知ろうとする衝動を抑えられずにいる。自己を知るには責任がいる。無意識の自己に、どう自己責任を押し付けようというのか...
自我は曖昧なぐらいがいい。その方が幸せであろう。真理を覗くことによって精神を抽象概念へいざない、ますます自我を曖昧にさせる。「哲学する」とは、そういうことであろうか...
普遍的な思考に居場所を求めれば、神に看取られていると思い込むこともできる。そして、自我から幽体離脱し、責任は肉体に押し付けるさ。肉体を創造した神に押し付けるさ。それで神も本望であろう。
もはや、自己責任論から逃れる術は、幽体離脱しかない...

2020-12-27

"記憶を書きかえる - 多重人格と心のメカニズム" Ian Hacking 著

記憶が人格をつくる... ん~、なかなか興味深い視点である。「記憶」という言葉が多角的な関心を寄せるのは、それが生きる上で不可避だからであろう。様々な事象が、様々な形で、記憶と結び付けられる。本能的に...
尚、北沢格訳版(早川書房)を手に取る。
「魂は、個人のアイデンティティの不変の核を示すものではない。一人の個人、また一つの魂は、多くの面を持ち、多くの異なる話し方をするのだ。魂を考えることは、あらゆる発言の源となる一つの本質、一つの霊的地点が存在することを認めるのとは違う。私は、魂はそれよりももっと控えめな概念であると考えいてる。」

哲学者であり、物理学者でもあるイアン・ハッキングは、多重人格という現象を切り口に、人間のアイデンティティや存在意識の根底をなす記憶をめぐる旅へいざなう。
まず、多重人格の治療では、記憶を取り戻すことに始まるという。特に、幼児体験が問題になるケースが多いとか。幼児虐待やトラウマとの因果関係など、オーラルセックスの強要が口からの挿入物に抵抗感を持たせるといった話まで飛び出す。根底にあるのは束縛の原理。行き過ぎる社会的強制や私的強制が、人の心を歪める。病的な被害妄想を駆り立てて...
また、小説の中の人物にも注目する。あの有名なロバート・ルイス・スティーヴンソンの「ジギル博士とハイド氏」に、芸術的創造と絶賛するドストエフスキーの「二重人格」に、著者が最も恐ろしいというジェイムズ・ホッグの「赦免された罪人の回想と告白」に、精神医学の豊富な症例集を見る。
人間社会では、記憶力の競争が強いられ、知識の豊富さや語彙の豊富さなどは尊敬される技術の一つとして一目置かれる。受験戦争は、まさに記憶量の競い合い。その影に、記憶への恐怖が忍び寄る。
アルツハイマーのような病を恐れるのは、それが記憶の病と見なされるからであろう。人の目を気にせず、過去の記憶をあっさりと消し去ることができれば、自由になれるだろうか。自分探しの旅がもてはやされる昨今、旅の途中で自分を見失っては世話がない。人生の旅では、何を記憶に刻んでゆくかが問われる...
「多重人格の話は、非常に複雑なように見えても、実は、人間をつくりあげる話なのである。」

ところで、記憶とはなんであろう。それは、経験であり、知識であり、生きてきた証。中には、人間形成を担う重要な情報も含まれ、潜在意識や自律神経にも関与する。
しかも、記憶は時間とともに変化する。刻まれていく記憶もあれば、徐々に薄れ、失われていく記憶もあり、あるいは歪められる記憶もある。歳を重ねれば人も変わり、困難を抱えた人は変化にも富む。多重人格者ともなれば、その変化の度合いは時の流れ以上のものがあると見える。もはや、十年前の自分は自分ではない。したがって、むかーし、こしらえた借金の取り立てにあえば、今の俺は昔の俺とは別人なんだ!帰ってくれ!と追い返すこともできるわけだ。破産法とはこの別人論に則ったもので、法の裁きが求める自省にはチャラの原理が内包される。
とはいえ、自らチャラの原理を実践するには、よほどの修行がいる。引きずっていく過去を選択できれば、幸せになれそうなものだが、忌み嫌う過去ほど記憶領域にへばりついてやがる。しかも、無意識の領域に、深く、深く...
ただ、記憶を消せなくても感じ方を変えることはできる。苦い経験を懐かしむような。いや、無関心の方が楽か...
その点、オートマトンなら、手っ取り早くデータをダウンロード。コンピュータってやつは、人格形成においては先を行ってやがる。記憶領域を書き換えれば、まったく違う振る舞いをするのだから。人間はそうはいかんよ。いや、脳にチップを埋め込めばどうであろう。高度な管理社会ともなれば、生まれたばかりの子供にマイクロチップを埋め込むことが義務づけられるかもしれん...
人間の能力では、時間の流れは制御できそうにない。どう転んでも、エントロピーには逆らえんよ。ならば、記憶を制御することはできるだろうか。都合よく解釈することが、記憶を制御するということかは知らんが...
「記憶は、理解を助け、正義を達成し、知識を探求するための強力な道具である。記憶は意識の働きを高める。またそれは、心の傷を癒し、人の尊厳を回復させる。時には暴動を引き起こすことすらある。"Je me souviens (私は忘れない)" という言葉以上に、ケベック州で、車に貼るステッカーの台詞としてふさわしいものがあろうか?ホロコーストと奴隷制度の記憶は、新しい世代に引き継がなければならない。」

