記憶が人格をつくる... ん~、なかなか興味深い視点である。「記憶」という言葉が多角的な関心を寄せるのは、それが生きる上で不可避だからであろう。様々な事象が、様々な形で、記憶と結び付けられる。本能的に...
尚、北沢格訳版(早川書房)を手に取る。
「魂は、個人のアイデンティティの不変の核を示すものではない。一人の個人、また一つの魂は、多くの面を持ち、多くの異なる話し方をするのだ。魂を考えることは、あらゆる発言の源となる一つの本質、一つの霊的地点が存在することを認めるのとは違う。私は、魂はそれよりももっと控えめな概念であると考えいてる。」
哲学者であり、物理学者でもあるイアン・ハッキングは、多重人格という現象を切り口に、人間のアイデンティティや存在意識の根底をなす記憶をめぐる旅へいざなう。
まず、多重人格の治療では、記憶を取り戻すことに始まるという。特に、幼児体験が問題になるケースが多いとか。幼児虐待やトラウマとの因果関係など、オーラルセックスの強要が口からの挿入物に抵抗感を持たせるといった話まで飛び出す。根底にあるのは束縛の原理。行き過ぎる社会的強制や私的強制が、人の心を歪める。病的な被害妄想を駆り立てて...
また、小説の中の人物にも注目する。あの有名なロバート・ルイス・スティーヴンソンの「ジギル博士とハイド氏」に、芸術的創造と絶賛するドストエフスキーの「二重人格」に、著者が最も恐ろしいというジェイムズ・ホッグの「赦免された罪人の回想と告白」に、精神医学の豊富な症例集を見る。
人間社会では、記憶力の競争が強いられ、知識の豊富さや語彙の豊富さなどは尊敬される技術の一つとして一目置かれる。受験戦争は、まさに記憶量の競い合い。その影に、記憶への恐怖が忍び寄る。
アルツハイマーのような病を恐れるのは、それが記憶の病と見なされるからであろう。人の目を気にせず、過去の記憶をあっさりと消し去ることができれば、自由になれるだろうか。自分探しの旅がもてはやされる昨今、旅の途中で自分を見失っては世話がない。人生の旅では、何を記憶に刻んでゆくかが問われる...
「多重人格の話は、非常に複雑なように見えても、実は、人間をつくりあげる話なのである。」
ところで、記憶とはなんであろう。それは、経験であり、知識であり、生きてきた証。中には、人間形成を担う重要な情報も含まれ、潜在意識や自律神経にも関与する。
しかも、記憶は時間とともに変化する。刻まれていく記憶もあれば、徐々に薄れ、失われていく記憶もあり、あるいは歪められる記憶もある。歳を重ねれば人も変わり、困難を抱えた人は変化にも富む。多重人格者ともなれば、その変化の度合いは時の流れ以上のものがあると見える。もはや、十年前の自分は自分ではない。したがって、むかーし、こしらえた借金の取り立てにあえば、今の俺は昔の俺とは別人なんだ!帰ってくれ!と追い返すこともできるわけだ。破産法とはこの別人論に則ったもので、法の裁きが求める自省にはチャラの原理が内包される。
とはいえ、自らチャラの原理を実践するには、よほどの修行がいる。引きずっていく過去を選択できれば、幸せになれそうなものだが、忌み嫌う過去ほど記憶領域にへばりついてやがる。しかも、無意識の領域に、深く、深く...
ただ、記憶を消せなくても感じ方を変えることはできる。苦い経験を懐かしむような。いや、無関心の方が楽か...
その点、オートマトンなら、手っ取り早くデータをダウンロード。コンピュータってやつは、人格形成においては先を行ってやがる。記憶領域を書き換えれば、まったく違う振る舞いをするのだから。人間はそうはいかんよ。いや、脳にチップを埋め込めばどうであろう。高度な管理社会ともなれば、生まれたばかりの子供にマイクロチップを埋め込むことが義務づけられるかもしれん...
人間の能力では、時間の流れは制御できそうにない。どう転んでも、エントロピーには逆らえんよ。ならば、記憶を制御することはできるだろうか。都合よく解釈することが、記憶を制御するということかは知らんが...
「記憶は、理解を助け、正義を達成し、知識を探求するための強力な道具である。記憶は意識の働きを高める。またそれは、心の傷を癒し、人の尊厳を回復させる。時には暴動を引き起こすことすらある。"Je me souviens (私は忘れない)" という言葉以上に、ケベック州で、車に貼るステッカーの台詞としてふさわしいものがあろうか?ホロコーストと奴隷制度の記憶は、新しい世代に引き継がなければならない。」
1. 多重人格は病か
まず、精神病の診断の難しさは、それが本当に病気のレベルにあるのか、という問題がある。多重人格という現象そのものは、病であろうか。生きていく上で障害となるなら治療も必要だが、大なり小なり誰もが持っている性質のような気がする。普段から自分ではない自分を演じているではないか。建て前ってやつを。誰もが虚飾を張って生きているではないか。平然と。キレるという現象も、スィッチが入るという現象も、別の人格が顔を出しているのでは...
多重とは、二つより多いからそう呼ぶ。分裂とも違うようである。分裂病患者は、論理と現実に関する感覚が歪んでいるのに加え、態度、感情、行動の調和がとれない。一方、多重人格者は、論理や現実の感覚については問題はないが、断片化していくという。
多重人格ってやつが、二重人格から進化した新たな種類の狂気かは知らん。だとしても、精神の持ち主ならば、精神病と診断されずとも、そうした傾向があるのでは。そして、多重人格を完全に克服できれば、やりたくないことを交代人格によって処理するような、要領のいい使い分けもできるかも。様々な場面に順応できる多様な人格を備え、それを自由自在に操る。
人の心は、誰かに受動的に動かされていると苦痛や強迫めいたものを感じるが、自分自身で能動的に動く分には心地よくも感じる。そうなると、すごい能力だ!多重人格とは、ある種の精神修行であろうか...
「虚偽意識のかけらももっていないという読者がいたら、その人こそ、もっとも重大な虚偽に陥っているのだ。」
2. 多重人格とジェンダー
多重人格と診断されるケースを男女比で見ると、奇妙な偏りがあるという。なんと、90% が女性だとか。あまりに偏った数字で、鵜呑みにする気にはなれない。本書でも、様々な見方を挙げている。多重人格者の男性は暴力事件で捕まることが多い、あるいは、酒やドラッグに救いを求め、依存症と診断されるケースが多い、さらに、幼児体験の影響が大きいという観点から、男児よりも女児の方が近親姦などの犠牲になりやすい、といった見方である。著者の経験でも、女性患者の方が圧倒的に多いという。
そこで、心理学で重要な鍵とされるヒステリーの考察がある。ヒステリーといえば、昔から女性のものとされる。古代ギリシア語の「子宮」が語源となるほどに。しかし、DV の加害者と被害者の比となると、数字は逆転する。男の場合、ヒステリーを通り過ぎて腕力にまかせて暴力沙汰を起こすのかは知らんが、DV の社会的認知度はいまだ低い。
ちなみに、自閉症でも男女差があると言われ、男児は女児の数倍に上るといった統計データも見かける。知的障害者では、男性の方がやや多いぐらいで、そこまでの偏りは見せないようだけど。
先天性の場合、障害者を生む確率は天才を生む確率に比例しそうな、あるいは、遺伝子コピーのリスクの裏返しのような。つまり、生物学的確率である。
ただ、多重人格は、後天性の問題であろうか。後天性の場合、自覚症状があれば、医者にかかるだろうし、自覚できなければ、医者にかかることもなく、診断もされない。そして、医者の世話になる前に警察の世話になるってか。
また、男女には、物理的に避けられない能力の違いがある。子供を産む能力が、それだ。へその緒を通して、物理的につながっていた事実は変えられない。その分、性的暴行に対するトラウマは、女性の方が強いのかもしれない。概して、男親は女児に甘すぎるほどに甘い。おいらも、嫁はいらんが娘がほしい。こんな感覚も、心の歪の兆しであろうか...
こうした精神診断を男女比で考察すると、フェミニストに猛攻撃を喰らいそうだが、現場で治療に当たる医師がイデオロギーなんぞにかまっている暇はあるまい...
「口づけとかみつき...
何と二つは似ていることか、そして心からまっすぐ愛するとき
貪欲な口は、たやすく二つを取り違える」
Contents
- 2020-12-27 "記憶を書きかえる - 多重人格と心のメカニズム" Ian Hacking 著
- 2020-12-20 "確率の出現" Ian Hacking 著
- 2020-12-13 "死父" Donald Barthelme 著
- 2020-12-06 "辞書を読む愉楽" 柳瀬尚紀 著
- 2020-11-29 "翻訳困りっ話" 柳瀬尚紀 著
- 2020-11-22 WUuu... の呪い、WMP 蜂に刺され、ご愁傷様です!
- 2020-11-15 "迷い鳥たち" Rabindranath Tagore 著
- 2020-11-08 "ガンディーとタゴール" 森本達雄 著
- 2020-11-01 初体験!国勢調査員... デジタル後進国のお祭りか!
- 2020-10-25 "獄中からの手紙" Mohandas Karamchand Gandhi 著
2020-12-27
"記憶を書きかえる - 多重人格と心のメカニズム" Ian Hacking 著
2020-12-20
"確率の出現" Ian Hacking 著
確率論という学問は、数学の一分野に位置づけられるものの、ちと異質感がつきまとう。数学ってやつは、他のどの学問よりも客観性を重んじ、数学の定理は何よりも明瞭な確実性を備える。なのに確率論となると、主観確率なるものを持ち出し、確からしさという曖昧な物理量を堂々と算出して見せる。偶然までも手玉に取ろうってか...
