Contents

2024-12-29

"近代人の誕生 - フランス民衆社会と習俗の文明化" Robert Muchembled 著

近代人とは何者か。それは、ひとつの理想像か。それとも、時代の人間像を映し出した表語に過ぎないのか。
大酒を喰らって淫蕩に耽り、暴力と不潔の代名詞とされてきた民衆が、十五世紀から十八世紀の約四百年に渡って近代文明とやらを育んできた。歴史学者ロベール・ミュシャンブレッドは、人類の近代化に至る生い立ちを、フランスの民衆社会から紐解く...
尚、石井洋二郎訳版(筑摩書房)を手に取る。

「充分に意識していようといまいと、人間の個人的人格というのはいくつもの異なる時代から受け継がれた多様な集合的寄与物の組み合わせである。」

近代文明とは、大衆文化をいうのであろうか。「大衆」という語がいつごろ生まれたかは知らんが、ひとつの人間像として、自由の象徴とされるフランス革命あたりに見ることはできそうか。かくして、エリートが大衆化していくのか、大衆がエリート化していくのか...

「私たちは何者なのか?... 執拗に、また時には人知れずこっそりと、歴史家は自分自身にきわめて密接に関わるこの一般的な問いかけを発してはくりかえす。」

「近代」という語も、定義が難しい。封建的な価値観が崩壊し、個人主義に彩られた合理的、科学的思考を覚醒させた時代といったイメージであろうか。
一つの見方として、市民革命や国民国家といったものを挙げることができよう。王権が衰退し、いよいよ主権国家の成立を見る時代。それを内面的に辿ると、王宮のマナーモデルがまずは都市部へ伝搬し、やがて農村部へ徐々に浸透し、社会全体がお行儀よくなっていく。
モンテスキューの三権分立論、ヴォルテールの寛容論、ルソーの社会契約説といった啓蒙思想と重なり、道徳や正義の観念が強調され、自己抑制の意識を強めていく。それは、民衆が知性を獲得していった時代であろうか。
仮に、近代人が内面的に大きく進歩した人類の姿であるとするなら、やがて出現する国粋主義や帝国主義、さらには過去に類を見ない大量殺戮といった現象をどう説明できるだろう...

「習俗の文明化は差異化をめざすものでり、均質化をめざすものではない。その本質的な機能は、絶対主義をあいだにはさんで経済から宗教にいたるまで、他のさまざまな力が十七・十八世紀にますます厳密に画定しつつあった社会階層秩序を有効化することであった。」

上流への強い憧れは、下流への劣等感を掻き立てる。自由競争社会ともなれば、経済的に、学識的に優越主義を旺盛にさせる。階級のない社会を目指しておきながら、新たな階級を編み出しては再編成されるという寸法よ。近代の経済発展が、こうした競争原理に支えられてきたのも事実。

では、近代人を受け継いだ現代人は、どうであろう。情報社会が高度化していくと、知識は誰にでも入手できるようになる。意欲のある者はますます知識を獲得し、意欲のない者はますます取り残され、意識格差を助長させる。おまけに、現代の大衆はメディアとの結びつきが強く、ネット上には理性の検閲官に溢れ、誹謗中傷の嵐が吹き荒れる。周りの意識が高まれば、周りの目が気になってしょうがない。自由意志の尊重が、逆に自由精神を圧迫しようとは。人類の進化の過程は、単純な右肩上がりではなさそうだ。「近代人」という語が、過去を懐かしむための語とならぬよう...

2024-12-22

"空白との契約" Stanley Ellin 著

ミステリーっぽくないミステリーで魅了する推理作家というのも珍しい。人間模様こそミステリーと言わんばかりに...
しかし、ここでは一変して、ミステリーっぽいミステリーにしてやられる。スタンリイ・エリンという人は、やはり推理作家であったか...

ある日、一人の男が自動車事故で死んだ。十万ドルの生命保険契約直後に。事故死であれば倍の二十万ドルが遺族に入る。これを自殺と見た私立探偵は、無名女優と夫婦役を演じて現地に乗り込む。男は裕福で地位もあり、社会貢献も献身的で人望を集め、非の打ち所のない人物。
だが、過去の経歴となるとあまりに不明点が多い。しかも、巨額の金を恐喝されていた。この男はどこから来たのか?その正体は?
尚、皆藤幸蔵訳版(ハヤカワ・ミステリ文庫)を手に取る。

原題 "The Man from Nowhere"... これに「空白との契約」という邦題を与えたセンスもなかなか...
ミステリーとしては事故死した男の正体も気になるところだが、物語性としては調査員がフリーランスであることが重要な要素となっている。フリーの調査は、怪しい点を暴き、それを証明できれば謝礼金がもらえる。誰にも雇われておらず、調査費はすべて自前。自殺だと確信したところで、それが証明できなければ、すべてが無意味となる。存在するかしないか、まったく空白のような契約の中で葛藤する私立探偵の人間模様が、このミステリーを成り立たせている。

契約とは、冷徹なもの。明文化した仔細どおりに動くだけ。無名女優との契約もその一つ。冷たい契約関係でのみ生きてきた人間は、そこに契約以上のもの、人間味ある暖かさのようなものが入り込んできた時、どうなっていくか。契約という拠り所を失い、人格までも崩壊させていくのか。
したがって、契約書には契約が破綻した時までもきちんと文書化し、あらゆる状況を網羅しておきましょう... ってかぁ。なるほど、アメリカは契約社会だ!

ここで男の正体について、キーワードを拾っておこう...
事故については... 路面にブレーキ痕なし。解剖で麻薬やアルコールの検出なし。自動車に機械的な欠陥なし。運転中に失神したか、居眠りしたか。過去に失神した経歴はなく、精神病患者でもない。居眠りは証明が難しい。あとは、自殺する確固たる理由は...
男の過去については... 殺人犯か、カストロの自由戦士か、潜水艦で派遣されたナチの破壊工作員か...
うん~... こうした要素だけでは、平凡なミステリーで終わっていたであろう...

2024-12-15

"闇に踊れ!" Stanley Ellin 著

原題 "The Dark Fantastic"... これを「闇に踊れ!」とする翻訳センスはなかなか。人間なんてものは、誰もが社会という名の闇で踊らされる、そんな存在やもしれん。
スタンリイ・エリンといえば、短編「特別料理」の薄気味悪い後味が残ったまま。ここでも、死神に取り憑かれた不気味さを醸し出す。それにしても、これは本当に推理小説であろうか。うん~... 人間模様は、まさにサスペンス!
尚、安倍昭至訳版(創元推理文庫)を手に取る。

「わたしの名はカーワン、六十八歳。白人、男性、引退した歴史学準教授。今、テープレコーダーに向かって語りかけている。わたしは末期的な肺癌患者、余命は数ヶ月。だが、その数ヶ月を約三週間に縮めようとしている。少なくとも六十人の命を道連れに...」

本書には、二つの物語が交錯する。
一つは、ニューヨークに住む年老いた男の独白。親から授かった格式高い屋敷に一人暮らし。隣には親父が建てた古いアパート。住人はユダヤ人夫婦以外はみな黒人。快く思っていない住人どもへの嫌みのオンパレードとくれば、自分と共にアパートを木っ端微塵にする計画を立てる。その仔細をテープレコーダーに録音中!
二つは、私立探偵のイタリア系白人のエピソード。盗難された絵画を取り戻すよう依頼を受け、画廊に接近する。その画廊で働く美人黒人が、一つ目の物語のアパートにかつて住んでいたとさ...

「迫りくる死を告げられたときに人間が示す最初の反応がいかなるものであろうとも、やがてその死の告知は完全に自由な人間にすることを、わたしは知ったからである。奇跡的な状態。そしてわたしはその奇跡の生き証人なのだ。最初はショックと恐怖、次に苦い悔恨。それから、信じられないことに、自由の実感。自由を味わえる喜び...」

この作品は当初、出版拒否されたそうな。なるほど、差別的な表現がえげつない。爆破計画にしても、犯罪の手本になりそうな。おまけに、自爆テロときた!
30% のニトログリセリンに、50% の硝酸ナトリウムに、炭素燃料からなるダイナマイト 72 本とくれば、雷管は市販の雷酸水銀。起爆装置は把手式の電気スパーク。緻密な計算によれば、建物の壁はすべて内側に崩れ落ちるとさ...

「二十人までは通らせよ、二十一人目に石を投げよ。愛でなく、憎しみでなく、ただの運命なり...」

この叙述の奇妙な現実感は、なんであろう。断じて復讐などではない。
では、なんなんだ?社会への苦言か。未来への警告か。それとも、破滅型人間のなせる業か。いや、新時代を画策する歴史的大事業だとさ。
イタリア系にも、ユダヤ系にも、シシリーの末裔にも、ゲットーの末裔にも憎悪を抱く。社会には貪欲なブローカーどもが暗躍し、偽善家センチメンタリストが打ち立てた法律なんぞになんの意味が。内心では外を歩くのさえ怖がっているのに、汝の隣人を愛せよ!とは片腹痛い。臆病と日和見主義に毒された者ども、みな自分ともども死刑だ!最後の審判が下る前に...

「ソクラテス的様態。親愛なる故ソクラテスに一言。汝は堕落の代理人なり。親愛なる独善的リベラリストの愚者と、ブランガの栄光のため社会改良制度にひたむきに貢献した愚者にも一言。われわれを取り巻く荒廃はすべて汝らがもたらした荒廃である。わたしの大事業もまた荒廃を一つ残すだろう...」

歪んだ正義感、独り善がりな使命感とやらは、ある種のイデオロギー、価値観、倫理観、世界観から生じる。そして、狂った世を道連れにせずにはいられない。表現主義に覆われた社会では、正義をまとった誹謗中傷の嵐が荒れ狂う。論理主義が言い訳を巧みにし、支離滅裂な言葉を浴びせかければ、まさに言葉遊び。そもそも、小説を書くことが言葉遊び。
しかしながら、どんな言葉遊びも、最期の叙述となると神聖なものとなる。臨終の言葉とは、そうしたもの。だから人は最期に告白文を書きたがるのか。狂人の書いた名文なんぞ、ポイ!

「これからの叙述は完全なる理性的精神の証拠に... 最も頭の鈍い精神科の藪医者でさえその頭に詰め込む必要のある証拠に... いかなる法定にも、この大事業を常軌を逸した行為と断じさせないだけの証拠に... 証拠???

2024-12-08

"背徳者" André Gide 著

福音書に愛想を尽かされた人間の物語とは、こういうのを言うのであろうか...
「狭き門より入れ!(前記事)」の訓示に逆らい、異常な情熱をもって学術研究に消磨してきた青年学者。彼が肺結核を患い、死の淵から蘇って見えてきたものとは...
尚、川口篤訳版(岩波文庫)を手に取る。

生きるということを、どう解釈するか。その答えを神学者に求めたところで、死後の世界を提示するだけ。天国に行きたければ... と。哲学者に求めても... 理論哲学者は面倒な現実から目を背け、数理哲学者は自己存在に関わる様々な量の計算に耽り、あとはニーチェ風に生き様を冷笑するか、パスカル風に死に様を見下すか。学者馬鹿ってやつは、平凡な馬鹿よりもタチが悪いと見える。それで背徳者に成り下がってりゃ、世話ない...

「僕は... 僕はただ話したいのだ。自由を得る道などは問題ではない。困難なのは自由に処する道だ。」

死にかけた父に促され、愛してもいない女性と結婚するも、その妻には看病の重荷を背負わせる。病気が回復に向かうや生の喜びに浸り、幼き頃から叩き込まれてきたキリスト教の訓示に背いて享楽に走る。すると今度は、その生活ぶりが妻に負担をかけ、とうとう瀕死の状態に。男は看病の末に、妻の死という重荷を背負う。

人間は自由を求めてやまない。境遇が過酷であれば尚更...
しかし、自由とはなんであろう。贅沢三昧な生活が自己を破滅にかかる。宗教に縋ったところで、現実逃避に救いを求めるばかり。哲学に目覚めたところで、自己破滅型人間を助長させるばかり。それで何が会得できるというのか。雄弁に、抗弁に、詭弁に、論弁に、屁理屈弁に... 言い訳の技術を磨いていくばかり。人生とは、自己に何か言い聞かせながら生きていく、ただそれだけのことやもしれん...

「死ぬほどの病苦に悩んだものにとって、遅々たる回復ほどみじめなものはない。一度死の翼に触れられたあとは、かつて重要に思われたものも、もう重要ではなくなる。重要らしく見えなかったもの、あるいは存在さえ知らなかったものが、かえって重要になって来る。われわれの頭に積み重ねた既得の知識は、白粉のように剥げ落ちて、ところどころに生地、つまり隠れていた正体がむき出しに見えて来る。」

幸福なんてものは、平穏で淡々としたもの。これについて語ることは難しい。人間の語るに足る所業は苦痛しかないのか。無論、幸福な人間には語れまい。自分の不幸を愛し、舐めるように語る。そこに第三者として自我が介入し、自己を審判にかける。病的な性癖を自ら語るのは難しい。自由な語りには、これを統制し、調和する知的努力が欠かせない。だが、その努力も強い野望をともなわなければ...

「私は、この書を告訴状とも弁護論ともしようとしたのではない。... (中略)... 勝利も敗北も明白に提示していない。... (中略)... 要するに、私は何物も証明しようとしたのではない。よく描き、描き上げたものをよく照らし出そうとしたのである。」

2024-12-01

"狭き門" André Gide 著

ルカ伝第十三章二十四節、及び、マタイ伝第七章十三節に曰く...
「力を尽くして狭き門より入れ。滅びにいたる門は大きく、その路は広く、之より入る者おおし。生命にいたる門は狭く、その路は細く、之を見いだす者すくなし。」

父を早く亡くし、母の悲劇にも触れ、感受性を強めていく少年ジェローム。彼は叔母の家に身を寄せ、従姉妹アリサとジュリエットと一緒に過ごすことに。やがて年上のアリサに恋心を抱く。アリサもジェロームに好意的だが、妹ジュリエットもジェロームに恋する。キリスト教が理想とする禁欲的な世界に憧れるアリサは、妹への遠慮もあって結婚を拒み続ける。ジュリエットが身を引いても気持ちは変わらず。アリサは地上の幸福を放棄し、天上の幸福を夢見て命を落とす。ジェロームは、アリサの遺した日記の思いを背負って生きていくことに...
尚、山内義雄訳版(新潮文庫)を手に取る。

「今の曲をもう一度!滅入っていくような調べだった。まるで菫の咲いている土手を、その花の香をとったりやったりして、吹き通っている懐かしい南風のように、わしの耳には聞こえた。もうたくさん...。よしてくれ。もうさっきほどに懐かしくない。」
... シェイクスピア

幸福の感じ方は人それぞれ。自分の辛苦に対する対価として味わう者もいれば、幸せを演じ、それを人に見せつけることによって味わう者もいる。
幸福とは、滅びへの序章か。自己嫌悪も、自己憐憫も、自己愛の類い。愛とは、滅びへの道しるべか。
恋ってやつは、成就した途端に幻滅する。ならば、あえて成就させず、美しいままにしておく方がいい。いや、幻滅して現実を知る方がましか。不幸を知らずして、幸福を知ることも叶うまい...

「自ら進んで引かれるままになっているときには、人は束縛を感じません。しかし、それにあらがい、遠ざかろうとするとき、はじめて激しい苦しみを感じます。」

狭き門とは、自己犠牲の徳を言うのであろうか。アリサは、殉教者か、解脱者か。
自虐によって、自己を正当化することもできよう。自己を不幸のヒロインに仕立て、純粋なままに死んでいくのもよかろう。そして、その生き様を、その死に様を、ニーチェ風に忌まわしく眺めるもよし、パスカル風に皮肉交じりに見下すもよし。いずれにせよ、人の生き方なんて、いかようにも解釈できる。ジャック・リヴィエールは、この本をこう評したそうな...

「これについては語りたくないほどな書物、読んだことさえ人に話したくないほどな書物、あまりに純粋であり、なめらかなるがゆえに、どう語っていいかわからないほどな作品。これこそまさに一息に読まれることを必要とする作品。愛をもって、涙をもって、ちょうどアリサがある美しい日に、ぐったりと椅子に腰をおろして読むように...」

2024-11-24

"田園交響楽" André Gide 著

ベートーヴェンは、五つの楽章を通して田舎の風景を記した。「田園における楽しき心の目覚め」、「小川のほとりの景色」、「田舎人の歓会」、「雷雨、嵐」、「嵐のあとの喜びと感謝」と...
こうした風景は、盲人にはどのように見えるのだろう。目が見えなければ色が分からない。だが、音楽には音色(ねいろ)というのがある。金管楽器、弦楽器、木管楽器... それぞれに固有の音色を放つ。色が光の波長なら、音色もまた音の波長。波打つものは互いに干渉し、共鳴し合う。そして、会話で交わされる比喩の共鳴が、音色を確かなものに...
尚、川口篤訳版(岩波文庫)を手に取る。

物語は、白痴で盲目の美少女に出逢った牧師が、神から義務を授かったと、彼女を連れ帰ったことに始まる。
しかし、牧師には妻と息子がいた。実の家族以上に愛情を注いで彼女を教育していくうちに、聖職者が信奉する博愛は異性への愛へ。いや、最初から下心があったのやもしれん。男の本能が、義務と偽らせて...
牧師の息子も彼女に惹かれていく。こちらはまともな愛か。いや、平凡な。だが、牧師は息子の愛をも遠ざける。
愛は人を盲目にさせるというが、どうやら本当らしい。身体的な盲目と精神的な盲目とでは、どちらが不幸か。マタイの福音書は告げる... 盲人を導く盲人よ。そんな輩は捨ておけ!盲人もし盲人を導かば、二人とも穴に落ちん!

やがて、盲目の少女は視力回復手術を受ける。彼女が見たものは... そのために自殺を図り、一度は命をとりとめるも...
おそらく、盲人にしか見えないものがあるのだろう。不幸な境遇を知る人にしか見えない幸福があるように。真理を見るには資格がいるらしい。
悲しいことに、幸福を素直に喜べない不器用な人たちがいる。純真無垢な人間が自分の存在位置を知ったら、それは罪か。
自分のために苦しんでいる人たちがいる。それを知ってしまったら、罪を感じなければならないのか。神は無情だ!いや、神の声を代弁する聖職者はただの生殖者であった、というだけのことやもしれん...

2024-11-17

"ビジョナリー・カンパニー ZERO" Jim Collins, William Lazier 著

「ビジョナリー・カンパニー」シリーズに出会ったのは、二十年以上前になろうか。「時代を超える生存の原則」、「飛躍の法則」、「自分の意志で...」と、いまだ本棚の隅っこで存在感を示してやがる。さすがに再読する気にはなれないが、ゼロを目にすれば回帰せずにはいられない。
相変わらず、教訓めいたフレーズのオンパレード!今更感が漂いつつも、またもやジム・コリンズにしてやられる...
尚、土方奈美訳版(日経BP)を手に取る。

「価値観から始まり、常に価値観に立ち戻る。」

「偉大な企業という目的地があるわけではない。ひたすら成長と改善を積み重ねていく、長く困難で苦しい道のりだ。」

「企業が追跡すべきもっとも重要な指標は、売上高や利益、資本収益率やキャッシュフローではない。」

「正しい事業のアイデアより、正しい人材のほうがはるかに重要だ。」

「リーダーシップとは、サイエンス(理屈)ではなくアート(技能)だ。」

「起業家の成功は『何をするか』ではなく、『何者であるか』によって決まる。」

副題に「ゼロから事業を生み出し、偉大で永続的な企業になる」とある。
しかし、だ。力量の遠く及ばない凡人がビジネス上の大成功物語を夢見ても詮無きこと。そもそも、ゼロから始める必要もなければ、偉大になりたいわけでもない。
それでも、自分が大切なものを知らないまま生きているのではないか、という不安感を少しばかり鎮めてくれる。自分の生き方に誇りを持ち、最期に有意義な人生であったと思えれば、それが幸せというものか。ビジネスがギャンブルなら、人生もまたギャンブル!それで、自分の価値観や世界観は人生を賭けるに値するか、などと自問してりゃ世話ない...

「根本的問いは『あなたが達成しようとしているビジョンは何か』だ。」
... 心理学者アブラハム・マズロー

ところで、企業の意義とはなんであろう。そこに所属する意義とはなんであろう。生活費のためというのは避けられない。だが、それだけでは寂しい。古代の叙事詩人ヘーシオドスが唱えたように仕事は人生と直結する。
そして企業は、人生観を体現する場ともなりうる。にもかかわらず、経済学者や金融アナリストたちは、効用最大化といった概念を崇めすぎる感がある。
本書はまず、人生哲学における価値観やビジョンといったものを掲げる。逆に言えば、価値観やビジョンに共感できなければ、関係を持つ意味を失うことになる。しかも、成長が良いものとは限らない。現実に、急成長が後に望ましくない結果を生み出すこともある。永続的であろうとすれば、問題とすべきは成長の中身!こうした視点は、このレトロな書が今更感を吹っ飛ばしてくれる...

「大多数の人は良い仕事をしたいと思っている。誇りを持てる事業に参画したいと願っている。困難な仕事に挑戦し、自分の力を証明する機会を欲しがっている。仲間に頼りにされれば、応えようとする。敬意をもって扱われれば、並外れた仕事をやってのける。」

「企業を利益という観点から定義すると、説明することはできない。(中略)利益最大化という概念は実のところ、無意味である。(中略)企業を評価する第一の指標は、利益を最大化しているか否かではなく、経済活動のリスクをカバーするのに十分な利益を生み出しているかだ。」
... ピーター・F・ドラッカー

2024-11-10

"専門家の予測はサルにも劣る" Dan Gardner 著

ダン・ガードナーという人は、なかなか挑発的なタイトルを掲げる。証券アナリストに対しても、似た表現を見かけるけど...
しかし、賢い専門家もいる。健全な懐疑心を持ち合わせ、無知の原理を心得た専門家もいる。本書の対象は、メディアで露出度の高い専門家だ。有名になればなるほど予測が当てにならないとは、これいかに...
はずしてばかりでは自然消滅しそうなもの。ところが、こと予測の世界ではそうはならない。自信満々に主張するからこそ視聴者は耳を傾け、格好よく断言するからこそ人は信用する。彼らはよく間違えるが、決して曖昧なことは言わない。要するに、当たろうが、はずれようが、どうでもいいってことだ。
聞き手はというと、同調する意見を自信満々に発言してくれれば、それで心地よくなれる。たとえ反対意見でも攻撃対象にすれば、それで心地よくなれる。メディアは視聴率が上がれば、それでいい。そもそもメディアとは、そうしたものだ。
もはや正しい予測は無用!正しく判断できれば、それでいい。だが、それが一番の難題!正しく予測する以上に...
尚、川添節子訳版(飛鳥新社)を手に取る。

「科学の最も重要な産物は知識である。しかし、知識の最も重要な産物は無知である。」
... 理論物理学者デイヴィッド・グロス

わずかでも合理的な懐疑心があれば、占星術や迷信の類いを信じたりはしないだろう。だが、専門家ってやつは優秀で知識の豊富な人種で、その思考法も合理的。少なくとも、そう見える。
聞き手も、正しいことを信じるのではなく、信じたいことを信じる。分かりやすく、ドラマチックな物語に惹かれる。おまけに、何もないところにパターンを見つけ、無作為な結果に意味を与えようとする。いくら自己欺瞞に満ちていようが...
こうした性質は、おそらく本能的なもので自己存在とも深く関わるのであろう。それは、自分の人生に意味を与えようとするのと、同じことやもしれん...

「どのようなケースでも必ず、賛成する理由と反対する理由があり、つまり、どちらを選択してもその反対理由を押し切って選んだことになる。こうなると不協和が生じるため、自分の結論に賛成する要素を過大に評価し、反対する方を小さく見ることで合理化しようとする。」

人間の認知能力には、必ずバイアスがかかる。確証バイアスに、現状維持バイアスに、後知恵バイアスに、ネガティビティバイアスに、利用可能性ヒューリスティックに... 枚挙にいとまがない。それは、心理的に避けられない性癖だ。
政治家の世界では、正しさは重要ではない。重要なのは大衆を確信させること。メディアが欲しいのは正しい意見ではない。専門家の意見がニュースを作成する側と一致しないことは、よくある。どちらにも、どうせ大衆はすぐに忘れてくれる!という思惑が渦巻いている...

「人間は未来が見えないと、待つことしかできないという不安な状態になる。」
... 心理学者ダニエル・ギルバート

人間は、不確実性を嫌う。それは、不安感と同期するからであろう。したがって、あらゆる商売戦略で不安を煽る風潮がある。どんな結果であろうと、未来を予測し、それに対処し、安心を買いたい!ただ、それだけのこと。
しかし、この心理学を人間の愚かさと吐き捨てるわけにはいくまい。迷信や宗教を拒絶し、楽観論や陰謀論を受け入れず、メディアや専門家の意見までも認めないとすれば、あとは何が残るというのか。自己はそれほど信頼に値するのか。自分自身しか信じられないとしたら、それこそ危うい事態だ。
いや、心配はいらん。自己正当化のパターンはいくらでもある。それこそ人類の偉大な創造性であり、進化の産物である。そして、この皮肉に満ちた楽観主義の言葉で終えるとしよう...