1. 多重人格は病か
まず、精神病の診断の難しさは、それが本当に病気のレベルにあるのか、という問題がある。多重人格という現象そのものは、病であろうか。生きていく上で障害となるなら治療も必要だが、大なり小なり誰もが持っている性質のような気がする。普段から自分ではない自分を演じているではないか。建て前ってやつを。誰もが虚飾を張って生きているではないか。平然と。キレるという現象も、スィッチが入るという現象も、別の人格が顔を出しているのでは...
多重とは、二つより多いからそう呼ぶ。分裂とも違うようである。分裂病患者は、論理と現実に関する感覚が歪んでいるのに加え、態度、感情、行動の調和がとれない。一方、多重人格者は、論理や現実の感覚については問題はないが、断片化していくという。
多重人格ってやつが、二重人格から進化した新たな種類の狂気かは知らん。だとしても、精神の持ち主ならば、精神病と診断されずとも、そうした傾向があるのでは。そして、多重人格を完全に克服できれば、やりたくないことを交代人格によって処理するような、要領のいい使い分けもできるかも。様々な場面に順応できる多様な人格を備え、それを自由自在に操る。
人の心は、誰かに受動的に動かされていると苦痛や強迫めいたものを感じるが、自分自身で能動的に動く分には心地よくも感じる。そうなると、すごい能力だ!多重人格とは、ある種の精神修行であろうか...
「虚偽意識のかけらももっていないという読者がいたら、その人こそ、もっとも重大な虚偽に陥っているのだ。」

2. 多重人格とジェンダー
多重人格と診断されるケースを男女比で見ると、奇妙な偏りがあるという。なんと、90% が女性だとか。あまりに偏った数字で、鵜呑みにする気にはなれない。本書でも、様々な見方を挙げている。多重人格者の男性は暴力事件で捕まることが多い、あるいは、酒やドラッグに救いを求め、依存症と診断されるケースが多い、さらに、幼児体験の影響が大きいという観点から、男児よりも女児の方が近親姦などの犠牲になりやすい、といった見方である。著者の経験でも、女性患者の方が圧倒的に多いという。
そこで、心理学で重要な鍵とされるヒステリーの考察がある。ヒステリーといえば、昔から女性のものとされる。古代ギリシア語の「子宮」が語源となるほどに。しかし、DV の加害者と被害者の比となると、数字は逆転する。男の場合、ヒステリーを通り過ぎて腕力にまかせて暴力沙汰を起こすのかは知らんが、DV の社会的認知度はいまだ低い。
ちなみに、自閉症でも男女差があると言われ、男児は女児の数倍に上るといった統計データも見かける。知的障害者では、男性の方がやや多いぐらいで、そこまでの偏りは見せないようだけど。
先天性の場合、障害者を生む確率は天才を生む確率に比例しそうな、あるいは、遺伝子コピーのリスクの裏返しのような。つまり、生物学的確率である。
ただ、多重人格は、後天性の問題であろうか。後天性の場合、自覚症状があれば、医者にかかるだろうし、自覚できなければ、医者にかかることもなく、診断もされない。そして、医者の世話になる前に警察の世話になるってか。
また、男女には、物理的に避けられない能力の違いがある。子供を産む能力が、それだ。へその緒を通して、物理的につながっていた事実は変えられない。その分、性的暴行に対するトラウマは、女性の方が強いのかもしれない。概して、男親は女児に甘すぎるほどに甘い。おいらも、嫁はいらんが娘がほしい。こんな感覚も、心の歪の兆しであろうか...
こうした精神診断を男女比で考察すると、フェミニストに猛攻撃を喰らいそうだが、現場で治療に当たる医師がイデオロギーなんぞにかまっている暇はあるまい...