生か!死か!と存在の可能性までも論じ、まるでシュレディンガーの猫。存在の薄いチェシャ猫も、運命論に招き入れようと、ほくそ笑む。考えうる事象をすべて抽出し、各々の度合を考察する点では、組合せ論や集合論に通ずるものがあるが、明らかにピュアでない。応用数学とも違う。むしろ社会学に近く、統計学と瓜二つ。数学の限界を試すかのような...
とはいえ、人間社会で生きてゆくには、確率と無縁ではいられない。社会保障に年金、企業経営に市場メカニズム、災害リスクに疾病リスク、デジタルシステムの誤り訂正率に製造品質の歩留まり、そして、生命体の避けられない遺伝子の変異率など、あらゆる意思決定プロセスで幅を利かせている。
あのパスカルだって、賭けに出た。宗教を信じるのが楽か、神の存在を信じるのが合理的か、と。いまや確率は、運命の指導原理として君臨してやがる...
主観のようで主観でない、客観のようで客観でない、ベンベン!
数学は告げる。コイン投げで表か裏の出る確率は 1/2、サンプルが多いほどこの値に収束する... と。ならば、表が何度か続けばそろそろ裏が出そうな、あるいは、これだけ表が続けばこのコインは表が出やすいよう変形している、なんてことも考えてしまう。現実社会を生きてゆくのに、理想モデルだけでは心許ない。コルモゴロフの公理モデルだけでは...
ほとんどのケースでデータ量は不十分、知識も不十分、それでも前に進まなければならない。となれば、直観ってやつが役に立つ。実際、ギャンブルで勝つには、サイコロの目、カードの流れ、牌の気配といったものを読み、確率を超えた嗅覚が求められる。
確率では、独立性が重要な鍵となる。それは、客観的な視点を与えてくれるからだ。しかしながら、確率事象が、けして過去に影響されないものだとしても、人間ってやつは過去を引きずって生きている。今まで生きてきた時間を無駄と考えることほど虚しいものはなく、過去の経験を未来への期待値に転化せずにはいられない。精神空間で、この時間軸を見失えば、たちまち精神病を患うって寸法よ。
おそらく、人間の認識能力で完全な「純粋客観」なるものを扱うのは、手に余るであろう。だから、「客観性」なのである。そして、客観性そのものが確からしさの天秤にかけられる。
そもそも人間が思考するのに、完全に主観を排除することは可能であろうか。直観はきわめて主観の領域に近い。が、主観確率となると、限りなく客観の領域に入り込もうとする。限りなく近づくということは、けして到達できないことを意味する。それが、微分学の美学ってやつよ。
ベイズ主義が主観主義の代弁者かは知らん。頻度主義が客観主義の代弁者かも知らん。確率論とは、中庸を模索する学問か、いや、妥協を模索する学問か。まさに、人生は妥協の連続!これほど、人生戦略に適合した連続関数はあるまい...
尚、広田すみれ、森元良太訳版(慶應義塾大学出版会)を手に取る。
「p を支持する理由を把握することは、その原因を理解することであり、なぜ p であるかを理解することである。」
1. 確率論という思考の幕開け
1865年、アイザック・トドハンターは「確率の数学論史 - パスカルからラプラスまで」という本を出版したという。確率の歴史は、パスカル以前に記すべきものがほとんどなく、ラプラスでほぼ語り尽くされたというわけである。
とはいえ、人類の歴史で、賭博の存在しない時代は見当たらない。人間の認識能力ってやつは、あいも変わらず時間の矢に幽閉されたままで、未来志向から抜けられないでいる。未来を占う呪術や占星術の類いは古代から健在であり続け、近代科学の時代になっても大勢の人がハマる。神の意志をサイコロの目と同等に扱うのは、不謹慎極まりない!ってか。かの大科学者は「神はサイコロを振らない!」と豪語した。代わりに人間が振ってりゃ世話ない。
パスカル以前に欠落していた思考は、証拠や検証の概念ということか。数学で言えば証明の手続き。あらゆるシステム構築で欠かせない概念ではあるが、完全である必要はないし、完全を求めすぎても前に進めない。現在では、ランダム生成器なしにアルゴリズムの検証も難しいが、未来予測のためのランダムモデルの導入が、確率から確率論へ進化させた、と言えそうか。
それにしても、不思議な現象がある。生起する事象の曖昧さを数学が明るみにすればするほど、ギャンブルに走る人が増えようとは。ギャンブル依存症は古代の記述にも見られるし、人生そのものがギャンブルなのだから仕方あるまい...
「先人たちはランダム生成器を作り出し、また、サイコロで安定した頻度の生成もおこなった。そして帰納的推論という、(前提が正しくても)結論は確からしいものにしかならない推論法も引き出した。」
2. さすらいの確率論、二元性の狭間で...
確率は、二元論的だという。一方で、合理的な信念の度合い、もう一方で、長期試行における安定した頻度の傾向であると。認識論と統計学の共存というわけか。この二面性を克服しようと、信頼性、傾向性、性向など様々なパラメータが試されてきた。
統計的安定性という観点は、極限定理や大数の法則を示唆するが、今この瞬間の状態は、曖昧さを残したまま。正規分布が、独立した事象の集合体にせよ、その集合体の誤差にせよ、やはり状況は変わらない。
この瞬間の曖昧さまでも完全に明瞭化することができるとすれば、それはいったいどんな世界なのだろう。いや、曖昧さってやつは、曖昧であってこそ価値があるというもの。人間の存在価値とは、解釈の余地を残すことであろうか...
3. 帰納論理という道具
古来、数学の証明には、二つの道筋がある。演繹法と帰納法が、それだ。おそらく王道は、演繹法であろう。あらゆる物理現象を論理形式で演繹的に説明できれば、それに越したことはない。だが、そうはいかないのが現実世界。むしろ、帰納法の方が有用な場合が多い。ルネサンス時代には、前者を高級科学、後者を低級科学という見方があったらしい。現在でも、その余韻を感じないわけではないが...
"probable(蓋然的)" と呼ばれるものは「臆見」に属し、論証で導かれる知識と対照をなしていたという。証拠立てには、権威や尊敬される裁定者の証言が是認された時代である。臆見は、科学者には受け入れがたいであろう。
とはいえ、帰納法はユークリッド原論にも記述を見つけることができる。その代表が互除法ってやつで、これを低級科学とするのはいかがなものか。確率の思考がまだ信仰心に毒されていた時代、神の命題を弁証法的に論じたパスカルによって思考が解放された、という見方はできそうか。あるいは、それも賭けだったのか...
何に賭けようが、完全に証明できれば問題はないが、帰納的な証明は脆さがある。「全てのカラスは黒い」という命題ではないが、一つの反証例が示されればそれでおしまい。そこで、「黒でなければ、カラスではない」とすればどうだろう。カラスでなければ、別の名前を与えればいい。それで証明は成り立っているだろうか。帰納的な思考には、常に詭弁がつきまとう。自己矛盾という詭弁が...
現代社会でも、完全に正しいというより、だいたい正しいとする方が有用なケースが多い。デジタルシステムにも多くの事例を見つけることができる。例えば、検索アルゴリズムでは、じっくりと時間をかけて 100 % の正解率を得るより、スピード感をもって 90% ぐらいの正解率を得る方がありがたい。データ領域のゴミ掃除をしてくれるガベージコレクションのアルゴリズムにしても、完全なゴミ判定を試みるより、明らかにゴミと判定できるものをさっさと処分してくれた方がありがたい。リソースの贅沢な時代では、少しぐらいゴミが残っても、システムに影響を与えない程度なら充分に使える。たまーに、再起動に迫られるけど...
リスクとのトレードオフでは、「確からしさ」という思考は有用である。現代人は忙しいのだ。寿命が伸びたからといって、のんびりとはしてられない。期待値は、結果ではなく、過程の情報を与えるだけだが、行動指針の材料にできる。大数の法則を会得したからといって、有意義な人生を送れるかは別の問題。数学が道具なら、確率論も道具。道具ってやつは、いかに用いるか、それも使う人次第ってことに変わりはない...
2020-12-13
"死父" Donald Barthelme 著
原題 "The Dead Father"...
これに「死父」という怪しげなタイトルを与えたセンスはなかなか。直訳するだけでは芸がない。外国語と母国語の狭間でもがき、日本語にない日本語まで編みだす。翻訳家という仕事は、創造的な仕事のようである。
そして、原作者ドナルド・バーセルミとの対談を仕掛ける。
「あのう... ええと... 思い切っておききいたします。死父とは、いったい、何なのですか?尋ねられたアメリカ人の驚愕。尋ねた日本人の顔をまじまじと見つめる。もじもじする尋ねたほうの日本人。死父とは死んだ父親です。死父とは死んでいるのに生きている父親です。死父とは生きている父親です。死父とは... まだつづけますか?」
しかも、架空の対談というオチ!仕掛けが大きすぎると、そのギャップを読者が埋める羽目に...
尚、柳瀬尚紀訳版(現代の世界文学:集英社)を手に取る。
こいつぁ、父親の存在感というものを、世に知らしめる物語か。いや、居場所を求める父親諸君を慰める物語か。その支離滅裂ぶりときたら...