「同志たちよ!社会主義の勝利は間違いない。マルクスは時期を外しただけなんだ!」

2024-11-03

"ホモ・ルーデンス - 人類文化と遊戯" Johan Huizinga 著

人類には、「ホモ・サピエンス」という呼び名がある。知恵ある人、賢者といった意味で...
しかしそれは、人類に相応しい呼び名であろうか。金融アナリストが練りに練ったポートフォリオは、おサルさんのダーツ並とくれば、超エリートがこしらえた政策立案はことごとく裏目。ノーベル賞級の経済学者が国際規模の経済危機に陥れ、国家を代表する政治家が政治不信を増幅させる。そればかりか、教育家が教養を偏重させ、愛国者が敵対心を煽り、聖職者が神を擬人化し、博愛者が愛を安っぽくさせる。お節介な有識者どもよ!なに故、こうも社会をいじりたがる。どうやら、そこには見えざる手が働くと見える。

ちなみに、アンリ・ベルクソンは「ホモ・ファベル」という呼び名を用いたそうな。作る人、創造者といった意味で。確かに人類には、そうした一面もある。だが、あらゆる創造性には、どこか心に余裕めいたものがなければ...
そこで、ヨハン・ホイジンガは「ホモ・ルーデンス」という呼び名を用いる。遊び心を持った人、遊戯人といった意味で。まさに遊び心から生まれた用語だ。彼は主張する。「人間は遊戯する存在である。先天的な模倣本能に從って...」と。そして、文化因子としての遊戯を問いながら、人間存在としての遊戯を問う...
尚、高橋英夫訳版(中央公論社)を手に取る。

「抽象観念なら、そのほとんど全部を否定し去ることも不可能ではない。正義、美、真理、善意、精神、神、何でもかまわない。また真面目、真摯というものを否定することもできる。だが、遊戯はそうはいかない...」

遊戯といっても、その定義となるとなかなか手ごわい。少なくとも、単なる遊びを超越している。単純な動機に発する衝動から、有り余る生命力の放出と解釈することもできよう。あるいは、緊張からの解放、克己や自制の訓練のための布石、有害な衝動を無害化する鎮静作用、さらに、自我の存在意義とその確認といった目的めいた解釈もできる。
しかしながら、遊戯の本質は、もっと単純で純真な人を夢中にさせる何か、ということになろうか。気まぐれは偉大だ。子供じみた本能に好奇心や興味といった情念があり、ひらめきや発明といったアイデアはここに発する。ワクワクするような雰囲気に包まれ、ささやかな秘め事を帯び、こうした感性こそ遊戯の源泉。日常や慣習から解き放たれ、もはや掟なんぞの及ぶ領域にない。
ちなみに、イギリスの諺に「好奇心は猫を殺す」というのがある。好奇心過ぎて身を滅ぼすといった意味で。御用心!御用心!

「遊戯とはあるはっきり定められた時間、空間の範囲内で行なわれる自発的な行為、もしくは活動である。それは自発的に受け入れた規則に從っている。その規則は一旦受け入れられた以上は絶対的拘束力を持っている。遊戯の目的は行為そのものの中にある。それは、緊張と歓びの感情を伴い、またこれは日常生活とは別のものだという意識に裏づけられている。」

人類は、長い年月をかけて文化を育み、言語を発明したおかげで、言葉と戯れる性癖を培った。言語によって成り立つ学問も、知と戯れる性癖の一つ。哲学対話も、科学論議も、政治論争も、社交遊戯の類い。
ホイジンガは、政治、法律、祭祀、芸術といったあらゆる文化的要素の源泉を遊戯に求め、人間の本質を遊戯で説明して魅せる。宗教の儀式もお祭りから、「政」の訓読みも「まつりごと」となれば、政治も遊戯。とはいえ、宗教的な残虐行為や戦争までも遊戯の延長とは...

ホイジンガは、ナチスがヨーロッパを席巻した過酷な時代を生きた。平然とやってのける残虐行為を目の当たりにすれば、すべてを道化の行為として説明せずにはいられないのだろう。競争や論争も遊戯の変形か。古代の戦争は、英雄伝を夢見ては名誉を競い合った。そうした競い合いも、互いに戯れ合う延長上にあったのかもしれない。好敵手という言葉もあるように...

だが、近代戦争は非人間化を加速させていく。政治も法律も硬直した理性に支配され、人間味が薄れていく。知性が豊かになると、理性も高まりそうなものだが、実のところ、理性の凶暴化が始まるのかもしれない。ソーシャルメディアには理性の管理人に溢れ、人間社会には誹謗中傷の嵐が吹き荒れる。エイプリルフール禁止令まで見かける始末。現代人は、遊び方を忘れちまったのか。理性の大衆化は滑稽だ。これぞホモ・ルーデンス!

そういえば、世阿弥の「風姿花伝」にも、滑稽が芸術の域に達する技芸が論じられていた。シェイクスピアの四代悲劇にしても、道化に真理を語らせる滑稽劇!滑稽こそ人間の本質か。そして、滑稽を高度に発達させた挙げ句に非人間化を成就させ、逆に、AI が人間化していくのやもしれん...

2024-10-27

"人間・この劇的なるもの" 福田恆存 著

人生とは、滑稽劇のようなもの。猿の仮面をかぶれば猿に、サラリーマンの仮面をかぶればサラリーマンに、エリートの仮面をかぶればエリートになりきり、セレブリティの仮面をかぶればセレブかぶれにもなる。あとは、幸運であればその流れに乗り、不運であればそれを糧とし、いかに達者を演じるか...
人生なんてものは、得体の知れぬ実存なだけに、こいつに意味を求めずにはいられない。それで、人生の意味を見つけたと信じて優越感に浸ってりゃ、世話ない。意識の権化はいずこに...

「自然のまゝに生きるといふ。だが、これほど誤解されたことばもない。もともと人間は自然のまゝに生きることを欲してゐないし、それに堪へられもしないのである。程度の差こそあれ、だれでもが、なにかの役割を演じたがつている。また演じてもゐる。たゞそれを意識してゐないだけだ。さういへば、多くのひとは反發を感じるであらう。芝居がゝった行為にたいする反感、さういふ感情はたしかに存在する。ひとびとはそこに虚偽を見る。だが、理由はかんたんだ。一口でいへば、芝居がへたなのである。」

自我の世界では、誰もが主役。だが、現実の世界では、誰もが主役を演じられるわけではないし、欲してもいない。主役でなければ生きる喜びが得られないわけでもない。それでも、何かを演じたがっている。その意識は、他人にも何かを演じさせなければ成り立つまい。
人間が欲しがっているのは、自己の自由ではないのか。ここでは、「自己の宿命」と表現される。自己の宿命を自覚した時のみ、自由感を味わえるものらしい。自己が居るべきところにある実感、それが宿命感というものらしい。
人は自由であることを信じる。幸福であると思い込む。そうやって現実と折り合いをつけ、自己を納得させながら生きている。成功しても、失敗しても、その結果を必然とし、自己を納得させる。それは、自己がそこに存在しているという実感が欲しいのか。これ以上の自己欺瞞はあるまい...

「人間存在そのものが、すでに二重性をもつてゐるのだ。人間はたゞ生きることを欲してゐるのではない。生の豊かさを欲してゐるのでもない。ひとは生きる。同時に、それを味はふこと、それを欲してゐる。現實の生活とはべつの次元に、意識の生活があるのだ。それに關らずには、いかなる人生論も幸福論もなりたゝぬ。」

自由は、個人主義との結びつきが強い。本書は、シェイクスピア劇の主人公に個人主義の限界を見る。かの四大悲劇を渡り歩けば、ハムレットの復讐劇に、マクベスの野望劇に、オセローの嫉妬劇に、老王の狂乱劇と動機は単純。だから設定を複雑にせずにはいられないのか。前戯好きにはたまらん。
ハムレットには、気高く生きよ!このままでいいのか?と問い詰められ、リア王には、道化でも演じていないと老いることも難しい!と教えられ、マクベスに至っては魔女どもの呪文にイチコロよ。
四大悲劇の魅力といえば、なんといっても道化が登場するところ。真理を語らせるには、この世から距離を置く者が説得力をもつ。人間が語ったところで、言葉を安っぽくさせるのがオチ。ハムレットやリアの主張を聞いたところで、作者自身の声は聞こえてこない。シェイクスピアはいずこに...

「シェイクスピアから私たちが受けとるものは、作者の精神でもなければ、主人公たちの主張でもない。シェイクスピアは私たちに、なにかを與へようとしてゐるのではなく、ひとつの世界に私たちを招き入れようとしてゐるのである。それが、劇といふものなのだ。それが、人間の生きかたといふものなのだ。」

シェイクスピアの個人主義の限界に自由の許容範囲を重ねると、まったく正反対にある全体主義が見えてくる。自由主義者は、全体主義を忌み嫌う。だが、全体主義とは、個人を生かすための集合体として結成される。そして、集合体が維持できなければ、奥深い無意識の中で自由が悪魔と結託して個人を抹殺にかかる。
それは、シェイクスピア劇が見事なほどに再現してやがる。全体主義は個人主義の帰結であり、その延長上にあるというわけか...

「自由が正義によつて合理化され、目的として追求されはじめたとき、生命力は希薄になる。いや、個人のうちに全體との默契を可能ならしめる生命力が希薄になるにしたがつて、ひとびとは無目的な自由を恐れはじめ、身を守るために、それに目的や名目を與へて、正義の座に祀り上げるのだ。さうすれば、さうするほど、この形式的な威嚴のうちに機械化された自由が、弱體化した生命力を締めつけてくる。個人を解放するための自由が、個性を扼殺するのだ。」

人々は、全体主義と同様に、死を忌み嫌う。だが、死を遠ざけることによって、生は弱体化していく。生の終わりを考慮しない思想や観念は、幸福をもたらさないばかりか、行き過ぎたヒューマニズムを煽る。せめて、劇の中で臨終体験を...

「生はかならず死によつてのみ正當化される。個人は、全體を、それが自己を滅ぼすものであるがゆゑに認めなければならない。それが劇といふものだ。そして、それが人間の生きかたなのである。人間はつねにさういふふうに生きてきたし、今後もさういふふうに生きつゞけるであらう。」

2024-10-20

"マイケル・ポランニー「暗黙知」と自由の哲学" 佐藤光 著

暗黙知 "Tacit Knowledge" という言葉に惹かれて...

「われわれは語るよりも多くのことを知ることができる。」

マイケル・ポランニーとは、どんな人物であろう。物理化学者と紹介されるが、経済論、知識論、宗教論、芸術論、神話論などと、その視界は広すぎるほどに広い。ナチズムからスターリン体制下のソ連時代という苦難の時代を生きたユダヤ系ハンガリー人ということもあって、様々な方面で考えを巡らさずにはいられなかったのであろう。人間社会ってやつは、自由主義に内包される責任に耐えられなくなると、権威主義や全体主義に傾倒していくらしい...

認識過程において、言語で表すこのできない領域がある。だが、哲学者や思想家たちは、言語による明証、説明、論証を最高の手段としてきた。客観性を熱く主張すれば、その主張自体が個人的な主張を強めてしまう。人間ってやつは、思考する限り主観性からは逃れられない。それでも、主観から導かれる客観の領域がある。形式化と非形式化、言語領域と非言語領域、その狭間をもがきつつも辿り着く知の領域がある。

本書は、知識の根源を「分節化されたもの」「分節化されないもの」をダイナミックな相乗効果として物語ってくれる。分節化とは、文章化や記号化できる明確な知のことで、暗黙知に対して明示知としている。
人間の知るという技芸は、分節化されない領域でなんとなくイメージされたものが多分に混在しているものと思われる。誰にでも生じる思い込みという現象も、こうした暗黙の領域で説明がつきそうだ。沈黙の力も...

とはいえ、暗黙知というのは思考プロセスに位置づけられるものであって、そこから導かれる哲学的思考の方が重要やもしれん。
ポランニーが自由を信奉した人であることは間違いあるまい。だが、当時のリベラリズムにも二種類あるという。それは、英米系リベラリズムとヨーロッパ大陸系リベラリズムである。彼は前者を肯定し、後者を否定したとか。英米系リベラリズムは、ミルトンやロックによって定式化され、教会をはじめとする権威からの脱却と、科学をはじめとする思想の自由を擁護する。ただ、宗教の自由を唱えても、カトリックとプロテスタントに寛容なだけで、無神論者を否定する立場。
一方、ヨーロッパ大陸系リベラリズムは、ヴォルテールや百科全書学派などによって定式化され、英米系よりもはるかに真面目で、厳密で、反権威主義と哲学的懐疑の原則を究極にまで適用する。権威という権威を徹底的に排除すれば自由の権威までも否定し、懐疑的思考を徹底的に膨張させれば、あらゆる書物や聖書までもが否定される。

反自由も独裁も、それを行う者にとっては自由の一形態と言えなくもない。マルクス主義は、人権、自由、平等を過剰なまでに要求し、ジャコバン主義は、フランス革命の下で旧体制を完全に葬り去ることを目的とする過激派に変貌した。ナチズム、ファシズム、共産体制も、こうした流れに位置づけている。行き過ぎた自由が自由主義を破壊し、行き過ぎた平等が平等主義を破壊する。行き過ぎた正義が正義を堕落させ、行き過ぎた倫理観が非人道的行為に走らせる。そこに政治と宗教の原理がある。本書では「道徳的反転」「宗教的反転」と表記され、いずれも自己破壊がもたらした結果というわけである。

「現代思想はキリスト教的信仰とギリシア的懐疑の混合物である。キリスト教的信仰とギリシア的懐疑は論理的に両立不可能であり、両者の葛藤が、先行する諸思想よりもはるかに、西洋思想を活性化させ創造的なものとしてきた。しかし、この混合物は不安定な基礎である。現代の全体主義は宗教と懐疑主義の葛藤の極限の姿である。それは、われわれの道徳的熱情の遺産を現代の唯物論的諸目的の枠組みのなかに組み入れることによって、この葛藤を解決しようとする。」
...マイケル・ポランニー

ポランニーは「開かれた社会」を批判する立場を表明しているという。すべての価値観に開かれているという理想は、人間が特定の価値を必要とする以上、実行不可能な要請であると...
開かれた社会を理想像に掲げる有識者は多い。だが、理想が高すぎるがゆえに破綻することもしばしば。すべてを受け入れれば、全体主義も受け入れることになり、リベラリズムは非リベラリズムへと傾倒していく。その結果、どのような世界観も信じることのできないニヒリズムを助長させることに...

「ポランニーにとっての自由社会は、すべての価値を無差別に認めるような『開かれた社会』ではなく、自由社会に伝統的な諸価値への積極的献身(dedication)を求める、ある種の『閉ざされた社会』だった。」

人間社会で自由主義が機能している場の一つに、経済活動が挙げられる。市場原理は、自由な取引によって価格を決定し、自由な生産活動を促進する。だが現実には、自由競争は弱肉強食と化し、独占や寡占が横行、新たな奴隷制度が組み込まれる。その反発から、マルクス主義的唯物論が生じることに...
ポランニーはケインズ主義を表明し、完全雇用のために公共投資の必要性を唱えたようだ。だがこれもまた、行き過ぎたケインズ主義が公共事業を無理やり創出しては、族議員を蔓延らせることに。大衆民主主義を利用してのし上がるのが政治屋の常套手段。失業問題をあっさりと解決したヒトラーも...

「しかるに、世の多くのリベラリストは、本末転倒にも、自由社会あるいは反全体主義社会を構想するにあたって、私的自由を基本あるいは究極目的として、その上に公的自由を積み上げようとしている。こうした思想は、じつは、全体主義者、ファシスト、共産主義者にとって少しも脅威ではないのであり、多くのリベラリストは自分で自分の墓穴を掘っていることになる... これが、ポランニーの主張の要点である。」

宗教を論じれば、その存在意義を問わずにはいられない。多種多様な人間の在り方を、融合せしめるのが宗教であるはず。なのに、あらゆる紛争の火種となるのは、どういうわけか。無宗教や無神論の方が合理的ではないのか。
一つの人間を崇めれば、他の人間を否定することになり、一つの宗教を崇めれば、他の宗教を否定することになる。ならば、絆で結ばれるより距離を置く方がましではないか。その結果、ニヒリズムや人間嫌いを助長させても...
宗教が不要だとは言わない。人間である以上、なんらかの信仰を持って生きている。無神論者であっても、宇宙の絶対的な存在を感じないわけではない。科学界も、産業界も、非宗教的に振る舞ってはいるが、宗教的信仰と無縁ではない。底なしの無信仰に陥ったり、狂信の世界に埋没したりすることはあっても、人間である以上、なんらかの信仰を持ち続けている。

本書の興味深いところは、宗教論をシェイクスピア劇のような虚構や芝居との類似性において考察している点である。それも、儀式という形態の中で。神の世界へ導くというより、俗界からの解放の方が意味がありそうだ。聖なる時間を取り戻すというより、苦悩に満ちた俗なる時間からの解放を。現世で救われなければ、普遍的な世界に縋るほかはない。その儀式的行為が慣習化すると、盲目的に崇めることに。それで心が安住できるなら、精神的合理性というものか...

「宗教とは、儀礼(rites)、儀式(rituals)、教義(doctrines)、神話(myths)、礼拝(worship)と呼ばれるものを含んだ想像力の広汎な作品(work)であることがわかる。したがって、それは、われわれがこれまで考察してきた他のどのようなものより、はるかに複雑な『受容(acceptance)』の形態なのである。」
... マイケル・ポランニー

2024-10-13

"エフォートレス思考" Greg McKeown 著

本書は、「エッセンシャル思考」の続編。前編では、何をやるかを伝授してくれた。ここでは、どうやるか、その事例を紹介してくれる。
コンセプトは、「努力を最小化して成果を最大化!」。極力無駄を省こうというわけだが、現実は厳しい。あまり無駄をなくすことに執着するのもどうであろう。極論を言えば、生きていること自体が無駄、人類の存在そのものが無駄という見方もできる。
また、物事は、あまり単純でもつまらない。難問に立ち向かうことに喜びを感じたり、我武者羅にやってみたいという衝動に駆られることもある。頑張って努力したことが自信につながることもあれば、我武者羅にやっているうちに、今まで見えなかったものが見えてくるってこともある。

とはいえ、アドレナリンジャンキーはゴメンだ!燃え尽き症候群もゴメンだ!
懸命な努力が成果につながることも事実だが、それには限界がある。無駄をなくすというより、脳にゆとりをもたせようという意味合いであろうか。仕事というより、趣味のような生き方を!無駄から学べれば、無駄ではなくなる。
本書も、失敗から多くを学べるので第一歩を気軽に踏み出そう... 失敗なくして習得なし... と励ましてくれる。どんなに優れた書き手でも、言葉ですべてを言い尽くすことは不可能であろう。その奥に、バランス感覚と中庸の哲学が読み取れる。あまり力まず、肩の力を抜いて、人生を謳歌しよう... これがコンセプトだと解している。
古くから人生論に「ビッグロックの法則」が囁かれてきた。器に小さな石から入れると、大きな石が入らなくなる、優先すべきものを考えよう... まさに、そんな教訓を物語ってくれる。
尚、高橋璃子訳版(かんき出版)を手に取る。

「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」
... マタイ福音書、11章30節

ポイントは三つ...
  • エフォートレスな精神... 余裕のマインドを手に入れ、難易度を下げることに抵抗しない。
  • エフォートレスな行動... 最も効率のよいポイントで実行する。
  • エフォートレスな仕組み... 行動パターンを自動化し、成果が勝手についてくる仕掛けをこしらえる。

アジャイル開発は、無駄をなくし、難解な部分を簡略化する戦略だが、エフォートレス思考は、この戦略に適合しそうである。
エフォートレスな仕組みでは自動化戦略を物語り、直線的な、直接的な成果よりも、累積的な成果を求める。この自動化を、おいらは習慣化と解す。累積的な成果とは、小さな努力の繰り返し。アリストテレスは、こんな言葉を残した。「人は繰り返し行うことの集大成である。それゆえ優秀さとは、行為でなく習慣である。」と...

認知心理学に「知覚的負荷」という概念があるそうな。
ソーシャルメディアが荒れ狂う社会では、余計な知覚を捨てることはすこぶる難しい。シンプルに考え、シンプルに行動するには、余計な情報を捨て去った方が幸せになれそうだ。
努力の価値が過大評価されているのも事実。成功するために心身を酷使して働かなければならないというのは、社会の集団幻覚か。現代人は、なにかと多忙だ。おまけに、慢性的な睡眠不足ときた。そして、すぐに結論に飛びつく。現代人の多くは、人生のリズムを集団の中で乱している。しかも、自ら...

「不運な出来事が起こったとき、それをあきらめて受け流すのは難しい。どうしても不満や怒りが湧いてくる。不満を言うのは簡単だ。あまりに簡単なので、多くの人は不平不満を言うのが日常になっている。... 不満をぶちまけるのは、一種の快感だ。ソーシャルメディアを見れば、ありとあらゆる不満が並んでいる。みんなが攻撃的になっている。巻き込まれまいとしても、知らず知らずに影響を受けてしまう。」

脳科学や心理学によると、「今」として体験される時間は約 2.5 秒だそうな。人生は、2.5 秒の繰り返しというわけか。この短い時間に、スマホを置き、ブラウザを閉じ、深呼吸することができる。この 2.5 秒をモノにして、最初の一歩を有利に踏み出そう!というわけか...

「難しいのは、聞くことではない。聞きながらその他のことを考えないことだ。難しいのは、その場にいることではない。そこにいながら過去の出来事や未来の予定に気を取られないことだ。難しいのは、何かを見ることではない。雑多な情報を無視して、見るべきものだけを見ることだ。」

2024-10-06

"芸術作品の根源" Martin Heidegger 著

ハイデッガーが生きた時代は、二つの大戦を経て、ナチスの高官どもがヨーロッパ中の美術品を漁りまくった時代。もはや芸術は死んじまった!との愚痴が聞こえてきそうな芸術論に出くわす。
芸術に自由精神は欠かせない。だが、束縛の反発として自由精神が生起することだってある。芸術の根源を探求すれば、芸術そのものの在り方を問い、その本質に立ち向かうことになる。本質に立ち向かえば、真理を問うことに...
ここでは「真理の生起」と表現され、芸術作品は「現実性」においてのみ存在しうるとしている。そして、カント風の主観的普遍性の域に達すると、不滅たる作品に昇華させると...
尚、 関口浩訳版(平凡社ライブラリー)を手に取る。

「作品そのものが、作者の巨匠たることを証明する、ということはすなわち、作品がはじめて芸術家を芸術の支配者として登場させる... 芸術家は作品の根源である。作品は芸術家の根源である。一方なしには他方もない。それにもかかわらず、両者のいずれもが単独で他方を支えることはない。芸術家と作品とは、各々それ自体の内で、そしてそれらの交互連関の内で、第三のものによって存在する。」

「現実性」という表現も、なかなか微妙である。芸術は現実性に支配されているんだとか。
しかし、リアルとリアリティでは、似ているようで違う。例えば、コンピューティングの分野には仮想現実(VR)や拡張現実(AR)といった空間世界があり、人間の認識はこの空間に現実性を見る。また別の空間では、夢を見ている間は現実と区別ができないほどリアリティに満ちている。
人間の認識能力は、心理的にも、生理的にも、誤魔化しが利き、現実でなくても現実性と見なすことができちまう。それは、「真理」とて同じことやもしれん。真理めいたものは大いに語りまくるが、本当の真理となると沈黙せざるを得ない。そもそも、真理ってやつは人間が発明した言語体系で記述できるものなのか。言語の限界に挑めば、暗号めいた叙述となるは必定。それは哲学の宿命か。
神は意地が悪い。人間と真理は絶妙な距離感を保ち続け、近づけそうでなかなか近づけない。弁証法をもってしても、真理の探求はすぐに行き詰まる。そして、永遠に探求し続ける羽目に。馬の鼻先に人参をぶら下げるかのように...

ところで、真理とはなんぞや?どうやら、真なる本質を言うらしい。芸術を探求する過程で、伏蔵性と不伏蔵性の狭間でもがく。
美学は、真理が不伏蔵性としての本質を発揮する一つのやり方だという。原因から結果へ写像していくうちに、不伏蔵性という明確な存在から伏蔵性という内なる存在を感じられるようになるんだとか。論理性からの脱皮とでも言おうか。真理への開眼とでも言おうか。芸術への道は甚だ遠し...

2024-09-29

"いまだない世界を求めて" Rodolphe Gasché 著

原題 "In View of a World"...
これを「いまだない世界」とするのは、これから来たるべき... という希望が込められている。それは、ある種のユートピアか。いまだ人類は、普遍的な世界に辿り着いていない。だがそれは、永遠に辿り着けないのかもしれない。現実社会は、異なる世界が複雑に絡み合う乱雑な世界。すべての人に開かれた世界でもなければ、万人が歓迎できる世界でもない。
ロドルフ・ガシェは、マルティン・ハイデッガーの美学の概念、カール・レーヴィットの世俗化の概念、ジャック・デリダの責任の概念という三者三様の思索を通じて、新たな世界を探る。そして、人々が共有できる価値観を模索しようと、哲学の有り方、哲学の限界といった哲学本来の意義に着目し、デリダ風の脱構築に活路を見い出す...
尚、吉国浩哉訳版(月曜社)を手に取る。

ところで、哲学とはなんであろう。こいつが真理と相性がいいのは、確かなようである。哲学ってやつは、文学にも、歴史学にも、政治学にも、倫理学にも、技術にも、はたまた仕事や日常にも結びつく。あるいは逆に、哲学の方が主体となって文学になったり、芸術になったりと、自ら主役を演じたり、脇役を演じたり変幻自在。哲学が真理と結びつけば、哲学をともなわない科学技術は危険となろう。そして、哲学をやれば、真理と対峙し、言語の限界、さらに人間の限界に挑むことになる。
では、真理とはなんであろう。弁証法は、循環論から救ってくれるだろうか。その先に、いまだない世界を見せてくれるだろうか。
ちなみに、コンピューティングの分野には、仮想現実や拡張現実という世界がある。天邪鬼には、そのぐらいの世界で留めておく方がよさそうか...