「口づけとかみつき...
何と二つは似ていることか、そして心からまっすぐ愛するとき
貪欲な口は、たやすく二つを取り違える」

2020-12-20

"確率の出現" Ian Hacking 著

確率論という学問は、数学の一分野に位置づけられるものの、ちと異質感がつきまとう。数学ってやつは、他のどの学問よりも客観性を重んじ、数学の定理は何よりも明瞭な確実性を備える。なのに確率論となると、主観確率なるものを持ち出し、確からしさという曖昧な物理量を堂々と算出して見せる。偶然までも手玉に取ろうってか...
生か!死か!と存在の可能性までも論じ、まるでシュレディンガーの猫。存在の薄いチェシャ猫も、運命論に招き入れようと、ほくそ笑む。考えうる事象をすべて抽出し、各々の度合を考察する点では、組合せ論や集合論に通ずるものがあるが、明らかにピュアでない。応用数学とも違う。むしろ社会学に近く、統計学と瓜二つ。数学の限界を試すかのような...

とはいえ、人間社会で生きてゆくには、確率と無縁ではいられない。社会保障に年金、企業経営に市場メカニズム、災害リスクに疾病リスク、デジタルシステムの誤り訂正率に製造品質の歩留まり、そして、生命体の避けられない遺伝子の変異率など、あらゆる意思決定プロセスで幅を利かせている。
あのパスカルだって、賭けに出た。宗教を信じるのが楽か、神の存在を信じるのが合理的か、と。いまや確率は、運命の指導原理として君臨してやがる...

主観のようで主観でない、客観のようで客観でない、ベンベン!
数学は告げる。コイン投げで表か裏の出る確率は 1/2、サンプルが多いほどこの値に収束する... と。ならば、表が何度か続けばそろそろ裏が出そうな、あるいは、これだけ表が続けばこのコインは表が出やすいよう変形している、なんてことも考えてしまう。現実社会を生きてゆくのに、理想モデルだけでは心許ない。コルモゴロフの公理モデルだけでは...
ほとんどのケースでデータ量は不十分、知識も不十分、それでも前に進まなければならない。となれば、直観ってやつが役に立つ。実際、ギャンブルで勝つには、サイコロの目、カードの流れ、牌の気配といったものを読み、確率を超えた嗅覚が求められる。
確率では、独立性が重要な鍵となる。それは、客観的な視点を与えてくれるからだ。しかしながら、確率事象が、けして過去に影響されないものだとしても、人間ってやつは過去を引きずって生きている。今まで生きてきた時間を無駄と考えることほど虚しいものはなく、過去の経験を未来への期待値に転化せずにはいられない。精神空間で、この時間軸を見失えば、たちまち精神病を患うって寸法よ。

おそらく、人間の認識能力で完全な「純粋客観」なるものを扱うのは、手に余るであろう。だから、「客観性」なのである。そして、客観性そのものが確からしさの天秤にかけられる。
そもそも人間が思考するのに、完全に主観を排除することは可能であろうか。直観はきわめて主観の領域に近い。が、主観確率となると、限りなく客観の領域に入り込もうとする。限りなく近づくということは、けして到達できないことを意味する。それが、微分学の美学ってやつよ。
ベイズ主義が主観主義の代弁者かは知らん。頻度主義が客観主義の代弁者かも知らん。確率論とは、中庸を模索する学問か、いや、妥協を模索する学問か。まさに、人生は妥協の連続!これほど、人生戦略に適合した連続関数はあるまい...
尚、広田すみれ、森元良太訳版(慶應義塾大学出版会)を手に取る。