まず、巨大な存在感を示すために、でかい図体。全長 3200 キュービット、半分は地下に埋没し、四六時中、生きている者どもに目を光らせている。キュービットは、古代文明から伝わる長さの単位で肘の長さに由来し、1 キュービットは 50 センチ弱。つまり、全長 1600 メートル弱の恐るべき巨人で、左足の義足には懺悔室がすっぽり入る。
大きな人間というのは、幅を利かせたり、社会を支配したりすることかは知らんが、畏怖の的でありながら愚かしく滑稽。その狂気ぶりはパスカル以上に病的で、身体がでかい上に態度もでかい... とくれば、ぼくらは死父に死んでもらいたいのです。
そして、息子と大勢の従者に牽かれて埋葬の地へ。このバカでかい穴はなんだ?わしを生き埋めにする気か!巨大な骸(むくろ)にブルドーザーが押し寄せる...
死んだ人間に死んでもらいたいとは、どういうことか...
故人を偲び心の中に生き続けるということもあろうし、その思いを断ち切るということもあろう。だが、そんな感覚からは程遠い。そもそも、生きていることと死んでいることの違いとはなんであろう。肉体の有無か。魂は永遠... というが、死人に口無し... ともいう。沈黙する限りでは神にも似たり。
死後の世界を知らないことは、人間にとって幸せであろう。天国も地獄も都合よくこしらえることができるのだから。生きている人間を黙らせるには、神に大いに語っていただかなければ。ただ、神ってやつは、よほどの面倒くさがり屋と見える。代理人と称する輩に思いっきり語らせているのだから...
では、死んだ人間に喋らせれば、言葉に重みが与えられるだろうか。いずれにせよ、生きている間は生きている者同士で語り合い、死んでいる者に口を挟んでもらいたくないし、死んだら死んだ者同士で静かに心を交わし、生きている者に眠りを邪魔されたくないものである...
ところで、父親の威厳ってやつは、どこの家庭でも影が薄いと見える。居場所を確保するだけでも大変と聞く。書斎のような籠もれる場所があればいいが、たいていはベランダで雨風に晒され、寒さに凍える。
存在感ってやつは、それが威厳や風格に結びつくとは限らない。威厳は威圧と紙一重、風格も風刺と紙一重。妻は子供とグルになり、まるでゴミ溜め扱い。休日に寝坊でもしようものなら掃除機に追い回され、洗濯物だって別々にされ洗濯槽を二つ備える洗濯機がバカ売れ。「父親」という語は、もはや家庭内差別用語か...
生きている間はお邪魔虫、ならば、死んでみるのはどうであろう。威厳が取り戻せるだろうか。そもそも威厳ってなんだ?肩書や年功序列の類いか。寿命ってやつは、移動平均で年功序列ということになってはいるけど。
超高齢化社会ともなれば、子供が先に逝くケースも珍しくない。天国の受付窓口で年功序列などと言い張っていれば、すぐに地獄の窓口へ回される。
おまけに、たいていの男は年下の女房を娶り、平均寿命では女の方が長いときた。たいていの父親は、死に顔を曝け出し、女房に愚痴を言われながら死んでいくのよ。子供はいらんが、孫がほしい... 嫁はいらんが、娘がほしい... そんな愚痴が死に顔から聞こえてきそうな。
父親の人生は、はかない!そりゃ、ノーパンでぶらりぶらりしたくもなろう...
2020-12-06
"辞書を読む愉楽" 柳瀬尚紀 著
いつも脇役を演じ、存在感も薄く、それでいて、すこぶる頼りになるヤツらがいる。百科事典に広辞苑、英和辞典に漢和辞典、科学用語事典に IT 用語辞典... 義務教育時代から書棚にのさばる国語辞典ときたら、いまだ現役だ。
そして媒体は、リアルな紙からバーチャルな電子機器へ。パピルスが発明された時代も、一大革命であったことだろう。紙面の活字にしても光と呼ばれる電磁波を介して見ているわけで、電子を媒介することに変わりはないのだけど、ネット媒体におけるサービスの可能性には目を見張るものがある。いまやグルグル翻訳の多言語ぶりは百を超え、ウィキウィキ百科のボランティア記事は勢いを増すばかり。
ボキャブラリー貧困層の酔いどれときたら、類語や対義語を集めたシソーラスは必要不可欠だし、OED に病みつきだし、古典を読む時には、手書き入力の漢字認識や新旧漢字の対照表にもお世話になりっぱなし... たまには、彼らに感謝の意を込め、辞書で愉楽に浸ってみるのも悪くない。
ところで、「愉楽」という文字をちょいと観察してみると、「愉」は、りっしんべんの「心」と旧字体の「兪」に分解できる。旧字体の方が心が踊っているようで、まさに愉快!そこが象形文字のいいところだけど、合理化の波には勝てないと見える。
「愉」を「楽しむ」ついでに、「湯楽」には純米酒がつきもの。毎年改版される名酒辞典にも粗相があってはなるまい...
辞書といっても、堅苦しいものばかりではない。本書は、マニアックなものも持ち出して言葉遊びを仕掛けてくる。日本方言大辞典に日本民俗大辞典、将棋戦法大事典に... 競馬ファンなら当たり前の種牡馬辞典ってのもあるらしい。そこには、辞書にまつわる 81 篇ものエッセイが掲載、いや、駄洒落挿話が満載...
辞書を編むとは、言葉を編みだすことであろうか。言葉を新たに知ると、すぐに使ってみたくなる。そして、文章のバランスを欠き、ついには壊してしまう。それは、プログラムを書くのでも同じ。新たな技を覚えると、無理やりにでも使ってみたくなるもので、まさに子供心に看取られた証。
こうしたささやかな失敗の積み重ねが、言語センスを磨いていくのであろう。どうせやっても同じ!と考えるようになったら、脂ぎった大人心に見切られた証。
試行しなくなったら、思考もしなくなる。せめて言葉と戯れていたい。そして、言葉遊びは、語呂合わせとなり、駄洒落に走る。それも老害心に蝕まれた証。
だとしても、言葉には救われるよ...
様々な方面で編み出される専門用語は、夜の社交場でも教えられる。ちなみに、恋愛の達人と称すお嬢には、「愛」と「恋」では心の在り方が違うと教えられた。「愛」は心が真ん中にあるから真心がこもり、「恋」は心が下にあるから下心が見え見えなんだそうな。言葉遊びで、心変わりも見て取れるというわけである。そういえば、ある男性が向こう隣のボックスでチェンジ!チェンジ!と叫んでいたが、この専門用語の意味は未だに分からん...
1. ナナカンオウ vs. シチカンオウ
著者には棋士羽生善治氏との共著もあって、史上初の七冠王が誕生した時のエピソードを紹介してくれる。そこで、「七冠王」の読み方は?という話題になる。なにしろ、この世に初お目見えの用語だ。「三冠王」なら、野球のみならず見かけるけど。
おいらは「ナナカンオウ」と読むのが普通だと思っていたが、国語の専門家の間では「シチカンオウ」とする意見が圧倒的に多いようだ。近年、永世七冠に、囲碁界にも七冠が誕生したが、相変わらず「ナナカン」と読まれる。新語というものは、最初に編み出した時のインパクトで、そのまま定着してしまうところがある。某国営放送が発表すれば尚更。
学術用語や専門用語にも、最初に翻訳した偉い学者の用語が定着しているケースは多い。中には違和感のあるものもあり、無理やり日本語にする必要があるのか、と思うことも。言葉には民主主義的な性質があり、意味にせよ、読み方にせよ、圧倒的多数が支持すれば、そのように変化してしまう。要するに、言葉は文法や規則に縛られるものではなく、言い方であり、使い方なのであろう...
2. ポチ vs. pooch
犬の愛称でお馴染みの「ポチ」。英語にも "pooch" という語があるらしい。グルグル翻訳機にかけると、「犬」とでる。そこで、ポチと pooch の語源は同じか?という話題になって、辞書めぐりを始める。
pooch は、特に雑種をいい、血統書付きではなく、駄犬を指すらしい。"butch" なら、そんなイメージも湧くけど、トムとジェリーの見すぎか。どちらも、小さいという意味が含まれ、チビのニュアンスを与えるらしい。pooch からポチを連想する話題は、なかなか!
しかし、語源となると、pooch から ポチが生まれたとは考えにくい。そして、二葉亭四迷の小説「平凡」を紹介してくれる。どうやら、愛犬ポチのことを綴ったものらしい。とりあえず、ToDo リストにエントリしておこう。酔いどれは暗示にかかりやすいのだ...
3. キツネ vs. タヌキ
うどんや蕎麦にキツネとタヌキがあるが、女の顔もキツネ顔とタヌキ顔で分類されるという。著者は、真夜中に奥方を起こして、キツネ蕎麦が喰いたいと言うと、油揚げがないからできません!と、タヌキ顔の奥方に素っ気ない応対を喰らったとさ。
うどんでは、キツネの方はネタがはっきりしているが、タヌキの方は地方によって様々なようである。
そういえば、男の顔もソース顔としょうゆ顔で分類される。いや、ケチャップ顔やマヨネーズ顔、塩顔なんてのも。女はキツネとタヌキの化かし合い、その脇で男は調味料を演じているわけか。人間社会の主役は、やはり女の方らしい。せめて男は、辞書の役を演じたいものである。影が薄くても...
4. 名言 vs. 豪語
辞書にまつわる名言を見かける。いや、豪語か!
ナポレオンの名言に「余の辞書に不可能という文字はない。」というのがあるが、そんな辞書は役に立ちそうな気がしない。ナポレオンの豪語も強烈だが、ヘミングウェイの豪語もなかなか...