1. 芸術作品の根源... ハイデッカー
芸術は、既に死んでしまったのか。美学に奪われてしまったのか。ヘーゲルやハイデッカーによると、そういうことらしい。芸術作品は伝統的な哲学的意義を見失い、単なる感受性の対象に成り下がってしまったという主張である。19世紀から20世紀にかけての政治の在り方に照らせば、そういう見方もできそうか。
とはいえ、哲学を内包した美的価値を持ち続けた芸術家もいるし、その延長で政治批判や宗教批判として描かれた作品も少なくない。ドイツ語の "Ästhetik(美学)" のニュアンスもなかなか手ごわい。そして、ここに一つの美学批判を見る。
ガシェは、芸術作品は現実性を帯びてこそ価値が見い出せるとしている。しかも、作品の固有な現実性は、真理が生起することによってのみ効力を発揮すると...
それにしても、この表現は痛烈だ!
「美学とは死体を愛することである。そこでは、偉大な芸術の屍臭が漂っている。」

「ヘーゲルにとっては、芸術の現実性は抽象的な理念と具体的で感性的な現実との統一に基づいている。これに対し、ハイデッガーにとっては、芸術とは、もしもそれが一つの世界の根源にあるのならば、つまり事物、人間、神々の関係がなす有意味な複合体の根源に芸術があるのならば、それは現実的である。」

2. 信仰の残余... レーヴィット
レーヴィットの宗教論議は、摂理や終末論をともなうキリスト教的な歴史観が前提されているようだ。世俗化とは現実化であり、その意味合いもキリスト教の枠組みからは脱していない。人間の罪と神の救済とが結びつき、原罪と救済が結びつかなければ、この枠組みは成立しない。唯一神を信仰すればこそ、神の意志と人間の意志の不一致を問題にできる。神の声を聞くことのできる人間が、あるいは、その資格のある人間がどれほどいるかは知らんが...
近代の歴史哲学は、「キリスト教信仰の哲学的世俗化」だという。そこでガシェは、もう少し踏み込んで世界宗教という観点から論じようと試みる。一旦、古代ギリシア哲学とキリスト教から断絶して...
だからといって、マルクス主義的観念論に陥ることはない。かくして、宇宙論は人類を救うであろうか...

3. 限界なき責任... デリダ
責任とは、なかなか奇妙な概念である。この概念が哲学で議論され始めたのは、比較的新しいようだ。18世紀末、フランス革命の文脈として出現し、哲学的概念となったのは、19世紀だとか。元来、政治や法律用語であったが、キェルケゴールやニーチェにも見い出すことができる。そして、フッサールの絶対的自己責任に始まり、ハイデッカーの原初的な責任を経由して、デリダの限りなき責任へという流れ。
そういえば、仕事をやっていると、使命感のようなものが芽生える。良心の呵責とも結びつきそうな。それは本能か、自己の正当化か。責任を負うためには、まずそれを知らなければなるまい。責任という概念が、本質的に善から創出されるならば、客観的な知識と結びつくであろう。
しかしながら、ソクラテスの時代から論じられてきた無知の知という問題は如何ともし難い。おかげで、責任と自我の肥大化は、すこぶる相性がいい...

「責任が知識に従属するのならば、いかなるものであってもそれは無化されてしまう。また、責任は理論的規定の位相をも超越しなければならない。この位相なしに、責任は不可能であるにもかかわらず...」

2024-09-22

"五輪書" 宮本武蔵 著

どんな場面でも、なにかに対する時、観察力が問われる。兵法とは、それを体現する場。敵を知り己を知れば百戦危うからず!
だが、兵法を学んでも、それを役立てるかどうかはその人次第。それは、すべての知識について言えること。自然科学もまた、観察哲学を体現する場と言えよう。

さて、無の境地に達した剣聖の書とは、いかなるものか。一旦、刀を抜けば、相手を殺すしかない。それが剣術の道。「五輪書」とは、あまりに殺伐とした世界を純真に捉えた故に、あまりに馬鹿正直に生きた故に、生まれ落ちた書やもしれん。
戦いには間合いと拍子があるという。間合いを計り、拍子を知り、これに即した勝つ理を捉え、それを体現する技芸。これが兵法というものだそうな。
それは、人生とて同じ。組織や人との距離を計り、あらゆる行為のリズムを知り、これに即した理を捉えるのが人の生きる道というものか。
六十余度にわたる生死をかけた真剣勝負で会得した「二天一流」と称す奥義とは...

尚、本書には、原文と訳文に加え「兵法三十五か条の書」と「独行道」が併録され、佐藤正英校注・訳版(ちくま学芸文庫)を手に取る。

「われ三十を越えて跡を思ひみるに、兵法至極して勝つにはあらず。おのづから道の器用ありて天理を離れざる故か。または他流の兵法不足なるところにや。その後、なほも深き道理を得むと朝鍛夕錬してみれば、おのづから兵法の道に合ふこと、われ五十歳の頃なり。それより以来(このかた)は、尋ね入るべき道なくして、光陰を送る。兵法の利に任せて諸芸・諸能の道となせば、万事においてわれに師匠なし。」

五輪書は、地(ち)、水(すい)、火(くわ)、風(ふう)、空(くう)の五巻より構成される。
地の巻では、兵法の道を説き、大きなるところより小さきを知り、浅きところより深きに至る。能芸や管弦に拍子があるように武芸にも拍子があり、鉄砲や乗馬にも拍子があるという...

「拍子の間(あひ)を知ること... これ、無念無想なり。」
...「兵法三十五か条の書」より

水の巻では、水を手本とし心を水となし、「有構無構」の教えを説く。心の内を邪念で濁さず、心を広く持ち、広いところに智恵を置くべし。構えありて構えなし!とは、水の流れのごとく...
ちなみに、子連れ狼こと拝一刀の水鴎流とは関係なさそうだ。

火の巻では、「二天一流」の戦い様を火になぞらえ、勝つ理を説く。

風の巻では、我が道を一流とせず、様々な兵法の流れを見渡す。昔の風、今の風、家々の風、世の風など様々な流儀を。他流を知らずして、一流の道に達し得ない。その奥に善悪を知り、是非を知る。何事にも長所と短所があるというわけか...

空の巻では、何が兵法の奥義か、何が表か、何が基本かなど言い当てるまでもない。空(くう)の心で、道理を得ては道理を離れ、己の能力を体得し、自然体で拍子を捉えては剣術を自由自在に謳歌する。思うがままに打ち込むべし!これぞ無の境地か...

「空といふ心は、もの毎のなきところ、知れざることを空と見立つるなり。もちろん空はなきなり。あることろを知りて、なきところを知る。これすなはち空なり。
  -- <略> --
心(しん)・意(い)二つのこころを磨き、観(くわん)・見(けん)二つの眼を研ぎ、少しも曇りなく迷ひの雲の晴れたるところこそ、実(まこと)の空と知るべきなり。」

また、兵法の道は、武士に限ったものではないという。世に士農工商があれば、農耕の道、職人の道、商いの道がそれぞれあり、出家であれ、女人であれ、下賤の身であれ、義理を知り、恥を知り、死を潔くする者は実に多い。むしろ武士の方に心得なき者が多いと嘆く。
そういえば、新渡戸稲造は、「武士道」という書で日本人の心を海外に紹介した。西洋式に宗教に頼らずとも、道徳観や倫理観が育まれることを。本書にも、武士道精神が庶民にまで浸透していた様子が見て取れる。

「道において、儒者・仏者・数奇者・しつけ者・乱舞者、これらのことは武士の道にてはなし。その道にあらざるといふとも、道を広く知れば、もの毎に出合(いであ)ふことなり。いづれも、人間においてわが道々をよく磨くこと肝要なり。」

戦国時代から江戸初期にかけて、数多くの剣術の流派が百花繚乱を競う。大まかには、一刀流、神道流、陰流の三系統に区分されるとか。柳生石舟斎宗厳の柳生新陰流もその一派。武蔵の「二天一流」がどの流れを汲むかは不明のようだが、「五輪書」に先立つ十一年、柳生宗矩が書した「兵法家伝書」と同じ境地に達しているらしい。
兵法を上中下で格付けすると、「身や太刀の強さ・速さや構えの多さをひけらかすのは下位の兵法、細密な技や拍子のよさを衒い、きらびやかで見事なのは中位の兵法、強くも弱くもなく、人目を惹く見事なところもなく、大きく、真直ぐで、静かなのが上位の兵法」と武蔵は説く...

2024-09-15

"福翁百話" 福澤諭吉 著

自伝もいいが、随筆はさらにいい。達人が書けば尚更。自由奔放に筆を振るうだけに、自分自身に言い聞かせている所もあろう。自省心がなければ、為せない技か。自伝は生きた時間の流れに乗り、随筆は気分の流れに乗る。独立自尊を謳歌するように...
尚、服部禮次郎編集版(慶應義塾大学出版会)を手に取る。

「自由は不自由の間に在りと云う。凡そ人生には自主自由の権あり、上は王公貴人、富豪大家より下は匹夫匹婦の貧賤に至るまで、智愚強弱、幸不幸の別はあれども、名誉生命私有の権利は正(まさ)しく同一様にして、富貴巨万の財産も乞食の囊中にある一文の銭も、共にその人に属する私有にして之を犯すべからず。生命も斯くの如し、名誉も斯くの如し。」

「学問のすゝめ」(前々記事)に至った動機を伺いつつ、「福翁自伝」(前記事)を経て、「福翁百話」+「福翁百余話」に至る。
自伝では、ユーモアと愚痴を交えた改革精神に魅せられた。
百話では、宇宙を語り、万物を語り、無始無終の変化を語り、自然の無常を語り、道徳を語り、政治を語り、その先に自得自省、独立自尊の道を説いて魅せる。そして、思想の中庸を唱え、智徳の独立を説き、無学の不幸を知るべし!と励ましてくれる。

「人間世界の有形無形、一切万般を物理学中に包羅して、光明遍照、一目瞭然、恰も今世の暗黒を変じて白昼に逢うのを観あるや疑うべからず。故に今日の物理学の不完全なるもその研究は正(まさ)しく人間絶対の美に進むの順路なれば、学者一日の勉強一物の発明も我輩は絶対に賛成して他念なき者なり。」

独立精神を育むのは、結局は自分次第なのであろう。誹謗中傷の嵐が荒れ狂う社会にあって、他人を貶めて自己を安泰ならしめるなら、独立自尊なんぞ程遠い。不徳というより無知というべきか。
しかしながら、無知でいることが、いかに幸せであるか。集団社会では尚更。であるなら、自分の無知を承知して、無知者らしく無知を謳歌したいものである...

「人生は至極些細なるものにして蛆虫に等しと云うは、他人の沙汰に非ず、斯く云う我身も諸共に蛆虫にして、他の蛆虫と雑居し以て社会を成すことなれば、蛆虫なりとて決して自から軽んずべからず。」

2024-09-08

"福翁自伝" 福澤諭吉 著

自叙伝ってやつは、その人の生き様を容赦なく炙り出す。笑いを誘うような愚痴のオンパレードに、その人の人となりが露わとなり、革命家魂を垣間見る思い。「学問のすゝめ」に至った動機も十分に味わえる。
尚、土橋俊一校訂・校注版(講談社学術文庫)を手に取る。

動乱期を生きた人物の叙述にしては、どこか余裕を感じる。これが人間の度量というものか。例えば、維新前夜は辻斬りが横行し、武士だけでなく、町人や百姓までも怯えた様子が克明と伝わる。こうした世情では隙を見せられず、堂々と歩いているふりをして、すれ違い様にとんずらするのが良策だとさ。そして、当時の様子を、こう笑い飛ばす...

「こっちも怖かったが、あっちもさぞさぞ怖かったろうと思う。今その人はどこにいるやら、三十何年前若い男だから、まだ生きておられる年だが、生きているなら逢うてみたい。その時の怖さ加減を互いに話したら面白い事でしょう。」

また、渡米時の感想では、こうもらす。
大統領が四年交代ということは知っていたが、ワシントンの子孫となると大層な扱いだろうと思っていたら、市民は知らないどころか、興味すら持っていないことに拍子抜け。日本でいえば、源頼朝や徳川家康の子孫となると、それだけで大層な権威を持つものだが、これが民主主義ってやつか...

ただ、「学問のすゝめ」では、ちと違和感のある二つの極端論があった(前記事)。
それは、「赤穂不義士論」と「楠公権助論」で、日本古来、義人として認められるのは、佐倉宗五郎ただ一人としている。赤穂浪士と楠木正成公の否定論は、やや勇み足の感は否めない。庶民感覚としての権威主義への反発から、二つの物語を讃美しすぎると考えるのも分からなくはない...
本書では、封建社会における価値観には、ほどほど呆れた様子。過去のすべてを否定するかのような勢い。そして、伝統に対する世俗のあまりの盲目ぶりに物申す。
矛先は、当時の論調を代表する「門閥圧政鎖国主義」と「勤王佐幕」の二派。前者は、封建制度が後ろ盾になった旧来の価値観。後者は、勤王は尊王に類似した用語で、佐幕は倒幕の対抗馬。封建門閥精度には親の仇のごとく捲し立て、そればかりか改革派も開国論者ですら攘夷論の張本と切り捨てる。こんな勢いで二つの極端論を口走ってしまったか、と思わせるほどのブチ切れよう。人間は社会の虫なり!とまで言い放つ...

この時代にひときわ目立つように西洋文明を吹き込み、開国論を主張すれば、あらゆる論者を敵に回すは必定。幕末には、非国民、売国奴、西洋がぶれなどとレッテルを貼られ、維新の流れに転じれば、開国論者の第一人者として一目置かれる。政治のご都合主義にはほどほど呆れた様子。
「一身の独立なくして一国の独立なし!」とは、彼の名言の一つだが、明治政府からの誘いを拒み、身をもって独立自尊に徹した啓蒙家であったとさ...

「私の生涯のうちに出来(でか)してみたいと思うところは、全国男女の気品を次第々々に高尚に導いて真実文明の名に愧ずかしくないようにする事と、仏法にても耶蘇教にてもいずれにてもよろしい、これを引き立てて多数の民心を和らげるようにする事と、大いに金を投じて有形無形、高尚なる学理を研究させるようにする事と、およそこの三か条です。」

2024-09-01

"学問のすゝめ" 福澤諭吉 著

時は幕末... 西洋列強国にことごとく不平等条約を結ばされ、自国で裁判する権利すら持ちえない。このままだと大陸同様、アジア全土が呑み込まれてしまう... そんな危機感から日本を真の独立国たらしめ、国民の精神改革を行おうと、その基礎に置いたのが天賦人権思想であったとさ。
尚、伊藤正雄校注版(講談社学術文庫)を手に取る。

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず... といへり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく、万物の霊たる身と心の働きをもつて、天地の間にあるよろづの物を資(と)り、もつて衣食住の用を達し、自由自在、互ひに人の妨げをなさずして、おのおの安楽にこの世を渡らしめたまふの趣意なり。」

西洋思想を学ぶべきだ!と主張すれば、非国民・売国奴のレッテルを貼られ、アメリカ独立宣言を思わせるフレーズを掲げれば、西洋の猿真似と酷評され、独立自尊主義を掲げれば、単なる理想主義と蔑まれる。そんな風潮も、維新の流れに転じれば、開国論者の第一人者として英雄視される。世論のご都合主義にも呆れた様子。
そして、学者連と一線を画し、位階も、勲等も、爵位も、学位も一切身に付けず、明治政府からの登用も拒み、身をもって独立自尊に徹した。ひたすら啓蒙家として生き抜いた一匹狼魂は、誹謗中傷の嵐が吹き荒れ、空気を読む忖度文化に縛られた今の時代だからこそ、輝きを増すのやもしれん...

「独立の気力なき者は、必ず人に依頼す。人に依頼する者は、必ず人を恐る。人を恐るる者は、必ず人に諛うものなり。常に人を恐れ人に諛ふ者は、次第にこれに慣れ、その面の皮鉄のごとくなりて、恥づべきを恥ぢず、論ずべきを論ぜす、人をさへ見れば、ただ腰を屈するのみ。」

それにしても、諭吉のリズムカルな文体は、名言にも格言にもできそうなフレーズに溢れている。ちょいと気に入ったところを拾ってみると...

「学問の要は活用にあるのみ。活用なき学問は無学に等し。」

「国法の貴きを知らざる者は、ただ政府の役人を恐れ、役人の前を程よくして、表向きに犯罪の名あらざれば、内実の罪を犯すも、これを恥とせず。」

「されば一国の暴政は、必ずしも暴君暴吏の所為のみにあらず。その実は人民の無智をもつて、自ら招く禍なり。」

「信の世界に偽詐多く、疑ひの世界に真理多し。」

校注者も乗せられて、こう綴る。

「適切な言葉があって、はじめて真理は人々の心に生かされる。」
... 伊藤正雄

現代にも通ずるフレーズに、崇高な普遍性を感じずにはいられない。
しかしながら、反論したくなる点もある。「赤穂不義士論」と「楠公権助論」が、それである。言うなれば、日本人の帰属意識までも否定していそうな。何事もアイデンティティと結びつくと、讃美しすぎる傾向があるのは確かだけど...
前者は、赤穂浪士は法を犯した罪人で、真の義士ではないという主張は世間を騒がせたであろう。だが、より大騒ぎになったのは後者の方だそうな。楠公とは楠木正成、彼の死ですら権助(下男)の死と同一視し、さすがに諭吉も弁明文を発表したらしい。
そして、日本古来、諭吉が義人として認めたのは、佐倉宗五郎ただ一人としている。あくまでも国法が最高権力というわけである。とはいえ、封建時代の法は幕府が押し付けたものであり、自然法には程遠い。西洋思想にだって欠点はあるし、そこまで持ち上げなくても。ジョン・ロックに触れれば、そこまでの極端論にはならないような気もするが...

2024-08-25

"興奮" Dick Francis 著

ディック・フランシスには、あまりサスペンスぽくないサスペンスにしてやられた(前記事「証拠」)。ここでは、これぞサスペンスというサスペンスにしてやられる。推理モノは危険だ!ハマると、つい一気読み。翌日はまず仕事にならない。まるで薬物!まさに興奮剤!
本書は、興奮に薬を結びつけるドタバタ劇、まさに劇薬だ!と思ったら、薬とはまったく関係ない仕掛けが待ち受けていた...
尚、菊池光訳版(ハヤカワ・ミステリ文庫)を手に取る。

物語は、イギリスの障害レースで思いがけない大穴が続くことに始まる。大番狂わせを演じた馬は異常なほど興奮していたが、いくら検査をしても薬物は検出されない。騎手、厩務員、調教師、馬主といった関係者にも、怪しいところが見当たらない。しかし、不正が行われているのは間違いない。
主人公は、オーストラリアの種馬牧場の経営者。裏事情に詳しい彼は、競馬協会理事に真相究明の依頼を受ける。そして、厩務員に化け潜入捜査をしていくうちに、イギリス最悪の牧場にたどり着く。厩務員たちは、奴隷のごとく酷使されている様子。人間は薬物で調教、トランキライザー!馬はパブロフの犬のごとく調教!この対照的な構図がなかなかの皮肉ぶり。サスペンスは、こうでなくっちゃ!

ついでに明かすと、馬に使う道具は犬笛。仕掛けはこうだ..
まず調教で、犬笛を吹くと、火焔放射器で恐怖心を誘発させる。犬笛の音は人間の耳にはかすかにしか聞こえない高音程で、馬にはやよく聞こえる。レースでは障害物を飛び越えるタイミングで犬笛を吹く。すると、馬は狂ったように怯え、全力で逃げ出そうとする。
実に単純な仕掛けだ!薬剤も装置を使わす、馬主、調教師、厩務員などの協力者も必要としない。実に完璧な計画だ!

2024-08-18

"証拠" Dick Francis 著

同じミステリー作家では、スタンリイ・エリンが、人の心に潜む悪意やいたずらを非情なまでの皮肉ぶりで暴いて魅せた。まさに、人間の存在そのものがミステリーであることを...
ディック・フランシスは、人が背負ってきたしがらみや生き様を、サスペンスに重ねて魅せる。ちと強引だけど... この強引さが、M にはたまらん!
それにしても、こいつは本当にミステリーか?
おまけに、酒が題材とくれば、やらずにはいられない。そして、一つの疑問が湧く。今、チビチビやってる虎の子のフィーヌ・ド・ブルゴーニュは本物だろうか?と。サスペンスってやつは、人を疑り深くさせる...
尚、菊池光訳版(ハヤカワ・ミステリ文庫)を手に取る。

親に失望され、見放されて生きてきた酒屋の御主人。戦争での父の勇敢さに劣等感を覚え。そんな彼を救ったのは妻。妻といる時だけが生きる喜び。そんな妻が急病で世を去ると、半ば死んだように生きている有り様。
次に、生きる気力を取り戻してくれるのは、やはり酒か。酒といっても、溺れるように飲むという意味ではない。自分の得意分野である酒の知識が生かされる場を求めて...

物語は、ワイン輸送車が急襲されたことに始まる。レストランでラベルと中身の違うボトルが見つかる。真の目的は高級銘柄のラベルか。偽物はどこに出回る?
偽物と気づかれない場所ならどこでも... 偽酒が大量に出回っている節があり、警察が動き出す。利き酒の能力と知識を買われ、捜査に協力しているうちに、陰謀の渦に巻き込まれていく。妻の急病に気づけなかった罪悪感の渦にも巻き込まれつつ... なんだ、この不釣り合い感は!
陰謀サスペンスの中で、自虐的な罪悪感や孤独な人生観を両立させているところが、この書き手の凄みであろうか。そういえば、題目は「証拠」であった。犯人は誰か?まぁ、それはおいといて...

人生には皮肉なことが多い。この方面でマーフィーの法則はことのほか冷徹だ。スコッチの熟成に劣らぬ文章の熟成ぶり... 作家が凄いのか、翻訳家が凄いのか。最後の独白にイチコロよ!

「エマ... エマ... エマ... と叫びながら家の中を通って行った。声が壁にぶつかって反響している。彼女を求めて叫んでいるのではなく、彼女に告げたくて叫んでいた... 彼女に聞いてもらいたかった... 自分が初めてなすべき事をした。いつまでも臆病者でいたわけではない事、私に関する彼女の記憶を裏切らなかった事... あるいは自分自身を裏切らなかった事... 自分のあるべき姿を具現した事... 彼女に慰められ、充実感を味わい、あくまで彼女と一体なのだと感じている事、かりに今後彼女のために泣く事があっても、それは彼女が人生の楽しみを最後まで味わえなかった事... 生まれなかった子供... に対する歎きであって... 自分が大切な物を失ったため、寂しいため... 罪の意識のために泣いているのではない事を知らせたかった。」

2024-08-11

"単位と比 - わけのわかる算数のはなし" 芹沢正三 著

これは、児童向けの書である。童心に返るのは難しい。ましてや脂ぎった大人には難しすぎる。唯一の頼みは、気まぐれってやつ。気まぐれは偉大だ。何一つ馬鹿にすることなく、まったく抵抗感なく、手に取ることができるのだから...

なにゆえ人間は、モノを測ったり、数えたりするのか。それは性癖か、退屈病がそうさせるのか。この単純行為は、なにやら心を落ち着かせてくれる。精神病患者や知的障害者は、数を数えることによって気持ちを整える。ある種の儀式のように。サヴァン症候群のような突飛な能力の持ち主ともなると、数字が風景に見えるらしい。おいらも、デスクトップ上のスキャンカウンタをなんとなく見入ってしまう。

日常、人は何かを測定したり、計算したりする時、「単位」ってやつを使う。
3 + 5 という単なる足し算も、3 万円 + 5 万円となった途端に目の色が変わる。
3 メートルと 5 グラムを比べても意味はないが、3 メートルと 5 メートルを比べれば、長さの違いが見えてくる。太閤検地なんぞで田畑の面積を画一的に測量された日にゃ、土地の隅々まで年貢の対象とされ、根こそぎよ。持ってけ泥棒!
単位は、それが比較の対象で同じであれば、数字を同じ土俵に立たせることができる。となると、単位はある種の性質や属性を表していることに。科学界が SI 単位系などと称して国際標準化に奔走するのも無理はない。

物理量には、二つの量がある...
数字で数えられる離散量と、数字で数えられない連続量とが。リンゴは、1個、2個と数えられるが、水はどうやって数えるの?コップで、1杯、2杯としたところで、コップの容量が違えば...

重さを測れば、奇妙なことに...
万有引力の法則によると、地球の重力はすべての物体に対して平等に働くことになっている。だが、地球は完全な球形ではない。おまけに地形も様々で、場所によって重力に誤差が生じる。すべての物体の重さが地球の重力で決まるとすれば、地球の重さは?すでに自己矛盾に陥っている。
そこで、質量という概念が編み出された。物体の重さが地球という外部要因で決まるなら、質量はその物体自体に具わった量ということに。その方が、得たいの知れない潜在的なポテンシャルエネルギーってやつも受け入れやすい。
ちなみに、キログラムは、白金イリジウム合金でできた国際キログラム原器が基準であったが、現在ではプランク定数で定義される。やはり、単位は人工物の関与を避けたい。人間ってやつは傲慢だから。命の重さは地球よりも重いって本当?体重計の上では軽さを演じておきながら、存在の重さとなると目くじらを立てる。

単位によっては、足し算ができたり、できなかったり...
長さや重さは足し算ができるのに、温度は足し算ができない。だが、熱量なら足せる。やはり熱エネルギーは手ごわい。エントロピーに看取られているだけに。しかも、この宇宙空間には、絶対零度ってやつが存在すると聞く。それを人類が知っているというのも疑わしいが...