「p を支持する理由を把握することは、その原因を理解することであり、なぜ p であるかを理解することである。」

1. 確率論という思考の幕開け
1865年、アイザック・トドハンターは「確率の数学論史 - パスカルからラプラスまで」という本を出版したという。確率の歴史は、パスカル以前に記すべきものがほとんどなく、ラプラスでほぼ語り尽くされたというわけである。
とはいえ、人類の歴史で、賭博の存在しない時代は見当たらない。人間の認識能力ってやつは、あいも変わらず時間の矢に幽閉されたままで、未来志向から抜けられないでいる。未来を占う呪術や占星術の類いは古代から健在であり続け、近代科学の時代になっても大勢の人がハマる。神の意志をサイコロの目と同等に扱うのは、不謹慎極まりない!ってか。かの大科学者は「神はサイコロを振らない!」と豪語した。代わりに人間が振ってりゃ世話ない。
パスカル以前に欠落していた思考は、証拠や検証の概念ということか。数学で言えば証明の手続き。あらゆるシステム構築で欠かせない概念ではあるが、完全である必要はないし、完全を求めすぎても前に進めない。現在では、ランダム生成器なしにアルゴリズムの検証も難しいが、未来予測のためのランダムモデルの導入が、確率から確率論へ進化させた、と言えそうか。
それにしても、不思議な現象がある。生起する事象の曖昧さを数学が明るみにすればするほど、ギャンブルに走る人が増えようとは。ギャンブル依存症は古代の記述にも見られるし、人生そのものがギャンブルなのだから仕方あるまい...
「先人たちはランダム生成器を作り出し、また、サイコロで安定した頻度の生成もおこなった。そして帰納的推論という、(前提が正しくても)結論は確からしいものにしかならない推論法も引き出した。」

2. さすらいの確率論、二元性の狭間で...
確率は、二元論的だという。一方で、合理的な信念の度合い、もう一方で、長期試行における安定した頻度の傾向であると。認識論と統計学の共存というわけか。この二面性を克服しようと、信頼性、傾向性、性向など様々なパラメータが試されてきた。
統計的安定性という観点は、極限定理や大数の法則を示唆するが、今この瞬間の状態は、曖昧さを残したまま。正規分布が、独立した事象の集合体にせよ、その集合体の誤差にせよ、やはり状況は変わらない。
この瞬間の曖昧さまでも完全に明瞭化することができるとすれば、それはいったいどんな世界なのだろう。いや、曖昧さってやつは、曖昧であってこそ価値があるというもの。人間の存在価値とは、解釈の余地を残すことであろうか...

3. 帰納論理という道具
古来、数学の証明には、二つの道筋がある。演繹法と帰納法が、それだ。おそらく王道は、演繹法であろう。あらゆる物理現象を論理形式で演繹的に説明できれば、それに越したことはない。だが、そうはいかないのが現実世界。むしろ、帰納法の方が有用な場合が多い。ルネサンス時代には、前者を高級科学、後者を低級科学という見方があったらしい。現在でも、その余韻を感じないわけではないが...
"probable(蓋然的)" と呼ばれるものは「臆見」に属し、論証で導かれる知識と対照をなしていたという。証拠立てには、権威や尊敬される裁定者の証言が是認された時代である。臆見は、科学者には受け入れがたいであろう。
とはいえ、帰納法はユークリッド原論にも記述を見つけることができる。その代表が互除法ってやつで、これを低級科学とするのはいかがなものか。確率の思考がまだ信仰心に毒されていた時代、神の命題を弁証法的に論じたパスカルによって思考が解放された、という見方はできそうか。あるいは、それも賭けだったのか...
何に賭けようが、完全に証明できれば問題はないが、帰納的な証明は脆さがある。「全てのカラスは黒い」という命題ではないが、一つの反証例が示されればそれでおしまい。そこで、「黒でなければ、カラスではない」とすればどうだろう。カラスでなければ、別の名前を与えればいい。それで証明は成り立っているだろうか。帰納的な思考には、常に詭弁がつきまとう。自己矛盾という詭弁が...
現代社会でも、完全に正しいというより、だいたい正しいとする方が有用なケースが多い。デジタルシステムにも多くの事例を見つけることができる。例えば、検索アルゴリズムでは、じっくりと時間をかけて 100 % の正解率を得るより、スピード感をもって 90% ぐらいの正解率を得る方がありがたい。データ領域のゴミ掃除をしてくれるガベージコレクションのアルゴリズムにしても、完全なゴミ判定を試みるより、明らかにゴミと判定できるものをさっさと処分してくれた方がありがたい。リソースの贅沢な時代では、少しぐらいゴミが残っても、システムに影響を与えない程度なら充分に使える。たまーに、再起動に迫られるけど...
リスクとのトレードオフでは、「確からしさ」という思考は有用である。現代人は忙しいのだ。寿命が伸びたからといって、のんびりとはしてられない。期待値は、結果ではなく、過程の情報を与えるだけだが、行動指針の材料にできる。大数の法則を会得したからといって、有意義な人生を送れるかは別の問題。数学が道具なら、確率論も道具。道具ってやつは、いかに用いるか、それも使う人次第ってことに変わりはない...