「もし作家が辞書を必要とするなら、書くべきではないのです。その辞書を少なくとも三度は読破して、とっくに誰かに貸してあって当然でしょう。」
そういうヘミングウェイ自身は、よく綴りを間違えたらしい。実行するかどうかは別にしても、作家なら辞書を丸ごと記憶するぐらいの意気込みがいるというわけか。小説を書くということは、そのぐらいの凄みが必要なのであろう。酔いどれには、ささやかにつぶやくのが関の山よ...
2020-11-29
"翻訳困りっ話" 柳瀬尚紀 著
小雨ちらつく中、虚ろな気分で古本屋を散歩していると、ちょいと気の利いた題目に出逢った。ん~... 翻訳家の方々には、いつもお世話になっております!
海外の小説や詩を味わおうとすれば、語学力の乏しいおいらには翻訳家の存在が欠かせない。期待するのは、語の翻訳もそうだけど、むしろ、文化の翻訳、心の翻訳である。芸術作品ともなると意訳はつきものだが、その案配が難しい。作者がさりげなく演出した行間までも読ませるように翻訳するのは至難の業。言葉で補足するのでは芸がない。原文から離れてダラダラ文章になるのでは、作品を壊してしまう。美しい文調に、語学的な説明は無用だ。
センスのいい翻訳家に出逢えるのは、読者のみならず、原作者にとっても幸せであろう。シェイクスピアの作品ともなると翻訳家が群がり、腕を競い合う。異なる翻訳家で味わうのも一献!原作者と翻訳家が同時代を生きていれば、うまい翻訳文を原本の改訂版に盛り込むといったケースもある。そうなると、共同制作者。原酒に酔い痴れれば、モルトもブレンデッドも自在に味わえるという寸法よ。
時には、日本語にない日本語を編み出し、日本語の在り方までも問い掛けてくる。翻訳語に酔い痴れれば、日本語が翻訳語に毒されていくは必定。おいらは、純粋な日本語なんぞ知らんよ。
やはり、言語は手ごわい。なにしろ精神の投影なのだから。言語システムを、方程式のように置き換えることは不可能。なにしろ精神ほど得体の知れない存在はないのだから。母国語ですら語彙の解釈を巡っては、人それぞれ。客観性を帯びた専門用語ですら、微妙にニュアンスが違ったり、時代とともに変化したりする。それで会話やコミュニケーションが成り立つのだから、人間社会は摩訶不思議。いや、成り立っていると信じ込んでいるだけのことかもしれん。翻訳家は、人間の多様性を相手取る厄介な仕事の一つ。文学というより、心理学や精神医学の領域に近い。まさに、困りっぱなし!の世界というわけか。
しかし、困ったものである。人の困っているのを見ると愉快になるのだから...
著者は「翻訳恥書きっ話」というタイトルも提案している。ん~... こいつも捨てがたい。
翻訳文は、厳しい評論や批判に晒される。それも当然だろう。下手な翻訳は作品を壊す。くだらん作品なら見捨てればいいが、名作を壊されてはかなわん。
翻訳家は、対象の外国語はもちろん、母国語のセンスが大いに問われる。言語システムを超越した普遍的な、メタ言語的な感覚も必要であろう。ゲーテやタゴールのような美しい旋律を奏でる文体には、翻訳語にも乗り移る何かかがあると見える。
ところで、言葉センスを曝け出して生きてゆく仕事とは、いかなるものであろう。口は災いの元というが、一旦言葉にすれば恥がつきまとう。太宰小説ではないが... 恥の多い生涯を送って来ました... となりそうな。まさに、恥かきっぱなし!の世界というわけか。よほどの言葉好きでもないと、やってられんだろう。実際、本書は言葉遊びのオンパレード。言葉遊びの基本は、語呂合わせであり、なんといっても駄洒落だ。笑いネタに困れば、駄洒落をかます。西洋語の語呂合わせを日本語に翻訳するとなると、よほどの駄洒落センスが問われる。アリス物語ともなると、語呂合わせも芸術の域!翻訳者の仕掛けに、おいらはイチコロよ...
おびただしい活字の氾濫する昨今、言葉との戯れ方にも凝ってみたい。こういう試みを「文字遊びの四重奏」というそうな。「も」じあそびに「じ」たばたと「あ」がいたり、「そ」そられたり、「び」っくりしたり...
しかし、だ。これが困りっぱなしの文章か!翻訳家が駄洒落にご執心とくれば、やはり困ったちゃん。読み物だから面白いけど、会話で使えばドン引き!トートロジックな駄洒落じゃ、言い訳もできん。
「正気の沙汰か」に「将棋の沙汰か」を当てれば、「啓蒙的な」に「軽妄的な」翻訳談義を当てつける。
「翻訳は駒落ちで指してもらわなければ歯が立たないような相手なら、対局を断るのが礼儀というものだ。大駒は近づけて受けよ、大作は近づいて受けよ、大作でないにしろ厄介な作品ならば、自分がその作品にどの程度近づくことができるかを見極めてから、注文を受けるべきだ。そうしないから、桂馬の高飛び歩のえじきというようなみじめなことになる。本人はいいつもりでも、作品がみじめだ。」
ドナルド・バーセルミの小説 "The Dead Father" に、「死父」という日本語にない用語を当てたことには自画自賛。翻訳とは、辞書では足りない言葉を探す仕事といわけか。暗示にかかりやすいおいらは、即、ToDo リストに追加しちまう。
「翻訳困立破無氏」の草稿もなかなか。
「翻訳」という性と、「困立破無(こまりっぱなし)」という名を持つ人物は、劇団「翻訳の世界」所属の道化厄者で、十二ヶ月で逝っちまったとさ...
「氏は生活がプロである人間を尊敬し、生活がプロであるべき人間がプロらしからなぬ仕業をすることに腹を立て、プロでない人間がプロであるがごとき顔をすることに唾さえひっかけなかった。」
猫とじゃれながら洒落た筆を走らせ、私生活までも見えてきそうな書きっぷり。困りっぱなしも、一皮むけると自己陶酔というわけか。しかし、読者の方は、自己に酔うだけでは足りない。君に酔ってんだよ、とピロートークでもかますか。そして、自己陶酔に浸る。
ん... 実にくだらん!でも、おもしろい!だから言葉遊びなのだ。くだらないことに目くじらを立てていては、遊びは成立しない。脇をくすぐる領域で、くだらん人生、くだらん笑いで、愉快にゆきたいもんだ...
ちなみに、あるバーテンダーが能書きを垂れていた... 「酒に落ちる」と書いて「お洒落」... と。棒が一本足らんよ。
「卒業証書は社会には保証の幻を、証書所有者には権利の幻を与えます。証書所有者は公式に知識があると見なされます。そして、いっときの、全く便宜にすぎない学識を証明するこの書類を一生大事に持ちつづけます。他方、法に基づいて卒業証書所有者なるこの人間は、世間は自分に負い目があると信じるようにしむけられます。例えば、原著者のものを読む代わりに、要約、便覧、奇妙奇天烈な学識の錠剤の使用、すっかり出来上がった問題と解答の集成、抜萃その他かずかずの嫌悪すべきものが持って来られるのが見られるようになったのは、卒業証書を考えればこそです。その結果、こういう贋造された教養に属するものは、もう一つも、発達してゆく精神の生命に援助を与えることも、適合することもできないのです。」
... ヴァレリー「知力の決算書」(寺田透訳)より
2020-11-22
WUuu... の呪い、WMP 蜂に刺され、ご愁傷様です!
やっと縁が切れた... とホットできるヤツがいる...
ソフトウェアってやつは、愛着があって使い続ける分にはいいが、仕方なく惰性的に使っているものもある。ある種の依存症だ。しかも、標準という地位にあぐらをかき、デスクトップ内で奇妙な権威を持ち続ける。
例えば、Edge は最初から眼中にないにしても、IE は未だ縁が切れないでいる。金融系サイトでは、IE + Java でないと、まともに閲覧できないページもあるし... おいらのデスクトップは、亡霊どもの安住の地か!
そんな腐れ縁も、WUuu... の呪いが、断ち切るきっかけになってくれるとは... 恨まれっ子も捨てたもんじゃない。
ちなみに、WUuu... とは、Windows Update の略で、重低音でうなるように発声する。うぅぅ~...
1. 今回、縁が切れたのは、WMP(Windows Media Player)...
SM 教の大型アップデートってやつは、なにかしら不具合に遭遇するものだが、それが当たり前の感覚になりつつあるのも怖い。
言い出したら切りがないが、音楽関連の設定がチャラにされる程度のことは毎度のこと。なにかとトラブルの元になる "高速スタートアップ" を無効にしていると、最近、シャットダウン後の起動で、特定のアプリケーションが一度目のネットワーク接続で失敗するといった現象も見かける。だからといって、このオプションを有効にすれば、それはそれで... はぁ~、この業界で推奨やオススメの類いは当てにならん。
そして先日、Version 20H2 を適用。いわゆる、Windows10 October 2020 Update ってヤツを...
すると、WMP の視覚エフェクトが、2曲目以降動作しなくなった。
環境は、WMP12 + XTHREE(スキン) + FRUITY(プラグイン)。
スキンも、プラグインも、外部から持ってきているので、これらが悪さをしているかと思いきや、標準装備されるヤツもことごとくアウト!WMP 本体を再インストールしても、やはりアウト!