足し算の限界値では、循環論に陥ることも...
角度では、360度までなら足し算ができるのに、それを超えた途端に循環論に陥る。この循環性から位相という概念が編み出された。自然界には、振動という現象が多い。実に多い。いや、量子の世界まで突き詰めれば、すべての物理現象は振動で説明できそうな。
そして、モジュロ演算の抽象度に感服せずにはいられない。モジュロ演算では割り算とその余りが主役となり、比の解釈を拡大させてくれる。

古来、人類は時間と暦の計算に悩まされてきた...
太陽を基準に、ユリウス暦に、グレゴリオ暦に、改良に改良を重ね、閏年で調整しても足らぬ。二千年問題ではコンピュータ業界を震撼させたが、それは千年紀の問題であろうか...
時間ともなると、12 進数と 60 進数が混在しやがる。おまけに、時刻と時間で使い分けられ、時計は時刻を知らせ、ストップウォッチは時間を刻む。正確さを求めれば、地球の運動だけでは足りず、セシウム原子に縋る。

古典力学では、時間と組み合わせた単位が幅を利かす...
速度 m/s に、加速度 m/s2 に、角速度 rad/s に... 物理現象を時間の変化として捉えれば、そうなる。さらに、時間以外の単位を組み合わせて、線密度、面密度、濃度、人口密度なんて量を次々と編み出し、正比例や反比例としただけで、その現象が理解できた気になれる。
相対的な認識能力しか持ち合わせていない知的生命体にとって、「比」ってやつは、すこぼる重要な概念だ。

ところで、時間は絶対であろうか。相対性理論は告げる。光速に近い速度で運動すれば、時間はゆっくりと進むと。オチオチ静止している場合ではなさそうだ...

2024-08-04

"アジャイルサムライ - 達人開発者への道" Jonathan Rasmusson 著

アジャイルサムライとは、なんとも日本風のタイトル...
執筆当初は、"The Way of the Agile Warrior." であったとか。ジョナサン・ラスマセンは、技術屋魂に武士道精神を見たのか...
尚、西村直人・角谷信太郎監訳、近藤修平・角掛拓未訳版(オーム社)を手に取る。

「アジャイルサムライ... それはソフトウェアを顧客に届ける猛々しいプロフェッショナルだ。たとえプロジェクトがきわめて過酷な状況にあろうと、かつてなく手ごわい期日であろうと、成果をあげる力量を備え、しかも品格と平静さを失うことがないのだ。」

アジャイルチームには、三つの特徴があるという。
まず、役割分担がない。人はみな自分の得意分野にこだわる傾向があるので、定義する必要もないと。
次に、分析、設計、実践、テストといった工程はいずれも、途切れることなく続く連続的な取り組みで、日々連携であると。
そして、チーム一丸となって成果責任を果たし、自分の担当に固着しないと。
こうしたチームには、哲学的な共通意識やメンバーが互いに高め合おうとする風土を感じる。アジャイルは、ソフトウェアの開発手法として知られるが、なにも分野にこだわることもあるまい。時にはフレームワークであったり、時には職場環境であったり、あるいは、エンジニアリングであったり、マネジメントであったり、はたまた、心構えであったり、哲学であったり、はたまた、人生そのものであったりと様々な捉え方ができよう... 

「君が質の高いソフトウェアを届けることは誰にも止められない。君が職場に立って、お客さんに向けてプロジェクトの状況と、プロジェクトに必要なことを誠実に伝えるのも誰にも止められないんだ。でも勘違いしないでほしい。これは簡単なことじゃない。私たちの業界には何十年もの歴史がある。時の流れと共に積み重なってきた数々の問題が、私たちの行く手を邪魔することだってあるだろう。とはいえ、結局のところ君の働き方や仕事の質を選んでいるのは他の誰でもない、君自身なんだ。そのことだけはしっかりと受け止めてもらいたい。それから、誰かにアジャイル開発を押しつけるのはだめだ!」

優れたプロジェクトマネージャは、チームに何をすべきかなんて指示しないという。そんなことは必要もないと。プロマネが手助けすることはただ一つ、環境を整えること。そのためにも自己組織化を要請している。
スタートを切る前から駄目になってしまうプロジェクトは多い。その主な理由を二つ挙げている。一つは、答えるべき問いに答えられない。二つは、手ごわい質問をする勇気が持てない。まさに忖度体質か!
そこで、マネジメントツールとしてインセプションデッキを提示している。インセプションデッキとは、プロジェクトの目的や問題点などを全体像として把握し、チームの進むべき道を示したある種のドキュメント。それは、10 の手ごわい質問と課題で構成される。我々はなぜここにいるのか?との問いに始まり、エレベーターピッチの作成を求めたり、顧客を積極的にメンバーに引き入れたり、解決案を図式化したり、期間の見極めや何を諦めるかを明確にしたり...
要するに、哲学的な意識や価値観をメンバーで共有し、個人とチームの強みをしっかりと自覚すること。
尚、やるべきことは、どうも加算されていく傾向にあるので、諦めることを明確にする方が合理的なようである。それでも、プロジェクトをやるのか?と自問すれば、プロジェクトの核心に迫り、インセプションデッキの背後にある意思が見えてくる。適切な質問こそが、自己を導き、チームを導くであろうことを。そして何よりも、仕事ってやつは楽しまなくっちゃ!

但し、言葉に翻弄されては本末転倒。オブジェクト指向にしても、ドメイン駆動設計(DDD)にしても、テスト駆動開発(TDD)にしても、真新しい方法論が登場してはセミナーが乱立し、そこに人は群がる。おそらく、アジャイルを実践している人は、それがアジャイルかなんて意識はないだろう。ごく自然に受け入れているのでは...
本書で紹介されるアジャイルの原則にしても、すでに実践しているものが多い。特定の方法論に固執しないのも、一つの方法論としておこうか...
とはいえ、あまりに情報を共有するがために、すべてがメンバー全員に筒抜けでは弊害もある。リリースの遅れにしても隠しようがない。上を誤魔化し、結果で帳尻を合わしてきたプロマネにとっては...

「マーフィの法則は、事前によく練られた計画を台無しにしてしまうことについては、とりわけ情けも容赦もない。変化と向き合うための戦略がなければ、君の暮らしは荒れ狂うプロジェクトに翻弄されるがままになってしまうだろう。」

ちなみに、身近な介護チームにも、アジャイルを見かける。福祉サービスや通所介護に病院が加わり、ケアマネージャさんをはじめ、介護士さん、福祉用具屋さん、看護師さん、栄養士さん、理学療法士さん、お医者さん、ついでに食堂や売店のおばさんたちの連携が素晴らしい。医療現場といえば、たいてい医師が主導する立場にあろうが、担当の垣根を超えて介護士さんや看護師さんたちが率先し、お医者さんは後ろから支えているような位置づけ。臨機応変に対応せざるを得ない現場だけに、まさにジェネラリストの集まり。実に、自由主義的で、民主主義的なチームだ。
本書にも、アジャイルチームは担当役割が曖昧とあるが、曖昧というより自由と表現する方がいい。役割分担を明確に与えなければ、仕事が進まない大企業体質とは明らかに違う。命令を待たなければ何もできない官僚体質とも根本的に違う。なによりも仕事をしている人たちが楽しそうで、顧客の方も乗せられちまう。介護地獄が楽しいわけがないのだけど...
本書も、アジャイルメンバーに顧客を引き込み、積極的に要求を引き出すことを奨励している。実は、顧客というのは、自分の要求が分かっていないことが多い。なので、実用的な成果を短いスパンで定期的に公開し、顧客自身の意志を明確にさせることが重要となろう...

2024-07-28

"集合知プログラミング" Toby Segaran 著

原題 "Programming Collective Intelligence"
"Collective Intelligence" を機械翻訳にかけると「集合知」と出る。なにやら宝の山を思わせるような...
しかし、情報をただ集めるだけでは、大衆の叡智に体臭がたちこめ、情報過多シンドロームを患う。集合知の元になるのは確かにデータだが、きわめて流動的で、こいつを活用するのは至難の業。それには知を高めてこそ...

本書は、統計情報に機械学習のアルゴリズムが絡んでいく物語である。データの収集やパースのやり方、効率的なデータ構造の持ち方、あるいは、ネット上に公開される API の利用など、いわば機械学習の入門書といったところ。
サンプルコードでは Python が採用され、プリミティブ型では List と Dictionary が多用され、可読性もいい。そして、データ収集、分析のためのライブラリ群を紹介してくれる。
尚、當山仁健、鴨澤眞夫訳版(オライリー・ジャパン)を手に取る。

登場するアルゴリズムは、大きく分けて「教師あり学習」「教師なし学習」の二つ。
教師あり学習では、ベイジアンフィルタ、決定木、K 近傍法、ニューラルネットワーク、サポートベクトルマシン(SVM)が...
教師なし学習では、クラスタリング、多次元尺度構成法、非負値行列因子分解、最適化が...
これらのアルゴリズムに、ユークリッド距離、ピアソン相関係数、Tanimoto 係数、ドット積(内積)、条件付き確率、エントロピー、ガウス関数といった数学が絡んでいく。
要するに主に問われている事は、データの関連性とその距離や確率、そして、これらの次元的マッピングや可視化である。こうした図式化は、人口分布、流行予測、株式市場の動向といった現象と重なり、行動経済学的ですらある。

具体的な事例は、購入やレンタルした商品の情報からユーザに推奨する方法、膨大なデータから類似したアイテムを発見してクラスタリングする方法、数多くの解決策の中から最適なものを選ぶ方法、オークションの最終価格を予測する方法、カップルになりそうなペアを探す方法など。
例えば、Amazon で本しか買っていなくても、類似のユーザに関連づければ、映画のオススメもできるといった具合。どんな些細な個人情報も、集団化して分類器にかければ、金になるってことだ。年齢、性別、家族構成、住まい、保険契約、プロバイダ契約から、お酒の嗜好や音楽の好みまで、データの集合体として組み立てれば、なんでもあり。
そして、ほんの些細な情報漏洩も... 情報収集社会から行動モニタリング社会へ、まったく油断も隙もならぬ時代を実感させられる。
さらに、遺伝的プログラミングに触れ、アルゴリズム自体を自動生成するアルゴリズムまでも登場。もはや人間様は不要ってか。いや、カモは必要だ!

おまけで付録には、日本語テキストを処理するためのサンプルコードが紹介される。英語のように単語と単語の間に空白があるような言語システムでは、デリミタで悩むことがなく、そのまま正規表現にかけたりできるが、日本語の場合そうはいかない。文章解析では、昔から悩ましいところ。こいつに、g さんの PageRank アルゴリズムを喰わせた日にゃ...

2024-07-21

"Beautiful Testing" Tim Riley & Adam Goucher 編

テストにビューティフルとは、なんとも馴染みにくい形容である。開発工程において、最も泥臭く地道で根気のいる仕事。テストケース、おいらの周りでは検証リストと呼んでいるが、この膨大なリストと睨めっこしながら、実際にテストを実行していくのは思いっきり辛い!ちまちました項目を挙げていく眼力は、まるで姑チェック!おまけに、それで完全に網羅できたなんて、どこにも保証がないときた。
とはいえ、テスト環境、おいらの周りでは検証環境と呼んでいるが、これを構築するのは結構楽しい。プログラミング言語、ハードウェア記述言語、数値演算言語、グラフィックツール、画像フォーマットなどを組み合わせ、スクリプト言語で全体を制御する。こうした統合環境を構築していると、システムを支配した気分になる。自動化して手懐けちまえば、ちょっぴり美しくも見え、何よりも愛着がわく。手のかかる子ほど可愛い... と言うが、その類い。
ならば、自動化に至る作業までも自動化してくれなくっちゃ... AI 君、よろしく!人間よりも人間臭い AI の出現を願いつつ...
尚、大西建児監訳、児島修訳版(オライリー・ジャパン)を手に取る。

「ソフトウェアテスティングは常に挑戦です。どれほど真剣に取り組んだとしても、プログラムが完全に安全で、バグフリーであることを証明できません。アルゴリズムの完璧さを証明出来たとしても、その確信が正しいかどうかは、現実世界によって検証されるのです。」

美しい... というのは、あくまでも主観的な審美眼。美しさが何であるかを完璧に知る者は、いないだろう。芸術家ですら、美的感覚は個性によるもの。それでも、美しさ、単純さ、真理といったものには、なにがしら関連性がありそうだ。
自然界には数学に看取られた美がある。例えば、黄金比がそれだ。構造化プログラミングにも、オブジェクト指向にも、設計手法にも、そのような感覚を覚えることがある。
では、テストはどうであろう。自動化や効率性といったものに、それを見い出すことはできそうか...

「何かを指して『美しい、素晴らしい』と言うとき、そこには大きな『喜び』か『満足』のどちらかが存在します。」

本書は、テスター、プロセス、ツールという三部で構成され、23 もの体験談が掲載される。ビューティフルテスティングとは、「ビューティフルなテスターによる、ビューティフルなプロセスのための、ビューティフルなツールの活用」であると。
テスターの心理やオープンソースに見るコミュニティから、ファジングやテスト駆動型開発(TDD)といった技法、あるいは、ミューテーションテストや Web オートメーションなど、門外漢でも興味を引く。

テスティングは、リリースの合否を判定する最後の砦。
ちなみに、極度に困難でストレスに満ち、重苦しい雰囲気の中で仕事をしている医療スタッフは、少々ブラックで、ゾッとするようなユーモアのセンスを身につけてしまうそうな。それは必要なことなのだろう。あまりに真面目で、緊張し過ぎの医者による手術は、勘弁願いたい。
テスターにも似たようなところがあるらしい。彼らは問題を発見し、それを報告し、リスクの存在を知らしめる。深刻なエラーもあれば、リリース後のアップデートでカバーできるバグもある。システムがますます複雑化していく昨今、完全にバグを消し去るなんて不可能だ。
本書は、テストの観点から少しばかり肩の力を抜いてくれる。アダム・グーチャーは、「楽しさ、やりがい、魅力、経験を積んでいるという実感、知的さ、意義」これらを言い換えると、すべて美しいことだという...

ところで、テスターとは、どんな人種であろう。どんな人が向いているのであろう。
テスターは質問魔!設計者にインタビューし、設計思想や設計構造を聞き出しては実質的な設計を理解し、テストすべき要所を見抜く。適切な質問で言葉の行間を読み、現象の背後にあるものを推測する。好奇心旺盛で実験好き、分析的で、新たな知識をすばやく吸収。バグを見つけるのは、まるで宝探し。その姑チェックぶりは、なかなか手ごわい。
一方で、政治的な振る舞いには無関心で、目上の人間にもお構いなし。開発部と品質管理部はよく衝突するものだが、適度な緊張感は必要だ。中には開発メンバーを教育してやろうと考える人もいるが、人の欠点ばかり探してるってのもどうだろう。
優れたプロジェクトチームは、テストチームの知識と直感をうまく活用するという。テスターとの距離感と、そこに信頼関係を築くのも、プロマネの本領というわけか...

「言ってみれば、僕は現実の境界線をテストしていたんだ。ただ、何が起こるのか見てみたかった。好奇心... それだけさ。」
... ジム・モリソン

2024-07-14

"Visualizing Data - Processing による情報視覚化手法" Ben Fry 著

グラフィック用のプログラミング言語 "Processing" ってやつが、ずっと気になっていた。データをビジュアルに表現するのに、Ruby や Python、あるいは JavaScript や Gnuplot そして画像フォーマットなどを駆使し、ちと行き詰まり感が漂う今日このごろ。Graphviz もかじったりと... 本書でも触れられ、ちとうれしい!

本書は、Processing の言語入門書といったところ。当初、この言語は芸術家やデザイナ向けの Java 拡張として開発されたそうな。今では、本格的なデザインツールならびにプロトタイピングツールとして利用されているとか。
Java ベースというのは個人的にはちと抵抗のあるところだが、RubyGems にも rubysketch ってやつがあって、"A game engine based on the Processing API." とある。
尚、増井俊之監訳, 加藤慶彦訳版(オライリー・ジャパン)を手に取る。

大勢で大量のデータと向かい合う情報過多の時代、データ収集の方法は思いっきり進んでも、それを分析し、それを利用するとなると遅れをとる。いくらデータを集めたところで満足のいく答えが得られるわけもなく、むしろ弊害に。単に集めただけのデータは漏洩した途端に悪用され、これほどタチの悪いものはない。
本書は、まずデータの理解に目を向け、そこに至る七つのプロセスを提示する。収集、解析、フィルタリング、マイニング、表現、精緻化、インタラクションと...

「優れた問いを発することは、データを理解する上で最も重要なスキルの一つです。... もちろん、問いを過度に狭く定義することはやめて柔軟に利用できるようにしたいデータセットもあるでしょう。ただしその場合でも、重要な発見を強調することに目標を置くべきです。」

本書は、地理情報、時系列データ、散布図、ツリー構造や階層構造といったものを事例に、具体的なコードを紹介してくれる。全般的に対話的手法が掲載され、興味を引くところでは、map() などのメソッド群、タブ表示、タイポグラフィ、あるいは、Eclipse といったところ。付録には、ActionScript の使い方まで掲載されるが、まぁ、これはいいやぁ...

しかしながら、いくら言語を習得しても、いくらコードの書き方を会得しても、ビジュアライジングに演出するには芸術的なセンスが問われる。
ベンジャミン・フライは、コンピュータサイエンス、統計学、データマイニング、グラフィックデザインなど、様々な分野の洞察力が必要だとしている。
ちなみに、ガウディは、建築はあらゆる芸術空間の総合であり、建築家のみが総合的芸術作品を完成することができるとし、自ら画家、音楽家、彫刻家、家具師、金物製造師、都市計画家を演じてみせた。ビジュアライジングにも、建築家のような空間センスが必要なのであろう。
そして、普段から芸術を嗜み、美術に親しみ、動画や映画の演出に触れ、多くのデータと戯れ、多角的に視覚センスを鍛えておかねば。おそらく最も重要なセンスは、調和ということになろうか。
ここでは、芸術家でありながらプログラマでもある人材を求め、宮大工のような調和センスを要請してくる。なんと酷な!

2024-07-07

"数学の学び方・教え方" 遠山啓 著

暗算って、どうやってるんだろう。おいらは、自分の頭の中がとんと分からん。
例えば、2 + 3 って、どうやって計算してるんだろう。暗記か。経験則か。
方程式の解が一通りでも、解き方はたくさんある。ならば、答えよりも、答えに至る過程の方が重要やもしれん。その方が人間味があっていいし、ほかの解き方を模索するだけで視野も広がる。
数学は、論理的思考の源泉。それは問題解決能力を養う上でも鍵となり、今日の情報社会でデータの収集や分析に欠かせない。
数学をやるのは楽しい。落ちこぼれでも楽しい。自由に学べるってことが、なにより愉快。押しつけがましい学習指導要領なんぞ、クソ喰らえ!

遠山啓先生は、数学の土台に、量と数、集合と論理、空間と図形、変数と関数を位置づけ、従来の急所を避ける数学教育の在り方に苦言を呈す。教育ってやつは、なにかと保守的なもの。数学の教え方となると、明治時代に確立されたやり方が根強く残っているという。
数学を物語るならば、最初に「数」を論じそうなものだが、ここでは「量」を論じることに始まる。それは、人間の進化に根ざした感覚的なもの。大きい、小さい、多い、少ない、熱い、冷たい、長い、短い、重い、軽い、高い、安い... こうした量は、日常生活と密接に結びついてきた。いわば、生命を維持するための本能的な感覚として。これらの量を客観的な視点で数値化しようとするのが数学という学問。数はそれを記述するための道具に過ぎないというわけか。

そして、集合論に論理的思考の根源を見る。集合は、英語では "set"。この用語は、セットメニューや食器セットなどでお馴染み。憲法は条文の集まり、古今和歌集は和歌の集まり、これらすべてセット。
集合という概念は身近でありながら、その定義となるとよそよそしい。結局は、記述の問題か。集合の要素を種別、分離することで図式化したのがド・モルガンの法則で、真と偽、論理和と論理積でブール代数を成す。この論理形式は、真理値表とすこぶる相性がよく、0 と 1 で記述するデジタルへの道筋を示している。
そして、ブール関数の簡略化で有効なカルノー図やクワイン・マクラスキー法がふと頭をよぎり、なにやら懐かしい風を感じる。本書には登場しないけど...

空間問題では、定規とコンパスが主役。つまり、直線と円で特徴づけられる図形が問われる。ただ、直線は幅のないまっすぐな線であって、現実的ではない。図形は、測度よりも、その特徴に目を奪われがち。三角形の性質を説いても、スケールの実感がわかない。そこで、方眼紙を用いた作図を、教育に取り入れることを提案してくれる。すると、図形をマス目で数え、測量する感覚が自然に身につくのだとか。図形を量として捉えるのがいいのかは分からんが、方眼紙を用いて思考する習慣は良さそう。
図形の舞台は、ユークリッド幾何学。その代表格は三角形だ。図形の性質を論じるのに、三角関数は欠かせない。それは図形にとどまらず、あらゆる連続的な物理現象の解析に用いられる。フーリエ変換がそれだ。こいつには、学生時代に魅せられたものだ。本書には登場しないけど...

ユークリッド原論は、公準、公理、定義を通して、整然たる論理の組み立て手順を示した。まさに、論証法のお手本!それで、演繹的な思考が王道とされ、帰納的な思考が邪道とされるのでは、ちと視点が狂っちまう。現実社会は、すっきりと演繹的に説明できる現象はそうはない。むしろ、帰納的なアプローチの方が役立つことが多い。例えば、互助法は帰納法の美しさを示しているし、そこからアルゴリズムという思考法が見えてくる。

さらに、変数と関数が登場すると、代数という抽象数学を体感できる。ツルカメ算は、最初に出くわす連立方程式。その原型を古代中国の算術書「孫子算経」に見る。
方程式は、入力に対する出力という関係から、量的な因果法則として成り立つ。これを、ある種のブラックボックスと見立てれば、符号化処理や暗号処理、あるいは、あらゆるデータ変換への道筋が見えてくる。
さらにさらに、関数を座標系に投影すれば、グラフとの関係が見て取れ、認識空間が精神空間と結びつく。やはりデカルトの発明は偉大だ!

2024-06-30

"世界でもっとも正確な長さと重さの物語" Robert P. Crease 著

長さを測る。重さを量る。それは何を意味するのか。あらゆるものを計測する。それは単なる慣習か。あらゆるものの基準をつくる。それは人間の本性か...

度量衡体系にも社会的な意味がある。相互理解をもたらす尺度として、価値や文化の共有、国際協調といった意識を高める上でも。それは、身体尺に始まったとさ...

尚、吉田三知世訳版(日経BP社)を手に取る。


身体に結びつく尺度では... インチは親指の長さ。フィートは足の長さ。ヤードについては諸説ある。アングロサクソン人のウェスト回りのサイズや、イングランド王ヘンリー 1 世が自分の鼻先から親指までの長さとしたなど、はたまた、古代ギリシアの長さの単位キュビットの倍だとか。

生活習慣と結びつく尺度では... エイカーは、一日に一人で耕せる面積。ポンドは、一日に消費するパンの製粉量... こうして人類は、まず自分自身の感覚を尺度の基準としてきた。客観的な知識は、主観の中でもがいた結果得られる。それは、絶対的な認識能力なんぞ持ち合わせていない知的生命体の宿命である。


本物語は、あのダ・ヴィンチが理想とした身体像「ウィトルウィウス的人体図」の考察に始まり、腕の長さ、足の長さ、ヘソの位置、頭の大きさ、肉づきに宇宙のメカニズムを見る。人体の対称性こそが宇宙の秩序を表し、霊的な次元を映し出し、調和と完全性を体現する。

そして、すべての測定単位が自然界の物理現象によって定められた時、単位系の意義が浮かび上がる。計測基準が人工物の呪縛から解かれるということは、真の知識が解放されるってことか。それは、パンドラの箱を開けちまうようなものか...


物理量は、すべて計測の対象になり得るだろうか。計測するという行為が人間の本能に根ざしたものかは知らんが、抽象的な物理量には抽象的な単位が必要だ。計測の問題では、科学者たちは絶対の真実に到達できないと考えているのか。だから、誤差に問いかけるのか...


「われわれは神の計り知れぬ目的など知らないし、神の計画を理解することもできない。われわれにわかるのは、神は自らの下僕(しもべ)に誤解させておくのがふさわしいと思うかもしれないということだけだ。」

... プラグマティズムの創始者チャールズ・S・パース


国際単位系(SI)において、人工物が基準となっていた最後のものは、キログラムであったという。それも、2019 年のことで、本書が刊行された 2014 年よりも新しい。それまでは、白金イリジウム合金でできた国際キログラム原器が基準となっていた。

現在の SI の基本単位は七つ... 秒はセシウムの超微細遷移周波数、メートルは真空中の光の速さ、キログラムはプランク定数、アンペアは電気素量、ケルビンはボルツマン定数、モルはアボガドロ定数、カンデラは視感効果度が、それぞれ定義定数とされる。


確かに、単位系は客観的な数値で決定し、人工物の入り込む余地は残さない方がいい。

しかし、単位ってやつは習慣と深く結びつくもので、今更、アメリカンフットボールをメートル法にするわけにもいくまい。

通信業者が公表するデータ転送速度はどうか。何々 Gbps 契約という名目で、60% も確保できれば御の字!