2020-12-13

"死父" Donald Barthelme 著

原題 "The Dead Father"...
これに「死父」という怪しげなタイトルを与えたセンスはなかなか。直訳するだけでは芸がない。外国語と母国語の狭間でもがき、日本語にない日本語まで編みだす。翻訳家という仕事は、創造的な仕事のようである。
そして、原作者ドナルド・バーセルミとの対談を仕掛ける。
「あのう... ええと... 思い切っておききいたします。死父とは、いったい、何なのですか?尋ねられたアメリカ人の驚愕。尋ねた日本人の顔をまじまじと見つめる。もじもじする尋ねたほうの日本人。死父とは死んだ父親です。死父とは死んでいるのに生きている父親です。死父とは生きている父親です。死父とは... まだつづけますか?」
しかも、架空の対談というオチ!仕掛けが大きすぎると、そのギャップを読者が埋める羽目に...
尚、柳瀬尚紀訳版(現代の世界文学:集英社)を手に取る。

こいつぁ、父親の存在感というものを、世に知らしめる物語か。いや、居場所を求める父親諸君を慰める物語か。その支離滅裂ぶりときたら...
まず、巨大な存在感を示すために、でかい図体。全長 3200 キュービット、半分は地下に埋没し、四六時中、生きている者どもに目を光らせている。キュービットは、古代文明から伝わる長さの単位で肘の長さに由来し、1 キュービットは 50 センチ弱。つまり、全長 1600 メートル弱の恐るべき巨人で、左足の義足には懺悔室がすっぽり入る。
大きな人間というのは、幅を利かせたり、社会を支配したりすることかは知らんが、畏怖の的でありながら愚かしく滑稽。その狂気ぶりはパスカル以上に病的で、身体がでかい上に態度もでかい... とくれば、ぼくらは死父に死んでもらいたいのです。
そして、息子と大勢の従者に牽かれて埋葬の地へ。このバカでかい穴はなんだ?わしを生き埋めにする気か!巨大な骸(むくろ)にブルドーザーが押し寄せる...

死んだ人間に死んでもらいたいとは、どういうことか...
故人を偲び心の中に生き続けるということもあろうし、その思いを断ち切るということもあろう。だが、そんな感覚からは程遠い。そもそも、生きていることと死んでいることの違いとはなんであろう。肉体の有無か。魂は永遠... というが、死人に口無し... ともいう。沈黙する限りでは神にも似たり。
死後の世界を知らないことは、人間にとって幸せであろう。天国も地獄も都合よくこしらえることができるのだから。生きている人間を黙らせるには、神に大いに語っていただかなければ。ただ、神ってやつは、よほどの面倒くさがり屋と見える。代理人と称する輩に思いっきり語らせているのだから...
では、死んだ人間に喋らせれば、言葉に重みが与えられるだろうか。いずれにせよ、生きている間は生きている者同士で語り合い、死んでいる者に口を挟んでもらいたくないし、死んだら死んだ者同士で静かに心を交わし、生きている者に眠りを邪魔されたくないものである...

ところで、父親の威厳ってやつは、どこの家庭でも影が薄いと見える。居場所を確保するだけでも大変と聞く。書斎のような籠もれる場所があればいいが、たいていはベランダで雨風に晒され、寒さに凍える。
存在感ってやつは、それが威厳や風格に結びつくとは限らない。威厳は威圧と紙一重、風格も風刺と紙一重。妻は子供とグルになり、まるでゴミ溜め扱い。休日に寝坊でもしようものなら掃除機に追い回され、洗濯物だって別々にされ洗濯槽を二つ備える洗濯機がバカ売れ。「父親」という語は、もはや家庭内差別用語か...
生きている間はお邪魔虫、ならば、死んでみるのはどうであろう。威厳が取り戻せるだろうか。そもそも威厳ってなんだ?肩書や年功序列の類いか。寿命ってやつは、移動平均で年功序列ということになってはいるけど。
超高齢化社会ともなれば、子供が先に逝くケースも珍しくない。天国の受付窓口で年功序列などと言い張っていれば、すぐに地獄の窓口へ回される。
おまけに、たいていの男は年下の女房を娶り、平均寿命では女の方が長いときた。たいていの父親は、死に顔を曝け出し、女房に愚痴を言われながら死んでいくのよ。子供はいらんが、孫がほしい... 嫁はいらんが、娘がほしい... そんな愚痴が死に顔から聞こえてきそうな。
父親の人生は、はかない!そりゃ、ノーパンでぶらりぶらりしたくもなろう...