XTHREE + FRUITY の組み合わせがお気に入りで使い続けてきたが、そろそろ潮時か。ダークモードにもなりきれず、おいてけぼり感は拭えないし...
だからといって、新手の "Groove ミュージック" に乗り換える気にはなれん。
2. 前々から目をつけていた MusicBee を試すと、これがなかなか!
音質も良くなり、我が家の非力なスピーカでも、それなりに聴ける。
初対面では、設定項目が多くて圧倒されてしまうが、すぐに、このぐらいのカスタマイズ性は欲しいと思えるようになる。噛めば噛むほど味がでてきそうな... おいらは惚れっぽい自己陶酔者なのだ。
ざっと、外観すると...
- タブの状態がしばしば変わるのが、どうもなぁ... と思いきや、タブ毎にナビゲーションロックができて安心。
- パネル構成は、なかなかの充実ぶり。但し、グラフィカルな要素が、ちと寂しい。FRUITY 並みの VU メータを求めるのは酷か。
- 再生装置に対して、"ハードウェアの同期のために起動時に無音を再生する" という設定があり、なかなかの気の配りよう。
- デバイス I/F は、DirectSound, WASAPI(Shared/Exclusive), ASIO, Winamp がエントリ。
- コーデックは、MP3, AAC, Ogg(Vorbis), Opus, Musepack, FLAC, ALAC, WavPack, TAK, WMA がエントリ。
- スキンは、xml, xmlc(Javaベースコンパイラ)形式。
そして、ちょいとヴィンテージ風にアレンジしてみた。
ちなみに、最前面でスピーカをパコパコさせて音波を踊らせているが、それはデスクトップツール "Rainmeter" とのコラボ...
3. ついでに、楽曲ファイルの階層構造を見直す...
まず、おいらは、実空間が仮想空間と掛け離れていると不安でしょうがないネアンデルタール人なのだ。
タグが物理構造とあまりに一致していないと、音楽ソフトを乗り換える時に苦労する。リッピング時に念頭には置いていたが、WMP に頼ってずぼらになり、グチャグチャ気味。MusicBee ではあまり問題にならないが、自動車の音楽システムが古いこともあり、階層構造は整理しておいた方がいいだろう。SD カードで持ち歩いたり、愛ある電話にも移植性を高めておきたいし...
だからといって、物理イメージとタグの柔軟性をガチガチに一致させるのは手間もかかるし、現実的ではない。
そこで、物理的な階層構造はジャンル別にアルバムを割り当て、この二つにタグを一致させる、という方針で。他のタグはプレイリストか再生中トラックで閲覧できればいい。
例えば、モーツァルトの楽曲はアルバム毎に "..\Music\Classic\Mozart Works" というディレクトリ下に格納し、気分に応じて曲ごとにプレイリストへエントリする、といった具合。
おいらの場合、ジャンルとアルバムが整理されていれば十分だし、この程度の編集なら大して手間もかからない。MusicBee は、タグ編集もやりやすいし...
ところで、ディレクトリという名は死語になりつつあるのだろうか。dir コマンドはまだ生きているけど。フォルダという名で抽象化するのもいいが、ネアンデルタール人はファイルとディレクトリで種別する方が落ち着く。Unix ライクな土壌では、カレントディレクトリの名は未だ健在だし...
2020-11-15
"迷い鳥たち" Rabindranath Tagore 著
ひと月ほど前、「ギーターンジャリ」(渡辺照宏訳版, 岩波文庫)には、見事にしてやられた。今宵、翻訳者を変えての挑戦に、これまたイチコロよ。
尚、内山眞理子訳版(未知谷)を手に取る。
恥ずかしながら、おいらが詩を読めるようになったのは、半世紀も生きてからのこと。詩ってやつは、理解するというより、感じるものなのだろう。何事も素直に感じとるには、子供心に看取られた純真さがいる。脂ぎった大人には酷だ。中原中也ではないが、まったく、汚れちまった悲しみに... といった心境である。
素直に味わうには、感覚を研ぎ澄まさなければ。感覚のままに受け取るには、感情を解き放たなければ。それは、受動的でありながら能動的という矛盾の覚醒か。自由精神とは、矛盾を謳歌することか。いや、M の覚醒よ...
詩を本当に味わいたければ原語で読むべし!とは、よく耳にする。しかし、タゴールをベンガル語で触れるのは、生涯叶わぬであろう。語学力の乏しい酔いどれごときには。
それにしても原文には、オーラのようなものが放たれているのだろうか。翻訳語にも乗り移る何かがありそうな。これが、普遍性というものか。詩にうんざり、愛にはもっとうんざり、そんな天の邪鬼な心をねじ伏せてきやがる。
原題 "Stray Birds"... ん~、迷える子羊より響きがいい...
まったく人間ってやつは、迷える存在でしかない。善を知るために、悪をも知らねばならぬとは。相対的な認識能力しか持ち合わせなければ、対極を知覚して中庸を模索するしかあるまい。生と死、永劫と刹那、光と闇、暁と黄昏、大いなる存在とちっぽけな存在... こうしたコントラストを甘美な調べに乗せて。言葉遊びの相対性理論とでも言おうか。
澄んだ目で見つめる森羅万象は、愛にも悲しみにも溢れ、あるときは、大自然の神秘な讃歌を奏で、またあるときは、宇宙と静かに会話し、またまたあるときは、人間社会を痛烈に皮肉って魅せる。ささやかな箴言の凝縮、自己表現を極限まで簡素化する芸。これが、詩というものか。迷える存在だからこそ、対称性に看取られた小宇宙に魅せられるのやもしれん...
「歌は無限を大空に感じとり、絵画は無限を大地に感じとり、詩は無限を大空と大地に感じとる。なぜなら詩の言葉は歩みゆく意味をもち、空翔る音楽をもつのだから...」
騒々しく活字が飛びかう昨今、沈黙の奏でる調べに癒やされようとは。そして、言葉拾いに翻弄される。脂ぎった魂はどうしても皮肉の利いた言葉を拾ってしまう。詩とは、読者の心を映し出すものなのか。
その日の気分によっても、拾えるものが違う。マールをやりながら読めば、心の中にわずかに残った粕を搾って、箴言らしきものが拾えるやもしれん...
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海よ、あなたの言葉はどのような言葉ですか... 永遠の問い、という言葉です
空よ、あなたの答えはどのような言葉ですか... 永遠の沈黙、という言葉です
水のなかの魚は沈黙し、地上の動物は騒がしい、空を飛ぶ鳥はうたっている、そして人間は、海の沈黙と、地上の騒がしさと、空の音楽をそのうちにもっている。
生はあたえられたものであるがゆえに、あたえることによって、それを得るにあたいする。
謙虚さにおいて偉大であるとき、偉大者にもっとも近づく。
完全者は、不完全者への愛のために、美でもって自身を装う。
悪は敗北する余裕をもつことができないが、正しきことはそれができる。
子どもは、どの子も、神はまだ人間に失望していないというメッセージをたずさえて生まれてくる。
草はその仲間を地中にさがしもとめる。木はその孤独を大空にさがしもとめる。
死において多は一になる。生において一は多になる。神が死ぬときに宗教は一つになるだろう。
芸術家は大自然の愛人である、それゆえにその奴隷であり、その主人である。
闇のなかで唯一者は一様にあらわれるが、光のなかでは多様にあらわれる。
花をつんでおこうと集めてまわらずに、ただ歩いてゆきなさい、そうすれば花は、行くさきざきで咲いていることでしょう。
真理はその装いのなかで、さまざまな事実をとても窮屈だと知る。いっぽう物語において、真理はゆったりとふるまう...
器のなかの水は光るが、海の水は暗い。ちいさな真理は明瞭な言葉をもつが、大いなる真理は大いなる沈黙をもつ。
ペット犬は、世界がまるごと、じぶんのその地位をねらう陰謀ではないかと疑っている。
賞賛はわたしを恥ずかしく思わせる、なぜならひそかにそれをほしがるわたしがいるから...
人びとは残酷だ。しかし、人は優しい。
真理の流れは幾多の誤謬の水路を通りぬけてすすむ。
人間は動物であるとき動物よりも悪い。
神は限りあるものに、人間は限りなきものに、愛の口づけをする。
神の沈黙は人間の想念を成熟させて言葉にみのらせる。
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2020-11-08
"ガンディーとタゴール" 森本達雄 著
タゴールの詩集「ギーターンジャリ」に魅せられ、ガンディーの告白「獄中からの手紙」を突きつけれると、今度は、翻訳者の視点から描いたものに触れてみたい。この惚れっぽい衝動ときたら...
暗い受難の時代というのは、偉大な人物を輩出するものらしい。英国帝国主義の植民地支配に抵抗したセポイの反乱が鎮圧されてから、インドとパキスタンの分離独立に至る激動の時代に、二つの巨星が舞い降りた。片や仏陀の再来と言われ、片や古代サンスクリット語の大詩人カーリダーサに比肩するとされ、それぞれに国民大衆から「マハートマ(偉大な魂)」と敬われ、「グルデブ(尊師、先生)」と慕われた。
ただ、この二人の人物像は、国民的英雄といった印象とは大分違う。二つの卓越した人格が、肉体から離脱したような存在とでも言おうか。偉大なのは人物ではなく、人格と言うべきか。まさに人間離れした。普遍的な人間とは、こういう人物を言うのかもしれん...