自動車会社が公表する燃費は、実際の道路事情に適合しているか。それで、ユーザが飼い慣らされてりゃ、世話ない。

法律にも似たところがある。慣習法ってやつが、それだ。条文が慣習として馴染まなければ、形骸化しちまうばかりか、犯罪の温床に...

そして、キログラムの定義に対するジョークが飛び出す...

「量子力学が不得手な肉屋や八百屋にはとんだ災難だ!」


慣習に看取られた人工物の呪縛では、「正午の号砲」というエピソードがなかなか...

何百年もの間、誰もが正午の号砲によって時間をあわせる慣わしとなっていたとさ。おかげで村人たちの生活は安定し、仕事から密会に至るまで、あらゆることを計画できる。

そこで、一人の少年が疑問を抱いた。いったいどうやって大砲を鳴らす時間を知るのか?砲兵の隊長が、正確な時を刻む時計を誇らしげに見せる。その時計はどうやって時間を合わせるのか?時計屋の大時計で合わせてもらうのさ。時計屋の大時計は、どうやって時間を合わせるのか?そりゃ、正午の号砲で合わせるのさ!


習慣ってやつは、恐ろしい。無条件に信頼を勝ち取るのだから。科学で裏付けられた知識よりも。それで無限循環論に囚われてりゃ、世話ない...

2024-06-23

"百年の孤独" Gabriel Márquez 著

この手の書は、独り言を加速させやがる。シガー香る焼酎をチビチビやりながらでは、しゃあない。銘柄はもちろん、百年の孤独!心の中で自己陶酔に溺れ、肉体をも酔い潰す。孤独死の予兆か... オーメン!

巷では孤独を悪のように触れ回り、孤独死を悲惨な結末として忌み嫌う。しかし、それは本当だろうか。偉大な思想や創造力は孤独から生まれた。寂しさを知らねば、詩人にもなれない。芸術家たちは自我との対立から偉大な創造物に辿り着き、真理の探求者たちは自問することによって学問の道を切り開く。そのために命を擦り減らし、自ら抹殺にかかることも。自己否定に陥ってもなお愉快でいられるなら、それこそ真の自己肯定というものか...

一方で、孫たちに囲まれて賑やかに死んでいくことを願ったり、盛大な葬式を願ってはビデオレターで演出したり、生前葬をやっては生への未練を断ち切れないでいる。自己を慰める術(すべ)を知らねば、他人の同情を引くしかあるまい。
孤独は自己の中にあり、自己を知ればこそ謳歌できる。孤独感は集団の中にあり、人に振り回されるからこそ不安を募らせる。
とはいえ、人間は人との関係においてのみ自己を知ることができる。それは、相対的な認識能力しか持ち得ない知的生命体の宿命だ。呪われているのは孤独か。いや、呪われているのは人間だ。
もはや自由への熱狂は冷め、沈黙の恐怖に見舞われる。おまけに、高度化した情報社会のおかげで距離の概念はぶっ飛んだ。家から一歩も出ずに世界中の出来事に触れることができ、世界一周旅行だって疑似体験できる時代だ。その分、人との関係で距離を求めてりゃ、世話ない。ならば、引き籠もって生きる方が合理的やもしれん。理想的な死は、むしろ孤独死の方にあるやもしれん...

さて、独り言はこのぐらいにして...
本書は、村の開拓者一族が辿った創生から隆盛、そして衰退から廃墟へ至る百年の物語。一族にまとわりつく孤独の深淵とは。ずっと昔から血を交えてきた両家。血が濃すぎると奇形児も生まれる。近親相姦に、強大な睾丸に、貪欲な下腹に、血に飢えた男どもとくりゃ... 親がおかしけりゃ、子もそうなるさ。
「わしにはまだ六人も娘がいる。よりどりみどりだよ。」

どこへ行ってもよそ者。本当の身内なんていやしない。血のつながりすら当てにはならない。ただ無関心があるのみ。自尊心を捨て、悪意さえも犬に喰わせちまった。
神が人を救ってくれるのか。聖書が信じられリャ、誰だって信じられる。
愛が人を救ってくれるのか。神の前で誓った愛ですら心もとない。
知識が人を救ってくれるのか。盲人に読ませる本はねぇ。いや、盲人の方がはるかに物事が見えてらぁ...
「この世も終わりだよ。人間が一等車に乗り、書物が貨車にのせられるようになったら!」

奇形児の誕生を恐れ、豚の尻尾を持った坊やが生まれないように... と願いつつも百年後には、それが現実に。一族の最後を運命づけらた末裔に何を見る...
「この百年、愛によって生を授かったのはこれが初めて...」

あれっ?こいつは、虚無の物語ではなかったのか。まさか、愛の物語だったとは。いや、愛だって虚無の類い。独り言がうるさけりゃ、本筋が見えなくなる。まったく物事が見えてねぇ奴に読ませる本はねぇぜ...
尚、鼓直訳版(新潮社)を手に取る。

2024-06-16

"作品は「作者」を語る" ソーントン不破直子, 内山加奈枝 編著

作品は誰のものか...
人間の本能は、とかく所有の概念に敏感ときた。私のものは私のもの、あなたのものも私のもの。その対象は、物ばかりか人にまで及ぶ。ぼくの彼女に、あたいの彼氏に、はたまた、お前がこの場にいるのは俺のおかげだ!などと...
その領域を侵そうものなら、恨み妬みの類いが襲いかかる。作品を購入すれば、所有権は購入者へ移り、その作品をどう解釈するかなんて、持ち主の勝手次第。作者が過去の人なら死人に口無しよ。だからといって、作者の亡霊からは逃れられない。作品を評するのに、作者の存在はなかなか無視できない。そして、作者の意図を解し、作者が生きた時代背景を汲み取る。そうでないと、作品を味わうことも難しい。作者は、単なる作品の制作者にとどまらない。名作ともなると権威をまとい、時には道徳論と結びつき、時には教育論で存在感を示し、時にはイデオロギー装置の引き金となって永遠の存在となる。

では、作者不明の作品はどうであろう...
例えば、原作不明で知られる「千夜一夜物語」、別名「アラビアン・ナイト」は世界各国で翻訳され、子供たちにも親しまれる。作者が定まらなければ、原型も定まらず、後に加筆され、様々なバリエーションが共存する。
しかしながら、作者不明と作者不在とでは、ちと意味が違う。たった一人の原作者の権威に縛られず、あちこちから作者が加わり、作品自体が独り歩きを始める。未完成とは、自由の代名詞か。とはいえ、寄り集まりの作者たちが生きてきた時代に翻弄されてりゃ、世話ない...

「読者の誕生は、作者の死によってあがなわれなければならない。」
... ロラン・バルト

作品の解釈をめぐっては、作者の意図を優先すべか、受け手の自由な解釈に委ねるべきか...
解釈する側の単純化する性癖はいかんともしがたい。一貫性を求めたところで、作者の自己矛盾ばかりか、受け手自身の自己矛盾に翻弄される。ならば、その双方にとどまらず、中庸な立場で眺めるのも悪くない。想定できるすべての立場を渡り歩くのも面白そうだし、それこそが作者が意図することかもしれん。
例えば、ヘミングウェイは、何も起こらない物語を書いたという。原題 "Big Two-Hearted River"、これの邦題が「二つの心臓の大きな川」では直訳すぎる感も... まぁ、それは置いといて。戦争帰還兵の物語が、戦争には一度も触れていないとは、これいかに。戦場とは対照的な静寂な光景に浸るという、なんとも思わせぶり。ヘミングウェイ自身がロストジェネレーションでもあり、そうした空虚な精神状態を物語ったのであろうか。作者の生きた背景を知らなければ、味わうのが難しい作品である。
しかし、それも読者の勝手な解釈かも。戦争とはまったく関係なく、単に癒やされた感覚を素直に綴っただけかも。読者の側も、読了した労力の報酬を受取りたいし、読書時間に対する見返りが欲しい。どんな言葉も、どんな表現も、深読みすることによって読者は救われる。批評家であれば、尚更であろう。
おまけに、作品に自己同一性を求め、教訓的な何かを期待する。作品の主体に責任を押し付けるのは、読者の責任逃れか。作者に人類を救え!などと吹っ掛ける気にはなれんよ...

「余は心理的に文学は如何なる必要あって、この世に生れ、発達し、頽廃するかを極めんと誓へり」
... 夏目漱石

文学は、言葉の力を魅せつける。言葉は語られることによって生を受ける。しかし、誰が語るかが問題だ。この世には、名言とやらが溢れている。本来、誰が何を言ったかなんて関係ないはずだが、語り手の名声が威光を放つ。この天の邪鬼ごときが孔子の言葉を熱く語ったところで、所詮、酔っぱらいのたわごとよ。
そもそも文学とはなんであろう。その定義となると、「言語表現によって創作された虚構」とするのが一般的なのかは知らんが、文学作品は人間の本質を暴き、その虚構の場に読者は現実を重ねる。マクベスが権力欲を露わにし、クレオパトラが情欲を剥き出しにし、ロミオが愛の苦しみを暴き、シェイクスピアの虚構が人間の現実を物語る。作者の体験からくる発想が膨らんでフィクションとなり、フィクションがフィクションでは終わらず、さらに上位のメタフィクションで語り継がれ、もうメタメタよ!

「読書という行為によって生命の息を吹き込まれて生かされていく限り、文学作品は、そのときの読者の生命を一時停止させることによって、ある種の人間になるのである。」
... ジョルジュ・プーレ

古典は、時代に揉まれて名作となる。本体のニュアンスを微妙に変化させながら、時代に同化していく。まるでカメレオン!
作品は作者の鏡、自己投影の場、心で感じたものが露わになる場。そうした作者たちの独創性はどこからくるのだろう。社会に馴染めない性癖が、虚構の世界に走らせるのか。持って生まれた才能が、そうさせるのか。
いや、人に影響されずに生きてゆける人間は、そうはいない。独創性の源泉には、なんらかの模倣が含まれているはず。ゲーテは、死の一ヶ月余り前に、こんなことを呟いたという...

「われわれはどう振舞ってみても、結局みんな集合体なのだ。純粋な意味でわれわれ自身のものと呼べるものは、どんなにわずかなことだろう!われわれは先人や同時代人からすべてを受け入れ学ばなければならない。... 私は他人がまいてくれたものを取り入れさえすれば、よかったのだ。」

2024-06-09

"歴史を変えた 6 つの飲物 - ビール、ワイン、蒸留酒、コーヒー、茶、コーラが語るもうひとつの世界史" Tom Standage 著

トム・スタンデージという人は、ちょいと風変わりな視点から歴史を物語ってくれる。それは、喉の乾きの物語。人体の三分の二は水からできており、水分の補給はそのまま死活問題となる。
しかし人類は、文明の歩みとともに水以外の飲み物を発明してきた。文化の尺度に水質が挙げられるが、水以外の飲み物にも文化の成熟度が見て取れる。
ここで注目する飲み物は、三つがアルコール、三つがカフェイン。ぞれぞれの出現に、農耕の始まり、王朝や貴族のステータス、裏社会との結びつき、大量生産と大消費主義の動機づけなど、人類の一万年の歩みを概観させてくれる。ただ、良き水がなければ、良き飲み物も叶わない。
結局、原点回帰へ導かれ、老子の言葉を引く... 上善、水の如し!
尚、新井崇嗣訳版(インターシフト)を手に取る。

水以外の飲み物では、まず醸造物がある。それは、神からの賜物か...
農耕をやれば、農作物の自然発酵を観て、醤油や味噌、そして酒の作り方を学習する。主だった醸造酒では、ビールは麦芽を発酵させ、ワインはブドウの果汁を発酵させ、日本酒は米を発酵させて造る。発酵とは、言わば、うまいこと腐らせること。文化の尺度に腐らせ方の技術を見る。人間も、腐らせ方が問題か。うまく腐らせれば、熟成する。

「銃器および伝染病と並び、蒸留酒は旧世界の人々が新世界の支配者になる手助けをすることで、近代世界の形成に寄与した。蒸留酒は、数百万の人々の奴隷化および強制的移動、新しい国家の建国、土着文化の征服の一翼を担ったのである。」

社交場におけるビールの役割は、メソポタミア文明やエジプト文明にも記述が見つかるそうな。ワインともなると、古代ギリシア・ローマ時代に、その飲み方で人間性が格付けされたとか。大航海時代になると、長い船旅で保存性を求め、醸造酒を蒸留してウィスキーに価値を見い出す。世界各地の植民地では、その地域に適した蒸留酒が生産された。そして、アメリカ建国にラム酒が一役買ったのだった。蒸留酒の流通は、グローバル経済の幕開けを予感させる...

「ニューイングランドは、その富の主な源であるラム酒をフランス領の島々の安価な糖蜜で作った。彼らはラム酒で奴隷を買い、メリーランドとカロライナで働かせ、イギリスの商人たちへの負債を支払ったのである。」
... 合衆国大統領ウッドロー・ウィルソン

酒宴の場は、あらゆる論議を活性化させてきた。プラトンの「饗宴」に浸れば、哲学論議もお盛ん...
しかし、酒は強い人と弱い人、飲める人と飲めない人がいて、とても平等とは言えない。悪酔いすれば、頭痛が...
頭をスッキリさせたければ、カフェインか。そこで、コーヒーハウスの出現。男女を問わず、階級を問わず、粋な男に、コケティッシュな女に、聖職者に、ジャーナリストに、作家に、詐欺師など、あらゆる人種が集まり、政治、経済、哲学、技術などあらゆる分野で談話の場となる。本格的な情報社会の到来か...

コーヒーが情報社会を発展させたとすれば、世界征服を覚醒させたのは、お茶ってか。大英帝国に発する帝国主義の野望は、イギリスへ茶を供給する東インド会社の独壇場に発するという。その税収によって、政治的影響力を増大させていく。多国籍企業の先駆けか。茶の栽培からケシの栽培まで、その供給ルートを独占すれば、アヘン戦争へ導かれる。茶の物語は、産業革命から帝国主義へ至る物語というわけか。
イギリスでは紅茶がもてはやされ、これに高級志向が絡むと、差別意識を助長させる。紅茶のまろやかさに浸れば、誰もが王族気取り。その感覚は、スコッチやブランデーにもお見受けする。こうした文化の優越感が、民族主義や国粋主義を覚醒させていったとさ...

そして、大量生産や大消費主義を象徴するのが、コーラというわけである。カフェインにコカインとくれば、コカ・コーラに資本主義のエッセンスを見る。21世紀の現在でも、超エリートの政策立案者たちは、消費を煽る経済政策しか打ち出せないでいる。
水の浄化技術が貧弱な時代には、水以外の飲み物が求められた。水質汚染に正面から立ち向かうことのできる技術革新の時代となれば、問われるのは、まさに水の質ということに...

2024-06-02

"世界を変えた「海賊」の物語 - 海賊王ヘンリー・エヴリーとグローバル資本主義の誕生" Steven Johnson 著

海賊といえば、海上を荒らし回る無法者ども。彼らには陸地が、よほど居心地が悪いと見える。海賊にとって陸地とは、政治権力がのさばる呪われた地、あるいは、同調圧力のはびこる隷属社会といったところであろうか...
海は地球の表面の 70% 以上を占め、陸よりも広く、なによりも自由が広大。例えば、平将門の乱と時を同じくして、藤原純友は海賊討伐の宣旨を受け瀬戸内へ向かったが、逆に海賊の頭領となって朝廷に反旗を翻した。ミイラ取りがミイラに... 精神力学における自由引力は思いのほか強い...

本書は、そうした無法者の徒党から自然法なるものが生じる様子を物語ってくれる。互いに社会に馴染めない者同士が集まれば、逃れた先でも集団生活を営むことになり、社会的なルールが生じる。集団で襲撃するにしても、戦略や戦術を用いる合理的な組織となり、上下関係や階級が生じる。権力分立が定められ、公平な報酬体系が導入され、病人の補償制度までも整備されていくとなれば、まさに海上民主国家!
そして、頭領が最も恐れるものは、部下たちの飢えであったとさ...
尚、山岡由美訳版(朝日新聞出版)を手に取る。

「海賊は、世界の秩序を変える火種をつくった。権力分立が明記されたミニ憲法、掠奪品を公平に分配する報酬体系、労働者協同組合、事故や怪我の重傷者への保険制度... そして海賊たちは友情を育み、恋もした。すべて、生きていくためだ。」

著者スティーブン・ジョンソンは、ちょいと風変わりな視点を与えてくれる。なにしろ、センセーショナルな犯罪物語を通じて、民主主義や資本主義の源泉を辿ろうというのだから。こうした見方は天の邪鬼にはたまらん。いや、こちらの方が本筋か。裏社会にも掟があるってことだ。いや、裏社会だからこそ。いやいや、どっちが表だか...

さて、海賊の黄金時代を先駆けたヘンリー・エヴリー。この海上ユートピアの主人公は、文字通りの奸賊か、それとも伝説通りの英雄か。
世界通商の破壊を恐れる政府に対して、英雄伝を捲し立てる売文家たち。この対立構図を大衆メディアが煽り、まるで現代社会の縮図!海賊の掠奪は、国家の搾取や企業の横暴と何が違うのか。それは程度の違いか。国家だって愛国心を後ろ盾に他国を侵略するし、宗教だって、違う神を信じるだけで平然と迫害する。
海賊だって、仲間内では絶対的な掟も、部外者にはまったく効力を持たない。排他主義に、同じ穴のムジナとくれば、これはもう人間の本性とするほかはない。
しかし、いくら喰うためとはいえ、レイプや人身売買までも正当化すれば、人間の誇りまでも失う。殺害を正当化する時の決まり文句は、死人に口無し!

「アレクサンドロス大王に捕えられたある海賊は、大王に対して優雅にかつ真実に、次のように答えたのである。すなわち、王がこの男に向かって、どういう了見でお前は海を荒らし回っているのかと尋ねたところ、その男は何らはばかることなく豪語した。『あなたが全世界を荒らし回っているのと同じ了見です。わたしはそれをちっぽけな船舶でしているから海賊と呼ばれているのですが、あなたは大艦隊でやっているから、皇帝と呼ばれているのです。』と。」
... アウグスティヌス「神の国」より

2024-05-26

"世界が動いた「決断」の物語 - 新・人類進化史" Steven Johnson 著

熟考というのは、人類特有の行為であろうか...
長期的な視野に立てるというのは、進化の過程でホモ・サピエンスだけが習得した能力であろうか。そこが、人間の人間足る所以やもしれん...
だが、三千年記が幕を開けても尚、現代人は近視眼的な判断に振り回される。どんなに経験を積み、どんなに情報を集めても、動物の本能には逆らえない。そこが、人間の人間足る所以やもしれん...

「自然は人間を二人の独立した主人の支配下に置いてきた。それは苦痛と快楽である。私たちが何をするか決めるだけでなく、何をすべきかを指示するのも、もっぱら苦痛と快楽なのだ。一方では善悪の基準が、他方では因果の連鎖が、この二つの玉座に結びつけられている。私たちがやること、言うこと、考えること、すべてを苦痛と快楽が支配している。服従をかなぐり捨てるために私たちができる努力はどれも、服従を実証し裏づけることにしかならない。」
... ジェレミー・ベンサム

本書は、決断のメカニズムを、認知科学や社会心理学、軍事戦略や環境計画、そして、文学から紐解こうとする。それは、「モラルの代数学」に始まり、あらゆる状況や条件を「マッピング」した上で「予測」を組み立て「シミュレーション」し、「決定」に至る一連のプロセスを物語るという趣向。
モラルの代数学とは、メリットやデメリットを箇条書きにし、そのバランスを検討して意思決定を下すというもので、価値観の貸借対照表とでも言おうか。
マッピングとは、経験値などのスペクトル全体にわたる多変数システムのモデル化とでも言おうか。それは、内面から生じる感情から、政治的世界観や宗教的信仰、あるいは、社会的用件や経済的制約、さらにチャンスなど、実に幅広い。
予測やシミュレーションは、このマッピングによるモデリングが鍵となる。
ちなみに、この世には誤りが溢れているが、予言ほど差し出がましい誤りはないとさ...
尚、大田直子訳版(朝日新聞出版)を手に取る。

「決定者に必要なのは、意思決定の才能ではない。必要なのはルーティンや習慣なのだ。それは問題と向き合い、ほかにはない特性を探り、選択肢を比較検討するための、明確な一連の手順である。複雑な意思決定に取り組む人々の集団を見ていると、そこにはすばらしいドラマと深い感動があることがわかる。」

本書で注目したいのは、これらを物語性で結びつける点である。文学小説や芸術作品を嗜むことで豊かな物語が想像でき、意思決定のスキルが養われるらしい。
歴史を振り返れば、人間は言葉で操られ、大衆という集団性に惑わされてきた。劇的なスピーチに、ドラマチックな宣伝活動に... それは、ゲッペルス文学博士が証明して見せた。現在ではスタイリッシュなプレゼンテーションに踊らされる。
ならば、自分の人生を自分自身の言葉で物語ることができれば、周りに惑わされることも、ある程度は防げるかもしれない。小説は科学には示すことのできない洞察を与える。科学もまた小説には示すことのできない洞察を与える...

最も誤りやすいのは、えてして自分が正しいと確信することだという。能力の低い人ほど自分のスキルを過大評価しがち。意思決定の科学では、多様な集団の方が同質の集団よりも賢い選択をする可能性が高いという。多様な集団は、自分たちが間違っているかもしれないという考えにあまり抵抗がないらしい。
さらに、自己の中でも多様な物語が語れれば、選択肢がぐっと広がりそうだ。物語ってやつは、想定外な事も起こるから面白い。自己の許容範囲にあればだけど。そして、自己の許容範囲を広げるのも、物語の想像力ということになろうか...

しかしながら、その物語をマシンが語り始めたら...
人類は、ひたすら利便性を求め、実に多くの技術を編み出してきた。そして今、自らの技術力に陶酔する。いや、泥酔か。究極の発明品足る人工知能は、人類の判断能力を超える。こいつに情報を与えておけば、人間が思考する必要はない。いや、思考する人間は邪魔な存在か...
思考せず、判断しなくて済むとういことが、人間にとって幸せなのかは知らん。だがそれは、独裁者がすべての行動を個人に命じ、権力者が下した判断の言いなりになるのと何が違うのだろう。
すべては結果!そこに至る過程なんぞどうでもええ。すべての労苦は早送りされ、最後のスナップショットだけが残像に留まる。そして、結論が独り歩きを始める。しかも、結論を導くのはマシンだ。独裁者よりはましか。
マシンが人間味を帯び、人間がマシン化していくとなれば、落ち着いて嘆く準備だけはしておいた方がよさそうだ。人間そのものを再定義する準備を...

2024-05-19

"世界を変えた 6 つの「気晴らし」の物語 - 新・人類進化史" Steven Johnson 著

「おもちゃとゲームはまじめなアイデアの序章である。」... チャールズ・イームズ

歴史上に名を連ねる人物は、その名の通り偉大であろう。
但し、彼らが歴史を育み、真に文明を開花させて来られたのも、無名な人々の地道な支えがあったればこそ。だから人間は、人間自身の進化に誇りを持てる。その誇りが、誇大妄想を掻き立てることもあるにせよ。歴史を冷静に見つめるためには、人間の本能に根ざした視点が必要なようである。

スティーブン・ジョンソンは、「気晴らし」という衝動的な行動を主題にしている。その着眼点は、歴史を冷静に語るにはちと違和感があるものの、逆説的でなかなか面白い。おいらは、これを「気まぐれ」と解しているけど...
歴史物語ってやつは大抵、生き残りのため、権力のため、自由のため、富のためといった闘争として描かれる。そうした志に比べれば、気晴らしなんぞおまけのおまけ。必需品と贅沢品を対置すれば、明らかに必需品が重んじられ、労働と娯楽を比べれば、明らかに労働が重んじられる。
しかしながら、気晴らしのための娯楽の方にこそ、人間味溢れた歴史物語があるのやもしれん...

文化度を測る物差しに、余暇の時間と、余暇の多様性といった尺度がある。つまらない日常から解放されるために、ささやかな心の変化を求めて改良や改善に努める。これも気晴らしの類い。人間ってやつは、退屈とやらがよほど苦手と見える。一般的な世界史と距離を置くのは、なかなかの趣向(酒肴)!
それは、歴史の裏舞台か。いや、どちらが表やら...