しかしながら、どうしても腑に落ちないことがある。これほどの人格者が二人揃って、なにゆえ政治運動なんぞに執心したのか?彼らの使命感や義務感は、いったいどこからくるのか?時代がそうさせたといえば、そうだろうが、それだけだろうか。
同胞が過酷な迫害を受けた時代、二人は真理の探求に生きた。受難の時代に哲学をやると、政治へと向かわせるのか。思考は疑問を持つことに始まる。時代の在り方に疑問を持てば、社会の在り方を問い、政治の在り方を問うことに。プラトンは、哲学者による統治という国家の理想像を描いて魅せたが、これに通ずるものがある。
とはいえ、真理を探求する世界と政治の脂ぎった世界とでは、あまりにも真逆。政治は妥協の世界で、理想主義がしばしば混乱を招いてきた。真理ってやつは、よほど手ごわいと見える。俗世間から距離を置き、精神空間を遠近法で眺めないと、なかなか姿が見えてこない。はっきりと見えなければ、凡人は都合よく解釈するし、この凡人未満の天の邪鬼ときたら、そんなものが本当に存在するのかと疑いもする。
真理の探求者が、普遍原理に反する事に関わることは苦痛でしかあるまい。それでも、優れた才能の持ち主ゆえに、逃れられないことがある。両者とも、意に反してまで政治運動にかかわったようには見えないけど。有能な人材ほど苦難を背負うものなのかもしれん...
馬の耳に念仏というが、聞く耳を持たぬ者を説いても、人の心は動かない。それは、ガンディーも言っていること。考え方や生き方を強制することも暴力であると。良心に訴えるというが、個々は善人でも、集団化すると悪魔に変貌するのが人間社会。そんな性質とどう向き合うか。
残念ながら、ガンディーの唱える非暴力不服従運動は、凡人には高尚すぎる。現実的な解は、毒をもって毒を制すの原理に縋るしかなさそうだ。まともな政治哲学を持つには、人類はまだまだ若すぎると見える。なにも直接、国民大衆に接することはあるまい。諷刺の効いた芸術作品を通して、訴えるのも一つの手。多少なりと聞く耳を持つから作品を手に取るのだろうし、ましてや、まったく興味のないものに触れようとはしないだろう。
そこで、タゴールの方はまだ馴染める。やがて政治の世界から身を引き、文学の世界で生きるのだから。文学部門でアジア人初のノーベル賞に輝いたことも、国民に勇気と誇りを与えたことだろう。アインシュタインのような自然科学者とも親交を深め、まさに自然哲学に没頭したと見える。
生き方は違っていても、思想哲学ではガンディーとタゴールはよく似ている。タゴールが言葉の奏でる美を通して真理を探求した人なら、ガンディーは行動を通して真理を探求した人。ともに、狭い了見での国家主義に警鐘を鳴らし、帝国主義を批判した。
二人は親交もあり、「マハートマ」の称号を与えたのがタゴールだったとされる。自己を高めるライバル意識のようなものが、互いに引きつけ合ったのであろうか。ルネサンス時代に多くの万能者を輩出したように。類は友を呼ぶというが、天才が集まると偉大さを纏い、凡人が集まると魔性を帯びるのかは知らんが...
1. 行動の人... ガンディー
「あなたのメッセージは?」と報道陣に聞かれると、「マイ・ライフ、わたしの全生涯がメッセージです。」と答えたそうな。ガンディーにとって、行動そのものが言葉というわけか。彼が起こした非暴力不服従運動は、思想的には真新しいものではないが、集団行動となると、人類史上、未曾有の試みかもしれない。
ただ、尊敬はできても、生き方が合わないという人はいる。理想が高すぎて、受け入れる側の度量を超えると、抑圧的にも感じる。ガンディーには、そうしたところがあまりない。彼は、完全な菜食主義者だったというが、それを強要したりもしない。
「他人に魚を食うなと強要する人は、魚を食する者よりいっそう大きな暴力を犯しているのです。漁師も、魚の行商人も、それを買って食する者も、おそらく彼らの行為に含まれている暴力に気づいていないのです。たとえ気づいていても、彼らはそれを不可避とみなしているかもしれません。けれども、他を強要する者は、故意に暴力をふるうという罪を犯しているのです。強制こそ非人間的です。」
行動の人という意味では、まさに政治家らしい政治家。押し付けがましいところがないという意味では、実に政治家らしくない政治家。
しかし、だ。凡人が崇高な思想を慕って集団化すると、しばしば抑圧的な思想に変貌してしまう。一人の偉人の目よりも、集団の目の方がずっと力強い。ましてや寛容さには、凡人はその上にあぐらをかく。
したがって、こうした思想を慕う人には、自立が求められる。ガンディーも、必然的に自立を要請している。ガンディーが唱えた「サティヤーグラハ」という思想は、南アフリカ共和国で試験的に実践し、インド独立運動で展開された。だがそれは、単なる非暴力を要請しているわけではなく、自立が前提されている。
「スワデーシー」という国産品愛用の呼びかけも、民族の職業的自立を唱えてのこと。しかし、凡人がこれを実践すると、海外製品ボイコットという形でナショナリズムを煽ることに。敵愾心を持つのは、自立心のなさゆえか...
「無所有」という積極的な欲望の浄化を唱えているのも、自然との共存の中での自立を説いている。衣食住のすべては、なんらかの形で自然の恩恵を受けている。もし、必要以上の広大な土地を所有しているとしたら、住む家のない人の土地を奪っていることに。もし、必要以上のご馳走にありつき、食べ残して捨てているとしたら、飢えている人の食べ物を奪っていることに。そう考えると、必要以上の所有は悪となる。人の幸せは、何かの犠牲の上に成り立っていると考えれば、これ以上の幸せを求めなくなる。
しかし、必要以上とは、どの程度をいうのであろう。ここが凡人の解釈と違うところ。そして、自己満足に終わる。幸せすぎても、不幸すぎても、人間は残酷になるらしい。
ん~... やはり、ガンディーの生き方は高尚すぎる。少なくとも、21世紀の人類には...
だからといって、理想主義で片付ける気にはなれない。遠く紀元前五世紀にブッダガヤの菩提樹の下で大悟成道した行動も、二千年前にゴルゴダの丘で沈黙のままに十字架刑を受け入れた行動も、今尚、時空を超えて語りかけてくれるのだから...
2. 美を奏でた人... タゴール
ガンディーが政治家としての使命感に目覚めた人とするなら、タゴールは教育家としての使命感に目覚めた人と言えよう。国家教育から距離を置き、自ら学校を設立。後に、タゴール国際大学と呼ばれることに。ガンディーもアーシュラム(修道場)を建設し、出身階級のいかんを問わず、学問する人を広く受け入れた。二人とも不可触民制の排除を誓う。カーストのような過酷な階級制度の下では、まず学問の下での平等が唱えられる。
それは世界各地でも見られる光景で、自己啓発を促すことが主眼となっている。機会平等とはそういうことであろう。つまり、学問するということは、自立を要請しているわけである。
インドの場合、農村を疲弊させた要因に、東インド会社が導入した「ザミーンダーリー制度」という地租徴収制度が挙げられる。地主が徴税者となり、徴税権は富裕な商人の間で売買され、伝統的な農村の社会秩序が破壊された。地主の没落とともに、農民は小作人に。そこに高利貸しや悪徳商人たちが禿鷹のように群がる。農民はまったく労働意欲を失い、卑屈な自己蔑視を募らせる。
タゴールは、自立心を取り戻すために、文字の読めない農民にも口ずさむことのできる言葉を編み出した。彼の詩は、無名の時代から、政治集会や祭りで愛唱され、田畑を耕す仕事歌として歌われたという。無知では依存症を増殖させる。学問の道は、民族自立の道というわけか...
それにしても、詩集「ギーターンジャリ」には救われる。邦訳版に触れたけど、それでも救われる。詩は原語で味わうものと言われるけど、やはり救われる。原文が自然な美しさをまとうと、翻訳文にも乗り移るのだろうか。タゴール自身が、わざわざベンガル語の詩集を英語訳版で刊行したのも、西洋人にはタゴール・ソングが理解できないと見たのか。しかも、定形詩を散文詩に変えて。それで、ノーベル文学賞をとっちまうんだから。誰だかは知らんが、ある詩人はこんなことを言ったという...
「子供はみんな詩人になる素質をもっている。ただ、大人になってもそれを失わない人が詩人と呼ばれる。」
真の芸術家とは、子供心を失わないものらしい。大人になると、言葉の意味や理解が先行して、言葉の奏でる美しさ、言葉の抑揚や響きといったものを、耳を通して味わおうとしない。
おいらの場合、詩を読む機会がほとんどなかった。中原中也のような人を知ったのも、半世紀も生きてからのこと。この歳になって、ようやく耳から言葉の調べが聞こえるようになろうとは... まったく、汚れちまった悲しみ... といった心境である。
「言葉を教えることの主な目的は、意味を説明することではなく、心の扉をたたくことだ。そのように戸をたたく音で、心のなかに何が呼び覚まされたかを説明するよう求められても、子供はたぶん、なにかとてもばかげた返事をするだろう。なぜなら、心のなかで起こっていることは、言葉で表現できるものなどより、はるかに大きいからである...」
3. ともに見た死生観
俗世間では、手段が目的化することがよくある。苦行の世界にも苦行主義が蔓延り、苦行そのものが目的となって極端な難行へとエスカレートさせていく。こうなると、苦行も滑稽芸!精神を解放するための苦行が束縛へと向かえば、それは自立心の喪失にほかなるまい。
ガンディーとタゴールの哲学には、自立、自己啓発、自己省察といった言葉が目に留まる。その先に二人が見たものは、そこに共通の死生観が伺える。
インド伝統の哲学に、人間の魂にはアートマン、すなわち、宇宙的な真理であるブラフマン(梵)が宿るとする宇宙観がある。真理の下では、民族の肌色、言語、習慣の違いも単なる表現の違いに過ぎない、と考えるのも道理。
さらに、道理を求めれば、死を思わずにはいられない。宇宙論の下では、死は終焉ではなくなり、死すらも生の延長として受け入れられる。死が訪れなかったら、人生はいつまでたっても未完のまま...