「この探求への発展的な衝動が、楽しみと必要の差である。人は遊びモードのときには新しい驚きに寛容だが、基本的欲求は人の心を、生存のためにどうしても必要なことに集中させる。この差を理解することは、一見したところ表面的には軽薄な遊びが、これほど多くの重要な発見やイノベーションにつながった理由を理解するのに欠かせない。」

前記事「世界をつくった 6 つの革命の物語」では、ガラス、冷却、録音、清潔な水、機械仕掛けの時計、電球の光といった日常の発明が革命的な存在であったことを示してくれた。
本書では、機械時計から初期ロボットに至るからくり人形的な趣向、ファションに始まる紡績業の発達と商業主義への流れ、自動演奏ピアノからコンピュータに至る音響技術の情緒、香辛料の生産と消費に見る世界交易マップの成り立ち、幻影や錯覚を利用した映画産業の発展と映像技術の罠、ゲームに確率論が結びついた人工知能の出現、酒場や動物園などのレジャーランドが育む発想の原動力といった側面から文明史を物語ってくれる。すべては遊び心に発し、驚きを探し求める人間の本能に導かれてきたとさ...
尚、大田直子訳版(朝日新聞出版)を手に取る。

「現在私たちは、機械がとても器用になって製造業の労働者の仕事を奪い、とても賢くなって人間の上司になるような、暗い未来について心配している。しかし歴史を知ると、私たちはまちがった不安に気を取られているのかもしれない。機械がみずから考え始めるときに起こることについて心配するのは、まちがっているのかもしれない。ほんとうに心配すべきなのは、機械が遊び始めたときに起こることなのだ。」

2024-05-12

"世界をつくった 6 つの革命の物語 - 新・人類進化史" Steven Johnson 著

よく見かける世界史では、四大文明の出現、三大宗教の確立、ローマ帝国の興亡、大航海時代、フランス革命、産業革命、二つの世界大戦といった事象が主題とされる。
しかしここでは、ガラス、冷却、録音、清潔な水、機械仕掛けの時計、電球の光といった発明を切り口に世界史を物語ってくれる。
歴史を学べば、英雄伝や重大事件とされる事象に注目しがちだが、真に歴史を育み、真に文明を開花させてきたのは、名も無い人々が日常生活で営んできた改良や改善といった努力の積み重ねなのであろう...
尚、大田直子訳版(朝日新聞出版)を手に取る。

「アイデアは科学からしたたり落ち、商業の流れに入り、先が読みにくい芸術と哲学の渦にはまる。しかしときには、あえて上流へ、芸術的な想像からハードサイエンスへと進むこともある。」

スティーブン・ジョンソンは、「ハチドリ効果」と呼称する不思議な影響の連鎖を主題に掲げる。それは、カオス理論で見かけるバタフライ効果とも似てそうだが、原理は根本的に違うらしい。
バタフライ効果は、例えば、カリフォルニアで蝶の羽がはためくと、その影響が回りまわって大西洋上でハリケーンを起こすというもので、無関係と思われる不可知な因果連鎖をともなう。
対して、ハチドリの場合、骨格構造では不可能なはずが、羽を回転させながら打ち下ろす時だけでなく引き上げる時にも揚力を得て、蜜を取り出す時に空中にとどまることができ、そこに食への執念のようなものを見る。しかも、花蜜を生産する機能を具えた顕花植物がなければ、成し遂げられない共進化と言えよう。
したがって、バタフライ効果が結果的に受動的な相互作用を引き起こすのに対し、ハチドリ効果はもっと積極的で意志をも感じるような相互作用ということになろうか。
実際、ある分野のアイデアがまったく違う分野のヒントとなって、相互に画期的なイノベーションをもたらすことがある。あるいは、情報共有が何十倍、何百倍と増えていくだけで、予想だにしない無秩序な変化の大波が生じることだってある。ささやかなアイデアが、世界を変える新たなチャンスを切り開くことだってありうるのだ。歴史とは、ちょっとしたことが無数に集まり、それらが複雑に絡み合った結果と言うことができよう。
しかしながら、そこに生じる相乗効果が、悪魔のお告げのように機能することもしばしば。人間の集団性は恐ろしい。そこには個々の意志とはまったく別の意志が生気し、おまけに集団暴走を始める。御用心!

「先進世界の人々の大半は、水道水を飲んで 48 時間後にコレラで死ぬことをまったく心配しないということが、どれだけすごいかをわざわざ考えたりしない。エアコンのおかげで、50 年前には耐えられなかった気候のなかで快適に暮らしている人がたくさんいる。私たちの生活は、大勢の先人のアイデアと創造性によって魔力を与えられたさまざまなものに囲まれ、支えられている。発明家や愛好家や改良家が、人工光やきれいな飲料水をつくる問題に堅実に取り組んできたおかげで、私たちは現在そのようなぜいたく品をためらうことなく、そもそもぜいたく品だと考えることさえなく、利用することができている。」

また、著者が「ロングズーム」と呼称するアプローチを紹介してくれる。新たなイノベーションは、近視眼的には地政学的な影響を受け、流通や情報の中心地に集まる傾向がある。だが、大局的に眺めると、国家や国民性といった枠組みにとらわれることもあるまい。ましてや、このグローバルの時代に...

「これは私がほかでロングズームの歴史と呼んでいるアプローチだ。鼓膜を震わす音波の振動から大衆の政治連動にいたるまで、さまざまなスケールで同時に検討することによって、歴史の変化を説明しようとする試みである。歴史の物語を個人または国のスケールで統一するほうが直感的に理解しやすいが、根本的にその境界内にとどめるのは正確でない。歴史は原子のレベルで、地球上の気象変動のレベルで、そのあいだのあらゆるレベルで起こる。物語を正しく理解しようとするなら、そのような異なるレベルすべてを公平に評価できるような解釈のアプローチが必要なのだ。」

1. ガラス職人が世界の見方を変え...
二酸化ケイ素化合物には、興味深い化学特性がある。今日、ガラスと呼ばれる物質である。融点は、260度以上。およそ 2600 万年前、リビアの砂漠で旅人が、その破片につまずいて発見されたとさ。
二酸化ケイ素のアクセサリーは、ツタンカーメンの埋葬室でも発見された。そして、ガラス職人の工夫から望遠鏡や顕微鏡の発明につながり、世界の見方を変えることに。
いまや、インターネットはガラスで編まれている。今日のデータは、光ファイバーケーブルを張り巡らせ、光を集約することによって伝送されている...

2. かき氷を我が家で食べられる幸せを噛み締めて...
冷却技術は、温暖化気候でより重要視される。いや、沸騰化気候か。自然界の冷たさといえば、まず氷だ。こいつの驚くべき能力は、周囲の大気から熱を引き出すところにある。そして今、瞬間冷凍技術のおかげで、果物、野菜、肉類が美味しく保存される。そして、精子バングが冷凍庫に保存され、人体までも瞬間冷凍されるであろう。北極と南極の氷がもてばいいが...

3. 古代洞窟は天然のサラウンドシステム...
音の拡声、拡散が、音空間を形成し、精神空間に影響を与える。それを最初に味わったのはネアンデルタール人かもしれない。人類は、音波を記録する技術をもって音響という概念を創出した。フォノトグラフは、音波を視覚化して音響空間の設計を進化させる。録音技術は、S/N 比と葛藤の日々。そして、デジタル音源を手に入れた時、完璧なコピー音源になりうるか、少なくとも劣化を抑制することができるようになった。潜水艦などの軍事技術や医療機器に欠かせない音響システム。海中ソナーに、身体エコーに... そして、命を救う音に、命を終わらせる音に...

4. 清潔さは文明の尺度...
シャワーや入浴が健康に良いとされたのは、19 世紀だそうな。患者の処置前に手を洗うことを提案した医師が非難される時代であったとさ。
人間は、喰って排泄する動物である。どんなに賢くなろうとも、どんなに進化しようとも、この熱機関としての工程は変えられない。そして、食物の確保と、排泄物の処理は、街づくりの根幹であり、水道と下水道の整備は、文明社会で最も重要視すべきものとなる。塩素革命では、適量の塩素剤を加えることによって、水から効果的に細菌を除去することを知るに至る...

5. 人類はますます時間に幽閉されていく...
農業労働はだいたいの時刻が分かれば、それで事足りたが、産業労働には厳密な時間管理が必要となる。生産工程にも、労働時間にも。給料が時給で支払われるシステムでは、人間が巧みに時間管理されるようになった。航空業では、国際標準時間を必要とする。ますます人類は、正確な時間を刻む機械を求めてやまない。
石英の特定の結晶、水晶に圧力をかけると安定した振動が得られる。この原理を利用したのがクォーツだ。CPU のマスタークロックには、たいてい水晶振動子が用いられる。クォーツの精度がマイクロ秒であるのに対し、原子時計の精度はナノ秒。セシウム 133 原子が...
さらに、放射性炭素の崩壊は、百年ないし千年の精度で時を刻む。炭素 14 は、5000年毎に、カチッ!カリウム 40 は、13億年毎に、カチッ!

「一万年ものあいだ時を刻む時計があったら、どんな世代単位の問題や計画を提起するだろう?もし時計が一万年動きつづけるのなら、私たちの文明もそうなるようにするべきではないのか?私たち個人が死んだあともずっと時計が動きつづけるなら、将来世代がやりとげることになるプロジェクトを試みてもいいのでは?さらに大きな疑問は、ウイルス学者のジョナス・ソークがかつて問いかけたとおりだ。『われわれはよい祖先になっているのか?』」
... ロング・ナウの役員ケヴィン・ケリー
"The Clock of the Long Now" https://longnow.org/clock/

6. 人工光で盲目は治るか...
信頼できる電流源、その電流を近隣一帯に分配するシステム、個々の電球を配線網につなぐメカニズム、そして、どれだけ電気を使ったかを測定するメータ。これらが揃って安定した生活源が確保される。電球の発明によって、暗闇でも目が見えるようになったのはありがたい。だからといって、精神の盲目は解消されたであろうか。人類は何を見ようと、光を欲するのか。そして、この電流源に税金を支払うシステムを強要されようとは...

「もし隠れているものに対する直感的な知覚を持ちたければ、その場合、少し道に迷う必要がある。」

2024-05-05

"音楽は絶望に寄り添う - ショスタコーヴィチはなぜ人の心を救うのか" Stephen Johnson 著

「音楽なしでは人生を誤る。」... フリードリヒ・ニーチェ

ショスタコーヴィチには救われる。BGM に彼の楽曲を流すだけで孤独が癒やされ、絶望を少しばかり希望に変えてくれる。抑圧した国家体制の下で曲を書き続けたのは、彼自身を救おうとしたのであろうか...
しかし、希望は危険だ。儚い希望は絶望をより確固たるものにする。だとしても、歴史の重々しさを奏でる悲しい物語は、心の痛みを和らげてくれる。ナチス包囲網にあってはレニングラード交響曲で市民を勇気づけ、ソ連共産体制に対しては交響曲第五番で反骨精神を露わに。生きてゆくために意味を与える音楽をもって、スターリンの神格化なんぞクソ喰らえ!

「音楽は、暗いドラマと純粋な歓喜、苦悩と恍惚、燃える怒りと冷たい怒り、哀愁とはじける陽気、そして、最も微妙なニュアンスと、言葉や絵画や彫刻では表現できない感情の相互作用をあらわすことができる。」
... ドミートリイ・ショスタコーヴィチ

弦楽四重奏曲第八番は、彼自身のレクイエムであったのか...
ファシズム批判を掲げながら自己肯定感を強調し、自らのイニシャルを刻み込む。DSCH 形式がそれだ。
共産党に入党したのは、カモフラージュであったのか...
反体制派が生きてゆくには自虐的な手段も厭わず、スターリン思想を引用しては、まったく説得力のない手段で持ち上げもする。皮肉交じりで、矛盾だらけ。しかし、自由を信条とする芸術家が粛清の時代を生きてゆくには、矛盾をも味方につけなければ...

「ショスタコーヴィチの交響曲第四番は、ほぼその全体を通して、ひたひたと迫る破滅を回避するために、時として必死に努力している様子が彷彿させられる。そして、最後まであと 10 分位のところで、彼がとうとう降伏するのだ。」

原題 "How Shostakovich changed my mind"
著者スティーブン・ジョンソンは、双極性障害(そううつ病)で苦しんだ音楽プロデューサーだそうな。彼は、自ら精神を破綻させることも厭わない音楽家魂に共鳴して、この本を書いたのであろうか。そもそも自由世界なんてものが幻想なのやもしれん。そして、人間が生きてゆくには幻想も必要なのであろう...
尚、吉成真由美訳版(河出書房新社)を手に取る。

「もし音楽が私をこのような気持ちにさせるのなら、私はどうして役立たずで、卑劣で、取るに足らない、耳を傾けるに値しない存在などであろうか...」

2024-04-28

"MIND パフォーマンス HACKS - 脳と心のユーザーマニュアル" Ron Hale-Evans 著

本書の位置づけは、そのタイトルからして Tom Stafford と Matt Webb の共著 "MIND HACKS" の続編といったところ。
"MIND HACKS" に出会ったのは三年ほど前、コンピュータ認知神経科学者を自称する Tom Stafford に、テクノロジーと物理学に関して仕事と趣味の両面で躍動する Matt Webb とくれば、その人物像からも興味深い書であった。彼らの共著が、脳の働きや仕組みなどを交え、やや理論的であったのに対し、ここではより実践的的な方法を紹介してくれる。
Ron Hale-Evans は、頭脳トレーニングのデータベース "Mentat Wiki"  https://www.ludism.org/mentat/ を立ち上げ、それが本書の生まれるきかけになったという。Mentat という名は、フランク・ハーバートの SF 小説「デューン」に出てくる「メンタート(人間コンピュータ)」に由来するそうな。
尚、夏目大訳版(オライリー・ジャパン)を手に取る。

脳は、誰もが生まれつき具える最も身近なツール。だが、こいつをうまく使いこなせる人は少ない。それは、あまりに身近すぎるということもあろう。自分の脳を操るということは、自我と真っ向から対峙することになる。自我ほど手に負えないヤツはいない。だが、こいつをほんの少しでも操ることができれば、その効果は計り知れない。デルポイの神殿に刻まれる言葉は、ことのほか重い... 汝自身を知れ!

本書は、「記憶」「情報の処理」「創造力」「数学」「意志決定」「コミュニケーション」「明晰さ」「知性の健康」といった章立てから、脳の能力を引き出すテクニックを紹介してくれる、いわば、脳の取扱説明書。

まず、「記憶」は人間が人間たらしめるための根源的な素材となる。カントはア・プリオリな認識概念として時間と空間を挙げたが、この二つの認識もまた記憶によって生じる。ノイマン型コンピュータにしても、記憶装置がなければ機能しない。
では、脳内の記憶力を活性化させるには、どうすればいいだろう。ここでは、事象と数字の結びつけや替え歌などが提示されるが、要するに、何らかの効率的な関連付けで効果が得られるということ。キェルケゴールは... 人間とは精神である。精神とは自己である。自己とは、それ自身に関係する関係の... と、精神の正体をあらゆる総合的な関係で語った。人間の認識なんてものは、すべて関連付けで説明がつくのやもしれん。
したがって、記憶とは、ある種の言語化であり、あらゆる記憶には、こじつけやダジャレが有効となろう。そして、記憶力の活性化では言葉遊びを楽しみたい...

次に、「情報の処理」とは、記憶という素材を活かすための行為と解しておこう。高度な情報社会ともなれば、情報が洪水のように押し寄せてくる。これをすべて記憶し、処理することは不可能。今日では、情報を入手する能力よりも、情報を捨てる能力の方が重要となる。学習は自分の脳に合わせて。そうでないとすぐにオーバーフローしちまう。まずは自分の脳の度量を分析し、把握し、自分に合った学習スタイルを模索すること。そして、未来が過去に埋め尽くされることは避けたい...

「創造力」は、個人の独創性によるところが大きい。人が成し遂げることはすべて創造力に発するし、帰納的な推論も、科学法則や数学の方程式を編み出す時でさえ、ドラマチックな創造力を見る。だが、こうした個人の力さえも、ある程度ハッキングが可能だという。比喩的に考えたり、夢日記をつけたり、自問自答したり、あえて制約を設けることによってアイデアが開けることも。無作為な発想を箇条書きに...
古くから伝わる格言は比喩的な言葉ばかり、だから金言にもなる。アイデアは、まったく無関係なことを関連づけることによって浮かび上がることがある。創造力もまた記憶とその処理の仕方で促せるというわけか。時には虚空を見つめ、瞑想にふけるも良し。そして、自らの変身願望をも利用し、時にはナルシストに...

「数学」というと身構えしそうだが、ここでは数と戯れるといったニュアンス。人間の多種多様な単純動作の中に、普遍的とも言うべき行為がある。それは、「数を数える」という行為。数には、なにやら心を落ち着かせるものがある。精神病患者や知的障害者などは、心が落ち着かない時に数を数え始めると聞く。ある種の儀式のように。サヴァン症候群のような突飛な能力の持ち主ともなると、数字が風景に見えるらしい。おいらも、デスクトップ上のスキャンカウンタをなんとなく見入ったりする。まさに、万物は数なり!
科学の格言には、何事も理解したければ、そいつをバラバラにして構成要素へ還元せよ!というのがある。数の特性で言えば、因数分解がそれだ!。そして、車のナンバーには、暗号理論で見かける安全素数でも...

また、「意志決定」のプロセスでも数学を利用し、迷った時はあっさりと確率論に委ねる手もあり。悩んで時間を無駄にするぐらいなら、コイン投げで決めるさ!
さらに、「コミュニケーション」では、言語を重要視する。使用する言語は思考に影響を与える。違う言語を使えば、新たな発想が得られるかも。ゆえに、自然言語を学ぶべし!
さらにさらに、オリジナル言語の作成を推進している。これを拡大解釈して、口癖を付け加えておこう。いや、独り言を...
偉人たちの名言に学ぶことも多い。言語作成は、言語特性ばかりでなく、人間の知性や思考法についても、多くを学べる。
ちなみに、be 動詞の多用は、態度や考えが独善的になりやすいのだそうな...

「明晰さ」とは、ちち異質な章立て。曖昧さを排除し、澄んで濁りのないことを意味するような。しかし、ここでは合理的なモノの見方、あるいは、感情に惑わされず、正しく見ることを指している。
怒っていたり、落ち込んでいたり、脅えていると、十分に考えることができず、いろいろなことが頭の中に渦巻いていると、考えることも難しい。知性と感情は、互いに影響し合うことを前提に、自問自答のテクニックを経験主義、論理主義、実用主義の三つのタイプから提示してくれる。何事もポジティブに考えればいいというものではあるまい。現実を見据えた上で自己分析を試みるには、ネガティブ思考も必要である。
主観で物事を考える知的生命体の認知には必ず歪みが生じる。悪い事に目を奪われ、恐怖心に襲われ、レッテルを貼り、過小・過大評価し、一般化をやり過ぎ、せねばならぬ思考に陥る。これを打破するのは、日々修行するしかあるまい。自己催眠や瞑想も、一つの手段。独り言も有効!客観的に自己を見つめることが難しいとなれば、自己インタビューをやってみる。言語は何も人と話をするだけのものではない。
そして、「知性の健康」には、普段から心のケアを... おいらは、ルービックキューブや詰将棋で気分転換!コンピュータゲームも悪くない。脳のオーバクロックが必要な時は糖分を補う。ところで、向精神薬ってどうなんだろう...

2024-04-21

"コミュニケーションとコンピュテーション" 稲垣康善 著

本書は、情報通信と計算技術を支える理論についての教科書である。教科書であるからには、今更感は否めない。
しかしながら、初心に返る意味でも、教科書的な存在は意外と大きい。なにやら忘れかけたものを思い出させてくれるような...

コンピュータ工学における情報と計算は、物理学における物質やエネルギーと同様、基礎概念として君臨している。
それぞれの歴史を紐解けば、クロード・シャノンは情報の内容を問わず、ひたすら情報の量に着目して数学的理論を打ち出した。
アラン・チューリングは計算可能性を追求した抽象的な計算機理論、いわゆる、チューリングマシンを提唱した。
ここでは、通信路モデルと計算機モデルの融合という観点から、コンピュータ工学を物語ってくれる。

「コミュニケーション(通信)とコンピュテーション(計算)は、情報の学問と技術の核心である。」

1. 通信路モデル
まず、あの有名な式を押さえておこう。

  H(X) = -ΣP(x) log P(x)

そう、情報理論のエントロピーだ。この用語は捉えどころが難しく、通信理論においてもカオスのまま。
そして、シャノンの第一基本定理と呼ばれる「情報源符号化定理」と、これに雑音特性を付加したシャノンの第二基本原理と呼ばれる「通信路符号化定理」を経て、より現実な世界へと導かれる。
そこで、根幹となる技術が誤り検出と誤り訂正符号である。今日のデジタルシステムを根幹から支えているのは、この技術と言ってもいいだろう。完璧な誤り訂正システムは存在しない。情報効率を高めようとすれば、尚更。そして、確率論に持ち込まれる。通信媒体や記憶媒体によっては、用いる符号も違う。
ちなみに、本書では扱われないが、リードソロモン符号などはデジタルシステムでよく用いられ、符号化と復号化が複雑な分、訂正能力が高く、バイト単位で処理できるのも記憶媒体と相性がいい。
そして、生成多項式とにらめっこする羽目に... というのが、おいらの仕事の定番である。

2. 計算機モデル
まず、有限オートマトンを押さえておこう。論理で構成できれば、言語化や記号化ができる。プログラミングとは、まさに言語化、記号化の世界。
それは、データを記憶領域内でどのように表現し、どのような手順で処理するかを記述すること。そう、アルゴリズムってやつだ。プログラミングでは、このアルゴリズムの設計が基本となる。そして、論理システムは、有限集合のステートマシンで記述できる。
計算可能性では、状態遷移関数が帰納的関数であるかどうかが鍵となる。これこそが、「チャーチ(=チューリング)の定立」ってやつだ。
さて、万能マシンは可能であろうか。それは、多項式時間で計算可能か、そんなアルゴリズムが存在するか、という問題と絡み、さらに停止性問題と絡む。ゴルディアスの結び目のごとく...

「構造ないしは構造物の複雑さを計る尺度がないことは、情報科学とコンピュータ科学の理論的支柱の間の最も基本的なギャップであると考えている。」
... F. P. ブルックス

2024-04-14

"方程式のガロア群" 金重明 著

群、環、体を巡り、線型空間をさまよう。すると、いつしか初心に返る。そういえば学生時代、ブルーバックス教(狂)にのめり込んだものだ。それは、自然科学や科学技術の一般読者向けシリーズ。相対論も、量子論も、マクスウェルの悪魔も、ラプラスの悪魔も、ここに始まった。ガロア群では逆流する格好だが、相手が難攻不落となれば、思考パターンの原点に立ち返ってみるのも悪くない...

数学界に大変革をもたらしたエヴァリスト・ガロア。そんな大数学者も生前は全く評価されず、ひとりの女をめぐる決闘で命を落とす。享年二十歳。彼は、その短い生涯の中で問い続けた。「方程式が代数的に解けるとは、どういうことか」と...
具体的には、冪根の記号 n√x や四則演算の記号で解を記述できるってこと。しかし、そうした記号も定義に過ぎない。

五次以上の方程式に代数的解法がないことは、アーベルが証明した。
それどころが、三次や四次でも解の公式は複雑だし、実践的には、グラフ上でシミュレーションし、X 軸との交点あたりで近似する方が手っ取り早い。近似の概念を許せば、いくらでもやり方は広がる。だが、ガロアは代数的方法にこだわった。真の数学者たる所以か!
従来の数学は、数式を変形しまくり、そこに活路を見い出してきた。ガロアは、数式の操作に限界を感じ、数自体の構造や性質を調べるという新たな視点を与えた。そして、方程式が代数的に解けるための必要十分条件を見い出す...

「方程式が代数的に解けるかどうかは、ガロア群を分析すれば分かる。ガロア群が可換群であれば、その方程式は代数的に解け、可換群でなければ、代数的に解けない。」

数学の世界は、公理に矛盾しなければ、どんな思考も、どんなやり方も許される。この世界を支えているのは、理性による証明のみ。逆に言えば、証明を疎かにした途端に崩壊しちまう。
しかし、すべての証明を理解した上でないとガロア群を味わえないとすれば、数学の落ちこぼれには酷だ。
まず、ガロア群には、体の自己同型群という見方がある。ここでは、そうした形式的な見方をほぐし、具体的な方程式におけるガロア群を紹介してくれる。アクアリウムで生態系でも観察するようにガロアの群れを観察する... というのが本書のコンセプト。だからといって、現実に方程式が与えられた時、ガロア群をどうやって構成するのか?という問題は残されたままだけど...

まず... ガロア拡大体と Z/nZ の世界が待ち受ける。
ガロア拡大体では、方程式の操作で因数分解を検討し、その方程式の持つ係数体の範囲内で因数分解ができるか、あるいは、係数体の範囲外に体を拡大しなければ因数分解できないか、すなわち、可約か既約か、が問われる。
体とは、四則で閉じた世界。実数体は有理数体の拡大であり、複素数体は実数体の拡大であり、そしてガロア拡大体とは、方程式のすべての解をカバーできるほど拡大した体を言う。
Z/nZ とは、Z は整数で、nZ で割った数。つまり、mod n を問う世界。モジュラ演算が巡回群と相性がいいことは、言うまでもない。それは、演算をすこぶる単純化してくれる性質で、数の性質を見極める時に有効となる。

「ガロアは、方程式を解くとは、係数体をガロア拡大体まで拡大することだ、ということを見抜いた。方程式を代数的に解くとは、係数に四則と累乗根をほどこして解を表現することだった。体の中で四則演算は自由に行える。しかし累乗根を求めるためには、体を拡大しなければならない。つまりポイントは、累乗根を用いて体を拡大するとはどういうことなのかを解明することにある。その鍵を握っているのが、ガロア群なのだ。」

次に... 円周等分方程式で、1 の n 乗根の世界が広がる。
1 の n 乗根とは、xn = 1 の根。これを移項して因数分解すると...

  (xー1)(xn-1 + xn-2 + ... + x2 + x + 1) = 0

それは、xn-1 + xn-2 + ... + x2 + x + 1 = 0 を解くことを意味する。
これが、円周等分方程式ってやつだ。
そして、ユークリッドの時代から語り継がれてきたコンパスと定規による作図問題と結びつける。代数学が幾何学と結びつくと、収まりがいい。

こうした世界を念頭に... 二項方程式のガロア群は Z/pZ (p: 素数)の加法群と同型に、円周等分方程式のガロア群は Z/pZ の乗法群と同型に、一般的な方程式のガロア群はもっと一般化された置換群に... といった具合にガロアの群れを観察していく。

「自我や心が脳の作用であることを疑う人はほとんどいないだろう。しかし脳神経の、物理的、化学的な情報交換が、どのようにして自我の意識へと創発するかについては、何もわかっていない... 数についての謎も同様だ。人類が解明した数は、せいぜい加算無限個にしか過ぎない。人類が解明した数には名前が付いており、あいうえお順でもいいし、abc 順でもいいが、それを一列に並べることができるからだ。しかし数直線上に存在する実数は、非加算無限個ある。... 人類の認識と、実数までの間には、まさに、誰にも渡れぬ深くて暗い河がある。」

2024-04-07

"代数方程式とガロア理論" 中島匠一 著

群、環、体をめぐる旅。それは、線型空間をさまよう旅。そこにどんな御利益があるというのか。それを味わうには資格がいるらしい。ガロア理論に辿り着いたという資格が...
それでも、我武者羅にやっているうちに、薄っすらと見えてくる... ってこともある。御利益とまではいかなくとも、考え方だけでも味わえれば... まずは頭を空っぽにし、抽象数学とやらに触れてみる。
すると、数を計算する学問から、数の性質を味わう学問へ。数学は楽しい。数学の落ちこぼれでも、やはり楽しい。数学は哲学である... というのがおいらの持論である。

「ガロア対応の理論を創造し、それを代数方程式の解法に応用したのがガロアの仕事である。本書では『体の代数拡大に対する』本来のガロア理論だけを紹介してあるが、現代の数学ではガロア対応は単に代数拡大の理論だけにあるものではなく、もっと多くの対象について成り立つことがわかっている。それだけでなく、『(広い意味で)ガロア対応が成り立つこと』が数学における美しさの基準の一つになっているといってよいと思う。その意味でガロア理論は数学の理論の一つの雛形となっており、それが『ガロア理論は一つの思想である』という主張の内容(の一部)である。」

本書は、代数方程式とガロア理論について基本的なことをまとめた入門書。ガロアの動機は、代数方程式の解の公式を求めることに発している。
著者は主張する、「ガロア理論は代数学の華(はな)である」と...

さて、ここで抑えておきたいキーワードは、「代数拡大」「ガロア対応」

代数拡大とは...
ある数の体系が別の数の体系を代数的な性質で飲み込むといった現象をよく見かける。代数的な性質とは、二項演算において、加法や乗法、あるいは、交換法則や結合法則や分配法則が成り立ち、零元や単位元が存在するといったこと。
例えば、有理数体は四則演算において実数体に飲み込まれ、実数体もまた複素数体に飲み込まれる。
この性質を多項式に拡大すると、おいらの思考はたちまち破綻しちまう。そこで、物事を理解したければ、まずバラバラに分解して構成要素に還元せよ!という考えがある。整数を因数分解していけば素数に辿り着く。多項式で同じことをやれば、既約多項式に辿り着く。"Tn - a" といった形で。これを突破口に、代数拡大の理解を試みるのであった...

ガロア対応とは...
体を代数拡大する過程で、中間体というものが考えられる。集合論でいえば、部分集合のようなもの。これにガロア拡大を仮定してガロア群を考えると、これにも部分群が現れる。
すると、体の中間体とガロア群の部分群の間に、一対一の対応が見られるという。
すべての有限群は、ガロア群に含まれるというのか。少なくとも、その可能性があるというのか。うん~... 人を見たら泥棒と思え!というが、群を見たらガロア群と思え!というわけか。抽象レベルの高すぎる数学は、魔術と見分けがつかない...

「G を任意の有限群とする。このとき、Gal(L/K) = G をみたすガロア拡大 L/K が存在する。」

2024-04-01

リンゴの力学... 存在の重さは何グラム?

なぁ~に、四月馬鹿のたわごとよ...

リンゴを食すは、邪心の表れか...
ある説によると、アダムとイブが口にした禁断の果実はリンゴであったとか。真相は知らんが、どうやら旧約聖書の翻訳時に生じた解釈のようだ。つまり、禁断の... を表すラテン語の "malus" は、形容詞では「邪悪な」となるが、名詞では「リンゴ」となるらしい。
神様がダジャレ好きなら親しみやすい...

リンゴの力学に何を見る...
リンゴをかじると、歯ぐきから血が出る輩がいれば、リンゴが落ちると、万有引力の法則を見る御仁もいる。かのニュートン卿によると、地球上の重力はすべての物体に平等に働くことになっている。
しかし、重力が平等に働いても、重みはそれぞれ。巷では、なにごとも重みがある方が価値が高いとされる。名誉の重みに、権威の重みに、責任の重みに、金の重みに... 愛の重みと。価値関数ってやつは、なんであれ重みに大きく反応しやがる。そして何よりも、存在の重みだ。物理学では、重力を通して質量ってやつが幅を利かせ、こいつほど自己存在を意識させる物理量はあるまい。

人間は自分の存在感を強調する余り、他人より大きな重みを求めてやまない。
影では、女性諸君は体重計の上で軽い存在を演じておきながら、鏡の前での念入りな厚化粧もひび割れしては、お肌の曲がり角も曲がりきれない。
男性諸君はというと、普段は常識や形式を重んじる理性者どもが、夜の社交場でちょいワルオヤジを演じてやがる。不良ぶるのがモテる秘訣と言わんばかりに。これが右曲がりのダンディズムってやつか。
女性諸君も、男性諸君も、人生のコーナーをやや攻めすぎていると見える。

かつて人類は、宇宙観を力で語り、エネルギーで語り、そして今、情報で語ろうとしている。自己主張の旺盛な現代社会では、存在感の可視化がそのまま精神上の問題となる。自己肯定とは、自己の正当化というわけだ。
健全な懐疑心の持ち主は、まず自分自身の存在感を疑うであろう。自己否定に陥っても愉快でいられるなら、それこそ真理の力学というもの。
心のサイズは分からなくても、心臓のサイズなら分かる。大きさは握りこぶしぐらいで、重さは約 200 から 300 グラム。
ちなみに、行きつけの寿司屋の大将は、怪しげな笑みを浮かべて... 心を握ります!などと囁く。気色わるぅ~...

リンゴを食せば、自由が得られるか...
リンゴを食せば、糖分が摂取でき、自由エネルギーを得る。自由エネルギーとは、原子のランダム運動によって生じるエネルギーではなく、なんらかのエントロピーに関連づけられた法則的で秩序あるエネルギーだ。つまり、物理学は、秩序から自由が得られると告げている。
糖分に含まれた自由エネルギーは肉体の中で運動エネルギーに変換され、身体も熱くなる。まさに、自由への情熱は熱い!自由への渇望が、アダムとイブをリンゴへと向かわせたのかは知らんが...

すべての物体が同時に落下するって本当?
義務教育では、真空ではすべての物体は同時に落下する... なんて教わるが、天の邪鬼には、どうもピンとこない。重いヤツの方が速く落ちる... とする方が収まりがいい。その証拠に、アルコール濃度の重い方が撃沈するのも速い。そして、自己存在の重さはスピリタスといきたい!

なぁ~に、四月馬鹿のたわごとよ...

2024-03-24

"ビッグ・クエスチョン" Stephen W. Hawking

Big Question !
古来、自然科学には、神託めいた究極の問い掛けがある。宇宙はいかにして誕生したのか?人類とは何者か?そして、どこから来、どこへ行くのか?それは、自らの存在に意味を求めてきた旅、いや、解釈をめぐる旅である。
車椅子の宇宙物理学者スティーヴン・ホーキングは、10 の難題が突きつける。

  • 神は存在するのか?
  • 宇宙はどのように始まったのか?
  • 宇宙には人間のほかにも知的生命が存在するのか?
  • 未来を予言することはできるのか?
  • ブラックホールの内部には何があるのか?
  • タイムトラベルは可能か?
  • 人間は地球で生きていくべきなのか?
  • 宇宙に植民地を建設するべきなのか?
  • 人工知能は人間より賢くなるか?
  • より良い未来のために何ができるか?

さて、この世界一有名な無神論者は、これらの問いにどう答えてくれるだろうか...
仮に、神は存在するとしよう。宇宙に始まりがあったとしよう。すると、宇宙の始まりの前には何があったのか?神は天地創造の前に何をなさっていたのか?本当に神は、そういう質問をする人間どものために、地獄を創ったのか?
永遠なるものは、創造されるものより完全である。だから、宇宙は永遠でなければならない!という主張も分からなくはない。
しかし、だ。宇宙は完全である必要があるのか?そもそも、完全とはなんだ?宇宙の在り方に、どんな意味があるというのか?神はなにゆえ、11 次元の M 理論のような複雑怪奇の空間をデザインしたのか?... などと問えば、たちまち地獄行きよ。不完全者は、地獄を見なければ、天国を見ることも叶わないと見える。ダンテが「神曲」で天国を描く前に、煉獄と地獄を描いて魅せたのは、必然だったのであろう...
尚、青木薫訳版(NHK出版)を手に取る。

「私に信仰はあるのだろうか?人はそれぞれ信じたいものを信じる自由があり、神は存在しない!というのが一番簡単な説明だというのが私の考えだ。宇宙を作った者はいないし、私たちの運命に指図する者もいない... おそらく天国は存在せず、死後の生もないだろう。死後の生を信じるのは希望的観測でしかないと思う... だが、私たちが生きつづけることには意味があり、生きて影響を及ぼすことにも、子どもたちに伝える遺伝子にも意味はある。一度きりの人生は、宇宙の大いなるデザインを味わうためにある。そしてそのことに、私はとても感謝している。」

宇宙を形作る要素は、三つあるという。一つは質量を持つ物質、二つはエネルギー、三つは空間である。それは、アインシュタインのあの有名な方程式でも記述される。
しかしながら、量子力学では、すべての存在に対存在が想定され、エネルギーの存在には負のエネルギーを、素粒子の存在には反物質なるものを持ち出さなければ説明がつかない。空間そのものが、負の遺産の貯蔵庫というわけか...

「不確定性原理は粒子だけでなく、電磁場や重力場などの『場』にも当てはまる。そのため、何もない空っぽの空間のように見えたとしても、場は厳密にゼロになることができない。なぜなら、場が厳密にゼロならば、きちんと定義された位置もきちんと定義された速度もゼロになるからだ。それでは不確定性原理が破れたことになる。そこで、場は厳密にゼロになることはできず、ある最小値のゆらぎを持たなければならない。それがいわゆる真空のゆらぎだ。真空のゆらぎは、突如現れては打ち消し合って消滅する、粒子と反粒子のペアと解釈することができる。」

ところで、生命とはなんであろう。それを定義づけられる根本原理とはなんであろう。一つの性質に、維持と複製がある。まさに遺伝子には、複製しようとする意志と増殖しようとする力が感じられる。DNA は、生命体の青写真を世代から世代へと伝えていく。
複製と増殖という性質に着目すれば、コンピュータウィルスもある種の生命と見なすことができるやもしれん。そもそも人間は、物理的には粒子の集合体でしかない。コンピュータもまた然り。コンピュータ科学は、マシンを生命化しようとしているかに見える。今日のインテリジェンスな AI の出現は、既にアラン・チューリングが提起した、マシンは意志を持ちうるか?という問題を具現化している。AI に支配された社会は、すべての人間を奴隷の地位に押し込め、人間には実現不可能と思われた真の平等社会を実現するやもしれん...

「スーパーインテリジェントな AI の到来は、人類に起こる最善のできごとになるか、または最悪なできごとになるかということだ。AI のほんとうの危険性は、それに悪意があるかどうかにではなく能力の高さにある。」

2024-03-17

"FACTFULNESS" Hans Rosling, Ola Rosling, Anna Rosling Roennlund 著

TED talk でハンス・ロスリング氏を見かけたのは、十年ぐらい前になろうか。彼が亡くなって、五年が過ぎたというのも不思議な感じ。今でも生き生きとした講演が観覧できるのだから...

産業革命で最も偉大な発明は何か?それは、洗濯機だ!この発明こそが、退屈な時間を知的な読書の時間に変貌させた魔法だ!と豪語したコミカル調が蘇る。
少子化問題で子供をどんどん産みなさい!と触れ回り、経済政策では消費を煽るばかりの政治家や有識者を尻目に、世界規模の人口増殖の方に問題意識を向ければ、マルサスの人口論を読まずにはいられない。経済学では、古びてしまったとされる理論を。いまや産んじまえば、なんとかなるって時代でもあるまい。ハンスは、貧困層の生活水準を引き上げることが人口増加の抑制につながる、と唱えるのであった...
尚、上杉周作、関美和訳版(日経BP社)を手に取る。

"FACTFULNESS" とは、ハンスの言葉で、データや事実に基づいて世界を読み解く習慣を言うらしい。本書の共著者でもある息子オーラ、妻アンナと共にギャップマインダー財団を設立。Gapminder は、統計情報を五次元で視覚化するツールとして知られ、ここでは国別に、所得、健康、寿命、人口の関係が示される。
こうして眺めていると、国の有り様が多種多様に富み、先進国と途上国で区別する国際機関や各国政府の要人たちの言葉が空虚に感じられる。先進国という呼称に固執する国もあれば、都合よく使い分ける国もあったり、あるいは、貧困国とされながらも最優先される必需品がスマホだったり。
本書は、10 の思い込みを提示してくれる。"FACTFULNESS" とは、これらの克服から見い出せるものらしい...

  1. 分断本能... 世界は分断されているという思い込み
  2. ネガティブ本能... 世界はどんどん悪くなっているという思い込み
  3. 直線本能... 世界の人口はひたすら増え続けているという思い込み
  4. 恐怖本能... 危険でないことを、恐ろしいと考えてしまう思い込み
  5. 過大視本能... 眼の前の数字が一番重要だという思い込み
  6. パターン化本能... ひとつの例がすべてに当てはまるという思い込み
  7. 宿命本能... すべてはあらかじめ決まっているという思い込み
  8. 単純化本能... 世界はひとつの切り口で理解できるという思い込み
  9. 犯人探し本能... 誰かを責めれば、物事は解決するという思い込み
  10. 焦り本能... いますぐ手を打たないと大変なことになるという思い込み

しかも、賢い人ほどハマりやすいという。問題は、知識のアップデート。変化の激しい時代では、すぐに知識が廃れていく。勉強は学生の本分!などと言われるが、社会人だからこそ、経験を積めば積むほど、その必要性を感じる。
古い知識が役に立たないということではない。古い知識に新たな知識を重ね、その知識に至るプロセスも新旧で重ねれば、より強力となろう。重要なのは、学ぶ習慣である。マハトマ・ガンディーは、こんな言葉を遺してくれた。「明日死ぬと思って生きよ。不老不死だと思って学べ。」と。
そして、学ぶ習慣を支えてくれるのが、好奇心だ。様々な角度から学べば、いろんな面白味が見えてくる。多くの偉人たちが、読書批判をやりながら、熱心な読書家であったことも頷ける...

「なによりも、謙虚さと好奇心を持つことを子供たちに教えよう。謙虚であるということは、本能を抑えて事実を正しく見ることがどれほど難しいかに気づくことだ。自分の知識が限られていることを認めることだ。堂々と知りません!と言えることだ。新しい事実を発見したら、喜んで意見を変えられることだ。謙虚になると、心が楽になる。何もかも知っていなくちゃならないというプレッシャーがなくなるし、いつも自分の意見を弁護しなければと感じなくていい。好奇心があるということは、新しい情報を積極的に探し、受け入れるということだ。自分の考えに合わない事実を大切にし、その裏にある意味を理解しようと務めることだ。答えを間違っても恥とは思わず、間違いをきっかけに興味を持つことだ。... 好奇心を持つと心がワクワクする。好奇心があれば、いつも何か面白いことを発見し続ける。」

ただ、これら 10 の思い込みは、進化の過程で必要であったのではなかろうか。問題は、どれも感情を煽り、ちと行き過ぎるところにある。
人は何事も、善悪、白黒、勝ち組と負け組... などと、二項対立で捉えがち。おまけに、自分自身を優位なグループに属させ、ある種の優越主義に浸る。人はなんでも悪く考える傾向があり、隣の芝は青く見えるもの。進化の過程は右肩上がりに見えるもので、直線的に上昇するものと捉えがちだが、そのおかげで希望が持てる。
だが、実際には退化の時代もあったはず。そうでないと、自省というものが働かない。
そして、現在は、進化の時代か、退化の時代か、そんなことは知らんよ。
恐怖心は、人間の心理操作でもってこい。だが、恐怖と危険はまったく違う。恐ろしいと思うことはリスクがあるように見えるだけで、危険なことには確実にリスクが内包されている。ジャーナリズムは、分断意識を刺激し、恐怖心を煽って、注目を浴びようとする。
ソーシャルメディアだって、負けじと犯人探しに躍起だ。政治屋は手頃なスケープゴートに責任転嫁とくれば、大衆は、今すぐ手を打たないと大変なことになると焦る。
しかも、こんな複雑怪奇な人間社会を、ひとつの切り口で理解した気になれれば、すべての思考をたった一つでパターン化しちまう。こうした心理傾向は、いわば人間の本能である。
そして、これらの思い込みを克服できれば幸せになれるかも分からん。それで、ハンスさんは楽観主義者のレッテルを貼られたそうな...

「わたしは、楽観主義者ではない。楽観主義者というと世間知らずのイメージがあるが、わたしはいたって真面目な可能主義者だ。可能主義者とは、根拠のない希望を持たず、根拠のない不安を持たず、いかなる時もドラマチックすぎる世界の見方を持たない人のことを言う。ちなみに、可能主義者はわたしの造語だ。」

また、アフリカ連合主催の講演で、辛辣なツッコミを喰らった場面は、なんとも印象的である。しかも、穏やかな口調なだけに、なおさら辛辣に...

「図とか表はよくできましたし、話も上手だったけど、ビジョンがないわね!極度の貧困がなくなるって話ね。そこが始まりなのに、先生の話はそこで終わってましたね。極度の貧困がなくなれば、アフリカ人は満足だと思ってらっしゃる?普通に貧しいくらいがちょうどいいとでも?講演の結びで、先生はご自分のお孫さんがアフリカ観光に来て、これから建設予定の新幹線に乗る日を夢見てるっておっしゃいましたね。そんなのがビジョンだなんて言えます?古臭いヨーロッパ人の考えそうなことですよ。... (略) ... 私の夢はその逆で... アフリカ人たちが観光客としてヨーロッパに歓迎される存在になる。難民として嫌がられるんじゃなくてね。それが、ビジョンというものよ。」

2024-03-10

"饒舌について 他五篇" プルタルコス 著

プルタルコスといえば、その大作に「対比列伝」がある。ToDo リストにずっと居座ってるヤツの一つ。ちょうど、澤田謙の編纂版「プリューターク英雄伝」でお茶を濁したところ(前記事)。
だが実は、「モラリア(倫理論集)」ってヤツもある。邦訳版で全 14 巻にも及ぶ大作で、エッセーの起源ともされるそうな。ついでに、こいつもお茶を濁すとしよう。だからといって、どちらも ToDo リストから抹殺できずにいる。未練は男の甲斐性よ!

本書は、その大作の中から「いかに敵から利益を得るか」、「饒舌について」、「知りたがりについて」、「弱気について」、「人から憎まれずに自分をほめること」、「借金をしてはならぬこと」の六篇をつまんでくれる。ソーシャルメディアでも見かけそうな題目が並び、現代病の根源を拾い集めたような...
尚、柳沼重剛訳版(岩波文庫)を手に取る。

1. 最高の敵は己の中に...
敵があってこそ得られる利益がある。愚者は友人関係すらぶち壊しちまうが、賢者は敵対関係までもうまく利用するらしい。目を光らせる者がいて、修正される振る舞いもあれば、他人を観察することによって、自分の長所や短所が見えてくることだってある。人に騙されて高い授業料を払い、それで賢くなることも...
虚栄心は人間の本能的な性癖の一つだが、そんな悪癖までも利用しちまう人たちがいる。樽犬先生(ディオゲネス)ともなれば、祖国から追放され、財産を没収され、そんな不遇を閑暇と哲学の道へ転じた。賢者とは、なんと抜け目のないヤツらだ。
愚者は、成功よりも失敗に学ぶことが多い。ならば、友よりも敵に学ぶことが多いのやもしれん。恋愛よりも失恋に学ぶことが多いのやもしれん。結婚よりも離婚に学ぶことが多いのやもしれん。
わざわざ自ら失敗を招く必要もあるまいが、愚者は自ら体験してみないと分からない。そして、自分は悪くない!と、なんでも他のせいにできる性分は、ある意味幸せである。
おまけに、敵意が生じれば、憎しみとともに妬みが生じ、他人の不幸を喜ぶ気持ちまでも芽生えさせる。「嫉妬は憎悪よりも、和解がより困難である。」とは、ラ・ロシュフーコーの言葉。嫉妬こそが最も厄介な敵やもしれん。今こそ、嫉妬を感じないようにする修行を...

2. 沈黙不能症
ソーシャルメディアに誹謗中傷の嵐が荒れ狂う時代では、沈黙の仕方も難しい。論争では、言葉で勝利することが第一の目的となり、真理なんぞ二の次三の次。ソフィストたちが育んできた弁論術の伝統は、いまやプレゼン技術として受け継がれる。ただ、技術がいくら進歩しようとも、古くから伝わる訓戒は変わらない。見た目より中身だ!言葉より実行だ!と...
お喋り屋が欲望を満たすのは、すこぶる難しい。人に聞いてくれ!と言いながら、自分は聞く耳持たず。他人に目を光らせておいて、自分自身には目を背ける。
それでも、お喋り屋が周囲を黙らすという意味では、人に沈黙を教えている。そればかりか、言葉の不毛を教えている。
酒呑みが、黙っていられるもんか!それで酒呑みに説教されてりゃ、世話ない...

「哲学が饒舌の治療を引き受けるとなると、これは厄介でむずかしい。用いられる薬は言葉だが、言葉は聞かれてこそ効き目があるのに、おしゃべりな人間は決して人の言うことには耳をかさず、のべつしゃべってばかりいるからである。そして、この他人の言葉に耳をかさないというのが、沈黙不能症という病気の最初の兆候である。」

3. 弱気の正体は依存症か...
弱気で他人の奴隷になるか、自己賛美で自己愛の奴隷になるか、借金でお金の奴隷になるか、いずれも似たり寄ったり。
しかし、人間ってやつは何かに依存せねば生きてはゆけぬ。アリストテレスは、人間を「ポリス的動物」と定義した。ポリスとは単に社会を営むだけでなく、最高善を求める共同体というような哲学的な意味も含まれているが、ほとんどの人間が社会に依存しながら生きている。社会制度がどんなに不完全であっても、その制度に文句を垂れようとも、その仕組みに依存せずには生きては行けぬ。自己責任なんぞクソ喰らえ!自立なんぞ悪魔にでも喰わしちまえ!それでミイラ取りがミイラに...
依存症に打ち負かされた弱気は、多くの不遇を呼び寄せる。不評の煙を逃れようとも、逃げ方が下手なもんだから、却って炎上よ。断ると気まずいかなぁ... という気持ちに憑かれ、無茶な要求までも引き受け、後の祭りよ。ノーが言えないのは、本当に相手への気遣いか。却って揉め事を増幅させてはいないか。
しかしながら、弱気がすべて悪いとは言えまい。無防備な強気よりはましかも。不当な要求で、厚かましく要求してくる連中は、断固として拒否!恥知らずを思い知らせてやれ!思慮分別に欠ける人間から憎まれるのは本望よ!

ゼノン曰く、「何だと、愚か者めが。その友人とやらは、お前に対して不当不正な所業に及んでいるのだから、お前を恐れてもいなければ、お前に対して恥ずかしいとも思ってはおらぬ。しかるにお前は、正義のためにそやつに刃向かう勇気がないのか!」

2024-03-03

"プリューターク英雄伝" プリューターク 著 & 澤田謙 編

死ぬまでに読んでおきたい!
そんな大作が、ToDo リストを賑わす。プリュータークの「対比列伝」も、そうした一冊。
だが、人生は短い。永遠に到達できない境地があるのも止む無し。だとしても、無闇矢鱈と足掻いてみるのも悪くない...