「おお、死よ、わたしの死よ、生を最後に完成させるものよ、来ておくれ、わたしに囁きかけておくれ!
来る日も、来る日も、わたしは おまえを待ちうけてきた...
おまえのため 人生の喜びにも痛みにも わたしは じっと耐えてきた。
わたしの存在 所有 望み 愛... すべてが、秘かな深みで たえずおまえに向かって流れていた。
最後にひとたびおまえが目くばせすれば、わたしの生命は 永遠におまえのもになるだろう...」
... 「ギタンジャリ」より
2020-11-01
初体験!国勢調査員... デジタル後進国のお祭りか!
なんであれ、初体験ってやつはワクワクさせるものがある。が、こいつは例外中のド例外!不合理、非効率、理不尽、ピント外れ... このバカバカしさは、まったく形容しきれない。
そして先週、ようやく集計作業が片付き、今、前高市総務大臣の任命辞令書を燃やしたところ...
春の終わり頃、やる人がいないから、どうしてもやってくれ!と頼まれた。おいらは個人事業主で職場も自宅ということもあり、あのおじさんはいつも家にいるから暇!と思われているようだ。町内会の役員もやらされているし。巷には、仕事といえば通勤するものだと杓子定規でしか考えられない連中が、あまりに多い。
最初の説明会では、 質疑応答の段になると苦情や経験談で荒れ狂う。なんだ!この殺気立った会合は?お国の権威主義で地方に揉め事をつくるのは、ご勘弁願いたい!
とにかく、国際調査員ってやつは、仕事を持っている人にはできない。おかげで、一ヶ月間、仕事を中断する羽目に。まったく、コロナ禍ならぬ、国勢調査禍よ!
1. 縦割り行政の産物か...
国税庁が、還付申請では面倒くささを強要しながら漏れなく徴収とくれば、地方自治体も負けじと住民税を漏れなく徴収ときた。彼らは、所得や資産の個人情報、住民票などでしっかりとしたデータベースをお持ちのようだ。なのに、総務省ときたら...
「個人情報は保護されます!」って何を根拠に?調査員が全国で 60 万人もいれば、中には... 実際、国勢調査バッグがネットオークションに出品され、高値がついた。何に使うかは知らんが...
少子化問題などの政策決定に使う情報と銘打つなら、他の省庁や地方自治体から、世帯構成などの数字を拾うだけで済むはず。なにゆえ個人名まで知りたがるのか?仕事状況なら、所属する企業や勤務先から拾い上げればいいし、アパートなら、どんな人が住んでいるか大家さんが知っている。大家さんも知らないような状況なら、一般人が訪問したぐらいで実態が分かるはずもない。
封筒の表紙には、「国勢調査には回答の義務があります!」とある。義務ってなんだ?統計法を盾にした強迫観念か?見事な国家への不信感を増殖させるイベント!おまけに、こんなものを野放しにする大手メディアの大本営ぶり...
行政改革で何をやるかより、やめるべきことをきちんとやめるだけでも、かなりの改革ができるであろうに。調査員たちは口を揃えて言う。税金の無駄遣い!と...
そういえば、つい最近、NHK の受信料制度で総務省の有識者会議が、「テレビ設置の届け出を義務化する」やら、「未契約者の居住情報の照会を可能にする」やらと提言したことが報じられた。個人情報に対する意識は、かなりズレてそう...
2. この国にデータベース化という戦略はないのか...
まず、データ収集のやり方からして問題!
インターネット回答がオススメ!って大々的に宣伝しているが、調査員は、コンピュータが振った地域番号と世帯番号を各世帯毎に手作業で割り振っている。グルグルマップ風の担当区地図に世帯番号を書き込み、その番号を世帯一覧表に書き写し、世帯代表者と男女構成を聞き取って書き加え、回答結果と擦り合わせて修正する。なんだこの手間は?こういう作業こそ、電子化するべきでは...
そして、本部から回答状況が報告され、未回答世帯の催促に奔走する。
総務省には、根本的なデータベース化という戦略がないのか。住基ネットはすでに形骸化し、マイナンバーカードも同じ道を辿るのかは知らんが、脱ハンコ!などと言っている場合か。上っ面のデジタル化で「やってます感」を演出するのは、いい加減にしてもらいたい。
我が国は、モノ作りに対する姿勢では、繊細なこだわりや美学を見せるのに、情報に対する体質となると、太平洋戦争時代からあまり変わっていないと見える。
情報活用の仕方を知らない連中が、無闇に情報を集めることほど滑稽で危険なことはない。スパイ天国と揶揄されても仕方あるまい...
3. 調査員が怒られ役なのは仕方がないにしても...
みなさんボランティア精神でやっているのに、この仕打ちはなんだ!
少しばかり手当が出るとはいえ、逆に、お金を払ってでも代わってもらいたい。一般人に「国家公務員として自覚して行動して下さい!」などと臨時で身分を与えて責任を押し付ける。国家公務員の身分証を見せるのは、むしろ逆効果。つまり、国が信用されていないってことだ。
防犯グッズまでも支給される。痴漢防止用の爆音ブザーがなるヤツ。こんなものが必要な作業なのか?
市営住宅などを担当している方とも親しく情報交換させてもらっているが、こちらからは声もかけられない状況。オートロックのマンションも対応が大変そう。管理会社に相談しても、所詮、所有者の雇われ人。勝手に入れないから、一軒一軒チャイムを鳴らして手渡している。
おいらの担当区でも、十回ぐらい訪問してやっと会えた人が何人かいる。結構、いい人だったりするのだけど...
夕方に訪問しても留守だから夜に訪問すると、「こんな遅い時間に来やがって!」と怒鳴られる程度のことは当たり前。
特に、女性調査員はなめられるようだ。夜な夜な涙を浮かべて国勢調査バッグをもって歩いているおばさんに声をかけると、こちらは頷くだけで何も言えなかった。お互いに愚痴を言い合うだけでも救われるのだけど。仮に、ガッチリした体格で、ヤクザ風の国勢調査員が訪問したら、同じ態度でいられるのか?防犯グッズには、そうした用心棒グッズを配布した方がよかろう...
世間体では良い人でも、誰も見ていなければ豹変する人は少なくない。日本社会は、まったく村社会だということを改めて認識させられた。知ってたけど。いや、村八分社会か。知ってたけど...
配布も大変だが、回収はもっと、ずっと、はるかに大変!
あからさまに居留守を使っている人も珍しくない。高年の調査員ともなると、インターネット回答の仕組みなんて分かるわけがないと思われ、却っていい口実にされる。実は、インターネットで回答すれば、リアルタイムで丸見えなんだけど...
おいらの担当地区は一戸建てが多く、行儀のいい人ばかりで、比較的苦労は少なかったが、それでも回答意志のまったくない人は、どの地区にもいる。調査項目には、「回答意志の有無」というのも加えてもらいたい。意志のない人を動かそうとは思わないし、堂々と意志がないことを表明させればいい。そういう人ほど、回答意思はあるようなことを匂わせて言い訳めいたことを言うのだろうけど...
何回訪問してダメなら通知のビラを配り、さらに、至急通知と調査票の再配布などと、手順作りをやってる場合ではない。ボランティアだって、そんなことに付き合っている暇はない!中には、やったことにしている調査員もいるのでは?実際、そんな誘惑にも駆られる。真面目にやる人ほど馬鹿を見るのが人間社会というものか。知ってたけど...
4. インターネット回答でもトラブルあり...
インターネットで回答したという方でも結果に反映されていないケースがあった。最後の送信まで到達していなくても、完了したと思っているかもしれない。実際、送信ボタンで画面が固まったというユーザ報告もある。
せめて、ログインした時間ぐらいの履歴情報は欲しい。でないと、説得できない。いい人だったので再ログインをお願いし、それで完了してくれた。
そもそも、行政機関のサイトを信用していない人が多い現状がある。どんなに使いやすくても完璧なシステムなんてありえないし、回答完結の情報だけではあまりにショボい。せっかくの電子化、システムに有用な履歴情報を組み込むことぐらいは、そう難しくはあるまい...
5. 回答期限延長で、さらに荒れ狂う...
当初、回答期限は 10/7 であったが、回答率が低いということで、10/20 まで延長された。それで、期限延長の知らせが調査員にまったくないとは、どういうわけか?テレビや新聞で宣伝されているとはいえ。おいらはネットで知ったが、他の調査員に教えてもオオカミ少年扱い。いくらなんでも本部から連絡があるだろう、って。そりゃそうだろう。おいらも、総務省のサイトを疑ったぐらいだ。回答期限も正確に知らないのは、国勢調査員を名乗る詐欺か!と罵倒もされる。前から鉄砲で撃たれ、後ろからも撃たれている気分。回答意志のある人は、たいてい期限を守るか、少し遅れるぐらいなもの。むしろ、回答意志のない人に口実を与えている。
さらに、10/7 時点の回答状況確認表が 10/9 の金曜日に郵送されてきたが、郵送回答があまりに少ない。しかも、まさか!この人が回答してない?という名が、ずらりと挙がってきていない。インターネット回答は即反映されていて、ほとんどの人がインターネットで回答したことになっている。
回答率の最初の速報が、50%台。8日の時点で約 68%。よそは大変だなぁ... と眺めていたが、他人事ではなかった。
調査員は土日が勝負!