そこで、本書だ!
翻訳者澤田謙が独自の視点で人物像を掘り起こし、編纂して魅せる。
「対比列伝」というからには、古代のギリシアとローマで著名な人物を、一人ずつ対比しながら物語るという趣向(酒肴)。それぞれ二十名以上、計五十名ほどの英傑が記される。優れた人物の優れた行為には、一種の張り合いのようなものを感じる。自分もこうありあたいと...
しかも、時代を超えた対比となると、人物の特徴がより鮮明になる。長所だけでなく、短所も露わになり、より親しみが感じられる。

しかしながら、ここでは対比にこだわらず、自由奔放な書きっぷり!
「大王アレキサンダー」、「英傑シーザー」、「高士ブルータス」、「哲人プラトン」、「智謀テミストクレス」、「怪傑アルキビアデス」、「義人ペロピダス」、「雄弁デモステネス」、「大豪ハンニバル」、「賢者シセロ」と十名ばかりを炙り出し...
しかも、ハンニバルやプラトンは、対比列伝では一章をなしていないが、ここでは章に昇格させ、他の人物についても、かなり加筆したと宣言している。歴史学者箕作元八の著作「西洋史新話」を参考にしたと... そして、そちらの書にも興味がわくが、絶版のようだ。うん~、惜しい!
ブルータスの二大演説に至っては、対比列伝には骨格が記されるだけだそうだが、ここではシェークスピア風の戯曲で捲し立てる。
それで原書はというと、歴史書というより物語性に富んだ伝記小説風のようで、その性格は継承しているらしい。

例えば...
アレキサンダーの大王たる逸話は、知っていても、やはり読み入ってしまう。
ダイオゼネス(ディオゲネス)との問答では... 樽犬先生、何をご所望か?じゃ、そこをどいてくれ。日が陰るでなぁ...
「我もしアレキサンダーたらずんば、願わくばダイオゼネスたらん哉じゃ。」
「ゴルディアムの結び目 - この紐を解くものは、天下に王たるべし。」に挑んでは... 颯ッと佩剣を抜き放ち、紫電一閃!結び目を両断する。波斯(ペルシア)を平らげると、大王はこう言い放ったとさ...
「敵に克つよりも、己に克つこそは、王者たるに適わしきこと。王者の光栄は、そこのところにあるのだ!」

プラトン物語は、ソクラテスに看取られている。
「雅典(アテネ)の神々を礼拝せず、自分の創った新たな神を拝する。濫りに新説を流布し、世の青年を惑わす。」これが、ソクラテスの罪状。道徳を説き、真理を叫び、法に従うことを説いた賢者は、今、脱獄の勧めを拒否して法の裁きに身を委ね、毒杯を仰ぐ。
その意志を次いだプラトンは、学園アカデマス(アカデメイア)を開講し、青年たちを導いた。これが、今日のアカデミーである。プラトンは、哲学者こそ統治者の資質としながら、自らは教師に甘んじたとさ...

ハンニバル物語には、人を動かすリーダーシップ論を学ぶ。
電光石火のごとくアルプス越えを果たせば、「カルタゴは怖るるに足りないが、ハンニバルは怖れねばならないぞ!」
この豪傑に、ローマはアルキメデスの知恵で反撃す、「予に支点を与えよ。然らば地球を動かさん!」

... こうした物語を多くの作家が読み、また創作の糧にしたことだろうことは、想像に容易い。

ところで、英雄ってやつは、どんな時代に出現するのであろうか...
大衆は、強烈な指導力を持つ政治家の出現を待ち望む。そして、選挙運動を冷めた目で眺めては嘆く。そんな人物は見当たらないと...
大衆は、移り気が激しい。いざ、豪腕な政策を施せば、それを嫌い、今日の英雄は一夜にして独裁者呼ばわれ。
しかも、大衆は盲目で、自信満々な語り手を信用する。こうしたことが、民主主義の最大の弱点なのであろう。
したがって、政治家は、弁論術を求めてやまない。支持を得るために、その技術を磨く。現代風に言えば、プレゼン技術。もちろん、その根底に政治哲学が重視されるべきだが、何事も手っ取り早く手段や方法に群がるのが人間社会というもの。効果的な人心掌握術があれば、そこに群がる。重要なのは真理ではない。真理っぽく装うことだ。大事業を成すには、真理では足らぬ。正義でも足らぬ。権勢や利運をも味方につけなければ。
ただ、いつの時代でも、どこの国でも、絶えないのは大勇を妬む小勇がある。民主主義社会では、善良な政府の存在よりも、善良なマスメディアの存在の方が本質的なのかもしれん...

「大衆時代なればこそ、世は英雄を待望するのである。猫の顔ほどの希臘(ギリシア)の小天地に、偉人傑士雲のごとく現われたのは、いわゆる希臘の自由なる民主主義時代であった。羅馬(ローマ)の民衆が、世界統一を夢みはじめたとき、シーザーが起ってその大衆の呼び声にこたえた。仏蘭西(フランス)革命の怒濤のごとき大衆の波に乗ったのが、一世の風雲児ナポレオンであった。ながい封建の桎梏が自然に腐れ緩んで、百姓町人の手足に自由が訪れたとき、西郷南洲は錦の御旗を東海道に押し立てたのだ。真の英雄は、自由なる民衆時代にあらずんば、現われるものではない。」
... 澤田謙

では、対比列伝に倣って、古代のギリシアとローマを対比しながら眺めてみよう...

まず、古代ギリシア時代は、アテネとスパルタの争覇戦であった。しかも両国の性格は、人情風俗習慣に至るまで正反対。アテネは文化を重んじる民主主義、スパルタは武断を誇る国家主義。デモステネスのような雄弁家を輩出したのも、アテネのお国柄を表している。もはや覇王フィリッポスに対抗できるのは、執政官にあらず、将軍にあらず、ただ一人の雄弁家であったとさ。
テミストクレスは、雅典(アテネ)の未来は海上にあり!とし、海軍を創設。積極的な海外貿易で国力を強化していく。政変で専制政治に傾くと、直ちにこれを打倒するアルキビアデスのような怪傑が出現する。
対するスパルタは、他国と交われば衰弱な風土に汚染されるとし、海外との交流を拒否する。アテネは個人財産を重んじ、スパルタは金銭を卑しみ、自ずと両国で法の在り方も異なる。見事なほどの対称性をなす都市国家と言うべきか。

これに、第三勢力としてテーベが割って入るといった構図。
ペロピダスは、異郷アテネに亡命するも、ひそかに二大強国の隙き間から、新興国テーベの樹立を画策する。それでも、外敵による危機が迫ると、ギリシア全土で惜しみなく結束できる関係が保たれている。

一方、古代ローマ時代は、策謀と奸計で賑わす。
ローマ皇帝という絶大な権力者がいながら、元老院という諮問機関が併設され、その意味では、アテネとスパルタが融合したような。いや、ローマは群衆が動かす国家だ。それ故、大っぴらに事を運べない。
シーザーが慕った高徳な人物ですら、正義感が強すぎる故に私情を捨て... ブルータス、汝もか!
このブルータスこそは、専制政治を打ち破って平民政治を打ち建てた、古ブルータス家の子孫であったという。策略家カシアスは、ブルータスの純粋な使命感を操って、暗殺計画の一党に引き入れ、事を為す。
そんなローマを遠くエジプトから視線を送る女王は、シーザーを悩殺し、アントニーを弄殺。だが三度目の正直か、オクタヴィアスを艶殺せんとして成らず。クレオパトラの鼻が一分低かったら、世界の歴史は違っていたろう... とパスカルに言わしめた妖艶無比なる美女の運命は、自ら毒蛇の餌食に...

シセロ(キケロ)ほどの人物までも、時代の餌食に... 
クレオパトラの鼻とは反対に、シセロの鼻は豌豆(シセル)に似ていたので豌豆氏と渾名されたそうな。この賢者にして、二大欠点が暴かれる。
一つは、余りに己の功績を、自ら称賛し過ぎたこと。彼の文書には、自賛の言辞で満ち満ちていたという。
二つは、弁舌にまかせて、あまりに皮肉や毒舌を弄したこと。元老院といわず、人民会といわず、裁判廷といわず、人を見下すような...
いずれも悪意はなさそうだが、没落を早めるには、惜しみて余りある。そして、ローマを追われながらも、共和制が独裁制に変貌していく様を憂う。
オクタヴィアスはシセロの信望を利用して統領になるが、アントニーのシセロ暗殺計画に屈っする。皮肉なことに、アントニーはオクタヴィアスに攻められ、エジプトで非業の死を遂げることに。オクタヴィアスはというと、シセロの子を抜擢し、共に統領ならしめたとさ...

2024-02-25

"向上心" Samuel Smiles 著

天は自ら助くる者を助く... と説く「自助論」に触発され(前記事)、サミュエル・スマイルズをもう一冊。
人の一生とは、その人がつくり上げた思想の世界に他ならないという。そうした世界を持つことが、人生を楽しむってことであろうか...
尚、竹内均訳版(三笠書房)を手に取る。

「気高い思想を伴侶とすれば、人はけっして孤独ではない。」
... フィリップ・シドニー

本書にも、格言めいた言葉が散りばめられる。自分を大きく育てよ!個性を磨け!仕事に人生の活路を見い出せ!自己投資を惜しむな!自分の頭で考え、信念を築け!強い磁力を持った人物に学べ!ありふれた義務を果たせ!などなど叱咤激励の数々。
世界を動かし常に躍動させているのは、精神力だという。あらゆる力を締めくくるのは希望だとか。かのバイロン卿は、こう叫んだそうな...

「希望がなければ、未来はどこにあるというのだ?地獄にしかない。現在はどこにあるかと問うのは愚かしいことだ。われわれはみなそれをよく知っているのだから。過去はどうだ。くじかれた希望だ。ゆえに人間社会で必要なのは、どこにいても希望、希望、希望なのである。」

人生で大切なのは、朗らかさ、包容力、人格、そして人間性こそが... などと並び立てられると、説教を喰らっているようで、自分の人生は生きるに値するか... などと考え込んじまう。「崇高な精神に導かれたエネルギッシュな人格者」という人間像も、こそばゆい。
おまけに、人格形成で重要な要素に「義務」とやらを掲げてやがる。おいらの大っ嫌いな言葉だ!なぜ、この言葉が嫌いかといえば、それは天の邪鬼だから、いや、誰かに押し付けられている感じがするから...
しかしながら、ここで言う義務は、ちと様相が違う。それは、自分で見つけるものであって、誰かに与えられるものではないってことだ。
しかも、どんな人間にも見い出すことができ、また、背負うべきだという。
自分のできることといえば、目の前にあることを地道に懸命にやるだけ。そうした意識を持ち続けることによって、義務とやらが自ずと見えてくるらしい。慣習の力というやつか。
となると、向上心を身につけるには、慣習のあり方を見直し続け、いかに生きるかを問うことになる。
こいつぁ、自分自身を叱咤激励する指南書か。いや、独り善がり論か。ちなみに、副題に「すじ金入りの自分論」とある...

「実際に生きた歳月の長さで人の寿命をはかることはできない。どんな業績を残し、何を考えたかによって生きた長さを考えるべきである。自分と人のために役立つ仕事をすればするほど、考えたり感動したりすることが多ければ多いほど、本当に生きていると言える。」

仕事は、行動力あふれる人格を養うための最良の方法だという。働くことによって、従順さ、自制心、集中力、順応性、根気強さが鍛えられ、実務能力こそが人格を高めると。
仕事に生き甲斐が持てれば、幸せであろう。一つの仕事に通じれば、人生哲学が会得できそうだ。
では、何を仕事とするか。本書は、社会に役立つすべての労働に価値を認めている。家事だって、立派な仕事。有能な主婦は、有能なビジネスウーマンになり得ると。こうした視点は、古代ギリシアの詩人ヘーシオドスの著作「仕事と日」にも通ずるものがある。

「人間の内に秘められた才能は、仕事を通して完成されるのであり、文明は労働の産物と言える。」

試練が人間形成の糧になるというのは、おそらく本当だろう。
では、利便性はどうか。どんどん便利になっていく社会では、人間は退化しちまうってことか。そうかもしれん。大衆は、分かりやすさに群がる。便利なツールに群がる。昆虫が光に集まるように。多様化社会と言いながら、同じ情報に群がる。共有という合言葉で。みんなが知っていることを知らないと、寄ってたかって馬鹿にされ、それを極度に恐れる。自立の道はいずこ?
生物学的にも、視力は衰え、嗅覚は鈍感になり... それで精神は?
人類の進化の歴史は、単調な右肩上がりであったわけではあるまい。進化する時期もあれば、退化する時期もあったはず。啓蒙の時代があれば、愚蒙の時代もあるはず。作用と反作用の力学は、人間精神にも当てはまるであろう。
そして、大局的見地から進化の方向にあるということであろうか。いや、それは進化論的な神話で、実は退化の道を辿っているのやもしれん。こうした古典が未だ輝きを失わないのも、そのためであろうか...

「常に自分を今以上に高めようとしない人間ほど貧しいものはない。」
... 十六世紀の詩人ダニエル

2024-02-18

"自助論" Samuel Smiles 著

神様は冷てぇや。実に冷てぇや。言葉が欲しい時にいつも沈黙し、肝心な時にきまってお留守なさる。神様は臆病者が嫌いと見える。自分の意志で動こうとしないヤツが大っ嫌いと見える。おいらは神様が嫌いだ。バチ当てやがるから...

「天は自ら助くる者を助く」

保護や援助の度が過ぎると、人を無気力にさせ、自立心までも萎えさせる。政府が打ち出す支援策がしばしば失敗するのは、そのためか。そればかりか悪用される始末。一番の良策は、放っておくことかもしれない。
しかしながら、援助の手を差し伸べたおかげで、救われる場合もある。援助が人を救うのか、人を堕落させるのか。いずれにせよ、自らを救おうとする意志が伴わなければ。それこそ自由精神というものか...

本書は、サミュエル・スマイルズが説いた自己啓発書である。
ここには格言めいた言葉が散りばめられ、その言葉を拾っていくだけでも、自分自身を救った気分になれる。気分は重要だ。自ら意志を活性化させるためにも。それで自己責任論に押し潰されては、元も子もない...
成長は、無知の知から始まるという。だがそれは、ソクラテスの時代から唱えられてきたこと。進歩する人は、まずメモと時間の使い方が違うという。まさに独立独歩のツールというわけか。日々のたった十五分の行為の積み重ねが、凡人を大人物に変えるんだとか。そして、最も重要なのが、人格だという。自分の人間性こそが、最も頼りになる財産というわけか。
日々の行為と習慣に才を見い出すとは... 早熟な才人には、その行為に圧倒されちまうが、大器晩成型の人間には落ち着いて学べるところがある。アリストテレスは、こんな言葉を遺してくれた。「人は繰り返し行うことの集大成である。それゆえ優秀さとは、行為でなく、習慣である。」と。
真の雄弁とは、無言の実践を言うらしい...
尚、竹内均訳版(三笠書房)を手に取る。

スマイルズが生きた時代は... 西欧列強国が競って世界支配を目論み、日本は江戸末期から明治維新へと向かう中で国家という意識を強めていく。どこの国も自存自衛の意識を国粋主義へと変貌させ、領土野心を旺盛にさせていく... そんな時代である。
自尊心ってやつは、心の支えになる。だが、度が過ぎて暴走を始めると、これほど手に負えない意識もあるまい。自己を支配できぬ者は、他人の支配にかかる。真の自尊心は、自己抑制との調和において機能するというわけか。
スマイルズが「自助論」を書いたのは、それが時代への警鐘であったと解するのは、行き過ぎであろうか。まずは、そう思わせる言葉を拾ってみよう...

「自助の精神は、人間が真の成長を遂げるための礎である。自助の精神が多くの人々の生活に根づくなら、それは活力にあふれた強い国家を築く原動力ともなるだろう。」

「政治とは、国民の考えや行動の反映にすぎない。どんなに高い理想を掲げても国民がそれについていけなければ、政治は国民のレベルにまで引き下げられる。逆に、国民が優秀であれば、いくらひどい政治でもいつしか国民のレベルにまで引き上げられる。」

「暴君に統治された国民は確かに不幸である。だが、自分自身に対する無知やエゴイズムや悪徳のとりこになった人間のほうが、はるかに奴隷に近い。」

「人は専制支配下に置かれようとも、個性が生きつづける限り、最悪の事態に陥ることはない。逆に個性を押しつぶしてしまうような政治は、それがいかなる名前で呼ばれようとも、まさしく専制支配に他ならない。」
... ジョン・スチュアート・ミル

本書の言葉には、説教を喰らっているようで耳が痛い。学問に王道なし!と言うが、どこかに近道があるのではという考えは拭いきれず、つい手軽なハウツー本に突っ走る。そんなおいらの性癖は如何ともし難いが、自己修養だと思って、いくつか言葉を拾っておこう。
つまり、拾った言葉の対極に自分があるってことだ。言葉は心を映す鏡... というが、どうやら本当らしい...

「真の人格者は自尊心に厚く、何よりも自らの品性に重きを置く。しかも、他人に見える品性より、自分にしか見えない品性を大切にする。それは、心の中の鏡に自分が正しく映ることを望んでいるからだ。さらに、人格者は自分を尊ぶのと同じ理由で他の人々をも敬う。彼にとっては、人間性とは神聖にして犯すべからざるものだ。そしてこのような考え方から、礼節や寛容、思いやりや慈悲の心が生まれてくる。」

「どんなに高尚な学問を追求する際にも、常識や集中力、勤勉、忍耐のような平凡な資質がいちばん役に立つ。そこには天賦の才など必要とされないかもしれない。たとえ天才であろうと、このような当たり前の資質を決して軽んじたりはしない。」

「人間は、読書ではなく労働によって自己を完成させる。つまり、人間を向上させるのは文学ではなく生活であり、学問ではなく行動であり、そして伝記ではなくその人の人間性なのである。そうはいっても、すぐれた人物の伝記には確かに学ぶところが多く、生きていく指針として、また心を奮い立たせる糧として役立つ。」

「人間の進歩の速度は実にゆっくりしている。偉大な成果は、決して一瞬のうちに得られるものではない。そのため、一歩ずつでも着実に人生を歩んでいくことができれば、それを本望と思わなければならない。『いかにして待つかを知ること、これこそ成功の最大の要諦である』と、フランスの哲学者メストルも語っている。」

「人間の知識は、小さな事実の蓄積に他ならない。幾世代にもわたって、人間はこまごました知識を積み重ねてきた。そうした知識や経験の断片が集まって、やがては巨大なピラミッドを築き上げる。」

「真の謙虚さとは自分の長所を正当に評価することであり、長所をすべて否定することとは違う。」

「金持ちが必ずしも寛大ではないのと同じように、立派な図書館があり、それを自由に利用できるからといって、それで学識が高まるわけではない。立派な施設の有無にかかわらず、先達と同じように注意深くものごとを観察し、ねばり強く努力していく以外に、知恵と理解力を獲得する道はない。」

「依存心と独立心、つまり、他人をあてにすることと自分に頼ること... この二つは一見矛盾したもののように思える。だが、両者は手を携えて進んでいかねばならない。」
... ウィリアム・ワーズワース

「最短の近道はたいていの場合、いちばん悪い道だ。だから最善の道を通りたければ、多少なりとも回り道をしなくてはならない。」
... フランシス・ベーコン

「心の中にいくら美徳の絵を描いても、現実に美徳の習慣が身につくわけではない。むしろ心はコチコチに固まり、しだいに不感症となるだろう。」
... バトラー主教

2024-02-11

"LIFE SHIFT - 100年時代の人生戦略" Lynda Gratton & Andrew Scott 著

時間という物理量が、誰にでも平等に与えられているかは知らん。が、人生が長くなれば、それだけ考える時間も長くなる。鼓動や脳波の周波数に個人差があれば、時間の速さや感じ方も違うであろう。夭逝した偉人たちは、素早く時代を駆け抜けていった。天才とは、早世するものなのか。あまりに研ぎ澄まされた才能ゆえに、自ら寿命を縮めてしまうのか...
長く生きれば、それだけ充実した人生が送れるわけではない。いや、むしろ苦悩を長引かせるだけかも。人生ってやつは、長かろうが、短かろうが、有意義に生きることは難しい。百年時代ともなると、人生計画も思い通りにはいくまい。先が見通せないだけに、不確実性に対する心構えが問題となる。だがそれでも、ぶれない根本の哲学は持っておきたい。
ちなみに、おいらの座右の銘は、今はこれ!ちょくちょく変わるのだけど...

"Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever."
「明日死ぬと思って生きよ。不老不死だと思って学べ。」
... マハトマ・ガンディー

さて、本書のテーマは、長寿という贈り物を、どうやって謳歌するか...
人生が長くなれば、まず、お金の問題が気になる。老後に必要な資金は... などとファイナンシャルプランナーが算出すれば、年金も心もとなく、社会全体に重苦しい空気が...
本書は問いかける。意識がお金の問題に偏りすぎてはいないか... 他にも同じくらい大事なことがあるのでは... と。そして、従来の人生観を「教育、仕事、引退」の 3 ステージで区分し、もっと多くのステージを模索すること。さらに、マルチステージに挑戦することを奨励している。第二の人生という言葉もあるが、第二と言わず、第三でも、第四でも... しかも、マルチタスクで... おまけに、年齢や世代を超えて、今すぐやってみよう!というわけだ。
尚、池村千秋訳版(東洋経済新報社)を手に取る。

「アイデンティティ、選択、リスクは、長い人生の生き方を考えるうえで中核的な要素になるだろう。人生が長くなれば、経験する変化も多くなる。人生で経験するステージが多くなれば、選択の機会も増える。変化と選択の機会が増えるなら、人生の出発点はそれほど重要でなくなる。そのような時代に生きるあなたは、年長世代とは異なる視点で自分のアイデンティティについて考えなくてはならない。人生が長くなるほど、アイデンティティは人生の出発点で与えられたものではなく、主体的に築きうるものになっていく。」

人生の道のりで、どんなステージを思い描くかは人それぞれ。スキルアップのステージ、旅で視野を広げるステージ、大学に行って再教育を受けるステージ、稼いで貯蓄を潤すステージ、ビジネスを立ち上げ野心に燃えるステージ、そして独りになって人生を見つめるステージ... と。どのステージに身を置こうと、自分を見失わないこと。いや、自分自身を知ること、もっともっと自分というものを知ること。それは、ソクラテスの時代から唱えられてきた難題である。人生が長くなれば、自分自身と向き合う時間も長くなる。いろんなステージを経験すれば、自分というものが、より確かなものになるやもしれん。いや、誇大妄想に駆り立てられるやも。
金融資産のポートフォリオよりも、人生のポートフォリオだ。スキルのポートフォリオに、仕事のポートフォリオに、シナリオのポートフォリオに、無論リスクヘッジも欠かせない。いよいよ、真の多様化時代の到来か...
しかしながら、人生を主体的に生きることは難しい。凡庸な人間には過酷だ。ただし、主体的に生きている気分になることは、そう難しくない。凡庸なだけに...

本書は、「自己効力感」「自己主体感」の両方を持つことを説く。自己効力感とは、自分ならできるという認識。自己主体感とは、自ら取り組むという認識。どちらも、今もてはやされる自己肯定感に結びつく。ただ、人間ってやつは、相対的な認識能力しか持ち合わせておらず、自己肯定感を他人否定で支えるのでは本末転倒。時には、論理的な悲観論も欠かせない。何事も、野心的すぎても、保守的すぎても、うまくいかない。
冒険心は若さの特権ではないが、歳を重ねれば、どうしてもリスクを恐れる。物事を知れば知るほど臆病になりがち。特に、お金のギャンブルは避けたい。
そこで、無形資産の重要性を説く。知的財産なら、いくらでも挑戦できそうだ。安全志向も、挑戦志向も、捨てがたいとなれば、どう使い分けるか。これも人生戦略のうち。
資産は、なにも金融資産だけではない。知識資産に、スキル資産に、人間関係資産に、活力意欲資産に、変身願望資産に... 自分の持ち分でどう組み立てるか。人生戦略では、有形資産よりも無形資産の方が重要なのやもしれん...

現代は技術革新によって利便性が高まり、ますます時間の使い方を考えさせられる。人間が本来やるべきこととは何か。高齢者医療や年金ばかり見ていると人間の本分を見失う。単に機械に頼り、依存症を患うのでは、人間までも失いかねない。
では、人間と機械との違いとはなんであろう。いま、人間を凌ぐ勢いで進化を続ける AI。こいつに対抗できる能力が人間にあるとすれば、それはなんであろう。物理化学者マイケル・ポランニーは、こんなことを主張したという。

「人は言葉で表現できる以上のことを知っている。」

AI は獲得した知識のすべてを言語化、あるいは記号化する。だが、人間は言葉にできない多くのことを潜在的に、あるいは無意識的に知っている。このあたりに、人間と機械の境界があるのやもしれん。
しかし、人間が言葉にできない知識まで言語化する能力を、AI が会得しちまったらどうだろう。進化した AI は人間に命ずるやもしれん。人間どもを排除せよ!と。人間が得意とする排外主義は人間自身へ向かう。生きる権利を主張するなら、死ぬ権利を主張してもいい。裏社会に暗躍する安楽死ビジネスは盛況となり、尊厳死という価値観が見直されていく。しかも、AI の管理下で...

ついでに、おまけ... いや、愚痴か...
長い人生では、経験したくないステージにも遭遇する。本書からは、ちょいと断線するが、高齢化社会における現実的なステージを一つ付け加えておこう。
仕事と家事の両立で苦労している人も少なくなかろうが、長寿化が進めば、さらに介護との両立も必要となる。まさに、おいらが直面している問題だ。しょんべんまみれで御飯を作り、ウンコまみれでキーボードを叩く。このマルチステージは、かなり手ごわい。仕事が自由に選べる立場として独立し、個人事業主となったが、まさか、介護との両立で機能しようとは。プロジェクトマネジメントの経験が、介護マネジメントにも役立っているとは、なんとも皮肉である。長く生きていれば、どんな経験が役立つか分からない。無駄なステージも、無駄ではなくなるかもしれない。家事を一つのステージとするなら、介護も一つのステージ。そして、三世代分の面倒を見なきゃならん時代の到来か。合理的な家族構成は、むしろ多世帯の方にあるのかも。人間嫌いには辛いが...