さっそく翌日から訪問して当たりをつけてみたところ、感触ではポスト投函から 5日ぐらいのディレイがありそうだった。最初の締切 10/7 から 5日ほど遡ると、10/2 になるが、それが本当だとすれば、まったく使い物にならないレベル。いや、むしろ混乱させる情報だ。おかげで、調査員たちは怒られまくり。
さっそく月曜日に本部へ赴き最新情報を要求したら、各担当区の指導員がネットからアクセスできる QR コードを持っていることを知り、これに救われた。本部の方々は地方公務員で、総務省からの命令でやっているだけであろうから、文句を言うのも気の毒。せめて現場の状況報告を上げるよう文書でお願いして、おしまい...
6. そして、帰結...
人生は短い!興味のないことに付き合っている暇はない。
そもそも、おいらは人間嫌い!調査資料の整理も終わったことだし、人間関係の整理でもやるかぁ...
2020-10-25
"獄中からの手紙" Mohandas Karamchand Gandhi 著
実際主義の流れを汲む中に、ガンディーを嫌う人は思いのほか多い。歴史を振り返れば、理想主義が現実社会を破壊した事例はわんさとあるし、平和主義者の理念が国家主義者の横暴を許し、戦争を招き入れた事例も少なくない。
「マハートマ(偉大なる魂)」の称号を持つこの人物はというと、確かに理想高すぎ感はある。が、夢想家と呼ぶ気にはなれない。「塩の行進」や「糸車で紡ぐ」などの日常生活に根ざした民衆運動は、近年の市民運動にも通ずるものがある。宗派や人種を超えた象徴として...
ただ、非暴力運動の実践となると、人類はまだまだ若すぎると見える。おいらは、この人物が好きでも嫌いでもない。ただ、尊敬はできても、生き方が合わないという人はいる。それも、まったく敵わないと、心の中で白旗を上げている。そして、ガンディーのものとされる、この言葉が好きなだけだ。
"Live as if you were to die tomorrow.
Learn as if you were to live forever."
「明日死ぬと思って生きよ。不老不死だと思って学べ。」
実は、この言葉を拾うために本書を手に取ったのだが、合致するものに巡り合うことはできなかった。邦訳版だからなんとも言えないけど。それでも、この言葉の哲学は充分に味わえる。
ちなみに、おいらは言葉を追い求める夢想家だ。その証拠に、未だハーレムという言葉に救いを求めている。未練は男の甲斐性よ...
1930年、ガンディーはヤラヴァーダー中央刑務所に収監された。彼は、アーシュラム(修道場)の弟子たちに宛てて一週間ごとに手紙を送ったという。厳粛なる道徳的観点からの戒律を。牢獄の時間は、哲学原理を沈黙思考するには貴重な時間だったと見える。
おいらは、戒律ってやつが大の苦手ときた。抑圧的で説教じみていて、なにより息苦しい。だがここに、そんな感覚はない。それは、真理を第一のものと位置づけているからであろう。真理は実在に由来するという。神は真理なり、というよりは、真理こそが神。真理を探求し続けることこそ、修行の道というわけである。
しかしながら、真理ってやつが本当に存在するのかも、よう分からん。この酔いどれ天の邪鬼には、単なる認識の産物ではないかとさえ思える。それでも、宗教が唱える神の存在を信じるよりは、真理の存在を信じる方がはるかにましか...
尚、森本達雄訳版(岩波文庫)を手に取る。
「最高の真理は、それ自体で存在するのです。真理は目的であり、愛はそこに至る手段(みち)です。わたしたちは、愛の法(のり)に従うのは容易ではないことを承知していますが、愛すなわち非暴力とは何か、については知っています。しかし真理については、その断片を知るのみです。完全に真理について知ることは、完全に非暴力を実践するのと同様、人間には成しがたい業です。」
1. 宗教家か、政治家か...
ガンディーは、宗教家であったのか、政治家であったのか。真理の探求者が、なにゆえ政治なんぞに深く関わったのか。彼の生きた時代は、イギリス帝国主義からの独立を経て、インドとパキスタンが分離独立に至った激動期。時代が使命感を駆り立て、政治へと向かわせたのか。プラトンは、哲学者による統治という理想国家像を描いて魅せたが、これに通ずるものを感じる。
力なき者が巨大な国家を相手取るには、ゲリラ戦の様相を呈する。民衆運動という集団戦術によって。ガンディーは、弱者の非暴力ではなく勇者の非暴力を唱え、不服従運動を人間の誇りの運動に位置づける。そのために、真理の哲学を用いたというわけか。
しかしながら、真理ってやつは意外と脆い。なにしろ、真理めいたものはすぐに見えても、本当の真理はなかなか姿を見せてくれないのだから。
なるほど、真理は神に似ている。ただ人間ってやつは、神の存在を強烈に意識し、それを恐れても、真理の存在はあまり意識せず、恐れることもあまりない。
古来、宗教と政治は両立しうるかという問題がある。今日、政教分離の原則が声高に唱えられるが、ガンディーは、宗教なくして政治はありえないという立場で、道徳性や精神性の欠いた政治は避けるべきだとしている。
彼の言う宗教とは、互いにいがみ合うような盲目的な信仰ではなく、寛容の精神に基づくような普遍宗教のこと。その意味で、真理の探求者もまた宗教家ということになろうか。いや、信念を持ち続けることができれば、誰もが宗教家なのやもしれん。ガンディーは、世界宗教なるものを夢見ていたのだろうか...
「すべての宗教は、聖なる霊に触発されて生まれたものですが、それらは人間の精神の所産であり、人間によって説かれたものですから、不完全です。一なる完全な宗教は、いっさいの言語を超えたものです。ところが不完全な人間が、それを自分に駆使できる言語で語り、その言葉がまた、同じ不完全な他の人びとによって解釈されるのです。いずれの人の解釈が正当だと主張できましょうか...」
2. インド的な戒律
身分制度の歴史は、どこの地域にも見られるが、現在でも色濃く残るものとしては、カースト制度が挙げられる。法律でいくら規定しても、慣習の力は強すぎるほどに強い。ガンディーは、不可触民制の撤廃を強く唱える。特定の身分や家柄の生まれというだけで、その人々に触れると穢れるなどと考えることは理不尽きわまる、このような制度は、社会の癌!宗教を装いながら宗教を堕落させている!と...
また、スワデシーという国産品愛用の呼びかけも、インド的。暑いインドでは、塩は特に重要。海岸線や山中からも採取できる自然の贈り物に対して、外国政府が管理し、課税するとはどういうわけか。
さらに、伝統的な紡績産業に目を向け、国産品に愛着を持つという運動で「塩」や「糸」がシンボルとなる。
但し、こうした運動は、外国人に悪意を抱くことでも、憎悪崇拝でもないとしている。
しかしながら、凡人は、こうしたことで愛国主義を旺盛にしていくもので、海外製品のボイコット運動を引き金に、外国人排斥運動を激化させていく。製造品が、そのまま人種や民族と結びついて...
それは、21世紀の現在とて同じ。ただ現在は、まだ救われているかもしれない。自国製品や自国企業が、もはや自国のものではないことを多くの人が知っている。外国製品をボイコットすれば、自分の首を絞めてしまうことを。
とはいえ、グローバリズムを旺盛にすれば、同時にナショナリズムを旺盛にさせ、社会はますます二極化していく。人間社会で中庸を生きることは、よほどの修行がいると見える...
3. 人間は生まれつき盗っ人か...
不服従運動に執心するガンディーの姿は、みすぼらしい。彼は、不盗の戒律を唱えているが、それは、人の持ち物を盗んではならないという社会常識を説いているような、ちっぽけな話ではない。まず、地上で生存するためには、衣食住のすべてが何らかの形で自然の恩恵を受けている、と考える。
そして、生活に必要以上の広大な土地を所有しているとしたら、その日の糧を得なければならない人から自然の恵みを略奪していることに... 食べきれないほどのご馳走をテーブルに並べ、食べ残して捨てているとしたら、飢えている人から食べ物を横領していることに... といった論理を働かせて、不盗の戒律を無所有の精神と結びつける。必要以上を求めない、パンのための労働を、と。必要以上に所有しない、自己放擲と犠牲の精神を、と。
しかしながら、必要以上とは、どの程度をいうのであろう。ここが凡人の解釈と分かれるところ。自己放擲や犠牲にしても、凡人は自己満足で終わる。事業で大成功し大金持ちになった人が、私的な慈善団体を設立するのも、必要以上に儲けてきたことへの償いであろうか。いや、貧乏人にだって、憐れみの情念はある。
人間はみな幸福を願って生きている。しかし、幸福が誰かの犠牲の上に成り立っているとしたら、豊かさが誰かの犠牲の上に成り立っているとしたら、そんなことを素直に願うことができようか... これが、ガンディーの問い掛けである。
さて、自分の欲望とどう向き合うか。主犯格は嗜欲か。死を運命づけられた人間にとって、人間目的がはっきりしないのは実にありがたい。謙虚な人ほど自らの謙虚さを意識せず、大層な目的を知らないことも素直に認め、自然に振る舞えるものなのかもしれん...


